わらべうた
791
油小路の惨劇を知り知人の薩摩藩士を頼った内海は、その後美濃から引き返してきた阿部とともに篠原たちが匿われている今出川の薩摩藩邸へ秘密裏に向かい、合流した。
「すまなかった…伊東だけでなく、三人も失うことになってしまった」
青ざめた篠原はその大きな体躯を小さく折り曲げて言葉少なく謝罪した。加納、富山、鈴木…皆一様に口を閉ざし、重い雰囲気だった。
「…謝らなくていい。すべて、大蔵君の望んだ結果だし、死んだ者も本望だっただろう」
内海は篠原たちを責めるつもりは毛頭なかった。内海には伊東の遺言さえなければいの一番に新撰組へ飛び込んでいたのは自分であっただろうという自覚があったので、むしろかわりに一矢報いてくれた篠原たちへは感謝しかない。
しかし加納は悔しそうに唇を噛む。
「伊東先生のご遺体はとても運べなかった。毛内や服部、藤堂も…いまは油小路に晒されていると聞く」
「人の心がないのです、奴らは…!」
怒りを滲ませる加納と富山の隣で、鈴木が感情を昂らせ俯いたまま涙を拭っていた。彼らは事件の後、すぐに藩邸に逃げ込んで時が止まっている。内海は「慰めにはならないかもしれないが」と前置きして口を開いた。
「この数日間は俺たちを誘き寄せるために放置されていたが…新撰組の手によってようやく葬られたと耳にした」
「なんだって?」
「どちらへ?!」
「おそらく光縁寺だ。…大蔵君には不本意だろう」
説明するまでもなく光縁寺は新撰組に所縁の深い場所だ。篠原は「くそ」と舌打ちし加納や富山はやりきれない表情を浮かべたが、鈴木は顔を上げ泣き腫らした目を内海へ向けて
「本当ですか…」
と少しだけ安堵の表情を浮かべた。御陵衛士の頭領として不本意な葬られ方であったとしても、家族としてはようやく静かな眠りについたことに安心したのだろう。内海には鈴木の気持ちが痛いほどわかった。
内海は阿部とともに月真院から持ち出した少ない荷物を運んでいた。着の身着のままで藩邸に逃げ込んだ彼らに、十分とは言えないが私物を渡すとようやく表情が落ち着いてきた。
内海は鈴木の前で膝を折った。
「鈴木君、これを」
「…これは…!」
「大蔵君から借りていたのだろう?『回天詩記』…俺もかつてこれを読めと散々、叱られたものだ」
鈴木は読み古された『回天詩記』を受け取ると胸に引き寄せて愛おしそうに抱きしめた。
「兄上に…これを暗記して、東湖先生の辛抱強さを学べと…」
「…大蔵君の言いそうなことだ。大蔵君は東湖先生を深く尊敬していたし、その子息である小四郎殿とは親しくしていた」
「はい…俺は、小四郎殿に似ている、だから早死にするに違いないと…でも弟なら自分よりも長生きするのが道理だと…」
「…そうか…」
鈴木の断片的な話でも内海には伊東が何を伝えたかったのか、手に取るようにわかった。藤田小四郎は若くして亡くなった友人だ。賢かったが無鉄砲なところを弟に重ね、どうか早死にしない様にとこの『回天詩記』を弟に読ませようとしたのだろう…随分遠回しではあるが、内海の知らないところで冷え切った兄弟の絆がようやく結ばれようとしていたのだと思うと、さらにやりきれなさが募る。
内海は堪えきれない涙を流す鈴木の肩に手を置いた。小刻みに揺れる身体から悲壮感と憤りが伝わってくる。
鈴木は少年のように必死に涙を拭いながら、縋るように内海を見据えた。
「内海さん、俺は許せません…兄上を闇討ちし、骸を晒した…これ以上なく兄上を辱めたのです!」
「…鈴木君」
「止めても無駄です。俺は許しません…!絶対に報いを受けさせます!」
新撰組に制圧され蹂躙され、御陵衛士は破滅した。目の前で何人もの同志が死んでいった光景は目に焼き付いていたが、おめおめと引き下がるわけにはいかない。
しかし鈴木の強い決心と覚悟を目の前にしながら、内海は「時を待とう」と淡々と告げた。感情の起伏のない返答に鈴木は(その気がないのか)とカッと眉を吊り上げたが
「俺がやる」
と内海が静かに口にした。鈴木はようやく気が付いた。内海は誰よりも昏い瞳を抱えていたのだ。
「…今は、大蔵君たちの冥福を祈ろう。そして時が来たら…必ず贖わせる」
総司は肩に羽織を掛け、道場の角に腰を下ろしていた。新撰組は油小路事件から数日経ち、骸を葬ったことでいつもの平穏を取り戻しつつあった。
今日の稽古当番は永倉だ。いつものことながら実直に指導する姿は凛々しくもあり頼もしい。古参の隊士たちは慣れた様子で稽古をこなすが、入隊したばかりの隊士たちはまだまだついていくのがやっとという有様で、特に少年たちは息が上がっていた。総司は口出しせず、その様子を穏やかに眺めていたところ、
「調子はどうだ?」
と斉藤がやってきた。
「私は悪くありませんけど…まさか、稽古に参加するつもりですか?」
斉藤は素知らぬ顔で道着に身を包み、竹刀を手にしている。総司に脇腹を撃たれて半月ほど経ち彼は痛みはないと言い張るが、屯所を訪れる英には毎回『安静にしていろ』と口酸っぱく言われているはずだ。
「軽く動くだけだ」
「はぁ、また英さんに叱られても知りませんよ」
「英に許可は取った」
「…きっと英さんは斉藤さんの『軽く』をご存じないのでしょう?」
剣術に縁のない英は、斉藤の軽い稽古を知らないはずで竹刀を数回振る程度だと思っているのだろう。斉藤は「さあな」ととぼけて受け流し、そのまま稽古に勤しむ隊士たちに混じっていってしまった。
総司の視線は自然と斉藤が竹刀を構える姿へと注がれた。確かに脇腹の痛みなど感じさせないほど軽快に腕を振り上げ、難なくまっすぐに振り落としている。表情も淡々としていて無駄のない洗練された動きは目立って周囲の注目を浴びているが、本人は興味がなさそうだ。一度脱退していながら、怪我を負っても元居た場所に戻る…きっと本人には葛藤もあるだろうがそれを悟らせない強い眼差しがどこか遠くを見つめている。
(斉藤さんはもう新撰組を離れないと言っていた…)
彼が彼の居場所をここだと定めたことが嬉しくもあったが、同時に信頼できる存在が近くにいるという安心感もあった。大政奉還から政権の所在はわからなくなり世の中は混乱しているけれど、悪路をともに行く友人は得難いものだ。
「…先生、沖田先生」
斉藤を眺めていたせいで、市村鉄之助が声をかけてきたことに気が付かなかった。いつの間にか稽古は休憩に入ったようだ。
「ああ…市村君」
「鉄之助で構いません。銀と一緒で兄がいますから。…先生、俺の構えを見てもらえませんか?」
鉄之助は泰助や銀之助と年は同じくらいだが、彼らよりも少し小柄だ。本人もその自覚があるようで稽古では誰よりも必死に食らいついているものの、やはり体格面で劣るため木刀が重たそうだ。総司は腰の位置や力の抜き方を指摘するが、実践しようとするとすぐにバランスを崩してしまう。
「まだ鍛え方が足りてないのかもしれないですね」
「…もっと、素振りをしたりですか?」
「いえ、よく食べて寝ることです。…焦って稽古を積んでも一朝一夕には上達しませんよ」
総司の指摘に鉄之助は複雑そうに顔を顰めた。彼が寝る間を削って自主的に稽古を積んでいることは泰助や銀之助から耳にしていた。
「でも…」
「君はまだ成長途中で、これからという時期です。なのに不相応な筋肉を身につけては枷になるだけですよ」
「…」
鉄之助は尚も不満そうだったが、総司は穏やかに語りかけた。
「…私も同じ齢の頃は稽古に打ち込みました。周りは大人ばかりで明らかな実力差があって、それが経験や年月の差だとわかっていても早く強くなりたかった…でもどうしても追いつけないところはあります」
「先生はそんな時どうしたんですか?」
「そうだな…目を鍛えました」
「目?」
総司は鉄之助を隣に座らせた。
「ここには優秀な剣士がたくさんいるでしょう?だから稽古は程々にして周りをよく観察したら良い。上手い人の上手いところを目に焼き付けて何度も頭の中で繰り返す。そして自分なりに真似をして再現する…幼少の私にとっては近藤先生だけだったから私には天然理心流しかありませんが、ここには一流の使い手が揃ってますよ」
「…確かに」
早速、鉄之助は目を凝らし、あちこちに視線を泳がせる。難しい年ごろでありながら素直な姿勢には感心するが。鉄之助からは必要以上の焦りを感じた。
「…強くなりたいですか?」
総司が尋ねると鉄之助は「はい」と即答した。
「この間、屯所で留守を任された時に思いました。こんなふうに置いていかれるのは真っ平御免だって。俺は早く一人前になって戦場に立ちたいんです」
「…」
総司は鉄之助の横顔を眺めた。まだまだあどけなさの残る顔つきだが、彼は未来への希望に溢れ己の可能性を疑いなく信じている。無謀だとか、未熟だとか経験がないだとか…そんなありきたりの言葉はいまの彼の心には届かないだろう。
(心が剥き出しのまま、そこに在るみたいな…)
思いのままに、自分の道へ駆けだしていくような。そんな眩しさを目の当たりにして、総司は自然と口元が綻んでいた。
「…先生?」
「いえ…私も君みたいな頃があったのかな…って」
「…?」
鉄之助は首を傾げた。少年期の無鉄砲さには自覚はなく、総司の言葉の意味はわからないだろう。
そうしていると休憩の終わりを告げる声が響いてきた。鉄之助は「ありがとうございました」と頭を下げて、先輩隊士たちの元へ戻っていった。
そうして再び見慣れた稽古の光景が始まったので総司は立ち上がり、道場を後にした。若々しい雄叫びがやがて聞こえなくなるまで廊下を歩き、ふいに足を止めた。
(僕も蚊帳の外は嫌だな…)
冷たい冬の風が通り抜けていく。肩から羽織った上着を握って暖を取り、また歩き出した。
そして近藤の部屋を訪ねた。近藤は火鉢の前で胡座をかき手をかざしながら温かな茶を飲んでいた。その穏やかな様子を見て総司は何だか安堵する。
「総司、どうした?具合は良いのか?」
「はい。…先生、お願いがあります」
792
日が暮れ、夜番の隊士たちが屯所を出立した頃、土方が総司の部屋を訪ねると姿がなかった。静まった部屋の空気は冷え切っていたので長らく不在しているのだとわかる。普段は夕食を終えて休む時間なので不思議に思いつつ、そのまま隣室の斉藤を訪ねたが彼もいなかった。
(まったく…病人と怪我人がほいほい歩き回って…)
油小路の件が決着しようやく落ち着いたが、医学方とともに怪我人の治療に奔走していた英から
『病人と怪我人だっていう自覚がなくて困る』
と責められた。総司は少し調子が良いと暇を持て余してすぐに出歩き、斉藤は『痛くない』と言い張って目を盗んで素振りを続けている。英は似た者同士の我儘な患者に手を焼き、ついには堪忍袋の緒が切れそうだったので、土方は彼の愚痴を受け止め『言い聞かせる』と約束したのでその手前、二人を探さないわけにはいかなかった。
(言うことを聞かないガキか…)
よほどこのほど入隊した少年たちの方が扱いやすい。
やれやれと思いながら、屯所を探し回っていると島田から「沖田先生は道場にいらっしゃいますが…」と何やら奥歯に物が挟まような言い方をされた。
「なんだ?」
「その…人払いを頼まれまして」
「総司に?」
「いえ、近藤局長です」
「…」
こんな寒い夜の道場で、人払いまでして二人で稽古をしているのか。
(それに付き合うかっちゃんもかっちゃんだが…)
病人を相手に…と怪訝に思いつつ土方は剣術に目がない師弟に半ば呆れながら、道場へ向かった。冬の夜は昼間の温もりをすぐに消し去ってしまうので早く切り上げるように声をかけなければならない。
西本願寺の屯所から移築した道場は新築の屯所と比べると年季が入っていて足音を忍ばせても軋むのだが、踏み入れる前に先客に気が付いた。
「…何をしている?」
斉藤が道場の入り口近くで膝を折って静かに座っていた。土方に気が付いても首を横に振るだけで答えようとしなかったが、土方がそれ以上先に進もうとするのを止めた。
(一体何事だ…?)
