わらべうた




721


残暑が厳しい。
「今日の調練は散々やな!」
水野は銃調練が終わると、うんざりした様子で汗だくの髪をかき上げた。彼以上に汗をかいていた村山も大きく頷く。
「…まさか銃を担いで走らされるなんて…あの隊列も覚えるので精一杯じゃ」
新撰組でも銃の訓練は積極的に取り入れられていたが、本格的な『兵隊』としての訓練ではなかったため隊列を組んだり一斉に構えたり…そういった経験は初めてだった。個人技である剣の道に慣れていたので隊士たちは戸惑い、終わるとぐったりしていた。しかし水野は少し楽しそうだった。
「でも興味深い。幕府でも本格的な仏式の軍隊ができたって聞いたし」
「…俺たちも負けちゃおれんな」
村山はこっそりと水野の表情を伺った。囲碁の以来すっかり距離が縮まって数日、彼は強く自分の意見を主張することなく、土佐者の視線を意に介さず、水戸者の嫌味を聞き流し、常に客観的であった。いつも微笑みを絶やさずにいるので周囲も認め始め、親しげに声を掛けてくる者もいる。村山もその友人として周囲に溶け込み始めたので水野には感謝しているくらいだ。
(あまり親しくするのも…)
土方からの指示で距離を取るようにと言われたのもあるが、村山も御陵衛士の間者と新撰組の間者が友人として接していることへの違和感がつきまとう。
しかし、
「よし、湯屋に行こう。その後に碁を打つのはどうや?」
「…ええな」
水野が村山の肩を抱き、誘う。いちいち距離の近い彼を今更どうやって冷たくあしらえば良いのか…人付き合いの下手な村山にはわからなかった。
村山は彼に言われるがままに行李から着替えを準備し、人が少ない時間を狙って近くにある湯屋へ向かおうとしたのだが。
「水野君、ちょっと」
と隊長の中岡自らが顔を出し、水野を呼んだ。中岡は人望があり隊士皆からの羨望の眼差しが注がれている…そんな彼の『お気に入り』と言われている水野へあからさまな嫉妬ややっかみの視線が送られるが、彼はやはり意に介さなかった。
「村山君、先に行っていてくれ」
「…わかった」
水野が中岡に手招きされるがままに去って行くと、ひそひそと「贔屓だ」とか「媚を売っている」などと陰口を叩き始めたので、村山は気分が悪くなって、彼に言われた通り先に藩邸を出た。
(陸援隊と御陵衛士は繋がっちょる。きっと伊東先生への伝言か何かだろう…)
どんな些細なことも土方へ報告しなければ。
そんなことを考えつつ、村山はふと周囲を見渡した。
故郷の田舎にいた頃、京はきっと広くて煌びやかでどこを見ても輝いているように美しいのだろうと思っていた。けれど実際は狭い場所に整然と並んだ家屋がひしめき合っているせいか空が狭く、開けた場所も少ない盆地のため窮屈だと感じた。それはもしかしたらこの美しい都から拒絶された長州人であるという勝手な枷のせいかもしれないけれど。
(いや…この卑屈な性格のせいじゃ)
そうしていると湯屋にたどり着いた。湯屋は混浴が多い(幕府から禁じられている)が、ここは時間別に男湯と女湯が分けられているので、村山は安心して中に入った。
女が苦手なのは故郷にいた時も、京にきた今も変わらない。自分が男兄弟の中で育ったせいかその耐性がなく、女子を見るや逃げ出していたので子供の頃はよく揶揄われた。その苦手意識が今も残っていて、村山にとってこんな湯屋で見知らぬ女子の裸体をみるなどとんでもないことだ。
村山は湯屋の暖簾をくぐり、耳の遠い年老いた女将に十文渡した。
(水野はまだ来ないな…)
彼を待とうとも思ったが、客が少ない好機であり、自分は長湯であるので先に入ることにした。
中は体の汚れを落とす「洗い場」と「湯槽」に分かれていてその間には湯が冷めないための戸板がある。洗い場は明るいが湯槽が薄暗いのは当たり前で、湯槽に浸かると互いの顔が見えないくらいなのだ。(それ故に混浴が多い)
洗い場には誰もいない。村山は不快な汗をようやく流せることに喜んだ…しかしそれは束の間だった。
「っ?!」
急に背後から口を塞がれたのだ。
湯槽から誰かが出てくる気配はあったが、互いに何も纏わぬ姿で警戒するはずもない。
(誰じゃ…っ?)
大きな掌はゴツゴツしていて力強い。加えて村山の背中から感じる気持ち悪い胸毛や肌の感触で寒気がした。
村山が必死に振り返ると、そこにいたのは田川だった。
「長州もんが、なにしとる」
「…!」
田川はいつも村山を見ると罵声を浴びせた。それはもう習慣のようなもので村山自身だけでなく、周囲も「またか」と呆れさせるような繰り返しだった。
けれど今は違う。田川はジロジロと頭から爪先まで舐めるような視線を浴びせている。村山は寒気が悪寒に変わったのをはっきりと感じた。
けれど体格でも腕力でも上回る田川から逃れることはできない。
田川は女のように胸を鷲掴みにし、乱暴に力を込めた。
「っ、やめ…っやめろ!」
「こがな細い腕で何ができるがよ。ええき、されるがままになっちょけ」
「さ、触るな!やめんか!」
田川は逃れようと暴れる村山を仰向けに押し倒した。
不運にも湯槽にいたのは田川だけだったらしく、村山の悲鳴は虚しく響くだけだ。入り口にいた老婆も耳が遠そうだったので異変に気がつかないだろう。
田川は村山の両腕を背後で掴み、自由を奪う。そして耳元で囁いた。
「土佐では珍しゅうない。むしろ一人前になるための儀式や」
「俺は…っ、土佐もんじゃねぇ!」
「男ばっかりでむさ苦しいろう。溜まっちゅーんだ、手伝え」
「誰が…!」
村山は口では応戦できたが、実際は自分よりも一回り以上大きな体格の田川に完全に組み敷かれ、腕の自由もなく、逃げ場がなかった。そしてまた経験もなかった。
「ここは女のようにええ塩梅や」
顔を見なくとも田川のにやけた顔が目に浮かんだ。
(俺はどうなるんじゃ…っ?)
寒気から悪寒になった身体の拒否反応が、やがて動悸に変わる。田川が乱雑に触れる場所全てがまるで自分のものではなくなったかのように、感覚を失う。
「あっ…、あ、あぁ…いやだ…」
自然に漏れる声さえも自分のものだと思えなかった。ただ、後ろから被さった田川の身体が重石のようだ。
目がチカチカする。けれど熱い。
(駄目だ…意識が…)
村山はそのまま目を閉じた。


熱いと思っていた体が、いつのまにか涼しい風に包まれていた。誰かが団扇で仰いでくれているような…。
「あ…あ、れ…?」
村山が目を覚ますと、
「起きたんか?」
と目の前に水野の顔が視界に入った。村山はハッと意識が鮮明になり、身体を起こした。
「ここは…!」
「落ち着け、ここは銭湯の婆さんに借りた部屋や」
「…銭湯…」
その言葉にゾクっと体が震えた。目の前に田川が現れて何が何やらわからないうちに組み敷かれ、意識を失った。やけに濃い湯気とその熱さにやられたのだろう。
「た、田川は…」
「…やっぱりそうか。湯から出てきた田川からなんや嫌な視線を感じたから、慌てて洗い場に入ったら…村山君が倒れてたんや」
「お、俺は…」
(俺は田川に…襲われたのか?)
困惑と怒りと…恐怖で身体が震えた。けれどそれを水野に気づかれたくなくて必死に平気を装い拳を握って隠した。
「たぶん未遂やけどな、誰かが来たのに気づいて急いで出てきたようやったし…」
「…未遂でも…な、情けないな。あねーな奴にあっさり押し倒されて意識失うて…ほんと、情けない…」
「村山君、無理をするな」
村山が強がっていることに水野はすぐに気がついた。村山を引き寄せて抱きしめ「俺が悪かった」と謝ったのだ。
「な、なんで…お前が」
「俺が村山君に先に行けと言うたやろ。そもそも湯屋に遅れなきゃこんなことにはならなかった。それに…田川がそういう意味でお前にちょっかい出してるのには気づいてたんや」
「そ、そうなんか?」
「君に忠告しておくべきやった」
水野は強く村山を抱きしめた。彼もまた小柄な村山よりは良い体躯をしているが、田川のような恐ろしさはなく、包み込まれるような抱擁とふわふわの長い髪が鼻をくすぐって何だか心地が良い。
(それにええ匂いがするし落ち着くな…)
「村山君」
「あ、ああ…!」
村山は慌てて水野と距離を取った。男同士どころか誰かと抱き合う経験が少ないせいで、村山はぎこちない。
しかし水野は真剣な面持ちで村山を見つめていた。
「な…なに?」
「自覚はないかもしれへんけど、君は小柄やし色白で目ぇも大きくて可愛らしい。村山君は自分が長州ものやから浮いてるって思うてるかもしれへんけど、実際はそうやない。皆、君を気にしてるんや」
「は、はあ?」
水野が話すことが、村山にとって自分の話だとは思えなかった。確かに小柄で童顔でいつも揶揄われていたが、可愛いと言われたことなどなく、水野と違い自分の容姿に自信を持ったことなど一度もない。それ故に男色の標的になるなんて想像したこともなかったのだ。
水野は続けた。
「土佐は男同士で関係を持つのが習慣みたいなところがあってな…だから田川みたいな考えのやつが少なからずおるし、君はまた餌食になるかもしれへん。そんなん嫌やろ?」
「も、もちろんじゃ!」
慰み者になるなどとんでもない、と声を上げる。すると水野が「よし」と村山の手を握った。
「せやったら、俺の念者、ゆうことにしとこ」
「…は?」
「知ってるやろうけど、俺は中岡隊長とは懇意にさけてもろうてる。せやから土佐や水戸も俺には手出しせん…村山君が俺の念者となれば君も安全や」
「それは…」
村山は困惑した。目の前の水野はいつもの飄々とした様子がなく真摯だ。まるで何の魂胆もない親切心のように見えるが、しかし彼は御陵衛士の間者であり、村山とは敵対する間柄だ。
けれど田川に襲われた時の恐ろしさがまだ身体に残っているのも事実だ。
(仮の念者なら…問題ないんか…?)
「ふ、ふりなら良い…けど、良いの?」
「ええよ。何なら本当の念者になってくれてもええけど」
「は?」
「冗談や。さあ、帰って囲碁でもしよか」
水野はふふっと笑った。その笑みを見ただけで不思議と村山の心は晴れていく。それはまるで
(開けた空を見た気分じゃ…)










722


土方な頭を抱えていた。
(よりによって念者だと…?)
真面目で素直な村山は現状について包み隠さず報告してきた。距離を置くべきだと忠告したにも関わらず、仮とはいえ念者の関係になってしまうなんて。
(人選を間違えたか…?)
村山は新撰組在籍時から長州出身であるために周囲から浮いていたが、任務には熱心で真面目だった。その熱心さが仇になってしまったような結果は、土方にも予想がつかなかった。
「もう今更だな…」
幸いにも村山は期待通りに仕事をきっちりとこなし、陸援隊が取り入れている洋式の訓練の報告は土方にも興味深い内容だった。このまま水野が村山を間者だと気づかないことを祈るばかりだ。


