わらべうた



1006


蔵には小窓があって、そこから陽光が差し込んでいる。新天地の初日は陽気で朗らかな一日だと思っていたのにあっという間に逆転してしまい、今はその春の兆しが恨めしい。いっそ大雨が降って雷でも鳴れば、こんな日が訪れても仕方なかったのだと思うことができるのに。
三人が場を外したあと、近藤は相変わらずその場に胡座をかいてまるで座禅する僧ように静かだったが、土方は落ち着かずにその小窓から外を眺めていた。
しばらく沈黙した後、
「…局長、言っておくが、お前の代わりに俺が出頭する以外の考えは認めないからな」
土方が先制して釘を刺すと、近藤はふっと笑った。
「…お前らしくない。よく考えてみろ、お前が俺の代わりに出頭して何の意味がある…隊長を連れてこいと言われるだけで、それでお前の身に何かあったらただの無駄死にだ。圧倒的に不利な状況のなかで、不確かで可能性の低い賭けをすべきじゃない…お前ならわかっているはずだ」
「だったら…どうするんだよ!」
今度は土方は副長としてではなく彼の幼馴染として声を荒げた。けれど、近藤は相変わらず穏やかなままで土方の苛立ちを加速させる。土方は小窓から離れ荒い足音を立てて近藤の前に膝を降り、その襟を掴んだ。
「まさか…腹を切るなんて言うんじゃねえだろうな…?敵はまだ『近藤勇』だって気がついているわけじゃねぇんだ」
「…それ以外に方法があるか?」
近藤が相馬たちを下がらせた時から彼が静かに覚悟を決めていることは察していたが、実際に言葉となって発せられると土方の心は強い拒絶反応を覚えた。
「はっ…くだらねぇ。こんな埃っぽい薄暗闇の蔵のなかで、どんなに立派な切腹をしたところで…結局ただの野垂れ死だ!」
「俺はお前や相馬くんたちが犠牲になるようなやり方は望んでない。それにお前たちを置いて逃げ延びたところで俺は俺を許せない…結局腹を切るならここでも同じだ」
「犠牲なんて思わねえ、これは新撰組のために必要な作戦だ。相馬も野村も望んでる」
「馬鹿を言うな。新撰組のためだと言うのなら、お前や若い隊士たちは必ず生き残らねばならぬ。…特にお前は鳥羽伏見で善戦して、勝安房守や榎本艦長から一目置かれている。甲府で負けた俺よりも余程、新撰組を率いるのに向いてるよ」
「…馬鹿なのはお前だ!」
土方はとうとう頭に血が上り、いっそう強く襟を掴んで引き寄せた。
「隊士達は皆、近藤局長の新撰組に命を賭けたんだ!俺じゃない、かっちゃんじゃなきゃ駄目に決まってるだろ!」
「じゃあ尚のこと俺に腹を切らせてくれ。こんな形で包囲されて、武器弾薬は官軍に渡った…これは敗戦も同じ。ずるずると俺たちがここで時間を浪費しては、そのうち加山村の隊士たちへ矛先が向く…そうなってはこの天領の流山が戦火に巻き込まれて新撰組は総崩れだ。その前に隊士たちの助命を懇願して俺が腹を切って終わらせる…そうすれば新撰組は続く」
「かっちゃんが腹を切ったところで奴らは俺たちを逃しはしない。それではただの犬死だ」
「…そんなことはない。介錯はお前に頼むよ、歳」
「切腹なんてさせない」
静かに説得する近藤と、激昂する土方…しかし二人ともどうやってもこの状況を打破できる策が思いつかなかった。戦うことも、逃げ出すこともできない…八方塞がりだ。
互いに言葉が尽きて二人は黙り込む。土方は必死に近藤を説き伏せる言の葉を見つけようとするが、本当は感情が納得できなくても頭では理解している…これはもう何かを失わなくては打開できないのだと。それほど追い込まれてしまった。
(それが俺の命なのか、お前の命なのか…それだけのこと。だったら選ぶべきは決まっているだろう…!)
土方には自分の命を差し出すことに躊躇いはなかったが、近藤はそんな土方の考えを見透かすように手を握り穏やかに口を開いた。
「…歳、もう十分だ」
「十分…?」
「ああ。農民から道場主、新撰組、幕臣…もう十分、登り詰めた。これで切腹して果てたなら…俺は武士として死ねるんだ。ハハ、上出来だよ」
近藤の言葉はまるで自分に言い聞かせるようだった。
確かに近藤ほどの出世を遂げた者はいないだろう。農民から旗本まで這い上がった…だからこそ敵にむざむざと殺されるくらいなら、立派に腹を切りたい…その『誇り』はわかる。
けれど土方には受け入れられずに、近藤の手を払った。
「なに一人で終わろうとしてるんだ!死んでどうする?新撰組は?試衛館や天然理心流はどうする。おつねさんやおたま、お孝やお勇は??てめぇの勝手な覚悟とやらで全部投げ出すくせに、それで格好つけたつもりか!もっと足掻いたらどうだ!」
「…歳…」
家族や仲間の存在を思い出し、近藤の表情に一瞬だけ影が差した。もちろん近藤にとっても青天の霹靂でありらすべての心残りに整理がついているわけではない。けれど
「お前こそ…ここで無残に死んで、総司に会えなくてもいいのか?」
と訊ね返した。
(考えないようにしていたのに!)
総司が千駄ヶ谷で孤独に耐えながら待ちわびている姿が思い浮かび、土方はぐっと唇を噛んだ。
「…それは卑怯だ。総司はおつねさんたちとは違う。あいつなら俺が身代わりになったとちゃんと理解するはずだ」
「そんなはずはない。俺が腹を切るのと、歳が犠牲になって死ぬのと…どちらが総司にとって苦しむか比べるつもりか?それは俺の家族やお前の大切な者の存在の価値を比べることだろう、そんなことはできないよ。…だから誰のせいにもせず俺とお前が責任をもって決めるべきだ。これは俺たちの…新撰組のための選択なんだ」
「…」
