わらべうた
851
年末、上様は辞官納地を温和な形で進め、議定就任をほとんど確定させていた。
しかし、上京した大目付滝川具挙と勘定奉行小野広胖から江戸の情勢を耳にし、予想以上に薩摩への憎悪が高まっていることを知ることとなる。そしてそれは江戸だけでなく、薩摩藩邸焼き討ちの話が伝わった大坂でも同じで、上司も下士も関係なく今にも暴発するような状況となって皆が討薩論に熱中していた。
浅羽も上様の一言さえあれば、幕臣や諸藩が挙兵へと向かう雰囲気を実感していたが、会津公は硬い表情のまま何も言わなかった。
「浅羽…上様のもとへ向かう」
「はい」
浅羽は小姓として当然同行した。
上様は質の悪い風邪を引き、大坂城から一歩も出ずに床に伏し続けていて本人も目が虚ろなまま何を言われても投げやりな態度だという。会津公が訪ねると「少し待て」とのことだったので、二人は近くで待機する。
「浅羽、近藤の具合はどうだった?」
「はい。随分具合は良くなったそうです。何度か見舞いに行きましたが、顔色も良くなっていました」
「そうか…伏見で指揮を執れないのは残念だな。本人も悔しいだろう」
「ですが、伏見には土方います」
「そうだな。そろそろ会津の旧式部隊と伝習隊が合流しているだろう。新撰組とともに一丸となって戦ってくれれば良いのだが…」
「…はい」
(殿はすでに戦となる算段でいらっしゃるのか)
浅羽は敢えて何も訊ねなかったが、会津公の眼差しは強くどこかを見据え続けている。会津にいた頃は白鷺のように儚く繊細そうな姿だったが、今の会津公にはそれはなく大一番を前に身構えているように見えた。
そうしていると上様のお付きの者が声を掛けにやってきて、二人は揃って謁見したが、上様は寝巻のまま椅子に腰かけて足を組み相変わらず気怠そうな様子だ。
「上様、お身体の具合は…」
「悪い。最悪だ」
「左様ですか…」
上様は不機嫌な上に八つ当たりをするが、会津公は構わず続けた。
「ご存じのこととは思いますが、城下では臣下たちがが討薩論に逆上せ、手が付けられません。さらに老中の豊前守が大坂の薩人を一人殺せば金を出すと触れ回る始末です。…どうか上様御自ら制止するようお命じください」
「…豊前守か。あれはどうも常軌を逸しているところがある…」
上様は小馬鹿にするようにため息をついた後、「わかった」と応じた。この件はすぐに幕命が出され、撤回されたが不穏な空気まで消え去ったわけではない。
「上様、越前や尾張の者が先ほどこちらに来ていたようですが、いったい何用でしょうか」
「…私に都へ上洛するように朝命が下ったのだ」
「それは…」
「朝廷では議定就任が内定していたのだ、顔を出すように命じられてもおかしくはない。…・だが焼討の件で応じるべきか悩んでいるところだ」
上様は憎々しく呟いた。上洛の朝命とは会津公は驚き、浅羽も意外に思ったが、薩摩藩邸焼討の知らせが届く前にでた朝命なのだとしたら、上様の言う通り本来ならばこのまま和解の道を進んでいたのだろう。しかし江戸ではすでに薩摩と敵対し、帝が薩摩の手中にある以上のこのこと顔を出すことはできないだろう。
会津公は意を決したように口を開いた。
「上様、これは薩摩を討つ良い機会です。十分な兵力で上洛し、君側の奸を清めましょう」
「馬鹿を言うな。朝廷からは軽装で来るように命じられている、信頼できる数名を連れて参内するつもりだ」
「まさか。そのようなことをなさればお命がありません」
「兵など連れて行けば、戦をしに行くようなものだ」
「でしたら、そういたしましょう」
会津公の強い言葉に、上様はまた呆れた顔でため息をついた。
「…肥後守はよほど私を朝敵にしたいようだな」
「上様こそ、この道以外ないことをすでにご存じのはずです。家臣や諸藩の討薩の動きはもはや制しようがありません。もし朝命に従い、参内されるおつもりでしたら薩摩征討を皆に肯定したうえで向かわねば必ず暴発します。それに大勢の兵を連れずに入京した場合、御身をお守りできません」
「…」
少数の兵とともに軽装で向かう…それがどれほど非現実的なことか上様はわかっているはずだと会津公は指摘した。いつになく強い言葉に図星だった上様は少し黙ったが、気怠そうな身体をようやく起こし、ようやく会津公の方へ向けた。
「肥後守、先の長州征討では幕府軍は負けたのだ。確かに我々は兵力では勝るが、薩長は異国より武器を買い軍を築き、徳川という傘に守られ戦など想像もできぬような暮らしをしている我らに向かってくるのだ。…勝てると思うのか?いたずらに朝敵の汚名を被るのは私だぞ」
「そのお覚悟をしていただかなければなりません」
会津公がさらに踏み込み、上様は怪訝な顔をした。
「上様。城下では将校兵士たちは激憤し、恐れ多くも上様を刺し違えてでも戦に臨むと言い出しているのです。愚かな考えであることは間違いありませんが、彼らは何も熱に魘され無暗に薩摩と闘いたいわけではなく、勝てる戦だと信じるからこそ拳を上げている。江戸で民を苦しめる薩摩へ義憤に駆られ、この国と徳川を思うからこそ立ち上がろうとしているのです」
「…それが私の意に背くことであってもか?」
「薩摩の焼討についてはもうどうしようもないことです。ただこのまま動かねば薩摩ではなく、自軍によって自滅するでしょう。…上様、もう戦は始まっているのです。これから先は西国の兵が集うまでにいち早く動くべきです」
「…」
浅羽は会津公がこれほどまでに強い言葉で上様を責めるのを初めて見た。いつも上様の意向を尊重し、言葉を選んで支えて来た会津公はそこにはいない、かわりにいたのは臣下の燃え滾るような戦意を代弁する勇ましい姿だった。
上様は一度目を閉じた。あれこれ言い返して理屈を並べて会津公を追い払うことなど簡単にできるだろう。けれど、そうはしなかった。
「…会津は最後まで共に戦うか?」
「勿論です、上様。会津は決して裏切りません…ですから、どうかご覚悟をお決めください」
会津公は即答した。御三卿の一橋家には領土も家臣もいない。さらに上様自身も水戸徳川家から養子に入ったため信頼できる家臣を有していない。そのような上様の孤独を会津公は良く知っていた。
上様はまじまじと会津公を見たが、会津公は目をそらさず上様を見つめ続け、上様は「わかった」と先に折れて口にされた。
「肥後守の融通の利かなさは良く知っている。会津の義理堅さは先の将軍家茂公も信頼していた。…お前たちがしたいようにすればいい」
「上様、それでは…」
「私は具合が悪い」
上様は話しを切り上げると下がるように命令してそのまま寝所へ戻っていってしまった。
会津公は神妙な顔でしばらく上様の言葉を反芻するようにして考え込んでいた。そしてしばらく歩いた後に急に足を止めて浅羽の方へ振り返ると、
「わかった、とおっしゃったな?」
と確認した。浅羽は「はい」と頷いた。
「そうか…だったらもう、我々も後戻りできない」
「殿…」
会津公はますますの決意を秘めて、また歩き出したのだった。
年の暮れが迫っていた。
「俺は一度、大坂へ向かうことになりました」
伊庭が土方の元へ訪れたのは彼が出立する直前のことだった。
「何かあったのか?」
「ええ、数日のうちについに都へ向けて進軍を開始するそうです。遊撃隊も再編成して布陣することになりますから、ここに戻って来られるかはわかりません」
「進軍か…」
江戸薩摩藩邸焼討から潮目が変わりそれまで朝廷と協調路線を取り政治的勝利を目指していた徳川だったが、討薩の流れを止めることができずついに武力をもって軍事的な勝利を目指すこととなった。実際にこの奉行所でも皆が討薩論に熱中し今にも伏見の薩摩藩邸へ戦を仕掛けようとそんな冗談のような本気のような話も耳に入って来ていた。
伊庭は申し訳なさそうな顔をした。
「近藤先生のお見舞いに行きたいのですが、なかなかそうもいきそうにありません」
「気にするな。総司から文が来て、無事に手術が終わって傷が塞がったらしい」
「そうですか、それは良かった」
伊庭は安堵の表情を浮かべた。総司の文には松本のおかげで術後の経過も良好だと書かれていたが、近藤は伏見にいた時よりも少し塞ぎこむ時間が増えたのだと添えてあった。一朝一夕に治らないとわかっていても、戦が起ころうとしているのを目の当たりにすれば自分の無力さを感じざるを得ないだろう。
「もし会う機会があったら宜しく伝えてくれ」
「そうします。…そんな気分でもないですけど、良いお年を」
伊庭は軽く頭を下げた後、「じゃあ」と足早に去っていき仲間とともに伏見奉行所を出て行った。
伊庭の属する遊撃隊は徳川軍のなかでも信頼できる戦力で、戦となればその名の通り重要な作戦に向かうことになるだろう。伊庭は去るときはいつも仰々しく挨拶していたが、今日だけはあっさりとした別れの言葉だけだったのはむしろ戦を予感しているからこそ余裕がなかったのかもしれない。
(ひしひしと…戦の気配を感じるな…)
土方がしばらく伊庭を見送っていたところ、山崎がやって来た。
「副長、宜しいでしょうか」
「どうした?」
「こんな時に…勝手を申し上げるようで恐縮ですが、一日暇を頂けますでしょうか」
「…」
土方は山崎の顔を見ると、彼はどこか思い詰めたような眼差しをしながらも覚悟を決めた表情で唇を噛んでいた。土方は山崎の気持ちを察し、小さく頷いた。
「わかった。…近々、薩長の奴らが伏見に布陣するだろう。やらなければならないことがあるなら、そうした方が良い」
「…おおきに、ありがとうございます」
「もしそのまま…帰って来なくても俺はお前を責めない。今まで長く苦労をさせたからな」
山崎は壬生浪士組だった頃から長く監察方を務め、ほとんど無休で危険で嫌われる仕事を請け負ってきた。愚痴も言わずただ土方の片腕として彼にいま報いるべきかと思ったのだが、山崎は「まさか」と噴き出して笑った。
「俺は監察方です。今まで仰山の隊士を裁いてきた立場で、そんな幕切れなんて俺自身が許せまへん」
「…そうか、冗談だ」
「冗談にしといてください」
山崎は少しだけ表情を和らげると、「行ってきます」と深く頭を下げて伊庭と同じように奉行所を出て行った。
852
壬生の八木邸には時折子供たちの元気な声が響くだけで、静かに時間が流れていった。
相良は途切れ途切れの意識のなかで、ふいに山崎の声が聞こえた気がして重たい瞼を開けた。重たい身体を起こすと、彼の姿はないものの遠くで誰かと話をしている声が聞こえてくる。
