わらべうた




771


その日は指先が痛むような厳しい寒さだった。
斉藤は目を覚ましゆっくりと身体を起こした。傷は塞がり痛みも随分鈍くなった。こんな時こそさらに療養してしっかり治すべきだと英なら言いつけるだろうが、今日はそうもいかない。
(今夜は…大きな節目になる)
昨夜遅く、斉藤は土方から作戦の決行を伝えられた。
伊東は近藤の誘いに応じて妾宅へやって来るそうだ。伊東は慎重に見極めて断るかもしれないと思っていたが、どんな狙いがあるのか大胆にも乗り込んでくるらしい。しかし思い返せば今年の正月の居続けも、薩摩や土佐に潜り込むための分離も、伊東の大胆さは土方の予想を超えていたのだから特別可笑しな行動というわけではないのかもしれない。
しかし、斉藤にとって自分の立てた策であってもすでに手を離れている。作戦には加わらず屯所に残りーーーある意味、土方にとっては伊東の暗殺以上に重要な任務を請け負うことになってしまったのだ。
『絶対に総司の耳に入れるな』
昨晩、皆が寝静まったあとに再び念押しされた。
『屯所には見張りの隊士数名と小姓だけが残り、ほぼ出払うことになるだろう。あいつは勘が良い…どうにか誤魔化してくれ』
『…承知しています』
『もし知られても絶対に屯所から出すな』
それは伊東の暗殺以上に難しい任務かもしれない。斉藤はそんなことを考え込んだせいで昨晩はあまり眠れなかった。
斉藤は襖を開けて縁側に出た。氷が身体中に張り付くような寒さにひゅっと喉が鳴ったが、そのおかげで一気に目が冴える。
そして同時に「コンコン」と小さく咳き込む声が聞こえてきて、斉藤は足を向けた。
「入るぞ」
と了解も得ずに開けると、やはり総司が咳き込んでいた。彼の枕元に膝を折り、肩を摩る。
「さい…ゲホッ」
「無理をするな。…山野を呼んで来るか?」
斉藤が尋ねると総司は首を横に振った。まだ朝早い時間で起こすには忍びないと部下を慮ったのだろう。そのうちに落ち着いてきた。
「…すみません、もしかして起こしましたか?」
「いや、ちょうど起きていた」
「そうですか…そんな薄着じゃ、風邪をひきますよ。羽織を着てください」
自分の顔色の方がよほど悪いというのに、総司は弱々しい声で斉藤を気遣うので苦笑するしかない。
「ここは暖かいから心配するな。それに…羽織は月真院に置いてきた」
「ああ…そうだ、あの時に斉藤さんに借りた羽織を返そうと思っていたんです…」
総司はまた無理をして身体を起こそうとしたので、斉藤は引き止めて「どこだ?」と尋ねる。総司が指差した行李を開けると綺麗に折り畳まれた、見慣れた羽織が出てきたので袖を通すことにする。
「ちゃんと返せて良かった…」
総司は安堵した笑みを浮かべたが、斉藤はそのぎこちない表情にすぐに気がつき、額に手を当てた。
「…酷い熱がある」
「そう、ですか?」
「誤魔化すな。すぐに山野を呼んで来る」
すぐに斉藤は起床前の山野の元へ向かった。山野は総司の名前を出すとすぐに目を覚まし、寝間着のままドタバタと駆け込んで来て、熱が上がったと確認するとすぐに医者を呼ぶように小者に伝えた。
「大騒ぎにしないでください」
総司は山野へ頼み込む。山野は「分かってます」と言いながら額に冷たい手拭いを乗せた。
斉藤はその光景を黙ってみていた。自分が御陵衛士として離れている間、想像以上に悪化していたのだと見せつけられているような、苦々しい心地だった。
そうしていると裏口から迎え入れられたのは英だった。斉藤の姿を一目見て「おはよう」と淡々と口にしたあとはすぐに総司の傍に座り、聴診器を当てて診察を始めた。山野は弟子として、また部下としてはらはらと様子を見守っていたが、英の表情はなかなか読めない。
しばらく重たい沈黙が流れた後、英は聴診器を置いた。
「…少しタチの悪い風邪だろう。肺の音は悪くはないが無理は禁物だよ」
「ああ、良かったです…」
山野は力が抜けたように安堵する。総司はそんな部下を愛おしげに眺めた後は目を閉じてうとうとと浅い眠りにつき始めた。
英は熱冷ましといくつかの漢方薬を渡して診療を終える。山野は「副長へ報告に行きます」と部屋を出て行ったので必然的に斉藤と英のみが残った。
「…本当のところはどうなんだ?」
斉藤が尋ねると英は少し微笑んだ。
「本当のところなんて俺が知りたいよ。小さな風邪が命取りになるような所まで来ている…肺炎なんか起こしたら大事だ」
「そうか…」
英の所見を聞いて斉藤は土方が今夜の襲撃を伏せておくことについてようやく納得ができた気がした。こんな状態の彼に非情な作戦のことなど伝えられるものか。
「とにかく落ち着いても安静にさせてよ、いつも床を離れて出歩く。…もし悪化するようなら姐さんを呼ぶから」
英は帰り支度を始めようとする。まだ弟子でも一人で往診ができる彼は何かと重宝されて忙しいのだろう。
「じゃあ」
「ああ…」
英は手を振って部屋を出ていく。斉藤は一度は見送ったが、「待ってくれ」と縁側で引き止めた。
「何?」
「頼みがある」
「頼み?」
「今日一日、ここにいて欲しい」
英は怪訝な顔をした。
「…いまのところ肺の音もいつもと同じだし、熱が下がれば問題ないよ。山野は悲壮にしてたけど、すぐに大袈裟に考えるほどじゃ…」
「いや、大袈裟にして欲しい」
「はあ?」
英はさらに眉間に皺を寄せたが、斉藤は冗談で引き留めたわけではない。
「今夜、どうしても彼に知られたくない、巻き込みたくないことが起こる。だが俺が四六時中見張れば不審に思うだろうし、小姓たちは状況がわかっていないから任せられない。…お前なら医者としてずっと付き添っていても変だと思われないだろう」
「…」
「頼む」
斉藤は頭を下げた。変なところで勘の良い総司はきっと気がついてしまうだろうが、英がいれば自分の身体のことだけに目を向けるだろう。
英はすこし黙った後、
「巻き込みたくないことって何?」
と尋ねた。斉藤は「言えない」と答えるしかなかった。
まだ数人しか知らない作戦を英に漏らすわけにはいかない。それは彼を信用していないのではなく、彼を巻き込みたくないというだけだ。
英も教えて貰えるとは思っていなかったのだろう。「はあ」と芝居じみた大きなため息をついた。
「わかった。南部先生の許可を取って戻ってくるよ」
「…恩に着る」
「今度何か奢って。…それから、忘れているだろうけれど斉藤さんも安静にしててよ」
英は釘を刺して去って行った。



痺れるような寒さで目を覚ます。火の消えた火鉢の近くで横になっていた伊東は、すぐ隣に内海がいないことに気が付いた。一瞬肝が冷えたが、早朝に出発する鈴木に同行するように頼んだので急いで準備に取り掛かっているのだろう…さすがに鈴木と内海が自分に声を掛けずに出かけるはずはない。
けれど昨夜の甘い余韻がプツリと消えてしまったようで、寂しさを感じてしまった。
(勝手だな、私は…)
自分一人で決断して、嫌がる内海をどうにか言いくるめたのに…勝手に後悔している。今更翻すつもりはなくともせめて彼には本心を悟られないように笑顔で見送らねばならないだろう。
伊東は掛布団となっていた上着を肩に掛け着衣の乱れを正し、襖を開けた。整然とした美しい庭に雪が薄く積もり、自然に「ああ」と感嘆のため息が漏れるような情景を見てしばらく見惚れた。この場所を屯所としたのは様々理由があったが、一番は庭の景色を気に入ったからだ。ここに越してきたのは初夏、青々と茂る木々が秋になると見事に色づき、そしていまは白く化粧をしている。この雪が溶け、春になればどれほど美しい景色を見ることができるだろうか…憧憬に似た感傷に何度も浸ったものだ。
伊東は無意識に呟いた。
「水を渡り 復水を渡り 花を看 還花を看る…」
「春風 江上の路 覚えず 君が家に到る」
いつの間にかやってきた内海が諳んじて、旅姿でそこにいた。伊東は微笑んだ。
「…私と内海の『家』がここであるならば、素晴らしいな」
「俺はそう思っている」
内海は躊躇いなく肯定する。少し前までの他人行儀な内海はもうどこにもいない。互いに忘れ去られたかのように。
「ハハ、君はまるで人が変わったかのようだな」
「大蔵君、ひとつ約束をしてほしい」
「ああ、なんでも良いよ」
「俺がここに帰ってきたときに、必ず君がここにいてくれ。もし君がいなければ…俺は自分がどうなってしまうのかわからない」
内海の正直な言葉に伊東の胸は少し痛んだ。嘘をつくなら何度ついたとしても同じことだと思い約束を交わすつもりが、安請け合いしたのを後悔するくらい重たい約束を強いられてしまった。
「…ああ、もちろんだ。愚弟をよろしく頼む」
「わかった」
伊東は抱きしめたい衝動に駆られたが、それではまるで永遠の別れのような気がして気が引けた。そのかわり右手を差し出し握手を求める。そういう形式ばった作法の方がまたこうして会えるような気がしたのだ。内海もそう思ったのだろう、唇を噛みながら耐えるようにして手を差し出し、二人はしっかりと握りあった。
そうしていると同じ旅姿の鈴木がやってきた。もしかしたらこれが永久の別れかもしれないと思うと、どれだけ手を焼いて愚かな弟だと蔑んできたとしても、無性に惜しくなるものだ。
「…前にも話した通り、水野に必ず上京させる約束を取り付けさせるんだ。それが我々の命運を左右するだろう」
「は、はい!」
「頼んだ」
気負いすぎて強張っていた鈴木の表情が伊東の「頼む」という言葉に絆されるように緩む…しかしすぐにハッと引き締めて誤魔化すように大きく頷いた。伊東は弟の喜怒哀楽が手に取るようにわかるようになった…それは伊東にとって悪くない進歩だった。
そして伊東はほかの衛士とともに二人を見送った。
何か気の利いた言葉がないのかと自分で思ったけれど
「気を付けて」
とその背中が見えなくなるまで見つめることしかできなかった。

















772 ―春隣1―


寒さの厳しい朝を迎えた。
俺は座禅を組み目を閉じながら伊東大蔵という人について考えていた。

初めて出会ったのは隊士募集のため江戸に向かった時だ。平助の居た道場の塾頭で、まさに『文武両道』、神道無念流と北辰一刀流を修め、学もあり歌を嗜むという文化人でもある…そう文で知らせが来た時、俺は身分問わず無頼の輩が集う新撰組にはそぐわないのではないかと思った。何よりも歳が気に入らないという顔をしていたので、実際に江戸へ向かって平助に確認したが
「一度会ってみてください!きっと良い出会いになるはずです!」
ということだったので、会うだけは会うことにした。
そうして実際に顔を合わせてみると、彼は見惚れるほどに麗しい、誰もが一目見て振り返るような美男だったのでとても驚いた。加えてその形の良い唇から流れるように紡がれる言葉は、まるですべてが歌のような言い回しで趣があり心地よい。俺には礼儀正しく高貴な人物に見えた。
しかし、今までで一度も関わったことがないような雰囲気に気が引けて、
(やはり…)
俺は彼に新撰組は合わぬと思った。
それに彼は水戸で学び、異国を毛嫌いしていると同時に幕府を完全に信頼しているわけではない。徳川へ忠誠を誓う会津のお預かりである新撰組とは考え方が違うのではないかと危惧したのだ。
平助も同席していたが、俺は伊東先生の目を見て伝えた。
「新撰組は会津お抱えであり、私は天領の民…世間がどうあれ、決して公方様以外には仕えようとは思いません。水戸で学ばれた伊東先生とはお考えが違うようですが」
俺の飾らない問いかけに、飾り立てた言葉を口にしていた彼は虚を突かれたようだった。歳がここにいたら互いにまだどういった人物か探りあっている最中に先に素を晒すなどと呆れるだろうが、俺は腹の探り合いは苦手だ。疑問に思ったことは本人に聞く。
すると伊東先生はまるで花のように微笑んだ。
「正直な方ですね。…私もその点は気がかりでした。しかし、いま公方様は帝と良好な縁戚関係を結ばれています。幕府が帝のもとで政を行っている…でしたら幕府に仕えることは帝の手足となるのと同じこと。藤堂君の誘いを聞き、これは良い機会を頂いたのではないかと思ったのです」
「…新撰組は都では悪評が流れていますが」
「噂話は好きません。…いま目の前の近藤殿がお話しいただけることがすべてだと思っています。藤堂君から聞いていた通り実直で正直なお人柄のようだ。是非ともお仲間に加えていただきたく思っております」
伊東先生は真っすぐ背筋を伸ばして頭を下げた。まるで所作の見本のような卒のなさだった。
…ここに歳がいたら。
『芝居じみたクサイ台詞を真に受けるなんて』
と鼻で笑っただろう。しかし俺は彼が嘘をついているようには見えなかったし、彼の眼差しは強く勇敢で頼もしく見えたのだ。俺は自分が抱いていた疑念が消えて、気が付けば
「こちらこそ是非、伊東先生のような方に力になってもらいたい」
と頭を下げていた。俺たちのような浪人と比べて彼は毛並みが違うが、新撰組はいつまでも野蛮ではいけない。彼が新しい風となってくれるだろうと信じたのだ。

