わらべうた
831
慶応四年十二月十三日。
王政復古の号令から四日が経った。慶喜公は自らを「上様」と名乗り、幕府が廃止されてもその立場を継続する意向を仄めかしながら、会津・桑名藩とともに大坂城へ退去した。また薩長らの強硬な手段への反発から、土佐藩の公議政体派が巻き返しを画策し、一部の藩からは薩長へ御所からの軍隊引揚を要求する動きも出始めた。そこで新政府側は辞官納地に応じれば慶喜公を新政府軍に参画させ、待遇を改める提案を行わざるを得ない事態となり、旧幕府側の状況は好転し始めていた。
そんななか新遊撃隊を返上した新撰組は二条城へ警備へ向かった。不在の城の留守を任せる…名誉ある任務に揚々と向かったのだが、無人のはずの城にすでに先客がいた。
「どういうことだ?」
眉間に皺を寄せた近藤が隣を歩く土方に視線を向けるが、土方は厳しい表情のまま新撰組とほぼ同じ規模の一隊が鎮座しているのを見据えた。彼らは戦支度を整え、幕府が無くなっても尚威厳を保つ『三つ葵』が堂々とはためかせていた。
「あれは…水戸か?」
「…そのようだ」
二人は怪訝な表情で顔を見合わせる。嫌な予感がしていた。
近藤は隊士たちにその場で待つように告げて、土方とともに近づくと水戸側から隊長と思しき男が品定めをするように不遜な態度で出迎えた。
「おめたちは…新撰組か?一体何の用だ?」
「新撰組局長、近藤勇である。老中板倉勝静様のご下命で二条城の警備に参った」
近藤が堂々と返答すると、男は「はっ」と鼻で笑った。
「拙者は水戸藩士、長谷川清である。二条城の警備は我々水戸藩士が仰せつかっている、何かの間違いであろう」
「間違いはない。このようにご老中の書面が手元にある」
土方は懐から直筆の書付を取り出したが、長谷川と名乗る男はそれに見向きもせずに吐き捨てた。
「ご老中のご下命だろうと、関係はない。…我々は上様から直々に城を守るように命じられたのだ」
「上様に…?!」
「…無頼の新撰組であろうとも、上様と老中のどちらのご命令が上になるかはお分かりか?」
「っ…!」
嘲笑を含んだ物言いに土方は声を荒げそうになったが、近藤がその腕を引いた。
「歳」
「…悪い」
土方はぐっと苛立ちを飲み込んだ。もちろん近藤も憤っていたが、唇を噛んでどうにか堪え
「申し訳ないが、こちらもご老中のご命令故に簡単に引き下がれぬ。確認して参ろう」
と告げたが、長谷川は「その必要はない」と突っぱねた。
「よくよく考えてみよ。上様のお城であるこの二条城を、上様のご出身である水戸が守るのは道理であろう。…お分かりになったのなら引き揚げられよ!そもそもここは浪人の類が足を踏み入れるべき場所ではない!」
長谷川の声は高らかに響き、水戸側から新撰組を嘲笑する声さえ聞こえた。それに対して新撰組隊士たちもカッと熱が上がり皆が身構えた。
「引き揚げよ!」
長谷川の怒号に、土方はついには耐えられなくなった。
「…でしたら、よほど頼りないのでしょう。無頼の新撰組が貴殿らの加勢のために差し向けられたのですから」
「何…っ!」
土方は感情を抑えながら悪態をついたが、それが逆鱗に触れたのか長谷川が「壬生狼風情が!」と怒鳴ったことで、水戸の兵たちが駆け寄り両軍はにじり寄る。
「おいおい、やるのかァ?!」
原田は挑発するように声を上げ槍を構えた。傍らにいた永倉は「やめておけ」と制するが、水戸からは
「去れ!」
「無礼者が!」
と怒号があちこちに響き渡り、それが新撰組の野次と重なって一触即発の雰囲気になってしまう。
するとそこへ
「待たれよ!待たれよ!!」
と旧幕府若年寄の永井尚志が飛び込んできた。永井は二条城に留まっていたようで騒ぎを聞きつけて慌ててやってきたのだろう。永井は近藤とはともに長州視察へ向かった旧知の間柄である。長谷川や水戸藩士たちも熱が下がり、両軍はサッと距離を取った。
永井は近藤と土方を手招きした。
「永井様、これは一体どういうことでしょうか…?」
「うむ、上様からのご下知があったのは間違いない。大坂へ下られる前に水戸藩士に二条城を守護するように命じたそうだ。…おそらく板倉様との疎通ができていなかったのだろう。他意はないはずだ」
「…そうですか…」
近藤は落胆した。突然の政変により、大坂と都との間で命令系統が混乱しているのだろうと推察はできるが、将軍の城を守ることができる名誉に喜び勇んでやってきたのだから、ショックは大きい。
永井は続けた。
「近藤、御所では徳川復権に向けた動きが出始めているところだ。この城は御所の目の前…水戸と無駄な揉め事を起こして上様の足を引っ張るのは本意ではあるまい。…すまないが、ここは一旦退いてくれないか?」
「…それはできません」
「近藤!」
意固地な返答を永井は諌めるが、近藤は首を横に振った。
「永井様、我々は水戸の配下でも構わないのです…!この二条城を御守する重要さは理解しております。ですから我々は御所から兵が押し寄せれば籠城する覚悟で参ったのです!」
「…!」
「どうかこのまま警備の任を続けられるよう、仲介していただけませんか?」
(かっちゃん…)
近藤が永井に頭を下げる様子を見て、土方はふつふつと沸きあがっていた苛立ちが急に消え失せた気がした。あれほどあからさまに見下され、蔑まれたにも関わらず、その配下でも構わないと懇願する姿はまさに忠誠の塊でしかない。
永井は感嘆しながら頷いたが、
「…その心意気は素晴らしいが、今更水戸の配下とはいくまい。上様のご命令である以上、ここは水戸に任せるべきだろう」
「…しかし上様が去り、会津公が京都守護職を解かれ、さらには二条城を御守することが叶わないのなら最早、都に留まる意味はありません…!」
引き下がることは簡単にできる。しかし新遊撃隊を離れた新撰組には身の置き場がない。悲壮感漂う近藤に、永井は手を差し伸べた。
「だったらともに下坂しないか?」
その提案に近藤はハッと顔を上げた。
「大坂へ…?」
「私は明日より大坂へ向かう。…万が一戦が起きれば主戦場は大坂に違いない。新撰組の兵力は無人の城の警備ではなく、戦場で発揮されるべきだと思うが、どうであろうか?」
「勿論です!是非ご同行させてください!」
近藤は即答した。土方も異論なく話はまとまり水戸への憤りを抱えながら新撰組は一度帰営することとなった。
ひと悶着あった二条城から引き返して一旦屯所に戻ることとなり、山崎は近藤や土方の後ろを歩いていた。隊士たちにも二条城の警備から外れた落胆はあるが、それよりも大坂へ向かうことに目を向けている。
(それにしても…なんや竜宮城におった気分や…)
山崎はぼんやりしていた。たった一晩で新撰組の組長という立場に戻り、元の仕事をこなしている自分には苦笑するしかない。
今朝方、二条城へ向かう前に屯所に帰営した際、相良と再会を果たしたことを土方に報告すると
『肩の荷が下りた』
と少し安堵の表情を浮かべていた。相良のことは半年ほど気にかかっていたそうだ。
『相良の具合を知れば、お前は戻って来ないかもしれないと思っていた』
『…まさか。脱走の罪は切腹やって一番よう知ってます』
『それで、相良と心中してもおかしくはないだろう?』
『ハハ…』
山崎は核心をつかれたので、曖昧に笑って聞き流した。確かに昨日、相良に再会した時の衝動ならその道を選んでもおかしくはなかったのだ。
(直には二条城に行くて大袈裟にゆうて別れたのに、こんなに早うに撤退するのはなんやら格好がつかへんな…)
「山崎組長」
考え事をしているとどこからともなくやってきたのは監察の大石だった。浪人風の格好に身を包んだ彼は自然と隊のなかに混じり、早速山崎に耳打ちした。
「…なに?ほんまか?」
山崎が尋ねると大石は頷く。無表情故に判別しづらいがその表情には確信があったので、
「わかった、俺から副長に報告する」
と返答すると、彼はまた姿を消した。隊士たちの半数以上は彼の存在に気が付いていなかっただろう。すっかり監察方らしい振る舞いを身に着けた大石に感心しながら、山崎は前を歩く土方に元へ向かった。
「副長、宜しいですか?」
「…なんだ」
水戸との騒動でまだ怒りが鎮まり切らないのか不機嫌な様子だったが、山崎は慣れていたので構わず小声で報告した。
「ある隊士に間者の疑惑があります」
土方は不機嫌な眼差しを一変させて、鋭く山崎を見据えた。
「…長州か?薩摩か?」
「それが…」
聞かれては困るとさらに声を潜めると、土方は「そうか」と重く呟いて腕を組んで思案したあと、
「この件は大石に任せる」
と言った。
「それは…」
「お前には別のことを任せる。…それに監察じゃないくせに仕事を抱え過ぎだ、お前には率いるべき組下がいるだろう」
「…承知しました」
土方の言う通り戦支度をするのに組長が不在では部下が困るのも当然だが、遠回しに相良のことで気遣われているのだろうと思った。
(やっぱ、全然怖ないな…)
鬼だと揶揄されても、山崎にとって土方は少々気難しいが有能な上司でしかなかった。
(ウマが合うちゅうんは、こういうことかもわかれへん)
832
回復した総司は近藤の妾宅に向かう前に荷物をまとめるために屯所に戻ったのだが、その時、ちょうど二条城へ向かった近藤や隊士たちが帰営した。
近藤から事情を聞き、城を水戸に任せて引き下がったのは仕方ないと思ったが、
「…大坂ですか…」
新撰組が永井とともに大坂へ向かうことを知り、心が揺れた。妾宅から遠く、ますます取り残されてしまう…その落胆が表情に出ていたのだろう、近藤は総司を慰めるように総司の肩を叩いた。
「心配するな。戦に勝利すれば我々はまた都に戻ることになるだろう。…その時までにしっかり養生しておくんだ」
「…」
すぐに納得してわかった、とは口にできずに総司が俯いたところに土方がやって来た。土方は総司を一瞥したが、その表情は固い。
「…近藤局長、やはり新撰組を挙げて大坂に向かうのならこの屯所は放棄するものと考えるべきだ。不在時に戦になれば瞬く間に占領される…負傷者だけでは守りきれない。彼らは別の場所に移すほうがいいだろう」
「…やむを得ないな。南部先生にご相談してみよう」
近藤は躊躇いながらも頷いた。この不動堂村の屯所は近藤にとってこれまで積み上げてきた功績の証であり城であったので、僅か半年ほどで手放すことになるのは無念でしかない。土方もその心情は理解していたが、敢えて感傷に浸らず
「小荷駄方に荷物をまとめるように指示を出す。準備ができたらすぐに出立だ」
と淡々とせわしない様子で去っていった。二人はいくらかの無念さを滲ませながらも、次なる新天地に目を向けている。しかし妾宅で養生するしかない総司には虚しさしかなく、離れ難い。いまだ新築の匂いが漂い、使っていない真っ新な部屋さえあるというのに。
「…ここにも、もう戻れないんですね…」
総司はさらに寂しさが募る。仕方ないとわかっていても、突然の出来事に心が付いていかずに置いてけぼりだ。
しかし近藤は前向きで
「大丈夫だ。また出世したら俺たちの新しい城を築けばいいんだからな」
と励ました。近藤自身もそうやって自分を慰めているのだろう…総司は少しだけ微笑んで頷き、忙しい近藤の傍を離れて自室に向かった。床に臥す時間が増えてからはこの自室で過ごす時間は長かったため愛着はあったが、同時に悔しさと苦しさも感じる場所だ。この屯所ではほとんどを病とともに過ごすことになったが、それでも自分たちだけの誇らしい居場所だった。
(僕も近藤先生のように、心機一転の気持ちにならないと…)
気落ちする自分はどうしても誤魔化せないが、せめて戦地へ向かう近藤や土方、食客や隊士たちにこれ以上心配をかけまいと思った。
総司は今までの思い出を詰めていくように、荷物を行李にまとめる。荷物が少ないのですぐに片付いてしまい手持無沙汰になったが、部屋の外では急な引っ越しのようにバタバタと隊士たちが忙しく駆け回っているのが聞こえてくる。
(ここで腐っていても仕方ない。…何か手伝いをしよう)
そう思った時、声掛けもなく突然部屋に土方がやって来た。先ほどの厳しい表情を崩さずそのまま真っすぐに総司のもとへ向かい抱きしめた。
「…ひじ、」
「言っておくが、今日を今生の別れにするつもりはない」
土方は断言し、総司の輪郭を両手で包み込んで上向かせた。
「歳三さん…」
「大坂に向かうがまだどうなるかわからない。戦になれば都が戦場になるだろう。…必ずお前を迎えに行く、何があってもお前を置いていきはしない」
何も話していないのに、土方は総司の心のうちなどすべてお見通しだと言わんばかりに言葉を並べて不安を取り除く。そしてそのまま食らうように総司の唇に自分のものを重ねた。
「…っ、」
息もつかせぬ深い口づけだった。総司は土方の背中に手をまわして応え、言葉にできない離れがたい気持ちを彼に伝えた。
「……歳三さん…」
「今すぐ…お前を連れてどこかに行きたい…」
「…!」
土方が誰にも聞こえないような小声で呟いたのは、紛れもない本音だろう。当然土方にも動揺があってもしかしたら総司にさえ伝えたくはないものだったかもしれない。しかしその彼の『弱さ』は総司も同じだった。