斉藤は神妙な表情のまま口を閉じている。土方は深い意図を感じながらも訊ねることはできず、仕方なく斉藤の隣に腰を下ろし道場の様子を窺うために耳を澄ませることにした。
総司と近藤は稽古着に着替えて正座をして向かい合っていた。道場は数本の蝋燭を灯しているので互いの顔ははっきりとわかるくらい明るい。
「…こうしてお前と二人きりで稽古するのは随分久しぶりだな」
近藤が懐かしそうに目を細めたので、総司も微笑んで返した。
「はい。きっと私が子供の頃以来です」
「そうだな…お前が試衛館に入門したあと食客が増えてすぐに大所帯になったからなぁ。お前は俺が思った以上に早く成長してあっという間に師範代に上り詰めた…今や剣技においてお前の上には誰もいないだろう」
「…でも、私にとって師匠は近藤先生だけです」
「お前にそう言ってもらえるのは誇らしいな」
互いに世辞はなく、心からの信頼と尊敬があった。こうして改めて近藤という師匠を前にするとどこか身体に力が入り、緊張感と高揚感で胸が高鳴る…それは例え免許皆伝まで上り詰め剣士としての名声を得ても、いつまでも変わらないのだ。
「…さあ、やろうか」
「はい」
二人はゆっくり立ち上がり、竹刀を構えた。床板の冷たさはまるで氷のようだったが気にならないほど集中していた。
合図もなく二人の視線が重なった時…総司が踏み込むとまず近藤はそれを真正面から受け止めた。その衝撃で大きく撓った竹刀が弾かれて身体が突き飛ばされるように後退する…けれどそれはどこか懐かしい感覚だった。
(先生は昔から動かなかった)
どんなに強く打ち込まれても、その大きく恵まれた体格と体幹で上手く受け流してしまう。宗次郎と呼ばれた頃、どれだけ打ち込んでも動かない石像のような近藤を見上げていた。それはたとえ目線の高さが同じになって、腕を磨いても…その巨木のような強さは得られそうもない。
「ヤァっ!!」
ならばと総司が矛先を変えて横から払うと近藤は素早く避けて薙ぎ払い、逆に踏み込んで
「ふん!」
と総司の死角に竹刀を向けた。総司はギリギリのところで躱して距離を取ったが、小手先だけの技術では近藤に敵わないのだと改めて思い知らされるようだった。総司に比べれば実戦の経験が少ないはずなのに、近藤の一手一手には気迫がある。
(だったら…)
総司は得意の突きの構えを見せて踏み込むと、初めて近藤は身構えて鋭い眼を向け総司の竹刀を受け止める。一、二、三…数えられないと評判の三段突きだが、近藤の竹刀は易々と捉えて最後の突きを避けて総司の背後に回ると、そのまま背中越しにパァンと強く打たれてしまった。
「くっ…!」
いつもなら耐えられる衝撃だったが、堪えきれずに片膝をついてしまう。
あらかじめ、近藤には『実戦のつもりで』と頼んでいたが、思った以上に容赦がない。総司は軽く咳き込みながら竹刀を杖にして立ち上がった。そして再び近藤に向かって突きを放つが、今度は一度目で叩きつけられてしまい、総司は身を翻しつつ転ぶのを堪えた。
「…はぁ…ハァ…」
「なんだ…これくらいで息切れか?もうやめるか?」
「いえ…まだ、お願いします…!」
身体の痛みを抱えながら総司は竹刀をもう一度構えて、踏み込んだ。
「やぁ!やぁ!やぁ!!」
その後何度打ち込んでも、近藤は撓むことなく姿勢を崩すことできない。けれど総司は竹刀を下ろすという発想すら失われ、体力の限界を超えても「まだまだ!」と立ち上がり無心に打ち込み続けた。時折、咳き込んでままならないこともあったが、それでも近藤が許してくれる限りは竹刀を離さなかった。
次第に足取りは覚束なく、竹刀をまともに振りあげることもできなくなっていく。基本の型が崩れ、竹刀すら重く感じるようになり何度も眩暈を覚えた。すると身体は息切れをして苦しくなる一方で、だんだんと自分の心が静かに波打つ物を感じなくなっていることに気が付いた。
あれほど熱意を持って取り組んでいたのに、まるで風のない湖畔のように心が粟立つこともない。
(ああ…僕はもう…)
行き止まりに辿り着いてしまったのか?もうこの竹刀を離すしかないのか?
「…もうここまでにしよう」
そんな総司に気が付いたのか、近藤はようやく竹刀を下ろした。総司も異論なく
「ありがとうございました」
と深々と頭を下げた。すると近藤がすでにふらつく総司の腕を取り、ゆっくりと座らせた。冷たい床板に熱が奪われていくなか、総司は声を震わせた。寒いわけではない。肩で大きく息をしなければならないほどに火照り、喉が火傷したように掠れる。
「…先生、私は…」
「いや、俺に言わせてくれ。お前はいままで沢山、いろんなものを背負い込んできたはずだ。だから、これは俺がお前に言うべきことだ」
言葉を遮った近藤は慈しむように総司を見ると、腕から肩を軽く叩き(大丈夫だ)と安心させるように頷いて最後には総司の頭を軽く撫でた。そして言葉を選び、躊躇いながらも優しく口にした。
「…お前はもう、ここまでだ」
「先生…」
「今までよくやってくれた。お前が俺のために散々尽くしてくれたことは十分知っている…だからこそ、俺はお前が苦しむ姿を見たくない。さっきみたいに自分を痛めつけるように、悲しそうに竹刀を振るう姿はもうごめんだ。…お前もそれがわかっただろう?」
総司は頷いた。
最初から近藤に引導を渡してもらうつもりで稽古を頼み、また近藤もそれを理解して付き合ってくれたように思う。そして自分なりに必死に師匠相手に竹刀を振るったが…身体はまだ剣術を欲していても、心に何も熱を感じていないとわかった。自分の限界をとっくに悟り、これが潮時だと頭で理解できていたからだ。
(僕はこれ以上続けたら、正真正銘の役立たずになる)
いくら蚊帳の外にされて、役立たずだからと置いて行かれても…足枷になるのだけは駄目だ。だからせめて無様な姿になる前に今が身を引く時なのだろう。
もちろんそれが悲しくないわけではなく、込み上げるものがあって総司は俯いた。そんな総司を慰めるように近藤は頭を撫で続けて語りかけた。
「…総司、決して自分を責めるな。剣術をやめざるを得なかったのは病のせいで…引導を渡したのも俺だ。お前は俺に言われて、仕方なく剣を置く。な、そうだな?…だから…もう…」
近藤の声が次第に細くなって感情を堪えるように震えていく。総司が顔をあげると、そこには大粒の涙を流す近藤の姿があった。
近藤自身もこうやって総司に引導を渡すことを望んでいなかったはずだ。一時は流派を譲るとまで考えるほどの一番弟子として育て上げたのに、こうして弱っていく姿を見るのは忍びなくて、だから一緒に受け止めて背負ってくれようとしているのだ。
(先生が師匠で良かった…)
総司は心底そう思いながら口を開いた。
「…先生、私は油小路の時にお役に立てなかった時から…ずっと引き際を考えていました。病で任務もまともに遂行できないくせに中途半端に上の立場に居座っていては、若い隊士が戸惑うでしょう。でも彼らの手本にならねばと思う反面、踏ん切りがつきませんでした。さっき竹刀を下ろした時も…まだできるんじゃないかって、少しだけ頭の片隅で考えてしまいました」
「総司…」
「でも先生が泣いてくださった。自分を惜しいと思って泣いてくれる人がいる…それが誰よりも尊敬する先生であることが、私にとって…とても、誇らしくて、幸せです」
そう言いながら、総司も堪えきれずに涙を流した。哀しくもあり、悔しくもあり、嬉しくもある…すべてが混ざり合った名前のない感情がとめどなく涙という形で頬を伝って流れていく。
もう二度と剣術と向き合うことはないだろう。少年の頃のように無垢な気持ちで、剥き出しの心で、無鉄砲に駆けだす日はきっと来ない。それは自分の半生を捨ててしまうのと同じで、まるで自分の身体の半分以上を捥がれるような痛みを伴ったが、それでもいつかこの日が来るとわかっていた。
諦めなければならない日が来る。
手放さなければならない日が来る。
「私は…剣を置いて、療養に専念します」
「…ああ。ご苦労だった」
総司は近藤に引き寄せられ、その温かな胸の中でまた泣いた。吐血してからずっと堪えてきた感情がとめどなく溢れていくようで、近藤とともに散々泣き暮れた。そしてもう涙が枯れるという頃に土方がやってきて
「二人とも、もう泣くな」
と優しく二人の肩に触れて慰めた。
793
総司は土方に背負われて、夜道を歩いていた。
当然土方の手は塞がっているので、足元を照らす提灯を持つ役目は総司が担いつつ、無言のまま土方の肩越しにゆらゆら揺れる淡い光をぼんやりと眺めていた。泣き腫らしたせいかいつもより視界がぼやけている気がした。
近藤とともに道場で泣き暮れた後、激しい稽古のせいか気が抜けたのか、全身の力が入らずに立ち上がることさえままならず土方に身を委ねた。近藤には休むように言われたが、どうしてもすぐ土方に二人きりで話をしておきたくて懇願して別宅に向かうことになった。本当は御陵衛士の夜襲の危険があるため夜道を歩くべきではない…そのため近藤は条件として隊士を同行させるように厳命したので、二人の少し後方に相馬と野村が付き添っている。
「なんだか…悪いことをしましたねぇ…こんな寒い夜に」
「いいだろう、別に。局長命令だ」
「そういう理不尽な命令は反感を買いますよ。…後でお小遣いでもあげてください」
「考えておく」
土方は総司の提案を突っぱねるかと思いきや、素直に受け入れた。仄かな明かりを頼りに彼の横顔から様子を窺うと、少し思いつめた様子で口を閉ざし物思いに耽っていた。
「あの、言い訳をするつもりじゃないんですけど…ちゃんと土方さんには話そうって思っていたんです。でも…」
「近藤先生はお前の師匠だし、順当な順番だ。…話はあとで聞く」
「…それもそうですね」
せっかく相馬と野村に迷惑をかけてまで静かな別宅で話をしようとしているのだから、急がなくても良いだろう。
(なんだか肩の荷が下りた気分だ…)
総司は土方の背中に顔を埋めてそのぬくもりを感じながら、ゆっくり息を吐いた。
労咳だとわかってから数か月。剣術を続けたいと駄々をこね、事実を隠し、周囲を悲しませてまで貫いた『日常』をようやく手放して…なんだか安心している自分がいた。散々、泣いて気が済んだのかもしれない。
そうしていると別宅が見えてきて、なかに敵の気配がないとわかると土方は相馬と野村を屯所へ引き返らせた。律儀な相馬は「見張りを」と申し出たが、空気を呼んだ野村が腕を引き「帰るぞ」と強引に去っていく。
総司は土方に担がれたまま、御陵衛士に襲撃されて以来久しぶりに別宅に足を踏み入れた。あちこちの建具が新しくなっているせいか、漂う慣れた匂いが変わっていて別の家かと錯覚してしまう。
