わらべうた



1004


四月三日朝、宇都宮近郊の村々で起こった一揆は『野州の世直し』とと呼ばれ、一万人から三万人が結集した。宇都宮藩から救援要請を受けて東征軍は出陣したが、東山道軍総督府大軍監・香川敬三と軍監・有馬藤太は道中、斥候役から流山に新撰組が布陣している情報を得て、先鋒隊を差し向けていた―――。

「ああ、よく寝た…歳、全部任せてしまって悪かったな」
近藤が目を覚ました時、すでにほとんどの隊士が島田に率いられ加村山の洋式軍訓練へと向かっていた。残っているのは土方と、近藤附隊士の村上三郎、そして相馬と野村だ。
「疲れが溜まっていたんだろう、まだ休んでいても…」
「もう全快だよ。相馬君はそんなに具合が悪いのか?」
「…いや、野村が大袈裟なだけだと思うが。まあ相馬は貴重な人材だ、無理をさせなくてもいい。代わりと言っては何だが、小姓の銀之助と鉄之助たちを加村山へ行かせた、いい経験になるだろう」
「そうだな。俺たちも後で顔を出そう」
近藤は握り飯と汁物をあっという間に平らげて、土方とともに日当たりの良い縁側に移ってこの辺りの地図を広げた。江戸から離れてもここが安全というわけではない。
土方は地図を指差した。
「いま俺たちの居所はこの辺りで、もう少し南へ下った…この辺りが隊士たちが宿陣している光明院と赤城神社だ。そして…北側に例の加村台屋敷がある」
「…本気か?駿河田中藩の屋敷だぞ?」
土方は以前、官軍に靡いた田中藩の飛び領地である流山の陣屋・加村台屋敷を乗っ取る計画を口にした。在府下総の藩士たちは佐幕派して行動しており彼らと手を組めば難しい話ではないが、まだ接触の機会がなく近藤はあまり本気にしていなかった。しかし土方は真剣だった。
「いや、五兵衛新田と違ってこの本陣と分宿先が離れていて有事の際に困るだろう。陣屋を得れば皆が寄宿できるから便利だし格好がつく」
「それにしても時期尚早だ。俺たちは官軍との諍いを避けるためにここに布陣したばかりだ、大きな騒ぎを起こしたくない」
「俺たちがここに来たっていう話が広まる前の方が動きやすいと思うけどな。早ければ早い方がいい…それに恭順派の藩士たちをこちら側に取り込めれば兵の数も増えて一石二鳥、一挙両得だ」
「…ふっ、まるで子供のようだな。お前はこういう作戦話をしているとイキイキしている」
「俺は幼いころ、女のように細身でよく絡まれたんだ。体格じゃどうしても劣るから、頭を使って考えて勝つ…癖みたいなものだ」
とはいえ、藩士たちとの交渉があるので今日明日の話ではない。土方は「また話そう」と話を切り上げて地図を仕舞った。
縁側には柔らかな春の日差しが差し込んでいる…近藤は羽織を脱いで右腕を晒して怪我をしている傷口の包帯を巻きなおし始めた。
「手伝おうか?」
「いやもう慣れたよ」
近藤が左手でぐるぐると包帯をほどくと、撃たれた痛々しい傷口が残されていた。横浜の仏医師によって一か月ほど前に縫い直されたので前よりましになっているが、天然理心流のような喧嘩剣法を操る近藤にとって以前のように剣を振るうまではまだまだ道のりは長く険しいだろう。
「…そんな顔をするなよ」
近藤が器用に包帯を巻きながら苦笑する。土方は自分の顔に触れて
「顔に出ていたか?」
「そんなに心配するな。きっと良くなるだろうし、必ず剣を持てるようにする」
「…ああ」
どうかその日まで共に生きられたら。傍らに総司がいて、試衛館に戻れたら…。
(俺は何故そんなことを考えているんだろう…)
縁側で二人きりで春の温かな日差しを浴びながら、平穏な一日を過ごそうとしているのになんだか心がざわついている。
「…静かだな。鳥の鳴き声さえ聞こえない」
「この辺りは平穏なんだな。ああ、椿の花が綺麗だな」
「縁起が悪いか?」
山野は忌避していたが、近藤は「いや」と首を横に振って
「椿は最後の最後まで咲いて、潔く死ぬんだ。あれば武士のような花だよ」
と笑った…その時だった。
その静けさを破るようにバタバタと激しい足音が近づいて、近藤は不思議そうに首をかしげたが土方はぞわぞわと何か嫌な悪寒を覚えていた。途中転びながら四つん這いになって慌ててやってきたのは村上だった。青ざめてこめかみに冷や汗をかいている。
「きょ…っ局長、副長、大変です!か、か…官軍に包囲されています!!」


