わらべうた




821


順風満帆な日々は長くは続かない。

山崎は近藤に伴って長州へ向かうこととなった。これまでも長い期間顔を合わせないことはあったが、彼が赴くのは火種が燻ぶり続ける戦地だ。相良はその話を深刻な顔で受け止めたが、山崎はふっと笑う。
「幕府の御役人様ご指名の重要な任務や。言うても、俺は近藤局長には同行せず庶民に化けて周囲の調査と警護…いつも通りの任務やから心配すな」
「…烝の方が緊張してるんちゃうんか?」
「バレたか」
物乞い姿の山崎は赤い舌を出して茶化した。周囲にはみすぼらしい物乞いに施しを与える裕福な商人が言葉を交わしている…に見えるだろう。けれど彼の眼差しは鷹のように鋭く、強張っていてとても物乞いには見えない。
「局長が出世されてこんな大役を任されることになったや。俺が失敗するわけにはいかへん。…それに同行者かて油断でき…いや、なんでもあれへん」
「…」
山崎は言葉を濁したが、新撰組は江戸から新たに新入隊士を迎え入れて以来、気が抜けない緊張感があるらしい。討幕派の浪士たちに目を光らせるだけでなく、内部の監視も増えたことは相良も実感していた。
「俺は何したらええ?」
相良は何か手助けできないかと申し出るが、山崎は首を横に振った。
「これ以上は頑張らんでええ。用事もあれへんのにあちこち顔を出して…直かてええ加減、不審がられる。…俺がおれへん間は休暇や思て大坂に戻ったらええ」
「…」
「そんな顔をせんといてや。無事に戻ってくる」
「わかった」
相良は頷き、懐から財布を取り出すと多めの小銭を欠けた茶碗に投げ入れる。チャリンチャリンと甲高い音が響いたのを聞き終えてから、未練を断ち切るように足早に去る。
(…俺は隊士ちゃう。あいつのやるべきこと引き止めることなんてでけへん)
けれど手先は震え、鼓動はどくどくと早鐘を打っていた。
(烝になんかあったら、俺は…)
それは初めての感情だった。


相良は山崎に言われた通り大坂に戻ることにした。
兄の長子で跡継ぎの甥はすくすくと健康に成長し、家人は日々喜びに満ちていた。そんな彼らは次男の相良が長く家を離れても、都に足しげく通っても何の興味もないようで毎度
「おや、お帰りですか?」
と奉公人までもが相良の所在さえ気にしない雰囲気だった。それは少し虚しくもあるが、自由であるということだ。相良は山崎の役に立つためにはちょうど良いと考えていたが、
「ようやく戻ったんか」
と今回は玄関先で待ち構えていたように鬼のような形相をした兄が出迎えたので驚いた。
「に…兄さん、どうされたんや?」
「話がある」
「話…?」
普段から弟のことなど気に留めずに跡を継ぐことだけに邁進していた兄が、いったい何の話があるのか。困惑した相良がもたもたと足を洗っていると「早くせえ!」と文字通り首根っこを捕まえて人気のない奥の間へと引きずられて投げ飛ばされた。奉公人たちも驚いていたが兄の形相にとても声を掛けられなかったようだ。身体中が痛んだが、それよりも兄がなぜこのようなことするのかという疑問で頭はいっぱいだ。
「兄さん…?」
「お前、えらい京や大坂の馴染みさんのとこへ顔を出してあれこれ聞き出してるそうやな?学なんてあれへんくせに尊王やら、佐幕やら、しょうもないこと語ってるそうやが」
「…!」
相良はごくん、と唾を飲み込んだ。
「そらかまへん。お前が何考えていようとどうでもええ。…ただ、大店のお馴染みさんの事情がなんかと漏れてると耳にした。このご時世や、徳川様に付くか、薩摩さんや土佐さんに付くか皆見極めてるし、裏でいろんな商売してる店もある。…それ他言されたら皆困る。もし耳に入っても同業の誼でお互いに上手くやる…そんな簡単なことまさかわかれへん言えへんわな?」
「…」
何も答えないことが無言の肯定となる。兄が容赦なく相良の頬を平手打ちした。
「っ…!」
「なあ。おとつい、堺のお馴染みさんのご主人が奉行所の取り調べを受けたんやて。長州さんに武具を売ってる疑惑があるってな。…そこの奉公人がお前に喋ったと打ち明けたそうで、奥方がどやし込んできたで。…うちの店はいつから裏切り者になったんかと父上が責められた。もちろん父上は濡れ衣やと突っぱねたけど、お喋りな奥方やさかい噂はあちこち広まってるやろうな」
兄が責め続け、相良の心臓がバクバク音を立てていた。その件は当然心当たりがあって、先日山崎に伝えたばかりだ。
(何か言い訳を…上手く躱さないと…)
そう思うが頭は真っ白のままで動かず、「それは」「その」と口から洩れるだけで後が続かない。そのおどおどした様子が気に入らなかったのだろう、兄はさらに高い場所から掌を振り落とし、相良は口の端から血を流した。しかし痛みよりも血を分けたはずの優秀で気高い兄が、まるで鬼のような形相で自分を打ち据えていることが信じられなかった。
兄は相良の言葉を聞こうとせず、怒鳴り続けた。
「父上はお前を庇ってそんな気概はあれへん言うとったけど、俺はちゃう思た。…お前の友達、唯一の友達や、新撰組に入ったやろう?」
「…!」
「それに思い至って全部辻褄があったわ。お前、そのお友達に情報を流しとったんやろう?その気がなかったくせにこの数年、えらい熱心にあちこち顔を出して、父上のお使いを引き受けてる思たら…まさか間者の真似事しとったなんてな」
「…」
相良は身体が強張りその場から動けなくなってしまった。兄は自分よりもはるかに優秀だ、何故いつかこうなってしまうと想定できなかったのか…自分への情けなさで胸が締め付けられる。そして山崎の足を引っ張ってしまったのだ。
兄は何も答えない相良に苛立ったように立ち上がると、さらにそのまま足蹴にした。
「なんでなんも言えへん?!認めるんか?!友人のためにうちの信用を損ねたと!」
「…兄さん…」
「次男で、跡継ぎになられへんからって好き勝手にやりよって、家を潰す気か!お前のせいで家人や奉公人たちが路頭に迷うたらどう責任を取る!いや、責任やら取れるはずがあれへん、無能なお前に!!」
「…」
「なんや、まだ何も言わへんのか!…ああ、腹いせか?俺に息子が生まれて跡継ぎになれんことを妬んだんか?!」
「違う…違います!」
相良は身を屈め、ひたすらに頭を下げた。兄からすれば弟はそれだけの愚行を犯したのだからどれだけ殴られ、蹴られても仕方ない。
ただ、何故か…罪悪感は沸きあがらなかった。
「先祖に、父に、家族に詫びんかい!壬生狼に成り下がった友人のためにお前は裏切った!」
一通りの罵詈雑言を浴びせ、息切れする兄に相良はようやくまともに口を開いた。
「…兄さん、俺は烝のためにそうしたんちゃう。自分のためにそうしてん…」
「この…っ!」
相良の弁明は兄の怒りの炎に油を注ぎ、結局は家人たちが駆けつけて引き剥がされるようにして終わった。
その日の落ち着いた頃に、父は相良を呼び「まさかお前が」と信じられない様子だった。父から見ても兄から見ても、次男の自分は凡人に過ぎなかったのだろう。しかし父は兄のように激昂せず静かに語った。
「…直之進はこの家の者として商人の何たるかを兄の背中を見て学んでるもんや思うとった。一度失うた信用を取り戻すんがどれほど大変か、わかってるやろうと過信しとった…これはわしの責任やな」
「…父上…」
淡々とした父の寂しい言葉で、相良は初めて彼らに対する申し訳なさを覚えた。兄は自分を見下しているのを察していたけれど、父は無関心だと勝手に思い込んでいた。
「…お前を勘当する。好きな所へ行かんかい」
父は投げやりな勘当宣言に、相良は頭を下げて「はい」と言っただけだった。この店と、家を去り、勘当されることが唯一の、最後の親孝行になるだろうと思ったからだ。
どんな言い訳も口にできない。
…いや、むしろ言い訳なんてない。
(これは烝のためやのうて、俺のために選んだ道や)
相良はその日のうちに家を出た。


豪商の次男でなくなった相良には当てなどない。長州へ向かった山崎を煩わせるわけにもいかないので何も知らせず古い長屋を借りて暮らすことにした。
家を出た夜、母がそれなりの金を持たせてくれたが使う気になれず、相良は慣れない日雇いの大工仕事ををして日々を凌いだ。齷齪働くと自分がどれほど恵まれた暮らしをしていたのか実感したが、だからといって家に戻りたいという気持ちはなく、ただその日常に慣れようと必死だった。
しかしこの暮らしでは山崎の求める『情報』を得られそうにない。兄の性分なら実弟を勘当したことなど恥ずかしくて口外しないだろう、きっと病で死んだとか遠くへ行ったとか曖昧な理由でその存在を消したはずだ。もちろん相良もそこまで厚顔無恥ではないので、以前の人脈を頼るつもりはなかった。
(これ以上、迷惑はかけられへん)
兄の見下した眼差しと父の淋しそうな顔が浮かんだ。
しかしいったいどうしたものかと思案していると、大工仲間の一人が相良を賭場へ誘った。もちろん幕府によって賭け事は禁じられて何度もお触れが出ていたが、一向に止むことはなく少額の賭け事は黙認されることもあった。相良はこういった場所に出入りすることさえ躊躇われる良識を持っていたが、ここで飛び交う情報網は魅力的だった。下世話な噂話が多いがそのなかには決して日常では得られない内幕話があって大いに役立ったのだ。
だが山崎はいまだに帰京せず長州に潜伏しているらしい。時々文が届くが、『まだ帰れない』という知らせばかりで結局、彼に再会できたのは見送ってから一年弱経った頃だった。






822


久しぶりの再会だったが、山崎はまるでつい昨日会ったかのような気軽さで手を振って挨拶してきたので、相良は内心胸を撫でおろす。賑わう居酒屋で酒と肴を囲んだ。
「直、なんか雰囲気が変わったな?」
山崎は相良をまじまじと眺めた。商家の暢気な次男坊を勘当されて一年…外での仕事が多く、色白の肌は焼けて少し痩せた。袖を通す物にも関心が無くなり、同じ着物ばかり着ているせいか草臥れたものばかりだ。しかし会って早々に彼を落胆させるつもりはなく、
「…これも仕事の一環や。それにこっちの台詞やで、そんな上等なモン着て刀なんか差して…今日はどっかの藩士のふりか?」
と話を振ると彼は照れくさそうに笑った。
「ちゃうちゃう。これは普段着や。今回の長州行きで一年もあちらにおったからな……俺もええ加減、顔を知られるんは時間の問題やからな、監察方の頭から身を退くことになってん」
「…身を退く?」
「ああ、組長に出世や。これで堂々と配下を率いて洛中を歩き回れる」
山崎は襟を正すしながらしたり顔をして軽く笑ったが、相良は「そうか」と視線を落とす。彼の出世は喜ばしいけれど監察方ではなくなることは残念に感じた。
「…ほな俺は用無しやな」
思わず漏れた弱音に、山崎は「まさか!」と声を上げた。
「頭やのうなるけど、無関係になるわけちゃう。まだ仕事を全部任せられるような部下はおれへんし、あくまで頭から退くっちゅうだけで。これからも今まで通り、情報があったら寄越してほしい。必要があったら俺が動くことになるやろうから」
「…わかった」
相良はほっと安堵しながら頷いた。彼の協力者であること…それだけが今の相良を支えていることなど、山崎は微塵も気が付いていないだろう。
相良は肴を箸でつつく。
「ほんで、長州はどうやった?」
「どないもこないも、潜入したところでなかなか上手くいけへん。一年間、苦労を続けたけど具体的な成果はなかった…そうこうしてる間に二度目の戦が起こることになって戻って来たってわけや」
「戦うて言うても、たかが長州一国を相手にするだけやろう?負けるわけがあれへん」
相良にとって幕府の内情など知る由もなく、長州一藩に負けるはずがないとしか思えない。しかし山崎は難しい顔をした。
「そうやったらええけど。…長州に潜伏して、奴らが倒幕へ強い執念を持ってるんは感じた。軍備かて異国と取引をして取り揃えてる…幕兵の怠慢を目の前にすると、もしかしたら負けるかもわかれへん思った。今回の戦に薩摩と土佐は参加せん言うてるし…万が一負けたらこの国は一変するやろうな…」
「…」
好奇心の赴くままに生きていた山崎が、真剣な表情でこの国の将来を憂いている。この一年会わなかった間にさらに精悍な顔つきになり、彼が新撰組幹部の一人に名を連ねていることも何ら不思議ではない。
「…ええ男になったな」
「…はあ?なんていった?」
「何でもあれへん」
「もういっぺん、言うてみ」
「いやや」
相良は適当に誤魔化して酒を飲む。久しぶりの楽しい酒は喉をカッと熱くして流れていき、それが心地よくて酒が進んだ。気心の知れた幼馴染との邂逅はここ一年、孤独に暮らしてきた相良にとって寂しさを吹き飛ばすほどの喜びにあふれていた。そして、門限がある山崎とともに店を出る頃には体中熱てり、相良の足元が覚束なくなっていた。
夏の夜空に星が煌めいている。夜風の心地よさに身を委ねつつ相良はそれを見上げるだけで気持ちが満たされていた。
「ああ、楽しかった!烝が無事に帰ってきてこうやってうまい酒を飲める。しかもお前の奢りなんて最高やで」
山崎に支えられながら機嫌良く煽てるが、山崎の方は眉間に皺を寄せていた。
「直、やっぱなんかあったんちゃうんか?こないに酔うなんて見たことあれへん」
「…烝が戻ってきた祝いの宴やってん。別に羽目を外したっておかしゅうはあれへんやろ?」
「そらそうやが…実家でなんかあったんか?」
相良は苦笑した。
(さすが新撰組の監察様や)
酒の席で一言も大坂の家の話を口にしていないことに気が付いていたのだろう。
心のなかでは彼を茶化しながら、しかし相良はすでに山崎に自分の身の上の事情を話さないと決めていた。新撰組の協力者であることが父と兄に露見して勘当されて、今はその日暮らしをしている…なんて打ち明けたところで山崎は己の責任だと言い出すだろうし、出世した彼の足を引っ張ってしまうだろう。
「…ちょい兄さんと喧嘩しただけや。皆、元気にやってるし、問題あれへん」
「ほんまか?大坂には戻ってるんか?」
「たまには。…ちょうど俺は京へ拠点を移したところや」
大坂に戻らなくとも齟齬が生まれない様に、相良は嘘を重ねる。いつかバレてしまう嘘でも、いま目の前の山崎を悲しませるのは本意ではない。
「へえ、こっちに引っ越したんか?新撰組のために?」
(お前のためや)
「いや…自分のためや」
言いかけた言葉を飲み込んで、相良は答える。自分が選んだ生き方の責任を押し付けるようなことはしたくない。
山崎は「そうか」とまだ疑念を持っているようだったが納得してくれて、二人はすぐ先の角で別れることにした。
「ほなまた」
「…ああ、またな」
すぐに会えるとわかっていても、山崎が去っていくのが虚しくて寂しくて相良はいつまでもその背中を見送った。
(きっとこれからお前は陽の当たる道を、俺はお前の影を行くんだな…)
それでも光と影は離れられない。だから共にいられるならそれでいい。
…しかしその道は思った以上に過酷な道だった。


