わらべうた




811


寒さの厳しい夜。雪がちらつくなか、油小路花屋町の旅籠・天満屋での宴は予定通り始まった。三浦は友人との再会を喜び、上機嫌で招き入れてもてなすが、その階下で斉藤は客人を案内した朝比奈と島田、野村に詰め寄った。
「話が違う」
斉藤は憤りを隠せず、朝比奈も「申し訳ありません」と平謝りだった。
朝比奈と護衛の島田、野村は紀州の屋敷へ向かったのだが、予定していた二名の他に客人と三浦の郎党が加わっていたのだ。もちろん斉藤は承諾しておらず、予定外に身元の知れない人数が増えたことになる。朝比奈は目を伏せながら事情を説明した。
「…私も三宅殿と関殿のお二人をお招きするつもりだったのです。しかし屋敷にはお二人の他にちょうど先生を訪ねて長倉殿と甲村殿が居合わせ、三浦先生にお会いしたいとおっしゃいました。…紀州として碍にはできません」
「ではなぜ奉公人まで…」
「俺たちが頼りないって言うんでついてきたんですよ!」
野村がいらだった様子で吐き捨てる。
「居場所をは教えられないって伝えたら、いるかどうかもわからぬ敵襲に怯えて身を隠しているのかって喧嘩売られちまって。じゃあついて来いよと、ついうっかり…」
「申し訳ありません、自分が付いていながら」
島田は野村に強引に頭を下げさせるが、野村自身はあまり納得していないようだ。しかし紀州と揉めるわけにいかず結局は加わってしまったらしい。
斉藤は呆れながら、朝比奈に目を向けた。
「…客人は何者だ?」
「飫肥藩士の長倉徳平殿と甲村休五殿です。飫肥藩の京都探索方を務められ、先生と長く親交があります。身元は確かです」
「飫肥(おび)か…」
飫肥藩は地理的には薩摩藩に近い場所にあるが、その考えは薩摩とは敵対しどちらかといえば佐幕寄りで土佐に近い。大袈裟に警戒すべき藩ではないが、この時勢に長く親交があるからといって油断できるわけではない。
斉藤はため息をつきながらも、警護体制を変更せざるを得なかった。
「…客人の数があまりに多い。宴には俺も出ることにする。島田、一番隊の隊士には外の警戒を、応援に来た隊士は一階に待機を指示しろ。外回りは監察方に任せ必要あらば屯所へさらに増員を頼め」
「はっ!」
「それから梅戸と船津を呼んで来い」
「わかりました!」
島田は大きく頷いて野村の首根っこを掴んで去っていく。
朝比奈は改めて斉藤に謝罪した。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「…紀州の立場なら仕方ないのだろう。今更追い返せない」
「はい…。ただ、やって来た郎党たちは信頼の置ける者たちです。先生のことを心から慕っています」
「お前は違うのか?」
斉藤がすかさず尋ねると、朝比奈は微笑んだ。
「…私もですよ」
「…」
互いを探るようなやり取りをしていると、名指しで呼ばれて喜びを隠せない梅戸とおどおどと挙動不審な様子の船津がやって来た。
「お呼びですか?」
「梅戸、お前は蟒蛇だと聞いたが」
「はい!酔いつぶれたのは国元にいた頃に女に振られた時の一度のみです!原田組長ともよくどちらが多く飲めるか勝負をしております!」
「じゃあ宴に加われ。警護任務の一環だ、客人に失礼が無いように酌をして回れ」
「承知しました!」
「船津、お前もだ」
梅戸の覇気のある返答に比べ、船津は(なぜ自分が呼ばれたのか)と意図が分からず戸惑っていた。しかし断ることなどできるわけがなく蚊の鳴くような声で「はい」と答えるだけだった。船津は朝比奈へちらちらと視線を向けたが、朝比奈はそれを無視して
「よろしくお願いいたします」
と微笑んだ。そのやり取りははた目には大して気になるものではないが、二人に何らかの関係があったと考えれば意味深にも見える。
もともと船津は相馬に見張らせるつもりだったが
(こうなったらいっそ目の届くところに置く方がいい)
斉藤はそう思いながら宴の席へと向かった。


宴が始まり乾杯を終えて早々、三浦は関、三宅と同じ紀州藩周旋方として近況を報告し合った。三浦は二人のことを友人だと言っていたが、当の本人たちは三浦に気を遣い、身を隠さざるをえないこの状況をどうにか慰めようとしていた。
斉藤は付き合い程度に酒を舐めながら気配を消し警護役に徹するが、話は耳に入ってくる。やはり紀州藩には以前ほど徳川宗家へ対する忠誠心は高くはなく藩内で今後の身の振り方について揺れているらしい。
「上様は義父上を亡くされてから気落ちされている。とても戦の先頭に立つなどありえぬ」
「海援隊への賠償金で我が藩も苦しいからな、戦と言われても困るのが本音」
「まったく、我らは海援隊には振り回されておるな」
三浦の状況に同情しながら関と三宅は苦笑しかない。しかし三浦は弱気なところは見せずに
「なに、すぐに元の職務に戻れる」
と意気揚々としている。
その会話を朝比奈は笑顔を絶やさずに聞いていた。時折、手招きされ酌をしながら愛想よく相槌を打つ姿はまるで宴に呼ばれた芸妓のようだ。他の郎党たちも三浦の傍を離れず、意外にも主従関係は良好らしい。
一方で船津は辛気臭い顔をして幽霊のように黙り込んでいる。ちらちらと朝比奈へ視線を向けるが、やはり朝比奈はその視線を意に介さない。
その隣で「旨い旨い」と梅戸は酒を飲み、飫肥の客人に肴を勧めながら斉藤の指示通りその身元の詳細を聞き出そうと酌をした。
飫肥藩探索方として都の様子を探り国元へ伝える役目を任じられている長倉と甲村は齢が近い同じ塾生だそうだ。長倉は塾で助教を務めているそうで穏やかで賢い人物に見えた。もう一人の甲村は他藩から飫肥藩に仕官しながら探索方を務めているという変わった経歴を持っていて硬派で無口だが、長倉によると
「甲村君は実直で真面目な人柄で、信頼を得ちょるのです」
とのことらしい。梅戸の礼を欠いた態度を諫めることなく、二人は宴を楽しんでいた。
(怪しい雰囲気はない)
斉藤はひとまず安堵した。
次第に宴の話題は客人である飫肥の二人が中心となった。
「政局をどんげかせんならんちゅう思いは我々にもあります。しかし田舎には疎くそんげ機運はなく、ただ身近な脅威に対抗することだけを考えちょるだけです」
「その通り。薩摩が蔓延るのは困ります。徳川様には我らんような小藩んためにも先頭に立っていただきたいと思っております。そんために紀州藩んお力が必要なのです」
二人は必死に訴えた。
飫肥藩は常に薩摩藩を脅威に感じていた。新政府軍として世を変え、中心に据えられれば必ず不利益を被る…それだけは避けなければならない。
三浦たちは
「お二人の熱意を上様にお伝えしよう」
と曖昧な返答をしたが、きっと彼らのところで話は止まってしまうだろう。
(大政奉還一つで様々な変化が起きるものだ)
御三家が怯み、田舎の小藩は隣国の侵攻を恐れる。皆が保身のために動くなか徳川や会津、新撰組の行く末は一体どうなっているのか。
(…俺が心配することではない)
居場所を決めたのだから、その道を全うするだけだ。
斉藤が二本目の徳利に手を付ける頃には、宴はすでに無礼講となり梅戸と三浦の郎党たちが歌い踊り、三浦と友人、飫肥の客人たちの酒は進んだ。朝比奈は手拍子を叩きながら、時々三浦に手招きされて腰や肩のあたりに手を回されていた。朝比奈と三浦の関係は公然のこととなっているようで、関や三宅は目のやり場に困っているようだった。そしてその光景を苦々しく船津が見ている―――。
(歪な宴だ)
早く終わればいい…そんなことを思っていた、亥ノ刻。
パンパンパーンッ!
旅籠の外から、まるで戦の始まりを告げるような爆発音が響いたのだった。





