わらべうた




781 -桜蕊4-



俺は近藤先生と伊東の会話を壁を隔てた隣室で聞いていた。
ひりひりと焼き付くような激論と譲らぬ主張、ぶつかり合う本音を耳にして、彼らの覚悟を感じていた。考え方は違っていても、二人の熱量は本物だ。国のために、誰かのために命を散らすという覚悟―――それは正直羨ましくもあった。
けれど、たとえ伊東が土下座して謝罪したとしてももう引き返せない場所にいる。だからこの二人の会談は無意味な芝居に過ぎないのだが、たとえ芝居だったとしても近藤先生は伊東の考えに一切賛同はせず口約束もせず本音で接した…それは近藤先生なりの餞だっただろう。伊東が気が付いているのかどうかはわからないが、俺は伊東を滑稽だと笑うことはできない。
(俺はお前のことが最初から気に入らなかった)
だからいつかこんな日が来ると思っていたし、やっと来たのかという思いもある。新撰組を散々かき回して去った挙句、仲間を連れて去り、恩を仇で返すような真似をした代償を今払わせる―――ただ、それだけ。
芹沢を殺した時と同じだ。
伊東を殺す大義などない。
だだ、伊東は、御陵衛士はいつか新撰組の障りとなる。
だから俺は新撰組を守る……俺たちの家を守るだけだなのだ。
再びお孝が呼ばれ、会談はこれでお開きとなる。俺は再び息をひそめて伊東が別宅を出るのを待った。お孝が玄関先まで見送り、「またおこしやす」と気さくに声をかける。すると伊東は
「ええ、また」
と穏やかに告げた。それがあまりに穏やかで静かな去り際で、薄く積もった雪を踏みしめる音だけが小さくなっていった。
すると大石が足音もなく俺の元へやってきた。大石は妾宅の中で俺と同じように様子を見守っていたはずだ。黒猫のように闇夜に光る瞳に、俺は重々しく告げた。
「やれ」
と。







私は局長の妾宅を出て凍りかけた地面を歩きながら夜空を見上げた。厚い雪雲の間からほんのひと時の夢のように月が眩しく照らしている。刹那の美しい景色との偶然の邂逅を喜びたかったが、そうのんびりはしていられないだろう。
私は耳を澄まし、鞘に手を添えた。ほんの少しの酔いと、身体中を駆け巡る緊張感と興奮を押さえつけて今か今かと待ちわびる。どこに敵が潜んでいるのか探りながら歩を進める。
(私はどうかしているな)
殺されるかもしれない恐怖を楽しんでいる。私の中にある奔放な部分がそうさせるのだろうか。
そして醒ヶ井通から左折し、月真院方面の細道に差し掛かった時だった。
暗闇のなか、右手から襲い掛かる刀槍に気が付き私は身を翻して刀を抜き、払い抜けるように避けた。しかし当然それだけにとどまらず、左手、背後、と二方向から刃は続き私はいくらかの切り傷を負い、足元がもたつきながら振り返った。
そこにいたのは、宮川、横倉、そして大石…近藤直門の隊士たちだ。彼らはここで私を仕留めるつもりなのだろう、顔を隠すことなく堂々と私を待ち構えていた。その面子を見て
「ハハ、確かに…」
私は刀を構えながら苦笑する。
人を信用はできない…近藤の言ったとおり、こういう時に結局は同門の隊士を使うのか。
簡単に人を信用するお人よしだと思っていたのに、心の奥底では自分の弟子たちしか大事を託すことはない。
(私はお前に勝手に期待していたのだろう)
私の憂いも知らず、彼らは次々と襲い掛かってくる。右へ左へと薙ぎ払い、何度もやり過ごす。
さすがに手練れを集めている。私の一太刀が三人のうちの誰かを貫いたが、それで楽になったということはなく、月明かりだけの薄暗闇のなか三人掛かりの襲撃を長く持ちこたえることはできそうにない。
隙を見て逃げ出そうと駆けだすたびに、痛めつけられ足元は血だらけとなり、傷口から血を吹き出しながら私はただ無我夢中で刀を振るうだけだった。
いつまで持ちこたえたとしても、助太刀が来るわけでもないのに。
そしてついに、
「ぐっ!」
私は寺社の前で脇腹を刺され、その場に片膝をついてしまった。力が入らず立ち上がることができない…それでも必死に刀を振り回し致命傷を避けようと奮闘するが、身体中の痛みは次第に強く、広くなっていき、身体のあちこちが力尽きていく。言うことを聞かなくなってしまう。
そんな私の目の前に大石が悠然と立った。
「この…奸賊めが…!」
私は憎々しく蔑む。
大石がまるで私のことを見ていない無表情のままその手を振り上げた時、「待て」と声がかかった。大石たちが道を開けてやってきたのは…原田と土方だった。彼らは厳しい顔でその場にうずくまる私を見下ろしていた。憎悪を込めた眼差しを隠すことなく。
私は息も絶え絶えだったが、少し安堵した。平隊士にすぎない大石ごときに殺されるよりもましだと思ったのだ。
すると原田が槍を構えた。
「…俺ァ、普段から自分のことは快活だって思ってるんだがな、やってもないことをやったと言われるのは我慢ならねぇし、俺の家族を狙ったのなら許さねぇよ」
原田は苛立ちながら吐き捨てる。なるほど、彼には私を殺す理由があるのだと妙に納得した。
(やはり近藤を狙わなかったのが悪手だった)
私は後悔ではなくまるで他人事のように自分のことを俯瞰し、薄く笑いながら「土方」と隣にいた彼を呼んだ。彼は返事すらしなかった。
「私を…好きに、殺せば良い。ただ…衛士、たち…手を出すな…」
こうなることが分かってのこのこやってきた私は、殺されても仕方がない。近藤に一筋の望みを持ち、期待して、説得できるはずだと過信した故の過ちであり、この結末を予期していなかったわけでもないのだ。避けることができた運命だったが、避けない道を選んだのだ。
だから賭けに負けたのは私だけ。屯所に残った衛士たちに何の罪があるというのだろうか。
土方は何も答えなかった。その代わり、「原田」と彼の背中を押してその手に握る槍が躊躇なく振りあげられた。
私は目を閉じた。ゆっくりと首を垂れてせめて穏やかに逝きたいものだと思った。

母は私が死んだと知れば発狂するだろうか…いや、もう私に執着などないはずだ。
父は少しは驚くだろうか。あの無表情で寡黙な父と今度こそ深く話をしてみたいものだ。
弟は…また路頭に迷ってしまうのだろうか。世渡りが下手な弟がどうにか幸運に恵まれるように願うだけだ。
そして
(内海…)
と呼んだ。
彼のことを思い出さないようにしていたのに、こんな土壇場になると彼の顔しか浮かばない。
瞼を閉じればそこにいる彼へ、私は呼びかけた。





―――やはり、私は君の恋人にはふさわしくないな。
君のために生きられなかった、君を怒らせてしまった、そして今から君を泣かせてしまうだろう。なんて不甲斐なくて情けないのだろうか。
でも、申し訳ない。
こんなことになるのなら、思いを通わせなければよかった…なんて微塵も思わないのだ。
君を苦しませるだろうけれど、少しの間でも君の特別な存在になれたことを嬉しく、誇らしく思う。
有難う。
君が与えてくれるものは、いつも私には得難いものばかりだった。

だから、頼む。
衛士たちを頼む。
これが私の最後の頼みだ。


でも願わくば…。







俺は大蔵君の残した文を読んで絶句していた。

鈴木君とともに月真院に駆け込むと、戦支度を終えた兵のように俺たちを待ち構え、大蔵君を案じる衛士たちがいた。彼らに事情を聴き、(なぜこんなことになった)と頭が沸騰するような気持ちで
「すぐに醒ヶ井へ行く!」
と宣言した。衛士たちも覚悟を決めて身支度を整えるなか服部君が「待ってください」と俺の元へ文を持ってきた。大蔵君の部屋で見つけたという文には『内海へ』と書いてあった。
「これが一輪挿しの下に…!」
「…一輪挿し…」
「伊東先生のことです、何らかのご指示があるのかもしれません!」
数日前、鈴木君からもらったという一輪の菊を飾っていたものだろう、と察する。衛士たちは何らかの期待を込めて注目したが、俺は何だか嫌な予感がして仕方ない。恐る恐る文を開くと、命を賭して戦場に向かうという熱が、まるで冷や水を掛けられたかのように沈んだ。それは命令でも指示でもない、そこに書かれていたのは紛れもない遺書だったのだ。
近藤局長から会談に招かれたこと、何かの罠だとわかっているが応じることにしたこと、美濃へ行かせたのは俺と鈴木君を守りたかったのだということ、そして…俺を思う言葉が最後に記されていた。
俺は徐々に身体の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
衛士を頼む。
その言葉で俺は立ち止まり、何もできなくなってしまう。彼らと死を覚悟して醒ヶ井に襲撃したところで、きっと大勢が待ち構えているだろう、返り討ちにあっておしまいだ。そんなことを大蔵君は微塵も望んでいない。
彼の最後の願いを無碍にできない。
「……皆、待機だ…」
「内海!」
「どういうことです?!」
事情が分からずに殺気立つ衛士たちに俺は
「言うことを聞け!!」
と怒鳴る。普段、無口な俺が突然声を荒げたので彼らは一気に怯んだ。
俺は困惑する衛士たちを残して広間を離れ、大蔵君の部屋に足を踏み入れた。そして一輪挿しが置かれている机の前でもう一度文に視線を落とした。
決して口にすることはない、大蔵君の素直な思いが書き連ねてあり目に涙が滲み、俺はその場で項垂れた。
「…君は、大馬鹿者だな…大蔵君…」





でも願わくば…。

私も、君の待つ春の日差しのような家に帰りたい。













782 ー帰花1ー


―――誰かが泣いている。

「沖田君」
僕のことをそう呼ぶ人は少ない。柔らかく温かな声色は聞き馴染みがあって、親戚のような距離感…そんな人は一人しかいない。
「なんだ…山南さん、やっと夢に出てきてくれたんですか?」
僕が振り返ると、両手を袖に入れて悠然と佇む山南さんの姿があった。
彼が死んでから、幾度となく悪夢の欠片のように彼の最期の姿が見えたことがあったけれど、山南さん本来の姿と相対するのは初めてだった。
ここがどこだとか、今がいつだとか、そんなことはよくわからないし、今はとてもどうでも良い気がする。曖昧で、非現実的だがこうやって山南さんと再び会えたことが嬉しかったから。
「…ってことは、もしかして?」
「違うよ、君がこっちに来るにはまだ早い」
「はは、そうですか。…そちらはどうですか?」
「悪くないよ」
山南さんが微笑んだ。それが本音かどうかはわからないし、ただの願望に過ぎないのかもしれないけれど…僕はなんだか安心した。
けれど山南さんは次第に神妙な顔をした。
「…私は心配なんだよ。君のことも、藤堂君のことも」
「私は大丈夫ですよ」
「うん…君には仲間がいる。家族も、友人も、君を支えてくれる…でも藤堂君はどうだろうか?彼はずっと私の亡霊を追いかけているような気がする。だから申し訳ないと思うんだ、私が死を選んだせいで…」
「違います」
僕は山南さんの言葉を遮って否定した。
「山南さんが切腹したのは山南さんの選択だけではなく…皆が等しく、責任があると思っています。藤堂君が出て行ってしまったのも同じです。彼が望むように手を差し伸べられなかった…それは皆の責任です。本人や誰か一人のせいじゃない」
僕は本心からそう思っていた。
あれから数年がたち、山南さんを切腹させたという痛みをいまだに思い出すことはあるけれど一人で背負うのはやめた。一人で背負わなければならないと気負うのは傲慢な間違いで、皆で分かち合えばよかったのだと気が付いたのだ。
山南さんは少し呆気にとられた顔をしたが、その後に笑って
「君は大人になった」
と言った。
「そうですか?」
「うん。あ、もちろん褒めているよ。何もかも自分のせいだと思い込むのは私の悪い癖だ。…生きているときに君が今言ったことに気が付けたなら、私も違う運命を辿っていたのかもしれない。だから、藤堂君にも気が付いてほしいな。皆がまだ仲間だということを」
山南さんは僕から目を逸らし、遠くを見つめた。その視線を僕が追いその先には何もないことに気が付いて視線を戻すと山南さんはもういなくなっていた。








日が暮れた。
待機を命じられた隊士たちは屯所の広間に集まっていた。今か今かと姿勢を正し出陣を待っていたのは最初だけで、二刻経つ頃には次第に気が緩み、各々自由に武具の手入れや談笑、読書、碁、将棋に興じ始めた…のは仕方ない事だろう。何も隊列を組んで待っていろと命令されたわけではないのだから。
「相馬、せめて足崩したらどうだ?」
胡坐をかいて書物を読んでいた野村が俺を揶揄う。俺は刀の手入れに勤しんだ後は静かに瞑想していたのだ。
「…別に、俺は困っていない」
「こっちが困る。お前がそうやって優等生ぶってるせいで俺が何をしてても手を抜いているように見えちまうだろう?」
「そんなことは知らない。…お前は何を読んでいるんだ?」
「あ、これか?読むか?」
普段、書物を読む姿なんて見たことがなかったので野村がそうやって時間を潰すのは意外だった。いったい、どんな軍記物に熱中しているのか、と借りてみるとすぐにその中身を理解してカッと自分の頬が赤くなるのを感じながら手を離した。
「なっ!艶本じゃないか!」
「そうそう、原田先生に借りたおすすめのやつ」
「お前、こんな時に…!」
例え手持無沙汰だとしてもこんな時に艶本を読んでいるなんて、と俺は心底呆れた。しかし野村は「こんな時だからさ」と悪びれもなく本を拾い上げるとぺらぺらとめくる。刺激的な挿絵も彼は平気そうに眺めていた。
「今から何が起こるのか知らねぇけど、死ぬかもしれねぇんだろう?だったらこの世に未練なくやりたいことはやっておきたいじゃねえか」
「やりたいって、艶本を読むことが??」
俺はため息をつくと、野村は「ははん?」と目の色を変えて俺をまじまじと見つめた。
「…なんだ?」
「いやぁ、さては相馬は生息子だな?」
「…くだらない話をするなら話しかけるな」
「くだらなくねぇよ。さっきも言っただろう?死ぬかもしれねぇんだぞ、生息子のまま死んでいいのか?」
「いい加減に…!」
いい加減にしろ、と怒鳴りかけたところでバタバタと周囲が騒がしくなったことに気が付いた。それまで思い思いに暇をつぶしていた隊士たちが一気に集まり姿勢を正す。俺は野村の艶本を取り上げて隠し、(ついに)と興奮し胸が高鳴りながらこぶしを握り締めたのだが、そこに姿を現した原田組長の姿を見て一気に頭が冷えた。
原田組長は血塗れで、槍を持ったまま広間に現れたのだ。普段の明るく快活な姿とは異なり、獲物を仕留めた野獣のように熱り立っている―――その姿を見て隊士たちは皆息をのんだ。
続いてやってきた永倉組長が神妙な顔で口を開く。
「御陵衛士、伊東大蔵を殺した。その骸は油小路七条の辻に放置し、これを餌にやってくるであろう御陵衛士を殲滅する」
永倉組長の命令をすぐに飲み込める者はここにはいなかっただろう。伊東大蔵という人物を知らない俺でも、元新撰組の参謀で、御陵衛士の頭だということはわかっている。いがみ合っていたとしてもその者を殺し、残酷にも骸を路上に放置して餌とする…そんな非道な作戦だったなんて。
(あまりに惨い…)
俺は青ざめ、周囲の隊士も動揺を隠せていない。しかし永倉先生の淡々とした物言いや、実際に伊東大蔵に手を下したであろう原田先生の迫力を目の前にすると当然誰も何も言えるはずがない。皆が目を泳がせて、返答に困るなか
「戦だな」
俺は野村がそうつぶやいたのを耳にしてハッとした。彼の横顔を見ると、いつになく精悍な眼差しで前を見据えている。
(そうだ、野村は…ずっと、死ぬかもしれないと言っていた)
茶化しながら艶本を手にしていたせいでそちらに目が向いてしまっていたが、彼はずっと戦支度をしていた。誰よりもこの状況を理解して『死に支度』をしていたのではないか。それが艶本を読むことだったという点は感心できないが、彼の心構えはこの場にいる誰をも凌駕していたのではないか。
「ここにいる皆は上役の指示に従い、それぞれ近くに身を潜めその機会を待て…必ず、俺と原田、井上組長の指示に従え。良いな!」
「ハッ!」
永倉組長の発破に隊士たちが応じる。半分以上は「そう答えるしかない」という雰囲気だったが、やはり島田先輩のような古参隊士たちは眼差しが異なる。
(俺はまだまだだ)
そんなことを思いながら、鞘を強く握りしめたのだった。