「…畳の匂いがする…」
「新しい畳に入れ替えて、さほど時間が経っていないからな。…とにかく休んでいろ」
土方は部屋に総司を下ろすと、早速提灯の炎を火鉢に移し、気だるげに壁に体を預ける総司のもとへ寄せた。そして甲斐甲斐しく綿入れを総司の肩に掛けて「茶でも入れるか?」と訊ねたが、総司は
「隣にいてください」
と答えた。土方は頷いて総司の隣に腰を下ろした。
まだ頼りない火種だけの火鉢は冷たいままだが、二人はその前に並んで時折手をかざした。しばらくは無言のまま、どう切り出すべきかと思ったが、総司は
「…身を退くべきかもしれない、と初めて思ったのはここで斉藤さんに襲撃された時です」
ときっかけを口にした。そして自然と部屋を見まわしていた。
あの激闘がまるでなかったように建具が新しくなったせいかもうずいぶんと昔のような気がするが、たった半月前の出来事だ。総司は鮮明にその時のことを覚えていた。
「漠然とまだそれまでと同じように動けると思っていたんです。不思議なほど…一線を退くべきだとは思わなかった、まだやれると思っていましたし、だからこそ療養を拒んだんです。…でも本気の斉藤さんと斬りあって、自分の認識の甘さを実感しました。土壇場で自分が思ったとおりに体は動かないし、喀血でかなり消耗する…泰助と銀之助がいたからどうにか気力だけは持ちこたえられましたが、そうでなければあっさりと打ち負かされていた」
「…」
「それに、最後に銃に頼ってしまったこともずっと蟠りのように心に残っていました。納得していたつもりだったけど、自分の積み上げてきたものが否定されたような気がして…時代が移り変わろうとしているのに、私はやはり銃を受け入れられていなかった。…だからもう戦場には立てないし、盾にすらなれないのだとわかりました」
土方は口を挟むことなく、総司の話に耳を傾けていた。
「それから屯所に戻って…隊士たちの稽古を眺めていると、早くそこに戻りたいという焦りはなかったんです。私のやるべきことは彼らと共に第一線で働くことではなく、残りの時間でどうやったら新撰組のために役立てるか、それを考えるべきじゃないのか…そんなふうに自然と考えていました」
「…だから小姓たちの稽古を引き受けたのか?」
「たぶん、そうです。彼らの初々しさに触れてなんだか救われたような気がしました。自分の役目があるんだって。…でもそう思う一方で、わざわざ形にしなくても良いんじゃないかって思っていました。地位が惜しかったわけじゃありませんが…はっきりとした形で自分の居場所がなくなるのが怖かった…」
自分で自分を役立たずだと認めることはできなかった。それは幼少のころから刻まれた口減らしの感覚のせいかもしれない。役立たずは置いてもらえない、食わしてもらえない―――誰にもそんなことを言われたことはないのに、そういう風に自分を追い詰めていたせいで、大人になっても居場所を求めてしまったのだ。
火鉢の炭がほんのり温まり始める。そうすると心も解れていくような錯覚になって、それまで閊えていたものが簡単に吐き出せた。
「…でも、油小路の件ではっきりしました。私は…もうお役には立てない、引き際を考えるべきだって。これ以上出しゃばるのは迷惑だって」
「そんなことは言ってない」
「言わなくたって同じです」
土方は眉間に皺を寄せたが、総司は怒っているわけではなかった。油小路の場に連れてはいけなかったのは事実だろうし、それを責めるつもりはない。
総司は土方の手を握った。彼の冷たい指先が重なって、少しだけ暖かくなった。
「歳三さん。私はちゃんと納得しているんです。それに近藤先生に引導を渡してもらって…もう頑張らなくていいって、こんな役立たずでも惜しいと思ってもらえたことで十分満たされました」
「…本当か?」
「本当です。嘘をついているように見えますか?」
総司が顔を覗かせると、土方は複雑そうな表情のまま目を伏せた。
「…おみつさんに頼まれていた」
「姉上に?」
「ああ。もし限界が来たと思ったら近藤先生から引導を渡してやってくれと。その伝言をかっちゃんに伝えたわけじゃなかったが…そうすればお前は納得するはずだと言っていた」
「はは、姉上はよくわかってる。離れて暮らしている時間の方がずっと長いのに…不思議だな」
血縁というものが為せることなのか、と総司は苦笑するが、土方は総司の肩を引き寄せて抱きしめた。まるで羽交い締めのように強い抱擁から土方の感情が伝わってくるようだった。
「…なんだか、歳三さんの方が哀しそうですね」
師匠とともに納得して、受け入れた総司よりもそれを聞かされる土方の方がまるで痛みを感じているかのように見えた。
炭が燃えて、小さくパチパチと弾ける音を鳴らし始める。土方は抱きしめた腕を少しだけ緩めつつも、感情を堪えつつ口を開いた。
「…お前が療養を決断して、安心する気持ちはある。だが…お前が可哀想でならない。生き甲斐だった剣を置かざるを得ない…労咳が憎い…」
「…歳三さん…」
「俺は何を言えば良いのかわからない。どんな言葉を尽くしても、おまえの気持ちに寄り添えると思えない」
土方がこれほどまでに弱音を吐くのを聞くのは、総司ですら初めてだった。けれど近藤がそうであったように土方もいつかこの日が来るのを覚悟しながら、ずっと言葉を探していたのかもしれない。そう思うと愛しくて総司は抱きしめ返した。
「…気の利いた励ましなんて要りません。歳三さんの気持ちは言葉にしなくったってわかってます。だからお願いです…私をずっと傍に置いてください。私を離さないで、貴方が行くのなら地獄の果てまで連れて行ってください」
「総司…」
以前、土方は自分自身が近藤や総司と同じ道を歩いているわけではないと言っていた。非道で非情なことに平気で手を染める…そんな自分が歩む道は、立派な武士道などではないから誰も連れて行けないのだと。
けれど、いまはその道連れにしてほしいと思う。離れたくないと思うから。
総司は土方の背中に回した両手で、彼の頰に触れた。そして彼の一番近い所で誓う。
「…何もかもを失っても…貴方を想うことが生きる意味だということだけは、手放したくありません」
土方は総司の言葉に少し唖然としながら、それまでの強張った表情を解いた。そして額を重ねて
「お前はいつも突然大胆なことを言う」
「そうですか?」
「明日になって、撤回すると言うなよ」
「言いませんよ」
総司が微笑んだ口元に、土方は自らの唇を寄せた。冷たい感触が次第に温もり、互いの温度が同じになっていく。
「…寒くないか?」
火鉢は十分その役目を果たし、手を翳さなくとも温かくなっている。けれど総司は離れがたくて
「まだ寒いです」
と言って口付けを求めた。土方はそれを優しい笑みで受け止めた。
794
激動の十一月が終わろうとする頃。
「その猫、すっかり居着いちゃいましたね」
総司の傍らで寛ぐ黒猫を見て、山野は少し呆れたようにため息をついた。総司の部下としてではなく医学方として顔を出した彼は定刻の薬を持ってきたのだが、先客がいたのだ。
総司は指先で猫の顎をさする。
「山野君、猫は嫌いですか?」
「…嫌いではありませんが、猫の毛は先生のお身体に障りそうだし…黒猫は縁起が悪いと言うではありませんか」
「猫だって好きで黒く生まれたわけじゃあるまいし、きっと迷信ですよ。それに気まぐれにこうやって遊びに来るだけで、本人は飼われるつもりはないみたいですよ」
「はぁ…先生がそうおっしゃるなら…」
猫はごろごろと横になったかと思うと、山野を見るや走り去って行った。賢い猫なので自分を邪険に扱おうとする雰囲気を察して敵だとでも思ったのかもしれない。土方に会った時も『鬼副長だ』と賢明な判断で逃げ去ったのだろう。
山野はいなくなった猫を視線で追いつつ、「名前はつけているんですか?」と何気なく尋ねた。
「いえ…飼い猫にするつもりはないし、『猫』で十分でしょう?」
「…何だか先生が可愛がっているのか、そうじゃないのかわからないです」
「そうかなぁ」
山野が苦笑したので総司もつられて笑った。そしてようやく彼が持ってきた苦い薬を受け取って流し込み、口直しの干菓子で苦みを和らげる。
「隊の様子はどうですか?」
総司は訊ねた。
用事がない限り個室から出ることなく過ごすので、時折道場から活気のある声が聞こえてくるだけであまり様子が伝わって来ない。それに組長以上の個室は隊士たちが集まる広間からは離れているのだ。
山野は穏やかに答えた。
「変わりないです。油小路の件はやはりどこか気がかりでしたが…ちゃんと埋葬して、御陵衛士からの報復もないので落ち着いています。それから一番隊は島田先輩が率いてきちんと任務を果たしてますよ。まあ時々、新人の相馬や野村が小競り合いをして困らせることはありますが…」
「はは、やっぱり気が合わないのかなぁ」
「でも先生はきっと良い相棒になるとおっしゃったと伺いましたが?」
「そのうちね」
山野は「そうですかねぇ」とあまり信じていない様子だった。
真面目で賢い相馬と、破天荒だが勘のいい野村。本人たちがどう思っているのかわからないが、いざとなれば手を携えて力を発揮してくれるだろうと期待している。
(自分がそこにいなくても、任せられる…)
こんな穏やかな気持ちでいられるのは、やはり自分の能力に見切りをつけられたからだろうか。
総司が温かい茶を飲んでいると、聞き慣れた大きな足音が聞こえてきた。
「山野、ここだったか。そろそろ巡察の時間だぞ」
「先輩」
顔を出した島田は総司の前に正座して「いってまいります」と頭を下げた。一番隊を総司の代わりに率いている伍長の島田は任務へ向かう前と終えた後に毎回律儀に報告に来てくれる。それはあくまで自分は仮に一番隊を率いているだけだという自負と気遣いなのだろう。
(相変わらず部下に恵まれているなぁ)
山南の采配に感謝しつつ、総司は島田に視線を向けた。
「島田さん、お願いがあるんですが」
「なんでしょう?なんでもおっしゃってください!」
島田は胸を張って目を輝かせる。
「私の代わりに別の人が一番隊組長になっても、これまで通り伍長として支えてほしいんです」
「…は?」
「先生?」
島田は思わぬことに目を丸くし、山野は聞き間違いかと言わんばかりに眉間に皺を寄せる。そんな彼らに総司は微笑んだ。
「そのうち近藤先生からお話があると思いますけど…私は近々一線を退きます。一番隊の組長には正式に別の誰かが就くことになるでしょう。それでも変わらずに新撰組のためにこれまで通り務めてほしいんです」
