本山×伊庭
小さなその形からは想像できないほどの無限の世界が広がっているそれを拾い、
無音でもあり雑音でもあるその音に、
僕は君の声を想像する。
歌川広重の『名所江戸百景』に「高輪・牛まち」という一枚がある。牛車の車輪越しに海が描かれ、虹がかかっている。傍には西瓜の食べかすがあるというユーモラスな絵画ではあるが、この絵を見てまさか虹を見に行こうと言い出すのは、この男くらいなものだろう。
と、伊庭八郎は思う。
両手に西瓜を携えてその絵画に書かれた海にやってきたのは夏が終わろうかという頃だった。
「牛車は……いねぇかぁ。できれば犬とかも通りかかってくれれば良いんだがなぁ」
残念そうにあたりを見渡す親友の本山小太郎は、本当にがっかりした様子で肩を落とした。この男は絵画の再現をするつもりなのか、牛車とその近くに描かれている犬を探しているらしい。
「小太。一応言っておくけど、牛車があっても、犬が通りかかったとしても、虹が出るとは限らないんだからな」
「そりゃぁそうだが、でもできれば歌川先生のあの絵の通りに虹が見れたら良いとか思わないか?」
「…風流だとは思うけど…」
「だろ??」
伊庭はため息を漏らした。
本山が伊庭を海へ誘ったのはつい昨日のことだ。その浮世絵を気に入ったらしい彼は「この景色が見てみたい!」と言い出して強引に連れ出してきたのだ。夏が終わりかけとはいえ、まだ強い日差しが残る時期に外に出るのは億劫な伊庭だったが、出かけ先からペリー来航を受けて作られたといわれる「お台場」が見られる、と聞き仕方なくついていくことに決めた。
「お台場」は江戸湾防備のために急遽作られた洋式の海上砲台であり、品川沖に八基建設された。二度目の黒船来航の際にはこの台場があったために横浜へ引き返し、上陸したと専らの評判だ。本来は「品川台場」というのが正しい名称であるが幕府に敬意を払て「御台場」と人々が呼び始めたことでこちらのほうが定着した。
海へ向けられた最新設備は眺めているだけで興味をそそるものだったが、友人はまったく興味を持たず持ってきた西瓜を取り出した。
「八郎。西瓜わりしよーぜ」
屈託のない、まるで子供のような笑みで本山は笑っていた。
「西瓜わりって…子供じゃあるまいし」
「子供じゃないけど、八郎好きだろ、西瓜」
「そりゃあ…」
そうだけど、と伊庭は口ごもった。「そうだろ?」と自信満々にうなずいた本山は、手近な流木を手にして伊庭に差し出した。
「ん。じゃあこれが刀の代わりな。手拭いで目隠しして二十回廻るんだ。先に割ったほうが勝ち」
「本当に子供のころみたいなことをするんだなあ。負けたほうは勝ったほうの言うことを何でも聞くってこと?」
「正解」
にやりと挑戦的に笑った本山に「望むところだ」と言い返し流木を受け取る。本山が笑っているような気がしたが気づかないふりをした。
目隠しをされ、「はじめ!」とさながら稽古試合のような掛け声で、ぐるぐるとその場で回り続ける。裸足の砂浜の感触だけを頼りにぐるぐるとまわり、やがて足元がおぼつかなくなる。それでも何とか二十回廻り続けて、「いくぞ」と歩き始める。
船酔いのようにくらくらと頭がおかしくなるが、まっすぐ歩けば西瓜にたどり着くはずだ。伊庭は慎重に歩き進め、「ここか」というところで思いっきり流木でたたきつけた。
しかし手に伝わったのは砂を叩く感触だけで、どうやら外してしまったらしいとすぐに気が付いた。手拭いを外すと西瓜は半歩ほど隣にある。
「ああ、惜しかったのに」
「お前なあ。まるで人を殺すかのように思いっきり叩いてたぞ。あんなに強く叩いたら西瓜が粉砕するだろ」