日が暮れた。
「内海の奴、どういうつもりだ!」
苛立った篠原さんが声を荒げる。
伊東先生が屯所を出て二刻、内海さんが帰ってきて一刻…時間だけはあっという間に過ぎて行く。
衛士たちは内海さんが戻れば伊東先生の応援に向かうつもりだったが、その肝心の内海さんが待機を命じて部屋にこもってしまった。きっかけは伊東先生が残した文のようだが、衛士たちにはその内容は知らされないままだ。どんな命令が書いてあったのか…篠原さんのように期待を裏切られたと苛立つのは当然で、皆は「これからどうするべきか」と議論を重ねていた。
俺は腕を組み、いろいろなことに思いを巡らせる。
(斉藤さんがわざわざ教えてくれたのだから、伊東先生に何かあったのは間違いないだろう)
俺は伊東先生と最後に話した時に、すべて打ち明けるべきか少し悩んだ。斉藤さんの話は『聞かなかったことにする』と約束したものの、伊東先生の命が狙われているのだから約束を反故にして引き止めるべきではないのかと。
でも、先生はすでにすべてご存じのように思えた。新撰組が何を意図して先生を呼び出したのか…賢い先生なら気が付くのは当然で、それでもその道を選ばれたのだ。
(山南さんもそうだったのかなぁ・・・)
そう思うと、伊東先生を引き止められなかった自分と、山南さんの切腹を防げなかった皆は同じだったのではないか。
(いよいよ俺には、皆を糾弾する資格なんてなかったんだな)
と自分に呆れるしかない。
すると議論に加わっていた加納さんが重い口調で提案する。
「…ひとまず状況を知るべきだ。皆、どうだ?…橋本に様子を見に行かせるというのは?」
俺と同じように押し黙って輪に加わっていた橋本君に皆の視線が集まった。彼は表情一つ変えずに「構いませんが」と答える。間者として陸援隊に潜入し、混乱に乗じて御陵衛士に戻っている彼は、人が変わったように無口になっていた。
場を仕切る篠原さんと加納さんは伊東先生と出会う前からの知り合いで互いの考えを熟知している。加納さんは篠原さんを宥めるために提案したのだろう、篠原さんは「そうすべきだ!」と強く同意したため、橋本君が様子を見に行くことになった。
俺は咄嗟に
「俺も行っても良いですか?」
と手を挙げた。皆は怪訝な顔をしたが、
「待ち伏せされているかもしれないのに一人で向かうのは危ないでしょう?それに、たとえ新撰組に見つかっても片方だけなら逃げ出せます」
もっともらしい理由を話すと、加納さんは理解を示してくれた。篠原さんは「好きにしろ」と投げやりな様子だ。
俺は橋本君に「行きましょうか」と声をかけて、そのまま屯所を出て行った。
凍てつくような夜風が流れていた。









783 ー帰花2ー


―――まだ、どこかで泣き声が聞こえる。


彼女は薄紫色の着物に身を包み、そこに佇んでいた。いつからそこにいたのかよくわからない。
「随分、ご活躍で」
懐かしい再会を彼女は喜んでいるように見えた。僕は彼女ほど朗らかで美しい笑みを浮かべている女子を見たことがない。上辺だけでなく心の美しさを映し出すような表情につられ、僕も顔が緩む。
「ええ、おかげさまで」
「ふふ、謙遜せぇへんのやね」
「だって君菊さんも良く御存じでしょう?」
「ほんま、死んでもご近所さんやったからね。全然、静かに眠らせてくれへん」
君菊さんのお墓は西本願寺にあって、彼女がそこへ葬られたあとに移転が決まった。偶然なのだろうけれど、僕はずっと彼女に見守られているような気がしていた。
「でも本当に、君菊さんのおかげです。池田屋で武功を挙げなければ新撰組はここまで出世しなかったでしょう。皆貴方には恩を感じています」
「ふふ…せやけど恩を売りたくてそうしたわけやあらへん。…うちはただのきっかけ、あとは皆さまの才覚と運とめぐり合わせやと思いますえ」
君菊さんは謙遜ではなく、本気でそう思っているようだった。
彼女は膝を折り、そこに咲く白い花を摘んだ。山南さんの時と同じように、ここかどこだとかそんなことはまるでわからないけれど、彼女の慈愛に満ちた優しい空間であることは感じ取ることができた。
僕は夢だとわかっていてももう二度と会えない彼女へ、どうしても伝えたいことがあった。
「私は…ずっとあなたに謝りたかった。あなたは部外者で、死ぬ理由なんて何一つなかったのに…新撰組に関わったせいでこんなことになってしまった。感謝しているけれど、同時に申し訳ないと思っています。土方さんもきっと…」
「総司さん、それは違いますえ。さっきおっしゃってたやろ、すべての責任が自分にあるなんて考えは傲慢やって」
君菊さんは頭を下げた僕に近づいて、先ほど摘んだ白い花を僕に持たせた。そして僕を真っすぐに見据えた。
「廓のおなごは、たいてい早死にする。年季も明けないまま、不自由な暮らしを強いられて何らかの病で息絶える。…せやけどうちは、自分の好いた男の腕の中で逝けた。少し痛かったけれどそれがどんなに幸せなことか」
「でも…」
「土方さまにもお伝えしてな。なぁんにも、謝ることなんてあらへん。御出世されてご立派になられて、いい男になられるたびにうちはあんさんのために働けたことを誇らしゅう思うてます。それに明里や君鶴のこともお世話してくれはって、おかげでうちには何にも未練があらへん」
君菊さんの言葉にはいつも嘘がなくて、清々しい。僕はこれほど美しくて強いおなごに会ったことがない。
彼女の指先が急にゆらゆらと揺れて、その姿の輪郭だけを残して眩しい光に包まれていく。もうお別れなのだろうか…僕は引き止めたかったけれど、
「これからも、お幸せに」
彼女はそう言い残すと、あっさりとそのまま消えて行った。
僕は嬉しい言葉を与えられるままで、何も彼女に伝えられなかったことを少し悔いたけれど、結局これは僕の夢なのだから彼女は何もかもわかっているのだろう。
僕の手元には彼女から渡された白い花が残る。
(これは僕の贖罪の旅なのかな…)
振り返った場所には誰もいない。山南さんも、君菊さんも。そして視線を戻し前を向くと、大きな背中が見えた。
それが誰なのか…僕にはわかる気がした。







伊東先生が去った少し後、歳が戻ってきた。険しい表情のまま俺の前に腰を下ろし
「死んだ」
と端的に口にした。その報告を聞いて、俺は落胆するような安堵するような、複雑な気持ちを抱いたがいまは感傷に浸っている場合ではないだろう。
「そうか…皆は無事か?」
「横倉が一太刀浴びて負傷した。命に関わるほどではないと思うが…」
「さすが北辰一刀流と神道無念流を修めた剣豪だな、こちらが無傷では済むまい。…ご苦労だったと伝えてくれ」
「まだ終わっていない。伊東の骸は予定通り七条油小路の辻に放置させた。…おそらくそのうち町役人に見つかって月真院に知らせが届くだろう。…朝になるまでに引き取りに来ると良いが」
「…そうか」
伊東先生の骸は御陵衛士を引き寄せるための餌となる。
今更、惨い作戦だと口にするつもりはない。歳の作戦に同意した時点で俺も加担しているのだから、非難は引き受けよう。
歳はその場にあった白湯を一気飲みして長めに息を吐く。そして呼吸を整えるように沈黙した後、
「戻る」
と立ち上がった。まだ作戦は終わっていない…歳の表情には隠せない緊張感が漲っていた。
「俺も行こうか」
「馬鹿を言うな。すべて終わるまでお孝とここで待て…大将はこういうことに関わるべきじゃない」
「…芹沢先生の時もそう言ったな」
「ああ…そうかもな」
あの時も、俺は宴会場に残って歳や総司、左之助、山南さんにすべてを任せて待っていた。その心境はあの時と似ているような気がした。
歳は長話をしてる暇はないようで「じゃあな」と背中を向ける。俺はただ「気をつけろ」と言ってその背中を見送った。ガタガタと慌ただしく出て行った歳の足音が聞こえなくなると、かわりにお孝がやってきた。事情を知らないお孝だが何となく場の緊迫感は感じて取っているのだろう、俺の顔を見るや
「酷いお顔」
と少し揶揄するように口にした。俺は「そうかな」と自分の頬に触れたが、確かに強張っていて手の感触を感じないくらいだ。
お孝は熱燗を手にして空になった盃に酒を注いだ。
「哀しいことでも?」
「…哀しくは、ないさ…」
俺は熱い酒を口に含み、ゆっくりと目を閉じる。
哀しいとか、苦しいとか、俺がそういう言葉を使うのは間違っている気がした。俺は最初から伊東先生を殺すつもりで招き、彼の話を最期の言葉だと思って受け取った。そして殺した―――敢えて言うなら、この胸の痛みは罪悪感だろうか。
「ただ…もうこういうことは、最後にしたいと思っているだけだ」
もう二度とこんな思いは御免だ。
お孝は「そう」とそれ以上は何も訊ねずに、おもむろに俺の隣で繕い物を始めた。お勇の小さな着物を縫う姿は、俺の穏やかな日常でありふれた家族の光景だ。
(そうだ、俺の守りたいものは…家族だ)
お孝とお勇のことでもあり、江戸に残しているおつねとおたまのことでもあり、新撰組のことでもあり、食客たちのことでもある。俺には守るべきものがたくさんあって、どれも等しくかけがえのないものだ。
俺はいつも通りの日常を過ごすお孝の隣で、静かに酒を飲み続けたのだった。





凍えるように寒い夜だ。
俺は厚着をして月真院の正門を出て、先に待つ橋本君に合流した。彼が手にした提灯の明かりを頼りに坂を下る。
「雪、もう降っていないみたいですね」
「はい」
「まだ寒いけど」
「はい」
「あ、雲間から月が見えてきました。今日は満月ですかねぇ…いや、少し欠けているかな」
「はい」
…橋本君は同じ相槌を繰り返している。それは面倒だからではなく、俺の話があまり耳に入っていないような感じで、むしろ俺の方がこんな時に暢気な奴だと思われているのかもしれない。
それからは口を閉じて歩き、しばらく坂を下りきって祇園の町にやってきた。寒さのせいか人通りは少なく、静かな夜を迎えていた。
「藤堂先生」
橋本君が突然、俺を呼んだ。
「俺は…陸援隊から呼び戻されてこの数日、できるかぎり客観的に状況を見てきました。伊東先生の理想は素晴らしいですが、高望みが過ぎます。御陵衛士としての立場も実力も伴わないなかで、新撰組と張り合うなど自滅行為です」
「…はっきり言うなぁ」
「時期尚早だったのだと思います。ですから正直、会談に臨んだ伊東先生がご無事であるとは思えません。…藤堂先生も同じお考えなのではありませんか?先生はずっと篠原さんや加納さんの議論に加わらず俺と同じように一歩引いて達観されているように見えました」
「…」
俺は肯定も否定もしなかった。
伊東先生が生きていてほしいと思うけれど…斉藤さんから警告されていたこともあるし、橋本君の言う通りこの先が厳しい状況であることは想像できるのだ。それを承知の上で先生を見送った俺が篠原さんたちの議論に参加するのは、後ろめたくて黙り込んでいただけだ。
橋本君は遠慮なく続けた。
「俺は生き残りたい。そのために新撰組、御陵衛士、陸援隊…渡り歩いてきました。だから、これからもどんなに無様でも生き延びるつもりです。ですから…」
橋本君は突然足を止めた。そして俺へ提灯を渡して頭を下げた。
「ここで、お別れさせてください」
「…そうか、うん…橋本君の選択も悪くないと思う」
彼の考え方なら、これ以上関わり合いになりたくないと思うのは当然だろう。新撰組のように脱走を禁ずる法度があるわけでもないのだから、ここで御陵衛士を去っても引き止められない。それに彼への怒りはなく、彼自身が決めた選択を受け入れたい、と思えた。
「篠原さんたちには適当に言い訳をしておくから、君は思うようにしたらいい」
「…恩に着ます」
「ちなみにあてはある?故郷に戻るとか?」
何の気なしに訊ねてみると、橋本君は深刻な顔をして
「…行きたいところがあるんです。待たせているので…」
と答えた。それがどこなのか、誰が待っているのか気になったけれど…もうここでお別れなのだからこれ以上深入りされるのを望まないだろう。俺は「わかった」と話を切り上げた。
橋本君はもう一度、深々と頭を下げてそのまま背中を向けて反対方向へと小走りで去っていった。その姿が闇の中に消えていくのを見送って、俺はまた歩き始めた。

祇園を過ぎ静かな大通りを抜けて、新撰組の管轄である見慣れた光景を横目にひたすら歩き続ける。静まり返った町並みはよく知っている場所なのになぜか不気味に見えて、だんだんと足取りは重くなっていく。一歩一歩踏み出すたびに嫌な予感は募り…それでも橋本君から受け取った提灯で足元を照らし、ジャッジャッと土と水と氷を踏みしめるように歩いた。
そして五条を通り過ぎ、会談場所である醒ヶ井までもう少し…油小路に差し掛かった時だった。
「お待ちくだされ」
低く、小さな声だったが静かすぎる夜にはよく響く。俺が足を止めて声がした方向に提灯をむけると、そこにいたのは伊東先生が廣島で拾ってきてよく使っていた小者だった。
「この先はだめじゃ。新撰組が待ち構えとる」
「…伊東先生は?」
「死んどる」
「…」
小者のあっさりとした物言いで知りたくはなかったが、俺は(やはり)と思う反面、やはり心に穴が開くような大きな落胆を感じていた。目を伏せて唇を噛む。
(先生…やはり先生はこんなところで死んでいい人じゃなかった)
先生の素晴らしい才能と巧みな弁舌があればどんな時代でも躍進できたはずなのに、どうして生き急いでしまったのですか?
こんな結末になってしまうのをわかっていて、どうして一人で行ってしまったのですか?
俺の心は引き裂かれそうな痛みを覚える。自分のせいだという気持ちもある。そんななかでどうにか
「…先生のご遺体は…」
と訊ねると、小者は険しい顔をした。
「奴ら、引きずって油小路の大通りに放置しおった。さっき役人が見つけて悲鳴上げとったわ」
「引きずって…放置?なんで…そんな真似を…!」
「あんたらを誘き寄せるためじゃろ」
俺は哀悼の気持ちから自分の心が一気に冷え切るのを感じ、先生がそんな惨い扱いを受けたと想像するだけで愕然とした。
先生が真正面から新撰組に相対し、志半ばで倒れてしまったというのなら受け止めるべきだと思っていたのに…どうしてそんな残酷な真似ができるのか。たとえ敵対していたとしても二年、ともに暮らした同志ではないのか…!
俺は拳を握りしめ、身体中が震えるのを感じた。深い悲しみと激しい憤りがまるで大波のように身体中からせりあがってくるようで、呼吸すらままならない。
新撰組の、近藤先生の、皆の考えが理解できない!
(こんな酷い扱いを受けるのなら、やっぱり先生をお引止めすべきだった…!)
自分への怒り、そして何よりかつての仲間への不信感が爆発する。
死者の骸を利用するなんて、先生の尊厳を汚す行為に他ならない。どんな理由や言い分があっても絶対に受け入れられない、吐き気がする!
「…俺は馬鹿だった…!」
大粒の涙が流れた。
悔しくて仕方ない。
信じたかった。向かう道は違っても、根っこの部分では分かり合えるって。俺たちはずっと仲間だってそう思っていたかったのに。
(絶対に許さない…)
俺は小者に背中を向けて踵を返した。
もう心は決まった。
先生の無念を晴らす。
(先生、すぐに迎えに行きます…!)