「…私も…あなたと、ここで…死ねたらいいのに…」
離れ離れになってしまうくらいなら、ずっと寄り添いたい。それが死ぬことしかないのだとしたらそれでもいい―――今までのすべてを擲つ激情が込み上げるくらい、離れ離れになることが苦しくて仕方なかった。
土方は少し顔を歪ませたが、すぐに「馬鹿なことを」と言ってもう一度強く抱きしめた。そして首筋に顔を寄せながら
「本当はここで押し倒したい」
ため息混じりにつぶやいた。
「…ハハ、皆に見られますよ」
「構わねぇ」
「でもそんな趣味ないでしょう?」
「まあな…」
互いに本音を明かした照れくささを誤魔化すように普段のやり取りを交わしようやく落ち着いた。
「…とにかく、お前は余計なことを考えずに待っていろ。妾宅には山野を置いていく」
「…わかりました」
総司はそう答えることでようやく心からこの現状を少しだけ受け入れることができた気がした。
彼の匂いや温かさ、その鼓動や吐息さえ総司にはすべて惜しいものに思える。本当はそれくらい別れ難かったが、ゆっくりとそのぬくもりから離れた。
「…歳三さんも忙しいでしょう。私に構わず準備をしてください」
「ああ…お前は近藤先生を手伝ってやれ」
「そうします」
土方は背中を向けて部屋を出ていった。彼がいなくなった後、総司はしばらくぼんやりと立ち尽くしていた。
人気のない裏口で、山野は二人分の荷物を荷車に乗せた。総司が彼がせっせと働くのを眺めながら
「ねぇ山野君、土方さんは私に同行するように命令したみたいですけど、君の本意ではないなら一番隊に戻っても構わないんですよ」
と声をかけた。以前、戦になれば医学方ではなく一番隊として働くように伝えていたからだ。
しかし山野は「いいえ!」と拒んだ。
「もちろん戦になれば最前線に駆けつける心づもりでおります!でも、大坂は近いですからすぐに駆けつけられますから、それまではどうか、僕は僕にしかできないことをさせてください」
「…でも島田さんは…」
「先輩も同じようにおっしゃっていました!」
「…」
山野は笑みを浮かべるが、その目元は少しだけ赤く腫れているように見えた。山野にも葛藤があったはずだが、彼なりに覚悟を持っているのだとすれば何も言うべきではないだろう。山野は荷物を落とさない様に紐で縛り「よし!」と満足げに頷いた。
「先生!荷物はまとまりました。そろそろ皆は大坂へ出立だそうですからお見送りに参りましょう」
「…そうですね」
総司は山野とともにすっからかんになった屯所をあちこち眺めながら、皆が集まる正門へと向かう。屯所中の武具などの軍需品が何台もの荷車に乗せられ、武装した隊士が揃う様子は物々しく、総司に『戦』の実感が芽生え少し身震いしたが、それをほぐしたのは「先生!」と駆けつけて来た少年小姓たちだった。
「先生…あの、お身体は宜しいのですか?」
銀之助が遠慮気味に訊ねたので、総司は「心配ありません」と笑って見せると他の少年たちも安堵した。早速威勢の良い泰助は口を窄ませて文句を言った。
「俺たち、負傷者と一緒に別の場所で待機らしいです。足手纏いだって」
「泰助、仕方ないだろう。役立たずなのは本当のことだよ」
「あーあ。銀がそうやって聞き分けが良いから連れて行ってもらねぇんだよ」
優等生の振る舞いを崩さない銀之助に対して泰助は不満そうだが、鉄之助は
「役立たずなのは本当のことだから仕方ない。だからもし戦になったら必ず連れて行ってもらえるように鍛錬に励むしかないんだ」
と二人を諫めた。三人は同じくらいの齢だが、市村は頭一つ剣士として成長しているようで、総司には微笑ましい。
「三人とも、毎日鍛錬を続けて来たるときのために準備を怠らないように。今度会った時はちゃんと強くなっているんですよ」
「そうだぞ!お前たち!」
総司の背後からやって来たのは原田と永倉だった。原田は威勢の良い泰助の頭をガシガシと乱暴に撫でる。
「もし襲撃に遭えば戦えるのはお前たちだけだ。心して待機してろよ!」
「局長と副長がお前たちを探していたぞ」
永倉が小姓たちに伝えると、彼らはハッと表情を引き締めて「じゃあ!」と去っていく。若い彼らに状況が分かっているのかわかっていないのか、まるで明日も会えるような気軽さで手を振って行ったので、総司はなんだか気が抜けてしまった。永倉と原田も同じだったのか「まったく」と苦笑していた。
「なんだか二条城では大変だったそうですね」
「おう、水戸の奴らとあと少しで一戦交えるところだったぜ。準備は万端だったんだけどなぁ」
「永井様のおかげでそうならずに済んだ。…近藤先生の妾宅で養生するそうだな」
「ええ…本当は一緒に大坂へ向かいたかったんですが」
「まあ、また出番はあるって!」
原田の明るい励ましは単純明快で妙な説得力がある。永倉は神妙な顔をしていたが、総司は「そうですね」と頷いた。
忙しい支度の最中で、すぐに二人は近藤に呼ばれた。すると去り際に原田が強く総司の肩を叩き、永倉は何度か頷く…それだけで彼らが言いたいことは理解できた。食客はすっかり少なくなってしまったが、やはり彼らが別格で信頼できる存在であることは間違いないのだ。
総司は二人の背中を見送った。長く共に暮らした彼らに勇気づけられ、ぽっかりと空いていた心の穴が少しずつ埋まっていくように感じた。
隊士たちが組長の元へ集い、出立に向けて列を成し始めるなか、総司は後方に池月を見つけた。池月は数年前近藤が賜った獰猛な馬で、一時は総司にしか懐かず周囲は手を焼いたが今は馬術指南の安富のもとで随分調教されて落ち着いていた。総司が山野に断って池月の元へ向かうと、すぐに鼻を鳴らして反応した。
「池月、皆を頼むよ」
総司が触れると身を任せるように目を閉じ、意思疎通ができたのか「ブルルル!」と返事をした。総司が目細めながら鼻先を撫でて別れを惜しんでいると
「相変わらず懐いているな」
と斉藤がやって来た。
「もう支度は終わったんですか?」
「ああ、そろそろ出立だろう」
「そうですか…一番隊の皆をよろしくお願いします」
「言われなくとも、今はもう俺の配下でもある。…何も心配せず妾宅で休んでいたらいい。いつかその時が来たら新撰組に合流できる」
「土方さんと同じことを言いますね」
総司が笑うと、斉藤はため息をついた。
「この期に及んで副長と同じだと言われるのは心外だな」
「ハハ…土方さんと斉藤さんは似ているんですよ。悪役を引き受けて厄介な仕事を引き受けちゃうところとか、不愛想だけど面倒見がいいところとか」
「…そうだな、似ているから同じ人を好きになったのかもしれない」
斉藤が思わぬことを言ったので、総司は唖然とした。あまりに突然だったので空耳かと思ったくらいだ。
「…はっきり言いますね、斉藤さんらしくない」
「言いたいことは言っておく方が良いだろう。今更隠すことでもない」
斉藤は表情を崩さず自分事なのに他人事のように語る。そのせいか総司も穏やかな気持ちのまま微笑んだ。
「そうですね…私にとって斉藤さんは友人というよりも親友に近いのかもしれません。斉藤さんには不本意かもしれませんけど、でも私にとってそういう存在は貴方だけですから、特別です」
斉藤は少し唖然とした後に苦笑した。
「…とうとう振られたな」
彼は幾度となく好意を示していたが、総司は曖昧にしか答えていなかった。もちろん総司の態度で答えなどわかり切っていたのだろうが、それでも彼は晴れ晴れとした表情のまま続けた。
「朋友は六親に叶うという言葉を知っているか?…あんたにとって家族と呼べるのは局長と副長なのだとすれば、俺がその次だというのは…悪くない話だ」
「…きっとその通りです。どうか私の家族をよろしくお願いします」
「ああ、わかった」
斉藤が頷き、「戻る」と告げて背中を向けて去っていく。別れの言葉はなく、その颯爽とした姿には憂いや未練などまるでない。
(斉藤さんのようになりたかったな…)
どんな時でも手折れず真っすぐに進む姿は淀みない意思を示し、それは周りの人間を巻き込んでいく。何も語らずともその後姿についていく者は多いはずだ。
やがて近藤が出立を告げて総司や小姓たち、負傷者を残して屯所を出ていった。総司が見送ると土方と目が合ったが、彼は頷くだけで何も語らずそのまま前を見据えた。
(僕は祈ることしかできないけれど)
真冬の師走、大坂へ向かう門出のその時に厚い雲の合間から青空が覗いていたことは、明るい兆しになるのだろうか。
「先生、行きましょう!」
「…ええ」
山野が離れがたい総司の背中を押した。
833
十二月十四日。
後ろ髪を引かれながら永井とともに下坂した新撰組だったが、途中の天満宮に寄宿したところでその行き先が変わった。
「…伏見ですか?」
永井は申し訳なさそうに顔を顰めながら手を合わせる。
「すまない。新撰組の処遇について先んじて大坂城に使者をやって上に相談したところ、伏見に布陣せよと上様のご下知があったのだ。散々振り回して申し訳ないが、すぐに伏見に向かってくれないか」
伏見は都と大坂を結ぶ要所であり、既に会津や桑名の兵が布陣している。
近藤は深く頷いた。
「上様のご命令とあらば是非もありません。それに鳥羽の街道と伏見奉行所は戦が起こった場合の要となりましょう。我々は喜んで馳せ参じます」
「そうか、頼む」
永井は安堵した表情を浮かべて、「私は二条城へ戻る」と早速別れた。永井も刻々と変わる戦況に混乱しているのだろう。
上司を見送って近藤は足を崩し、成り行きを黙って見守っていた土方に視線を遣った。
「慣れぬ大坂で戦に挑むより、少しは慣れた土地である伏見で布陣する方が我々もお役に立てるはず…そうだろう?歳」
「ああ、悪い話じゃない」
永井の言ったとおり新撰組は錯綜する命令に振り回されているわけだが、近藤の表情は晴れ晴れとしていた。土方も考えは同じで城に籠って手持無沙汰になるよりは、会津とともに戦場の最前線に置かれる方がましだ。
(…もっとも、上様は俺たちのような無頼者を城のなかに入れたくなかったのだろうが)
二条城を所縁のある水戸に任せたのも、身内しか信用できないという上様の考えが顕れているともいえる。しかしそんなことに近藤が気が付くことはなく、「皆に告げて来よう」と揚々と出ていった。
土方も立ち上がり、隣室にいる山崎に声をかけた。話は筒抜けだっただろう、山崎はすでに土方が何を言うのかわかっている顔をしていた。
「仕事だ。先んじて伏見に入り、偵察しろ」
「了解しました」
山崎は表情を変えずに頷いて寄宿舎を出て行った。
伏見行きは明日の早朝に決まり、原田は遅い夕食の握り飯とともにちびちびと酒を飲んでいた。
「どうした?」
「…ん?」
「お前にしては大人しい」
永倉は原田の隣に腰かけた。二条城の警備の任を解かれ不動堂村から慌ただしく出立し、大坂城まであと少しというところで伏見へ引き返すように通達され、さぞご立腹かと思ったが原田は口答えはしなかった。
「…うん、まあ…近藤先生の言ったとおり、お偉いさんが揃う堅苦しい大坂城に入るよりは伏見の方が気が楽だなと思ってな。大荷物を運ぶ小荷駄方の奴らには可哀そうだが」
「気が楽って…お前がそんなことを気にするなんて、熱でもあるのか?」
「そんなもんねぇよ。今夜は寒くて体が凍えるくらいなのに」
盆地の都から離れ、少しだけ寒さは和らいだものの師走であることは変わらない。
原田は手元の猪口を指先でゆらゆら回しながら、寂し気に口を開いた。
「俺はちゃんと生きて帰れるかって思ってな…」
「…本当にどうしたんだ?冗談か?」
「冗談じゃねえよ。俺は昔一度切腹して生き返ったからさ、絶対に死にはしないって思ってたけどな…平助もこの世にはいない、今の俺には生き残れるのか確信が持てない。だから…俺、総司が羨ましいって思っちまったんだ。戦に出ず、都に残ってさ…」
「お前!」
永倉はカッとなって声を上げ彼の肩を強く掴んだが、周囲には疲れ果てて休む隊士たちがいる。組長同士の喧嘩で彼らを動揺させないために、咄嗟に口を噤んで声を潜めた。
「…っ、お前にだって総司の無念がわかるだろう?よくそんなことを…!」
「ああ…ああ、そうだよ、俺は最低だよな。だからさ、こんな最低でどうしようもない男はここらで野垂れ死んだ方が良いかもな…」
「…どうしたんだ…怖気づいたのか?」
余りに原田の様子がいつもと違うので、永倉は彼の失言への怒りがすっかり消え一体何があったのかと驚いた。すると原田は手にしていた酒を一気に飲み干して「はぁぁ」と深いため息をついた。
「ああ、怖気づいたさ。…なんたって、茂の成長だってまだまだ見届けてぇし、おまさちゃんの腹ァにはもう一人いるんだぜ…」
「な…なに?」
原田の告白に永倉は唖然とした。
「ほ、本当なのか?近藤先生や土方さんには…」
「この情勢でおまさちゃんは言い出せなかったみてぇだ。でもついに大坂に行くって言うんで、永久の別れになっちまうかもしれねぇから教えてくれたんだ。…近藤先生には伝えてない、土方さんには…ハハ、伝えたところで戦から逃れられるはずもねぇんだ、言ったところで意味がねぇよ」
「…」