島田は口をぽかんと開いた。彼は入隊以来ずっと総司の傍で支え、一番隊の兄貴分として後輩の面倒を見ながら伍長以上の出世を望まずに支えてきてくれている。島田にとってそれが変わらない日常であったために総司が言っていることをいまいち理解できていないようで、困惑していた。
しかし隣にいた山野はすぐに「そんな!」と悲痛な声を上げた。
「先生、どうしてですか!僕たちは先生がたとえ床に伏していても…先生の部下です!ほかの方の下に付くつもりはありません!」
「…でも、いつまでも一番隊の組長が不在では格好がつきません。一番隊は新撰組の精鋭部隊で、局長の親衛隊ですよ」
「それでも先生が良いです!先生じゃないと務まりません!皆、そう言うに決まっています!」
いつも冷静で大人びている山野がまるで子供のように駄々をこね、その愛くるしい瞳から大きな涙を流し、総司に縋りつく。「どうして」「どうして」と喚く山野の髪を、総司は少し困りながら慈しむように優しく撫でた。
「…もし運よく病が治って、一から剣の腕を鍛えなおして…そうしたら戻りますよ」
「先生…」
そんな都合の良い未来が、どれほどの幸運を必要とし、どれほど遠い先にあるのか。医学方の山野ならよくわかっていただろうしそれが総司の慰めでしかないと理解できただろう。
何も言えず、それでも受け入れられずに首を横に振る山野に、島田が
「もうそれくらいにしておけ」
と声をかけて山野の肩を引いた。島田自身も目に涙を滲ませて、悔しそうに唇をかみしめている。島田も本当は山野が懇願する気持ちをよくわかっているはずだ。
彼らの悲嘆を目にして総司は胸が痛くなったが、それでも彼らと同じように泣いて悲しんだところで感情を引き摺るだけだ。
「山野君、有難う」
総司はできるだけ微笑んで彼らの気持ちを受け入れた。山野は涙が止まらずに手の甲で必死に拭うが間に合わず、島田に手拭いを渡される。
島田は大きく息を吐いて、改めて居住まいを正す。
「先生、自分は…先生の一番の部下であることを自負してきました。たとえほかの方が組長を務められても…それは変わりません。先生とともに働いた誇りを胸にこれからも一番隊伍長として邁進します。それでも宜しいですか?」
「…勿論です。私が隊を離れても島田さんはとても頼りがいのある伍長です。新しい組長も同じように支えてあげてください」
「僕だって…!」
山野は目を腫らしながら声をあげた。
「僕だって、これからも一番隊の隊士です!先生の大切な一番隊のために働きます…!」
「はは…医学方との両立は大変ですよ」
「受けて立ちます!」
山野が涙しながらも威勢よく自分の胸を叩くちぐはぐな姿を見て、総司と島田はなんだか笑えてしまった。山野はようやく涙を引っ込める。もちろん赤くはれた眼はそのままだったが、随分と場が和んだ。
「…それで、新しい組長はどなたがなさるのでしょうか?」
「ああ…それは…」
斉藤が近藤から呼び出しを受けて向かうと、土方も同席していた。重要な話だと内心身構えて彼らの前に膝を折る。ちらりと表情を窺うと険しい表情というわけではなかったが、明るい話でもないようで早速、近藤が切り出した。
「斉藤君、君に頼みがあるんだが」
「はい」
「御陵衛士に行かせたせいで、君を煩わせるのは申し訳ないのだが…今後、公に『斉藤一』と名乗るのは難しいのではないかと思うんだ」
「…」
斉藤は内心いずれそういう話になるだろうと思っていたので動揺はなかったが、土方が口を開いた。
「油小路の前に御陵衛士の『斉藤一』は死んだことになっているし、たとえ死んでいなくとも御陵衛士だったお前が堂々と新撰組に戻って任務を果たすのはややこしい。面倒だが、表向きにはこれを機に改名してほしいと思っている」
「構いません。元を正せば『斉藤一』も本名ではありません」
「そうなのか?」
斉藤の過去について詳しい事情を知らない近藤は目を丸くしたが、土方は表情を変えなかった。以前、総司に話をしたことがあったし、道場で世話を焼いていた弓削が訪ねてきたときには『山口』と呼んでいたのだから察しがついていただろう。
「名についてはお前に任せる」
「…でしたら、『山口二郎』とでも。姓の『山口』なら呼ばれ慣れています」
「一の次で、二か?君らしいな」
近藤はその大きな口で噴き出して笑った。何度も名前を変えて来た斉藤は呼ばれる機会のない下の名前がどうなろうともあまり興味がなかったので、安易に二郎としたのだ。
土方は「わかった」と頷いた。
「あくまで表向きや隊士の前では『山口』とするが、内輪では『斉藤』でも構わないな?」
「はい」
あまりに淡々と話が進んでしまいもう話は終わりかと「では」と切り上げようとしたが
「待て」
と、土方は斉藤を引き止めた後、近藤へ視線を向けた。どうやらこれからが本題らしいと斉藤は改めて姿勢を正した。
近藤は穏やかな表情で口を開く。
「斉藤君、脇腹の具合はどうだ?」
「…かすり傷と言っても過言ではありません。少し違和感がありますが、道場で慣らせば問題ありませんし、南部先生にもお墨付きを頂いています」
英は『まだ完治していない』と文句を言ったが、彼の師匠である南部は『傷は塞がった』として稽古や普段の任務については許可を出した。斉藤自身も脇腹の痛みは気にならず、支障はない。
近藤は「それは良かった」と頷いて話を続けた。
「君の傷は治って、名前も変える。これからも心機一転、新撰組で励んでもらいたいが、いかんせん御陵衛士が脱退した時に編成を変えて、君の配下だった三番隊の隊士は各組に分かれて配属されている。半年が経って慣れ親しんだところで、また戻すのは隊士たちの不興を買うだろう」
「はい」
「それで、君には一番隊を率いてもらいたいと思っている」
それまで顔色一つ変えずに話を受け入れていた斉藤だったが、流石に表情が変わった。それは想像すらしていない配置だったのだ。
「沖田さんは…」
「総司は一線を退くことになった。自分の意思で決めたことだ」
「…」
土方の話で斉藤は言葉を失う。床に臥し喀血する総司を見ていつかその日が来るとわかっていても、それがこんな近い話だとは思わなかったのだ。
近藤は斉藤を見据えた。
「斉藤君…総司は是非君に、一番隊を率いてほしいと言っていた。むしろ君になら任せられると総司の方から頼んで来たんだ。…どうか引き受けてやってくれないか?」
795
「それで、なんて答えたんですか?」
あっけらかんと、むしろサプライズが成功したという満足げな表情の総司を見て、こちらの気も知らないでと斉藤は顔を顰めた。
「…保留にしている」
「えぇ?困ったなぁ。もう島田さんや山野君に言っちゃったのに…まさか断りませんよね?」
総司が楽しそうに訊ねるが、斉藤は無視して盃に手を伸ばした。
近藤と土方との話し合いを終え、部屋を出た斉藤はその足で総司の元を訪れて「夜開けておけ」と告げた。幸いにも体調の良い総司を相手に酒を飲みながら、自分を一番隊の組長に、という話の真相について聞き出そうとしたのだ。
「…まだ受けるとは決めてない」
「そんな。皆、優秀な隊士ですし手を焼くことはないと思いますけど。島田さんは頼りになるし、山野君は口煩いところはあるけどしっかりしているし、他の隊士だって…あ、相馬君と野村君はちょっと相性が悪いみたいですけどまあ大目に見て…」
「そういうことじゃない」
すっかり一番隊の組長の座を斉藤へ譲るつもりの総司は、機嫌良く笑いながら火鉢で干物を焼いている。
「じゃあどういうことですか?」
「…身に余る」
「大袈裟に考えなくても」
「背負うものが大きすぎる」
総司はふと、いつもより斉藤の酒の量が多いことに気が付いた。飲んでも顔色一つ変えない彼が、どこか自棄になりながら飲み干しているのを見て、総司が思っている以上に彼が思い悩んでいることに気が付いた。
「…背負わなくったって。確かに一番隊は新撰組の顔…とも言えますけど、隊士は精鋭が集まっているから頼りになるし、斉藤さんがいつも通りに任務を遂行してくれれば何の問題もありません」
「そうじゃない。やるべきことが変わらないのもわかっている…ただ…」
斉藤は言葉に詰まり、酒を煽った。
総司も斉藤がなぜ気兼ねしているのか、本当はわかっていた。総司が壬生浪士組の頃からずっと変わらずに率いてきた一番隊という看板にどれほどの思いがあるのか、よくわかっているからだ。
総司は盃にほんの少し残った酒を手慰みにくるくる回しながら、
「私は、自分が組長を辞すると決めた時に…任せられるのは斉藤さんしかいないって思ったんです」
「…」
「都に来て四年…お役目で何人か斬って、仲間にも手を掛けて…思い返せば私が剣士としてこの四年間で誇れることは何一つありません。それを後悔しているわけではなくて、近藤先生のために働けたことで心から満足しているんです」
「それは…」
「でも、剣を置くことになって役立たずの私にも残ったものがあったことに気が付きました。…それは、私を慕ってくれる部下たちです。こんな若造に誰一人裏切らず、誰一人文句も言わず…情けない姿になっても私を組長としてずっと従ってくれました。彼らは私にとってかけがえのない財産です」
「だったら…尚のこと、気が重い」
斉藤はますます顔色を悪くしたが、総司は彼にプレッシャーを与えたいわけではない。空になった斉藤の盃に酒を注ぎながら微笑んだ。
「…斉藤さん、新撰組に戻ってきたときに『もうどこへも行かない』って言ったじゃないですか。それはこれから先ずっと新撰組のために命を賭けてくれるっていうことでしょう?」
「そのつもりだが…」
「だったらこれほど信頼出来て、心強いことはありません。私の大切な財産である彼らを預けられるのは、私の大切な友人の斉藤さんしかいないって思うんです」
「…」
斉藤はしばらく何も言わず、注がれた盃を手元に置いた。そして総司を見つめた後
「わかった」
と短く答えた。
必要以上に飾り立てた決意や抱負は必要ない。彼がいつも端的な言葉しか口にしなくても、それを確実に実行することを総司は良く知っているからだ。
「良かった」
総司が乾杯のつもりで盃を差し出すと、斉藤も意図を察して同じようにしてキンッと小さく心地よい音が鳴る。ほとんど水のように薄まった酒が身体に流れ込んだ。
そろそろ師走を迎えようかという夜は凍てついていて、どこか厳かで静かだ。同じはずの時間がゆっくり過ぎていくような気がするのは、酒のおかげか、気の置けない友人のおかげか。
(きっとこれからこんな時間が増える)
