わらべうた
731
「武装蜂起…」
物物しい言葉に斉藤は(いよいよか)と覚悟する。土佐が幕府へ大政の奉還を強く求める建白書を出し緊張は高まっている。西国は「慶喜公は突っぱねるだろう」とたかを括って戦を前提として兵を都へ集めているが、土佐がその先鋒を切るとなればさらに勢いが増す。
と、そこまで思い至ったところで
「まあ、嘘なんですけどね」
水野があっさりと手のひらを返したので、流石に苛立った。
「お前…」
「そう怒らないでくださいよ。中岡隊長はそういう偽情報を流して間者を炙り出すつもりのようです」
「間者…」
「身分出身を問わない陸援隊なら、他所から間者が紛れ込んだっておかしくはないでしょ」
水野は自分のことを棚に上げて語り、「もらいますよ」と空いた盃に手酌で酒を注いだ。酒に強いのか水のように飲み干した。
「だから、伊東先生にはくれぐれもそのような噂話に踊らされませんようにお伝えください。むしろそんな話を持ちかけてきた奴がいたら、それは間者です」
「…了解した」
ようやく水野がまともな間者らしい働きを見せたので、疑り深い内海も少しは安堵するだろう。しかし土佐蜂起の予告など、現実味がありすぎて誰もが斉藤のように身構えてしまう。間者を炙り出す以前にまことしやかに流れそうな噂だ。
水野は二杯目の酒を飲んで
「新撰組にも伝えますか?」
と飄々と尋ねてきた。彼が斉藤のことをどう思っているのかは以前匂わされたので理解しているが、彼と馴れ合うつもりはない。
「新撰組とは縁が切れている」
「…じゃあ斉藤先生はどこの間者なんですか?」
「…」
あまりに馬鹿げた質問で、斉藤は答える気すら起きずに酒を飲み干した。けれど水野は冗談めかす風でもなく、今度はちびちびと酒を含みながら口を開いた。
「…俺はねぇ故郷を出て、水戸天狗党に傾倒した。でもあっという間に身が危険になって顔見知りだった伊東先生を頼って新撰組に入ったんですよ。でも合わなかった…なんていうか別の所に住んで、水が合わないとか言うでしょ?あんな感じで、漠然としてますけど入隊した途端に自分の居場所じゃないと分かった…でももちろん抜けられない。だったらひっそりと身を潜めてせめて死なないように、平凡であろうと心掛けて、脱退の機会を待っていたんです」
「…それで御陵衛士に?」
「倒幕だろうと開国だろうと、墓守だろうと何でも良い。新撰組を抜けられれば良かった。…だからまた同じ失敗を繰り返して、御陵衛士にも馴染めなかった」
伊東の元で集まった御陵衛士は特に結束力の強い集団だ。そのなかで新撰組を抜けるためだけに加わった水野にはまた『水が合わなかった』のだろう。
彼は自嘲するように薄く笑った。
「だから陸援隊に行けと言われた時は、正直『良かった』と思ったんですよ。今度こそ自分の居場所を見つけられる…まあ、そんな甘い世界じゃないですけど、でも今は…親しい奴もできて悪くないんですよ」
「…」
「だから正直…人を試す立場ってのは気が進まない。俺は間者は向いてないな…そう思いません?」
水野の胸の内を聞いて、どうやら同じ立場同士で愚痴りたいのだろうと察し、斉藤は心底呆れてため息をついた。
「…そう思う、お前は間者に向いていない……そう答えたら満足か?」
「…」
「それを聞いて己への慰めとしたいなら、言ってやらないでもないが」
己の罪悪感を無くしたいためなら、なんてくだらない慰めなのだろう。ただ手のひらから溢れていくだけで、なんの意味もないのに。
水野は「ふっ」と口元だけで笑った。
「手厳しいですね」
「嘆くのは勝手だが、それが命取りになることを忘れるな。使い捨てにされたくないのなら」
目の前の男が間者だと知っているならなおのこと、本音など話すべきではない。
斉藤は多めの勘定を置いて、刀を持って立ち上がる。
そして
「お前は間者には向いてない」
と慰めではなく、冷たく突き放す言葉を残して部屋を出たのだった。
総司は困っていた。
「土佐が大政奉還の建白書を出しただと!背後では武力をチラつかせるなんて脅しではないか!これでは万が一、公方様が奉還されても戦になる。内戦をしている場合ではないと俺を諭した後藤様は何を考えておられるのか!」
顔を真っ赤にした近藤が憤りながら矢継ぎ早に文句を並べるが、総司には良い返答が思いつかない。隣にいた山崎に視線で助けを求めるが、彼も困り顔で共に土方がいないことを嘆くしかなかった。
腕を組み苛立つ近藤に、総司はおそるおそる尋ねた。
「…ご、後藤様とはいまだに?」
「お忙しいのだろうな!」
「せめてどういう建白書だったのか、拝見したいものですね」
「写しを見せてくれるように頼んでいるが、返答がない!」
「…お忙しいのでしょうねぇ…」
…どうにか慰めるために発した言葉が、全て近藤の怒りの炎に薪をくべていく。
すると山崎が口を開いた。
「陸援隊の村山に探らせましょう」
「そうだ、そうだったな。村山君はどうしているのだろうか」
「銃の調練については詳しく知らせてきています。陸援隊は異国から軍人を招き、何もかもやり方が違うとか…」
「…それは確かに、有用な情報ではあるが」
大政奉還の建白書に関するものではないのか、と近藤は少し残念そうにする。けれどちょうどその時、総司が軽く咳き込んだので「すまん、昂りすぎたな」と少し冷静になった。すると突然、
「失礼します」
と手拭いを肩に掛けた町人風の男…監察方の大石が目の前に現れた。不動堂村の屯所には監察しか知らない人目につかない裏口があるそうで、こうして突然やってくるのは不自然ではない。
近藤は「ちょうど良かった」と期待を込めて少し口角を上げた。
「今、村山君の話をしていた所だ。君が手助けしているのだろう?何か知らせは?」
「…陸援隊が蜂起する話があります」
「なに?!」
ようやく鎮まっていた近藤の感情が別の意味でまた昂まったが、流石に山﨑も表情を変えた。
「いつや?」
「三日後。中岡慎太郎が軍備を進めていると」
「三日後…!」
あまりの急展開に近藤は立ち上がった。
「会津に知らせる。総司、隊を頼む」
「わかりました」
近藤の表情は一気に臨戦態勢となり、早速羽織に袖を通し刀を携えて出て行き、山﨑もそれに従った。彼らの緊張感のある慌ただしさの目の前すると総司も気が急いてまた咳を繰り返した。するとその場に残っていた大石は去ろうとした足を止めた。
励ますでも、助けるでもなく、咳き込む総司を見ていた。彼に手を差し伸べてほしいわけではなかったが、息苦しいなかで微かに見える大石の表情は…はっきりと憐んでいた。
「先生!」
山崎が呼んだのか、咳の音を聞きつけたのか、山野が飛び込んできた。喀血はしなかったが身体中に悪寒が走ってどんどん自分の具合が悪くなるのがわかる。
山野に言われるがままに横になり、息を整えているといつのまにか大石はいなくなっていた。
(いつかあんな風に歳三さんに見つめられたら…僕は身を引こう)
役に立つためにここにいる。山野や部下に煩わしい思いをさせているかもしれないが、それでも彼らに頼りにされているうちはまだ働きたいと思う。
けれど大石のように、あからさまな憐みと同情を向けられるようになったら…この無謀な旅は、きっとそこで終わりとなるだろう。
732
明朝、御陵衛士の屯所にも『土佐蜂起の知らせ』が齎された。
少数精鋭を謳う御陵衛士では伊東は必要な情報は皆で共有するようにしている。そのため
「会津から土佐蜂起の予告について問い合わせがあった」
と伊東が神妙な顔で衛士たちに告げた。すると衛士たちは俄かに活気付く。
「いよいよですか!」
「土佐はどっちつかずかと思っていたが、やはり幕府を見限っている!」
「我々も共に立ち上がりましょう!」
と、斉藤以外がたちまち盛り上がるが伊東は冷静だった。
「皆待ってくれ。『会津からの問い合わせ』だと言っただろう。会津は我々が陸援隊に間者を送り込んだことを知っているんだ。あくまで会津にとって我々は新撰組の派生組織…つまり情報を持っているなら正確なことを知らせろということだ。…斉藤君、橋本君から何か報告は?」
伊東は斉藤へ視線を向けたので、頷いた。
「…ちょうど昨夜、橋本から報告が上がってきた所です。『土佐蜂起の知らせは偽の知らせである』とのことです」
斉藤の報告を聞き衛士たちは言葉にはせずとも明らかに落胆していたが、伊東は「やはり」と納得した顔だった。
「中岡先生は豪胆な御方だ、こういうやり方はしない。何かしらの意図を持ってあえて噂を流したのではないかと思っていた」
中岡と懇意にしている伊東からすれば、自分が把握する前に蜂起など起こるはずがないと自信を持っているようだった。
斉藤は逆に伊東へ尋ねた。
「…会津は何処からの情報だと?」
「新撰組だそうだ」
衛士たちは状況が掴めず少し困惑し顔を見合わせたが、その中にいた藤堂が
「それはつまり…陸援隊には我々だけでなく、新撰組からも間者が入り込んでということでは?」
と尋ねると伊東は少しだけ笑みを浮かべて「その通り」と褒めた。
「橋本君から新撰組の間者がいるという知らせがないということは、おそらく我々が抜けた後に入隊した面識のない者なのだろう。陸援隊は土佐と水戸が多いが出自を問わず誰でも受け入れる。きっと中岡先生はおそらく偽の情報を流し、誰から漏れたのか探ろうとなさっている…我々は冷静に動こう」
衛士たちが呼応するなか、斉藤はひとり別のことを考えていた。
同じ頃。
銃の調練を終えた村山は、この内容を事細かに記した報告書を作成していた。厠に閉じこもって記すには時間が足りずに、水野に教えてもらった『人気のない場所』でこっそり矢立を走らせる。
(あいつは帰って来んかったな…)
屯所を出た水野は、朝になっても戻らず午前の調練に顔を出さなかった。新撰組ほど厳しい隊則などはないため、「従兄弟に会いに行っている」と上官に説明したが、どこかへ姿を眩ませてしまったのではないか…と村山は心配していた。
そんなはずはないと言い聞かせ、村山は再び筆を走らせる。
(土佐の蜂起か…)
水野から聞いた話では近日中に実行されるとのことだが陸援隊にそんな知らせはなく、いつもと同じ日常を過ごしている。
(もしそうなったら…俺は新撰組に帰って戦に出ることになるんかな…)
そうなったら、水野と敵対することになるだろう。
手を止めてそんな想像を働かせていると、突然部屋の襖が開いて、水野が現れたので村山は大いに驚いた。
「わっ!」
「…村山君、ここにいたのか」
「きっ…君こそ、帰っていたのか?」
「いま、帰ってきた…」
村山は慌てて矢立と報告書を隠す。聡い水野に気づかれるのではないかと焦ったが、彼はいつもと様子が違っていて顔色が悪く目が虚でふらふらとしていた。
水野は村山の前までやってくると膝を折り抱きつく。
「わっ!」
突然体重をかけられて小柄な村山では支えきれずにそのまま畳へ二人とも倒れ込んだ。
「さ、酒臭い…二日酔いか?」
「しこたま飲んだ」
「例の従兄弟か?阿呆じゃなぁ…」
「村山君のせいだ」
脈絡のない言いがかりをつけられて村山は「なんじゃと?」と問い返す。しかしいつも飄々としている水野はそこにはいなくて、ただ表情は真剣だった。
「君のことが好きすぎて…自分を見失いそうになる」
「え?」
いつにない弱音に村山は驚いた。彼は村山の肩口に顔を埋めていたので表情はわからなかったが、絞り出すような声には苦痛が秘められているように感じた。
「君に嫌われたくない…」
「…誰も嫌いじゃなんて一言もゆうてない」
「いまはそうでも…この先はわからないだろう」
酔っているとはいえ、水野が一体何を起因としてそんなことを漏らしているのかわからなかったが、村山の心はその言葉に酷く抉られた。
(それは俺のほうだ…!)