どうしようもない現実を前に落胆する原田に、永倉は掛ける言葉が見つからない。どんなに喜ばしい懐妊であっても、もしその子の顔を見ることができなければ原田の心残りになる。戦を前に怯むのは組長として欠格でも、父親としては間違っていないだろう。
原田は続けた。
「…おまさちゃんのほうがよほど肝が据わってるぜ。俺が生き残って帰ってくるのを待つってさ…まったく俺の嫁にするにはもったいないいい女だぜ」
原田は揺れ動く本心を誤魔化すように少し笑ったあと、
「小常ちゃんは?なんて言ってたんだ?」
と永倉には話を振った。永倉は深いため息をついてどう答えたら良いのか迷ったが「小常は死んだ」と答える。原田はゴホッと喉を詰まらせて激しい咳をしたあとに
「ハァ?!」
と遠慮なく大声を上げた。
「し、し、死んだって…いつの話だ?俺ァ何も聞いてねぇぞ?!」
「声を潜めてくれ、あまり公にしていないんだ。…死んだのは油小路の前くらいで、近藤先生も土方さんも知っている。娘を産んで肥立ちが悪くてな…娘は小常の姉が引き取って育ててくれているはずだ」
「……な、なんで隠してたんだよ」
「お前は平助のことで落胆していたし、言う機会が無かっただけだ。小常はもともと身体が丈夫ではなかったんだが、きっと俺が戦に行くなんてことに耐えられなかっただろう。それに娘だって…新撰組の永倉の娘じゃ生きづらい。今となってはこれで良かったのだろうと思う」
残してきた者たちを憂う原田と、ひと時の夢だったと言わんばかりに何もかもを手放していた永倉。永倉は淡々と語ったが、原田とは状況がまるで逆だ。
原田は肩を落とした。
「…そうか、俺だったら耐えられねぇよ。おまさちゃんや子どもたちに何かあったらなんてさぁ…」
「ああ、お前なら無理だ。だからお前は戦で勝っても負けても、生き残って家に帰るべきだ」
永倉は原田が傍らに置いていた握り飯を差し出して「食え」と言った。
「平助のことは俺だって消化できていない。小常がいなくなった喪失感も続いている。だが…こんなところで野垂れ死ぬつもりはないからな」
「…そうだな」
原田は握り飯を受け取って大きな口を開けてかぶりついた。
同じ頃。
赤子が泣く声が聞こえて、総司は目を覚ました。
(…お勇ちゃんか…)
近藤の指示で妾宅で療養することになった。妾の孝や世話人で彼女の祖母でもあるみねは歓迎し客間を自由に使って欲しいと申し出てくれた。
『たぶんお勇の方が皆さんにご迷惑をおかけするやろうと思います』
孝はそう前置きしていたが、早速遠く離れた私室からお勇の泣き声が聞こえた。それなりに離れていてもこれほど大きな声が響き渡るのだ。
「…元気だなぁ…」
「先生…目を覚まされましたか?」
隣室の物置で寝泊まりする山野はお勇の泣き声で起こされたようで瞼は半分閉じているように虚ろだ。総司は(山野君は赤子に慣れていないのだろう)と苦笑した。
「ええ、まあ」
「白湯でもお持ちしましょうか…」
「自分でできるから大丈夫ですよ。君は休んでください」
「はぁい…」
いつもは食い下がる山野だが、流石に疲れていたようで自分の寝所に戻っていく。その間でも泣きわめくお勇と優しくあやすお孝の声が聞こえ続けていて、総司は耳を澄まし目を閉じた。
(どんなに世の中が変わっても、ここには変わらない営みがあるんだな…)
生と死に向き合い続けて来たこの数年間忘れていた、和やかな暮らしがすぐそばにある。
眠るたびに自分が目を覚ますかどうかと疑心暗鬼になっていた自分にとって、お勇の泣き声はまだこの世界で生きていることを教えてくれるように響いていた。
834
明け方にボロ屋の立て付けの悪い扉がガラガラと開いて、相良は薄く目を開けた。何かと世話を焼いてくれている隣人の静がやって来たのかと思ったが、彼女ならこんなに遠慮がちにやってきたりはしないだろう。
「…烝?」
「ああ、起こしたか?ちょっと一仕事終えて顔見に来ただけや」
「見に来たって…」
相良はゆっくりと体を起こし、傍らに座っていた山崎の腕に触れた。どうやら夢でも幻でも、己の願望ないらしい。
「つい二日前に二条城に入るって言うとったやんけ」
「まあいろいろあってな…一旦、大坂に向かってんけど、この後は伏見に布陣することになった」
「伏見か…」
大坂より近いが、不動堂村の屯所ほど近くはない。相良は落胆したが、山崎の一存で決まることではないと重々理解していた。
「ついに戦か。武運を祈ってるから…」
「いや、ここは御所に近いし危ない。この先俺がここに来るんはややこしいし、万が一直の素性が敵方にバレたら命はあれへん」
「…命なんて…」
「とにかく、新撰組の怪我人や病人を匿うてる秘密の場所がある。土方副長には許可を得たからすぐに移動や」
「待て待て、俺は…」
隊士ではないどころか、協力者さえ降りた身分なのだ。今更どんな顔をして新撰組の世話になるというのか。相良は身を退いて拒んだが、山崎は相良の両肩を指先が食い込むくらいに強く掴んだ。
「ええから。…もうお前は隊士に等しい働きをしてるやろ。なんも遠慮することはあれへん」
「…でも」
「これ以上、拒むなら首に縄付けてでも連れていくで」
山崎の表情は強張り、冗談ではなさそうだ。しかしそれでもこのままここで静かに人生を終えようとしていた相良には受け入れ難い申し出だったのだが
「…頼む、俺のためにそうしてや」
と頼まれれば断ることができない。もはや自分の人生は山崎のためにあるのだから。
(俺もちょろいな…)
山崎に頼まれたら受け入れてしまう…相良はそんな自分に苦笑しながら、「わかった」と仕方なく頷いたのだった。
十二月十六日。
慶喜公はがアメリカ・イギリス・フランスなどの六ヶ国公使たちと大坂城で会談を行い、内政不干渉と外交権の幕府保持を承認させた。外交権を掌握することによってこれまでの立場を継続し、異国と手を組むことによって再起を狙うものだった。これにより徳川は再起の道を開こうとしていた。
そんななか、新撰組が伏見に布陣した―――御陵衛士の鈴木三樹三郎は酩酊状態であったが、その言葉だけは耳のなかで何度もこだました。
人々から油小路事件と呼ばれた騒動の後、殺された兄伊東甲子太郎の事前の手引きにより薩摩藩邸に身を隠していた御陵衛士の生き残りたちは、数日前に伏見の薩摩藩邸に移動していた。旧幕府軍が伏見奉行所に続々と集まっているという話は聞かされていたが、ついに新撰組が加わったと、同じ御陵衛士の阿部十郎が皆に報告したのだ。
「本当か…?」
書き物をしていた伊東の腹心であった内海次郎は、皆を集めて阿部に話を続けるように促した。鈴木はその輪から外れて気怠げに座りながら耳だけ傾けていた。
阿部は興奮していた。
「ああ、確かな話だ!薩摩藩士の一人が観月橋を渡る近藤や土方の顔を見たと言っていた。彼奴ら、武具や馬を奉行所に持ち込んでいたらしい…伏見の様子を見るととうとう戦を始めるようだと噂になっていた」
「…まさか、こんなに近くで鉢合わせをするなんてな…」
内海は忌々しく呟く。自分たちが伏見に移送されたのも数日前の出来事なのだ。まさにめぐり合わせと言っても良いだろう。
「内海さん、これは伊東先生のお図らいです!」
衛士の一人である佐原太郎が内海に詰め寄った。
「我らに仇を取れとおっしゃっているのです!」
「ああ、そうに違いない!伏見ならここから近い」
「これは好機だぞ!」
佐原につられるように衛士たちが次々に声を上げた。油小路の傷が癒えない篠原や加納でさえ参戦する意欲を見せたが、鈴木だけはその輪には入らなかった。
(兄上は…本当にそんなことをお望みなのだろうか…)
同志である衛士たちを助けるために命を擲った兄の心情を思うと、この伏見での邂逅は不幸なめぐり合わせではないのか…この場で口が裂けてもそんなことは言えないが、鈴木は乗り気にはなれなかった。
もう一人、静かな沈黙を保っていたのは内海だった。しかし彼が胸に誓った復讐心はこの場にいる誰にも負けずに燻ぶり続けていた。
「…ああ…ハハ、大蔵君…ようやく一矢報いる時が来たようだ…」
誰よりも昏い瞳で呟く姿は、積もりに積もった耐えきれない憎しみと屈辱を纏っているようで、鈴木には近寄り難く思う。衛士たちも同じだったのかあれほど威勢よく声を荒げていたのに、急に静かになった。
「内海…どうした?」
「…いや…すぐに伏見奉行所に襲撃に行くのは現実的ではない。ひとまず小者を遣って不動堂村の屯所を確認させよう。しばらくは新撰組の動向を探り、最適の機会を待つべきだ…知らせを待とう」
篠原泰之進の問いかけに内海は取り繕うように答えると「少し席を外す」と場を離れてしまった。取り残された衛士たちは再び復讐への執念を熱く語り始めたが、依然として鈴木は加わらず手にしていた盃をすべて飲み干したあと内海の後を追った。彼はそう遠くは行っておらず、伏見藩邸の美しい庭をぼんやりと眺めていた。まるで月真院の庭を眺める伊東のように。
「…ああ、君か…」
内海は鈴木に気が付くと「飲み過ぎだ」と早速注意した。
「伏見に来る前からずっと君は酒を飲んでいるだろう。むしろ飲んでいない日がないくらいだ…そろそろ控えた方が良い。君は酒に酔うとろくなことをしないと大蔵君が…」
よく言っていた、と内海は言いかけて口を噤んだ。鈴木を慮ったのか、それとも自分を守るためだったのか…それは鈴木にはわからなかった。
内海は誤魔化すようにスッと息を吐いた。
「気を紛らわせたいのはわかる。だが、憎き新撰組が目と鼻の先にいるんだ、油断してはならない」
「…新撰組は我々のことなど眼中にないのではありませんか?」
「ああ、そうだろう。王政復古の大号令で薩摩と長州は完全に徳川を敵とみなし、排除することを決めた。開戦は近い…目前の戦のことばかりで御陵衛士のことやあの悪の所業など忘れているに決まっている。だから思い知らせるべきだ…君もそう思うだろう?」
「…」
内海の問いかけに、鈴木は即答できなかった。
(…俺はどうしてしまったのだろう…)
酔いのせいか、自分自身の気持ちがよくわからなかった。伊東が死んだあとはそれを現実として受け入れられず、その骸が放置されていると知った後は五感が狂ったように怒りの感情しか沸かなかった。内海にすぐに復讐すべきだと訴えて、ずっとその機会を待っていたはずなのに。
鈴木が何も答えないでいると、内海は怪訝な顔をした。
「…まさか、君は反対するのか?危ないから、反撃に遭うからやめるべきだと?あの時は誰よりも復讐を願っていたではないか」
「そんなことはありません、が…」
「だったら君が先陣に立つべきだろう!君と大蔵君は兄弟なのだから…!」
内海に詰め寄られ、鈴木はますます言葉に詰まった。
新撰組が伏見にいると聞いてから兄の無念を晴らしたいという思いと、これが兄の望みなのかという疑念がずっと反芻し続けている。けれど一つだけわかっているのは、
(兄上は内海さんにこんな顔をさせたいわけじゃないのに…)
憎しみに取りつかれ、復讐を詰め寄る…伊東が最も信頼した腹心の内海は、いつも冷静で周囲を見渡して気に掛ける…そんな優しい友人だったはずだ。
しかし内海は険しい表情のまま、
「…やはり、もう少し酒を控えた方が良い。まともな判断ができなくなっているようだ」
半ば吐き捨てるように口にすると、そのまま背を向けて去って行ってしまった。
835
大坂城では徳川再起の兆しから会津や桑名だけでなく幕閣にも主戦論が高まり、戦の要所となる場所に軍隊を展開しはじめた。新撰組はそのひとつとして伏見奉行所に配されることになったのだが、そこにはすでに幕府陸軍が布陣していた。陸軍には幕臣や旗本が含まれ、当然のように無頼者の新撰組の算入を快く思わない態度の者が多かったが、
「ようやく来ましたね」
と先輩風を吹かせるように笑って出迎えたのは伊庭だった。
「伊庭君もここだったのか!」
近藤は新撰組局長として一通り挨拶を済ませたものの想像通りの冷遇を受けていたが、伊庭との再会で笑顔が戻った。伊庭と別れたのは数日前で土方は思わぬ早い再会に
「今生の別れだとか大袈裟に言っていたくせにな」
「本当、そうですよねぇ」
と互いに苦笑するしかない。
「あ、一応名誉のために言っておきますが、大坂城には入ったんですよ。でも城に留まるか、淀城か、伏見に行くかと議論になってどうせなら前線の方が良いという話になったわけです。もし戦になればおそらくもっと多くの兵が置かれる要所ですからね」
「何とも心強い、なあ歳」
「まあな」
近藤は大きく頷いたのだが、伊庭はきょろきょろと周囲を見渡し「沖田さんは?」と訊ねた。近藤は俄かに表情を落としてしまう。
「…総司は俺の妾宅で療養しているんだ。直前に喀血してな…とても連れて来られる状況じゃなかった」
「じゃあ醒ヶ井ですか…」
伊庭は残念そうに肩を落としたが、すぐに気を取り直して
「きっとすぐに合流できますよ」
と近藤を励ました。
それから近藤は顔見知りを見つけて挨拶に向かい、場を離れた。新撰組の顔として忙しい近藤を見送り、二人は立ち話を始めた。
「それでどうなってる?」
