わらべうた



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「…そうか、流山へ向かったか…」
勝は彼自身に多く寄せられる情報の中で、新撰組が東征軍との衝突を避けるために急遽五兵衛新田から流山へ移動したことを耳にした。
「宜しいのですか。彼らにはまだ流山行きの正式な命令を下していませんが」
「構わねえよ。むしろなんかあった時に『奴らの勝手な行動』だということにできる…その方が都合が良い」
「…安房守殿は新撰組がお嫌いですか」
勝の部下である松平太郎が尋ねると、薄気味悪く笑っていた彼は神妙な顔をして立ち上がり数歩歩いて庭が見渡せる窓の前に立った。今日は曇り空が晴れて見晴らしがよく、庭の草木が青々と眩しく見えた。
「…莫迦だと思うが、嫌いじゃあない。江戸っ子として一本芯の通った生き方ができるのは羨ましくもある。…だが、やはり…莫迦だ」
莫迦だ莫迦だと邪険に口にするが、松平には勝の表情にそれ以外の何か慈しみのようなものがあるように見えた。


総司もまた今朝の春らしい爽やかな陽気で目を覚ました。
(今日は嘘みたいに身体が軽い)
身体の調子が良いと自然と笑みがこぼれてしまう。寝床から縁側に出て深呼吸していると、湯桶を抱えた英がやって来た。
「おはようございます。英さんは寝不足ですか?」
「おはよう。…そう、なんだか夢見が悪くてさ…」
英は陽光を眩しそうに遮りながら、総司の額に手を当てて「熱はないな」と頷いた。
「今日はなんだか頗る体調が良いんですよ。この間、成願寺まで駕籠で往復できましたし、今日は噂の五兵衛新田の屯所に顔を出してみようかなあ」
「…いや、流石に遠すぎるよ。それにせっかく調子が良いからこそここでしっかり静養してよ」
英が引き止めると、総司は少し残念そうにしながらも「英さんが言うならしようがないか」と納得した。
もちろん英の元には五兵衛新田から流山へ出立した旨の報告がいち早く届いており、加也や柴岡家の家族たちとも示し合わせて伏せることは話が付いている。総司をもぬけの殻となっている五兵衛新田になど行かせるわけにはいかない。
英は話を切り上げた。
「調子がいいなら今日は雑炊にしよう。柴岡さんから赤子の祝いの品を分けてもらったんだ、鯛の雑炊が良いだろう」
「ああ、いいですね。昨日は初鰹もいただいたし…この家にお世話になって舌が肥えますねえ」
「確かに」
英は寝床に桶を置いて母屋の方へ向かう。総司は心地の良い縁側に腰を下ろして再び美しい庭に目を向けた。新しい命の誕生を祝うように陽光に照らされた朝露はきらきらと眩しく光っていた。しばらくその光景に目を細めていると、
「宗次郎、もう起きていたのか」
その庭からやってきたのは弥兵衛だった。昨日の件ですっかり打ち解けて手を振っている。総司も同い年の隊や試衛館以外の『友達』の存在は新鮮だ。
「うん、おはよう」
「今日は調子が良いって英先生に聞いた。良かったら母屋の方に来てくれないか?旦那様が呼んでる」
「え?でも…」
いくら平五郎の招きとはいえ、さすがに重病の自分が生まれたての赤子がいる母屋へ足を踏み入れるのは躊躇われた。具合が良いとはいえ、いつ喀血するかわからない身だ。
しかし弥兵衛はそんなこと百も承知だ。
「旦那様から大事な話があるんだって。お嬢様方も待ってるし、さっき英先生にも許可を取ったよ」
「…わかった」
英が良いと言うのならと総司は重たい腰をあげて自室に戻り、着替えを済ませた。
母屋に足を踏み入れるのは初めて柴岡邸にやってきて以来だ。彼らはいつでも来てくれて良いと言ってくれたが、総司自身が離れから出ようとせず彼らに何かあってはいけないと一線を引き続けていたので庭先で娘たちと遊ぶくらいだ。だから少し緊張していたが、弥兵衛に連れられるまま客間に入ると、まず娘たちが顔を綻ばせ
「宗次郎!」
と駆け寄ってきた。子供のあどけない笑みに緊張感は少し和らぎ、彼女たちに導かれるまま平五郎の前に腰を下ろした。彼の傍には女中のかよがいてその腕のなかには生まれたての赤子が抱えられていた。目を閉じて穏やかに眠っている。
「宗次郎さん、この度はまことに…ありがとうございました。おかげさまで跡取りが無事に生まれ、家内も健やかに養生しております」
平五郎は深々と頭を下げ、かよと娘たちも続いた。
「いえ、私は何も」
「いや!宗次郎さんがいてくださらなかったらどんな悲惨なことになっていたか…!家人たちは動揺するばかりで、この子も家内も無事では済まなかったでしょう。宗次郎さんは我が家の命の恩人です」
「本当に…私がしっかりしなければならなかったのに、申し訳ないことです」
「そんな…大袈裟ですよ」
