わらべうた
741
三度目の江戸での隊士募集では、二十名ほどを入隊させることとなり、世情の変化も著しいため早速都に向かうことになった。
試衛館に戻り、隊士を集めて出立の準備を進める。
「案外、少なかったな」
井上が集まった顔ぶれを眺めながら腕を組んだ。土方は名簿に目を通しながら頷いた。
「ああ…だが近藤先生からの文では、京で入隊希望者が何人か集まっているらしい。それと合わせれば御陵衛士が抜けた分は充分埋まるだろう」
「…あれが田村の弟たちか?よく似ている兄弟だな」
井上が視線で土方に尋ねた。その先には二人の若い青年がいる。
「ああ、田村録五郎と銀之助だ」
すでに新撰組に入隊している長兄の田村一郎の弟である二人は利発そうな顔立ちのよく似た兄弟だ。しかし末弟の銀之助は十二歳で最年少だ。土方は一抹の不安を覚えるが、井上は
「賢そうな子じゃねぇか。将来有望だ」
と楽観的に笑うので何も言えなかった。面倒見の良い井上に任せたら良いのだろう。
土方は名簿を井上に預けて「大先生に挨拶してくる」と出立の挨拶へ向かった。
奥の間の静かな部屋で寝たきりの周斎は土方や井上が来ると目を覚まして反応を見せるが、それ以外はずっと眠っている。食事も喉を通らず痩せ細る姿を目にするのは心が痛む。
(もう長くはないだろう…)
そう思うとこれが永久の別れになるかもしれない。試衛館を離れることが気がかりで後ろ髪をひかれる思いだったが、ふでとつねに背中を押されて予定通りに出立することに決めたのだ。
土方は眠る周斎に呼びかけた。
「大先生、土方です」
「…ああ…」
「これから都に戻ります」
周斎の目が薄く開く。天井を見つめたまま「そうかそうか」と噛み締めるように何度か繰り返した。
そしてゆっくりと視線を土方へ向けた。かつて厳しく稽古をつけた勇猛な姿は何処にもないが、落語を好み食客たちを受け入れた穏やかさは滲み出ているようだった。
そしてまた
「歳三、勝太を…頼むな…」
と以前と同じことを繰り返した。いまは遺していく息子のことで頭の中がいっぱいなのだろう。
「もちろんです。勝太は近藤家の跡取りで天然理心流の四代目です」
「…ああ、それで良い…」
周斎はそれ以上は望まないという顔をしていた。血の繋がりのない養子である息子が、どれほど出世しても、周斎にとっては家と道場を守ることが最上の望みだったのかもしれない。
土方が周斎との別れを感じていると、その静寂を破るように急にバタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。
「何事だ?」
「すまん、歳!」
駆け込んできたのは井上と少年…件の井上泰助だった。
泰助はやはり親の井上松五郎の許可が下りずに入隊を却下していたのだが、彼は眉を吊り上げて目を見開いて土方を見据える。そして正座して頭を下げた。
「俺も連れて行ってください!必ずお役に立ちます!」
「馬鹿野郎、兄貴の許しを得てない奴はダメだとあれほど言っただろう!」
「親父は『勝手にしろ』と言いました!だったら入隊しても良いってことです」
「泰助!」
聞き分けのない甥を井上が叱り、「すみません、大先生」と言いながら首根っこを捕まえて引っ張るが、泰助は抗い続けた。
「おじさん!若けえって理由なら俺は納得できねえ!さっき俺より幼ねぇ奴だっていたじゃねえか!」
「お前とは話が別だ!あれの兄貴がすでに入隊してる」
「別なもんか!だったらおじさんの甥の俺だって…!」
「ああうるせえ!大先生にご迷惑だろう!」
井上はパシッと泰助の頭を叩き、今度こそ引き下がろうと渾身の力で引っ張るが泰助は耐え続ける。
そのやりとりに土方は呆れていたが、寝床の周斎が「フフ」と笑っているのが聞こえた。
「大先生…?」
「歳…連れて行ってやれ…」
「しかし泰助はまだ若く、松五郎さんも反対しています」
土方は夢現の周斎が状況を理解しているのかわからなかったが、周斎は焦点が合わないまま微笑んでいた。
「若くて、生きが良い。…昔の勝太の、ようだ…きっと役に立つ…」
懐かしそうにする周斎を見て土方は改めて泰助を見た。融通の気がなさそうな頑固者は、鬼副長を前にしても怯まず、
「俺も連れて行ってください!」
と懇願する。確かにその諦めの悪さは若い勝太に重なるものはある。
出立を前にして泰助を追い返すのはとにかく、周斎の申し出を却下することができるはずもない。土方は深いため息をついた。
「…雑用係からだ。見込みがなさそうなら帰らせる」
「あっありがとうございます!」
泰助は満面の笑みで喜んだ。後ろにいた井上は複雑そうにしていたが、「やれやれ」と肩をすくめるだけでもう何も言わなかった。近藤の兄弟子である井上は周斎の愛弟子なので、大先生の言うことは絶対だ。
土方は二人を追い出してようやく静かになり、再び周斎へと向き直った。
「…大先生、落ち着いたら勝太をこちらに戻らせます。それまでどうかお元気で」
「ああ……皆に、宜しくな…」
「はい」
土方は深々と頭を下げた。
若い頃、薬売りをしながら道場に通い、いつまでもふらふらと腰を据えない土方を、周斎は急かすことなくいつも受け入れてくれていた。その日々があるからこそ覚悟ができて、幕臣まで出世することができた。
(ありがとうございます)
面と向かって口にするのは憚られて、心の中で深い感謝を捧げた。
「いってらっしゃいませ」
ふでとつね、そして近藤の娘であるたまに見送られて試衛館を出立し、都を目指す。
張り切って参加した泰助は早速、隊士たちに溶け込み年の近い田村銀之助と並び歩き旅を楽しんでいる。あまりに緊張感のない様子で
(京見物にでも行くつもりか?)
と、土方は喉まで出かかったが、京につけば否が応でも厳しい現実を突きつけられるのだから今のうちだろう。
そして泰助以外にも隊士たちの中に一人、目立つ青年がいた。
「ちびっ子たち、腹減ってるだろう?菓子はどうだ??」
「野村さん!俺たち『ちびっ子』って年じゃないっすよ!」
「じゃあ菓子はいらないんだな?」
懐から飴玉を取り出して泰助をからかっているのは、野村利三郎。美濃出身の若者で剣の腕はそこそこだが、井上に対して引けを取らずに果敢に攻め込む姿勢が目に留まり、入隊を許された。齢は総司と同じくらいで、持ち前の明るさですっかり新入隊士たちの中心となっていた。やや強引な距離の詰め方は原田に似たところもあるので、新撰組でもすぐに馴染むだろう。
「歳…じゃあなかった、土方副長。もうすぐ日が暮れる、この先の宿に泊まっていくか?」
試衛館を離れ、再び部下になった井上が尋ねたが
「いや、もう一つ先の宿まで行くつもりだ」
と足を速めた。長い付き合いである井上は土方が先を急ぐ理由を理解していた。
「総司の奴はもう良くなったのか?」
「…ああ。近藤先生からの知らせには小康状態だと書いてあった」
「季節の変わり目だ、仕方ねえ。それに討幕の密勅だとか土佐の蜂起だとか…落ち着かなかったんだろう」
「そうかもな…」
総司からの文が途絶えた時、自分でも驚くくらい落ち着かなかった。以前は総司を江戸へ帰すつもりだったことが信じられないくらい、離れていると妙な想像が働いてしまうのだ。
ようやく帰京することになり、少しでも早く戻りたいという気持ちが止められなかった。
井上もそんな土方の心情を感じ取っていた。
「…土方副長、総司をいつまで前線に出すつもりだ?」
「…」
「俺は血を吐くたび、寝込むたび…見ていられねぇ。小さい頃から知っているからな…」
井上は振り返り、野村とじゃれあう泰助に目を細める。井上にとって縁戚に当たる総司は泰助と同じ甥のような存在なのだろう。
しかし土方は明確に答えられなかった。
「総司が自分で身を引くまで、待つつもりだ。もしくは近藤先生が判断する」
「そうか…」
井上はまだ何か言いたいことがあるようだったが、あえてそれを飲み込んだ。
その時だった。土方たちの背後からパカッパカッパカッパカッと馬の蹄の音が近づいてきたのだ。それはとても急いでいるようで勢いに押され隊士たちが道を開けると、あっという間に土方の近くまでやってきて、「ヒヒ―ン!」という嘶きとともに止まった。馬上の人物は手慣れたように手綱を引いて捌き、その姿は役者絵のようにあまりに様になっている。隊士たちも突然現れた彼に釘付けだ。
「土方さん!」
「伊庭?」
馬上の伊庭はいつも達観して余裕のある表情をしているが、いまはそれも歪み穏やかではない。土方の姿を見つけるや飛び降りて駆け寄ってきた。
「探しましたよ!試衛館に行ったらもう出立したと聞いて…!」
「急用か?」
「大政奉還ですよ!」
「は…?」
「公方様が容堂公の建白を受け入れられ、大政奉還が成立したんです。十四日に!先ほど養父のところへ知らせが…!」
伊庭の必死な様子を見ると冗談ではないとわかるが、土方には現実味がなかった。慶喜公は何があっても政権だけは手放さないだろうというのが大方の見方で、近藤からの知らせにも悲壮感はなかったのだ。
呆然とする土方の腕を掴んで、伊庭は叫ぶ。
「幕府が終わったんですよ!」
一体何の騒ぎだと困惑していた隊士たちは、伊庭の一言で顔色を変えた。話の意味が分からないのは泰助くらいで「まさか」「そんな」と動揺が走る。
土方も頭の中では理解していた。これは慶喜公の奇策で討幕へ動こうとする西国を先制するために政権を手放したのだろう。そうすれば徳川家を守ることができ、一時的に内戦を止めることができるのだ。江戸にいた隊士たちは急転直下の展開に思えるだろうが、幕府はすでに弱体化してとても戦に勝てる状況ではないのだから間違った判断だとは思えない。
けれど、どこかでぽっかりと穴が開いた気持ちなのは否定できなかった。
(これから…どうなるのか)
暗雲が立ち込めるとはまさにこのことなのだろう。
しばらく言葉が出てこなかった。
742
討幕の密勅は撤回されたが、戦への緊張感は続いていた。
「やはり公方様は将軍職を辞職されたが、江戸の幕臣たちへ上京命令を出したようだ。来るべき戦に備えているのかもしれない…」
近藤は目まぐるしく情勢に疲労しているようで顔色が悪い。ついつい吐くため息も日に日に深くなっているようだった。
総司は「別宅に行かれては?」と提案したが首を横に振る。
「別宅に行っても心休まらぬ」
「でも…」
「そうだ、もう少ししたら歳が帰ってくるんだ。飛脚から手紙が届いた。歳が帰ってきたら休ませてもらうよ」
近藤は手紙を総司に差し出した。二十名を連れて尾張を過ぎているそうだ。そして大政奉還についても詳細は触れずに「戻ったら話し合おう」と書き記してあった。
「さすがに土方さんの耳にも入ったんですね」
「ああ。歳のことだからあれこれと策を弄しているだろう。きっと良い考えが思いついているはずだ…」
近藤の言葉には覇気がない。積もり積もった疲労と、先の見えない現実に鬱屈しているのがわかる。
掛ける言葉が見つからない総司だったが、代わりに手紙に添えてあった新入隊士の名簿を見つけた。
「…あれ?井上泰助って…松五郎さんのところの二番目の?」
見覚えのある名前に驚くと、近藤が「ああ」と少し表情が和らいだ。
「泰助を覚えているか?子供の頃は何度か試衛館に遊びに来ていて、お前も相手をしてやっただろう?本人だっての希望で入隊したようだ」
「へえ!あの泰助が…でもまだ子供でしょう?土方さんが良く許しましたね」
「手紙によると義父上の口添えがあったようだ」
総司の記憶にある泰助は元気で負けん気が強く手のかかる子供だった。まだ十二、三のはずなのでまさか新入隊士として再会するとは夢にも思わなかった。
そうしていると「邪魔するぜ」と原田と永倉がやってきて、原田は両手に籠を抱え山盛りになった柿を見せた。
「壬生に行ったらさ、八木さんに偶然会って柿の差し入れをもらったんだ。今年は豊作で出来がいいってさ」