新撰組の間者だと言うことを水野に知られたら、嫌われるどころではなく彼に殺されたっておかしくはない。未来を嘆くどころか、現在も彼を傷つけているのだから。
こんな馬鹿馬鹿しいこと、いますぐやめたほうが良い…そんなことわかっているのに、この手を振り解かずに誤魔化している。
(俺は大馬鹿者じゃ…)
自然と目から涙が溢れた。
「…村山君、なぜ君が泣くんだ?」
「わからん…」
「俺は…君を泣かせるようなことを言ったかな…」
水野は村山の涙に気がついて少し酔いが覚めたようだが、村山はさっきの言葉を酒のせいにしてなかったことにはできなかった。
身体を浮かせて離れようとした水野を引き止めるように彼の首へ腕を回し、引き寄せて自ら口付けた。いつも手慣れた水野に任せきりで、初めてのことだったので彼は驚いていた。
「…村山君?」
「俺…俺も、君が好きじゃ」
心臓が早鐘を打つようだった。
けれどどうしても、たとえこの先に何があったとしても彼にこの気持ちだけは嘘ではないのだと伝えておきたかったのだ。
水野は少し呆然としていたが、次第に笑った。
「…は…ハハ、なんだか一気に酔いが覚めた」
「な、なんじゃあ、もう…」
「君が可愛くて仕方ない」
水野は指先で村山の涙を拭いながら、「もうあかん」と何故か国の言葉で熱っぽく呟いた。
水野は鎖骨を強く吸い、村山は身を捩る。
「…酒臭いけど、良いか?」
「良くない…けど、しょうがない」
不承不承の言い草に水野はまた笑った。彼の癖っ毛に手を伸ばし、指を絡めて思う。
(いつか君に殺されるなら、それでええ)
村山は目を閉じて覚悟を決めた。
初秋の夜はもう冬のように寒くなった。
深く眠った村山に羽織を掛けて、水野はぼんやりとその寝顔を見つめていた。起きている時はその光を吸い込んだ大きな黒い瞳に目を奪われるが、眠ると子どものように無防備であどけない。
朝まで飲みすぎた酒はまだ残っているが、気持ちの面ではすっきりしていた。
間者であるはずなのに村山に執着し始めたことを恐れていたが、斉藤に冷たくあしらわれ、自分が相応しくないのだと諦めると少し楽になった。そして彼の気持ちを聞いて一層離れられないと悟った。
(いつか…時期が来たら、村山君に打ち明けよう)
彼を疑い、試そうとしたことを洗いざらい話そう。怒るかもしれないけれどさっきみたいに「しょうがない奴じゃ」と言ってくれるまで許しを乞うしかない。
そして彼が許してくれたなら陸援隊を離れて二人で生きていこう。尊攘だ討幕だと騒がしくない田舎にでも行って、なんのしがらみもない場所で暮らしたい。
「はは…年頃の乙女か、俺は…」
そんな夢みがちなことを考えていると、ふと彼の頭上に矢立と折り畳まれた紙があることに気がついた。
(これは…村山君の字だ)
そこには銃訓練の内容がまとめられていたのだ。熱心な村山が研鑽を積むために書いたのかと感心したが、その内容は伝聞するような『報告書』の形だったことが気になった。すると、
「あっ!」
目を覚ました村山が飛びつくようにその紙を水野の手から取り上げた。そして隠す場所などないのに身を捩る。
「村山君、それは…」
「な、なんでもない」
「…陸援隊での調練は他言無用だよ」
「だからなんでもないって…!」
夜の頼りない月明かりでも、村山の動揺が伝わってくる。水野は自分のなかで進む想像を止められず、ぞくっと悪寒を感じた。
(まさか…君が間者なのか?)
水野は目の前で小刻みに震える村山を、どう受け止めたら良いのかわからなかった。
733
悪い方へ、悪い方へと考えが浮かぶ。
それを打ち消したいのに村山の態度が変わった。まるで獣に目をつけられた小動物のように、目が合うと逸らし、核心をつかれるのを恐れるように長い会話を切り上げようとする。
水野は遠くの縁側で佇み、無心で洗濯板と格闘する村山を眺めた。
(でも、誘えば応じる…)
躊躇いはあるが伸ばした手を振り払うことはなく、水野の求めることにはなんでも応える。でもそれがかえって不自然でぎこちない。
(やはりあれは後ろめたいものだったのだろう…)
あの走り書きだけで間者だと断定するには飛躍している…水野はそう信じていたかったのに、村山の他人行儀で距離を置いた態度は全てを肯定しているようにしか見えなかった。
その日のうちに中岡に呼び出された。
「やはり情報が漏れちょった」
「…」
「会津から幕府へ陸援隊の蜂起の話が伝わったようや。おそらく新撰組、見回り組あたりやろう?…上は単なる噂話だと誤魔化したようだが、まあそれも今の幕府にとっては脅しに等しい」
水野は中岡が土佐藩においてどれほどの立場なのか詳しく理解はしていないが、実際に陸援隊が動くとなれば土佐の立場が大きく変わることは察していた。
「…それで、君は誰に話した?その顔を見ると、心当たりがあるがやろう?」
「それは…」
中岡は「うん?」と水野を促す。口調は柔らかいが、裏切り者を炙り出すために手段を選ばないという威圧も感じた。
しかし水野はどうしても村山の名前を出すことができずに、深々と頭を下げた。
「なんの真似や?」
「…その者が間者であるなら事は重大です。それ故にもう少し確かめさせてください」
猶予が欲しいと頼むが、中岡は不快感を滲ませた。
「われが気にするようなことじゃない。こちらでその者を尋問し、確かめる。とりあえず名前を言え」
「…」
「言わんのなら、裏切り者を庇うたと見なす。御陵衛士との信頼関係にも関わってくるがかまんのか?」
「そういうつもりでは…」
水野は迷ったが、どうしても村山の名前を口にして裏切り者だと言うことはできなかった。それはどうしようもない私情でしかない。
中岡は少しため息をついた。
「…隊内の噂話は知っちゅー。それほどまでに庇うとなったら相手は阿呆でもわかる」
「あいつはそんな器用なことはできません!」
水野は反射的に否定したが、中岡は淡々としていた。
「そりゃ尋問したらわかることや。…それに芝居かもしれんやろう。なせ自分が騙されちゃあせん言い切れる?知り合うて間もないのに、どんな根拠があって間者じゃないとわかるがよ?」
「…」
「わしゃそうやって騙されて、死んだ者をたくさんみてきた」
中岡の実感のある言葉に水野は何も言えなくなってしまった。それは自分でも痛いほどわかっていたからだ。
同じ頃、大石が再び町人風の姿で屯所に現れた。
隣室の山崎の元へやってきたのだが、彼は医学方として不在であり、近藤も別宅へ足を運んでいたのだ。
「どうかしました?」
「…」
総司は今日は体調が優れずに休んでいたので居合わせたのだが、大石もその様子を察して病人に報告すべきか迷っているようだった。
けれど
「近藤先生と山崎さんにお伝えしますから」
と総司が促すと、彼はようやく膝をついて総司へ軽く頭を下げた。
彼との因縁のような経緯は複雑だが、いまはいち組長と監察方でしかない。しかし他人にはない緊張感があった。
大石は口を開いた。
「…実は、土佐蜂起は偽りだと知らせが入ってきました。陸援隊の中岡が広めた噂話だとか」
「噂話…」
「そのうち陸援隊に密偵を送っている御陵衛士からも、会津へ同じ報告が上がるはずです」
「そうですか」
総司は少し安堵した。昨日の近藤の切迫した様子から今日明日にも戦が起きるのではないかと危惧していたのだが、それは避けられたようだ。しかし大石の表情は硬い。
「…どうかしました?」
「村山が疑われています」
「村山君が?」
村山のことは土方から新撰組から送った間者だと耳にしていた。
「中岡は間者を捕まえる為にあえて隊内の一部に蜂起の噂を流し、情報の出所を探っていたようです。実際に蜂起の知らせは新撰組から会津へ渡っています」
「…でも情報の出所は伏せられているでしょう。それなのになぜ村山君が疑われることに?」
「御陵衛士の間者に嵌められた可能性があります。…橋本皆助は覚えていますか?」
「…ええ、まあ…」
総司は言葉を濁した。ぼんやりと記憶にあるものの印象の薄い存在だったのだ。
大石は構わず続けた。
「橋本皆助は水野八郎という変名で陸援隊に潜り込んで、中岡慎太郎と伊東の橋渡し役を担っています。その水野は何故か村山に近づき親しくなっているようです」
「…御陵衛士と新撰組の間者が?偶然気があったのかな」
「どういう経緯かはわかりませんが…もしかしたら水野が新撰組の間者だと知って近づいている、もしくは村山が失策して気づかれた可能性があります。…中岡は新撰組の間者だと分かれば容赦しません」
総司は大石が少し焦っているのを感じた。水野が村山を名指しして新撰組の間者だと知っていたのなら、村山が情報を漏らしたと判断して中岡に密告するだろう。急がなければ村山の身が危ういのだ。
総司はひとまず近くの隊士に近藤を呼びに行かせ、どうするべきか考えた。いくつか腑に落ちないところはあったが、どういう理由であれ一度疑われた者はもう間者として使い物にならないだろう。
(土方さんなら…見捨てるかもしれないけれど)
任務に失敗した監察方を許しはしない。無関係な人間だとあっさり切り捨ててしまうかもしれないが、近藤は承諾しないだろう。
「…まだ土佐は幕府に対して協力的な姿勢を見せているんですよね?あまり表立って揉めるわけにはいかないか…。…何か手立てはありますか?」
「…俺が口出しすることではありません」
大石は返答を拒んだ。監察方として、また過去の因縁を鑑みて何かを発言すべきではないと思っているのだろう。総司は意見を求めただけで他意はなかったのだが。
(気にしなくて良い…なんて、いま揉めている場合じゃないか)
総司は土方がそうするように顎に手を当てて少し考え込んで
「では…一度、村山君を捕縛してはどうでしょうか」
と微笑んだ。
村山は死んだ心地だった。いや死ぬほうがマシだとも思えたくらいだ。
頭と、身体と、心がまるで別々になったみたいにぎこちない…あの銃調練の走り書きを見られた時から何をしていても動悸が止まらないのだ。
(もっとうまく誤魔化せれたのに…)
微睡んだ無防備な状態から核心をつかれ、動揺が隠せなかった。それは任務を蔑ろにして彼との行為を優先させた自分の甘さと落ち度のせいだと分かっていたが、
『君に嫌われたくない』
と溢す水野を抱きしめずにはいられなかった。結果として理性よりも感情を優先したのは、全く間者として不適格だがそれ自体を後悔しているわけではない。あの時はそうするしかなかった…その後にうまく誤魔化せれなかった自分が悪いのだ。
水野は村山に疑いの目を向けていた。自分が御陵衛士の間者であるが故に近くの者もそうではないかと疑う…それは仕方のない思考だろう。
けれど彼は切なそうに村山を見るだけで、遠ざけたりはせずに言葉は少ないが前よりも情熱的に村山を抱いた。そして
『好きだ』
と耳元で何度も囁いた。それがまるで『信じている』とも聞こえて村山の胸を締め付けた。だからと言って彼を拒めば認めたような気がして…村山は混乱していた。
(誰か…彼を傷つける前に、俺を殺してくれんかな…)
いまならあの憎い田川に殺されても文句は言わないのに。
村山はそんな自棄になったような気持ちを抱えながら、屯所を出てぶらぶらと歩いた。すると無意識に足は北へと向かい、水野と共に訪れたあの竹林の前に辿り着いていた。ここだけ清涼な空気が流れているようだった。
『二人ともおんなじか』
互いにこの竹のようだと微笑み合ったことを昨日のことのように覚えている。
(竹は…全部、地下茎で全部繋がってる…)
地面の下にある地下茎から竹は伸びる…つまりは全てが同じ親から生まれる子供のようなものだ。
そう考えると水野の言う通り『同じ』だったのだ。
村山がぼんやり見上げていると、突然背後に気配を感じ振り向くと、十人以上の男に囲まれていた。驚いたのは見覚えのある顔ぶれだったからだ。
「なっ…?」
そして
「怪しいやつめ!」
やや芝居がかった原田が槍先を村山に向けたのだった。
734
村山は罪人のように縛られてしまった。
(一体何が起きとるんじゃ…!?)