村山にも予想外の出来事だった。
長州出身であるが故に、田川以外にも事あるごとに揶揄われてきたのだが、いまではそのたびに水野が「俺の念者だから虐めないでやって」と間に入って口添えするようになり、すっかりその扱いとなってしまった。田川には恨みがましく睨まれ、他の者からは色眼鏡で見られ…『長州者』と指をさされていた時よりもすっかり目立つようになってしまった。
(これは悪手だったような気がする…)
と気がついた時には囲碁と同じですでに時遅し、一度は水野のおかげで溶け込んだものの、また彼のおかげで村山は孤立してしまった。
挙句。
「…またか…」
念者だと広まってから露骨な嫌がらせを受けるようになった。行李のなかを荒らされるのは日常茶飯事、羽織は泥だらけで投げられ、書物は落書きをされたたうえにビリビリに破られる。村山はそれを誰がやったのかということは気にしなかった。この狭い陸援隊の中で衆道関係を持つことを厭う者も少なからずいるだろうし、これが村山に目をつけていた田川のような土佐者の仕業だとしたら探すのも億劫だ。
こんな仕打ちを毎日繰り返されては、常人なら心が折れて脱隊を願い出るところだろうが、村山にはその考えすらなかった。新撰組の間者としての使命を全うする責務を感じていたし、こんな風に虐げられることには慣れていた。
(故郷では村八分は当たり前じゃったし…)
村山の父もまた幕府に恭順すべしと口にした。たった一藩で異国に対峙するよりも幕府や他藩と手を取り国を守るべきだと主張し、疎まれたのだ。父のそれは前線に立つ兵の命を慮っての発言だったが、結局は『異端者』の扱いを受け家族は日々嫌がらせされることになってしまった。しかし父の気風が受け継がれたのか村山自身も父の考えに同意したので父を恨むことはなかった。
そんな風に生きてきたのでこれくらいの嫌がらせなど可愛いものだ。
村山は行李を片付けて、泥まみれになった羽織を洗う。ご丁寧にも隅々まで汚れ、ほつれている部分もあった。
「これは酷いなぁ」
洗濯板で洗っていると、元凶である水野がやってきた。
「派手にすっ転んだか?」
「…そうじゃ、ものの見事にな」
村山は自分の受けている嫌がらせについて水野には話すつもりはなかった。彼は好意で念者ということにしてくれているのだし、実際あれから田川や他の者から接触されることも、身の危険を感じることもない。
水野は「どれ?」と村山の後ろにまわり覗き込むようにした。けれどそうした途端、村山の身体がぞくっと震えた。…先日の出来事を身体は覚えていたのだ。
目敏い水野はすぐに気がついて、後ろではなく隣に腰を下ろした。
「悪い」
「いや…平気じゃ」
水野は村山の返答を聞くと、洗濯板に手を伸ばし手伝いをはじめた。
彼はあれからいっそう優しく接するようになった。二人でいる時は碁盤を囲み、食事を共にし、銭湯も厠もついてくる。流石に厠はやめてくれと拒んだが念者というよりも、まるで幼子を見守る母のようだ。
「ここ、破けてるなぁ」
「そんなん繕えばええ」
「新しいのを買うたらどうや?近くの質屋にええのが流れたで」
「じゃけど買うたところで…」
どうせまた汚され、破られる。そう言いかけたが口をつぐんだ。
嫌がらせを受けていることに水野が気がついているかどうかはわからないが、知ったら彼が気にするだろう。
(また自分のせいじゃって言われるのは…なんとなく、見とうない)
水野は銭湯で目覚めた村山を抱きしめて謝った。他人のことなのに自分を責めて親身になってくれたからこそ、またあんな風に謝られるのは嫌だったのだ。
「なんや?買えへんのか?金貸したろうか?」
「…繕えばまだ着れるし」
「そうかぁ?まあ、村山君は繕い物が得意やもんな」
「俺は物を大切にするんじゃ」
ハハハ、と笑った水野に、水戸の隊士がやってきた。
「おい水野、今日は掃除当番だぞ」
「ああ、そうやった。じゃあ村山君、あとでな」
「はいはい」
呼びにきた水戸の隊士はチラリと村山を意味深に見た後に水野と共に去っていった。その視線の意味は明らかで、村山は深くため息をつく。
(水野は気にならんのじゃろうか…)
念者だと言いふらして、これまで以上に土佐に敵を作ったが彼は相変わらず飄々としている。
(変なやつじゃなぁ…)


そうしていると夕方、突然雨が降った。まさに夕立と言える強い雨で、村山は慌てて昼間懸命に洗った羽織を取り込みに走る。
しかし先客がいた。その男は村山の羽織を物干し竿から引き抜くと、そのまま早々にできた水溜りに叩きつけたのだ。綺麗に汚れが落ちたのに、当然雨に濡れて泥まみれになってしまう。
流石に目の前で嫌がらせを目撃し、村山は黙ってはいられない。
「なにしよる!!」
「!」
怒鳴り、その男の後ろ姿から肩を掴んで詰め寄った。しかし相手は土佐ではなく話したこともない水戸の若い隊士だったのだ。童顔で細身で気弱そうな…てっきり田川に便乗する者の仕業だと思っていたので拍子抜けしたのだが、彼は村山を見た途端カッと目を見開いて負けじと威嚇した。
「お前は…」
「おめが水野さんの念者だなんて僕は認めない!」
「は、はぁ?」
一体どんな罵倒を浴びるのかと思いきや、彼は涙目になって頰を紅潮させてまだ続けた。
「自分だけが特別だど思ってるなら大間違いだ!僕以外にも自分が水野さんの念者だと思ってるものはたくさんいるし、おめだってその一人にすぎないんだ!」
「…えっと…」
「とにかく!長州者が調子に乗るな!」
彼は最後に吐き捨てて村山を押して逃げるように走っていった。聞き慣れた捨て台詞は耳に入らず村山は呆然と立ち尽くす。
(田川たちの嫌がらせじゃないのか…)
てっきり田川の逆恨みだと思っていたが、そうではなく彼の嫉妬だった。そう考えるとそれまで無害だった隊士たちから、どこか憎々しいような憤りを込めた視線を向けられていて、村山はそれを『男色嫌い』から来るものだと勝手に思っていたがその逆の『嫉妬心』だったのだ。
村山は身体の力が抜けてフラフラと雨の降る庭に降りて、グジャグジャに汚れた羽織を拾った。せっかく綺麗にしたのが一瞬で台無しだ。
「…また、洗わなきゃ…」
平気だと思っていたいのに、なぜか心が挫けていた。
(水野は親切心でああゆうてくれただけ…)
男に襲われた自分に同情して、罪悪感があって、ふりをしているだけだ。
「村山君」
「!」
「また派手に汚れてしもうたなぁ」
彼はいつからそこにいたのだろう。でもその悠然とした佇まいを見ると、やりとりを聞いていたのだろう。
村山は庭から縁側に上がり、雨を払った。
「水野君は…他に好きな男がおるんじゃないのか?もしくはさっきみたいに君を好きな男も…」
「…」
「じゃったら悪いけぇ、もう念者のふりなんてせんでええよ」
心の動揺とは裏腹に、言葉は淡々と響いた。他のどんな感情よりも水野に心を見透かされるのは絶対に嫌だと思っていたのだ。
すると水野はしばらく黙った後に
「まったく、お喋りやなぁ…」
と雨でうねる髪を払いつつ、続けた。
「村山君、俺かてここじゃ除け者や。最初は居心地が悪いことこの上なかった…それ故に、色んな手を尽くしたが…結局は、抱いたら良かったんや」
「だ…」
「君にはできへんやろうけどな、俺にはできる。あれ以外にも何人か抱いてやったら、少し便利になったんや」
「…」
村山は言葉を失った。けれど雨の湿気がまとい気怠げで少し面倒そうにしている姿が、どんなふうに抱くのか…そんなことを想像してしまった。そのせいで顔が真っ赤になってしまった。
「…村山君?」
「な、なんでもない!」
村山は汚れた羽織を水野に押し付けて駆け出した。彼の前で何を言ったら良いのかわからなかったが、一つだけ確かなことがあった。
(俺はあいつらとは違う…!違うはずじゃ!)
水野どころではない、自分すら一体何を考えているのか…村山にはわからなかった。






723


翌日。
碁盤の向こうに座る水野は、村山の様子を窺っていた。
「…村山君、昨日君に押し付けられた羽織は今日の良い天気できっと乾いているんやないかな」
「…」
「それから君に嫌がらせをしてる奴らには一言言うておいたから、安心してな」
「…」
「村山君…怒ってるんか?」
水野に問いかけられ、村山はパチン!と碁石を目的の場所に打ちつけた。
「…『奴ら』ってことは、何人もおるんか?」
村山は水野を見据えて尋ねた。傍目には睨みつけているように見えたかもしれないが、水野は気にせず「うーん」と指を折数える。片手だったものが両手になって
「七、八、…十人かな。いや、もうちょい…」
「…」
水野は恥ずかしげもなく答えるので、村山は絶句した。
昨日、あまりの事態に混乱しつつ一晩考えて(水野の言う通り仕方なかったんじゃろう)と同じ除け者として気苦労があるのは理解していたため、同情を込めて彼のことを理解しようと思ったのだが、それでは色欲に塗れた痴れ者ではないか!
そういった経験の少ない村山はたちまち顔を真っ赤に染めて視線を逸らした。
しかし水野はそれを大事とも思わない表情で碁石を指先で弄ぶ。
「純朴な村山君に呆れられるのは仕方ないけど、俺だけ責められるのは心外やなぁ。あいつらは俺が隊長と懇意なのを知ってて近づいて来たのに」
「そ…そうなんか」
「なかには本気になったのもおるけど」
「…」
水野は黒の碁石をさして、「どうぞ」と村山を見つめた。日中から穏やかで人目を惹く容姿を持つ彼と碁盤を挟んだ近距離で顔を合わせている…それはもしかしたら本気になった彼等にとって羨ましくて仕方ない光景なのかもしれない。
水野はフフ、と微笑した。
「でも、村山君に怒られたしあんな陰湿な行動を起こされちゃ面倒やから、全部切ってきたわ」
「…切ってきたって?」
「もう終わりなーって」
「は…」
村山は碁石をポロリと落とした。
「なに?」
「お、俺とは仮じゃろ?そんな…本気の奴が可哀想じゃねえか」
「沢山関係を持ってたら君が俺の念者ゆうても説得力がないやろ?それに俺は本気やないし、可哀想なのはほんまの念者やないのに嫌がらせ受けてた君の方や」
「…は…」
村山は言葉が紡げなかった。水野はごく自然な理屈でこれまでの関係を切って村山の念者として振る舞う、ということらしい。理屈が正しくともそうはいかないのが人間関係というものだが水野にはその躊躇いがないらしい。
「なんで、そこまで…」
「…大事な囲碁仲間の為や」
村山はぼんやりしたまま碁石を置く。難しい局面だったはずだが頭は真っ白だ。
目の前の水野は盤面に視線を落とし、「うーん」と頬杖をつきながら考え込み始めた。そこに生ぬるい風が吹いて彼の髪が靡く。
(全部切ったって、その恨みは全部俺に向くってことじゃ…)
不意にその懸念が過ぎったが、何故だか不安は感じなかった。水野が彼等に言い聞かせたというのならそうなのだろうし、理由はどうであれ仮の念者であるだけなのに居心地の良い環境を捨ててまで村山の立場を守ろうとしてくれたのは確かなのだ。
(お前は御陵衛士の間者で…俺は敵対する新撰組の間者なのに)
彼の友人としての誠意を見て、何故だかとても自分が不誠実なような気がして胸が痛んだ。
「村山君」
「な…なに?」
「勝負がついたら出かけよか。今日はもう訓練もないし」
「…なんで?」
水野は「ふっ」と少し噴き出しながら次の一手を繰り出した。絶妙な場所に置かれた黒の碁石よりも村山は水野の返答が気になっていた。
すると彼は小声で
「村山君は女子と懇ろになったことはないんか?」
と尋ねてきた。村山は「…なくはない」と答えたが実のところそれは思春期の話で、子供のままごとのような出来事だ。それを素直に水野に白状するのは憚られたのだが、そんな躊躇いは彼には見破られていたようだ。
「念者というからにはこうやって囲碁ばかりしているわけにはいくまい。二人きりで出かけよてゆうてるんや」
「あ…ああ、そうか…わかった」
村山は内心動揺しつつ、頷いた。