「おお、もうそんな時期か。隊士たちにも分けてやってくれ」
「もう持って行ったところです。早速食べませんか?」
橙色に実った好物の柿を見て、近藤の顔が綻ぶ。永倉が慣れた手つきで皮をむき切り分けると、原田が爪楊枝をさしていく。自然と輪のように集った試衛館食客たちは柿を肴に泰助の話で盛り上がった。
「へえ、あの鼻水小僧が!こっちに来たらビシビシしごいて一人前にしてやらねぇと」
「そういえば昔は源さんに叱られてこっそり泣いてたよ」
「名簿には他にも若いのがいるみたいだな。子守は総司の仕事だからな」
「そうだな、総司は子守が得意だからな」
「ええ?聞いてませんよ!」
「土方さんもそのつもりかもしれないな」
ハハハと互いに顔を見合わせて笑いあう。きっと永倉と原田は近藤が気落ちしていることに気が付いて励ましにやってきたのだろう。
総司は言葉にしなくても分かり合える絆を感じたつつ、ほんのり甘く歯切れの良い柿に舌鼓をうつ。幕府が政権を返上しても、将軍がいなくなっても、互いを理解しあえる仲間がいる。
山盛りの柿は干し柿にしようと妙案がまとまったところに、山野が顔を出した。
「ご歓談中に失礼いたします。…近藤先生、早飛脚が文を」
「早飛脚?歳かな」
「噂をすればですかね」
近藤が山野から文を受け取ると、はっと顔色を変えて「おつねだ」と呟いた。江戸で主人が留守の試衛館を守り続けるつねは、多忙の近藤を気遣い頻繁に文は送って来ない。そんなつねから急ぎの内容なのだとわかると、近藤でなくともは文を開くよりも内容を察してしまった。ゆっくりと目を通した近藤が、重い言葉を口にした。
「……義父上が、亡くなった」
「大先生が…」
それまでの穏やかな空気が一変した。永倉は視線を落とし、原田は口を開いたままだ。
周斎が臥せっていることは皆が知っていた。総司も出立前に井上が『長くはない』と言っていたのでそれなりに覚悟をしていたが、遠く離れていることもあって亡くなったという実感はない。けれど近藤は目を充血させ、文を握りしめる。当然、この場にいる誰よりも長く過ごし、実の親よりも『義父上』と呼んできた近藤にとっては悲しい知らせだ。目を伏せ肩を震わせて
「すまん…部屋に戻る」
言葉少なく去っていく近藤に、皆が何を言ったらよいのかわからずに黙って見送った。しばらくすると近藤の部屋から嗚咽に似た声が聞こえてきて、さらに胸が痛む。
原田ももらい泣きして目尻を拭いながら
「大先生…こんな時にさぁ…ひでぇよ」
と呟いて部屋を去り、永倉も「またお会いしたかったな」と口にして後に続いた。
部屋にひとり残された総司は遠くから聞こえてくる近藤の嗚咽に耳を傾けながら目を閉じた。
賑やかな試衛館の日々の光景のどこかに、いつも周斎という大師匠であり皆の親代わりのような存在があった。稽古は厳しく、たまに遊び歩くときは落語に足を運び、皆に小遣いをやるのも日常だった。絶対的に揺らがない大黒柱がいて、だから皆が安心して時に羽目を外しながら青春をあの貧乏道場で過ごすことができたのだ。
(大先生…ありがとうございます)
行く当てのない若者たちを引き受け、帰る場所を守り続けてくれた。だからこそいま、総司の胸に去来するのは感謝と寂しさだった。そして心労が重なり、義父の死を突き付けられた近藤のことが心配だ。
「…なんでこんな時に、いないかなあ…」
幼馴染であり、大半の時間を共に過ごしてきた土方がここにいれば、ともに泣くことだってできたのに。
恨みがましく思いながら、土方の早い帰還を願った。
秋の夜長に、伊東は内海とともに茶を飲んでいた。
「一橋公は狡賢いな。薩摩や土佐の筋から話を聞くと、いま朝廷は混乱しているそうだ。三百年ほど手放していた政権を返されても幼い帝のもとですぐに機能できるはずがない。それに経済的な基盤が必要だが、一橋公は四百万石に及ぶ天領を手放さず、この後にどのような権力構造となったとしても絶大な権力を誇ることができるという算段だ」
「実質的な返還ではなく、名目的に返還することで戦を避けた…ということでしょうか」
内海の見解に伊東は頷いた。
「大政奉還後には諸大名による会議が開かれるはずだ。その時にはお得意の弁舌を駆使して権力を握ることもできる…そういう考えなのだろうし、幕府に忠義を尽くす会津や桑名、西国に与さない東の藩は徳川に従うだろう。そうなればただ強い権力を持つ徳川を中心とする新体制に移行するだけだ」
伊東は湯飲みを手にして物思いに耽る。
「…大政奉還を推し進めて一橋公を戦に導き、主導権を握ろうとした土佐は暗澹たる思いだろう。これでまた政局は混乱する…この隙に幕府が兵力を蓄えれば情勢はまた傾くだろう。幕府の打倒を目指していた薩摩や長州は焦るだろうな…」
「大蔵さんのお考えは?」
内海か尋ねると伊東はその長いまつ毛を伏せて微笑んだ。
「…私は昔、水戸にいた時に味わった黒船来航の時の気持ちを忘れられない。このままあの黒鉄の塊がこの国を蹂躙するのではないか…無知故に恐ろしかった」
「…」
「だからこの混乱の時期に内戦が起こり、国が弱体化して異国に喰われるのだけは避けたい。…しかし、これは佐幕、倒幕関係なく皆が思うことだろう。だから我々はやり方が違うだけで本当は分かり合える。…その為には帝の元で団結するのが正当であり一番だ…私はそう考えている」
リーン、リーン、リーン…鈴虫の鳴く声が響いている。整然とした庭のどこかに隠れて響く命の瞬きは、草莽の志士の叫びだろうか。
伊東が思いを馳せていると、
「それは…わかる」
と内海が口にした。伊東は「ん?」と聞き間違いかと思い、彼へ視線を向けると内海は居心地悪そうにしていた。
「俺も黒船来航の時の熱気は覚えている」
「いや、そうではなくて…」
「…二人きりの時くらいは、努力をすることにした…。俺たちは主従ではなく、友人だ」
「は…はは、突然どうした?」
「俺の望みを聞いて鈴木君に、歩み寄ってくれたんだろう?その…だったら今度は…俺が
、君の望みを聞く番だ、と…」
内海はまるで初めて話すカタコトの言葉のようにぎこちない。だが彼なりに伊東の申し出を飲み込んで努力してくれているのだろう。
伊東の右腕として如才なく振る舞う内海の、こんな罰の悪そうな顔を誰が見たことがあるのだろうか。
けれど
「なんだか…くすぐったいな」
と内心照れ臭く思いながら笑ってしまった。
743
ついに土方が明日、帰営するという知らせが届き総司は安堵しながら巡察へ向かった。このところは体調が良い日だけ顔を出して、伍長の島田に任せることが多かったが、今日からは本格的に復帰することにしたのだ。
「沖田先生、先日付で一番隊に配属になった隊士をご紹介します」
島田が手招きして一人の隊士が総司の目の前で背筋伸ばしてやってきた。
「山崎先生にご推挙いただきまして光栄にも一番隊に配属されました、相馬肇です」
明言されてはいないが、一番隊の隊士は局長の親兵隊であるため礼儀正しく精悍な隊士が多いが、特に相馬は背が高く目鼻立ちがはっきりとして整い、それでいて育ちの良さが滲み出るような爽やかさに溢れていた。
しかし総司はその見た目よりも
「肇?」
という彼の名前の方に気がついた。相馬は「え?」と戸惑う。まさか名前について反応があると思わなかったのだろう。だが新入隊士が御陵衛士のことまで頭に入っていなかったようでピンとくる様子はない。
「ああ、いえ…なんでもありません。これからよろしくお願いします。何かわからないことがあれば私でも構いませんが、島田伍長に聞いてください、彼は最古参ですから」
「はっ!」
機敏な動作で頭を下げた相馬は、緊張しているのか力が入っていた。
総司は「行きましょうか」と皆に声をかけて屯所を出ることにした。
季節が進み、あちこちが紅葉の見頃を迎えていた。巡察で毎日歩き回る隊士たちにとって特別な光景というわけではないだろうが、総司には目に焼き付けておきたい貴重なものに思えてならない。
隊士たちの一番隊後ろを歩いていると
「沖田先生、具合良さそうですね」
と山野が声をかけてきた。
「ええ、今日は目が覚めてから体が軽いんです。山野君の献身的な助けのおかげですかね」
「いえ、きっと違いますよ」
山野は「ふふ」と意味深に笑った。
「明日には土方副長がお帰りになられますもんね?」
「あ…ああ、そういうことか…」
山野に冷やかされ、総司は頭を搔いた。
昨日近藤のもとへ届いた知らせを聞き浮足立ったのは確かなので、山野の言葉を否定はできない。
「でも僕も一息つけます。副長が不在の間に先生のご容態が悪くなったら…と思うと気が休まりませんでした」
「そうだったんですか?なんだか申し訳ないなあ」
「そう思ってくださるならちゃんと養生してください。近所の猫を見に行くだとか、局長と甘いものを食べるだとかいろんな言い訳をして寝床を離れていらっしゃったでしょう?ちゃんと副長に報告しますからね?」
「えぇ…勘弁してください」
山野は「冗談です」と笑って、再び隊列に戻っていった。
しばらく歩くと河原町にたどり着き、いつものように方々分かれて改めに向かった。総司は新入りの相馬が含まれる島田の組に同行する。
「今日の死番は自分です」
「そうですか。私は後方に控えます。緊急の時以外は手出ししませんから」
「はい!」
新入りを前に張り切っている島田が「行くぞ」と数名と相馬を従えて旅籠を改めていく。いつもより島田の声が大きいこと以外は普段と変わらないが、改めを受ける側の態度はいつも以上に横柄だ。民衆は幕府が失われ権力を失ったことを感じ取っている。特に討幕派に肩入れする民はあからさまに非協力的になり、こちらを見る目が冷たい。
総司が後方で様子を見守っていると、強引に改めようとする島田を店の主人が「ちょいとお待ちを」となだめつつ、傍にいた女中に
「出雲殿に伝えてや、竹田様がくるってな」
と何の気なしの会話のように伝言すると女中は頷いて小走りに去る。島田も他の隊士も一体何のことかという反応だったが、総司はすぐに理解した。
目の前にいた相馬の背中を押し
「島田さんについて行きなさい」
と小声で指示を出す。相馬は意味が分からないまま頷くと、総司は島田に向かって叫ぶ。
「すぐに改めてください。大物がいます!」
「は!」
総司の命令を受け、島田は店の主人を押し倒して店の奥に突入した。隊士たちの足音と女中たちの小さな悲鳴が聞こえたのか、部屋の奥からガタガタと大きな物音が響き始める。総司はその場留まり抜刀しつつ出入口を守ると、俄かに騒がしくなっていった。
「曲者!追え追えー!」
「裏口から出て行ったぞ!裏へまわれ!」
総司の予想は当たり、この旅籠は討幕派の大物をかくまっていたのだろう。総司は青ざめた店の主人を捕縛し状況を見守ったが、その騒がしさが消えたころ、島田たちは落胆した様子で戻ってきた。
「申し訳ありません…逃げられました」
「そうですか。まあこのところ、見廻組の監視も厳しくなったと聞きますし、志士たちも警戒しているのでしょう。ひとまずご主人に屯所に同行していただいて事情を聴きましょう」
「はっ!」
島田はほかの隊士に「連れていけ」と命令し、自分もそれに加わる。
総司は怯える店の者たちに「お邪魔しました」と一言だけ残して暖簾をくぐり、外に出た。夏を思わせるような日差しが眩しくて一瞬目が眩んだが、ぐいっと腕を掴まれて驚いた。
「…相馬君?」
「申し訳ありません、ふらつかれていたのでつい…」
「ああ、いえ…助かりました」
新入りでも総司の病については耳にしているはずなので安心させようと微笑むと、彼は少しだけ頬を赤く染めた。しかしそれをごまかすように姿勢を正して「あの」と切り出した。
「お聞きしたいことがあります」
「先ほどの?」
「はい。なぜ先生はこの旅籠に志士が匿われているとわかったのですか?」
「…歩きながら話しましょうか」