「う、うるさいなあ。力加減がわからなねえんだよ」
子供のころは思いっきり叩いても割れなかった気がするのに。思った以上に年を重ねたらしい。
伊庭は「じゃあお前の番」と流木を手渡し、本山の目を手拭いで覆う。隙間からも一切見えないように強く括り付けると
「いてぇっ!」
と本山が呻いたが、それで力を抜くわけがない。
これ以上ないほど強く手拭いで目を覆うと、本山がくるくると回り始めた。
「絶対見えてたんだろ!」
西瓜を手に、伊庭は不満げに本山をにらんだ。
「見えてない、見えてないって」
「嘘だ。絶対見えてたんだろっ じゃないとこんなに見事に西瓜が割れるわけない!」
伊庭は口を尖らせた。
本山はくるくると二十回廻ると、まるで見えているかのように迷いなくまっすぐと西瓜に向かっていき、西瓜のど真ん中を叩き割った。確かに二十回廻ったのに、それを感じさせない歩みだった。「ズルだ、八百長だ!」と言い張る伊庭に
「割れたんだから仕方ないだろ。はい、西瓜」
と、動じることなく割れた西瓜を差し出した本山に文句を言い続けている。
「大体お前が手拭いをこれでもかっていうくらい縛りつけたんだから、八百長なんてあるわけないだろ?」
「そ、それはそうだけど…」
「男なら素直に負けを認めろよ。西瓜、もう一切れやるから」
子供をあやすかのような物言いだが、伊庭は渋々西瓜を受け取った。抗議しても仕方ないのは既に分かっていたし、好物を目の前に納得しないわけにはいかなかった。
「こうしてると昔を思い出すな」
「昔?」
「昔もこうやって西瓜割をして俺が勝った」
「…そんなこと、あったっけ」
「自分が負けた勝負は覚えてねぇよな。八郎は」
都合のいいお頭だな、と本山が大きく笑う。伊庭は聞こえてないふりで西瓜に齧り付いた。
既に食べ終わった本山が立ち上がる。草履を脱いで、波打ち際へゆっくりと歩いていく。その姿を伊庭は自然と目で追っていた。
夏の終わり。
誰もいない砂浜。
打ち寄せる青い波。
少しだけ生暖かく吹く風。
記憶の片隅にいつだって残っている、懐かしい風景。
「…覚えてるよ。馬鹿」
背中を向ける幼馴染に、伊庭は小さくつぶやいた。すると聞こえたかのように、本山が振り返った。伊庭は一瞬どきりとする。
「じゃあ、これも覚えてないのか?」
「え?」
本山が「これ」と手にしたものを持ってこちらに戻ってくる。
「貝殻だよ」
「貝殻…が、どうしたんだよ」
「ほら、こうやって耳に当てて見ろ。音が聞こえる」
「ん…」
本山が手にしていた大きな貝を耳にあてる。塞がれた空間の中で「シー」という単調な音が木魂した。
「何が聞こえる?」
「何って…何も」
「これはな、武士にしか聞こえない風の音だって」
「…は?」
自信満々に言う親友の言葉に、一瞬耳を疑ってしまった。
「な、何言ってんだ、小太」
「小さなこの空間に、なんか風の音が聞こえないか。昔、お前言ってたんだよ、『これはオトコにしか聞こえない風の音なんだ!』って」
「あ、…ああ、そういえば、そんなことを言ったような…」
微かに残る記憶のなかで、「何にも聞こえない」という本山に伊庭が答えたのがそれだった。といってもそれはもっと子供のころの話で、何の根拠もないデタラメで。こちらが気恥ずかしくなってしまうほど昔の話だ。
「俺、信じてるんだぜ。これは本当に武士にしか聞こえない、武士の中に吹いている風の音なんじゃないかって。そう思ったら、俺も何かを為すためにここに在るんだって、思えるから」
「……」