陸援隊の拠点である土佐白河藩邸は賑わう街から少し離れた静かな場所にある。土佐藩の本拠地である藩邸は祇園に程近い場所にあり、不便な白河藩邸は長らく空いていたそうだ。
その静かな場所からさらに北へとぶらぶらと歩く。
「村山君はこの先に行ったことがあるか?」
「ないよ。そもそも都にきてすぐ…」
新撰組に入隊してずっと忙しかったし、この辺りも管轄外で足を踏み入れたことすらない。
…と、答えるわけにはいかない。
「…陸援隊に入って大してどこにも行ってない」
「そうか、それは可哀想にな。せやったらついてきてな」
水野が目的地を持って歩き出したので村山はそれについて行くことにした。
今日は日差しが和らぎ、季節の変わり目を感じる天気だった。まだこめかみあたりにじんわりと汗をかくが、それでも涼しい風がすぐに乾かしてくれる。
水野は鼻歌混じりに歩き、上機嫌な様子なので
「一つ聞いても?」
と村山が切り出した。
「なに?村山君の質問ならなんでも答えるで」
「いつも中岡隊長と親しくしているじゃろう?なんの話を?」
「ああ…」
世間話のような気軽さで尋ねたつもりだったが、水野はもっとラフな雑談を望んでいたのだろう。しかしそれでも答えてくれた。
「中岡隊長とは…縁があって可愛がってもろうてるんや。話ゆうても大したことやのうて…土佐はいつ戦を仕掛けるんやとか、そういう話や」
「大した話じゃないか!」
村山は身を乗り出すように水野の話に興味を持つ。陸援隊に参加したものの土佐動向については大した情報が掴めないままだったのだ。
水野は苦笑した。
「なんや、村山君はこういう話興味があるんか?」
「あ、あるに決まってる!そうじゃなきゃ陸援隊に入るものか!」
「まあ確かにな。…中岡隊長は武力による蜂起が必要やと固い決意を持って陸援隊を作った。せやけど土佐のご隠居は徳川宗家への恩顧を忘れられず、戦には慎重らしい。中岡隊長は強く訴えておられるが……まあ、そう近くない日に陸援隊が前線に立つ日が来るやろな」
「…そうか」
水野が語ったのは村山も承知の内容だった。中岡慎太郎は武力による変革を必要と訴えているが、土佐は穏便に幕府へ大政奉還を進めようとしている。
新撰組や幕臣は大政奉還を阻止したいと考えているが、村山は長州で混乱した情勢を見守ってきたせいか『幕府に国を治める力がない』ことはよくよく理解していた。そのため大政奉還が為っても仕方ないと思っていた。
水野はこれ以上追及されたくないと思ったのか、
「村山君は尊王攘夷を志して陸援隊に?」
と露骨に話を変えた。その質問に対する答えは誰から尋ねられても良いように準備している。
「…そうじゃ。故郷のやり方は肌に合わんかった。噂で中岡隊長のお人柄を聞いてここなら、と思うたんや」
「確かに隊長は少々気が短いが懐が深い。そして大胆で豪胆や」
ハハ、と笑っていた水野は「ここや」と西へ曲がり緩やかな坂を登り始めた。ますます静かになっていきそのうちがサヤサヤと音を立て風によって揺れる竹林が見えてきた。真っ直ぐ天へ伸びる竹林は青々として見上げても頂上まで見えないほど高い。
村山は自然と足を止めて空高く続く竹を見つめていた。竹林なんてどこにでもあるはずなのに、ここには全く違う空気が流れていて何故か見惚れてしまったのだ。
「…村山君」
「あ、ごめん、つい…」
「いや、俺も初めてここにした時はそうしてた」
水野は少し嬉しそうに微笑んだ。そして坂の先を指差す。
「この先には、有名な画家さんの庵みたいなのがあるんやけど」
「いや…ここで十分じゃ。むしろかしこまった場所じゃのうて落ち着く」
「俺もそう思った。村山君とは気が合うなぁ」
水野と村山は並んでしばらく竹林をぼんやりと眺めた。
風によって撓っても、必ず真っ直ぐ立つ。他と交わらずそこに在り、整然と並ぶ。
「村山君をここに連れてきたんは、きっと気にいるだろうと思ったんや」
「…なんで?」
「君は陸援隊に入隊した時から人とは目が違ってた。なんてゆうか…活力に満ちて、この竹みたいに真っ直ぐで、凛々しくて…いまも澱みがない」
前触れなく水野がそんなことを言うので、村山はなんだか恥ずかしくなって「そうかな」と自分の瞼を揉んでみる。昔、故郷で村八分にされていた頃は「生意気」「睨んでいる」と散々言われていたので褒められ慣れていない。
「君みたいな人に見つめられたら、みんな意識してしまうんや。ちょっかい出してきた田川や水戸の隊士も…どういう感情であれ、君にとらわれて見過ごすことができなかったんやと思う」
「…」
村山は竹林から水野へ視線を移した。
彼は揶揄っている様子はなく、過剰な賞賛でもなく心から思ったことを口にしているように見えた。
(俺はこの男がようわからんけど…いま嘘をついていないのがわかる。わかるからこそ…どう答えたらええのか、わからん)
「み…水野君だって、この竹みたいじゃ」
「え?」
「ほら、しなやかで、吹いてきた風に身を任せられる。…俺は確かに融通きかんところがあるから、故郷でも浮いてたし土佐や水戸とも仲良くなれん。けど君は違う、器用に生きられる」
この美しい竹林のようだ、と互いが互いのことを褒める。それがなんだが可笑しくて二人は顔を見合わせて笑った。
「…ふふ、じゃあ俺たちは二人ともおんなじか」
「はは、そうかも」
くだらない会話だとわかっていた。けれどそのどうでも良い雑談を交わすことができる相手が初めてで、村山はただそれだけで十分だったのに。
無性に切なくなる。
(なんで君は御陵衛士の間者なんじゃ…)
どれだけ距離が縮まっても、二人の立つ場所は異なり、その場所を離れれば必ず奈落に落ちる。
そのことを知っているのは村山だけで、水野は何も知らない。不公平だが、本当のことを告げたら何もかもを失う。
「村山君?」
「…あ、あぁ。なんでも…」
何でもない、という言葉は突然の彼からの口付けによって塞がれた。無防備な唇が彼のそれによって重なった時、村山は不思議な感覚に陥った。
(君はそこにいるんじゃな)
触れそうで触れられない。近そうで近くない。
彼と一緒にいてもとても遠い場所にいる気がしていたのに。
…村山は何故だか目を閉じた。目を閉じてより感覚を研ぎ澄ますことで、一層彼のことを知りたいと思ってしまったのだ。
さやさやと風が流れていった。








724


伊東が九州から月真院に戻った。
「おかえりなさい!」
「先生、お待ちしておりました!」
歓待で待ち受けた衛士たちを伊東は丁寧に労った。
伊東は同行した新井とともに大宰府、下関と周り多くの倒幕派と面会を果たしていて、満ち足りた表情で旅の詳細を語った。
「薩摩や長州は刻々と兵を都へ差し向けている。特に薩摩兵は備後あたりまで兵を進めているようだ。倒幕の狼煙が上がるのも近い」
伊東の言葉にワッと衛士たちは活気付き、さらに話を聞かせてくれと沸いたが、
「実はすぐに尾張へ向かう用事があるんだ。皆んなにはまだ留守を頼む」
と言うことで早々に次の出立の準備に取り掛かることになった。
内海は長い旅路で増えた荷物を解き、新たに尾張への準備を手伝う。
「ご無事で何よりでした…しかし、何故尾張に?」
「下関に寄った時に尾張の慶勝様へ上京の周旋を頼まれたんだ。公武合体派だった慶勝様は、今は一橋慶喜に反旗を翻し、倒幕派へ靡いているらしい」
「御三家の尾張が倒幕に回るとなれば、大きな打撃になるでしょう」
「ああ。風向きも変わる…だが慶勝様は慎重な御方だ」
内海が思っていた以上に大仕事だ。伊東が数回の西国遊説で信頼を勝ち得た証拠なのだろう、彼自身も活力に漲り、長い旅を終えたばかりだというのに疲れた様子はない。
「失礼します」
準備を進めていたところにやってきたのは斉藤だった。伊東は「君か」と顔を綻ばせた。
「話を聞きたかったんだ。内海に頼まれて、陸援隊に入隊させた橋本君のことを調べてくれたのだろう?軍備を整えながらも、容堂公は大政奉還を進めていると噂に聞くが、彼からはあまり知らせがないらしいね」
「その件ですが、もう少し様子を見たほうが良いかと」
「どういうことです?」
内海は厳しい表情で斉藤に問い詰めた。彼が斉藤にだけ敵意を向けるのはいつものことなのでもう慣れた。
「橋本は間者としては上出来です。御陵衛士としての橋本皆助の姿はどこにもなく、全く違う人物として陸援隊に潜んでいます」
「へえ、君にそこまで言わせるとはね。突出した印象がなかった橋本君に間者の才能があったのか」
伊東も真面目で根暗な橋本の印象しかないようで驚いていた。斉藤はひとまずいま彼がどのような人物になりきっているのかは置いておくことにする。
「彼は伊東先生へ忠誠を誓っており、先生が九州からお戻りになるのを待って情報を伝えるつもりだったようです。先生が帰ったと伝えればまた有用な知らせが来るでしょう」
「そうか。だったら彼によろしく伝えておいてくれ。尾張はそう長い旅路にはならないはずだ」
「わかりました」
内海は少し納得できない表情だったが、伊東は気分を害した様子はなかった。
斉藤の前で橋本は居残りの御陵衛士へ情報を流すつもりはないと言い切り、不遜な態度だったのだが、彼のいうことにも一理あるし余計な火種を起こしても仕方ない、不必要な言葉を取り除いて伝言したのだ。
用件を終えた斉藤は部屋を去っていく。
「…内海、いい加減斉藤君のことを不必要に警戒するのはやめたらどうだ?」
「そういうわけには」
「彼はこちらの期待に応え続けている。優秀な同志だよ」
「…」
内海は同意することができなかったが、斉藤を疑う明確な理由を示すこともできなかった。
伊東は「よし」と準備を終えて内海が差し出した茶を飲んだ。
「新井君は大坂からの航路に詳しかったが、尾張方面はさっぱりだそうだ。同行者は他の者にしようと思う」
「それが良いと思います」
「内海、一緒に行くか?」
「…いいえ、私は…都に残り、御陵衛士たちをまとめる方が性に合っています」 
内海は躊躇いながら誘いを拒んだ。すると伊東は苦笑した。
「なんだ、練習しなかったのか?」
「…」
九州への出立の前、伊東は内海に敬語を止めるように言い残していた。もともと親しい友人であり、御陵衛士としても平等な同志だ。それに離縁によって道場主と門人という間柄すらなくなったのだから、友人に戻るのが相応しい。
しかし内海は難しい顔をした。
「…考えましたが、やはり…このままで良いのではないですか?大蔵さんは御陵衛士を束ねる立場ですし、皆がどう思うか…」
「では皆がいないところなら良いだろう?」
「…」
内海は口を閉ざした。
自分ができないことは口にはしない…内海らしい反応だが、伊東の期待に応えるものではなかった。
伊東は
「…もう良い。尾張へは他の者を連れて行く」
と冷たく話を切り上げようとしたのだが、内海は 
「でしたら…鈴木君はいかがですか?」
「何故?」
愚鈍な弟の名前を出され、さらに剣幕が鋭くなる。しかし内海は食い下がった。
「大蔵さんがおかえりになるまでの間、彼は誰に言われるでもなく熱心に周囲の警邏に努めていました。貴方の弟であるかどうかは関係なく、働きは認めるべきです」
「…わかった。お前がそういうのなら連れて行く。あれにも伝えておいてくれ」
伊東は当てつけのような気持ちで、その提案を了承した。いつになく突き放した言い方をしたので内海も居心地の悪さを感じたのか「わかりました」と去って行く。
その足音が聞こえなくなって、伊東はため息をついた。
(なかなか上手くいかないものだな…)
伊東は荷物の中に仕舞い込んでいた『回天詩史』を取り出した。旅中に何度か読み返したが若き日の青春の情熱と記憶が蘇ってくるようで、とても懐かしく、遠い昔の出来事のような気がしていた。
簡単には戻れない。わかっていたはずなのにまたあの頃のように向き合いたかった。
(お前はそうではないのだろうか…)
彼にとっては忘れたい過去なのだろうか。