一番隊の隊士たちが総司を待っていたので、相馬と並んで屯所に向けて歩き出すことにした。
「相馬君は仮名手本忠臣蔵をご存じですか?」
「勿論です。人形浄瑠璃を何度か見に行ったこともあります」
「その仮名手本忠臣蔵を書いたのが竹田出雲という作者です。先ほど店のご主人が女中に伝えていたでしょう?新撰組の隊服は赤穂浪士を模倣しています。最近はあまりに目立つから着る機会はありませんが、都の民にとっては新撰組といえばだんだらの羽織ですからね。わかりやすく新撰組が来たと伝えようとしたのでしょう」
「なるほど…」
素直に感心して考え込む相馬に、総司は苦笑した。
「まあ私も最初は気が付かなかったんですが、土方さんにそういう隠語のようなものだと教えてもらいました。まだ壬生にいた頃でしたから…今回はずいぶん久しぶりに耳にしましたけどね」
「でも…とても考えられた隠語です。沖田先生、仮名手本の意味は文字通り『いろは』ですが、いろはうたには暗号めいた仕掛けがあるのはご存じですか?」
「…なんだか聞いたことがあるような」
「いろはうたの末字を横に読むと『咎なくて死す』と読めます。新撰組を厭い、討幕派に肩入れする主人が志士たちを案じてそう伝える取り決めにしていたのかもしれません」
総司の横に並ぶ相馬は新入隊士とは思えないほど堂々としている。その整った顔立ちにさらに賢さが足され、総司には眩しく見えた。
「先生、何か?」
「ああ…いえ。そのあたりも店のご主人に聞いてみたら良いかもしれません」
「そうしてみます。大変勉強になりました」
相馬はそう頭を下げて再び隊列に戻っていく。一番隊は優秀な隊士が多いが、その中でも相馬は際立っていてこれから有能な隊士として重宝されることだろう。
(楽しみだな)
彼の背中を眺めながら、総司には自然と笑みが浮かんだ。
屯所に帰営し、連行した主人の取り調べを島田に任せた。島田は挽回のために張り切っていたが、おそらく店の主人からは情報は得られないだろう。
(今はもう幕府はない…)
当然、存在しない権威者に諂うよりも、力を持つ薩長や土佐に味方したいと思う民は多いだろう。総司は大政奉還という言葉の重みを最初は深く受け取らなかったが、外に出ると新撰組を見る民の目が変わったのは確かだ。舵取りをしなくなった船頭のもとで誰が命を預けるだろうか。
総司は休憩をとるために部屋に戻ることにした。すると部屋には人影があった。
(近藤先生かな)
帰りました、と言いかけて総司は「えっ?」と声をあげて驚いた。そこにいたのは不在のはずの土方だったのだ。
「吃驚した!帰りは明日だって聞いてましたけど…」
「ああ」
驚く総司とは対照的に、深刻な顔をした土方は短く返答すると、立ったままの総司を引き寄せて抱きしめた。
「…歳三さん」
「源さんに任せて先に帰ってきた。一日でも早く、お前の無事を確かめたかった…」
「…っ」
土方の大きな手のひらが背中を包み、彼の肩口に顔を寄せると、久しぶりの温もりと少しだけ残る故郷の香りが総司の鼻腔を掠めた。何故かそれだけで目頭がツンと熱くなって感情が昂った。
総司は土方の頬に両手で触れて、口付けた。舌先が痺れるほど絡み合い、互いに言葉にならない感情をぶつけ合うようなそれは、幻でも夢でもないのだと感じさせてくれた。
「…大変だったんですよ。薩長が攻めてくるだとか、土佐が蜂起するだとか、大政奉還だとか…私には門外漢のことばかりでどれだけ歳三さんに帰ってきて欲しかったか」
「わかってる。このあとかっちゃんの別宅に行くつもりだ。でも今は…」
今は、今だけは。
(この人が帰ってきたことをもっと実感したい…)
そう思いながら、総司は再び土方の後頭部に手を伸ばしたのだった。
744
二人は不在の間の話をした。
「そうか…大先生が…」
江戸からの知らせは土方を追い抜かして近藤に届いたようで、土方は周斎が亡くなったことを知らなかった。
「食客の皆もですけど、近藤先生は相当気落ちされています。知らせがあった日は人目を憚らず嘆かれて…大政奉還が成った時は屯所から離れず備えられていましたが、大先生が亡くなられてから別宅で休まれています」
「周斎先生を実の親よりも慕っていたからな…死に目にあえなかったのはさぞ悔しかろう。それに恩があるのは俺たちも同じだ。大先生が勝太の才能を見出さなかったら、今の俺たちはなかった」
「そうですね…」
周斎は稽古の時には厳しく指導したが、道場を離れると皆に慕われる好々爺だった。伊庭も随分懐いていて時々小遣いをもらっていたくらいだ。
長くはないとわかっていても、遠く離れた都からでは別れの実感がなく、余計悲しみが募る。
「大先生はなにかおっしゃっていましたか?」
「…勝太を頼む、とそれだけだ。何度も何度も念を押して言われた…大先生なりに時勢を理解されていたのだろう。俺の知る限りの大先生の様子は伝えるが、いまは落ち着くのを待つべきだ…近藤先生には時間が薬だからな」
幼馴染は近藤のことをよくわかっている。余計な慰めや助けは彼には必要なく、自分で再び気力を取り戻すはずだと理解していて、総司もその通りだと思ったので頷いた。
「それから…近藤先生からの手紙で耳にしたが、陸援隊に潜入させていた村山との連絡が途絶えたって?」
「はい。監察の大石さんから彼が捕縛されたと知らせが入りました。でも陸援隊からそのような通告もないので確証はなく、村山君が新撰組の間者であることを自白はしていないのでしょう。未だに投獄されていると思われます」
「…残念だが、村山のことはどうにもならない。下手に手をだせばあいつの立場が悪くなるし、今は構っている暇はない。大政奉還が成ってから都の治安が悪くなって暗殺や誅殺の類が増えていると聞いた」
「確かに今日も旅籠で志士が匿われているようでしたが…」
「これから一層忙しくなる」
総司はチラリと土方の表情を伺った。近藤は大政奉還から喜怒哀楽が目まぐるしく余裕がない様子だったが、反対に土方には焦りはなく冷静に状況を見つめているようだ。
総司の視線に気がついた土方が「どうした」と尋ねる。
「いえ…私は順風満帆の晴れ模様だったところに、突然大政奉還という嵐に巻き込まれたような心地ですけど、土方さんはそうでもないのかなって…」
「嵐か…」
土方は苦笑して答えた。
「嵐だろうと雷だろうと…将軍が空席でも、帝が立たれようとも、どうせ答えは決まっている。俺たちの船頭は近藤先生であり、それ以外にはいない。それは江戸を出た時から変わらないし、迷う必要はないだろう」
土方は特別なことを口にしたつもりはないのだろう。それは今までやってきたことと何ら変わりない…土方が断言できたのは、江戸からの長い帰りの道中にそう結論したのだろう、総司は土方の言葉を聞き、少し心の靄が晴れたような気がした。
「…早く近藤先生にそう言ってあげてください。きっと今か今かとお待ちですよ」
総司は土方を近藤の別宅へ行くように促すと、「わかった」と土方は膝を立てたのだった。
伊東は藤堂を引き連れて中岡のもとを訪ねた。陸援隊を部下に任せ、一時的に身を隠している彼と顔を合わせることは慎重さが必要だったが、何度か手紙を出しようやく機会を得ることができたのだ。
「なか…いえ、石川先生とは九州遊説の際に知り合われたのですか?」
その道中、藤堂が訊ねた。往来で中岡の名前を出すことは憚られ変名を口にすると、伊東は微笑んだ。
「そう。初めて九州へ向かった時だ。もちろん私は新撰組の参謀であったから誰一人、私の話を聞くどころか門前払いが当たり前のなかで石川先生だけが耳を傾けてくださった。懐が広く表情も豊かで好感が持てるが、いざとなれば豪胆に動かれる御方だ。このたびの大政奉還についても薩摩と土佐を結ぶ懸け橋となられ、今は岩倉卿とともに王政復古のために動かれている」
「王政復古…それは伊東先生のお考えと同じですね!」
「藤堂君、声が大きいよ」
伊東に諫められ、藤堂は「すみません」と両手で口を塞いだ。大政奉還後も政権を握る徳川と、戦に持ち込みその立場を狙う西国という形勢のなか、伊東のように帝を中心とした王政への移行を唱える者は少ない。往来で誰かの耳に入れば面倒なことになるだろう。
「…とにかく石川先生、そしてご友人の才谷先生のお考えはとても私と近いのだ。行動力も統率力もある。きっとこれから先も政権の中心を担われる…是非ともこのご縁を続けていきたい」
「そうですね」
そうして到着したのは土佐藩の御用を務める河原町近くの醬油屋、近江屋の二階であった。待ち構えていたのは中岡だけだ。
「中岡先生、ご無沙汰をしております。こちらは同志の藤堂です」
「すまん、才谷は留守だ。話を聞こう」
火鉢の傍に誘われ、伊東と藤堂は部屋に入った。
藤堂は先ほどまで話に聞いていた中岡よりも淡白な様子に少し困惑していたが、伊東は構わず話し始めた。
「橋本から報告を受けております。陸援隊にはほとんど戻らずに身を隠されているとか…正しいご判断かと思います。いまお二人の命を狙うような風聞が巷に流れておりますし、市中ではあちこちで暗殺や謀殺が起こっています」
「…橋本君か…。まあ、彼のことはえい。市中でそがな噂が流れちゅーのは知っちゅう。そのせいで三条の酢屋からここに移ることになった」
「王政復古の勅命さえ下れば、不自由な生活も終わるはずです。もう少しのご辛抱かと」
「噂では君の古巣である新撰組がわしらの命を狙うちゅーと聞いた。いや…古巣ではのう、ただの分離やったか?君たちは新撰組の手先いうことか?」
「違います!」
中岡が問い詰めるので藤堂は思わず声を上げた。
「俺たちは確かにもとは新撰組の隊士ですが、今は分離し完全に袂を別っています!敵対関係ではありませんが新撰組とは別の組織です。先生がご心配なさるようなことは何もありません!」
「藤堂君、落ち着いて」
伊東に宥められ、藤堂は「申し訳ありません」と頭を下げた。しかし中岡はいまだに冷たい表情のままだったが、伊東は微笑んだ。
「…中岡先生、前にもお話した通り分離というのは手段としてそのようにしたまでであり、我々はいま帝の僕であると自負しております。もちろん市中では新撰組の一部であると思われているのは確かですが…私の目指すところは先生と同じはずです」
「…」
いまだに顔色の冴えない中岡に、伊東は話の矛先を変えるように微笑んだ。
「今日はご報告に参ったのです。この藤堂君が先日美濃に行き、水野弥三郎と話を取り付けました。水野は美濃三人衆のひとり…有事の際には農兵五百人余りを率いて戦に加わると約束しました」
「博徒か。君たちと同じで信用できるがやろうかな」
「…!」
二度目だったので藤堂は堪えたが、伊東から聞いていた『好感の持てる男』であるようには見えない。危険を顧みずにやってきた伊東に対して冷遇し、突き放しているようにしか見えなかったのだ。
伊東もさすがに不審に思ったのか、
「…水野の懐柔は中岡先生のご希望だったはずです。我々が何か気に障ることでも?」
と訊ねた。中岡はしばらく沈黙して、火箸を持って炭を突いた。重たい沈黙のなか、伊東が引かずに答えを待つ姿勢を続けると、観念したように中岡が口を開いた。
「新撰組の間者が陸援隊に紛れ込んじょったというがは知らしたねや?」
「…はい。我々が橋本君を潜入させていることは、会津と新撰組に知らせていましたが…おそらく我々の監視を含めて忍び込ませたのでしょう」
「橋本君はえろうその新撰組の間者を気にかけちょった。彼は間者じゃないとなんべんも訴えた」
「それは…初耳です」
寝耳に水、伊東はちらりと藤堂を見たが、藤堂がそんなことを知る由もなく首を横に振る。
けれど中岡の不審はそこから始まったようだ。
「わしゃ御陵衛士を信用しちょったが…もしかしたらいまだに新撰組の手先として動きゆーだけじゃないかと才谷に聞かれたがじゃ。今日、才谷がこの場におらんのは君たちを信用しちゃあせんきだ。うちにも散々、新撰組の一味に会うがよと止められた」