812


「何の音だ?!」
誰より悲鳴のような声をあげたのは三浦だった。酔いつぶれて上機嫌になっていたはずが急転直下、顔面蒼白となって腰を抜かしている。そして友人や郎党たちは身構え、事情を知らない客人たちは一体何事かと盃を持ったまま周囲の様子を窺っていた。
斉藤は窓辺に近づき、外の様子を窺うために耳を澄ませた。爆発音はそれから続かずパタリと止みやがて数人の足音が旅籠から遠ざかって行った。おそらく外の見回りを務めている隊士たちが様子を見に行ったのだろう。
朝比奈が神妙な顔つきで斉藤へ近づいた。
「山口先生、これは…」
「…爆竹のような音だった。報告が来るまで部屋に待機する」
「ハイっ!」
酔いがさめた梅戸が頷き、船津は刀を抱えて震えているように見えたが、それ以上に動揺しているのは三浦だった。
「お…おい!さっさと確認してこい!」
「ここを動くわけにはいきません」
「刺客が迫っているならここから逃げねばならぬだろう!」
「下手に逃げ出すのは危険です。誘き寄せられている可能性が…」
「ええい、黙れ!」
三浦は斉藤に詰め寄るが、朝比奈が間に入って「どうかお静かに」と宥める。しかし恐怖に取りつかれた三浦は唇をわなわなと震わせてやたらと「うるさい!」と怒鳴り散らすので、斉藤は仕方なく
「私がここを離れれば敵に襲われ貴殿は死にますが、よろしいか?」
と断言した。あまりにはっきりとした物言いに驚き、三浦は息を呑んだがおかげで少しだけ冷静さを取り戻し、朝比奈と友人たちに促されてようやく黙って座り込んだ。
そうしていると急ぎ足で階段を駆け上ってくる足音が聞こえて、応援に来ている宮川が顔を出した。
「失礼いたします。…山口先生、どうやら爆竹の類のようです、燃えカスが旅籠から南へ少し下ったところに残っていました」
「誰の仕業だ?」
「島田伍長らが探っているところですが…悪戯ではないかと」
「まさか」
斉藤は鼻で笑う。このタイミングで、この場所で、悪戯なんて偶然があってはたまらない。
(悪い予感がある)
「厳重に警戒に当たれ。敵襲の可能性が…」
高い、といいかけた時、宮川の背後に白鉢巻をした若者が抜刀した状態で突然姿を現した。足音もなく忍び寄っていたのだ。
「宮川ッ!!」
(遅かった!)
叫んだ途端にそう悟った。宮川は背中を一閃され血を吐き、その場に斬り伏せられたのだ。おそらく本人は何もわからないまま絶命しただろう。
梅戸はすぐに刀を抜き、船津も怖々と続いた。飫肥藩士たちも素早く構え、朝比奈と友人たちは三浦とともに後ずさる。
「ヒィィッ!」
三浦が誰より怯え悪目立ちしていた。若い男は視線を三浦へ向けて「三浦氏は其許か」と刃先を向けて名指しすると三浦は一層怯えたので、確信したようだ。
斉藤は抜刀しながら飛び込んだ。男は受け止めて突こうとしたがそう簡単に跳ね返すことはできず避けるので精一杯となり、さらに狭い廊下ではどうしても動きが緩慢になる。結果として部屋から少しだけ遠ざけることができたが、同時に階段から男の仲間と思われる七、八名が駆けあがってくるのが視界に入った。
「梅戸、窓から逃がせ!」
「無理です、階下にも敵が…!」
おそらく爆竹の音につられて探索に向かったため表の警備が薄くなってそこを狙われたのだろう。斉藤はずらりと並んだ白鉢巻の刺客たちと距離を取りながら、
「陸奥か?」
と問いかける。すると一番最初に現れた血気盛んな若者が前に出た。
「ハハ、俺は中井だ、中井庄五郎!お前たちは新撰組だな?」
「ああ、そうだ」
斉藤はこの男が、と思った。確かに宮川を斬り伏せた手並みは鮮やかで隙が無かった。若く勝気な性格なのか、腕に自信があったのだろう一人で飛び込んできたのだ。
「私は坂本を殺してはおらぬぞ!」
三浦は震えながら声を荒げたが、すでに血走った眼を向けている中井には通じない。
「紀州が裏で手ェ引いとるんは間違いない!」
「い、言いがかりだっ」
「ハハッ紀州と新撰組が揃うなんてちょうどええな!お前ら、全員坂本先生の仇や!」
中井の言葉を合図に襲撃者たちが一斉に斬りかかってきた。斉藤はまず中井の刀を払い、その勢いで隣の男の腕を掠めた。血飛沫が舞い、敵は怯む。
怖気づいている三浦と紀州の関、三宅は部屋の隅に身体を寄せ合うだけで役立たずだが、三浦の郎党たちは主人を庇いながら敵を蹴散らしていた。客人の長倉と甲村は己の身を守ることに専念し、「我らは飫肥の者だ」「無関係だ」としきりに繰り返して退避の機会を探っていた。加勢して怪我を負っても面倒なので斉藤としてもその方が助かる。
「梅戸、屋根に逃がせ!」
「ハイっ!」
こんな時だけ梅戸の大音声が有難い。斉藤は狭い室内で数人を相手にしながら状況を把握しようとするが、何分人数が足りない。
(少しだけ持てばいい)
時間を稼げばそのうち島田たちが状況に気が付いて加勢に来るだろうし、それは長くはかからないはずだ。あちこちから降りかかる刃を避け、致命傷を与えると手間がかかって消耗するので身動きを取れない程度に痛めつけていく。敵とも味方とも分からない絶叫があちこちで響き、室内は混沌としていった。
「っ、山口先生!」
「!」
駆け寄ってきたのは朝比奈だった。彼は慣れない刀を抜いてどうにか三浦の盾になっていた。血しぶきを浴びたその端麗な顔は三浦の侍者としての務めを果たそうと懸命にもがいている。
(裏切っていたのではないのか?)
この者たちを誘き寄せたのは朝比奈ではないのか…斉藤は彼の横顔を見て本能的に自分の推察が間違っていたのだと気が付いたが、彼を問い詰める暇はない。目の前には白鉢巻姿の数名の敵がいるのだ。
「微力ながら、私も…!」
「無理だ、お前も逃げろ!梅戸に従い、三浦とともに行け!」
―――その途端、部屋の灯りが消えた。
「くそ…」
おそらく消されたのだろうと思った。彼らはそのつもりで暗闇で目立つ揃いの白い鉢巻をしていたのだろう。頼るべき月明かりは窓辺のみとなり、そこから梅戸が必死に紀州の三人を逃がそうとしている姿がはっきり見えてしまい、これでより一層狙われやすくなってしまった。
「おい船津、梅戸を助けろ!」
しかし返事はない。逃げたのか死んだのか…斉藤は確認できない。そこで仕方なく朝比奈を背にしてともに後退し、脱出口を守るように刀を構えた。
「ヤァぁぁッ!」
「ウオォオオォ!!」
薄暗闇の中で響く怒号。この場にいるのは斉藤と朝比奈、三浦の郎党数名たちだが足音と気配だけで敵味方の判別をするのは難しく、斉藤は慎重に自らに降りかかる刀を払い避けた。刺客のほとんどは凡庸な腕前だったが自ら名乗った中井は総司から聞いていた通りさすがに強敵だ。抜きん出て強く、素早く、胆力がある。
「狼のくせに、やるやないか!」
中井の挑発には乗らず、斉藤はその声の在処を探した。白の鉢巻が薄闇のなかで揺れるのが見えて、中井が振り落とした刀を受け止める。上から体重をかけて押さえつけるような力だったが、重心を逸らすと簡単にバランスを崩した。だがそれも中井の計算内だったのだろう、すぐに彼の突きが斉藤の耳の横を掠め、ブンっという音とともに薙ぎ払われた。斉藤はぎりぎりで避けた上でその音で中井の体の位置を把握し、払いのけて逆に刺すと、
「グッ…!」
手に肉塊を刻んだはっきりとした感触があった。おそらく脇腹のあたりを深く掠めたはずで、中井は離脱せざるを得ないだろう。だが行灯が消されたせいで敵の数は不透明であり、全容が把握できない。
(不本意だが…)
己の信条を優先し、作戦を失敗に終わらせるわけにはいかない。斉藤は懐から短銃を取り出しそれを足元に打ち込んでパァン!という銃声を響かせる。突然の銃声で敵が一気に怯んだ。
「短銃が?!」
「どこじゃぁ?!」
敵味方わからないがとにかく戦意が沈む。
するとようやく新たに数人が階段を駆け上がる音が聞こえた。敵の加勢でないことを願っていると、
「山口先生!」
と聞き慣れた島田の声だったので安堵した。
「島田、屋根に上れ!」
「わかりました!」
島田はすぐに状況を察し、数名を連れて別の部屋から屋根の上を目指す。
「加勢します!」
「俺も!」
聞こえてきたのは相馬と野村の声だ。威勢の良い二人が敵の背後から切り込み、刺客を囲む体制となり状況は好転した。あちこちで刀の劈く音が聞こえ、敵がじりじりと後退していく。
すると梅戸が屋根上から戻って来た。
「斉藤先生、退避完了です!」
「お前も行け、朝比奈」
斉藤は朝比奈の腕を引くが、彼はふらふらと立ち上がって足元が覚束ない。言葉を発することもなく痛みに堪えるように唇を噛んでいた。
「斬られたのか?」
「か、かすり傷です。大事ありません…」
彼の過去を考えると刀を抜いて戦う経験はなかっただろう。そんな彼がこんな修羅場に放り込まれ何人もの敵を相手にできるわけがなく、即死しなかっただけましだ。彼が苦痛に顔をゆがめている姿が…不意に英と重なった。
「…っ、すまない」
余裕がなく朝比奈まで庇いきれなかった。
斉藤が謝り、朝比奈が目を見開いたとき、
「お取込み中悪いな…!」
と斉藤は急に背後から羽交い絞めにされた。
(中井…!)
傷を負って後退しているだろうと思ったが、気配を消して近づいていたのだ。中井は息絶え絶えの様子だったが全体重をかけて最後の力を振り絞るように背後から斉藤の首を締め上げる。その強さは骨を折られそうなほどで斉藤は身を捩るが、どうにか窒息を避けるのに精いっぱいで上手く身体を拘束され身動きが取れない。
「ぐっ…」
「やれ!」
中井が仲間に向かって叫ぶ。格好の標的となってしまう―――と思った時、
「斉藤先生!」
梅戸が叫びながら斉藤の目の前に躍り出た。そしてそのまま庇う様に襲い掛かって来た敵の刀を真正面から浴びてしまった。
「アッ!」
「なにぃ?!」
予想外の出来事に中井の腕の力が一瞬抜けた。斉藤はその隙に拘束から逃れ、振り返りつつ蹴飛ばし今度こそ中井に渾身の力でトドメを刺した。即死した骸はその場に倒れ込み、斬り付けた刺客もすぐに仕留めて、蹲る梅戸の元へ駆け寄った。
「梅戸!」
「ァ…クソ、いってぇな、何も見えねえ…」
梅戸は顔を手で押さえていた。顔を遣られたようで顔面は真っ赤になっている。
「傷口を押さえていろ」
「…大丈夫っす。向かい傷は男の勲章…惚れてる御方のためなら猶更…」
「冗談を言えるなら良い」
斉藤は梅戸を安全な場所に移しつつ、周囲の状況を探った。幾人かの負傷者がいるがまだ戦闘は続いている。まだ階下から上がってくる気配もあり不利な状況であることは変わりない。
しかし
「三浦、討ち取ったりー!三浦、討ち取ったりィー!」
その声で状況は変わった。白鉢巻の刺客たちは示し合わせたように身を退いて階下へ逃れていき、中には二階の窓から一階へ飛び降りて逃げる者もいた。まるで潮が引くように敵が去って行ってしまったのだ。
梅戸が傷を押さえながら尋ねる。
「…やられちまったんすか?」
「いや…相馬の声だ」
この状況を打破するために相馬が一計を案じたようだ。暗闇のなかであるからこそ、声の主が誰であるか判別がつかない。その中で「三浦を討った」と聞き、刺客たちは目的を果たしたと勘違いしたのだろう。相手の作戦を逆手にとって状況を一変させた。
(賢い)
斉藤は感心しながら極度の緊張状態を解く。すると屋根を下りた島田がどこからか灯りを調達して戻って来た。
「御無事ですか?!」
「ああ。…状況は?」
「はっ、三浦殿、三宅殿、関殿はかすり傷程度でご無事です。郎党たちは軽い怪我を負っていますが命に別状はありません。階下では敵三名を捕縛しています」
「そうか。…医者を呼んで来い。梅戸と朝比奈が傷を負っている。あと屯所に知らせて応援を頼め」
「はっ!」
島田はすぐに踵を返して行った。
斉藤は改めて修羅場となった部屋を見渡した。廊下で無残に殺されているのは宮川で目は見開いたまま仰向けに倒れている。途中から返答がなくなった船津は部屋の入り口で骸となり、隣室で中条という平隊士が倒れていた。敵はほとんどが逃げ果せたようで中井が仰向けで倒れて絶命しているだけだ。
(失態だ…)
爆竹の音に気を取られ宿の警備が手薄になったところを侵入してきたのだろう。
三浦は助かったが、刺客の人数が想像以上の数だったため犠牲が多かった。
斉藤は部屋の隅で壁を背にもたれかかる朝比奈の元へ向かった。浅い息を繰り返している朝比奈は、傷の具合はわからないが腹のあたりの出血が多く血溜まりの中にいた。
「…ご無事…ですか…?」
「三浦殿は無事だ。…何故逃げなかった?」
「わかりません…どうして、だろう…」
朝比奈は自らに問いかけつつ苦笑する。斉藤は彼の前に片膝を折って、止血のために傷口を強く押さえつけた。
「…俺はお前を疑っていた」
「ええ…知っていました…でも、疑われる…ような、行動をしていました…から」
「何故だ?」
「…」
朝比奈は答えなかった。かわりに止血する斉藤の手に自らの血まみれのそれを重ねた。
「…山口先生…最後の頼みなら、私に口づけてくださいますか…?」
こんな時に何を、と斉藤は最初は呆れたが、朝比奈の表情は今までで一番穏やかな笑みを浮かべていた。母というものとは縁遠い斉藤だが、慈しみというものはこのような形をしているのかと思うほど、朝比奈の微笑みは慈愛に満ち、血で染まっていながらも麗しい。
「いや…すまない」
最後だと言うのなら彼の願いを叶えてやればいい。遠慮すべき存在なんていないのだから、彼を疑った詫びだと思ってくれてやればいい。
けれど
「悪いが…俺は、お前より美しい者に惚れている。その者に操を立てている」
きっと朝比奈はその答えをすでに予感していたのだろう。微笑んだまま満足げに頷いた。
「私は美しいと、言われるのが…嫌いなのです…。あなたを試して、いました…」
「…そうだと思っていた」
「その御方を大切に、なさってください…」
朝比奈はゲホッと吐血する。
「しっかりしろ、すぐに医者が来る」
「…ふな…つ、さんに申し訳ないことを…」
「船津は名誉ある戦死だ」
「そ…う、…」
そうですか、と朝比奈は安堵したようだ。すると階段を島田が駆けあがって来た。
「お連れしました!ちょうど近くを往診なさっていて…」
「そうか、この者の傷が重い。たの…」
斉藤が振り返ると、何の因果なのかそこには往診用の風呂敷を抱えた英がいた。斉藤は久方ぶりに顔を合わせるような気がしたが、彼は相変わらずでこの凄惨な光景を見渡して
「急な患者がいて近くの家に呼ばれたんだけど…また巻き込まれた」
と嫌そうな顔をしながら朝比奈の前に座った。英は朝比奈が血まみれのせいか自分にそっくりであるとは気が付かず、傷口と出血量を見るや厳しい顔で首を横に振った。朝比奈の息はかろうじて浅く繰り返されている。
だが、朝比奈の方は英を見て「ああ…」と感嘆のため息を漏らした。そして力を振り絞るように英の方へ手を伸ばして
「…元気そうで、良かった…」
と微笑んで、涙を流した。英は一体何のことか理解できないだろう。けれど
「ああ、元気だよ」
と答えた。すると朝比奈は満足げに笑ってゆっくり手を降ろすと目を閉じて、そのまま静かに息を引き取ったのだった。