総司が巡察から戻ると、近藤と土方が話し込んでいるところだった。難しい話かと思い出直そうとしたのだが、「もう終わったから」と近藤に手招きされたので中に入って膝を折った。
「巡察は滞りなく終わりました」
「そうか。ちょうど歳が留守の間の話をしていたんだ」
「明後日出立する」
井上は先に江戸に向かい、入隊希望者を吟味しているがやはり一人では忙しく新撰組としても迅速に隊士を増やす必要があったので土方も向かうのだという。
近藤は腕を組む。
「今、歳が京を離れるのも気がかりだが…ついに戦になると話が広がって西国から兵が集まりつつあると聞く。幕臣としてはやはり大政奉還を避けたいと思うが、すべては公方様がどう判断されるのか、それ次第だ…俺たちはいつ戦が起きても良いように準備を怠らないようにせねばならん。まずは兵力だ」
「わかってます。まずは隊士の数を増やさなければお役に立てません」
総司の返答に、近藤は大きく頷いた。
「後藤象二郎殿には会えたのか?」
「いや…」
土方が尋ねると近藤は苦い顔をした。
土佐藩の大物である後藤象二郎に面会を果たしてから、近藤は何度か彼の元を訪ねているがいつも「不在だった」と肩を落として帰っていた。
「お身体の具合が悪いとか、都合が付かぬとか、留守だとか…とにかく何かと理由があってお会いできぬ。後藤殿は大政奉還を進めている当事者だ、永井様が繋いでくださったご縁ゆえぜひお話をお聞きしたいと思っているのだが…」
近藤は会えないことが甚だ残念だと思っているようだ。
総司ですら
(それは避けられているということでは…)
と思い至り土方へ視線を向けたのだが、彼は首を横に振って(何もいうな)と言わんばかりだった。
「歳が出立したらますます忙しくなる。総司も心しておいてくれよ」
「わかりました」
その後、明日は非番なので総司は土方と共に別宅へ向かった。日は暮れて互いの持つ提灯の明かりを頼りに歩くのだが、
「あ、月がよく見えますよ」
総司は雲ひとつかからない見事な満月を指差した。星が霞むほど明るくて眩しいため、提灯は不要だったかもしれない。
「総司、ひとつ頼みがあるんだが」
「何ですか?」
「留守の間、何かあってもなくても文を出してくれ」
「…一番苦手なことを」
総司は思わず茶化して笑ったが、土方は真面目だ。
「政局の難しい話は近藤先生が知らせてくるだろうが、お前から見た隊の様子を教えて欲しい。今はどんな綻びも見逃せない」
「…わかりました、そういうことなら努力します」
「それに…文が届けば、お前が無事だとわかる」
土方は堅い口調のままだったが、彼の言いたかったことは後者なのだろう。
(まったく…格好付けな人だなぁ)
総司はなんだか可笑しくなって、返事の代わりに彼の空いている片方の手を握った。指先を絡ませると彼も同じようにして強く握り返す。
寂しい、とは言わなかった。
これ以上彼の足を引っ張るのは嫌だったし、自分もその言霊に引き摺られそうだったから。
淡い月明かりで照らされた道をいく。二つの影が寄り添って並んでいた。











725

「いってらっしゃい」
なんて事のない普段の日常のように、総司は江戸へ向かう土方を見送った。仰々しい見送りは苦手だと言うので、早朝に出かけて行く姿を近藤と共に二人で見送る。
離れ離れになる寂しさはあったが、これが永遠の別れではないとわかっていたし、そうしなければならないという気持ちの方が大きかった。
「…さて、俺は朝の調練に行ってくるぞ」
「え?先生自らですか?」
「歳がいると嫌な顔をするからな。ここのところ鈍っているし、久しぶりに隊士に稽古をつけてやる」
「はは、みんな喜びます」
「ああ。総司はどうする?」
「…私も先生に稽古をつけていただきたいです。無理はしませんから」
「わかった」
二人は頷きあって、「あとでな」と自室に戻っていく。
総司は一人残されてもう土方が去って見えなくなってしまったのに、その姿を探すように目を細めた。
残暑は長引いているが、朝夕は秋の風が吹いている。
(僕はあと何度、季節を移り目を感じられるのだろう)
ふとそんなことを考えたのは、やはり寂しさがまさったからなのだろうか。



同じ頃、月真院を出立した鈴木は先を歩く兄の後ろ姿を見ていた。
伊東は九州から戻るやすぐに尾張に旅立つこととなり、その同行者に鈴木が指名された。兄はその理由について語らなかったが、片腕の内海から
『君の働きを認めているからですよ』
と励まされた。普段は伊東と親友である内海のことを疎ましく思う鈴木であったが、その時ばかりは内心喜んだ。そして他の衛士たちも
(兄弟の確執がようやく雪解けか!)
と期待して二人の尾張行きを見送ってくれた。
しかし見送りの時こそ穏やかに微笑んでいた伊東だが、鈴木と二人きりになった途端表情はいつもの冷たいそれになってしまい、話すことも並んで歩くこともなかった。
中山道を歩き、琵琶湖を通り過ぎた頃、雨が降り始めた。空を見上げると雲行きが怪しくにわか雨では済まなさそうだ。
「…兄上、宿に入りましょう」
「そうだな」
短い会話を交わし、近くの宿場で足を止めた。そこで声をかけてきた飯盛女に誘われるがままに宿に入ることにする。突然の雨で客も多く一部屋借りるだけで精一杯だったのだが、
「私は部屋で本を読む。お前は好きにしろ」
伊東はそう告げてさっさと去ってしまい、鈴木が残される。兄が自分を拒んでいるのを感じていたので一緒の部屋に足を踏み入れても良いのかどうか思い悩む。
(どうしたものか…)
兄の機嫌を損ねたくはなかったが、雨は強く降って嵐に変わりつつあり野宿できそうもない。考え込んでいると
「おにいさん、遊んでく?」
客引きをしていた女中が鈴木の腕に体を密着させ甘く誘った。
「いや、俺は…」
飯盛女はその名の通り宿で食事の世話をする下女であるが、宿場町では女郎の役割も果たしている。この女中は年増ではあるが色気があって、誘うのに慣れていた。
「ほんまなら六百文なんやけど、おにいさん若いし素敵やから五百文でええよ」
「そんなつもりは」
「酒と肴もつけたるし、なぁ?」
「だから…その…」
体をより密着させ胸を強調する女中に、鈴木は困惑するが、野宿もできなければ兄の邪魔もできない。一瞬この女の誘いに乗った方が良いのかとも思ったのだが、
「失礼」
と鈴木の肩を引いたのは、戻ってきた伊東だった。
「兄上…」
「申し訳ない、弟は野暮な田舎者。到底貴方のような手練れの相手など務まりますまい。…またの機会に、是非」
伊東はそう微笑みながら女に金を握らせた。女は伊東の整った顔立ちに見惚れながらも言いようもない圧を感じたのか、
「ああん、残念やわぁ」
と言いながら金を懐に入れてあっさり引き下がり、別の客の元へ駆けて行った。
鈴木は内心ほっとしながらも手だれの女郎に言いくるめられそうになってしまったところを伊東に見られ、一層居心地が悪い。
「…兄上、申し訳ありません」
「一緒に来い」
伊東は面倒は御免だと言わんばかりに部屋に戻り、鈴木も後について入った。三畳ほどの部屋は物置のように狭い。雨宿りのために入ったとはいえ、ここは下級の宿だったようだが今更別の宿に移っても同じだろう。
「窮屈だから、朝早く出る」
「わかりました」
雨漏りしそうな頼りない屋根から、パンパンと雨粒の音が直接的に響いてくる。鈴木は邪魔をしないように身を潜めるように横になったが、伊東は一本の蝋燭の灯りを頼りに持参した本を読んでいた。まるで鈴木のことなど意識しないほど集中している。
(昔にもこの光景を見た…)
父は家老と揉め脱藩し、一家が移り住んだ先で私塾を始めた。兄は既に水戸遊学のため家を出ていたので、鈴木は不器用ながら父を手伝った。その父が亡くなり、水戸で学んでいた兄は一時的な父の代役として私塾で教鞭を取ったが、父を凌ぐ弁舌ぶりで評判を呼んだ。遊学に出る前のおとなしく優秀な兄とは違い、難しい話を優しく説き、人を導こうとする姿は鈴木にとって新鮮なものだった。
兄の帰郷により久方ぶりの家族の時間となるはずだったが、兄はそれを拒むようにこうして一人、蝋燭の明かりを頼りに本を読んでいた。兄は読み終えた本を積み上げていき、それが日に日に高くなって行く…それが自分と兄との歴然とした差のように思えた。
(兄上は遠い人になってしまった)
家というしがらみから解き放たれた兄は、まるで人生を謳歌するように自らの信じる道を切り開いて行った。
鈴木はそれを変わらぬ同じ場所から眺めていた。幼少から母の顔もわからず、義母に疎まれ続けた自分にとって『鈴木家』は唯一の居場所であり、兄が帰ってくる場所だと信じていた。
だから内海から手紙が届いて、それに飛びつくように兄が家を出ていくと言った時、
(でももう兄上は帰ってこないのだ)
とはっきりとわかった。
兄にとってこの家は不要で、むしろ足枷にしかならないのだ。そしてきっと弟という存在も同じ…。
そう思った途端、無性に哀しくなった。自分の人生とは、存在意義とは、いったいどこにあるのかーーー。
幼少の頃、気が向いた時だけだったのかもしれないが、兄は優しく接してくれた。その記憶さえもいらないと打ち捨てられるのではないか…。
「…なんだ?」
鈴木はハッと我に返った。きっと長い時間、伊東のことを見つめていたのだろう、訝しむようにしていた。
「な、なんでもありません」
「…もう消す」
伊東は蝋燭の火を吹き消した。そして鈴木に背を向けて横になった。
薄暗闇のなか、鈴木は目を閉じた。
兄が水戸に帰ると行った時、自分は置いていかれるのだと思った。幼い時から近くて遠い兄はもうどこかへ行ってしまう…そう思った時に突然自分のなかにどうしようもない独占欲が沸き上がった。兄は自分だけの兄であり、家族であり、それは一生続く…そんな身勝手な感傷に突き動かされて、忘れてほしくなくて、寝入る兄に口付けた。それが今日まで続く禍根の火種になるなんて思わずに。
(子どもだった…)
自分だけの秘密の感情にしておけば良かったのに、結局自分本位の行為は兄に気づかれてしまった。
『何も…聞きたくない。お前の言うことは、何も…!』
そう突き放して去って行った兄は、嫌悪ではなく怒りでもなく、傷ついているように見えた。そんな風に送り出してしまったのは紛れもなく自分だった。
そんな兄が自分と距離を取るのは当然で、自業自得だ。
「…兄上…」
半畳ほど向こうで眠る伊東の背中に鈴木は声をかける。それは譫言のように小さかったはずだが
「なんだ?」
とすぐに返答があった。
「…なぜ、俺を連れてきてくれたのですか?」
もう二度とこんなふうに兄弟の時間など過ごせるわけがないと覚悟していたのに。
すると伊東は少しの沈黙の後に答えた。
「内海にそうすべきだと言われたからだ。留守中の働きぶりに報いるべきだと」
「…内海さんですか…」
いつも兄に影響を与えるのは内海だ。水戸遊学で親しくなり、伊東道場への入門も同じ時期だったと聞く。兄は家族を捨てて内海を選んだ…新撰組に入ってからもずっとそう思っていた。
けれど。
「…そうしても良いと思った」
聞き間違いかと思ったがはっきりと聞こえた。
「兄上…」
「もう寝る」
暗闇のなかで衣擦れの音がして、兄が今度こそ寝るのだとわかる。話を切り上げたのはこれ以上の会話を拒んだのか、本当に眠たかったのかわからない。
けれど短い会話だったが、寝所を共にし兄弟として語らった…それは幼き頃には叶わなかった光景でもある。
(俺はずっと…こうしていたかった)
血の繋がりはないのかもしれない。同じ家に住んでも実母に可愛がられた伊東と乳母に育てられた鈴木とは住んでいる世界が違うのかもしれない。
けれどずっと、誰よりも近くにいて共に生きてきた。たとえ遠ざけられても互いの存在を感じていた。
(捨てられたくなかった)
別れの時は悲観していたけれど、今ならわかる。
いつも面倒そうで冷たそうで、決して表には出さない兄の冷酷な対応に心を痛めていたけれど、それでも見捨てはしなかった。御陵衛士として脱退する時も、新撰組に置き去りにはしなかった。
鈴木は再び目を閉じた。
狭い物置のような部屋できっと緊張して眠れないと思っていたのに、いつの間にか健やかな寝息を立てていた。