「…上様は着々と王政復古の大号令の撤回へ向けて動いていらっしゃるようです。新政府のなかにも徳川を擁護して辞官納地は緩やかにすべきだという声が高まっているそうですから、徳川への締め付けは緩和されていくかもしれません。もし戦になっても諸外国を味方に付けて軍艦が集結すれば兵力では十分太刀打ちできます」
「戦にはならないのか?」
「今のところは…俺が薩摩や長州なら手を出せません」
「…そうか」
土方はほっと安堵するような、曖昧な結論を憂うような、複雑な心境だった。伊庭も同じだったのか「それより」と話を切り上げてしまう。
「新撰組がここに布陣してくださって心強いです。なんせ道場で剣さんは積んでいても実戦経験の乏しい幕臣だらけですからね…いざ戦となればきっと怖気づくでしょう。新撰組の足を引っ張らなければ良いのですが」
「おい、今から心もとないことを言うなよ。せめてお前は前線に立って戦え」
「そのつもりですよ」
伊庭はにやりと笑った。
彼の剣の腕は身近にいたからこそよく知っている…今までその実力を試す機会はなかったが、誰よりも勇ましく優雅に剣を振るうことだろう。
土方が伊庭の精悍な横顔を見ながらそんなことを考えていると、ザッザッと鈍い足音とともに島田がやって来た。
「副長、申し訳ありません。支度に手間取り遅くなりました…お呼びですか?」
「ああ。お前に頼みたいことがある」
「…承知しました」
古参の島田は詳しい用件についてすぐには訊ねない。伊庭の前で遠慮したのもあるだろうが、長い付き合いなので土方の表情でどういった意味合いの用向きなのかは何となく察せられたはずだ。
土方は伊庭に「また」と別れを告げようとしたのだが、彼は
「俺も一緒に行っていいですか?」
と言い出した。聡い伊庭なら二人の表情を見て深刻な用事だと察せられたはずだが、敢えて同行を申し出たように見えた。
「お前には関係のないことだが」
「せっかくだから鬼副長の仕事ぶりを拝見したいだけですよ」
「何がせっかくだ。…勝手にしろ、後悔するぞ」
土方は牽制したものの、何だかんだで頑固な伊庭が言い出したら決してあきらめないことを知っていた。彼にとって暇つぶしなのか、己の好奇心を満たすためだったのかわからないが、無駄なやり取りをする暇はなかったのだ。
「島田、二番隊の小林を呼んで来い。永倉もな…土蔵の裏で待っている」
「はい」
島田は小走りで去っていき、土方は指定した土蔵へ向かっていった。伊庭は二、三歩距離を置いて土方の後ろに続く。
伏見奉行所は奉行としての機能だけではなく旧伏見城や旧城下町を管理する遠国奉行であり、数万石の旗本や大名によって担われてきた格式の高い役職だ。そのため敷地は広く建物は立派で数寄屋造りの茶室を数室構えている。その土蔵は敷地の隅の方に見上げるほど大きく建てられてて、その裏となれば人気は全くなく陽が差し込むこともない。雪で汚れた土が乾かずにずっと湿っているような陰湿さが漂っていた。
こんな場所に隊士を呼び出す…雰囲気で伊庭はこれから何が起こるのか、何となく察したのだろう。
「やっぱりお邪魔そうだから外しましょうか?」
「…今更ここまできて何言ってるんだ」
「なんだか嫌な予感がするなあ。俺は小心者なんですけど」
伊庭が少し茶化したが、土方は鼻で笑ってそれからは二人とも無言で島田たちの到着を待った。それはとても長い時間のようでもあったが、きっとあっという間だっただろう。
「お連れしました」
島田が先頭で小林の首根っこを掴んでやって来た。その後ろに憮然とした表情を浮かべた永倉が続き、伊庭の姿を見て少しだけ目を見開いたが、それでも何も言わずに静観していた。
小林桂之助は東北から都へやってきて入隊した隊士で、まだあどけない顔立ちをした二十歳ほどの若い隊士だ。小林は青ざめ小さく震えながら
「一体何の御用でしょうか…」
と絞り出すように訊ねた。気の毒なほど怯えていたが、土方はさらに冷たく言い放つ。
「心当たりがあるだろう?」
「…いえ…」
「シラを切るか。…まあいい。お前、御陵衛士の阿部十郎とは同郷だそうだな」
「…!」
阿部十郎という名前に小林はカッと表情を昂らせた。島田は背中を押すように放り投げ、バランスを崩した小林はみっともなくその場に倒れ込む。すると都合よく懐から小さく折りたたまれた文が飛び出した。
「あ…っ!」
小林は手を伸ばしたが、土方の方が早くその文を取り上げる。そして文を小林の前で開いて見せると、彼は観念したようにその場に突っ伏して項垂れた。
「…ここに書かれているのは機密事項のようだな。これは阿部宛のものか?」
「…っそ、れは…!」
「同郷の先輩から頼まれたのか、この世にはいない伊東への忠誠か…どちらににしても御陵衛士に手を貸しているのは間違いないようだ。…永倉、読むか?」
「いや、いい」
永倉は部下の不始末に失望して、庇うつもりはないようだ。
敵方である薩摩でも長州でもない、殲滅しきれていない御陵衛士の間者がいまだ潜んでいたことに土方は言いようもない不快感を覚えていた。伊東の亡霊が彷徨っているような気がしてしまうのだろう。土方は項垂れた小林の髪を掴み、強引に上向かせた。
「この文をどこに届けるつもりだった?御陵衛士の残党はどこに潜んでいる?」
「…っ、言えません…」
「言ったら命を助けてやると言ってもか?」
小林の眼に僅かな光が灯る。躊躇ってはいたが、当然己の命には代えがたい誘いだ。
「ほんとう…ですか…」
「…言ってみたらわかる」
「薩摩藩邸から…移動したと…」
「どこへ?」
「わかりません…!本当です、いつも小者を通じて文をやり取りしていたのです…」
「そうか」
土方が小林の髪を放すと、小林は土方の足元に手を伸ばして悲鳴のように「御慈悲を!」と命乞いした。
「どうかお助け下さい!私は阿部さんには半ば脅されたのです!私は決してそんなつもりは…!」
「それは気の毒だったな」
土方は島田に視線を送る。普段は温厚で隊士たちに慕われる島田だが、その分裏切り者に対してはとことん冷淡だ。彼は慈悲を求めて四つん這いになった小林を背後から締め付けると、そのままあっという間に首を締め上げて骨を折り絞殺した。小林は最初は呻いて抵抗したが、きっと己でも何が起こったのかわからない間に意識を失ったことだろう。
「…副長、どうしますか?」
「その辺に捨てておけ。ただし、面倒事になるからあまり目立つな」
「承知しました」
島田はまるで巻き藁を抱えるようにずるずると小林の骸を引きずると、土蔵の近くにある普段使われていないであろう裏口から出て行った。そのまま近くの川に捨てるつもりだろう。
永倉は土方のもとにやってきて
「見抜けなかったことを詫びる、すまなかった」
と頭を下げた。
「いや…監察が小林の不審な動きに気がついた。この機会に始末できてなによりだ」
「…そうですね。島田を手伝ってきます」
永倉は気が重そうだったが、島田が出て行った裏口に向かっていった。
土方は改めて小林の文…というよりも報告書に近いそれに目を通した。伏見に布陣したことや持ち出した武具の数、隊士の人数など几帳面かつ事細かに記されており、これが外部に漏れれば大事だっただろう。破り捨てるのも憚られて一旦は懐に仕舞うと、それまで黙って様子を見守っていた伊庭が
「何故、斬り捨てなかったんですか?」
とようやく訊ねて来た。つい先ほどまでの冗談めいたやり取りはすっかり消え失せ、彼の声はとても冷たく聞こえた。
「彼が卑劣な間者であることは間違いないのでしょう。戦を前に情報を漏洩するような真似は決して許されません。しかし…背後からの絞殺は…なんというか、意外でした」
伊庭は言葉を濁したが、何故斬首にしなかったのかと責めるように聞こえた。刀を帯びる以上、その刀で殺してやるべきではないかと言いたいのだ。
土方は振り返った。伊庭は酷く困惑した表情で土方の答えを待っていた。
「…斬れば血で汚れる。布陣したばかりなのに早速揉め事かと揶揄されるだろう。面倒なことになりかねない」
「それでも…俺だったらこの刀で殺します」
伊庭の眼差しは変わらない。土方は(正しいな)と内心思いながら頷いた。
「ああ、お前はそうすればいい。…もっとも、根っから幕臣のお前は絞殺なんて思いつきもしないだろう」
「…ご自分も今は幕臣でしょう?」
伊庭は純粋に土方に問いかける。どれだけ親しい友人であっても、互いに相いれない部分はある…土方と伊庭にとって大きな隔たりはその生き方だろう。
土方は少し息を吐いた後、口を開いた。
「幕臣なんて今や何の意味もないが…俺にとって過分な名誉でしかない。俺は誇れる生き方をしたいわけでも、褒められる道を選びたいわけでもない。…近藤先生の足枷になるものを排除したいだけだ。それがどれだけ残酷でも不名誉な方法だろうとどうでもいい。たとえお前に蔑まれてもな」
「…」
「だから言っただろう、後悔すると」
このことは何度か口にしたが、そのたびにその決意は強くなる。自分は決して誉れ高い潔白な道を歩んでいるのではなく、近藤のため、新撰組のためになる選択をしているだけだと。華々しい道を歩むのは近藤一人だけで構わないのだ。
土方は黙り込んだ伊庭を置いて去ろうとしたが、彼はすぐに追いかけてきた。
「確かに後悔しました。…まるで自分の甘さを見せつけられたようです」
伊庭は土方の横に並び歩き出した。その横顔は江戸にいた頃の気楽な御曹司のそれではなく、戦を前にして強く鋭い。
土方は「そうか」と答えただけでもう何も言わなかった。
836
陽が傾き始める頃、薩摩藩邸に匿われている御陵衛士のもとへ青ざめた小者が駆け込んできた。衛士たちが月真院にいた頃から外部との接触のために雇っている小者だ。
「どうした?」
ただならぬ様子に衛士たちが慌てて集う。鈴木はやはりその輪から外れていたが、小者が怯えて身を竦ませているのは遠目でもわかった。小者はわなわなと唇を震わせながら報告した。
「こ、こ…小林さんが、死んだ…」
「なんだって?!」
一番声を荒げたのは阿部だった。阿部は新撰組に在籍していた頃から十も歳の離れた同郷の小林のことを可愛がっていて、御陵衛士として脱退した後も信頼の置ける密通役としてずっと連絡を取り合っていたのだが、油小路以来潜伏先を知られるのを警戒して、関わりを絶っていた。
「久々に文を渡したいゆうから、伏見の奉行所の裏口近うで待っとったら、泡吹いて死んでる小林さんの骸が抱えられて出てきたんや……そのまま川に放り投げられて…」
「小林君…!」
阿部は愕然として膝を折り嘆く。阿部は小林を重宝し、衛士たちも貴重な情報源として頼りにしていたので皆が落胆していた。
内海は昏い目で深いため息をつく。
「…切腹でも斬首でもなく、川に投げ捨てるとは…相変わらず野蛮なことだ。小林君もさぞ無念だろう…潜伏が明けたら立派に弔おう」
「はい、はい…ほんまに…!いつわしがそのような目に遭うのかとこおう…どうか、これで最後にさせてくれまへんか?!」
小者は怯えながら深く頭を下げた。不便にはなってしまうがこうなってはまともに仕事は果たせないどころか、新撰組に寝返って潜伏先を暴露されても困る。内海は「わかった」と了承した。
「おおきに!…こら小林さんが昨日託した文です。今日はその続きを受け取る話やったんでっけど、残念ながら。…ほな、わしはこれで…!」
小者は内海へ文を押し付けるように渡すと一目散に逃げ去っていく。衛士のなかの何人かは小者を蔑むように見ていたが、戦が近づく中で妙なことに巻き込まれたくないと思うのは当然の心理だろう。内海は受け取った文を開いた。マメで几帳面な小林の最後の知らせは伏見に布陣する前の新撰組の采配についてだ。
「何が書いてありますか?」
衛士のなかで最年少の佐原は内海に文の内容を尋ねた。
「…伏見に布陣するあたり、怪我人や病人を新撰組所縁のある宿に移したと書いてある。残念ながら上層部や医学方以外には秘されたために場所はわからないようだ。しかし…」
内海はもう一つの報告に目を見張った。佐原は飛びついて「よい知らせが?」と先走る。
「…近藤局長の計らいで、沖田だけは醒ヶ井の妾宅で療養しているらしい」
「ははぁ、よほど良くないんでしょうね」
佐原の相槌に内海は頷いた。
久々に聞く、少しだけ懐かしいような名前が聞こえて―――鈴木は酒を飲む手を止めた。
鈴木が入隊した時、総司は一番隊組長として隊士のなかで誰よりも輝き、眩しく見えた。そのことが無性に鈴木を腹立たせ、半ば八つ当たりのように当たって一方的に距離を取り続けていたが、彼の病を偶然知ったことで少しだけ会話をするようになった。剣術に秀で、天才という賛辞を恣に得て来たものと思っていたが、実は苦労人でありその恩を返すために病を隠し通し無理をしてでも任務を続けると口にしていた。総司の病はすでに斉藤によって兄に伝わっていたが、その後の襲撃を退けたことを聞き、実は快方に向かっているのかと思っていたのだが。
(そうか…ついに離脱したのか…)
敵方であることに違いはないのに、彼が一線を退いたと知って無念さを覚えた。しかしそんな感情を抱くのは、この場には鈴木しかいない。
内海は文を読み進めると次第に眉間に皺を寄せていき、最後には震えるほど文を持つ手に力が入っていた。傍にいた佐原や他の衛士たちは
