わらべうた
751
「兄上は、土佐の輩から非礼な仕打ちを受けたようだ」
見回りを終え、月真院に戻る途中で鈴木は斉藤に兄から聞いた話を明かした。
「博徒の輩と変わらぬと…なんという暴言だ。土佐には失望した!」
「…博徒か、それは確かに手厳しい」
「兄上もそのような奴らの相手をする必要はないのに」
鈴木は憤っていたが、斉藤は(やはりその程度だったか)と納得した。周到に立ち回る中岡らが元新撰組である伊東を易々と信用しないのは当然だ。伊東も本心ではわかっていたが、『そうではないはずだ』と期待していたが裏切られてしまったのだ。結局は便利に利用されていただけなのだという現実を突きつけられた。
「兄上はこの先の展望は、教えてくださらなかったが、新撰組に在籍していた過去を憎んでいた」
「当然だ」
「もしかしたら、兄はとても大胆なことを考えているのかも…」
「鈴木君」
月真院の正門までやってきたところで、内海が突然現れた。彼は待ち構えていたようでさらに彼の背後には屈強な篠原と腕の立つ服部もいて威圧しているように見える。突然現れた彼らに鈴木は困惑した。
「内海さん…?」
「鈴木君、伊東先生のお話を易々と他人に話すべきではない。ましてや、元食客である彼に」
「は…はい」
「…」
いつも冷静な内海が『他人』と口にしてあからさまに斉藤を牽制していた。内心ではずっと疑っているのだろうが、今の振る舞いは本心を隠してはいなかった。鈴木も内海の変化を感じ取り、困惑していた。
(何かある)
斉藤は身構える。すると内海に「話がある」と誘われた。鈴木は不審な顔をしながらも内海に促されその場を去り月真院に入っていく。
「…何の話だ」
「今からある人物を殺しに行く。相手は相当な手練れ…是非斉藤先生に先鋒を任せたい」
「闇討ちか。それは…伊東先生もご存知のことか?」
「勿論」
内海の物言いは淡々としている。けれど伊東自ら命じるのではなく内海を介するあたり、後ろめたい相手なのだろう。
何かの罠のような気がしたが、敢えて断る理由はない。
「伊東先生の命令なら是非もない。決行は?」
「今からです」
「…急だな」
「君の腕前ならしくじることはないでしょう。私と篠原、服部も助力します」
内海の言い方は腕が立つ、という褒める意味ではなく、お前なら秘密裏に殺すことに慣れているだろう、という嫌味のようだった。
(この場を去ることもできないか…)
内海だけならまだしも、腕の立つ服部と体格の良い篠原に囲まれてはさすがに手も足も出ない。逃げ場がなく、だれかに伝える暇もない。わざわざこんな状況で強引に連れ出されるということで、相手も察しが付く。
(相手は…新撰組か…)
鈴木が口走っていた通り、伊東が元新撰組であるということを克服したいと望むなら、近藤の首を中岡に献上するのが手っ取り早い。この頃、伊東が重い表情で思案していたのもこのことだったのだろう。新撰組を相手に戦を仕掛けるつもりだ。
「…わかった、行こう」
斉藤の返答に内海が頷き、彼らは月真院を離れた。
陽が暮れ始め、辺りは暗くなり始めている。斉藤はまるで連行されるように内海の隣を歩き、後ろに服部と篠原が続いた。
「なんと言って鈴木君を唆した?」
内海に尋ねられ、斉藤は「一体何の話だ?」と問い返した。
「俺は君を信用していない。土方副長の右腕であった君が御陵衛士に加わるなど最初からおかしいと思っていた。大蔵先生は面白がって取り込んだが…俺はいつ君が裏切るのかとずっと疑っていた」
「…無駄なことに時間を費やして残念だな。俺は伊東先生のお考えに心から賛同している。幕府がなくなりやはり先生を頼って良かったと心底安堵しているところだ。…まあ、過去を変えられないのは仕方ない。過去は殺せないし、殺したところで信用を得るとは限らない」
「…」
遠回しな嫌味を内海は涼しい顔をして受け流した。そこで斉藤は少し大きい声で
「新撰組に歯向かっても返り討ちに遭うだけだ。考え直した方が良い」
と飾らず告げると内海はピクリと眉を動かしただけだったが、勝気な篠原は「愚弄するのか!」と声を上げた。後ろの二人が今にも刀を抜きそうになったので、内海は「やめろ」と制する羽目になる。彼らの短絡的な行動のおかげで斉藤は(やはり)と確信を得た。
内海は尚も続けた。
「やはり斬るのが気が進まないのだろう」
「…斬るのは構わないが、その後のことが問題だ。新撰組が総動員して攻め込んできたら御陵衛士はどうなる。あっという間に壊滅する」
「君の心配することではない。もし君が濡れ衣だというのなら、今回のことで証明すれば良い。その後にこれからのことを腹を割って話せば良いのだ」
「…わかった」
それきり会話は途切れ、賑わう祇園の繁華街へ足を踏み入れた。色めきあう人々の間を、深刻な表情をした四人が歩く様子は物々しくさぞ浮いているだろう。斉藤はその人混みに紛れた時、懐から紙縒り(こより)を落とした。あまりにも自然な仕草で、後ろの二人もゴミを落とした程度にしか思わないだろうが、これは斉藤が雇うの回し者への合図―――近藤と土方へ緊急を告げる手段だ。おそらくこの祇園のどこかで斉藤を見ている。
(これで内海たちの目的は果たせない)
近藤の別宅を狙うつもりだろうが、紙縒りが届けば土方は近藤の身柄を確保し必ず屯所に留め置くはずだ。この人数で屯所に襲撃を仕掛けるはずもなく、彼らの目論見は外れる。
(ここらが潮時だろう)
ギリギリまで満杯になっていた湯呑みから、何かが溢れたような気がした。
「先生、俺たちは土間で十分です!」
銀之助は拒み、土間に布団を敷こうとするが泰助は遠慮なく
「きっと凍えるように寒いぜ」
と総司とともに部屋で寝ようと誘う。
結局、具合が芳しくない総司はもう一泊別宅で夜を過ごし、朝起きて万全の体調で屯所に帰営することにしたのだが、小姓たちもそれに付き合うらしい。銀之助は「仮隊士の分際で」と組長と布団を並べて眠ることを拒むが、昔なじみの泰助は平気だと大笑いする。この場に土方や井上がいれば話は別だろうが、総司は泰助の側に立ち、穏やかに笑った。
「田村君、土間なんか隙間風で寒いに違いありませんよ。私も君たちを預かっておいて風邪を引いて返すわけにはいかないんです」
「でも…僕は寝相が悪いし、先生にご迷惑をおかけするに違いありませんし…!」
「強情だなあ!銀、もう俺は寝ちまうぞ」
「お前はもうちょっと遠慮したらどうなんだよ!」
結局、二人はまた小競り合いを始めたので、総司はその隙に銀之助の布団を部屋に引き入れて枕を並べる。そして
「組長命令です、田村君」
と指差すと強情な彼はようやく落ちた。
「わ…わかりました。でも沖田先生、僕のことはどうか『銀之助』をお呼びください。兄が二人いて紛らわしいでしょうし」
「じゃあ銀之助君。ほら、早く寝ましょう」
銀之助は渋々従い、泰助は得意そうな笑みを浮かべて明かりを消した。
試衛館や壬生にいた頃は雑魚寝は当たり前だったが、ここまで年下の子供とともに寝るのは総司にとって初めてのことで新鮮だった。
(近藤先生はこんな気持ちだったのかな…)
九つで試衛館に口減らしにやってきた総司を、近藤は慣れない様子で出迎えて可愛がってくれた。末っ子だった近藤にとって、総司はまるで年の離れた弟のようなもので叱ることなど一度もなかった。
総司も彼らを見ていると穏やかな気持ちになる。
(この子達に…強くなってほしいな…)
かつて自分が近藤を慕い強くなりたいと思ったように、彼らもこの場所で生き甲斐を見つけてほしい。
総司はそんなことを思いながら目を閉じた。
同じ頃、新撰組の屯所に大石が駆け込んできた。
いつも裏口を使いながらも物音ひとつ立てない大石がバタバタと気配を隠すことなく、土方に顔を見せたのは初めてのことだった。
「どうした?」
「近藤局長は…!」
「部屋にいる」
会津黒谷から戻った近藤は、本来であれば別宅に行く予定だったらしいが時間が遅くなってしまい、子どもを起こしてはならないと屯所に戻ってきていた。
大石はそれを聞くと一旦は安堵したが、すぐに懐から紙縒りを土方に差し出した。
「これを斉藤先生の下僕であるという物乞いから預かりました…!すぐに副長へ知らせるようにと」
「…!お前は醒ヶ井へ行け。お孝たちを連れてこい」
「はっ!」
紙縒りの意味は、土方と斉藤の間で取り交わしていたためすぐに意図を察した。土方は大石に指示を出し隣の部屋を訪ねると、近藤は習慣である眠る前の読書をしていたようだ。
「歳?何があった?」
「斉藤から知らせだ。…御陵衛士が動いた。近藤先生を狙っている」
「何…?!」
「詳しいことはわからないが、おそらく近藤先生が黒谷へ向かったことを知り、別宅に戻すことを予想して奇襲するつもりだろう」
近藤は青ざめ、「お孝とお勇が!」と声を上げるが、土方は「大丈夫だ」と頷いた。
「近藤先生はここを動くな。醒ヶ井には念のため大石に行かせた。まさか女子供に手を出さないだろうが、人質にでもされたら厄介だ。醒ヶ井は近い…すぐに屯所に避難させる」
「そうか…。しかし、まさか本当に御陵衛士が攻めてくるのか?」
「伊東は屯所に奇襲をかけるような馬鹿ではないだろう。狙っていたのは近藤先生の首だけのはずだ。…だが、奴らの狙いは頓挫する」
「そう…そうだな、俺はここにいるのだからそうなるな…」
「俺は念のため全隊士を武装待機させる」
突然のことに困惑する近藤を置いて、土方は隊士たちのもとへ足を向ける。その道中に騒ぎに気が付いた山崎がやってきた。
「御陵衛士が動いたとか」
「ああ、斉藤からの知らせだ。紙縒りが届いたときは最上に危機的な状況の知らせだと取り決めている。斉藤自身もそうすることでしか知らせることができない切羽詰まった状況のはずだ」
「…監察からの情報を集めます」
深刻な表情をした山崎が闇に紛れて姿を消した。
752
土方は詳しい事情を伝達せず、敵が攻めてくる可能性があるとして皆を武装待機させた。真っ暗な闇に包まれる夜更けに、あちこちに松明が灯され皆が武具を身につけ、銃が並ぶ…さながら戦でも始まるような物物しい雰囲気のなか、まだ入隊したばかりの相馬は困惑していた。
「一概に敵と言っても、長州か薩摩か、あるいは別の勢力か、はっきりしないのですか?」
伍長の島田は、
「それは自分にもわからん。ただ、監察方は随分慌ただしい様子だった…なにかあるのは間違いない。準備を万全にして損はない」
「今更長州や薩摩が、新撰組を相手にする必要はないっすよね。だとすれば分離したっていう御陵衛士じゃないっすか?」
ぴりぴりと張り詰めた空気の中、野村は大あくびをしながら呑気な様子だ。忙しい島田は相手にせずに聞き流したが、相馬は眉間に皺を寄せて詰め寄った。
「適当な憶測を口にするな、士気に関わる。だいたい新入隊士のくせにその態度は…」
「そういや、あのちびっ子らはどこに行ったんだろうな?」
相馬の小言も意に介さない野村は辺りを見渡した。忙しなく小荷駄方が走り回り戦支度を整えるなか、幹部の小姓を務める泰助と銀之助の姿がない。
相馬は「そんなことか」とため息をついた。
「二人は土方先生の別宅だ。沖田先生の具合が悪く付き添いをしているそうだ」
「ふうん…」
野村はそれまで気怠そうにしていたが、急に立ち上がり刀を差した。そして部屋を出て行こうとするので、相馬は引き止めた。
「待て。何処へ行く?」
「…なんか、気になってさ。副長の別宅は西本願寺の近くだよな?様子を見てくる」
「全員待機だと命令が出ただろう。だいたい詳しい別宅の場所を知らないくせに…」
「ちょっと外の様子を見てくるだけだ」
野村は相馬を振り切って島田に「ちょっと行ってきまーす」と軽く手を振って去ってしまう。島田はやれやれと呆れていたが気分屋の野村に構っていられなかったようで相馬に視線を送ったので、相馬は仕方なく野村の後を追うことにした。
すると彼らと入れ替わるように、醒ヶ井から大石とともに孝とお勇、そして居合わせたみねが屯所に避難してきた。到着の知らせは瞬く間に近藤に届き、駆け込んでくる。
「お孝…!良かった、みんな大事ないか?」
「へえ、お勇もこの通り」
お勇はこの騒がしいなかでもよく眠っている。近藤はその寝顔で顔をくしゃくしゃにして「大物だな」と安堵していたが、肝が据わっている孝は「しっかりなさいませ」と励ました。
近藤は彼女たちを客間に案内し、土方は大石を呼んだ。
「状況はどうだった?」
「静かです。醒ヶ井も屯所の周りも人通りはなく、普段と変わりません」
「…そうか」
「他の監察も同じでした。ただ…月真院を張る小者によると内海、服部、篠原…斉藤先生が外出したと」
「…」
土方は腕を組み考え込む。紙縒りが届いたのは間違いなく急を要する事態のはずだが、状況は変化がない。
(一体どこに…。醒ヶ井に近藤先生がいないことを察知したのか…?)
