わらべうた
1010
勝の屋敷を出た土方は島田たちが身を寄せているという吉原の稲本楼を訪ねた。探索方の畠山が『稲本楼』の名前を出した時から察していたが、そこには島田たちだけでなく伊庭の姿があった。この『稲本楼』は伊庭の馴染の見世なのだ。
「吉原に顔を出したら見知った顔がいたので声をかけたんですよ。どうも落ち着かない様子で…そうしたら身を隠したいと言うものですから馴染のここを紹介したんです。ここは信用できますし、高級で薩長の田舎者が入り込めるような場所ではありませんからね。でもどうして彼らが吉原にいたのか…事情は明かせないと言われましてね。もうすぐ歳さんが戻ってくると聞いて待っていたんです」
「…そうか」
土方が他言しないようにと命じていたので、島田たちは顔見知りの伊庭でも近藤が投降したことを打ち明けなかったようだ。しかし伊庭は土方の疲れ切った姿や隊士たちが憔悴している様子を見て只事ではないと察していてすぐに「何があったんですか?」と問い詰める。土方は伊庭の肩を押して隣室に移った。禿に人払いを頼み、改めて伊庭と向かい合って座る。
「流山に布陣すると文をくれましたよね。いったい何があったんです…?」
「…官軍に包囲されたんだ」
土方は自分の失態を繰り返し語ることを億劫に思ったが、伊庭に隠しておくわけにはいかず事情を明かした。勝に報告したのと同じように流山で窮地に陥り、近藤が投降して新撰組は会津へ向かった。そして土方は勝に助命を懇願した…一連の経緯を耳にして流石の伊庭でも動揺を隠しきれなかった。眉間に皺を寄せて息を呑む。
「そんな…信じられません、近藤先生が敵に捕縛されているなんて…」
「…俺だって信じられない。だが今ここにいないことが全てだ」
「…」
現実から目を逸らしても仕方がない…土方はようやくその事実を受け止められるようになったが、伊庭は怒りの矛先を勝へ向けた。
「…やはり安房守は信頼できません。そもそも流山に布陣するように指示をして、こんなに早く敵軍に情報が洩れるなんて…もしかしたら幕閣に密通する輩がいるのか、それとも安房守の策略かもしれません…!」
「滅多なことを言うな。俺たちが不運だっただけだ」
五兵衛新田からさらに離れた下総に布陣するように持ちかけていたのは勝であるが、流山を希望したのは近藤であり、自軍が加村山に調練に出ていなければ対抗できただろう。それができなかったのはひとえに運の無さに尽きる。
伊庭はまだ納得できなさそうだったが、根拠のない推論を口にしたところで土方の傷口に塩を塗るだけだと気がついて「すみません」と口を噤んだ。
土方はため息をついた。
「…近藤先生は板橋にいる。明日には安房守様の嘆願書を持参して…解放されるように努める。だからあまり心配するな」
「板橋…千駄ヶ谷から近いですね」
「…」
伊庭の言いたいことはわかったが、いまの土方は慮る余裕がなく「総司には伏せてくれ」としか言えなかった。
伊庭は黙って頷いて理解を示しつつ、腕を組んだ。
「…とにかく、今は近藤先生が無事に解放されることを願うしかありません。俺も伝手をたどって助命嘆願へ動きたいところですが下手に動いて近藤先生の正体が敵へ知れるようなことがあるかもしれません。もし『新撰組の近藤勇』だと明らかになれば…きっと、身の危険がありますから」
伊庭は曖昧な言い回しをしたが、投降した近藤と見送った土方は正体が露見すれば命はないという覚悟をしていた。流山を脱していても、あの時に包囲された時のように、心は追い詰められたままなのだ。
土方は湯呑みに手を伸ばした。上品な緑茶だったが喉の渇きが潤されることはなかった。
「歳さんはこれから近藤先生が解放されるまで江戸に潜伏するつもりですか?」
「いや…やるべきことを終えたら会津へ向かうつもりだ。おそらくあの交渉結果ではあちこちで戦が始まるだろうからな…」
土方がぼやいた途端、伊庭の目の色が変わった。
「交渉結果を安房守から聞いたんですか?朝廷はなんて…?!」
「…上様の死罪は免れたが七日後には江戸城、軍艦や銃砲を引き渡すそうだ。今後の徳川の家名存続、領地高は言及されなかったと…」