顔見知りのはずなのに素知らぬ様子で新撰組の隊士たちは村山をまるで不逞浪士のように捕らえた。事情もわからず困惑する村山は
「ちょっ…!」
抵抗しようしたところ、乱暴に猿轡をかまされて口を塞がれた。うーうーっと唸るが言葉にならずにジタバタ暴れるしかない。そうしていると引きずられるように陸援隊の屯所の前を通ることになる。
既に見せ物のように必要以上の騒ぎとなっていたのだが、
「こいつは長州の浪人に違えねえ!屯所に引っ立てて尋問してやる!覚悟しやがれ!」
と原田は妙に大声で叫んだので、陸援隊の隊士たちは一体何事かとやってきて、皆が一様に村山の姿を見て驚いた。しかし相手が新撰組とわかると当然手出しはできずに遠巻きに眺めるだけだ。
そうして久しぶりに古巣に足を踏み入れることになったのだ。
新撰組屯所でも何事かと騒ぎになりつつ、原田は配下の隊士から村山を縛る縄を受け取ると、隊士たちを解散させて「こっちに来い!」と執拗に怒鳴って屯所の奥に引っ立てた。不動堂村の屯所は広く、随分長く引きずられたがその間にこれは只事ではないと察し、黙って従うことにした。
そうしてやってきたのは局長の部屋の前にある庭だった。既に近藤と総司、山崎が待っていて庭に降りた目立たない場所に大石が控えてた。
まるで代官と罪人のような立ち位置だったが、近藤はその大きな口で穏やかに微笑んだ。
「手荒い真似をして悪かったね。…左之助、縄を解いてやりなさい」
「ハハ、すまんすまん。芝居に熱が入っちまった。でもあの様子じゃ、お前は新撰組に捕まっちまった哀れな陸援隊隊士に違えねえよ」
原田は自信たっぷりに言いながら、キツく結んでいた縄を全て解いた。赤い痕がくっきりと残るくらい強く縛られていたが、今はそんなことよりもこの状況の方が気がかりだった。
「近藤…局長…俺は何か失態を?」
土方以外の幹部が勢揃いしたこの状況では誰もが同じ質問をするはずだ。困惑する村山に山崎が口を開いた。
「その通り。お前は陸援隊の中岡から新撰組の間者として目ぇを付けられてる。心当たりはあるか?」
「そんな…心当たり、なんて…」
あるはずがない、と言い切れなかった。陸援隊では浮いていたし、水野にあの報告書を目撃されてしまったのだ。
(あいつが…中岡隊長に告げ口を?)
困惑する村山はまだ状況を理解できていない。山崎は少しため息をつきながらまた尋ねた。
「せやったら、陸援隊の蜂起について知っていることないんか?」
「…」
「すでに新撰組から会津へ伝わっているが、偽の情報や」
「偽…?」
村山は驚いたが、陸援隊内部でそのような動きが少しもなかったので合点がいく。だが中岡直々にその知らせを聞いた水野は一体どういうつもりだったのか。
(頭が真っ白じゃ…あいつはやはり…)
しかし山崎は一層呆れた顔をした。
「…まったく、役立たずもええところや。まるで状況が理解できてへん」
「もっ、申し訳ありません!」
「まあまあ、山崎君」
山崎は監察方を束ねる側として村山の無知さに嘆息するしかないが、近藤に宥められて「すみません」と咳払いして続けた。
「…とにかく、こうなってしまったからには任務はここまでや。陸援隊へ戻ったら適当な理由をつけて脱退し、ほとぼりが冷めるまで身ィ隠して…」
「脱退…ですか?」
「異論ありますか?」
口出ししたのはそれまで黙っていた総司だった。山崎のように叱りつけるのではなく、純粋な問いかけのように響いた。そこでおずおずと申し出た。
「…もう一度、機会をいただけませんか…?」
「なんやて?」
「このまま隊に戻るなんて…何を果たせずに逃げるなんて情け無くて仕方ありません!それに確かめたいこともあります!」
村山は頭を下げて近藤へひれ伏した。近藤は困惑し、山崎は「阿呆か」と吐き捨てる。
「正体が露見しかけてるんや。新撰組の間者やとバレてみぃ、お前個人が死ぬのは構わんが陸援隊と新撰組の問題になるんや」
「しかし…ッ!」
「弁えろ!」
食い下がる村山を怒鳴る山崎。普段温厚な山崎が声を荒げたのは、監察方の頂にいた立場として村山の失態を見過ごせなかったからだ。
しかし頑固な村山は山﨑に対しても怯むことなく、「どうか!」と懇願し続ける。二人の間で緊張感が高まった。
すると
「良いんじゃないですか?」
と総司が口にした。
「沖田せんせ、流石にこれは…!」
「ただし、新撰組の間者であることを絶対に認めないことが条件です。たとえ拷問を受け、死ぬよりも惨めな扱いを受けたとしてもその覚悟を貫き通せるなら…それはそれで彼の選んだ生き方でしょう」
穏やかな口調だが、怒りながらも助け舟を出そうとする山﨑よりも過酷な提案だった。村山は息を呑んだ。
「あなたにその覚悟がありますか?」
総司は真っ直ぐに村山を見つめた。
このまま新撰組に戻れば命は保証されるが水野との関係は断たれる。しかし間者と疑う陸援隊に戻れば危険な立場に立たされるかもしれない。
だが、すでに村山は選んでいた。
「あります…!もとより間者として命を賭して務めを果たす覚悟です。絶対に新撰組にご迷惑をおかけしません。もし正体が露見することがあっても見捨ててくださって結構です。どうかこのまま続けさせてください!」
村山の真剣な眼差しに、皆は沈黙した。山崎は呆れ果て、大石は無表情を貫き、総司は近藤の答えを待つ。
それまで黙って様子を見守っていた近藤は腕を組み直し、
「…わかった。君の覚悟を尊重する」
と重々しく頷いた。村山は「ありがとうございます!」とまた深々と頭を上げたのだった。
その後、新撰組から陸援隊へ村山について在籍する隊士かどうかの問い合わせを行った。これはあくまで村山を『間違って』捕縛したこととして、新撰組とは無関係の人物であると装うためだ。
その返答を待って村山を解放することにした。
「余計な口出しをして申し訳ありませんでした」
その夜。近藤と山崎へ向けて総司は謝った。今回の件では村山を捕縛して助け出すと提案しただけで、間者云々は総司の管轄外だと自覚していた。
山崎は「これっきりにしてください」と苦笑したが、近藤は
「いや、俺も村山君には強い覚悟を感じたからな…きっと歳がいたらこうはならぬ。彼は幸運だったのか不運だったのか、わからないが…」
近藤は言葉を濁した。村山の思いを尊重したが、あえて不利な立場で敵地に戻るという選択は決して最良ではないだろう。しかし新撰組に戻ったところで長州出身の彼は何かと疑われ、蟠りができたはずだ。
近藤は話を変えた。
「しかし、山崎君が心配していたことは杞憂だったな」
「え?一体なんです?」
「ええ、もしかしたら、村山が陸援隊の間者に鞍替えしているやもと思っていたのですが」
「ハハ、あの様子じゃそれは無いでしょうね」
総司は山崎の懸念を笑った。
村山は嘘偽りなく懸命だった。それはあの場にいただれもが感じていたことで二重スパイの可能性など微塵も感じ取れなかった。
しかし山崎はまだ憤りを抑えられないようだ。
「村山を陥れたのは水野でしょう。つまりは御陵衛士の仕業やと思います。…近藤局長はどうお考えですか?」
「…断定できぬことで、疑うべきではない。注意だけは怠らないでくれ」
「かしこまりました」
山崎が頷いたので、総司は苦笑した。
「せっかく監察方を離れられて医学方へ異動したのに、まだまだお力が必要のようですね」
「ほんまに。使えない部下と、言うことを聞かぬ患者を持つと苦労します。…沖田せんせ、そろそろお休みになっては?」
「はいはい。多忙な山崎さんを煩わせちゃダメですね」
総司はそう言って「休みます」と退散した。
近藤は「山崎君」と少し疲れたように口を開いた。
「総司は変わったなぁ…あんなことを言う子ではなかった。昔なら村山君を助けようと必死に動いたはずなのに、さっきは彼を追い込むとわかっていて背中を押した」
「…副長が不在の今は仕方ないことです」
鬼副長がいないからこそ引き締めなければならない。そして近藤には土方がいない今だからこそ、際立ってそう感じたのだろう。総司が陸援隊に戻る覚悟を問うた時、村山を見つめる眼差しはとても淡々として寄せ付けない冷たさがあった。それは彼の普段の柔和な面立ちとの対比も重なって、震えが込み上げようだった。
「…まあ、あの年になったのに子供扱いしている俺もどうかと思うけどな」
近藤はそう言って苦笑した。
735
土佐藩が幕府への大政奉還を促す建白書を出したことが世の中に広まり民衆の不安を煽るなか、中岡は水野を呼び出した。
「村山君は無罪放免となったそうや。新撰組から身元を照会したいと問い合わせがあって、今日中には戻ってくるろう」
「そうですか…」
昨日、新撰組によって村山が捕縛されたという報せが隊内で話題となった。数人の隊士に囲まれて連行される姿を見た者は
「ありゃ助からん」
「殺されるに決まっちゅー」
「村山も不安じゃのう」
と口々に噂したので水野は気が気ではなく、生きた心地はしなかった。かつて所属していた新撰組が敵だと見做せば残酷だとよく知っていたため、いまは心のなかで安堵していた。しかし目の前の中岡は予想が外れて不満そうだったので、機嫌を損ねぬように表情には出すまいと思った。
「…どうやら間者は村山君ではなかったようや。高田という隊士がおったろう?彼が見廻組と通じちょった」
「高田…?彼には何も話していませんが」
「…土佐蜂起の誤報を広めるようにと伝えたのはおんしだけじゃない」
中岡は困惑する水野を不敵に笑った。
水野は自分だけが中岡の懐にいて信用を得ていると思っていたのだが、そうではなく彼にとって手駒の一つでしかないらしいとようやく気がついた。水野は自分以外に間者などいないとたかを括っていた。
(中岡のなかでは、御陵衛士も伊東先生も信用できぬのだろう…)
伊東は中岡の後ろ盾を得たいようだが、元新撰組という肩書きはなかなか消えるものではない。利用されるだけされて、そのあとはあっさり捨てるつもりなのかもしれない。
(まあいい…御陵衛士も、新撰組も、陸援隊も…どうでも)
水野は不安が取り除かれ、かえってさっぱりしたような心地になって、中岡の部屋を後にした。
見廻組へ情報を流した高田は昨日、理由もなく放逐されていた。正体が露見した間者には悲惨な末路しか訪れない…高田は陸援隊かもしくは見廻組によってそのうち処分されることだろう。水野はそれが村山ではなかったということに心底安心していた。
(やはり村山君に間者など務まるはずがない)
彼にほんの少しの疑いを持ったことさえ申し訳ない。自分の立場を棚に上げて「君も同じはずだ」という安易な思考に囚われていたのだと自覚した。
部屋に戻ろうとすると、足をむけた先が騒がしいことに気がついた。
「えらい目にあったねや」
「新撰組ではひどい尋問やったんやないのか?」
「どーたごどやらがしたんだ?」
水野は足を早めて部屋に駆け込んだ。
「村山君…!」
そこには新撰組から解放された村山が、数名の隊士に囲まれていた。皆は水野の顔を見ると「邪魔せられんな」と少し揶揄するようにしながらも退散していくが、水野は構わずに村山の手を握った。
「怪我はないんか?まさか新撰組に捕まるなんて、一体何を…」
水野は村山がじっと自分を見ていたことに気がついた。その大きく光を吸い込む黒い瞳に、いまは深い影がさす。
「村山君?」
「…心配をかけてすまなかった。この通り、怪我もないし酷い尋問を受けてもおらん」
淡々として他人行儀な物言いだった。そして水野の手を払い、目を逸らす。
(人前で手など握ったから怒ったのか?)