二度目の長州征討が将軍家茂公の薨去のため休戦となり、幕府が事実上の敗戦を喫したと都中では噂になった。
ゲラゲラと人の声があちこちで沸き立っている。
「一橋のお殿様が将軍になられるそうやな」
「あーあ、豚公がせっせと戦をやめてしもうたで」
「薩摩も土佐も見切りをつけて長州と一緒に攻めてくるって噂を聞いたわ」
「ほんまかいな」
相良が通う賭場でも慶喜公の将軍就任は格好のネタで、冗談を混ぜた流言飛語が飛び交っていた。相良は時にその雑談に加わりながら聞き耳を立て、賭け事の様子を見物していた。客人は相良のようなその日暮らしの庶民や暇そうな商売人、夜鷹のように乱れた女、ガラの悪い下級武士などで様々で、駆けの品も異なる。役人に目をつけられない程度の少額の金から酒代、肴代は定番で女なら化粧品の類や装飾品…舶来の薬や銃など色々な品が行きかっている。
「兄さん、今日も見物?」
相良が野次馬の一人となって賭場を眺めていると、中年の小太りの女が声をかけて来た。彼女は相良の長屋の隣に住む静(しず)というで、たまたまこの賭場のことを教えてくれたのだ。
「ああ、どうも。…俺は賭けようにも賭けられる品を持ってへんのや。お静さんやったら知ってるやろ?」
「そらもう良う知ってます。ボロ屋で家具も荷物もなんもあらへん質素な部屋に住んでるもんな」
「そうそう」
「そやけどあんた、ほんまはええとこのお坊ちゃんちゃうんかい?」
「…なんでそう思う?」
目を細めて相良を見る静は値踏みをしているようにも見えた。
「何とのうや。うちはそんなんに察しがええんやで、長う客商売をしてるさかいな」
「ははは…たとえそうやとしてももう関係あれへん。同じ穴の狢ってやつや」
「それはそうやな」
静には一見人当たりの良さそうな柔和な笑みを浮かべているが、その腹の奥底には得体のしれないものを感じていた。実際彼女がどのような商売をしているのか、相良は知らない。ただこの賭場に通い詰めているのだから人に誇れるような仕事ではないのだろう…と思うだけだ。
静と会話をしていると、賭場の奥の方がワッと騒ぎになった。
「 半!半や!わしの勝ちだ!ハハハ!わしの勝ちだァ!」
「待ってくれもう一勝負!」
「ダメダメ!あんた、もう負けっぱなしで賭けるものなんてあらへんやろう!」
勝ち誇って狂喜する見るからに金持ちの男と、顔を真っ赤にして「まだまだ!」と縋る男。その隣には「お父ちゃんいい加減にして」と引き止める若い娘がいた。
賭場ではよく見る光景で、相良は負けたのなら引き下がれば良いのにと思うが、こういう賭けでは負けたまま止めることこそ難しい。それが己の才覚なら諦めがつくが、皆に巡ってくる運に左右されるのだから、「次こそは」と思ってしまう。
負けた男もそうだったのだろう。
「やったらこの娘を賭ける!次に負けたらあんたの好きにしたらええ。妾でも下女でもな!」
「お父ちゃん!」
男がとんでもないことを言い出したので、相良は顔を顰める。静も「タチが悪い」と賛成できない様子だったが、場上の雰囲気は真逆だ。
「人でなし!」
の声は非難ではなく冗談交じりの揶揄でしかない。
「やれやれ!」
「おもろなってきた!」
と大盛り上がりだ。勝った男も周囲に煽られて悪い気分ではなく、値踏みするように娘を見た。
「へえ、娘はいくつだ?」
「まだ二十歳にもなってへん!」
「ふうん…若いならええか」
男の下卑た視線を浴び、涙目になった娘は必死に「お父ちゃん」と助けを求めるが、父である男はすでに目が血走って正気を失っている。周囲は歓声を上げ、
「この親父、娘を賭けるんやて!」
「やったら俺も参加させてくれや、自分の娘を賭けるなんて聞いたことあらへん!」
「ほらほら、集まった集まった!」
困惑する娘を置いて、彼らの卓には野次馬たちが集まっていた。
「あんたも行く?」
「…お静さんは?」
「うちはあんまり興味あらへんなあ。結果は見えてるし。…先に戻るさかい、あとで顛末を教えて」
「わかった」
静はどうでも良さそうに手を振って賭場を出て行ったので、相良はそちらに足を向けた。賭場のあちこちで賭けが行われていたはずだが、すべて途中やめになって父娘の行く末を見届けようと皆が集まっていた。
相良は一番後ろでその様子を見守ったが、静が予想した通り娘を賭けた勝負はあっさりと父親が負けた。いよいよ賭ける物が無くなってようやく冷静になったのか、父親は顔面蒼白となっていたがもう後戻りはできない。既に娘は勝った男に引っ張られ、我がものだと言わんばかりに肩を抱かれている。
「思た以上に肌艶もええな、ええ買い物をしたぞ」
「い、インチキちゃうんか?なんか仕掛けが…!」
「おいおいおい、負けといてケチをつけるんか?…言うとくが、この賭場で細工やらできんで!」
そうだそうだと周りが責め、父親は黙り込むしかない。手だてが無くなったことに絶望した娘は号泣し、頼りない父親とともに項垂れていた。相良は興奮する野次馬の合間から彼らの顔を見る。
(器量のええ娘とやないか…)
父親もきっと貧乏人というわけではなく、娘も不自由なく育ったはずだ。立った一晩の賭け事に人生を狂わされていく様を、野次馬たちは他人事のように嘲笑うが相良には憐れとしか思えなかった。
するとさらに残酷なことに「品定めしたらどうや!」と誰かが声を上げてそうだそうだと囃し立て始めた。娘はこの場で引ん剥かれる絶望に悲鳴を上げたところで、耐えきれず相良は一計を案じた。
「オイ、役人がこっちに来てんで!」
高らかに叫んだ途端、まるで一気に潮が引くように客人たちは「拙い!」「逃げろ!」と一斉に逃げて行った。逃げ遅れたのは賭けに勝った男と、その取り巻き、唖然とした父親と絶望した娘だ。
(状況は変わってへんが…野次馬の前で裸に。引ん剥かれるよりはマシやろう)
相良は後ろ髪を引かれつつこれ以上は何もできることがないと、駆けだそうとしたが
「待てや!」
と引き止められて相良は男二人に両腕を拘束された。
「兄貴、この男法螺吹いてるで!」
「役人なんて来えへん!貴様、奴等とグルなんか?!」
相良は暴れて「離せや!」と足掻くがとても相良の細腕では逃れられそうにない。
(しもうた…あの男、この賭場を牛耳ってるんか…!)
勝った男の味方があちこちに潜伏していたのは賭場を仕切っている側だったからだろう。もしかしたら賭け事も父親が主張したように何か裏があるのかもしれない…が相良にはそれを証明する手立てはない。すると男が娘を連れたまま相良の目の前にやって来て、まじまじと見てにやりと笑った。
「ふうん…この娘に興味があるんか?それともただの義侠心か?」
「…年若い娘を賭けるなんて正気ちゃう、面白うない」
「賭けたのは父親や」
「ああ、せやから俺はあんたも父親も軽蔑する。…その娘が可哀そうなだけや」
こうなっては状況は変わらない、と相良は遠慮なく答える。一年前の裕福な商家の次男ならこんな口答えはせず無関心を決め込み静のようにさっさと去っていただろうが、何も失うものがない今の相良には恐怖はなかった。
すると男は気分を害した様子はなくそれどころか「気に入った!」と満足そうに頷くと、娘を父親の元へ放り投げた。そして相良の顎にごつごつした指を這わせて舐めるように見下ろした。
「わしはもともと女より男の方が好きや。…娘は適当にどっかに売ろか思たけど、気ぃ変わった。お前、よう見たら品のある顔をしてるし」
「…割に合えへん。俺は賭けに負けたわけちゃう、法螺を吹いただけやろう」
「ハハ、確かに!ほなそうやな…一晩でええか」
「…」
相良はもちろん気がすすまないが、ちらりと父娘の方へ視線をやった。相良の選択で娘の人生が救われる。きっとあの父親は根は真面目なはずで深く反省して二度と過ちは繰り返さないだろう。そう思えばたった一晩の事、犬に噛まれたと思えば安いものだと思った。
相良が「わかった」と頷くと娘の眼差しに光が差し込み再び涙を流し、父親は「おおきに!おおきに!」と平伏した。
(まったく…俺は相変わらず上手う立ち回られへんな)
自分を犠牲にせずとももっと賢い手立てがあったはずだ。兄に露見した時ももっと良い言い訳を準備すれば良かったのに、兄に責められ怖気づき何も言えなかった。
相良は男たちと共に賭場を出た。ちらりと振り返った先にいる父娘は互いに抱きしめあって互いの無事を喜んでいた。
(お静さんに話せる顛末になりそうにないな)
相良はそんなことを思いながら男とともに投げやりに歩いて行った。


裕福な暮らしを捨てた一年で、自分はすっかり俗世に染まり世の中の不条理を味わったと思っていたけれどそうではなかったのだろう。底辺には底辺がいて、人を人と思わず扱う異様な下郎がいることを知らなかった。
(甘かった…)
賭場で勝利した男は名乗りもせずに家へ連れ込むと、すぐに乱暴を働いた。相良は犬の噛まれた程度だと覚悟していたが、実際は狼に喰われたような惨い扱いを受けて一晩がとても長く感じた。最後のあたりは記憶にないが、おそらく賭けに勝った男だけでなく何人をも相手にしたのだろう、気が触れたような悲鳴を上げて意識を失い、目を覚ました時には半裸のまま外に放り出されていた。
身体中が軋み、頭痛がしてこめかみを抑えた。吐き気さえ感じた。
そして忘れたい記憶の中で
『烝』
と何度も呼んだ気がした。
「ほんまに…しょうもないな…」
幼馴染の役に立ちたくて、自分が選んだ生き方だ。どんなに辛くとも、家族と縁を切っても、自分がそうしたいと思ったから選んだはずなのに。
(俺の心の奥底には…そんな浅ましい気持ちがあったなんてな…)
それをこんな形で自覚させられるなんて、本当にどうしようもない。
相良は着物の乱れを直してふらふらと立ち上がった。