…伊東さんがいつから分離を考えていたのか、愚鈍な俺にはわからない。けれど初めて会ったこの日はそうでなかったように思う。彼と同じ場所を見ていたと感じたのだ。

「近藤先生」
やって来たのは歳だった。総司の具合が悪く早朝から忙しかったようだ。
「…どうだ、総司は?」
「英は風邪だろうと。悪化しないためにも今日は一日中看ると言っていた」
「そうか…こう言ってはなんだが、ちょうど良かったな」
「ああ。俺もそう思う」
今日は長い一日になる。病に伏せる総司の心労になってはならぬと一連の策は耳に入れていない。どう隠し通すべきかと思っていたが、医者の目があれば総司は部屋を出られないだろう。
坐禅を組む俺の隣に、歳は腰を下ろした。
「…迷っているのか?」
歳は俺に問いかける。
俺はずっと考えていた。
御陵衛士として彼らが分離して、一度はそれも悪くないと思った。新撰組が幕臣となりますます西国と対立するなか、薩摩や土佐の情報を得るために遊軍となる…平助が橋渡しとなるなら、互いに良好な関係を築けるかもしれないとわずかな希望を見出していた。
けれど先に裏切ったのは伊東さんの方だ。大政奉還が成った途端、徳川を追放し新たな政を始めるべきだと建白し、会津と我々に牙を剥いた。それだけならまだしも新撰組幹部の襲撃を企て、土佐要人の暗殺犯さえなすりつけた…見過ごせない裏切りを繰り返したのは彼らに違いない。
しかし実際、それを裏切りだと感じるのは俺の勝手なのだろう。俺は伊東さんを信じていたが、彼が俺を信じているとは限らない。入隊した時から虎視眈々と画策していたことだったのかもしれないのだ。
そう思うと胸に押し寄せるのは怒りでも憤りでもなく、虚しさだ。
「迷ってないよ」
俺は答えた。
「迷うことなんて何も無い。俺はただ平助のことが心配なだけだ」
「…安心しろ、なんとかする。近藤先生は伊東に勘付かれないように話をすることだけに集中してくれ」
「ああ」
俺は敢えて、永倉君と左之助に平助を助けるよう告げていることを歳には話さなかった。勝手なことをして、と叱られることは分かっていたし、実際のところ歳が安易に平助を助けるとは思えなかったからだ。
(伊東さんの『嘘』はわからないが、歳はわかる)
きっと俺を納得させるために平助のことを持ち出したのだろう。そのことに俺も気がついているのだから…歳を責めるつもりはなかった。
俺は再び目を閉じた。歳は短い会話を切り上げて去って行った。







伊東大蔵という人は、最後まで掴めない男だった。

かっちゃんと共に江戸からやって来た伊東は、涼しげな目元と色白の肌、形の良い唇が全て美しく整った、まさに完璧な人物だった。連れている数名の同志たちもそんな彼を心酔しているのが一目で分かり、入隊しても金魚の糞のように付き従う…隊士の中にはそれに追随する者もいて、俺は辟易とした。
(ややこしいことになる)
芹沢が死に、池田屋で名を上げ、ようやく近藤先生が日の目を見るというところでこんな目立つ男に参謀として君臨されては全てが霞む。
俺はその日から心が休まることがなかったように思う。賢い伊東とどうやって渡り合っていくか…俺には彼が敵だとしか思えなかった。
そしてそれは山南さんが死んだ時に決定的となった。
『春風に吹きさそわれて山桜ちりてそ人におしまるるかな』
俺は山南さんの切腹に伊東が関わっていることを確信していた。弁の立つ伊東が気落ちする山南さんを唆した…全てでは無いにせよそれが一因となって脱走したはずだ。
それなのに、皆の前で嘆き哀しみ美しく涙を誘う歌を詠む…伊東の内面には一体何枚の仮面があるのだろうか。俺は内心ゾッとした。
(俺だけは絶対に騙されない)
…そして伊東は結局、分離という曖昧な言葉を掲げて平助を連れて新撰組を出て行った。悠々自適にあちこちで弁舌を披露し、信頼を得て…最後には古巣へ狙いを定めた。
(貴様の思い通りにはさせない)
俺は伊東を殺すことへ何の迷いもなかった。

「今朝方、内海と鈴木が月真院を出て東へ向かったと知らせが」
自室で約束の刻限を待っていると、山崎がやってきた。彼は監察方から離れても人脈が広くあちこちに監視の目を持つ。
「東…美濃か?」
「おそらく。…せやけど、藤堂先生が同行せえへんのは意外でした。都から離れてくれれば楽やったのにな…」
山崎には明確に『藤堂を助けるように』と指示をしたわけではないが、賢い彼は俺の気持ちを汲み取っているようだ。
(平助は殺したくない。殺したくないが…)
殺したくないという気持ちが、隙を生む。
俺は幾度となく、勝負の場で予測を外している。芹沢の時も、池田屋の時も…総司の病も。肝心な時に違う道を選んでしまうという自覚があり、今回の件にはいつもよりも慎重だった。
「他の衛士は?」
「阿部十郎は身なりを整えて外出したと小者から知らせが…行先は追わせてます。他の者は留まっているようです。この頃は衛士たちは不用意に出歩かずに屯所へ詰めてているようやと」
「土佐の暗殺が新撰組によるものだと密告している。報復を恐れているのだろう」
「…ほんまに、伊東がやってくるんですか?」
山崎は懐疑的な様子だったが、それは俺も同じだった。新撰組の報復を恐れて屯所に引きこもっているくせに誘いには応じる…実際に伊東の顔を見るまでは俺も疑いが消えそうもない。
「不穏な動きがあればすぐに知らせるように伝えろ」
「はい。…醒ヶ井も準備ができてます」
会合の場所は伊東を油断させるために、醒ヶ井の近藤さんの妾宅にした。お孝や世話役のおみねにはもちろん今回の計画は告げずに、ただもてなしてほしいと伝えている。彼女たちを危険に晒すわけにはいかないので監察方にはしっかりと警備をさせ、万一に備えるように指示を出していた。
「ああ…わかった」
あとは約束の刻限が来るのを待つだけだ。
あと一度、伊東の顔を見ることがあれば…それが永久の別れとなるだろう。










773 ―春隣2―


私は内海と愚弟を見送った後、そのまま広間に衛士たちを集めた。
「私は今晩、一人で近藤局長と面会する」
そう告げると彼らの表情は一様に強張った。当然新撰組との間に流れる緊迫感を理解しているのだ。
「それはいけません!」
衛士の中で年長の篠原がまず声を上げた。
「こんな時に一人で面会に向かうなど…!新撰組は必ず待ち伏せしているはず!」
「そうです、先生!奴らは卑怯だ!」
「せめて我々も一緒に!」
付き合いの長い加納や服部、毛内だけでなく、新撰組から引き抜いた者を含めて皆が反対していた。藤堂君は何も口にはしなかったが、複雑な表情で口を結んでいる。
私は片手を挙げて「話を聞いてくれ」と穏やかに告げた。彼らが引き止めるのはわかっていた。
「危険な橋を渡ろうとしている自覚はある。けれどこの橋を渡らねば進めぬ道もあるだろう。…私たちは誤って新撰組に入隊し幾度となく口惜しい思いをしてきたが、今は世の中が変わり我々の本望が果たされようとしている。近藤はそれを感じ取り、接触をしてきたのかもしれない」
「まさか!」
「そんな殊勝な奴らではありません!」
私の希望的観測に対してほとんどの衛士の反応は鈍く、特に篠原と加納は到底納得できないようだった。
「そのような約束、反故にしてしまえば良いのです!」
「富山君、もし反故にしてしまったらどうなると思う?彼らの意に添わぬ返答をすれば、争いの火蓋が切られてしまうかもしれない。例えばいま、新撰組の襲撃を受けここにいる数名で耐えられるか?皆はどうだい?」
「それは…」
私の問いかけで先ほどまでの威勢は消え、彼らは顔を見合わせて困惑する。それでも篠原は
「だったら先んじて仕掛けるべきだ!策を練り周到に攻めれば新撰組など…!」
「篠原。言葉を尽くさず力に頼る…それでは新撰組と同じだ」
「!」
篠原は顔を顰めた。
新撰組に嫌気が差し分離し、自分たちは違うと叫び続けた我々にとって彼らと同類に成り下がるのは一番厭うべきことだ。熱くなった篠原もさすがに言葉が紡げず悔しそうに顔を顰めただけだった。
近藤局長から文が来た時点でもうこの戦は始まっている。
「…私は新撰組には愛想が尽きているが近藤局長はまだ話が通じる相手だと思っている。彼は礼を以て私を招いているのだから、それに応えないのは非礼になる。それに彼を恐れて行かないというのなら卑怯だろう。志が成就しつつあるいま、局長を説諭することができるかもしれない。そうすれば我々の状況も変わる」
私の言葉に同志たちは困惑したまま、答えが出せないようだった。いくら八方ふさがりの状況とは言え、私が勝負に出るということは彼らもそうしなければならないということだ。突然その覚悟を求められて沈黙するのは当然だ。
「…朝から急な話をして驚いているだろう。私は夕刻に出るつもりだ…話がある者はいつでも来てくれ」
私は話を切り上げて、自室に戻った。