水野は困惑したが、村山は立ち上がると
「話がある」
と誘い、そのまま部屋を出て行ってしまった。
水野に教えてもらった人気のない部屋は、もっぱら二人の逢瀬に使う物だったのだが今は違う。
村山は水野と対峙して、意を決した。彼を問い詰める台詞は不動堂村からの帰り道に決めていた。
「君は、俺を間者じゃと疑うちょるのか?」
村山の突然の脈絡のない問いかけに、しかし水野は動じなかった。
「…何を言い出すかと思えば。村山君、新撰組で何か吹き込まれたのか?」
「誤魔化さんと答えてくれ」
「君が間者だなんて疑っていないよ」
水野は本心でそう思っていた。確かに一時心は揺れたが、土佐蜂起を誤報を漏らしたのは別の隊士だと証明されて、いまは水野自身の勘違いだとわかったところだ。
しかし村山はさらに続けた。
「じゃあなして土佐が蜂起するなんて誤った話を俺に話した?」
「…それは中岡隊長からそう聞かされたんだ。まさか誤った話だなんて思いも寄らなかったよ」
「俺を試したんじゃないのか?誰かに漏らすんじゃないかと監視しちょったんじゃ?」 「なぜそんなことをする必要がある?君が長州出身だから?」
「…そうじゃ」
「まさか。君を騙そうと思ったことなんてない」
問い詰め続ける村山と、はぐらかす水野の間にはひりひりとした緊張感があった。間者としては一枚上手の水野はこのまま知らぬ存ぜぬを貫く自信があったが、なぜ村山が頑なに疑うのかはわからなかった。
すると村山は少し沈黙した後に、思わぬことを口にした。
「君の方が間者じゃろう?」
水野は一瞬、息を飲んだ。
「…ハハ、面白いことをいう。村山君、やはり新撰組で妙なことを吹き込まれたのだろう?それを信じてしまうなんてどんな酷い尋問を受けたんだ?」
水野は笑って聞き流そうとしたが、
「君は元新撰組隊士で、橋本皆助という。今は御陵衛士の一員で陸援隊に潜入しちょる…違っとるか?」
「…」
流石に水野は返答できなかった。村山にその名前で呼ばれるなんて思いもよらなかったし、彼の言葉が何も間違っていないことに頭がついていかなかったのだ。
「…村山君、何を言ってるんだ。俺は…」
「君は嘘つきじゃ。そうして涼しい顔をして平気で嘘をつく。…君は俺を好きじゃと言うたけれどそれも俺のことを疑うて、近づくためじゃったんじゃないのか?」
「それは違う!」
水野は村山に近づき、両肩を強く掴んだ。
「君への気持ちに嘘なんか…」
「じゃあ他のことは嘘か?その一つだけが本当で、あとが全部嘘ならば、その気持ちにどんな意味がある?君は俺を疑うちょるのに、俺が好きじゃと?」
「村山君、少し落ち着いて…」
「俺は新撰組の間者じや」
村山があまりにはっきりと口にしたので、水野は聞き間違いだと思った。けれど目の前の村山は目にいっぱいの涙を溜めていて、その黒い瞳がゆらゆらと揺れていた。
「…むら…」
「そう、君の思う通り俺は間者じゃ。新撰組に入隊したのは御陵衛士の分離したあとのことで君のことは知らん。じゃけど君が御陵衛士の間者だということは最初から聞かされとった。本当は君との関わりを持つつもりはなかったが…結果的にはこうなった。だから俺に君を責める資格はない」
「ま、待ってくれ。少し…整理させてほしい…」
水野は村山から離れ、ふらふらと後ずさった。額に手を当て、混乱のあまりに熱を出す頭をどうにか冷静にさせようとする。けれど村山は構わず話を続けた。
「じゃけど、俺は…君を好きになってから、君を信じることに決めた。間者としちゃ失格でも、君が好きだと言うてくれる限りは君を裏切らんと。俺は融通が効かん、だから土佐の蜂起は君が内密の話だ、と言うたから誰にも漏らしちょらん」
「…」
「蜂起の話が漏れたのは、高田という陸援隊の隊士が見廻組に知らせ誤報だと判明した、それがおそらく中岡が間者を炙り出す偽りの情報じゃと…ここに帰る前に新撰組から聞かされた」
水野はすっかり青ざめて言葉を失っていた。
そして村山の目から我慢していた大粒の涙がこぼれた。子供のように涙を拭ったが、なぜ泣いているのかわからなかった。
悲しみか、苦しみか…一番近いのは『嘆き』だろう。
(君を信じていたかった…)
せめて隠さずに「疑った」「すまない」と認めてくれれば、良かったのに。一度の過ちくらいすぐに忘れてこの関係はもう少し続けることができただろう。
(でも…そんなのは俺の勝手じゃ)
続いたとて、すぐに終わる。
悪いのは水野ではなく、さっさと彼の手を振り払わなかった自分だ。
「どねな綺麗事を言うても、君に隠し事をしたのは俺が先で、卑怯なのも俺のほうじゃ。君を責める資格なんてない」
どこかに、間者という立場を超えた絆があって、それが愛なのだと信じていたかった。
でもそれを願っていたのは村山だけだ。水野は村山の正体を知らずにこんな関係を結んでしまったのだ。きっと知っていたら、こんなことにはなっていない。
それは狼狽する水野の様子を見ているとわかる。彼は青ざめて、文字通り頭を抱えていたのだから。
「…俺が間者じゃと中岡に告げりゃあええ。君には俺を責める権利がある、だから…ここに戻ってきた」
自分はとっくに新撰組隊士としても間者としても失格で、ここに戻ってくればいずれ死ぬとわかっていた。だったらせめて資格のある水野に殺された方が良いと半ば覚悟を決めていたのだ。
そして
「でも…本当に、君のことが好きじゃった…」
ただそれだけを伝えたかったのだ。
村山は袖で涙を強く拭い、少し息を吸い込んだ。
「水野君…俺を殺すか、中岡に引き渡すかどちらかにしてくれ。君が選べないなら自分で上官に進言する」
「…」
「一度疑われた者は永くは生きん。死ぬなら己の心情に則って潔く…」
「村山君」
黙り込んでいた水野が村山の言葉を遮った。その目には絶望と悲嘆の色が滲む。
「君は残酷だ。自分の生き死にを俺に選ばせるなんて…俺が君を殺せるわけがないのに」
「…」
「…少し、考えさせてくれ」
水野はそう言って背中を向けて去って行った。
736
会津から戻った近藤は気色ばんだ様子で、組長以上の幹部を集めた。
「今日明日の陸援隊蜂起はないようだが、想像以上に幕府の上層部は動揺している。薩長の挙兵も近いと慌ただしくなっていた」
「本当に戦になると?」
「…会津公はその心積もりで備えよ、とのことだ」
永倉の問いかけに近藤は重々しく答える。その眼差しは深刻で危機感がありありとしていて、雰囲気は緊迫感がある。そのなかで原田は
「いいじゃねえか、長州との停戦でこっちは燻ってんだ、今度こそ決着をつけようぜ!」
と意気込んだのだが、誰も安易に「そうだ」と加勢する者はいなかった。昨年の長州征討の苦戦を思い出すと易々と勝てる戦でもない。
近藤は苦笑する。
「…薩長はすでに都を包囲し、戦の支度を整えている。戦力もさることながら彼らの扱う武器は我々のものとは次元が違うとの噂で、それ故に幕府は及び腰だ」
「じゃあまた降伏するってのか?!戦いもせず?!いい加減、幕府は潰されちまうぞ!」
「左之助」
控えろ、と永倉に諌められ「だってよ」とぶつぶつ言いながらも原田は口を閉じた。
山崎は「あの」と切り出した。
「おそらく、薩長は朝廷の許可なく京に進軍することはないかと思います。逆に言えば朝廷の許可…宣旨が降りれば動くでしょう」
「…だったら、薩長寄りの公家の動きに注意した方が良いな」
「はい。岩倉卿などは特に薩長を扇動してきた公家で、今の帝に近いかと」
山崎の意図を理解した近藤は深く頷いた。
「永倉君、左之助。岩倉卿の監視を…多少手荒でも良い。宣旨が降れば形勢が傾く」
「わかりました」
「まかせろ!」
永倉と原田はすぐに席を立ち、部屋を出て行った。
近藤は少し表情を崩し「山崎君」と呼ぶ。
「総司の具合はどうだ?」
幹部以上が揃う場に総司はいなかった。昨晩少し喀血して熱を出したのだ。
「いまは山野に任せてますが…もう少し、休まれた方が」
「そうか……うん、君に任せる。仕事ばかりさせて申し訳ないが」
「なんの」
山崎は微笑んだ。近藤が何かを言いかけて飲み込んだのはわかっていたが、それを敢えて尋ねずに「そうや」と話を変えた。
「先日入隊した仮隊士に有望な者がおります。剣も見事に扱い、心根も良い。見目もよく清々しい青年で…山野が不在がちですから宜しければ一番隊に推挙したいと思うておるのですが」
「ほう、確かに一番隊も人手不足だし君がそこまで言うのなら歳に伝えておこう」
人事は近藤ではなく土方の権限だ。局長に権力が集まりすぎるのは良くないということだが、土方の方が人を見る目があるので適材適所なのだが、彼の腹心である山﨑の推薦なら土方もきっと同意するだろう。
山崎は「ありがとうございます」と軽く頭を下げて
「名は相馬肇と言います」
と伝えたのだった。
土佐蜂起ーーーその噂は江戸にまで聞こえてきた。誤報だと訂正されるのには時間がかかったが、土方は冷静だった。
(土佐だろうが、長州だろうが薩摩だろうが…いつか兵を上げるに決まっている)
だからこそ兵員を増やすために江戸にいるのだ。わかっていても土方の気がせくが、「はぁ」と思い通りにいかぬことが続き、深いため息が漏れてしまう。
「どうした?」
稽古着の井上が木刀片手にやってきた。まるで試衛館から出稽古にきたような雰囲気で、すっかり昔に戻ったかのように懐かしい。彼は入隊希望者を相手に試合をしていたのだ。
そんな井上に土方は愚痴をこぼした。
「…確かに、剣の腕は問わずにそれなりの腕前でも入隊させるつもりだったが…ガキの守りをするつもりはない」
入隊希望者の中には幕臣に昇進したが故に、その縁故で入隊希望としてやってくる者が多く、断りずらい面がある。そして更に土方を困らせるのは、その弟だとかを引き連れて兄弟で入隊希望を申し出る者が多かった。世情に不安を感じ、幕府の一員として働きたいと言う情熱は結構だがそれにしても若く、少年というに相応しい者が多くいた。
井上は「あー」と頭をかいて申し訳なそうに肩をすくめた。
「俺には何も言えねぇな。泰助が相当ごねたんだって?」
「…さすが、松五郎さんの子だ。鬼副長を前にしても強情で譲らねえ」
井上松五郎は井上の兄で八王子千人同心の世話役の一人であり、将軍警護に上洛したこともあるゆかりのある人物だ。泰助はその次男で、井上の甥にあたる。泰助は親の反対を無視して入隊試験にやってきたのだが、まだ十一だ。
「あれは昔から気性が荒いと言うか、とにかく頑固なんだ。兄も売り言葉に買い言葉で『死んだと思うことにする』なんてぇ言って放り出すから俺も困ってなぁ…」
「…」
井上は親子の板挟みに遭って悩んでいたが、土方は泰助が放った言葉が印象に残っていた。
『自分は寄る辺もない次男坊!いつのだれ死んだとて誰も困りませぬ!』
泰助はまだあどけない少年の風貌で、覚悟を決めていた。それは誰から聞いた借り物の言葉かもしれないがその響きには真心があったし、自分も同じ齢の頃に
『豪農の末っ子など勝手にさせろ!』
と言って周囲を困惑させていたので気持ちはわかる。それ故に土方は少なくとも彼の決意を『ガキが』と突っぱねることはできなかったのだが、故郷の若者だからこそ簡単に引き受けられたなかった。
「…とにかく、松五郎さんの許可がないならダメだ。親を説得できないなら見込みはない」
「ああ、そう言っておくよ」
井上は「悪いな」と言いつつ、道場に戻って行った。
すると入れ替わるように義兄の彦五郎がやってきた。井上とのやりとりが耳に入っていたようだ。
「大変そうだな」
「…いえ。義兄さんが下調べしてくれたおかげで幾分か楽です」
「そうか」