少年たちの世話を焼く以外は療養に努めることになり、時間を持て余すだろう。
総司は火鉢に網を置き、干物を焼きながら「あっ」と思い出した。
「なんだ?」
「さっき土方さんから聞きました。名前、『斉藤』から『山口』に変わったんでしたよね?つい癖で斉藤さんって呼んじゃいましたけど…」
「そのままでいい」
「そうですか?でも…」
「あくまで表向きの話だ。…それに、あんたには『斉藤』と呼ばれたい」
「…そういうものですか?」
「そういうものだ」
斉藤が断言するので、総司は「わかりました」と頷いた。そして少し焦げた干物を斉藤に渡しながら
(確かに、そういうものかもしれないな)
と苦笑した。
土佐要人暗殺容疑は、巷に実しやかに流れる噂と伊東の証言により後押しされ一時は新撰組へと向けられていたが、ひと月経とうとする今頃は別の風向きへと変わりつつあった。
「紀伊が?」
会津藩邸帰りの近藤の言葉に土方は少し驚いた。徳川や西国諸藩の間では暗殺の黒幕が紀伊ではないかという話になっていると聞きつけたというのだ。
「実際に手を下したかどうかはわからぬ。ただ半年前に海援隊のいろは丸という船が沈没したことがあっただろう?」
「ああ…なんだかよくわからねぇ異国の決まりを持ち出して、紀伊に賠償金を払わせたっていう…」
「そうだ。結局、紀伊と海援隊のどちらに非があったのかはっきりしないままだがな。暗殺があったのは紀伊から土佐へ賠償金が全額支払われた矢先だったこともあって、海援隊や陸援隊は紀伊藩士が黒幕だと騒いでいるそうだ」
「…そうか」
新撰組としては疑いの矛先が別の方へ向いたのならそれで良い。土方は一安心しながら近藤が羽織を脱ぐのを手伝った。
「それで、会津公のご様子は?」
「うむ…胃を病まれていた」
「…ご心労か」
もともと病弱なところのある会津公だが、特に将軍が代替わりしてから塞ぎこまれることが多くなっていて近藤はたびたび藩邸に呼ばれては会津公の話し相手になっている。
「大樹公は…なんというか、聡すぎる御方のようだ。聡慧で在られるが、そのお考えをなかなか口にはされない。それ故にこの先の舵取りが不透明で、家臣たちも困り果てているそうだ」
「まあ…側用人が立て続けに殺されりゃ、周囲に不信を抱くのは仕方ないことだ」
「ああ。せめて誠実な会津公と信頼を結ばれれば良いのだが…」
なかなか将軍職に就かず、家臣の意向に耳を貸すこともなく政権返上を成し遂げてしまった慶喜公と、忠誠心の塊のような気概を持ち、まっすぐに物事を見定める会津公ではなかなか反りが合わないだろう。近藤から話を聞くだけの土方ですらそんなことを思ってしまう。
近藤は眉間に皺を寄せて考え込むが、土方は羽織を衣文掛けながら
「そうは言っても、いまこの国は徳川無しでは立ち行かないはずだ。大樹公は政権を返上し、あとは粛々と西国の動きに注視すればいいとお考えなのだろう」
「戦になるのではないか?」
「江戸の兵も続々と都へ向かっているはずだ。戦になったとしても簡単には負けやしねえよ」
「…歳と大樹公は話が合うのかもしれないな」
「恐れ多い」
土方は笑い飛ばして、「それより…」と話を変えた。
796
雪の舞い散る、十一月下旬。
斉藤…山口二郎が一番隊を率いることが伝えられ、初めての巡察の朝を迎えた。
「さ…、山口先生、これからどうぞよろしくお願いします!」
伍長の島田を先頭に山野たちが並び、末席では相馬と野村が頭を下げた。斉藤にとって古参隊士が多く顔触れは見知っている故に逆に彼らを率いる違和感があったが、徐々に慣れていくだろう。
「ああ、宜しく頼む」
「では参りましょう!」
総司が一線を退き配下たちは本音では寂しいはずだが、それをわかっている伍長の島田が敢えて明るく振舞うことで、隊士たちも前を向いていつも通りに巡察に向かう。(つくづく従順な隊士たちだ)と感服しながら、斉藤は先頭を島田に任せしんがりを歩くことにした。
不動堂村の屯所を出て繁華街の三条へ向かう。斉藤は念のため傘を目深に被り、顔を隠しながら周囲を警戒して歩いていると一人の隊士が近づいてきた。
「斉藤先生、お怪我は?」
「…山口だ」
「そうでした!どうも慣れません」
斉藤よりも頭一つ背の高いひょろりとした体格の若い男。笑うと白い歯が妙に印象的で、今時珍しく月代を剃り上げている…梅戸勝之進だ。
上機嫌な梅戸は斉藤の隣に並ぶと「ご一緒出来て嬉しいです」と満面の笑みを見せたが、斉藤は怪訝に返した。
「…一番隊に異動したいと願い出たらしいな」
梅戸はもともと三番隊の隊士で長い間斉藤の配下だった。御陵衛士として脱退したあとは原田の隊に異動したが、
『斉藤先生とともに働きたい』
と強く願い出て一番隊に異動してきたのだ。近藤はその忠実な熱意に共感して喜んで了承したが、斉藤はそれほど特別可愛がった覚えはない。
「先生が脱退すると聞いた時は共に行くわけにもいかず、泣く泣く異動しましたが、必ず戻られると信じてました。念願叶い、こうしてともに巡察ができて感激しています!」
「…声が大きい」
「あ、すいません」
梅戸は頭を掻いて謝るが、さほど反省している様子はない。三番隊にいた時も硬派な隊士が多い中で飄々としていて、何かと声が大きかった。
「でも本当に無理はなさらず!」
「…わかったから戻れ」
「はい!」
梅戸は威勢の良い返事として、元居た列に戻っていく。新入り以外にあまり人の出入りがない一番隊のなかで、異動してきた梅戸は珍しい存在であるが愛想のよさですでに違和感なく溶け込んでいた。
(馴染んでないのは俺の方だな)
しんがりで一番隊の颯爽とした後姿を眺めながら、内心苦笑した。
同じ頃、浅羽が不動堂村へやってきた。
「沖田君、お加減はいかがですか?」
ちょうど居合わせた総司が出迎えると、浅羽はいつも通りのそつのない様子で頭を下げて総司を労わった。
「ありがとうございます。任務を離れたら少し楽になりました」
「そうですか、それは何よりです」
「まあ…暇を持て余して困ってはいますが」
総司がつい愚痴を漏らしても、浅羽は穏やかに微笑んで「今だけですよ」と励ました。総司は浅羽を客間に案内し、銀之助に茶を頼んだ。
「申し訳ないのですが、近藤と土方は不在です。急ぎのご用件ですか?」
「そうでしたか…できれば早めにお願いしたいことがあるのですが」
「わかりました」
総司は今度は泰助へ別宅にいる土方を呼びに行くように頼んだ。今日は土方は非番のようなもので別宅で休むと言っていたのだが、浅羽が訪ねてきたのならすぐに戻ってくるだろう。泰助は「はい!」と威勢よく返事した後、全力で駆けて行った。
その様子を見ていた浅羽は
「若いですね」
と笑う。
「はい。まあまだ仮隊士で、いわゆる見習いのようなものです」
「そうですか…我が故郷にもあれくらいの子弟が軍の真似事をしています。威勢がよく頼もしい一面がありますがまだまだ若く経験が乏しい。…彼らを戦場に出すことがなければ良いのですが」
「…戦場ですか」
浅羽の実感のある言葉に総司はごくりと喉を鳴らす。近藤や土方がしきりに「戦になるかもしれない」と相談しているのを何度か耳にしていたが、浅羽のような立場の人物が口にすると意味合いが違って聞こえた。
するとちょうど銀之助が茶をもってやってきた。泰助とは違い、浅羽の身なりをみて瞬時に立場を理解した彼は恭しく頭を下げて茶を差し出し、あどけない顔をした大人のような振る舞いで去っていった。
浅羽は感心したようで、総司に訊ねた。
「…賢そうな子ですね、名前は?」
「田村銀之助と言います。彼には兄が二人いるのですが、二人とも隊士でしてその縁で数か月前に彼も入隊しました。普段は近藤局長の小姓を勤めています」
「そうですか。…もし彼が望むなら学をつけたら良いでしょう。この先、朝廷と徳川、どちらが世を治めることになっても学さえあれば困りません」
浅羽は茶を啜り、美味しいと呟いた。そんな浅羽に総司は恐る恐る尋ねた。
「あの…浅羽さんはこの先、どうなるとお考えですか?」
「…この国がですか?」
「お恥ずかしい話ですが、私はさほど政に興味がなく、ずっと難しいことは近藤先生や土方さんに任せて避けてきました。でもさすがに公方様が政権を返上したと耳にしてからは悠長なことを言っていられない…なんて、持て余した時間で考えたりして」
「ハハ…それは私も同じです」
浅羽は湯飲みを置きながら続けた。
「私も都へ来るまでは自分の身の回りや殿ことで精いっぱいでした。殿が京都守護職を引き受けられてから突然、政の渦中に放り出されたような気分で…もっとも、実際にご苦労されたのは殿であり、私などは殿をお支えするだけなのですが」
「土方さんから、会津公は浅羽さんを深く信用されていると伺いましたが」
「…恐れ多いことです。私が言うのも何ですが、殿の臣下は皆、忠義者ばかり。この先なにがあっても殿とともに家訓に背かぬ生き方を貫くことでしょう」
会津の厳しい家訓については総司も漠然と知っていた。浅羽の眼差しは半分は誇りで満ち、もう半分はどこか諦めと寂しさで埋まっているように見えた。
「では…やはり、戦ですか?」
「…わかりません。公方様は戦がお嫌いのご様子ですから、すぐすぐに開戦とはならないでしょう。しかし…」
浅羽はその切れ長の目を伏せた後に、客間から見える庭へと視線を向けた。積もりはしない雪がはらはらと花弁のように舞って落ちていく。
「…たとえ目に見えなくとも、怒りや憎しみは募るものです。西国は我が藩を目の敵にしているでしょうが、我々もまた払い続けた犠牲のために背に腹は代えられない。…戦なんていうのは、理屈ではなく感情なのでしょうね。実は子ども同士の喧嘩とさほど変わりないのかもしれません」
「…」
浅羽はやりきれなさを抱えているように見えたが、総司はどう相槌を打てばいいのかわからない。そうしていると冷たい風が客間に流れてきて、軽く咳き込んでしまった。すぐに落ち着いたが浅羽は気遣って障子を閉めた。
「もう難しい話は止めましょう。我々など地面に転がる石ころ同然、風が吹けば流れ、雨が降れば濡れる。戦が始まれば…戦うだけですから」
「…そうですね」
797
泰助とともに屯所に戻った土方は、早速客間に向かい浅羽と対面した。
「お休みのところを申し訳ありません」
「いえ…朝方、近藤とともに二条城へ足を運びましたが?」
近藤に伴って土方は今朝、会津公へ謁見していた。用件があるならその時でも良かったのではないかと不思議がる土方に、浅羽は苦笑した。
「ええ…秘密裏の依頼があってお伺いしました。…二条城では誰が聞き耳を立てているかわかりませんので」