「烝…」
床に臥せてばかりの相良には外の世界がどうなっているのかはわからない。季節や日付さえも曖昧だ。それに一緒に療養していた新撰組の隊士たちの半分は戦に備えるために伏見へ向かいもう半分は去って行ってしまった。世話を焼いてくれている八木家の女中は顔を顰めながら「遂に戦やて」と悲壮感を帯びて教えてくれるが、相良には実感がない。まるで自分だけ別の世界に取り残されたかのようだ。
(まあ…もうとっくの昔に取り残されてるんやけど…)
相良は自嘲しながら細くなった自分の掌をまじまじと見た。ぶつぶつの発疹が身体中に広がっている…きっと見るに堪えない姿になり果てているのだろうが、
「直、元気そうやな」
と山崎は顔色一つ変えずにやって来た。まるで何事もないかのように微笑む姿に(さすが監察やな)と相良は内心苦笑する。
「…烝、ええんか…伏見は…」
「ええって。なんや嘘みたいにのんびりしてるし」
「ふうん…あ」
相良は不意に眩暈がして額を抑えたところ、山崎が両肩を支えるように抱き留めた。
「大丈夫か?」
「…うん、大丈夫…」
山崎がそうしてくれたように、相良も平気なふりをした。本当は身体を起こしているのも内臓を圧迫して息苦しいけれど、山崎が抱きしめてくれることが何よりも治療になる気がした。
(温かいな…)
一人きりで過ごす時間が多いせいで、余計人肌が恋しく感じる。相良はしばらくの間身を任せていたが、やがて山崎は口を開いた。
「直…念のためというか、あれなんやけど…八木邸を離れた方がええかと思ってな」
「…戦か…?」
「まあ、そんなところや。ちょうどええ匿い先も見つけたし、そこなら医者も通ってくれる。さっき八木さんにはようようお礼を言うといたから、今から一緒に行こ」
「そう…か…」
相良は目の炎症のせいで曇りぼやける視界のなかで山崎の表情をまじまじと見た。
(こんな顔…見たことあらへん…)
口元は笑っているのにその眼差しは寂しげに揺らぎ、疲れている。両手を彼の頬に這わせると挟むようにしてもっと近くで見ようとすると、山崎は唇を尖らせながら「なんや」とひょっとこのような顔で笑う。
「…烝、ほんまに大丈夫か…?」
「大丈夫に決まってるやろ。これはなぁ、武者震いや」
「針医者の息子が?」
「もう立派な武士やで」
山崎は笑いながら「はよ行かな」と相良から離れて、かわりに荷物をまとめ始める。荷物と言っても行李一つに収まる量だが、それを連れてきていた小者に預けてしまい、山崎は
「直はおぶってやる」
と背中を向けてしゃがんだ。てっきり駕籠を呼んでいるものだと思っていた相良は「阿呆か」と冗談だと決め込んだが、山崎は首を横に振った。
「直、これはデートやで」
「でー…?」
「異国語で、逢引っちゅう意味や」
「…へえ…」
「なんや、その反応は」
一体何のつもりかと相良は苦笑したが、山崎も楽しそうに笑い飛ばすので恥ずかしがるのも馬鹿らしく、彼の言う通り背中におぶさり肩から半纏を掛けてそのまま部屋を出た。
幼馴染の同い年、大して体格も変わらないはずだったが相良には山崎の背中がとても大きく感じた。もちろん駕籠に比べればゆらゆら揺れてちっとも気が抜けないが、静かな寝床で一人目を閉じているよりもよほど安心感があった。しかし山崎が小さな声で「軽いなあ」と寂しく呟いた時には何と答えればいいのかわからなくて、聞こえないふりをした。
八木邸の立派な玄関を出て外に出ると、冷たいけれど草木の匂いのする風が鼻腔を掠め、久しぶりに息を大きく吸い込んだ。心地良い空気が身体に取り込まれるようだ。
「寒いか?」
「寒うない…」
「そうか。…寝てたらええから」
「うん」
相良は山崎の肩口に顔を埋め、より一層身を任せた。
どこへ向かうのか、どれくらいかかるのか、相良は敢えて訊ねなかった。向かう先が山崎と一緒ならどこでもいいと思い、またこうして寄り添っていられる時間がどれほど貴重なのか分っていたからだ。だから終わりを知りたくはなかった。
(離れている間に…忘れへんように…)
そんなことを思いながら、身体は相変わらず重たくて相良はうとうとと途中意識を飛ばしていた。山崎はゆっくりと歩き続けその心地の良いリズムのような揺れは幼子をあやすように続いていた。
けれどしばらくして山崎の足が止まっていることに気が付いた。風の匂いも都のものとは違っていた。
「…烝?」
「…直、起きたんか?」
「これ…淀川か?」
相良は山崎が立ち止っている先に大きな川があることに気が付いて、つい故郷の馴染みのある淀川を挙げたのだが、山崎は少し間を開けて「まさか」と笑った。
「鴨川や。ちょうどええから休憩しよか」
山崎は土手の勾配を利用して相良を降ろして息を吐く。どれほど痩せたとはいえ男一人を抱えて歩き続けたのだから疲れているはずだろう。けれどそんなことはおくびにも出さず
「これこそ逢引やな」
と茶化した。相良は「阿呆」とため息をついたが、身体を横たえると妙に心地よかった。長い間無縁だった土の冷たさ、草木の匂い、水の流れが鼓膜に優しく響き、空は曇天でも高く遠い。
(まだ、生きてる…)
相良がそんなことを考えていると、山崎も同じように大の字に横になった。
「直、悪かったな」
「なにが?」
「お前の傍に飽くほどおるって約束したくせに…実際は一人にして寂しい思いをさせたやろ。約束したのにな」
「…あのあばら屋に一人でおった頃よりよほど良かったで。隊士の皆も、八木さんも優しくて温かかった…そうや、お静さんは元気やろか?一度ちゃんと礼を言えへんとな…」
「……親しかったんか?」
山崎は顔を顰める。相良にはよく見えなかったが、声色で拗ねたことはわかった。
「…親切やったで」
「下心があったんやあれへんのか?」
「阿呆言うな。お静さんは死んだ旦那一筋や。俺のことなんか弟か、子供のように扱うとった。…せやけど、有り難かったんや…」
勘当され、拠り所がなく彷徨っていた相良に一番最初に手を差し伸べてくれたのが静だった。何かと世話を焼いてくれたのは同じ新撰組の協力者の誼かもしれないが、それ以上の優しさと安心感を与えてくれていたのは間違いないのだ。
すると山崎は頭を乱暴に掻きまわした後「悪い」と謝った。
「その時なんも知れへんで、お前に頼り切りやった俺があれこれ妬く資格なんて無かった」
「…ハハ、妬くって…」
「当たり前や、好きなんやから」
山崎は身体を起こすと、仰向けになっている相良の唇と重ねた。初々しく啄むようにしたあとに深く吸い、口腔を掻きまわして離れると、相良は頬を紅潮させ眼を滲ませていた。
「…直?」
「好きって、初めて聞いた気ぃする」
「…そうか?なんべんも言うた思うけど」
「言うてへん。…烝は俺との約束を守るために無理してるんや思うとった。男やし、こんな瘡毒にかかって、きしょい見目で…」
「もうそれ以上は言うな。直は直やろ」
顔を隠して泣く相良の手を取って、山崎は覆いかぶさるように抱きしめた。骨が折れてしまうような強い抱擁に山崎の感情が流れ込んでくる…こんなにも明瞭に彼の気持ちを思い知ることはなかった。
相良は満たされたような気持ちで山崎の腕を枕にしてしばらくぼんやりと川の穏やかで変わらないせせらぎに耳を澄ませていた。山崎は逢い引きだと言っていたが、相良もその通りだと思った。何にも囚われず、他のことはどうでも良くて、何もしていないのに隣にいるだけで幸福で仕方ない。ずっとこの時間に浸っていたくて互いにもう行こう、とは言わなかった。
けれど無情にも時間は確実に過ぎて行き、山崎が重々しく「もう日が暮れるな」と呟いた。
「直、これは薬や。ハナさんから預かってきた。…楽になるから、飲んだらええ」
「…わかった」
薬を飲み干すと、山崎が再び背中を差し出したので相良は身を預けた。
ゆらゆら、ゆらゆらと山崎の足がどこかへ向かう。人の目がつかない畦道や田んぼ道を通り、南へ、南へ。
「なあ、直」
「…なんや」
「直はいつから…その、なんてゆうか」
「お前のことが好きだったかって?」
「…そう」
はにかみながら尋ねる山崎に、相良は内心(なんでお前が照れるんや)と苦笑して答える。
「こんなにはっきりわかってたわけやない…でも、たぶんずっとや。俺もお前も知らん、ずっと、ずっと前や」
「そうか…俺は果報者やな」
相良は腕を強く回して山崎の首元に顔を埋めた。目を閉じると、これまでのことが蘇ってくる。初めて出会った時のことなんて覚えていない。近所で、同い年で、気が合って、でも歩む道は異なっていた。商家の次男坊としての生き方を受け入れた相良と、家に縛られず自分の道を切り開こうともがいていた山崎…相良は二人の人生はいつかきっと離れ離れになってしまうだろうと覚悟を決めていたのに、ふらりとどこかへ出かけても山崎は必ず戻って来た。それが妙に心地よくて、楽しくて、嬉しかった…もしかしたらその頃から幼馴染を恋うていたのかもしれない。新撰組の協力者となって家を裏切り、身を捨てても後悔はしなかった。
(実は俺、恋に生きたんかもしれへんなあ…)
そんな自分が少し可笑しくて、少し誇らしい。
次第に日は暮れて辺りは暗くなり、相良はうとうととし始めた。
「…直」
「…んー…?烝…かんにん、ちょっと眠い…」
「ええよ。寝たらええから」
「うん…」
瞼が重く、身体が熱い。相良は山崎の言葉に甘えることにしたが、
「ごめんな」
という夢とも現ともわからない山崎の言葉だけが、何度もこだましていた。
遠くで鐘の音が聞こえた。それは何度も何度も繰り返される。
(除夜の鐘や…)
聞き覚えのある懐かしい音で起こされて、相良はゆっくりと目を開けた。見慣れた天井、嗅ぎ慣れた香、身に添うように温かな布団…何もかもが懐かしいけれど遠い記憶。
「起きたか?」
「……えっ?」
相良は目を見開いた。相変わらず霞んで良く見えないせいで見間違えたのだと思ったが、そこにいたのは山崎ではなく兄だった。
「な、…なんで…」
「昨日、お前の友人と一緒に駕籠で店前にに乗り付けたんや。お前はよう眠っとって目ぇ覚ませへんかったけどな」
「駕籠…」
相良は慌てて体を起こす。このあまりに懐かしい部屋はかつて勘当する前に自分に与えられていた部屋で、そっくりそのまま変わらなかった。まるで主人を待っていたかのように。
しかしあまりに突然のことに動揺し信じられない。
(夢…?!)
