わらべうた
1008
土方が江戸を目指していた頃、野村、村上とともに投降した近藤は東山道軍の駐屯地である越谷へ連行されることとなった。
敵軍は近藤を下総の鎮撫隊の隊長、そして幕臣の『大久保大和』としてまだ礼節を損なわない扱いをしているが、その正体に懐疑的な目を向ける兵も多い。何故ならば一切動揺を見せず威風堂々とした立ち振る舞いを貫いていたからだ。
(只者じゃなか…)
薩摩の有馬は近藤…『大久保大和』を横目で眺めながら、彼から漲る自信の根拠を探ろうとしていた。
斥候からの知らせで流山へ向かい、江戸川を羽口の渡しを通り南下してあっという間に本陣を包囲した。すぐに降伏するかと思いきやぐずぐずと時間の猶予を求めて来た時は、どれほど情けない大将が命乞いの算段をたてているのかと思いきや、蔵のなかから出てきたのはどこか清々しい表情をした男だった。
『お待たせした。拙者が鎮撫隊隊長の大久保大和である』
有馬に対して怯む様子はなく、しかし遜ることもなく淡々とした態度で投降したのだ。少しは抵抗されると覚悟していたので拍子抜けであったが、しかし敵兵に囲まれていてもこのようにふるまうことができる気骨のある幕臣がこんな辺境の地にいるはずがない…かえって確信を得た。
そんな『大久保大和』の様子とは裏腹に、従者としてついてきた男たちのうち一人は顔が強張るほどの緊張し、もう一人は気の毒なほど青ざめていた。
夕暮れ時、本陣としていた永岡家からほど近い矢河原の渡しを渡り終えた後、『大久保』は
「有馬殿」
と足を止めた。
「…なんじゃ?」
「申し訳ないが、この者たちを解放していただけないだろうか。なんせ我ら鎮撫隊に入って日が浅くたまたま居合わせただけの新参者…このように今にも倒れて皆々様の足手まといになるでしょう。それに不甲斐ない従者を連れていては私の名折れとなる」
「大久保隊長…!」
緊張していた男はカッと目を見開いて驚いた顔を見せたが、もう一人の青ざめた男は一度『大久保』の顔を見たあとすぐに視線を落として項垂れた。確かに彼の足元はがくがく震え続けていて、今にも失禁しそうな有様だ。
有馬としては『大久保』さえ投降に応じれば従者がどうであろうと構わないと思っていたのだが、
「隊長、俺は最後まで務めを果たします」
「野村君…」
「きっと相馬ならそうします」
野村と呼ばれた男は強い眼差しで覚悟を示した。『大久保』はふっと小さく笑って「まったく」と呆れたように呟いた。
「ではこの者だけ、頼みます」
「…大久保先生…」
「村上君、君は何も悔いることはない。…ここまでありがとう」
「…は、はい…」
有馬が「良か」と頷くと、村上は袖で涙をぬぐいながらそのまま駆け出して離れていく。その姿は有馬には一目散に逃げだしたように見えたが、『大久保』は穏やかに微笑んでいた。そして有馬に向かって深々と頭を下げた。
「ご厚情に感謝いたします」
「構わん…」
(この状況で部下を思いやれるとは…やはりこの者は…)
そしてまた歩き出す。有馬は『大久保』の背中をまじまじと眺めながら、(夜までには越谷につくだろう…)とその一歩後ろをひたすらに進んだ。
部屋は月明りが差し込む程度の淡い明るさしかなく、総司は自分が目を覚ましたのか、それともまだ夢のなかなのか…よくわからなかった。
「…っ」
喉がカラカラで身体を捩り肘を使ってどうにか身体を起こしながら枕元の湯飲みに手を伸ばしたところ、
「ほら」
と暗闇から斉藤の声が聞こえた。気配はなかったがずっとそこにいたのだろう。
「…さい、」
「いいから」
斉藤が総司に有無を言わせず身体を背中から支えつつ茶を口元へ運ぶ。総司は喉を湿らせるようにゆっくりと飲み、小さな息を吐いた。
「…もう大丈夫です。ずっとここに居てくれたんですか?」
「ああ」
斉藤は総司の肩に羽織をかけて明かりを灯した。ゆっくりと部屋が明るくなり総司の目も頭も冴えていく。
「いまは…五つ時くらいですか?」
「いや、九つは過ぎた」
「…もしかして起きるのを待ってくれたんですか?先に休んでもいいのに…」
「前に言っていただろう。目が覚めた時に誰もいないと不安になると」