813


英は改めて朝比奈の脈が途絶えてことを確認すると目を閉じて手を合わせた。
「…この者を知っているのか?」
「いや、知らないよ。でも死に際には何度も立ち会ってる…俺を誰かと間違えていたとしても最期に『人違いだ』なんて言えないからね。嘘も方便ってことだよ」
医者としての英の言い分に斉藤は納得した。嘘でも誤魔化しでも朝比奈が穏やか表情で逝けたのは英の返答のおかげだろう。
「それより、こっちの方が大変だ」
英は近くでぐったりしている梅戸の元へ向かう。傷口は右頬から首へ続いており、あと少しで首が切れて大惨事になっていたと言う。
「いてて…」
本人が強がるせいで軽傷のように見えたが、英は真剣な表情で止血に努める。
「深い傷だから傷跡が残るだろう。早く山さんを呼んで縫合してもらった方がいい」
「わかった」
そうしていると、屋根上に避難していた紀州の三浦たちが降りてきた。三浦は軽い怪我を負っていたが周囲の凄惨な光景に言葉を失いながら、朝比奈が息絶えている姿を見て、目を見開きふらふらと近づいて力無く膝をついた。
「朝比奈は…死んだ、のか…」
「…申し訳ない」
情人を守り切れなかったのだから怒鳴られる覚悟だったが、意外にも三浦は沈痛な面持ちで唇を噛み、これまでの振る舞いが別人ように興奮することはなかった。
「いや…これはずっと死にたがっていたのだ。父君に捨てられた時から…この世に絶望していた。ようやく苦しみから解放されただろう」
「…ご存知でしたか」
三浦は頷いた。
朝比奈は陰間の夜鷹をしていた頃に拾われてからの関係だと言わんばかりだったが、三浦は違ったようだ。
「一部では知られた話だ。…これの家は、何不自由ない家柄なのに一体何があったのか、ある時から豹変し狂ったそうだ。両親が訳のわからぬ祈祷師にのめり込み、金をつぎ込んで、世継ぎの兄が妖に遭い呪われたのだと触れ回って…その代償に世にも美しい少年が弟と共に捨てられたと聞いていた。私は夜道で朝比奈に出会った時に、あの捨てられた少年だと気がついたのだ」
「…弟、ですか」
朝比奈は妹だと言っていた。しかし三浦は首を横に振った。
「弟だ。三兄弟だと確かに記憶している。…あまりに過酷な過去ゆえに記憶が錯乱していたのだろう。私は朝比奈が妹だと言っても否定はしなかった。私が過去を知っていると知れば、手元から去る気がしてな…」
三浦は朝比奈の死に顔に手を伸ばし、血を拭ってやった。
「…朝比奈を拾ったのは美しいからではない。あまりに不憫だったからだ…だが、私も決して良い主人ではなかったな…」
三浦は唇を噛み、目尻を滲ませる。それはやがて嗚咽へ変わり、友人たちに促され部屋を出て一階に降りていった。
(美しいからではない…)
三浦がもし、朝比奈にそう伝えていたら―――もう少し彼は救われたのだろうか。
英は
「もう大丈夫」
と梅戸の応急処置を終えてぐるりと見渡す。ぼろぼろの畳、倒れた襖に破れた障子、あちこちに散乱する血飛沫…そして朝比奈と船津の死に顔を順番に見た後「そういうことか」と呟いた。
「なんだ?」
「この人…亡くなっている人、船津だっけ?何度か俺のところに来たんだ。歳さんから診療所から出るなって訳の分からないことを言われてうんざりしていた時に、書付をもって訪ねて来た。送り主は朝比奈という人だった」
「…なに?」
斉藤は驚いた。朝比奈は英のことを気にしていたので念のため彼には身を潜めるように土方から伝えたのだが、既に朝比奈が英に辿り着いていたとは思わなかった。
「さっきのお偉い人が話していたような身の上のことも書いてあった。自分は紀州の武家の次男で、人攫いに遭って生き別れになってしまった弟がいると…」
「お前には弟と言ったのか?」
それでは先ほどの三浦の言い分とは異なる。斉藤が困惑していると英が答えた。
「…記憶が曖昧な人は大抵、思い出したくない苦痛がある。だから本当は弟だとわかっていたけれど、弟だと話すと自分の過去を直接的に思い出してしまう…だから切り離すためにあえて他人には妹だと言い張って自分を守っていたのかも知れないね」
「…」
英が語ると、それがまるで朝比奈の本心だったような気がしてくる。それは姿形が瓜二つのせいなのだろう。
英は続けた。
「俺に実際に会って確かめたかったのだろうけれど、生憎紀州なんて記憶にないし、陰間茶屋に売られる以前のことはわからない。会っても無駄だと返答はしなかった。何度も書付が来たけど、妙なことに関わり合いたくなかった」
英は少しため息をつきながらもう一度朝比奈の前で膝を折って、その顔をまじまじと見た。
「…でも確かに、よく似ている。一度会ってみても良かったかな…」
「…」
英にも、朝比奈自身にも本当のところはあやふやで、答えは誰にもわからない。『もしかしたら』という意味では朝比奈と英は兄弟だったのかもしれないが、そうだとしても互いに混じり合うことのない人生だっただろう。ここで再会したことはあくまで偶然で、でも朝比奈の人生の終わりに英に会えたことは悪くない最期だったのではないか。
(そんな風に思うのは勝手だな)
斉藤はため息をついた。月明かりが部屋に差し込んで、眩しく感じた。

しばらくして土方が応援の隊士とともにやって来た。英は山崎に梅戸を引き渡すと「これ以上は御免だ」と入れ替わりで診療所へ戻っていった。
土方は三浦たちを別の宿へ移して安全を確保し、隊士たちには逃げた残党を追わせて斉藤と島田に事情を聞いた。
「自分の判断が間違っていました」
島田は肩を落として報告した。
爆竹の音が響き、島田が数名の隊士とともに旅籠を離れた隙に裏口から中井たちが侵入した。敵の数は十五名を超え、島田たちが戻った時にはすでに戦闘が始まっていてなかなか二階へ駆けつけられなかったらしい。
しかし斉藤は島田だけの失敗だとは思わなかった。
「敵は想定を超えた数でした。島田が警備を離れていなくともおそらく厳しい乱闘になったのは間違いありません。…二名の討ち死に、負傷三名を出したのは俺の落ち度です。申し訳ありません」
斉藤は頭を下げた。
警戒を怠らなかったわけではないが、ここまでの被害を出すとは思わなかった。想像が足らなかったのは組長である自分の責任だと斉藤は痛感していた。
けれど土方は「もういい」とそれ以上は責めなかった。
「先ほど、三浦殿から『宴を催した自分の引き起こしたことだ』と話を聞いた。怪我も軽く、飫肥藩士のお二人も無事に逃げ果せている…結果として三浦殿の警護は遂行された。それで良しとする」
「…わかりました」
斉藤としてはそれを鵜呑みにはできなかったが、死力を尽くして戦い疲弊していたため、土方に従うことにした。いまだに落ち込む島田の肩を叩き「休め」と言って二階への階段をゆっくりと昇る。怪我を負った梅戸が
「いててててててっ!」
と山崎に縫合されている声が響いていて、山崎は「元気そうやな」と笑いながら器用に手先を動かしていた。そして隊士たちによって十津川郷士中井庄五郎の遺体を戸板に乗せて運び出され、負傷して倒れていた中条は意識を取り戻して医学方として駆けつけた山野の治療を受けていた。
そして廊下に投げ出された宮川の遺体の傍に、総司が立っていた。土方とともに別宅から駆け付けていたのだ。
「…信吉君、死んでしまったんですね…」
「…」
宮川信吉は近藤の従弟で試衛館の門弟だ。決して特別な扱いをされていたわけではないが、近藤は己の身内が活躍していることを喜んで可愛がっていて、宮川もそれに応えようと健気に働いていた。
総司はゆっくりと膝を折って宮川の開いたままの目を閉じ、手を合わせて拝んだ。そして気分を変えるように何度か頷いて、
「ご苦労様でした」
と斉藤をねぎらった。総司の穏やかな表情を見て、斉藤はどこか日常に戻ったような気がした。
「…ああ。この有様だ」
「仕方ありません。十五名以上もいたのでしょう?きっと池田屋より多いですよ」
総司の言う通り、確かに池田屋よりも過酷な戦闘だったかもしれない。暗闇のなか中井に締め付けられた時、梅戸が庇うように飛び出さなければ死んでいたはずだ。
(一生足を向けて眠れないな)
斉藤はそんなことを思いながら、懐に仕舞っていた短銃を総司に返した。
「どうでした?」
総司は興味深そうに斉藤の反応を見ていた。警護任務に就く前、総司は『刀と銃のどちらが役立つのか試してほしい』と言って見送ったのだ。
斉藤は少し考えたあと正直に答えた。
「咄嗟の時にはやはり刀の方が手に馴染んでいるが…銃が無ければ生き延びられなかっただろう」
敵の数が多く囲まれ、このままでは危ないと思い銃を発砲した。その発砲音だけで予想以上に敵が怯み、混乱したことで切り抜けられたことは確かだ。
総司は
「そうですか…」
と少し残念そうに微笑んだ。彼としては鍛え続けた刀よりも引き金を引くだけの武器が有効であることが淋しかったのかもしれない。だが斉藤はそう悲観しているわけではない。
「刀であっても銃であっても武器というものは人を殺し、自分を生かすための手段でしかない。だがどちらも共通して己の意思が必要だ。…どっちが上というものはない、己が納得するものを使えば問題ないだろう」
「…斉藤さんらしいですね」
刀を振るうのも、引き金を引くのも、自分自身だ。だったら命の重みを感じるのはどちらでも構わないだろう。
斉藤の出した結論に、総司は納得したようだった。
するとようやく長かった夜に終わりを告げる朝陽が差し込んできた。誰が死んでも、何が起こっても、朝はやってくる。
斉藤はこの朝ほどそれを実感したことはなかった。









814


翌、十二月八日。
屯所に戻った斉藤は土方同席のもと改めて近藤に事件の詳細を説明した。近藤は任務の完了には安堵していたものの、従弟の宮川信吉が命を落としたことに酷く落胆していた。
「信吉が…」
近藤はしばらく目を伏せ目頭を押さえたが、私情を挟むまいと深呼吸したあとに「ご苦労だった」と斉藤を労った。彼の最期は背後から襲撃を受けると言う決して褒められたものではないが、彼が近藤の身内であっても今まで真摯に貢献してきたのは誰もが知っていることだ。
近藤が言葉に詰まったので、土方が代わりに続けた。
「身を隠すために三浦殿は紀州藩邸に籠るそうだ。しばらくは監察方に見張らせるが、時が経てば海援隊も陸援隊も別の犯人を捜すだろう。浅羽には俺から報告しておくが、今回の任務はこれで完遂になるだろう」
「…では、一番隊は通常の任務に戻ります」
「そうしてくれ」
近藤が頷いたので、斉藤は頭を下げて退席しようとする。しかし「待て」と土方が引き止めたのでもう一度姿勢を正した。
「何か?」
「今回の件、やはり三浦殿の居場所が敵に筒抜けだったようだ。先ほど大石が情報元を突き止めた」
「どこからですか?」
「相馬に聞いたが、旅籠を変わるたび朝比奈が茶葉を買い求めていたそうだな。そこの主人が朝比奈が来ると下男を尾行させて土佐の連中に居場所を伝えていたそうだ」
「…」
朝比奈は何かの拍子に店の主人へ『ご挨拶の品だ』とでも漏らしたのだろう。旅籠の場所までは口にしなかっただろうが、朝比奈は目立つので尾行が簡単だったはずだ。
斉藤は自分がいかに見当違いだったのかと思い知らされるようで、自分に苛立った。
「そうですか」
淡々と返答し、近藤が「休んでくれ」と労わったので今度こそ部屋を去る。
早朝の冷たい冬の風が頬を掠める…感情的になってしまった自分にはちょうど良かった。近藤には休むように言われたがそのような気になれず怪我人が休む大広間へ向かうと、重傷を負った者たちのなかに梅戸がいた。顔の半分以上が包帯に巻かれているが
「斉藤先生!」
と手招きされた。『山口だ』と言い返したくなる言葉をぐっと飲み込んで
「傷はどうだ?」
と傍らに腰を下ろした。
「十数針縫ったみたいっす」
「…そうか。悪かった」
あの薄暗闇のなかで、中井に羽交い絞めにされたときはこのまま死ぬと覚悟したが、梅戸が身を挺して飛び込んだおかげで何とか命拾いした。梅戸は顔面に大きな傷を負ったもののすこぶる元気そうに見えた。
「しばらくは安静にってきつく言いつけられちまいました。傷に障るから喋るなとも」
「…じゃあ黙って寝ていろ」
さっさと退散しようと腰を浮かそうとしたが、梅戸が「待ってくださいよ」と苦笑して引き止めた。
「疼いて眠くないんすよ。ちょっと付き合ってください」
「…変わってるな」
無口で愛想のない斉藤を引き止めるなんて逆に疲れそうだが、梅戸にはその様子がない。彼はそれから天満屋で起こったことを彼なりに振り返り明るく語ったので、斉藤はそれに耳を傾けた。
すると彼は急に声のトーンを落として斉藤から視線を背けた。
「あの…俺、あの時『平気だ』って言いましたけど、実は死ぬかもしれないと思っちまいました。だから…その弱気になっちまって…」
「なんだ?」
「変なことを口走っちまったような気が…ハハ、忘れてください」
「…何か言ったか?」
あの時は誰がどこにいるのかさえ分からない手探りのなかで常に緊張していた。梅戸ほどその当時のことを覚えておらず、彼が口走ったということも記憶にはなかった。
それを聞いた梅戸は少し唖然としたあと、
「あっ、ああ!じゃあ、なんでもないっす!全然、なんでも…イテテッ!」
「…もう黙って寝ろ」
斉藤は今度こそ腰を浮かし、部屋を出た。