726


土方が江戸へ出立して数日後、山南の月命日を迎えた。毎月、総司は土方と共に光縁寺へ向かうのだが来られない分多めに花を買い求め、一人で向かった。
壬生に屯所があった頃よりも静かになった。それは新撰組が離れたせいかもしれないし元々は静かな場所だったのかもしれない。
壬生寺を通り過ぎ東へと曲がり、しばらく歩くと光縁寺が見えてきた。住職に挨拶して奥の墓地へと向かう…今日は何人かの隊士が顔を出すだろうとは思っていたのだが、そこに意外な人がいた。
「あ…」
少し気まずそうにしながらも「どうも」と軽く会釈したのは藤堂だった。彼は山南の墓石の周りの草抜きをしていたようだが、パンパンと手をはたいて誤魔化した。
「来ていたんですね」
総司が近づくと藤堂は頷いた。
「御陵衛士になっても山南さんが師であることに変わりはありません。…まあ、他の衛士たちの手前、隠れてこっそりですけどね」
「きっと山南さんも喜んでますよ」
「…そうだと良いんですけど」
総司は持ってきた菊を花立てに差し、線香を立てて手を合わせた。清められたように美しいと墓石は総司が手入れをする必要もないのだが、いつも手拭いで一周埃を払うのが習慣だ。その間藤堂は何も話さずにその様子を眺めていていて、立ち去ってもよかったのに総司を待っているようだった。そしてひと段落した頃にようやく言いづらそうに切り出した。
「…あの、近藤先生から聞きました。病のこと…」
「ああ…」
藤堂は言葉に迷って慎重になっているようだった。魁先生も流石にどう言葉をかけて良いかわからなかったのだろう。総司は笑った。
「安心してください、この通り元気ですし隊務も続けてますから」
「そ、そうですか。それなら良いんですけど…」
「藤堂君は少しふっくらしましたね」
藤堂は「そうなんです」と恥ずかしそうに頭をかいた。
「新撰組にいた頃みたいに巡察もないし、稽古も時折したい人が集まるだけで…。あ、でも今度伊東先生の代わりに美濃に行くことになっているんです」
「へえ、美濃に」
「美濃には行ったことがないので楽しみなんです。力になってくれそうな有力な人物がいるとかで…でも俺なんかが伊東先生の代わりになるかどうか…」
藤堂はいきいきと目を輝かせて語る。御陵衛士として脱退する時の憂いや土方へ憤り反論していた時の苛立ちなどそこにはなく、彼自身の素の姿だ。
言葉の途中で「あ」と藤堂は苦笑した。
「俺ばっかりすみません。つい山南さんの墓や沖田さんを前にすると懐かしい気持ちになっちゃって気が緩みます」
「懐かしい?」
「はい。…この頃、気持ちに余裕ができたせいか、時間を持て余しているせいか、昔のことを思い出すんです。今に不満があるわけじゃなくて、本当に深い意味はないんですけど…」
藤堂はちらりと総司の背後にある山南の墓石へと目を向けて、目を細めた。
「新撰組にいた時も、御陵衛士にいる今も、何かずっと難しいことを考えているような気がするんです。考え事をするのは得意じゃないのに…だから昔のことを考えてしまうのかも。試衛館にいた頃は何も考えていなかったし、毎日気の向くままでした」
「…」
「ここに来ると試衛館にいた時のような心地良い気持ちになります。もう山南さんはいないのに、ここで会えるような」
藤堂は本当に穏やかな顔をしていた。彼は試衛館の頃を懐かしむことで自分がその頃に戻ったような感覚になっているのだろうが、総司からすれば少し違った。
「…それは藤堂君が大人になったからじゃないですか?」
「え?」
「懐かしい、って思えるのは時間が経って、距離を置いて冷静に回想できるからです。故人を思い出して楽しかったと思えるのは良いことだと思いますよ」
「沖田さんは違うんですか?」
藤堂のなんの気ない質問に、総司は少し言葉に詰まった。
「私は…まだ懐かしいと思えない。ここに来て、いつも…藤堂君と同じように『会えた』とも思えるけれど、『もういない』とも感じる。…上手く言えないですけど、ここに『許してほしい』という気持ちで足を運んでいるような気がします」
「許して欲しい…」
二人が決定的に違うのは、山南の死の現場に立ち会ったかどうか。
藤堂は隊士募集のため不在であり、総司は自ら手を下した。山南の切腹は見事であったが介錯した総司はあの時の感触をいまだに忘れられないのだ。あの時は土方に散々心配されたのでもう口にはしないが、山南を救えなかった罪悪感を少しでも晴らすために自分本位な考えでここに通っているのだ。
藤堂は総司の言葉に少し表情を曇らせた。
「…それは、俺が責めたからですよね?」
山南の死を知った藤堂は土方を責め、総司が『自分が殺したのだ』と庇ったことがあった。けれど総司は首を横に振った。
「いえ、藤堂君に責められたからじゃありません。藤堂君が言った言葉は当時皆が思っていたことでしたから…謂れのない誹りだなんて全く思わなかったし、自分のなすべきことを為せなかったという思いは今でもあります。だから毎月私はここに来て、自省するんです」
あの時のことに想いを馳せて、少しだけ傷ついて、やりきれない気持ちになって、でもやっぱりこの道しかなかったのだと思い直し、また現実に戻っていく。
総司はそれを悪い習慣だとは思わなかったが、理解されることでもないと思っていた。案の定、藤堂は難しい顔をして腕を組んで「俺にはよくわからないけど」と前置きして続けた。
「俺に知っている山南さんなら、『そんなこと思わなくて良い』と言っていると思いますけど。俺は山南さんが何を思って切腹する道を選んだのか、今でもわからないし納得できないけれど…介錯した人を恨むはずはないし、信頼しているから最期を頼んだはずだと思いますし…だからその」
突然藤堂は総司へ向き直り、深々と頭を下げた。
「あの時はすみませんでした。沖田さんを責めるのは間違いだと、今ならわかります。だから、ずっと…謝りたかったんです」
「え…」
総司は突然のことに驚いて呆然としてしまう。
「藤堂君…」
「謝って済むことじゃないのはわかってますけど」
「いえ、そうじゃなくて。…藤堂君はこういう人だった、と思い出して…」
「…ハハ、どういう意味ですか?」
魁先生と呼ばれるほど感情に素直で、勇気があって、朗らかで…彼は常に人の輪の中にいた。誰かを憎んだり蔑むのは魁先生らしくないのだ。
「沖田先生ー!」
遠くからこちらを呼ぶ声が聞こえて、藤堂はハッと顔を隠した。今日は山南の月命日なので隊士たちもやってくるのだ。
「じゃあ俺、墓地の裏手から出ますから。お大事にしてください」
いそいそと去る藤堂に総司は自然に「また」と言った。すると彼も満面の笑みで「また!」と手を振って去って行く。その後ろ姿を見送りながら
(藤堂君にとって御陵衛士として離れたことは良いことだったのかもしれない…)
と思ったのだった。


土方は馬と駕籠を乗り継いで江戸に着き、まずは試衛館に顔を出した。
相変わらずあちこちに修繕が必要そうな道場は、道場主も門弟も姿がないせいかひっそりとしてより一層古くなったように見えた。しかし清潔さは行き届いていてそれはきっとつねのおかげだろう。
「お帰りなさいませ」
近藤の妻であるつねは深々と頭を下げて出迎えた。その傍には大きくなった娘のたまの姿もあって辿々しくもつねと同じように愛らしく頭を下げていた。
「ご無沙汰をしてます」
互いに挨拶を済ませ、近藤からの文や手土産を渡す。道場主であり夫である近藤が不在でも留守を守るつねは凛としていて、気丈だ。しかし
「大先生の具合はどうですか?」
と土方が尋ねると、表情を落とした。
「いまは義母上が付きっきりで看病しております。先日井上様がお見舞いに来られた時も朦朧として…ただ、旦那様の帰りを待ち侘びているようです」
「…申し訳ない。近藤はいま都を離れるわけにはいかないのです」
「勿論です。義父上も分かってくれているとは思います」
そうは言いつつもつねは落胆しているようだった。早速土方は「大先生に会わせて欲しい」とつねに案内を頼んだ。
試衛館でもっとも日当たりも風通しも良い静かな部屋に、周斎は横になっていた。すっかり痩せて昔稽古をつけていた頃の面影はなく老いてしまって土方は寂しさを感じる。傍にはつねの言う通り妻のふでがいた。威勢の良かったふでも少し窶れていて土方は改めて時間の流れを思い知った。
ふでは土方の顔を見るや喜んで、眠る周斎の耳元へ
「旦那様、歳さんが来ましたよ」
と耳打ちする。すると何重にも皺が寄った周斎の目がゆっくりと細く開き、しばらく土方の姿を探して彷徨った。土方は側に膝を折り「大先生」と呼ぶとようやく視線が土方へと向いた。
「…歳三か…」
「はい。都から帰ってきました」
「ご苦労…バラガキが、偉くなったんだな」
「…勝太のおかげです」
敢えて昔の名前で呼ぶと、周斎の目が輝いたように見えた。
「そう…勝太、勝太だ。全部、勝太のおかげだなぁ。試衛館は、天然理心流は…勝太のおかげで、立派になった…」
「お前様、息子は立派な幕臣ですよ」
ふでがそう励ますと、周斎はにっこりと微笑んだ。より一層皺が増える。
「…大層な、息子をもらった。出来過ぎだ、なぁ…おふで」
「はい」
ふでは深く頷いた。養子として近藤を迎えた時は冷たく厳しく接したこともあったが、今は自分の息子として深い感謝の情があるのだろう。近藤がここにいたら号泣して喜んだに違いない。
「なぁ…歳三、頼みがあるんだ」
「何でしょう」
周斎は骨のように細い手を宙に伸ばしたので、土方はそれを両手で掴んだ。その指先に力が籠る。
「勝太を頼むぞ…あれは、正直者すぎる…故に、損をする。それだけが心配だ…」
「…任せてください。俺は損得勘定は得意です」
「そうだ…お前は、腕の良い薬屋だもんな…」
フフ、と笑った周斎は安堵したように再び目を閉じて浅い眠りについた。土方は手を戻し、ふでに任せてつねとともに客間に戻った。つねは「ふふ」と口元を押さえつつ笑っていた。
「…大旦那様、今日は意識がはっきりしておられました。とても嬉しかったのでしょう」
そうしているとちょうど、「ごめんください」と玄関から声が聞こえた。







727


気を利かせたつねはたまとともに別の部屋に移り、土方は来訪した総司の姉、みつに向かい合った。
みつは土方が帰郷していることを知らなかったようでたまたま居合わせることになったのだが、それでも予感があったのか土方の顔を見ても取り乱しはしなかった。
土方は深々と頭を下げた。
「…おみつさん、申し訳ありません」
謝るべきではないし、謝って欲しいとすらみつは思っていないだろうが、土方はそうせずにはいられなかった。
「ご両親の労咳の話を耳にしていたにも関わらず…気配りが足りなかった。総司が発症を隠していたことにも気づかずに…」
「頭をお上げください」
みつの凛とした声が聞こえ、土方はゆっくりと頭を上げた。
「…労咳は血脈の病とも聞きます。総司が労咳に冒されたのは運命として決まっていたからに違いありません。もしくは私が土方様に託してしまった嫌な予感が当たってしまった…ただそういうことなのでしょう」
みつはきっぱりと土方の後悔を否定した。姉として、親代わりとして、武士の娘としての誇り高い横顔はどんなに地味な衣服に身を包んでいたとしても、何よりも強く麗しく見えた。
感情を見せずに固く引き結んだ口元を見ると総司が言っていた通り、みつは覚悟を決めて返事をしたためたのだろうのわかる。食い下がったところで無意味な禅問答になるだろうと思い、土方は「申し訳ありません」と言ってそれ以上は謝罪しなかった。
みつは表情を変えずに土方を見据えていた。
「それで…あの子からこのままお役目を続けて、新撰組に残ると伺いましたが」
「あちらでは幕府や会津の名医に診察してもらえます。こちらほど静かな環境とは言えませんが、本人の意思も固く…いまは様子を見て支障ない範囲で隊務を続けさせています」
「『支障ない』とはお役目のことですか?それとも総司の病のことですか?」
みつは土方を整然と問い詰める。総司が時々『姉は厳しかった』とぼやいていたが、なるほどこうやって叱られていたのだろうと思った。
「…どちらもです。おみつさんならご存知でしょうが、頑固な総司は自分の身体に障りを感じても、役目を果たそうとする。ですが逆に自分の役目に己自身が支障をきたすようになれば、ちゃんと自分で退くでしょう。その日まで…客観的に見て、続けさせるつもりです」
それはそう遠くない未来なのかもしれない。誰にもわからない先ばかりを想像するのは気が進まないが、江戸で待つみつにとって末弟の行く末を毎日気に病んでいるだろう。土方の曖昧な言葉は、彼女にとって満足のいく返答ではなかろうと土方は思ったのだが、
「安心しました」
とみつはようやく微笑んだ。
「武士として、きっとあの子はお役目をまっとうしたいと思っているでしょう。でも病は移るとも言われています…残ることで新撰組や近藤先生のご迷惑になってしまっては本末転倒だと危ぶんでいたのです。でも土方様は総司の想いを汲んで、見守ってくださっている…有難いことです」
みつは両手をつき、土方のように深々と頭を下げた。
「隊の重荷となっていることでしょうが、どうか武士として務めを果たさせてやってください。そして、身を引くべきだと思ったら…近藤先生から引導を渡してください。そうしたらきっと、あの子は納得します」
「…」
「私は…いつかその日が来たら、よくやったと褒めてやりますから…」
顔を伏せたみつが、ようやく泣いているような気がした。
みつは表面上の言葉では総司の選択を後押ししているが、本音は真逆なのだろう。帰ってきて欲しい、養生させて今まで離れていた分を甘やかしてやりたい…そんなふうに叫んでいる気がした。
けれど土方はなにも聞かなかった。
たとえそう思っていたとしても、凛とした眼差しで告げた言葉こそが彼女の選んだ『伝言』なのだ。総司の言う通りその選択を尊重することこそがみつを思いやるということなのだ。
「わかりました。必ず…そうします」
土方はみつと約束した。今度こそその約束を守ると誓った。
時がうつろい、ひっそりと静かになった試衛館には誰はもう誰もいない。輝かしい未来を祈ったあの日々はとっくに去り、時が経ったのだ。