あっさり撤退したのだろうか。
しかし土方の胸騒ぎは止まらなかった。
月が翳り今宵は一層闇が濃く、夜が深く感じる。人通りの少ない道をぞろぞろと無口で歩くととても時間が長く感じられた。
斉藤は立ち止まり、
「醒ヶ井はあちらでは?」
と尋ねた。屯所を急襲するには人数が足りないため、近藤の別宅に向かうのだろうと思っていたのだが内海は醒ヶ井を通り過ぎ北上している。
しかし内海は
「こちらであっている」
と否定し、篠原や服部もそれに同意したため斉藤は違和感を覚えつつ彼らの歩調に合わせるしかなかった。
(…狙いは局長ではない…)
先導する内海は不動堂村を避けるように道を選び、迷いなく歩き続ける。次第に斉藤は自分の嫌な予感が当たっているような気がしてきた。
西本願寺の近く―――覚えのある通りの一角で内海が足を止めたのだ。
「狙いは土方副長か?」
「…斉藤君、正体が露見してはややこしいことになる。この頭巾を被ってくれ」
内海は答えず、斉藤に黒の頭巾を渡す。敢えて答えを濁しているのだと感じ語調を強めた。
「答えろ。この先の別宅へ踏み込むのか?」
再度尋ねたところ、内海はようやく答えた。
「その通り」
「…土方が死んでも、新撰組の結束は揺らがない」
「承知している」
「だったら何故」
斉藤は紙縒りが届けば、近藤も土方も屯所にいるだろうと確信していたため、この先の結末を見据えていた。踏み込んだところで無人であり彼らの企ては失敗に終わる…だったら内海からより多くの情報を得るべきだと切り替えたのだ。
しかし内海は表情を変えなかった。
「おそらく新撰組は土方がいなくなっても近藤の元で再起するだろう。むしろ結束は強固になり一丸となって我々を潰すかもしれない…斉藤君にそんな無駄な手間をかけさせるわけにはいかない」
「…では…」
「小者に調べさせたところ別宅には土方は不在で、沖田が療養している」
その言葉を聞いた途端、斉藤は内海が何故標的を伏せ続けたのか理解し、すぐに頭巾を投げ捨てて彼の胸ぐらに掴み掛かった。同時に服部が鞘に触れ、篠原が踏み出したが
「やめろ」
と内海が制したため彼らは動かなかった。内海は標的を明かせばこうなることを予測していたのだろう。
「病人を狙うなど武士の風上にもおけぬ!」
「武家の棟梁である幕府は倒れた、故に我々は武士ではない。…病人の彼に手を出すのは不本意だが、仕方ないことだ」
「仕方がないだと?それが伊東の考えか?」
「その通り。大蔵先生はもう手段を選ばぬ。この世の中で生き抜く為には新撰組を打倒しなければならない。最初は近藤を狙うべきだと思案したが、より確実に仕留めるべきだと判断した。この後は助勤を狙う」
内海が強く断言し、斉藤はますます強く掴んだ。
「心底見損なった。死病を患う者を手に掛けるなど、御陵衛士の一生の汚点となる所業…!」
「この程度の汚点など、この国を変えることを考えれば些細なこと。…それとも、友人を手に掛けるのを躊躇うのか。伊東先生の命令が聞けないと?」
内海が視線を斉藤の背後へ向けた途端、篠原と服部が刀を抜く音がした。刃先はもちろん斉藤に向けられているだろう。
斉藤は(冷静になれ)と自分に言い聞かせる。
ここで感情に任せて応戦することはできるが、手練れ三人を相手に背中を取られている…切り抜けられる確率は低い。それはとにかくとしても、もしそうなれば彼らはこのまま別宅を襲撃するだろう。病で伏せり身体が思うままに動かず、人数でも劣れば流石に総司でも対応できない。
そして内海の眼差しはとても冷たい。
(こいつは俺を試している)
最も親しい友人を斬れるのか。本当に新撰組を見限ったのか―――。
斉藤はどうにか感情の昂りを抑えつけて、襟を離した。そして内海を強く睨みつけた。
「…わかった。ただし、誰一人手を出すな。病人を不意打ちし、数人で囲むなど俺は耐えられない。…この先に進むならそれが条件だ」
「良いだろう。ただし君が仕損じたら我々がやる」
内海が頷いて背後の二人は刀を鞘に収める。斉藤は投げ捨てた頭巾を拾い上げた。
斉藤は短い時間を使ってあらゆる可能性を考える。一番良いのは、彼が斉藤諸共斬り伏せることだが、病の体でそう簡単には行くまい。もしくは斉藤がタイミングを見計らって裏切り三人を斬り伏せる手もあるが、そうなれば新撰組と御陵衛士の全面戦争だ。その火蓋を勝手に切るわけにはいかない。
なかなか正解が得られないまま、斉藤は内海らに促され別宅へと足を向ける。追い詰められた状況のなか、一つだけはっきりしていることがある。
(いまこそ、誓いを果たすべき時だ…)
何があっても守る―――その機会がまさかこんな唐突に訪れるとは思わなかった。けれど、そうすべきだと誰かが言っている気がした。
総司は不意に目を覚ました。
まだ静かな真夜中で泰助と銀之助の寝息が聞こえるだけだった。
眠る前に枕元に置いた白湯を飲み、一息つく。そして子猫のように丸まって眠る泰助と宣言通り寝相の悪い銀之助が熟睡しているのを見て、思わず微笑んでしまった。
(やっぱり、まだ寝顔は子どもだな…)
あどけなさの残る彼らを眺めていると、不意にギィ…という小さな物音が聞こえた。いつもなら風の音か建物が軋んだのか、くらいにしか思わなかったが今夜は何故か違った。
(歳三さん…ではないな…)
集中して耳を澄ますと、室内を歩く足音と共に土を踏む音も聞こえてきた。数人がこの家に侵入し、しかも盗人のように物色する動きはなく少しずつ…足音が近づいている。
確実に―――この部屋を狙っていた。
753
ガターンッ!
出入り口の襖と、庭の障子が同時に蹴り飛ばされた。
突然の出来事に熟睡していた泰助と銀之助は何事かと飛び起きるが、経験のない年少の彼らに状況が理解できるわけがない。
総司はすぐに刀掛けに手を伸ばし、邪魔になる鞘を投げて抜き、暗闇から降ってくる刃を片膝をついたまま受け止めた。そして立ち上がる勢いで跳ねつける。
「逃げなさい!」
怯える彼らを怒鳴りつけるが、出入り口と庭から囲まれてそう簡単に逃げられるわけがなく、腰の抜けた彼らを引っ張り上げて床の間に押し込むだけで精一杯だった。
すぐ次の刃が襲いかかる。再び総司は床の間を背中にその刀を受け止めた。庭から差し込む月明かりだけでは頭巾を被った相手の顔は見えないが、人数はわかった。
(四人…!でも…)
不思議なことに、襲いかかってくるのは一人だけで後の三人は刀は抜いているものの逃げ出さないように出入り口を塞ぎ、高みの見物に徹している。総司には好都合だったが理由は分からなかった。
剣先の角度を変えて改めて向かい合い、キィンキィンと静かだった夜を切り裂くような剣戟の声が響く。
不利な状況だが、実戦では使用していなかった大和守安定がとても手に馴染んで扱いやすい。まるで自分の体の一部のように狭い室内で思い通りに動いて総司の助けとなった。そして撃ち合ううちに相手の剣筋に覚えがあることに気がついた。
(まさか…)
総司はわざと間合いを詰めてその癖を確かめた。右、左、右…まるで示し合わせた稽古のように男がどこを狙うのかわかる。
本人は無外流を修めたと言っていたが、彼の人生の過酷さが詰まったような唯一無二の厳しい太刀筋。型よりも実践向きの急所を押さえた無駄のない動き…そして近くに感じると、その息遣いや呼吸は明らかに彼のものだった。
「なんで…!」
(斉藤さん…!)
理解した瞬間に目が合った。その鋭く冷たい眼差しで彼が本気で殺しに来ているのだと察した。
「な…っ!」
その瞬間、総司に心の揺らぎがあったのだろう、荒れた布団で足元が滑りバランスを崩して片膝をつく。しかし経験から、斉藤が薙ぎ払うだろうと身体が理解して避けなんとか受け流すことができた。
(斉藤さんが殺しに来た?じゃあ取り囲んでいるのは御陵衛士…)
御陵衛士に新撰組の間者として紛れ込んでいる事実は、本人が語っていたのだから間違いがない。けれどいま目の前で真剣でやり合っているのは、総司が知らない、獲物を狩る怪物の姿なのだ。どこまで本気なのか全く読むことができない。
室内の狭い空間で対峙する。
総司はまたバランスを崩さないように滑りやすい足元の布団を蹴り飛ばし、青眼で構えた。
(何故こんなことになっているのか…頭が働かない…)
彼が本気で殺しに来ているのか、他に目的があるのか…。
考える余裕すらない。
だから無心に動くしかない。
狭い室内で有効なのは突きだ。三段突きは稽古では誰も受け止められず、危険だからやめておけと近藤に釘を刺されてきた。
「ヤァっ!」
総司は三段が一度に見えると讃えられる突きで、踏み込んだ。斉藤も読んでいたのだろう、一度、二度と避けたが三度目は距離感を誤り部屋の壁に背中をぶつけて、避けきれなかった。
総司はその瞬間、躊躇した。このまま刃先が斉藤の利き腕を捉える―――。
(斬ってしまう…!)