784 ―帰花3―


―――なぜ、泣いているのだろう。


「恨んでいる。恨んでいるに決まっているだろう?あの時の痛みはよく覚えているんだ、容赦なくやりやがった」
唸るような低い声と鋭く射貫く強い瞳。片膝を立ててドカッとそこに腰を下ろした姿は、相変わらず威厳があって常人には近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「あの夜、宴の時からお前たちの様子がおかしい事には気が付いていた。だから待ち構えていたんだ…死ぬつもりじゃあなかったし、負ける気もしなかった。お前はとにかく、あとは雑魚ばかりだっただろう?切り抜けられると思っていたのにな…机なんかに躓いたのが運の尽きだよな」
つらつらと恨みがましく言いながらも、言葉はからりとしていてその語尾では人を揶揄う。相変わらずの言い草に僕は苦笑するしかない。
「…でも、私は謝りませんよ。芹沢先生」
僕は彼の前に膝を折って正座した。芹沢先生は僕をまじまじと見て
「謝ってほしいなんてこれっぽっちも思っちゃいねぇよ」
と笑った。
これは僕の夢だから、僕の願望の現れなのだろう。だとすれば僕は芹沢先生に会って何が言いたかったのだろう。
(自分でもよくわからないけれど…芹沢先生を殺したことがすべての始まりだったんだ)
「いや、殺したことで始まったわけじゃねぇ。たとえ殺せなくとも殺すことを決めた時から、お前の道は始まったんだ」
何も言っていないのに芹沢先生は僕の心を覗き見たように答える。やっぱり夢なのだと思いながら、僕は先生の言葉に耳を傾けた。
「鬼だとか、修羅の道だとか…お前たちはそういう風に格好をつけて言うが、結局はお前の選択の連続だ。俺を殺す選択をした、仲間を見捨てる選択をした、幕府に付く選択をした…それが道になった、それだけだろう?お前たちはいつも大袈裟で自分を買いかぶりすぎる。所詮人は人でしかない」
「…」
「その道が他人からどう見えるか…そんなことを気にしても仕方ねぇ。お前が選んだんだからな。だから、たとえ病に侵されてる身で使い物にならないお前が新撰組に醜くしがみついたって…それはお前の選択だ。周りが無様だと無謀だと言っても、それがお前の道なのだろう?」
「…はい」
「だったらそれを貫けばいいじゃねぇか。誰にも文句を言わせるな。人は勝手に生きて、死ぬんだからな」
芹沢先生は爪を弄りながら、「説教は性に合わない」とつまらなそうに吐き捨てた。
生前は傍若無人で、自己愛が強くて我儘で周りを振り回してばかりだったけれど…生き方は一貫性があって見どころの多い人だった。ある意味、もっと正面からぶつかっていれば、同じように志を貫く近藤先生と意気投合できたのかもしれない。
でもそんな想像すら、芹沢先生には『馬鹿らしい』のだろうけれど。
「…先生も先生の道を歩んだのですか?」
僕が訊ねると、先生は「当たり前だ」と頷いた。
「自分の道は自分しか歩めないに決まっているだろう。俺は俺の思うように生きて…まあちょっと不本意に死んだが、お前に殺されることを望んでいたのだから上々だ」
「先生はどうして私に殺してほしかったんですか?」
「お前が綺麗だったからだ」
「…綺麗?」
とても芹沢先生の口から出たとは思えない露骨な表現に、僕は驚く。けれど先生は表情を変えなかった。
「顔も、肌も、身体も、剣筋も、佇まいも…俺にとってお前は泥中の蓮のように見えた。『蓮は泥より出でて泥に染まらず』とあるが、まさにその通りだった。…蓮ってのは、仏さんの花だ。だから殺されるならお前が良いと思った。そうすれば俺も少しはマシな地獄に行ける」
「…先生、それは買いかぶりすぎです」
「そうだな。お前は坊やじゃなくなってすっかり大人になっちまった」
芹沢先生はそう揶揄いながら立ち上がったので、僕もそうした。壬生にいた頃にいた先生はもっと大きくて手の届かないように感じたけれど…今は同じ高さで目線を合わせることができる。
「じゃあな」
「はい」
芹沢先生は僕に背中を向けて去っていった。その姿は泡がはじけるように消え去って、僕の足元が揺らぐ。
(きっとこの旅ももう終わる…)
だから、僕は駆けだした。
えーん、えーんと泣く子供の声がずっと鼓膜を揺らしていたから。
僕は迎えに行かなくてはいけなかったから。







大津から月真院へ駆け戻ったものの、兄はやはり不在で内海さんも決断を保留し…ただ時間が流れていた。
終着点の見えない議論はそれぞれの主張が飛び交う堂々巡りを繰り返し、次第に皆、言葉が尽きて黙り込んでしまった。それはつまり、兄がいなければ我々は無能な凡人の集まりでしかないのだと思い知らされるようだった。結局、様子を見に行った藤堂先生の帰りを待つしかないのが歯がゆく、俺は部屋の隅で膝を抱えていた。
「とんぼ返りで疲れただろう」
そんな俺に握り飯を差し出したのは服部さんだった。彼は新撰組隊士としては古参であったが、兄と意気投合して脱退した。剣だけでなく槍や柔術も使いこなす武闘派である一方で、議論を交わせば筋を通して熱く語るような漢気もあり、皆から一目置かれている。
俺は礼を言って握り飯を受け取ったが、疲労が溜まっていても食欲はあまりなかった。見かねた服部さんが
「食っておけ。この後、どうなるかわからないんだからな」
と急かしたので仕方なく口に入れることにする。その姿を見て服部さんは少し安堵したようだったが、遠い目をしてため息をついた。
「まったく…内海はどうしちまったんだ?」
「…道中は兄上をお救いするのだと、その一心のご様子でしたが…」
内海さんは兄の残した文を見て、急にその態度を変えた。きっと兄は意図を持って内海さんと俺を皆へ行かせたのだろうから、何か内海さんを思いとどまらせるようなことを書いているに違いない。兄と内海さんの関係について詳しくは知らないが、兄の言葉には内海さんは絶対に従うだろう。
俺がしばらく黙り込んでいると、
「…君も気をしっかり持つんだぞ。伊東先生はきっとご無事だ」
と服部さんに励まされ、彼は去っていった。
また無意味な時間を貪ることになると、俺の脳裏には少し前、兄と共に尾張へ行った時のことが過っていた。
御陵衛士として新撰組を離れてから兄の態度が柔らかくなり、二人で話す機会も増えた。その理由について尋ねると兄は複雑そうな顔で、兄弟関係がギクシャクしていることを心残りにしたくない…と、今思えば不吉な予感のようなことを語っていた。でも血の繋がりがないであろう俺を『弟』であると認識し、過去の過ちを水に流して新たな関係を築こうとしてくれていることが嬉しくて、俺はこの先に明るい展望しか抱いていなかったのだ。
そんな兄が尾張で口にしたのは、
『お前が私の弟であると言うのなら、お前は年長の私よりも長生きするのが当然だ』
という意味深な言葉、そして俺に辛抱強さを学ぶように東湖先生の著作を暗記しろと言いつけた。
(兄上は…内海さんとともに俺も…美濃へ遠ざけたのだろうか…)
「ただいま戻りました!」
俺が考え込んでいたところへ、様子を見に行った藤堂先生が戻ってくる。ずっと衛士たちが集まりやりきれない空気だったが、藤堂先生の登場で一変する―――温厚な彼が、見たことがないほどに憤っていたからだ。唇を強く噛み、目は血走り鬼のように顔が歪み、握りしめた拳は震えている。
「ど、どうだった…?」
そんな藤堂先生へ篠原さんでさえ怖々と訊ねる。藤堂先生は
「皆さん、戦支度を!!」
と叫んだ。静かな月真院の隅々にまで響き渡るような大音声に皆が驚く。そして同時に彼は顔を真っ赤にして目尻から涙が零れた。
「伊東先生は、奸賊、新撰組によって討ち取られました…!」
その言葉を聞いた途端…俺の頭は真っ白になった。
(兄上…が…?)
俺は力が抜けてその場に膝から崩れ落ちた。
ずっと手の届かない場所にいた兄が…もう本当に、手が届かない場所へ行ってしまったというのか。
「討ち取られただと?!」
「奴ら、やっぱり謀ったか!」
「ああ先生…伊東先生…どんなにご無念なことか…」
声を荒げる者、なじる者、嘆く者…阿鼻叫喚の広間のなかで、俺はただただ呆然と、現実味なくその光景を眺めているしかできない。信じたくないと頭が理解を拒み、涙さえ流れなかった。
藤堂先生は続けた。
「先生のご遺体は無惨にも油小路に放置されているとのこと。これは我々を誘き寄せるための奸計です!」
流石に皆の表情が青ざめた。俺は更なる絶望に突き落とされたような心地だった。
「それは本当か?!」
「新撰組め…」
「…なんと卑劣な…!許せぬ、許せぬ!」
「奴らが待ち構えていようと関係ない。今すぐお迎えに参りましょうぞ!」
ダン、ダンと誰かが感情のままに畳を叩き、誰かが頭を抱えて喚く。そして藤堂先生の鬼気迫る表情につられて次第に一人、また一人と立ち上がり皆を奮い立たせるように
「行くぞ!」
「新撰組など恐るるに足らぬ!」
と声を荒げた。
俺はまだ身体に力が入らないままだったが、服部さんに手を差し出され無意識にその手を取った。彼は涙目になりながらもグッと堪えて唇を噛み
「鈴木君、辛かろうがここは兄上の無念を晴らすべきだ!」
と俺の背中を押して皆の中心へ担ぎ出された。衛士たちの視線が集まる…それは狂乱の怒りに満ちていた。
「伊東先生の」
「無念を」
「御遺体を」
「新撰組を」
「我らは」
「報いを」
…衛士たちは口々に威勢よく声を上げるが、俺の耳には断片的にしか入ってこない。まるで息の合わない神輿に担ぎ上げられたような頼りない気持ちになる。
(兄上、俺は…どうしたら…)
…でももう、兄はいない。
俺の脳裏に、凛とした兄上の横顔が蘇る。幼少の頃から共に暮らしてきたのに、なぜだかいつも横顔ばかり眺めていた気がする。背筋を伸ばして本を読む兄は見惚れるほどに美しかったのに、兄はずっと振り返らないまま先へ歩いていってしまう。
悲しい、苦しい、腹立たしい、忌まわしい…
(兄上、兄上…!)
兄上が路上に骸となって放置されているなんて、吐き気がするほど憎らしい。一刻も早く迎えに行きたい。
「待て!」
突然俺の肩を掴んだのは、内海さんだった。ずっと兄の部屋に引きこもっていたがこの騒ぎに気がついたのだろう。青ざめていたが、目は血走っていたを
「皆、待ってくれ。…藤堂君、その知らせは本当なのか?」
「伊東先生の小者の知らせです。先生は醒ヶ井近くの本光寺前で惨殺され、その御遺体は七条油小路の辻に放置されています!」
「…!」
内海さんの表情が変わる。しかし少し項垂れたもののその瞳は強く皆を見据えた。
「…皆、落ち着こう。大蔵君の骸が放置されているのは堪え難いが…これ以上新撰組の奸計に乗ってはならぬ、死ぬことになる」
「まさかこのまま見て見ぬ振りをすると?!」
「そんな!」
藤堂先生をはじめとした衛士たちが声を荒げると
「馬鹿野郎が!」
篠原さんが皆の思いを代弁するかのように、内海さんの胸ぐらを掴んで怒鳴った。
「無念の死を遂げた伊東の骸を晒すと言うのか?!それでも貴様は友だと言えるのか?!」
「…っ、大蔵君はもしもの時は皆を頼むと書き残していた!覚悟を持って会談に臨んだはずだ!」
「だったら何もせずこの結果を受け入れろと?!冗談言うな、俺たちはお前のように薄情じゃねえぞ!」
篠原さんはついに耐えかねたように内海さんをそのまま殴り、壁まで投げ飛ばした。倒れ込む内海さんを誰も介抱せず皆、篠原さんの側に立って見下ろしていた。気持ちは同じだったのだ。
「皆…」
「どうせ文にそんなことが書いてあるのだろうと思ったぜ。伊東は死を覚悟していたし、俺にも別れ際、万一の時は薩摩を頼るように言い残していた。あいつは俺がどれだけ引き留めても結局、我を通した…だったら俺たちだってやりたいようにやる。このまま新撰組に一矢報いず逃げ延びるなんてできるものか!生涯の恥だ、なァ、皆!」
オオーっ!と一番の歓声が上がる。皆は篠原さんと同じ気持ちで、新撰組の奸計だと分かっていても立ち向かうべきだともう決めていたのだ。それは理屈ではなく、感情なのだ。
そして内海さんも本音では同じだったのだろう。
「…わかった。しかし大蔵君の願いに免じて一つ約束してくれ。大蔵君の骸を取り戻したらそれで終わりだ、その後のことはまた考えよう。…皆、くれぐれも安易に命を投げ出すような真似はしないでくれ」
内海さんは力無く頭を下げる。篠原さんたちはそれ以上責めようとはせず、
「お前は足手纏いだ。ここで全部終わるまで待っていろ」
と除け者にして、早速出立の準備に取り掛かり始めた。
服部さんは襲撃に備えて着込むべきだと言ったが、篠原さんはそれで死んだら格好がつかないと揶揄する。すぐ逃げられるように軽装にしようと衛士たちの話がまとまったところで、俺はようやく内海さんの元へ向かった。
「…内海さん…」
俺は膝を折った。内海さんは縋るように俺の腕を強く握った。
「鈴木君、君は…君は、絶対に死んではならない。君を美濃へ行かせたのは大蔵君の優しさだ。それを無碍にしてはならない」
「…わかってます。でも俺も…こんな寒空の下に兄上をいつまでも放置なんて、そんな惨いことはできません…」
「ああ…わかっている…俺だって…本当は…今すぐに迎えに行きたいんだ…」
小刻みに震える内海さんの手には兄の文が握られていた。






俺は自分の行李を開いて羽織を取り出した。支度が整い次第、伊東先生の御遺体をお迎えに行く…たとえかつての仲間が待ち構えていたとしても、その決意は揺らがなかった。
するとふと、行李のなかにしまっていた矢立が目に入った。山南さんが愛用していて形見わけでもらったものだ。
(山南さん…ごめんなさい)
こんな結末を望んでいないとわかっていても、突き進むしかできない…そんな不器用な自分を許して欲しい。
その矢立を行李に再び戻して、俺は羽織に袖を通す。襟を正して「よし」と呟いた。
(行こう…)
俺は蔦藤の紋が刻まれた羽織を翻して、仲間の元へ戻った。