「…っ 結局、安房守は一橋公の御身だけはお守りして家臣たちは蔑ろですか…まったく、これが和平交渉だなんてちゃんちゃら可笑しいです。結局は幕臣たちを焚き付けるだけ。薩長はよほど我々と戦がしたいようだ…!」
伊庭は怒りに震えていた。土方は近藤の解放を望むあまり交渉について考える余裕はなかったが、伊庭や榎本のように抗戦を望む者たちにとっては喧嘩を売られたような気持ちなのだろう。
「…あまり先走るなよ。改めて安房守様からお話があるだろう」
「……わかってますよ。それにまだ時はある…このまま薩長の言い分を鵜呑みになどできません」
伊庭の口調は落ち着いていたものの、その眼差しはまだギラギラと血走っているように見えた。
土方は「落ち着けよ」と伊庭を宥めたが、急に息苦しさを感じてクラっと視界が歪んだ。そして上半身のバランスを崩して両手を畳について項垂れてしまった。
「歳さん!」
伊庭は慌てて肩を支える。
「…大丈夫だ、少し眩暈がしただけで…」
「顔色が悪いです。食事はとりましたか?昨日から一睡もしていないのでは…?」
「そう…だったか…」
近藤のことばかりで自分のことは二の次どころか三の次だった。伊庭は部屋に外にいた禿に声をかけて茶や食事を準備させたが近藤のことを思うととても食欲がなく、土方は箸を止めた。
「…伊庭、これからどうなると思う?」
「…近藤先生のことですか?」
土方は伊庭に尋ねても仕方ないと分かっていても、口にせずにはいられなかった。
「薩摩との関わりはあまりなかったが…板橋に送られれば近藤先生の顔を見知った兵がいる可能性はある。正体がバレれば万事休す…命はないかもしれない」
「…」
「近藤先生はそれを分かっていて投降した。自分の命より新撰組が大切だと言って…でも今更気が付いたんだ、近藤先生のいない新撰組は新撰組ではないのではないかと…。総司もいない、永倉と原田が去って他は皆んな死んだ…そんな寄せ集めの新撰組は、本当に近藤先生の命よりも大切だったのか?それがわからないんだ。伊庭、俺は…間違ったと思うか?」
「…」
「過去には戻れないし、すべてを天命に任せるしかない。わかっていても…これが正解だったのか…」
教えてくれるならば教えてほしい。
追い詰められた果てに取った選択が善い道に繋がっているのか…今すぐ誰かに教えてほしい。
まるで張り裂けそうなほど冷たい湖に沈められているように、息苦しさがずっと消えないで続いているのだ。
伊庭は答えに窮してしばらく黙り込んでいたが、土方が
「…俺が近藤先生を殺してしまったらと思うと耐えられない」
と漏らした途端、伊庭は右手を振り上げて土方の頬をパァンっと強く叩いた。
「…っ」
「…今ので言霊が消えました。…しっかりしてください、そんなことを口にしたら現実が引き寄せられてきます」
「…」
「それに近藤先生が投降したのは何のためですか。きっと新撰組を頼むと言われたのでしょう…だったら歳さんは近藤先生が戻ってきたときのために新撰組を立て直すべきです。もう食客たちがいなくても、近藤先生にとっては大切な存在なんですから」
土方の頬はじんじん痛んでいたが、伊庭の喝によって少し目が覚めた。今の土方には遠慮なく物を言う存在は伊庭くらいしかいないのだ。
「…落ち込むのは今日までにしてください。しっかり食事を摂って一晩眠るんです。…あなたにはやるべきことがあるんですから」
取り戻せない過去よりも、変えられる未来へ踏み出す。
土方は叩かれた頬をさすりながら、伊庭が口にする正論がとても眩しくてまっすぐで…しかし今の孤独な土方にとっては唯一の寄る辺のように感じた。
いまはたとえかすかなものであったとしても、希望に縋るしかない。
「…痛てぇ。思いっきりやったな」
「へへ、渾身の一発ですからね。…いつか近藤先生に自慢します。あなたの幼馴染に一発お見舞いしたって」
「はは…勝手にしろよ」
土方は改めて箸に手を伸ばした。
なし
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