しかし一方で斉藤は容赦なかった。総司の迷いを察して逆に間合いを詰めると、次の瞬間には反対側の床の間まで蹴り飛ばしたのだ。
「…っ!」
「先生!」
泰助と銀之助が咄嗟に手を伸ばすが、転倒し胸を強か打った総司は途端に呼吸が苦しくなった。それは斉藤との攻防だけでなく、労咳のせいだろう。
「っく、は…っはぁ…」
まるで時間切れのように突然、体が鉛のように重くなる。肺は悲鳴をあげていたが、目の前には新撰組を背負う若い彼らがいる。
(この子たちを…守らなければ)
その思いだけが奮い立たせた。
ぜえぜえと荒い息を堪えながら、総司は安定を杖にして立ちあがろうとする。けれど斉藤の刀は温情なく再び降りかかり、総司は眼前で止めるので精一杯だった。
鋒が頬に触れて赤い血が流れる。片手ではとても押さえきれない強さで、峰が支える左手のひらの皮膚に食い込んでいた。総司は身体全体で受け止めなければならず、堪えていた咳と血が口の端から溢れた。
(このまま…押し切られる…)
圧倒的に不利な状況に陥り、斉藤の刀の切先が目前に迫ったとき、
「やめろぉ!」
と床の間から泰助が飛び出して斉藤に突進した。斉藤は突然のことに驚いたようですぐに避けて間を取る。そして転けてしまった泰助の首根っこを捕まえるとそのまま庭に投げた。続いて銀之助も脇差を抜き、総司の前に守るように立った。
「…っ、にげ…」
「逃げません!士道不覚悟です!」
そう叫ぶ銀之助の手は震えている。未熟な彼には斉藤の刀を受け止めることすらできないだろう。
総司は深く息を吸い込んだ。
そして再び斉藤が刀を振り上げた時、今度は総司が銀之助の襟を掴んで泰助の元へ投げる。そして低い体勢から刀を弾いた。斉藤は応戦し再びキィンキィン!と応酬が始まる。
「先生!」
「俺たちも…っ!」
庭に放り投げられた泰助と銀之助の悲鳴を耳にしながら、刀を重ね続けた。二人のおかげで総司は立て直したものの、
(長くは持たない…!)
総司は唇を噛んだ。
気力に身体がついていかない。斉藤とはほぼ互角のはずだがしきりに押し込まれてしまい、彼の素早い剣捌きについていくのがやっとだ。互角だと思っていた相手に押し込まれるのは、自分の衰えを見せつけられるようだった。
それでも耳を劈くような音が瞬く間に繰り返される。互いにかすり傷を負いながらも譲らなかったが、長時間となると不利なのは当然総司の方だった。研ぎ澄まされていく集中を阻害する吐き気を感じる。
クラっと目眩を感じた。
「ゲホォ!」
距離をとったところで大きな咳とともに喀血した。体の昂りは一気に冷めて再び彼の前で片膝をつく。
(もう…駄目か…)
見上げなくともわかる。彼はゆっくりと総司に近づき最後の一撃を振り上げるだろう。これ以上、彼の強靭な刃を受け取めることは肉体的にも出来ない。
「先生ぇ!」
「逃げ、逃げてくださいー!」
二人の必死の叫びが聞こえてきて、総司はフッと笑った。
(士道不覚悟だって言ったくせになぁ…)
この土壇場で逃げようともせず、命乞いもせず、一人前みたいな顔をしていたくせに。
総司は座り込んで、蹴り飛ばした枕や布団が散乱する場所まで後ずさった。斉藤はじわじわと距離を詰めて刀を振り上げて
「終わりだ」
と呟いた。
その刹那…彼の眼が何か別のことを言っているような気がした。
けれどそれを訊ねることはできなかった。
ーーーパァン!
総司は短銃を取り出して、斉藤の脇腹を撃ち抜いたのだ。
(一体何が起こったのだ…?!)
庭からその様子を見ていた内海は、爆発音と共に斉藤がその場に倒れた光景に唖然としていた。
斉藤の殺意は本気で、最初は正々堂々と刀を合わせていたが、総司が喀血しても彼は容赦なく息の根を止めようと急所を狙い続けていた。それは側から見ていて気持ちの良い光景ではなく、ただただ病人を嬲りいたぶるようにしか見えなかった。彼の殺意は本物で、新撰組に未練も情もないのだと言わんばかりの剣筋を見せつけられていた。篠原も服部も手出しせず、ただその様子を見守るしかない。
内海は視線を逸らし『もう良い』と何度言いかけて飲み込んだだろうか。
(これが我々の選んだ道だ…)
手段を選ばないとは、こういうことだ―――。
しかし、斉藤がとどめを刺そうかと言う時に思わぬ出来事が起きた。新撰組随一の遣い手である総司が突然、短銃を枕元から取り出して撃ったのだ。
「なんてこった…!」
傍にいた篠原が驚いて呻き声を上げる。斉藤と共に玄関から侵入した服部も庭に駆けてきて
「逃げましょう!」
と言った。
その時、もう一度銃声が聞こえた。総司がトドメを刺すように倒れ込んだ斉藤にもう一発撃ち込んだのだ。
その無惨な光景を見て内海たちはゾッとした。次に銃口が向けられるのは我が身だと察したのだ。
「流石に短銃は相手が悪い!」
「斉藤は死んだ、いま我々がここを去ればまだ無関係だと言い切れる!」
「…わかった!」
内海は彼らの意見に同意し、庭からそのまま逃走した。年少の泰助が「待て!」追いかけようとしたが腰が抜けて叶わなかった。
銀之助は総司の元へ駆けた。
「先生!!無事ですか?!」
「ええ…銀之助、屯所に行って土方さんに報告を。それから急いで…山崎さんを呼んできなさい」
総司は体を引きずって仰向けで倒れた斉藤の元へ向かった。側にあった手拭いで血の流れる脇腹を抑える。
もちろん銀之助には理解できなかった。彼の目には斉藤は非道な襲撃者だ。
「先生、この者を助けるつもりですか?!僕たちを襲った刺客です!」
「…良いから、早く泰助と行きなさい」
「でも!」
総司に事情を話す余裕はない。
銀之助はようやく総司も万全ではないのだと気がついて、
「承知しました!!」
と叫びながら泰助と共に走って行った。
ようやく静かになった部屋はまるで嵐が去った後のようにあちこちに物が散乱し、家屋の至る所に刀傷が残り、畳は禿げて酷い惨状だ。
総司は彼の脇腹の傷口を押さえつつ、息苦しそうな頭巾を脱がせた。斉藤は天を仰ぎ痛そうに顔を顰めていたが、口元は微笑んでいた。
「…斉藤さん、本気で殺しに来たでしょ?」
「はっ…あんたこそ、まさか短銃を出すなんてな…」
「掠った程度で浅手だと思いますけど…手元が狂ったら危なかったです。斉藤さんがここで死んだことにした方が良いと思って畳に撃ち込んだんですが」
「ああ…良い判断だ…」
斉藤が頷いたので、総司は安堵しつつ尋ねた。
「そもそも、どうするつもりだったんですか?」
「あんたに殺されるつもりだった」
あっさり白状したので、総司は「やっぱり」と苦笑した。
最後に斉藤が刀を真上に振り上げた一瞬に隙があった。互いにしかわからないような僅かな時間だが、まるで総司の反撃を待つような目をしていた。
総司は軽く咳き込んだ。喀血したものの幸いにも動悸は治りつつあるのでこのまま落ち着くだろう。
「…大丈夫か?」
「ハハ…大丈夫とは言い切れませんが、なんとか。まさかこんなことになるなんて…」
詳しい事情はわからない。斉藤の本気の殺意と気迫は最後の最後まで偽りなく向けられていた。
けれど
「今度は、約束が…果たせた」
と斉藤は満足げに語る。
「約束?」
「守ると…言っただろう…?」
斉藤は傷口を押さえる総司の手に自身のそれを重ねた。
『俺はあんたに忠誠を誓う。どんなに遠くにいても、離れていても、守るから』
御陵衛士として脱退していく別れ際の言葉が蘇る。過剰だと思ったけれど、まさかこんな形で実現するとはあの時は互いに思わなかった。
総司も笑った。
「随分、乱暴な約束の守り方でしたけど」
「…結果が良ければ、それで良いだろう」
「じゃあ私も、約束は果たしましたよ。ちゃんと…斉藤さんが帰ってくるまで、生きてたでしょう?」
「そうだな…」
互いに無傷とはいかなかったが、柔らかく微笑んだ。すると遠くから誰かが駆け込んでくる足音が聞こえた―――。
754
東の空が赤く色づき始め新しい一日の始まりを告げようとしていたが、新撰組の屯所では厳戒態勢が続いていた。騒がしく出入りする監察、敵襲に備えて居並ぶ隊士たち…緊張感に満たされた雰囲気の中、松明のパチパチとした音が流れ続けている。
そんななか突然、相馬と銀之助は息を切らしながら幹部たちが集う広間に駆け込んだ。
「一体何事だ?」
入隊して日が浅い二人が形式を踏まず突然顔を出したので土方は怪訝な顔をしたが、優等生の相馬は焦り、銀之助は血まみれで顔面蒼白だ。その様子を見ただけで非常事態だと皆が理解した。
銀之助は叫んだ。
「襲撃されました!場所は副長の別宅です!!」
「な…」
土方はその言葉で何もかもを察して絶句したが、皆は一瞬理解が追いつかない。
「待て…別宅ということは、総司が襲われたということか?」
近藤が訊ねると、銀之助は何度も頷く。幹部たちは顔を見合わせ原田は「マジかよ」と漏らし、永倉は「なんてことだ」と唸る。
しかし彼はパニックになっていてこれ以上うまく説明することができない様子だったので、道中で状況を把握した相馬が口を開いた。
「敵は四人、沖田先生がそのうちの一人と激しい斬りあいになり、喀血し昏倒しかけたところで短銃を発砲…事なきを得たそうです。三人は逃走し、一人はいま脇腹に怪我を負い先生が手当てしているとのこと。田村君と井上君は応援を呼んでくるように命令を受け、屯所に向かっていたところ私と野村に鉢合わせました。そして勝手ながら、敵がまだ潜伏している、もしくは援軍が来る可能性があると考え、井上君は野村と共に引き返させました」
「だ…だったら総司は無事なんだよな?」
原田が恐る恐る尋ねると相馬と田村が頷く。土方以外は安堵に包まれた。
相馬は近藤の傍に控えていた山崎へ視線を向けた。
「沖田先生はすぐに山崎先生を呼ぶようにとのことでした」
「…わかった。局長、宜しいですか?」
「勿論だ。撃たれた者には尋問せねばならん、命を取り留めねば」
「はい」
近藤が促して、山崎は早速退出する。次は腕を組み、難しい顔をしていた永倉が田村に訊ねた。
「それで、賊は?長州か、薩摩か土佐か?御陵衛士か??」
「…申し訳ありません。俺には、わかりません…」
田村は深々と頭を下げたが、井上は苦笑した。
「そりゃそうだ。数日前に都にやってきたばっかりだ。それなのに突然恐ろしい目に遭って大変だったな」
年下の扱いに慣れた井上が励ますと、田村は悔しそうに唇を噛んだ。
「僕は何も…。泰助と一緒に沖田先生に庇われるばかりで…為すすべなく身を隠していただけです…」
「この経験を踏まえてこれから鍛えりゃいい、伸びしろはいくらでもある。…近藤局長、少し休ませてやりましょう。屯所の警備ももう宜しいのでは?」
「そうだな。…夜番を除いて通常通りの体制に戻って良いだろう。一番隊は別宅に向かい状況を確認だ」
皆が了解して解散となったが、土方だけは張り詰めた空気のまま、近藤の隣で深く考え込んだままだった。
「…歳…」
「おそらく御陵衛士だ。奴らには総司の病のことが伝わっている…それを敢えて狙ったに違いない。武士の風上にも置けない…!」
静かに憤る土方に肩を、近藤は軽く叩いた。
「…お前らしくないな。少し頭を冷やせ、総司は無事だと言っていただろう。早く別宅に行って状況を確かめた方が良い」
近藤は土方が御陵衛士よりも自分自身に苛立っているのだと気が付いていた。斉藤からの緊急の知らせを近藤襲撃だと思い込み、まさか別宅で休む総司を狙ったものだとは全く気が付かなかった。