「そうですか。…総司」
「はい」
浅羽の相手をしていた総司だが、席を外すことにした。
「とても楽しかったです。またお話ししましょう」
「是非」
互いに会釈して総司は去る。銀之助が茶を持ってやってきたが、すぐに人払いをさせて客間の周りはすっかり静かになった。
「それで、お話というのは…」
「例の坂本龍馬暗殺の件です」
「ああ…」
その件は近藤と話をしていた。事件直後、巷では日頃の行いのせいか新撰組の仕業だと騒がしかったが、いまは噂は様々な所へ分散し、尾びれ背びれをつけて独り歩きしているという。
しかし浅羽の表情は深刻だった。
「土佐の陸援隊と海援隊はいまだに犯人を探し出すために躍起になっていますが、この頃その標的が紀州に絞られつつあります。確かに紀州はいろは丸沈没の賠償金で揉めたこともあって決して手を下していないとは言い切れませんが、紀州は徳川御三家の一つ、先の長州征討でも采配を振るい今の徳川にとってなくてはならない藩です。些細で不確かな疑惑で土佐と揉めるのは避けるべき…というのが我が殿の意向です」
「…何をすれば良いのでしょうか?」
「海援隊の陸奥という者が、賠償金の窓口交渉をした紀州藩士三浦休太郎殿が黒幕であると強く主張しているそうです。この者は弁が立ち、かつては坂本と並ぶほどの才覚があると言われあちこちに人脈があります…騒動になると大事です、新撰組には三浦殿の警護をお願いしたいのです」
「…」
土方は腕を組みつつ考える。海援隊の陸奥という名前について聞き覚えがあった。
「…陸奥とは、陸奥陽之助のことでしょうか?」
「さすが、よくご存じで」
「確か紀州の出身ですよね?」
脱藩して尊王攘夷に身を捧げる志士は多いが、巡り巡って郷里の藩士の襲撃を目論んでいる。浅羽は「そのようです」と自身なら理解できないという表情を浮かべていた。
「父君は藩主に引き立てられて財政を立て直したそうですが、その後失脚し酷く困窮し尊王攘夷に傾倒したとか。坂本を殺されたこともありますが、もしかしたら個人的な怨恨で国を憎んでいるのかもしれませんね」
「…」
土方は直感的に厄介な相手だと思った。以前山崎から陸奥が外国商人との繋がりを持ち武器を仕入れていると聞いたことがあったので、襲撃の際に銃を多用されると三浦某の身だけではなく、隊士も無傷では済まされないだろう。当然何かあれば新撰組の失態になる。
しかし会津公直々の命令に背くという選択肢はない。近藤が不在でも答えは同じだ。
「…わかりました、お引き受けします」
「ありがとうございます」
浅羽は恭しく頭を下げたが、土方が断るわけがないとわかっていたはずだ。
(食えない人だ)
そう思っていると、浅羽は「早速ですが」と頭を上げた。
「事は急ぎます。今日の夕刻に三浦殿から迎えの者がここに寄越されますので、その者に従ってください」
「…というわけで、山口君。復帰早々重要な任務を任せることになるが」
近藤が帰営し、浅羽の話を聞くと当然「新撰組の名に懸けて努めるべきだ」と息巻き、新撰組で一番秀でた者たちが集まる一番隊を呼び出した。もちろん斉藤が彼らの前に膝を折っている。
「…つまり、紀州藩士の警護ですか」
「そうだ。おそらく君には常に三浦殿と行動を共にしてもらうことになるだろう。他の隊士は君を援護する」
「はっ!」
一番隊の隊士たちは緊張感をもって一斉に頭を下げるが、斉藤はちらりと土方を見た。
(屯所を離れるのは気が進まないと言ったはずだが…)
土方は斉藤の視線の意図は感じ取っていただろう、
「…浅羽殿の話によると、陸奥は海援隊の同志とともに数日中に襲撃を企んでいるとのことだ。監察にも奴らを探し出すように指示を出す」
ということなので、数日のことらしい。斉藤は内心は不承不承な気持ちだったが、近藤直々の命令であり、一番隊の隊士たちもやる気になっているのを今更無碍にできず、結局は引き受けるしかない。
「かしこまりました」
「頼む。そろそろ三浦殿の使いがやってくるはずだ。皆、準備を整えてくれ」
近藤の命令で解散となるなか、斉藤は土方の元へ足を向けた。
「三浦休太郎について何か情報はありませんか?」
「急な話で詳細はわからない。もともとは紀伊の支藩、伊予の西条藩士だったが、茂承様が紀伊藩を継ぐにあたってともに転籍したようだ。いろは丸沈没の時には海援隊を相手に折衝役を務めて、結果的には紀伊が賠償金を払うことになってしまった。だからその三浦が坂本暗殺の黒幕でもおかしくはないが…個人的には紀伊が手を引いているとは考えられない」
「…黒幕かどうかはこの際、関係ありません。つまり、この時勢に土佐と紀伊が揉めると戦の発端になりかねないということでしょうか」
「浅羽はそこまでは言わなかったけどな」
浅羽は『大事になる』と濁したがいまは些細な衝突が口火を切るきっかけになると言いたかったのだろう。
土方も面倒ごとを押し付けられたと思いながら腕を組んだ。
「…とにかく臨機応変に対応してくれ。新撰組が標的だったのが次々に変わっていくように、海援隊の奴らの気が晴れれば御役御免になるはずだ」
「わかりました。…支度します」
斉藤は土方に背中を向けながら(紀伊か)と思った。紀伊藩主だった慶福公が将軍に就き、家茂と名を変えたことにともなって、西条藩主の息子であった茂承が紀州徳川家の家督を継ぐことになったので三浦はその際にともに紀州藩士となったのだろう。紀伊との浅からぬ縁をつくづく感じながら部屋に戻り、身支度をしていると総司が顔を出した。
「貧乏くじ、引いちゃったみたいですね」
詳細までは把握していないだろうが、厄介な任務を押し付けられたことは察したのだろう。総司はからかうように笑っていたので、なんだか気が抜けた。
「…ああ。思った以上に厄介だ」
「へぇ、どう厄介なんですか?」
「ただの護衛で済めば良いが、相手は海援隊だからな。…刀で相手になるかどうか」
敵は最新鋭の武器を携えて襲撃してくるはずだ。いくら一番隊の手練れが警護を務めても銃相手では言葉通り太刀打ちできないだろう。
総司は「ふうん」と少し子供っぽい暢気な相槌を打った後に、
「じゃあ試すには良い機会ですね」
と言った。
「試す?」
「斉藤さんくらいの腕前で刀と銃、どちらが土壇場で役立つのか…私も気になっていました。結果が分かったら教えてください」
総司はそう言いながら斉藤へ、負けるはずがないだろうと嗾けているように見えた。そこには斉藤と財産と語った配下たちへの信頼があるのだろう。斉藤は覚悟を決めて任務に臨むつもりだったのだが、(どうやら死なない前提の話らしい)と内心苦笑するしかない。
「…ああ、わかった」
そうしていると、島田が急いでやってきた。
「山口先生、三浦殿の使いの者が来ました」
「早いな」
「はい、近藤先生が客間にお通ししています」
「すぐに行く」
斉藤は襟元を正し刀を帯びながら、島田とともに客間に向かう。談笑する声が聞こえ客間の前で膝を折って頭を下げ「山口です」と近藤が紹介するのを聞いてから顔を上げた時、
「は…」
と思わず声を漏らした。
近藤の目の前にいたのは若い男だった。身綺麗な衣服に身を包み、堂々と紀州藩の家紋が施された羽織に袖を通しいかにも御三家に相応しい佇まいだったが、その顔は知人の顔にそっくりだった。目鼻立ちがはっきりとした端正な顔立ちで、月代があるから男だとわかるが一見すれば男とも女とも思えるような際立って美しい顔立ち。いつも彼のその麗しさを形容するのは難しくて困る。
(英にそっくりだ…)
798
「私の顔に何かついていますか?」
屯所を出た斉藤は隣を歩く英そっくりの若い紀伊藩士…朝比奈朔郎(あさひなさくろう)に訊ねられ、
「いえ…」
と言葉を濁らせるしかなかった。
朝比奈は三浦の侍者だそうだが、風貌だけでなく年の頃や声の質なども英によく似ていた。それは斉藤だけでなく、英のことを知る近藤や土方、隊士たちも彼の顔を見て驚きを隠せなかったほどだ。
改めて朝比奈から三浦休太郎の警護依頼を受け、これから彼が潜伏している宿へ向かうということで斉藤は島田と数名の隊士を引き連れて出立したのだ。
(よく似ている…が…)
その物腰はさすが御三家の紀州藩士ということもあり洗練されていて、その美しい容貌もあって近寄り難ささえ感じる。英も似たようなところがあるが環境の違いなのか、朝比奈の方が上品さが抜きんでている。それは本人も自覚があるようで周囲に必要以上に距離を置かれるのだろう、
「山口先生、私の方が年下でしょうから朝比奈とお呼びください」
と親しげに声をかけてきた。しかし斉藤はまるで他人のふりをした英が隣にいるような気がして、居心地が悪い。リアクションの鈍い斉藤を見て朝比奈は「うーん」と首を傾げた。
「ところで気のせいでしょうか…近藤局長をはじめ隊士の皆さんのご様子が変でしたが」
「…そんなことは」
「いえ、実は都に来てから時折そのような視線を感じるのです。きっとこの目立つ顔が原因でしょうね」
「…」
朝比奈はそう言いながら頬に手を当てた。自分の整った顔立ちについては十分認識しているようで、その言葉に嫌味がない。斉藤は朝比奈の物言いや仕草まで似ている気がしてますます混乱してくる。
英が陰間の宗三郎として名を馳せていた頃は知る人ぞ知るという存在だったが、いまや南部診療所の新米医師としてあちこちに往診に出向いている。顔に火傷があるとはいえ目立つ風貌なので、英を知っている者からすればそっくりな朝比奈の顔をみて色々な反応があるはずだ。
「…ご兄弟は?」
「歳の離れた妹が一人おりますが?」
「そうですか…」
兄や弟でもいればそれが英であるかもしれないと思うが、朝比奈自身には身に覚えがないようだ。それに御三家の藩士と陰間では境遇もあまりに違う…他人の空似で片付けるにはあまりに似すぎているが、ひとまずいまは疑問を棚上げすべきだろうとそれ以上深く考えるのをやめた。
「三浦殿はいつからその宿に?」
「ええと…十日ほどです。宿の女将とはもともと懇意で、良くしていただいています」
「すぐに別の宿に移りましょう。素性を知る者がいる限り、いくら懇意でも安泰とは言えません」
潜伏するなら長く同じ場所に留まるべきではない。その女将も絶対的な味方とは言えず、悪意がなくともひょんなことから人の噂はすぐに流れてしまうものだ。
朝比奈もすぐに心得て「わかりました」と頷いた。そして
「山口先生は優秀な方なんですね」
と満面の笑みを向ける。英なら面と向かって絶対に言わないようなことを、朝比奈が口にする。
(妙なことに巻き込まれた)