相良は掌を見るが、相変わらず瘡毒の見るに堪えない発疹がいくつも膨れ上がっている。頬を強く叩いても痛いままで、これが紛れもない現実だと思い知るが、まだ信じられなかった。ここにいる資格はとっくの昔に無くなったはずで、兄も呆れるような眼差しを向けている。
「…せやけど、俺は、勘当されて…」
「ああ、お前の顔なんで二度と見るか思うとった。代々続く商売を蔑ろにした親不孝者やからな…せやけど、父上は駕籠から出て来たお前を見て号泣した。今までのこと全部水に流して面倒をみる言い出してな。…父上が頑固なんはよう知ってるやろ、いまは毎日お前の快癒を願うて祈祷に行ってるで」
「父上が…」
相良の目には勘当を告げる父の淋しげな眼差しだけが残っていた。突然病に侵され余命幾ばくもない息子の姿を見て父はどれほど悲しんだことだろう。そう思うとやりきれない。
そして兄は深いため息をついた。
「…父が許したれちゅうんやから許すしかあれへん。もうなんもかも過去のこと…お前がどっかで野垂れ死んだら夢見が悪いやろ」
「兄さん…おおきに…」
相良にとって兄という人は血が繋がっているだけで、優秀で賢くて常に自分よりも高い場所から見下ろしている、手の届かない人だと思っていた。そんな兄に新撰組の協力者だと知られ激昂する姿をみて二度と和解することはないだろうし、それを望むべきではないと思っていたので、まだ互いによそよそしい態度でも胸の閊えが取れたような気持ちだった。
相良は頭を下げたが、しかし心はざわついたままだ。
「あの…それで、烝は…?」
相良は部屋の外を窺うが、山崎の気配はない。すると兄は「もういない」と告げた。
「いないって…」
「そもそも、あいつにはお前の居場所が分かったら知らせろ言うとった。…昨日突然来て、都はどこもかしこも危険やさかい、どうか匿うて面倒をみてほしいと頭を下げとった。医者は手配しとるとかゆうて周到にな」
「ほな…戦に…?!」
「たぶんな、これから徳川と薩長の戦や」
「…っ!」
相良は急に胸が苦しくなって前のめりに倒れ込む。まるで空気を失ったように息苦しい…兄は怪訝な顔をして「もう横になっとれ」と寝床へ相良を横にさせ、額に触れた。
「熱いな…女中を呼んでくる」
「…兄さん…あの、烝は…なんや、言うてへんかったか…?」
相良の頭の中で山崎が最後に言っていた『ごめんな』という言葉が蘇った。彼が相良を連れ出して逢引だと言ったのも、淀川を鴨川だと言ったのも、眠気を誘う薬を飲ませたのも…すべてここに連れてくるためだった。そして意識を失う前の最後の言葉はきっと別れを告げずに去ることを謝っていたのだ。
全てを悟った相良は「ああ…」と両手で顔を覆った。どうして気が付かなかったのか…込み上げてくる感情が抑えきれず嗚咽する。
(俺は、お前に何も言えへんかった…)
戦場へ向かうと知っていたら、もっと言いたいことがあったのに。これが別れだと知っていたら、もっと言い残したいことがあったのに。
涙を堪えきれない姿を見て兄は淡々と告げた。
「伝言、預かっとる」
「伝言…」
「『必ず迎えに来る』…そう言うとった」
「…!」
「ええから寝とれ」
兄は部屋を出て行った。一人にしてやろうという心遣いだったのかもしれないが、相良はどくんどくんと心臓の音が身体中に響いて鳴りやまない。
相良は身体を横にして膝を抱えて丸めた。そうしないと感情を抑えきれず叫び出してしまいそうだったから。
最期まで一緒に居られると思っていたわけではない。自分の命が尽きようとしているのはわかっていて、その場に山崎がいてくれる保証なんて無かった。けれどこんな別れ方を望んだわけではない。
(いや…違う…)
必ず迎えに来る―――その言葉は決して別れではない。また会えるはずだと信じてここに連れて来たはずだ。
(だったら俺はお前を信じる…)
決意した途端、涙は止まった。強張っていた身体も緊張が解けて、ごーん、ごーんという鐘の音が耳に入ってきた。幼いころから聞き慣れたそれがどうしようもない孤独感を埋め、一度は失った家族のぬくもりが安心感を与えた。
帰るべき場所に帰り、長い旅が終わった。
(俺はここでお前の帰りを待つ)
待つのは得意だ。たとえいつの間にかいなくなってしまっても、帰ってくることを知っているから。
相良は目を閉じ、鐘の音だけに耳を澄ませた。
853
鐘の音がいつの間にか聞こえなくなったころ、東の空に陽が昇り新しい一日が始まる。同じことの繰り返しに過ぎないはずが、年に一度のこの日はいつも特別に感じた。
慶応四年。
総司は身を置いている大坂城近くの奉行所屋敷の離れでゆっくりと目を覚まして、光が差し込む障子を開けた。都より幾分か寒さは和らいでいるが、冷えることに違いなく無意識に肩を竦ませながら北東の空を見上げた。
(伏見は寒いのかな…)
そんなことを考えていると、隣室から「総司、起きているのか?」と声を掛けられたのでそちらへ向かう。正座して襖をあけ、恭しく頭を下げた。
「先生、明けましておめでとうございます」
「おめでとう、今年もよろしく。…早速、一つ頼みがあるんだが、羽織を着るのを手伝ってくれないか?」
「羽織ですか?」
総司は襖を占めて衣紋掛けに掛けてある上品な羽織に目を向けた。
「ああ。このざまだが正月一日は厳かに過ごしたくてな」
「…先生らしいです。わかりました」
療養中の近藤には必要ない行為ではあるが、新年を迎えためでたい日にせめて羽織にそれを通していたいと思うのは近藤らしい発想だろう。総司は患部に注意しながら袖を通し、襟を整えて羽織紐を結んだ。
「先生、右肩の調子はいかがですか?」
「うん…松本法眼には励ましていただいたが、なかなか思うように動かない。指先に思うように力が入らなくてな…紐を結ぶどころか匙さえうまく持てないよ」
「…」
総司は右手を見た。その指先は動かそうとするたびに小さく震えていて、近藤の負った怪我の大きさを実感させられた。そして手術から数日経っても変わらない現実に近藤は少し疲れているようにも見えた。
「今更…刀を置かなければならなくなったお前の気持ちがわかるよ。亡き義父に導いていただき、時間をかけて鍛えて来た…俺の人生そのものだ。そう簡単に諦められない」
「…先生は諦める必要はありません。少し休めばきっと良くなります」
「そうだろうか…」
総司の言葉は、落胆する近藤の前に虚しく落ちていくようだった。先の見えない奈落へと落とされた気持ちはよくわかる。
(ちょうど一年前の今頃か…)
英から労咳だと診断を受け土方へ別れを切り出したのは大晦日で、昨年は散々な幕開けになってしまった。今となってはあの時程の絶望感は無かったと自負するが、近藤もその時に等しい暗闇の中にいるのだろう。
「…私の右手を差し上げられたら良いのに…」
現実的なことではないとわかっていても、そう願わずにはいられない。もし総司は松本に「できる」と言われれば即決できるだろう。けれど近藤は苦笑した。
「総司…言っただろう、病が治ったらお前をまた鍛えなおすと。お前の右腕はもらえないぞ」
「でも…」
「…弱気なことを言って悪かった。まだ…少し整理がつかないだけだ。仲間が伏見にいると思うと余計な…」
「そうですね…」
奉行所の離れでも外から激しく口論する声や、武具が準備されているせわしない様子が伝わってくる。年末から年始にかけて大坂に集結している兵の数も増え続けている…遠くもなく、近くもない場所で戦の狼煙が上がろうとしているのだろう。それを日々感じ取っている二人は療養するしかないとわかっていても、逸る気持ちは堪えきれなかった。
「先生、部屋の空気を換えましょうか」
「そうだな」
総司が障子を開けると、ちょうどこちらにやってくる浅羽を見つけた。
「浅羽さん!」
「沖田君、明けましておめでとうございます」
「おめでとうございます」
近藤と同じように羽織袴姿の浅羽は涼しく穏やかな眼差しで微笑んでいた。いつも落ち着いた佇まいを崩さず誇り高い姿は武士の鏡のように眩く、近藤の前に膝を折り正月の挨拶をして深々と頭を下げる姿は気品さえ感じられた。
「近藤局長、こちらは我が殿から正月の祝いの酒です。松本法眼から少しは召し上がっても良いと伺いまして」
「お気遣いかたじけない。…お忙しいのでは?」
「ええ、そうですね…」
浅羽は言葉を濁しながら総司を見る。戦況が動けば遠慮なく教えてほしい…以前、そう頼んでいた総司は頷いた。浅羽は神妙な顔で「実は」と口を開く。
「明日、鳥羽街道から使者と兵が都へ向かうことになりました」
「都へ…?」
近藤の目つきが変わって、浅羽は続けた。
「年末に帝より上様へ上洛するよう朝命が下っていたのですが、折悪く江戸で薩摩藩邸を焼き討ちしたという知らせが届き、叶いませんでした。上様は軽装で上洛すべしという朝命に従うご意向でしたが、城内ではいまこそ薩摩を討つべきだと紛糾しまして…」
「当然です。道中に何が起こるかわかりません!もし再び都へ足を踏み入れることがあるならば戦だと思っていました」
「はい。多くの上官や兵も討薩に沸き立ち、もう止められない。…上様は戦をご決断をされました」
「なんと…!」
近藤は痛みに顔を顰めながら声を上げ、「それで!」と続きを促す。
「まずは奸臣薩摩を誅殺すべしとする『討薩の表』を大目付滝川播磨守がお届けし、帝のご裁断を仰ぐこととなりました。薩長土佐は鳥羽街道、伏見へ兵を置き、我が軍も各拠点へ一万の兵が投入されます」
「一万!薩長はそれほど多くの兵は集められますまい。地の利もあり、数の上では有利な戦だ。それで、上様は先陣には…?!」
「…立たれません、年末より酷いお風邪をひかれ寝込まれています。大河内豊前守が総督となります」
「それは…なんと…」
病なのだ、仕方ないと、忠臣の近藤ですらすぐに飲み込めない。いっそ仮病なのかと疑いたくなるほどだが浅羽も言及はしなかった。
「伏見へは陸軍の伝習隊、我が藩の砲兵隊たちが向かいました。すでに薩摩、長州、土佐が布陣し通りを挟んでにらみ合いとなっています。開戦となれば激戦となるでしょう」
「そうか…」
浅羽は事実を並べていき、近藤は唸る。総司は恐る恐る浅羽へ尋ねた。
「…では、明日開戦ですか?」
「いえ、あくまで滝川殿は使者として遣わされます。上様はこちらから戦の火蓋を切ることがないようにとのご意向です。多くの兵を引き連れれば薩摩は簡単に戦を仕掛けて来ないだろうと総督や陸軍奉行のお考えのようですが……」
それまで淡々と説明していた浅羽だが、その凛々しい眼差しを少し伏せた。
「…我が殿は厳しい戦になるのではないかとお考えです。徳川が一万、薩長合わせて四千から五千…兵の数こそ上回りますが、異国との戦を経験して商人から最新の武器を仕入れている薩摩や長州が相手です。兵の数で屈するならこんな簡単な話ではなく、その戦力は未知数でしょう。それに中立の土佐も伏見に陣を敷き、いざとなればどう動くのか…」
考え込む仕草をしていた浅羽はハッと我に返り、「申し訳ありません」と私見を述べたことを詫びた。しかし近藤は頷いた。
「総督を務める豊前守は過激なお考えをお持ちだと耳にしたことがあります。戦慣れしていない徳川軍がどれほど戦えるのか…会津公がそのように冷静で客観的にお考えでいらっしゃることは大変懸命なことです」
「私もそう思います」
浅羽は主人を褒められて少し顔をほころばせたが、すぐに表情を引き締めた。
「私はいまのところ大坂城に詰める予定ですから何かあれば逐一お知らせに参ります。ただ…会津の一兵として戦場へ呼ばれることもあるでしょう。会津は決して徳川を裏切れませんから」
裏切らない、のではなく、裏切れない。
浅羽の言葉の重さに、総司は無意識に唾を飲み込んでいた。
「年が明けたというのに忙しないな」
土方の元へやってきたのは井上だった。隊士へ少しだけ振る舞われた酒杯を手に、「飲め」と在りし日のような物言いで差し出した。
「…酒は…」
「景気付けの一杯だ、断るなよ」
「…わかった」
副長助勤としては部下だが、近藤よりも入門が早い井上はいつまで経っても兄弟子だ。新撰組の首としてあれこれ奔走する姿を見て声を掛けにきたのだろう。
土方は薄い酒を飲み干した。
「それで、どうだ?勝てそうか?」
「…そんなことわかるものか。指揮官次第だろう」
「陸軍奉行の竹中丹後守だって?隊でも噂になってる、あの竹中半兵衛の子孫だってな」
「子孫だからって優秀とは限らないだろう。戦国の世ほど戦の経験があるはずがない」
「良いだろ、その程度は肩の力を抜いても」
井上は土方の背中を強く叩く。しかし彼の言う通り今から肩肘張っても仕方ないのだが、明日の進軍の知らせを聞いてから土方の脳内では戦のシミュレーションが止まらなかった。
上様の『討薩の表』を持参する使者は五千以上の兵を引き連れて鳥羽街道を進軍する。易々と薩摩が幕軍を通すはずはなく、鳥羽街道と並び都と大阪を結ぶ大きな街道である伏見は必ず激戦地となるだろう。狭い路地での市街戦では大砲や銃の役割が大きく、今後到着する部隊は会津の大砲隊とフランス式の陸軍伝習隊であることは何よりの戦力となるはずだ。土方としては一刻も早く戦略を練っておきたいが、指揮官の姿はまだない。
土方は奉行所の地図を広げて北東の空を見た。その先には御香宮があり、少し高台になっている。
(御香宮から撃ち込まれたら、ひとたまりもないな…)
「…源さん、手が空いた隊士に胸壁になりそうな畳や戸板の類を準備するように伝えてくれ」
「はは…わかったよ。死にたくない奴は働けと伝える」
井上は盃を回収して奉行所内へ戻っていく。すると入れ替わるように山崎がやって来た。
「副長、今戻りました」
「ああ…ご苦労だったな」
昨日暇を願い出た山崎は出立の時は思いつめたような表情で緊張していたようだが、いまはどこか憑き物が落ちたようなすっきりとした顔をしていた。
「…相良は?」
「実家に帰しました。本人は承諾せえへんやろう思たので、眠ってる間にこっそりと。兄君は困惑されてましたけど、父君は喜んで…俺もなんか安心しました。例え死んでも心残りはおまへん」
土方は相良の詳しい事情をよく知らないが、新撰組の協力者であることが露見して勘当されたことは気になっていたので相良が終の棲家として実家に戻ることができたのは一番良い選択だっただろう。そして同時に山崎も戦に赴く覚悟を決めたはずだ。
「死んでもらっちゃ困るが」
「ハハ…努力します」
山崎は苦笑して頭を掻いて、「それよりも」と話を変えた。
「大坂から戻る道中小耳に挟みました、明日からの進軍で鳥羽方面には八千、伏見には千二百ほど投入されるとか。あの京都見廻組は使者の滝川殿の護衛として先鋒を務めるそうです」
「は…幕臣の子弟が集まっているからな。ご立派に務めを果たすだろう」
「お手並み拝見ですね」