(いつも肝心なところで俺の勘は外れる…)
胸騒ぎの正体に気が付かず、追い詰められた伊東の考えを読み切れていなかった。
「歳、考えすぎるな。もう危機は去ったんだ」
「…わかっている。近藤先生は屯所を頼む、念のためお孝たちも朝になってから醒ヶ井に戻ってもらえ」
「ああ」
先に出立した山崎が別宅に着いた時はすでに朝靄に包まれつつあった。
「ははぁ、まさかこんなところであっさり再会やなんて」
仰向けに倒れている斉藤の姿を見て、山崎は茶化しつつ苦笑するしかない。彼が御陵衛士に潜入していたことは知っていたし、総司が襲撃者をわざわざ介抱していると耳にしていたので、「もしや」と思っていたのだ。
相馬の的確な指示で引き返して駆けつけた泰助と野村の手助けおかげで斉藤の出血は収まり、本人も意識があって容態も落ち着いていた。
「見たところかすり傷や。傷口の縫合は得意やから任せとき。…ほら野村、手伝え。泰助は湯沸かして桶に入れて来るんや」
「はい!」
威勢よく返事をした泰助は土間に駆けていき、野村は見たことのない医療道具を目の前にして「わからん!」と声を上げていた。
総司は
「山崎さん、私は何を?」
と尋ねたが、彼は眉間に深い皺を寄せた。
「はぁ?病人は寝てもらわな。日が昇ったらハナさん呼びますから、それまでじぃっとしといてください!」
と、叱られてしまったので医者の指示に従い、斉藤の傍らで肩から上着をかけて状況を見守ることにした。
山崎は早速傷口を縫い始めた。斉藤はずっと無表情だったが時折顔を顰めて耐えるように唇を噛んだ。仕方なかったとはいえ、ケガを負わせたのは自分のせいなので、総司はその隣で暢気に眠ることはできなかった。
「一緒にここに来たのは誰ですか?」
「…内海と、篠原…服部だ」
「ああ…なるほど。でも彼らは手出ししなかったですよね」
「そう約束させた…」
「当たり前や。病人相手に四人なんて、卑怯もええとこ。土方副長もさすがに伊東がそんな手を使うとは思わずに、この別宅は眼中になかったくらいや」
憤りながら山崎は手早く四、五針ほど縫い、身体を起こしてサラシを巻いたところ、斉藤の顔色も良くなった。
その頃には陽が上り辺りを明るく照らし始めていた。
「しばらく休んどき。ホンモノの医者を呼んでくる」
山崎は別宅を出ていくと、入れ替わるように一番隊の隊士たちが息を切らしてやってきた。
「先生!」
「沖田先生!」
特に島田は総司の顔を見ると安堵して、山野は涙ぐんだ。しかしその隣で斉藤がぐったりとしていたことにはさらに驚いていた。
「あの、じ…自分は、斉藤先生は御陵衛士であり、ここを襲撃した敵ということだと認識しているのですが…」
混乱する島田たちに総司は苦笑するしかない。
「また後で説明しますから。とにかく内密に、騒ぎ立てないように」
「はぁ」
「先生がご無事で何よりです!」
山野が涙目で総司の手を取る。
するとそこへようやく土方がやってきた。彼も急いでやってきたようで庭先から土足で上がり込む。すっかり荒れてしまい面影のない自分の別宅であるのに見向きもせず、
「ひじ…」
総司を見つけると何も口にせず膝を折って強く抱きしめた。島田と山野はまるで見てはいけないものをみてしまったという顔をしていたので、総司は気まずい。
「…皆んなが見てますよ」
「悪かった」
「なんで土方さんが謝るんですか?それより褒めてもらわなきゃ、大変だったんですから…」
総司は胸板を押し離れたが、土方は総司の体をあちこち触って大きな怪我がないことを確かめる。彼の視界には総司しかないような深刻な眼差しだ。
「擦り傷だけか。…吐いたのか?」
「まあ…。それより土方さんのおかげで命拾いしました。いつも短銃を枕元に隠すように言ってましたもんね」
賊に恐れたときの最終手段だと説得されて渋々そうしていたが、こんなに早く役立つとは思わなかった。
そしてようやく土方は斉藤に目を向けた。
「…ご苦労だった。傷は?」
「深くはありません。…緊急事態だったためこのような判断になりました。申し訳ありません」
「お前の判断は間違っていない。紙縒りも届いている」
土方がそう答えると斉藤は頷いた。
そして土方は島田たちには別宅の片付けや見回りをさせて人払いし、斉藤と話し込んだ。ここに至るまでの経緯、伊東の思惑、近藤を避け総司を狙った目的…。
「…わかった。総司が二発撃ち込んだのは正解だ、内海たちはお前が死んだと思っているだろう。さらにこちらからお前は死んだという噂を流し、奴らを油断させればきっとまた仕掛けてくる。…それまで身を隠せ」
「はい。…副長、御陵衛士の本来の狙いは近藤局長です。警備を怠るべきではありません」
「ああ…御陵衛士は必ず壊滅させる」
総司は黙って二人の会話を聞いていたが、土方の表情は深刻そのもので『壊滅させる』という言葉には迷いは一切なかった。以前は藤堂を助けたいという近藤の思いを汲みたいと話していたのに、もう情を掛ける様子はない。
(でも僕も…同じだ)
斉藤が機転を利かせ盾になってくれたおかげで命拾いしたが、もう彼らは手段を選ばない。そして御陵衛士が近藤を狙っているというのなら答えは決まっている。
そうして長い夜が終わり、ようやく朝を迎えたのだ。
755
十一月十五日。
早朝、内海たちが月真院にもどると伊東は眠らずに待っていた。しかし斉藤の姿はなく内海たちの表情も暗いため、聡い伊東は話を聞く前に結果を悟ってしまった。
伊東は篠原と服部に休むように伝え、内海だけを部屋に招き入れ詳細を聞いた。
順調に事を運び、多少反発した斉藤も本気で総司を手に掛けようとした。その争いは筆舌に尽くしがたいほど壮絶だったけれど、結末には予定外のことが起こった。
「そうか…短銃か。隊随一の使い手である沖田が短銃を所持しているなんて誰も想定できないだろう」
「申し訳ない。我々の正体は気づかれていないだろうが、斉藤君を失う結果になってしまった…」
「むしろ彼が死んだのならその方が良かった。中途半端に生き延び、あちらに寝返られたら我々の破滅だった」
伊東は案外あっさりとしていた。
実は内海以上に彼のことを疑っていたのは、伊東だったのかもしれない。頼りになる人材だと言いながら、本音では恐れていた部分もあり新撰組と手を切ろうと画策している今となっては、彼がいなくなったことに安堵しているのだろう。
「幸い、お前たちは見物に徹していたのだろう。沖田の他にいたという若者も御陵衛士のことを知らぬ新入り…当然新撰組からは疑われるだろうが、証拠はない。何か問われても全て斉藤君の独断だと突っぱねれば良い」
「…上手くいくだろうか」
「これくらいの危険は承知の上だ。斉藤君もあちこち繋がりがあっただろうから、疑いは分散する。…やはり本命を避けて弱腰になったのが良くなかった」
伊東は薄く笑う。その眼差しには後ろめたさや焦りはない。そして内海たちを責めることもない。それがかえって内海には堪えていた。
「大蔵君…」
「では努めて、我々は素知らぬ顔で日常を過ごさねばならないな」
内海の言葉を遮った伊東は「仮眠する」と言い出した。
「悪いが藤堂君に辰の刻になったら起こすように伝えてくれ。彼と外出する予定があるんだ。…藤堂君にはしばらく斉藤君のことは伏せていてくれ」
「…わかった」
内海は言葉を飲み込んで頷き、そのまま部屋を出た。
朝日が美しい庭に差し込んでいる。空気が冷たいせいかその輪郭がはっきりして見えた。
(俺には…上手くいくように思えない)
正体を掴める証拠がなくとも、新撰組なら御陵衛士を潰すために動くだろう。伊東もそれをわかっているはずで、敢えて触れずに内海を責めなかった。
(俺が足を引っ張ってどうする…!)
一晩中、駆け回って疲労が溜まっていたが、内海には自分への苛立ちのあまり眠気はなかった。
正午。
ちらほらと雪が舞い始めていた。
孝たちを醒ヶ井に送り届けた近藤は、護衛として数名の隊士を引き連れて土方の別宅にやってきた。
「これは、凄まじいな…」
一歩踏み入れてみるとあちこちが傷だらけで、壮絶な斬り合いだったことは一目見ればわかった。少年二人が目撃したのはまさに修羅場だったのだろう。
玄関からは入らず庭先から足を踏み入れると、縁側で休む斉藤の姿があった。
「斉藤君、ご苦労だった。傷はどうだ?」
潜伏から帰還した斉藤は近藤を見るなり軽く頭を下げた。
「大事ありません」
「浅手だと聞いたが…まだ休んでいた方が良いのではないのか」
「いえ、問題ありません」
仮眠を取っただけの斉藤だったが、頭は冴えて眠気はなかった。近藤は「総司は?」と尋ねる。
「…部屋で眠っているようです」
「そうか。相馬君から話を聞いた時は肝が冷えた。君が機転を効かせてくれてうまく行ったのだろう?」
「…機転と言えるかどうか…」
斉藤は目を伏せた。近藤は斉藤の隣に座りながら「どうした?」と問うた。
「今回のことで…。御陵衛士に裏切りを気付かれないようにするため、病人相手に手加減ができませんでした。酷く消耗したはずです」
「…そうか。総司は喀血したそうだな」
「…」
そのせいか、今はどんなに騒がしくとも泥のように眠っている。本人は起きている間は気を張っていたが、真っ白で血の気がなかった。駆けつけた南部や加也も深刻な表情で診察をしており、次第に気が抜けたのか深く眠ってしまった…その様子を見て斉藤は己を責めた。
しかし近藤はあっさりと「大丈夫だ」と斉藤を慰めた。
「あれは案外丈夫だ、幼い頃も大病を乗り越えている。…それに総司にとって、君と本気でやりあえたことは嬉しかったはずだ。今では誰も彼も総司を病人扱いして気を使うからな…仕方ないこととはいえ寂しさを感じていただろう。…君の目から見て、総司はどうだった?」
近藤の質問に、斉藤は言葉を選んだ。
「…とても互角とは言えません。互いを熟知している分動きこそ頭では理解できているが、身体が伴わない。キレも腕力も、体力も…以前と比べるととても…」
「そうか…だったらそれを総司も感じているだろう。あいつが納得して、俺が引導を渡すのはそう遠くないなぁ…」
近藤は曇天から舞う雪を見つめた。穏やかであり寂しくもあり、虚しくもある―――己の跡さえ継がせようとした愛弟子に引導を渡すのは気が滅入るだろう。
すると総司の看病をしていた土方が顔を出した。
「近藤先生、来ていたのか」
「歳、総司はよく寝ているようだな」
「ああ。…ちょうど良かった、今後のことを話しておきたかった」
土方は厳しい表情で膝を折って、続けた。
「御陵衛士は斉藤が撃たれて死んだと思っている。その方が都合が良いだろうから監察にも同じように噂を流させて、ほとぼりが冷めた頃復帰させる。怪我もあるししばらくは療養だ」
「勿論だ。しかし何処で身を隠す?」
「屯所が良いと思っている。近藤先生もしばらくは屯所を離れるな。お孝たちは安全な場所に身を隠せるように山崎が手配する」
「…寂しいが危険な目に遭わせるわけにはいかぬな」
「長くかからない」
土方が断言したので、近藤は腕を組みしばらく沈黙した。そして、
「やはり…御陵衛士を叩くつもりか?」
と尋ねると、土方は冷ややかに笑った。
「叩くなんて甘い真似はしない。二度と再起させないように壊滅させる」
「歳…」