「どうした?」
「一体何が書いてあるんだ?」
と問い詰めるが何も答えず、内海は耐えきれなくなったようにその文を投げると、「やはり」と呟いただけでその場で俯いて固まってしまった。何事かと不審がる篠原泰之進はその文を拾い上げ、目を通す…すると彼も次第に腹立たしげに
「くそ!」
と吐き捨てた。
「斉藤、生きてやがったのか…!」
「…!」
衛士たちは「どういうことだ?!」「嘘だろう?!」と集まり、目を見合わせる。
斉藤は伊東の指示でその忠誠心を試すために内海や篠原とともに土方の妾宅を襲撃したものの、総司の返り討ちに遭った…誰もがそう認識していて、『新撰組の斉藤が死んだ』という噂は御陵衛士以外から実しやかにあちこちで流れていたのだ。伊東さえ疑うことなく斉藤の存在を亡き者として扱ったのに、今更名前を変えて生きていると書かれていたのだ。
「野郎!銃にやられたと騙して…!最初から新撰組の間者だったということか?!」
「いまは山口二郎だと…ふざけた話だ!」
「斉藤を必ず殺すべきだ!」
その場にいてまんまと騙された篠原や加納は憤り、衛士たちも呼応してますます新撰組憎しの機運が高まっていく。鈴木はその空気に中てられていたが、それでも心のなかにあるはずの憎悪の感情はそれほど沸き立たず、むしろ冷めていくように感じてしまう。
(ずっと騙されていたんだ…俺たちは、土方副長の手のひらで転がされていた…)
一体いつから…そう考えるのさえ億劫だ。しかし騙される方もまた愚かだったのではないか。斉藤は鬼副長の片腕であり続けていただけで、彼ほどの人物が願えるはずがなかったのだ。
「…あの日から間違っていたのだな」
内海が重く暗い声で口を開いた。
「土方の妾宅を襲撃させた…あの日から道を違えていた。俺が唆して、大蔵君の背中を押したことは間違えていた。…だからこそやり遂げるべきだ。そうすれば今度こそ我々は正しい道を、行くべき道を歩めるはずだ」
「内海…?どうした?」
「何が言いたい」
長い付き合いである篠原や加納が訊ねるが、内海は項垂れたまま顔を上げようとはせず、抑揚のない声で続けた。
「醒重病だろうが、関係はない…今度こそ、沖田を殺す。そうすればこの先は大蔵君が考えた通りに万事上手くいく…大蔵君が喜ぶに違いない。…醒ヶ井を襲撃する!」
鈴木は久しぶりに感情が動く。
「…っ、そ」
「そうすべきだ!」
「きっと伊東先生への餞となりましょう!」
「今すぐにでも奴を殺すべきです!」
鈴木が発した言葉はすぐに衛士たちの歓声によってかき消された。潜伏を続けた鬱憤がようやく晴れるように、皆は生き生きと目を輝かせる。この様子だと数日中に決行される…鈴木は自分だけが取り残されているような、別世界にいるような感覚に陥った。
「鈴木君、君も加わるだろう?」
皆が騒ぎ立つなか、内海は鈴木に問いかける。彼は先ほどと同じように「君が先頭に立つべきだ」と発破を掛け決して拒むことを許さない、射抜くような眼差しで見据えていた。
鈴木は黙って立ち上がる。
「…酒を買ってきます」
「…わかった」
内海は明言を避けた鈴木を叱らなかった。
「景気付けの酒を買ってきてくれ!」
「今日は宴だ!」
衛士たちは彼らの機微に気が付かず、鈴木を見送ったのだった。
笠を目深に被り、鈴木は旧幕府軍が集う伏見から人目を避けて北上した。戦への警戒感で心なしか人の往来は少なく、どこもかしこも静かに感じる。
鈴木は酒甕を抱え今まで近寄ることさえなかった場所…不動堂村の新撰組屯所へと足を向けた。幕臣として栄転を果たした彼らを羨ましいと思ったことは一度もなかったが、堂々とした門構えと西本願寺で間借りしていたとは思えない立派な造りは大名屋敷に引けを取らない。しかし今は人の気配はなく『新撰組屯所』の看板さえ見当たらず静まり返っている。
「栄枯盛衰か…」
ここは新撰組にとって儚く短い栄華の象徴だったはずだが見る影もない。しかし新撰組を離れた御陵衛士も月真院を追われて潜伏しているのだから似たようなものだろう。
(兄上…どうして逝ってしまったのですか…)
伊東の骸がこの目に焼き付いてからずっと、ずっと問いかけていた。答えはきっとどこにもないのに、わかっていても答えを聞かせて欲しいと投げかけていた。
鈴木はもぬけの殻となった屯所に背を向けた。このまま伏見に戻れば良いもののいつの間にかさらに北上してかつて過ごした西本願寺を通り過ぎ、細い路地から醒ヶ井へ足を向けた。少し先には近藤の妾宅がある。
(俺は…どういうつもりで…)
酒甕を抱えた間抜けな姿で何をしようというのか……兄が死んでから、答えが出ないことばかりだ。けれど漠然と醒ヶ井へ向かわなければならないと思った。
(…確かめたいと思う…兄上、俺は愚かでしょうか…)
妾宅へ一歩、また一歩と近づく。すると赤子の泣く声とそれをあやす女たちの声、そして
「お勇ちゃんの声は本当に大きいなぁ、屋敷中に響き渡ってますよ」
と笑う総司の声が聞こえてきた。
鈴木はそれ以上近づけず立ち止まり、耳を澄ませていると、赤子の泣き声が止んだ。
「ほんまにお勇は沖田はんの抱っこが好きやなぁ。ぴたりと泣き止んでしもうて」
「ふふ、昔から赤子には好かれるんですよ」
「旦那さんがいはったら泣いて悔しがるわぁ、この子まだ旦那さんのお顔が怖いみたい」
「仕方ありません、私だって最初は怖かったんですから」
近藤の妾である孝と総司は穏やかに会話を交わしている。戦さとは無縁の和やかな雰囲気は鈴木が思っていたほどの悲壮感はなく、彼が死病に侵されて養生していることすら信じられないくらいだ。
鈴木が立ち竦んでいると、妾宅を警備しているらしき隊士の姿が目に入ったので、サッと身を翻し酒甕を抱えて帰路に着くことにした。
兄が死に、仲間が目の前で殺され、篠原や加納に抱えられて逃げ延びた後、新撰組の誰でも良い…兄を殺した憎しみをぶつけたいと願っていた。どんな理由があったとしても残酷に兄を殺め、骸を囮にしたことは許せそうもないが、その中に、『八つ当たり』があることもまた間違いない。鈴木だけでなく内海や他の衛士たちも…仲間を易々と失った無力な自分達を慰めたいがために、立ちあがろうとしている。
(だが、その方法が…こんな形であって良いわけがない)
内海は間違っている。
土方の妾宅への襲撃が失敗したから、兄の死に繋がったのではない。先に卑怯な手段を使ったからこそ、兄の死を招いたのではないのか。同じ方法を取れば必ず同じ結果をもたらすはずだ。
鈴木はもと来た道とは違う道を通った。西本願寺を通り過ぎ、下っていくと油小路が見えてくる。胸が苦しくて避けた光景を、今度はじっくりと目に焼き付けた。
「…兄上、俺は…間違っていますか?」
答えはない。
代わりにどこかでヒィヒィと澄んだ声で鳴く鳥の声が聞こえてきた。
837
夜、新撰組は伏見奉行所の一部を間借りしたが当然、不動堂村より手狭ではあった。
「山口」
土方は一番隊の隊士たちとともに休息を取る斉藤を呼び出した。新撰組の屯所ではないので彼の正体が露見を避けるために、ここにいる間は『山口』と呼ぶことにしたのだ。
「話がある」
「はい」
斉藤が土方に従い隣の部屋に移ると、そこには近藤と山崎がいた。数本の明かりを灯し、地図を広げて現在の戦況について議論していたようだ。
土方は早速切り出した。
「今日のことは聞いたか?」
「はい、島田から概要だけは。…御陵衛士の間者だったと」
「本人に間者という自覚があったんかはわかれへん。小林はまだ若く人が好い奴やったから、同郷の阿部に親切心で文を送っとったんやろう」
「…結果が同じなら間者で良いだろう」
山崎は小林を擁護したが、斉藤に言わせればどれだけ親しくとも無自覚であろうとも敵対する御陵衛士に情報を流したという事実だけで十分罪深い。山崎は「その通り」と苦笑した。
土方は小さく折りたたまれた文を斉藤に差し出した。
「小林が御陵衛士に渡そうとしていた最後の文だ。…読んでみろ」
「はい」
どうやら三人はかつて御陵衛士にいた斉藤の見解を聞きたいようだ。斉藤は灯りを頼りに小さな文字を読み進めた。
「……伏見に布陣すること、隊士や武具の数…御陵衛士にとって価値がある情報かどうかはわかりませんが、これが薩摩に伝われば新撰組の落ち度になるでしょう」
「ああ、その通りだ。危ないところだった」
近藤は深く頷いたが結局この文は手元にあるのだからその心配はない。しかしだからと言って安心というわけではない。
「…ですが、問題は…おそらくこの文は、一枚目ではないということです」
「やはり、お前もそう思うのか」
斉藤は厳しい顔をした土方に文を返した。
「明確な根拠はありませんが…律儀な小林が親しい阿部に宛てた文なら機嫌伺いの文言が一言二言あるですが、これはそれがなく唐突な文です。例えなかったとしてもこれほど几帳面で細やかに報告書をまとめているのに、二条城で新撰組が水戸と衝突したことや怪我人たちが別の場所に移されたことなどの記載がありません。時系列的に小林がこの数日で何度も御陵衛士と接触する機会が無かったはずだろうと考えると、これは二枚目か、それ以降のものだったと考えるべきかと思います」
「俺も同じ考えです。ただ怪我人たちを移した場所はごく少人数しか知らへんことで、小林が知りようもなかったはず。彼らが襲撃されるようなこと恐れる必要はあらへんかと」
「そうか…」
山崎のフォローに近藤は少しだけ安堵の表情を見せたが、腕を組んで斉藤へ視線を向けた。
「…きっと君の正体は御陵衛士に露見しているのではないかと思うんだ」
「はい、おそらく」
近藤は深刻そうだったが、斉藤は特に危機感は覚えなかった。自分が『山口二郎』と名乗るのはあくまで形式的なことで、正体を偽るつもりはなく、顔を隠さず巡察を行っているのだからいつしか御陵衛士たちに伝わるだろうと思っていた。近藤は「身の回りに気を付けてくれ」と言ったが、それよりもいまは気にすべきことがある。
「俺のことは構いませんが…沖田さんが醒ヶ井の妾宅で療養することは小林も知っていたのではないでしょうか」
組長や一番隊の隊士、小姓たちもそのことを知っていた。小林もどこかで耳にしていた可能性があるが、この手元にある文には書かれていない。
おそらく土方はとっくに気が付いていたのだろう、斉藤の懸念を聞き、静かに頷いた。
「ああ。御陵衛士が一線を退いた総司の存在をどこまで重要視するかはわからないが、念のために隊士を数名、警備に就かせている。醒ヶ井を襲撃されればお孝やお勇に危害が及ぶからな。…お前は御陵衛士の残党は、動くと思うか?」
斉藤は(どうやらそれが本題らしい)と察した。少なくとも土方は残党として生き延びた内海や鈴木、篠原たちがどう動くのか斉藤に訊ねたかったのだろう。
「…あの時、伊東は療養中であることを知ったうえで襲撃し、結果的に失敗しています。賢い内海がその過ちを繰り返すとは考えづらいですが…」
伊東という頭目を失い潜伏を続ける残党たちがどう考えるのか、斉藤には確信が持てない。ただ彼らが盲信的と言えるほどに伊東に心酔していたことには間違いはなく、伊東や仲間の仇を取りたいという思いはいまだに業火のように燃え滾っているはずだ。それ故の暴走はありうるだろう。
(何か、嫌な予感がする)
斉藤はちらりと土方の様子を窺った。総司が『似た者同士』と語った通り、彼もまた斉藤と同じように根拠がない不安に苛まれているような表情を浮かべていた。けれどそのような私情で動くべきではないと律しているのだろう。
斉藤は小さくため息をついた。
「…情報が伝わっていると仮定し、念のため醒ヶ井から身を移すべきではないでしょうか?」
言いたくても言えない土方を代弁するつもりで、斉藤は近藤に進言した。隣にいた山崎は誰かがそう口にするのを待っていたように「その方が良いでしょう」と口添えしたので、近藤も頷いた。
「わかった。ひとまず醒ヶ井を離れさせよう。俺は明日、二条城へ向かうことになっているから、後のことは宜しく頼む」
近藤が話をまとめて話を切り上げた。
「悪かったな」
夜が深まり、部屋を出たところで斉藤は土方に呼び止められた。
「…何のことでしょうか」
「総司のことだ。…俺が進言すべきことをお前に言わせた」
「…」
言わされた、とまでは思わなかったが、斉藤がいなくとも土方が近藤に相談すれば総司の静養先を変更することはそれほど難しいことではなかっただろう。
「…考えすぎではありませんか?小林の密書が御陵衛士に届いた場合、彼らが醒ヶ井を襲撃する可能性があることは皆わかるはずです。このように回りくどいやり方をしなくとも、あなたが私情を優先したなどと誰も責めないでしょう」
「いや…他人に何を言われようと構わない。自分の問題だ。…己を律していなければ、すぐに崩れる気がした」
土方がため息をつきながら「付き合え」というので、斉藤は彼の後に続いて外に出た。奉行所は警戒を怠らず、あちこちに松明が燃えていて昼のように明るい。土方は人気のないところを探して歩き、適当なところで足を止めた。
「…総司はお前に何と言っていた?」
「…」