伊東先生のお話を聞きながら、俺は
(先生はついにご決断なさったのか)
と呆然としていた。
先生が去った後、仲間の衛士たちはしばらくは絶句していたが、篠原さんや加納さんを中心として「やはり止めるべき」と殺気立つものと、「ついに戦か」と怖気づく者と…反応は様々だった。
俺は縁側に立ち尽くし、雪の降る美しい庭を眺めていた。
この数日でガラリと状況が変わった。伊東先生は土方さんの別宅を斉藤さんに襲撃させ、そのまま新撰組壊滅を狙った。それは失敗したが、次に土佐の要人暗殺を新撰組の仕業とし彼らとの関係に亀裂を生んだのだ。暗殺に新撰組が関わったかどうか、本当のところはわからないけれど新撰組の立場で土佐に喧嘩を売るのは短絡すぎる気がしていた。
(まあ、全部斉藤さんに聞いたことだけど…)
まず、死んだと聞かされた斉藤さんが生きていた時点で、伊東先生のお話は真実ではない。きっと何か思惑があるのだろうと思う。
けれどだからと言って伊東先生を疑うつもりなどない。それはたとえ新撰組は近日中に御陵衛士殲滅へ取り掛かるという知らせを耳にしても、俺の決意は変わらない。逃げずに真正面から対峙する覚悟はとっくに決まっていて、だから美濃行きを拒んだのだ。
(新撰組と御陵衛士がいつか対立するのはわかっていたことだ。だから何の迷いもない)
俺は白熱する仲間たちから離れて、伊東先生の元へ向かった。
「先生、藤堂です」
「ああ、入ってくれ」
先生の快い返事を聞き、俺は部屋に足を踏み入れる。先生は筆を置き
「やはり君が来ると思っていたよ」
と笑った。
「伺いたいことがあって…」
「うん」
「内海さんと鈴木さんにはこの件をお話になったのですか?」
俺は美濃へ向かった二人のことを考えていた。先生に近い立場である内海さんや、実弟である鈴木さんがこの話を了承しているのか訊ねたかったのだ。すると先生は少し驚いたような表情をした。
「…君は痛いところを突いてくる」
「ということは…」
「ああ、二人には話していない。愚弟はともかく…内海は必ず反対する。だから美濃へ行かせた」
「…それで宜しいのですか?」
篠原さんや加納さん、服部さんとも長い付き合いのようだが、内海さんは特に抜きんでて先生と親しい。それなのに何も話さず、こんな危険な賭けに出ても良いのだろうか。
すると先生は
「…全部話すことだけが、大切なことじゃない」
「そうでしょうか?」
「そういうものだよ」
先生は曖昧な言葉を口にして微笑むだけで、「私も君に聞きたいことがあったんだ」と話を変えた。
「君は私の話を信じたのかい?」
「…先ほどのお話ですか?」
「うん、まあ…そうだな。私が君に話したことすべてだよ」
俺は先生がいつの話をされているのか、曖昧にしかわからなかったが
「勿論、信じています」
と答えた。ほんの少しの嘘は混ざっていたけれど、偽りだと知っても俺が先生とともにこの先の道を歩みたいという気持ちには揺らぎはなかったのだから、『信じている』に等しい。
すると先生は「そうか」と苦い笑みを浮かべた。
「私は…君がそうやって心からの信頼を寄せてくれることが有難いし、申し訳なくも思う」
「えっ?ご迷惑でしたか?」
「…いや。本当は、君は心の奥底ではまだ新撰組を引きずっているだろう」
「…!」
俺は突然の指摘に言葉がうまく紡げなかった。
そんなはずない、俺は御陵衛士で先生の同志です…と言いたかったのに喉の奥が焼き付いてしまったかのように言葉にできなかったのだ。
そんな俺を先生は責めなかった。
「良いんだよ、悪いことじゃない。私は君を新撰組との橋渡し役だと騙して連れ出したのだし、こんなことになって本当は戸惑っているだろう」
「騙すなんて…ちゃんと俺は自分の意思で新撰組を出ました!」
「でも、私は山南総長の代わりにはなれない」
伊東先生の言葉が…胸に突き刺さる。俺は叫んだ。
「そんなつもりは!」
「ああ、うん、わかっている。山南総長の代わりなど烏滸がましい。彼は人徳もあり、賢く…何より優しい人だった。優しすぎて、追い詰められて…脱走した」
「先生…?」
「…君が私を信じてくれていることを感じるたびに山南総長のことを思い出すんだ。…ただあの件は局長や土方にとって不本意な結末で、私にとっても誤算で…君に許しを乞いたいわけではないのだけれど、私は手を差し伸べることができたのに、助けられなかった。君が全幅の信頼を寄せてくれるのなら、私の本性は打算的な人間だということを君に伝えておきたかったんだ」
俺は突然の懺悔のような告白に体が震えた。先生の言いたいことがわからなかった。
「どういう、ことですか?そんな言い方じゃまるで先生が山南さんを見捨てたみたいな…」
「見捨てた…か。本当のところは山南総長でないとわからない。彼がどうして死を選んだのか、それは彼が伏せた以上は他の者が憶測で物をいうべきではない…それが死者への礼儀だ。けれど私は無関係ではないと思う。だから君が思うほど私が良い人間ではないし、信じるに値しない」
「そんな…」
「失望しただろう?君はそれでも共に来てくれるだろうか?」
…先生の言い回しは曖昧で具体的なものではなく、結局は何も答えを口にしていない。
けれどあの時、江戸にいて山南さんの近くにいなかった俺が先生の何を断罪できるというのか。伊東先生だけじゃない、近藤先生や皆が何を思ったのか知らないのに、俺は悲しい悔しいと悲鳴を上げるだけの子供だったのかもしれない。だったらもう誰を責めても何の意味もない。
俺はいつの間にか涙を流していた。そして素直に白状した。
「…俺は確かに山南さんと先生を重ねていたかもしれません。…江戸から都に戻って、頭の中がグジャグジャで…新撰組に俺の居場所がないみたいだった」
「…」
「でもそんな時に先生が山南さんを想って詠まれた歌を聞きました。皆がまるで昔のことなんてなかったみたいに平然としているなかで、先生は山南さんを想って素晴らしい歌を詠んでくださった…そのことは例えどんな経緯があったにせよ、変わらない事実で、先生の本心であったはずです」
「藤堂君…」
「それに先ほどおっしゃったではありませんか。『全部話すことだけが大切じゃない』と。…だったら俺は都合よく受け取って、先生のことを信じます。それは俺の勝手で、先生のせいではありません」
そうだ、俺は。
誰かのせいにする人生ではなく、自分の信じた道を歩む人生を選んだんだ。
だからもう誰の言葉にも耳を貸さない。
自分が信じたものを信じ続ける。
「先生、俺は確かに新撰組へまだ情があって、仲間と敵対したいと思ったわけじゃありません。…けれど先生に救われたんです。先生とともに在ると…なんて言うか、前向きな気持ちになる。だからどんな困難な選択でも先生を支持しますし、最後まで決めたことを貫きたいと思っています」
正しいとか、間違っているとか、そんなことはどうでも良い。先生とともに行くと決めた以上、この道を進むことだけが俺の望みなのだから。
「そうか…わかった、ありがとう」
先生は穏やかに微笑み礼を述べた。









774 -春隣3-


兄から託された美濃行き…都を出て田舎道に入っても、俺の心は高揚したままだった。
俺が不出来なせいで、兄には故郷にいた頃から散々迷惑をかけた。父が脱藩後に作った私塾は生活が困らない程度の収入となり俺も手伝っていたが、父が亡くなり兄が一時期講師として滞在したときはまさに盛況であった。朴訥な俺と違い、兄は麗しい顔立ちで学を披露しながら時に尊王攘夷を熱く語る。感化された田舎の青年たちは活気づき、女子たちは兄を一目見ようと生け垣の向こうから眺めていることもあったくらいだ。俺は鼻が高く、兄がいつまでもここにいてくれるのだと錯覚したが、そんな優秀な兄がいつまでも田舎に留まるはずはなかった。
兄がいなくなるとあっという間に私塾は廃れ、そのまま畳むことになった。母は親戚の家に身を寄せ、俺は養子として鈴木家に迎え入れられたものの、私塾を潰してしまった不甲斐なさと兄と別れた苦しさに悲観し、酒に溺れた。あっという間に勘当されることとなり、俺は行く当てもなく知人の家に身を寄せる日々だった。
…そんなある日、突然俺の窮状を耳にした兄が俺の前にやってきた。いったいどうして居場所が分かったのかはいまだにわからないが、昼間から酒を飲み腐っていた俺をやや蔑むように見下ろしてため息をついた。
兄がそうやって俺のことを厄介に思っていることは重々承知していたが、この時ほどはっきりとした苛立ちを向けられたのは初めてだった気がする。
「お前は散々迷惑をかけて、家名を汚した。伊東ではなく鈴木を名乗れ。私を兄だと思うのは勝手だが、私は弟だとは思わない」
当然だと項垂れた俺に、しかし兄はそれでも手を差し伸べてくれた。
「近いうちに都へ向かうことになった。人数が必要だ、お前も人様に迷惑をかけるくらいなら一緒に来たらどうだ?」
「え…?」
「嫌なのか?」
兄の問いかけに俺は必死に首を横に振った。
兄とともに居られるならそれがどこであろうと、人数合わせだろうと構わない。行き過ぎた兄弟愛だとしても、兄に認められたい―――今までその一心で生きてきたのだ。
それが実ったのか、兄は御陵衛士として分離してからは他人ではなく弟として扱い、ついには出掛けに『頼む』とまで言われた。これを喜ばないはずがない。
けれど俺の隣を歩く内海さんの顔色は優れなかった。
俺は内海さんに対して一時嫉妬のようなものを感じていた。水戸へ遊学した兄の友人であり、誰よりも長く兄上と過ごし、互いに信頼しあっている。俺は父が亡くなった後、私塾にいた兄を連れ戻すために文を寄越してきたことがずっと引っかかり、ずっと素っ気なく接してしまった。しかし新撰組にいた頃はわからなかったが、御陵衛士となり兄にとって内海さんは欠かせない存在であり、心の拠り所だったのだと気が付いた。家族から離れ、弟と決別し、一人で生きてきた兄にとって寂しさを埋めた大切な友人なのだ。
そう気が付いてからは態度を改めたので、内海さんは俺との旅路を嫌がってはいないと思うのだが。
「あ、」
俺は声を漏らし、山道を抜けて見晴らしの良いところで足を止めた。海とも見違える琵琶湖が良く見えたのだ。
内海さんも足を止めてしばらく無言で絶景を眺め、「少し休もう」と声をかけてきた。早朝に月真院を出て昼前の今までろくに休まずにひたすら歩いてきたのだ。
木陰に腰を下ろし、竹筒の水を飲む。寒さでカラカラに乾いていた喉が潤うが、内海さんは大きなため息をついた。
「…あの、何か?」
内海さんがあまりにぴりぴりして強張っていたので俺は何も問うことができなかったのだが、さすがにこの先もこのままだと気が重い。勇気を出して訊ねてみると、内海さんは硬い表情のまま「すまない」と謝った。空気が張り詰めていた自覚はあったようだ。
「少し…考え事を」
「美濃の件ですか?水野某という男は確かに手強そうですが…」
「いや、大蔵君のことだ」
…少し前から、内海さんは兄への敬語をやめて、昔のように堂々と『大蔵君』と呼び始めた。俺にとっても『甲子太郎』よりも馴染みのある名前だったが、思えば新撰組にいた頃から内海さんは何かと『大蔵君』と呼んでは兄に叱られていた。それにはおそらく一貫した考えや思いがあったのだろう。
「…兄上が何か?」
「様子が変だった。隠し事をしているような…」
「…」
俺は兄にはいつも通り、少し突き放すような対応をされたと思い特に気に留めなかったが、そういわれると『頼む』と言われたのは兄らしくはない気がする。
考え込む内海さんは懐から手拭いを出してジワリと滲む汗を拭こうとする。するとその懐から小さな紙が俺の足元に落ちた。そこには繊細な小さい文字で漢詩が書き留められていた。
「…これ、」
「ああ、すまない。落としたのか」
「もしや『胡隠君を尋ぬ』ですか?」
「知っているのか?」
俺はその漢詩を一目見ただけで、今まで思い出すこともなかった数年前の記憶が蘇った。
「兄上がお好きな漢詩ですよね?」
「…大蔵君が?」
「違いましたか?確かあれは…父上が随分衰弱し、俺が兄上とともに帰郷した時です。亡くなるまで数日間、兄上は父上の傍らでずっと父上の蔵書を読まれていました。父上は寡黙で、書物を読むのが好きで蔵書も多かった。父上は意識が朦朧としながら途切れ途切れに兄上と会話を交わしていましたが、俺には父上は兄上に最後の指南をしているように見えました」
父は兄が帰郷してから意識がある時は昼夜問わず話をしていた。話と言っても意識が混濁して、書物の一節や物語の一部、果てはおとぎ話まで取り留めのないものばかりで俺にはついていけなかったが、父が語るのを兄はずっと辛抱強く耳を傾けていた。今思えば父は遺言代わりに自分の培った知識を託したかったのだろうし、兄もそのつもりだったのだ。
「そのなかで、この『胡隠君を尋ぬ』の話をしていました。父上の話に頷くだけだった兄上が、その時だけは微笑まれていた。『自分も好きだ』と言って『友人が好んでいるのです』とも。父上は『そうか』と喜ばれ、その友人を連れてこいと譫言を言っていました、きっと話が合うと」
「…お父君が…」
「ああ、内海さんのことだったんですか…」
俺は懐かしさで胸がいっぱいになる。
最期の語らいを交わす父と兄の姿は、まるで離れていた時間を取り戻すように穏やかなものだった。あの後四十九日を過ぎても私塾で子弟に指導していたのも父のためだったのだろう。
内海さんは強張った表情を少し緩ませた。
「そうか…ちょうど昨日、大蔵君にお父君のことを聞いた。家族とは距離があったと言っていた…まるで別の場所で生きているようだとも」
「ああ、兄上のおっしゃるとおりかもしれません。生前は寡黙で何を考えているのかわからず…でも優しい父上でしたし、晩年はしきりに兄上が自慢だと言っていました」
父は兄のことを話す時だけは饒舌だった気がする。それは心から誇りに思い、無口でも兄の飛躍を願っていたからだ。
「…そのことを大蔵君には?」
「そういえば機会を逃して、伝えたことはありません」
「伝えてやってくれ。父上は自分には関心がないと寂しげに言っていた…今の話を聞いたらきっと喜ぶ」
内海さんは「そろそろ行こう」と立ち上がって歩き始めた。心なしか、その足取りが軽くなったようで俺は安堵したのだった。