823


人は、一度堕ちてしまうと、もっともっと底へと堕ちていく。

「直、お前どっか具合でも悪いんか?」
山崎に尋ねられたのは夏の終わり頃だった。屋台で二人並んで蕎麦を啜っているときに不意に訊ねられたのだ。
「…具合?なんで?」
「顔色悪い。クマも酷いし、寝不足か?」
「そうかも…ほら、最近夜も暑いやろ」
初夏だというのに陽が陰ってもムシムシしている。相良が適当に答えると、山崎は「そうやなあ」と相槌を打ってまた蕎麦を啜った。
監察方を離れたはずの山崎だが相変わらず情報収集を怠らず、相良にもあれこれ調べてほしいと連絡が来る。今日はその報告のために顔を合わせたのだ。
「そんなことより烝、例の麻呂殿のことだけど廓では知る人ぞ知る人物らしい。なかなか足を運べへんけど、一度来店したら金つこて豪遊するんやて」
「へえ…どっかのお公家さんかいな?麻呂っちゅうからには」
「さあ、適当な変名ちゃうんか?」
山崎は「うーん」と考え込む。今回は会津からの極秘の調査だということで、あだ名以外の情報がないそうで山﨑にとっても『麻呂殿』という存在はまるで雲をつかむようなものらしい。
相良は箸を止めた。
「…直、どないした?」
「いや…もう腹がいっぱいや」
「ふうん。…それにしたかて、廓の情報まで手に入れるなんて、直にそういう類の伝手があるとは知れへんかった。うちの監察方じゃ廓の女将に訊ねても、麻呂殿のことは知れへん存ぜぬ言われるばっかりやったと報告を聞いたけど」
「…たまたまや」
「ハハ、優秀な相棒で助かるわ」
山崎の過剰な誉め言葉に「やめろよ」と笑いつつ、相良は温かい茶を口に含んだ。
…あの賭場での出来事から、相良のなかで何かぷつんと糸が切れた感覚があった。情報を得られるなら自分の身体さえ道具にすることを躊躇わず、女だけでなく男まで誘うようになったのだ。隣家の静は白い目で「すっかり色狂いになってしもうた」と揶揄したが、相良も箍が外れた自覚があった。
(せやけどそうせんと情報は得られへん…)
賭場で得られる情報には限りがある。家の勘当によって商人との縁が切れてしまった相良には取れる手段は限られていたのだ。使えるものはなんでも使う。
(それに一度この身は汚れたんやから、もうどうでもええやろ…)
投げやりなわけではなく、手段として用いることに躊躇いがなくなっただけだ。そのおかげで廓にこっそり通う『麻呂殿』の情報が入ってきたのだ。
だがこの事実を山﨑に知られるのは憚られたので、相良は話しを切り上げた。
「ほんで、最近はどうなんや?偉ぶって市中の見回りするって言うてたけど、見かけたことあれへんな」
「それが案外医学方の方がせわしなくてな。結局は裏方や」
「…医学方?」
「あれ、言うてへんかったかいな?昨年から監察方兼医学方として会津藩お抱えの診療所で学んでる。親父が鍼医者やといっても俺は不真面目やったから向いてへんって思てんけど、幕府ご典医のご推挙で断り切られへんでなぁ」
「へえ…」
山崎は渋々という言い方をしたが、相良にはその表情が少し誇らしげに見えた。本人は向いていないというが鍼医師の息子として父の背中を見て来ただろうし、器用でなんでも卒なくこなすので案外楽しんでいるはずだ。
「そうか…がんばりや」
「ああ」
このやり取りを何度繰り返しただろう。相良の知らないところで、山崎は好奇心に満ちた眼差しで羽ばたいている。相良はまるで足の裏が地面に張り付いたようにその場から動けず立ち竦んでいるだけだ。
(なんや…虚しくなってきたなぁ…)
充実した人生を送る彼に対する嫉妬ではない。ただ彼との差が歴然と現れているような気がして、相良が目を伏せて唇を噛んだ時、
「…ほれ」
「ん?」
「ナスの天ぷら。直の好物やろ?」
「…おおきに」
(ナスが好きやったのは子供の頃や)
こんな些細なやり取りだけが相良の救いになる。ナスの天ぷらを見つめながら手をつけずにぼんやりしていると、山崎は顔を顰めた。
「なあ、やっぱなんか心配事か?…この仕事が辛いならもう辞めても…」
「やめへん!」
相良は自分でも驚くほど大きな声が出た。山﨑は目を見張り、蕎麦屋の店主も「何事や?」と言わんばかりの表情をしていた。
「直…?」
「…い、いや、その…いろんなとこに人脈ができて楽しなってきたとこや。やりがいもあるし、商売人よりよっぽど向いてる。…続けさして欲しい」
「…そら、直がええならもちろん助かるけど」
「ほなこの話はこれでおしまい」
相良は山崎が不審がらないようにナス天を頬張り、蕎麦を啜り汁も残さず飲み込んだ。胃がキリキリと痛んだが、きっとそのうち治るだろうと思った。


夜、住まいの長屋に戻ると静が「やっと帰ってきた!」と言って駆け寄ってきた。
「お静さん?なんか用か?」
「お客はんやわぁ。…なんかガラの悪い男や、あんなんと付き合うてるのかい?あんたはんが帰るまで待つってなぁ…隣にあんなんがおると落ち落ち眠れやしいひんよ」
静は隣人として苦情を言いにきたようだが、相良は住まいを知っているような客人に心当たりがない。
ひとまず静を宥めて「早めに帰らせるから」と約束し、相良も長屋に入る。
狭い長屋に寝ころび、相良が帰ってくると気だるげに振り返ったのは金貸しの若い男だった。首筋の刺青が威圧的でよく目立つ。
「…クロさんやったのか」
相良はクロ、というのが彼の本当の名前かどうかは知らない。ただ彼は賭場の金貸しで皆に「見かけは優男だが本性は不気味」とあまり良い評判を聞かないため、目の前に在られたら黒猫のように忌み嫌われ避けられている存在だ。相良は少し身構えた。
「なんでここが分かった?」
「昨日あんたはんを尾行したんやねん。…相良はん、もう少し返してくれなこっちの商売も上がったりや」
「そうやろな」
彼とは長い付き合いだが家まで押しかけられたのは初めてだ。相良は懐から財布を取り出して、有り金をすべてくれてやったが、クロは渋い顔でそれを数えて
「足りへん」
と言った。
「今日はそれで勘弁しとくれや。隣家のおばちゃんがあんたを怖がってるんや」
「俺ァは何にもしてなぇのにな。…そやけど相良はんもえらい人がええわな。賭場でいっぺん、あほな父親と若い娘を救うたったこと広まってもうて、負けたやつが皆あんたに頼るようになった。ほっときゃええのに、全部引き受けて自分は借金三昧…こないなボロ長屋に住んでなぁ。ほんま、理解できへん、金はあらへんくせに善人のつもりか?」
クロは半ば嫌味のつもりで尋ねたが、相良は苦笑した。
「別に、そないなつもりとちがう」
確かにあの一件以来、賭場で頼られることが増えた。しかし相良は単なる善意で彼らに手を差し伸べていたわけではなく、彼らの損失を補填する代わりに新撰組や山崎へ渡す情報を得たり、協力者に仕立てたりしたのだ。そういう意味では彼らの命を担保にした取引を行っただけで、称賛されるものではない。
クロは金を懐に仕舞いながら胡坐をかいた。
「それで?残りの金はいつまでに?」
「…そう急かさんといてくれや。必ず返す、待っとってくれ」
「待つだって?…そんなんをしいひんでも、すぐにアテがあるやろ?」
「…」
クロは口元をにやりと意味深に綻ばせ、相良から『アテ』を引き出そうとする表情を浮かべていて、相良は困惑した。
(まさか俺が新撰組の協力者やちゅうこと知られたのか…?)
新撰組にもっと金を出させればいいだとか、協力者であることをネタに脅されるのか…様々なことが頭を巡ったが、クロが口にしたのは別のアテだった。
「俺の客には金持ちが多い。店の金を着服したことバレると大変なんやとさ。そやさかい…相良はんのこと知ってる客もいたよ、あんた無駄に顔に品があるさかいさ。すぐに教えてくれた」
クロは得意げに語ったが、相良は血の気が引いていく。
「大坂の、そこそこ大店の次男なんやって?入ってくる金を待たのうったって、お父上に頼んだら解決するんじゃねえの?」
「…俺は勘当されてる」
「勘当されても、面子は大切やろう?」
クロの言うことは尤もで、きっと父や兄は体面を気にして金を出すだろう。父と兄は次男に呆れて憤るに違いないが、クロが一度だけで取り立てを終えるわけがない。何かと理由をつけて脅し、執着して搾り続け実家に迷惑をかけてしまうだろう。
相良は態度を改めて、クロの前に膝を折り頭を下げた。
「…頼む。金はどないか工面する、もう少し待ってくれ」
「ふうん…アテがあるんか?」
「アテは…ある」
相良は具体的には思いつかなかったが、とにかく事情を知らない父や兄を巻き込むことだけは避けたかった。
クロは「ふうん」と少し考えこむように唸った後、伏したままの相良の顎を指先で掴み、
「利息は必要やろ?」
と笑った。相良は躊躇いながら「そうやな」と頷いた。

翌朝、クロはもういなかった。
「…直はん、あんた阿呆やな。結局、うちは寝られやしいひんかったわぁ」
粥を持って訪ねて来た静は朝の挨拶すらなく文句を言った。続き長屋の薄い壁一枚隔てた先で何があったのか…筒抜けだったに違いない。男の嬌声など聞きたくはなかったはずだが、あのクロはそんなことを気にするような輩ではない。
相良は力の入らない身体をどうにか起こしつつ「すまん」と謝った。静はため息をつきながら相良に粥を押し付けた。
「ひとまず食いな。…怪我は?見せてみな」
静は首筋や背中、腕などあちこちの打撲やひっかき傷を手当てした。相良は静がこんなに気にかけてくれることを意外に感じたが、それもまた相良の知らない彼女の一面なのだろう。しかしせっかくの粥はなかなか喉を通らず食欲はなかったため捗らない。静は気が付いていたようだが、そのお喋りな口を閉じて黙って手当てした。
「…熱でもあるのかい?」
「そうかもしれへん。関節も痛むし、身体火照ってる気ぃする」
「…そうかい。ほな後で薬を届けたるさかい寝てな、隣人の誼やわ」
「おおきに」
静は相良の背中を叩きながら「阿呆や」と何度か繰り返した後、長屋を出て行った。
相良は食べ残した粥を置いて、横になった。煎餅のように固い布団、いつ崩れるかわからないボロボロの長屋、悪人の手垢がついた自分の身体…そしてその中身は空っぽで生き甲斐さえ友人に求めている。
(俺…どうなりたかったんやっけ…?)
大店の次男として生きることがつまらなくて、山崎の背中を追うように新撰組の協力者になることを決めた。勘当されてもその決意を貫いて、あらゆる手段を講じるうちに環境が変わり果て、いまや借金取りに追われるようになった。他人から見れば転落…としか言いようがない。
(でも、俺にとっては違うんや…)
山崎に感謝され、必要とされ、求められる。いつも好奇心で満たされていたあの眼差しに自分の姿が映っていることが…どうしようもなく嬉しい。
『優秀な相棒で助かるわ』
「相棒…か…」
(烝はいまの俺を見ても…そう言うてくれるんやろうか?)
相良は目を閉じた。
すると不意に忘れていた記憶が蘇る。
『…何でも言うこと一つ聞くっていうはどうだ?』
『それがええな。何でも聞く』
互いに大人だと言うのに、指切りをした。律儀な山崎はきっと覚えているだろう。
(俺は…何を、願うのだろう…)
そんなことを考えているといつの間にか眠っていた。