世の中は変わった、と大人はいう。けれど家族に囲まれ、友人と駆け回る日常は何も変わらなくて。でも非日常なことはたくさん起こっていた。今にも異国がこの国を占領する。そんな噂が信じられてしまうほど。
そんな時に、時代に生まれた自分たちは、何を為すべきなのかと、問い続けてきた。そしてそんな問いに答えなどでるはずもなく。悶々と日々を過ごす。そんなことしかできない。それに苛立つこともあった。
けれど、音は聞こえる。風の音。自分たちが何を為すべきか、導いてくれる、そんな風の音が。
この耳に確かに、聞こえていた。
「あ、雨だ」
貝殻の音に思いを馳せていると、不意にぽつりと頬を雨が伝っていった。
「こりゃ、降るな。行こう、八郎」
「あ、ああ」
本山に手を引かれ、食べかけの西瓜をそのままに二人は雨宿りができそうな廃屋へと駆け込んだ。
ぽつぽつと降り始めた雨は本山の予想通り大雨となる。海沿いの天気は変わりやすく先ほどまで晴天だったのに、すぐに雲に覆われあたりはまだ昼間だというのに暗くなった。
二人で縁側だったであろう場所に腰かけて、雨が上がるのを待つ。天気が変わりやすいということは、また晴れるのも早いということだ。
「小太…」
「んー?」
天気をうかがっていた本山に伊庭は声をかけた。
「こんな風に、さ。もう一緒に出掛けることはできないかもしれないけれど。俺は忘れないよ」
「…すっかり忘れてたくせに?」
「忘れてなんてない。全部覚えてる。西瓜を割ってお前がいつも勝つことだって、貝殻を耳に当てて遊ぶのだって。……全部、覚えてる」
雨の音が激しくなった。地面に打ち付ける音はまるで太鼓のようだ。雨に少し濡れた髪は輪郭を添い、いつもと違う顔を見せる。
「いつも俺の思い出にはお前がいて、…これからもそうだと、思ってる」
「八郎…」
「だから、ありがとう。不安になってるの、気が付いて連れ出してくれたんだろ」
『歌川広重の絵を見てたら海に行きたくなったんだ。だから八郎、付き合ってくれよ』
誘われたその時から思っていたことだが、実に彼らしくない誘い方だ。そんな風流な誘い方を今までしたことなんてなかった。そして『お前がいかないなら俺は一生海にいけない』とやや強引に誘い出したのもきっと気分転換させたかったのだろう。
「この貝殻の音を聞いたら…なんか、やらなくちゃいけない気になった」
「ふーん。何をやるんだ?」
「稽古かな」
「さすが子天狗さまだな」
いつものように調子よく笑う本山の顔が、少しさっきよりも安堵感を増したのはきっと伊庭の言うとおりだったということなのだろう。そしてきっと本山に映る伊庭の顔も綻んでいるはずだ。家族よりもこの男はきっと伊庭のことをわかっている。だからこうして傍に居続けてくれるのだ。
「八郎」
「ん?」
「西瓜割の勝負。俺が勝ったから何でも言うこと聞いてくれるんだろう?」
「え?…あ、ああ、そうだっけ…」
「目を閉じて」
「…止んできたな」
しばらく降り続いた雨は上がり、まるで嘘のように太陽が雲の合間から光を差す。
「あ、虹だ」
そして望んだ景色が目の前に広がったのは、まるで夢のような光景だった。
伊庭はあの時と同じような貝殻を拾った。
失った左手の傷は潮風で痛むと忠告されたが、実際にはそんなことはなく。そんな些細な痛みなど気に病むこともなく。
彼がいなくなったその場所にいた。
そしてあの頃のようにその貝殻を耳に当てる。
風の音が聞こえた。
『武士にしか聞こえない』と彼が信じ続けた夢のような音が聞こえた。
でも違う。
「今の俺には、お前の声に聞こえるよ」
いつまでも、聞いていたいと願う程に。