斉藤はそう思った。
宿に到着し朝比奈の案内で面会を果たした三浦休太郎は、斉藤よりも十ほど年上の恰幅の良い人物だった。ぎょろりとした目にクマが深く刻まれているのが印象的で、滲み出る威厳が周囲を威圧している。
「新撰組か」
三浦のその一言で、斉藤は自分たちが邪険に扱われているのを察した。御三家の紀州藩士からすれば無頼の集まりである新撰組など視界に入れるのも躊躇われるような、汚らわしい存在なのだろう。しかしそうやって蔑まれるのは慣れている。
「…お初にお目にかかります、新撰組副長助勤山口二郎です。後ろに控えますのは、伍長を務めます島田と…」
「必要ない、どうせすぐに他人になる」
三浦の傲慢な物言いは癇に障ったが、斉藤はそれくらいの扱いは予想していた。相手は御三家の紀州藩士…いまは徳川家臣であっても元浪人の新撰組が警護を務めること自体が侮辱に感じるかもしれない。
けれど三浦の傍に控えていた朝比奈が
「三浦先生」
と少し嗜めるように制した。
尊大な態度を取る三浦と、麗しすぎる朝比奈ではまるで親子のような年の差がある。朝比奈は侍者ということなので主人を牽制するのは出過ぎた態度にも見えるが、三浦は不快な様子はなく朝比奈の非難を甘んじて受け入れているように見えた。
深いため息をつきながら三浦は腕を組む。
「…私は一時は尊王攘夷の志を持って勉学に励んでいた。当然同志である坂本龍馬殿の暗殺など指示しておらぬ。潔白であるからこそ、こそこそ身を隠すような真似は必要ない」
「しかし先生、これは藩命なのです。それに肥後守様から直々に新撰組の皆さんを派遣していただいたのですから、有り難くお受けいたしましょう」
「…」
三浦はまだ何か文句を言いたそうだったが、「わかった」と頷いた。その返答を聞いて朝比奈は微笑む。
(なるほど)
この短い会話で二人の関係が何となく察せられた。
どうやら主従の関係ではあるが、朝比奈のこの美貌を前に三浦は強く出られないらしい。傍から見れば三浦は気難しく扱いづらそうな人物だが、まるで朝比奈の掌に転がされているようにも見える。
それから朝比奈はさらに宿を移動する旨を三浦に告げた。三浦は居心地の良いこの宿を離れることに不満そうだったが、やはり朝比奈の言葉通りに受け入れた。
斉藤はその様子を何も言わずに見守っていたが、三浦は立ち上がりながら突然、斉藤を指さした。
「警護については了承するが、ぞろぞろと付いてくるのは好かん。お前がこの中で一番腕が立つのなら、警護はお前だけにしろ」
「…承知いたしました」
三浦は「ふん」と鼻を鳴らして荷物をまとめるために部屋を出ていく。
朝比奈はやれやれと肩を竦めながら、斉藤へ向かって「申し訳ありません」と主人の無礼を詫びて頭を下げた。
「このところ先生はお疲れなのです。あのように警護など必要ないとおっしゃいますが、身に覚えのない誹りを受けてご不安に思い、苛立っているのでしょう。ご容赦ください」
「…いえ。警護は一人でということでしたので、他の者には宿の周りに配置させます」
「是非お願いいたします」
斉藤は後ろに控えていた島田に合図を送り、外の警備に就かせた。すると必然的に朝比奈と二人になり、彼は穏やかに口を開いた。
「山口先生、私は紀州藩士のなかでも下級武士で三浦先生の小間使いですから、先生の方がお立場は上です。どうぞ敬語はおやめください」
「…とても小間使いには見えなかったが」
「とんでもない。先生は私に良くしてくださっているのです」
朝比奈は邪気のない笑みで答える。
しかし彼は自らの整った顔立ちに自覚があり、三浦がそんな自分を優遇していることにも気が付いているはずだ。
(…厄介だな)
朝比奈は無邪気な麗人としての仮面の裏に、何かを隠している気がした。しかしそこに踏み込むとさらに面倒なことになる…斉藤は内心、ため息をついた。
朝比奈は「先生のお手伝いに」と部屋を出ていくと、入れ替わりに外の配置を任せた島田が戻ってきた。
「完了しました」
「…ああ」
「あの…朝比奈殿は英先生のご親戚とか、そういうご関係ではないのでしょうか?」
島田はその大きな体格を丸くして、斉藤に耳打ちする。
何かと疎い島田でも朝比奈の容貌があまりにも英に似通っていることが気になっていたのだろう。けれど斉藤のなかには明確な答えがなく「さあな」と返答するしかできない。
白い肌や艶やかな髪、印象的な瞳と整った目鼻、微笑むとまるで傾国の美女のように相手を篭絡する…英のことは唯一無二の存在だと思っていたが、まさかこんな近場にもう一人現れるとは思わなかった。
けれどそこにどんな因縁や理由があるのかはわからないし、必ずしも良い方向とも限らないだろう。
「…島田、英のことは朝比奈には決して伝えるな。無駄口を叩かず、三浦の警護だけに専念するように皆にも伝えろ」
「わかりました」
島田は頷いて再び部屋を出て階段を下りて行った。
799
屯所でいつもの猫が総司の膝元で身体を寄せて微睡んでいた。冬の月を眺めながら指先で頭を撫でつつ、文机に向かう土方に
「それにしても驚きましたね」
と、隊内で話題の『朝比奈殿』について話を振った。
紀州藩士三浦の付き人としてやってきた朝比奈は英にそっくりすぎて皆が目を丸くした。客人を出迎えた近藤はあからさまに呆然として戸惑っていたので、代わりに土方が冷静に話を進めたほどだ。
顔貌だけでなく声まで瓜二つの朝比奈はいっそ本人なのではないかと誰もが一瞬は考えただろうが、当然そのはずはなく朝比奈には火傷の痕は無い。
土方は手を止めて筆を置き、気難しい顔をした。
「…他人の空似にしては出来すぎていたな」
「いっそご親戚とかでしょうか?土方さんは英さんの昔のこと、知らないんですか?」
「江戸にいた頃『親の顔は知らない』と聞いた気がするが…あいつから身の上の話はなにも聞いてない。本人に尋ねても良いが話したがらないだろうな…」
「それに、英さんにはあまり関わって欲しくないですよね」
総司の言葉に土方は頷いた。
ただでさえ朝比奈は紀州藩士で、医師であっても英とは身分の差が大きく疎ましく感じるかもしれない。それに元陰間だと耳にすればますます彼のことを厭う気持ちになるかもしれない。英もまた己の出自が知りたいわけでもないはずだ。
そうしていると「失礼します」と相馬がやってきた。相馬は朝比奈の案内で斉藤と数名の隊士と共に三浦の滞在する宿へ向かっていた。
「どうした?」
「三浦様が、警護は最低限の人数で目立たないようにということで、数名が待機という形で屯所に戻されました」
「…そうか。三浦殿はあまり気乗りしないのだろう」
土方は新撰組が拒まれることは予想していたようで苦笑するだけだった。
「はい。山口先生だけが部屋に残り、他の隊士は外の警備に」
「こんな寒空で…不運ですねえ」
総司は配下たちに同情してしまうが、たとえ華々しい一番隊であっても御三家の紀州藩からすれば下僕に等しいのだろう。しかし土方は手を抜くわけにはいかない。
「近くに宿を取らせて交代で勤めればいい。数日のことだと思って耐えるように皆に伝えろ」
「はっ!…それから、山口先生からご伝言がひとつあります」
「なんだ?」
「侍者の朝比奈殿について調べてほしいと」
「…」
総司は朝比奈と英の似ている容貌について、斉藤も気になっているのかと思ったが、きっと彼は表面的な事柄ではなく、別の意味で朝比奈のことが気がかりなのだろう。土方の受け止め方も同じで
「わかった。早急に調べると伝えろ」
とやや深刻な表情で相馬に命じて、彼は去る。
すると猫も背伸びをしてそのまま縁側から庭に降りていき、茂みの向こうに姿を消した。
「…あの猫、お前にしか懐かないそうだな」
猫は土方や山野だけでなく他の隊士を含めても近寄らず、懐かないらしい。
「動物に好かれるタチなんですかね?池月も今は安富さんの言うことを聞くそうですが、最初は手を焼いて大変そうでした」
「安富は今も大変だと言っていた。池月の機嫌が悪いと手がつけられないと」
「はは、近藤先生の命名は正しかったというわけですね」
「暴れ馬にあやかって名前をつけたせいで、こうなっているのかもな」
土方は笑いながら再び筆を手に取った。
宿を移動した。人目を避けるため安宿が立ち並ぶ場所のひとつを選んだために三浦の機嫌は悪くなったが、朝比奈が宥めてようやく落ち着いた。
三浦が気晴らしに朝比奈に酒を準備させて飲み始める。女を呼べるはずがなく朝比奈が酌を務めるが、妓女など必要がないほど様になっていて三浦も次第に上機嫌になる。
「山口先生、酒はいかがですか?」
「いや…結構」
「ちっ、付き合いが悪いな」
三浦の嫌味には慣れてきたが、彼は酒乱だそうなのでここで機嫌を損ねて騒がれては困る。朝比奈に目配せされ、斉藤は仕方なく「少しだけ」と盃を受け取った。
酒豪の斉藤が酒を飲んだところで任務に支障が出ることはないが、少しの粗相を酒のせいにされて三浦に説教されるのだけは御免だ。付き合い程度にちびちびと飲むことにする。
すると三浦は酒が回り始めたのか、顔を赤らめてふらふらと重心が揺れ始めたかと思うと次第に饒舌になった。
「家茂公がご存命であったら決して大政奉還など起こらんかった。これだから水戸は好かん、御三家と言えども我が紀州と尾張とは格が違う。幕府を潰してしまったのは水戸のせいじゃ」
「先生、お気持ちはわかりますがどこで誰が聞いておるやもしれませぬ」
「構わん。…万一そんなことがあれば咎を受けるのは此奴等だ」
三浦は顎で斉藤を指す。しかし尤もなことなので
「おっしゃる通りです」
と淡々と返すと三浦は満更でもない顔をして、「飲め」と酒を注いだ。
「私は茂承様が紀州藩主を継がれるために共に紀州入りしたのだ。支藩から御三家への出世と周りは持て囃したが、尊王攘夷の波に飲み込まれて苦労しかしておらぬ。戦では大樹公のご指示で前線に送られ、負け戦…挙げ句の果てには海援隊との折衝を任され、賠償金まで取り立てられた。厄介ごとばかり押し付けらえ、そのせいで海援隊に命を狙われているなど…!」
斉藤は三浦の愚痴を耳にして、確かにと素直に同情した。損な役回りばかりを押しつけられ、しかもそれが全て悪い方向へと向かってしまう。
「不運なことです」
「そうだ、不運なのだ。決して私のせいではない!」
「おっしゃる通りです」
斉藤の返答が気に入ったのか、三浦はころりと態度を変えて
「飲め飲め」
と酒を勧めてきた。斉藤はその後も三浦に付き合い、あれやこれやと文句を聞き流す。適当な相槌を打ちながら、(どうやら意見せず同意すれば満足らしい)と三浦の扱い方を学んだ。警護する立場から、三浦の人物を知っておくのは任務の一環だ。