824


風邪だと思ったものの体調が優れず全快することがないまま、盛夏の頃には身体が重く火照りを感じて寝込むようになった。
時折静が様子を見に来てくれるが、それ以外は誰にも会わずに家に籠りきりだ。山崎からたびたび「そろそろ顔を見せろ」と催促されるがあれこれ都合をつけて断り続けた。
(医学方の烝に診したら、めんどいことになりそうや…)
そんなある日、静が珍しく色めき立った様子で「お客さんやで」と顔を出した。うとうととしていた相良には心当たりがない。
「…客?」
「狭くてボロ屋ですけど、どうぞぉ」
静は相良の許可なく客人を案内する。彼女には散々世話になっているので文句は言えないが、クロの件もあるのでせめて客人の名前くらい聞き出してほしいものだ。
しかし、その顔を見た途端、相良はハッと目を見張った。
「ひじ…!」
「邪魔するぞ」
突然やって来たのは土方だった。傘を目深に被り周囲を警戒しているようだったが、その端正な顔立ちは良く目立ち、中年の静まで喜ばせてしまう。相良は寝床から出て正座しようとしたが、土方は「そのままで」と言ったので薄手の羽織に袖を通すにとどめた。
「あの…なんでこちらに?いえ、そもそもこの場所をなんでご存じで…」
「新撰組の協力者は山ほどいる。…安心しろ、山崎には伝えていない」
「…」
住処だけでなく山崎に隠していることすら何故知っているのか…と相良は思うが、尋ねたところで答えなど得られないだろう。相良が黙っていると、静が「粗茶やけど、ごゆっくりぃ」と見たことがないほど愛想良く振舞って去っていった。
土方は湯飲みに手を伸ばしながら早速切り出した。
「麻呂殿の件では世話になった。…先日、無事に解決した」
「あ…ああ、そうでしたか。そら良かったです。…その件でわざわざ来てくれはったんですか?」
「それもあるが…話はいくつかある。…まず、クロは死んだ。大坂の実家には接触していない、安心していい」
「…」
相良は唖然とするしかない。クロの件はどう対処すべきか考えていたが、その後接触がなく彼自身の所在がわからなくなってどうしようもなくなっていたのだ。まさか新撰組によって始末されているとは思いも寄らなかった。
「それから君が賭場で抱えている借金も解消した。そもそも君自身のものではないものが殆どだったが…解決させた」
「…」
『させた』という土方の物言いには強引な手段を使ったのだろうと想像できた。そもそも違法な賭場での借金だったので、今や幕臣となった新撰組副長の一言で無かったものになるのは容易いのかもしれない。
「ありがとうございます…」
「君の働きの対価だと思えば大した額じゃない」
「そんな…」
土方の言葉は相良への賛辞なのだろうが、あまりに突然の出来事に感情が付いていかない。そして土方は声のトーンを落とした。
「…家を勘当されたと聞いた」
一体どこから、と思うのは愚問だろう。相良はすぐに首を横に振った。
「それは…俺が未熟やったんです。もう少し上手うやったら良かっただけで…父や兄に迷惑をかけるんは本意やなかったので、勘当については異論はありません。もちろん新撰組や烝のせいでもないと思うてます」
「そうか…」
「それより、烝には黙っとってもらえますか?勘当されたなんて知ったらあいつ、自分を責める思うので…!」
勘当されたことよりも、その事実を山崎に知られることの方が怖い。相良は土方に懇願したが、彼は険しい顔をして突然、相良の手を取った。
「あ…!」
「君は自分の状況が分かっているのか?」
「…」
土方が相良の手のひらを強引に開かせると、薄い紅斑の発疹が発生していた。相良は咄嗟に引っ込めようとしたが力の差で敵わず、そのまま羽織の襟まで掴まれてしまった。背中には豆くらいの赤褐色の丘疹が現れている。
土方は「やはり」と呟いて眉間に皺をよせ深くため息をついた。相良も観念し、目を伏せた。
「俺は昔、薬屋をやっていて多少の心得はある…目は見えているか?」
「…見えてます」
「以前のようにまっすぐ歩けるのか?…この部屋の惨状を見る限り、足元が覚束なくなっているんじゃないのか?」
「…」
相良は答えられない。土方の言う通り、いつまで経っても熱が引かず、発疹が増えて平衡感覚が失われていたせいで、あちこちにぶつかり長屋には物が散乱してしまっている。
薬屋をやっていたら…いや知識がなくともわかる病だろう。
「かなり進行している瘡毒だろう。…いつからだ?」
「…わかりまへん。ただクロが来てからこんな具合が続いて…せやけど一度収まって…」
「瘡毒はそういうものだ。たいてい治ったと勘違いしてまた始まる…完治することはない」
「…」
相良が目をそらしていた現実が、土方によってはっきりと突き付けられ胸が痛んだ。
おそらく一年前、賭場で一線を越えた時にこの病は始まったのだろう。あの時の出来事を恨むこともあったが、周囲を騙し情報を得て、借金の代わりに協力者に仕立てた…そのしっぺ返しのような罰がこの瘡毒だったのだ。
土方はようやく相良の手を離した。
「何故、こんな無茶をした?山崎は君が自分の身の危険を冒してまで協力することを望んではいない」
「…俺が望んだことです。烝の役に立ちたかった…どんな手ぇつこても、必要とされたかった」
「山崎とは幼馴染だろう?あいつも君を頼っている」
「…ほんま、おぼこいと思いますけど…命を賭けるってそんなんや思いました」
「…」
相良の言葉を聞いて、土方は複雑そうに顔を歪めた。
誰かのためにたとえ命を賭けても役に立ちたい…それは土方にとって既視感があり、耳に痛い言葉であったためそれ以上は責められなかったのだ。
土方は深いため息をついた。
「これからどうしたい?実家に戻るか、療養するか…」
「なんも望みまへん。このままここで野垂れ死にしても誰も困れへん思うさかい…」
「…相変わらず自己評価が低いな。ひとまず、医者を遣わせる。治すのは難しいかもしれないが…気休めの薬くらいは出してくれるだろう」
「あの…」
相良は改めて姿勢を正して土方に懇願した。
「…どうか烝にだけは黙っとってください。実家に勘当された件も瘡毒も…たとえ俺が死んだかて、あいつにはなんも告げんといて、女と駆け落ちしたとでも伝えてください。不義理な親友やと罵られる方が…その方が互いのためになると思います」
「……君は本当に、山崎のことしか頭にないんだな」
土方がどういう意味でそう言ったのかはわからなかったが、相良は否定しなかった。鬼副長を前に『烝』『烝』と何度も口にしたのだ。しかしはっきりと指摘されると照れ臭い。
「はは…自分でもおかしい思います。せやけど、家業を疎かにしてふらふらしとったあいつが俺に見してくれる景色は…自分では絶対に見られへんかったものやったんです。それは何事にも代えがたい財産やと思うてます。だからそれを一緒に見られただけで十分満足してます」
偉大な父と優秀な兄の陰で生きて来た相良に、山崎は新しい生き方を教えてくれた。その道は決して楽ではなかったが、
「たとえ今死んでも…後悔はおまへん」
相良はそう言い切ることができる。
土方はしばらく黙り込む。そして再びゆっくりと息を吐いて「わかった」と言った。


翌日には土方から遣わされたという医者が長屋を訪れ、改めて瘡毒に侵されているだろうと告げられた。進行状況について医者は言葉を濁したが、
「家族も友人も子ぉもおれへんのやさかい、正直に聞かしてほしい」
と頼み込むとようやく答えた。
通常であれば瘡毒と付き合いながら数年は生きられるはずだが、相良の場合は早々に頭や臓器まで毒が侵食している可能性が高く、長くはもたないと聞かされたのだ。
「そうですか…」
相良は冷静に受け止めるとともに、長くないことに安堵した。山崎を裏切り続けるのは本意ではなく、長く隠し事ができるはずはない。だらだら長引かせるよりはよほど良い。
(もうちょい烝の役に立ちたかったけど…)
何者にもなれなかった商家の役立たずの次男坊として、山崎が幕臣へ出世する手助けができたのだから…我ながら上々の成果だろう。
「…烝…かんにんな」
別れの言葉さえなく去っていく幼馴染を許せとは言わない。探しまわって、探し疲れたら…どうか忘れてほしい。
相良は医者が気休め程度だと話していた薬を飲みながら、狭い長屋を見渡した。平衡感覚を失いつつあるせいかとても狭く息苦しく感じるが、外の世界は忙しなく回り続けている。その輪から外れ、死へ向かう―――その心境がこんなに穏やかなものだとは思わなかった。
相良は身体の具合が良いときに外出し、世話になった斉藤を始めとした監察の隊士や協力者に『自分が身を退く』ことを告げた。彼らが惜しんでくれることもまた、相良にとって有難い事だった。
そして自分の身体が病に蝕まれるのを感じながら、自分の人生の終焉へ向かい目を閉じ続けた。とても静かな湖畔に少しずつ沈んでいくような不思議な感覚だった。

その間に外の世界は変化し、大政奉還が起こり王政復古の大号令が発布されたのだ。








825


主に新撰組と見廻組によって組織された新遊撃隊は、当然のように上手く機能しなかった。
「あいつらとは一緒にはやれません!」
永倉の訴えに、近藤は困った顔を浮かべて土方に視線を送った。
もともと見廻組は御所周辺の警備を管轄し、歓楽街や治安の悪い僻地は新撰組が担当していたためテリトリーが分かれもめ事は起こらなかった。しかし今回の編成で何かと新撰組を見下し、見廻組は自分たちが隊を率いることを宣言して我が物顔で振舞っているそうだ。
永倉は憤っていた。
「隊士の些細な失敗も『これだから壬生狼は』と馬鹿にして、まるで重箱の隅を楊枝でほじくるようで!しかも危険だと察知すると新撰組の隊士を使おうとする…奴らはやり方が姑息です!」
「…それは確かに気分が悪いな」
近藤は眉間に皺を寄せて同情し腕を組んで頷くが、土方は淡々としていた。
「まだ二日目だろう。互いに妥協点を見つけるべきだ」
「見つかるわけがありません!見廻組が昔から新撰組に難癖をつけて来たのを知っているでしょう?」
「だが、どうにもならない。…この編成は上様の決定だ」
永倉は軽く舌打ちしながら唇を噛む。彼も頭のどこかではこの手の打ちようのない八方塞の状況を理解してはいるのだ。
「…っ、とにかく、このままでは必ず衝突します。どうか改善を図ってください!」
「わかった、善処する」
近藤の返答にどうにか納得したのか、永倉はそのまま部屋を去っていった。いつも冷静な永倉が感情任せに訴えて来たくらいだから、新撰組と見廻組の間は相当折り合いが悪いのだ。
「…はぁ…永倉君であの様子なら、左之助は激昂しているだろうな」
「そうかもな」
「しかし上様も二条城を出て大坂へ向かってしまった。俺たちが訴えるべき相手はいない。…伊庭君の言う通り戦の火種は遠ざけられたが、都に残った我々はどうすべきか…」
永倉の訴えは理解できても、今の近藤にとっては些細な衝突でしかない。いま眼前には薩摩と結託した朝廷が徳川抜きで新しい政を始めようとしているのだ。それを指をくわえてみているだけなのがもどかしい。
思い悩む近藤の元へ「失礼します」と小姓の田村銀之助が顔を出した。手にしていた書状は老中板倉勝静からのもので、近藤宛にすぐに二条城にくるように呼び出すものだった。
「歳、後は頼む」
「ああ」
近藤は銀之助とともに部屋に向かい、支度を整えると数名の隊士を連れて外出していったところ、
「お忙しそうですね」
と総司がやって来た。腕には例の黒猫を抱えていて、土方はため息をついた。
「…お前はいつも寝床から抜け出してふらふらしているな」
「調子が良いから出歩いているだけですよ、猫も顔を出してくれたし…。それより近藤先生はお出かけですか?」
「ああ、板倉様からのお呼び出しだ」
「ふうん…老中様はこちらに残られているんですね。会津公は大坂へ向かってしまったんでしょう?」
「二条城を空にするわけにはいかないだろう」
土方が姿勢を崩したところで、総司の腕のなかにいた猫がぴょんと降りて土方の周りを一周したかと思うと、素っ気なくしてそのまま去って行ってしまった。
「ハハ、土方さんはあの猫と折り合いが悪いみたいですね」
「…虐めた記憶はない」
「じゃあ前世で猫に悪い行いをしたんじゃないですか?」
総司は猫が茂みのなかに去っていったのを見届けて、火鉢の前に腰を下ろした。軽く咳をした総司を見て、土方は「ちゃんと着ろ」と襟に手を伸ばす。
「そういえば…松本法眼も近日中に大坂城へ移ることになるそうだ。上様は御壮健だそうだが御典医だから当然だな」
「ああ、そうですか…。南部先生はどうされるのです?」
「当面は都で診療所を続けるそうだ。お前のことは面倒を診てくれるが、この非常時だから山崎や山野の修行は一旦中止になった」
「そうですか…」
幕府御典医の松本だけでなく、会津藩医である南部は戦となれば会津藩とともに帯同し戦場に駆り出されることになるだろう。総司のことを構っていられなくなるかもしれない。
「心配か?」
「…いえ、私のことは大丈夫です。ただお加也さんや英さんが巻き込まれなければ良いのですが…」
「そうだな。…ただ俺たちに手出しできることじゃないし、むやみに関わるべきでもないだろう」
既に幕府が消滅し、幕臣でもなければ新撰組でもない。曖昧な立場にある現状でできることはなく、彼らに関わるとかえって迷惑をかけることになるかもしれない。
総司が何となく苦々しい気持ちを覚えながら炭をつつくと、山崎がやって来た。
「あ、噂をすればですね」
「ハハ、いったい何の噂です?…それよりまた寝床を抜け出しましたな?」
「今日は随分気分が良いんです、熱もないし」
「まったく…」
山崎はため息をついたが最近、総司が吐血せずに過ごしているのをよく知っているので容認してくれるようだ。そしてすぐ土方の方へ向き直った。
「副長、お願いがあります」
「なんだ?」
「はい。医学方の稽古は一旦取りやめとなりましたし、一度大坂へ様子をうかがいに行きたいのですが」
「…大坂へ?」
「上様が大坂城へ入られ、着々と戦の準備が始まってるて聞いてます。我らもいつまでも市中警備を務めるわけにはいきまへん…今後のためにも上様の方針を見定めるべきかと存じます」
山崎の言い分は尤もで、都に残された今は些細なことでも情報を得たい。総司は土方がすぐに了承すると思ったのだが、少し考え込んだ後に
「相良の実家に行くつもりか?」
と意外なことを尋ねた。すると山崎の表情が途端に変わった…図星だったのだ。
「…副長に隠し事はできまへんな。もちろん大坂の様子を探るのも目的ですけど、直の実家を訪ねてみよう思います。父君か兄君やったら直の行方を知ってるかもわかりまへんし」
「相良の家は新撰組のことを良く思っていないと聞いた。門前払いにならないか?」
「ハハ、まあ…。でも例えそうやとしても血のつながった息子のことですから話を聞いてくれる思います。それに父君のことはお客さんとして昔からよう知ってますし…」
「そうか…」
「きっとなんか事情があるんや思いますけど、俺に言えへんで姿を消すなんて水臭い奴ですよ、ほんま」
山崎が苦笑するのに対して土方はまだ何か言いたそうにしたが、言葉を飲み込んで「わかった」とようやく了承した。山崎はほっと安堵した表情を浮かべ早速出立すると告げて出て行った。
土方は苦虫を嚙み潰したような表情でしばらく火鉢の前で腕を組んでいた。総司はその何とも言えない表情を見て(やっぱり)と思い、
「土方さん…本当は相良さんの居場所を知っているんじゃないですか?」
と率直に訊ねた。
以前土方は『お前が関わらなくていい話だ』と総司を突き放したが、今日はそうせずに黙り込んでいる。
「山崎さんのこと、引き止めなくて良いんですか?」
「…あいつが自分で真相に辿り着くのは止められないし、俺の口から話すべきことじゃない。俺は相良との約束を守るだけだ」
「…約束?」
総司は首を傾げた。その時、冬の冷たい風が入り込み火鉢がパチパチと音を鳴らしたので、土方はゆっくりと立ち上がって襖を閉めた。
「…いくら親しくても、仲が良くても、慕っていても…話せないことはある。ただ相良が黙って姿を消しているのは気まぐれでも勝手でもなく、ただひたすらに山崎のためだ。…憐れなほどにな」
「…」
「お前ならその気持ちはわかるだろう?」
労咳という秘密を抱えた半年間はとても長くて苦しかった。けれど自分の気持ちよりも大切なものはいくらだってある…総司は自分にそう言い聞かせて過ごした。
「…だったら、相良さん本人から打ち明けてほしいですね」
詳しい事情はわからない。そもそも総司にとって相良は会ったことがない他人でしかない。けれど土方がそう言うのなら相良も同じ境遇にあって苦しんでいるのだろう。
土方は
「そうだな」
と頷いた。