「…そんなこと言ったかな」
総司は誤魔化しつつ(そういえばそんな弱音を吐いた)と内心恥ずかしく思ったのだが、斉藤は律儀に覚えていて目が覚めるのを看病しながら待っていてくれたらしい。おかげで身体の熱が引き、すっきりとしていた。
「引き止めたのに寝てばかりで…斉藤さん暇を持て余しているんじゃないですか?」
「そんなことはない。こんなにのんびりするのは久しぶりだ…悪くない」
「…そういえば会津ではちゃんと休んだんですか?」
「…」
斉藤が負傷者とともに隊を離れて会津へ向かったのは半月ほど前のこと…官軍を避けながら会津を往復するのにはそれなりの時間がかかるはずなので半月ではほとんど余裕はなかったはずだ。図星をつかれ斉藤は目を逸らした。
「…英にも同じことを聞かれて、正直に話したら説教をされた」
「ハハ…やっぱり」
「俺の任務は怪我人を会津へ送り届けることだ。土方副長にも早く帰って来いと言われたのだから別に構わないのだろう」
「…英さんはなんて?」
「もっと叱られた」
「ふふっふふふ…」
総司にはその光景が目に浮かぶようで噴き出して笑ってしまった。前々から英は斉藤が追う度々の怪我に対して助言をしていたが、斉藤は聞く耳を貸さずに好き勝手に行動しているのだ。
すると居心地が悪かったのか、斉藤は話を変えた。
「英が猫のことを気にしていたが」
「猫?…ああ、黒猫か…」
総司はすぐに思い当たる。
都にいた頃から縁があったが、長く眠っていると時折夢とも現ともわからないが猫に出会うことがあり、一昨日もその件で騒ぎになってしまったのだ。
「猫が気に障るなら猫避けを頼むと言っていた」
「…」
総司は迷ったが、正直に打ち明けた。
「…私は…猫が怖いんです」
「怖い?」
「…芹沢先生や山南さん、藤堂君の時…それから近藤先生が撃たれた時もあの黒猫が目の前に現れたんです。最近は永倉さんと袂を分つ前にもふらりと…最初は危険を知らせてくれたのだと思ったけれどそうじゃない。黒猫が現れると私の大切なものを奪われてしまうような気がしてならない…」
「…」
「斉藤さんは馬鹿らしいと思いますか?」
斉藤が怪訝な顔をしたので、総司は小さく笑う。しかし彼は
「いや…不吉なのは間違いないだろう」
と否定しなかった。
「だったらやはり猫避けを…」
「いえ、そういうことじゃないんです。きっとそこに本当の猫がいるかどうかは関係ないから…私の問題なんです」
きっと猫避けをしたところで、きっと夢のなかで出会うことになるだろう。幻のような、悪夢のような…ずっとその影がまとわりつくような。
斉藤は腕を組んで少し黙り込んだ。
「…昔、俺の父が『猫は霊が見える』と言っていた」
「霊?」
「猫は時々虚空を眺めている時があるだろう。何もいないのに目で追ったりして…きっと俺たちには見えないものを見ていて…悪霊を払い除けたり、幸運を招き入れる。家に猫が住み着いた時に父から魔除けになるから邪険にせずに大切にしろと言われた」
「へぇ…」
「だから考え方を変えたら良い。その猫はもしかしたら何だかんだ沖田さんを守っているんじゃないのか?」
「…」
斉藤の言う通り猫は妙に総司に懐いていた。足元に擦り寄ったり、時には腹を出して愛らしく甘えたあと、いつの間にかどこかへ行ってしまう。その場に留まらずにひとときの時間を慈しむように。
「…そういうことにしておこうかな」
「ああ」
総司が斉藤と頷き合った時、隣室から「目が覚めた?」と英が顔を出したのだった。
近藤が投降した翌日、四月四日の朝。
憎らしいほど晴れ渡り鮮やかな桜があちこちで咲き始めているなか、土方は三日月とともに人目を避けながら夜通し走り続けて江戸に到着し、すぐに赤坂の勝海舟邸を訪ねたが、勝は不在だった。
「安房守様はどちらへ?!」
土方があまりに鋭い剣幕で尋ねるので、下男は声を震わせながら「お城へ…」と答える。
「お戻りは?」
「さ、さあ…手前には…」
「…わかった」
土方はグッと唇を噛んでしばらくその場にとどまったが勝が帰宅する気配がないので出直すことにする。
(時間がないというのに…!)