「御陵衛士はもともと近藤局長を狙っていた。それが叶わないと判断しここを狙い、総司を殺した後は助勤たちの別宅を襲うつもりだったらしい」
「…本当か?」
黙って話を聞いていた斉藤は、ゆっくりと頷いた。自分と妾だけでなく、永倉や原田の別宅まで狙われていた…近藤はさらに難しい顔をしたがそれでも諦められずに
「だが…平助が加担していたわけじゃない」
と食い下がるが、土方の表情は変わらなかった。
「…例え加担していなくとも、あいつは御陵衛士だ。伊東の考えに賛同している」
「斉藤君、平助の様子はどうだ?彼は…本当に…」
本当にもう、背を向けてしまったのか。
本当にもう、取り返しがつかないのか。
斉藤は近藤から懇願するような眼差しで見つめられつつ、土方の頑なな態度の板挟みとなる。
斉藤は少し考えたあとに口を開いた。
「…藤堂は伊東を心酔し皆を盛り立て…今や内海の次に影響がある存在です。伊東も彼の働きを評価し、重用しているのは間違いありません。…一方で、彼が古巣を悪く言うことはありません。幕臣に昇進した時は喜び、沖田さんが病だと知ると心配をしていました」
「やはり!」
「しかし」
近藤は安堵の表情を浮かべたが、斉藤は釘を刺す。
「彼が望むのは…伊東のために働くことだけです」
山南を失い、その代わりを伊東に求めた。例え何があっても自分の決意を翻しはしないだろう。
近藤はしばらく呆然とし、「そうか」と呟いた。仲間との間に『情』はある。しかしそれはあくまで過ぎ去った感情であり、今の生き方を左右するものではない。
だが、近藤の強情さは筋金入りだ。
「仕方ない、と今は割り切れない。だが…御陵衛士の存在が新撰組にとって、会津にとって厄介なのはわかった。分離した御陵衛士は俺たちにとって身から出た錆…己で蹴りをつけるべきだ」
「…今はその答えで十分だ」
土方は頷いて、話を切り上げた。
756
一日中肌寒く、雪が舞う曇天が空を覆う。
「藤堂君、行こうか」
伊東に誘われ、藤堂はすぐに「はい!」と返事をした。伊東は少し疲れている様子だったが、もともとこの時刻に外出することは告げられていた。
二人で月真院を出て
「どちらへ?」
と訊ねる。伊東が「近江屋だよ」と答えたので驚いた。それは以前、藤堂とともに訪れた中岡らの住処だ。
「えっと…また石川先生のところへ行かれるのですか?」
「今日は才谷先生もいらっしゃると良いのだが…我々を警戒しているのだからお会いできないだろうな。念のため他の者ではなくて君を連れてきたが…それでも今一度、話をしておきたくてね」
「…先生…」
藤堂は目の前で伊東がこっ酷く拒絶された光景を見ている。中岡の様子から藤堂はこれ以上の関係を望めないのだろうと諦めていた。けれど伊東は首を横に振る。
「ここで引き下がっては中岡先生たちのお疑いを認めるようなもの。我らの献身は誠なのだと信じていただけるまで続けるつもりだよ」
「…」
それは御陵衛士にとって必要なことであり、伊東にとっても彼らに認められるということが特別なのかもしれない。
伊東は足を止めた。少し寝不足で疲れた様子だったが、深刻な表情をして藤堂を見て切り出した。
「…藤堂君、一つ君に言っておきたいことがあるんだ」
「何でしょうか…?」
「新撰組との橋渡し役はもう終わりで良い」
伊東の眼差しには覚悟があった。藤堂は突然のことに驚きはしたが、いつか伊東がそんな風に言うのではないかと想像していた。
その意味はわかっている。新撰組との情報交換を一方的に取りやめて、関係を断つ…これは分離前の取り決めを破る、裏切りだ。
(俺だってもう…御陵衛士の藤堂平助だ…)
「わかりました」
「…理由を聞かないのかい?」
「はい。もう彼らとは考え方が違います。仲間ではありません」
藤堂は強い語調で言い切った。
先日の土方とのやり取りで、昔の仲間にこだわり続けているのは自分だけで、すでに切り捨てられたのだと思い知った。もちろんそれは彼らのせいではなく、伊東と共に歩むことを決めた自分の決断が発端なのだから、責めるわけにはいかないのだろう。けれど人として最低限の情さえも必要ないと拒まれてしまい、心の中で何かが折れた。
そして彼らへの情を捨てた途端、物事が単純に考えられるようになったのだ。
(俺は御陵衛士として伊東先生のためだけに尽くせば良い)
「先日、石川先生に厳しく忠告されて思い知りました。今は土佐の信用を得るために、御陵衛士として尽力するのが肝心です。この重要な時期に新撰組に接触していると知られたら我々の信用は地に落ちます。慎重に行動すべきです」
「…そうだ。今はどんな綻びも許されない。君が理解してくれてありがたいよ」
伊東の口元は微笑んでいたが、目は笑っていなかった。伊東の覚悟と決断を感じ、藤堂は改めて己を奮起した。
(もう迷わない)
後ろ髪引かれる思いは確かにあるが、過去よりも未来を見据えるべきだ。これは前進だと信じる…そんな藤堂の横顔を、一方で伊東は複雑な気持ちで眺めていた。
(私が既に沖田を襲い、近藤の暗殺を目論んでいると知っても同じことを言うのだろうか)
あるいは山南を裏で操り、追い詰めたと知ったらこの純粋な青年はどうなるのだろうか。そして斉藤はすでに死んだと口にしてもまだ共に歩むと言うのだろうか。
藤堂が伊東へと近づき、共鳴し、信用を得れば得るほど…伊東は彼の純粋さが己の邪悪な側面をさらに引き立たせるような気がしてしまう。
伊東はハラハラと舞う雪を見上げた。
後に桜田門外の変と呼ばれたあの日も、雪が降っていた。内海が駆け込んできた時のことを鮮明に覚えている。
(私の姑息さを…君はどう思っているのだろうか)
「…さあ、急ごうか」
伊東は歩調を早め、藤堂はそれに続いた。足元に落ちる雪はすぐに消えていった。
総司が目を覚ますと屯所の自室に移動していた。陽は傾いている。
「あれ…」
「あ、目を覚まされましたか?」
山野が総司の額に冷たい手拭いを差し出しながら、声をかけた。
「山野君、いつの間にここに?」
「島田先輩が背中に負ってお運びしました。先生は深く眠られていて」
「全然気が付かなかったな…斉藤さんは?」
「客間です。今頃は原田先生たちが帰営をお祝いしていると思います」
「へえ…」
総司が耳を澄ますと、確かに原田や永倉たちの賑やかな話し声が聞こえてきた。思わぬ帰還に喜ぶ彼らの歓待を受け、斉藤が無表情で受け答えする光景が目に浮かぶようだ。
山野は総司の額に手を当てて「お熱は下がりましたね」と安堵した。
「じゃあ僕は副長のところへ。先生が目を覚まされたとご報告に行きますね」
「ええ」
山野は桶を抱えて部屋を出ていくと途端に部屋はしん、と静かになった。
総司はいつもの喀血の後とは違う目覚めだと気がついていた。全身が気怠く重く、斉藤との激闘で負った手足の痺れや傷がヒリヒリと痛む。南部と加也によってあちこち傷薬が塗られているが、それでも節々が悲鳴をあげているようだった。
こうして屯所に戻り、一人になって改めて自分の不甲斐なさを思い知った。
少年二人かいたからこそ諦めずに身体を動かすことができたが、彼らがいなかったらどうか。斉藤はそうしなかっただろうが彼の前にあっさりと斬り伏せられていたかもしれない。
総司はゆっくりと身体を起こし、自分の手のひらを広げた。紫に変色するほど食い込んだ刀の痕がくっきりと残っている。斉藤の刀を受け止めた時のものだ。
(いつの間にかこんなに細くなった…)
剣ダコは無くなり、もう女子の手のように細い。加えて指先が痺れてうまく動かせない…気がついていたけれど、気がつかないふりをしていた事実を突きつけられたようだった。
(不甲斐ない…)
ずっと自分には剣だけだと思ってきた。試衛館に口減しとてやってきて、剣の才能を認められた日からずっと近藤のためにこの才を生かすのだとそれだけを思って鍛え続けてきた。
いつか近藤の剣となり、盾となって死ぬなら本望だと…本気で思っていたのにこんなことになるなんて、誰を何を憎んだら良いのかわからない。盾としてすら使い物にならずにこのまま朽ちていくのだろう。
「…っ…」
頬に涙が伝った。それを自覚するとさらに目頭が熱くなって止めどなく流れた。誰もいなくなった途端まるで壊れたように歯止めが効かなくなってしまい膝を抱えて身体を丸め、心の中で溢れ出す叫び出しそうなくらいに痛い悲しみや悔しさをどうにか堪えた。
そうしているとこちらに近づいてくる足音が聞こえた。誰のものかなんてそんなわかりきったことを考えなくても良い。
彼の大きく温かい手のひらが総司の頭を撫でた。
「…総司」
「と…」
「もう無理をするな」
総司は顔を上げた。土方は穏やかに微笑んでいる。総司の考えていることなんて彼にはお見通しで、慰めてくれているのだとわかる。そして彼の指先が総司の頰に流れる涙を拭い、そのまま抱き寄せられる。
尖った氷の角が取れるように溶けていく。自分の弱さが消え失せてしまう。
総司は土方の首元に腕を回し口づけを求めた。
「もう、なにも…なにも考えたくない…」
「ああ…考えられないようにしてやる」
互いの鼓動が重なり合うほど強く抱きしめ、自制が効かなくなった唇が貪り合う。
(わかっているから、もう…)
「歳三さん…」
ただ涙が止まるまで彼の胸の中に身体を預けたのだった。
757
夜、陸援隊に潜入している水野八郎こと橋本皆助が月真院へ駆け込んだ。伊東と内海が驚いて迎え入れると、彼は前置きなく
「中岡隊長が襲撃されました…!」
「なんだって…?!」
伊東は声を上げ青ざめた。傍らにいた内海は「詳細を」と急かし橋本は頷く。
「今夜の戌ノ刻頃、土佐藩邸近くの近江屋にて襲撃を受けたようです。才谷梅太郎は即死、中岡隊長は瀕死の重傷を負ったとのこと。土佐藩邸から陸援隊へ知らせが届き、騒然としています」
「あれほど忠告したというのに!」
伊東は悔しそうに声を上げて畳に拳を打ちつけた。
伊東は午前中に藤堂と共に近江屋を訪ねていた。切々と御陵衛士の立場を訴えながら、身の危険が迫っているため身を隠すように伝えた。幕府が倒れ新しい政が始まろうとしているいまだからこそ慎重に動くべきであり、命を落とすべきではないと説いたが、相変わらず彼らは聞く耳を持たずに聞き流されてしまった。
伊東は別れ際まで切々と訴えた。
『私の言葉にお疑いを持つのは仕方ないこと。しかし私は私の信条に従い、危険を避けていただきたいと申し上げているのです』
それに対して中岡は
『生死は天に任せる』
と言っただけで伊東たちを追い返したが、それが最後になろうとは思いもよらないことだった。
絶句する伊東の代わりに内海が話を進めた。
「それで襲撃犯は…?」
「わかりません。十津川郷士を名乗りやってきたと証言がありますが、言葉の訛りはそのような雰囲気はなく『こなくそ』と叫ぶ声が聞こえたとかで、本当のことではないだろうと。…才谷先生は土佐にとって重要な人物であり、大政奉還を成し得た英雄のような立場です。中岡隊長も言葉も口にできぬほどの重傷…それ故にいまは夜更けにも関わらず陸援隊の隊士たちが躍起になって犯人探しをしています」
「…わかった。君も戻ってそれに加わり、何かわかれば報告を」
「はい」
「待て」
黙り込んでいた伊東が、去ろうとした橋本を引き止めた。
「私も行く」
「大蔵君?」
「橋本君、表門で待っていなさい」
橋本は戸惑ったが拒む理由はなく「わかりました」と部屋を出て行った。困惑しているのは内海も同じだった。