785


そこには膝を抱えて泣き喚く幼子がいた。
頼りない小さな背中が震えている。悲鳴に似た泣き声は聞いているだけで胸が痛み、僕は孤独な子どもをいますぐに抱きしめたいと思ったけれど身体は言うことを聞かず、幼子の前に立ち竦むしかない。
僕の夢のはずなのに、僕の体がままならない。
「…どうして、泣いているの?」
絞り出すように僕は尋ねる。すると幼子はとめどなく流れる涙を拭いながら僕を見上げた。
「だって…僕は役立たずだから…!」
「誰がそんなことを?」
「誰も言わなくったってわかるよ!僕は、もう刀をとることができないのに、他の才能もない。それにこれからみんなの足をひっぱることになるんだ!」
「…」
幼子は口にすればするほど悲しくなるのか、涙を必死に拭っても間に合わないくらい大粒の涙を流す。そして続けた。
「僕はいっぱい悪いことをしたんだ!でも命令されたからじゃない、自分の意思でやった…だって僕は悪い子だからずっと平気だったんだ、僕にしかできないって思ったんだ。でも悪いことを沢山したから神様が怒って…僕を役立たずにしたんだよ」
幼子はしゃくり上げる。
でも僕もその子の言葉を聞いていると、同じように声を上げたくなった。けれどどうにか飲み込んで出来るだけ穏やかに口を開いた。
「…君は役立たずじゃない、それに、たとえいま役立たずでも、まだ頑張れるよ」
「僕は頑張ったよ!皆んなに認められたくて、必要だと言って欲しかったから!でも、もう僕はそこにいるだけで迷惑だ…だから頑張れないんだ…」
「…そうだ…君は頑張った…」
本当はわかっている。
この子は、僕だ。家を出て、試衛館にきて、表向きは楽しく過ごしていたけれど、心のどこかで孤独を感じていた…そんな、誰も知らない心の奥底にいる僕。
僕はずっと…必要とされたかった。お前がいないと困ると言って欲しかった。だから必死に稽古をして腕を磨いた…みんなが喜ぶと嬉しかったから。先生に「お前は強い」と褒められるときだけが、自分の存在を受け入れることができるような気がして。
(ああ…僕は、だから、躊躇いなく人を殺せたのかな…)
どんなに強くなっても僕はいつまでも子どもで、いつも不安だったから安心したくて言われるがままに、自分のために殺したのなら…死んだ人は浮かばれない。
山南さんは許してくれた。君菊さんは励ましてくれた。芹沢先生は認めてくれたけど…そんなの、僕の勝手な想像だ。
僕は罪深い。
「どうしたの…?」
僕の目の前には幼い僕がいた。真っ赤に腫れた目で心配そうに、黙り込んでしまった僕の顔を覗き込む。僕はようやく呪縛が解けたかのように両腕を動かし出来うる限り強く、強く抱きしめた。
(僕が後悔をしたら、近藤先生や歳三さんが悲しむ)
そして幼い僕と自分に言い聞かせるように口を開いた。
「確かに…沢山、酷いことをしたかもしれない。贖えないほどの命を奪った。それを仕方なかったなんて言わない…これは僕と君が一生抱えていくんだよ。死ぬ時まで」
「僕も…?」
幼い僕は不安そうに眉を顰めたので、彼の両肩に触れて穏やかに告げた。
「君は…悪い子じゃない。だからたとえ役立たずになってしまっても…皆は必要としてくれているんだ」
「ほんとうに?僕は何もできないのに…いらない子なのに」
「自分のことを蔑んじゃだめだ。…君の師匠や兄弟子はなんで言ってた?役立たずなんて一言も言ってないはずだし、皆は絶対に噓をつかない。君の大切な人たちを信じなきゃだめなんだ」
僕の問いかけに、幼い僕は大きく頷いた。そしてごしごしと涙を拭い、僕を見据えて言った。
「そうだよね…僕は知っているよ、どうしようもなくなったとき、その諦めに打ち勝てるのは信じることだけだって。だから信じることさえできるなら、刀なんてなくても僕は強くなれるんだって」
「…ああ、そうだね…」
僕は微笑んだ。
かつて僕が自分に言い聞かせていた言葉だ。辛く、苦しい鍛錬の日々のなかでどうしようもない孤独に苛まれた時、僕はそうやって自分に言い聞かせていた。信念さえあれば諦めることはない。
幼い僕は僕の手を握った。そして晴れやかな笑顔で告げた。
「大丈夫だよ。後悔しなくていい、逃げなくていい、だってみんながいる。みんなを信じたら寂しくない。…だからさ…もう、起きた方が良いよ」
「え?」







僕は目を覚ました。見慣れた天井の木目、嗅ぎ慣れた畳の匂い、自分の体の形に縁どられてしまったかのように馴染んだ布団。そのどれもがいつも同じだ。
(なんだか…長い旅に出ていたみたいだ…)
瞼を開いた時にすっと一筋の涙が零れたので、やはり夢だったのだとわかる。でもいつもは起きたらぼんやりと曖昧になってしまう記憶が、懐かしい人々に逢ったせいか鮮明に思い出されて心が高揚していた。これまで胸に閊えていた言葉を伝えることができてすっきりとしている…結局は夢でしかないけれど。
「…都合が良すぎるな…」
僕は苦笑しつつゆっくりと身体を起こして目をこすりながら、外を見た。真っ暗になっている。
(長い夢だったけど、本当に長く寝ていたみたいだ…)
薬の作用のせいか、体調が優れないのか、今日は寝てばかりだ。ふと傍らに英さんが文机に突っ伏して眠っている姿が目に入る。朝からずっと僕の看病をしてくれて疲れているのだろうか、難しそうな書物を開いたまま目を閉じていた。僕はそのあたりの適当な羽織を彼の肩にかけてあげた。
そこでふと、あまりに静かであることに気が付いた。
(いくら何でも夜更けまで寝た、なんてことはないはず…)
疲れていたけれど今までそんなに長く眠ったことはない。
『起きた方が良いよ』
僕はふいに、幼い僕自身が最後に言った言葉を思い出す。所詮は夢なのだから気にしなくても良いとわかっていても、どこか急かされるような気持が沸きあがってしまった。
僕はお目付け役の英さんがぐっすり眠っているのをいいことに、自分の羽織に袖を通して足音を立てないようにこそこそと部屋の外に出た。火鉢を焚いて暖かかった僕の部屋との寒暖差は大きく、外に出た瞬間にヒヤッとするほどの冷気に体が震えたが、それ以上にしんとして静かすぎる屯所を目の当たりにして心が騒めいた。
そして
「にゃぁん…」
という猫の鳴き声がして、僕は目を凝らすと探さなくとも目の前にいた。暗闇の中でギラリと光る金色の瞳を見つけた時、
(あの時の猫だ…)
と思った。芹沢先生を殺した時、山南さんの介錯を務めた時…この黒猫は僕に会いにきた。
僕は何かに取り憑かれたように早足で屯所のあちこちを見て回る。隊士たちの個室、広間、道場、風呂場、厠…不動堂村の屯所は広すぎて、部屋を持て余していると言ってもこんなに人気が無いことはないはずだ。かろうじて正門に目を凝らすと見張りの隊士はいるようだが、それにしても様子がおかしい。
(まさかまだ夢のなかなんて、そんな馬鹿な…)
息を切らせながら屋内を歩き回っていると
「沖田先生?」
と泰助の声が聞こえた。土間から顔を出した彼は頭にほっかむりを被っている。
「泰助…一人ですか?他には誰が?」
「銀之助と鉄之助もいます。二人はいまは米炊きでいませんが…もう戻ると思いますけど」
僕は泰助の姿を見てもまだ胸騒ぎが収まらない。それに土間を覗くと泰助は大量の握り飯を並べていたのだ…さながら戦時のように。
「…何か、あったのですか?」
「え?ああ、張り込みの皆さんに差し入れを作ってて…これくらいで足りますかね?」
「張り込み?一体何が?」
「えーっと…俺たちは屯所に居残りなんで、詳しいことはよく…」
要領を得ない泰助の返答に、僕は少し苛立つ。すると銀之助が薪を抱えて戻ってきて、僕の顔を見るや「あっ!」と声をあげて薪を足元に落とした。ガラガラッとした音は静かな屯所に響き渡るが、僕は気にする余裕なく
「何があったのですか!」
と怒鳴った。泰助はぽかんとして、銀之助は青ざめている。
僕が寝ている間に、僕の知らないところで、何かが起こっている。きっと隊士全員が出払うほどの事態だ―――そう察するのは簡単だ。泰助は事情を知らなかったのかもしれないが、僕を見た途端驚いて声を上げた銀之助はこのことを伏せるように言いつけられていたのだろう。
「あの、その…!僕たちは何も言えません!」
「土方さんにそう言いつけられたのでしょう?いいから言いなさい」
「でも…本当に詳しいことは…申し訳ありません…」
銀之助は顔を顰めながらもそれ以上は言えないと口を噤んでしまった。僕は仕方なく事情を聴くのは諦めて、
「…泰助、握り飯はどこへ?」
「え?油小路って…」
ぽろりと漏らしたのは泰助で、銀之助は慌てて「馬鹿!」と言ったけれどもう遅い。僕は踵を返して部屋に戻る。
(油小路ならここから近い)
握り飯を差し入れするくらいの余裕があるなら、まだ大きな戦ではないのだろう。体調を崩し眠っている僕への遠慮なのだろうとわかっていても、何も聞かされず置いていかれてしまったことは不快さで心はいっぱいだった。こんなことをするのは土方さんに違いないのだから、一言文句を言わなければ気が済まない。
どくどくと焦燥感のようなものが湧き上がり早く駆けつけたいと思ったが、部屋に戻る前に斉藤さんに鉢合わせてしまった。彼は僕の考えなどお見通しなのだろう、難しい顔をして僕の前に立ち塞がるようにして立っている。
「…斉藤さん、どけてください」
「このまま全部終わるまで部屋で待っていてくれ」
短い言葉だが、斉藤さんが事情を把握しているのだとすぐに理解した。彼が片棒を担いでいるとわかり、僕は身構えた。
「隊士総出で出動するなんて普通じゃない。事情を教えてください」
「教えたら留まってくれるか?」
「…いいえ。教えてくれなくとも、油小路へ行きます」
僕は強く斉藤さんを睨んだ。いつも全面的に僕の味方でいてくれる斉藤さんなのに、今はまるで梃子でも動かぬ様子で僕を見据えていた。真剣で立ち会った時以上の緊張感だったが、僕は引くつもりなどない。
斉藤さんは少し息を吐いた。互いに本調子でない上に、僕の頑固さはよく知っているだろう。
「伊東を暗殺した」
「…!」
「新撰組はその骸を油小路に放置し、その餌を引き取りに来るであろう御陵衛士の殲滅を狙っている」
僕は驚いた。
自分が眠っている間に、土方さんが散々手を焼き目の上のたん瘤となり、仲間を引き連れて去ってしまった伊東大蔵という存在がもうこの世からいなくなってしまったなんて、あまりに現実味がなかったのだ。個人的に深い関係はなく、交わした会話も数えるほどしかない僕にとっては正直悲しくもないが、それよりも御陵衛士の殲滅という重い言葉に愕然としていた。
「…藤堂君は…?」
「おそらく、やってくるだろう」
「そんな…」
新撰組の隊士の数は五十名を超える。十数名の御陵衛士が敵うはずもなく一方的に彼らは蹂躙されるだろう。藤堂君がやってくればどんなことになるのか、誰にだってわかる。
僕は斉藤さんの腕を必死になって掴んだ。
「藤堂君を…藤堂君を助けてほしいって、言いましたよね…?」
「…藤堂は望まなかった。伊東とともに心中するつもりだ。それは原田と永倉が説得しても同じだった」
「…」
僕以上に関係の深い原田さんや永倉さんが引き止められなかったのなら、僕にそれができるわけがない。
僕はなお一層、(こんなところにいる場合じゃない)と決意した。
「…っ、とにかく行かせてください。こんな大変な時に蚊帳の外なんて…!」
「駄目だ。俺は土方副長に何としても引き止めるように命令を受けた、屯所から出すわけにはいかない」
「そんなのどうとでも…!」
どんな言い訳でもできるし、僕が土方さんに謝れば済む話だ。僕は斉藤さんの腕を押しのけて部屋に戻ろうとしたが、かえってその手を掴まれてしまった。
「放してください!」
「もう伊東は死んだ、事は動き出しているんだ」
「それでも行かないと…!」
「あんたが行ったところで何ができる?結局、吐血して足手まといになる」
「…!」
斉藤さんが冷たい眼差しで淡々とはっきり告げる言葉が、僕の胸に突き刺さる。
そうだ、僕が万全じゃないから近藤先生や土方さんは僕を置き去りにしてしまい、話すら聞かせてもらえなかった。きっと皆が僕の身体を気遣ってくれたのはわかっている…わかっていても、いまは耐え難い。
『僕は役立たずだ』
幼い僕が嗚咽しながら嘆いていた姿を思い出し、僕は心が苦しくなる。でもそれ以上に認めたくない気持ちが上回り、僕は渾身の力で手を振り払った。それが斉藤さんの傷に障ったのか上体を崩した隙に、僕は自分の部屋に駆け込んで刀を手にした。
「待って、落ち着いて…!」
この騒ぎで目を覚ました英さんが引き止めたけれど、僕は無視してもう一度部屋を出る。斉藤さんを躱して裸足のまま庭から飛び出し裏口に回れば油小路に近いだろう…そう思った途端後ろから身体を引っ張られ、腰に手を回し、抱きしめられた…というには強い力で引き止められてしまった。顔が見えなくても斉藤さんだということはすぐにわかり、僕は暴れた。
「行くな」
「っ…、放してください!どんなに役立たずでも、ここにいるよりはマシです!」
「行ったところで間に合わない」
「そんなの関係ない…!」
僕は懸命に斉藤さんから逃れようとしたが、あまりに急に身体に無理をしたせいで咳き込んでしまった。
「ゲホッ!ゴホッ!」
斉藤さんは少し力を緩めてくれたが、僕は進むことはできず身体を曲げて口を覆うように吐血するしかない。
(こんな時に!)
自分の身体をこんなに恨めしく思うのは初めてだ。どうにか折り合いをつけて過ごしてきたのに肝心な時に動かなくなる。
(本当に役立たずだ…)
苦しさと苛立ちと憤りが混ざり合って、グジャグジャになってしまう。
幼い僕がそうしたように大声で喚いて泣いてしまいたい。
でも、
「もう十分だ…!」
斉藤さんが耳元で声を荒げる。それまで冷たく聞こえた彼の声が急に感情的になり、僕は驚いた。
「…十分…って、何が…」
「これ以上、何も背負わなくていい」
「せ…」
背負うって何を?
僕はずっと蚊帳の外で、何も知らず、暢気に眠っていた。藤堂君が死んでしまうかもしれないのに、無関係でなんていられないのに、今すぐ駆けつけたいのに、何もできない。
でもどうしてだろう。
その言葉を聞いた途端、僕の身体中の力が抜けていく。
「…局長も、副長も、あんたにこれ以上重荷を負わせたくないから黙っていたんだ。それは決して疎外したわけじゃない…心配だから、負担にならないように置いていったんだ。その優しさを受け入れるべきだろう」
「…っ、でも…」
「藤堂は死ぬかもしれない。でも…絶対に、あんたのせいじゃない」
これは僕の悪い癖のようなものなのだろうか。
夢の中で山南さんにああいったのに、僕は自分自身に何もかもを科して抱えて…それで己を苦しめることが義務だと思い込んでいる。
僕は斉藤さんに背中を預けた。すると彼はまた強く背中から抱きしめながら
「だから、行かなくていい」
と言った。
僕は無意識に目尻から涙をこぼしていた。
僕は役立たずだから置いていかれたんじゃない。みんなのためにここで待つんだ。
そしてそのまま座り込み、斉藤さんの腕の中でしばらく泣いた。彼は何も言わなかったが、温かなぬくもりは僕の凍りついた感情を溶かしていくようだった。
藤堂君には生きていてほしい。 
せめて、その想いは届いたのだろうか?
僕にできることはもう何もないけれど、どうか彼の心に少しでも響いてほしいと思った。










786  ー帰花5ー


しんと静まった油小路で、新撰組隊士たちは息をひそめて待ち構えていた。
入隊して間もなく経験の乏しい俺は囮の遺体からは遠く離れた場所に配置されているが、それでもひりひりとした緊張感は伝わってきて、息をすることすら忘れてしまう。指先一つ動かすのも躊躇われた。
そんな俺に対して、野村は「寒ぃなぁ」と何度も手をさすり続けている。深夜から続く待機命令は確かに寒さとの闘いでいっそ早く終わってほしいとも思うけれど、そんな風に思うのは俺がまだ新参者で新撰組のことをよく知らないからだろう。
ここにやってくる前、原田先生はいつもの明るく活発な雰囲気を封印し、暗く思いつめた様子で俺たちに告げた。
『今からやってくる仲間はかつての同志だ。俺たちが始末する…お前たちは手を出すな』
命令というよりは釘を刺すように告げられ、普段と比較にならないその重々しさに皆頷くしかなかった。その原田先生たちはもっと囮の近くの前線にいて、様子がうかがえないがここよりもいっそう張り詰めていることだろう。
「あ…」
隣にいた野村が声を漏らす。俺が何事かと視線をやると、「しょっぺぇ」と握り飯を咥えながら顔を顰めていた。屯所から小姓たちが持ってきた握り飯は歪で塩加減もまばらだったが、誰もそんなことに文句を言う雰囲気ではないことを察している。
「相馬、お前も食っておけば?」
「…腹が減ってない」
「馬鹿だな、腹が減ってなくても食うのが仕事だろう。肝心な時に腹の音が鳴ったらどうする?」
「…」
俺は反論できずに仕方なく彼が差し出す握り飯を受け取った。野村は相変わらずの様子だったが、彼がそうして気を抜いているのにもおそらく理由があるのだろうと思うと注意する気にはならなかった。
(もうすぐ明け方か…)
俺は東の空が明るくなっていることに気が付いた。このまま夜が明けると、人通りが増え騒ぎになってしまうだろう。できれば今晩中に片を付けたいと思っているはずだ。
すると、握り飯を飲み込んだ野村が肩を叩いてきた。
「相馬」
「なんだ?」
「来たぞ」
彼が指さした方向へ目を凝らす。数名の人影と駕籠が駆け足で伊東大蔵の遺体に近づいていた。