826


翌日。
山崎は久しぶりに生まれ故郷である大坂の町を歩いた。相変わらず商人の町として活気があるが、同じくらい大坂城の物々しさに戦々恐々としていた。
慶喜公が入城し、一万五千を超える兵と軍艦が集結している。新政府憎しといきり立つ兵があたこちで戦支度をしているのだから、ここが戦場になると早々に逃げ出す民も多く、商人たちは気が気でない。
「世のなかが変わったって聞いたけど、まだ徳川さんが『上様』なんやって?」
「そうんやて。異国の遣いにもわしがこの国の長かて話ているんやて。いったいどういうことなんや?」
「こらどっちにこけるか、わかれへんな」
「いまは静観が得策や」
道端でひそひそと噂話が飛び交っている。数百年続いた安寧が揺れているなか、軒先で遊ぶ子供たちが「戦やで!」と敵味方に分かれて遊び回っていることにすら流石に笑えないようだ。
新政府が打倒するか、徳川が維持するか…商人たちはどちらに味方するにせよ大きな潮目となることを感じ取っていた。
(嵐の前の静けさや…)
この戦は単に内乱には収まらない。
万が一この大坂湾を舞台にした戦が起きた場合、兵庫沖に停泊する米、英、仏も参戦することになるだろう。そうなれば弱体した隙にこの国を支配されるかもしれないのだ。
…そんな一大事を前に心は忙しないが、時折山﨑の脳裏には幼馴染の顔が浮かんでいた。
(直…どこにいるんや)
姿を消して半年、どうやら自分だけが蚊帳の外だったらしいと知った時、相良の振る舞いに苛立ち(絶交する気か!)と疑ったが、次第に熱が冷めて冷静になっていた。
(熱心やったあいつが姿を晦ますなんて、なんかあったに決まってる)
そう思うと居ても立っても居られず、山﨑は早々に視察を終えて相良の実家の呉服屋を訪ねた。大通りに面した堂々たる店構えで、煌びやかな品物が並び、訪れる客や奉公人の多さはこの辺りでは抜きん出ていて賑わいは絶えることがない。何代にも渡って掲げられた看板がその歴史を物語っている。所謂『老舗の大店』だ。
(相変わらず繁盛してはるな)
相良は以前店を大きくしたのは父で、その才覚を引き継いでいるのが兄なのだと語っていた。山崎が暖簾の隙間から店内の様子を覗くと兄は店頭に立ち、店の看板として働いていた。目鼻立ちや育ちの良さは相良に通じるものがあるが、悠然とした立ち振る舞いと卒のない物腰には内面から溢れてくる自信が漲っているように見えた。昔から優秀な兄を持つと日々自分が凡人だと見せつけられるようで、相良は卑屈に感じていたようだが、山崎には住む世界すら違うと思える。
(そういや、昔からここに来るのは苦手やったな…)
山崎は苦笑した。相良に影響されて彼の父や兄に接するのを避けていたが、大人になってもまだその感覚が身体に残っているは思わなかったのだ。
敷居を跨ぐのを躊躇していると、突然暖簾がめくれて相良の兄が顔を出した。いつの間に気が付いていたのか、接客をしていた時とはうって変わって眉間に皺を寄せて明らかな敵意を向けていた。
「……ご無沙汰しとります」
「…」
初対面ではないが会話をした記憶もない。だがこのようにはっきりと嫌悪されるのも身に覚えがなく何となくぎこちない。
すると相良の兄は一体何の用かとも聞かずに「こっちに来んかい」と歩き出して、店の裏手の人気のない場所へ移動した。客人としてもてなされるつもりはなかったがこんなぞんざいに扱われるのは予想外だったのだが、
「一体何の用や、壬生狼が」
と言われすぐに理解した。
(なるほど、俺が新撰組に入ったこと直から聞いてるのか)
大坂の商人の多くは新撰組初期の横暴な振る舞いに辟易としていた。一時、大坂でも屯所を設けたがあまりうまく機能しなかったのは彼らの拒否感が強かったことも一因だった。相良の兄にも昔のイメージがあるので客人として招くどころか店先をうろうろされたくないのだろう。
「…話は大したことやおまへん。直の居場所をご存じやありませんか?」
「居場所…?」
「半年ほど連絡が取られへんくなってもうて…」
山崎の問いかけに、兄は苦虫を嚙み潰したような表情をして腕を組んだ。
「…なんも知れへんのか?」
「…え?」
「直之進は父に勘当された。すでにこの家の者ちゃう」
思わぬ言葉に山崎の頭は真っ白になって、思わず兄の腕を強く掴んだ。
「そらいつ…なんで、です?!たしかにあいつはあんたに比べたら気ぃ弱うて目立てへんやつやったけど、見どころもあって優しゅうて…!父上もそれご存じのはずでは…!」
「貴様が言うんか?!貴様が壬生狼なんかに入ったせいであいつは感化されて、あほな真似をしたんやろう?!」
「…!」
相良の兄は山崎の手を強引に振りほどき、今度は睨むように山崎を見据えた。
「詳しいことは知れへん。せやけど、あいつは新撰組のためにあちこちから情報をせしめとったのやろう?学なんてあれへんくせに、一人前の顔をして壬生狼の手助けなんかして。…それが二年ほど前、うちのお得意さんから苦情があったんや。世間話程度で討幕派との取引の話をしたらすぐに奉行所が乗り込んで来たってな」
「それは…」
「鍼医者の子にはわかれへんやろうが、商人には横のつながりが重要や。うちの店が壬生狼と結託してて信用でけへんと噂を流されでもしたらその信用を取り戻すんはややこしい。それがわかれへんかった時点であいつは見どころなんてあれへんし、この家に相応しない。勘当されて当然やろ!」
相良の兄はまるで昨日起こったことのように顔を真っ赤にして憤る。
山崎はだんだん血の気が引いていた。
まさか新撰組のせいで勘当されているなんて思いも寄らなかったのだ。
(二年前?せやったらこの二年間、直は一体どないして情報を得て俺に渡しとったんや…?)
相良の情報はいつも正確で山崎の手助けとなった。池田屋で功を上げたことで株を上げ、あの土方ですら一目置く協力者になったのだ。しかし確かにこのところ、相良のもたらすものはとても商人伝いとは思えない花街や賭場に関するものが多かった。だがそのおかげで浅羽の一件も解決できたこともあり、相良の情報源については何も気が付かなかった。
山崎は力なくふらふらと後ずさりした。
「…あの…せやったら、二年前からここには戻ってへんちゅうことですか…?」
「当たり前や。戻るはずがあれへん。あいつがどこにおるんかいなんて誰も知れへん」
相良の兄は吐き捨てるが、山崎は眩暈のように頭がクラクラしていた。
半年間音信不通であっても、きっと自分たちはどこかで繋がっていてまた会えるはずだと…漠然と信じ込んでいた。けれど実家を勘当されたことを二年間も伏せられ、ある日突然姿さえ見せなくなった。
(直…どういうつもりや…!)
しかし相良に会わなければその答えは得られない。そして今やるべきは相良の兄を問い詰めることではない。
困惑は隠せなかったが、山崎はその場で膝を折り頭を下げた。相良の兄は怪訝な表情を浮かべた。
「何の真似や?」
「…俺が無理やりあいつに頼んで伝手を頼っていろいろ話を聞いてもうたんです。責められるべきは俺で、直はこの家を離れるつもりはなかったはずです。卑屈なこと言うとったけど、この店と商売、父君に助力したい思うとったはずで…俺のせいでご迷惑をおかけして申し訳ありまへんでした」
「…」
「ただ一つだけ…直の協力のおかげで俺は支えられた。表立って名前が出ることはなくとも…直がおれへんかったら立ち行けへん場面がようさんありました。…あいつは凡才かもしれまへんし、周りが見えてへんのかもわかれへんですけど、懸命に尽くしてくれた。新撰組の皆が感謝してる…そのことは間違いありません」
相良を『見どころがない』と蔑む兄にどうしてもそれだけは伝えておきたかった。彼が知らないところで彼の弟はこの世界の一役となって生きていた…その事実だけは間違いないのだ。
相良の兄はしばらく黙り込んだが、
「…もう幕臣なんやろ?簡単に頭を下げるな」
とため息をついて続けた。
「一つ言わしてもらう。直之進はお前のためだけに家を出ていったわけちゃう。自分のためにそうするんやと、なんも言い訳はせえへんかった」
「直が…」
「…そういうところがその時は無性に腹が立った」
山崎は相良が何も言い訳をせず出ていく姿が何となく想像できた。他人のことばかり気に掛ける損な性格の相良は、これ以上誰も傷つけないようにと何もかもを抱えて勘当を受け入れたのだろう。
想像できるからこそ、山崎の胸は余計苦しくなる。
相良の兄は大きなため息をつきながら襟を整えつつ口を開いた。
「…もう二年も前のことや。知ってるやろうが情勢が変わり、これから国を誰が治めるのかもわかれへん。お武家さんだけでなく商売人かて明日をもわかれへんいま、これ以上直之進を虐げるつもりはあらへん。…父上も歳を取って引退して、あいつのこと気にしてる。居場所が分かったら知らしてこい」
「はい…!必ず、必ずそうします!」
相良の兄は頷いた。勘当したとはいえ血を分けた兄弟として行方不明だと聞かされれば思うことがあるのだろう。しかしいつまでも居所のわからない弟を気に掛けてばかりはいられず、相良の兄は「もうええか」と引き揚げて店に戻っていった。
その場に残された山崎はようやく立ち上がり膝の土埃を払うと、すぐに駆けだした。
山崎は頭の中で今まで忙しさを理由に目を背けていた事実に向き合う。
相良は順調に協力者として情報を渡してくれていたが、山崎が長州征討から戻った頃に様子が変わった。色白の肌が日焼けして、痩せていた。あまり好まなかった酒を嗜むようになり、いつも別れ難い眼差しで『またな』と告げていた。
「なんで…なんで気づけへんかった…!」
理由はわかっている。
(俺は無意識に直に甘えていたんや…)
無条件に手助けしてくれる。何の見返りも止めず『やりがいがあるから』と引き受けてくれた。それが当たり前になって親友が離れるわけがないといつの間にか傲慢な考えを身に着けてしまい、彼の現状に気が回らなかった。
彼がそういう性格だとわかっていながら、無意識に知らないふりをしたのではないか。
(やとしたら…俺は最低や)
嫌悪感と罪悪感で体中が締め付けられているような感覚だ。
山崎は脇目も振らず、彼がいるであろう都を目指して走っていた。









827


翌日、不動堂村の屯所。
「板倉様のご命令で我ら新撰組が二条城の警備を務めることとなった!」
隊士全員を集めた場で近藤が晴れやかな笑みを浮かべていたが、隊士たちは顔を見合わせて「どういうことだ?」と言わんばかりに首を傾げていた。王政復古の大号令から続く怒涛の日々…京都守護職の廃止、新撰組の新遊撃隊へ編成、上様の大坂城入城と目まぐるしいなかで頭が追いつかなかったのだ。
ざわざわと騒がしいなか、斉藤は目を閉じて黙って腕を組んでいた。
「あの…宜しいでしょうか?」
おずおずと手を上げたのは斉藤の隣に座る井上源三郎だった。隊士たちの困惑と疑問を代表して上機嫌の近藤へ訊ねる。
「二条城はいま、上様が退去されて空なのではありませんか?」
「その通りだ。しかし誰もいないからと言って無人にしておくわけにはいくまい。新政府軍に占拠されない様に我々が警備するのだ」
「なるほど、承知しました。それで…その、『新撰組』に?ですか?」
井上とはじめとした隊士たちは『新遊撃隊』への命令なのではないかと近藤の言い間違いを疑っていたのだが、近藤は首を横に振った。
「いや、板倉様は『新撰組』だとおっしゃった。皆、これは新撰組へのご下命だぞ!」
近藤の言葉に、ようやく隊士たちが「おう!」と諸手を挙げて喜び、盛り上がった。たった数日とはいえ見廻組に軽んじられていた鬱憤が老中からのご下命によってようやく晴れたのだ。斉藤は表情を変えなかったが見廻組とともに行う巡察は苦痛しかなかったので、どんなに危険な任務であろうと即時引き受けただろう。
近藤は意識的なのか無意識なのか、隊士たちに発破をかけるように大きな声を出した。
「明日の朝一番に揃って二条城へ向かう!これから詳細を組頭とともに話し合うが、皆もしっかり準備を怠らないでくれ。なんせ我々が将軍の城を守るのだからな!」
「ハイッ!」
「オオーッ!」
久しぶりの朗報に皆が沸き立ったあと、組頭たちが近藤の部屋へ集う。しかしそこに在るべき人物がいなかった。
「土方さんはどうしたんだよ」
原田が周囲を見渡したが、隊士を集めた席でもその姿はなかった。斉藤も土方が不在であることに気が付いていたが、それ以上に気になっていたのは同じく姿を見せていない総司のことだった。
近藤は「実は」と少しため息をついた。
「早朝、総司が喀血したんだ。そのまま意識を失ったようでな…いまは南部先生のところへ連れて行って看てもらっている」
「だ、大丈夫なのかっ?」
井上が話しに割って入った。親戚関係である井上は先ほどの喜びが嘘のように一気に悲壮な顔を浮かべたが、近藤は敢えて大きく頷いた。
「付き添った山野君から少し休めば良くなると伝え聞いている、安心していい」
「…そうか、無事ならいいんだ…」
「ああ、きっと大丈夫だ。…さあ、皆座ってくれ。板倉様に二条城の地図をお借りしてきた、警備体制を決めよう」
近藤の呼びかけで原田と永倉、井上が地図の周りに膝を折ったが、斉藤は少し離れた場所で近藤の言葉に耳を傾けることにした。土方からの指示ですでに分担が決められており、皆特に異論はない。早々に話し合いはまとまって、各組長が隊士たちの元へ向かい、小荷駄方を兼務する原田が準備すると意気込んだ。
「斉藤君」
斉藤も同じように一番隊の元へ向かおうとしたところで、近藤に呼び止められた。
「はい」
「君に頼みがあるんだ」
「明日のことでしょうか?」
「いや…総司のことだ」
「…」
近藤は「場所を変えよう」と部屋を出てそのまま庭に出た。冬の木枯らしは庭木の葉をすべて落とし寂しい光景となっているが、斉藤の目には入らなかった。
「…お話とは?」
「源さんにはああ言ったが、総司の具合はあまり良くないようだ。数日、安静にしなければまたすぐに喀血するだろうといわれている。…この屯所では騒がしく、歳の別宅は危険だろう。南部先生も会津が今どうなるかわからない状況で預かってもらうのは難しい。…だから俺の妾宅で休ませようと思う」
「…妾宅ですか」
「もともと隊士が警備に就くし、お孝にも了解してもらっている。部屋は余っているからおみねさんにも通って看病してもらえれば助かると思うんだ。…ただ、総司が承知するかどうか…」
「…まさかあの人を説得しろとでも…」
「その通りだ」
「…」
予想外の頼みに斉藤は困惑したが、近藤は寂しげに微笑んだ。
「歳から聞いた。斉藤君には総司が俺たちに言わないような本音を漏らすのだろう?友人として君を信頼しているに違いない。だから、俺が感情的に言い聞かせるよりも、君の客観的な意見なら妾宅へ行くのを了承するのではないかと思うんだ。いま、あの頑固者を説得する時間はないからな」
「…土方副長が説得された方が宜しいのではないですか?」
斉藤の質問は至極当然のものだったが、
「歳は…歳には、頼めない」
と近藤は目を伏せて唇を噛んだ。
「…すまない、俺の私情を君に押し付けている自覚はあるんだ。だが…今の総司に妾宅に身を寄せさせるなんて二人を引き離すようなものだ。それが正しいとわかっていても…本当はここに置いておきたいと思う歳にそれを言わせるのは残酷な気がしてな。俺が強く命令すれば渋々従うだろうが…それが最期になったらと思うと…」
近藤は言葉に詰まり、斉藤に頭を下げた。その先を口にするのさえ躊躇われる…斉藤は察して「わかりました」と引き受けた。
「本当か?」
「…あの人が納得する保証はできませんが」
「いや、構わない。君が口添えをしてくれるだけで総司は幾分か冷静に判断できるはずだ」
「では早速南部先生の診療所へ向かいます」
明日には二条城に入ることになる。一番隊の優秀な隊士たちは組長が不在でも島田のもとで団結するだろうし、彼らも総司のことを心配しているはずだ。斉藤は退出しようとしたが、
「君に押し付けてすまない」
と近藤がもう一度謝ったので、足を止めた。
「…構いません。沖田さんのことは何であれ負担にはなりません」
「…そうか」
「局長は二条城の警備に注力なさってください」
「わかった」
近藤は安心したように頷いたので、斉藤は今度こそ部屋を出ていった。