僕が目を覚ますと陽が昇って冬の柔らかな日差しが差し込んでいた。ぼんやりと視線を漂わせると見慣れない人物がいて一気に眠気が飛んだ。
「英さん?」
「…起きた?随分よく寝ていた」
「今朝方、来てくれましたよね?それからずっと?」
「まあね」
英さんはさらりと返答したけれど、彼はまだ助手とはいえ忙しいはずだ。僕は身体を起こした。
「お手を煩わせました。もう具合も良いし、戻っても…」
「こら、横になって。誰が具合が良いって?まだ微熱がある、大人しく医者の言うことを聞くものだよ」
「はあ…」
英さんはやや強引に僕を床に戻し、ため息をついた。
「軽い風邪でも肺を悪くするんだ。今日一日は床を抜け出さないように見張るからそのつもりで」
「でもお忙しいでしょう?」
「忙しい。だから大人しくしてよ」
英さんは頑なに僕の申し出を断り、額の手拭いを替えた。ひんやりとして冷たいがすぐに体温が混じる…確かにまだ微熱があるようだ。
彼は僕の真新しい(使う用事のない)文机に書物を並べて目を通していたようだ。医学書と思われるそれは見たことのない文字や絵図で埋めつくされている。僕が以前、お加也さんから借りたものはまさに入門書であり、彼の難解な書物とは比べ物にならない。
僕がまじまじと文机を眺めていたことに気がついたのだろう。英さんは苦笑した。
「…大変だし、難しいし、疲れるけど、医学を学ぶのは案外悪くない。陰間をやっていた頃には考えられなかったけど、性に合っていたみたいだ」
「松本先生も…そうおっしゃってましたよね」
「そう、あのおっさん、人を聖母だとか何とか囃し立てたくせに南部先生に押し付けやがってさ。…でもこうやってこの世界に身を置くとおっさんの凄さはわかるよ」
英さんははまるで親戚のように松本先生を語るが、その言葉の裏には信頼と尊敬がある。僕はあの日、彼を生かしたことを心底良かったと思いつつ、それがこんな形での再会に繋がる縁を再び実感していた。
英さんは薬を煎じ、それを白湯に溶かした。
「…この薬を飲んで、休んで」
「はい」
僕は少し苦い白湯を受け取ってゆっくりと飲み干した。十分睡眠をとったはずなのにまた瞼が重たくなってウトウトし始める。
「おやすみ」
僕は背中を押されるように、彼の一言で眠りの先へと誘われた。
(聖母って、こういうことかな)
そんなことを漠然と思いながら、僕はまた眠ったのだった。












775 ―春隣4―


俺のような部外者でも新撰組の広い屯所に流れるピリピリとした雰囲気は感じていた。
一度戻って南部先生に許可を取って引き返すと、歳さんは局長さんと難しそうに話し込み、斉藤さんはいつも以上に表情が固い。日が南へ昇る頃になると、広間には隊士達が集まり何となく落ち着かない様子なのだが、この部屋の周りだけが妙に静まり返っていた。
(まるで戦でも起こるみたいだ…)
何かと察してしまう俺へ斉藤さんが何も言わないのは正しい判断だろう。
無関係だと思っていた世の中の『流れ』というものに身を置いているのが何だか不思議だ。けれど、御典医や会津藩医の元で学んでいるのだからこんなこともあると改めて覚悟を決める良い機会になったのかもしれない。
俺は再び目を閉じた沖田さんをしばらく眺めてよく眠っているのを確認し、腰を浮かせた。部屋を出るとすぐそばの縁側に斉藤さんがいた。偶然ではなく、この部屋を監視しているのだ。彼は俺の顔を見ると視線で「こちらに来い」と伝えてきたので、俺は素直に歩み寄る。
「話し声が聞こえたが」
「一度目が覚めたけど、白湯を…漢方を含ませたものを飲ませたら、また眠ったよ」
「そうか」
彼は少し安堵したように息を吐いた。部外者の俺でも何かを感じ取ってしまうような物々しさ…沖田さんなら部屋を出た途端に気がつくだろう。本人の許可なく睡魔を誘う薬を飲ませたのは罪悪感があったが、きっと彼自身のためになる。
俺は斉藤さんの隣に腰を下ろした。
「痛みは?」
「ない」
「そう」
…無いはずはないのだが、言い切ってしまうのは斉藤さんらしい。そう言われてしまうと俺の出番はなくなるのだが、今の彼にとって自分の身体のことなど優先順位のなかで最も下なのだ。
(いじらしいというか、一途というか)
「…なんだ?」
俺の視線を感じたのか、斉藤さんが尋ねる。いつもより鋭い眼光に見つめられ、俺は少し視線を逸らし、漂わせながら
「帰って来られて良かったね」
と口にした。斉藤さんは怪訝な顔をした。
「…どういう意味だ?」
「深い意味はないよ。墓守をしていた時より表情がすっきりしているし、やはりこっちが居心地が良いんだろう?」
「それは…」
「それに沖田さんの傍にいられるじゃないか」
俺は本当に深い意味はなかった。墓守なんて彼には似合わないと思っていたし、病に伏せる沖田さんを大切に思っているなら新撰組に戻りたいと思うはずだ。けれど斉藤さんは重く受け止めたようで
「…間に合った、という意味か?」
と訊ねてきた。俺は最初は意味が分からなかったが、彼には長く離れている間に沖田さんの病は酷く進行したように見えたのだろう。本音では帰還した喜びよりも、突き付けられた彼の死病という現実を目の当たりにして打ちのめされているのかもしれない。きっと何もかも悪いようにしか捉えられないのだろう。
俺はふっと笑った。
「…考えすぎだよ、風邪だって言ったじゃないか。血を吐いて昏倒したわけじゃないし、眠っているだけだよ」
「…」
「先のことを考える過ぎるのは良くないよ。具合が悪くなる。…ほら、よく言うだろう?『足るを知る者は富む』って。…今、沖田さんは生きていて、斉藤さんはまた会うことができた。とりあえずは明日も、明後日もそれを繰り返すことができる…それをただ喜ぶ、そういう心持ちでいないと」
「…老子か」
斉藤さんは少し肩の力を抜いたように息を吐くと、自然と鞘に巻き付いた組紐に指先を這わせた。無意識の癖になっているのだろう、墓守をしている間にも何度かその光景を見た。
そして遠くへ視線をやりながら、その寡黙な口を開く。
「俺は…子供の時から、人というものは生まれた時から、死ぬために生きているのだと悟っていた。死ぬことへ向かって歩き続ける…そんな人生に何の意味があるのかと父に訊ねた記憶がある」
「はは、可愛くない子供だ」
「ああ。さぞ可愛くなかっただろう。だが、父は幼い俺へ真っ当に答えた。…人が生きた先にたどり着くのは死に違いないが、それは苦しみの死ではなく自然へ還るためのものだ。それはまるで母の懐に還るようなものなのだから、死を厭わず生を貴ぶべきだ、と」
「…」
「同じ老子だ。お前の話を聞いて久しぶりに思い出した」
俺には親はいない。それ故に物心ついたばかりの幼子と父親の会話としては随分堅苦しいと思ったのだが、斉藤さんにとっては大切な思い出なのかもしれない。
「お父上は、幼い息子が怖がっていることをわかっていたんだな」
「ああ。それ以来自分が死ぬことに未練はないが…他人が死にゆくのを見ているのは、歯がゆいものだな」
「…気持ちはわかる」
医者として自分の無力さを実感する機会は何度もあった。いっそ自分の身に降りかかるのならその方がマシだと思えるくらいに心の中が澱み、腐り、最後には消えていく。忘れ去られていく…その繰り返しでこの世界は成り立っている。
「でも見届けるべきなんだよ。見届けすらされない死は、きっとこの世で一番虚しいんだ」
「…」
斉藤さんは何も答えなかった。
俺は曇り空から気まぐれのように降ってくる雪を眺めていた。
地面に薄く積もった雪はこのまま溶けることなく夜を迎えることだろう。





山崎組長の声掛けで広間に集まった俺たちは、近藤局長と土方副長がお出ましになるまで待つように伝えられた。それがいつになるのか分からず、隊士達は身構えていたが、入隊して間もない俺たちは特に落ち着かなかった。
「なぁ、相馬。ついに戦か?」
同じ一番隊の野村が声を抑えつつ興奮気味に尋ねてくる。俺は「黙っていろ」と言いつけて周囲の顔色を窺った。組頭は皆硬い表情で居並び、お喋りな原田先生でさえ口を摘んでいる。その次に揃う島田伍長をはじめとした古株の隊士たちはこの緊張感に覚えがあるのか、表情が引き締まりただ無心に局長たちを待っていた。そわそわと視線を漂わせるのは俺たちのような平隊士だ。
俺は深呼吸し、その時を待つ。時間が経つのがこれほど遅いのかと感じるほどに空気が重たいなか、野村は「なあなあ」とまだ黙らずに俺に囁く。
「お小姓のお子様たちは?」
「…今回の作戦には加わらないと聞いている」
「へえ、お留守番か。武功を挙げられなくて残念だな」
「彼らは仮同志、つまり非戦闘要員だ。たとえ戦が起こっても前線には出ない」
「ふうん、実際戦になってもそんなこと言ってられんのか?」
「…知らぬ」
俺は話を切り上げた。野村は遠慮のないお調子者で気が合わないが、妙に冴えたことを口にすることがあってなかなか放っておけないやつだ。先日の副長の別宅襲撃の時も持ち前の勘を働かせて活躍したことで見どころのある隊士として一目置かれているが、本人はそれを鼻にかけることなく気楽な態度だ。
それが羨ましいような、疎ましいような…俺は複雑だった。
そんなことを考えていると近藤局長と土方副長が広間にやってきて、隊士たちは揃って頭を下げた。局長は普段は柔和だが、今日は迫力のある表情を浮かべており自然と皆も力が入る。
そんな局長の傍らへ控えた土方副長が口を開いた。
「本日、暮れ六ツ、酉の刻。近藤局長の醒ヶ井妾宅にて御陵衛士、伊東大蔵を招き酒宴を催すこととなった。万一に備え、妾宅及びその道中の警備を行う」
野村が「ただの警備か」と聞き流す一方で、ごくり、と誰かの喉が鳴った気がした。野村の言う通りただの警備の任務ならこれほどまでの緊張感が漂うはずはない。それは他ならぬ副長が一番の殺気を漲らせているせいだろう。
副長は強い口調で続けた。
「御陵衛士は我々と協力関係にありながら、薩摩と内通し、土佐の坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺犯として新撰組を名指しした。挙句の果てには局長襲撃を計画し新撰組を敵とみなしている。…今宵の酒宴はあくまで時勢を語らうためのものだが相手が何を企てているのかわからぬ。ゆめゆめ油断なきように務めを果たせ」
「ハッ!」
俺は周囲に倣って頭を下げた。近藤局長が「よろしく頼む」と重々しく告げて二人は再び去っていく。
その場はようやく緊張感から解き放たれ、数名の隊士たちが山崎組長に呼ばれた。その者たちは抜きんでて優秀な先輩隊士で、(あの人たちが妾宅の警備に付くのだろう)と思った。俺たちは道中の警備にあたることになるのだろうか。
「なんだか迫力があったな」
そう声をかけてきたのは二番隊隊士の柴岡さんだった。彼は同じ頃に入隊したが、剣の腕に優れ早く昇格していた。総髪が多い新撰組の中で月代を奇麗に反り上げている。
「すでに協力関係が破綻していると聞きます。衛士たちが弓引く可能性は大いにあるのでしょう」
「武功を挙げる良い機会だ」
話に割り込んできたのは、同じく入隊したばかりの三浦さんだ。俺よりも一回り年上の壮年の隊士で、槍をよく使う。柴岡さんとは正反対に乱れた白髪を適当に纏めている。
「武功…ですか。しかしいま、新撰組にとって争いになるのはあまり賢明なこととは…」
「難しいことはわからん。ただ生き延びるまでよ」
「はあ…」
割り込んできたのに俺の話を遮って三浦さんは去っていく。不都合なことに耳を貸さないのは彼の年齢なら仕方ないことだが、柴岡さんとともに顔を見合わせてため息をつくしかない。しかし実際、三浦さんのように入隊したばかりの隊士たちが、ついに見せ場が来たと意気込んでいる姿がちらほら見えた。
(そう簡単なことではないと思うのだが)
俺は野村に視線をやった。彼も三浦さんのように乗り気なのかと思ったのだが、柱を背にして物憂げに考え込んでいるだけだった。その表情はみたことがないほど真摯で様になっていて、俺はしばらくじっと見つめてしまう。
(掴めない男だ…)