彦五郎は土方の隣に座って、「休憩したらどうだ」と持ってきた茶を差し出した。温かい茶はやはり懐かしい味がした。
「人数は揃いそうか?」
「まあ…おかげさまで。少々若いですが有望なのも数人います」
荒くれ者の新撰組はもう幕臣の集まりになった。今後の隊士は同志というよりも近藤の家来という意味合いが強く、土方はその辺りも重視していた。
彦五郎は「ふうん」と湯呑みを手にしながら尋ねた。
「なあ、歳三。お前はこれから新撰組をどうするつもりだ?」
「…どうって…近藤さんが決めることです」
「そう固くなるなよ、あくまで仮の話じゃないか?」
彦五郎は「つまらんやつだな」と言わんばかりに苦笑する。それもそうだと土方はつられて笑った。
「…新撰組は最初は壬生の厄介な居候で、次は寺の身勝手な客人、そしていまはまるで大名屋敷に住む殿様のような幕臣です。試衛館にいた誰もが、こんなことになるなんて思わなかった」
「ああ、その通りだ。俺とおのぶはもっと早くに音を上げて帰ってくるだろうと言ってたんだ」
「近藤さんは…勝太はそういう奴です。あいつといると予測できない、思いがけない旅路ばかりを歩む羽目になる。だから、自分勝手に生きてきたこの人生も悪くないと思える」
故郷にいた誰が、ここまでの出世を予想しただろう。それは目の前の道を歩み続けて、積み重ねた結果に過ぎない。
「新撰組が長く続くならそれが良いと考えます。俺たちが何代にも渡って将軍家を守り続けられる幕臣となる、その礎になれたならそれが良い」
「…そうか。もうお前にとってここは家じゃないんだな」
「ええ…」
実家の暮らしが窮屈で、逃げるように心地良い佐藤家や試衛館に居座った。懐かしく思い入れがあっても、ここに戻りたいとは思わない。
戻るべきは都で待つ、仲間たちの元だ。
彦五郎は笑った。
「今も昔も…若者の情熱を否定すべきではないよな。入隊希望の若者たちはかつてのお前たちと同じだ。何ができるのか何をしたいのかわからずに、ここにたどり着いた…もうお前は彼らを先導してやる立場だ」
「…そうですね」
「泰助ほど若すぎるのは問題だが…できるだけたくさん受け入れてやってくれ」
(まったく、義兄さんにはいつも敵わない)
懐の広い義兄は視野が広く、心根が優しい。この辺りを束ねるにはふさわしい人物であり、尊敬できる義兄弟だ。
そうしていると去って行ったばかりの井上が急いで戻ってきた。
「歳、客だ」
「客?」
737
井上が客だと言うので土方が出迎に向かうと、そこには伊庭がいた。
「ご無沙汰してます」
そう言って彼らしくなく丁重に頭を下げてしおらしくしているのは、なんだか居心地が悪い。土方は苦笑した。
「…お前、わざとやってるだろう」
「ハハ、バレましたか。だっていまは同じ幕臣ですし、齢は土方さんのほうが上だし。敬うべきかなと」
「今更だな」
土方が「上がれよ」と誘い、二人は客間に移動した。途中からのぶに会って悲鳴のような歓迎を受けたのは、彼が相変わらず目立つ涼しげで端正な顔立ちをしていたからだろう。
「二年ぶり…くらいですかね」
「そんなに経つか?」
「ここ数年はあっという間ですよね」
伊庭は土方の前に膝を折り、庭の方へ目をやった。秋の涼しい風が彼の髪を靡かせる。
「…日野は静かですね。いまは都も江戸も騒がしくてなんだか疲れます」
「幕府が政権を返上するって?」
「話は伝わってます。こちらではあまりに唐突な話で、何としても公方様をお引き止めしたいという機運の方が強いですがね。万が一戦になった時に備えてフランスの軍師を招いて銃や大砲の調練に急に力を入れてます。…と言っても、幕臣の多くは嫌厭して、幕府の兵だというのにまるで無頼の徒の寄せ集めのようですが」
伊庭の話を聞いて土方は内心ため息をついた。
江戸ではまだまだ危機意識が薄い。長州一国に敗戦した反省もなく新しい武器を受け入れず、古い体制を固辞し続けている。きっと戦場に出れば使い物にならない幕兵ばかりなのだろう。
「そういうお前は?」
「ふふ…それが、さて自分に扱えるものかと試してみたら案外簡単でしたね。弾をこめる、引き金を引く…それだけです。延々と木刀を振り、剣を修行してた頃の自分が可哀想になるくらい楽でした。…まあ、楽だから良い、という話しじゃありませんけどね。いっそ両刀使いになろうかと利き手とは逆の左で鍛錬しているところですよ」
新しい物好きの伊庭は嬉々としていた。心形刀流後継の彼のことだから剣を疎かにはしないだろうけれど。
そして伊庭は
「それで、戦になりますか?」
とはっきりと尋ねた。
伊庭はむしろ戦に尻込みする幕臣よりも現地の土方の意見を求めていたのだ。
「どうだかな…公方様次第だが、長州や薩摩はやる気だ。土佐は…大政を返還するように建白書を出したようだが、それも建前だろう」
「建前?」
「公方様に建白書を却下させて、大義名分を得た後に戦に持ち込むつもり…かもしれない」
「勝てると思います?」
「…勝てると思わない戦には、出たくないものだな」
土方の曖昧な返答を聞いて、伊庭は「そうですか」と憂いを帯びる。江戸にいては信憑性のない話に聞こえるかもしれないが、伊庭は周りの幕臣よりは危機感を覚えているのだろう。
伊庭はしばらく考え込んだ後に、突然「ふっ」と笑った。
「それにしても、かつて何者でもなかった歳さんが当事者となって政を語るなんて」
「こんな田舎の道場でな」
「まったく、世の中はわからない。いくら考えたって机上の空論だ」
伊庭は深く考え込むのをやめたようだった。彼の切り替えの速さは賢さとも言えるだろうが、彼の目は少し泳いでいる。
土方には伊庭が今まで話していたことがただの世間話で、本題ではないのだとわかっていた。だから自分の方から切り出すことにした。
「…伊庭、悪かったな。こうして結局、お前に会う機会があるのなら、総司の病のことをわざわざ文で知らせなくても良かった」
「…」
「お前を悩ませているのだと、返事が来ないことで気がついた。俺はあいつの病のことになると…どうもうまく立ち回れない」
覚悟はしていても、感情は揺れる。これからのことを考えると何も手につかない日もある。だから普段ならもっと冷静になれることを見過ごしてしまう。
伊庭は目を伏せた。
「謝らないで下さい。俺だって気の利いた返事ができず…今だって、なんて言ったら良いのかわかりません。歳さんがどんなに苦しみ、沖田さんがどれほど悔しい思いをしているか…そのことと比べれば俺が遠い場所から悩んでいることなんて、大したことじゃない。…沖田さんは一線を退くつもりは?」
「そのつもりはないようだが…この頃は伏せる日も増えた」
「そうですか…」
伊庭の気質は、総司と近い。歩んできた道は違っても、互いに剣の天才としてその道で生き、死ぬことを覚悟している。それ故に総司が頑なに養生せず命を縮めても隊士として刀を取る気持ちはわかるのだろう。
「歳さん、昔のことですけどね。浪士組に参加することが決まって、俺は沖田さんを引き止めたじゃないですか。武士の身分があるのだから江戸で別の道を開くことができると」
「…そんなこともあったな」
土方は朧げに思い出した。浪士組に加わらずとも総司の腕で生きていける…だから伊庭の話を『悪くない』と思ったのだが、総司はあっさりと断ってしまった。
伊庭は遠い目をした。
「あの時、沖田さんはまだ全然先が見えないのに、歳さんと共に行くことが後悔しない道だとはっきり言っていました。あれは…寒い夜の日で互いの顔すらはっきりと見えなかったけど、沖田さんの目は一片の曇りなく俺を見据えていた。何も寄せ付けないほど強く揺らがなかった…きっと今でもあの覚悟は変わらないはずです」
「…」
「…だからこの先、刀を置くことがあっても、できるだけ長く沖田さんを側に置いてあげてください。危険だからとか体に障るとかそんな理由で遠ざけないで、ずっと共に生きてください。それが…何よりも薬になるでしょう」
「ああ…わかった」
秋の少しだけ冷たい風が木の葉を揺らし、あるいはそれをひらひらと落とす。
別の道を歩むべきだった…土方のどうしようもない後悔は、伊庭の言葉で消えた。きっと総司は何があっても共に上洛しただろうし、同じ道を歩んだだろう。だから労咳になってしまったという結果は変わらないのだ。
大きなくしゃみが二回出た。
「…絶対、江戸で土方さんが噂しているんだ。もしくは彦五郎さんやおのぶさんが源さんと思い出話をしているのかもしれないし、伊庭くんが遊びにきてるのかも」
「はいはい、先生。風邪かもしれませんからゆっくり休んでください」
総司の愚痴を聞き流し、山野は掛け布団を一枚増やした。
「今は暑くても夜は冷えますからね」
「…山野君、近藤先生は?」
「局長は二条城へ行かれて、まだお帰りではありません。もしかしたら別宅でお休みかもしれませんが…山崎組長に聞いてきましょうか」
「…いいえ、皆さんが忙しいのはわかりますから」
山野は「わかりました」と手ぬぐいを絞り総司の頭に乗せる。ひんやりした感覚が身体の熱さを冷ませていくようで心地良い。
山野が去っていき、総司は目を閉じた。
近藤はきっと別宅にいて、隣室の山崎も不在。永倉と原田は岩倉邸に詰めているようでどの部屋もしんと静まっている。
(人恋しい…なんて思うことはなかったのに)
いつも誰かがいて、騒がしくて眠気が飛ぶことはあっても静かで眠れないなかった。
無性に湧き上がる寂しさを感じながら、総司はふと近くにある文机に視線をやった。
(四、五日…文が書けてないな…)
近頃伏せっていることは近藤から知らせがいくだろうが、土方は心配しているだろう。
「約束…したのになぁ…」
寂しさと虚しさと…悔しさが折り重なって心が重く感じた。
何も失ってないと分かっているのに。
738
「新ぱっつぁん、お公家さんの住まいってのはこんなにも質素でボロ屋なんだなぁ」
近藤から厳命され、岩倉卿の住まいで監視を続ける原田は、相方の永倉にしみじみと漏らした。監察の様に身を隠す形ではなく、あえて新撰組がこの辺りの警備を務めることを宣言し屯するようにしたのは、岩倉卿をはじめとした倒幕派の公家を威圧するためだ。
「岩倉卿は蟄居処分を受けて、一度都を追われてる。昔は幕府に近い公家だったが、それが理由で先帝に冷遇されたそうだ。尊王の浪士に命を狙われる羽目になったが、いまは立場を変えて倒幕派の公家の一員だ」
「…詳しいなぁ」
「岩倉卿は一時は近習として仕えたが、そこから追放した先帝に恨みを持ち、毒を盛った…という噂もある」
「げぇ、本当かよ」
「さあな」
永倉はサッと話を切り上げた。岩倉邸から誰かが出てくる気配を感じたからだ。原田も槍を持つ手に力が入ったが、やってきたのは岩倉に仕える小間使いの少年だった。
「ご苦労さまです」
少年は愛想良く微笑むと、そのまま去っていった。二人は「ふう」と警戒を解く。
「近藤先生は戦だなんだと騒いでいたがここ数日は嘘みたいに静かだぜ。でまかせじゃねえのか」
「だが、土佐の陸援隊だけでなく、続々と倒幕の兵が集まっている。…何かは起こる」
「何かって?」
「…少しは自分で考えろ」
永倉は白い目で原田を見たが、彼は途端に鼻歌を歌い出して聞き流した。
彼らが感じているのはただの嵐の前の静けさに過ぎない。
山崎が近藤の元へ駆け込んで来た時、ちょうど総司も朝の巡察を終えて報告にやってきていた。
いつになく山崎は顔色が悪く、こめかみに汗をかいている。彼は「すんません」と話に割り込み、そして二条城からの知らせだと言った。
「…討幕の勅が下っただと…?!」
「はい…!岩倉卿が主謀者となり、正親町三条家、中山家が連署した密勅が、薩摩と長州へ」