「…」
「たとえ君たちにそのつもりがのうとも、そう見えるということや。…伊東先生、おまさんのお考えは確かに我々と近い。初めて会うた時も危険を顧みず弁舌を止めん姿に好感を持ったし、先日提出いた建白書も目を通し広い視野を持った優秀な人材だということはわかっちゅー。だが…結局は君が新撰組の参謀であったという事実だけは揺るぎないがじゃ。おまさんに騙されちゅーのじゃないのか、今晩その刀を抜いて襲い掛かるのじゃないのか…そったらっかりを考えてしまう」
「それは…わかります。私も新撰組に在籍していたという過去を何度恨んだことか」
伊東は表情こそ穏やかに返答していたが、その拳が強く握られていた。藤堂は、いつも冷静で感情の片鱗すら見せない伊東がそうして感情を堪えているのを見るのが初めてだった。
しかし中岡はそれくらいで同情するはずはない。むしろ彼ははっきりと釘を刺しているのだ。
「申し訳ないが、いまのままでは君たちを信用することはもちろん、これ以上の友誼は結べんろう」
「…いまのままでは…」
「君は志士たちの信用を得たり、朝廷に近づくよりも何よりもやるべきことがある思う」
中岡が示唆することは、藤堂でも理解できた。
伊東は深々と頭を下げて
「わかりました」
と答えるとそのまま部屋を出ていく。いつも礼儀を尽くす伊東らしくない去り方で、藤堂は慌ててあとを追った。
二人は店を出て河原町の騒がしさに紛れ込む。来る時とは全く違う表情だった。
「…先生、な…石川先生のおっしゃることはもっともかもしれませんが、あまりに干渉が過ぎませんか。あんなに冷たく…」
「藤堂君、すまない。一人にしてもらえるか?」
伊東が無表情のまま申し出る。藤堂は戸惑ったが「わかりました」と答えるしかなく、立ち止まって伊東の背中を見送った。
(新撰組と御陵衛士は考え方とやり方が違う…でも協力できる部分があるから、裏切ったわけじゃない…)
藤堂は苦々しい気持ちだった。
最初はそう信じていたけれど、いまはそれが建前でしかないお飾りの言葉だということがまざまざとわかる。伊東についていくことに迷いはないが、その道がどんどんかつての仲間の道とは外れていっている自覚はあるのだ。
(今こそ…決別しなくちゃいけない時期なのかな…)
決別した先に伊東の望む希望があるのだろうか。
自分はそれに従うだけで良いのだろうか…藤堂が迷いを感じた時。
「あ…雨だ」
パラパラと夜空から零れるように雨が降り始めたのだ。
745
藤堂が月真院に戻ると、まだ伊東は戻っていないようだった。衛士たちには話を聞きたがったが、事が事だけにあまり詳しい事情を話すわけにはいかず、内海にだけ経緯を説明した。
いつも冷静な内海だが、中岡の批判に対しては眉間に皺を寄せた。
「…いつもの先生とはまるでご様子が違いました。落胆とも怒りとも…なんとも言えない表情で」
「…」
「雨も降ってきました…大丈夫でしょうか?」
「迎えに行ってくる。皆には心配せず、先に休むように伝えてくれ」
と、血相を変えた内海が出て行った。
内海は傘を差し、門を出て坂道を下る。傘が役立たずになるような強い風のせいですぐにずぶ濡れになったが厭わずに速足で歩き続けた。こういう時に伊東の向かう先は何となく察しがついていたからだ。
清水をひたすら南に下り雨のせいで人出のなくなった道を駆け、小道に入った先にあるのは御寺…戒光寺だ。皇室の菩提所である泉涌寺の塔頭であり御陵衛士として分離する際に手助けしてもらった縁のある寺門の前で、傘も差さずに手を合わせる伊東の姿があった。
ずぶ濡れになりながら目を閉じて一心不乱に拝む姿は、寄せ付けがたい雰囲気を放っている。まるでその場に漂う神聖なものの一部になってしまったかのようで内海はしばらくその横顔を見つめていた。雨のせいで張り付いた黒髪や一切の感情を隠した長い睫は昔から変わらぬ色香が漂う。
けれどいつまでも雨に打たれていては風邪を引くだろう。
「大蔵君」
内海は敢て昔の名前で呼んだ。そうしなければ彼は内海の存在に気が付かない気がしたのだ。彼はゆっくりと瞼を開けて内海を見た。
「…内海、なんだ、来ていたのか?」
「藤堂君に事情は聞いている。君はここにきているだろうと思った」
「ああ…そうか…」
内海は自身の傘を差し出した。当然、伊東に差し出せば内海の肩は濡れてしまうので、彼は苦笑した。
「…もう一本持ってくれば良いじゃないか」
「すまない、気が回らなかった」
「まったく…」
気が利かない親友にため息をつき、「帰ろう」と二人は一つの傘の下で歩き始めた。雨は少しだけおさまったが、彼に漂う鬱々とした雰囲気は続いている。
しばらく歩くと
「…亡霊に取りつかれているようだ」
と呟いた。
伊東が曖昧な言い方をするときはたいてい話したいことがある合図だ。内海は伊東の言葉にひたすら耳を傾けることにするが、物言いは億劫そうだった。
「…私は判断を誤った。新撰組に入隊したときは、ここで名を上げることで足掛かりとなり、国を変えるために働くことができると過信していた。だが実際は、いつまでも新撰組の参謀であった自分の亡霊のようなものが付きまとい、今や私の足枷となって思うように身動きが取れない」
「…」
「新撰組にいたおかげで、幕府の官吏が何を考えているのかわかる。私は徳川でもない、朝廷でもない、薩長でもない…客観的に見えるんだ。いまは皆が中途半端な立場に置かれた。だからこそその隙を狙うように互いの粛清が始まり、名の知られた者には身の危険が生じるだろう。私は中岡先生にそう説いた…都から離れるべきだと、彼らはこれからの政府を背負う存在だと心から思っているからこそ、彼らには易々といなくなってほしくないし、協力したいと願っていたからだ。だが…彼らには所詮届かない。私の亡霊が私の真意を悉く邪魔するせいで、お前のことは信用できないのだと酷く蔑ろにされた気分だ。まさか中岡先生に博徒の類と同じだと嘲笑されるとは思わなかった…」
伊東は落胆していた。その表情は内海が初めて見るほどはっきりと項垂れていた。
「…何を弱気な…わかっていたことじゃないか」
内海はあえて突き放した。
分離した時から、この道のりが厳しいものだとわかっていたはずだ。だからこそ棟梁である伊東の弱気な発言は士気を下げるため、内海は発破をかけたのだが、「許してくれ」と伊東は苦笑した。
「彼らとは理想が同じなんだ。大政奉還が叶ったいまだからこそ、武門に政権を委ねず朝廷中心の合議制による政治体制を整えるべきだ。このままただ徳川から名前が変わるだけの薩長の世の中になってはまた同じことが繰り返される…いまは内戦は避け、外患に備えるべきだ。そんな私の考えを取り合う者はなかなかいないが、彼らは新しい世の中を見据えていた。実権を握ろうとする故郷とは一線を画し、己の考えを貫く姿勢は…尊敬に値する御仁だ。だから…彼らには信用されたかったのだ」
理想的な考えを持ち、新しい政を築こうとする者だったからこそ、伊東は悔しかった。元新撰組という肩書のせいで信用を得ることが叶わず、議論の場に立つこともできない。
「…どれだけ言葉を尽くしても届いていないのだと、それをはっきりと口にされて正直狼狽した。ここに来たのは私が御陵衛士としてなすべきことを見つめ直したいと思ったからだ」
御陵衛士が始まった、縁の深い場所で初心に帰る。
伊東の考えることは内海にもわかっていた。だから真っ直ぐここに来たのだ。
伊東は内海に身を寄せつつ、薄く笑った。
「…ハハ、私は先走ったのかもしれないな…言葉の通じる相手には必ず真心が伝わるのだと。…恐れずに行動して潔白を証明するのが先であるのに」
「潔白…か。君は…」
内海がその意味を尋ねようとしたとき、遮るようにゴロゴロと遠くから雷の音が聞こえてきた。内海は伊東の背中を押し「急ごう」とさらに歩調を速めたが、彼は立ち止った。
「内海。私は…勤皇志士のひとりとしてこの足で自分の道を歩む。だから…亡者を断ち切る」
「…」
「私は…新撰組を打倒する」
伊東の悲壮感の漂う決意を耳にして、内海は
「わかった」
と即答した。伊東は怪訝な顔をした。
「…本当にわかっているのか?」
「いつか君がそう言う気がしていた。元来、君はそういう性質だろう。井伊大老の時も本当は参加したかったと嘆いていた」
「懐かしいな」
血気盛んな若かれし頃の話を持ち出され、伊東には懐かしさが込み上げる。
するともう一度ゴロゴロと音が響いた。先程よりも近く聞こえたので
「帰ろう」
と内海は伊東の手を引いたのだった。
翌朝。
あちこちに大きな水たまりが残るなか、新入隊士を引き連れた井上が帰還した。
「近藤局長、無事に帰還いたしました。いやぁ、昨晩の突然の嵐には参りましたが、何とか一人も欠けることなく到着いたしました」
そう言いながら井上が近藤に頭を下げると、その後ろに控えていた二十名あまりの隊士たちもそれに従って頭を下げた。
「皆、長旅ご苦労だった。私が新撰組局長の近藤勇だ。この非常時にも関わらず、公方様に忠誠を尽くさんとする皆の入隊を心待ちにしていた、頼りにしている」
近藤は労をねぎらい、その隣の土方、総司たち幹部も彼らを出迎えた。
(近藤先生…お元気そうだ)
隊の規則や組み分けを告げる土方の隣で、総司は近藤の柔和な表情を見てほっと安堵していた。義父の周斎が亡くなって塞ぎこんでいたが、やはり幼馴染の励ましが心に響いたのか、疲れているもののすっきりとしているようだった。
早速入隊した二十名余りの配属が決まり、総司の配下にも数名加わったが、今までと違ったのは近藤と土方の直属として年少の隊士二名が配属されたことだ。近藤には田村兄弟の末っ子である銀之助、土方には井上の甥である泰助が充てられることとなった。さすがに実戦に出すには若すぎるので彼らは身の回りの世話をする小姓のような役割を果たすらしい。
そしてそれぞれ解散になって各部屋に案内されていく中、総司は後方に控えている泰助と銀之助のもとへ近づいた。彼らは皆が去っていくのに、正座したままだった。
「泰助、久しぶりですね」
「あ、…はい、お…おきた、せんせい…」
「う…」
彼らは膝を折ったまま正座で硬直していた。こめかみに冷や汗をかき、明らかに様子がおかしい。彼らの深刻な表情を見ていったい何があったのかと総司が首をかしげていると銀之助が申し訳なさそうに答えた。
「その…足の痺れが、切れてしまって…」
「俺もです…」
どうやら最年少の二人はあまりに緊張していていたのか、怖気づいたのか体中に力が入り足のしびれを切らして動けなくなってしまったらしい。二人とも青ざめて恥ずかしそうにしていたので、総司は噴き出して笑ってしまった。
「なんだ!てっきり鬼副長が恐ろしくて漏らしたのかと!だったらもう少しゆっくりしたら良いですよ。ああ、でもおかしいな、ハハハ、ハハハ…!」
「も、申し訳ありません…」
「…くそ、こんな体たらく…!」
ひたすら申し訳なさそうにする銀之助と悔しそうに顔をしかめる泰助は、良いコンビになりそうだ。総司は久しぶりに腹を抱えて笑ったが、そこにふらりと見慣れない顔の隊士がやってきて二人の背後に回るなり、「よっと」と言って痺れた足をつついた。
「ひぃ!」
「やめてください野村さん!」
「あ、本当に痺れてるみてぇだな!」
二人をからかうのは、総司の配属になった野村だった。一回り以上年は離れているが兄弟のように一通り二人を弄って、改めて総司の方へ頭を下げた。
「野村利三郎です!お世話になります!」
「ああ、野村君ですね、よろしくお願いします。一番隊は面倒見の良い隊士がたくさんいますからわからないことがあったら彼らに何でも聞いてください。それから先日新人が入りましたから、是非彼と切磋琢磨して…」
「先生、美人ですね」