776 ―春隣5―


俺は組頭である、永倉、原田、井上、山崎を近藤先生の部屋へ呼び最後の確認を行なった。念の為、計画には参加しないが斉藤も同席させた。
「口が堅く信用できる精鋭を大石に同行させ、妾宅の警備につかせる。手筈は既に大石に任せているから問題ない。俺は妾宅の近藤先生とは別室に控えて様子を伺い、臨機応変に指示を出すつもりだが基本的には計画を変えずに遂行する」
「伊東は護衛を連れてくるのか?」
永倉の質問に俺は「わからない」と答えた。鈴木、内海の不在は確認しているが御陵衛士には手練れが多い。
「伊東は無策のまま会談に臨むような質ではないだろう」
「だったら俺も醒ヶ井に行かせてくれよ」
原田が名乗り出た。しかし妾宅付近の警備とは『伊東を確実に殺す』ための陣営である。俺は当然首を横に振った。
「ダメだ、今更計画を変更するわけには…」
「俺ァ、芹沢の時も同行したぜ?」
その言葉に俺は息が止まった。近藤先生もごくりと息を呑んだ。
原田は挑発的に口にしたのは、もう遥か昔のことに思える八木邸での惨事だ。あの時は永倉と井上は同行しなかったが、当然事情は察知していたのだろう、複雑な表情を浮かべて視線を逸らした。
俺は「それとこれで話が違う」とさらに拒んだが
「いや、土方副長。左之助を加えてやってくれ」
とそれまで黙っていた近藤先生が申し出てきた。
「しかし…」
「どんな状況に陥るかわからぬのだ、屋内で有利な槍を良く遣える者がいると心強いだろう」
近藤先生の言うとおり、妾宅付近の警備にはもう少し人員を追加したいところだったのだが、気の短い原田に務まるのだろうか。
しかし原田は
「俺は伊東から暗殺犯だと名指しされてんだ。奴に一泡吹かせねぇと気がすまねぇよ」
と気色ばんでいるのでもう歯止めはきかないだろう。俺は渋々受け入れて、後方の支援には永倉と井上を配置した。
そして最後に念を押した。
「伊東を殺し、その遺体を引き取りにきた御陵衛士を殲滅する。…見知った顔はあるだろうが、手加減は無用だ。奴らは局長を暗殺し、新撰組を陥れようとする敵に違いない。御陵衛士はこのままにしておけば必ず新撰組の障となる」
藤堂だけに限った話ではなく、半年前まで寝食を共にした同志であったのだ。気が進まないだろうが、もう後戻りはできない。
俺は覚悟を持って、この茨の道をまた突き進むと決めたのだ。

「副長、宜しいですか」
場が解散となり、部屋に戻る途中で斉藤が声をかけてきた。彼の深刻な顔を見て(長い話になりそうだ)と予感した俺は、人気の少ない客間に誘って向かい合う。
「なんだ」
「今回の件、やはり俺も加えていただけませんか?」
「何故だ?」
先日怪我を負った斉藤には作戦の立案だけ任せて、実際には屯所に留まるように指示を出した。本人も納得しているようだったのだが。
「待っているのは性に合いません。沖田さんのことは英に任せられます」
「ダメだ。今回は万全の体制で臨むと言っただろう」
「しかし」
妙に食い下がる斉藤へ
「お前が責任をとらなくて良い。どんな結果になっても全ては俺と近藤局長の決めたことだ」
と俺は告げた。立案した斉藤にとって作戦を見届けないことが気掛かりで心苦しかったのだろう、斉藤の表情が変わった。
「責任感ではありませんが…」
「だったら言い渡していることを最後まで遂行しろ。何が起こるのかわからないのだから部外者の英に任せるな」
「…」
いつもなら「わかりました」と承服するはずの斉藤がまだ食い下がろうとしている。俺は、
「何かあったのか?」
と尋ねた。斉藤は道理がわからないはずがない。
すると斉藤は突然、居住まいを正して頭を下げた。腹を折る体勢になり傷口に障るはずだ。
「おい…」
「申し訳ありません。…昨日、藤堂に会いました」
「…平助に?」
俺は驚いた。
斉藤は死んだものとして敢えて新撰組から噂を流している。それは本人もわかっているはずで、姿を現したら作戦は水の泡となる。いつもならカッとなって「何を考えている!」と怒鳴りそうな身勝手な行動だが、賢い彼もそれを覚悟して頭を下げているのだと思うと、
「何故だ?」
とその理由の方が気になった。
「…藤堂を巻き込みたくないと思ったからです」
「永倉や左之助ならまだしも、お前が?」
「…沖田さんに頼まれました」
斉藤がようやく白状し、俺は納得する。斉藤と総司のある意味での忠誠心に近い深い関係があった上で、そのような頼まれごとをすると彼は動かざるを得ないのだ。きっと総司は自覚していないだろうが。
俺は深いため息をついて「頭を上げろ」と言って、改めて斉藤と向かい合う。
「…何を話した?」
「全てです。伊東が何をしたのかということも、俺が間者であったことも、これから起こるであろうことも…身を隠すべきだと告げました」
「…平助はなんて言ってた?」
「話は信じたようですが、そのつもりはないとあしらわれました」
「…」
平助の頑なさを考えれば当然の返答だが、伊東の悪どさを知れば彼が考えを変えるのではないか、と俺は少しだけ期待していた。けれど、平助が選ぶのはやはり伊東なのだ。
「…余程、嫌われたらしい」
俺は苦笑するしかない。
当然だ、平助は山南さんが死んだ時からずっと苦しんでいた。どうにか溺れないように心を押さえつけているだけで、それも限界がきた。そしてもがいてもがいて掴んだ手が、俺たちではなく伊東のものだったのだ。
(俺は引導を渡した)
伊東について行きたいなら好きにすれば良い、その代わり仲間ではないーーーそんな風に切り捨てることでしか見送れなかった。挙句に昏倒した総司を助けても尚、藤堂を突き放してしまった。
しかし、斉藤は淡々と
「そういう風には見えませんでした」
とはっきり否定した。
「月真院にいた時、確かに蟠りはあるようでしたがずっと仲間のことを気にしていました。新撰組を揶揄する衛士達の中にも決して加わらなかった。昨日も…局長に感謝し、皆には宜しくと言って笑って別れました」
「…」
「藤堂は作り笑いができるような男ではありません。あれは本心です」
斉藤が淀みなくそう言ったので、俺にも笑顔で手を振る藤堂が想像ができた。
確かに彼との間に乗り越えられない亀裂があった。互いに行き違いもあった。
けれど藤堂が変わったわけではない。試衛館の末っ子で皆に可愛がられ、冗談を口にして楽しませるような、誰からも好かれる男だった。
(殺して…良いのか?)
俺は、試衛館にいた俺に問いかける。
これ以上、あの楽しかった思い出を汚す必要があるのか?つまらない意地や見えもしない建前のために、仲間と過去を消し去るのか?
俺は無意識に頭を抱えていた。ずっと見て見ぬふりをしていた本心によって、今更心を蝕むような苦々しさを感じる。
そんな俺に斉藤は続けた。
「俺はこの作戦が失敗なく遂行されると思っています。新撰組の一員として御陵衛士が壊滅されることに責任は感じません。…ただ半年、共に過ごした者として、そして間接的にとは言え手を下す者として、彼らの死を見届けたいと思ったたけです」
斉藤はそう言い残すと俺の返答は聞かずに「失礼します」と去っていった。





大津を手前にした宿場町に辿り着き、茶屋の縁台に腰掛けて休んでいると、突然俺たちの前に一人の小男が現れた。乱れた身なりと土埃まみれの手足、深く被った頭巾で表情は伺えない。俺は物乞いかと思い「あっちに行け」と手で払ったが、内海さんは顔色を変え身を乗り出して
「どうした?!」
と声を上げた。
「知り合いですか?」
「月真院の近くに潜ませている小者だ。動きがあった時に知らせるように伝えていた」
内海さんは早口で答え、小者に「何があった?」と問い詰める。
「篠原殿と加納殿に伝言を頼まれました。急ぎお戻りください」
「伊東先生に何かあったのか?」
「新撰組からの招きで会談が。伊東殿は応じられました」
「何…?!」
「兄上自ら?!」
寝耳に水の話に内海さんは青ざめて、俺は湯呑みを落とす。
「いつだ?!」
「今宵、酉の刻です」
「…ッ、鈴木君、戻るぞ!」
「は、はい!」
内海さんがそのまま駆け出してしまったので、俺は金を置いて慌てて追いかける。小者は詳しい事情は知らず「とにかく早く戻るように」と託けられたらしく、俺たちの焦りは募る。
(兄上は会談のことを隠して俺たちを送り出したのか…!)
内海さんが感じていた兄への違和感の正体はこのことだったのだ。兄は信頼している内海さんを遠ざけて新撰組と対峙しようとしている…きっとそれは命懸けの行動だ。
『頼む』
そう口にした兄は一体どんな気持ちだったのか。最後の別れのつもりの一言だったのではないだろうかーーーそう考えるだけで目頭が熱くなる。
(でも俺は、もっと話したいです…!)
血のつながらない、出来損ないで、足を引っ張るだけだったかもしれないけれど。
―――まだ、兄上と呼びたい。
俺はその一心で元来た道を戻っていた。










777 ―春隣6―


夏の終わり。
僕は太鼓のバチを持って、つまらなそうにそのフチをカッカッと叩いていた。少し甲高い音は周囲の騒がしさに紛れて消えてしまう―――近藤先生の襲名披露は互いの額につけた『かわらけ』を割りあう試合が行われ、盛り上がりも最高潮を迎えていた。
塾頭として太鼓役を言い渡されていた僕は、ため息をつきながら試合の経過を見守っていた。始まりを告げる最初の音くらいまでは皆注目していたが、いまや太鼓の音など雑音と同じで誰の耳にも入っていない。子どものように拗ねてしまった僕に近藤先生は
「おい、総司」
と、太鼓を叩くように促したけれど「だって」とこれじゃあ叩いても意味がないと言い返すと、苦笑するだけだった。
僕はバチさえ手放して近藤先生の隣で見物することにした。天然理心流の門弟が集まり、試衛館の食客たちが率いる…普段は各々が勝手気ままに稽古をするだけで、食客たちの本気の表情を見たことがなかったので、とても新鮮だった。
「やっぱり山南さんと永倉さんは剣筋が整っているなぁ。原田さんは我流だけど皆んなを蹴散らしてる」
流派にこだわらず集まった剣客たちはなぜこんな田舎剣法の貧乏道場に集まってしまったのだろう。
まるで運命に引き寄せられたみたいだ。
「あ、藤堂くんだ」
魁先生の気合が聞こえる。小柄な体のどこからそんな声が出てくるのだろう。竹刀を手にとても楽しそうに駆けまわっていた。

(…ああ、これは夢だ)
僕は気が付いている。これは過去であり、夢であり、幻であり、記憶でもある。まるで死に際の走馬灯のようではあるけれど、恐ろしさよりも懐かしさが勝り、僕は身を委ねることにした。

場面はがらりと変わり、漆黒の夜…懐かしい八木邸の庭に雨が降っていた。鼻腔を掠める血の匂い―――この場所では何人か死んでいるけれど、やはりこれは芹沢先生とお梅さんの血だろう。雨と一緒に僕の腕に伝い、流れていく。
(僕は殺したくなかった)
横暴で、乱暴で、手が付けられないほど我がままで…でも武士として強く振舞う姿が凛々しくもあり頼もしくもあった。嫌がらせも散々受けて憎いと思ったこともあったというのに、殺した後も「殺したくなかった」と思える自分が不思議だった。
でも一方で、僕が殺すべきだという気持ちもあった。芹沢先生もそう望んでいて、僕が選んだのだから後悔はしなかった。
その日から、何もかも始まった気がする。
僕は自分の選択を信じて何人もの敵と同志を殺してきた。
苦しかったこともある。悲しかったこともある。迷ったこともある。
でも太鼓役だった襲名披露の時みたいに、無関係な立場で日和見することはできなかった。僕は先生や土方さんの役に立ちたかったから。

―――にゃぁん
猫の鳴き声がする。
そうだ、芹沢さんを暗殺する前に黒猫が屯所にやってきた。時間を持て余していた時に猫じゃらしで遊んだっけ?それから…そうだ、山南さんの時にも同じ猫が目の前に現れた。黒猫は不吉だとかそんな迷信を信じるつもりはないけれど、あの猫は誰かの死とともにやってきたのだ。
本当は…山南さんを介錯したことだけはまだうまく呑み込めない。藤堂君の前では『自分が殺した』『自分が救えなかった』と毅然と言ったけれど、本当は『僕は殺していない』『介錯なんて引き受けたかったわけじゃない』とどれだけ叫びたかったことか。
でもそんなことは言えない。これは僕が背負うと決めたことだから。
僕が引き受けたことだから。

―――にゃぁん
また猫は僕の前に現れるのだろうか。
運命は、いつも偶然と必然が重なっている。
だからきっとこの先も―――僕らは猫みたいに、気まぐれな偶然に翻弄されるのだろう。