昼になって総司はゆっくりと目を覚ました。天満屋から引き揚げ、激戦を生き抜いた隊士たちはまだ休んでいるはずなので、屯所は妙に静かだった。
総司は傍らに人の気配を感じて視線を向けると、そこにいたのは山崎だ。彼や山野が総司の様子を見るために顔を出す機会は多々あるが、彼はどこか遠い場所をぼんやりと眺めながら物思いに耽り、手元でぐるぐると匙を回していた。
「…お疲れですか?」
総司が声をかけると、山崎は少し驚いた顔をした。
「ああ、吃驚した。お目覚めでしたか、気づかへんかったな…」
「昨晩のことでお疲れでは?」
「いえ前線に立ったわけやないし、大石や他の監察を顎で使ってましたわ」
冗談めかした山崎は、総司の額に手を伸ばし「熱はないな」と確認した。
山崎は監察方としてではそうでなくとも医学方として忙しかったはずだが、彼のなかでは前線に立たない裏方の仕事は疲れたという部類には入らないようだ。
「少し休まれたら良いんじゃないですか?紀州警護の件はもう引き揚げたんでしょう?」
「へえ、お咎めなしで何よりです。…まあそれはそれとして見逃せへん動きがあちらこちらにあって…気ぃ休まれへんのです」
山崎は苦笑いを浮かべた。
新撰組にとって紀州要人警護は大きな山場であったが、世の情勢の変革に比べれば些細な出来事に過ぎない。山崎がすでに監察方から離れているはずなのにいまだに情報収集を怠らないのは、目まぐるしく世間が変化しているせいだろう。
しかしそれにしても、総司の目には山崎は参っているように見えた。
「この通り、私は暇人ですからお話を聞くならいくらでも聞けますけど」
「…ハハ、まあ沖田せんせに話してもしゃあないんですが…今回の件、結局陸奥や中井の居場所を突き止めるに至らんと、襲撃に遭うてしまいました。これは監察…俺の責任や思うてます」
「でもそれは仕方ないでしょう。そういうこともありますよ」
確かに陸奥や中井の動きを事前に察知することはできなかったが、監察方が万能ではないことは皆わかっているはずだ。
しかし山崎は落胆していた。
「いや…実はそういう情報に強い協力者がおったんですが、行方不明になってしもうて。その者の力が借れず今回のような顛末になってもうたんです」
「…いつからです?」
「もう半年ほど」
山崎は目を伏せてため息をつく。
「俺が入隊してからずっと力を貸してくれとった奴で、池田屋の時や長州征討の時もあらゆる情報を流してくれましたが…俺が医学方に移る言う話をしたくらいから顔を見せへんくなって…他の隊士にあいつのことを引継ぎもでけへんまま中途半端なことに」
「…」
山崎の口調はいつも通りの流暢な物言いだが、その表情は険しい。言葉以上に深刻な話なのだろう。
「…土方さんに話して探し出してもらったら良いのでは?」
「いえ、いまはそれどころちゃうし私情にすぎまへん。それにあいつも…なんも言わんと去るような不義理な奴ちゃう思うんで、気が済んだらそのうち顔出すと思います」
「お知り合いなんですか?」
山崎にしては慣れ親しんだように語るので訊ねると、彼は少し居心地悪そうに答えた。
「…子供のころからの幼馴染です」
「へえ、幼馴染ですか」
総司は驚いた。
山崎は監察方という仕事柄のせいかあまり自分のことを話そうとせず、常に他人と距離を取っているように見えた。その彼が重要な情報元として幼馴染を協力者にしているのは意外だったのだ。
「俺が急に医学方に移動になったんが気に入れへんのやろうと思います。この仕事が楽しかったんか、やりがいがあったみたいなんで…へそ曲げんと他の監察に協力してくれたらええんやけど」
茶化しながらも山崎は手元の匙を再びくるくると回しはじめ、落ち着かない様子だった。山崎は相手が納得するまで待つつもりだったのだろうが、こうして任務の失敗が起こると気が急くのだろう。
するとドカドカと足音が聞こえてきて
「沖田先生!」
と威勢よく泰助が顔を出した。山崎がいるとは思わなかったのだろう、「あっ」と思わず口を手で覆った。
「も、申し訳ありません。出直します!」
「いや待て待て、かまへん。話しは終わったとこや。…それで沖田せんせに何の用や?」
「そのう…稽古を見ていただこうと思って。銀や鉄も待ってます…けど、具合が芳しくないなら…」
泰助はちらちらと総司に視線を向ける。確かに小姓たちの稽古の時間は過ぎていたのだ。しかし医学方の頭である山崎の前で病人を稽古に誘うのはいささか勇気が必要だろう。
山崎はため息をつきながら総司に
「…決して無理はせえへんでください」
と釘を刺した。
「わかってますよ」
「俺はこの辺で。…先ほどの話は副長には伏せとってください」
山崎は少し寂し気な笑みを浮かべながら去っていった。









815


二条城には薩長への敵愾心が十分すぎるほどに満ち、城内は日に日に戦の匂いが漂うように物物しい。しかしその頂に立つ者はその空気を敢えて無視し涼しい顔のまま成り行きを眺めていた。もどかしさは日々募る。
『お傍で御守りする』…その言葉通り片時も傍を離れない会津公は
「今すぐに戦を」
「薩摩兵など捻りつぶせます!」
昂る幕臣や諸藩たちとの板挟みとなっていた。大樹公はそれを良いとも悪いとも口にせずただ時間の経過を待っている…会津公の傍に控える浅羽にはそれがとても長く感じられた。
「殿、新撰組から例の紀州藩士警護の件で報告が参りました」
「浅羽…無事に終わったか?」
「いえ、土佐の海援隊、陸援隊の数名に襲撃され、激しい戦闘になったようです。三浦殿はかすり傷程度で数名捕縛したとのことですが新撰組は負傷者が多く出ているようです。しばらくは事態が収まるだろうと紀州からも手を引くように言付かりました」
「そうか…」
浅羽の報告に対し、会津公の返答は鈍い。目元にはうっすらクマが浮かんでいた。
「殿、少しお休みになられてはいかがでしょうか…?」
「そうはいかぬ、上様には傍に侍るようにと命令されている」
「しかし…」
いくらなんでも昼夜問わずというわけではないだろうが、融通の利かない性格のせいか篤過ぎる忠誠心のせいか…浅羽には根を詰めているように見えた。
(ひとまず何か適当な理由を作って休息を取って頂かねば…)
そう思った時、大樹公の部屋から板倉老中が退出した。酷く険しい表情を浮かべ会津公に目配せして去っていくと、「肥後守!」と大樹公が呼ぶ声が聞こえた。
会津公は入れ替わるように中に入り、浅羽は嫌な予感がして躊躇いながらも聞き耳を立てた。しかし密談だったためすべてが聞こえてくるわけではなく、ただ一言だけ大樹公が
「私の名前が無いようだ」
と発したのだけ耳に入る。大樹公は怒りでもなく、憤りでもなく…どこか呆れたような言い方をしたので重大なことだとは思わなかったが、しばらくして部屋を出てきた会津公は青ざめていた。
「殿?」
「…何でもない。上様のご許可は頂いた、休む」
「承知しました…」
とても近づける雰囲気ではなく、浅羽はその場に留まり会津公の落胆した背中を見送ることしかできなかった。


総司が少年たちの稽古を見守っていると、原田が「やってるな」と声をかけてきた。
「巡察帰りですか?」
「ああ。いつも通り一周してきた。昨晩は大変だったらしいな、紀州のお偉いさんが無事で何よりだが、斉藤でさえ苦戦したんだな」
「思った以上に負傷者が多く出たみたいです」
「へぇ…」
原田は総司の隣に膝を折り、しばらく黙って少年たちの素振りを眺めていた。本来お喋りな彼がこれほど沈黙し覇気のない様子なのは見たことがない。
「あの…」
「これからどうなるんだろうな」
総司の言葉に敢えて被せるように、原田は口を開いた。
「徳川は政権を返上しちまって、これからは帝と薩摩の時代だって評判だぜ。世の中、そんな簡単にひっくり返っちまうのかな…」
「…近藤先生は、帝や薩摩が中心となっても徳川には兵力や領地では敵うはずがないとおっしゃっていました。たとえ戦となっても勝てるだろうと」
それ故に新しい政権が発足したとしても徳川が担うことになるはずだと近藤は信じている。
しかし原田の表情は晴れない。
「戦か…結局、分かり合えないんだよな」
「…」
「じゃあなんで平助は死んだんだろう…どうせ互いに戦になるなら正々堂々、御陵衛士のあいつと闘いたかったな…」
「それは…」
「俺はもちろん徳川のために戦うつもりだが…正直、気が向かない。…なんだか、奮い立つ熱いものがないんだよな」
「…原田さん…」
総司は言葉が出てこなかった。
原田の遠い眼差しは、亡くした藤堂を面影を追っているように見えた。まるで世間の歯車の一部のように消えていった喪失感は原田の中で燻り続けている。
屋根の雪が溶けて、冷たい水となって滴り落ちている。ボトボトという何気ない音が妙に大きく聞こえた。
原田は再び素振りを続ける少年たちに視線を向けたので、総司は「あの子」と後方で誰よりも汗をかきながら竹刀を振る鉄之助を指差した。
「市村鉄之助です。藤堂君に似ていると思いません?」
「…平助に?」
原田は目を凝らして首を傾げるが、似ているのは顔形でも体格でも剣筋でもない。
「兄だけ合格する予定だったのを私が土方さんにお願いして入隊させたんです。あの真っ直ぐな眼差しが、魁先生に似ている気がして…きっと見込みがあるだろうと」
「…まあ目ェだけはな」
原田は苦笑するが、同時に
「試衛館にいた時、平助もああやって無我夢中に振り回してたよな」
懐かしい光景を思い出し、表情が柔らかくなった。
過去は過去でしかなく戻れるものでもない。失ったものを取り返すこともできず、理不尽さを感じることもある。しかし過去は今を支える原動力でもある…それを総司はよく知っていた。
「戦になるのかどうか、わかりませんが…あの子たちがちゃんとした大人になるまでは力を貸したいと思うんです」
「…なんかお前、隠居した爺さんみたいだな」
「ハハハ、そうかも」
「…じゃあ俺ももう少し頑張らねぇとな。なんといっても養わなきゃならねぇ嫁さんと息子がいるんだからな」
「その意気です」
原田は膝を叩き立ち上がると「報告に行ってくる」と本調子ではないにせよ前向きな表情で去っていった。