「大蔵君、どういうつもりだ?」
「内海…彼らを襲撃したのは誰だと思う?」
「…そんなことはわからない。疑われるのは大政奉還を推し進めたことを恨む幕府側か…しかし徳川を打倒したいと目論む輩にとって、徳川の取り潰しを拒み合議制を目指す才谷先生は邪魔であったはずだ。…しかし、どれも確信がない」
「私にもない。だが…そのなかに新撰組の名が必ず上がるはずだ」
内海はハッとして伊東の目を見た。彼の長いまつ毛の下に昏い眼差しが見え隠れしていた。
「大蔵君…」
「土佐は以前の制札事件でも新撰組と揉めているし、新撰組を恨んでいる志士は多い。それに『こなくそ』は伊予の言葉だ…確か原田組長は伊予の出だったはずだな」
「新撰組になすりつけると?」
「…本当に彼らの仕業かもしれないじゃないか」
伊東は薄く笑った。そして立ち上がるとそそくさと衣紋掛けに手を伸ばし、上着に袖を通し始めた。
「とにかく状況を確認する。私と藤堂君が彼らを訪ねたことは店の者が知っているし、奉行所の調べがついているだろうから、無関係を装うのは立場を悪くする。犯人探しの協力に名乗りをあげた方が今後のためにも得策だ」
「大蔵君…それは、君らしくない」
「…橋本君を待たせるわけにはいかない」
伊東は敢えて無視をして刀を帯びたが、内海に強く腕を掴まれて引き止められた。
「…俺が言えることではないと思っていたが敢えて言う。昨晩、沖田襲撃に失敗したことで新撰組は御陵衛士へ疑いの目を向けている。君は誤魔化せると言ったが、土方はそんなに愚かではない…我々が動いていると察するだろうし、少しの疑いでもあればこちらを潰すだろう。今までだってそれで何人死んだと思っている?…いまは身を引いて大人しくすべきだ。これ以上新撰組を刺激するべきではない」
「…内海にしてはよく喋るな」
「はぐらかさないでくれ。…君だって本当はわかっているはずだ。あまりに…あまりに危険すぎる。冷静な君らしくない」
「…離してくれ」
「だめだ、慎重に考えてくれ」
内海はより一層強く力を込めて引き止める。
「君を行かせたくない。もうこれ以上…不本意なことをしなくても良い」
内海は懇願したが、伊東の表情は険しくなった。
「…不本意?不本意であるはずがない、私は新撰組を打倒すると誓っただろう。非情なことでも臆さず手を染める…だからこれは好機だ!陸援隊が新撰組と衝突すれば、我々が直接手を下さずに目的を果たせるかもしれないのだから」
「…」
内海には伊東の言いたいことはわかっていた。けれど彼が危うい橋を渡ろうとしている気がして、手を離すことができなかったのだ。
伊東は内海を見据えた。その瞳には怒りと冷たさがあった。
「…なんだ、私と共に在ると言ったのに、存外大したことがないな」
「大蔵君…」
「もう良いか?」
怒りを滲ませた伊東は手を振り払って出て行ってしまった。内海は彼を引き止める言葉が見つからなくて、ただ自分の掌を見つめるしかなかった。
翌十六日、早朝。
血相を変えた浅羽が屯所にやってきた。土方が
「何事ですか」
と客間で出迎えると、浅羽は彼らしくなく挨拶を省き焦った様子で訊ねた。
「単刀直入にお聞きします。昨夜土佐藩邸近くの近江屋にて、坂本竜馬が暗殺され中岡慎太郎が瀕死の重傷を負いました。…手を下したのは新撰組ですか?」
「まさか!」
土方は声を上げた。
「土佐の坂本は新政権に徳川を加えるべきと表明しており、徳川にとっても要の人物であると心得ています。一時行方を探らせたことはありますが、暗殺など以ての外」
「…さようですか。あなたがそうおっしゃるのならそうなのでしょうが…」
浅羽は一応は安堵したようだったので、逆に土方が問うた。
「新撰組が疑われていると?何を証拠に」
「…証拠はありません。ただ小者が現場を目撃し、襲撃者が『こなくそ』と叫んだらしいのです。…こちらの原田組長は伊予出身であり、襲撃犯として名前が挙がっています」
「はっ…あいつが『こなくそ』と叫んでいるのを聞いたことがない」
「それに一昨日の夜から朝にかけて屯所にて武装待機していたでしょう。その件と結び付けて新撰組が蜂起するのではないかと噂になっています」
「それは関係がない、別件だ」
浅羽を責めても仕方ないとわかっていたが、土方は苛立つ気持ちを堪えられなかった。どれもこれも的外れな疑いで、新撰組にとって不利益なことばかりだ。
どうにか腕を組んで気持ちを落ち着かせようとしたが、苛立ちなかで土方はあることに気がついた。
「…浅羽さん、暗殺は昨晩のことでしょう。原田が伊予の者だとか我々が武装していただとか…話が早すぎる。誰かが新撰組を襲撃犯として槍玉にあげているのでは?」
「実は…奉行所によると御陵衛士の伊東殿がそのように話しているのだと」
「伊東が…!?」
「ええ。それに現場に鞘が残されていたそうなのですが、それも新撰組のものだとか…」
「…」
あまりの濡れ衣に土方は鎮火しかけていた怒りが再び込み上がるのを感じた。
(新撰組に罪を着せるつもりか…!)
伊東は近藤暗殺を企んだどころか、総司を襲撃し、さらに無関係な暗殺犯に仕立てようとしている。
彼らは完全に敵対するつもりだ。
よほど顔に出ていたのか、浅羽が「落ち着いてください」と宥める。
「まだ情報が錯綜しているところです。私も殿の命令で確認に参っただけのこと…本当に新撰組が関わったと疑われているわけではありません。ただこの件で土佐陸援隊は犯人探しに動いています。くれぐれも慎重に動いてください」
「……わかりました」
話相手が浅羽であったためどうにか感情を飲み込んだが、苛立ちをぶつける様に握りしめた拳は震え、手のひらには爪が食い込んでいた。
浅羽は用件を終えると去っていき、土方はその足で近藤の元へ向かった。朝から不快な話を聞き、それが会津を経由してのことであったので流石に近藤も顔を顰めた。
「…決定的だな、これは…」
「ああ。こうなればこちらも黙ってはいられない」
「…ひとまず、左之助に話をしておこう」
近藤は小姓の銀之助に原田を呼びに行かせた。夜番だった原田は少し眠そうにしていたが、近藤から経緯を聞くとまずは腹を抱えて笑った。
「あんまりにも心当たりがなさすぎて、笑えてくるな。確かに『こなくそ』は国の言葉だが、脱藩してから口癖にしたことはないし、疑われるのは心外だぜ」
「我々は疑っちゃいない。ただそういう噂になっているから気をつけた方が良い。おまささんにも身を隠すように伝えるべきだ」
「わかったよ、実家に帰らせる」
原田は「はあ」と大きなため息をつきながら、
「それで?俺が犯人だって言い出したのはどこのどいつなんだ?」
「それは…」
「御陵衛士の伊東だ」
土方はあっさりと答えた。黙っておくつもりだった近藤は気まずい顔をしたが、原田は信じられない様子で「本当かよ」と目を見張る。
「数日中にカタをつける」
「カタって…御陵衛士を潰すってことか?」
「喧嘩を売ってきたのは奴らだ」
喧嘩っ早い原田なら理解するかと思いきや、原田は複雑そうに顔を歪めて戸惑っていた。
「…平助は…?」
「あいつも御陵衛士だろう」
「そういうことじゃねえって!平助にも…手を出すのかって…」
流石に原田すら言葉を濁したが、土方は「当たり前だ」と言い放った。
「考えてみろ、そもそも伊東は新撰組の頭である近藤先生を狙っていた。それが敵わぬからと病の総司を狙い、その後はお前や永倉の別宅を襲撃するつもりだった。失敗に終わったとはいえ、無かったことにはできない裏切りだ。それに先に裏切ったのは奴等で、今度は根も葉もない罪を着せようとしている。このまま見過ごすことはできない」
「でも平助のやったことじゃ…!」
「あいつは美濃でゴロつきの兵を集めて挙兵させようと画策している…その矛先は徳川であり俺たちだ。…それでも助けるべきだって言いたいのか?」
「…っ、くそ!」
原田は悔しそうに何度か自身の太腿を強く叩いた。土方の理屈はわかっていても、感情では飲み込めないのだ。
「それでも…それでも俺にはできねぇからな!」
捨て台詞のように叫ぶと、そのまま部屋を出て行ってしまった。
しかし土方もら表情一つ変えずに
「俺は考えを変えるつもりはない」
と告げて部屋に戻って行ってしまい、近藤は深く考え込むことになった。
758
朝の乾いた空気で喉が枯れて、総司はゆっくりと目を覚ました。
不動堂村の屯所は流石に新築の雰囲気はなくなったものの、真新しい建材は傷ひとつなく、いまだに自分だけの部屋だという意識はない。しかし今までのどの住処よりも長く過ごしている気がする。
山野が用意してくれた白湯を口にして、羽織に袖を通して部屋を出た。ひんやりと冷たい庭先の渡り廊下に出てみると、そこに斉藤がいた。
「驚いた」
「…朝から随分な挨拶だな」
「すみません。斉藤さんが出て行ったのは西本願寺の時でしたから、なんだか見慣れなくて」
「そうか」
彼は日課である刀の手入れをしていたようだ。その姿はずっと変わりなく真剣なもので、新鮮さと懐かしさを感じながら総司はその隣に腰を下ろした。
「傷の具合はどうですか?」
「多少痛むが、平気だ。床に伏せるのは性に合わない」
「私もです」
総司は笑ったが、斉藤は手入れの手を止めて神妙な顔をして「すまない」と謝った。床に伏すしかない総司を慮ったのだろう。
「…斉藤さんは謝らないでください。こういう生き方を選んだのは私自身で、それを誰かに背負わせるつもりも、謝られるつもりもありませんから」
「…そうか」
斉藤は短く返答して再び手を動かし始めた。そしてしばらく沈黙した後、
「俺はもうどこにも行かない」
と口を開いた。
「幕府や会津、御陵衛士…仕事のために色々と渡り歩いたが、いい加減疲れた。隊のためになる縁はそのままにするが、身の置き場は一つで良い」
「…それは良い考えですね」
斉藤は淡々と話していたが、彼は新撰組をその最後の場所と定めてここで生きると決めたのだ。それは並々ならぬ決意であり、その最後の場所が新撰組だということは総司にとっても喜ばしいことでもあった。
「斉藤さんが帰ってきてくれて心強いです。きっと皆んなもそう思ってます」
「…不思議と、帰ってきてもさほど驚かれなかった」
「はは、皆ちょっと遠くへ出掛けていた、くらいにしか思っていないのかもしれませんね」
斉藤は「そうかもしれない」と苦笑して、手入れを終えた。
降り始めた雪がハラハラと落ちて、地面で溶けた。そのうちこの屯所の庭を白く染めることだろう。
しばらくそれを無言で眺めた後、
「…斉藤さん、藤堂君は…」
総司は口を開いた。
寝ても覚めても、脳裏のどこかに彼の笑顔があった。澄み切ったこの真っ白な雪のように曇りない純粋さが消えてしまうのが惜しい。
御陵衛士との対立や伊東の敵意を目の前にしてしまうと土方が正しいのだとわかるけれど、近藤のように諦められない。
しかし斉藤は首を横に振った。
「何も聞かない方が良い。聞いたところで…何も変わらない」
「…」
総司は斉藤の横顔を見た。いつもの彼ならあっさりと敵だと見做し『見捨てろ』と言い放つだろう。けれど今の彼には少しだけ迷いがありそれを自覚しているからこそ何も話したくないのだと訴えているようだった。
するとそこにこちらにやってくる足音が聞こえてきた。
「斉藤、話がある」
「土方さん?」