「摂政の二条殿は?!」
「知らぬものだと。秘された非公式の勅でしょう」
「偽勅に違いない!」
近藤は半ば悲鳴の様に叫んだ。先帝の孝明天皇の時代から偽勅が横行したが、今の帝は幼く岩倉卿の思いのままだ。摂政二条斉敬は公武合体派であり、秘された密勅なら尚のこと間違いないと近藤は確信した。
しかし山崎は首を横に振った。
「討幕の勅だけでなく、長州藩主父子の官位復旧の勅も下ったとか。偽勅であってももうことは動いてます。これで薩長は兵を動かし、攻め込む理由ができたのです…!」
いつも冷静な山崎が息も継げぬほど早口に巻くしたてる。近藤は少し苛立った。
「…岩倉卿に張り付かせていたはずだ!静かでなんの動きもないと言っていただろう?!」
「わかりません。ただ、討幕の勅には、この密勅と同時に、会津公と桑名公を誅戮を命ずる勅書が…!」
サッと青ざめた近藤は「こうしてはおれぬ」と立ち上がり羽織を手にして忙しなく支度を始めた。総司もそれを手伝おうとするが
「総司、具合が良いならお前も来てくれ」
「私ですか?」
「山崎君もだ」
「かしこまりました」
近藤の焦った表情を見て、総司は拒むことはできずに頷いた。話の半分も理解できていなかったが、近藤はそう言う意味で共を命じたわけではないだろう。
さっさと支度をしてやってきたのは会津黒谷本陣だった。すぐに会津公の前に通されると傍には浅羽が控えていて、総司を見て少しだけ微笑んだが、厳しい顔に戻った。
「近藤、話は聞いたか?」
「は…っ!これは偽勅でしょう」
「偽勅かも知れぬが、帝のご意志かもしれぬ。来るべき時が来たということだな」
血が上った近藤とは対称的に、会津公は相変わらず凛とされてこの場にいる誰よりも淡々としていた。その様子に近藤も少しだけ冷静になる。
「公方様はなんと…?」
「『考える』とおっしゃって人払いをされた。私も一旦、戻ってきたところだ」
「殿、徳川の威信にかけて公方様は政権返上など一蹴されるはず!戦であるなら我々が前線に立ちましょう!新撰組はこの時のために刀を鍛え、銃を揃えてきたのです!」
「近藤、先走るな。まだ戦の狼煙は上がってはおらぬ」
会津公は逸る気持ちを抑えきれない近藤に苦笑したが、すぐに引き締めた。
「…だが、その言葉は有難い。長州征討の二の舞にならぬよう我々も戦の支度をするが、何か知らせがあればすぐに伝えよ。御陵衛士の伊東にも同じ様に伝えておけ」
「ははっ!」
近藤は深く頭を下げて退出する会津公を見送った。そして早速、
「山崎君、御陵衛士へ知らせを。情報があるならすぐに共有せよと伝えろ」
「かしこまりました」
山崎は近藤に従い、足早に出ていく。するとその場に残っていた浅羽がこちらにやってきた。
「近藤局長、土方さんは?」
「土方は隊士を募るため江戸に向かっておりまして…そろそろ切り上げる頃かと思いますが、まさかこの様なことになろうとは」
「…そうですか。近藤局長、殿はあのように臣下の前では冷静でいらっしゃいますが、話し相手を欲していらっしゃるかと思います」
「私で宜しければ喜んで!」
近藤は勇んで、別の小姓の案内で去っていく。
浅羽は総司に体を向けて微笑んだ。
「沖田君、具合はいかがですか?」
「平気です。それより大変なことになりましたね」
「ええ…殿はああおっしゃっていらっしゃいましたが、おそらく戦になるだろうと。公方様が万一政権を返上されるなどありえませんが、もう動き出したものを止めることはできません…」
「戦…ですか…」
この後に及んでも総司には実感がなかったが、まるで見えない敵に追い詰められているような不快さだけはあった。
「是非、土方さんの見解をお聞きしたかったのですが、江戸でしたか…残念です」
「この知らせを聞けば飛んで帰ってくると思いますよ。浅羽さんがお待ちだと伝えておきます」
「よろしくお願いします。…君は、しっかり養生して、来るべき時に備えてください」
「…わかりました」
浅羽が語る『来るべき時』が目前に迫っているのだと、総司は感じていた。
山崎が御陵衛士に知らせるまでもなく、密勅の知らせは伊東の新しい西国の伝手によってもたらされていた。
「先生!我々は当然、朝廷のお味方として立つのですよね?!」
「討幕軍の一員となりましょう!」
衛士たちはそう信じて疑わなかったが、伊東は明言を避けた。
「…まずは状況を確認する。我々は表向きはあくまで新撰組の分派組織だ。彼らと情報を共有し出方をうかがおう」
伊東の言葉に少なからず衛士たちは落胆したが、藤堂が
「仕方ありません。先生のお考えに従います」
と誰よりも早く宣言したので、衛士たちも納得せざるを得なかった。
そして斉藤は、伊東から陸援隊の橋本と接触し情報を得るように命令を受け、屯所近くに赴いていた。いつものように従兄弟を名乗り橋本…水野を近くの飲み屋に呼び出したのだ。
水野を待つ間、先に酒を頼んだがあまり進まない。
(時期が悪い…)
そのつもりがなくても斉藤の眉間に皺が寄っていた。
討幕の密勅については斉藤の耳にも入ってきていたが、これほど性急に戦へ向かうとは思わず、自分らしくない焦りを感じていた。正直、陸援隊の動きなどは眼中になく二条城にいる将軍がどのような判断を下すのか…戦へ突き進むのか、それとも違う方法で収めるのか、そればかりが気になっていたが、伊東の命令を無視するわけにはいかず仕方なく足を運んでいたのだ。
(戦となれば…御陵衛士は討幕派として戦う。新撰組は当然、幕府につく)
分離という手段で別れた組織が、はっきりと対立する。それはいつか訪れるであろう結末ではあったが、まだ半年だ。
せめて土方と連絡を取りたいとも思うが、江戸にいることは当然知っている。これからの判断に迷った。
斉藤が肘を机につき、考え込んでいると目の前にふらりと人影が現れて、座った。水野だろうと思ったが、
「…何かあったのか?」
斉藤は思わずそう訊ねていた。水野は顔色が悪く表情がない。いつものような調子のよさは消え失せて、まるで別人のようだったのだ。
「酒、もらっていいですか」
「ああ…」
水野は斉藤の盃をとると、あっという間に飲み干してさらに次を注いだ。また飲み干して、継ぎ足して…を繰り返し、しまいには銚子ごと手にしてあっという間に空にする。
「酔えねえな…おい、徳利で持ってきてくれ!」
水野が怒鳴り、女中が怪訝な顔をする。斉藤は「おい」と厳しく諫めるが、水野は苛立っていた。今まで自分のペースを崩さなかった水野がここまで荒れている理由が斉藤にはわからなかった。
「何があった?密勅のことで陸援隊に動きは?」
「…討幕の勅は陸援隊皆が知っています。遂に戦だと息巻いて、次々と武器弾薬が運ばれてきますよ」
水野は投げやりな物言いだが、斉藤は「ほかには?」と問い詰める。
「中岡は陸援隊を他の者に任せ姿を隠しました。幕吏に命を狙われているとかなんとか…居場所は知りません」
「それから?」
斉藤は先を促すが、水野はふっと言葉を止めて今度は斉藤を睨んだ。
「…斉藤先生、本当は知っていたんじゃありませんか?」
「何を?」
「陸援隊に新撰組の間者がいたことです」
「…新撰組の?まさか」
斉藤は動揺しなかった。これくらいのことで眉一つ動かすはずがないが、水野は完全に「知らないはずがない」と決めつける。
「俺は…俺にとって陸援隊が悪くないと思ったのは村山がいたからです。何度も逃げまわって、やっと居場所を見つけた。それなのにあいつは…新撰組の間者だと自分で明かして、正体がバレた以上逃げ場はないのだから俺に殺せと」
「…その村山という者が自分で正体を明かしたのか?」
「あいつは長州者で真面目で短気で…そんなことを疑うやつなんで誰一人いなかった。それなのに…黙っておけば、良いのに…!」
水野は「くそ!」と机を叩き、その揺れで並々と注がれた酒が零れた。
「信じてやれば良かったのに…そんなはずないって思っていれば良かった。なんで俺が…あいつを追い詰めなきゃならないんだ…」
机に突っ伏した水野は肩を震わせる。
飄々としていた彼のその動揺を見る限り、村山は特別な友人かそれ以上の関係だったのだろう。間者の立場を忘れて「まさか」「そんなはずはない」と一切疑わずに信頼した代償がいま返ってきた。
(どいつもこいつも…間者に向いていない)
斉藤はため息をついた。
「足元を掬われると忠告したはずだ」
「…」
「その村山という者はお前よりよほど肝が据わっている。どういう間柄か知らないがいっそ望み通り殺してやったらどうだ。新撰組はお前が間者として入隊したことを聞きつけて、その監視を含めて村山を忍び込ませたのだろう。舐められたものだな」
「…俺はどう思われたって構わない。だが…俺は、あいつを殺したくはない」
「ではそうすれば良い」
斉藤の言葉で、水野はようやく顔を上げた。
「この一大事に新撰組の間者などに構っている暇はない。お前が守り通せるのなら、守り通せば良い。…ただしその責任はお前自身で負うことだ」
斉藤は席を立ち、
「前は俺が払った。勘定はお前が持て、貸し借りはしない主義だ」
と言い放った。酔ってまともな判断力を失った者に付き合う時間はない。そして
「つくづく、お前は間者に相応しくない」
そう再び言い残して、去っていった。
739
大政奉還とは、平和裏に政の形を変える手段であった。土佐藩隠居でありながら絶大な影響力を持つ山内容堂は、幕府に恩義を感じながらもその弱体化を止めることはできず、後藤象二郎らの提案を受け政権を朝廷に返還する旨の大政奉還の建白書を提出した。政権を返上し帝の元に集う新しい政を模索する。しかし薩摩や長州などは徳川慶喜がこの案を突っぱねるに違いないと見越し兵を都へ集結させ、この建白書が却下されるのを皮切りに戦へ突き進むつもりだったのだ。
「肥後守」
「…はっ」
二条城へ出仕した会津公は頭を下げた。人払いされたためこの広い部屋には二人きりであり、内密の話だということはわかっていた。
「余は愚か者ではない。容堂の案は踏み絵で、これを踏まなければこれ幸いと薩長が戦を仕掛けてくるのだろうし、土佐もそれに加わる。いや、おそらく土佐だけではない…内戦が起こるだろう」
「…」
「このたびの討幕の勅は偽勅かも知れぬが、どうせ近々同じような勅が下される。死んだ原も大政奉還を勧めていた…政権を返上すれば戦の口実はなくなる。その場しのぎかも知れぬが戦は避けられるのだ」
大樹公の言葉に迷いはない。
「…余は、最後の将軍となりこの幕府を終わらせる、その為に生まれたのかも知れぬ。…ひとつ心残りなのは将軍として城に足を踏み入れることができなかったことだな」
大樹公は苦笑したが、会津公は何も言わずに耳を傾けた。
「…ただ、簡単には終わらせぬ。この二百余年の重みは例え終えたとしても消えぬもの。政権などくれてやるが、どれほど難しい舵取りか…それを薩長の奴等にわからせねばならぬ」
簡単に取って代わるものか。
その言葉には威厳と誇りが滲む。徳川宗家を継いでおきながら将軍職を辞退しようとしたとは思えぬほど力強い決断だった。
会津公は今まで距離を感じていた主人の、本質に触れた気がした。
(誰がなんと言おうと…この御方は大樹公なのだ)
幕引きの為の将軍だとしても、会津にとって裏切れぬ存在なのだ。どれだけ不遇の扱いを受けていたとしても。
「とにかく、戦だと息巻いている奴らの鼻を明かす。肥後守、良いな?」
「…鼻を明かすというのは、いかがなものかと」
「余はお前のそういう堅物さが気に入らぬ」
ふん、と主人は不服そうだが、会津公の口元は緩んだ。
そして改めて姿勢を正し、頭を下げた。