山崎は口元だけ笑って、また表情を引き締めた。
854
翌、二日。
伏見へ続々と幕府軍が布陣した。伏見奉行所は新撰組、伝習隊、遊撃隊を含む陸軍歩兵隊、すぐ東隣の東本願寺伏見別院へ会津藩兵、背面の宇治川を挟んだ中之島側へ幕府歩兵大隊、後詰めとして高松藩、鳥羽藩、浜田藩が置かれ総勢四千の兵力となった。そのうち伏見奉行所は八百の兵が集った。
(伊庭はこっちじゃなかったか…)
遊撃隊は二つに分かれ、伊庭は鳥羽の方へ向かうことになったらしい。盟友の近藤や、総司、さらに伊庭のような気の置けない友人がいないことは土方としては何となく心もとないが、久しぶりの再会があった。
「久しいな!」
「御無沙汰しております、林殿」
会津砲兵隊を率いる大砲奉行の林権助(安定)は、すでの五十歳を超えた白髪頭の熟年藩士で、数年前の禁門の変の際には新撰組とともに天王山へ向かい長州を追撃した。せっかちなところはあるが快活で明るく、土方とは気が合った。
「まさかここで一緒になるとはな。近藤殿がいないのは残念だが、新撰組の活躍を大いに期待している」
「ありがとうございます。林殿の隊はこちらですか?」
「ああ、奉行所に配置された。会津砲兵隊一陣、大砲八門、開戦となればすぐにドカンとお見舞いしてやるぜ!隣は佐川が仕切る」
胸を張る林の一歩後方で控えていた男が土方の前に出た。好々爺の雰囲気がある林とは真逆で、眼光は鋭く威圧的な雰囲気を纏う佐川という男は近寄りがたいが、礼儀正しく深々と頭を下げた。
「会津藩士物頭、佐川官兵衛と申します」
「新撰組副長土方です。…会津藩がすぐ隣に布陣され、心強く思っています」
「こちらこそ。…では持ち場に戻ります」
佐川は林に軽く頭を下げてさっさと話しを切り上げて去ってしまった。愛想のない態度だがその眼には誰よりも燃え滾る闘志のようなものを感じ、土方は何となく目で追っていた。すると林が「すまないな」と詫びた。
「ああ見えて学校奉行に任じられていてな、無愛想だが人情に篤くて藩士からの信頼があるんだ。それに都で薩摩に弟を殺されていてな…この戦は佐川にとっては敵討ちのようなものなんだ」
「…そうでしたか」
林が「できる奴だ」と褒め、土方は信頼できる相手だと思った。何よりも敵を射抜くようなあの眼差しは相当な覚悟を持っている表れに違いないのだ。
その後、林と別れると斉藤がやって来た。
「どうした?」
「伝習隊士官の大川という副長と話がしたいとお待ちです」
「…大川?わかった」
(聞き覚えがない名前だな)と思いつつ、土方は斉藤とともに向かうと、伏見奉行所内の人気のない茶室の前で総司よりも若そうな年頃の青年が待ち構えていた。一目見れば伝習隊のものとわかる詰襟の西洋式隊服に身を包み、まるで隊列に並ぶように背筋を伸ばして待ち構えている。そして土方を見るや強い眼差しを向けた。
「新撰組の副長殿ですか?」
「いかにも、私が副長の土方だが」
「私は伝習隊士官、大川正次郎と申します。早速ではありますが、申し上げたきことがございます!」
若者特有の先走りなのか、本人の性格なのか、大川という青年は土方が答える前に待ちきれないと言わんばかりに矢継ぎ早に話始めた。
「伏見奉行所は開戦となれば薩長の標的とされるでしょう。会津砲兵隊、伝習隊、新撰組…八百の戦力について不足とは思いますが、総督がお決めになったことですので文句は言えません。しかし、このまま無策に望めば確実に伏見の兵は全滅するでしょう」
「…何故?」
「あちらです!」
大川は北東の方向を指さす。
「奉行所北東の御香宮は高台となっています。すでに薩摩兵が占拠しており、見晴らしのよさを考えれば確実に奉行所を狙える大砲を置くはずです。高い場所から低い場所への砲撃は容易いですが、その逆は観測不能で照準を合わせられません。我々は砲撃戦ではすでに敗北しているのです」
「言い過ぎではないか?」
黙って聞いていた斉藤は大川を睨む。大川は少しだけ怯んだ表情を見せたが、しかし土方は斉藤を制して
「続けてくれ」
と促した。
「は、はい。…つまり、兵数に胡坐をかいて真正面から戦うべきではないと申し上げています。例えば正門には会津砲兵隊を置き敵歩兵を威嚇、南北の門には我々伝習隊を配置し側面を撃つ、そして戦慣れしている新撰組には裏手に控え、機を見て敵拠点の御香宮を制圧することを優先すべきではないかと申し上げたいのです」
「伝習隊の上官に伝えたらどうだ?」
「…それは…取り合っていただけません、私の話など…」
大川はそれまで自信満々に話をしていたが、意気阻喪し急に視線を逸らして俯いた。伝習隊は幕府陸軍を編成し、フランスから指導を受けた西洋式軍隊だが、旗本が敬遠したためそのほとんどが身分を問わずに集まった博徒や雲助、農家の次男以下で構成されている。大川がもともとどのような身分であるかはわからないが、おそらく真っ当な意見を口にしたところで耳を貸してもらえない立場なのだろう。
(そういう意味では新撰組と共通するところがあるな…)
大川も同じことを考えて、新撰組ならば話を聞いてくれるかもしれないと意を決してやって来たのかもしれない。彼の強い物言いの端々には緊張で強張るところもあり、その拳は震えるほど強く握られていた。
(向こう見ずなところはあるが日和見よりは余程良い)
土方は
「…私も同じことを考えていた」
と口を開いたところ、大川の目が輝く。
「副長殿もですか…!」
「先んじて戦を始めるべきではないと上様の命令があったが、それが無ければ先に御香宮を占拠すべきだった。あの場所さえ抑えられればこちらが有利に事を運べただろうが、終わったことを嘆いても仕方ない。…ただ、一つだけ敵と同じ土俵に立つ方法がある」
「それは一体なんでしょうか!」
「夜戦に持ち込むことだ。こちらが高低差で照準を合わせられないのなら、同じ理由で視界が悪くなる夜になるまで耐え忍ぶべきだろう。幸いにも兵数だけは敵よりも多いのだから」
「なっなるほど!おっしゃる通りです!」
大川はまるで別人のように目を輝かせ、光明が差したと言わんばかりに喜んだ。しかし土方としては最善の策ではないと思っていった。少なからず犠牲が出るだろうし、夜戦に慣れている兵など多くはない。
(夜まで耐えきれるのだろうか…)
土方には懸念があったが、大川は納得したようで深々と頭を下げた。
「出過ぎたことを申し上げました!」
「いや…君の観察眼は正しい。また気が付いたことがあれば遠慮なく来てくれ」
「はい!」
大川はまるで子供のように喜んで「ありがとうございます!」と頭を下げて足取り軽く去っていく。土方の隣で見送った斉藤は少し呆れたようにため息をついた。
「あれが伝習隊士官ですか」
「期待外れか?」
「…歩兵隊よりはマシです」
斉藤の意見に土方は頷いた。
伏見にはこの状況でも『戦など起こるはずがない』『薩摩ごとき』『徳川が勝てる』と豪語し高を括っている兵士がたくさんいるからだ。
「ある筋からの話ですが、岩倉卿は幕軍の上洛を差し止める勅許を得たそうです」
「…偽勅か?」
「おそらく。けれど真偽は関係ありません。…討薩を求める徳川と、上洛を阻止する勅許。すでにどちらが先に仕掛けるか、それだけの違いです」
いつも冷静で淡々と事実を語る斉藤だが、彼の眼差しもまたいつもとは違う炎が宿っているように見えた。
夜。
松本は正月の挨拶などあっさり聞き流し、ピンセット片手に近藤の傷を診察しながら半ば愚痴のように喋った。
「今頃、おそらく淀城下に宿営して明日の朝鳥羽方面、伏見方面に分かれて布陣するはずだ。上様はもう『勝手にせよ』と言わんばかりでな、下の奴らが総督やら指揮官やら勝手に決めて出立したんだが、この総督になった老中の大河内豊前守ってのがなんていうか、信用できねぇ奴でな。お偉いさんにはへこへこ頭下げるくせに、俺みたいな医者や家臣にはまるで態度を変える。さらに大坂にいる薩摩人を殺すたびに金を出すなんて無茶を言い出して上様が諫めたことがあった。まったくそんな奴が総督になるなんて、勝てる戦も勝てねぇよなあ」
「…松本先生、そのくらいに」
近藤は消毒液の痛みに顔を顰めつつ松本を止めるが、「ここで愚痴言えねぇでどこで言えるっていうんだ」と続けた。
「それから次点にあたる指揮官の竹中春山って陸軍奉行もまぁた頼りねぇ奴でな。あの竹中半兵衛の末裔だっていうんで周りは盛り立てるが、本人はてんで無策、気弱で人の顔色ばかり窺う。そんな奴が指揮なんてなぁ?」
「…はは、土方さんとは仲良くなれなさそうですねぇ」
「違ぇねえ!」
松本が捲し立てるので総司は苦笑しながら相槌を打つ。大坂城内に詰める松本はおそらくあちらこちらで噂を耳にしながらヤキモキしているのだろう、近藤の包帯を巻く手にも力が入った。しかしこれ以上は誰かに聞かれても困るし、近藤の気持ちが落ち着かない。総司は「そういえば」と話を変えた。
「南部先生やお加也さんは大坂へ?」
「ああ、年末に都の診療所を明け渡してな。南部は俺と一緒に大坂城に詰めているが、加也は知り合いの町医者の所に身を寄せている。何かあれば駆けつけてくるだろう。英は伏見にいるらしいな」
「はい。…あの、本当に良かったんでしょうか?英さん本人の望みとはいえ…」
「なぁに、それくらいの修羅場を一つや二つくぐりぬけねぇとな。それより、あいつの覚悟がようやく決まったんだ、俺にとっちゃあいつが新撰組のお抱えとして伏見に残ったことは朗報だ」
松本はまるでこの時を待っていたと言わんばかりに満足げだった。松本は英と出会った時から医者の道へ背中を押してきた。
「英君が残ってくれたことは我々にとって有難いことです。…法眼は何故、彼を同じ道に?」
近藤が尋ねると松本は風呂敷の紐を硬く結んだあと得意げに
「人手不足と直感に決まっているだろう?」
と言い放つ。清々しい返答に近藤は「ふっ」と噴き出して笑い、総司もつられた。
松本が去り、近藤は「休む」と言ったので総司は自分の部屋に戻ろうとしたが、眠れない気がして外に出た。広い奉行所は空がひらけているが、あちこち松明が止まっているせいで明るくあまり星が見えない。
夜になると凍てつくようだ。総司は綿入れを着込んで暖を取りながらしばらくぼんやりとしていたが、急に右手に嵌めた指環が疼いて月に翳した。鈍色に光るそれは何も映していない。
「…歳三さん」
そう遠くない場所に布陣しているのに、まるで山を越え、海を渡らなければならないほど遠くにいるような気がした。
(どうかご無事で…)
855
慶応四年一月三日。いつもと変わらない、けれどいつもよりも寒く感じる冬の朝が訪れた。かじかんだ指先を温めながら伊庭は周囲を見渡していた。
昨年末伏見から呼び戻され大坂に戻り、慌ただしく年を越して支度を整え、講武所の師範であった遊撃隊今堀登代太郎の配下の一人として昨日二日に出立した。淀城下で宿営した幕府軍約一万五千の兵は今日から鳥羽、伏見と分かれて都を目指すことになっている。
「今堀先生、我々はやはり鳥羽ですか?」
「そのようだ。大目付殿とともに先遣隊として向かう」
(先遣隊…)
鳥羽街道ルートは先遣隊、中隊、後軍に分かれている。そのうち先遣隊は幕府歩兵隊、京都見廻組など合わせて二千名だ。
先遣隊のなかで、上様の『討薩の表』を携えた大目付、滝川具挙(播磨守)は護衛として見廻組四百名とともに先遣隊よりさらに先行して鳥羽街道を進むことになっている。見廻組はそもそも幕臣の子弟の集まりでこの辺りの地理に詳しく役目として相応しいのだが、伊庭の目にはどうも危機感が薄いように見えていた。
伊庭の怪訝な顔を見て今堀は「気持ちはわかる」と苦笑した。
「大目付殿は『あくまで使者』だと軍装せず礼装で向かうべきだと譲らないそうで、見廻組は小銃を持たず形ばかり気にしている。君のように先を見越して鎖帷子を着込むことなく、暢気なことだよ」
「…俺は臆病なだけです」
「またまた」
今堀は「謙遜を」と笑った。
伊庭より十ほど年上の今堀は、講武所で長く師範を務めており伊庭とは長く親交がある。幕臣だからと偉ぶることなくいつも冷静で客観的に俯瞰する気質を持っており、遊撃隊を率いる立場になるのは当然だと伊庭は思っていた。そんな今堀だからこそ現状を憂い、眉間に皺を寄せて難しい表情を浮かべていた。
「…総督や大目付殿は、この兵数を見せつければ薩長が怯んで戦など仕掛けて来ないとタカをくくっているように見える。その油断に足元を掬われなければ良いのだが」
「そうですね…」
伊庭が頷いた時、ちょうど進軍の合図が出たため遊撃隊は先遣隊二千の一部として進み始めた。
淀城下を北へ向かい橋を渡り、桂川沿いに進む。鳥羽街道は湿地帯が多く、道幅の狭い田園の一本道だ。まだ朝霜が残る道を踏みしめながら自分のなかで伊庭は悪い予感ばかりが高まっていることに気が付いた。
(敵がどこに潜んでいるのかわからない湿地帯…左右に展開できない道幅の狭さ…)
考えれば考えるほど幕府軍に不利な地形が続いている。それなのに危機感なく悠々と軍は進んでいく。まるでその先にある崖に気が付かずに進んでいるかのようだ。
しかし伊庭の前方にはすでに二千の先遣隊、後方には中隊の幕府陸軍二大隊と大砲四門…さらに後方にはもっと多くの兵が進軍を続けているのだ。まさか引き返せるはずもない。
(ああ…寒いな)
伊庭は右手親指の付け根…入れ黒子を摩りながら自分の悪い予感を誤魔化した。
その日の三時頃、鴨川に架かる小枝橋の手前の赤池村に到着。するとそこで薩摩軍と鉢合わせとなった。
滝川は己が朝廷への使者だと主張し道を開けるようにと見廻組とともに敵将との交渉へ向かったが、
「朝廷ん許可を得らんにゃ通すわけにはいかん」
「軽装で上洛すっごつと朝命が下っちょったはず」
と押し問答が繰り返されているらしい。伊庭たちに詳細が伝わって来ないままもう半時ほど過ぎるなか、急に空の雲行きが悪くなりみぞれまじりの悪天候になった。寒さのなかで足止めを食らい兵士たちは苛々し始めた。
「まだ先にへ進めないのですか?」
伊庭が尋ねると、今堀は腕を組んで唸る。
「…薩摩が良いと言わない限り通れまい。無理をすれば我々が先に手を出したことになり、上様が朝敵になってしまう」
「敵が通って良いというはずがありませんがね…」
伊庭はより一層背後が騒がしくなった気がして振り返ると、遠くに見える後方の部隊が淀方面へ引き返し始めていた。どういうことかと伊庭が駆けだして退却する適当な兵士を捕まえて事情を聞くと
「朝命に従い一部、淀本営に戻るように指示があったらしい」
彼らも気力が削がれたようなため息混じりの返答をしてぞろぞろと従って淀へと引いていく。兵数で勝る幕府軍が敢えて数を減らして戻らせる…『軽装で上洛』という朝命とはいえ、薩摩の思う通りに動いて徳川に利があるわけがない。
伊庭は
(馬鹿か!)