伊東は浮かない顔で尾張を後にすることになった。
御三家筆頭である尾張藩は、やはり佐幕思想が強いため、『御陵衛士』の肩書では話さえさせてもらえず仕方なく『元新撰組参謀』だと名乗ると幾分か態度を軟化させた。しかし前藩主である徳川慶勝に面会することはできず、託されていた長州の野口という者からの文を託し、伝言するに留まった。実際のところ、慶勝公が現在の幕府への不信感から薩長へ靡きつつあることを臣下たちは警戒しており、伊東のように幕藩体制から帝の元での合議制を訴えるような者を会わせなかったのだ。きっと文も届かず破り捨てられるに違いない。
「このまま尾張に居ても埒が開かない。…最低限の務めは果たした、都に戻る」
「わかりました」
鈴木も同意し、来たときと同じ道を辿る。しかし伊東は歩調を緩め、少し後ろで歩いていた鈴木と並んだ。
「兄上…?」
「これを読め」
「これは…」
「藤田東湖先生の『回天詩史』だ」
「東湖先生の…」
鈴木は伊東から手渡された『回天詩史』を受け取った。伊東ほど熱心に勉学に勤しまなくとも、藤田東湖の名前を鈴木は知っていた。
「私は誦じて覚えるほど読んだ。先生の志こそが私の礎となり、その無念の死を遂げた先生のために命を賭して国のために働くことを、私と内海、そして…小四郎は誓った」
「小四郎…藤田小四郎殿ですか?」
伊東は頷いた。藤田小四郎は藤田東湖の子であり、天狗党の挙兵で処刑された。
「小四郎とは旧知の仲で私が知りうる中で一番賢く、行動力のある男だった。東湖先生の気質を継いでいて、少し気が短いところはあったが、自然と皆を従わせ…人を惹きつけるような。伊東の婿養子になった後に再会したが、そのとき小四郎は横浜鎖港のために挙兵を目指し、同志を集めていた」
「天狗党の…」
「天狗党という名前を小四郎が名乗ったわけではないが、自然とそういう風に呼ばれるようになった。小四郎は私と内海を挙兵に誘いに来たが…断った。既に藤堂くんから新撰組加入の誘いを受けていたからだ。もし藤堂くんが来ていなければ、私は小四郎との友情に駆られて天狗党に参加していただろう」
「…」
鈴木はサァッと血の気が引くような気持ちになって絶句した。それは伊東にとって人生の分岐点であり、一歩間違えれば天狗党のひとりとして処刑されていたのだ。だが伊東はそれを「幸運だった」と言いたいのではない。
「小四郎の死に際がどれほど屈辱的なものだったのか…それを思い出すだけで幕府や一橋公に対する憎しみを覚える。だが、いまは倒幕だ開国だなどと議論する暇はない。新しい政を始め、諸外国と対等に渡り合わねばこの国で戦争が起こるのだから」
「戦争…」
「その話はまた今度する。…だが、一つだけお前に言っておかなければならないと思っていた」
「…はい」
伊東は足を止めた。鈴木は本題だろう、と背筋を伸ばして兄と向き合い身構えた。
「…お前は不器用すぎる。そして愚かだ。直情的で目の前のことしか見えていない。無駄に敵を作り、周囲を信用せずに孤立するのはただ命を縮めるだけだ」
いつもの罵倒ではなく淡々と事実を並べられ、鈴木は俯いた。これまでの振る舞いはたしかに兄のいうとおり短絡的で短慮だっただろう。
「お前は人望のある小四郎とは違うが、向こう見ずなところは少し似ている」
「え?」
「だから…」
伊東はそこまで言いかけて急に口を噤んだ。そして周囲に視線を向けて警戒するように刀を抜いた。鈴木も同じように従い刀を抜いて構えた時、ガサガサッと草木が揺れて目の前に四、五人ほどの顔を隠した刺客が現れた。彼らは二人を囲み一気に斬りかかる。鈴木は刺客の正体に気取られたが、
「集中しろ!」
と伊東に一喝されて無駄な思考を止めた。そしてただ目の前に敵に集中し、兄と背中合わせになるようにして刺客に相対した。兄を傷つけられるわけにはいかない、といつにも増して剣が冴え渡り相手の急所を突くには至らずとも追い払うことができた。伊東はさらにその上をいき、二人殺して刀を鞘に戻す。
「兄上、お怪我は…!」
「ない」
「この者共は一体…」
「考えるまでもない」
伊東はそう言うと「行くぞ」と早足で歩き始めた。この場に残っていてはさらに追加の刺客に狙われる。この尾張にいる限り、身の危険があるのだ。
しかし鈴木は尋ねずにはいられなかった。
「あ、兄上…先ほどのお話の続きは…」
「…」
そんな悠長なことを言う鈴木に苛立ったのか、それとも興が削がれたのか、伊東はしばらく黙っていたが、
「兄上、このような機会はまたとありません。お聞かせください」
と鈴木が食い下がるとようやく口を開いた。
「…小四郎が死んだことを思い出すと、お前も死ぬような気がする。小四郎より愚かで単純なお前はきっと早死にする」
「は…」
「お前が私の弟であると言うのなら、お前は年長の私よりも長生きするのが当然だ。だからお前は自省し、行動を改めろ。『回天詩記』を暗記して東湖先生の辛抱強さを学べ」
伊東は「それだけだ」と話を切り上げてより早く歩き出した。
鈴木はしばらくその場に立ち尽くし、兄の言葉を頭の中で噛み砕く。
(兄上は…自分よりも長生きしろと、おっしゃった…?)
俄には信じられずに何度も反芻するが間違いない。疎まれ遠ざけられていたのに…まさか兄の方から歩み寄るなんて。そして何よりも
(俺は兄上にとって弟だったのか…)
『お前』『あれ』などと抽象的に呼ばれ存在すら疎ましく思われている自分のことなど、『弟』などと認識していないのだろうと思っていたのに。
鈴木は小さくなってしまった伊東の背中を追いかけた。
幼い頃、兄とは同じ家に住んでいながらもたまにしか会えなかった。父から身に覚えのない子だと遠慮され、母からは血の繋がらない他人だと蔑まれるのは、幼い自分には切なく寂しかったが、心の穴を埋めてくれたのは気が向いた時に遊んでくれる兄だけだった。その時間が特別嬉しかったことを覚えている。
あの時の記憶が蘇り、無性に
『兄上!』
と無邪気に呼んでみたい気がした。







728


橋本皆助が水野八郎として陸援隊に入隊した数日後、村山が同じ門を叩いた。彼は中岡慎太郎直々の招きで入隊した水野という存在と同じくらい、土佐と水戸の隊士たちに注目された。
(長州者か…)
身分出自を問わない陸援隊において、彼が長州出身であるということは足枷にはならないが、噂の的にはなる。今でこそ長州と土佐は倒幕の密約を交わすほど距離を縮めているが、数年前までは真っ向から対立する藩同士であったのだ。
そしてその見た目も浮いていた。年齢の割には童顔で小柄、漆黒の黒髪と同じ丸く大きな黒い瞳はまるで宝石のように光を放ち見ているだけで吸い込まれそうだった。そんな可愛らしい見た目をしているのに、いつも勝ち気で負けず嫌いで不器用で…まるで毛を逆立てて威嚇する子犬のような。それがまた田川のような者の歪んだ庇護欲を誘っているのだが、本人には自覚がなくただ「舐められている」といっそう自分を追い詰める。
(俺のように賢く生き延びなきゃ、あれはいつか壊れちまう)
周囲の視線の意味に気づかず、ただがむしゃらに喧嘩を買う村山と違い、水野は心得ていた。
昔から人の機微を察するのは得意だった。周囲の人間が自分に何を求めているのか…わかるからこそ、自分を貫くのが面倒で当たり障りなく過ごしてきた。…だから敵だと思われるなら懐柔してしまえば良い。
色眼鏡で水野を遠巻きに眺める者のなかに数人紛れ込む羨望と期待の視線…それに応え、望むように抱いた。毎夜相手を変えて関係を持ったところ、なにかと融通されるようになり一目置かれることとなった。そして自然と隊の内情や土佐の実情、水戸の噂話などを耳にするようになり、御陵衛士の間者としても都合の良い立場になっていったのだ。
(何事もうまく立ち回るべきだ)
陸援隊においても、御陵衛士においても、自分の果たすべき役割を演じることか長生きのコツだ。我を通して短命など無意味だ…水野は悟っていた。
土佐白河藩邸は広く、空き部屋も多い。秘密のことに及ぶには都合も良い。
(月真院で気の合わぬ奴らと顔を合わせるより余程気が楽だ)
「あ、あん!」
「…静かに」
やたらと嬌声を上げる今日の相手の口を塞いだ。水戸脱藩の若い隊士は初めて会った時から水野に熱っぽい視線を向けていた。すぐに関係を持つと先輩の愚痴や故郷の話を軽々しく話し、良い情報源となっているのだが、やたら束縛が強く他の者を相手にしていると嫉妬するので面倒になってきたところだ。
背後から彼の手を掴み、乱暴に抱くーーーそうしている時の自分はただただ性欲に支配された身体を持つ“無”である。
「あ、ぁ…もっと」
相手にせがまれて仕方なく壁に押し付けると、ちょうど部屋の外から誰かの声が聞こえてきた。
「あの長州者、まっこと生意気で目障りや!」
訛りは土佐、声は低い口調も荒い…土佐の田川だろう。彼はいつも数人の取り巻きを連れているので彼らのやりとりだ。
「ことあるごとに楯突いて、自分の立場をわかっちょらん」
「一度懲らしめたらどうぜよ?」
「そうやそうや」
取り巻きたちは田川を持ち上げる。田川はその大柄な身体で威圧感がある上に家柄でも上士の部類に入るそうでいつも偉そうだ。取り巻きたちも心から心酔しているというわけではないが、体に染みた上下関係のせいか田川に逆らうことはない。
「誰っちゃあ手を出しなさんなや、ありゃわしの獲物や」
下卑た言葉と嘲笑が耳に障って、水野の手が止まった。行為に耽る若者は物足りなさそうにして振り向いて
「どうがした…?」
と尋ねた。一気に熱が冷めたのが伝わっただろう。
「…堪忍、ちょっと疲れたみたいや。今日はおしまいにしてもええか?」
若い隊士はムッとして唇を噛んだので「またな」と約束をし取り繕ってその場はお開きになった。相方が去っていき、水野は衣服を整えつつ考える。
(村山に忠告…いや、そんなこと言って聞くようなタマじゃないな…)
気が強い村山なら田川に刃向かって先制して噛み付くだろう。それは田川を悦ばせるだけだ。
自分でもどうして村山のことが気になるのかわからなかったが、あの陰湿な田川が村山を犯すのかと思うと無性に腹立たしかったのだ。
水野が考え込みながら自分の部屋に戻ろうとするとちょうど村山に居合わせた。彼は廊下に何故か立ち止まり、ジッとある方向を見つめていた。
(なんだ、一体…)
水野が気になって彼の視線の先を覗くと、そこでは水戸の隊士たちが集まって碁盤を囲んでいた。それを見つめる村山の視線はまるで子どものように羨望している。
「囲碁、好きなんか?」
水野は思わず村山に話しかけてしまった。彼はハッと我にかえって少しだけ頬を赤らめると「何でもない」とそのまま逃げるように去っていってしまった。
(聞いただけなのに…)
あのリアクションでは肯定しているだけではないか。たかが囲碁が好きだということを口にするだけで彼はあんなに虚勢を張って、
(いじらしいな)
水野はフッと笑ってしまった。