「上様のご英断に従います。万一、戦となったとしても我々は上様の盾となるべく、兵を率いて馳せ参じることをお約束いたします」
慶応四年十月十四日。
「大政奉還…」
近藤の顔色は悪かった。山崎も難しい顔をして、永倉と原田も唖然とする。そして総司は詳しいことはわからなくても(大変なことになった)ということだけをひしひしと感じていた。
昨日、二条城に出仕した多くの大名の前で、大樹公は幕府の大政奉還の意向を示され、そして本日十四日に朝廷へ正式に提出されたのだ。政権だけは手放すまいという下馬票を覆す大きな決断となり、幕府の存続を求めていた近藤にとっては、まさかの展開であった。
状況の飲み込めない原田は「あのさ」とおずおずと手を上げる。
「俺たちは幕臣であり武士だよな?」
「…幕府がなくなったのだから幕臣ではないが、徳川の家臣であることは変わりない。それに公方様は将軍職辞任までは言及されていない。家臣が納得しないと」
「でもそれも時間の問題ですね…政権を保持しない将軍など意味を為さない」
永倉の冷静な指摘に近藤は力無く頷く。重苦しい空気のなか
「ま、まあ、すぐに薩長の奴等が攻めてくる理由は無くなったよな?奴らの希望通りに政権を返上してやったんだ。この隙に俺たちは兵を集めて軍備を整えて、薩長に勝てばまた元通りになる…なぁ、そういうことだよな、ぱっつぁん」
原田が永倉を肘でつつく。流石に永倉も言葉を紡げなかったようで、押し黙るしかない。
部屋に重たい沈黙が流れるが、山崎は腕を組んだまま
「上様はとても知恵の回る御方です」
とぽつりと呟いた。
「どういうことだ?」
「徳川家は三百年近く政権を担ってきました。突然、返上されたかて幼い帝と長く政から遠かった朝廷には手に負えず、薩長が取り仕切るにはまだ時間がかかるでしょう。それに徳川家は八百万石の大大名…薩長が目指す合議制の政において不可欠な支配力がある。政権が朝廷に移行したとて、徳川家は今ならその中心で絶大な力を持つでしょう」
今度も徳川家の立場は守られる…近藤は山崎の言葉に光明を見出したのか、青ざめた顔に表情が戻った。
「その通りだ!上様はそのおつもりで政権を返上なさったのだろう。我々は幕臣ではなくなってしまったが、徳川の家臣として忠誠をつくす、それだけだな!」
近藤はどうにか正気を取り戻したが、総司はどこか遠い国の話のように想像ができなかった。
一先ず解散となるなか、総司は山崎を引き止めた。
「山崎さん、ありがとうございます」
「…はは、土方副長のようにはうまく立ち回れまへん」
総司は山崎がどうにか理由をつけて近藤を慰めようとしたのだと感じた。彼は少し照れくさそうにしたが、その表情もすぐに引き締まって緊張した。
「せやけど…そう上手くいきますまい。薩長の幕府への憎しみは例え政権を手放したとて消えぬもの。それに政権を返上すれば手のひらを返して薩長につく藩も出てくるやろうし…会津のようにはいかん。たとえほんの数ヶ月猶予が生まれても、戦になる運命は避けられへん」
「…」
「…まあ、今は早う副長に戻ってきてもらいたいものです。近藤局長にとって一番の慰めになるでしょ」
「本当、その通りですよね。こんな時にいないなんて困った人です」
総司は山崎と共に苦笑した。
そうしていると物陰から気配がして、二人同時にそちらへ視線を向けた。現れたのは傘を深く被った大石だった。
「どうした?」
「…村山が投獄されました」
「なんやて?」
山崎の表情が再び歪む。
「間者であることが露見したようです」
「…またボロを出したか」
「わかりませんが、本人は頑なに認めてはいないようです。しかし、他から確かな進言があり近々斬首になるだろうと」
「捨て置け」
山崎は吐き捨てた。あまりにとりつく島もない言い方だったので、いつも淡々としている大石の方が「しかし」と食い下がったが
「戻って露見したら見捨てる…そうゆう約束や。村山も弁えてるやろ」
と今回ばかりは厳しい態度を崩さなかった。二度目の失態を擁護することはできず、大石は視線を落とし「承知しました」と頷いた。
「それより、誰が進言したかが問題や。御陵衛士の橋本か…それ以外に思い当たる者は?」
「…調べます」
大石は短く返答し、背中を向けた。監察に異動になって以来、何の感情もなく淡々とやり過ごしているように見えたが、彼なりに思うことがあったのだろう。
やり取りを黙って聞いていた総司はため息をつく。
(こうなってしまったか…)
「…風向きが悪いなあ」
突然、村山が陸援隊屯所内の獄舎に繋がれることになったのは、水野に正体を告げてから数日後のことだった。
まさに討幕の密勅の知らせがもたらされ、陸援隊内でも戦へ向けて機運が高まっていた時だ。
「おんしが新撰組の間者だという進言があった」
ひとりで詰碁をしていたところで数人の土佐者に囲まれ、村山は詰問に遭った。ちょうど水野は不在だったため誰も助け船を出すことはなかった。
「長州者のふりをして騙そうという腹やったのか」
「先日の捕縛は芝居やろう」
「いったいどんな情報を漏らした?中岡先生の所在か?」
そのどれも返答せず、
「俺は正真正銘の長州人じゃ。憎き新撰組の間者であるはずがない。何かの間違いじゃ」
村山は総司との約束を守る為に頑なに認めようとしなかったが、一度疑われた者の言い分が簡単に通るはずがないとわかっていた。そのため投獄されることには抵抗せず素直に応じた。
彼らに縄をかけられて、衆人環視のなか家畜のように強引に引っ張られていると、水野と鉢合わせた。村山の姿を見て青ざめて
「一体何の真似や!!」
と激昂し、土佐者の一人の胸ぐらを掴む。しかし流石に一人ではどうすることもできずに彼らに囲まれて揉めて突き倒されてしまった。
「水野君…!」
「こいつはあの新撰組と通じちょったがじゃ!」
「…何かの間違いや!」
「文句があるなら中岡先生に言え」
村山は強く縄を引っ張られ、足をもたつかせながらどうにか振り返る。水野は顔色が悪いまま呆然としていた。
そうして連行されのは、獄舎と言っても家畜が飼われるような造りで、長年使われていないせいで埃っぽい場所だった。しかし檻だけは頑丈で見張りがいなくても逃げ出せそうになく、檻の中に数人がかりでゴミのように投げ込まれたが、村山はこれだけは尋ねなければならないと
「いったいだれがそねな根拠のない話をしたんじゃ?」
と尋ねた。すると見張り役になった土佐者が
「知らん」と一蹴した。
村山は力無くその場に座り込みながら、
(…水野じゃないんか…)
と少しだけ安堵した。
もし水野なら、彼らは二人の関係を嘲笑い「そらみたことか」と皆が口汚く罵るだろうし、彼らの詰問に水野の名前は全く出てこなかった。それに先ほど必死に引き留めようとした姿は上手な芝居などではなく、本心だったぢろう。
村山は膝を抱えて、背中を丸めた。
突然のことで驚いたが、混乱することなく平静を保っていられた。
(結局…結末は決まってたんじゃな)
水野でも、他の誰でも、自分の正体が露見した時点でもう間者の命運は決まっている。山崎が言っていた通り生き延びたいならここに戻ってくるべきではなかった。その覚悟をしていたけれど、技術と経験のなさがこの結末を導いてしまったのだろう。すべては自分の招いたことでだれも悪くはない。
不思議なことにこの先のことへの不安はなかった。ただ心残りがあった。
(それなのに…あいつに引き際を託したのは、卑怯じゃったな)
『君は残酷だ』
水野は哀しそうに顔を歪めていた。恋人の告白と裏切りは何よりも彼を傷つけたのに、その上、殺してくれなどと頼むのは彼に一生癒えない罪悪感を与えるだろう。正体を隠していたことへの村山なりのケジメだったが、彼にとっては苦痛でしかない。
(だからこれでよかった…)
このタイミングで間者だと疑わられれば、いくら村山が正体を認めずとも内側からの情報漏洩と裏切りを防ぐ為に確実に処刑されるだろう。これで総司との約束を守れるし、水野の手を汚さずに済む。
(阿呆じゃのぉ。守るべきは自分でも新撰組でものうて…あいつだけじゃったのに)
そんなことに今更気がつくなんて。
740
中岡は相変わらず姿を眩ませていた。戦への機運が高まったところで、慶喜公が政権返上を受諾するという奇策で頓挫してしまった…その苛立ちと困惑は隊内に充満しており、そんななかで村山が新撰組間者として投獄されたことは、彼らの感情の吐き出し口としてうってつけのタイミングであった。満足な食事はもちろん、暴言や暴力を振るわれながら村山は中岡自身の裁断を待つ日々を過ごしていた。
「この先に通すわけにはいかん」
「…頼む、少し話がしたいだけや」
居ても立っても居られない水野は何度も懇願していた。
村山が監禁され、中岡の判断を待つと知らされた時から何度も足を運んでは断られていた。最初は「間者を庇うつもりか?」「おんしも村山の仲間か?」と疑われ相手にされなかったが、日に日に憔悴していく水野にやがて彼らも同情し始めた。
「村山のことは忘れた方がえい。おんしも騙されちょったんや」
二人が念者同士だと知って疎ましく思っていた隊士すら水野を慰めるが、本当のことを誰も知らない。
村山は確かに新撰組の間者で、水野もまた御陵衛士の間者。それを互いに知っていて皆を騙していたのだ。
(いったい誰が村山君をこんな目に…)
水野は斉藤に断罪され、数日頭を冷やしようやく覚悟を決めたところだった。この秘密を抱えて彼と生きていくーーーそれが間者として失格であっても水野の選んだ道だった。頑固な村山をどう説得するか悩んで帰営すると彼は捕縛されていたのだ。
村山は尋問にはまったく答えずに処断を待っているらしい。自分の口から絶対に正体を明かさないのは、間者としてそして新撰組隊士としての矜持なのかもしれない。
(それでも、俺には話してくれた…)
真面目な村山が水野にはルールを破ってまで正体を明かした。そして土佐蜂起という絶好の知らせを『内密だと言ったから』という個人的な理由で新撰組へ伝えずに、水野を信じた。
水野を本気で好きになったから。
村山は任務よりも私情を優先し、彼はその正体を隠していたこと以外では、一度も裏切らなかったのだ。
(それなのに俺は…疑って、試した)
好きだったから、信じたくて…疑いたくないから確かめずにいられなかった。でもそんなのは村山の前では言い訳にしかならないだろう。
水野は身体の力が入らぬまま、ふらふらと縁側に腰を下ろす。秋の涼しい風が乱れた髪を揺らした。
(いつもここで囲碁をしたな…)
あの大きくて曇りのない瞳が碁盤を一心不乱に見つめていたことを思い出す。戦況に一喜一憂し、時に喜び時に悩み時に悔しがる…水野はコロコロと表情が変わる村山を碁盤を挟んで眺めているのが好きだった。白と黒の二人だけの世界を共有する…静かで穏やかな時間が何よりも大切だった。
目を閉じるとあの竹林の笹鳴りが聞こえてくる。
(今この時でさえも…あの竹のように君は真っ直ぐに生きているのだろう)
君はあの竹林のように光に向かって突き進み、誰にも折れることなく伸び続ける。だから、
(だから好きになったんだ)
儘ならぬ現状を思い出し水野の指先に力が入った時、遠くがワッと騒がしくなった。
「中岡先生がお戻りちや!」
誰かが叫んだのが聞こえ、水野はハッと立ち上がり駆け出した。隊士たちを押し退け足を止めることなく部屋に駆け込んだのだところ帰営した中岡が羽織を脱いでいた。
「驚いたな、君か」
「話を聞いていただけませんか!?」
「…良かろう、聞いちゃる」
中岡は既に察したようで、すぐに人払いをして障子を閉めた。