近藤はゆっくりと片膝を突いて立ち上がって小窓から外を覗いた。二百人もの敵兵に包囲された屋敷にはちらちらと人影が見える。
「…賽の目でも振って決められれば楽かな」
「俺は自分たちの生死を賽なんかに託すのは御免だ」
「そうかな…何かのせいにできる方が気が楽じゃないか?」
「望まぬ結果になったとき、賽を投げたことを悔いる」
「じゃあどの道をどうやって選んだとしても…俺たちは後悔するんだな」
「…」
土方は隣に立った。近藤は小窓から遠くを眺めていたが、土方はその横顔をじっと見つめた。
そこにいるのは幼馴染で貧乏道場主の近藤ではなく、武士で旗本の『大久保大和』だ。
(もう別人なんだな…)
これは凛とした一人の男としての決断だと、近藤の姿が語っているような気がした。
近藤は小さく笑った。
「…ここから見下ろしても、椿の花は鮮やかだな」
「…やっぱり縁起が悪かった」
「ハハ、花のせいにするつもりか?さっきも言っただろう?俺は好きだよ…椿は武士の花だ」
近藤は少し現実逃避するように笑っていた。
誰かが彼のことを大木の柳のようだと言っていた。地面にしっかりと根を張って、どんなに強い風でも葉を揺らすだけで受け流し、しかし真っすぐと立ち続けている。揺るがない信念という血を滾らせて、誇りと覚悟を持って前を向く―――。
(俺は…お前の一番の部下だ)
子どもの頃に約束した。土方の人生を変え、常に引っ張って行ってくれたのは彼だった。そんな近藤の意思に背くことが自分の望みなのだろうか。
「…かっちゃんの一番大切なものはなんだ?」
土方はほとんど無意識に訊ねていた。その答えに従おう…それが近藤の部下としての自分のやるべきことであるはずだ。
「かっちゃんの家族なのか、命なのか、幕臣としての誇りなのか…どれか一つ選んでくれ」
「…歳、一つ抜けているよ」
近藤はふっと小さく笑って続けた。
「俺の一番大切なものは…新撰組だよ」
「…」
「新撰組は俺そのものだ。新撰組が無ければ俺は田舎の道場主のままこの世に名が広まることなく一生を終えていた…新撰組が在ってくれたからこそ、俺は一人の男として立つことができた。だからここで俺が腹を切って死んでも新撰組がどこかで戦い続けてくれるなら、それは俺が生き続けているということと同じことだ」
「…そうだな」
(知っていた)
きっと壬生浪士組を名乗り、浅黄色の羽織を着て都を颯爽と歩いたあの時から…知っていたことだ。身を粉にして働き、悲しみを飲み込み、喜びを積み重ねて来た…そんな新撰組は『近藤勇』そのものであり何物にも代えがたい財産でもある。
わかっている。近藤が積み上げてきた宝のような新撰組を守るためには、大きな犠牲が必要だ。
しかしわかっていても…どうしようもなく選べないこともある。
土方は近藤の二の腕をぎゅっと掴んでいた。
「歳?」
土方は子どもが親に縋るように力を込めて握った。
「…俺はかっちゃんの切腹を見届けることなんてできない、介錯を務めるなんてもっとできない…俺はこんな狭くて暗いところでお前が死ぬのを見たくない。俺は…かっちゃんがいなくなったら、どうしていいかわからねぇよ…」
土方の声は震えていた。自分でもみっともないとわかっていたけれど、目を赤く腫らして涙を流して近藤に懇願することしかできなかったのだ。近藤は虚を突かれたように驚いたあと「やれやれ」と肩を竦めた。
「…まったく、お前は…。泣き落としか?卑怯だぞ」
近藤は苦笑しながら、わしゃわしゃと土方の髪を撫でた。
年は一つしか違わないのに、土方にとって近藤は手の届かない兄貴分である。そして近藤にとっても親友であり、決して見捨てることのできない一対の存在だ。そんな土方が泣いて引き留めるのだ…近藤の心が動かないわけがない。
近藤は大きく息を吸い込んで「はぁあ」とゆっくり吐き出した。
「わかった…じゃあ、ここで俺が死ぬのは止めにする。その代わりお前や他の隊士が犠牲になることも駄目だ」
「…だが」
「俺が投降する」
「かっちゃん!」
「勘違いするなよ。…俺はあくまで下総の鎮撫のためにやって来た『大久保大和』という名の旗本として出頭する。おそらく捕縛されてどこかに送られて尋問を受けるだろうが…その間にお前がどうにか俺を助ける算段をたててくれ。春日隊の時のように勝安房守様に助命を懇願すれば良いようにはからって下さる…きっと解放されるはずだ」
「…正体がばれたら?」
「それは天に任せるしかない」
近藤は存外あっさりとしていたが、追い詰められた二人にとって誰も犠牲にせずこの場をやり過ごすために選ばざるを得ない策だった。
土方は頷いた。
「…わかった。だが正体が露見すればすべて終わりだ。どんなに酷い尋問やあるいは拷問を受けても…『近藤勇』であることは認めてはならない。どんなに苦しくとも俺が助けに行くまで必ず耐え忍ぶ…そう約束してくれ」
「ああ、わかった。…じゃあ俺からも一つ頼みがある。何がどうなっても新撰組だけは続けてくれ。俺がこの世にいなくなっても…俺の魂は新撰組とともに在る」
「…そういう話はするな。話を戻すつもりか?」
「いや、そんな時間はないなぁ。…とにかく、俺が出頭したらお前は皆とともに隙を見て逃げ出して加村山の隊士たちに合流するんだ。そして一刻も早く会津へ向かえ。会津公ならきっと新撰組を受け入れてくださる」
「…わかった。会津で待ってる」
「ああ。お前を信じているよ」
近藤は土方の肩をポンポンと叩いた。
「ありがとう」
たった五文字の何気ない言葉が、今の土方にとって、そしてこれからの土方にとって忘れられない響きとなった。