まさかあの時は、その後に村山と偽りとはいえ念者の関係になるとは思わなかった。
村山を囲碁に誘い距離を縮めると、ただ彼は不器用で人見知りなだけで、誰かと揉めたいと思っている訳ではないとわかった。むしろ『長州者』と指を指されて居場所がなく孤独だっただけで、水野が他の隊士との間を取り持って仲介すると嬉しそうにしていた。気を許した途端、向けられる笑みが人懐っこくて
(これは…確かに庇護欲を唆る)
と思ってしまったくらいだ。それ故にその後、湯屋での事件が起こり『偽りの念者に』と申し出てしまったのだ。
当然、田川の機嫌を損ねることになった。それまで表立って彼と対立したことはなかったが、
「人のものを横取りするがは気分がええか?」
と田川に呼び出され、強く睨まれた。
湯屋の一件で良いところで助けにきた水野を恨めしく思っていたところに、彼らが念者だという噂になって苛立ったのだろう。水野を睨みつけ怒気を孕んだ声だった。
しかし水野は怯まず微笑んだ。
「人のものもなんも、村山君はもともと俺のものだし、彼もそう思てくれてる。むしろ君が強引に横取りしようとしただけや」
「なんやと?!」
「フラれた腹いせに怒鳴りつけるなんて格好が悪いんやないか?」
涼しい表情を崩さない水野に、田川はさらに怒りその拳を振り上げる。悔しさに目が血走り、眉は吊り上がり、まるで鬼のように顔を真っ赤にして振り下ろした拳は、水野の耳元で掠った。
「…そうやな、俺に手ぇ出せへんほうがええ。中岡隊長とは懇意にさせてもうているし、君も目ぇつけられたないやろう」
「くっ…」
田川もそれがわかっていたからこそ、確実に殴れなかったのだろう。
しかし手は止まっても口は止まらなかった。
「わしゃ知っちゅーぞ!われは土佐や水戸、若い隊士に見境のう手を出いちゅーやろう。隊長へ伝えたらわれはどうなるろうな?」
田川は勝ち誇ったように水野を指差して嘲笑ったが、水野は「ふふ」と腕を組んだまま笑った。
「なにがおかしい?」
「そういうなら俺と関係があるちゅう彼らに聞いてみるとええ。皆、別れを切り出され昨日今日と枕を涙で濡らしてるはずだ」
「なんだと?!」
「俺はもう村山君に本気や。隊長に告げ口をしてもかまへんが、素行の悪い君と懇意にしてる俺…どちらの話を隊長が信用されるか、考えたほうがええ」
「……!」
遂に反論する言葉を失ったのか、田川は悔しそうに顔を顰めると「ふん!」と背を向けてわざとらしい大きな足音を立てて去っていった。
その場に残された水野はふうとため息をつきながら、口元に手を当てた。
(今の言葉にどれくらいの本音があっただろう…)
田川の喧嘩を買ってやるつもりではいた。湯屋での一件は未遂とはいえ村山に恐怖を植え付けたのだ、これくらいでは仕返しにならないだろう。
けれど自分が彼に本気だと告げたあの言葉は、決して彼を苛つかせるために言ったものではなく、自分の願望ではなかったか?田川を牽制する言葉は全て嘘だったか?
自問自答しながら歩いていると、バシャバシャと水の音が聞こえて視線を向けると、村山が洗濯板を片手に羽織を洗っていた。まるで土の上で踏まれたかのような汚れっぷりは、きっと嫌がらせなのだろうが、村山は水野に助けを求めるどころかまるで何もなかったかのように淡々としている。
水野はしばらく離れた場所でその横顔を見ていた。少し気難しそうな眉毛に、凛として大きな黒い瞳、高い鼻梁に強く惹き結んだ唇…。
(ああ…笑わせてみたいな…)
ツンと冷たく強いあの顔が、自分の前だけで綻び、悦び、笑い、泣いたならーーー彼の特別になれるのではないだろうか。
水野は足を踏み出して、懸命に汚れを落とす村山の元へ向かった。
「これは酷いなぁ…派手にすっ転んだか?」
「…そうじゃ、ものの見事にな」
彼は弱みを見せようともせず、水野の冗談に乗って少しだけ笑った。強気なだけではない、どんな時にも彼は自分を見失わない芯がある。
(俺にはない…)
ゆらゆらと時勢という風に乗って、立場と主張を変えてきた。尊王攘夷に傾倒し天狗党に関わり、命からがら逃げ延びて伊東を頼りに新撰組に入隊し、肌に合わないと感じ脱退した。今は身分を偽り陸援隊に潜入している。もし彼が同じ人生を歩んでいたなら『恥ずかしい』と感じ腹を切っていたかもしれない。
(綺麗な目だな…)
残暑の日差しと、洗濯板で舞う水飛沫が彼の瞳を輝かせる。それは光を吸い込む宝石のように見えた。


ーーー竹林を前に口づけを交わすと、村山は抵抗せずに受け入れた。水野にとってそれは意外な反応であったが、彼にそのつもりがあるのなら、と後頭部に手を回し逃げられないように抱きしめて、もっと強く重ねると流石に身じろぎして
「苦しい…」
と村山は漏らした。水野が離れると彼は頬を赤らめて苦しそうに呼吸をした。
「息継ぎが下手やな」
揶揄うと村山は「うるさい」とさらに恥ずかしそうにして背を向けた。そして
「君だって、下手な言葉遣いやめたらどうじゃ」
と反抗して水野を置いて歩き出した。水野はしばらく立ち尽くす。
(驚いたな…)
離れて久しい故郷の言葉を使っていたのは自分ではない『水野八郎』を演じるための、スイッチのようなものだった。そうすることで別人になることができ、そのおかげで誰にも気づかれることはなかったのに。
水野は村山を追いかけた。
「村山君」
「…な、なんじゃ」
「俺たちは本当の念者になったんだよね?」
「し…知らん」
そう言いつつも水野が繋いだ手を村山は拒まなかった。
水野は自分でもどうかと思うくらい急いた気持ちが止まらず、「証が欲しい」と村山を誘って近くの茶屋に雪崩れ込んだ。
口付けだけでは物足りず、襟に手をかけて肌を晒す。小柄な白い肌は一瞬女人のそれのように弱々しいが、固くしなやかな筋肉を纏う。水野は上等な調度品に触れるような緊張を感じた。
「村山君、いいのか?」
「きっ…君が誘ったくせに今更…」
顔を真っ赤にした村山はたどたどしく水野の首に手を回して「良いから」と応えた。
「良いから…早く、抱いてくれ。後悔する前に」
「後悔などさせるものか」
うぶなはずの村山があっさりと受け入れてくれるのは意外だったが、すぐに疑問は消え失せ悦びへと変わった。
そうして過ごした一夜は水野にとって特別なものだった。心の底から求めた人と指先から足先まで重なるーー何もかもが満たされるような気がした。
初めて幸福というものを味わった。
だからそれが全ての始まりで、同時に終わりになるとは思わなかった。






729


土方は日野の佐藤家に足を運んだ。
出ていって久しい実家は敷居が高く感じるため、姉の嫁ぎ先である佐藤家の方が居心地が良い。
「おう、ようやく来たな」
姉の夫である佐藤彦五郎はこの辺りを取り仕切り、自衛の為に天然理心流の道場を開いている。面倒見の良い佐藤は不肖の義弟のために新撰組として世間に知られるまでは金銭の援助をしてくれた恩もあり、今では頭の上がらない存在だ。
「義兄さん、ご無沙汰をしております」
「ハハ!しております、だなんて。おのぶに聞かせてやりたいな」
「勘弁してください。…源さんは?」
新撰組では「井上」と他人行儀に呼ぶが、ここでは肩肘張る必要はない。佐藤は道場の方を指差した。
「入隊希望者の腕を見てる。ほら、聞こえるだろう?」
井上の独特な居合いが聞こえてきた。
土方は佐藤と共に客間に移動し、状況を耳にした。
「新撰組が幕臣に取り立てられたっていうので評判だが、不安定な世情は江戸にいてもみんな感じ始めてる。老若関わらず入隊希望者は多いが、実際に剣の使える奴は少ないかもな」
「今回は剣の腕は問いません。銃を取り入れていますし、早めに減った兵を増やして置きたいので」
「兵…か。まさか本当に戦になるのか?」
「…」
土方は答えあぐねた。
平穏な日野の田舎を眺めていると、都の喧騒が嘘のように感じる。佐藤にとっては戦の足音などどこからも聞こえてこない幻のように感じるだろう。
「どう転ぶかはわかりませんが、戦は起こるはずです」
以前なら剣の腕を見極めて有用な者だけ厳選しただろうが、今は御陵衛士が抜けた分を穴埋めし一部隊として成り立つように編成したい。そのための帰郷であり、人員が確保できればすぐに戻り戦に備えたい。土方は表には出さないが、内心焦りがあったが郷里の人々を脅すつもりはなかった。
佐藤は難しい顔をして腕を組んだ。
「…そうか。お前が言うのなら確かなのだろう。天領の民としていつ呼ばれても良いように準備だけはしておこう」
「はい」
義兄のことだから的確に世の流れを汲み取るだろう。土方は佐藤を信頼していたので故郷のことは心配していなかった。
すると、そこへ足音が聞こえてきた。
「歳三、来ていたの」
姉ののぶだった。畑仕事をしていたのかほっかむりを外しながら佐藤の隣に座った姉は「お帰り」と微笑んだが、すぐにお喋りが始まった。
「まったくあなたって子は石田の実家には顔を出していないんでしょう?為次郎兄さんが収穫の時期に帰ってきたのだから手伝えと伝言しろと言っていたわ」
「姉さん、悪いがそんな暇は…」
「わかっているわよ、でも顔さえ出せば兄さんだって納得するのに。作助だってあなたに会いたがって…」
「おのぶ、それくらいに」
口うるさい姉はまだ文句が言い足りないようだったが、夫に諌められて仕方なく口を閉ざした。姉の相変わらずのお喋りは面倒ではあったが、懐かしくもあった。
土方は風呂敷のなかから手紙を佐藤に差し出した。
「これは…総司からの手紙です」
「沖田君か…」
佐藤は神妙な面持ちで受け取り、早速中を開いた。
総司の現状については二人とも承知していて、これは総司から以前託されたものだ。
するとのぶがまた口を開いた。
「…ねえ歳三、総司さんを江戸に帰すわけにはいかないの?労咳は治らない病ではないわ。この静かな田舎で私とおみつさんで看病すればきっと良くなるのに」
「安心してくれ、京では幕府の御典医が診てくれてるんだ」
「でもあちらでは今にも戦が起きるらしいじゃない!そうなればきっとあの子は気が急いて無理をするでしょ?」
「…姉さん、全部総司の希望なんだ。おみつさんも納得してる」
「いいえ、おみつさんは本当は帰ってきて欲しいと思っているに違いないのに」
「おのぶ、いい加減にしないか」
手紙に目を通していた佐藤が厳しく止めたが、のぶは「でも」と食い下がる。そんな妻へ佐藤は手紙を渡した。
「読んでみなさい。彼がどれだけ直向きに私たちを心配させまいとしているのかわかる」
のぶは手紙に目を通すと、しばらくして目頭を押さえた。
「…元気だ、元気だと言われると、信じてあげなきゃいけないのでしょうけれど…かえって心配になるものね…」
試衛館から出稽古に来ていた頃は、のぶは土方よりも総司のことを可愛がっていて、必ず菓子を与えて土方なら拒むお喋りに付き合わせていた。のぶはみつとも親交があるため、距離のある姉弟の間を取り持ちつつ近況を伝えていたのだろう。
「…姉さん、悪いがその手紙の文面通りに受け取ってやってくれ。姉さんが思いつくことは全部考えた上で、決めたことなんだ」
「まあ…私の思いつくことがあなたにわかるのかしら?」
「おのぶ」
話を逸らすんじゃない、と夫に嗜められ、のぶは「わかっていますよ」と少し拗ねた。
「歳三、忙しいでしょうけれど兄分として気遣ってちょうだい。何かあればすぐに私かおみつさんに知らせるのよ、それが約束できないならすぐに日野で養生させて頂戴」
「わかった」
もちろん土方はそのつもりだったので素直に頷くと、のぶはようやく納得してくれた。隣で佐藤が(すまない)という目配せをしてきたが姉の性分はよく分かっていた。
土方は道場にいる井上の元へ向かった。何人か入隊希望者と打ち合っているが、悉く打ち負かしてやったようで井上以外は皆息が切れて座り込んでいる。
「ようやくお出ましだな、歳三」
井上は砕けた口調だったが、古巣では自然とそうなってしまうのだろう。
しかし希望者たちは土方の名前を聞くとハッと表情を変えて居住まいを正して頭を下げた。
(若えな…)
どれも十五かそこそこの小柄でまだ体の出来上がっていない若者ばかりだった。井上は「休憩だ」と切り上げて土方と場所を移した。
「何人か見繕って、有望なのは明日顔を見せるように言ってある」
「道場にいるのは?」
「いやぁあれはまだ若い。追い返そうとしたがせめて稽古をつけて欲しいって頼まれたから相手してただけだ」
「ふうん…」
面倒見の良い井上らしい振る舞いだ。彼の目に適った入隊希望者の名簿を受け取って、土方はパラパラと目を通していると、井上が
「それから、これだ」
と手紙の束を差し出した。
「筆まめな近藤先生はとにかく、あの梨の礫から毎日のように文が届くぞ」
井上はニヤッと笑った。
もちろん総司からの文だ。毎日文を出すように頼んでいたのでこの量になったのだろうが、それまで滅多に手紙など書かなかったのに連日井上の元に届くものだから、驚いたのだろう。
土方は名簿を置いて手紙を開く。井上は「俺は戻る」と気を利かせたのか、惚気に当てられまいと逃げたのかわからなかったが、ひとまず土方は縁側で目を通すことにした。
内容は本当に他愛もなくて、旨い飴をもらったとか、近所の猫が子供を産んだとかそういう内容だったが総司が日常を過ごしていることを知って土方は心底安堵することができた。江戸に来てみつやのぶから総司の病状を案じる話ばかり聞いていたので、一層そう思えるのだろう。しかし今日届いた文には「近藤先生がお忙しそうだ」とあったので、土方は今度は近藤の文を読むことにする。
総司の穏やかな内容とは異なり、近藤の文は切迫していてついに土佐が面と向かって将軍に対して大政を奉還するようにとの建白書が出されたという話があった。その詳しい内容を入手するため後藤象二郎に再び面会を求めたが多忙のため叶わなかったとある。人の良い近藤はゆめゆめ自分が拒まれているなどと考えないだろうが、後藤からすれば人斬り集団の頭が何度も訪ねてきて気が休まらないはずだ。
とにかく幕臣として安易な政権の返上を望まない近藤は情報収集に努めているようだ。状況は刻一刻と変わっている。
手紙を読み終えて、土方は空を見上げた。大きく開けた青空は都よりも広く、視界を縁取る木々はすでに秋の装いを身に纏う。穏やかで静かで心が波打つこともないが、
(俺にはこちらが非日常だな…)
かつて慣れ親しんだ故郷は既に思い出の場所になりつつあったのだ。