夜道を駆ける。兄の骸を迎えに行くのだと思うと気が重いが、一刻も早くこんな寒空の下ではなく温かい場所へお連れしたいという気持ちの方が勝っていた。骸を乗せるための駕籠を手配するのに手間取ったがあと少しで油小路に辿り着くだろう。
すると先頭を走っていた藤堂先生が急に足を止めた。
「どうした?」
「…この先は一層警戒した方が良いかもしれません」
篠原さんの問いかけに藤堂さんが鋭く答える。皆が抜刀したので俺もそれに続こうとしたが、
「君は伊東先生のご遺体を優先した方が良い」
と服部さんが止めた。兄弟として気遣ってくれたのだろうと察し、俺は頷いた。
それから先は慎重に一歩、一歩と先へ進む。
今夜は月明かりが眩しく、提灯がなくとも遠くまで見通せる。南へ曲がり、いざ油小路へ踏み入れると不穏なほど静かで人ひとりいない。けれどそこに漂う空気は何人分もの殺気が満ちているような物物しさがあった。
おそらく新撰組が待ち構えているのだろう。それが数人か、何十人、いや全隊士が勢揃いしているのか、わからないが兄上が待っているのだから引き返すはずはない。たとえ一人でも突き進むのみだ。
衛士たちの決意は同じだったようで、藤堂先生が「行きましょう」と力強く声をかけ、さらに進む。
すると次第にそこに黒い影が見えてきた。それが横たわるように四肢を投げ出しているのを見た途端、俺はほとんど無意識に
「兄上…!」
と叫んで皆を追い越して駆けだしていた。
月明かりの中で再会した兄は、すっかり冷たくなっていた。傷だらけの身体とここまで引きずられたことがわかる衣服の乱れた泥汚れ、血塗れの身体は寒空に晒されてあちこち凍りかけている…そんな尊厳を踏みにじるような無残な姿に怒りを通り越して最早、混乱と悲しみしかない。
「ああ、あぁ……兄上…!」
俺はその兄の骸を抱きしめていた。そして…もし、ほんの少しでも兄の魂が残っているのなら、悲しみよりも怒りよりも先に伝えたいことがあった。
「兄上…兄上は、父の、母の…俺の…皆の誇りでした…!」
兄からすれば歪だったかもしれない家族の一員として、これだけは言える。縁遠いと思っていても兄がいたからこそ家族は希望を持ち続けることができたのだと。…だからまず、兄に伝えるべきは『感謝』なのだ。
(だからこんな無機質で冷たい場所で眠る必要はありません。あなたを尊敬する皆の元へ帰りましょう)
兄からの素っ気ない返事がないことが一層、俺の悲しみを煽る。そして周囲を囲んだ衛士たちが「先生」「先生」とすすり泣く声が聞こえてきて、俺は兄をゆっくりと担いだ。
「早く、駕籠に…乗せてやろう」
長年の友人であった篠原さんが感情を堪えるように駕籠の簾を持ち上げた…その時。
バタバタッと、まるで大勢の水鳥が飛び立ったような音が俺の耳に響いたのだった。







衛士たちが伊東の遺体を取り囲んですすり泣いている。
月明かりでその顔を一人ずつ確認していく…伊東と付き合いの長い大柄の篠原、加納、ともに上洛した毛内、富山、実弟の鈴木、新撰組でも古参だった服部…そして藤堂。
(来たか…)
斉藤がすべての事情を話し引き止めたと聞いていたが、それでも藤堂はやってきた。その表情は伊東の遺体を前に厳しく怒りに満ちている…いつも朗らかだった藤堂が見たことがないほど憤っているのは月明かりの下でもはっきりと分かった。
「副長」
隣にいた山崎が俺を短く呼ぶが、俺は首を横に振った。
(まだだ…)
彼らも静かすぎる現場に満ちた殺意に気が付いているはずだ。伊東を前に嘆いているがまだ警戒を解いたわけではない。それに藤堂だけでなく、篠原や加納、服部は手練れだ…いくら人数での勝機があると言っても油断すべきではないだろう。それに気になったのは御陵衛士の半数である七名しかこの場におらず、側近の内海が不在であることだ。内海に何か考えがあるのだろうか…。
「…俺は平助を助けます」
唐突に耳に入ったのは背後に控えている永倉の声だった。俺が振り向くとその隣にいた原田も深く頷いている。
「土方さんが何を言おうと聞かねぇ。法度で罰しても構わねえから」
一歩も引かない原田の言葉はいつになく真剣で、揺るがない強さがある。
俺はそんな二人に何も答えずに視線を元に戻した。
(そんなことはとっくにわかっている)
油小路に来る前から二人からひしひしと強い覚悟を感じていた。彼らからは藤堂を殺す悲壮感などまるでなく、別のことを企んでいるのは明らかだったが、それを止めるつもりはなかった。
「…好きにしろ」
肯定も否定もせず、俺は聞き流す。それが俺ができうる最大の譲歩であり情けだ。藤堂がそれをどう受け止めるのか…それはもう彼に任せるしかない。
そうしていると衛士たちは担いできた駕籠に伊東の遺体を乗せようと手分けし始める。俺は(いまだ)と山崎、そしてこの件を任せている大石に視線に送り事前に示し合わせていた合図を近隣に控える隊士たちに送った。
隊士たちは一斉に衛士たちへ向かって駆けだした。衛士たちは人数の多さに驚いたようだったが、すぐに応戦しそれまでの静寂が一気に破られる。衛士たちは伊東の遺体を守るように隊士たちの刀を受け止めた。
俺は少し離れた場所から状況を見守った。特に勇猛に戦っているのは毛内と服部だ。毛内は新撰組にいた頃から手先が器用で様々な武器を使いこなした。刀が手を離れても小刀で応戦し、隊士たちも慎重にならざるを得ないようだ。そしてもう一人の服部はもともと隊内でも有数の使い手だった。正直、服部がここに現れたことは脅威であり、十人分の働きをするだろう…実際新撰組の精鋭たちも手を焼き、数名傷を負っているように見える。人数では勝っているが、一方的に殲滅とはならないようだ。
「ヤァァァァァ!!」
(藤堂…)
騒乱の中で際立って威勢の良い声が上がる。魁先生のそれは周囲を圧倒し寄せ付けず伊東の遺体の傍を離れようしない。まるで死人を守るかのようだ。
永倉と原田は先陣を切ったが、篠原や加納に遮られ藤堂の元まで到達していないようだ。状況は少しの間拮抗していたが、前線から離れていた隊士たちが襲撃の様子を見て駆けつけてくることでまた新撰組が人数面で優勢へと変わっていく。特に入隊して間もない隊士たちは武功を挙げようと躍起になって、この騒乱はどんどん大きくなっていった。
そうしていると
「毛内ィ!!」
と悲鳴のように叫ぶ篠原の声が響いた。奮戦していた毛内だが入隊間もない柴岡の手によって止めを刺されたようだ。柴岡は入隊したばかりの局長附の隊士であり、腕が立ち見込みがあると考えていたが、前評判通りそれを証明して見せた。そのことが士気を挙げさらに戦いは激しさを増す。
その隊士たちの勢いを一手に引き受けたのは服部だった。服部は唯一、御陵衛士の中で鎖帷子を着込み武装していたため率先して刀を振る。おそらく彼らの中で合意したのだろう、篠原と加納、富山は鈴木を引きずりながら服部を盾にしてその場を逃れていく。
「逃げたぞ、追え!」
すかさず大石が気が付いて声を張り上げる。数名の隊士が駆けだそうとしたが、やはり服部が壁となって立ち塞がった…しかしいずれそれも終わるだろう。服部はもうすでに満身創痍だ。
そうしているうちに俺は藤堂の姿を見失った。永倉や原田もいない…目論見通り逃すことができたのだろうか?
俺はその場を離れた。隣に控えていた山崎が「お待ちください」と俺の身を案じて引き止めようとしたが、もうほとんど勝負がついている…抜刀しながら篠原たちが逃れた場所とは反対方向へ小走りで向かった。
その途中、横目に伊東の遺体が目に入った。さすがに放棄せざるを得なかったのだろう…無念の死を遂げた骸がこの騒動をどう見ているのだろうか。
伊東は死に際に
『衛士たちに手を出すな』
と言ったが、彼らは勇猛果敢だった。たとえ新撰組が先に手を出さなくても、同じ結末を迎えただろう。
(天晴だった)
心で称えながらさらに先を目指すと、服部ほどではないが多くの隊士がその先の小路に詰めかけていた。そのすべてが藤堂に向かっている…そう思った瞬間、
「去れ!こちらに敵はいない!」
と俺は怒鳴っていた。数人の隊士たちはどういうことだと困惑したように足を止めたが、それでも勢いは衰えない。
(藤堂…藤堂…!)
俺はいつの間にか必死に藤堂の名前を呼びながら、隊士たちをかき分けて耳を劈く甲高い音を頼りに走った。魁先生に相応しい気合が聞こえなくなっていることがますます俺の心を掻き立てる。
するとまず視界に入ったのは永倉だった。そして原田が槍を構えて…彼らの前に藤堂がいる。
「藤堂…!」
俺が呼ぶと彼は振り返った。池田屋で負った額の傷が見えなくなるほど血まみれになっているが、大きな傷を負っていないようで無事だ。
「…ひじ…」
藤堂はその愛嬌のある瞳を見開いて状況を把握しようとしているようだった。数名の隊士に囲まれているものの、永倉と原田は藤堂を襲おうとせず、道を開けようとしている。しかし藤堂の中で踏ん切りがつかないのか迷っているようにも見えた。
(行け…!)
俺は頷いた。新撰組の副長という立場上、事情を知らない隊士たちの前で「逃げろ」とは口にできない。けれど顔なじみの食客としてその意図は藤堂に伝わったはずだ。
彼は一瞬泣きそうな顔で唇を引き結んだが、意を決したように走りだした。これで永倉や原田の思いは報われる、近藤先生の願いも叶う、総司も喜ぶ―――今は手を携えることができなくとも生きていればまた機会はある…。
そう思ったのに。
「待てい!」
声を荒げながら俺の傍を一人の隊士がすり抜けていく。妙に足の速く素早い壮年の隊士が藤堂めがけて刀を振り落としたのだ。
「まっ…!」
待て、とその言葉さえもう遅い。藤堂の背中を一閃した刃は肩口から腰…どう見ても致命傷を与えていたのだ。
「平助ェェェ!!!」
原田の悲鳴が響く。永倉が駆け寄って藤堂に手を差し出そうとする…そのすべてが一瞬のことなのに、俺にはとてもゆっくりと進んでいくように見えた。
この薄暗いなか藤堂の真っ赤な血しぶきが目に焼き付く。
しかし藤堂は倒れずにその場に踏ん張った。そして己を斬った隊士目掛けて振り向きながら思いっきり刀を横に払ったのだ。隊士は防御したものの壁まで勢いよく投げ飛ばされた。
そして藤堂は片膝をつき、「はぁはぁ」と荒い息を繰り返した。するともう意識が朦朧としているのか手を差し出そうとした永倉に向かって刀を振るった。もちろん致命傷を受けた藤堂の身体には力が入らず、永倉に避けられた拍子にそのまま倒れ込んでしまう。
「平助、平助…!」
「…大丈夫だ、池田屋の時と一緒だ…きっと塞がる!」
ただ名前を呼び続けるだけの原田が号泣し、永倉の虚しい励ましが響く。隊士たちは状況を察したのか数名が後ずさりしていくが、俺は己の胸に去来する虚しさを抱えながら藤堂に近づいた。
(俺は…ずっと前に藤堂を助けることができたはずだ…)
できたのに、そうしなかった。こうなるとわかっていたのに、ずっと…藤堂を見捨ててきたのではないか。
俺は詫びたい気持ちに駆られたが、何を口にしたところでこの結末は変わらないのだと思うとその言葉を飲み込むしかできなかった。
永倉の腕の中の藤堂は刀はしっかり握りしめているが、もう虫の息だ。藤堂もそれをわかっているのだろう、穏やかに微笑んで明るくなり始めた暁の空をぼんやりと見上げていた。
原田は泣きわめき、永倉は必死に言葉をかけるが藤堂は二人の顔をまじまじと見た後に、気が付いて俺をぼんやりとみていた。
そして藤堂は口元を綻ばせ、一言だけ口にした。
「ありがとうござい…ました…」
その瞬間、カランと彼の手から愛刀が地面に落ちたのだった。









787 ー帰花6ー


兄の遺体を駕籠に運ぼうとしたときに、状況は一変した。
不気味なほど静かだった暗闇の中から、まるで獣の群れに襲われたかのように人影が現れあっという間に俺たちを囲った。顔は黒布で隠されているが新撰組に違いないと確信できた。
兄を亡くした悲しみから途端に憎しみが沸きあがり現実に引き戻される…すでに抜刀していた衛士たちは兄と俺を守るように立ち塞がった。
「伊東先生を…!」
頼む、と誰かが言い終わる前に斬りあいは始まった。静寂を切り裂くギィンという音が鼓膜を揺らす。
俺は何とか兄の遺体を駕籠に乗せようとしたが、想定した以上に敵の数が多く一瞬でも背中を向ければその途端に隙を見せることになる…そんなぎりぎりの状況だったため俺も兄から離れて応戦せざるを得ない。抜刀し、どうにか奮闘した。
北辰一刀流と神道無念流を修めた兄ほどではないが、俺もそれなりに鍛えたつもりでいた。しかしこの土壇場になると身に着けた型など意味をなさず、ただ闇雲に刀を振るうしかできない。俺の壁になってくれた篠原さんや加納さん、服部さんもまともに敵を攻めることはできずどうにか持ちこたえているという状況だ。
(一体何人いるんだ…!?)
御陵衛士の数など新撰組は当然把握しているはず。それなのにいまだに数は増え続けている…総動員で襲撃してきているのだとすれば勝ち目はない。
(どうすれば良いんだ…)
半ば絶望しながら身を守るしかないなか、
「毛内ィィ!!」
突然、篠原さんの絶叫が聞こえた。素早い動きを得意とする毛内さんは誰よりも先に先陣を切って新撰組に突撃していったが、そのまま力尽きたのだろうか。俺は感情が昂り新撰組への憎しみが増していき、目の前の隊士を斬り倒した時も、蟻を踏み潰すのと大差ない殺伐とした気分だった。
(殺す、殺す…!俺がここで倒れても、絶対に…!)
頭が沸騰する。
自分の命などもうどうでも良い。兄の無念を晴らすため、同志のため、一人でも多く殺すことだけしか考えられなかった。
そんな時、
「逃げろ!」
と服部さんが叫んだ。篠原さんは
「馬鹿を言うな、こんな状況で…!」
「篠原、全滅する気か?!」
「しかし!」
強情な篠原さんは譲らず一歩も引こうとしないが、服部さんが敢えて篠原さんが相手にしていた敵を引き受けた。
「俺は鎖帷子を着ている、新撰組のことも良く知っている、自分の力量もわかっている!もともと死ぬつもりでここに来た!」
「そんな…」
「内海が言っていただろう、安易に命を投げ出すなと!誰かが犠牲にならなければならないなら俺が引き受ける!」
誰よりも前線に立っていながら、服部さんが一番冷静だったのだろう。その証拠に皆が不要だと言っても、戦支度を欠かさず鎖帷子を着用していた…たった一人で覚悟を決めていたのだ。
篠原さんは苦虫を嚙み潰したように顔を顰めたが、傍にいた加納さんと目を合わせた。二人は阿吽の呼吸で意図を汲み取りじりじりと退路へ下がり始める。そして俺は加納さんに「行こう」と手を引かれたが
「俺は戦います!!」
と拒んだ。
「馬鹿を言うな、服部が無駄死にになると言っただろう!」
「構いません!兄上を殺した奴から逃げ出すなんて…!」
「逃げるんじゃない、引くだけだ!」
加納さんが慰め、篠原さんが怒鳴る。けれど俺はどうしても飲み込むことができず目の前の隊士を斬り伏せて、服部さんの元へ駆けつけた。
「俺も残ります!」
疲れなんて感じないが、すでに息切れして動きは鈍い。服部さんはそんな俺を見て少し笑った。
「…鈴木君、兄君の気持ちを無駄にするな。本当なら君は美濃へ行っているはずだったんだ、それがどういう意図か…わかるだろう?」
「それは…!」
「一旦引け。先生のために、一矢報いるんだ」
服部さんはそう言うと、さらに前へ進み隊士たちを引き付ける。すでに満身創痍のはずだが勇猛果敢な剣捌きは周囲を圧倒し、たった一人なのに大きな壁となっている。
俺は己の無力さに悔しさを噛み締めながらも仕方なく敵に背を向けて兄の元へ向かった。こんなところに置いていくのは忍びない…と思ったのだが、
「やああァァ!」
と若い隊士が俺に斬りかかり、足をやられてしまった。熱い痛みを感じ俺が蹲っていると、篠原さんがやってきてその隊士を蹴り飛ばすと俺を半ば抱えながら走り出した。
「駄目です、兄上が!」
「…っ、残念だが、出直すべきだ!」
「だったら俺を置いていってください!俺なんかじゃなくて、兄を、兄上を…!」
小脇に抱えられながら俺は叫ぶ。けれど篠原さんは敢えて無視をして加納さんとともに駆けだした。当然数名の隊士たちが追いかけてきたが、服部さんの堅い守りのおかげで数は少なく加納さんがすぐに蹴散らすことができた。
けれど俺の目にはだんだんと小さく見えなくなっていく兄の虚しい遺体しか目に入らなかった。
(兄上…ごめんなさい、兄上…)
俺はこんな時まで使い物にならない役立たずで、足手まといで、いてもいなくても同じ人数合わせでしかないなんて。
そんな俺が生き延びて、兄が死んで…この先の未来に一体何の意味があるというのだろう。
俺は絶望の中で項垂れた。