肌が白く透き通りまるで血の気のない様子で、総司は目閉じて深く眠っていた。
朝喀血した時は「大丈夫、大丈夫」と周囲を安心させようと振る舞ったが、次第に意識を失った。診療所に運んでも目が覚めず、付き添った山野は悲観していたが
「心配ありません。少し体力を消耗したのでしょう」
と南部が診断したので安堵した。土方は山野を報告のために帰らせてその場に残り、一晩世話になることにした。
土方は総司の傍に寄り添う。痩せた輪郭に沿った長い髪に触れながら考え込んでいた。
(もう、今まで通りとはいかないな…)
剣の道から退いて療養に努めるようになってから顔色が良くなったようだったが、それはごく短期間のまやかしでしかなく、病は体を蝕み続けているという現実を見せつけられているようだ。
そしてただでさえ安静にしておくべきところにこれから二条城の警備に入ることになれば、さらに落ち着かない日々を送らせてしまうだろう。
「失礼致します」
女の声がして土方は振り返った。加也が様子を見に来たようだ。
「よく眠っていらっしゃいますね」
「ああ…」
加也は総司の額に手を当てて「熱は下がりました」と笑みを浮かべた。新しい手拭いを絞り取り替えながら
「義父はおそらく大坂へ移ることになるかと思います」
と切り出した。
「藩医ですから、会津に従うのは当たり前です。…きっと戦になれば戦地に赴くことになるのでしょうね」
「…そうだな」
「…実感がありませんね」
加也は長いまつ毛を伏せながらため息をついた。嫁の貰い手には困らない美貌を持ちながらも自立心の強い加也は周囲の勧めに耳を貸さず義父と同じ道を選んでいる。
「君も行くのか?」
「義父が許してくれるなら、そのつもりです」
「…そうか…」
会津藩医の娘なのだから当然の判断だろう。けれど総司の病状に詳しい二人が不在になることは心許ないことではあった。
加也は土方の不安を察したように居住いを正しながら話を続けた。
「もし私たちがここを離れることになりましたら、英をお頼りください。義父や私の持てる知識は授けていますし、薬の処方もできます。特に労咳についてはよくよく指南しておりますから」
「…だが、英は…」
散々迷惑をかけておいて今更ながら、英自身が新撰組に関わりたいかどうかはわからない。土方は英の意思に反することを強要するつもりはなかったのだ。しかし加也は微笑んだ。
「心配ありません、英はきっとそのつもりです。…沖田さんの病を引き受けた時から『縁』だと言って譲らなかった。…いまの英は人にも物にも執着しませんが、どんなに危険だとわかっていてもあなた方とのご縁だけは手放さないようです。…どうか、よろしくお願いします」
加也の言い方はどちらかといえば総司の身を案じるというよりも、行きどころのなくなる英のことを心配しているようだった。
「…わかった」
「ありがとうございます。…そろそろ夕餉をお持ちします」
加也が軽く頭を下げて出ていくと、入れ替わるように山﨑がやってきた。
「お邪魔いたします」
「…どうした。大坂から戻ってきたのか?」
大坂城周辺の視察と相良の行方を追うために屯所を離れていた山﨑だが、早々に戻ってきたようだ。その表情は彼らしくなく厳しく、冬場だと言うのに額に汗が滲んで焦っていた。
「不動堂村へ戻ったとこ副長がこちらにおってはると耳にしました。…急ぎ、お尋ねしたいことあり、失礼を承知で足を運んだ次第です」
「…相良のことか?」
「はい…単刀直入に申し上げます。副長は直の居場所をご存知なのやおまへんか?」
「…総司が起きる。場所を変えよう」
土方は山﨑を連れて病人のいない隣室に移った。山崎は待ちきれない様子で、土方に詰め寄った。
「大坂から急ぎ戻り、あちこちに直の行方を尋ねました。監察方の隊士や協力者、支援者…とにかく今までに縁のある者へ話を聞いてまいったけど、どの者もなんも知らないと答えました」
「だったら知らないのだろう」
「いいや、新撰組の監察方が優秀なことは俺がよう知ってます。誰一人、一般人にすぎへん直の行方がわかれへん、見当すらつけへん…そう答えたけど、あり得まへん。些細なことでも足取りはつかめるもの。…ほんでようやく思い至りました、これは口止めをされてることあれへんのかと。やとしたら、副長がご存知なのちゃうか…そう思たんです」
「…昨日、大坂へ行ってとんぼ返りで調べ上げたのか」
「はい。…せやけど、俺は阿呆です。直が勘当されてることすら知らんと…友人面して頼ってばっかりで…」
山崎は拳を握りしめて震えていた。その姿を見て土方は重い口を開いた。
「…女と駆け落ちをしたと聞いている」
土方は相良に頼まれていた通りのストーリーを告げた。罪悪感を与えるくらいなら、薄情な親友として去りたい…そんな相良の気持ちにせめて答えてやろうと思ったからだ。
山崎は呆然としたが、
「…そんな阿呆な」
と信じなかった。
「あいつに限ってそんな真似しまへん。たとえそんな女がおったかて俺に黙って姿を消すような性根ちゃうんは知ってます。…直に頼まれましたか?副長ならもっとましな言い訳をおっしゃるやろうし」
「…そうだな」
土方は苦笑した。土方もそんな苦し紛れの嘘を山崎が信じるわけがないとわかっていたのだ。だからこそこれを告げるということは、相良の行方を知っていると自ら認めるだけの行為に過ぎないのだ。
山崎はさらに土方を問い詰めた。
「やはり!ほな、直の行方は知ってるんですか?あいつは達者で…?!」
「…落ち着け。…相良はお前には居場所を知られたくないと言っていた。俺は相良には恩がある…それ故、お前に相良の居場所を教えることはできない」
「そんな…っ!副長、どうか居場所を教えてください、それだけでええです。直には言い聞かせるし、あいつには俺が謝ります!」
山崎は必死に頼み込んだが、土方は首を横に振った。
「相良が何故、頑なにお前の前から姿を消したのか…考えてみたらどうだ?」
土方の問いかけに、山崎はしばらく言葉を失い青ざめて項垂れた。
「……俺は、あいつがどこに住んでるのかさえ知らんと、仕事を頼んでええとこどりをして…親友面をしてました。安易にあいつを誘うたせいで勘当までさせられるなんて、直に見限られてもおかしゅうはあれへん思てます。…そやさかいあいつがもう俺と手ぇ切りたいちゅうならそれでもかまへん思う。居場所を知られたないと考えるのもしゃあないのかもわかれへん…せやけどせめてもういっぺん顔を見て、謝って、礼を言えへんと…一生後悔すると思うんです。せやからどうか…どうか、教えてください!」
山崎はその場に平伏して懇願した。
入隊時から大坂と都の地理に明るい山崎は何かと土方の片腕となって働いてきた。厳しく辛い仕事も愚痴を零さず、人に誇れない仕事であっても完遂のために努め続けてくれた…そんな彼が頭を下げて何かを頼み込むのは初めてで、もしかしたら最後かもしれないと思った。
(…悪いな、相良…)
土方は決して相良の決断を間違っているとは思っていない。相良との約束を守ることがこれまでの働きへの感謝であると言い聞かせて来たが、それでも何も知らせないまま相良の身に何かあれば…『何も知らない』ことにどれほど絶望するのか、土方は身をもって知っていたのだ。
「…今出川を下さった先にある長屋にお静という中年の女がいる。その者を訪ねてみたらいい」
「!おおきに、ありがとうございます!!」
「山崎、一つ条件がある。…聞いているだろうが、明日から二条城へ入り警備を務めることになっている。組頭として必ず戻ってこい」
「勿論です…!」
山崎はもう一度頭を下げて感謝を述べ、足早に去っていった。












828


相良は数か月ぶりに会った山崎の顔を見て「阿呆やなあ」と心底呆れた。
突然父親による鍼医師の修行を怠り、逃げるようにどこかへ行ってしまったと思ったら、まるで別人のように色黒になって戻ってきた。わけを聞くと漁師に弟子入りしていたと言うのだ。
「俺は漁師には向かん!それが分かっただけで重畳やろう?」
山崎は晴れ晴れとした笑みを浮かべている。彼の周りでは行方知れずになったと大騒ぎで父親も憔悴していたというのに、まるで気にしていないと言わんばかりに振舞っている。その姿を見て、散々人を心配させた幼馴染に一喝してやろうと意気込んでいた相良は言葉がない。
「…烝、そんなに鍼医者になるのが嫌なのか?」
相良の家ほどではないが代々続いている家業だ。食うに困らず、順風満帆に暮らしているのに、どうしてそんな真似をしたのか。
相良が訊ねると、山崎は「うーん」と腕を組んで考えたあと、
「なんや、ちゃうんやんな」
「…ちゃう?」
「漁師でも鍼医師でもあれへん。俺の命を賭けるにふさわしい…なんかを探したいんだ」
「…」
山崎の言葉を、青年らしい悩みだと大人は高みから笑うのだろう。
けれど漠然とした不安や迷いは確かに相良にもあって、彼の気持ちがわからないわけではない。商家の次男坊に甘んじる自分と未知の世界に飛び出す山崎…行動するのかしないのかの違いであり、前者である山崎がただただ羨ましかった。
それから、山崎はタガが外れたようにふらりと家を出ては戻り、気分次第で己の行くべき道を探し始めた。薬問屋、書家、飛脚、左官…そうしていると周りは彼の破天荒な行動を気にし無くなり、「そのうち帰って来るやろ」と笑い、父親は「もうあきらめた」と跡継ぎにするつもりはないようだ。いつ彼がいなくなったとしてもそういうことだと受け入れるのだろう。
けれど相良は違う。
彼がどこかへ歩き出す後姿を見送りながら、いつも
(戻ってこい)
と願っていた。
幼馴染の強さが羨ましかった。自分の行く末を自分で決められる彼のようになりたかった。彼の背中に手を伸ばして『俺も連れて行ってくれ』と言いたかった―――だから。
「なあ、お前もどうや?」
いつものように気ままに壬生浪士組への入隊を考えていた山崎が、初めて相良に手を差し出した時…心底、心が震えた。いつも勝手に去っていくだけの彼が突然振り向いて相良の手を引いたのだ。
けれど同時に相良は足が竦んで動けなくなってしまった。彼は命を賭けられると言ったけれど、相良には同じようには言えなかったからだ。
そしてまた、彼を見送ることになった。
「ほな」
と明るく去っていく背中はいつもとは違って、手を伸ばしたとしても届かない場所にあって。
(もう会えないのかもしれへん)
とキリキリと胸が痛んだ。
だから、彼が晴れて入隊し『頼みがある』と戻ってきたときは再びその道が開けたような気がしたのだ。