唐突な野村の言葉に、総司は一瞬呆気にとられた。それは成り行きを聞いていた少年たちも同じだったようで(いったい初対面なのに何を言っているんだ)と言わんばかりの表情だった。しかし野村は構わずまじまじと品定めするように総司を眺めている。
「…は…あ、それはどうも」
「ここに来るまでの道中、井上先生から一番隊は花形部署で、顔の整った奴が入るんだと聞いていたんです。つまり俺が入れるってことは、それなりに俺も見れる顔だってことですかね?!」
「…ハハ、君も面白いなあ。でも一番隊は近藤局長の親衛隊です。見た目よりも、剣の腕を重視しますからね。見込みがなければ副長に言いつけて異動させますからそのつもりで」
「げえ!」
野村は総司に対しても物怖じせずあけすけな物言いで素直なリアクションを見せるが、不思議と嫌味はない。
泰助には「野村さんなんてすぐに異動でしょ」と揶揄われ、銀之助は堪えきれずに笑う。野村は
「痺れを切らしてるやつらに言われてもな!」
と言い返し、和気藹々としている。幕臣の立場が崩れ鬱憤した空気が漂う新撰組にとって、彼らは新しい風となるだろう。
しかし。
「…いい加減、痺れは治っただろう?」
その明るい雰囲気を低く戒める声が響いて、「ひっ」と三人は背筋を伸ばした。声の主は仁王立ちで腕を組み、成り行きを見守っていた土方だ。
「田村銀之助は局長へご挨拶を、野村利三郎は伍長の島田のもとでさっさと仕事を覚えろ。…泰助は一緒に来い」
「はっ…」
「ハイぃ!」
泰助と銀之助は痺れなどどこかに行ってしまったかのように立ち上がる。銀之助は引き締まった表情で局長のもとへ駆けていき、試衛館で土方と交流があったはずの泰助は、鬼副長の迫力に怖気づき足がもたついている始末だ。総司はそんな様子さえ面白くて、「ふふふ」と口を押えて笑うしかない。利発そうな銀之助は近藤の小姓にぴったりであるし、気が強い泰助は土方のもとで教育されていくのだろう。
「あーあ、面白かった。じゃあ野村さん、行きましょうか。一番隊の隊士を紹介します」
「はい!」
意気揚々と答える野村は、総司とともに部屋を出たのだった。
746
有望な人材が揃い、新撰組に若く活きの良い雰囲気が流れ始め、これから良い方向に向かうだろう…と、総司は思っていたのだけれど。
「先生、自分はあれはまさに水と油というやつだと思うんです」
総司は困った顔で進言にやってきた伍長の島田とともに稽古の練習を覗いていた。今日は永倉が担当する稽古で、江戸から上京した隊士にとっては初めての機会になる。さぞ緊張感の漂う初々しい雰囲気かと思いきや。
「お前!どこを狙っているんだ?!」
「急所に決まっているだろう。簡単に足を引っかけられて転がるなんて、下半身が弱すぎるぜ」
「これは稽古だぞ!稽古にも作法がある!」
「へぇ!じゃあその作法ってやつを教えてくれよ」
地稽古の最中であるはずだが、一番隊の相馬と野村が口論になっていた。真剣な表情で憤る相馬と、相手にせずに鼻で笑う野村は初日だというのにまるで兄弟のように喧嘩をしている。そんな彼らを隊士たちは遠巻きに呆然と眺め、永倉は苦笑していた。
頭を抱えているのは彼らの先輩で指導役でもある島田だ。
「あれが初めてというわけではないんです。些細なことで口論になってすぐに衝突して…相馬は真面目で誰かと揉めることなんてないのに、野村がちょっかいを出して面白がるせいで…野村にだけです、相馬があんなに声を上げるのは…」
野村は上司の総司に対しても遠慮がなく思ったことを口にする性格なので、礼儀正しく賢い相馬とは正反対に見えるだろう。傍目には島田の言う通り水と油なのかもしれない。
ヒートアップしていく口論は、野村が
「よっしゃ!じゃあ夕飯をかけて勝負だ!負けた方は飯抜きだ!」
と嗾けて、ムキになった相馬が「望むところだ」と応じたことで竹刀を突き合せた勝負へともつれこむ。二人とも周りが見えていないのか皆が稽古の手を止めて彼らの勝負を観戦し始めた。初日の稽古が完全に止まってしまい、島田ががっくりと肩を落としたところへ永倉がやってくる。
「永倉先生、申し訳ありません!ちゃんと自分から言い聞かせますので…!」
「島田、気にするな。今日は初日だからな、皆の顔合わせだと思ってるし、あいつらの剣筋を見ておきたい」
永倉はむしろ面白がっているようで、腕を組み悠然と眺めて笑っていた。
総司と三人並んで勝負の行方を見守る。野村はどこの剣派を修めたのかわからないような我流で無駄の多い動きだが、不思議と目を惹く剣筋だ。一方で相馬はかつて伊予松山藩の一兵として長州征討に参加したそうで経験の豊富さを感じる余裕のある動きで、野村の剣を薙ぎ払っている。凸凹がうまく嵌りあいなかなか勝負がつかない。
総司はその勝負を興味深く見ていた。
「…水と油かあ…私は二人は気が合うと思っているんですけどね」
「えぇ…そうですか…?」
「俺も悪くない組み合わせだと思う」
「永倉先生まで…」
剣豪の言い分がよくわからないと言わんばかりに島田は難しい顔をしていた。
そのうち、ようやく勝負がついた。野村がその場に尻もちをつき、相馬の剣先が喉元を捉えらえていたのだ。
「て、てめぇ!さっき足払いは卑怯だって言ったじゃねえか!」
「やられたことをやり返すのは当然だ。負けを認めるな?」
「く…!今日だけだからな!」
負け惜しみを言わずにさっさと負けを認めるのは野村らしい。相馬もそんな野村を認めているのか、うなずいて彼に手を貸し、ようやく彼らは周囲の状況に気が付いたようだ。驚いた彼らはこちらに駆け寄ってきた。
「永倉先生、申し訳ございません!稽古の妨げになりました…お前も謝れ」
「すいません、なんか熱が入っちまって、へへ」
相馬は謝り倒し、野村は頭を掻きながら笑っていた。永倉は笑いながら「今回だけだ」と釘を刺しつつ稽古に戻っていき、島田は「胃が痛い」と顔を顰めていた。
総司はそれを微笑んでみていた。
(なんだか、試衛館にいた頃みたいだ)
若者が集い、白熱して夢中になる。時に喧嘩になっても食事を囲めばまた元通り、馬鹿みたいに笑って次の朝がやってくる。
(僕は彼らを手助けしたいな…)
それは今まであまり芽生えたことのない気持ちだった。
剣の腕では誰よりも群を抜いていたという自覚はある。剣の前だけは自分は天賦の才を発揮し、だれよりも上回りたいという気持ちが強かった。そうすることで近藤や土方に必要とされることが嬉しかったからだ。
けれど今はそうではない。これから先を背負っていく彼らに、この病の体で何ができるのか…そればかりを考え始めていた。
和気藹々とした道場から離れた客間では、秘密裏に浅羽が近藤、土方を訪ねていた。
「殿の遣いで参りました」
いつもなら近藤を呼び寄せる会津公だが、急ぎの用件なのか小姓の浅羽を寄越したようだ。
浅羽は相変わらずの精悍な顔立ちだったが、その眉間には厳しい皺が寄っていた。彼は懐から折り畳まれた紙を取り出し、二人の前に広げた。
「これは…」
「御陵衛士の伊東が朝廷へ提出した建白書の写しです。大政奉還後、すぐに出されたものだと」
「…」
近藤は読み進めるうちに顔色を変えたが、土方は読むまでもなく内容を察知していた。伊東が長年胸に秘めていた願望がようやく形になったのだろう。
浅羽は淡々と尋ねた。
「伊東殿が熱心な勤皇論者であることは承知しております。しかし大政奉還後、新しい政を模索し、徳川を中心として西国諸藩、朝廷での合議制を目指すなかで、徳川を廃し帝を中心とした政権を目指すべきという建白を出されては殿の面目に関わります」
会津としては、御陵衛士はあくまで新撰組から分離した組織であるという認識である。それ故に伊東の行動は大変な裏切り行為だろう。
近藤は憤り、わなわなと唇を噛んだ。近藤また御陵衛士とは協力関係を結んだ仲だと信じていた。
「…これは、我々の承知せぬことです…」
「しかし御陵衛士は薩摩の大久保と内通し、美濃で農兵を数百名揃えていると聞きます。万が一、戦になった場合は新撰組を離れこちらに弓引くつもりでは?」
「それは…!」
近藤は明らかに狼狽していた。彼は彼なりに伊東たちを信じて分離を承知したのだ。いくら伊東の信条の本質が勤皇であると言っても、まさか着々と戦支度をしていたとは思いもよらない。
しかし、土方は違った。
「あり得ないとは言い切れません」
「歳…!」
「伊東はこの建白書がいずれ新撰組に伝わるとわかっているはずです。美濃で兵を集め、薩摩と内通しているのは、この時に備えるためでしょう」
「では、御陵衛士はもう新撰組の手を離れていると?」
「面目ない」
土方は非を認めた。内心、伊東が近々行動を移すだろうとはわかっていたのだが、こんなに早く会津に塁が及ぶとは思わなかったのだ。土方の考えよりも早く、事が動いているのだろう。
浅羽は小さくため息をついた。
「…わかりました。殿にお伝えしましょう」
「近々、私からもお訪ねいたします」
近藤が申し出ると、浅羽は首を横に振った。
「いえ…今は慎重に動かれたほうが良いでしょう。先日、伏見奉行書の与力が殺されました。都でもあちこちで騒がしい…私がここに来たのも、殿のご配慮なのです」
倒幕派に恨まれ顔が知られた新撰組の局長ともなれば、身軽に行き来するのは危険だ。御陵衛士の裏切りを見抜けなかった不覚と、会津公の気遣いに心打たれ、近藤は深々と頭を下げた。
「会津公のご配慮に感謝いたします。御陵衛士の所業、必ず責任を取らせます」
「お伝えしましょう。…私はまだ仕事がありますのでこれで失礼します」
「お送りします」
土方が申し出て、浅羽とともに客間を出る。少し緊張感を解いた浅羽は苦笑した。
「土方さん、御陵衛士の件はお気にならさらず。殿はあくまで確認のために私を寄越しただけで、責めるおつもりなどないはずです。この時勢で忠誠を誓っていた親藩や譜代でさえ徳川を離れていくのですから。…むしろ敵か味方か、はっきりする方が良いとお考えなのです」
「…俺はいつかこうなるだろうとは思っていました。都を離れていたせいで、時勢を読めていなかったようです」
土方は素直に反省していた。隊士募集のために江戸へ行った間にここまで、政が動くと思っていなかったのは読みが甘かったのだ。
浅羽はもうこれ以上責めるつもりはないようで「そういえば」と話を変えた。
「公方様の側用人であった原市之進殿の後任についてのお話はご存知ですか?一時、近藤殿のお名前が上がったのです」
「…初耳です」
土方は驚いた。
側用人は側近中の側近であり、大出世どころの話ではない。そんな話を近藤が知っていれば感涙して土方に話しているはずなので彼も知らないところでそんな話が出ていたのだろう。
「中川宮が我が藩の秋月にそのような話をされたそうです。残念ながら実現せずこのようなことになりましたが…近藤殿の徳川への忠誠心は誰もが知るところなのです。どうか今回の件で落胆されず、今後もお力をお貸しください」
「…はい」
浅羽はそう言うと、ふっと視線を横に向けた。その先には道場があり隊士たちの賑やかな稽古の様子が漏れ伝わってくる。
「頼もしいですね」
浅羽は微笑むと、「ここまでで」と軽く頭を下げて去っていった。
747
土方は浅羽を見送って客間に戻ると、微動だにせず考え込む近藤の姿があった。土方は近藤の前に座り、「冷静に考えろ」と言った。
「もともと、伊東が熱心な勤皇論者だとわかって入隊しただろう。かっちゃんは分かり合える部分があるとあいつを信用していたが…分かり合えない部分が多かったからこそ、奴は分離という姑息な手段を使って去っていったんだ」
「…俺だってわかっていたさ。分離などという甘い言葉に半分騙されたつもりだったが、薩摩に入り込み情報を得るという伊東先生の手段も本当に悪くないと思ったんだ」
「そんな奴らはいま、美濃から兵を連れて来ようとしている。…言っておくが、それを主導したのは藤堂だ」