その夜、近藤が「付き合え」と言うので、土方は将棋盤に並べた駒を手慰みに弄りながら、酒を舐めるように口にして彼の話に耳を傾けた。
諸藩が集う二条城はいまにも爆発して薩摩との戦に向かおうかという機運が高まっているが、当の大樹公自身がその気がないようだ。
「俺だって大樹公のお考えをお聞かせいただけるまで辛抱するつもりだったさ。だが、大樹公は前の戦でもあっさりと休戦に持ち込んでしまわれた。そもそも戦をするお気持ちがないのだ」
「そうかもな」
「だが、いまは出陣してしまえば状況は変わるのに、何かと理由をつけて弱腰だ。だから薩摩なんかに舐められる!」
酒のせいか、いつもは敬意を払うべき大樹公に対して本音が溢れていた。顔を真っ赤にしてくだを巻くのを見ると本心ではよほど腹に据えかねているらしい。
「せめてこの国を治めるなら先頭に立って皆の指揮をだな…!」
「一橋様は朝敵になりたくないのさ」
土方はずっと話半分で「そうだな」「お前の言うとおりだ」と頷いて相手をしていたが、あまりに熱弁する近藤を遮って止めた。幼馴染が明日には「失言だった」と落ち込みそうだとわかっていたからだ。
土方は自軍の王将に触れた。
「一橋様の父君は言わずもがな斉昭公だが、母君は有栖川宮家の娘だ。つまり、ご自分には帝の血が流れている…一橋様があくまで尊王を貫くのは決して朝敵になるつもりがないからだ。薩摩が帝を抱き込んでいる限り、一橋公は戦などしないし帝に弓引く行為はできないだろう」
「し、しかしこのままどうするおつもりで」
「近藤先生、二条城の血気盛んな様子にあてられたのかもしれねぇが、徳川がいま何か起こす必要があるか?…伊庭が前に言っていただろう?薩摩の思う壺だと」
土方は敵陣に金将、銀将を配する。歩兵は減らし守りは薄い。飛車や桂馬といった駒も遠くに置かれている。
「大政奉還後の舵取りはいまだに徳川が担っている。今後の政については朝廷で日々話し合われているようだが、参加している藩が何も反徳川ばかりと言うわけではあるまい…徳川を新政府に加えようとする尾張や越前、土佐がいる。そして二条城には国中から兵が集い今か今かと戦支度を整えていて…この状態で僅か四千の兵しかいない薩摩が一橋様を排除した新政府など宣言できるか?…徳川への憎しみが上回らない限り、そんな愚かな選択はしないはずだ」
「…それは、そうだが」
「一橋様はそれを見越してあえて動かないのだろう。焦ってあちこち動き回るより、何も口にせず不穏である方が相手は動揺する」
土方はそれ以上駒を動かさなかった。つまり何もするべきことなどないのだ。
(人望は無いようだが…俺はそれほど無能な将だとは思わない)
ただ有能すぎて先を見通すため、目前の考えが伝わっていないのだろう。一橋家には領地も兵もいない…信頼していた部下たちも暗殺され孤立している。そんな将軍がこれからどんな舵取りをするのかはわからないが、伊庭は『幕臣なら論ずるべきではない』と言っていたのでその通りだろう。
近藤は黙って俯いてしまったので、土方は
「そろそろ水でも飲め」
と湯飲みを勧めた。さらに総司が顔を出し、「飲み過ぎですよ」と笑ったのだった。







816


慶応三年十二月九日、薄明。
「山崎監察」
監察から離れ組長へ格上げし、個室を与えられてもなお易々と熟睡できない日々が続くなか、部屋の外から小声で呼ばれ山崎はパッと目を覚ました。
「…なんや?」
「失礼します。…ご一緒していただけませんか」
訪問者は大石だった。普段から無表情で抑揚のない話し方をするが、今朝の彼は少し焦っているような様子だったので只事ではないだろう。
「わかった、すぐに行く」
山崎は大石に合わせて潜入用の木綿の衣服に手早く着替え、裏口から屯所を出る。大石に「これを」と土の付いた大根やカブが入った竹籠を渡されたので朝市にやってくる農民を装うらしい。手拭いで顔を隠し、凍るように冷たい地面を歩く。
「…何があったんや?」
「御所の様子が物物しいのです」
「物物しい?」
「兵の数が…異常で」
「…」
山崎は眉間に皺を寄せた。
御所では徳川が政権を返上して以来、薩摩と手を組んだ公家が帝を抱き込み、諸藩とともに会議を繰り返していた。薩摩や長州のように徳川を排除した政権を目論む藩と、広大な領地と兵力を持つ徳川を無碍にすべきではないと主張する雄藩の間で溝が埋まらず、政が滞っているためにいまだに徳川が政権の長として異国との交渉を行う状態が続いているはずだ。
「局長と副長に報告すべきか悩みましたが…判断ができませんでした」
「そうか」
大石は個人的な印象では確信が持てず、山崎を頼ったようだ。
まだ寝静まっている大通りを念のため避けて細道を歩き、丸太町から御所へと近づく。すると遠目からでも下立売御門の前に松明がめらめらと揺れ、兵が銃や槍を携えて警備をしている姿が目に入った。
「…もう少し、北へ行ってみよか」
山崎は大石とともに北上するが、次の蛤御門、中立売御門、乾御門…同じように厳重な警備がなされていた。
「薩摩、芸州…越前と土佐か?」
身を隠しながら北側の今出川御門まで足を延ばしたところで朝陽も随分明るく差し込んでくるようになった。旗や兵装に印される家紋を見る限り、大藩が各御門を警備しているに過ぎないのかもしれないが、その威圧的で戦支度のような兵装と兵の数を見す限り、各門の警備というよりは接収しているとも見えた。
(せやけど、越前と土佐は徳川の味方では…?)
山崎は少し考え込むが、組織の末端に過ぎない自分には考えたところで正答にありつけるとは思えない。
「局長と副長に報告した方が宜しいでしょうか?」
「…そうやな。昨晩局長は深酒をされたそうやから、まずは副長に判断を仰げ」
「承知しました」
「俺はもう少し様子を見てから戻る」
山崎は大石を先に帰営させ、さらに西へ歩き御所を一周したがすべての御門の前で同じ光景が広がっていた。その頃には人通りが増え始め、御所の変化について人々がコソコソと噂話をしていた。
「なんや昨晩から騒がしなぁ」
「あれは薩摩はん?」
「いやや、戦でも始める気ぃやろか…」
庶民でも気が付いてしまう物物しさなのだろう。山崎は悪い予感がしてこめかみのあたりがキリキリと痛む…すると不意に目の前に女が現れた。身なりは質素で中年小太りの柔和な笑みを浮かべた女子だ。
「そのお大根、売ってくれへんやろか?」
「…あ、ああ。喜んで」
(そう言えば俺は大根売りやった)
すっかり忘れていた山崎はすぐに表情を作って、適当に「三文や」と言うと女は困って「二文にならへんやろか?」と頼んできた。山崎としては本業ではないのでいくらでも構わなかったのだが、女は訊ねてもいないのに事情を話し始めた。
「うちの隣の家に瘡毒の若い男がおってな。面倒見る者もおらんでしゃあのう面倒みてあげてるんや、知らぬふりで死んだら気分悪いやろ?大根をすったものやったら食べやすいか思てな」
「はあ、それで手の持ってるのんは三文のようだが?」
山崎は目ざとく女が三文を握っていたのを知っていた。払えない額ではないのに出し渋る…女はにやけた表情のまま笑った。
「ハハ、金は沢山持ってるみたいでな。…誰が喜んで瘡毒の面倒なんてみるかいな。手間賃もろうても悪ないやろう」
「…まあ、確かに」
山崎の手に三文入ろうが、女の手に一文入ろうがどちらでも良いことだ。しかし下心を隠し偽りの親切心で世話を焼きながら小金を懐に入れる女の態度には酷く不快なものを感じた。
話しが長くなりそうだったので山崎は二文を受け取って大根を売った。そしてついでにカブも渡して
「こらあんたにやなしに、その若い男に。…一文まけたったんやさかい文句はあらへんやろう」
「…へえへえ、どうも」
女は山崎の態度に少し気分を害したようだが、カブを受け取って戻っていった。山崎はもう関わりたくないと思いつつ彼女が戻っていった古い長屋を視線で追うと、女は手前の扉を開けて
「大根、買うてきたで」
と声をかけた後、自分の長屋らしきところへ入っていった。女の話は同情を引いて値切るための嘘ではなく、一応は本当の話らしい。
(…こんなつまらないことを気に掛ける時やない)
山崎はため息をついて、再び御所へ視線を向けた。きっと女の話に付き合ってしまったのは現実逃避だったのだろう…そんなことを思った。


前夜の八日、夕方から翌朝にかけて開かれた朝議にて、長州藩主・毛利敬親、広封父子の官位復旧と入京の許可、岩倉らの蟄居赦免と還俗、九州に落ち延びた三条実美ら五卿の赦免などが決まった。そして待機していた薩摩、越前、芸州、土佐らが御所の九つの門を封鎖し、親徳川の公家の参内を禁止した。
「御所へ幕臣や会津、桑名の兵が向かいましたが、とても近づけませんでした。御門へ向けて戦を仕掛ければ我々が朝敵となりますから」
大石の報告を聞いた土方は、二日酔いの近藤を叩き起こして山崎が帰営したあとに改めて話を聞いた。そうしていると浅羽が昨晩から今朝にかけての出来事を知らせにやって来た。
「長州の官位復帰に公家らの赦免…」
近藤はわなわなと震える。この数年の間に成し遂げた討幕派の追放がまるで無かったことになって元通りだ。失望を隠しきれなかった。
「…それどころか、上様の辞官納地も決まりました。新政府への参画も許されず」
「なんと…!上様は一大名として天子様をお支えしたいとおっしゃった、何も特別な待遇など求めてはおらぬのに…!土佐の容堂公は…徳川排除を反対されていたのでは…?!」
「残念ですが折れざるを得なかったのでしょう。尾張も越前も…」
近藤は浅羽に詰め寄るが、いつも精悍な表情を崩さない彼でさえ動揺を隠せていなかった。
実際に土佐の容堂公は徳川への恩に報いるべく、薩摩と岩倉卿の手腕を陰険だと断じ幼い帝を擁し政権を盗む行為だと非難したが、結局は多数の可決によって口を閉ざさざるを得なくなってしまったのだ。
つまり一夜にして徳川は新政府から追放された、クーデターだった。
「謀反、というよりも政変か。…薩摩も思い切ったことをする」
土方は動揺する近藤と浅羽を前にふんと鼻で笑った。昨晩までは薩摩が徳川の兵力を無視した行動を取るはずがないと考えていたが、どうやら期待を裏切れたようだ。
「歳、そう悠長に構えている場合か?」
「…上様はなんと?」
「それが…越前守様のご報告に『そうか』とおっしゃったきり…特に変わりなく」
「な、何故…何故そのように冷めていらっしゃるのか!上様の元には多くの臣下が、守るべき民がいるはずではないのでしょうか…!」
近藤は唇を噛み顔を真っ赤にして、どうしようもない焦燥感に掻き立てられていた。それは浅羽も同じできっと二条城に入った幕臣や藩士たちも同じように憤っていることだろう。そんな様子を想像すると、土方は逆に冷静になっていく。
「…近藤先生、状況は変わっていない」
「しかし!」
「兵力は徳川が上回り、大坂湾には軍艦も到着する。戦になれば勝てる…むしろこうなれば戦になって白黒はっきりつけた方が良いと思う。単純に、強い者が勝ってこの国を治めれば良いだけだ」
これまで目に見えない権力争いで徳川の命運が定められようとしていたが、排除されたことで状況は実にシンプルになった。
近藤は土方の言葉に呆れたようにため息をついて、「席を外す」と部屋を出ていく。寝起きの酒が残る頭では何一つ冷静に考えることができないだろう。
浅羽はずっと厳しい表情をしていたが、少し気が抜けたように苦笑した。
「…確かに、土方さんのおっしゃる通りですね。状況は有利ですし、我が会津兵も戦を望んでいましたから…このあたりで雌雄を決するのが良いかもしれません」
「ただ…大樹公にその気概があれば、ですが」
いくら勝てる戦でも上に立つ者の気持ち次第だ。しかし浅羽はため息交じりに「そのことですが」と重々しく口を開いた。
「これは私の勝手な推測ですが、どうやらこの政変について上様は前もってご存じだったようなのです。…その上で、兵を出さず抵抗なく粛々とこの決定を受け入れられた…内大臣の職位はともかく、納地を受け入れれば幕臣たちは路頭に迷います。上様はそれをご存じのはずなのに…」
「…朝敵になるのを恐れたのか…」
何か思惑があるのか、土方と同じように達観しているのか、政権を手放して諦めているのか。
あまりにも動きが読めず、土方はなんだか面白くなってしまった。
「…土方さん?」
「いや…何でもない」
いつも予想を裏切る。
敵の王将は一手にして金も銀も食らいつくし自分の駒にしてしまったのだから、政というのは常に規格外だ。