俺が総司の自室に足を向けると、部屋の前に英がいた。英は柱を背にしてもたれかかり書物を手に目を閉じている―――朝早くから呼び出して見張りの真似事をさせているのだ、疲れていて当然だろう。眠る姿にはかつて色香が纏う売れっ子の陰間だった面影は確かにあるけれど、健全な麗しさへ昇華された気がする。
すると彼はすぐに目を開けて俺に気が付いた。
「…ごめん、寝てた」
「謝ることはない。お前は隊士じゃない」
「まあ、そうなんだけど…なんだ、もうこんな時間か」
英は空を見上げて大体の時間を察する。雲に隠れた日の光は薄暗く辺りを照らしている。
「総司は?」
「そろそろ起きる頃だと思う」
「そうか…」
もうすぐ出立の時間だ。俺は総司の顔を見て行こうと思ったのだが、起こすのは本意ではない。躊躇っていると
「腹が減っているだろうから、粥を準備してくるよ」
と英が気を利かせて去っていく。相変わらず察しが良い、賢い男だ。
俺はそれでも部屋に入るのを迷ったが、ここで立ち寄らなければ後悔する気がしてゆっくりと襖をあけて中に入った。火鉢が焚かれた温かい部屋で総司はまだ目を閉じている。俺は起こさないように衣擦れの音まで気を使って、彼の傍に膝を折りその寝顔をのぞき込むと、寝顔は穏やかだったがちょうど目尻から一筋の涙が零れた。
(悪夢でも見ているのか?)
無意識に総司の頬へ伸びた指先を、咄嗟に引っ込めた。そして再び総司の寝顔を眺めることにする。
(俺も悪夢を見ている気分だ)
この数日、事態は急変し続けた。
きっかけはやはり別宅への襲撃で、頭が沸騰したかのように怒りに支配された。そして近藤先生がいまだに狙われていることで早く手を打たなければならないと決意した。そして土佐要人の暗殺犯に名指しされ、美濃へ援軍を求めている…悠長にしている暇はなく、この作戦の決行を決めた。
食客たちが藤堂のことを気にかけているのはわかっていた。けれど、私情に囚われて迷うことは命取りになる。歯向かうものは切り捨てる…それがたとえ昔なじみの藤堂だとしても敵であるのだとそれ以上、考えるのをやめた。
それなのに。
『局長に感謝し、皆には宜しくと言って笑って別れました』
斉藤の話を聞いて
(…俺はまた同じことを繰り返すのだろう)
と愕然とした。
山南さんもそうだった。自分が切腹を言いつけられても、仲間を責めることなく自分の運命を受け入れて微笑みながら去った。藤堂はその場にいなかったが、きっと同じ境地にたどり着いているはずだ。
山南さんの死は皆に痛みを遺した―――また同じ痛みを繰り返すことになるのだろうか。
繰り返しても良いのだろうか?
またあの悪夢を…。
「…あれ…」
「起きたのか?」
総司は目をこすりながら「どれくらい寝てました?」と訊ねる。
「もう夕刻だ」
「そんなに寝ましたか。でも、なんだか…長い夢を見ていた気がします」
総司は体を起こし軽く背伸びをした。また瘦せたが顔色は良い。しかし目は虚ろでぼんやりとした顔をしていた。
「でも不思議なことに、まだ眠たいんです。お腹はすいてますけど」
「英が粥を作りに行った。もうそろそろ戻るだろう」
「さすがお医者様だなぁ、患者の腹の具合まで、なんでもわかるのかな」
総司は屈託なく笑い、俺もつられて口元が緩んだ。
「どんな夢を見ていたんだ?」
「えぇ?そんなことを歳三さんが聞くなんて意外だな。…でもあんまり覚えていないんです、襲名披露の時のことだと思うんですけど」
「襲名披露?」
まさかそんな昔のことだとは。しかし総司は「懐かしかったな」と嬉しそうだ。
「皆は額にかわらけをつけて本気で戦っていたのに、太鼓役だったから参戦できなくてつまらなくて…実は未練が残っているのかも」
「塾頭の役目だったんだから仕方ないだろう。お前もくどいな」
「だって皆、楽しそうだったから」
俺の頭の中にあの時の記憶が鮮明によみがえる。襲名披露という一生に一度の晴れの舞台、誇らしげに中心に立つ近藤先生と、祝いの席に花を添えるべく門下生を引っ張る食客たち…
「…確かに、楽しかったな」
素直に認めるしかない。もしかしたらあの時、あの瞬間は幕臣に昇進した時に勝る、無垢の喜びに満ちていたような気がするのだ。
(これだから、過去を振り返るのは嫌いだ)
仲間を失った…今よりも楽しかった、と思うのは当たり前なのだから。
「あ、降ってきた」
総司が声を漏らす。その視線は庭へ向いていて、降り始めた雪に気が付いたらしい。寒くては体に障るだろうと思うのだが、総司は童心に帰るように「明日には積もりますね」と嬉しそうだ。そしてついでのように
「それで、何かお話があったんですか?」
と訊ねてきた。
「いや…様子を見に来ただけだ」
「そんな深刻な顔で?」
「…」
そんなつもりはなかったのだが、無意識に表情が強張っていたらしい。俺は「もともとだ」と誤魔化すと、総司は「そうですけど」と否定はしなかった。
俺は総司の手を自分のそれと重ねた。温かいが薄く骨ばった指先が病の深刻さを顕しているようで少し胸が痛む。
「…土方さん、ここのツボ知ってます?この間、お加也さんに教えてもらったんですけど、気持ちが楽になるそうです」
「楽に?」
「疲れているでしょ?…きっと御陵衛士のことで大変なんじゃないですか?」
「…」
総司の柔らかな物言いでは詳細まで把握しているとは思えなかったが、俺は罪悪感を覚える。総司は斉藤に『藤堂を助けてほしい』と頼んでいたのだ。
「…お前は気にしなくて良い。明日の朝まで英には付き添ってもらうように頼んでいる…何かあったらすぐに言え」
「土方さんは何か用事でも?」
「ああ…今晩は近藤先生の妾宅に行く」
「わかりました」
総司は何の疑いもなく微笑んだ。俺が近藤先生の妾宅で話し合いをするのは珍しくはないが、この部屋を出れば隊士の多くが出動して屯所が閑散としていることに気が付くだろう。そうなれば勘の良い総司は察するに違いない。
「…お前は新撰組が好きか?」
俺は総司の手を握りながら訊ねた。総司は呆けた顔をしてなぜそんなことを聞くのかと首を傾げた。
「当たり前です。好きじゃなきゃ残りたいなんて言いませんよ」
「試衛館で太鼓を叩いている方が気楽だったはずだ」
「気楽だけどきっと面白くはないですよ。大変なことは多いけど、新撰組は近藤先生と土方さんが作った家ですから」
「…家、か…」
そこまで穏やかな場所だとは思わなかったが、幼い頃に家を出た総司にとっては『家』という響きは大切なはずだ。
(ここがお前の家だとしたら、守るのは当然だな…)
「…お前の傍は温かいな」
総司の隣にいると、どんなに外が寒くても雪が降っていても温かい春の陽気のようなものを感じる。
俺は総司の指を絡ませながら、そのまま首筋に手を伸ばして軽く口づけた。柔らかで火照った唇から伝わる愛しさが、冷たく凍った心を溶かしていくようだ。
(俺は…もう少し、人に戻っても良いのかもしれない)
怒りや憤りはある。けれどそれ以上に情がある…それは人として仕方ないことだ。そんな自分を少しは許しても良いのかもしれない。
そんなことを思っていると英が粥を乗せた盆を持って帰ってきた。俺は「じゃあな」と総司に別れを告げて、英では視線で頼むと伝えた。英は軽く頷いてすぐに医者の顔に戻る。
俺は部屋を出た。するとすぐ近くに斉藤が控えていた。
「斉藤、俺が見届けるから安心しろ」
斉藤は虚を突かれたように一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの無表情に戻って
「わかりました」
と言った。
俺は彼らに背を向けて、近藤先生の妾宅へ向かったのだった。









778 ―桜蕊1―


出立の時間になった。
近藤との面会を告げ、意見のある者は自室へ来るようにと話すと藤堂君の後しばらくして篠原がやってきた。柔術を極めた彼は体格が良く、その来歴も豪胆で江戸にいた頃は異国人相手に騒ぎを起こしていた。彼と私はその頃に友誼を結んでいるので彼の性質はよく知っていた。
皆の前では敬語を使うが二人きりになると彼は強気に意見する。
「皆は反対だ。近藤局長は根っからの徳川の家臣…今更、こちらの説得に応じて勤王に鞍替えするなどあり得ぬ」
「…そうかもしれない。しかし今の徳川の長は一橋慶喜だ。近藤は一橋公の手腕には疑問を持っていた。…私は話が通じると思うが」
「絶対に無理だ」
篠原は腕を組み、私を強く見据えた。
慣れない者は怯んでしまうような威圧感を覚えるだろうが、私は慣れている。
「…無理でも応じねばならないんだ」
「では何故一人で行くのだ」
「そういう約束だからだ。互いに一人で秘密裏に会う」
「新撰組がその約束を守ると?数人で待ち伏せされているに違いない。美濃からの援軍を待つためにも今回は断るべきだ」
「断ればかえって争いを招くと言っただろう?」
篠原は矢継ぎ早に強気な意見を投げかけるが、私は応じなかった。篠原は皆の総意だと言わんばかりだったが私を論破できていない。
すると篠原は私の頑固さに盛大なため息をついた。
「やはり、内海を呼び戻して正解だ」
「…呼び戻した?」
「服部と相談して小者をやって引き返すように伝えさせた。もうそろそろ帰路についているだろう。代わりに阿部を美濃へ行かせた」
「…」
予想外の展開に私は驚く。それでも内海は間に合わないはずだが一気に気が急いた。
「…篠原、そろそろ出立の時間だ」
「本当に行くのか?伊東、分かっているのだろう?危険な賭けだ」
「そうでもない。私はうまく行くと思う」
私は敢えて微笑んで余裕を見せると、篠原はもう言葉がないのか舌打ちする。
「…皆で力づくで止めることもできるんだぞ」
「約束を反故にするわけにはいかない。…篠原、皆の心配はありがたく思っているよ。私に何かあったら、皆と薩摩藩邸に逃げ込んでくれ」
「薩摩?まさかそんな話がついているのか?」
「…万が一の時だ」
そこまで周到に立ち回っているわけではなかったが、立場の曖昧な土佐よりも新撰組を厭い手出しさせない薩摩の方が身の安全は確保できるだろうと踏んでいた。
篠原は身の安全を確保できているとわかると、一応は納得したようだった。
「…危険を感じたら引き返す。そう約束してくれ」
「分かった」
私は即答した。そのくらいの約束で了承してくれるのなら簡単だと思ったのだ。
篠原は眉間に皺を寄せて
「俺は戦支度をする」
と厳しい表情のまま去って行った。
私は小さく深呼吸し、改めて文机に向き合った。書き終えた文を丁寧にたたんで花挿しの下に敷いた。
これは文であり、残し置く伝言でもあり、遺言でもある。
菊の花が花弁を散らした。
(不思議と、心が静かだ…)
敵を前に波打つものが何一つない。
篠原たちが言うように危険で勝率の低い賭けに違いないのに、私はまるで少しだけ外出するような心持ちだ。
(内海…どうか、間に合ってくれるな)
私はそう思いながら衣紋掛けの羽織に袖を通して身支度を整える。刀を差して外に出ると身震いがするほど冷たい風が吹き、地面は一部凍っていた。私の吐く息は白い風となって天へ舞っていく。
「先生」
「…藤堂君」
彼はいつからそこで待っていたのか、頬が赤く染まっていた。
「先生、俺もお供します」
「…そういうわけにはいかない」
「近藤先生は俺なら許してくれますし、無茶はしないはずです」
「…」
それは確かに悪くない手かもしれない。私は愚かではない、きっと妾宅には近藤だけでなく少なくとも土方は控えているはずだし、藤堂君を連れて行っても同じ食客なのだからさほど非難されないだろう。
しかし私は首を横に振った。
「君は皆と待っていてくれ。必ず良い知らせを持ち帰る」
「…わかりました」
藤堂君は聞き分け良く頷く。私がそう答えることをわかっていたかのようだった。
そして彼は言った。
「先生、必ずお帰りください。俺、まだ先生に教えてもらいたいことがたくさんあります」
寒さの中で少しだけぎこちなかったけれど、彼は笑った。朗らかな笑みだった。
私は彼の笑顔にいつも罪悪感を覚えていた。心酔する山南総長を陥れ、都合よく利用し、騙してきたのに、それでも信じると言った彼が眩しくて仕方なかったからだ。
この期に及んで、彼に懺悔してしまったのは私の弱さだろう。
けれど今は違う。彼の信頼が嬉しく彼の期待に応えたいと思う―――同志として、君を頼りにしている。
「ああ、必ず」
私は頷いて歩き出す。
月真院の門では衛士たちが揃って見送ってくれた。篠原はいまだに厳しい顔をしていて他の衛士にその緊張が伝わっているようだった。
「行ってくるよ」
私は努めていつも通りに気軽に手を振った。
もうここには戻らないかもしれないなんて、そんなことは微塵も思わなかった。私には私についていくと決めて命の危険を冒してまでともに歩んできた同志がいる。彼らを置いてどこへ行くというのか。
(君達のために私は行く)
月真院を出て踏み出した。凍り始めた土には私の足跡がはっきりと刻まれたのだった。