「不動堂村の屯所を出るとき…あいつは『ここで死ねたらいいのに』と言った。いろいろと急なことが重なって、離れ離れになることになって…総司も思い詰めて混乱していたのだろうが…今となってはあれは紛れもない本心だったのだろうと思う」
土方は腕を組み、愁いを帯びた表情で夜空に眩しく昇る月を見上げた。
「…俺も、そう思わなかったわけじゃない。そう出来たらどんなに楽か…考えが過った」
「けれどもそうしなかった」
「ああ、近藤先生を支えなきゃならねぇからな。総司もわかっていたはずだ。だから、新撰組の副長としてやるべきことを優先している限りはいつも通り振舞える。…だから、さっきは言えなかったんだ、総司を醒ヶ井から移すべきだと」
「…」
土方は淡々と語りながらも表情は強張っていた。他人にはわからなくとも、ほんの少しの綻びで崩れ落ちてしまいそうなほど追い詰められていた。
斉藤は左手で鞘の組み紐に触れながら(言うつもりはなかったが)と躊躇いながら口を開いた。
「俺には、家族を頼むと言われました」
「…家族?」
「家族です。…死んで楽になりたいと思うのは確かにあの人の本心かもしれませんが、本音が一つだけとは限りません」
大切な人に生きていてほしい、そのために守ってほしい。自分の元へまた帰ってきてほしい…彼に託された願いは、本心だったはずだ。
「…まあ、どうやら俺はその家族の一員ではないらしいというのは不本意でしたが、親友だと言われたので仕方ありません、それで由としました」
「は…ハハ、お前はついに振られたのか」
「とっくの昔に振られているような気がします」
土方は肩の力を抜いたように笑い、斉藤はため息をついた。
「…あなたは昔、あの人が自分一人のものにならない方が良いだとか、競い合う方が良いだとかそんなことを言っていましたが、俺に言わせれば贅沢な話です。大切だと思うなら大切にすればいい。傍にいたいというのなら離れなければいい。…『ここで死ねたらいいのに』と話して、でも互いにそれを選ばなかった、その結果だけを受け取ればいい…ただそれだけのことでしょう」
「それだけか…」
「それだけです」
斉藤は敢えて強く言い切った。戦を前に思うところがあるのかもしれないが、しかし考えところで答えはない。
「俺は寝ます。副長も早くお休みになられた方が宜しいかと」
「…ああ、そうだな。助かった」
「俺は何もしていません」
「そうでもない」
「そうですか」
土方はまた堪えきれずに笑っていたが、斉藤は(付き合いきれない)と先に部屋に戻ることにした。
838
十二月十八日、早朝。
近藤は池月に跨り、「行ってくる」と晴れやかな表情を浮かべた。未だ態度を決め切らない公家を徳川へ引き込む説得を行う…その同席を求める目付の永井に呼び出しに応じ、二条城へ向かうのだ。古参の島田と天然理心流門下生の横倉甚五郎、新入隊士のなかでも生え抜きの石井清之進が随行し、芳介という奴(やっこ)が池月の手綱を引く。
「歳、皆のことを頼んだぞ」
「永井様に宜しく伝えてくれ」
「おう、きっと良いお話があるはずだ」
土方たちに見送られ、近藤は四人を引き連れて伏見奉行所を出ていく。いつも支度を手こずらせる池月は今朝に限っては大人しく近藤を乗せて、ゆらゆらと揺れながら蹄を鳴らし歩いて行った。その姿が見えなくなったころ、山崎が「俺も市中の様子見てきます」と町人姿でやってきた。
「念のため怪我人の寄宿先の様子を確認し、その後に醒ヶ井に向かいます。お孝さんや沖田せんせに事情を話してその後のこと相談します」
「ああ。総司にはできるだけ早く移動するように伝えてくれ」
「承知しました」
山崎は早速、と踏み出したが、土方が「待て」と引き止めて懐から折りたたんだ懐紙を渡した。
「気休めだが気が楽になる薬だ。…相良に渡してやれ」
「あ…はい、おおきに、ありがとうございます」
山崎は頭を掻いた。土方の口から相良の名前が出るとどうもくすぐったいのは、上司が何もかも見透かしているような顔をしているせいだろうか。
しかし悠長にしている場合ではなく、山崎は早速奉行所を後にした。
リィイン…リィィン…。
同じ頃、耳元で響く小さな鈴の音で総司は目をゆっくりと開けた。
妾宅に移動して数日…長くゆっくりと眠れたのは初めてだった。やはり寝床が変わるとなれるまでに時間がかかるようで、疲れがたまっていたのだろう。今日は清々しい気持ちで起きることができた。
「…おはよう、猫」
不動堂村から連れてきた猫は、総司よりも早くこの妾宅に馴染んでいた。初日からお勇の遊び相手になり、餌をもらってご満悦な様子で日の当たる縁側の座布団で丸まって昼寝して、その姿はまるで何年もここで暮らしているかのようだ。その猫が総司の枕元を歩き回り、お孝からもらった小さな鈴を鳴らしていたのだ。
総司が身体を起こすと、猫は膝元にすり寄って腰を落ち着けた。
「今日は寒いな…」
猫が開けた襖の隙間から外の寒さが伝わってくる。総司は猫を抱えながら立ち上がり、厚手の羽織に袖を通して庭に繋がる縁側に出た。するとキィンと冷たい床板が足先から伝わってくる。寝覚めの悪い土方は嫌がるだろうが、冬の寒い朝にこうやって冷たい風に当たって身体が冴えていく感覚を総司は好んでいた。
「あ、沖田先生。おはようございます」
同じく妾宅に居候する山野が挨拶した。彼はいつも早起きで総司が目覚める前に支度を終えていて、手には朝餉と薬をのせた盆を準備していた。
「おはよう」
「具合はいかがですか?」
「うん…よく眠れたけれど…」
総司は何となく空を見上げた。年の瀬が近づき、冬らしい曇天の空が覆っていて今にも雪が降りそうだ。
「今日は天気は悪そうだなぁ」
「そうですね。今日はしっかり厚着をなさってお休みください。風邪を引いては困ります」
「うん、山野君に怒られたくないからそうすることにします」
総司は甲斐甲斐しい山野を茶化したつもりだったのだが、彼は「そうしてください」と真剣な顔で頷いた。そうしていると胸元に抱えていた猫がぴょんっと飛び跳ねて庭に降りてしまった。冬を迎え、寂しい景色となった庭だが、猫にとっては良い遊び場のようであちこちの枯れ木に飛びついていた。
総司はその光景を眺めながら、
「…山野君、もし戦が起きたら私の世話ではなく一番隊の一員として戦いなさいと言ったことを覚えていますか?」
と訊ねた。山野はどうしてそんなことを、と言わんばかりに神妙な顔で頷いた。
「勿論覚えています」
「だったら良いです。君はとても真面目で器用で優しいから、自分の思いよりも私の思いを汲んでくれているのかもしれないけれど…君の好きにしたら良いですからね」
「…先生は僕が不要だとおっしゃりたいのですか?」
「まさか。…山野君が一緒にいてくれて心強いです。でも無理をさせるつもりはないと…」
「先生」
律儀な山野が珍しく総司の言葉を遮った。
「僕は望んでここにいて、先生のお世話をしているんです。もし、僕がもう一人いれば戦に行くのに、とは思いますがでも僕がここにいるのは僕が選んだことなんです。…先生、もう少し我儘をおっしゃってください」
「…我儘?」
「僕に傍にいてほしいと、顔に書いてあります」
山野はニヤッと笑って総司の隣に並ぶ。
「僕はもう何年も先生の部下で、先生のお世話役なんです。先生のことなんてお見通しなんですから!」
「…ハ、ハハ。そうか…お見通しかぁ」
胸を張って誇らしげに語る山野は、まだまだ幼いと思っていたのにいつの間にかすっかり大人になっていたようだ。
総司は「ニャァ!」と威嚇するような声が聞こえて再び猫に視線を戻した。すると猫は庭に落ちている布切れに噛み付いたり、振り回したりして暴れ回っていたのだが、猫がそんなふうに興奮しているのを見るのは初めてのことだった。総司は気になって庭に降りようとしたが、
「僕、様子を見てきます」
と、山野が代わりに近づいて行った。猫は山野に気がつくとカッと睨みながら飛び退いて去り、壁伝いにどこかへ行ってしまった。彼らはいまだに仲違いをしたままだ。
「山野君とは犬猿の仲のようですね」
「相手は猫ですが。…それより、これ…一体なんでしょうか?落書きのような文字が…」
山野は猫が噛み付いてきた布切れを持って縁側に戻ってきた。
新撰組の近藤の妾宅であることは近所には知られているので、嫌がらせの類はよくあるらしい。しかし深雪が存命の時には彼女を誹謗する悪戯が投げ込まれたことがあって、それで気を病み寝込むことになった…総司は自分がここにいることを外部の人間に知られたのではないかと急に緊張したが、書いてある文字は
『逃げよ』
と一言だけ書いてあった。着物の袖を破り、急いで殴り書きをしたように見える。
「…悪戯でしょうか?」
山野は困惑したが、その三文字にはただの悪戯として処分するには躊躇われるような切迫感が伝わってくるのだ。
「もしかして隊士の誰かが、急を知らせてくれたのかな」
「…先生、でもそうならば普通に正面から訪ねてくれば良いのではありませんか?それに危急の用事なら伏見から知らせがあるはずですし、今の所戦が始まったような様子もありません」
「うーん…」
「でしたら、やはり悪戯でしょう!それにもし敵の罠だとしたらここを離れるのは余計危ないのではありませんか?誘き寄せる罠かもしれません」
山野の言葉を総司は理解はできたが、同意できなかった。
悪戯ならこのような文言を書くはずはないし、敵の仕業ならもっと狡猾な方法を取るだろう。もし味方の知らせなら詳細な文が届くはずだ。
そのどれにも当てはまらない布切れ一枚…しかしそれをあの猫が妙に噛みついて気にしていたことが総司には引っ掛かる。
総司は布切れを懐に仕舞った。
「山野君、ここを離れましょう。お孝さんとお勇には警備に就いている隊士とともにおみねさんのお宅へ身を寄せてもらって、私たちも身を隠すべきでしょう」
「…でも、先生…ただの悪戯かもしれないのに」
「万が一の為です。私は構いませんが、お孝さんとお勇に何かあったら近藤先生に顔向けできませんから」
「…わかりました」
山野はここを離れることは気が進まないようだったが、頷いた。
「しかし、先生…我々はどこへ?」
「…一番、安全なところです」
総司は笑みを浮かべた。
山崎は懐かしい場所に足を踏み入れていた。怪我人や病人が身を寄せる寄宿先は勝手知ったる壬生の八木邸だ。壬生浪士組の屯所としていたのはもう何年も前のことで今はすっかり静かな邸宅へと戻っていたのだが、今回負傷者を匿うため信頼できる場所として再び頼ったのだ。
(御陵衛士のことは心配せんでええな…)
ここに顔を出す前に近所の顔見知りに話を聞いてきたのだが、よそ者が入ればすぐにわかる田舎でそれらしい人物を見たという話はなく、衛士たちが足を運んだ様子はなさそうだった。
「あ、山崎先生!」
その玄関先で早朝から素振りをしていたのは少年小姓たちだった。泰助は山崎の顔を見るや嬉しそうに手を振ったが、山崎は呆れてため息をついた。
「泰助、ここには負傷者と一緒に匿われてるんやで。しかも俺は監察の一人で、おっきな声で名前を呼んでええ相手ちゃう。それくらいの分別つくはずやろ?」
「でもここは田舎で、敵に攻め込まれることもねぇし」
「口答えする前に言うことあるやろ?」
泰助は不承不承ながら「すんません」と一応謝った。傍にいたしっかり者の銀之助は「言い聞かせます」とフォローし、鉄之助は素振りを続けている。
「…それで、様子はどうや?」
「はい、八木の皆さんはとてもよくしてくださいます。時折、南部診療所の方にお通い頂いて診療していただいていますし、何人かは復帰しても良いとお達しを頂いているようです」
「そうか。いづれ戦になればぎょうさんの隊士が必要や。近いうちに召集することになると伝えといてや」
「だったら俺も連れて行ってください!」
鉄之助が素振りの手を止めて、山崎に詰め寄った。
「俺は絶対に戦場で逃げ出さないし、人並みに剣を使えます。泰助のように余計なことは言いません」
「あんだって?」
「怪我もしていないのにここで隠れているのは不本意です!」
泰助を振り切り、鉄之助は山崎に懇願する。その眼差しは揺らがない覚悟を秘めていたが、まだ無謀さと危うさが同居しているように見えた。
「…俺の決められることやない。土方副長に伝えたるが…ここにおることも立派な任務や。おもんないおもんないと嘆かんと前向きに考えるべきや」
「でも…」
「必ず出番は来る。そう思うとき」
「…わかりました」
鉄之助は納得したわけではなさそうだが、渋々受け入れて再び素振りを始めた。泰助や銀之助もそれに続き、彼らの熱心な稽古に山崎は目を細めながら内玄関からなかに入ると、ちょうど相良が奥の間から出て来た。
「直、具合はどうや?」
「ああ…烝…」
相良の視線は山崎とは交わらず、足元もふらついている。山崎が手を伸ばして「ここや」と教えると、安心したように微笑んだ。
「はは、ごめん。今日は目が霞んで…ちょっとふらふらするんや」
「無理するな。ほら、ここに座れ」
山崎は相良を誘導して玄関に座らせた。すっかり細く骨っぽくなった手には紅斑の発疹があり、相良の身体を侵食していた。
(長うはない…)