「…平助が!?」
近藤の眼がカッと見開いた。まさか藤堂が関わっているとは考えが及ばなかったのだろう。しかし土方は総司から藤堂が美濃へ行くと話していたのを聞いていたし、監察から情報も得ていた。
近藤の顔が曇るのが分かっていて、土方は畳みかけた。
「今や御陵衛士は帝の墓守ではなく、薩摩や土佐と繋がりがあり、徳川を裏切ろうとする紛れもない敵だ。恩ある会津公を蔑ろにした奴らが、これからどんな態度を見せるか…想像するのは容易い」
「…」
「かっちゃん、奴らに温情をかけようとするのはやめろ。どう考えても御陵衛士は俺たちを裏切っている、それはわかるだろう?…これから討幕に手を貸すのなら、容赦はしない。挙兵を企んでいるのなら先に壊滅させる」
土方が言い切ると、近藤はしばらく沈黙した後、土方の腕を掴んで「一つだけ頼む」と口にした。
「なんだ」
「…俺は平助が裏切ったと思いたくはない」
「この期に及んで何を悠長なことを。平助こそ美濃で挙兵のための兵を集め、いまや伊東の代理として動いている」
「それでもだ!」
近藤は急に声を荒げた。
「それでも、俺は…また山南さんのようにあいつを殺したくはない!温情だと、贔屓だと言われようが構わない。俺は絶対にあの時の二の舞にはなりたくないんだ!」
「…」
「本当は歳も同じだろう?総司も、左之助も、永倉君も…源さんも同じはずだ。たとえ非難されても…平助だけは手を掛けたくはない。歳も約束してくれ、絶対にそれだけはしないと!だったら俺はこれからお前の言う通り非情になる。何の温情もなく御陵衛士を壊滅させる!だから…!」
近藤は必死だった。試衛館食客の中で最年少だった藤堂は皆に可愛がられた。猪突猛進で、御落胤だと語るユーモアもあり甘え上手な彼は誰も敵を作らなかった。山南が死ぬまではずっと固い絆で結ばれた仲間だった。
一度は袂を別っても…近藤にとっては可愛い門下生なのだ。
土方は近藤がそう考えることは理解していた。けれど、彼が縋る腕を払った。
「…約束はできない」
「歳…」
「わかってくれ。そんなこと…俺が約束できるわけがないだろう」
土方はそれ以上の会話を拒むように立ち上がり、背中を向けて去った。
するとしばらく歩いたところで総司に出会った。彼は機嫌良く
「あ、土方さん。さっき…」
と言いかけたが、すぐに土方の表情が険しいことに気がついて笑顔を引っ込めた。
「…なにか、ありました?」
けれどここで事情を話す気にはなれなかった。
「…別宅に行く」
「じゃあ私も行きます。邪魔でなければ」
「邪魔じゃない」
土方の返答に総司は安堵して微笑んた。
斉藤はある時を境に伊東の様子が変わったことに気がついていた。
伊東は常に硬い表情を崩さず、いつもは饒舌なお喋りも最低限に控えて部屋に閉じこもっている。衛士たちは「お忙しいのだろう」と気にしていなかったが、伊東には余裕がないように見えた。
(あの嵐の日から…)
藤堂が先に戻り、伊東は迎えに行った内海を伴って帰還した。伊東は中岡との再会を心待ちにしていたのに、帰ってきた時の表情は厳しく唇は引結ばれていた。
詳しい事情を知っているのは内海なのだろうが、伊東の片腕である彼が疑っている斉藤へ簡単に吐露するはずはない。だったら藤堂が知っているかと、斉藤は探りを入れてみたのだが
「何も知らない」
の一点張りだった。嘘が下手な彼がそう言い切るのには理由があるのだろうが、藤堂の頑なさはよく知っているので引き下がるしかなかった。それに、いつになく藤堂も表情が強張っていて、何か決意を固めているような気がしたのだ。
(何か…企てがあるのだろう)
斉藤は刀の手入れをしながら考え込んでいると、
「斉藤先生」
と声をかけられた。伊東の実弟である鈴木だ。
「見回りに行きませんか」
「…わかった」
鈴木は御陵衛士となってからも淡々と新撰組にいた時と同じように見回りを続けていたが、この所は特に物騒になり頻度が高くなった。
斉藤は鈴木と共に歩き始める。昼だというのにどんよりとした雲が立ち込めているので、また天気が悪くなるだろう。
鈴木は斉藤を新撰組の間者だと疑い、露骨な態度を続けていたが、武田観柳斎の一件で少し見る目が変わったようで他の衛士と同等に接するようになった。加えて鈴木と兄である伊東との関係が軟化したのもあり、衛士たちの間では人が変わったと評判だが相変わらず口数は多くはない。
しばらく互いに無言で歩いたあと、鈴木が
「兄のことを何かご存じではありませんか?」
と訊ねてきた。きっとそんな話がしたいのだろうと斉藤は察していた。
「いや…数日前から様子が変わったとは思っていたが」
「兄にはいつも余裕がありました。山南総長が切腹された時も、長州に行った時も、正月の居続けで咎められた時も…けれど今は、何か…思い詰めているような気がして」
「心配だと」
「…兄弟ですから」
「…」
斉藤の目には、鈴木の性格が変わったようには見えなかったが、兄への執着がなくなり、どこか憑き物が落ちたかのようなすっきりとした様子が見えた。衛士たちが人が変わった言っていたのはこういう部分なのだろう。
斉藤は少し考えこむふりをした。
「…おそらく、土佐の中岡と面会した際になにかあったのだろう」
「しかし兄は土佐とは良好な関係を築けていると言っていました」
「表向きはそうだろう。しかし中岡が本当にそう思っていたのか…協力関係を解消したいとでも言われたのかもしれない」
「…」
鈴木は(まさか)という顔をしたが、斉藤には、当初から中岡が本気で伊東や御陵衛士のことを信頼しているとは思えなかった。何かと西国の味方をし討幕へと誘ってきた土佐の重鎮が、新撰組から脱退したと主張するだけの御陵衛士を信用するはずはない。いくら伊東の弁が立ち、考え方が同じでも…根っこのところでは疑っていたはずだ。
(手のひらを返してもおかしくはない)
そうなれば、伊東は衝撃を受けたはずだ。中岡のことは道標のように信頼していたのだから。
「…兄上は落胆されているのだろうか…」
「わからないが、落胆されているご様子ではなかった。おそらく次の策をお考えのはずだ」
「次の策とは?」
「…さあ」
斉藤は敢えて曖昧に首を傾げた。ここまでヒントを出したのだから、いくら疎くてもしばらく考えれば鈴木も思い至るはずだ。
伊東が信頼されない原因は新撰組に在籍していたことだ。そしてその分派でしかないと見なされている事実…それを覆すためになすべき事。
つまり、足枷になっている新撰組を裏切るのではないか。
(確たる証拠が欲しいところだ)
斉藤は鈴木を嗾けた。
「伊東先生に訊ねてみては?」
「…いえ、兄上は俺になんて…」
「以前なら一蹴されたかもしれないが…今は何か答えてくれるのでは?」
「…」
鈴木の表情が一瞬変わる。しかしすぐに眉間に皺を寄せて考え込んだ。
748
別宅に移動すると土方が珍しく「酒が飲みたい」と言うので総司は肴を買い求め晩酌をすることにした。
総司はほんの少しだけ酒を口にして甘い団子を頬張りながら静かな夜空を見上げる。
「今日は星がよく見えますね」
「寒いだろう、閉めておけ」
「少しだけ」
「じゃあこれを着ろ」
土方に厚い綿入れを渡されて総司は袖を通した。火鉢の向こうにいる土方は既に熱燗を二本、飲み干していた。顔が赤らんでいるが、理性を無くすほどの酔いではないようで苦悩は見て取れた。
「…近藤先生と何かあったんですか?」
「…」
「お酒が飲みたいだなんて、土方さんらしくない。よほどの喧嘩ですか?」
「いや…喧嘩じゃない」
土方は否定したが、その先を話そうとはしなかった。
近藤と土方の喧嘩は珍しいことではないか、たいてい感情と理屈のぶつかり合いで、最後は近藤が折れて終わる。二人なりの終着点があって、土方はそれを見据えていて近藤の興奮が収まるのを待っているのだ。だから土方には迷いがなかった。
けれどいまは様子が違う。土方には答えがなく、あまりに苦しいからこそ酒に逃げたくなったのだ。
総司は深く訊ねることを避けて、土方に串に刺した茹で蛸を渡した。
「これ、試衛館でみんなよく食べましたよね」
「…そうだったか?」
「大先生の好物だったけど、歯を悪くされたでしょ?だから柔らかいところは大先生が召しあがって、他を食客たちで頂いてました。そういえば藤堂君が好きで良く食べてたなぁ」
「…そうだったな」
土方は苦い顔をしつつ、串に刺さった蛸を眺めた。そして気が進まなくなったのか串を皿に下ろす。
「…総司、もし…藤堂を殺せと言ったら、殺せるか?」
突然の問いかけに、総司は素直に驚いた。けれど同時に(そういうことか)と納得もした。
「…御陵衛士との間に何かがありましたか?」
「奴らは完全に新撰組と手を切るつもりだ。それだけならまだしも…倒幕派と組み、兵を集めている。こちらを潰すつもりかもしれない」
「…最初からそのつもりでしたよね?」
「そうだろうな」
土方は不快そうに吐き捨てたが、総司は自分でも意外なほど冷静だった。入隊当初から感じていた伊東の異物感がやがて敵意へと昇華しただけのような気がしたのだ。土方も御陵衛士に対して信頼はしていなかったのだろうけれど、伊東の側には藤堂がいる。
「近藤先生に藤堂だけは助けるように言われた」
「…先生はそうおっしゃるでしょうね」
「お前はどう思う?」
総司は土方から視線を外し、手元の盃を揺らした。ほんの少しだけ残った薄い酒を飲み干して喉を潤す。
そして総司は偽りない本音を吐露した。
「私は…殺せないかもしれません」
「…それは命令を聞けないということか?」
「そういうことではなくて…受諾する自信がありません。今の私には…」
技量的にも、能力的にも、今は満たされているとは言い難い。そんな自分が精神的にも苦しい思いをする死に物狂いの魁先生を相手に出来るのか、正直に言ってわからなかった。
「仲間を…仲間だった人を斬るのは、大変なことです。いまだに山南さんのことを忘れることでしか乗り越えられない私には…できないかもしれない」
一度経験したからこそ、怖気付いてしまう…その気持ちがあることは否定できないし、近藤もも同じだったのかもしれない。あの喪失感を知っているからこそ、もう二度と繰り返したくないと思う。
そして土方も本当はーーー。
「…ゲホッ、ゲホッ」
こんな時に、と思いながら胸が少し痛むような咳が出た。土方は酔いが覚めたように肩を寄せて、夜風の入る障子を閉めた。
「もう良いから休め」
「…歳三さん、私は…きっと、お役には、立てませんが…」
「喋るな」
「もしそうなっても…誰も責めません…」
これだけは、と息を切らしながら縋るように告げると、土方は一瞬戸惑った顔をしたがすぐに「わかったから」と話を切り上げた。そして土方に誘導されるままに身体を横にして息が整うまで目を閉じた。
すると背中をさすり続けていた土方がポツリと呟いたのは、
「…俺は、藤堂を殺せないな…」
という本音だった。
同じ頃、鈴木は伊東の部屋の前にいた。
正しくは兄の部屋の前でうろうろと何周か歩き回り、入るべきか入らざるべきかを悩んでいた。
(斉藤に嗾けられたというのも癪だ…)
伊東の真意がわからないと嘆くと、「兄弟なら直接確かめろ」と言われて、何故だかそれを挑発のように受け取った鈴木は言われるがままの勢いで足を向けたのだが、実際この部屋の先で兄が何を話してくれるのかはわからないし、自信はない。
(和解した…なんて思っているのは俺だけかもしれない)
兄は冷たくはないが、相変わらず淡々としていた。鈴木としても今更兄弟のようにふるまうのも調子が良い気がして、あくまで上司と部下として立場を守ってきたのだ。
(やはり…やめよう。兄上には考えがあるに違いないのだから、待っていれば良い)
そう思いなおし、去ろうとしたところ障子が開いて伊東が気難しい顔のまま鈴木を見据えた。