結果を待ちわびていた相馬と野村、そして村上に報告すると、三人は無念の表情を浮かべた。
「でしたら局長附の私を同行させてください!」
と相馬が率先して名乗り出た。彼は一番隊を離れて近藤に附いており、聡明であるのでそれが良いかと思ったが
「ダメダメ、お前は風邪っぴきだろ!」
と野村が止めた。
「余計なことを言うな。もう風邪なんて平気だ!」
「本当のことだろう?風邪がぶり返して肝心な時に役に立てなかったらどうする。…局長、副長、俺が一緒に投降します。村上、お前も行くぞ」
村上はあまり気乗りしない表情であったが、野村が強引に話を進めて相馬と村上も渋々納得した。
「心強いよ。…野村君、村上君、君たちに危険が及ばないように必ず俺が守る。すまないが付き合ってくれ」
「はっ」
近藤は相馬に手伝ってもらいながら身支度を整える。右腕の包帯を外し、襟を整えて羽織の紐を綺麗に結び袴をパンパンと叩いて皺を伸ばした。
「…かっちゃん」
「歳…預かっていてくれ」
近藤は今朝結んだばかりの包帯と刀を土方へ渡した。刃長が長く柄は柚の木でできた『長曽祢虎徹』…新撰組としての日々が刻まれているそれはとても重たい。けれどそれを受け取った途端、(これは俺が持つべきものじゃない)と感じた。
「必ず…返す」
「ああ。行ってくるよ」
近藤は笑みを浮かべる。
背中を向けて遠ざかっていく凛とした姿が、土方にはまるでスローモーションのように見えた。どうしてだか彼の踏み出す一歩、一歩が残像の様に瞼に焼き付いて離れない。
(行くな…)
二人で決めたことなのに、心の奥で悲鳴を上げていた。けれど必ず助けるという思いでグッと唇を噛んだ。

トン、トン、トン…階段を下りていくその音が小さくなって、聞こえなくなった。











解説
なし

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