山崎は相良に会うとそれを実感するが、彼に悟られることだけは避けたかった。
「ここでの暮らしはどうや?」
「うん、良うしてもうてる。みんな優しゅうて親切や。若い隊士にも世話になってるし…特に、梅戸さんは面白おかしい話を聞かしてくれて全然飽けへんで」
「あいつ…全然安静にしてへんな」
梅戸は先日の天満屋事件で斉藤を庇って顔を斬られ、安静を指示されているはずだが、元来のお喋りな性格のせいか黙っていられないらしい。医学方としては厳しく言いつけたいところだが、相良が嬉しそうなのでひとまずは大目に見ることにした。
相良は微笑んでいた。
「さっき、外で話しとったやろう?若い隊士にイキって説教して…烝、ほんまに組長なんやなって」
「なんや、信じてへんかったんか?」
「うん、たいそに言うてるだけや思うとった。…あないにあちこちふらふらしとったやつが、新撰組の組長やなんて普通信じられへんやろう?」
「…確かにな。でも俺にはお前がここにいる方が信じられへん…」
山崎はぐるりと室内を見まわした。かつて壬生狼と蔑まれながら足掻いていた頃、間借りしていたこの場所には数々の思い出が刻まれている。それは決して褒められた記憶ばかりではないのだが、その場所に相良がいることの方が現実味がない。
「烝?」
「…すまん、あまり長居はでけへんのや。このあとちょい用があってな…」
「そうか…しゃあない。また来てくれたらええから」
相良は口では強がったが、その表情は少し落胆しているように見えた。山崎は赤い斑点が浮かぶ彼の頬に手を当てて優しく摩った後に、軽く口づけた。
「っ、阿保。誰が見てるかわかれへんのに」
「かまへん」
「俺は構う…それに…これは約束を果たすためか?」
『烝がどこにも行かんといて、俺のもとにおって…俺だけを見とってほしかったんや』
山崎が必ず叶えると誓った約束―――その責任感か義務感からそうしているのではないかと、相良は疑っているようだった。山崎は苦笑して「押し倒してしまうか?」と揶揄った。相良は顔を真っ赤にした。
「烝、俺は真面目に…!」
「俺の願い事も同じだって言うたやろう?…ええからそんなこと気にせんでちゃんと養生するんやで」
「…っ、わかった」
相良の赤くなった頬をつん、とつつきながら山崎は相良を寝床まで見届けて土方から託されていた薬を渡した後、「じゃあな」とあっさり別れを告げた。
(ほんま…長居したらあかん。戻られへんくなる)
山崎は後ろ髪ひかれる思いを抱きながらも、それを振り切るように早足で歩いて壬生を出てそのまま醒ヶ井へと向かうことにした。陽は曇天の後ろに隠れてしまい、もう昼が近いというのにいつまで経っても薄暗い。
山崎は醒ヶ井が近くなると身を潜めて周囲を警戒しながら近づき、手拭いで顔を隠しながら人通りに紛れて妾宅の様子を窺った。
(静かや…)
もう忙しい時間で幼いお勇の泣き声や世話をするお孝の生活音が絶えないはずだが、妾宅からは一切聞こえてこない。山崎は(まさか)と思い正門へ向かうと見張りの隊士の姿すらない。
「そんなアホな…!」
慌てて中に入ると妾宅はもぬけの殻で、人がいたという気配すらない。
(どういうことや…)
理解が追いつかず無意識に後ろ頭を掻く。総司や山野だけでなく、警備の隊士や孝やお勇までも居なくなってしまうとはよほどの緊急事態だったのではないかと思うが、争った形跡はなくただ静まり返っていた。
839
山崎が醒ヶ井を訪れる少し前。
人通りが少ない朝を狙い、内海と阿部、篠原、加納、佐原…衛士たちがこぞって近藤の妾宅を囲んでいた。昨晩の話し合いで、やはりこのまま潜伏したままでは気が晴れない、と妾宅で療養している総司に狙いを定め襲撃を仕掛けることに決したのだ。
『俺は大蔵君の無念を晴らす。それがいかなる方法だろうとも、卑怯だと誹りを受けようとも構わない。必ずや沖田の首を取り、奉行所に投げ捨ててやる…!』
内海は伊東の生前では信じられないほどの負の感情を滲ませ強固なリーダーシップで衛士たちを鼓舞した。衛士たちもそれに触発されて、成功した暁にはそのまま伏見奉行所を襲撃すると盛り上がった。
そして早朝、内海は瞬きを忘れたように血走った眼で衛士たちを率いて醒ヶ井までやって来た。他の衛士たちも『今度こそは』と意気込み、薩摩から武具を借り万全の態勢で仕留めるつもりで来たのだが。
「どういうことだ…」
踏み込んだ妾宅はすでに無人であった。内海が呆然と立ち尽くす間に、阿部や佐原が室内を調べたが人影はなく、まさにもぬけの殻だった。
土間の扉を蹴りながら戻って来た篠原が憎々しく舌打ちした。
「…どうやら入れ違いだったようだ。土間ではまだ温かい鍋があったし、火鉢もまだ炭の煙が立って放置されていた。おそらく少し前にここを離れたのだろう」
「運のいい奴らだ!」
「くそ!」
加納は腹立たしげに地団太を踏むが、内海はそれをただの『運』だとは思えなかった。そして肩透かしを食らい愚痴を零す衛士たちのなかで、唯一涼しい顔をして口を閉ざしたままの鈴木に詰め寄った。
「…君が知らせたのか?」
「…何のことですか」
「言わずともわかるだろう。妾宅を襲撃することを知っているのは我々だけ。だが君だけはずっと消極的だった…ここに踏み込むことを沖田へ知らせたのではないのか?」
「…」
鈴木は何も答えなかったが、それこそが答えだと内海はすぐに気が付いた。そう思い至った途端、身体中に火柱が立つように感情が抑えきれなくなり、思い切り手を振り上げて鈴木を平手打ちしていた。あまりの強さに鈴木は体勢を崩してその場に膝をついたが、内海はそれさえ許せずに鈴木に馬乗りで跨ると胸倉を掴んだ。
「どういうつもりだ?!君は兄の仇を討つつもりがないのか?!」
「…っ」
「それとも新撰組が恐ろしいのか?!腰が抜けたのかッ?!」
鈴木は口の端から血を流しながら、何も答えなかった。衛士たちは血相を変えて怒鳴る内海に圧倒されたが彼がもう一度手を振り上げたので、慌てて鈴木を引き剥がす。
「おい、内海…!」
「内海さん、ここで騒ぐのは得策ではありません!」
「落ち着けよ!役人に見つかるぞ!」
尚も牙を向けようとする内海を制しながら、古い付き合いの篠原が二人の間に立った。内海は獰猛な獣のように鈴木を睨みつけていたが、鈴木は何も言わずに唇を噛んでいた。しかし疑惑を否定しない鈴木の味方をする衛士はいない。じりじりと焦燥感が募る沈黙のなか、篠原は仕方なく
「鈴木君、何か言ったらどうだ?」
と黙ったままの鈴木に促した。鈴木はしばらく俯いていたがゆっくりと顔を上げ、意を決するようにはっきりと口にした。
「…俺は…こんなことをしても意味がないと思いました。だから、逃げるように伝えました」
「なんという真似を!」
「裏切ったのか?!」
「信じられない!」
一斉に衛士たちは鈴木を責めたが、篠原が「話を最後まで聞こう」と宥めた。
鈴木は血を拭いながらゆっくりと立ち上がって、話を続けた。
「本人に直接会って話したわけではありません。袖を破いて伝言を書き、投げ入れた…もし気が付かなかったらそれは沖田の天命だろうと思いました」
「何故温情を掛けたのだ…!憎き新撰組隊士に!」
「…内海さんの言う通り、兄上は沖田を襲撃して失敗した…それから歯車が狂ったのかもしれない。それが結果的に兄上の死へと繋がったきっかけではないのか…確かにそう思います。けれど、それは兄上と我らの失策です。だからこそ同じことをしても意味がありません。負け戦のあとに同じ戦い方をしますか?…いや、むしろ同じことして失敗すれば愚かとしか言いようがない。新撰組に嗤われます」
「…」
「俺は沖田と親しいわけではありません。むしろずっと嫌いで鬱陶しかった。何もかもを手に入れていると思い込み、勝手に羨んで嫉妬したこともあります。新撰組の一員だというだけで憎しいと思う。…けれどいま重病で、明日をも知れぬ命で臥せっていることは間違いない…そんな剣士を殺して一体何になるというのですか?…俺はもし沖田を手に掛けたらそんな選択をした自分が恥ずかしくて、許せないだろうと思いました。殺せば…自分のことがもっと嫌になるに違いないと…」
鈴木は衛士たちに抱えられている内海をまっすぐ見据えた。
「内海さんらしくない。重病人を殺して、満足するなんて…ただの憂さ晴らしで、八つ当たりと同じです」
「…鈴木君、それは言い過ぎじゃないか」
篠原が厳しく指摘したが、今度は内海が「構わない」と首を横に振った。そして深いため息をつくと「ふっ」と笑った。
「…反論する言葉が見つからない…君の言う通り、まさに八つ当たりだ。どうにか理由をつけて鬱屈とした思いをぶつける先が欲しかっただけだな…俺は…」
内海の声は落ち浮き、身体の力を抜いてその場にゆっくりと腰を下ろした。気が抜けたように項垂れる内海へ鈴木は近づき、片膝をつく。
「…内海さん、思い知らせるべき相手はあの人ではない。兄上の命を殺めたのは誰だったのか…我々が復讐すべき本当の相手を見間違えないで欲しい」
「本当の相手…」
「そして兄上が最期に何を願っていたのか…内海さんは御存じのはずです。それを決して忘れてはならない」
内海は呆然と鈴木を見た。衛士たちもまた鈴木の説得には言葉がなく、ただ口を閉ざすだけだった。
黙っていた内海が呟いた。
「かつて水戸にいた頃の大蔵君を見ているようだった。…やはり君は大蔵君の弟だな」
「…きっと血は繋がっていません」
「いや、君は…弟なんだよ。いま、大蔵君に説教されたような気がした…」
「…」
どこか嬉しそうに微笑む内海は、「手を貸してくれ」と鈴木の力を借りて立ち上がり、パンパンと袴の土を払い終えると衛士たちに頭を下げた。
「すまない。少し先走り過ぎたようだ。鈴木君の言う通り、病人を斬ったところで刀の穢れになるだけだ。もう少し冷静になるべきだった…ただ、このままでは終わらせない。綿密な計画を皆で考えよう」
あの燃え上がるように憎悪に塗れた内海の姿はない。衛士たちは快諾というわけではないにせよ、妾宅の襲撃を諦めて去ることに決めた。
しかしまるでお膳立てされたかのように運命の歯車は混じり合う。
薩摩藩邸へ引き揚げるべく、寺町通を歩いているところで彼らは少数の従者とともに馬に乗り、二条城へ向かう近藤の姿を目撃したのだった―――。
曇天の空の合間からようやく陽の光が差し込み始めた。それでも移ろいやすい天気はまるでこの時勢を顕しているようで気味が悪い。
「土方副長!」
仕事を終えてようやく一息ついていたところに相馬が駆け込んできた。その後ろには野村も続き、慌てた様子だ。敵襲かと思い「どうした?」と訊ねると、相馬は強張った表情で
「その…」
と急に言葉を濁してしまった。土方が「なんだ」と促すと、野村の方があっけらかんと答えた。
「お客さんです。なんていうか、思わぬ客というか…」
「…客?」
「とりあえず一緒に来てもらえますか?」
野村の遠慮ない物言いに相馬は何か言いたげだったが、彼が伝えたいことも同じだったのだろう、「お願いします」と頭を下げた。来客の予定などなく、徳川の役人だと近藤が不在のため相手ができない。
ひとまず土方は彼らに従い、表の玄関ではなく裏手にある内玄関へ足を向ける。その先では主に一番隊の隊士たちが集まっていて、一体何事かと思いきや
「…総司?」
醒ヶ井にいるはずの総司と世話役を勤めている山野がいた。総司は女物の羽織を着ていて、山野は足軽のような姿をしていて二人は身を隠しながらここまで来たのだろう言うことは一目でわかった。
「土方さん、すみません…勝手に」
「…何かあったのか?」
「その…話すと長くなるので…中でもいいですか?」
よく見ると総司の顔色はあまり良くない。無理を押してここまでやって来たのだろうと察し、土方は二人と近習詰所へ入った。総司はすぐに横になり、事情は山野が布の切れ端を渡しながら話し始める。
「実はこのようなものが醒ヶ井の妾宅に投げ込まれていました」
「…誰からだ?」
「わかりません。僕は悪戯の類ではないかと思ったのですが、沖田先生の判断で念のためお孝さんとお勇さんには警備の隊士とともにおみねさんのお宅へ避難していただき、僕たちはここまで駕籠でやってきました。一応襲撃から身を隠すために、先生はお孝さんの着物を借りて、僕はこのような格好で…」
総司は孝の薄紫の着物を肩から羽織り、山野は足軽姿で落ち着かない様子だった。
土方は布切れをまじまじと見たが、『逃げよ』という言葉以外には何もない。文ではなく袖を千切って殴り書きをしているものなので、咄嗟の判断で投げ込まれたものだろう。
「…山崎には会ったか?」
「いえ」
「入れ違いだったか…」
山崎には総司を説得して場所を移すように指示していたが、総司は自ら妾宅を離れることを選んだ。今頃、山崎は無人の妾宅の前で困惑していることだろう。
土方は総司の額に掌を当てた。
「…具合が悪いのか?」
「いえ…ちょっと駕籠で酔いました。久しぶりに乗ったからかなあ…」
「そうか…実はちょうど山崎へお前に醒ヶ井から離れるように指示を出していたところだった」
「…何かあったんですか?」