817


「王政復古の大号令」によって、徳川慶喜の将軍職辞職は勅許され、幕府・京都守護職・京都所司代の廃止となった。続いて新たな政の形として、摂政・関白が廃止され新たに総裁・議定・参与の三職をおく。当然その中に徳川の名前はなかった―――。


いまだに天満屋事件の疲れが抜けない斉藤だったが、さすがにこの政変でのうのうと休むわけにはいかず、あちこち伝手を頼って情報を得たがそのどれもが不確かな情報ばかりだった。
同じく監察方の情報を集約していた山崎と話し込んだ。
「慶喜公は言葉少なくおられるが、自らを『上様』として、征夷大将軍が廃止されたのちもこのまま采配を振るう意向があるそうだ。異国の使者とは国を代表して面会している」
「…そら、その上様が今後巻き返しを図り、政権を取り戻されるお気持ちがあるということで?」
「おそらく…」
斉藤は曖昧な返答をした。実際、二条城は混乱しているようで正確に上層部の様子を把握している者は少ない。人伝いに耳に入るだけだ。
対して山﨑のもとに集まっているのは諸藩の対応だ。
「王政復古の大号令なんてたいそに宣言してるけど、まだ揉めてるようや。薩長のあまりに強硬な動きに反発して、肥後や筑前は御所から兵を退くように要求してるとか…まだ一枚岩というわけでもない」
「ああ。土佐のご隠居はまだ慶喜公の新政府入りを諦めてはいないらしい」
「せやけど二条城の兵は戦をする気満々や。今回のことでいつ爆発してもおかしゅうはあれへんからと、寄宿先から城内に入るように命令されてるそうや」
「賢明な判断だな。小さな諍いが開戦の火種になる」
…二人の難しい会話を耳にしながら、総司は山崎が煎じた漢方の苦い苦い茶を啜っていた。もともと山崎は総司の様子を診に来ていたのだが、そこに斉藤もやってきて自然な流れで話が始まってしまったのだ。彼らの深刻な表情には口出しできず黙って聞いていたが、
「…つまり、薩摩は慶喜公を排除するつもりで兵を挙げたけれど、実際はまだ揉めていてどうなるかわからないということですか?」
「よくできました、正解です」
山崎が茶化して頷いたので、総司もつられたが、しかし斉藤はまだ険しい表情のままだった。
「…だが、薩摩が徳川の勝手を許すわけがないだろう。兵を挙げたということは必ず戦になるということだ」
「そうやろうな」
「戦に…」
総司は実感が沸かなかったが、クーデターが起こってからの数日、近藤や土方が忙しなく出入りし、激しく議論しているのを聞くといよいよという気持ちになる。
山崎はふう、と小さくため息をついた。まだ彼は疲れているように見えた。
「…そういえばご友人の件は、土方さんには?」
「ハハ、この非常時に個人的なことはとても…」
「友人?」
斉藤が何の話かと首を傾げたので、総司は山﨑の友人であり協力者が突然姿を消していることを話した。するとすぐに話が通じた。
「相良のことか?」
「さがら?」
「ああ。…相良直之進、俺は直と呼んでますけど」
友人の名前を口にすると、お喋りなはずの山崎の口が途端に重くなる。
しかし斉藤は怪訝な顔をした。
「相良なら、以前俺のところに挨拶に来たが」
「…は、挨拶?いつのことや?」
「監察方への協力から手を引くと聞いた。…確か御陵衛士として善立寺にいた頃だ。詳しい理由は話さなかったが、皆が承知のことかと思っていた」
「あいつ…俺にはなんも言わんと…!一体どういうつもりや」
山崎は苛立ちを隠せなかった。幼馴染で長い付き合いのある山崎には何も告げず、他の関りのあった斉藤には律儀に身を退く挨拶をしているとは思いもよらなかったのだ。
「斉藤さん、他に何か聞いていないのですか?」
「何も…誰かに見られては支障があるためにあまり長く立ち話もできなかったんだ。普段と変わらない様子だったが」
「ああ、腹が立つ。不義理にもほどがある…!」
山崎は感情を抑えきれなかったのか、「ちょっと失礼」とそのまま部屋を出て行ってしまった。いつも冷静で鬼副長を前にしても自分のペースを崩さない彼が、そうやって怒りを露わにしているのを総司は初めて見た気がした。それは斉藤も同じだったようでしばらく唖然としていた。
「…どういう方なんですか?相良さんという方は…」
「ああ…優秀な協力者だった。名字帯刀を許された家柄で、もともとは山崎と同じ大坂に住んでいたらしい。都の地理に明るく人脈があるそうで、壬生にいた頃から何かと気の利いた情報を流していた」
「へえ…壬生の頃から」
山崎は初期の隊士募集で入隊しているので、相良もまた長く協力者として新撰組を黎明期から支えていたのだ。総司はその存在すら知らなかったが、斉藤が『優秀だ』と言うくらいならその通りなのだろう。
「穏やかで人望があって、義理堅い印象だ。山崎に何も言わず姿を消すなんて考えられない。…しかしわざわざ挨拶に来たのだから、何かに巻き込まれたというわけでもあるまい」
「…何があったんですかねぇ…」
総司は考え込むが当然答えに辿り着けるわけがなく、ゴホゴホと少し咳き込んでしまった。斉藤は俄かに表情を変えて
「あまり関わるな」
と総司のお節介を控えるように言ったところで、バタバタと騒がしい足音が聞こえて来た。血相を変えて顔を出したのは井上だった。
「どうしました?おじさん」
「広間に召集しろとのお達しだ」

広間には先日の天満屋事件での負傷者も含め、新撰組隊士が勢揃いしていた。ずらりと並ぶその光景は壮観ではあるが、怪我人や病人の総司まで呼ばれているのだからよほど重要な話があるのだろう。
(険しい顔だな…)
斉藤とともに幹部の末席に座りながら、総司は近藤と土方の表情を窺う。土方が不機嫌そうに顔を顰めているのはいつものことだが、近藤には悲壮感が漂い腕を組んだまま俯いて微動だにしない。
「一体何事だ…?」
総司の隣に座ったこっそり原田が耳打ちするが、首を横に振るしかない。
「斉藤さん、わかります?」
「…大体想像がつくが…」
斉藤は慎重でむやみに口に出そうとしなかった。
この重々しい空気に耐えかねて、年長の井上が「局長、揃いました」と促すと、近藤はようやく固く閉じていた瞼をゆっくりと開けた。
「…皆に重大な知らせがある。異論はあるかと思うが、これは決定事項故に覆すことはできないものと心得てほしい」
いつになく重たい前置きに、隊士たちがごくりと唾を飲み込み耳を澄ませて、居住まいを正し身構える。近藤は深いため息の後にようやく口を開いた。
「知っている者もいるだろうが、昨日の王政復古の大号令で正式に幕府は廃止された。上様は内大臣を辞すとともに領地の返上も同意した。…それに伴い、京都守護職、京都所司代も無くなったため…新撰組はこの度新設される新遊撃隊に編入することとなった」
近藤の話の意味を、総司はすぐには理解できなかった。
幕府はなくなった、京都守護職、京都所司代も廃止になった。だったら京都守護職の下部組織である新撰組が無くなるのは当たり前のことだ。
(そうか、どうして思い至らなかったのだろう)
政変はもっと身近なところで起きていたのだと、どうして気づかなかったのだろう。
「…それは、つまり…我々は新撰組ではなく新遊撃隊とやらの一員になったということでしょうか?」
永倉が訊ねると近藤が躊躇いながら頷いたので、隊士たちはサッと顔色を変えて、騒然とした。浪人から幕臣に昇進したあとに幕府がなくなり所属が変わった…この半年ほどで足元が揺らぎ続けている分、動揺するのは当然だ。するとようやく黙っていた土方が立ち上がった。
「新遊撃隊の頭は見廻組の佐々木只三郎殿だが、都の治安を維持するという働きには変わりない。皆、そのように心得ろ」
土方が語気荒く一喝し、隊士たちはサッと平伏するしかない。
(相当怒っているなぁ…)
総司は内心苦笑しつつ、隊士たちと同じように頭を下げた。
近藤は
「皆、安心してくれ。新撰組の名を捨てるつもりはない」
と隊士たちを慰めるように、励ますように口にした後、土方とともに退室した。
緊張の糸が切れたかのように再び広間は改めてざわつき、島田が総司と斉藤の元へやって来た。
「先生、今のお話は…」
「…ハハ、残念ながら私も初耳で、青天の霹靂というやつです」
「不要だから解散しろと言われなかっただけマシだ」
「解散…」
島田は青ざめるが、斉藤はもっと最悪の事態を想定していたらしい。
「…自分はまだ信じられませんが、仕方がないのでしょうね…」
最古参の島田は壬生狼と蔑まれた頃に『新撰組』という名を与えられた時の感動を味わっている分、その名前に愛着があるだろう。
「島田、これからは見廻組と合同で巡察になるだろう。指示があるまでは屯所に待機するように伝えておけ」
「承知しました」
島田は表情を引き締めて頷き、隊士たちの元へ戻っていった。










818


総司は騒がしい広間を出て二人を追ったのだが、近藤の部屋から出てきた土方に
「今はそっとしてやれ」
と止められた。隣室の土方の部屋に入るのは気まずいので、そのまま少し離れた総司の自室へ移動した。
「…近藤先生、落胆していらっしゃるのでは?」
「ああ。まあ…落ち込んでいるというよりか悔しがっている。今まで見廻組よりもよほど新撰組の方が貢献してきたはずだと自負してきたからな。…あの佐々木の下なんかにつきたいものか」
「…佐々木さんですか…」
幕臣の佐々木只三郎はその昔、清河八郎と江戸で浪士組の結成を主導した人物だ。近藤と芹沢が都への残留を決めた時は彼の仲立ちのおかげで京都守護職のお預かりとなることができたが、その後江戸へ戻った彼は清河を暗殺し再び上洛して京都見廻組を率いることとなった。恩がある人物だがその活動は新撰組とは対立することがあり、管轄も違うためあまり共同戦線を張ることはなかった。また彼らは結成当時から身分が保証されており、隊長は旗本、隊員は御家人だったので、土方は気に入らなかった。
土方は深いため息をついた。
「新撰組と名乗れないどころか、いわくつきの奴に上に立たれるなんて真っ平ごめんだ」
「いわくつき?」
「…土佐の坂本龍馬を暗殺したのは佐々木だと複数耳にした。俺はおそらく間違いないと踏んでいる。見廻組ならやりかねない」
「へぇ…」
総司にとっては顔すら知らない無関係の要人の暗殺だが、最初は新撰組の仕業だと噂され、御陵衛士との対立する原因の一つになり、天満屋での奇襲事件も起きた。それが結局、見廻組の仕業なら随分振り回された気分だ。
土方も同じだったのだろう火鉢の炭を弄りつつ、不機嫌な様子でぶつぶつと続けた。
「これから巡察は見廻組と合同で行うことになるだろう。…だいたい『新遊撃隊』っていうのが気に入らない。伊庭の居る遊撃隊と同じ意味合いで都版の遊撃隊として組織されたらしいが、何で俺たちが二番煎じなんだ。伊庭の野郎の高笑いが聞こえてくる」
「気に入らないのはそこですか?」
「当然だろう」
冗談なのか本気なのか、土方は「こっちに来い」と総司を引き寄せてその膝に頭を乗せた。ここは鬼の副長の住処ではなく、だれかれ構わず足を運ぶ総司の自室だ。
「ここ、屯所ですけど」
「別にいい」
「…まあ、土方さんが落ち込んでいないなら良いんですけど」
「…」
土方は何も答えず、ムスッとしたまま目を閉じた。もちろん土方も今回の組織変更には思うところがあるだろうし、近藤ほどではなくとも『新撰組』の名前に愛着があるだろう。心の奥底では意気消沈していてそれを誤魔化すためにあれこれ八つ当たりしているのかもしれない。
しかし総司はさほど落胆していなかった。
「きっと近藤先生が必要とされる時が来ます。その時は新遊撃隊ではなくて新撰組として呼ばれるはずですから、私は心配していませんよ」
「楽観的だな…」
「私は詳しいことはわかりませんから」
「…ああ、そうだな」
総司の根拠のない励ましで、土方の眉間の皺が一つ取れた。現状に不満はあっても混乱した徳川では致し方ない状況なのだということは本心では良くわかっていたのだろう。たとえ根拠がなくとも今はそう信じるしかない。
これ以上話を続けては気が滅入るので、総司は話しを切り上げた。
「そういえば、相良直之進さんをご存じですか?」
「…山崎の元協力者だろう?なぜお前が知っているんだ」
「元…」
斉藤と同じように土方も相良が新撰組を離れたことを知っていた。やはり相良は敢えて山崎にだけ何も話さずに姿を眩ませたのだろう。
「山崎さんが何もご存じないようで所在を知りたがっていました。彼らは幼馴染なんですよね、土方さんは相良さんのその後のことは知らないんですか?」
「…」
土方は総司を見上げながら、少し沈黙した後に総司の耳元の後れ毛に手を伸ばした。そして言葉を選ぶように続けた。
「…お前が関わらなくていい話だ。相良には会ったことがないのだろう?」
「ありませんけど、山崎さんが心配してましたから」
「わかった。…気に留めておく」
(知っているんだ)
その返答を聞いて、総司は土方が相良の所在や事情を知っているのだと察した。けれど土方はそれを口にするのを躊躇っているようだったので、それ以上は聞けなかった。