『行ってくるよ』
気軽に手を振りながら去っていった伊東先生との再会が、こんなにも悲しく惨いものになるなんて…そんなことがわかっていたら俺はもっと強く引き止めたかもしれないのに。
「先生…」
「ああ、どうしてこんなことに…」
さめざめと泣く衛士たちのなか、俺は呆然と立ち尽くしながら自分の選択が果たして間違っていなかったのか…自分に問いかけていた。力なく横たわる伊東先生は傷だらけで血塗れだ。死に顔だけは穏やかに見えたけれど、俺にとっては見るのも辛い。この顛末がわかっていても…いや、わかっていたからこそそれが現実となるといっそう苦しい。本当は声を挙げて泣きたかったけれど、周囲には今か今かと待ちわびる敵の気配を感じていたので、感情に任せて理性を手放すわけにはいかなかった。
俺は唇を噛んで刀を強く握りしめる。
(…先生、仇は必ず…!)
これは伊東先生と俺の選択だ。
俺は誰かのせいにする人生ではなく、自分の信じた道を歩む人生を選んだ。それが旧友と敵対する道だとしても…先生をこんな目に遭わせた奴らを許すことはできないし、俺の選択の責任を取らなければならない。俺は先生の意思を尊重して見送ったのだから。
そして先生のご遺体を駕籠に乗せようと、数人が腰を屈めた時…ザザッと足音が聞こえた。それは数えられる数ではない…十数人の群れとなってこちらに近づいてくるのだ。
「来たぞ!」
篠原さんが大音声で叫び、俺たちは刀を構えた。自然と伊東先生のご遺体を守るような陣形となったのは衛士として当然だろう。
素早く前に出たのは毛内さんと服部さんだった。毛内さんはもともと先陣を切るのを得意としており技も巧みだ。致命傷は与えなくとも相手を負傷させて人数を削る。そして服部さんはただ一人武装してこの場に臨んでいた…他の衛士とは覚悟が違う。
そんな彼らを横目に、俺は三番手として立ち回った。敵のなかにはちらほらと見知った顔があり、俺の姿を見て実力差を悟り後ろに引く隊士もいた。新撰組なら士道不覚悟と糾弾されるはずだが、今の俺には好都合だった…俺は伊東先生のご遺体からは決して離れず背にして守りながら、次々と振り落とされる刀を避けていく。数人を斬り、血を浴びた。
「ヤァァァァァ!!」
俺は誰よりも大きく声を荒げた。そうするだけで怯む経験の乏しい隊士もいたが、それでも駆け寄ってきたのは…永倉さんと原田さんだった。
先に原田さん得意の槍が俺の頬を掠める。すぐに俺は避けて払い退けたが、次に襲い掛かる永倉さんは簡単にはいかない。試衛館にいた頃から冷静で正義感に溢れ真っすぐな永倉さんはいつも無駄のない動きで刀を振るい、その実力は沖田さんと並んでいて俺はついていくので精いっぱいだった。何より池田屋で俺は重傷を負い、永倉さんが軽傷で済んだことが実力差を示しただろう。しかし火事場の馬鹿力というものなのか、いまは対等に渡り合っている気がした。それが何でだろう…無性に嬉しい。
「あっちに行ってろ!」
原田さんが怒鳴り、周囲の隊士が後ずさる。不思議なことに永倉さんを相手にしていると他の隊士は別の衛士へと向かっていった。もともと俺の相手をするのは二人に決まっていたのだろう…これは食客としての同情なのだろうか。
永倉さんをどうにかやり過ごすと、再び原田さんの槍が向かってくるがいつも猪のように突進して、払われると大きく仰け反る。そしてまた永倉さんの厳しい太刀筋が降りかかり耳元で刀が弾く音を聞きながらどうにか避ける…それを何度も交互に繰り返す…馴染み深い彼らの太刀筋は見慣れていて、これではまるで試衛館にいた頃の稽古のようだ。あっちだ、こっちだと自分の実力を試しあい、己を高める…追い詰められているのにそんな時間が思い出されてなんだか懐かしい。
その楽しさに浮かれたせいなのか、二人の画策だったのか、俺はいつの間にか伊東先生や衛士たちから少し離れ戦いのど真ん中からは外れた所で刀を振るっていた。
すると二人は急に顔を見合わせて手を降ろした。
「…平助、逃げろ」
永倉さんの言葉に俺は「えっ?」と驚く。しかし聞き間違いではなかったようで、原田さんは「ほら!」と逃げ道を示した。
「俺たちは最初からそのつもりだ。上手くやるから心配するな」
「早く行けよ」
「永倉さん…原田さん…」
彼らが俺を見る眼差しは変わらず兄弟を見るかのような慈しみがある。彼らが本心から俺を思っていることはすぐに理解できて、その優しい誘いに俺は決心が揺らいだが、
「毛内ィィ!」
篠原さんの悲鳴を聞いてハッと我に返った。振り返ると伊東先生のご遺体の周りで衛士たちが奮闘している姿が見える。その一人で前線にいた毛内さんが力尽きたのだろう…そう思うとこんなところで悠長に彼らとの邂逅を懐かしみ、それどころか裏切ろうとしている自分が情けなかった。
「…できません」
「平助!」
俺は再び刀を振り上げて原田さんへ向かっていった。彼は目を見開いてどうにか受け止めつつ
「なあ、頼むよ平助…!俺ァお前を斬りたくねぇよ!」
と懇願する。
原田さんはいつも熱い人でつい感情が優先してしまうけれど、気骨のある姿は頼りがいがあって兄貴分として尊敬していた。そんな原田さんの言葉には嘘がなくて、本心で俺を助けようとしてくれているのはわかっているけれど。
俺は原田さんの槍を振り落とし、二人と距離を取った。
「…俺がここから逃げたって、いつか殺すんじゃないですか?監察に張らせて、命を狙われ続けるならいま決着をつけたいです」
「そんなわけねぇよ!」
「近藤先生の命令だ、絶対にありえないと約束する!」
二人が青ざめて即座に否定した。
「近藤先生は秘密裏に俺たちにお前を助けるようにと命令したんだ」
「あの人は絶対に嘘はつかねぇよ!」
「…」
知っている。近藤先生は誠実で嘘をつかない…俺を助けたいと言ってくれたのもきっと本当なのだろう。驚くほどのお人よしなのだから。
でももう、信じられるかどうかの問題じゃない。そんな曖昧な話じゃない。
「でも俺は…俺は、新撰組を許せません!伊東先生をあんな風に無残に殺したあなたたちを絶対に…!」
「……」
「だから逃げたくない。逃げたら新撰組に屈して、許してしまうみたいだ…!」
二人は必死に俺を説得しようとしていたのに、急に言葉を失った。新撰組が伊東先生を殺したのは事実で、言い逃れできない現実だったからだろう。二の句が継げず原田さんは「くそっ」と悔しそうに吐き捨てた。
そうしていると
「逃げたぞ、追え!」
と声が響き、さらにご遺体の周辺が騒がしくなる。振り返ると大柄な篠原さんの姿がない…加納さんや鈴木君、富山さんも一緒に逃げ出したのだろうか、大勢の隊士たちが流れ込むように同じ方向へと追いかけていく。それを堰き止めるように服部さんが善戦を続けていたが、腕の立つ彼でもさすがにあの数は無理だ。
(俺も加勢に行かなきゃ…!)
踏み出した時、俺の腕が掴まれた。
「…永倉さん…!」
「平助。それでもいいんだ。許せなくていい、許さなくていい。…当たり前だ、自分の主君だと思っていた人が殺されたなら、恨んで当然だよな」
「…」
「恨んだままでいい。俺たちを許してほしいなんて言わない。俺たちは…ただ生き延びてほしいだけなんだ。俺も左之助も、近藤先生も、総司も…土方さんも、そう思っているだけなんだ」
永倉さんが「そうだよな」と原田さんに視線を送る。原田さんは何度も何度も頷いて俺を見つめた。二人の表情から真摯なものを感じ、俺の心がまたぐらりと揺れた。
(ああ…俺の覚悟なんて、大したことないなぁ…)
俺は子どもでいつも目の前のことばかりに左右されてしまう。山南さんの時もそうだった、物事の奥深くまで考えることができずすぐに感情的になってしまって周囲に当たり散らした。今だって、伊東先生の無念を晴らすべきだとわかっているのに…二人の温かい友情をひしひしと感じ、それに寄りかかってしまいたくなる。
俺は永倉さんの手から逃れ、ふらふらと一、二歩後ろに下がる。そうしている間にも隊士の数は増えていき、服部さんもついに限界を迎えたのか勢いを感じなくなった。ほとんどの隊士は逃げ延びて行った篠原さんたちを追いかけて行ったようだが、俺の周りにも事情を知らぬ隊士たちが近づいているのが分かる。
もう時間はない。道を開けてくれた二人のために、それに応えるべきなのかそうではないのか…。
「藤堂…!」
迷っている俺は振り返った。
「…ひじ…」
俺の元へ土方さんが走ってくる…その表情は永倉さんと原田さんと一緒で、鬼副長ではなくかつて試衛館にいた頃の土方さんに違いない。遊び人でいつも浮ついているのに…肝心な時は絶対に頼りになる、そんな人なのだ。
土方さんは俺に『行け』と言わんばかりに頷いた。永倉さんや原田さんだけじゃない、事前に知らせてくれた斉藤さんやそれを促した沖田さん、そして近藤先生や土方さんまでも俺の身を案じてくれている…彼らの友情を無碍にしても良いのか?
(俺は何を選べば良いのだろう…)
俺は無意識に夜空を見上げた。淡い月の光は何も答えてはくれないけれど、俺の心を優しく照らし出す。
俺は自分の信じた道を歩むと決めた。
(俺が信じたのは…伊東先生だ)
『最後まで決めたことを貫きたいと思います』
どんな真実があったとしても伊東先生を信じることが何よりも自分の励みになる。そう言った俺に伊東先生は優しく微笑んで
『ありがとう』
と言った。あの時、今までどこか壁を感じていた先生とのやりとりから、ようやく互いの心に触れたような気がした。
(俺は先生のために…生き延びるべきだ)
永倉さんが言う通り、たとえ無様でも恨んだまま、憎んだまま…この場を生き延びるべきじゃないのか?
先生は御陵衛士の壊滅を望んでいたわけじゃない…たとえ自分がいなくなっても存続できる道を探してほしいと願っているはずだ。その証拠に内海さんは伊東先生の遺言に従い月真院で俺たちの帰りを待っているのだから。
(屈したんじゃない、負けたんじゃない…生き延びて御陵衛士を続けるんだ。それが伊東先生への餞となる…!)
俺は視線を戻し、みんなに促されるまま走り出そうとした。彼らの友情のおかげで俺はまだこの道を歩むことができる―――と、思った時だった。
「待てい!」
突然聞き慣れない男の声がして、同時に背中に熱いものを感じた。ガクン、と身体の力が抜けて倒れ込みそうになる。
「平助ェェェ!!!」
痛みが伝わるよりも先に原田さんの悲鳴で状況を理解した。俺はどうやら斬られたらしい…しかもかすり傷では済まされない、後ろ傷で。顔を顰めた永倉さんが咄嗟につんのめった俺に手を差し出したが、俺はどうにか踏ん張って本能的に手にしていた刀を横に払った。斬りかかった者の脇腹に当たり勢いよく倒れ込んだようだが、死んだかどうかはわからない…その反動で俺自身も消耗したが、でもそうしなければならないと強く思ったのだ。
(後傷は武士の恥…!)
…そんなことを思った俺のなかには、まだ新撰組の血が流れ続けていたのだろう。『魁先生』と呼ばれるのは嫌だったのにな…。
俺は片膝をつき、肩で息をしたがそれでも痛みで苦しい。気持ちに余裕がなくなり意識が朦朧として…近づく者全てが敵のような気がして、無我夢中に刀を振り回した。だが血を流しすぎたのだろう、それもできなくなって倒れ込むとそれは原田さんの腕の中だったようだ。霞む視界のせいで顔はよく見えないけれど、彼らが泣いているのはわかった。
「平助、平助…!」
「…大丈夫だ、池田屋の時と一緒だ…きっと塞がる!」
(どうですかねぇ、前より痛いんだけど)
そうやって軽口で返したかったけれど、もうその気力もない。次何かを喋ったらきっとそれが最期になってしまう気がした。
(だとしたら、何を言い残したら良いのかな…?)
原田さんと永倉さん…そこに土方さんもいるのだろう。彼らがどんな顔をしているのか、なんとなく想像がつく。俺は試衛館食客であることを厭うてその肩書を重荷に感じていたけれど…皆にとってまだ俺は間違いなく食客の一人だと思ってくれていた。
こうやって別の道を歩んだ末に敵対することになってしまったけれど。
(俺は皆を信じたかった…信じられる強い自分でいたかったんだな…)
長い、長い、回り道をした気がする。
伊東先生のようになりたかった。組織から反目しても貫く文武両道の美しい強さに憧れて…もっといろいろなことを教えてほしいと思ったのも本当なんだ。
でも、俺は…ずっと…みんなと一緒にいたかった。試衛館の頃のように遠慮なく本音でぶつかれる、あの時のように暮らしていけたなら良かったのに。
でも彼らが見送ってくれること…裏切り者ではなくて、仲間としてそこにいてくれることが本当は嬉しくて安心している。
だったら伝える言葉は一つしかない。
「ありがとうござい…ました…」
俺は伊東先生を選んで、ともに逝くことになるけれど、皆への感謝を無くしたわけじゃない。
みんなに出会えた感謝を。
俺を武士にしてくれたことへの感謝を。
俺が出ていくのを見送ってくれたことへの感謝を。
俺を助けようとしてくれたことへの感謝を。
俺の生き様を見届けてくれたことへの感謝を。

…これはきっと幸せな結末とは言えない。
でも、俺にとって悪くない終わり方だと思うんだ。








788


長い夜を越えて暁を迎え、油小路に陽の光が差し込んだ。
重たい眼を開け、ひんやりとした空気に身を縮めながら戸を開けた人々はそこに広がる光景を見た途端、「ひぇっ」という悲鳴とともに一気に目が覚める。
そこには薄く積もった雪の上に惨殺された遺体が四体、横たわっていたのだ―――。