「…気が散る。なにか用があるのならさっさと入れ」
「は…はい、すみません…」
伊東に言われるがままに、鈴木は部屋に足を踏み入れた。
月真院の一室は数本の蠟燭が灯され、大量の本と文が積みあがった机の周りに散乱していっぱいになっている。部屋は二人入れば狭く感じるような広さだが、不思議と居心地が良いのはかつて実家で暮らした時と似ているからだろうか。
伊東は鈴木に背を向けて文机に向かい、筆を手にした。
「それで…一体何の用だ?」
「…兄上が、思い詰めていらっしゃるようだったので…」
「そのわけを知りたいのか?」
伊東は鼻で笑い、鈴木は(やはり)と肩を落とした。兄弟だと口にしてくれたのはただの慰めで、これから簡単に関係が修復されるわけではないのだろう。
鈴木が口をつぐむと、伊東は深くため息をついた。
「…土佐の御仁に、お前は信用ならないと釘を刺されただけだ。博徒の輩と変わらぬと」
「え…」
「元新撰組の参謀だ。西国遊説でも何度も同じ目に遭ったが…このところ、思い通りに物事が進み、すっかり失念していたようだ。この土壇場で…梯子を外されたとはまさにこのことかもしれない」
鈴木は唖然としていた。愚痴のような内容よりも、兄が偽りない心の内を自分に吐露してくれている…自分を信用して、気を許してくれている。
けれどそのことに恍惚と喜んではいられない。伊東は落胆し、肩を落としているのだ。
「は…腹立たしいことです。土佐とて時に幕府にすり寄り、時に長州や薩摩に手を貸してきたはず。兄上がそのような誹りを受ける謂れはありません!」
「…はは、お前にしては良くできた慰めだ」
伊東は愚弟が時勢を理解していると思っておらず、冴えた言葉を口にしたことを素直に驚いているようだった。
「だが…私の立場も土佐と変わらないだろう。だから元新撰組という肩書は消そうとしても消せない、咎のようなものだ。この罪を贖うことから始めるべきだった」
「それは…どういう意味ですか?」
「お前は知らなくても良い」
それは非情な拒絶ではなく、これ以上は踏み込まなくて良いという警告のような言い分だった。鈴木が「わかりました」と素直に引き下がると、伊東はそれで良いと言わんばかりに小さく頷いた。
「お前は小難しいことには関わらず、このまま周囲の警戒を怠らず見回りをしていれば良い」
端正な兄の口元が微笑んだように見えて、鈴木は思わず
「兄上は何故俺を許してくださったのですか?」
と訊ねた。これまでまるでそこにいないもののように冷遇されていたのに、いまは衛士の一人としてまた弟として認められているような口ぶりだ。鈴木にとって夢見ていた兄との会話だが、現実のような気がしなかった。
すると伊東は「ああ…」と視線をそらし、手にしていた筆を置いた。
「…もし自分に何かあったら、後悔するだろうということがいくつかある。そのうちの一つがお前のことだ」
「俺の…」
「いつまでも過去のことに囚われ続けるのは子供だ。お前は都度反省しているようだし、内海にも今のお前を見るように促された。…家を出るときのことはずっと引っかかっていたが…思えば、長兄で跡継ぎである私の無責任な振る舞いにも問題があるのだろう。父が死んでも無関心で、母を置いて家を捨て、自分を優先した。お前がすべてしりぬぐいをしてくれたことをわかっていたのに、知らないふりをした」
「兄上…」
「だったらもう、おあいこで良いだろう。…異論はあるか?」
「あっありません!」
鈴木は即答した。そして同時に目頭が熱くなっていた。
伊東は新撰組にいたことが咎だと話したが、鈴木にとっては兄と別れるときの身勝手な行動がすべての亀裂を生んだと思っていた。どう贖っても贖いきれない傷は、きっと瘡蓋のように取れては繰り返し膿続けるのだろうと。
けれど兄は長い時間をかけて和解を口にした。傷を忘れることで治す…鈴木にとってこれ以上ない望みをかなえてくれたのだ。
鈴木が俯き、涙を流すと
「泣くな、鬱陶しい」
と伊東は口にした。
それは突き放す棘のある言葉ではなく、ただの兄弟の戯れだった。
749
翌日は明け方から小雨が降っていた。
総司が肌寒く感じ目を覚ますと、傍らで土方が熟睡していた。総司が眠ってからも酒を飲み続けたのか、買い求めた酒はすべて飲み干していた。赤ら顔で寝ているのは珍しい。
総司は昨日の会話を思い出した。
(…藤堂君か…)
新撰組と御陵衛士の間に、近藤や土方が藤堂に手を掛けるかもしれないと考えるくらいの亀裂が起こった。それは起こるべくした起こるものだったのかもしれないが、これから土方が抱えるであろう心痛は計り知れない。
試衛館の仲間はこぞって藤堂に味方するだろうし、土方の本音は手を出したくないのだろうが、それでも土方は『藤堂を許さない』と主張し続けなければならないのだ。御陵衛士が兵を挙げて歯向かうなら、こちらもそうする…鬼の副長は藤堂を贔屓せず、非情な決断を下すべきだと判断するだろう。
後々それがどれほどの痛みとなるのか―――山南の時のことを考えれば歴然としている。
けれども、せめて彼とは憎みあったまま別れたくはない。
(山南さんとは最後は和解できたのだから…藤堂君ともそうあってほしいと思うけれど、無理なのかな…)
「…起きたのか?」
総司が考え込んでいると、気配に気が付いた土方がゆっくりと体を起こした。寝起きの悪さと昨晩の酒が残っているせいで体が重そうで顔色が酷く悪い。けれど気怠そうにしながら総司の額に掌を当てて「熱はないな」と確かめた。
「吐き気も落ち着きましたし、大丈夫です。…今日は巡察は休みだけど朝は稽古なんです。だから帰らなきゃ」
「今日はこのまま休め」
「そうはいきません。新入隊士の腕も見ておきたいし…ちょっと口出しするだけですから」
「だったら…一緒に帰る」
「それこそ駄目ですよ、そんな二日酔い丸出しで帰ったら、隊士の士気が下がります」
土方は「大袈裟だ」と鬱陶しい髪をかき上げたが、飲みなれていない酒がまだ回っているのか、すぐに諦めて
「稽古は眺めるだけだからな」
と念を押した。総司は過保護な土方に「はいはい」と苦笑しつつ、布団を彼の肩に掛けて身支度を始めた。髪を束ね、羽織に袖を通し、刀を帯び…袱紗に包まれた銃を懐に忍ばせた。
「それ…持っているんだな」
その様子を肩肘を文机につきながらぼんやりとみていた土方が、総司の銃を指さした。以前、土方から命綱のように『持っておけ』と言われて渡されたものだ。それでも抵抗があってしばらくは行李の中で眠っていたのだが、このところ出歩くときは持ち歩いていた。
「…ええ。物騒ですからね」
「そうだな」
「じゃあ先に戻ります」
総司は短い返答で話を切り上げたが、土方もそれ以上は訊ねなかった。
傘を持って外に出ると、小雨だが長く降っている雨で地面が泥濘となり、あちこちに水たまりができていた。次第に痺れるような寒さを感じ、もう冬なのだと実感した。しかしそんな呑気なことを考えていられたのは少しだけで、身体に満たされていた熱はあっという間に消え失せて、指先が冷たくなっていく。
(早く帰ろう…)
そう思うが、泥濘が邪魔をしてなかなか前へ進まない。そうしているうちに昨晩の胸の痛みがぶり返してきて、総司は足を止めた。嫌な予感がして(いっそ別宅に戻ろう)と思ったが、そうすることさえできないほど動悸が激しくなっていく。近くの塀に片手を付きどうにか重心を取りながら、身体の奥から聞こえてくる悲鳴のような荒い呼吸をどうにか鎮めようと体を丸めたけれど寒さのせいかどんどん酷くなっていく。
「ゲホッゲホッ!」
ついに喉が痛む咳が出た。雨が降り傘を差していたおかげで人出があっても目立たないで済んでいるが、このまま喀血して倒れれば騒ぎになってしまうだろう。総司はひたすらに耐え忍ぼうと格闘したが、咳はどんどん酷くなっていく。
(とにかく…目立たないところに…)
今にも倒れそうな鉛の体を引きずって、道幅の狭い脇道に移動したが、その無理がまた悪化させた。このまま意識を失ったら大事になると己を奮い立たせるが、それもいつまで続くかわからない。他人には一瞬のことが、総司には永遠に感じられて途方もない気持ちになった…時。
突然身を隠すようにしていた傘が取り上げられてしまった。
「やっぱり…!」
そして、目の前に現れたのは藤堂だった。
「なん…」
「沖田さんのような気がして駆けつけたら当たりでした。大丈夫ですか?顔、真っ青じゃないですか!」
藤堂は何の迷いもなく総司を心配する。彼のそんな顔を見ていると、互いの立場だとか状況だとかそんなものはすべて消え去り、気が緩んだ。そのせいだろう、体を折り曲げた「ゲホッ!」という一際大きく激しい咳のあとに喀血していた。指の合間から零れる真っ赤な血に藤堂は驚いていたが、すぐに邪魔な傘を放り投げると、血で汚れることなんかお構いなしに総司を担いだ。
「えっと、南部先生でしたっけ?でも遠いですね、屯所も…どうしよう」
「…藤堂、く…このまま…」
「このまま置いて行けなんて馬鹿なこと言わないでくださいよ!このご時世に正体が知れたら危ないし、だいたい血を吐いているくせに何強がっているんですか!」
魁先生の容赦ない文句に、総司は反論することはできない。藤堂はしばらく「どうしよう」と考えていたが、
「仕方ない」
と呟いて総司を背負ったまま速足で歩きだした。
総司はその背中で少しずつ意識が遠のき始めていた。けれどはっきりしていたのは藤堂が駆けつけた時、総司は「助かった」と思ったことだ。そしてこうして背負われて、どこへ向かうのかわからないけれど何も心配はしていなかった。
(僕は…ああ言ったけれど…)
昨晩土方に尋ねられて、敵対するのなら彼を失っても仕方ないと、病で蚊帳の外だからこそ割り切って勝手なことを言ったけれど。
藤堂を目の前にすると、あの言葉はただの強がりだったのだとわかった。
(…僕も、君を失いたくはない…)
理性よりも感情を優先してしまう、屈託のない君がどうしても嫌いになれない。
「ありがとう…」
蚊の鳴くような声は藤堂の耳に届いたのかどうかはわからない。総司はそのまま意識を手放してしまったのだ。
ドンドンドンッと激しく門を叩き、
「誰か―!」
と藤堂は叫んだ。背負った総司は意識を失ったが荒い息遣いは続いている。早く休ませて医者を呼んだ方が良いと思った藤堂は、自分なりに最善の選択をしてここにやってきた。
すると扉が開く音が聞こえて、門が開く。気怠そうな家の主が迎え出るが、びしょ濡れの藤堂と総司の顔を見て驚き混乱していた。
「…藤堂?」
「早く中に入れてください。沖田さんが…!」
「入れ」
状況を察した土方は別宅の中に二人を通し、玄関でぐったりした総司を受け取るとその場に横たえた。呼吸が楽になるように態勢を整えるが、依然として苦しそうだ。
「すぐそこで、たまたま苦しそうなのを見かけたんです。最初はだれかわからなかったけれど、沖田さんのような気がして…あっという間に血を吐いて眠ってしまいました」
藤堂の肩口には総司の喀血による汚れがあり、彼が語ることが本当なのだとわかる。土方はひとまず自分の上着を総司に掛けて、雨を拭き取った。そして藤堂にも手拭いを渡した。
「…世話になった」
「そんなことは良いんです。俺、ひとっ走りにして医者を呼んできましょうか?主治医は南部先生ですか?」
「もう良い、お前は帰れ」
病人を前に熱くなる藤堂に対して、土方は淡々としていた。
「帰れません!とても苦しそうだったんです、人通りがあるなかで耐えていたみたいで…!俺にできることがあれば…」
「苦しむのはいつものことだ。喀血して苦しくないわけがない」
「そんな…!」
「医者には診せるが、落ち着いてからで良い。…お前には関りがない」
土方に冷たく拒まれて、藤堂は
「俺だって仲間です!」
とほとんど無意識に叫んだ。けれどそれは部屋に響くだけで、むなしく雨の音に混ざって消えていく。