平五郎は感謝し、女中のかよは詫びてくれるが、総司はあさとともに屋敷を飛び出しただけで産婆まで辿り着くことはできなかったのだ。しかし平五郎は本気でそう思っているようだ。
「宗次郎さん、どうかこの子を抱いてやってください」
「え?いや、そんなわけには…」
生まれたての赤子に自分が触れることすら躊躇われる。以前、近藤と孝の子であるお勇が生まれた時は彼らの強い希望で抱かせてもらったが、近藤はほとんど身内であって柴岡家とは違うのだ。
総司は固辞したが、病を知らないたねは
「だっこしたら可愛いよ」
と無邪気に笑って総司の腕に抱きついた。
「おたねちゃん、でも…」
「抱っこが怖いの?」
「…怖いよ。壊してしまったら…」
「大丈夫だよ」
あさがもう反対の腕を取って背中を押す。
総司は困惑したが平五郎が促して、女中のかよが目の前にやってきた。近くで見ると生まれたての赤子は本当に何もかもが小さい。
総司が手を出せないでいると、平五郎が口を開いた。
「家内も望んでます、どうかご遠慮なく」
「…わかりました」
総司は(一度だけ)と思いながらかよから赤子を受け取った。お勇の時よりも小さく首の座らない赤子は総司の腕の中にすっぽりと収まった。
「…可愛いな」
総司が呟くと、平五郎は満足げに笑みを浮かべた。
「ええ、本当に。…この子はどうやら生まれる前に逆子が直ったようなのです。おかげでこの子も家内も無事で済み事なきを得ました」
「そうだったんですか…」
「宗次郎さんが来てくださってから、我が家は運に恵まれました。もしかしたら死ぬかもしれない子だったのです。そして貴方が手を差し伸べてくださった…だからこの子はきっと宗次郎さんに会いたくて生まれたのではないかと、家内とそんな話をしました」
「…やっぱり大袈裟ですよ、平五郎さん」
総司は突飛な想像だと思ったが、平五郎は冗談のつもりはなく首を横に振った。
「大袈裟でも構いません、手前共は本当にそう思っているのです。…あさも宗次郎さんがいたから屋敷を出て産婆を呼ぶことができました。娘たちが母と弟を失わずに済んだ…宗次郎さんがいなかったらと思うとゾッとします。やはりあなたは紛れもなく我が家にとって命の恩人なのです」
「…命の恩人…か…」
総司は『命の恩人』という言葉があまりに自分には関係がないように思えて仕方ない。ずっと恐れられて命を奪う側だった…敵だけでなく、味方の命さえも。
(そんな僕が…恩人だなんて言われて良いのかな…)
罪悪感を持ちながらもスゥスゥと健やかに眠る赤子がその儚い命の意味を教えてくれるようで、尊く貴重なものに触れているような気がした。
すると平五郎は再び畏まって居住まいを正した。
「…それで…大変恐れ多い申し出なのですが…是非ともこの子を『司郎』と名付けたいのですが、いかがでしょうか」
「しろう?」
「ええ、宗次郎さんの…本当のお名前の『司』をこの子にいただけないでしょうか。もちろん、手前共はしがない植木屋…宗次郎さんは武家の御方だと伺っています。失礼は承知の上で…どうか」
平五郎が平伏して思わぬことを頼むので、総司は驚いた。柴岡家にとって念願の後継ぎに自分の名前の一部とはいえ同じ文字が入るなど想像するはずがない。それどころか自分の名を受け継ぐ者がこの世にはいないのだととっくに諦めていたのに。
(僕がいなくても、この世に残るのか…)
「宗次郎?」
たねが驚いた。総司の目から一筋の涙が流れた。それは総司自身も無意識のことであったが、しかし赤子を抱く手は小さく震えた。
「かなしいの?宗次郎」
「…違うよ。嬉しいんだよ。…平五郎さん、ありがとうございます。今の私にとってこんなに…嬉しく、有難いお話はありません」
血が繋がっているわけじゃない。けれど名で繋がった不思議な赤子。
自分は何も残せないと思っていたのに、けれどこんな形で受け継がれていくなんて。
「二人目なんです。近藤先生のお子にも私が名を付けました。私は子が為せなかった分、名付け親になるために生まれたのかもしれないな…」
「…名付け親も親に違いありません。どうか早く快癒されて…司郎と遊んでやってください」
真似事にすぎないとしても、平五郎の申し出がありがたくて身に沁みた。すると赤子が――史郎が小さな口をもぞもぞと動かして総司の腕の中で身を捩る。
たねが覗き込んで
「ありがとうって言ってるよ」
と言った。あさとたねが笑い、平五郎が満足げに頷いている。この家族の輪にいると何故だか何年も共に過ごしたような温かさに包まれて、心が満たされる。
(早く歳三さんに話したいな…)
総司は赤子の誕生を寿ぐような庭の草花に目を細め、土方のことを想った。



















解説
なし


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