陽が傾き始めていた。
山崎は息を切らしながら今出川通りまで駆けて来た。
(阿呆やな、俺は…)
今出川を下った先にある長屋…土方から具体的な場所を聞き出さず感情のままに飛び出してしまったせいで、この先は総当たりしなければならない。明日には二条城に向かわなければならないというのに。
(一旦戻るか…)
山﨑が踵を返そうとした時、ふっと視界に女の姿が入った。気だるげに枯れ木にもたれかかり、枝毛を気にしながら周囲の様子を伺っている…山崎はその中年の女に近づいた。
「…あんた、掏摸やろ?」
女は特に動揺することなく手元から山﨑を見上げると、値踏みするように頭からつま先まで眺めた後にフッと笑った。
「まさか、そんなわけあれへんやろ」
「いや職業柄、間違えるはずあれへん。掏摸ならこの辺のことに詳しいやろ?教えて欲しいことある」
「どうだか…少なくともこないだ会うた時は気ぃついてへんかったんやろう?」
「会うた…?」
女に指摘されて改めてまじまじと顔を見る。確かに見覚えのある顔だったが記憶を辿ってもはっきりとは思い出せない。
すると女は眼差しは冷たいまま、口元だけ緩めた。
「あんたから買うた大根は萎びて不味かったわぁ。新撰組はいっつもあないな粗末なものを食うてるのかい?」
「…お前…」
「ほんま、あんた新撰組の監察かいな。ああ…元やったな、クビになって正解や」
女の言い草は普段なら聞き流せない暴言だったが、彼女の言う通り、山崎は大石と共に御所の周りを探索していた際の大根売りをしていた時の客だとは思い出せず、その女が掏摸であり新撰組の協力者であることすら気が付かなかったのだ。言い返せるはずがない。
「…あんたが、お静か」
「あら…副長はんは随分お優しいなぁ、もううちのこと明かしてしもうたん?」
「直の居場所を知っているんだろう?!教えてくれ!」
「…どないしよかな」
「おい!」
必死な山崎は掴みかかるような勢いで静の手を取ろうとしたが、彼女はサッと身を引いて避けた。その身のこなしは掏摸であり新撰組の協力者に相応しい。
静は「ふん」と鼻を鳴らして腕を組んだ。彼女の物言いには山崎を揶揄するような意図とともに嫌悪感が滲んでいた。
「あんたみたいな間抜け、相良はんが見限ってもしゃあないわな。思い通りに何でも言うこと聞くさかい、好き放題してきたんやろ」
「アホ言うな!俺は直とは幼馴染で、あいつのことを信用して任せてきた…!」
「信用?ハハ…!せやったら、なんでこんなんになったんや?あんたが相良はんに興味があらへんからやろ?…わかってへんみたいやから教えたるわ、協力者っちゅうのんは少なからず身を犠牲にしてる。対価がないとできる商売とちがう。うちの場合は金目当てやけど、相良はんはちゃう…あんた、それわかっとったやろ?そやけどあんたはなんも与えへんかった」
「…あいつは…何もいらんて…」
「それが本心や思うんやったら、尚のこと相良はんの居場所は教えられへんわ」
静の語気は荒いが、その眼差しには悲壮感が漂っている。山崎は自分の想像以上に相良の身の回りは深刻であることを感じ一刻の猶予もないのだと理解した。その場に膝を折り、静の前に土下座した。
「…全部…あんたの言う通りや。忙しさにかまけて…いや、これも言い訳や、あいつの様子が変わったことに気ぃ付いとったのに俺はなんもせえへんかった。…今更やと笑われてもええ、手遅れになる前にあいつに会いたいんや。頼む、この通りや!」
例え今は幕臣であっても、土下座に何の躊躇もなかった。相良へと繋がる細い糸を絶やすわけにはいかない…そんな気持ちでいっぱいだったからだ。
すると静は蔑むように見下ろした後に、深く長いため息をついて髪をかき上げながら呟いた。
「…うちだって、あんたが来るのを待っとったんや。相良はんがあんまりに惨めで、可哀そうで…不憫やったさかいな」
静は振り向かずに後ろの長屋を指さした。
「右から二番目の部屋や。…いまはよう眠ってるはずや」
「…ッ!おおきに!!」
山崎は躓いてよろめきながらも走りだしていく。その視線の先に数軒続く長屋が連なり、彼女が言った部屋に駆け込んだ刹那、脳裏に数日前の静との会話が蘇った。
『そのお大根、売ってくれへんやろか?』
『三文や』
『二文にならへんやろか?』
今から思うと、静は山崎のことを見定めていたように思う。そしてこう言った。
『うちの隣の家に瘡毒の若い男がおってな―――――――――』
風通しの悪い質素な部屋。漢方薬の独特な匂いが滞留し、日が差し込まず薄暗い。その部屋に横たわる痩せた若い男は静かに眠っている。
「あ…あぁ…」
山崎は急に全身の力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
医学方として一人前のつもりで患者に接してきたつもりだったが、結局は何もかも他人事であり私事ではなかった。自分には関係がないとどこかで割り切っていたせいか、同じ病の患者など見慣れているはずなのに頭が真っ白になって何も考えられなくなった。
(そう…そうやったんか…)
バラバラになっていた事実が一気に繋がっていく。相良が何も言わずに姿を消したこと、土方を含め監察方が事実を隠したこと、静が山崎を罵倒したこと…その意味がわかった。すべては彼らの山崎への気遣いだったのだ。
山崎はふらふらと相良に近寄って、どうにか腰を下ろした。そして恐る恐る相良の赤い発疹の浮き出た手を取った。彼の首や鎖骨にまで進行している様子を確認し愕然とした。
「…直、一人で死ぬつもりやったんか…?」
言葉が震えた。
医学方で少々齧ったせいで、病が随分進行しているのだとわかってしまう。こんな小さくて狭い長屋で孤独に世を去ろうとしていたのだと思うと、山崎の胸は一層締め付けられた。
すると相良が少しだけ手を握り返してきた。山崎は両手で握り「直!」と呼ぶと、彼は虚ろな眼差しで周囲を見渡した。
「…す…む…?」
「そうや、俺や」
「…夢か?」
「夢ちゃう」
山崎が否定しても、相良は「夢や」と否定して少し微笑んだ。
「はは…やっと帰って来たんやな。今までどこに行っとったんや?…ついに坊主になるんちゃうかと親父さんが笑うとった…で…」
「何言うて…」
「…もう待ちくたびれた。烝を待つんは…ほんまに、疲れるで…」
困ったような、呆れたような、でも嬉しそうに笑う。
(せや、直はいつも…)
いつも待っていた。父親や周囲の人間がどれほどあきれ果てても、相良だけはずっと待っていた。
「…待たしてかんにんな…」
山崎の頬に涙が伝う。その雫が相良の掌に流れて染みて、消えていった。









829


最初は夢うつつだった相良の意識は山崎と会話を交わすことで徐々にはっきりとした。相良は山﨑の来訪が現実だとわかっても取り乱しはしなかった。
「…そうか、土方さんが…」
何故この場所が分かったのか――…相良は隣家の静がまさか新撰組の協力者とは思いも寄らなかったが、人生の底辺に突き落とされた時に彼女が何かと世話を焼いてくれたのはそういう理由だったのかと納得した。
「土方副長を責めへんでほしい。俺が無理やり聞き出した」
「…まさか責めるなんて。烝に知られたないならほんまに姿を消したらよかった、方法はなんぼでもある。…そうせえへんかったのは、俺はたぶん烝に見つけてほしかったし、心配してほしかったんや。たぶん烝が思う以上にずるい奴やで、俺は…」
病が露見するのを恐れる一方で、いつかこんな日が来る…いや、来てほしいと願い、山崎を待っていた…どんなに強がっても心の片隅でそう思っていたのは否定できない事実なのだ。
すると山崎は眉を顰めて目を伏せた。
「…直はずるい奴はあれへんし、これ以上自分を責めんといて。俺だけ何にも知らんと直を苦しめて…もう、ほんまに…俺はいたたまられへん」
「烝…」
すべての事実を知り憔悴した山崎は力なく首を垂れるしかない。相良は長年の付き合いのなかでも山崎がこれほど落ち込んだ様子を見ることはなかった。
どう声を掛けたら良いものか相良が迷っていると、繋がれたままだった手の平を山崎がゆっくりと摩った。いくつか浮き出ている発疹を確かめるように繰り返す。
「なあ…瘡毒なんか?」
「うん…ほんまはもっと長う生きられるはずなんやけど、俺の場合は人より早よ臓器の方まで回ってるって。…自分でもわかる」
「そうか…ごめん…」
医学方を務める山崎もそれが正しい見立てだとわかる。相良は気丈に振舞っていても、身体は痩せ細り青ざめて血の気がない。
山崎が謝ってさらに項垂れたので、相良は口を開いた。
「…烝のせいちゃうで。俺のやり方が悪かったんや。家を勘当されて上手う仕事がでけへんようになって…せやけど烝の期待に応えとうて、無茶をした。もっと早う打ち明けとったらこんなんにはなれへんかった…それに、今から思たら自分のことなんてどうでも良うなっとったのかもわかれへん」
「家を勘当されたからか…?」
「うん。…案外、俺はあの家に、あの家の人たちに認めてほしかったんやな…」
父に認められ、兄のようになりたかった。山崎のように自分から居場所を求めることへの憧れとともに、今いる場所で足掻きたかった。
山崎は「やっぱり俺のせいや」と唇を噛んだ。
「俺が手柄を立てるために、直を引きずり込んだ。そのせいで勘当されて、無茶をさせてこんなんになって…そら紛れもあれへん事実やろう。なんべん謝っても謝り足れへん。直の代わりに俺が死にたいくらいや…!」
「烝…」
「かんにん…ごめんな、直…ほんまにごめんな…」
自分への怒りと憤りで、吐きそうなほど悔しい。身体中が震えてこぶしを握り締めてどうにか耐えるしかない。時を遡って悠長に長州へ向かった自分を叱りつけてやりたい。
そんな山崎の肩に相良は優しく触れた。
「…阿呆なこと言うな。烝が世に羽ばたいて活躍してる姿を見て、俺がどれほど誇らしかったんかお前は知れへんやろう。俺は自分では飛ばれへんけど、お前の背中に乗せてもうたおかげで楽しい景色が見られた。あの家におったら決して見ることはでけへんかったはずや」
「直…」
「俺は後悔してへん。…まあ、できることならもっと長う烝の役に立ちたかったけどな…」
「…」
「せやからもう謝るんはなし。お前に謝られると、なんか居心地が悪いわ」
相良は精いっぱいの笑みを浮かべた。楽しかった、嬉しかった…けれどもう終わり。ただそれだけじゃないか。
すると山崎は感極まったように相良の細い腕を引き寄せて、抱きしめた。
「す…烝…?」
長い間幼馴染をやっていてもこんな風に抱擁を交わすのは初めてでぎこちない。けれど山崎は渾身の力で抱きしめた後、徐々に力を抜きながら口を開いた。
「…世間は、もう徳川の世は終わりだって言うてるし、俺もそう思う。これからきっと戦が始まって…俺も戦地に立つことになるやろ」
「え…?外はそんなんになってるんか…?」
「ああ、俺もいつ死ぬのかわかれへん。…案外、直よりも先に死ぬかも」
「そんな…!」
長い間臥せっていた相良にとって、世の中が逆転したとは俄かに信じられない。けれど山崎は真面目な表情のまま続けた。
「明日から二条城の警備に就く。その後はどないなるかわかれへんけど…もう直に会われへんしれへん」
「…!」
「そやから、約束を果たしたい。…何でも言うこと一つ聞く」
『礼っちゅうなら…何でも言うこと一つ聞くっていうはどうだ?』
『それがええな。何でも聞く』
『…今は思いつけへん。いつか願い事が決まった時に頼む』
『ああ、わかった。いつか…約束な』
山崎はあの時のように相良の小指に自身のそれを絡ませた。
「…こうやって、指きりしたやろう。俺は約束を違わへん、せやからなんても言うて」
「そんなん…そんなん決まってる、烝が無事に帰ってくることや!」
相良は即答した。勝ち戦でも負け戦でも、どんな形であっても生き延びてほしい…相良にはそれしか思いつかなかったのだ。しかし山崎は「それはあかん」と拒んだ。
「なんでや?!約束できん言うんか?」
「だって俺自身が叶えられへんやろう。生きるか死ぬかなんて天命や、もうどっかで決まってることは覆されへん。…そやから今すぐに俺が叶えられることにしてや」
「…そんなん言われても…」
相良が困惑していると、興奮したせいか不意に眩暈がして上半身が揺れた。山崎はそれを抱き留める…彼の眼差しを間近で、真正面に受け止めて相良の心は激情に苛まれて揺れた。
『願い事』…言葉を振るわせながら切り出した。
「…俺…烝に会いたかったけど、同じくらい会いとうなかった」
「え?」
「瘡毒に罹ったなんて知ったらお前に軽蔑される思た。なんぼ情報を得るためとはいえ女だけやなく男も相手にして…そんなんができる、汚らわしい奴かて烝に思われとうなかった」
「…そんなん思えへん。男色なんて珍しゅうもない」
「こんなん男色ちゃう。ただ…快楽に耽る魔物のようなもんや。自分が自分でのうなるような…自暴自棄になるみたいで。でもその感覚が俺を楽にした。自分のなかの卑しい気持ちがぐじゃぐじゃになって…」
「直…?」
山崎は一体どういう意味かと首を傾げている。相良は彼の背中に両手をまわした。
「俺はずるいって言うたやろう?…自分には金も地位もなんもいれへんって言うたのに…ほんまはずっと欲しいものがあった。俺は…烝がどこにも行かんといて、俺のもとにおって…俺だけを見とってほしかったんや」
どこかへ行ってしまう、その背中を見送るのはもう十分だ。同じ歩幅で隣を歩いていられたら…そう何度願っただろう。
「…それが『願い事』か?」
「いつまでもいられへんのはわかってる。お前には仕事があって部下がおるしやらなあかんことあるやろ…」
「そんなんはどうでもええて」
山崎は相良をもう一度抱きしめると、そのままゆっくりと寝床へと押し倒した。固い布団は決して寝心地は良くなかったが、そんなことはどうでも良かった。
見下ろした山崎の視界には相良しかいない。彼の眼差しが自分だけを見つめている―――そう思った途端、赤面した。
「……烝、ちょい待った」
「なんや?」
「いや…その、一緒におってほしいとは言うたけど、こんなんは…」
「は?お前、盛大に告白しといて今更何言うてるんや?」
「…こ、…っ、!」
山崎は相良の口を塞ぐように口づけたが、すぐ逃れるようにその胸板を押した。
「烝!お前、本気か?」
「…はぁ?直の方こそ今さら何やねん。自分は男色に偏見はあれへん、俺が欲しい思うとった…いまそう言うたやろう?」
「言うたけど、俺は瘡毒に罹って…!」
「俺は半人前やけど医者や、そんなんようわかってる」
「せやったら…!」
「もうええから」
今度は遠慮なく、山崎が相良の口を塞ぐ。息もつかせぬ激しいそれは互いの関係をあっさりと打ち崩してもう幼馴染なんてものには戻れそうにない。
山崎は相良の目尻に涙が浮かんでいることに気が付いた。
「…直、嫌やったのか?」
「嫌ちゃう。せやけど…烝にうつったら、申し訳あれへん…」
「ああ…そんなん、気にせんでええ。俺はなんか自分が罹る気ぃせえへんのや」
「医者のくせに何言うてんねん…」
「半人前やからな。それに…副長も同じこと言うとったし」
「はあ…?」
山崎は指先で相良の涙を拭った。
「直、俺は知っとった。お前が…俺のことそういう風に思てるって」
「な…なんで…」
「だって俺がふらふらどっか行っても、待ってるんはお前だけや。貞淑な妻みたいな顔で『お帰り』って言うてずっと待っとったやろう?」
「…つ、まって…」
「そやからなんとなしに直が俺を好いてるんは知っとった。俺も…お前が待ってるから、お前のとこに帰ろう思た。…正直、それが男色になるのかはわかれへんかったけど、いまわかった。俺は直を抱ける。瘡毒に罹っていようともかまへん思える。…そらもう好きやってことやろう?せやったら直の『願い事』は俺と同じや、躊躇う理由はない」
相良は呆然と山崎を見上げ続けていた。最初は彼が偽りなく本心を述べているとわかっていても、そこに同情があるのではないかと疑っていたが、淡々と言い切る姿を見てそうではないと思った。
「…よう喋る…」
「言いたいことは言っておかないと、お前はどこに行くかわからない」
「今更どこにも行く気なんて…」
「もうええって」
これ以上のお喋りはいらない、と山崎は相良の首元に顔を埋めたのだった。