藤堂は何一つ間違っていないという顔をして睨みつけていたけれど、土方は相手にしなかった。彼以上に鋭い眼差しで見据え、重く告げた。
「一時的な情に流されるのは、お前の悪いところだ」
「な…っ」
「新撰組を出て行ったお前に何がわかる。これが何度目の喀血か知っているのか?そのたびに『仲間』がどれほど心配して苦しんでいるのか、お前は知っているのか?お前も同じだと?」
「…!」
「知らないなら、何もいうな。命取りになるぞ」
藤堂は言葉が出なかった。
決して自分が御陵衛士として出て行った立場だということを忘れていたわけではない。けれど昔なじみの仲間が倒れていて手を差し伸べるのは当然だと思ったし、気が進まなてもこの別宅に駆け込んだのだ。だから、感謝されたいと思っていたわけではないが、ここまで強く否定されるとは思ってもみなかった。
冷たく突きつけられる現実に対して怒りや憤りを通り越し…藤堂は呆然としていた。
雨に濡れた衣服がずっしりと重たく感じ、途端に身体が冷えていく。
(わかった…)
そしてある境地にたどり着いた。
「…わかったなら、帰れ。今日のことは有難く思っているが、今後は手出し無用だ」
土方は呼吸が落ち着いた総司を抱きかかえたが、藤堂はそれまでの勢いを無くしたように項垂れた。そして感情を無くしたように呟いた。
「とても…とてもよくわかりました。確かに俺は皆と別の道を歩くことに決めた裏切り者です。新撰組との橋渡しだとかそんなこじ付けで納得させてきたけれど…もうあのまま新撰組に残ることはできなかったから、逃げるために出て行ったことに間違いはありません」
「…」
「俺はもう仲間じゃない。…それがわかってすっきりしました」
藤堂は手拭いを「返します」と玄関に置き、背中を向けた。
「それに…やっとわかりました。山南さんもこうやって死んだんですね」
「…とう…」
「失礼します」
藤堂は土方の言葉をさえぎってそのまま去っていった。雨は強くなってあたりは霧に包まれている。
土方は総司を抱きかかえて部屋に入った。幸いにも総司はさほど雨に濡れておらず、体温を取り戻しつつあった。それは藤堂がここに駆け込んでくれたおかげだ。
(言いすぎたな…)
土方はそう思ったが、早くこの場を去らせたいという気持ちが言葉に表れてしまったのだ。もし何処かに御陵衛士や倒幕派の監視の目があって新撰組の、しかも土方の別宅に立ち寄ったなど知れれば彼の今後に関わる。これは土方なりの配慮だったのだが、そんなことは言い訳に過ぎないのだろう。
(俺は…あいつをもう殺してしまったのかもしれない…)
明るく素直な魁先生は、まるで心を失ってしまった人形のように表情を凍らせて去ってしまったのだ。
750
皆が寝静まり、夜が更けていく。日が落ちると一気に寒くなる季節だ。
内海はいまだに明かりの灯る伊東の部屋を訪ねた。
「失礼します」
と言っても返事がなかったのでそっと中に入ると、伊東は数冊の書物を枕にするようにして文机に突っ伏して眠っていた。
(まったく…この寒い夜に)
内海は仕方なく自分が着ていた羽織を伊東の肩に掛け、消えかけていた火鉢に炭をくべる。黒い炭がほんのり赤らんだのを確認して再び伊東へ視線を戻すと、彼が枕にしているのは山南から譲り受けた書物だった。
『新撰組を打倒する』
伊東の強い決意を感じ、内海はその意志に従うことにした。返り討ちにあって潰されるのではないかという危惧は感じたが、伊東がいつかそう決意するだろうとは予感していたので、それが早まっただけだと納得した。
(俺は君についていく…)
それは新撰組に入隊する前から決めていたことだ。迷いなどあるはずはない。一歩間違えば、山南のように死ぬことになるだろう。
だが…それでも。
「君と共に在れば良いんだ」
内海が呟くと、
「…相変わらず、怠慢な奴だ」
と伊東が目を開けた。
「起きていたのか?」
「少し前に」
伊東はそう言いながら背伸びをしたが、内海は独り言を聞かれて居心地が悪い。
「…それで、今後のことは決まったのか?」
「大体決まった。…やはり新撰組を相手にするにあたり、人員が足らない。美濃の助太刀は得られるかもしれないが…その場合は徳川や会津を巻き込んだ戦争になるだろう。私はそんなに愚かではないしこの時勢に内戦を望まない…本末転倒になる」
「だったら…」
「秘密裏に近藤を殺すしかないだろう」
伊東の冷たい物言いに、内海はひやりとした。
土方とは対立する場面も多く、分離の際は完全に敵対していた。けれど近藤とはそれなりの友誼を残したままであり、別れの際は近藤は心から残念がっていた。伊東も近藤には一目置いており一個人としての度量の大きさを認めていたはずだ。それなのに今は、その情が欠片もない。
内海は
「君には躊躇いがないな」
と率直にいうと、彼は苦笑した。
「躊躇いがないわけじゃない。だが、土方を殺しても隊士たちは喜ぶだろうし、近藤が新撰組の精神的支柱であることは間違いないのだから仕方ない。私は彼とは進む道が違うが、その情熱と気概は認めているんだ。これは苦渋の決断だよ」
「しかし…このところ近藤局長は屯所に詰めている日が多く、警護のために何人か付けている。そう簡単にいかないだろう」
「…なんだ、内海も同じことを考えていたのか」
伊東の言う通り、内海はこの数日新撰組の屯所の様子を探っていた。伊東が『近藤を手にかける』と言い出すのはわかっていたからだ。
「大坂奉行所の与力が殺されたと聞くが、新撰組はそれ以上に方々の恨みを買っている。この混乱に乗じて俺たちのように命を狙う者がいてもおかしくはない。…それゆえに警備が厳しくなっているようだ」
「そのようだ。早急に動きたいが…現実的には近藤を狙うのは難しいかもしれない。彼は剣豪だ、そして運が良い…池田屋の土壇場で生き残ったのだからな。それに今回、失敗すれば新撰組が口実を得て総力を上げて我々を潰すだろう。我々の命はない…確実に遂行したい」
「…どうする?」
「…」
黙り込んだ伊東は身体の向きを変えて、火箸を持ち炭を突いた。
漆黒の炭は仄かな焔に喰われて灰となる。じりじりと、けれど確実に。
「…この炭のようにこのまま焼かれて、灰になって消えていくのは不本意だ。ここで何も成すことができないなら…この先も我々に未来はないだろう」
「大蔵君…」
「死にたくなければ、非情になるべきだ。お前も…私も。だが…」
伊東はその長い睫を伏せて燃えていく炭をじっと見ている。そしてしばらく黙り込んだ。
内海はその顔をじっと見ていた。長年の付き合いになるが、伊東は全く老けた様子がなくむしろ都に来てからどんどん若返っていくようだった。水戸で燻ぶり続けていた情熱を発散させるように、ただただ邁進しているその後ろを歩くだけで、内海は十分だった。
(汚れ仕事は俺が請け負う)
「…君の考えていることは、大体わかる。新撰組の精神的支柱は近藤局長だけではない。たとえば…沖田がいなくなれば、局長、副長と助勤や隊士たちを繋ぐ役割を果たす者はいない。まず彼を殺し、別宅を構えている永倉、原田と一斉に手に掛ければよい。それで崩壊する」
「…しかし病の者を襲うのは、気が進まない。武士として…」
「我々は将軍に忠義を誓う武士ではない。帝に使える衛士だ」
今度は内海が伊東を説得する番だった。火鉢を挟んで二人は視線を交錯し、内海は伊東の肩に手を伸ばし掴んだ。
「君は先ほど非情になるべきだと言っただろう。沖田は別宅で療養し、巡察の際には屯所に戻っている。狙うのは簡単だ、手段を択ばずに前進すべきだ」
「…」
「君ができないというのなら俺がやる」
「痛い」
伊東は内海の手に自分のそれを重ねた。いつの間にか力が入り、強く掴んでいたようだ。
「すまない…」
「良いんだ。ただ…内海にそんなことをさせたいわけじゃない。弱者を狙うのは私の流儀に反しているし、気が引ける」
「彼は弱者ではない。病に侵されていてもいまだに新撰組一番隊を率いる助勤だ。刀の穢れになるわけがない」
「…」
「大蔵君」
内海は決断を促し、前のめりになって伊東の言葉を待っていた。彼が口にすることならば何でも請け負うつもりだった。それがたとえ非情な行いでも道義に反していても、自分たちが活路を見出すためなら構わなかった。
あの雨の日、項垂れる伊東を見て彼のためならなんでもすると覚悟を決めたのだ。
けれど伊東は首を横に振った。
「…内海、君にそんな仕事は似合わない。真面目な君はいつか後悔するに決まっている」
「しかし…」
「こういう時に任せるべき者がいるだろう」
内海は伊東の意図を理解し、ゆっくりと体勢を戻した。
「…斉藤先生か」
「良い機会じゃないか。彼らは親しい友人だが、斉藤君がこの仕事を完遂できたなら今度こそ内海は彼を信用できるだろう?今後も重要な仕事を任せられる。しかし完遂できないなら…やはり我々の仲間として相応しくない。彼の本性に炙り出すには良い時機だ」
土方は分離の際、伊東に『寝首をかかれない様に』と忠告した。斉藤とは半信半疑のままここまで過ごしてきたが、ついに本性を確かめる時が来たのだ。
「斉藤君とともに数名、同行させよう。もし彼が裏切れば、その場で沖田諸共斬れば良い」
「…だったら俺に行かせて欲しい。彼のことは俺が確かめる。あとは腕利きの服部君と腕っぷしの良い篠原が居れば何とかなるだろう」
「わかった。彼らには私から話す」
話がまとまり、伊東は不敵に微笑んだ。
「…内海、私と共に在るということはこういうことだ。それでも良いのか?」
内海は二度、その言葉を伊東に告げた。
それは判断を任せるという意味であり、命運を共にするということだ。
もちろん、内海は重々理解していた。
「ああ、もちろんだ」
「そうか」
目が覚めた時、雨は上がり陽が昇っていた。
「あ、おはようございます!!」
庭から聞こえてきた元気の良い声は寝起きの総司の鼓膜を激しく揺らした。おかげで一気に頭が冴えた。
「…あれ、泰助?」
「はい!副長から留守番をするように命令されました!ついでに庭掃除も!」
「泰助、声が大きい」
「すまん!」
別の方向からやってきたは銀之助だった。彼らは小姓を命じられていて、年相応に表情豊かでやんちゃな泰助と年不相応に涼しい顔をして落ち着いた銀之助という凸凹の組み合わせだが、不思議と気が合うようだ。
二人は朝方、土方に命令されてやってきて泰助は庭掃除、銀之助は総司の看病を担当していたらしい。
「いまは…もう昼を過ぎましたか?」
「はい。そろそろ主治医の先生がいらっしゃるそうです。副長からのご伝言で、しっかり治るまでお休みになるようにと」
「俺たちに何でも言いつけてください!」
泰助は箒を持ち、銀之助は水の入った桶を準備している。そんな二人に囲まれて総司は何だか気が抜けてしまった。
(子どものままごとに付き合っているみたいだ)
「…ありがとう」
「腹が減ってますよね?昼餉を準備します!」
「泰助、先にお薬の白湯だよ。目を覚まされたらまず一番に、と副長がおっしゃっていたのをもう忘れたの?」
「そうだった!」
彼らはバタバタと土間の方へ向かった。漫才のような彼らのやり取りを耳にしていると、自然の口元が緩んだ。
(ハハ…土方さんはわざとこの二人を遣わせたんだな)
深刻な話をした後の喀血…目が覚めて一人だったら鬱々としたに違いない。けれど少年たちの他愛のない会話や懸命な働きぶりは気を紛らわせたし、考え事をする暇がない。
すると、ガラガラと玄関が開くことがした。英がやってきたらしく二人の案内で部屋にやってくる。彼は困惑した表情をして
「新撰組は余程の人手不足なのか?それとも寺子屋でも始めた?」
と、真剣に尋ねたので総司はまた腹を抱えて笑うことになってしまった。
745 新入隊士の配置については創作です。今回上京した隊士たちは幕臣となった近藤の家臣という側面が強く、近藤附きの隊士という形です。