土方は御陵衛士の間者を始末したこと、伏見布陣前の情報が御陵衛士に漏れている可能性があることを話した。山野は唖然として
「沖田先生の判断は間違っていなかったということですね!」
と自分たちが危機一髪で逃れたことを喜んだ。総司は穏やかに微笑んだ。
「猫が…」
「猫?」
「いつものあの猫が、その布切れのことを教えてくれたんです。やっぱりあの猫は…」
総司が何かを言いかけたとき、ゲホッと咳き込んでしまった。総司は身体を丸めて堪えようとしたが、山野はその背中をさすり落ち着いたところで白湯を飲ませた。
「…山野、ひとまず状況が落ち着くまではここに居ろ。総司のことはお前に任せる」
「はい!」
「総司、ゆっくり休め」
総司は頷いて目を閉じた。
840
伏見薩摩藩邸に戻った内海は伊東が最後に残した文をもう一度読み返していた。
『衛士たちを頼む。これが私の最後の頼みだ。』
『でも願わくば…。私も、君の待つ春の日差しのような家に帰りたい。』
最後に託された願いと心残りがこの文には強くしたためられていて、読み返すたびにあの日のことを鮮明に思い出し胸が締め付けられた。
「…君は、こんなことを望んでいないのかもしれないな…」
内海は静かに呟いた。
伊東は御陵衛士の存続を願って近藤の誘いに応じ、殺されてしまった…その無念を晴らすためとはいえ、彼の同志たちが皆玉砕しては意味がない。鈴木がずっと乗り気ではなかったのは、仇討ちを拒んでいたわけではなく、同じ過ちを繰り返し衛士たちが破滅しても構わないという内海のやり方が、伊東の意に反すると思っていたからだ。そう気が付いた時、ますます彼は兄によく似ていたのだろうと思ったのだ。
伊東の願い通り、御陵衛士存続のために動くべきなのかもしれない。むしろ同志が改めて道を選ぶために皆を解散するべきかもしれない。
(でも大蔵君…この気持ちは、どうしようもないんだ)
鈴木だけでなく、伊東に心酔している衛士たちのやりきれない思いは、このまま晴れないまま膿み続ける。それは瘡蓋となって剥がれない限り、心残りとしてとても不幸で不穏な人生へと貶めてしまうのだ。
「…だからせめて…君の墓前に少しでも良い報告をさせてくれ」
内海が文を懐に仕舞うと、鈴木がやって来た。
「内海さん、薩摩から銃を借りました。詳しい事情は話しませんでしたが…金を渡して二丁お借りできました」
「…そうか、有難い。それは阿部君と富山君に。彼らは銃の心得がある」
「わかりました」
醒ヶ井からの帰り道、寺町通で四人の従者を引き連れて馬に跨る近藤の姿を見かけた。敵討への執念が再熱し、おそらく二条城へ向かうと踏んだ衛士たちは一旦伏見薩摩藩邸に戻り支度を整えて、近藤の帰路を狙うことで一同合致した。これからおそらく通るであろう尾張藩邸近くの丹波橋の付近へ向かい、待ち伏せする手筈になっている。あえて待ち伏せという形で襲撃するのは、伊東を殺した同じ方法でやり返すという明確な意思表示だ。
「…あのように偉ぶって市中で堂々と馬に乗る姿を見ると、油小路でのことが蘇りました。己は手を下さず、卑怯な手段で追い詰めた…やはり許せません。兄上の死の代償は、相応しい人物に罰を与えるべきです」
鈴木は眼前で近藤を見たことで気持ちが昂っているようだった。
内海は「そうだな」と同意して頷いて立ち上がり、彼とともに衛士たちが集う奥の間へと向かった。支度を整え、今か今かと待ちわびる衛士たちを前に内海は口を開いた。
「近藤の従者は四人。一人は皆も良く知っているだろう伍長の島田魁、そして横倉甚五郎…これは近藤直門の身内だ。それからもう一人若い隊士がいたが、おそらく我々が脱退した後に入隊した新参者だろう。最後に奴と思われる中年の男がいた。…厄介なのは島田と横倉だ。銃を使える阿部と富山にはまず近藤に狙いを定めてほしい」
阿部と富山が頷いたのを確認し、内海は続けた。
「それから俺と篠原、加納、佐原は銃声の後に後方から応戦する。島田と横倉をまず狙え…他の者はここで待機だ」
「ちょっと待ってください!」
名前の挙がらなかった衛士は困惑したが、一番に声を上げたのは鈴木だった。
「後方支援なら人数が多い方が良い。衛士たち全員で向かえば良いはず…!」
「いや、姿を隠せる場所は多くはない。今回は銃を使える二人と槍が得意な者を連れていくべきだと判断した」
「っ!俺も連れて行ってください…!」
「それはできない」
「そんな…!」
鈴木は内海に食い下がったが、彼は首を横に振った。取り付く島もない様子を見て愕然とした。
「俺が…沖田を助けたからですか?俺を信用できないということですか…?」
「違う。沖田を殺すことが筋違いだという君の考えは、ここにいる衛士たち皆が納得した」
「でしたら何故…!兄上の仇を討たせてくれないのです?!」
「さっき君が言っただろう、大蔵君の最後の願いを忘れるべきではないと」
内海は鈴木の肩を軽く触れた。
「大蔵君は自分に何かあるかもしれないと思った時に、俺と君を美濃へ行かせた。俺を遠ざけたのはきっといらぬことに気が付いて引き止めないようにしたのだろうが、君は違う。…兄弟として君を守りたかったからだ。大蔵君のその思いを無碍にしてはならない」
「…そんな…じゃあ俺は兄の仇を討たせてもらえないのですか…?」
「今はその時じゃない。…きっとやり遂げる、皆を信じてくれ。残留する皆も同じだ、良い知らせを必ず持ち帰る」
内海は強い眼差しで鈴木を始めた残留する数名を見据える。今朝までの彼とは違う、冷静で静かな闘志を燃やす姿を見て誰一人その成功を信じない者はいなかった。
篠原は気を吐いた。
「揉めている暇はない。近藤が二条城から伏見奉行所に戻ってしまったらすべては水の泡。次の機会を待つことになってしまう…さあ出立だ!」
現場に向かう衛士たちは一層の気合を込めて立ち上がり、居残りになる者たちもまた「頼む」「任せた」などと背中を押す。皆が出立していくなかでいまだに俯いて納得できない様子の鈴木を見かねて、内海は刀を手にもう一度声をかけた。
「…鈴木君。これを」
「これは…」
「大蔵君の愛刀だ。濃州住志津三郎兼氏…あの日、何故か大蔵君はこれを置いて別の刀で醒ヶ井へ向かった。…ずっと君に渡すべきだと思っていたが、なかなか機会が無かった」
「…」
鈴木は躊躇いながらずしりと重たい刀を受け取った。手入れの行き届いた刀には手垢一つなく美しい姿を保っている。
「…兼氏は長刀で豪快な造りだが、その刀身は雪の結晶のように美しい。ずっと大蔵君に相応しい刀だと思っていた…もし、俺たちに何かあってこの薩摩藩邸を追われることになったら、君は故郷に帰り大蔵君を供養してほしい」
「でも兄上は…これを、内海さんに遺したのではありませんか…?」
鈴木はこの刀を自分が受け取って良いのかわからなかった。伊東がわざわざ愛用の刀を置いていったのは頼りない愚弟のためなどではなく、遠ざけてしまった親友に宛てたのだろうと思っていたのだ。
内海は「わからない」と微笑んだ。本当のところは彼が何も書き残していないので推測するしかない。
「だが…俺は大蔵君の文だけでいいんだ。俺は彼が遺した言葉だけでこの先も生きていける」
「…あの、兄上とは…どういう御関係だったのですか?」
「…」
内海は少し考えるように口を閉じた後、答えた。
「ずっと親友だった。そしてほんの少しだけ、君が考えるような関係だった。…だからもうそれだけでいいんだ。俺の人生は満たされた」
「…」
鈴木は少し呆然とした。内海は苦笑しながら「もう行く」と告げたが、鈴木は慌ててその袂を掴んだ。
「あの!…でしたら兄上はやはり、内海さんを美濃へ遠ざけたのは邪魔だったからではありません…!」
「ああ、わかっている。…わかっているけれど、許せないんだ。あの世に行って会うことができたら…一番に文句を言うよ」
内海は鈴木が掴んだ手をゆっくりと離した。
そして「行ってくる」とそのまま振り向かずに出て行った。
正午過ぎ。
「ほんま、誰もおらへんから腰抜かしましたわ!」
醒ヶ井の妾宅から慌てて引き返した山崎は飛び込むように土方の元へ報告に向かったのだが、実は当人たちがこの伏見奉行所へ逃げ込んでいると聞いて拍子抜けしてしまった…という話を寝床で聞き、山崎と顔を合わせた総司は苦笑した。
「すみません、まさか山崎さんが醒ヶ井に向かっているとは思いも寄らず。驚かせましたね」
「まあ、ほんまに無事で何よりです。それで山野から乗り物酔いで寝込んでるて聞きましたが…」
「それも随分と良くなりました」
「せやったらええんですけど。…伏見奉行所ではなかなか気ぃ休まれへんでしょうから、早めに静かに療養できる場所を探させます」
山崎は医学方として申し出たが、総司は首を横に振った。
「…ここにいる方が落ち着きます。多少騒がしくても大丈夫ですからここに置いてもらえませんか?」
妾宅で孝やお勇と過ごす穏やかな時間は悪くないと思えたが、やはり手を伸ばせる所に近藤や土方がいること以上に安堵できる場所はない。山崎は何か言いたげだったが、総司の言い分も理解できたようで「わかりました」と頷いた。
「俺が判断できることやないんで、ひとまず近藤局長が二条城から戻られたらご相談します」
「…そうですね。ところで近藤先生は何故二条城へ?」
「目付の永井様のお呼び出しです。朝廷のなかでも薩長に付くべきかまだ迷うてる公家がおるそうで、永井様はその説得のために近藤局長を同行させたいとの御意向で」
「先生は重用されているんですねぇ」
近藤の活躍を聞いて総司は思わず顔が綻んだ。師匠の手助けができない寂しさよりも誇らしい気持ちが勝り、総司にとって糧となる。こんな気持ちはやはり近くに居たからこそ芽生えるものなのだろう。
そうしていると山野が顔を出した。気恥ずかしそうだった足軽の格好から着替えて様子を窺う。
「あの…伊庭先生がいらっしゃっていますが、お通ししても宜しいでしょうか?」
「伊庭君が?勿論です!」
総司は驚きのあまり思わず声を上げ、軽く咳き込んでしまったので山崎と山野を呆れさせたが、伊庭がここにいるとは思いも寄らなかったのだ。伊庭は山崎たちと入れ替わるようにすぐにやってきて早い再会を喜んだ。
「沖田さん、まさかこんなに早くお会いできるなんて。あ、もう全快ですか?兵が一人でも多い方が助かりますよ」
「ははは、この通りまだお荷物です。伊庭君もこちらに布陣されているなんて知りませんでした」
「あれ?歳さんから聞いていませんか?やだなあ、俺がここにいるなんて重要な情報はいの一番に伝えるべきですよねぇ?」
伊庭は冗談を交えながら茶化すが、総司はもう二度と会えないかもしれないと覚悟をしていたので彼の顔が見られるだけで胸がいっぱいになった。
「私は近藤先生にお許しいただけるならしばらくはここに留まるつもりです。もし戦になれば私も出陣しますから」
「…やだな、さっきのは冗談ですよ。それに戦になるかどうかわかりません。話によると大坂城にいらっしゃる上様は異国と強く手を結ばれ、朝廷や薩長に対して強い態度で臨まれるそうですから早く決着がつくかもしれません」
「そうですか…そうだと安心できますね」
土方は一戦交えて決着をつけたいと考えているだろうが、仲間を失うことなく戦に勝てるのならそれに越したことはない。総司が軽く咳き込むと、伊庭は「そうだ」と難しい話を切り上げた。
「沖田さん、動物に好かれているそうですね?今日も猫に助けられたとか、暴れ馬が懐いているだとか…さっき山野という若い隊士に聞きましたよ」
「ああ、何だかそうなんです。特に猫は都に来てからやたらと大切な時に現れて…それが良い時とは限らないんですけど、今日は助かりました」
「『猫は三年の恩を三日で忘れる』という言葉をご存じですか?本当だとすれば、その猫は沖田さんにたいそうな恩があるみたいですね。沖田さんは前世で猫に良い行いをしたのかもしれないですよ」
総司は「そうかもしれない」と笑いながら、やむなく妾宅に置いてきてしまった猫のことを思い浮かべた。不吉だと忌み嫌われがちの黒猫だが、不思議と総司に懐いて時折顔を出した。
(あの猫は…いつも悲しみとともにやって来た)
芹沢の時や山南の時、藤堂の時もそうだった。今回だけは総司を助けるために来たのだろうか―――?
そう思った時。
「…何か聞こえますね」
伊庭が後ろを振り向いて呟いた。伊庭はここが戦時の拠点であるため無意識に鞘を持ち、敵襲ではないかと目を光らせて障子をあけて様子を窺う。すると遠くで誰かが叫ぶような悲鳴のような声が響いていた。
「少し様子を見てきます。沖田さんはここにいてください」
「…わかりました」
伊庭は小走りで出ていった。彼がいなくなると総司は胸が締め付けられるような痛みと息苦しさを感じて咳き込んだが、喀血はしていない。けれど心臓の鼓動がまるで早鐘のように鳴り響いて、全身が粟立つようだった。
835 鳥羽伏見において伊庭がどう活躍したかは明確な資料がありませんでしたが、鳥羽か伏見で活躍したという文献?(噂話程度ですが)を参考に今回の展開になっています。
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