彼が珍しく朝早くから起きていたことは知っていたが、その表情は不機嫌を通り越して苛立っていた。慣れた幹部はまだしも新入隊士ならば怖がって近づくことすらできないだろうという雰囲気だ。
「総司、お前は寝てろ」
「…わかりました」
今の土方には誰も抗えない。総司を残して土方と斉藤は人気のない裏手に回った。
そして土方は口を開いた。
「昨晩才谷梅太郎が暗殺された。中岡慎太郎は重傷だ」
端的な内容だが、斉藤はすぐに顔色を変えた。
「…刺客は?」
「わからない。だが、新撰組が疑われている。いま近藤先生が永井様に呼び出されたところだ」
「言いがかりをつけられたということですか」
「いや…伊東がそう言い回っているらしい」
「伊東が…」
斉藤は苦々しい顔をした。
「中岡慎太郎は瀕死の重傷だが意識があり、刺客については心当たりのない者だと話しているそうだ。俺は見廻組あたりじゃねえかと思うが…そんなことはどうでも良い。問題は陸援隊や海援隊の奴らが躍起になって犯人探しをしていることと、伊東が新撰組を名指しで刺客に仕立て上げたことだ。奴は弁が立つ…噂は瞬く間に広まっている」
土方は腕を組み、壁を背にしてもたれかかる。そして息を吐いた。
「伊東は完全に裏切り、敵対するつもりだ。来るべき時が来た」
「…俺が斬ります」
斉藤には躊躇いはなかった。いくら伊東が有能な人物であったとしても、総司を狙うように命令を下した時点で完全に切り捨てられる対象になったからだ。むしろ一刻も早く葬りたいとすら思う。
しかし土方は小さく首を横に振った。
「伊東だけを殺しても一時的なものだ。内海や加納、篠原…手練れが再起しては厄介なことになる。それに伊東は腕が立つしお前も万全じゃない、今回は前線に出なくて良い」
「…しかし」
「やるなら一気に片付けたい。御陵衛士に潜伏していたお前なら良い方法がわかるだろう」
「…わかりました、考えてみます」
「それから…」
土方は一度視線を外した。そして迷いを飲み込むようにまた斉藤を見据えた。
「このことは…絶対に総司の耳に入らないようにしてくれ。全て終わった後に話す」
「…」
「不服か?」
土方は苦笑した。斉藤の考えていることなど想定済みに違いない。だが敢えて口にして尋ねた。
「あの人は…疎外されることを厭います。今でさえ藤堂を気にしているのに、何も話さずに事を終えれば必ず落胆するでしょう」
「…あいつは山南さんを介錯した後、人前では平気なふりをしたが随分引きずった。今はその痛みを忘れているだけで、時折悪夢のようにその感触を思い出しているはずだ」
「…」
「もし藤堂を目の前で殺すことになればまた同じことを繰り返す。それは必ず体に障る…それくらいなら最後まで隠し通して、終わった後に納得させる方が良い」
土方は
「お前ならわかるだろう」
と付け足した。
斉藤は「わかる」とは言わなかったが、土方の選択を尊重する事を決めた。
月真院に戻ってきた伊東は門前で鈴木と鉢合わせた。
「兄上、お戻りですか」
「ああ…少し休む」
言葉少なくすれ違い、衛士たちにも声をかけずに伊東は部屋に戻った。すぐに休みたいと思っていたのだが、部屋には内海が待ち構えていた。深夜に出ていってから朝まで待っていたようだ。
「…すまないが、出ていってくれ」
腹心とはいえ相手にする余裕がなく、伊東は冷たく言い放ちながら羽織を脱いだ。しかし内海は動かなかった。
「様子はどうだった?」
まるで伊東の拒絶など耳に入っていないかのように淡々としている。伊東は諦めてため息をついた。
「…『新撰組に伊予者がいる』と話すと活気が沸いたよ。余程新撰組は疎まれているようだ。ついでに現場に落ちていた鞘に心当たりはないかと尋ねられたから見覚えがあると話しておいた」
「これで…完全に敵に回した」
「わかっていたことだ」
「…」
伊東は雪で濡れた羽織を掛け、刀を置いた。すると背後で内海が立ち上がったのがわかった。
(呆れて出ていくのだろう…)
内海を納得させず、衛士たちに説明もなく新撰組と敵対する道を選んだ。その事自体に後悔はないが、内海が憤るのは仕方ないと思っていた。
しかし彼はいつまでも伊東の背後に立ち尽くしていた。
「…少し寝るから出ていってくれ」
「話を聞いてくれ」
「話は起きてから聞くから」
「大蔵君」
伊東が振り返るよりも早く、背中に内海の体温を感じた。彼はぎこちなく、しかし強い力で離さないように抱きしめていた。
「…内海、何の真似だ。離してくれ」
「これ以上は危険だ。敵を増やすべきではないとわかっているはずた!」
「だからこれは何の真似だと聞いているんだ、内海!」
伊東は強い力を込めて絡みついた腕を離し、彼から逃れた。
内海は拒まれると思っていなかったのか唖然としていたが次第に固く口を閉ざし、視線を落とした。彼は釈明も言い訳すらしようとしない…伊東はそんな内海の様子を見て、困惑と疲労とどうしようもない苛立ちを抑えることができなかった。
「お前はいつもそうだ!重要なことは何も口にせず、勝手な真似ばかりをする!」
「…俺がいつ…」
「私が婿養子に入るか相談した時だ。あの時もお前は…っ!」
酒に任せて口付けた。なにも知らないふりをしたのは弟の二の舞になりたくはなかったからだ。
内海も身に覚えがあったのかサッと青ざめた。
「覚えていたのか…?」
「そんなことはどうでも良い!お前は私について行くと散々口にするが、大切なことは言わない。言わなければ伝わらないなんて子供みたいな説法をさせる気か?そんなこともわからないのか?!」
「俺は…!」
内海は何かを言いかけて、けれど容易には口にできないことだったのか、そのまま飲み込んでしまう。
伊東は「出て行け」と内海の背中を押した。
「今は何を聞いても…答えられない」
「…わかった」
内海はそのまま部屋を出て行き、伊東は苛立ちながら袴を脱ぎ捨て身軽な格好で布団に横になった。
いつまでも背中が熱くて仕方なかった。
759
十一月十六日、陽が昇っても雪ははらはらと舞い続けるなか、巡察の当番であった永倉の隊が奇襲を受けたと戻ってきた。
「何者かはわからないが徒党を組んで、新撰組が才谷先生の仇だと罵られました。乱闘騒ぎになり何人か軽傷を負うだけで済んでますが、町中がその噂で持ちきりです」
「そうか…」
難しい顔をした近藤が腕を組み唸る。巷では普段から素行の悪い新撰組の仕業だと広まり、巡察に出る隊士は針の筵のようらしい。
「状況は悪くなるばかりだな」
土方がため息をつくと、永倉は眉間に皺を寄せた。
「…左之助から聞きました。新撰組を暗殺犯に仕立てたのは伊東だと」
「…」
「報復のために御陵衛士を潰すのですか?」
永倉は近藤と土方を見据えて、少し棘のある言い方をした。原田と同じように御陵衛士…藤堂に危害が及ぶことを望んでいないのだろう。
土方は(お前もか)と内心ため息をついたが、永倉は
「道理に適っていると思います」
と意外なことを口にした。
「敵襲に遭い、罪を着せられ…このままでは土佐と衝突するというのに、黙っているわけにはいきません。相手が刃を向けるのなら応戦するのは当たり前のことです」
「しかし、永倉君…」
整然とした様子に近藤は驚くが、永倉は揺らがない。
「ただ、仕掛けるのなら俺も加えてください」
永倉はまるで藤堂のことなど忘れたかのような淡々とした言い方をしていた。土方は戸惑いながらも
「…わかった」
頷いた時、
「このやろ、裏切り者ー!!」
と襖を蹴り飛ばして原田が部屋に飛び入りした。こっそり隣室から聞き耳を立てていたことに土方は気がついていたが、顔を真っ赤にして怒鳴る。
「平助は仲間だろ!あのバカ、伊東に唆されてるに決まってるんだ!!むしろ昔馴染みとして早く助けに行かねぇと!」
「…左之助は俺が説得します」
「しんぱっつぁん!!」
ジタバタと暴れる原田を組み伏せ、文字通り首根っこを捕まえて永倉は引きずるようにして部屋を出て行った。原田の罵声はいつまでも響いてくる。
しかし原田以上に頑ななのは近藤の方だ。
「…永倉君の言う通り、伊東さんが我々を裏切る行為を行っているのなら断じて許せぬ。永井様の誤解は解けたが、新撰組として見過ごせない。…それはもちろんわかっている」
「ああ」
「…だが、左之助の言う通り平助を手にかけるような真似はできない」
土方は近藤の『情』を断ち切るのは難しいとわかっていた。だから敢えて
「お孝やお勇の命が狙われてもか?」
と問うと近藤の顔色がサッと変わった。冷や水を浴びせられたかのように瞳孔が開き、土方を見る。
しかし土方は突き放した。
「総司は何とか切り抜けたが、俺にとっては同じ意味だ。何よりも大切なものを奪われそうになったのに、手加減などできるものか。それに奴らはいまだにかっちゃんの命を狙っている…そのことに藤堂が加担していないとなぜ言い切れる?」
「…」
「過去は変わらない。確かに藤堂が試衛館の食客であり、門下生だったことは揺らがない事実で、みんな情を感じているだろう。だが…人は変わる。藤堂は伊東を師と仰ぎ命運を共にしたいと思ったから出て行ったんだ。あいつの意思を、選択を尊重すべきだとは思わないのか?」
近藤は沈黙し、唇を噛んだ。
飲み込みきれない思いが身体中を駆け巡るものの、現実という楔に繋がれて身動きができない。
眉間に皺を寄せ苦悩しながらも近藤はゆっくりと頷いた。
「…わかった。御陵衛士を壊滅させるための最善の策を立ててくれ」
「ああ」
「…でもな、歳。お前の言う通り人は変わる。平助だけじゃない、俺やお前、総司や皆も昔と何も変わらぬとは言い切れない。けど、だからこそ…これから先も変わると言うことだろう?例えば平助がこれから先に考えを変えて、俺たちの元に帰ってくる…なんてこともあり得るかもしれない」
「そんな馬鹿な」
土方は否定したが近藤は「可能性の話だ」と続けた。
「俺は平助がそんなふうに思っているかもしれないという僅かな可能性を信じていたいと…思ってしまう。歳だって本当は平助を名指しして殺したくはないのだろう?」
「…」
「甘いよな、わかっているよ。本当に俺はどうしようもない。…でもどうか、そういう道を残した策を立ててくれ」
近藤は「この通りだ」と頭を下げた。そんなことをしなくとも土方は近藤の了解なく動きはしないとわかっているはずなのに、藤堂への情の深さ故なのだろう。
土方は何も言わなかった。
ジタバタと暴れる原田をどうにか宥め、永倉は今は誰もいない道場に連れてきた。
「あん?なんだよ、木刀で叩きのめそうってのか?俺ァ真剣でも構わねえけどさ!やるか?!」
「落ち着けよ」
「俺は平助だけは手を出せねぇからな!あいつは可愛い弟分なんだ、俺だけは絶対に裏切らねぇ!」
鼻息洗い原田は裏切り者だと永倉を牽制する。獰猛な闘牛のような悪態に、永倉は大きくため息をついた。
「…まったく、短気な性格だ。お前はいつかその性格で損をするんだろうな」
「なにおう?!」
「もしお前のように俺が平助を庇ったらどうなる?この状況で御陵衛士を強襲するのは仕方ないが、土方さんに楯突けば作戦から外されて蚊帳の外…俺たちの預かり知らぬところで平助の身に危険が及ぶ」
「…まさか、しんぱっつぁん…」
「芝居に決まってる」
永倉がふん、と鼻を鳴らすと、原田は「さすがだ!」と一気に喜びを爆発させて永倉に駆け寄り抱きついた。
「よっ!この千両役者!すっかり騙されちまったじゃねえか!」