と叫び出したくなる気持ちをどうにか堪えながら、今堀のところへ戻り事情を話した。今堀も自軍の兵が退き始めていることに驚いていた。
「滝川様は何をお考えなのでしょうか…!」
「…大目付殿は文官だ。朝廷へ薩摩糾弾を申し述べる交渉役にすぎぬ。…そもそも戦をする気がない」
「ではここにいても仕方ありません」
伊庭は今度は前方へ向かい滝川たちが交渉を続ける小枝橋付近へと目を凝らすと街道沿いに大きな社があることに気が付いた。そして小枝橋西側には丘陵があって見通しの悪い竹藪がある。こちらが狭い田園を二列行軍隊列で進んでいるのに対して、敵軍は十分に左右に展開でき伏兵が潜む可能性すらある場所を陣取っている。このまま敵軍に誘い込まれればどうなるのか…。
伊庭は逸る気持ちを抑えながら持ち場に戻ると、今堀も顔を顰めたまま考え事をしていた。
「今堀先生、滝川殿にお会いしたいのですが」
「…そう簡単にお目通りできない。それにさっきも言ったとおり、大目付殿は戦をするためにここに来ているわけではない。たとえ状況を説明しても大目付殿には指揮をとることはできないだろう」
「しかし薩摩は戦の準備を進めています。今すでに着々と後退させられ、包囲されつつある。くだらない押し問答を繰り返しているのは、こちらを苛立たせ戦を先に仕掛けさせる…そうして徳川を『朝敵』にしてしまうのが目的です」
「…君の言っていることが正しいのはわかる」
「先生、ここに留まっていては時間がもったいない。せめて伏見へ向かいましょう。きっと今頃伏見では薩長と徳川のにらみ合いが続いています。この状況を早く伝え、周到に作戦を練るべきです」
伊庭は強く訴えたが、命令違反だと突っぱねられると思っていた。そうなればたとえ一人でも伏見へ向かうつもりだったのだが、
「わかった」
と今堀は頷いた。彼にもこの状況に思うところがあったのだろう、隊を二分して信頼できる隊士に任せ共に伏見へ向かうことを告げた。
「伏見に現状を伝えた後は戻ってくる。残った物たちで先遣隊の役目を果たすように」
今堀と伊庭は五十名ほどの遊撃隊を率いて伏見を目指すことにした。
同じ頃。
淀から到着した幕府歩兵は伏見奉行所後方の橋を渡った先の中書島へ布陣、総勢四千の兵力となった。対する敵軍は今朝から伏見奉行所前の大手筋という大通りを挟んで布陣し睨み合いが続いていた。何か些細なきっかけがあれば易々と互いの銃声が響く…そんな緊迫感がずっと漂っている。
土方は林、佐川とともに陸軍奉行で伏見の指揮を務める竹中丹後守重固(春山)の元へ向かったが、具体的な策は提示されず、ただ先に手を出してはならないと厳命されるのみであった。竹中のあまりに消極的な態度を見て老練の林は
「ここにいては戦況はわかりづらいでしょう。一度、奉行所へ足を運ばれてはいかがか?」
と誘うが、竹中は地図を広げるだけで前線に足を向けるつもりがないようだ。しかしそれでいて土方を見据えて「命令を必ず守れ」と繰り返した。無頼の輩である新撰組のことをあまり良く思っていないということだけはよくわかった。
持ち場へ戻りながら林は
「上様の意向をえらい気にされてるようだが、戦場であれでは困る。とっさの判断がでぎねえ御方のようだ!」
と遠慮なく悪態をついた。無口な佐川は何も言わなかったが、その表情の不快感は隠しきれていなかった。
「土方は気分が悪かったろ?新撰組はもう立派な幕臣だっていうのに、あんな見下げだ態度でな!」
「いえ…むしろやりやすいです。妙な期待をされず、好き勝手をしてもそういうやつらだと思われている方が楽ですから」
「ハハハ確かに!一泡吹かせてやるか!」
林は土方の背中を叩く。重役でありながら柔軟性がある林は土方の話を意欲的に受け入れてくれるので話しやすい。
三人は宇治川の橋を渡り、それぞれの持ち場へ戻ろうとしたが不意に佐川が足を止めた。そして東の…鳥羽方向へ遠い目を向けていた。伏見と鳥羽は一里ほどの距離でこちらから幕府軍の姿は何となく確認できるのだが、一刻ほど動いていない。
「なじょした?」
「…いえ、静かだと思いまして」
「そうだなあ…。伝令の知らせでは薩摩と交渉中だと聞いたが、このまま日が暮れちまうんでねえか?」
「その方が良いです」
「ん?」
佐川の返答を林はあまり理解できていないようだったが、彼は詳細を説明せずに「戻ります」とまたあっさりとそのまま会津藩兵が布陣する伏見別院の方へ向かっていった。
土方が林とともに奉行所へ戻ると、敵軍を探らせていた山崎が戻っていた。
「大手筋の向こう、薩摩は御香宮を筆頭に広く布陣し、長州は二個中隊、土佐四個小隊、合わせて千二百ほどの兵力と思われます。御香宮を探らせたところ大砲の数は九門確認できました」
「千二百か…」
「やれない数ではないな。それにこちらも大砲は八門ある」
林は自信がある言い振りだったが、土方は表情を変えなかった。
「…林殿、お話した通り正門は会津砲兵隊、南北の門に伝習隊、裏手は新撰組で宜しいでしょうか」
「もちろんだ。すでに正門には三門、他は適切な場所に配置させてる。おらが先陣さ立つ、任せろ」
「任せます」
土方は林に一礼して見送る。日和見の指揮官の元で不安はあるが、熟年の林が気を吐いている様子を見ると周囲の兵士たちの機運が高まっているようで助かった。
「山崎、小姓たちはどこへ行った?」
「ああ…たぶん小荷駄方の手伝いをしてる思います」
「手が空いたら奉行所の一番高い場所に日の丸の旗を掲げるように伝えてくれ。薩長にあくまでこちらが正規軍だと知らしめるためにな」
「良いですね」
山崎はにやりと笑った。戦略とは関係のない仕事だったが、兵の士気が少しでも上がるなら無駄なことではない。山崎が早速小姓たちの元へ向かい、土方は斉藤と永倉、原田、井上を呼んだ。
「原田、槍の得意な隊士を見繕って会津の林殿とともに正面の援護を頼む。永倉と二番隊は奉行所西側の警戒を担当してくれ。一番隊は遊軍として時機を見て敵の隙をつき、斬りこませる。…おそらく戦が始まれば御香宮から砲撃に遭うだろう、源さんは他の隊士を先導して指示を出してほしい。…退避させるべき時宜の判断も任せる」
四人は異論なく頷く。
原田は「行くぞ行くぞ!」と発破をかけて自分の配下を含んだ気丈夫な隊士たちとともに正門へ向かい、永倉は命令に忠実な隊士を選んで西側の警備に向かう。井上は胸壁を準備しこの奉行所を砦として迎え撃つ準備を進め、斉藤は一番隊の隊士とともに土方の傍に侍った。詳細を説明せずとも土方の意図が伝わっている…戦を前にこれ以上頼もしいことはないだろう。
(それほど悲観しなくてもいいかもな…)
ほんの少しの希望を見出しながら土方は斉藤を呼んだ。
「英はどうした?」
「一旦中書島の本陣の方へ下がらせました。ここはあまりに危険です」
「そうだな。…もし俺に何かあればお前にすべて任せる。一人でも多く近藤局長の元へ隊士を帰還させるんだ」
何度口にしても『戦』というものをこれほど身近に実感したことはない。己の身に感じる焼けつくような緊迫感と早鐘のように鳴る心臓は自分の命を縮めようとしている警告だとわかっていても、運命から逃れることはできないだろう。
斉藤は少し黙り込んだ後、
「…気が進みませんが、了解しました」
と答えた。気乗りしない返答だが十分だった。
すると、
「あっ!」
と誰かが声を上げた。「旗だ!」「日の丸だ!」…隊士たちの歓声で小姓たちが仕事をしているのだろうと思った。しかし
「隊旗が…!」
そんな沸き立つ声がして土方が目を遣ると、日の丸とともに『誠』の旗を掲げる小姓たちの姿が見えた。日の丸から少し下で靡く新撰組の赤い隊旗は良く目立っていた。山崎が気を利かせたのか、小姓たちのいたずらか…。
「まったく…」
土方は微笑んだ。
(かっちゃんと総司が見ているみたいだ)
そんなことを思いながら、土方はしばらく隊旗を眺めていた。
856
陽が落ち始めている。
遠くに見える鳥羽街道に動きはなく、この伏見でも大通りを挟んで睨み合いが続いていた。
「今日のことにはなりませんか?」
土方は斉藤たち一番隊とともに裏手でその時を待ち構えていたが、斉藤の問いかけに土方は答えがない。
「…わからない。鳥羽が進軍すればいいが…」
「心なしか後退していると耳にしましたが」
「…」
戦が始まっているならまだしも、そうでもないのに退却することにどんな意図があるのか…土方は悶々と考え続けるしかない。様々な可能性が頭を過るがどれも嫌な予感ばかり付き纏う。
そうしていると不意に斉藤の鞘に結ばれた組紐が目に入った。見慣れたそれは長い間総司の髪を束ねていたもので、御陵衛士として脱退するときの餞別だという。
(総司はちゃんと休めているだろうか…)
大坂奉行屋敷の一角を借りて静養していると文が届いた。時折松本や南部が様子を見てくれていて浅羽も顔を出すらしい。近藤は隊を離れてやはり気落ちしていると書いてあったが、次に会う時までに持ち直していると良いのだが。
(次か…次があると良いが)
土方は内心自嘲しながら再び現実に向き合う。するとすぐ傍の裏門が騒がしくなった。誰もが敵襲かと槍を構えて身構えたが、
「遊撃隊だ!」
と叫んでやってきたのは伊庭だった。
「伊庭…?!」
「ああ、歳さん!ちょうど良かった!」
「何故ここに?遊撃隊は鳥羽街道だろう?」
「ええ、まあ。ちょっと事情がありましてね…」
伊庭は後ろに五十名ほどの隊士を従えている。彼は駆け寄ると端的に自分たちの状況を説明した。隊長の今堀は後方の幕府陸軍本陣に向かったそうで、彼らは先んじて奉行所にやって来たらしい。
「鳥羽街道を進んだ徳川軍は赤池村辺りで薩摩藩と膠着状態になっています。朝命に従い一部の兵を下げさせましたが、敵軍は必ず戦を仕掛けてきます」
「根拠は?」
「滝川播磨守は小枝橋付近まで進みましたが、その後薩摩の誘導で兵を後退させました。その場所は道が細く田園地帯、対して薩摩は左右に部隊を展開できる有利な場所を陣取っています」
「…伏見と同じだな」
土方は苦々しく吐き捨てる。兵数では上回っていても置かれている状況は厳しく油断がならない。
薩摩や長州に戦など仕掛けられるはずがない―――そんな慢心が状況を刻々と不利にしている。
その時だった。
ドォォン!と遠くで地鳴りのような音が響いた。それも一度ではなく、何度も続き、高らかなラッパの音も響き始めた。張り詰めていた緊張感が一気に高まる。
「砲撃です!鳥羽で砲撃が始まりました!」
物見役の兵が叫ぶ。伊庭は「始まった!」と確信して声を上げ、土方も頷く。砲撃は開戦の狼煙、ラッパの音は敵軍の合図だ。
続けて今度は至近距離でドォォンドォォンと鼓膜を揺らすような轟音が響き、身体が揺さぶられ、咄嗟に身を隠した。御香宮から放たれた砲弾が奉行所の建物に着弾したのだ。
(開戦した…!)
