わらべうた
1009
斉藤は朝方まで総司に付き合って、彼が再び眠り始めたのを見届けて部屋を出た。朝の眩しい陽光を浴びて目を背けつつ縁側に腰を下ろし、草履の紐を結んでいると英がやって来た。
「どこか行くの?」
「…ああ、野暮用だ。夕方までには戻る」
「わかった」
英に見送られ、斉藤は裏口から屋敷を出て人目を避けながら千駄ヶ谷を離れた。
土方は三日月を近くに預けてしばらく勝の屋敷の近くで身を潜めて様子を伺い帰りを待っていたが、昼頃になって屋敷前へ駕籠が乗り付けられたのを見て駆け寄った。
「安房守様!」
勝の従者たちは突然現れた土方を警戒してサッと鞘に手を伸ばしたが、駕籠から出て来た勝はすぐに土方に気が付いた。
「…土方か。どうした、いまは流山ではなかったのか」
「その件でお話が…」
近藤が捕縛された件を往来で口にすることは憚られたのだが、土方の口調で勝は急用ではないのだと受けとり「後にしてくれ」と邪険に扱った。
「悪いが、いまは忙しい。屋敷には着替えのために寄っただけでこの後にも足を運ぶところが…」
「お願いしたき儀がございます…!」
土方が急に声を荒げたので、勝は面食らったように驚いた。土方の平身低頭でありながらも有無を言わせぬ迫力を感じ取り、従者たちもたじろいでしまう。勝は「入れ」と屋敷の中に視線を送った。
玄関さえ通る時間が惜しいのか、勝は立派な庭を横切って進みそのまま自室の縁側に腰を下ろした。草履の紐をほどきながら
「それで、何の頼みがあるって?」
と訊ねるので、土方は地面に両膝をつき
「…近藤が官軍に投降しました」
と報告した。勝は一瞬、紐を解く手を止めたが「そうか」と呟きながら眉間に皺を寄せて再び指先を動かし始めた。
「官軍を避けて流山に布陣したのだろう。何故そんなことになった?」
「…流山に布陣してすぐ、宇都宮へ向かう東山道の先鋒隊に本陣を包囲されました。我々が流山へ移ったことが漏れたようです。運悪く多くの隊士は軍事調練に出かけており…数人しか残っておらずやむなく近藤が正体を隠し『大久保大和』として敵陣に下りました」
「相手の敵将は?」
「東山道軍総督府大軍監・香川敬三と薩摩の軍監・有馬藤太と聞きました」
「香川か…もともと水戸の出だが薩摩の志士たちと親しく、上様の側近を罷免された男だ。…新撰組だと知られたわけじゃねえのか?」
「はい。ですが一刻も早く助命の嘆願を…」
「そういうことなら悪いが、明日でいいか?」
「そんな悠長な…!」
土方は頭にカッと血が昇って勝を見据えたが、いつも余裕しゃくしゃくの勝ではなくどこか急いているように見えた。
「こちらも悠長にはしておれぬのだ。…西郷との交渉についてようやく朝廷からの返答があった。上様の及び他の者への死罪一等は免じられたが、十一日には城を尾州藩へ明け渡し、軍艦銃砲も引き渡すことになり…徳川の家名存続、領地高何ひとつ言及はなかった。これでは幕臣たちが納得せぬ。おそらく猛反発し、戦になるだろう…いらぬ尾ひれがついて話が広まる前に幕閣、海軍、陸軍…説得して回らねばならぬ。時が惜しいのだ」
目の前の上様の『死罪』は避けられたものの、それ以外に幕臣たちが望む条件をクリアすることはできなかった。先行きの見えない交渉結果に幕臣たちはとても納得できないだろう…この国の先行きが定まろうとしている。
しかし今の土方にはすべてどうでも良く思える。
(徳川だとか、上様だとか…そんなことはどうでもいい!)