翌日、朝早くに伊庭が訪ねてきた。彼は高笑いをしているわけではなく、気難しい表情で
「今夜、下坂することになりました」
と報告した。
近藤は相変わらず二条城へ足を運んでいたのですれ違いとなり、土方と総司が出迎えた。
「大坂へ?」
「ええ、二条城では会津や桑名の兵が今にも戦を仕掛けようと前のめりになっています。上様のご指示で万一のことを考えて物理的な距離を取るために大坂城へ入ることになりました」
「…本当に騒がしくなってきましたね」
総司自身は屯所と別宅を往復するくらいで代り映えのない日々だと思うが、実際は慌ただしく世間は移り変わっている。兵が集い、戦を始めようとしていて、新撰組もその一部になる―――その最中に自分はどこに身を置けば良いのだろう。
(…結局僕は自分のことばかりだな…)
総司は内心自分に呆れたが、落胆している場合ではない。
土方は鼻で笑った。
「この時機に、しかも夜中に大坂へ退くなんて、王政復古を聞いて夜逃げしたのだと笑われるに決まってる。征夷大将軍様なら恥だとお感じになるはずだが、一橋様は外聞を気にされないんだな」
伊庭は土方の悪態を聞き、頷いて苦笑した。
「そういう風に言う者もいます。なんせ、逃げ腰の徳川に失望して上様の前で自害した者もいますからね」
「…そんな」
「身を賭しての抗議だったのでしょうけど…上様がどう思われたのかわかりません」
土方とは違い、伊庭はその端正な顔が言葉では言い表せない感情に押しつぶされていた。彼は自分の主義主張など必要なく、恩恵を受けたその身は徳川のものだと割り切っていたが、本心では葛藤があるのだろう。
何となく無言になってしまったが、伊庭は気を取り直すように続けた。
「…でも、そう悲観することはないです。大坂城の方が広いし、軍艦とも近い。戦となった時も勝てる見込みがありますから実際のところ戦略として悪くはありません」
「ああ。それに万一の時は大坂を抑えれば京への物流を止めることもできる。そうすれば薩摩や朝廷も困るだろう…一橋様は遠い先を見越している。まあ遠すぎるけどな」
伊庭も頷いて湯呑みに手を伸ばした。
「…ところで伊庭、幕臣は二条城に詰める命令が出ているんだろう?こんなところに来ていいのか?」
「こっそり抜け出してきたんですよ。だからこの茶をいただいたら戻ります。俺は大坂へ向かう前にお二人の顔を見たかっただけなんです」
伊庭は名残惜しそうに茶を飲みながら、目に焼き付けるように不動堂村の屯所を見回した。
「勝てる戦だとか徳川が滅ぶわけがないとか…どんな綺麗事を並べたってこれが今生の別れになるかもしれない。だから約束してください…必ずまた会いましょう」
伊庭は寂しさを噛み締めながらも気丈に微笑んだ。揺れ動く心の奥底に何があっても曲げられない信念があるからこそ、彼は決して弱気なことは言わなかった。
「沖田さん、しっかり養生してください。前線で待ってますから」
「…伊庭君もどうかお元気で」
三人は揃って頷いた。
伊庭は部屋を出て永倉と原田、井上に一通り挨拶したあと「近藤先生にも宜しく」と言って屯所を出ようとしたが帰り際、外出していた斉藤に遭遇した。
彼らは二、三言話したあと、
「斉藤さんはしぶとそうだからどこかで会えそうですね」
と悪戯っぽく笑う。すると斉藤は相変わらず淡々としていたが「お互いにな」と返して餞別の言葉とした。
伊庭は軽く手を振りながら去っていった。別れの挨拶だけはしたものの、まるで明日もまたやってくるような気軽さだった。








819


「身分、罪状問わず入隊できる壬生浪士組ぃ?…本気か?烝」
相良直之進は怪訝な顔をして、幼馴染の顔を見た。山崎は鍼医者の倅であったが少年期から好奇心が強く薬に興味が向けば薬問屋に入り浸り、書を鍛えたいと思えば書家に弟子入りする…しかもそのどれをも極めた頃に「飽きた」と言って戻ってくる、少々落ち着きのない男だった。
相良の家は代々、鍼医師の山崎の家に客として世話になっていて、同い年の山崎とは幼いころから気が合った。相良は名字帯刀を許された商家の次男であったが、優秀な兄が立派な跡継ぎになり父に気に入られていたため、相良自身は兄の予備でしかなく…毎日が手持無沙汰だった。それ故に山崎が興味の赴くままにふらふらしているのを羨ましく思っていたが流石に浪士組に参加するとなれば話が変わる。
「なんや、面白そうやろ?」
「そんな単純な話ちゃう。…江戸から来た浪士組の噂話は聞いたことある。素行の悪い者を集めて将軍警護になんて妙な話で集まった挙句、結局その大半がおめおめ江戸へ戻ったやろう」
「そうそう。ほんで、都に残ったのは気骨のある浪人たちや」
「…阿呆か」
相良は残った者たちもろくでもない集団に決まっている、と呆れたが、山崎はいつもの好奇心丸出しの表情をして
「なあ、お前もどうや?」
と誘った。
「…なんで俺が」
「このまま家におったって店は兄さんが継ぐし…暇やろう?」
「…」
山崎は気楽に誘っているように見えて、実は次男で行きどころのない相良のことを心配していたのだろう。その気持ちはありがたかったが。
「…考えとく」
相良はそう口にしながら、当然その気はなかった。
(俺は兄の代用品でええ)
そういう人生の方が穏やかに暮らせるに決まっている。何の浮き沈みのない日々の中でたまに山崎の冒険を傍で楽しく眺める…それくらいの方が性に合っている。生きるか死ぬかわからない地獄に飛び込むなんてありえない。
(…と、思うとったのに)
相良は数日後、再び山崎に会い「入隊してきた」と言って荷物をまとめる姿を見て唖然とした。山崎の父は当然反対したが
「こうなっては手が付けられへん」
と、既に諦めていた。
せっせと身支度を整えていく山﨑を見て、相良は内心、焦った。
「ほんまにどあほ者やな。都に行ってどないすんつもりだ、ちょい棒術を齧ったからって身を守れるとは限れへん。…今からでも遅ない。頭下げてやっぱやめるって言うてこい」
「いや、もうやめられへん。局を脱するは切腹らしい」
「…は?」
「それにそないに悪い人たちちゃうみたい。…まあどうにか生き延びる。心配すな」
山崎がいつも通り笑って出ていこうとした。何の気負いも躊躇いもない…穏やかで安定した生活がそこに在るのに、意にも介さずに捨てていこうとする。いつもと同じようにその好奇心が満たされるまで帰ってこないだろう。
けれど、今度は違う。命を賭けてそのまま戻ってこられないかもしれないのだから。
相良は思わずその手を取った。
「…直?」
「烝が死んだら…困る」
「死ぬつもりはあれへんけどな」
「俺には浪士組に参加できるような才はあれへんし、きっと父も兄も許してくれへん。…そやさかい、できることあるなら協力する。せやから…たまには帰ってこい」
(烝がおれへんようになったら…おもろない)
幼馴染は自分では見ることのできない場所へ連れて行ってくれる。…相良は山﨑を失うのが怖かった。
「おおきにな、その時は頼むわ」
山崎は喜んで手を握り返し「ほな」とちょっと近所にお使いでも行くように去っていってしまった。


山崎が口にした『その時』は案外早く訪れた。
数か月後、新撰組隊士として相良の前に現れた山崎は雑談もそこそこに「話がある」と誘い、人気のない路地で立ち話をすることになった。
「頼みたいことがあるんやけど」
「…」
相良はまじまじと山崎を見た。数か月離れていただけなのに人が変わったように落ち着いていて大人びていた。
「直?」
「…雰囲気変わったな。なんかあった?」
「そんなつもりはあれへんけど…まあ毎日楽しい。次々思わなぬ出来事に出くわすし、予想がでけへん。…今までどれほど退屈な人生歩んどったか、実感してるな」
「…」
彼の好奇心が満たされ眼差しは輝いて見える。しかし相良には眩しすぎた。
(烝がそんなんを言うたら俺の人生はなんやねん)
誘いに乗らず相変わらずの代わり映えのない日々を送っているとを蔑まれたような気がして、相良はあまり良い気分にはならなかった。
「…悪いけど、協力でけへん。他を当たってや」
「まだ何にも言うてへんやん…それに直にしかこんなん頼まれへんねん、なあ頼むわ」
「ほな…話だけ聞いたる」
山崎が珍しく懇願するので相良は仕方なく耳を傾けた。
山崎は都の地理に明るいことから、壬生浪士組の『監察方』を任されることになったらしい。討幕を目論む浪士の偵察が主な任務で潜入や情報収集を行うが、それはその身一つではとてもこなせる仕事ではなく信頼できる協力者を仕立てなければならない。
「こっちの知り合いには何人か声をかけたけど、なかなか色よい返事があれへん。なんせ『壬生狼』やからな、関わりたない思うんが当たり前やろ」
「…まさか俺に協力者になれって?」
「そう。お前やったら大坂や都の商家にツテがあるし顔が利くやろ?都の商人は特に長州贔屓やさかい何とか情報を得たいっちゅう上の意向なんや」
「ツテがあるっていったって、俺は父や兄の代わりに出向いて届け物したり、用済ましたりその程度で…」
あくまで次男の相良は邪険に扱われず愛想よく対応されるものの、要の商談や取引の席にはいない。世間話程度で、山崎が求めるような『情報』を得られるとは思えなかった。
「様子を伝えてくれるだけでええんや。世間話でもしたらその商家が攘夷やら佐幕やらそんな話は聞こえてくるやろ?」
「き、聞こえてはくるけど…」
「ほんまに頼む。直に身の危険があったら守るし、危ないことはさせへん」
相良は山崎に両肩を掴まれて揺さぶられた。
(こんなに強情な奴やったっけ?)
好奇心旺盛で気の向くままに日暮し…そんな山崎が必死に頼み込む懸命な姿を見て、相良の心は揺れた。そもそも『協力する』と言い出したのは相良であり、幼馴染がこうして助けを求めているのだから手を差し伸べたいと思う。それに、
(断ったら…もう俺のとこには戻って来えへんのかもわかれへん)
充実した幼馴染の顔を見ると彼の見つけた『道』は探し求めていた場所なのだろう。そしてその先は相良との将来には繋がらず、このまま袂を別つことになってしまうかもしれない。
相良は鼻の先が触れ合いそうなほど近い山崎を真っすぐ見据えた。
「烝…俺は刀は差してるけどお飾りで、抜いたこともない腰抜けだ。次男坊でのうのうと生きてきて何の取り柄もあれへん。…そんな俺に頼んだら自分の足を引っ張るかもわかれへんのや」
だから考え直した方が良いと相良は促したが、山崎は首を横に振った。
「この任務は信頼関係が重要や。俺と直ならそれがある」
「…」
「…それにほんまは俺は直と入隊したかった。せやけど浪士組は厳しいし、局を脱するんは許されへん…直には不向きな場所かて思たから強引に誘われへんかった。…せやけどちょっとは、直が世のために役立てるってわかってほしい。直はほんまは賢いのに世間知らずの次男坊の扱いのままなんは俺が嫌やねん」
山崎の正直な言葉に、相良は目を見開いた。彼は楽観的な気持ちで相良を誘っていたわけではなく、背中を押してくれていたのだ。もしかしたら相良自身が気が付かなかっただけで、いままで何度もそんな機会があったのかもしれない。
山崎の一途な思いが胸にしみて絆される。もうその時には後先考えずに相良は彼の手を取り
「しゃあない…付き合うたる」
と答えていた。山崎の表情は一気に綻んだ。
「ほんまか?恩に着る!取り分はちゃんと交渉するから安心しぃや!」
「金なんかどうでもええし、烝に任せる」
「お坊ちゃんはこれや…。なんか礼でもせんと落ち着けへんな、なんかないんか?」
「なんかってなあ…」
これと言って物欲のない相良は考え込む。しかし山崎が気が済まないと言うので仕方なく答えた。
「礼っちゅうなら…何でも言うこと一つ聞くっていうはどうだ?」
「それがええな。何でも聞く」
「…今は思いつけへん。いつか願い事が決まった時に頼む」
「ああ、わかった。いつか…約束な」
山崎は小指を差し出してきた。子どもっぽい仕草に相良は噴き出して笑った。
「なんやねん、これ」
「子供の頃はようやったやろう?自慢ちゃうけど俺は指切りして約束を違えたことはあれへんからな」
「わかったわかった、信じるよ」
相良はもう良い大人だと言うのに、と恥ずかしがりながら山崎と指切りをした。