鳥羽の開戦を知った敵軍がついに戦を始めた―――土方は頭の先から指先まで力が入る。
「我々も応戦せよ!」
林の大音声が響き砲兵隊たちが御香宮方面に発砲を始めるが、奉行所に撃ち込まれる命中率と数とスピードには遠く及ばない。ドォン、ドォンと連続して撃ち込まれ続けるが兵士たちは畳や戸板を胸壁代わりにして身を縮めることしかできることがなく、ただただ近くに落下しないように祈るだけだ。
林は砲兵隊を指揮しながら
「クソっ!当だってねえ!」
と毒づく。迎撃に使えるのは三門の大砲、さらに低地からの打ち上げで標的が観測不能であるのに対して、御香宮の薩摩軍からは約十門の大砲が高台から正確にこちらを狙って撃ち込まれているのだ。土方は敵軍と肩を並べるには夜戦に持ち込むことだと思っていたが、
(このままでは陽が落ちるまでは持たない!)
傍で身を隠している伊庭へ告げた。
「…っ、伊庭、遊撃隊は俺と一緒に表門に回ってくれ。開門して白兵戦に移る。危険だと思うが、援護を頼む」
駆けつけたばかりの友人を最も危険な死地に向かわせるのは気が進まないが、砲撃戦で勝ち目がないのは明らかだ。いつまでも奉行所に留まって兵の数を減らすよりは開門し市街戦に持ち込んだ方が良い。土方の判断に対し、伊庭は理解を示し迷いない眼差しで頷いた。
「わかりました」
「斉藤、一番隊は裏手から離れるな」
「はい」
土方は砲撃のタイミングを見計らいながら伊庭たちとともに裏門から北側の表門へ向かった。原田が仕切る新撰組と会津砲兵隊と三門の大砲、歩兵が集まり刀や槍を抱えながら今か今かと開門を待っていたところ、林が駆け込んできた。
「土方!これは予想以上に厳しい!奉行所が焼けるのも時間の問題かもしれぬ!」
「林殿、開門しましょう。奉行所で立てこもっていては敵の良い標的になるだけです。…こちら遊撃隊五十名、鳥羽街道より駆けつけました」
「頼もしい!では行くか、フフ、これこそ戦だな…!」
林は歳月を感じさせる何層も皺の寄った眼を鋭く尖らせる。迫力ある顔つきで鞘を捨て、先陣を切って「開門!開門せよ!」と号令を出し、兵士たちは準備を進めた。
「やってやるか!」
原田が気を吐いて隊士たちも「オオッ!」と応える。前方に銃を構えた伝習隊が並びその後方で土方は刀を抜き、原田たち新撰組、伊庭や遊撃隊が続いた。
「…一緒に戦うなんて、何の因果でしょうねぇ」
伊庭が呟いた。揶揄っているのではなく緊張で昂った末に口からつい出てしまった本音だろう。土方も「そうだな」とふっと笑ってしまった。
笑ってしまうほど現実味がない。江戸の片田舎で育ち、ふらふらと生き方に迷いながらその日暮らしをしていたのに、いまは戦の最前線で命を賭して戦おうとしている。
「開門!開門―――!」
ギギギ…と重たい表門が開いた―――。
壮絶という言葉の意味を身をもって知ることになるような市街戦が繰り広げられた。
薩摩軍は奉行所の開門を待ち構えていたように、大手筋には小銃隊が道路幅いっぱいに配置し奉行所へ向けて猛射を繰り返す。徳川側も急ごしらえの胸壁を構え応戦したが旧式の大砲では間に合わず、刀と槍を主力とする白兵戦を繰り返すしかない。バタバタと兵が倒れていき死体の山が重なっていく。
土方が歩兵に有効な指示を出すことができず焦るなか
「グオォッ!」
果敢に前線に立ち、指揮していた林が昏倒した。
「林殿ッ!」
「っ、わしに構うな…!」
数箇所撃たれた林はそう叫ぶと、そのまま意識を失ってしまう。土方は林の両脇を抱えて身体を奉行所のなかへ引きずり込んだが、そこにはぐったりと目を閉じて四肢を投げ出す伊庭の姿があった。
「伊庭?!おい…!」
「意識を失っていますが息はあります!銃弾は鎧で守られてましたが強い衝撃で肺をやられたのでしょう」
近くにいた隊士の報告を聞いて土方は安堵したが、状況は刻々と悪くなる一方だ。瀕死の林と意識のない伊庭をこのままにしておくわけにはいかない。
「負傷した者は林殿とともに裏手から奉行所を出て、宇治川を渡り本営に向かえ」
「はっ!」
数名の隊士によって二人が運ばれていくのを見送って土方ははぁーっと息を吐いた。額には脂汗を掻き、身体中は小刻みに身震いする。
(一体どうすればいい…!)
御香宮からの砲撃は断続的に続いて、奉行所よりも人家や建物に命中しあちこちで火の手が上がり始めている。大手筋を挟んだ市街ではミニエー銃を構えた兵士が四列になって待ち構え、辻に出ればまるで十字砲火を浴びるようにあっという間にやられてしまう。本営から兵の追加投入はあるが刀や槍、旧式の銃を構えたところで歯が立たない。まさに八方塞だ。
「土方さん!」
そうしていると奉行所西側を守る永倉と二番隊の隊士たちが駆け込んできた。
「状況は?」
「こっちは頑丈な建物が多くて被害が少ない。だが奉行所や人家に着弾して火事になっている。…もし夜になって陽が落ちても火事のせいで奉行所は良く見えるだろう」
「…そうか、それが狙いか…」
照準を合わせずらい夜戦を狙っていた土方だが、周りが火事になれば奉行所は赤々と照らし出されてしまい、さらなる砲撃へ繋がってしまうだろう。奉行所が落ちれば伏見は占領される。
永倉は冷静に進言した。
「やはり御香宮を落とすべきだと思う。今は砲撃が減っているし、陽が落ちる前なら手薄だろう」
「…だが…」
御香宮へ向かうには三町ほど(350m)距離があり、目前には薩摩の陣がある。そう簡単にたどり浮くことはできない。
すると
「おい!会津の加勢だぜ!」
土方と同じく前線で戦っている原田が駆け込んできて朗報を伝えた。奉行所の苦戦を聞き、佐川が率いる会津藩別撰組七十名が敵の背後をつき善戦しているという。
(迷っている暇はない)
土方は西に沈む太陽に目を向けた。開戦前は早く夜になればいいと思っていたが、いまはまだ落ちるなと都合の良いことを思う。
「行くぞ…!」
「おう!」
土方は原田に別撰組と合流するように命じて表門を任せ、永倉たち二番隊隊士とともに東側へ向かった。しかし奉行所東側には門がなく、土塀を乗り越えるしかない。そこで裏手を警備していた一番隊から体格の良い島田を呼んできて彼の胆力と背丈の力を借りながら土塀を乗り越えることにした。
「自分にお任せください!」
裏手で出陣を待っていた島田は次々と隊士の土台となる。そして最後に土方も島田の背中を借りようとしたが
「副長はいけません!」
と断られてしまった。
「馬鹿を言うな。この期に及んで副長だの平だの関係ないだろう」
「確かに関係ありません!しかし、もはやこの奉行所に指揮官と言える存在は副長だけです。貴方に何かあれば…!」
「島田の言う通りだ!」
土塀の向こうから永倉の声が聞こえた。
「御香宮を必ず落とす!だから奉行所を頼む…!」
「…っ、わかった!」
「自分も行きます!」
島田は自力で土塀を登ってそのまま永倉に合流していった。
土方は自分のこめかみを力を込めて押しながら(しっかりしろ)と自分に言い聞かせる。後手後手になってしまった不利な戦況に焦り、己の立場を見失っていた。林がいなくなり本営からの援軍は来ても具体的な指示はない…誰かが奮い立たなければ崩れていくだけだ。ただただ危険な前線に立つことだけが自分の仕事ではない。
土方が正門へ戻ろうとすると、奉行所から泰助が飛び出してきた。
「土方副長!」
「…泰助…」
「奉行所に砲撃が繰り返されています…!宮川さんと和田さんが酷い怪我で気を失って…あの、負傷者はどうすれば…」
土埃に塗れながら泰助の目はおろおろと上下左右に動き、明らかに狼狽えていた。まだ十三に過ぎない少年の目の前で仲間が倒れていく…こんな悲惨な戦場にいるのだから当たり前のことだ。
土方は「わかった」と泰助の肩を落ち着かせるために何度か叩いた。
「田村と市村はどうした?怪我は?」
「一緒にいます。俺たちは怪我はしていません」
「だったら負傷者とともに本営へ向かえ。英がいるはずだ…そして夜が明けるまで戻ってくるな」
「でも…」
それは戦場から逃げることではないのか…泰助の表情には迷いがあったが、土方は
「これは任務だ、行け」
と敢えて突き放して話を切り上げた。
泰助は悲愴感を漂わせつつ持ち場に戻っていく。小さな背中が懸命に戦場を駆けまわる姿を目に焼き付けながら、
(前を向け)
と自分に言い聞かせ、正門へ向かった。
いつの間にか日が暮れていた。気が付かなかったのはあちこちで火の手が上がって伏見の町が明るく照らされていたからだ―――。
857
鳥羽街道では一刻以上に及ぶ押し問答の末、交渉役の滝川播磨守がしびれを切らし行軍を開始し開戦の火蓋を切った。それでも戦になるはずがないとタカをくくっていた幕府軍に対し、薩摩軍の大砲が一斉に火を噴く。その砲弾の一発が滝川の至近距離に落下し、爆裂音に驚倒した馬が淀方面に逃走、それを騎馬将校たちが後を追ったことで兵たちは退却と誤認して大混乱に陥った。薩摩に立ち向いたくとも徳川兵は非戦を示すために銃に弾をこめていなかったのだ。
多くの兵は小銃を棄てて逃走したが、滝川とともに先遣隊として前線にいた京都見廻組は奮戦し、薩摩軍鉄砲陣地へと白兵突撃を決行、多くの犠牲を出した。しかしこの激闘により時間を稼ぎ冷静さを取り戻した幕府歩兵は体勢を立て直し、淀方面へ後退しながら夜には桑名藩が中心となって下鳥羽に着陣していた―――。
同じ頃、伏見奉行所を拠点として幕府歩兵、伝習隊が奮闘していた。
「構え…放て!」
パァーン、パァーン…。
組織的、規則的に繰り返される銃撃…特にフランス式の戦闘技術を身に着けた伝習隊の活躍は目覚ましく、薩摩に多くの死傷者を出していた。さらに腕の良い兵士が奉行所の高櫓から狙撃を続け、戦況は膠着していた。
暮れ五つ(午後八時頃)、奉行所東側から密かに御香宮を目指していた永倉たち二番隊と島田が帰還した。依然御香宮からの砲撃は続き、皆一様に顔色が悪く疲れ果てている。土方は結果を察しながら「どうだった」と永倉に訊ねた。
「…家屋に身を隠しながら進んだが、薩摩兵に遭遇して銃撃に遭った。こちらも斬りこんだが…薩摩が火を放って、逃げるので手一杯だった」
「…そうか」
永倉は「すまない」と俯いて落胆していた。作戦は失敗した…彼は多くを語ろうとしなかったが数人が犠牲になったのだろう。土方は永倉の肩を強く叩いた。
「少し休め」
「ああ…そうさせてもらう。実は逃げた先であの土塀が越えられなくてな…疲れ果てて、やたら装備が重かった。もうここまでかと思ったところで島田に助けられたんだ。…助かった、島田」
「ハハ、自分は土壇場の腕力には自信がありますので!」
島田は永倉太刀を元気付けようと冗談めかして力こぶを作って見せた。永倉は少しだけ笑いつつ二番隊の隊士とともに奉行所のなかへ引き上げていったが、島田はその場に残った。
「…御香宮にはいまだに多くの薩摩兵がいました。あのなかを斬りこむのは永倉先生でも難しいことかと思います」
「ああ…薩摩も馬鹿じゃない。御香宮の重要性をよくわかっているのだろう…」
しかしそれでも動かずにはいられなかった。ほんの少しでもチャンスがあるのなら、それが突破口になることを信じるしかなかった。