土方はすべてを終えたあと、近藤の妾宅へ向かった。形式を踏んで玄関から上がるのも億劫で庭の縁側から客間に足を踏み入れる。
近藤は一睡もせず、伊東と別れた場所で土方の帰りを待っていたようだ。土方は何も言わずに近藤の前に膝を折ると、彼は静かに頷いた。
「…終わったか」
「ああ…」
近藤は暗く沈んだ土方の表情を見て、ゆっくりと悟ったようでぐっと唇を噛みながら目頭を押さえた。そして声を震わせて呟いた。
「…駄目だったか、平助は…」
「…」
ここにやってくるまでに考え続けていたのに、結局なんと答えたら良いのか…土方はわからなかった。
藤堂が死んだあと、その死を嘆く永倉と原田にぽつぽつと事情は聞いた。藤堂は最初は反発し逃走を拒み御陵衛士として戦おうとしたが、永倉たちの意を汲み最後には逃げ出すことを了承してくれたようだった。それなのに、事情を知らず功を焦った新入隊士の三浦が斬り付けてしまい、目的は叶わなかった。
そう話すと、近藤は険しい表情のまま首を横に振った。
「三浦君を責めてはならん。新撰組の隊士としての本分を全うしただけだ」
「ああ…。ただ怪我は重い。藤堂の最期の一振りがまともに当たっている」
「平助の意地だな…」
近藤は少しだけ笑って、魁先生の最期を称えた。けれど土方は一緒に笑うことはできず、硬い表情のまま続けた。
「…三浦だけじゃない、御陵衛士の反撃に遭って何人か負傷している。それに服部、毛内は仕留めたがその他は逃げ延び、薩摩藩邸に匿われているようだ。大石によるとどうやら伊東があらかじめ手配していたらしい」
「薩摩か…我々には手出しできないな」
「ああ。だが、伊東を含め殺した四名の遺体はまだ油小路に放置している。奴らがまた戻って来ないとも限らない…ほとんどの隊士には屯所へ戻らせたが、まだ監察には見張らせている」
その四人のなかには当然藤堂も含まれている。土方は敢えて言及しなかったが、近藤は苦い顔をした。
土方もすすんで藤堂の骸を置いているわけではない。けれど新撰組隊士たちの手前、仲間の藤堂だけを贔屓して埋葬することなどできなかったのだ。それにまだこの諍いが終わりを告げたわけではなく、逃げ延びた御陵衛士たちが躯を取り戻しに舞い戻る可能性もある。
二人は沈黙した。あらかた経緯を話し終え結果は予想していた通りだったとはいえ、藤堂が命を落としてしまったことを「仕方ない」と簡単に受け入れられるほど薄情ではない。
「…すまない」
沈黙を破り、謝ったのは土方だった。
「歳…作戦は無事に遂行した。平助は助けられなかったが…お前が謝ることじゃないだろう?」
「いや…藤堂を助ける機会はいままで何度もあったはずだ。手を差し伸べて言葉を尽くせば…素直なあいつは脱退することもなかっただろう。それなのに新撰組を見限るような状況を作った…結果、藤堂は死んだ。それは…」
「自分のせいだと言うのなら、それは違うぞ」
それまで落胆していた近藤が、はっきり否定した。
「確かに平助との行き違いはあっただろう。でも伊東とともに脱退することを決めたのは平助の意思だ。斉藤君がすべてを告げたのに油小路にやってきたのも平助自身…そして俺たちは勝負をした。…それだけだろう?」
「…」
「不運にも命は助けられなかったが…それが平助の運命だったんだ。平助が懸命に考えて選んだ結末を、自分のせいだと思うのは傲りだと思うぞ」
近藤の言葉は土方への慰めでもあり、平助への哀悼でもあり、そして自分自身への戒めだったのだろう。すっかり冷たくなった茶を一気に飲み干して、「ああ」と声を出して息を吐いた。
「…俺はもう少しここに残って、おみねさんとお勇を迎えに行く。…お前は早く屯所に戻れ、ちゃんと総司に説明しないといけないだろう?」
「ああ…そうだな」
今日は眩しい朝だ。
流石に総司も目が覚めて状況を把握しているだろう。言い訳をするつもりはないが、総司の言い分を受け止めなければならない。どれだけ怒るのかと思うと気が重いが、土方はとっくにその覚悟をしていた。
土方は立ち上がり、近藤の言う通り屯所に戻ろうとしたのだが、
「なあ…平助は何か言っていたか?」
と訊ねた。
土方が最期に聞いた藤堂の言葉…それは三浦に斬られ、意識が朦朧としながら原田の腕の中で逝く寸前の一言だけだった。
「『ありがとうございます』…それだけだ」
「……そうか」
土方は部屋を出て、やってきた庭先から妾宅を出る。近藤の啜り泣く声が聞こえたような気がしたが、振り向かずに去った。



今日は皮肉にも、昨日までの曇り空が嘘のように晴れ渡りつかの間の柔らかな朝日が顔を出す気持ちの良い朝だ。
隊士たちが不動堂村の屯所に戻ってきたのは早朝のことで、皆夜通しの任務に疲れ果て、何人かは戸板で運ばれてくる始末だった。数では新撰組が圧倒的に有利だったはずだが、御陵衛士たちの激しい抵抗にあったのか、被害が大きかったのだとすぐにわかった。医学方の山崎や山野は忙しそうに駆け回り、そこに英も加わって怪我人たちの処置は手早く行われ始める。
斉藤はその様子を横目で眺めながら、永倉の元へ向かった。彼は呆然とした表情のまま微動だにせず遠くを眺めるように縁側に腰を下ろしていたのだ。
「首尾は?」
「ああ…」
斉藤の問いかけに、永倉は目を伏せて気怠そうにしたが淡々と答えた。
「伊東の遺体を引き取りに来たのは御陵衛士のうち七名だ。命令通り、作戦を遂行したが想像以上の抵抗にあって、この有様だ。結局…篠原や加納、富山、鈴木は逃がしたが…服部、毛内…平助を討ち取った」
「…」
斉藤は永倉の返答を聞く前から何となく藤堂の生死については察していたが、それでもその現実を耳にすると徒労感は増した。斉藤が永倉の隣に腰を下ろすと彼も弱音を吐き出したかったのか、ゆっくりと語り始めた。
「…最初平助は…伊東を殺した新撰組を、俺たちを許せないと言った。だから逃げたくないと…でも俺はそれでも良いと言った。平助が生き延びてくれるなら…この先でその縁が交わる時がきっとくると信じたていたからだ。だから、あいつが駆けだした時は心底安心したのに…結局、左之助の腕の中で死んだんだ。どんなに無念だったか…」
「…なぜ死んだ?」
「新入隊士の三浦が斬った。…仕方ない、平助の顔を知らなかっただろうし、まさか敵を逃がそうとしているなんて思いもよらなかっただろう。だが、平助も一矢報いて三浦を斬り伏せた」
斉藤は怪我人たちのなかで一番の重傷を負っていたのが三浦だったことに思い至る。壮年の隊士は「痛ぇ痛ぇ」と唸り、英の手を焼かせていた。それが藤堂の最期の一振りだったのなら納得できる。
永倉は肩を落とし、深くため息をついた。
「…あの左之助が平助が死んだあと散々泣いて、その後無口になった。いまは部屋に閉じこもっている…馬鹿なことを考えないと良いんだが。…まあ、気持ちはわかる。三浦を責めることもできず、平助の骸を葬ってやることもできずいまも油小路で晒されていると思うと、気が狂いそうだ…」
「それは…」
「土方さんはまだ四人取り逃がしているからと言っていたが…伊東だけならまだしも平助の骸を囮に使うなんて…俺には理解できない」
永倉は落胆しつつも、残酷な指示をした土方に少し反感を持っているようだった。その場にいなくとも、斉藤には土方がどんなに冷たく振舞ったのか想像できる。庇うつもりはなかったが、これ以上の諍いを避けるため斉藤は口添えした。
「…仕方ないことだ。藤堂の遺体だけ特別扱いはできない。それに…新撰組に手厚く埋葬されたいなど、藤堂は思っていないはずだ」
「そう……かもな」
斉藤の言葉に永倉は悔しそうに唇を噛んだ。普段から冷静な永倉も本当はわかっていたはずだ、土方がそんな命令を憎しみから口にしたわけがなく、悲しみを押し殺してそうせざるをえなかったのだと。
永倉は何も言い返さずに「頭を冷やしてくる」と言って立ち上がり去っていくと、入れ替わるように山崎がやってきた。
「手当は終わったのか?」
「へえ、まあ。ハナさんがおってくれて助かりましたわ。死者はおらへんが、怪我人が多い。服部は手強かったなぁ…」
「逃走した四人は?」
「大石によると薩摩藩邸に逃げ込んだとか。月真院ももぬけの殻で、きっと内海や阿部もどこかへ匿われとるやろう」
「薩摩か…伊東が先んじて話をつけていたのだろう」
「そうやろうな、流石に周到や」
山崎は厳しい顔をしつつ、手に付いた血の汚れを懐紙で拭く。監察方と正反対の医学方のどちらの表情も持つ有能な隊士だが、さすがに疲れた表情を見せていたが、
「奴らの動向から目を離すわけにはいかへんな」
と鋭利な眼差しを覗かせた。
御陵衛士たちの伊東への忠誠心は、間近で見てきた斉藤が一番よく知っている。特に彼の右腕だった内海と実弟の鈴木、長年の友人である篠原や加納が生き残ったのだからこのまま何の報復もせず黙っているわけではないはずだ。
「…ところで、沖田せんせは?もう具合はええってハナさんはゆうてたけど」
「ああ…」
山崎の問いかけに、斉藤は視線を外した。
総司はあれからずっと土方の部屋でその帰りを待っていたのだ。






789


土方が近藤の妾宅から屯所に戻ると、一通りの片付けが終わったようで静かだった。しかしここを出て油小路へ向かった時の緊張感はいまだに漂っているようにも思えて、土方が戸板の冷たさを感じながら立ち尽くしていると、待ち構えていたように山崎がやってきた。
「お戻りですか。ご指示通り朝番の巡察は取りやめさせて、ほとんどの隊士は自室で休息を取っています」
「そうか、夜番からはいつも通りにさせる」
「はい」
山崎の報告を聞きながら、土方は怪我人が処置を受けている広間へ向かった。十数名の隊士が横になり、医学方の山野や少年小姓たちが世話を焼いている。予想よりも重傷者は少なく済んでいるが、まだ完全に決着していないのだから油断はできない。
土方はその様子を眺めながら腕を組んだ。
「何か知らせは?」
「役人から問い合わせが。油小路の骸の件で…無関係やと突っぱねましたが、えらい怪訝な様子で去っていきました」
「…仕方ない、このままやり過ごせ」
「はい」
伊東は朝廷や土佐、薩摩と関わりがあったため、安易に殺害を認めては面倒になるだろうということで無関係を装うことを決めていた。旧幕府や会津は御陵衛士が新撰組の派生組織であると認識しているためそのうち何らかの伝達があるだろうが、それまでは余計なことはせず口を閉ざすことを隊士たちにも伝えていた。
するとその場にいた英が土方たちに気が付いて声をかけてきた。挨拶もなく状況を説明する。
「怪我人は十二名、重傷は一人。縫合したけれど出血が多いから詳しくは松本法眼か南部先生に任せた方が良い。ほかの軽傷者の膏薬は山野に渡してるから無理をさせず安静にさせて」
「ああ…悪かったな」
「成り行きだから仕方ない」
英は淡々と報告していたけれど機嫌が悪そうだった。挙句、その端正な顔立ちを歪ませて
「でも、歳さんが悪いと思う」
と真正面から文句を言われた。
けれど、昨日からずっと付き合わせて怪我人の処置まで頼ってしまったのだから怒るのは当然だろう。
「…事情を話さなかったのは悪かった。部外者のお前を巻き込んで申し訳ないと思っている」
「部外者だから話さなかったってこと?じゃあ沖田さんも部外者ってこと?」
英の言葉に、土方は少し驚いた。隣にいた山崎は「ハナさん」と嗜めて止めようとしたが、英は構わずに続けた。
「俺は本当に部外者だから詳しい事なんて聞きたくもない。でも、沖田さんは違うでしょう。結局知ることになるのなら、かつての仲間が死ぬかもしれないんだってちゃんと話した方が良かったんじゃないの?蚊帳の外にしないでさ」
「…なにかあったのか?」
「本人に聞いてよ。でも…ひと悶着あって喀血した」
「何…?」
土方は眉間に皺を寄せた。英は「軽いものだから」と補足したが総司は昨夜、ただただ穏やかに眠り続けて朝を迎えたというわけではなく、何らかのきっかけで油小路の件を知ってしまったのだ。
土方は動揺を隠せず、英は大きなため息をついた。まだ何か言いたいことがあるようだったが飲み込んで背中を押す。
「早く行かないと。ずっと…歳さんの帰りを待っているんだから」
「…わかった」
土方は山崎に「頼む」と伝え、二人に背中を向けて総司の部屋に向かった。すべてのことを知ってしまった総司へ何を言えば良いのかはわからなかったが、一刻も早く会うべきだという一心だった。
長い廊下を早足で歩き隊士たちの個室を通り抜けると、総司の部屋の前の縁側で斉藤が正座していた。彼も待ち構えていたのか土方の顔を見るや、「申し訳ありません」と頭を下げて任務の失敗を伝えたが、土方には責めるつもりなど毛頭ない。
「総司は?」
「副長の部屋に」
「わかった…後で話を聞く」
土方は短く話を切り上げて、そのままその先の自室へ向かう。急ぎ足で部屋の前まで来たがふいに足が止まり、躊躇いを感じた。けれど部屋の中で待つ総司は土方が戻ってきたことに気が付いているはずなのだから、ここで考え込んでも仕方ない。
意を決して障子を開けると、総司は
「おかえりなさい」
と穏やかに言った。斉藤のように正座をしていたが、その膝の上には黒猫がゴロゴロと甘えるように転がっていて総司は指先でじゃれあいに付き合っている。英に半ば脅されて駆けつけた土方にとっては意外な光景で、緊張感が削がれたような気がした。
「なんだ、その猫は…」
と思わず訊ねた。
「昨夜からすっかり居ついてしまったんです。何度か外に出しても戻ってきてしまって…まるで長年暮らしている飼い猫みたいでしょう?」
「…猫の毛は身体に障る」
「そうなのかな、あとで英さんに聞いてみますよ。…今はお忙しそうだから」
「そうか…」
総司の些細な言葉ですら婉曲な嫌味のような気がしたが、黒猫が総司の手から離れて土方の足元に纏わりついてしまい、話が途切れる。しかし黒猫は土方の足元を一回りするとあっさりと興味を無くして総司の元へ戻っていった。品定めをされたような気分だった。
土方は猫を挟んで総司の前に座った。総司は猫を相手に一見穏やかな表情を浮かべているが、それが上辺だけのものだということは当然わかっていたが、謝れば良いのか、言い訳をすれば良いのか、土方には判断が付かない。
しばらく互いに黙っていると、総司の方が先に口を開いた。
「昨日はずっと夢を見ていて…とても長い夢で、懐かしい人に会ったんです。芹沢先生や山南さん、君菊さん…でもどんな話をしたのか忘れちゃいました、まあ夢なんてそんなものですよね。辻褄が合わなくって…でも、なんだかとても都合の良い会話をした気がします。…それで目が覚めた時に胸騒ぎがして、部屋を出たらこの猫に会ったんです」
「…」
「この猫はね、以前壬生にいた時にも二回、ふらりと現れたんです。一度目は芹沢さんを斬る日、もう一度は山南さんを大津から連れ戻して介錯をする前です。どちらも私にとっては…あまり良い出来事とは言えません。だから昨夜、この猫を見た時に『また何かあるんだ』と気が付いてしまったんです。…だから皆を問い詰めて事情を聞き出しました。私を見張るように言いつけていたのでしょうけど、斉藤さんは悪くありませんから」
総司は指先で猫の頭を撫でる。猫は心地よさそうに瞳を閉じて総司に寄り添っているように見えた。
芹沢と山南の節目に現れたのなら不吉な猫なのではないか、と土方は怪訝な顔で黒猫に視線をやるが、猫の方は意に介さずおとなしくしている。
そうしていると
「藤堂君はどうなりましたか?」
と、総司が脈絡なくあまりにも淡々と訊ねたので、土方は一瞬答えに窮したが、
「…死んだ」
そう答えるしかなかった。誰が言わずとも総司は先に帰営した原田や永倉の様子から察していたのだろう、あまり表情は変えなかった。
「そうですか…」
「藤堂の顔を知らない新入隊士が斬った。永倉や原田は助けようとしたが…俺の目の前で死んだ」
「…じゃあ、皆が見届けたんですね」
「ああ…」
それが藤堂の救いになったのかどうかは、本人に聞いてみなければわからない。だが死に顔は穏やかなものだったことは、残されたものへの救いにはなるだろうか。けれど、総司はその顔すら見られなかったのだ。
土方は居住まいを正した。
「…お前に話さなかったことは悪かったと思っている。話を伏せたのは、お前が知れば現場に行きたがると思ったからだ。近藤先生と相談の上でお前の身体に障るのを避けるべきだと考えが一致した」
「ええ…そういうことだろうとわかっています。近藤先生の決めたことに異議を唱えるつもりはありませんし、実際私が立ち会ったところで何ができたわけでもありません。いつ喀血するかどうかわからないのに夜襲なんて、足を引っ張るだけでしょう」
「…」
総司は冷静に客観的な返答を続けているが、土方にはいっそのこと怒鳴ってくれる方が気が楽だと思えた。怒りでも悲しみでもない何か深い絶望のようなものが総司の表情や言葉の端々から垣間見えてしまうのだ。
土方は思わず手を伸ばした。けれどその手を目掛けて黒猫が素早く引っ搔こうとしたので引っ込めるしかない。黒猫はまるで総司を守るかのようだ。
そんな黒猫を「こら」と総司は宥めつつ再び膝の上に乗せて、改めて口を開いた。
「…歳三さん、私は謝ってほしいわけじゃないんです。全部、仕方ないことだってわかってます。私だって近藤先生のお命を狙ったのなら御陵衛士を殲滅すべきだと思っていたし、藤堂君一人を優遇できないとわかっていました。斉藤さんに話を聞いた時は蚊帳の外にされてカッとなってしまったけど…皆が私を思いやってくれたんだって、ちゃんと理解しています」
わかっている、理解している…そういいながら総司は目を逸らしていた。この部屋に入ってからずっと総司はずっと黒猫へ視線を落として、土方を見ようとしなかった。いつも人の目を見て話す総司が敢えて避けているのだということはすぐにわかっていた。
「だったら…俺の顔を見てそう言え」
けれど指摘しても尚、総司は躊躇って目を伏せる。饒舌に語っていたのは言葉の盾のようなものだったのか、急所を指摘されると途端に黙り込んでしまう。
土方は続けた。
「怒ればいいだろう。お前は許そうとしなくていい。何も知らせなかった、藤堂を殺した…そう責めればいい」
「…責めたいわけじゃないんです。だって、本当は誰よりも藤堂君を助けたかったのは歳三さんでしょう?彼を追い詰めたのは自分だってわかっているから、だから命だけは助けたかったはずです、そうでしょう?」
「…、俺は…」
(俺にはそんなことを言う資格はない)
藤堂を追い詰めておいて今更そんなことは口にできない。誰かに苦悩を漏らすつもりはなく、仲間を見捨てた冷徹な鬼副長のままで良いと思っていた。だから総司の憤りを受け止めて、今までの過ちを時間をかけて飲み込むつもりだったのに。
夜通し働いたせいで頭がうまく回らず、土方はこめかみに指を添わす。すると総司の膝元にいた黒猫が不意にそこから離れて部屋を出て行った。
すると今度は総司が距離を詰めて、土方の掌に自身の手を伸ばした。
「…歳三さん、覚えていますか?私は…何があっても責めないって言いましたよ」
「総司…」
「それに、藤堂君と最後に会った時に彼は『ありがとう』って言っていたんです。だから不思議と彼への心残りがありません。むしろ仲の良かった永倉さんや原田さんに看取られたのなら藤堂君も本望だったんじゃないかって、そう思うんです…それも都合の良い願望かもしれませんけど」
総司の手のひらと、土方のそれが重なった。冬の一晩を外で過ごしてカサカサに乾いた指先に総司のぬくもりが伝わっていく。
総司は「逝ってしまったんですね」と呟くと、唇を噛み込み上げた感情を飲み込むように黙った。そして続けた。
「…藤堂君を救えなかったのは…誰か一人のせいじゃありません。皆が等しく責任があって、藤堂君が選択を重ねた先にあっただけなんです。だから…私は悲しいだけです。あの元気で、明るくてみんなに好かれて、大切な弟分だった。誰よりも勇敢で真っすぐな…そんな藤堂君がいなくなってしまった…それが悲しいな…」
総司が長い睫を伏せると、堪えていたものが溢れるように一筋の涙をこぼした。
親しかった人への純粋な哀悼と惜別の涙―――それはまるで透き通った美しく貴重なもののように思えて、土方は指先で受け止めた。そうすると不思議と心の靄が少しだけ晴れたような気がした。
(俺はお前のように泣けないが…お前が代わりに泣いてくれるならそれでいい)
そして互いの額を重ねた。
「…お前は大人になったな」
「それ…誰かに言われた気がする…誰だったかな…」
「だが怒っているだろう?」
総司の言葉の端々には憤りを隠せていなかった。土方が問い詰めると、総司は少し拗ねたように口を窄ませた。
「だから…私が怒っているのは、藤堂君を救えなかったことじゃなくて隠し事をされたことなんです。どんなに役立たずでお荷物でも…隠し事だけはしないでください。少し時間はかかるかもしれませんが、どんなことがあっても受け止めますからちゃんと話してください」
「…ああ、わかった」
「本当にわかってますか?約束してください」
「約束する」
「本当かなぁ…」
土方があっさりと口にしたので、総司は疑わしいようだったがそのまま抱きしめるとしばらくは身を任せた。
総司に焚きしめられた香の匂いのせいかそれまで全く感じなかった睡魔に襲われる。
(疲れた…)
いつか、伊東と対立するだろうと分かっていた。遂にその日が来て、何もかもが終わって…犠牲も多かった分、決して快い気分ではないが少しだけ肩の荷が下りたような気持ちだった。
(ようやくお前のもとに戻れた)
「…寝てください。お疲れでしょう?」
「まだ、話したいことがあるんじゃないのか…?」
「……それはまた今度」
総司がまだ何か話したそうにしていたのはわかっていたが、疲労が募ったのか土方は聞き出せないまま目を閉じた。
そして夢も見ずに眠った。