820


それから壬生浪士組は会津藩お預かりの新撰組として勇名を馳せることとなった。

相良は山崎の協力者としてあちこちの商家に顔を出し、世間話から得た些細な情報をなんでも山崎に伝えた。はじめはたどたどしかったものの、それがたまに不逞浪士を匿う商人を見つけ出すことに繋がったり、大金を長州へ横流しする豪商の噂を耳にしたり…と山崎の任務遂行に繋がった。また、新撰組に興味を持ち見込みがありそうな人物には山崎を面会させ直接協力者に仕立てることもあり、徐々に山崎の人脈は広がっていった。
「ほんま、直のおかげや。お前はほんまに人を見る目がある」
相良は大坂から都へ足を運ぶと、たいてい山崎に会った。情報の共有という目的もあったが、単なる友人として彼に会うのを楽しみにしていたのだ。けれど山崎は会うたびに違う格好で人相まで異なる。
「烝、今日のその恰好はなんや?」
「髪結いや。武家でも商家でも案外簡単に入り込める。あ、そこそこ上手いんやで?見込みがあるって褒められたから職に困ったら髪結いでもしよかな」
「そんな気はあれへんくせに」
調子の良いことを言う山崎に相良は苦笑する。
山崎は好奇心の向くままに入隊したが、今では新撰組へかなり入れ込んでいて鍼医師に戻るつもりは無いようだ。彼の父は『所詮は武士の真似事』と揶揄したが、相良の目には山崎が本気で新撰組隊士の一員として励んでいるのだとわかる。
賑やかな居酒屋で酒を酌み交わす。相良は肴を弄りながら雑談の合間に声を潜めた。
「…河原町四条の枡屋に妙な浪人が出入りしてるって噂がある。筑前黒田家御用達で古道具や馬具を扱うてるけど、跡継ぎは商売よりも尊王攘夷に熱心やと耳にした」
「そうか…わかった。おおきに」
山崎は言葉少なく頷いたあと、すぐに酒を差し出して雑談に戻した。
「それで父上や兄上はお元気か?」
「ああ、商売繁盛で忙しそうや。やる気のなかった次男坊が急にあちこち出向いてよう働くから二人とも驚いとったで」
「ハハ、確かに」
「それに兄さんには子が生まれた。玉のような男やと父はめっちゃ喜んでる…これで跡継ぎには困れへん。俺も肩の荷が下りた」
相良は心底本気でそう思ったのだが、山崎は眉を顰めた。
「…直はそれでええんか?」
「当たり前や。跡取りなんてなるつもりはあれへんし、兄さんに子できてほんまに安心してるんや。…これで俺がおらんでも店は大丈夫」
「そうか…」
山崎はまだ引っかかるようだったが、相良は清々しい気持ちだった。今まで兄の代用品として生きてきたが、その必要もなくなり自分の好きなように生きられる。
(こうやって烝の役に立つのだって…俺自身の選択や)
山崎と同じ目標を、別の立場からとはいえ目指せることは相良にとって悪くない生き甲斐だ。
(…なんて、素直に感謝するには恥ずかしいから言わへんけど)
「そんなんより、烝の父上は相変わらず患者から金を貰えへんで仕事ばっかりしてんで」
「まったくあの親父…仕送りしてるからって好き勝手やってるな」
相良は追加の肴を頼み、山崎は盃を飲み干した。

その数日後、池田屋事件が起こった。
発端となったのは枡屋で、大量の武器弾薬が見つかったことだ。そして首謀者を捕縛したのち討幕派の不届きな計画が明らかになり、その日の夜には大きな事件となった。
―――相良がそう聞かされたのは禁門の変が終わってようやく落ち着いたころだった。
「そんな大事になってるなんて思いもよれへんかった」
相良は少し青ざめた。枡屋の不穏な噂について山崎に伝えたものの、その数日後には相良の元へ『しばらく大坂に居ろ』と山崎から文が届き心配しながらも上洛を控えていたので、まさかそのことが新撰組の名を轟かす事態になっているとは想像すらしていなかった。
山崎に会うのは三か月ぶりで、今日は相良と並んで歩いても違和感のない商人の姿をしていた。
「直のおかげで枡屋に目星をつけることできて、計画を阻止することできた。…もう少し誇ってもええねんで?」
「いや…別に命を賭けて斬り合うたわけでもあれへん」
「謙遜しなくとも。局長がたいそうお喜びなんや…そこで、直にも報奨金を渡すっちゅう話があってな」
「…前にも話したけど、金なんていれへん」
「相変わらずお坊ちゃまやな。まあええ、とにかく今日は土方副長の話を聞いてや」
そう言って山崎は新撰組の屯所ではなく、土方の妾宅へ相良を案内した。妾宅と言うからには美しい妾を囲っているのだろうと思ったのだが、出迎えたのは初老の女中だけで女っ気はなかったがそこにいたのは誰もが目を奪われる端正な顔立ちをした凛々しい男だった。
「わざわざ足を運んでもらって済まない。…新撰組副長、土方だ」
「お…お初にお目にかかります、相良直之進です」
相良は緊張しながら頭を下げた。山崎も先ほどまでの慣れ合った様子はなくハキハキと相良を紹介する。
(ほんま、別人みたいやな…)
幼馴染の新たな一面を知るのはなんだかくすぐったい気がして、相良は何となく視線が泳ぐ。
土方は早速切り出した。
「今回の情報は新撰組にとって大きな功績に繋がった。幕府や会津からも報奨金が出て働きに応じて隊士に分配している…局長の意向で君にもこの額を渡したいと考えている」
土方は一枚の紙を差し出すと、そこには相良の名前とともに五両と書かれている。
相良はしばらく言葉を失った。
「…足りないか?」
「おい、直…」
「いっいえ、…申し訳ありません、あまりに突然のお話に…混乱しとりました。あの…その、烝にも話しましたが、報奨金は辞退します」
相良にはこの金額がどういう意味で算出されたのわからなかったが、とにかく自分が受け取るべきものではないと思っていた。相良は平身低頭、辞退を申し入れるが土方は食い下がった。
「遠慮することはない、近藤局長からも是非受け取ってほしいと言付かっている」
「お気持ちは頂戴いたします。ただ…烝と世間話をしただけで見合う働きをしたとも思えませんし、私は隊士やありません」
幼馴染に協力したい、山崎を応援したい、それを近くで見ていたい―――相良のなかにある動機は、とても幼くて褒められたものではないと自覚していた。そしてその友情を換金するつもりもない。
土方は山崎を見て
「欲のない幼馴染だな」
と苦笑したので、山崎は少しため息をついた。
「はあ…すみません、こういうやつなんです。育ちが良くて金に興味がないんで…」
「お前も似たようなものだろう。監察方の長のくせに、平隊士程度で満足して」
「はは…」
山崎は頭を掻いて笑う。
そして土方は改めて相良へ視線を向けた。
「報奨金という形が意に添わないなら何か望みはないのか?」
「望み…」
「さすがに無償で手助けをしてもらっては申し訳ない」
「…」
土方の申し出で相良は察した。
相良のように何の得もないのに手助けをする曖昧な存在は、新撰組にとって有難迷惑なのだろう。今までは山崎の幼馴染という立場でしかなかったが、これからはしっかりとした雇用関係が結ばれた上での情報提供の方が信頼できるというわけだ。
「…あの、でしたら一つ」
「ああ」
「烝との飲み代をご負担いただけますか?毎回毎回顔を合わすたびに奢る羽目になって、『こら何の金か』と父と兄に嫌な顔をされるもので…」
相良にとっては父と兄への言い訳に困っていたので至極真面目に申し出たのだが、山崎には小声で「アホ」と頭を叩かれ、土方は目を丸くして少し噴き出していた。
「は…ハハ、わかった。…山崎、毎回お前が負担しろ、経費にしてやる」
「…そうなると飲みづらくなる気がしますが」
「確かに」
山崎と相良は顔を見合わせる。土方はその光景を眺めながら「似た者同士の幼馴染だ」と言った。
そして相良は帰り際、
「土方副長…烝をこれからもこき使ってやってください」
と頼んだ。
「おい、直…」
「任せられれば任せられるほど、烝はやりがいを感じるはずです。…私にとってもそれが糧になります。これからも微力ながら新撰組のために協力します」
土方は「わかった」と頷いて二人と別れた。
妾宅を出て旅籠に戻る相良を山崎は途中まで見送ると言い出した。
「ああ、緊張した。新撰組の鬼副長のことは大坂でも良う聞いとったから、身構えたで」
「俺かて直が飲み代を負担してくれなんて言うから気ぃ遠なりそうになった。わろて納得してくれたから良かったものの…まったく胆が冷えた」
相良は「かんにん」と苦笑した。
西日が差しこんで二人の影が伸びて並んで歩いている。平坦な道はどこまでも続いている。
「…烝が新撰組を気に入ってる理由が分かった。俺みたいなただの協力者に報奨金…なんて、噂と違うてえらいお人よしな人たちなんやな」
「ああ。ちゃんと実力に応じて評価してくれる。…直の言うたとおり、仕事をしたらするほどやりがいを感じる。侍でもないくせにこの命を尽くしたいと思ったのは初めてや」
「…そうか、頑張りや」
山崎は頷いて「これからも頼む」と相良の肩を叩いた。
相良は赤い夕陽に照らされる幼馴染の横顔を眺めた。一重の眼差しが真っすぐ揺るがずに前だけを見据えている―――その姿に目が離せなくなった。
























解説
813
天満屋事件について、新撰組は十名ほどに対し、襲撃犯は陸奥・中井を含めて十六名の激闘だったと言われています。
二階で酒宴中(おそらく新撰組も加わっての大宴会)に襲撃に遭い、明かりが消され敵味方判別できず、屋根から路上での斬り合いになったようですが「三浦討ち取ったり」と新撰組の誰かが叫び、難を逃れました。
結果的に近藤の従弟である宮川信吉が死亡、船津釜太郎は重傷→死亡、中村小次郎・中条常八郎が軽傷を負っています。斉藤は敵の襲撃に遭い命を落としかけたところで梅戸が敵を羽交い絞めにし(本編とは少し異なります)顔に傷を負いましたが、その後鳥羽伏見では旗役として復帰しています。三浦休太郎(のちの三浦安)は顔に傷を負うも命に別状はありませんでした。天満屋事件は王政復古の大号令の二日前の出来事です。



拍手・ご感想はこちらから


目次へ 次へ