(戦というのはそういうものだ…失敗とは違う)
土方はふうっと息を吐いた。戦の最中に終わったことを嘆く暇はない。
「島田、本営へ行って陸軍奉行殿の指示を仰いで来い」
「はっ!」
いまだに宇治川を越えた先の中書島の本陣からは具体的な指示がない。開戦前、林は陸軍奉行竹中の頼りなさを指摘していたが、その通りになってしまっている。援軍は送ってきても起死回生どころか作戦といえるものがないのだ。
(まるでこのまま討ち死にしろと言われているようだ…)
鳥羽街道は鎮まっておりおそらく後退してしまっている。この伏見も制圧されれば都へ続く要所を敵に抑えられ、再び攻め込むことは難しくなる。この伏見がどれほど重要な要所なのか…本陣では誰も理解していないのではないか。
土方が正門の厳しい戦に目を遣ると、そのなかに伝習隊士官の大川の姿を見つけた。土方へ真正面から意見をぶつけ、この戦の厳しさを実感していた若者はいま何を思いながら引き金を弾いているのだろうか。
そんなことを考えている時だった。
パァァァーン…と再び御香宮辺りの砲撃が奉行所のある建物に向けて放たれた。土方はその軌道を目で追ったが
「まずい!」
と咄嗟に声を張り上げる。その場所は奉行所の弾薬庫…直撃した途端に大きな破裂音とともにまさに爆発した。けたたましい轟音と爆風が奉行所を揺らし、土方や兵士たちもあまりの衝撃に立っていられなかった。
土方が駆けつけると弾薬庫は壊滅し、数人の兵が吹き飛ばされてバタバタと倒れている。
「何事か!」
「かっ火薬庫がやられました!」
「逃げろ!逃げるんだ!また来るぞ!!」
「退却だ―!!」
奉行所のあちこちで火柱が上がって燃え広がる。炎で赤く染まった夜空に灰色の煙が立ち上り、奉行所にいた負傷兵たちが本陣の中書島や浜町方面へ逃げ出していく。
「待てッ!落ち着け、敵に背中を向けるな!!」
まだ奉行所の半分以上は機能している。土方の声は兵たちの混乱によってかき消されてしまい、兵は悲鳴を上げながら敗走する。拠点の奉行所が長く持たないと思い込み、敗戦を決めつけたのだ。
「副長!」
騒ぎのなか煙が充満するなか敗走するかき分けて斉藤たち一番隊の隊士が土方のところへやって来た。
「どうしますか」
「…まだだ。まだ退却命令は出ていない…」
土方の意見に斉藤は何か言いたいことがあるようだったが、混乱が生じた時こそ命令系統を乱してはならない。勝手に伏見奉行所を放棄すれば次は敵は本陣へ向かうことになるのだ。
「土方殿!」
さらに会津の別撰組を率いて佐川がやって来た。
「一体何が?」
「弾薬庫に着弾しました」
土方の端的な説明で、佐川はすぐに理解を示した。
「なるほど…伏見の町も薩長が町家に放火して大火災になっています。そのせいでこちらの動きは敵軍には良く見えているはずです」
「…会津はどうしますか」
奉行所を取り囲むように煌々と燃える町…繰り返される砲撃は止む気配はなく、徳川の兵は逃げ出し始めている。
しかし佐川の眼差しは揺らがなかった。口を開いて淡々と答えた。
「本営から退却命令が届かない限りはここから離れるべきではありません。…役目を果たしましょう」
「わかりました」
土方は頷くと、斉藤たちに正面に回るように指示し、休息していた永倉たち二番隊もそれに加わった。負傷した兵は本陣へ下がるよう命令し、奉行所には新撰組と会津、伝習隊が残る。さらに負傷した林のかわりに倅の又三郎が会津砲兵隊を率いて参戦し、兵を勇気づけた。
炎で照らし出されて動きが明るみになった自軍とは正反対に、薩長軍は闇のなかに溶け込みその姿ははっきりとは見えない。多くの兵が逃げ出し手薄になった奉行所はどこから敵軍が侵入してもおかしくはない状況だ。
(退却命令が出るまで耐えられるのか…)
あまりの壊滅状態を見て本陣も混乱しているだろう。敗走するにしてもその道筋を整えてからでないと闇雲には動けない。
「構え、放て!」
伝習隊が銃撃を繰り返す。弾丸が無くなるまで彼らは引き金を弾く。
新撰組は会津兵とともに闇のなかから敵を探し出し、躊躇なく突撃した。
繰り返し、何度も、何度も敵がいなくなるまで、敵が退いていくまで。この炎が町を焼き尽くしても、どれだけの屍を生み出したとしても、焼け野原に立ち続けることが役目だと幾度となく自分と周りに言い聞かせた。
その合間、土方は不意に煙の立ち上る奉行所を見上げた。そこにはためいていた日の丸がすっかり焼け落ち、新撰組の隊旗が黒く焦げていた―――。
―――結局、退却命令が出たのはそれから一刻(一時間)後。慌ただしい退却で会津三門の大砲と動けない負傷者を残し、夜九つ(0時頃)には薩長軍が伏見奉行所を制圧したのだった。
総司は大坂奉行屋敷の屋根に上り、鳥羽伏見方面の夜空が赤く染まっているのをただ見つめていた。
「おい、総司。冷えるぞ、降りてこい」
寒空の下でいつまでもそうしている総司を見かねて近藤が呼ぶが、総司はそのたびに「もう少しだけ」と頼み、なかなか降りようとはしなかった。
(歳三さん…)
総司は無意識に両手を重ねて握りしめていた。ここから詳しい戦況がわかるわけではないが、伏見が大火事になっていることはわかる。厳しい戦いになっているのではないか…そう思うと気が気ではない。
夕方ごろ、約束通り浅羽が開戦したことを知らせてくれた。鳥羽方面では早速苦戦し、淀方面に向けて前線を下げたそうだが、伏見の状況はわからないという。それを耳にした途端、自分でも想像していた以上に落ち着かなくなって息苦しく感じた。部屋で横になっていても眠れず、梯子を借りてきて屋根の上で過ごしていた。
それでも足りないくらいだったが、ゲホッゲホッと何度か咳き込むと近藤が
「いい加減にしなさい」
と叱ったので仕方なく屋根から降りて、手招きされたので近藤とともに火鉢の前に座った。
「…総司、気持ちはわかるが俺たちの務めは療養することだ。無理をして身体を悪くしてどうする?」
「はい…その通りです。申し訳ありません」
謝罪すると、近藤が片手で総司の着崩れた綿入れを直した。
「…さっき奉公人から聞いたのだが、土佐堀の大坂薩摩藩邸から火が出たそうだ。おそらく徳川方が報復に付け火をしたのだろう」
「薩摩藩邸…」
「全面的に薩長と戦になったということだ」
「…」
近藤の表情は固い。ままならない右腕を吊るしてじっとここに座りながら伏見の同志たちへ思いを馳せていたのだろう。近藤の立場では考えなければならないことは多いはずだ。総司はすっかり赤くなった手のひらを火鉢にかざして暖をとったところ、近藤に
「それはなんだ?」
と右手の指環について訊ねられた。
「これは…歳三さんがくれたんです」
「ははぁ、あいつはいつも気の利いたことをするよな」
「でも私は何もお返しができなくて…」
「そんなものを求めてないだろう、あいつは。どんなに自分がつらい立場になっても見返りを求めない。…そういうやつだよ」
ずっと強張っていた近藤はふっと柔らかく微笑んだ。
総司は指環を見つめた。
『最後だなんて思わないし、もう会えないとは考えられない。絶対に…思わない』
あの夜、土方が語った本心はまるで誓いのような言葉だった。彼にとってこの指環は証だったのだろう。
(信じると決めた…僕が決めたことじゃないか)
総司はゆっくりと目を閉じた。
858
伏見からの撤退命令のあと、殿軍のひとつとして新撰組は戦い続け、淀城下へ完全な離脱を果たしたのは夜八ツ半(午前三時頃)のことだった。
本陣が置かれた明親館(淀藩校)にほど近い長円寺は、幕府軍の野戦病院として負傷者や戦死者が運ばれている。
土方は夕方からの激闘で疲労困憊だったが、斉藤とともに長円寺へ足を向けたところ多くの負傷者が転がり、そのほとんどが砲撃で負傷している光景を目の当たりにして目が覚めたら。そしてそのなかを夜通し働く医者たちのなかに英の姿があった。
「…歳さん!斉藤さん!」
英は二人を見た途端に声を上げて駆け寄って来た。彼は血で汚れた手を拭きながら「無事でよかった」と微笑んだ。
「状況はどうだ?」
「昨夜から次々に運ばれてきて人手が足りなくて大変だったけど、少しは落ち着いた。さっき負傷者を船に乗せて宇治川から大坂へ向けて送ったところだ」
「何艘だ?」
「六艘。はっきりとした人数はわからない。…新撰組の隊士も何人かいたけれど、もう息がなかったのは二人かな」
「…そうか。会津の林殿のことはわかるか?」
「残念だけど…ここに運ばれる途中で亡くなった」
「…」
林は何発も銃弾を浴び、土方が抱えた時にはあちこちから血が吹き出していた。助かるのは難しいとわかっていたが、あの快活な会津侍がこの世にいないということは現実味がなかった。
英は「でも」と話を変えた。
「伊庭さんは意識を取り戻したよ。でも内臓をやられてて…本人は戦場に戻ると息巻いていたけれど、治るには二、三日かかる。無理矢理船に乗せたよ。随分骨が折れた」
「そうか…手間をかけたな」
土方は伊庭の無事に安堵しながらも、苦々しい気持ちを抱えながら辺りを見回す。会津藩兵とともに殿軍として負傷者を収容しながら夜通し戦ったが、それでも伏見奉行所には動けない十数名の負傷兵が残った。身を隠して様子を探った山崎によると、奉行所を占領した薩長軍に負傷兵たちは降参の意思を示したが無残にも全員殺されたとのことだった。それを思うとここに運ばれて、怪我をしながらも息がある者はまだ幸運だと言えるだろう。
英は別の医者に呼ばれて去っていく。呻き声や悲鳴があちこちで響く…斉藤に「もう行きましょう」と言われるまで、土方はその場に立ち尽くしていた。
二人はまだ夜が明けない淀城下を歩く。しばらく無言のまま足元で砂利の音だけが響いていたが、斉藤が重い口を開いた。
「伏見は占領され、鳥羽街道は後退…そもそもどちらの街道も戦闘には向いていません。それに比べて淀城は川と堀に囲まれていて、籠城に向いています」
「…お偉方は最終的にはこの淀で迎え撃つつもりだろうな」
「淀藩は譜代ですから、信頼が置けるのでしょう」
「…そうだな」
土方は漠然と不安を感じながら頷いた。長く譜代として徳川を支えている淀藩だが、城を開けようとはせず宿営地として別館を差し出した。その消極的な態度のわけはは藩主が江戸にいて不在だということだが、本音はどうなのだろうか。
「あっ!副長!」
長円寺から駆け出してきたのは小姓たち三人だった。彼らは伏見奉行所が壊滅的な砲撃を受ける前に負傷者とともに本陣へ下がっていたのでそのまま淀城下へ移動していたのだ。泰助は疲れ果て、銀之助すら覇気のない様子だったが、市村鉄之助だけは
「俺たち新撰組に戻っても良いですか?」
と威勢よく申し出た。
「…英の手伝いでここに残ってもいいが」
「嫌です。俺たちは新撰組の隊士ですから!」
鉄之助の眼差しは揺らぐことなく真っすぐ土方を見つめていた。彼は今日一日伏見で凄惨な戦を目の当たりにしたはずで、泰助や銀之助は意気消沈しているのに鉄之助はまるで何も成し遂げていないと訴えているように感じた。
「わかった。…三人とも源さんの下に入れ」
「はい!」
鉄之助は目を輝かせて泰助と銀之助とともに新撰組の宿営地へと戻っていく。
それまで口を挟まなかった斉藤が