「長居はできん。土佐がついに幕府を見捨てて戦へ向かうことが表沙汰になって、幕吏に追われちゅーきな」
「構いません!お話ししたいのは…村山のことです。あいつは新撰組の隊士のはずがない、長州の生まれです。間者などありえません!」
「そう単純じゃない。生まれた国が同じでも考え方は人それぞれや…それは土佐で嫌というほど見てきた。それに…村山君の件は確かな筋からの情報や」
「確かな筋とは!」
「言えるわけがあるまい」
必死な水野に対して、中岡は取り合うつもりはなくせせら笑うだけだった。おそらく御陵衛士よりも信頼のおける相手なのだろう。
「水野君…いや、橋本君、正気に戻りや。君たちが念者の関係だとしても、これ以上彼を庇うというのなら君の立場も危うい。村山君が新撰組の間者であることは間違いないし、御陵衛士とは関係を悪うはしたくない」
「しかし…!」
「それとも…共に心中でもする気か?」
中岡の眼光が鋭くなった。土佐の一隊をまとめる凄みに水野は少し視線を外してたじろいだが
(何を躊躇う必要がある)
と自分を奮い立たせでもう一度中岡へ視線を戻した。
「…はい。村山が死ぬことになるのなら、俺も共に逝きます」
彼と共に生きる道以外に行きたい場所なんてもうない。散々探し求めて見つけた…それが失われるくらいならあの世で暮らす方がまだマシだ。
すると中岡は沈黙した。水野がそこまでの覚悟を決めているとは思わなかったのだろう。しかし理解は示さなかった。
「この天下の大事に…大局を見んで些細なことに囚われるなどつまらん男や」
中岡はほとほと呆れたようだった。そして脱いだものとは別の羽織に袖を通して紐を結び、腰に刀を帯びる。再び外出するようだ。
「勝手にしろ。おんしらに構うちゅー暇はない。村山は何があっても斬首や、おんしもそうしたいちょいうのならそうしろ」
中岡はそう言い捨てて水野を部屋に置いて出て行った。
村山が閉じ込められている場所はおよそ人が閉じ込められるべき場所とは言えず、おんぼろの狭いウサギ小屋に、不似合いの頑丈な鉄檻が刺さっているようなところだった。逸る気持ちを抑えきれない水野に二人の見張りが立ち塞がる。今度はどちらも水戸者だった。
「人払いを頼む。隊長には許可はもろうてる」
「貴様、何企んでる?中岡先生まで言いぐるめで」
「この者は間者だぞ」
彼らが陸援隊のなかで水野と村山の関係をよく思っていないことを知っていたので、水野は薄く笑った。
「なんや…念者同士の睦言に興味でもあるんか?」
「なっ ありえねえ!」
「ええからあっちに行ってろ!隊長の許可は得てるんや!」
水野は強く睨みつけると、二人は不承不承ながらも「少しだけだ!」と言いつけて離れていきようやく、村山に会うことができた。村山は背中を向けて倒れていた。
「村山君…!村山君、無事か?!」
「…みず…の?」
鉄檻越しに水野が呼ぶ。村山は気を失ってきたのか、水野がきたことに気がついていなかったようで、顔だけ動かせてしばらくぼんやりとしていた。そして呻き声をあげながらまるで鉛の体を持ち上げるようにして上半身を起こした。頬はこけ手足を拘束され、乱暴な仕打ちを受けあちこちに傷を負っていて、見ていられない姿に成り果てていた。
水野は檻の間に腕を差し込み、彼の手を握った。その小指はあらぬ方向に折れ曲がっていて、村山の受けている酷い仕打ちに頭が沸騰しそうになった。
「…村山君…!無事か?怪我は…」
「ああ…夢じゃないのか…本物じゃ」
「そうだ、本物だ。遅くなってすまない…!」
水野は村山を強く引き寄せて抱きしめた。二人の間には鉄の檻があったが、それでも温もりを感じることはできた。
抱き寄せられた村山は「ふっ」と笑った。
「なんだ…水野君が告げ口したんじゃないんやな」
「当たり前だろう、まさか疑っていたのか?」
「疑ってない。君を本気で疑ったことなんて…一度もないよ。君とは違う」
村山は笑みを浮かべ心配する水野へ茶化すように言ったが、
「そうだ…村山君のいう通りだ。俺は一度だけ疑った。悪かった…俺が悪かった、君は怒って良い」
と真剣に返した。すると村山は罰が悪かったのか「怒らないよ」と微笑んだ。
「俺が不甲斐ない間者なのは間違いないんじゃ。賢い君はただそれに気づいて、不安で本当のことを確かめたかったんじゃろう。信じたいと思ったから、試したんじゃろう?」
「それは…」
「俺はこの通り、鈍感じゃからわからんかったけど…この檻に入れられてようやく気が付いた。俺が君の立場なら同じことをしていたかもしれないし、信じられなかったはずじゃ。君を責められる立場じゃないのにひどい言い方をしてすまなかった。…ましてや最期を託すなんて無責任じゃった」
「村山君…」
水野はさらに強く抱きしめると、身体を痛めつけられている村山は「痛いよ」と苦笑した。
「ありがとう…」
ようやく分かち合えたというのに、どうしてこんなに冷たくて無機質な檻が、二人を阻むのだろう。水野はもどかしくて仕方なかった。
互いの熱を共有できたあと、村山は一息ついた。
「…水野君、どうやら俺の正体はバレてしまったようじゃ」
「ああ…中岡は『確かな筋』からの知らせだと、取りつく島もなかった」
「そうか…仕方ない。俺はこうなることを覚悟して隊から戻ったんじゃ…それに全部本当のことじゃ。ただ認めるわけにはいかない」
村山はもう諦めていていっそ清々しい表情を浮かべて、水野の胸を押して離れた。
「水野君、これ以上俺に関わると君の立場が悪うなる。俺に騙されたことにして、このまま任務を全うした方が君のためじゃ」
「残念ながら…もう俺には無理だ」
「なんで」
「さっき見放されたところだ。俺には間者の才も覚悟もない…こうならなくてもどうせ伊東先生の顔に泥を塗ることになるだろう。だったら君と死ぬ」
水野はできるだけ深刻にならないように軽い調子で話したが、村山は唖然としていた。
「…水野君…」
「そうだな、その辺でひと暴れして何人か殺して、君と同じこの檻のなかに入ろうかな。それとも俺も御陵衛士の間者だと明かすほうが簡単か?一緒に斬首してくれと頼めば聞いてくれるだろうか…村山君も頼んでくれよ」
水野は村山に再び手を伸ばす。けれど彼は硬い表情のままその手を取ることもなく、腰を引いて逃れて、ただ首を横に振るだけだった。
「駄目じゃ…そんなこと、俺は望んでない」
「俺はそれで良いんだ」
「俺は嫌じゃ。君を道連れに死ぬつもりはない」
「村山君…」
村山にきっぱりと拒まれ、今度は水野の方が言葉に迷った。
戸惑うにしても理解して受け入れてくれると思っていたのに、村山は水野が伸ばした手すら取る素振りもないのだ。水野はゆっくりと手を降ろすしかなかった。
土埃だらけになって痛めつけられ、頬が腫れているのに、彼の真っ黒な瞳だけは相変わらず光を吸収し川面のように反射し、輝いている。
「俺は間者として失敗したんじゃ。故郷を捨てて皆んなとは別の生き方をした…その選択は後悔してないし、責任は俺自身がとりたい。だからここで殺されることに何の不満もないんじゃ。…ただ君が俺に騙されたと後ろ指をさされてしまうのは申し訳ないけれど」
「そんなことはどうでも良い…!」
「うん…なんでかな、君ならきっと大丈夫と思うんじゃ。無責任じゃけどな。…だから、気持ちは嬉しいけど一緒に死ななくて良い。君はきっと任務を全うできる」
村山はこんな時でさえ、水野の行く末を案じ自分のことは達観しているように見えた。
脇目も振らずに真っすぐに生きてきた…村山の生き方はまさに不器用そのものだ。彼は斬首されるその瞬間でさえ後悔せず、嘆くことなく受け入れてしまうのだろう。
けれど水野は違う。
「…村山君…俺は大した人間じゃない。天狗党から逃れ、新撰組を投げ出し、御陵衛士にすら居れずにこんなところにいて…君のように真っ直ぐ生きられない。そんな自分を恥じていたけど、君を好きになってようやく自分のことを受け入れることができた。今はこういうどうしようもない生き方をしてきたから君に出会えたのだと、過去の自分を褒めてやりたいくらいだ。だから…君を失うのなら、もう生きている意味はないんだ」
全然、大丈夫なんてことない。
村山と出会ってしまった、だから君がいない世界なんて忘れてしまった。
(君を好きになってしまった)
だからもう一人では生きられなくなってしまったんだ。
「村山君…俺を連れて行ってくれ」
水野の頬に涙が流れた。子どものころに泣いてからずっと枯れていたはずなのに、まるで湧き出る泉のように絶え間なく頬を伝っていく。悲しさと孤独と…言いようもない虚しさが押し寄せてくる。なぜこんなことになってしまったのか…嘆きの涙でもある。
すると離れていた村山が近づいてきて、水野の頬を掌で包んだ。そして小さな子を慰めるように指先で涙を拭い、コツンと額を重ねた。
「…真っ直ぐ生きるだけが全てじゃない。早く死ぬより、生き延びることの方が立派なことだってある。君はよっぽど俺より器用じゃし、だれとでも打ち解けられるじゃろう。俺は君には…生き延びてほしいんじゃ」
「嫌だ…村山君、だったら君もここを出てくれ」
「はは、俺にはもう無理じゃ。でも…本当はもっと生きて、この世がどうなるのか見届けてみたかった。それを君が叶えてくれ」
村山は水野に口づけた。血の味が混じる口づけは、けれど今までで一番熱く、甘く…切なかった。
そして指先でうねった水野の髪に愛おしそうに触れた。
「陸援隊でも、御陵衛士でも…それ以外の場所でもどこでも良い。俺は君の傍にいるから、長く長く生き延びて…この先を見せてくれよ」
村山は笑った。今までで最も穏やかで優しい笑顔だった。
そして懐から黒と白の碁石を取り出した。捕縛される際にどうにか掴んで持ち出したものだ。
「この檻に入れられて気が狂いそうな時は君との囲碁をしていることを思い出していた。ああすれば勝てたとか、こうしたから負けたとか、そんなことを考えたら、あいつらに何をされても平気じゃった」
村山は手の指を絡めた。そして続けた。
「水野君…君は、いつも黒の石を選んでたな。白は天の色、黒は大地の色なんだっけ?君の言っていることはようわからんかったけど…君と碁盤を囲んだ時間は一番楽しくて幸せじゃった。そんな君と念者になれたことは俺の誇りでもあった…それは紛れもなく本当のことだ」
村山は折れた指をどうにか駆使して、水野に碁石を握らせた。白と黒が一つずつ…まるで自分たちのように。
「これは君に…今度は君を支えてくれる」
黒の石は、何の信条もない真っ暗な自分のようだと思っていた。けれど白の石は村山そのものだ。真っ白で曇りない心を持つ彼は天の色をしている。
「水野君、君が好きじゃ。好きな人にはいつまでも幸せに長生きしてほしい…それは当たり前じゃろう?」
「…村山君…君は本当に…頑固者だな」
二人は改めて碁石を包むように手を握った。
そうしていると見張りの水戸者が「いつまで話し込んでいるつもりだ!」と遠くで怒鳴っているのが聞こえてきた。もう時間がない、と二人は意識する。
水野は「わかった」と彼の決意を受け入れ、そしてこれだけは、と囁いた。
「村山君、同じ言葉を俺も君に返す。強情で頑固で…真っ直ぐな君が、俺も好きだ」
「うん…ありがとう」
「だから、また会えると信じてる」
「ああ」
二人は離れがたい気持ちを押し殺しその手を解いた。
この手を離すことが、彼への愛情だと信じるしかなかったのだ。
そして二人は二度と会うことなかった。
734 実際に村山は一度新撰組によって捕縛されています。その捕縛時に情報の伝達(おそらく土佐蜂起の話)を伝えたと考えられます。