わらべうた




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慶応三年十一月下旬。
大政奉還を宣言し一旦は退けられたものの、朝廷を中心とした新体制が決まるまでは引き続き徳川が実権を持つことが容認され、当然西国の不興を買い戦の機運は再び高まりつつあった。
「兵庫の開港が迫っているからな」
土方歳三の話を聞きながら沖田総司は首を傾げた。
「どうして開港が関係あるんです?」
「諸外国との取り決めで、十二月七日に兵庫開港が決まっているんだ。その時に公方様がこの国の『顔』になっていると西国にとって都合が悪い。交渉次第では徳川の復権もあり得るだろうからな」
「…そういうものですかね」
「ああ。だから討幕派はそれまでに政権を担いたいと考えているはずだ。それで武力で抑え込もうと都に兵が集まっている」
御所の北側の相国寺には薩摩兵、その近くにある妙顕寺には芸州兵、海路から長州兵が着陣し開戦に備えていた。
「そうはいっても、徳川が有利だろう」
新撰組局長であり幕臣の近藤勇の考えは親徳川派に共通していた。
「公方様は江戸に命を発し、次々と大坂城へ兵が集まっていると聞く。おそらく遊撃隊の伊庭君も参加することになるだろうな」
「伊庭君に会えるなら会いたいですけど、そう気楽な雰囲気ではありませんね」
総司は少し残念に思いながら湯飲みに手を伸ばしたところ、近藤が苦笑した。
「…総司がこんな話を聞きたがるのは珍しいな。試衛館にいた頃から難しい話が始まったらいの一番に逃げ出していたのに」
「今だって本当は逃げ出したいですけど、それより暇を持て余すほうが苦痛なんです」
「まったく、成長したと思ったのに」
近藤が笑って、土方もつられて口元を緩めた。今日は総司が少年小姓たちへの指導を終えたところで近藤に茶に誘われ、居合わせた土方とともに火鉢を囲むことになったのだ。
すると談笑をしているところへ「失礼します」と大石鍬次郎が顔を出した。彼の顔を見るなり土方は『鬼副長』の厳しい眼差しを向け
「何かわかったか?」
と訊ねた。
いま大石は監察方として紀州藩士三浦休太郎の警護任務をサポートしている。もともと天然理心流の門人である彼は近藤にとっては弟子の一人だが、総司との過去の因縁から土方にとっては使える部下であると同時に複雑な存在だ。だが大石の方は相変わらず淡々とした表情で首を横に振るだけだった。
「朝比奈朔郎については情報はありません。目立つ外見故に知っている者は多いですが、素性や経歴などは何も」
「…そうか。山口にもそう伝えておけ」
「わかりました」
大石は近藤や総司に向けて軽く頭を下げた後、足音もなく去っていった。近藤は腕を組みながら唸る。
「紀州のことを探るのは骨が折れるだろうな。…やはり他人の空似ではないか?」
朝比奈は英とうり二つの外見をしていた。最初近藤は戸惑っていたが、やはり紀州藩士との繋がりを調べるのはそう簡単なことではない。しかし土方は「そうじゃない」と否定した。
「英と血縁があるかなんて今はどうでも良いことだ。斉藤もそういう意味で朝比奈を調べろと言ったわけじゃないだろう」
「…何か不審な点があるのか?」
「さあな。…だが逆に何の素性もわからない方が不気味だ」
土方の意図する意味が分からず、近藤は総司に視線をやる。けれど総司も明確な答えを持ち合わせているわけがなく、曖昧に微笑むだけだった。