土方は焦る気持ちを抱えながら江戸の町を彷徨う。
いまこの時でさえ近藤の正体が露見しかねない…そう思うと頭がおかしくなりそうだけれど、軍事総裁の勝以外に助命を懇願できる相手はいないこともよくわかっていた。
(落ち着け…)
土方が三日月の手綱を引きながら考えを巡らせていると「内藤先生」と声をかけられた。潜伏している探索方の畠山芳次郎だ。
「畠山…実は」
「島田さんたちと合流しました」
「そうか…」
畠山は既に島田から事情を聴き、土方を探していたらしい。
「勝安房守様は江戸城からしばらく戻られないでしょう。今朝方、都から戻った官軍の総督や田安様とともに入城しています」
「…交渉がまとまったのか?」
「おそらく…」
江戸総攻撃を回避し徳川家存続のために薩長相手に粘り強く交渉を続けて来た勝にとって、重要な局面が訪れているのだろう…しかし土方としても一刻も早く勝と面会したい思いが強く、己のタイミングの悪さを嘆くしかない。
(俺はいつも運がない…いつだってそうだ、池田屋の時も、油小路の時も…肝心な時に機を逃す)
口のなかが血の味がした…唇を噛み過ぎてしまったのだ。
畠山は気づかずに報告を続けた。
「それから、大久保先生に同行していた村上さんが吉原にやってきました」
「なに?なぜ村上が…」
「…大久保先生のお計らいで解放されたそうです。野村さんは固辞して付き添っているそうですが…」
「…」
土方は近藤の気持ちを想像する。おそらく野村と村上を不憫に思ったのだろう…特に村上は近藤共に投降した時には今にも気を失いそうなほど思い詰めていたのだ。
しかし村上は単に逃げ出したわけではなかった。
「村上さんは一旦その場を離れたそうですが、大久保先生の所在を探るために尾行したそうです。先生は昨夜越谷の官軍駐屯地に到着し、いまは板橋へ送られていると」
「…板橋か」
「おそらくそこで詮議を受けることになるかと」
「…」
板橋は官軍の拠点だ。
幸いにも近藤は鳥羽伏見の戦に参戦しなかったためすぐに正体が露見することはないだろうが、『大久保大和』という名前でどこまで押し通せるかは不透明だ。
(それに…嫌な予感がする)
「…村上には安富たちと合流して会津へ向かうように伝えてくれ。俺はもう少しここで安房守様のお帰りを待つ」
「承知しました。…我々は吉原の稲本楼に身を置いています」
「…わかった」
畠山は笠を目深にかぶって去っていく。
(板橋…)
同じ江戸…思っていた以上に近い場所にいる。手が伸ばせそうな場所にいるからこそ、かえってもどかしい。
(必ず…助ける)
土方は三日月の手綱を強く握った。
なし
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