醒ヶ井にも雪が降っていた。
「伊東さんは来るだろうか」
約束の刻限が迫り、俺は別室で控える歳に声をかけた。歳も手持無沙汰なのか、いつもは気にも留めない細かな刀の手入れを続けていた。
「来ると言ったからには来るだろう。監察からもう月真院を出たと報告が上がっている」
「…気が変わって引き返すかもしれないだろう」
「そうかもな」
歳は聞き流すように適当に相槌を打った。
伊東さんを招くことは孝に伝えているが、当然その内容は伏せている。ただの宴会だと思っている孝は(何故そんなに落ち着かないのか)と言わんばかりに不審がっていたので、ボロを出す前にこうやって歳に吐き出しているのに、相手にしてもらえないと余計に気が急いてしまう。
俺は腰を据えて歳の前に座った。
「…なあ、伊東さんがきたらお孝にはおみねさんとお勇のいる隠れ家に戻ってもらうのはどうだ?」
「ダメだ。お孝には酌をさせる。警戒している伊東を良い気分にして飲ませねえと」
「しかし…」
「安心しろ。伊東が抜かない限りは、この妾宅が修羅場になることはない」
「なら良いのだが…」
俺は深く深呼吸する。
妾宅では数名の監察方と山崎君が目を光らせている。当事者の俺ですら彼らがどこへ配置されているのかわからないが、知りたいとは思わない。歳の采配なら万事上手くいく。気がかりと言えば屯所のほうだけだ。
「…総司には勘づかれなかったか?」
不動堂村の屯所には僅かな隊士と小姓たち、斉藤君と総司を残している。まだ事情のわからぬ小姓たちにはやや大袈裟に「敵襲に備えておきなさい」と伝えたが、総司だけは一切今晩のことを知らせていない。それは総司の体調のことを思えば当然のことだった。きっと耳に入れば刀を携えて現場に駆け込んでくるに違いないのだ。歳も同じ気持ちだ。
「ああ。昔の夢を見たと話していた。襲名披露だとかなんとか…」
「襲名披露か。懐かしいな」
「太鼓役のことをいまだに根に持っていた」
「はは、あの時も随分駄々をこねて嫌がっていたなぁ…」
随分と懐かしい話に俺の気持ちは緩む。
あの時はまさか幕臣にまで出世するなんて思わず、何者でもない自分が何かになりたくて、どう足掻いても何も掴むことができなくて…毎日を懸命に生きていた気がする。
(でもそれは今も変わらないな…)
未踏の地を歩むような緊張感…そして出世し配下を持つ身としての責任感。
(俺はどうしても新撰組を守りたい。たとえ一度友誼を結んだ相手であっても…許せぬことは許せぬ)
長州処分への建白、別宅への襲撃、土佐要人暗殺の冤罪…御陵衛士が新撰組に害をなすのならどんな情もかなぐり捨てて彼らを排除すべきだ。
…俺が少し黙り込んでいると、歳が呟くように言った。
「新撰組は総司にとって『家』だそうだ」
「…家、か…」
それは存外暖かな響きを持っていた。都にやってきて五年ほど、その間総司は一度も帰郷することなく過ごしてきたのだ。総司には帰る場所はそこにしかない。
「俺にとっても同じだ」
俺が応えると、歳は頷いた。
「…とにかく、総司のことは心配ない。英がよく眠れるように漢方を含ませた薬を飲ませているそうだし、いざとなれば斉藤がうまくやるだろう」
「そうか。英君か…彼には世話になったなぁ。もともとお前とは因縁の相手だし、一時は間者の真似事までしていたのに、今や総司の立派な主治医だ。人ってのは変わるよな…?」
俺は暗に平助のことを滲ませつつ、歳に問いかけた。左之助や永倉君には万が一の時は彼を逃がすようにと伝えているが、歳は表面上は約束してくれたもののその気はなさそうだと思っていた。
俺の言葉の意図を察しきっと「馬鹿を言うな」と叱られると思ったのだが、歳は
「そうだな」
と嫌味のない返答をした。
「そうだなって…」
「この計画を遂行する条件は平助を逃がす約束だろう?絶対に上手くいくとは言えないが」
「いや、その…歳は気が進まないのだろうと思っていた」
「まあな…」
歳が何か言いかけたところで、玄関の方から物音がしてお孝が顔を出した。
「旦那様、伊東様がいらっしゃいました」
「…ああ、ご案内してくれ」
そう返答しながら俺は俄かに緊張する。しかし歳は「しっかりやれ」と言わんばかりに俺を見据えた。
俺は重たい腰を持ち上げて部屋を出る。また深い深呼吸をして決意を新たにするのだった。










779 ―桜蕊2―


伊東が来た―――。
戦の狼煙が上がったような緊張感は一気に伝播して、近藤局長の妾宅に潜む全隊士が感じ取っただろう。
俺はこの作戦を率いる立場として会談が行われる客間へ一番近い土間に身を潜めていた。俺の存在は妾であるお孝殿も気づいていないはずだが、北辰一刀流と神道無念流を修めた剣豪である伊東なら気がついてしまうかもしれない。そう思うとその気配だけで無意識にごくり、と息を飲み込んでいた。
俺は薄目でお孝殿に導かれ客間に入っていく伊東の姿を確認した。新撰組に在籍していた時と同じ、涼しげで麗しい整った顔立ちだ。しかし我々ほど構えているというわけではなくごく自然で、お孝殿にも丁寧に接し穏やかな様子だった。
(まさか本気で、ただの会談だと思っているわけはないだろうが…)
伊東の真意を図りかねつつ、俺は二人の会話に耳をすませた。
「お寒い中、おこしやす。近藤はすぐに参ります、ゆっくり待っとぉくれやす」
「お気遣いなく。…そういえばお子がお生まれになったそうですね、めでたいことです」
「おおきに。旦那様に似て活発な子で…今日は親戚の家に預けとります」
「そうですか」
…伊東とお孝殿の会話はまるで世間話のように安穏としている。伊東が突然刀を抜き、お孝殿を人質にする…ような野蛮な展開にはならないだろう。
俺は土方副長から今回の作戦を任されて以来、ずっと様々な可能性を考えていた。絶対に失敗できない暗殺…遂行しなければならないという重圧は大きかったが、こうして現場に立ち会って今更ながら、何故こんなことをしているのかという疑問が浮かんだ。
(俺は新撰組に…俺の人生に愛想を尽かしたはずだった…)
弟を新撰組隊士に殺され、戻る家も守るべき家族も失い、何もかもどうでも良くなった。いっそ敵を討ち、命を絶って楽になる方が良い―――しかしそんな選択を引き止めたのは近藤局長と当時俺の組頭だった原田組長だった。
いま死ぬくらいなら、もう少し先延ばししても同じだろう。
そんな漠然とした結論を受け入れて、俺は惰性で生きてきた。副長の指示で監察へ異動になってから人と接する機会が減って気が楽になったが、仕事を懸命にやらなければならないという気概はない。しかし実際暇でいると悪いことばかりに囚われてしまい、やはり死んで弟の元へ向かった方が楽になれるのではないかと考えてしまうのだ。
その繰り返しは…酷く疲れる。
(何もやらないでいるくらいなら、何かしている方がマシだ)
異動してしばらくすると何故か土方副長に重宝され、暇を持て余すことはなかった。
ひとまず与えられた任務を最低限の労力でこなす。与えられた仕事は最後まで全うする。新撰組隊士ではない別人を演じる…そんな風に過ごしていたけれど、いつの間にか再びこの場所で生き始めている自分がいた。
(死なないように生きるというのは、案外難しい)
「大石」
俺はハッとした。
監察には指折りの隊士がそろっているが、やはり抜きんでているのは元監察である山崎組長だ。今は第一線を退いているが、それでも近づいてくる気配には気づけなかった。
「皆配置についた。伊東は一人や、護衛はおらん」
山崎組長の耳打ちに俺が頷くと、組長はまた暗闇に紛れるように足音なく去っていく。
伊東が一人で来るのは意外だった。緊迫した新撰組と御陵衛士の関係のなか、誘いに応じることすら予想外だったのだが、伊東は素直に一人でやってきた。
(死ぬかもしれないとは思わないのか)
むしろ死んでも良いと思っているのか。
ここに来て伊東にどんな利があるというのか。和解でもするのか、一騎討でも企んでいるのか…結局、なんだかんだと言いながら無駄死にするのが嫌で、新撰組を抜けたのだろうに。
俺は監察に移動になって、様々な死を見てきた。任務よりも情を優先した浅野薫、自論に溺れ破滅した田中寅蔵、道を見失い道化となった武田観柳斎…そして伊東に捨てられた茨木たち。
傍観者として彼らを見送ってきた俺は、だんだんと怒りにも似たふつふつとした疑問が浮かび上がる。
(なぜ死んだ?死ぬことはそんなに尊いのか?)
弟は死にたくなかったはずだ。不本意だったはずだ。
そしてその感情はいつも自分に跳ね返ってくるのだ。
―――死にたかったのはお前だろう?
あてのない堂々巡りは俺の人生のように、続いていく。こんな風に惰性で生きた先に何か答えは見つかるのだろうか。
その時、ギシギシという足音が伊東の待つ客間に近づいていく。俺は再び耳を澄ませた。
「…やぁ、お待たせして済まない」
近藤局長の声が聞こえてきた。






日が暮れた。
俺と内海さんは懸命に駆け続け都にたどり着き、人波をかき分けて月真院を目指していた。
朝から美濃へ向けて歩いた分を早足で引き返す。内海さんの背中だけひたすら追いかけ続けながら、俺は戦国の備中大返しとはこのようなものだったのだろうかと、少し現実逃避のようなことを思っていたが、きっと内海さんはそんな悠長な考えすら浮かばないだろう、とても深刻な顔をしていた。
賑やかな河原町の大通りに差し掛かり、内海さんは急に足を止める。俺は息切れしながら
「内海さ、ん…月真院はこっちの、道で…」
と指さしたが、内海さんはふらりと別の方向に足を向けた。すると急に方向転換したので歩いていた若い娘にぶつかってしまう。小さな悲鳴を上げつつ身体を避けた娘へ、内海さんは「すまない」と謝りつつ
「今は何時だ?」
と訊ねる。その表情は鬼気迫るものがあり、娘はさらに顔色を悪くしながら答えた。
「と、酉の刻…やと」
「そうか…」
内海さんのただならぬ様子を察したのか、娘は逃げるように去っていきその姿はすぐに見えなくなった。
酉の刻は会談の約束の時刻だ。残念ながら兄の出立を止めることはできなかった。内海さんは青ざめている。
「…内海さん、ひとまず月真院で状況を確認した方が…」
「会談の場所は…新撰組の屯所か?それともどこかの旅籠か?」
内海さんは虚ろな表情で呟くと、南へ向かうはずの道を西へ歩き始める。俺は思わずその腕を取って引き止めた。
「内海さん、無謀です!いくらなんでも一人で屯所に乗り込むなど…!」
「大蔵君に何かあったらどうする?!」
…俺は内海さんがこんなにも大きな声で怒鳴るのを初めて耳にした。周囲にいた人々も何事かとじろじろとこちらを見ながら避けるように通り過ぎていく。
俺は内海さんに触れて初めてその腕が小刻みに震えていることに気が付いた。怒りなのか苛立ちなのか恐怖なのか…普段は淡白で感情を顕さない人なので、酷く取り乱していることがわかる。その動揺が俺にも伝わってきたせいか急に兄の身に迫る危険を実感し始め、俺も何とも言えぬ恐怖を覚え始めてしまう。
けれどそんなときに、兄の『頼む』という言葉が鼓膜を揺らした。
「…先日、兄とともに尾張へ向かった際に『回天詩史』を渡されました。自分と同じように熟読して暗唱できるようにと」
「…」
「ご存じでしょうが、冒頭は『三たび死を決して 而も死せず』とあります。死を覚悟しても死ななかった…きっと兄上は同じ気持ちで会談に臨んでいる、そして藤田東湖先生と同じようにまだ遂げていない志があるはずです。兄上はこんなところで…折れるようなことはきっとありません」
内海さんはまだ口を閉ざしていたが、表情には生気が戻り始めているように見えた。
「俺も兄上は心配ですが、まず状況を確かめましょう。もしかしたら他の衛士たちに説得されて月真院に留まっているかもしれない。それに会談の場所も知らないのですから、無暗に動くのは得策ではありません。皆と話し合いましょう」
内海さんの動揺に気が付くと、不思議と頭がさえて冷静になった。そうならなければならないと思ったのかもしれない。
すると内海さんはようやく俺を見て「ふっ」と薄く笑った。
「…こういう時には、君たちが兄弟なのだとわかる」
「え?」
「わかった、ひとまずは戻ろう」
内海さんは俺の提案を受け入れてくれた。俺たちは再び南に向けて歩き始める。
人込みのなかをはらはらと雪が舞い続けていた。