総司の体調が安定したのは束の間のことで、今朝は高熱を出して寝込んでいた。斉藤は寝床の傍らにいて見守り続けたが、長いまつげはピクリとも動かずに頬を紅潮させたまま息苦しそうに荒い息を繰り返していた。
英は湯桶を持って部屋に戻って来て総司の額に手を当てると渋い表情を浮かべたので、斉藤は容体が芳しくないとすぐにわかった。しかし英は病状を語らず、
「斉藤さんは以前、沖田さんから黒猫がどうとか…って聞いたことがある?」
「…ああ、何度か…」
突然訊ねられて斉藤が思い浮かんだのは、油小路のことだった。近藤と土方の意向で総司にはひた隠しにして暗殺が実行されたが虫の知らせか、猫の知らせか、総司の元へ不幸を告げるように黒猫がやってきたのだ。それ以来しばらく居ついたが結局どこかへ行ってしまったらしい。
「近藤局長が襲撃されるまでは可愛がっていたが…あまりに都合よく現れるから不気味になったのだろう。そもそも黒猫は気味が悪いと言うからな」
「…柴岡さんに聞いたら最近、この辺りに黒い子猫が居着いているらしい。娘御たちが勝手に餌を与えて困っているとか…」
「…それがどうかしたのか?」
英は少し迷ったあとに口を開いた。
「様子がおかしかったから…。昨晩は特にうわ言で猫が猫がって言うからさ…前々から猫がどうとか話していたんだ。俺は深刻に受け取らなかったけれど、昨日の部屋から飛び出していたのも猫のせいなら近寄らないようにしようと思って」
「…本人に聞いてみよう」
元気な頃ならば「そんなこと」と笑い飛ばしていたかもしれないが、床に臥す彼には猫が周りで出入りしていることが何か不吉な予兆だと思い詰めているのかもしれない。
英はその長い睫毛を伏せて小さなため息をついた。剃髪したせいで彼の表情の変化は鈍い斉藤にもよくわかる。
「…疲れているのか?」
「まあ…歳さんと局長さんから沖田さんを預かっていると思うと毎日、気が抜けないよ。…手を尽くしても治ることは難しいしこの頃は喀血することすら少なくなってる。血を吐く体力すらないんじゃないかと思うと…喀血してくれた方が安心する。…変な話だけど」
「…」
「斉藤さんが会津から戻ってきたのも、沖田さんの為なんでしょう?」
「ああ」
目ざとい英には隠したところで仕方ない。斉藤が素直に認めると、英は頷いた。
「でもちょうど良かったよ。…いまは特に、誰かがいてくれた方が」
英は「昼餉を用意するよ」と言って部屋を出た。再び二人きりになり斉藤は総司の表情を見つめたが、彼が目を開けて明るく笑うことはなく、身体だけが病に抗い続け、意識は遠くへあるようなそんな気がした。
斉藤は柴岡と英から新撰組が流山に布陣した理由、そしてそれを総司には伏せていることを聞いた。総司にとって五兵衛新田さえ遠いと感じていたのに、新撰組が江戸を離れ下総に布陣したなどと知れば落胆するだろうと気遣って黙っているのだという。それは土方の意思だというが、このように弱々しく臥せっている姿を見ると確かに彼にそんな残酷な事実は告げられない。まるで自分がどんどん新撰組から遠ざかっているように感じるだろう。
斉藤は早く新撰組に合流しなければならないと思っていたが、その事実を聞いてしばらくここに留まろうと思った。せめて彼とくだらない与太話ができるようになるまでは。
(俺は約束通り帰って来たのに、もう戻ってこないつもりか?)
斉藤が心の内でそんなことを問いかけながら総司の首筋の汗をぬぐうと、まるでそれが聞こえたかのようにふっと総司の目が薄く開いた。そしてその瞳が左右に揺れて…誰かを探しているように見えた。
「…起きたのか?」
「歳三さん…?」
その瞳は熱で濡れていて焦点があっていない。表情もまだぼんやりとしていてきっとまだ夢のなかにいるのだろう…斉藤はぴくりと動いた総司の指先に自分のものを重ねて
「ああ」
と答えた。嘘をつく罪悪感よりも総司の希望に沿いたいという思いがあったからだ。すると総司はふっと笑って「ここにいた」と嬉しそうに呟いた。
「良かった…猫が…いたから」
「…猫?」
「猫が皆を攫って砂金の川を…渡るんじゃないかって…」
「砂金の川…」
「そう…もう帰れないところ」
総司が口にすることは要領を得ないが、彼はまだ目が覚めておらず朦朧としているのだとわかった。けれどうわ言だと聞き流すには切実な響きがあって斉藤はもっと強く手を握ったところ、総司も握り返してきた。
「…歳三さんは、まだ行かないで…」
「…わかってる」
長い言葉を発すると土方のふりをしているのだと気づかれてしまいそうで、斉藤はできるだけ短い言葉を選んで答えた。英が傍らにいたらきっとしないだろうけれど、総司が「ここに土方がいない」と知ったらもう二度と帰ってこないような気がしたのだ。
総司は目を閉じて、微笑んだ。
「…よかった…もっとたくさん、伝えておきたかったから…。私は…貴方が好きなんです。こんなに好きになるなんて、思わなかったのに…こんなに離れ難くなってしまって……」
そしてその言葉を最後にまた総司は深く眠り、息切れするような荒い呼吸はゆっくりと収まっていく。斉藤は苦笑した。
(言いたいことだけ言って満足したようだ)
つないだ手を離そうと思ったけれど、強く掴まれていたのでそのままにしておいた。もちろん総司は土方と繋いでいると思っているとわかっていたけれど、たとえ嘘でも土方が傍にいるということが彼の励ましになるのなら斉藤自身の些細な葛藤などどうでも良かったのだ。
けれど、
「…俺も好きだ」
返した言葉は土方としての代弁ではなく、斉藤自身の返答だった。くだらない茶番だとわかっていても、何度でも彼に伝えたかった。それがこの世に止まってくれるための言霊になるならば―――。














解説
なし

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