「まだこれからだ。お前も俺に説得されたことにして大人しく指示に従うんだぞ。…これからどうなるのかわからないが、平助の命だけは助けたい」
二人の脳裏には山南との別れが過ぎった。大津から連れ戻された際、永倉と原田は退路を作り『どうか逃げてほしい』と懇願したが、山南の決意は堅かった。その時の虚しさと情けなさはまるで昨日のことのように覚えている。
原田は「わかった!」と永倉の両肩を掴む。
「全部お前のいうとおりにするぜ!」
「まったく調子の良い奴だな…」
「それで?どうする??」
「まずは…本人に手紙を出そう」
同じ頃。
「えっ?!石川先生が…?!」
藤堂は声を上げた。
伊東から衛士へ近江屋の一件が伝えられた。ほとんどの衛士にとっては面識のない相手ではあったため反応は鈍かったが、伊東が
「新撰組の仕業だと確信している」
と口にしたため一気に士気が上がった。途端に誰かが「そうに違いない」と同意し、「なんて奴らだ」と罵倒する。
伊東は続けた。
「私は土佐陸援隊や海援隊と協力し、刺客を捕らえたいと考えているが、当然新撰組にとっては面白くはないだろう。野蛮な連中ゆえに君たちに危害を加えられる可能性がある…むやみな外出は避けてくれ」
伊東は話を終えると藤堂を呼んで場を離れた。
「君の元へ新撰組から接触があるかもしれないが、決して応じてはならない。彼らは会津を通じて私が糾弾していると知っているはずだからね」
「わかりました。あの…新撰組が暗殺したというのは本当ですか?」
「…君が古巣の潔白を信じたい気持ちはわかるが…」
「そういうわけではありません!ただ…とても短絡的に思えて」
藤堂は必死に首を横に振ったが、伊東は「わかっているよ」と慰める。
「君の言うとおり土佐を刺激することが新撰組にとっては決して良いことではないが…才谷先生は大政奉還に尽力した御方、恨みがあったのだろう」
「…そうかもしれません。…あの、もう一つ。この二、三日斉藤さんの姿が見えないのですが…」
藤堂は斉藤が急に姿を消したことに困惑していた。衛士たちに尋ねても誰も行方は知らず、
「女のところに入り浸っているのだろう」
なんて揶揄する衛士もいたので気に掛かっていたのだ。
伊東は「そのことか」と微笑んだ。
「彼には大切な仕事を任せている。難しいことでね…無事に帰ってくると良いのだが」
「そ、そうでしたか…良かった、何かあったんじゃないかって気が気じゃなくて!俺にもできることがあったら何でも言ってください!」
藤堂は伊東の嘘をあっさりと信じて安堵する。伊東は小さな痛みのような罪悪感を覚えたが、視界に内海がいるのに気がついてすぐに飲み込んだ。
「…とにかく注意してくれ」
伊東はそう言うと、その場を逃れるように自室へ向かった。
衛士が集まる場には内海もいた。伊東の企みを表情一つ変えずに聞いていた…彼は何を思っているのだろうか。狡猾な振る舞いを見て見損なったと嘆いているのだろうか。
(訊ねてみたいが…恐ろしいな)
こんな感情は初めてで戸惑ってしまう。
今朝は疲労もあって苛立ちつい怒鳴ってしまったが、あれはあれで本心だった。無口で冷静なのは内海の美徳であるが、肝心なことさえ口にしない。もどかしくて、たまにイライラして。
(いや…それは私も同じか…)
いつのまにか、友人以上のものを求めてきたのはお互い様だろう。けれど機会を逸し、誤解が生まれ、すれ違い…言葉を飲み込むようになった。
(私が今まで失いたくないと思ったのは…お前だけなんだよ)
躊躇いなく故郷を捨て、家族を捨て、弟を捨て、妻を捨て…そんな人生の中で感情を押し殺してでも手放したくないと思ったのは内海だけだ。
『君と共に在れば良い』
(その言葉に甘えていたのは…私の方だったのかもしれないな…)
760
夕刻。
「先生、今宜しいでしょうか?」
自室で休む総司の元へ相馬が顔を出した。総司は相馬の顔を見るや「あっ!」と声を上げたので、彼は驚いていた。
「そうだ、一昨日のことを相馬君にお礼を言わなければと思っていたんです。君の的確な判断のおかげで泰助と銀之助は無事に任務を果たせました、ありがとうございました」
「そんな…俺は偶然、少年たちに出会しただけです」
相馬は謙遜ではなく本気で首を横に振った。
「あの時は、野村が何故か勝手に外出してしまって…俺は見かねた島田先輩の指示で付き添っただけなんです。野村は虫の知らせだと言っていましたが、結局は良い方向へ」
「ハハ、虫の知らせか」
野村なりに何か不穏な気配を感じ取ったのだろうけれど、相馬は不本意そうな顔をしていた。
「…普段は傍若無人で無礼なのに、勘が良いみたいで…なんだか腹立たしい奴です」
相馬は冷静沈着な優等生であるが故に、自由気ままな野村を認めたくないようだ。しかし結果的には野村の野生の勘と相馬の賢さが事態の収束の一添えとなったのは間違いない。
それに相馬にとっても彼の存在は良き刺激になるはずだ。
「せっかく同じ隊になったのですから、縁だと思って付き合ってみたら良いですよ」
「はい…」
「話が逸れましたね、何の用事ですか?」
相馬はハッと表情を変えて凛々しく口を開いた。
「井上先生からご伝言です。入隊希望者の腕を確かめてほしいと」
「私がですか?永倉さんや原田さんは?」
「お忙しいそうです。土方副長が沖田先生を指名されて」
「へえ」
大政奉還を経て薩摩や長州を厭う者がちらほらと入隊することがあった。窓口として井上が担当し、見込みがあれば剣術師範たちがその腕前を確かめることになっている。いまは兵の数を備えたいという意向である程度の腕前なら合格となるが、
『お前は厳しすぎる』
と土方に言われてしまい、なんとなく遠のいていたのだが。
「わかりました。すぐに行きますから道場で待たせておいてください」
「はい。…あの、俺も見学させていただいても宜しいでしょうか」
「構いませんよ」
相馬は顔が綻び、「ありがとうございます」と頭を下げて去っていった。
総司は着替えながら気持ちが高揚するのを感じた。こうして自室にこもっているよりも道場で若い才能を見出す方が気持ちが晴れるに決まっている。
(土方さんがわざとそう仕向けたのだろうけれど)
総司は袴の紐をきつく結んで、道場へと向かった。
土方は客まで横になる斉藤の顔を見るなり
「良い策は?」
と尋ねた。
今朝は刀の手入れをして土方の呼び出しにも応じたのだが、流石に縫合したばかりの傷は痛んでしまい仕方なく伏せっていた。身体を起こそうとすると
「寝ておけ」
と言ったものの土方はそばで膝を折って居座った。斉藤は少し呆れた。
「…今朝、策を立てろと言われて、夕刻には催促ですか…」
「時が経つと面倒なことになる。…お前のことだからもう思いついているのだろう?」
「…」
土方は『面倒だ』と言ったけれど、本当は拙速であっても決心が鈍らないうちに早く決着をつけたいのだろう。
斉藤はちらりと隣室に目をやった。
「…沖田さんは?」
「道場に行かせた」
斉藤は少し安心しながら天井を見上げた。
「…御陵衛士にとって伊東大蔵は柱です。彼の行動が衛士たちの全てであり、言葉は神の宣旨…ある意味盲目的な信者とも言える」
「伊東さえ殺せば崩壊すると?」
「伊東を殺せば命を賭してこの屯所に襲撃を仕掛けるでしょう。だったら正面からぶつかるのと変わりありません。その前に…確実に仕留めるべきです」
「…」
「俺の策は、何らかの理由をつけて伊東を呼び出し、殺し…その亡骸を路地に投げ捨てる」
斉藤の提案に土方は顔を顰めたが、口は挟まなかった。
「すると衛士たちは誘き寄せられているとわかっていても、忠誠心からその亡骸を引き取りに来るはずです。それを一網打尽にする」
「…それは…」
「気に入りませんか?非情だと思いますか?」
斉藤は挑発的な言い方をした。
卑怯だとか、姑息だとか…そんな目に見えない感情を優先しても結果は同じだ。残酷であっても確実に成功する道を選ぶべきだ。
「…伊東が先に仕掛けてきたことです。ツケを払わせなければいけない」
「ツケか。お前らしいな…」
「決して褒められない策ですが、褒められたいと思っていないので構いません」
斉藤は淡々としていたが、彼の言葉や視線の端々には憤りがあった。
「…まったく、お前だけは敵に回したくない」
「…」
「その案で進めよう」
「局長は藤堂を殺したくないのでは?」
斉藤が率直に尋ねると、土方は苦い顔をした。
「…あいつは甘い。藤堂が考えを変えて戻ってくれる…そんな夢を信じている。御陵衛士壊滅に同意はしたが、藤堂だけは助けたいようだ」
「言っておきますが、藤堂にその考えはありません。伊東に心酔しきっています」
「…ああ、そうだな。今朝の定期報告にも音沙汰無しだ」
土方は一瞬だけ苦しそうに息を詰めた。脱退したとはいえ試衛館食客であった藤堂に情がないわけがない。
しかし斉藤は敢えて厳しく続けた。
「…藤堂は山南総長が亡くなったからこそ、伊東に拘って、今度こそ同じ過ちは繰り返さまいと心に誓っているはずです。伊東の亡骸が放置されていると耳にすれば必ずやってきます」
「ああ…」
「覚悟を決めてください」
斉藤は土方を見据えた。近藤や他の食客たちに発破をかけるわりに、土方自身が覚悟を決めていないように見えたからだ。
土方はしばらく黙っていた。そして深い深いため息をついて
「……伊東をどうやって呼び出すのかが肝要だな」
と呟いた。
『禁裏御陵衛士』の看板を隅々まで拭き上げた藤堂は「よし」と自然と声を出していた。
雪がパラパラと降るせいで足元がぬかるみ、玄関はすぐに汚れてしまう。普段なら気にならないが、こういう時はせっせと掃除に勤しんでしまう。
(今朝は伊東先生の言う通り、定期連絡に行かなかった…)
橋渡し役としての役目を終える…それは新撰組との関係を断つということであり、敵対すると言う意思表示でもある。
藤堂は自分の行動に後悔はなかったのだが、なんだかそわそわと落ち着かなかった。
(大丈夫…伊東先生のおっしゃる通りにすれば…きっと…)
きっと上手くいくはずだ。それに巷でも新撰組が暗殺に関わったという話題で持ちきりなのだ。こちらから遠ざけても仕方ないだろう。
「ふう…」
冬の厚い雲が空を埋め尽くしてゆっくりと流れている。その合間から夕陽が差し込み妙な夕暮れだ。
(この空のせいかな…なんだか気持ちが落ち着かないのは…)
「はいっ!」
「え?」
藤堂がぼんやりしていると、いつの間にか目の前に乞食のような格好をした少年がいた。その手には小さく折り畳まれた手紙が握られていて、それを藤堂に差し出している。
「これ!」
「あ、ありがとう…」
少年は「じゃあね」とあっさりと去っていき、すぐに姿が見えなくなった。
一体誰からの手紙かと思えば、見覚えのある荒れた筆跡…差出人にも堂々と『原田左之助』とあり、藤堂はすぐに自分宛だと慌てて察して懐に隠した。キョロキョロとあたりを見渡すと幸いにも人目はなく、藤堂は屯所を離れ人気のないところに移動した。
(本当、あの人は!)
少年がたまたま藤堂に渡したから良いようなものの、他の衛士に渡れば破り捨てられてしまい藤堂にも疑いが及ぶ。それなのに大胆すぎる原田の行動には半分呆れ、もう半分苦笑してしまう。
(コソコソやりとりするなんて、原田さんらしくないもんな…)
手紙を開くと時間と待ち合わせの店の名前だけ書いてあった。
なし