山口二郎…こと斉藤一は三浦とその侍者である朝比奈とともに三軒目の宿に移った。二軒目の旅籠の近くで喧嘩騒ぎがあり人の目が増えたため、移動することにしたのだが、その頃には三浦の鬱憤は積もりに積もっていた。
「こんな安宿で身を隠すなど我慢ならぬ!私には後ろめたいことなど何もないのだぞ!」
「先生、そうおっしゃらず…」
「黙れ!」
朝比奈の慰めも三浦には効かず、斉藤を責め立てる。
「私を狙う不届き者はまだ捕まらぬのか!」
「…容易に手が出せる相手ではありません」
「お前たちなら容易いだろう!」
「容易いかもしれませんが、それが土佐と紀州にとって良い事とは思えません」
昂る三浦に対し斉藤が淡々と返答するので、それがさらに苛立ちに薪をくべる。三浦の機嫌を取るには彼に同調するのが簡単だが、下手な口約束は己の首を絞めることになってしまう。
「女を呼べ!美貌で気が利く極上の女だ」
「そんな…先生、ご無理を…」
「それ以外は認めぬ!」
三浦は吐き捨てると乱暴な足音を立てて隣の部屋に移ってしまった。朝比奈は眉間に皺を寄せながら深いため息をつき、斉藤に頭を下げた。
「…申し訳ありません…」
「宿から出ず、監禁状態だ。仕方がない」
朝比奈が謝るほど斉藤には三浦への怒りはない。むしろ彼が言うようにさっさと首謀者を捕まえて尋問してしまえば楽なのだが、相手が土佐とわかっている以上、事が起きる前に捕縛などできないのだ。
事が大きくなるのを防ぐためにも三浦の機嫌を損ねない様にあれこれ手を尽くすべきなのだろう。斉藤は腕を組み考える。
「…女か。新撰組が懇意にしている女がいる。呼べないことはないが…」
「その必要はありません」
朝比奈はきっぱり断言した。そして居住まいを正して
「先生があのようにおっしゃるときは、私が出向けば良いのです」
と口にした。
「……それは、どういう意味だ?」
「どういう意味も何もありません。私が女の代わりをすれば良いのです。むしろあれは私へ当てつけのようにおっしゃったのでしょう…最近はお相手ができていませんでしたからね」
「…」
「山口先生、しばらくに席を外していただくことはできませんか?さすがに房事を見せて喜ぶ趣味はありませんので」
そう言いながら朝比奈は羽織を脱ぎ、衣紋掛けに掛ける。ただそれだけの動作なのに妙に色めかしく見えるのは、朝比奈個人のせいなのか、その姿が英に重なるせいなのか。しかし彼らに共通するのはそうした行為に何の躊躇がないということだ。朝比奈の物言いではこれまでも何度もそういった場面があったのだろう。
「…それは、合意か?」
「合意?…先生は不思議なことをおっしゃいますね。我々は主従の関係です…主人がそう求めるならば答えるまでのこと。それで先生の身の安全が得られるならそれで良いと考えます」
「…」
朝比奈には義務であり、仕事の一環だということらしい。斉藤にはその価値観はよくわからなかったが、朝比奈に拒む理由がないのなら引き止める必要はないのだろう。
朝比奈は微笑んだ。
「私のことを案じてくださっているのならご心配は無用です。そうですね…線香二本くらいで済ませますから」
「…わかった」
警護対象者から離れるのは気が進まなかったが、斉藤にも房事を覗く趣味はない。朝比奈の悠然とした態度を見る限りそう無茶なことが起きるわけではないのだろう。
斉藤は朝比奈が隣の部屋に入っていくのを見送って階段を下りる。三浦と朝比奈の会話が聞こえたが、やがてそれは遠ざかっていく。
一階に降りて空き部屋で一息つく。当然宿は貸し切りにしているため他の客はいないため静かなのだが、
「どうしました!」
やたら大きな声の梅戸勝之進が一階に控えていた。斉藤は首を横に振り、「何もない」と答える。
「そうっすか。じゃあ交替ですか?」
「いや…暫時、人払いを頼まれた」
「はぁ、人払いっすか…?」
素直な梅戸は(持ち場を離れるなんて)と不思議そうな顔をしていたが、その理由をすぐ察する羽目になる。安宿の天井は低く壁は薄い。静寂な宿にギシギシと嬌声と軋む音が響けばすぐに察してしまうだろう。
「あ…はは、そういうことっすか…」
梅戸は少し恥ずかしそうに頬を赤らめながら困っていたが、次第に間が持たなくなって「茶でも頼みましょう」と年配の女将の元へ向かった。
斉藤は胡坐をかき、目を閉じた。天井を揺らすような物音はただの物音として鼓膜を揺らす。
三浦に対する嫌悪感はなかった。主従関係を結んでいてあれほどの美貌が目の前にあれば手を出したくなるのは仕方ないだろう。むしろどんな極上の女でも朝比奈の前では霞んでしまうはずだ。それに朝比奈が相手をするのなら外部から情報が洩れる心配がないのだから新撰組にとって悪い事ではない。
(だが朝比奈の方は…)
「茶です」
考え込んでいるところに梅戸が戻ってきた。湯気が立つ湯飲みに手を伸ばすと淹れたての茶が妙に美味かった。斉藤が目を見開いたのに気が付いた梅戸が
「あ、これ朝比奈さんからの差し入れらしいです」
と教えた。
「差し入れ?」
「世話になる女将に挨拶がてら渡したものらしいですよ、茶と羊羹。いやぁ、三浦殿はとにかくあの美男ぶりで礼儀正しく頭を下げられちゃぁねぇ…」
梅戸の視線は自然と二階の天井に向けられ、居心地悪そうにしていた。
(…朝比奈はどういうつもりなのか…)
梅戸の言う通り、尊大な三浦を庇い、慇懃な姿勢を貫く朝比奈は立派な侍者のように見えるだろう。あの美貌で女だけではなく、男までもほだされてしまうだろうけれど、斉藤はずっと違和感を覚えていた。
朝比奈はことあるごとに三浦への忠誠を時々口にするが、日頃から忠誠心の塊のような隊士たちと接しているせいなのか、その言葉ほどの熱量を感じたことはなかった。迷いなく従順に主人に従うのは、何か理由があるのではないか…あの寄せ付けがたい顔面の裏に何を隠しているのか、気がかりだった。
斉藤は茶を飲み干し、いまだに二階を気にする梅戸へ視線を向けた。
「茶と羊羹は、朝比奈が自ら買い求めたものか?」
「え?ああ、そうだと思います。何度か外出しているのを見ました」
「…お前はしばらく朝比奈を監視しろ」
「は…はいっ!」
梅戸は何故か嬉しそうに目を輝かせて頷いた。斉藤は「静かにしろ」とやや呆れながらため息をついたのだった。













解説
なし

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