一方。
水野は中岡と茶を飲んでいた。
「この頃、外出すると視線を感じる」
「…」
「新撰組か見廻組かわからんが、とにかく情報が漏れちゅーのやろう。土佐は幕府に建白書を出いたかそれを気に食わん思うものは当然いる。君は何か知っちゅーか?」
「いえ…」
水野は陸援隊の隊士としてではなく、御陵衛士として尋ねられているのだと感じた。それは純粋な質問というより、「君は違うだろうな?」という確認のようなニュアンスに聞こえたのだ。
中岡は腕を組んだ。
「…そうか。なら一度撒き餌を使おう」
「撒き餌?」
「ついに土佐が蜂起したと隊士の何人かに話すがよ。まずは土佐でも水戸でもない者がおるろう、彼らに話して状況を見守ろう」
「…」
水野は何も答えずに湯呑みに手を伸ばした。
「どいた?仲間を疑うがは気が進まんか?」
「そう…ですね」
水野は陸援隊の隊士たちを『仲間』と認識したことはなったが、中岡が語る『土佐でも水戸でもない者』のなかに村山が含まれることが気がかりだったのだ。
しかし中岡に変な疑いを向けられるのは面倒だった。
「仕方ないことです」
水野がそう答えると、中岡は「頼む」とその大きな手で肩を叩かれた。
(あれが間者なんて務まるまい)
直情型で向こう見ず、何かと目立って敵の多い村山には最も適さない。
そう思うのに何故か胸騒ぎかした。





730


秋の風が少し冷たくなった。
村山はぼんやりと碁盤を挟んで目の前にいる水野を見つめていた。
彼と偽りから本当の念者になって数日。村山はふわふわと覚束ない気持ちで過ごしていた。誰かと、ましてや男とそんな関係になるのは初めてで、加えて相手は新撰組と分離した御陵衛士の間者。村山はそのことを一方的に知ってして、それでも本当の関係を結んでしまった。
(…なんて、報告書に書けるわけがない…)
あの竹林の前で口付けた時、きっと後悔するだろうとわかっていた。けれど止められなかったのは拒んで彼と離れてしまいたくないと思ってしまったからだ。互いに想い合っていることを知った以上もう止められなくて、先へ進んでしまった。
水野の無造作に纏められた髪の毛が、ふわふわと揺れる。秋の日差しを浴びて栗毛色に光る。
「村山君」
「え?」
「そんなに見つめられても、手加減はできないよ」
水野は村山の前だけ言葉遣いを変えた。村山は彼に会った時からその仮面を被るかのような故郷の言葉が気になっていたのだが、彼は言い当てられたことに驚いていた。
「…手加減なんてせんでええし」
「見つめてたことは否定しないんだな」
「う、うるさいな、さっさと打て!」
村山が照れ隠しで怒ると、水野は「はいはい」と笑って碁石を置いた。彼は相変わらず黒の碁石を積極的に持ち、村山とは互角か打ち負かし、決して負けることはなかった。
「また俺が勝ったな」
「…その腕で黒の碁石を選ぶなんて、やっぱり嫌味じゃ」
「黒が好きなんだよ。…村山君、指先に墨がついてる」
「…あ、ああ本当じゃ」
身を隠して報告書を書いているときについてしまったのだろう…後ろめたくてサッと隠したが、「見せて」と何故か水野が言ったので拒むのもおかしいかと思いおずおずと差し出した。すると彼は自分のそれとぴったり重ねる。
「…君は小柄だけれど、手は大きいな」
「それはよく言われる」
「でも指は綺麗だよ」
「…嬉しくない」
重なった手のひらから、彼が指を折り意図を持ってなぞりはじめる。村山は水野が何を考えているのかわかってしまい、手を引っ込めようとしたが逆に絡まって引き寄せられてしまった。
「ば、馬鹿、誰が見とるかわからんのに!」
「村山君、俺たちが囲碁を始めると誰もいなくなってしまうのに気づいてる?」
「え、えぇ?」
気がついていなかった。妙に静かなのは念者同士だと公言している二人が共にいると見ていられずに遠ざけているらしい。
「だから遠慮はいらない」
「…そういう問題じゃないじゃろう」
「じゃあ他にどんな問題が?」
「…」
(俺たちは本当はこんなことをしている場合じゃないのに)
彼を拒む言葉を知っているはずなのに、こうして抱きしめられるとそれがわからなくなってしまうのだろう。
(氷が、溶ける…みたいな)
戸惑いも後ろめたさも張り付くような痛みも…消えて無くなってしまうような。
「…せめて、障子を閉めてくれ」


夕方頃にようやく目が覚めた。
身体を起こし、瞼を擦るとようやく意識がはっきりしてくる。所構わず身体を重ねた事実だけでなく、脱ぎ散らかした衣服に散らばった碁石が羞恥心を煽る。
「…村山君、起きたのか…」
隣で横になっていた水野が乱れた髪をかきあげながら気だるげに起き上がる。村山は慌てて肩から羽織を被ったが、水野に恥ずかしさはないようで平然としていた。
「お、おう…。もうすぐ夕餉の時間じゃ」
「もうそんな時間か。悪いが俺はこれさら用事があるんだ、寝る前には戻る」
「…用事?」
「従兄弟に会いに行く」
「従兄弟」
「そう、全然似てない従兄弟」
「ふうん…」
水野はそう言いながらようやく服に袖を通したので、村山を衣服を整えつつ「あっ」と思い出した。
「…そうじゃ、朝、中岡隊長に呼び出されていたじゃろう?なんの話があったんじゃ?」
「なんでそんなことが気になるんだ?」
「なんでって…そりゃ、陸援隊の一員として戦況が気になるのは当然じゃろう?」
「…まあ、そうだな…」
村山の言い訳を信じ、水野は少し考え込むようにして「内密の話だが」と声を潜めた。
「近々、土佐藩が蜂起するらしい」
「な、なんじゃって?!ついに戦になるんか?」
村山は声を跳ね上げ飛びつくように水野に詰め寄った。彼がそんな反応をするのが意外で水野は内心驚いた。
「ああ…土佐は大政を奉還させるように促す建白書を出した。おそらくそれを実現するために武力をチラつかせるのだろうな」
「…陸援隊も?」
「さあな…」
「…」
村山は目を伏せて少し考え込むように黙り込む。水野の嘘と中岡の『撒き餌』を信じて真面目に考え込む姿が見ていられず、
「そうだ、村山君。髪を結ってくれるか?」
とさっさと話を変えた。
「俺が?」
「苦手なんだ、君は手先が器用だろう」
「まあ…」
水野に頼まれて村山は櫛を持ち、彼の背中に回った。そして恐る恐る癖のある髪に櫛を通すとあちこちに跳ねてなかなかまとまらない。
「…本当に、癖っ毛じゃな」
「そう、昔からなんだ。きっと母に似たんだろうな…村山君はまさに烏の濡れ羽色だね」
緩やかに波打つ水野とは違い、村山は漆黒の黒で太い直毛だ。何にも相容れない真っ黒な髪は自分の性格を表しているようであまり好きではなかったが、
「俺は村山君の髪が好きだな」
と水野は笑った。
「君の瞳みたいに吸い込まれそうだし…何より乱れると色っぽい……いて!!」
「恥ずかしいことを言うな!」
村山は力を込めて髪を結い上げて結び、「終わった!」と肩を叩く。水野は身を捩って笑った。
つくづく真逆の性格だ。それ故に惹かれてしまったのだろうか。


似ていない従兄弟ーーーこと、斉藤は待ち合わせの宿で水野の到着を待っていた。
伊東は尾張から帰還した。目に見えた成果は得られなかったらしいが、親藩という佐幕派の牙城を崩そうというのだからそう簡単にはいかない。伊東は相変わらず精力的だったが、同行した鈴木は無愛想なのが嘘のように朗らかな様子で帰ってきたので衛士の間では「和解したのだろう」と話のネタになっている。
それはともかくとして、斉藤は引き続き水野八郎の監視を続けるように指示を受けた。伊東は監視というほどの大袈裟な表現はしなかったが、疑り深い内海の方はまだ情報を寄越さない水野に懐疑的な様子だった。
しかし内海の言い分も理解できる。
(土佐は大きく動いている。陸援隊にもそれなりに情報が流れているはずだ…)
中岡慎太郎から水野を介して伊東へ逐一知らせがあるはずだ。それがないのは水野の怠慢か、それとも…。
(中岡は伊東を信頼していないのかもしれない)
斉藤は指先で軽く盃を弾いた。中身はギリギリこぼれなかった。
元々は新撰組の参謀だ。いくら語りが巧みとはいえ易々と受け入れられないだろう。だとすれば水野にもたらされる情報は少なくて当たり前であり、彼自身もそれを感じ取って適当な言い訳をして情報の提供を引き延ばしているのかもしれない。
(…まあ、そこまで周到に立ち回っていたら、あまりにも出来すぎているな…)
斉藤は自身の考えすぎだろうと結論付けたところで、水野がようやくやってきた。相変わらず新撰組や御陵衛士にいた頃の物静かでおとなしい印象がガラリと変わって別人のように見えた。
「遅れてすみません」
「…伊東先生が尾張から戻った」
「そうですか…だったら一つだけ伝えてもらえますか?土佐が武装蜂起するそうです」

















解説
727 尾張行きは篠原泰之進が同行したそうですが、変更しています。



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