「また来るから、しっかり養生するんやで」
翌日の朝早くまだ薄暗いなか、山崎は脱ぎ捨てた衣服に袖を通しながら告げた。着の身着のまま気だるげにその様子をぼんやり見ていた相良は
「また来るて…お城の警備があるんやろう?」
「暇を見て抜け出す。お前のこと放って置かれへんし、何しでかすかわかれへん」
「はは…すっかり過保護やな…」
相良は山崎が一度決めたことをなかなか曲げないのを知っていたので、彼が『また来る』というからには本当にやってくるだろう。
(俺は…ほんまは、それが少しだけ嬉しい)
人生の最期を迎えようとしているのだから、それくらい甘やかされても良いだろう。
山崎と一晩を過ごし、相良は自分自身に課していた柵のような枷のようなものが無くなって、あと少しの余生を思うまま自由に過ごしたいと思うようになっていた。もう何もかも山崎の前でつまびらかになってしまったのだから本心を隠したって仕方ない。
「…わかった」
「ああ」
山崎は相良の返答に満足し着替えを終えて傍に腰を下ろすと
「もし戦になって都を離れることになったら…お前も一緒に来い」
と言い出した。
「…一緒にって、阿呆を言うな。俺は瘡毒でもう手の施しようもあれへんし…新撰組の足手まといに決まってるやろ」
「何人か瘡毒の隊士がおるし、もっと重病人もおる。一人増えたところでかまへんやろう」
「…烝も偉なったもんや」
相良は非現実的だと聞き流そうとしたが、山崎は真剣だ。
「いざとなったら…その時は俺が看取ったる」
あまりに真摯な眼差しで告げられ、相良は言葉を失う。
「…」
「もう、縁起でもあれへんって笑われへんやろう。あと少ししか一緒におられへんなら、俺は飽くほど直の傍におる。なんべんでも抱く。…それが埋め合わせになるわけはあれへんけど、直が俺に尽くしてくれたことへの礼や。無理でも無茶でも…ずっと一緒におる」
山崎は相良の額を撫で、そのまま耳の輪郭へ這わせた後に笑った。
「…顔が赤い」
「当たり前やろう!そんな…み、耳が腐るようなこと突然言うな!」
「失礼な奴や。…まあええ、直は何にも心配せずに俺を待っとってくれ」
山崎は相良の頬をピンっと指先で弾くと、「行ってくるわ」と未練を断ち切るように立ち上がり別れを告げた。
相良は刹那、彼を見送る時の痛みを感じたが、しかし彼はまたここに来ると誓ったのだ。約束を違えるような男ではないことをよく知っている。
「…行ってらっしゃい」
何度も彼を見送り続けて来た。けれど「行ってらっしゃい」と口にしたのは初めてで、それはなんだかくすぐったいような不思議な心地だった。











830


山崎が相良との再会を果たした頃、斉藤は南部診療所を訪ねていた。
いつも患者で溢れかえり慌ただしいが、今日はより一層せわしない。斉藤が入り口で様子を窺っていると、「斉藤様」と通りすがりの加也に声を掛けられた。
「…すまない、いまは山口と名乗っている」
「そうでしたか。では山口様…何か御用でしょうか?申し訳ありませんが南部は外出中です」
「いや…忙しいのか?」
患者の数は落ち着いているようだが、南部の弟子たちがあちこち動き回っている。心なしか物が少なく寂しくもあった。
加也は苦笑した。
「近々、この診療所は畳むことになるでしょうから皆、暇を見て荷物をまとめているのです。この先南部に従う弟子もいますが、これを機に故郷へ戻って診療所を開く者や、江戸や長崎へ行って学ぶ者、残念ながら志半ばで医者の道を諦める者…皆、選ぶ道は様々です」
「…そうか」
戦が目前に迫れば武士でなくとも思うところがあるのだろう。加也は残念そうにしていたが、これもまた世の流れというものかもしれない。
「沖田さんでしたら奥の病室でお休みになられています。土方様は一度屯所に戻られました」
「…まだ目を覚ましていないのか?」
「ええ、よく眠っていらっしゃいます。でもそろそろ目を覚まされる頃かと思いますが」
「…待たせてもらっても?」
斉藤の申し出に、加也は「どうぞ」とあっさり了承した。彼女の案内で静かな病室に通されると、総司はまだ深く眠っていた。
「茶をお持ちします」
「いや、構わなくていい」
「かしこまりました。…もし目を覚まされましたらお知らせください」
加也はそう言い残すと去っていく。
診療所の慌ただしさが嘘のように静かな病室に、小さな寝息だけが繰り返している。吐血して意識を失ったあとは酷く青ざめていたそうだが、今は回復して顔色が良くなっていた。
「…」
こんな静かな場所に二人きりでいると、まるで外の喧騒から隔離されたようで時間の流れが急にゆっくりになる気がした。けれど考えることはやめられない。
(二条城へ入って、そのあとは…)
大坂で決戦となるのか、はたまた上様は戦を避け続けるのか…どちらにせよしばらくは総司は戦線を離脱することになるだろう。
斉藤は無意識に鞘の組紐に手をやった。御陵衛士に加わって新撰組を離れてから癖になったが、そうして目を閉じていると昂ったものが抑えられるような気がする。
「…斉藤さん…?」
掠れたか細い声が聞こえて目を開ける。総司は薄く目を開けて穏やかに微笑んでいた。
「ここは…南部先生の…?」
「ああ。具合はどうだ」
「…まあ、良くはないです」
診療所まで運ばれたのだから率直な感想だろう。
総司は辺りを見回して、
「…土方さんがいたような気がしたんですが…」
と尋ねた。
「少し前に屯所に戻ったようだ。俺は今来た」
「そうでしたか…何か用件が?」
「…用件がなければ来ないとでも?」
総司に覇気がないので、つい嗾けるように尋ねると彼は少し驚いたあとに苦笑した。
「だってお見舞いなんて、斉藤さんらしくないし」
「…見舞うことくらいある」
「じゃあただのお見舞いですか?」
「…話はある」
総司は「やっぱり」と笑った。総司の言う通り、近藤から頼まれごとがなければ足を運ばなかっただろう。屯所でやきもきしながら彼の帰りを待っていたはずだ。
斉藤は加也を呼びに行く前に近藤から託されたことを彼に話しておきたかった。
「…明日から新撰組は二条城へ入ることになった。老中から直々のご命令で、警備を務める」
「二条城…光栄なことですね」
「局長は、あんたには醒ヶ井の妾宅で療養してほしいとお考えだ」
斉藤は端的に伝えた。どう飾っても誤魔化しても彼には同じ言葉のように聞こえるだろう。
総司は刹那瞳孔を開いたが斉藤から視線を外し、少し黙った。そしてゆっくりと目を閉じて噛み締めるように唇を閉じた。
「…わかりました」
「…」
近藤は総司が納得せずにゴネるだろうと言っていたが、彼はそうせずに苦い現実を飲み込むようにゆっくりと受け入れた。斉藤はその様子を見て
(少しくらいゴネてくれた方がマシだな…)
と思った。
聞き分けが良いのではなく、その気力がないのだとしたら単純に安堵できない。そのくらい具合が悪いのかもしれない。
「…人を呼んでくる」
斉藤は一人になりたいだろうと気を利かせたが、総司の手が伸びて袂を掴んだ。
「いえ…もう少しいてください」
「…副長じゃなくても良いのか?」
「ハハ…ここには斉藤さんしかいないじゃないですか」
何を言っているんだと総司が笑ったので、斉藤は座り直した。
「…私だって近藤先生のお立場なら同じことを言いますよ。前日に喀血して倒れたのに二条城に連れて行けません」
「それは…そうだが」
「妾宅かぁ…お孝さんの手を煩わせるのは申し訳ないけれど、お勇ちゃんに会えるのは悪くないですね…」
斉藤には総司が自分を納得させるために明るく振る舞っているようにしか見えなかったが、だからと言って自分に何が言えるのかはわからない。彼の無念は誰にもわからないのだから。
袂を握っていた総司の手が、今度は斉藤の膝下に伸びた。
「そんな顔しないでください」
「…どんな顔をしていた?」
「私より落ち込んだ顔です。…すみません、近藤先生に頼まれたんですか?それとも土方さんに?」
「局長だ。副長からは…何も」
「…そうですね、私も土方さんから聞いていたら…ムキになって反発していたかもしれない。さすが近藤先生です」
「…」
斉藤は言葉が紡げず、また総司も口を閉ざしてしまった。
陽が傾き、橙色の夕日が部屋に差し込んだ。否が応でも一日の終わりを感じながら、この沈黙に身を任せていた。
「……斉藤さん」
「なんだ?」
「喀血して意識を失うと…とても遠い場所に身を置いているような感覚があって、だから目が覚めて誰もいないと本当にどこかに行ってしまったように感じるんです」
「…」
「だからさっき、斉藤さんがいてくれて安心しました。ちゃんとここに帰ってきたんだなと思って…ありがとうございました」
総司はまた穏やかに微笑んだ。目を覚ました時に同じ表情を浮かべていたのは『まだ生きていた』という安堵感だったのだろう。彼は孤独と恐怖を何度も繰り返しているのだ。斉藤は何と答えたら良いのか悩んだが、彼を前に本心を伝える以外に選択肢はない。
「心配するな。必ず戻って来られる」
「…はい」
総司が頷いたので斉藤は「人を呼んでくる」とようやく総司の傍を離れて部屋を出た。


その夜、出陣の支度を終えて土方は近藤の部屋を訪れた。
「総司は俺の妾宅で養生させる。総司も了承した」
近藤が告げると、土方は一瞬驚いたが
「わかった」
と頷いた。あまりにあっさりとしていたので近藤は思わず
「…良いのか?」
と確認してしまった。
「総司が納得したのなら何も言うことはない。二条城は御所にも近いし、いつ新政府の標的になるかわからない。万が一戦になれば籠城戦だ…病人が養生できる場所じゃないだろう」
「…冷静だな」
「会えなくなるわけじゃない」
それが土方の冷静な判断なのか、強がりなのか、あるいはそのどちらともなのかはわからないが、近藤はそれ以上は追及しなかった。
「わかった。お孝やおみねさんには話を通してある。他の怪我人や病人は警備要員として屯所に置いていこう」
「ああ」
土方は短く答えると肘を立て「もう休む」と言ってさっさと部屋に戻っていってしまった。
師走の夜は早々に陽を飲み込んでいった。




















解説
なし


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