780 ―桜蕊3―



半年ぶりに見る近藤局長の表情は、いつもの穏やかさと多少の緊張感、そして幕臣に取り立てられたという誇りと貫禄が滲み出ているように見えた。
夫人との挨拶代わりの雑談を終えた頃にやってきた局長は、「酒を頼む」と一旦夫人を下がらせ私の前に腰を下ろした。その距離は一間…新撰組にいた頃と変わらない距離感だった。
客人として招かれた私は畳に手をつき、折り目正しく頭を下げた。
「御無沙汰をしております」
「…半年ぶりだ。招きに応じていただき感謝する。伊東先生のご活躍は私の耳にも入ってきている」
「とんでもございません。新撰組はご立派な屯所に引っ越されたと伺いました。今後もますます飛躍されることでしょう」
私の感情のない空虚な世辞は静かな部屋に流れるただの音でしかないが、近藤局長は微笑んで頷いていた。
そうしていると夫人が酒と肴を準備して膝を折る。大坂の新町で評判の芸妓だった夫人は酌には慣れているようだったが、今夜の宴の意味合いを聞かされていなかったのか私と局長の間に流れる妙な緊迫感にはすぐに気が付いたようだ。けれどそこはやはり一流の芸妓であった彼女は、酌を終えると美しい笑みを浮かべて
「うちはこれで」
と去っていく。近藤局長も「ありがとう」と一言だけ告げて下がらせて、再び部屋には二人だけとなった。
私たちは視線を合わせ、盃を掲げた後に口をつける。毒が盛られているかもしれないと思ったが、近藤局長も同じ酒を飲んでいるのだからその心配はないだろう。私は乾いた喉を潤すためにも飲み干した。
近藤局長は盃を置くと、早速
「伊東先生の考えをお聞きしたい」
と切りだした。
相変わらず率直な人だ。しかし私もその問いに対する答えはすでに準備していた。
「…私はすでに徳川による治世の時代は終わったと考えています。異国の脅威が迫る中で政権争いをしている暇はなく、政権を返上した今こそ速やかに帝、朝廷を中心とした政を始めるべきです。これは上洛前から変わらぬ私の考えです」
「勤皇のお考えは知っている。しかし…薩摩や長州、土佐と親密にされているようだが」
「確かに彼らは脅威です。一度爆発すれば民を二分し、国を焦土にしてしまう爆弾のような軍事力と憎しみを抱えている。ですから彼らを押さえつけるのは武力ではなく、言語であるべきです。私は彼らの考えを知り、それを良い方向に導きたい…そのために彼らと繋がりを得ています。影響力のある志士に帝のもとで団結して国を動かすべきだと説くことが最善だと考えます。決して世に混乱をもたらそうとするものではありません」
「なるほど…美しい話だ」
近藤局長は私の言葉に耳を貸しながらも、距離を置き客観的に眺めているようなそんな表情だった。まるで私の言葉など届いていないかのように。
私はさらに口を開いた。
「いま、都へ向かって西国の兵が集まりつつあります。一橋公の政権返上によって一旦は興が削がれたように見えますが、戦の火蓋は必ず切られるでしょう。…戦になって喜ぶのは西国だけではありません、この国を狙う異国だけです」
「それには同意する。西国に武器を売る武器商人が儲け、異国はこの国を飲み込んでしまう。…しかし、今の帝は幼い。数百年政から離れていた公家が今更舵を取ることができるだろうか?薩長の思うままになるのではないか?」
「公家だけではなく、諸藩の合議制を取るべきです」
「徳川はどうする?排除するのか?」
「徳川がいまだに力を持ち、実権を主張するのならそうすべきです。…しかしそもそも一橋公は政の一切を手放したのですから、そのおつもりだと皆は解釈します」
「それは一理あるが、徳川の領地の民は納得するだろうか?いまだに俺のように徳川の家臣であることを自負している者もいる。会津のような国もある。…安易に徳川を排除すると、結局は伊東先生の危惧する戦が起こるのではないか?」
「…ですから戦を避けるために徳川は全面降伏すべきです。威厳を捨て領地を返納し、諸大名と肩を並べるのが妥当です」
「臣下は納得しない」
私と局長の議論は熱を帯びるが、決してその主張が交わることがない。そもそも幕府を否定する私と、肯定する局長では考え方が違うのだ。しかし局長はどこか楽しそうに表情を緩めていた。
「…なにか?」
「いや…こういう話を新撰組にいた頃に貴方とすれば良かったのかもしれないな。俺は目の前のことばかりが肝要で先のことを見通せなかった…そうしているうちに貴方とは眺める場所が異なっていたのだろう」
「…そうかもしれません。私は理想を掲げすぎたのでしょう」
私は初めて頷いた。入隊時に、ほんの少しでも「分かり合えるかもしれない」と思ったのに、日々の任務に忙殺されて議論を忘れたまますれ違ったのは確かだ。私は参謀というお飾りのまま、何も成しえずに去った。
しかし私にはもう新撰組への情はない。早々に見切りをつけていたのもまた事実なのだ。
近藤局長は酒を口に含み、一息つくと腕を組んだ。そして私を見据えた。
「それで、伊東先生。俺を殺そうと思ったのではないのか?」
「…まさか」
突然の問いかけに私は心のなかで動揺したが、しかしそれも想定していた質問であった。
「総司の居た別宅が襲撃されたが、御陵衛士だったのでは?」
「ああ…斉藤君が死んだと聞きましたからお疑いになるのは当然です。しかし我々の仕業ではありません。彼は幕府や会津、他の仕事も請け負う立場であると聞いていましたから、その筋を探られた方が良いのではないですか?」
私の他人事のような返答に対して、近藤局長は「そうか」と一言口にしただけであっさりと切り上げて
「では、土佐要人暗殺の件はどうだ?」
と話を変えた。
「…新撰組が関わっているのではありませんか?現場では見覚えのある鞘を見かけましたし、刺客は伊予言葉を話していたそうです。私は可能性があると思い、進言したまでのこと」
「残念ながら我々が手を下してはいない。彼らは徳川家の存続に前向きな考えを示していた。殺すわけがない」
「そうでしたか」
私も当然、彼らが暗殺したとは思っていない。ただ新撰組の悪評が巷の噂を後押ししているのだから自業自得でもあるだろう。
そこで突然会話が途切れ、私たちの間に沈黙が訪れた。重たくもない、軽くもない…互いの心の内を探るような張り詰めた雰囲気のなか、口を開いたのはやはり局長の方だった。
「聞きたいことはもう聞いた。…伊東先生、何故今日、ここに来た?」
「…お招きを頂きましたので」
「己の身が危ないとは思わなかったのか?」
「思いましたが、局長とお話ができる貴重な機会だと思いました。…局長は聡い方です、そして広い視野をお持ちだ。今の情勢のなかで本心から、徳川に付くことが有利だと思っているわけではないでしょう」
「…どういう意味だ?」
「貴方には百名ほどの隊士という部下がいる。貴方のさじ加減一つで生きるも死ぬも左右される…慎重にこの先に進む道を見極めるべきです。…近藤局長、もう幕府はありません。大樹公もいない、公方様もいない…貴方がその素晴らしい忠義を尽くすべき相手はもういない。新しい世の中が来るというのに、何故もう無くなったものに執着するのですか?」
「…」
「私は…一度、貴方を信用しました。だからまた信用することもできる。…その忠誠心は国のために、ともに帝のために尽くそうではありませんか」





熱くなる議論の中で伊東先生の目の色が変わる瞬間が何度かあった。
彼のもともとの気質なのだろう、自分の中に曲げられない確固たる信念があり、それを貫く意思と強い姿勢を感じた。そんな彼と対等に議論を交わすことに俺は喜びを感じていた。
もう少し早くこうしてぶつかっていれば。
それは山南さんの切腹が決まった時もそう思っていたが、また同じような感情を抱いていた。この人を失っても良いのか…まだ戻れるのではないか?そうすれば平助だって助かる。
…しかし俺は伊東先生の望みを叶えられそうもない。上辺だけでさえ、同意できない。
「…私も貴方を信用した。無骨な輩が多い新撰組にとって新しい風となってくれるのではないかと、そう期待した。…貴方はとても有能だ。人を導く才があり、先を見通せる学もある。私にないものをたくさん持っている」
俺の本心だった。農民の生まれの俺にはどうしても手の届かない、生まれながらの品のようなものがあって彼は人を惹きつけるのだろうし、知識に基づく実感のある言葉は心を揺さぶる。だから武力に頼るしかなかった新撰組が変わるきっかけになるのではないかと思っていた。
けれどそうではなかった。失望した、とまでは言えないが、俺たちは力を合わせるどころか袂を別つことになってしまったのだ。
「だが…やはり、一度失った信頼を取り戻すのは難しい。また手を取り合ったところで互いを疑い続けてしまうだろう…それでは同じことの繰り返しだ。それは…虚しい」
俺は伊東先生が差し出した手を振り払うように、首を横に振った。
すると伊東先生は少し驚いたような表情を浮かべたが、やがて苦笑した。
「…意外です。近藤局長は再び共に歩みたいと言ってくださると思っていました」
「ハハ、それは私を買いかぶっている。私は…そう心の広い人間ではない。人を信じられないことも、疑うこともある」
「そうでしょうか。私は局長ほど寛大な方を知りませんが…しかし、残念です。徳川と命運を共にしたとしても決して良い道には進みませんよ」
伊東先生は眉を顰めてきっぱりと断言しながら食い下がる。
確かに彼の言う通り、徳川が長州一国相手の戦に勝てず、数百年続いた政権を返上し、一大名となったが、しかしそれですべての責任を放棄して逃げ出すことはできないだろう。薩摩や長州は今にも戦を仕掛けようとしているなか、逃げ腰の徳川に何ができる?
たしかに俺もそう思っている。俺たちの乗る船は大きな荒波のなかに飛び込んで、その行き先をいったいどこへすればよいのかと舵を切りかねている。下船したいと思う者もいるだろう、この船はもう沈没するのだと嘆く者もいるだろう。
しかし俺はこの船の船頭であり、降りることはできない。それは責任感ではない。
俺はゆっくりと盃に手を伸ばした。
「伊東先生。もう、言うも詮無い事だが…公方様は私を側用人として取り立ててくださろうとしたらしい」
「…側用人に…」
「公方様が政権を返上しあっという間に無くなった話だ。だが、私はもともと農民で刀を腰に差すことを馬鹿にされる立場…それなのに一度でもそのような話があった。これは私にとって誉れ高く、無上の喜びだ。こんな喜びと幸福を与えてくださるのは公方様しかいない、私は恩に報いたい」
「…」
「伊東先生のおっしゃる通り、この先は泥沼…忠義を尽くすべき相手の居ない戦いは、命を散らすだけとなってしまうだろうな」
「でしたら」
「しかし、それでも良いのだ。私は公方様に感謝されたくて忠義を尽くすのではない。私が、私のために忠義を尽くすだけだ。…たとえ死んだとしても、それを後の世となった時に惜しい忠義だったと、誰か一人でも思ってもらえるなら、それで良い」
「…」
「そう思えない者は脱退しても仕方ないと思っている。この情勢なら仕方ないことだ。…しかし、だからこそ新撰組には不退転の忠誠心を持つ者だけが残るだろう。そんな我々の行く道を阻む者を俺は許せんのだ」







近藤局長の強い眼差しは、直視できないほどに眩しくて清々しい。

現状を打開するために再び手を結ぶ。
それはこの会談に臨んだ私の唯一の策であった。本心では一度決別したのだから互いをを信用できないが、それも美濃からの兵が来るまでの我慢だと思えば些細な事だ。それに上手くいって彼らが考えを変えて徳川を見限るのならそれもそれで良いだろうと踏んでいた。
けれど、それは私の見通しの甘い希望でしかなかったのだろう。彼らは私の上辺だけの言葉ごときで絆されたりはしない。柳の大木のように風には流されるけれど、そこに在って離れないのだ。例え周囲が焼け、地面が腐り、枯れ果てたとしても。
『惜しい忠義』…まさにその通りだろう。
私はため息をついた。失望のため息でもあり、感嘆のため息でもある。
(ここまでだ)
私の言葉は局長の心には届かない。私がどれほどの大風を起こしたところで、柳の枝を揺らすことしかできないのだ。
「…わかりました。これ以上は申し上げません。やはり新撰組と御陵衛士では考え方が異なります…これからは別の道を行くべきでしょう」
「ああ、そうだな…」
「私はもう行きます」
私は別れを告げようとしたが、近藤局長は
「伊東先生、もう一杯だけ飲んでいってくれ」
と引き止めた。
「別の道を行くのなら、これが別れの酒になるだろう」
「…わかりました」
私は再び腰を下ろし、局長は「お孝!」と夫人を呼んだ。夫人はすでに酒を準備していたらしく、すぐに顔を出してにこやかに微笑んだ。
局長は私の方にやってきて一間の間を埋め膝を突き合せると、自ら徳利を持ち私に酌をする。その姿にほんの少しの憐れみと別離の悲しみを感じ、私は(やはり)と思った。
きっとこれは私の最後の酒になるのだろう。
ほんの少し強い酒を私は一気に煽った。
























解説
なし


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