朝比奈はハラハラと見守っていたが酒で酔い潰れるのは当然、三浦が先だった。
朝比奈は寝汚く眠る三浦の肩を抱きながら
「…山口先生、とんだご迷惑を…」
「大したことはない。…寝所にお連れしよう」
斉藤は朝比奈に手を貸して三浦を担ぎ、隣室の布団に寝かせた。外にいた島田を呼び出し部屋の前の警備に就かせて元の部屋に戻ると、朝比奈は深々と頭を下げてきた。
「お付き合いいただいてありがとうございました。おかげさまであのご様子なら山口先生のことをきっと気に入られたのだと思います」
「大したことは何もしていない」
仮面をかぶって伊東に付き合って飲み明かした時に比べれば何の苦労もない。朝比奈は「御謙遜を」と微笑みながら
「我々も休みましょう」
と一息ついた。三浦の長い愚痴に付き合ったせいですでに薄明を迎えようとしている。
斉藤は三浦が休む部屋と襖一枚隔てた場所に背中を預け、膝を楽にした。朝比奈は少し驚いたように
「山口先生、布団を敷きます。お休みください」
「いや、このままでいい。慣れている」
「しかしそれでは身体が持ちません」
「俺に構わず休んでくれ」
警護対象者の隣で律儀に布団など敷いて寝るわけにはいかないし、逆にすぐに敵襲に備えられるくらいの態勢でなければ休むことなどできない。朝比奈は「そうですか」と少し残念そうにして
「では私も」
と斉藤の隣に腰かけた。
「付き合わなくていい」
「いいえ。私も三浦先生の侍者ですから」
朝比奈はそう言って「おやすみなさい」と目を閉じた。彼は寝つきが良いのか、すぐにうとうとと眠り始めた。
外から障子越しに朝の白い光が差し込み始め、朝比奈の長い睫に影ができる。目を開けているときとは違う無防備な容貌…斉藤はこの顔を何度も見たことがあったが、
(似ているが…違う)
その確信とともに、この静かな朝には似つかわしくない悪い予感を感じていた。
800
冬の朝、桶に張っていた水が薄く凍っていた。
総司が分厚い綿入れを着込んで両手の平を合わせて擦りながらはーっと息を吐くと、空気に漂った白い煙はゆらゆら揺れながら消えていった。周囲は冷え込んでいるが、
「七百!」
「ヤァー!」
目の前の少年たちはまるで真夏の外稽古のようにこめかみから玉のような汗を流し、袖捲りして竹刀を振り続けていた。早朝ということもあり天然理心流の太く重たい木刀ではなく軽い竹刀での素振りを容認しているが、それでも目標の千回以上振り下ろせば腕の感覚がなくなっているだろう。
「相変わらずの鬼稽古だな」
呆れたようにやってきたのは原田だった。彼は少年小姓たちを眺めながら、
「朝っぱらから素振りなんて、平隊士でも根を上げるぜ」
と大袈裟に肩をすくめる。
「この年頃は基本を疎かにしがちですから」
「そりゃそうだけど、基本はつまらねえよな」
「そんなこと言って。あ、原田さんも加わります?」
「勘弁しろよ、これから朝番だぞ」
原田は「死ぬなよー」と少年たちを冷やかして去っていく。
(もういつもの調子みたいだ)
普段から原田は飄々として分け隔てなく明るいが、一時、藤堂の死で塞ぎ込んだ。感情豊かで前向きな原田のかつてない落胆とただならぬ悲壮感のある顔つきは誰よりも顕著で、彼のショックが窺い知れた。このまま隊を辞めるなどと言いかねない…と永倉が心配していたほどだ。
しかし、いつまでも悲嘆に暮れるのは彼の性分ではなく、どうにか気持ちに折り合いをつけて今の様子に至ったのだろう。以前ほどの明るさではないにせよ、気軽な会話を交わすことができて総司は少し安堵した。
そして八百を数える頃、今度は山野がやってきた。かつての直属の部下としてではなく、医学方の顔をして苦い薬を携えていた。総司は思わず眉間に皺を寄せるが、それは山野も同じた。
「おはようございます…先生、熱心なのは宜しいことですが、もう少し暖かい格好をなさってください」
「寒くはないですよ」
「先生、寒くはないではなく、暖かい格好です」
山野は細かな指摘をしつつ、勝手知ったる患者の部屋から羽織をもう一枚持ってきて総司の肩にかけ、そして薬と温かい白湯を差し出した。有無を言わさず薬を飲ませ、「熱はないですね」と額に触れた。近くで見た彼の表情の方が疲れている気がして
「医学方との兼務は大変でしょう?」
と訊ねると彼は苦笑しながら頷いた。
「はい。医療の勉学はたぶん剣術より僕に向いていないです。でも組長と医学方に加えて監察の面倒も見ている山崎先生に比べたら、僕なんて…」
「確かに山崎さんは何でも器用にこなすけど、比べる必要はないでしょう。山野君は山野君らしく熱心で前向きに取り組んでいるし…まあ、面倒をかけている私の言えることじゃないですけどね」
「…先生にそう言っていただけたら、もっと頑張れます」
「あれ?無理をして頑張ってほしくないから言ったんだけどなぁ」
意図が伝わっていない、と総司は首を傾げたが、山野の表情は明るい。
「でも本当に僕のことは御心配なさらないでください。今回の紀州の警護からも外されて、時間があるんです。この機会に書物を読み込んで寝不足になっているだけですから」
「なら良いんですけど。…そういえば、斉藤さんは今回の任務、手こずっているんですか?」
紀州藩士警護の件は三浦の希望により最小の人数で回すことになったため、詳しい状況を知る者は少ない。特に斉藤は休みなく三浦に就くことになったようで、屯所には帰って来ないのだ。
「どうでしょう。僕の耳にはあまり話が入って来ないのですが…でも島田先輩によると、三浦殿はあまり新撰組を信用されていないみたいで隊士たちを邪険に扱うようですが、斉藤先生のことは認めているようだとおっしゃっていました」
「へぇ、どうやって懐柔したのかなぁ」
ハハ、と笑っていると少年小姓たちの素振りが終盤に差し掛かり九百五十回に達しようとしていた。見えてきたゴールに希望を見出した彼らの目は少しだけ輝いている。足元はふらつき、型は崩れかけているけれど彼らは諦めずに回数を重ね続ける。
総司はその様子を微笑ましく見ていた。早朝、朝餉前の彼らの素振りを眺めていると、試衛館にいた頃の自分を思い出すとともにいまの自分の役目を実感することができるのだ。
(僕はこの子達のためにもう少し元気でいたいな)
そう思わせてくれる有難い存在だ。彼らの励む姿が総司を支えている。
するとその様子をじっと見ていた山野が
「…僕も、明日から素振りに参加させていただいても宜しいでしょうか?」
と申し出た。先ほどまで忙しくて大変だという話をしたばかりだったのに、と総司は笑う。
「山野君、熱心なのは結構ですけどいい加減、忙しすぎて倒れますよ」
「良いんです、最近は身体が鈍っているから気分転換になります。…それに、僕だって先生に稽古をみてもらいたいです…」
山野のはまるで放って置かれた子供が拗ねているような言い草だった。最近は平隊士の稽古は覗いて助言するだけで指導というほどのことはしない。それ故に小姓たちを羨ましく思ったのだろう。
「…じゃあ、無理をしない約束ですよ。お互いにね」
「はい!」
「――九百九十九! 千回ィ!!」
ちょうど目標の千回まで達し、小姓たちはその場にバタバタと倒れ、尻もちをつき、座り込む。総司はぱんぱん、と手を叩いた。
「お疲れ様。じゃあ、朝餉の支度だ」
無慈悲に次の仕事を宣告する総司に対し、少年たちが内心(鬼…!)と思ったのはその表情でわかった。けれど総司自身、試衛館にいた頃は皆が目を覚ます前に千回の素振りを熟し、その後は下働きとして近藤の養母で試衛館を仕切っていたふでの手伝いをしていたのだからそう変わらないだろう。
身体を引きずって去っていく彼らを総司は山野とともに穏やかな目で見送ったのだった。
「手加減してやれ」
総司の部屋にやってきた土方は開口一番にそう言った。
「手加減?」
「小姓たちのことだ。朝から疲れ果てて午後には使い物にならない」
「私は幼いときは毎日、そうやって鍛えましたけど…」
「試衛館と新撰組を同じにするな」
総司はいまいち腑に落ちなかったが、確かに土方の言う通り医穏やかな田舎道場と緊張感ある屯所での生活では環境が違うので気が抜けないだろう。
「わかりました。じゃあ八百回にしようかな」
「まったく…剣術馬鹿は手加減を知らないな。五百にしておけ、お前だって疲れるだろう」
「私は大丈夫です」
強情な総司に土方はやれやれとため息をついた。
「…それで、見込みはありそうか?」
「見込み?彼らですか?まだ仮隊士ですよね」
「そうも言ってられない。…会津によると長州や薩摩、芸州の兵が都へ集結している。江戸からも幕臣たちが上京して戦に備えているという話だ。そうなれば俺たちだって一つの兵団として出陣する」
「…そうですか…」
戦の足音が近づいている。
土方からそう聞かされても実感はない。毎日の日々は変わらず静かに過ぎて行き、総司の耳にはいつも静かな日常しか聞こえず、この部屋から見える景色にも限界がある。
けれど戦とはそういうものなのかもしれない。気が付いた時には後ろにいて、もう目の前は崖に追い詰められているような。
「…三人ともとても熱心です。特に市村鉄之助君は肝が据わっていて勘が良い。泰助は天然理心流の基本がちゃんと身についているし、銀之助は賢い。みんなそれぞれ個性が違います。…ただ、戦場ではどうか、わかりませんが」
「そうか…銃を覚えさせようと思うが」
「良いと思います。若ければ若いほど、こだわりはないし難なく順応するでしょう」
「そうだな」
土方は話を切り上げると、突然総司の隣で横になった。
「…疲れているんですか?」
「ちょっとな」
「自分の部屋で寝たらどうですか」
「部屋だと落ち着かない、ここが良い」
仕事を目の前にすると手をつけなければならないと思い、忙しく感じてしまう。そんな土方の心情を察し、総司は微睡む土方の隣で外に目をやった。
(また雪が降ってる…)
今年は良く雪が降る。触れればすぐに消えるようなその淡い刹那を自分に重ねながら、総司はぼんやりと眺めていた。
795 このころの隊編成については手元に資料がないので創作になります。
797 三浦休太郎と斉藤の関係は天満屋事件前から始まっていて、斉藤が御陵衛士から新撰組へ帰還する際、三浦のもとに潜伏したと言われています。またその縁から三浦を警護することになるのですが、警護自体は油小路前から始まっており、油小路の際に一旦斉藤たちは引き揚げ、再度警護につきました。展開上、史実と異なりますのでご了承ください。
拍手・ご感想はこちらから