790


会津公用人の広沢とともに小姓頭の浅羽が新撰組の屯所を訪れたのは、翌日の朝早くのことだった。
「油小路のことは我が殿のお耳にも入っている。かつての同志が無残に殺され、いまだに骸が晒されているようだがどうお考えか…?」
広沢は探るように訊ねてきたが、近藤は動揺しなかった。
「伊東は手練れでしたからあっけなく斬られるとは思いもよりませんでした。いったいどこの不逞浪士に襲われたのでしょうか。土佐あたりかと思っているのですが、あちらは分離した組織で勝手な手出しはできません。我々はこれからのことを衛士と相談すべく、生き残った衛士を探しているところです」
二人は当然、近藤の素知らぬ返答をまるまる信じたわけではないようだが、しかしこれ以上追及するほど証拠はなかったのだろう。広沢は何も口にしない代わりに不快感を隠さなかった。
「…民からの苦情が届いている。いつまでも骸を放置しておくわけにもいくまい」
広沢は懐から袱紗を取り出すと、「葬式代にせよ」と二十両ほど差し出した。近藤の傍らに控えていた土方が受け取って、広沢は「早めにな」と念を押して用事が済んだと言わんばかりに去っていく。
近藤はあからさまに安堵した顔を浮かべた。それは広沢から責任を追及されずに済んだことへの安堵感ではなく、『葬式代』を渡されたことでようやく伊東や藤堂の骸を葬る理由ができたからだ。逃げ延びた衛士たちを誘き寄せるためとはいえ、死んだ者たちを晒し続けることは近藤にとっては不本意な選択だった。
「…浅羽殿、私は少し休みます。どうぞごゆっくり」
近藤は浅羽に頭を下げ、客間を出て自室へ戻っていく。部屋には土方と浅羽が残った。
「…気が晴れましたか?」
それまで何も言わずに成り行きを見守っていた浅羽が土方に問いかける。広沢のように感情を滲ませることはなく、淡々とした口調だった。伊東を殺し、御陵衛士を殲滅した…当然、会津はこれが他藩による介入ではなく新撰組の内部紛争だと理解しているだろう。
しかし土方は
「いや…まだ使える駒だったのに、殺されるとは」
ととぼけた。近藤ですら堂々と嘘を貫き通したのだからいくら親しい浅羽とはいえ、認めるわけにはいかない。浅羽もそんな土方の考えなどお見通しだった。
「ええ、優秀な人材でした。我が殿も期待されていましたが…世の変わり目ですから仕方ありませんね。…骸はどちらへ?」
「光縁寺へ」
「新撰組のゆかりある場所でしたね」
「…まあ、そうです」
土方は躊躇いながら返答を口にした。光縁寺には山南をはじめとして確かにゆかりはあるが、他にも切腹して果てた者たちの墓も並んでいる。新撰組を分離した伊東たちにとっては不本意な埋葬場所となるだろう。
「それで、残りの衛士たちはどうなりましたか?先ほど近藤局長は曖昧にお答えされましたが、新撰組のことですから目星はついているんでしょう?」
「…多くは薩摩藩邸に逃げ込んだようです。月真院を探らせましたがすでにもぬけの殻で…手練れが生き残っているので油断はできません」
「薩摩ですか…」
土方は油小路が片付いた後、月真院へ数名の隊士を向かわせたが現場を逃げ延びた篠原や加納、鈴木はなく、戦闘に加わらなかった内海も姿を消していた。伊東という頭目を失いしばらくは再起できないだろうが、それでも存在は無視できない。早々に見つけ出したいところだが、薩摩となれば相手が悪く、浅羽も苦い顔を浮かべながら、
「まだ、終わっていないんですね」
と呟いた。
土方はその通りだと思った。



永倉は稽古を終えて自室へ向かって歩いていた。
(身が入らなかった…)
稽古を振り返りながら深くため息をついた。
稽古の前に土方から油小路の骸が会津の命令により埋葬されると聞き、ようやく一区切りになると思った。敵とはいえいつまでも寒空の下に骸が晒されるのは気分が悪く、またそのなかに藤堂のものがあると思うと、仕方ないとわかっていても胸糞が悪かったのだ。
けれど気持ちの整理がついたと思っても、稽古中ずっと考えてしまうのは藤堂の死に際のことだけだった。藤堂は何を思いながら、どんな気持ちで死んだのか…彼の最期の言葉は『ありがとうございます』だったけれど、どれだけ不本意だったのかと思うとやりきれない。
(礼を言われることなんて何一つしてやれなかったのに…)
重い足取りで歩いていると、目の前に小姓である泰助の姿が目に入った。ある部屋の前で眉を顰め困惑した表情を浮かべて立ち尽くしている。
「どうした?」
「あ、永倉先生…その、これ…」
泰助の両手には盆が握られていて、その上には大きな握り飯が二つと汁物、香の物が添えられていた。泰助が立っているのは永倉の部屋の横…原田の部屋の前だ。それだけで事情を察した永倉は
「俺が渡しておく」
と引き受けて仕事に戻らせた。部屋のなかからはずっと嗚咽が聞こえていて、泰助も入りづらかったのだろう。けれど永倉は「入るぞ」と遠慮なく障子を開け、膝を折りさめざめと泣く原田の前に盆を置いた。
「左之助、もういい加減にしろよ」
「…なんだよ、つめてぇ野郎だな…もう吹っ切れたのかよ」
原田は八つ当たりのように牙を向けるが、永倉にはそれでも随分ましになったように思えた。直後、普段から感情むき出しの原田が黙り込み、顔面蒼白のまま自室に引きこもってしまった時に比べれば生気が戻り顔色も良い。
「若い小姓を困らせるな。…明日は朝から巡察だろう?」
「…わかってる。でも仕方ねぇだろう…飯なんか、食う気になれねぇよ」
原田は大きな握り飯を見るや再び目を伏せて、散々泣き腫らした目からまた大粒の涙を流した。
「でっけぇ…握り飯だなぁ、しかも下手くそだ」
「…大目に見てやれよ」
「でもさ、試衛館の時もそうだった。俺がでっけぇの作ったら、平助が口に入るわけねぇってさ。でも近藤先生の口には入ったんだよなぁ…面白かったぜ、あれは…」
「…そうだったな」
原田に引きずられるように些細な日常を思い出すと、胸が締め付けられた。無邪気な笑みが脳裏によぎると、あの無残な死がさらに引き立つようだった。それは山南のように静かに自分の意思で死を選ぶ姿を見ている虚しさとは違う、まるで急に奈落に突き落とされるような悲痛な気持ちだ。
すると原田は涙を拭いながら急に天を仰いだ。
「…俺、何やってんのかな…」
「左之助…」
「平助が死んで、悔しくて悲しくて何にもしたくねぇのに…明日は巡察で、手ぇ抜いたら切腹で。逃げ出したら捕まって殺される。…試衛館と何も変わらねぇって思ってたのに、全然違うんだぜ。なあ俺、何のためにここにいるんだっけ、何のために…」
「…」
永倉は答えられなかった。今までに一度もそんなことを考えたことがないわけではない。葛藤と疑問は常について回っていたが、日々の仕事に忙殺されて見て見ぬふりをしていた。
(仲間が死んで…でも、俺たちは変わらないんだ…)
それで良いのだろうか?
いつまでこんな日々を続けるのだろうか?
「左之助…」
永倉が口を開いた途端、ぐるるるるるる、と深く鳴り響いたのは原田の腹の音だった。原田は一瞬唖然としながらも、泣き笑いの表情を浮かべた。
「は…ハハ、なあ、笑ってくれよ。こんな状況でも腹が減る。俺は平助が死んで哀しいのにさ、腹は減るんだぜ…だせぇ…かっこわりぃよな…」
「…左之助、そういうもんだ。悲しかろうが、悔しかろうが…腹が減る。俺たちは…生きてるからな」
永倉は大きな握り飯を手に取って、原田の目の前に差し出した。歪で今にも崩れそうなそれを、原田は両手で受けとると大きく口を開けてかぶりつく。
「あー…しょっぺぇ。泰助のやつ、下手すぎる…」
原田はぶつぶつと文句を言いながらも食べ進めた。永倉はその様子を眺めながらまた藤堂の最期を思い出していた。
(なあ平助、きっと俺たちはお前に、ありがとうございます…なんて言われるほどのことをしたわけじゃないんだ)
恩を売ったわけでも、人生を変えたわけでもない。
だが、ただただ楽しい時を過ごした。短い青春の記憶に互いの人生が重なった。…それだけのこと。
でもそれだけで十分だ。
(いつかお前の無念を晴らすからな)
何が心残りだったのか、いつか教えてくれ。
永倉はぼんやりとそんなことを思った。












解説
788 油小路事件については何点か補足を書き足します。
まず斉藤はもともと間者として御陵衛士に潜入していたという説と、そうではなく御陵衛士での待遇や不満を理由に新撰組に帰参したという説があります。また斉藤が帰隊したときにもたらしたと言われる「伊東による近藤暗殺計画」は存在せず、伊東が提出した建白書の内容が近藤の意見にそぐわない内容であったことなどを理由に対立して油小路へつながっています。(実際近藤暗殺計画があったと証言しているのは永倉のみであり、他に資料にはそれはない)
事件当日、伊東は協力関係にある新撰組からの資金提供を餌に、近藤の妾宅に呼ばれ時勢について語らいその帰り道に暗殺されているので、青天の霹靂だったのかもしれません。
その後、伊東の死体を発見した役人が月真院へ引き取るように伝え、油小路事件へと繋がります。服部は危険を予期し重装備で臨みますが、それ以外は「いざという時に逃げ遅れる」という理由で軽装で現場に訪れ、結果として毛内、藤堂、服部(重装備である故に皆の盾になったとされる)が殺されました。
藤堂は原田、永倉の指示で逃走を図りますが、顔を知らなかった三浦に斬られて殺されています。




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