今この時にも近藤の命が尽きるかもしれないのだ。
個人的な感情を抑えるのが精いっぱいで、土方は
「明日まで待てませぬ…!」
と声を震わせた。
勝の言い分が正しいことはわかっている。近藤という一人の幕臣の助命よりも、交渉内容が明るみになることで引き起こされる幕臣たちの反発を危惧するのは当然だ。
勝はしかめっ面をしたけれど土方にはどうしても納得できないことがあった。
「…近藤は、安房守様のご命令で甲府に出向き敗戦し、江戸への残留を希望したにも関わらず安房守様の意図を汲み五兵衛新田、そして流山に移りました。すべては徳川家、そして上様のことを思えばこそ…!そんな近藤に情けをかけてやっていただけないのですか…?!」
近藤は上様への忠誠心を貫くために自分の意思よりも勝の命令を尊重し行動してきた。反目し裏切る諸藩や幕臣たちが多いなか、誰よりもまっすぐ誠実に徳川に尽くしてきたはずだ。それなのに報いられることなくこの危機に接しても後回しにされるのは、やりきれない。
土方は強く訴えたのだが、勝は苦笑した。
「…新撰組が五兵衛新田へ移ったのは甲府の負け戦の責任を取るため。それから流山への布陣命令は…まだ出していなかったはずだが?」
「…!」
自業自得だと言わんばかりの口調に、流石に土方も我慢できなくなった。
確かに江戸から離れて五兵衛新田へ移ったのは甲府の負け戦の責任を取る意味合いがあり代わりに春日隊の助命を請うた。そして流山に移ったのは前々から打診されていたとはいえ自分たちの判断だったのだ。
しかしすべては徳川のためであり、そのように小馬鹿にされ蔑まれる覚えはない…土方が苛立ちのあまり片膝をついて腰の柄に手を伸ばした時。
「土方、覚えているか?俺に貸しがあるよな?」
「…貸し?」
「俺は甲府の戦でお前に頼まれて援軍として三百ほど兵を出してやった。…忘れていないな?」
「……」
土方は黙り込んだ。
勝は常に交渉相手の優位に立ちたいのか、そういう人を弄ぶ性格なのか…土方には理解できなかったが、勝はまだ微笑んでいる。
「近藤の助命を加えて二つ目の貸しになるが…まあお前が今から俺が言うことに従ってくれるなら二つとも帳消しにしてやる。それでいいか?」
「…はい」
土方は返事して一旦柄から手を離した。どれほど憤りを感じてもどんなに無理難題な条件でも、もう勝しか頼る宛てはないのだ…すると勝は縁側から土方を見下ろすように口を開いた。
「…土方、お前が全部引き受けて死んでくれ」
土方はゆっくりと顔を上げて勝を見据えた。勝は真っすぐに土方を見つめている…揶揄するような冗談を言っているのではなく、脅すような凄みもなく、極めて真摯に頼まれているのだと感じた。けれど理解はできなかった。
「…おっしゃっている意味がわかりません」
「今回の交渉結果を耳にすれば幕臣たちはきっと納得せずあちこちで戦を起こすだろう。俺は上様のお命さえ無事ならそれでいいと思っているが、兵たちは納得せず上様へその矛先を向けるかもしれぬ。そうなっては内乱となりより悲惨な結末を迎えるだろう…だからお前にはその旗振り役となってすべての憎しみを率いて死んでほしいんだ。都で名を上げ、伏見で戦った百戦錬磨の新撰組副長なら多くの幕臣や兵が従い、晴れ舞台だと喜んで命を散らすだろう」
「…」
土方は近藤が助かるならば己の命などどうでも構わないと思っていたし、近藤に比べれば価値もないのだから惜しいとも思わなかった。それ故に勝の期待に応えられるとも思えなかった。
「…もとより、今更薩長に下るつもりは毛頭ありません。近藤とともに己が納得するまで戦い続けるつもりです。しかし他者の命を巻き込んで散るつもりはなく、そもそも近藤と離れてしまった今、そのような求心力は私には…」
「お前たちは新撰組だ…それだけで従う者は多い。お前も江戸に帰って実感したんじゃないのか?新撰組という名は思った以上に広まっている…その名を聞くだけで入隊したいと兵が集まる。お前たちはさながら歌舞伎の赤穂浪士の様に忠義の集団として知られてるんだ」
「…」
「金も武器もくれてやる。だから上様へ向けられた憎悪、嘲笑、無念、嫌悪…上様の代わりに江戸中の憎悪を全部引き連れて死んでくれ。それが条件だ」
(身勝手な命令だ)
最初、土方はそう思った。助命の嘆願書をたった一度したためる代わりに、徳川に反抗する者たちの思いや命を引き連れて死ぬなんて馬鹿らしい。交渉として釣り合っていない。
けれどふと近藤ならどうするか…と思った時にすぐに答えが出た。
(かっちゃんはもとよりその覚悟だった)
負けるとわかっていても、徳川が存続しないと理解していても…戦い続けると言っていた。江戸で、会津で、もしくはもっと遠い場所であっても…近藤なら勝に言われなくともそうしただろう。
どこにもいない『上様』のために。
目に見えない『忠義』を貫くために。
(だったら何も変わらない…迷うことはない)
「…承知しました」
土方の返答に、勝は満足げに頷いた。
「よし。…とはいえ明日まで待て。このあと大久保一翁殿に面会して策を練るのだ…あの御仁にも嘆願書をしたためていただいた方がよかろう」
「…ありがとうございます。では明日の朝一番に参ります」
「ああ。…近藤は今どこにいる?」
「板橋だと聞いています」
「板橋か…」
勝は空を仰ぎながら
「もう一度、あの馬鹿正直者に会いたいものだな…」
と呟いた。
なし
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