「宜しいのですか?」
と訊ねて来た。
「…本人たちの希望だ。それに負傷者が多い、本音では猫の手も借りたいくらいだろう」
「猫の手ほど役に立つかわかりませんが」
「辛らつだな」
土方はふっと笑って再び歩き出すと、斉藤は少し遅れて隣に並ぶ。そしてぽつりと本音を漏らした。
「子どもが死ぬのはあまり見たくありません」
「…子ども、と言うとあいつらは怒る」
「しかし子どもです」
「源さんの下なら前線に立つようなことはない。心配するな」
「…わかりました」
斉藤は言葉ほど納得したような表情ではなかったが、土方はもう何も口にすることができなかった。
(疲れた…)
戦前から危惧していた通り、砲撃に苦しめられ白兵戦を繰りかえしたところで効果はなかった。伝習隊は互角に渡り合ったが、会津砲兵隊が一発放つ間に、薩摩軍からは十発の砲撃に遭う…兵の数で勝ったところで武器の性能で圧倒的に負けていた。
土方はかつてない重圧を感じていた。これが今まで見知らぬところで近藤が背負い続けてきたものかと思うと頭が下がる思いだ。
…しらじらと夜が明けようとしていた。
一月四日。
新撰組は堀川を挟んで睨み合う伏見ではなく、鳥羽街道の北上する幕府陸軍に加わることになった。仮眠をとって出立し、七つ半(午前五時頃)、幕府陸軍奉行並の佐久間信久の指揮のもと進軍する。伏見で共に戦った会津別撰組の佐川と、同じく砲兵隊林権助の嫡男林又三郎、そして、
「ここで会うとはな」
京都見廻組の佐々木只三郎も同じ指揮下に入った。
佐々木は新撰組の前身である将軍警護のための浪士組の募集、結成に尽力したものの発案者清河八郎の掌返しに遭い、のちに彼を暗殺した。そして上洛したのちに京都見廻組を率い、新撰組とは長く共に治安維持に務めてきたが、浪士など身分を問わず無頼者が集まる新撰組と、幕臣の子弟が集う見廻組では互いに相いれない部分が多く、とても親しいとは言えない間柄だ。そんな彼らとここで共に戦うことになるのはやはり縁があるのだろうが、滑稽な気もしてしまう。
「…昨日は見廻組が奮戦されたと聞きました」
「ああ…播磨守の警護のために最前線にいたが、薩長の奴らにしてやられた。こっちは刀と弾込めしていない小銃しか持たず朝命通りに軽装だというのに、一方的に戦を仕掛けられて手も足も出ない。奴らに嵌められた」
佐々木の眼差しは強い怒りと憎しみが宿っている。
見廻組は滝川や将校が敗走するなか、大砲を撃ち放つ敵軍へ突撃し足止めに成功した。しかしそれは一時的な成果でその後は一方的に蹂躙されたのだそうだ。目の前で仲間が次々と倒れていく様をただ見ていることしかできなかった…佐々木はその怒りを指揮官へ向けていた。
「滝川播磨守は偉ぶるくせにいざとなれば指揮をとらぬ。あの時は大砲の音に馬が驚いて逃げてしまったと言い訳をしていたが、本当は真っ先に逃げ出したかったのだろう…信用できぬ」
「…近江守はどういう御方ですか?」
先陣を切る幕府陸軍を率いる佐久間信久(近江守)は旗本の幕臣だ。佐々木は表情を変えた。
「近江守は信用出来る。フランス軍から洋式戦術を学び、八月十八日の政変で上様に評価されて昇進した。勇猛果敢で播磨守のように決して逃げ出したりはせぬ」
土方は佐々木の物言いで、文官の滝川や本営の顔色を窺う竹中よりはよほど良い人選なのだろうと思った。佐々木とは親しくはないが、彼が己の信念を貫く姿勢は通じるものを感じていたからだ。
佐々木は小太刀の手入れをしながら「土方」と強い眼差しを向けた。
「この戦は上からの指示を仰いていては死ぬぞ。そもそも上は戦をするつもりがなかった…もともと何の戦略もないのだ。彼らに従っていてはただの犬死だ。…昨日、実感しただろう?」
「…」
「じゃあ俺は先に行く」
佐々木は小太刀を仕舞うと一方的に会話を切り上げて部下とともに前へ進んでいく。土方は佐々木とは左程会話を交わしたことはなかったのだが、今回ばかりは彼の忠告を反芻していた。
(その通りだ)
戦など起こるはずがない…そんな油断から突然始まった戦なのだ。上が何の策を持っていないのに対し、兵数が劣るために周到な準備をしている薩長に苦しめられるのは当然だろう。土方は改めて覚悟を決めながら足を動かした。
それから、幕府軍は進軍し新撰組は俵台場付近に留まる。すると前方の様子を窺いに行っていた山崎が息を切らせて戻って来た。夜通し働く山崎も疲れ果てていたが目が血走っていた。
「副長!こちらでしたか」
「山崎…様子はどうだ?」
「さきほど先陣部隊が前進し、赤池を通過して敵軍の中央突破を図りました!敵もこの早朝の攻撃に面食ろうてるようで、士気も上がっています」
「そうか」
久々に聞く良い知らせに土方は少し安堵したものの、山崎は「しかし」と無意識に伏見の方へ視線を向けた。
「伏見の方では高瀬川付近に着陣しとった幕府軍へ、長州が奇襲を仕掛けて苦戦してるそうです」
「…伝習隊は伏見だったな」
「はい。ただあちらは濃霧で視界が悪う戦いにくいのやろうと思います」
「一喜一憂の繰り返しだな…」
土方は山崎へさらに伏見の様子を伝えるように指示した。そして隊列から離れて俵台場の高所に立ち周囲の様子を窺う。この辺りは伏見まで続く大きな湿地帯だ。朝になれば濃霧となり、足をとられやすく戦い難い。
(だがそれは敵も同じだ…)
互いに苦戦するならば、先んじて手を打つべきだ。佐々木の忠告通り指揮官からの指示を待っているようでは遅すぎる。
「何か策を考えるべきだな…」
土方の独り言は空に舞って消えていく。ここに近藤がいれば「お前の言う通りだ」と背中を押してくれただろう。総司がいれば…
「土方殿」
土方は後ろを振り向いた。
「佐川殿…」
「この辺りは湿地帯のようです」
佐川は形式的な挨拶もなく話始めた。
「足場が悪く両軍とも戦いづらい。しかし、富ノ森まで引き寄せれば伏兵を忍ばせる竹林や叢があって勝機がある。もちろんこのまま全軍が小枝橋を突破できれば良いに越したことはありませんが、薩長もそれほど愚かではないでしょう。徳川は伏見では苦戦していますから、こちらへ兵を送る余裕がある。これから敵へ援軍が来るはずです…そう思いませんか?」
「…同じことを考えていました」
佐川の話は土方が考えていたことと一致していた。佐川は伏見での戦の前も土方と同じように夜戦に持ち込む方が有利であると考えていたので、考え方が近いのかもしれない。
「そうでしたか。でしたら…富ノ森まで敵が進軍したらその通りにしましょう」
「…わかりました」
「では」
清々しいほどに無駄な話をせずに佐川はあっさりと去っていった。用件だけ告げてさっさと自分の持ち場へ帰る…土方は少し肩の力が抜けたように「ふっ」と笑って彼と同じように高台を下りたのだった。
859
鳥羽街道では先陣を務めた佐久間信久が善戦し、昨日交渉役の滝川と薩摩が押し問答になった小枝橋付近まで押し返すことに成功した。しかし長くはもたず、薩摩兵の大砲隊が配置され伏見方面からも援軍が到着したことで幕府軍は右翼を攻撃された。
佐久間は
「何故後詰が来ぬ?!」
叫んだ。あっという間に薩摩兵に取り囲まれ、退路を断たれた上に増援がない。鳥羽街道の総督である大河内正質は、あまりに早く先陣を切り突破した佐久間軍の状況を把握できずに応援を出すものの間に合わなかったのだ。
こうして孤軍奮闘した佐久間信久は狙撃に遭い戦死、その日の正午ごろには幕府軍は戦に有利な俵台場を放棄して敗走することになった。
俵台場から下鳥羽まで前線が下がり、新撰組は富ノ森にいた。
隊士たちは指揮官たちの命令で北風が強く吹く悪条件のなか、酒処伏見から酒樽を調達し、湿地帯の土を詰めて並べ表に畳や戸板を立てて胸墻とする急ごしらえの酒樽陣地を築いていたのだ。昨晩の伏見から続く戦に隊士たちは皆疲弊していたが、泣き言を口にする気力すらなくただ作業に没頭していた。
「あー、良い匂い。酒が飲みてぇな!」
泥だらけになって土を詰める野村は仄かに香る酒の匂いを嗅ぎながら叫んだが、近くに居た相馬に「うるさい」と窘められてしまった。しかしいつもの喧嘩腰ではない。相馬の表情には余裕がなく、長い間強く噛んだ唇が赤く腫れていた。
「相馬、もう少し身体の力を抜けよ、ガチガチじゃねえかよ」
「…お前はよく喋る。この状況なのに…」
相馬は足元の泥を払いながらため息をついて愚痴を零す。
「昨日は伏見で散々な目に遭って、今日は一時は盛り返したと思ったらまた敗走…増援が間に合えば勝機があったのに失敗続きだ…」
「まあ、負けてることに間違いはないだろうな。今のところは」
「…今のところ…」
野村のささやかな励ましにも効果はなく、相馬は俯いて再びため息をつく。するとそこへ鉄之助と泰助が二人掛かりで酒樽を抱えてやってきたので、野村が受け取った。
「おう、お疲れさん。腹減ってねぇか?これ、食うか?」
野村は懐から飴を取り出して、泰助の口に放り込み、「甘いものは好きじゃない」と拒んだ鉄之助にも無理やり食べさせた。泰助は年相応に目を輝かせた。
「野村さん!これ甘い!」
「だろう?この間、局長と沖田先生を見送りに大坂へ行ったときにな、飴売りが異国の珍しい飴だって言うから買い占めたんだ。甘くて美味い。鉄もそう思うだろう?」
「…確かに」
鉄之助も不承不承ながら疲れに染みる飴の甘さには抗えず頷いた。ほとんど不眠不休の戦で疲れているせいか余計美味しく感じるのだろう。
その様子を見て相馬は呆れていた。
「お前、任務の途中に…」
「いいからお前も食えよ」
野村は悪戯を仕掛けるように相馬の口へ隙を見て投げ入れる。するとちょうど気管に入ったのか咽てしまい、「ゴホッ!ゴホッ!」と相馬は咳き込んでしまった。
「悪い、大丈夫か?」
「…っ、お前は本当に余計なことばかり…」
「ハハ!でも美味いだろう?」
野村は頭を掻く姿に相馬は怒る気力が無いようでそのまま飴を口に含んだまま別の場所に移動して作業を続けた。すると心なしか表情が柔らかくなったので、野村はこっそり笑った。
野村は自分でも一つ飴を舐めながら背伸びをしつつ辺りを見渡すと酒樽や米俵で作った胸墻が北向きに一面に並んでいる。湿地帯に足をとられて動きにくい戦場で始まるのは銃撃戦だ。
(それにしても、刀の出る幕がねぇなぁ…)
腰に手を当てながら唸っていると、「おい」と背後から呼びかけれて驚いた。
「あっ?副長?呼びました?」
「ああ。胸墻は作り終わったか?」
「はい、まあだいたい…」
この作業に終わりあるのかどうか野村にはよくわからないが、課せられていた分は終わっていた。堅牢な城壁とは言えないが相手の弾を防ぐことくらいはできるだろう。
「そうか…」
土方は野村の隣に並び、同じように辺りの様子を窺う。土方の表情は誰よりも深刻で、それはいわゆる『鬼副長』と呼ばれる時とは違う意味合いで、近寄り難い。
「あ、あの…飴食いますか?」
「…飴?」
「結構美味いんです。良かったら」
野村は内心「しくじった」と思いながらも今更引っ込みがつかず、飴を包んだ懐紙を差し出した。土方は不意を突かれたような表情を浮かべて少し黙っていたが、
「一つ貰う」
とあっさりと一粒口の中に放り込んでしまい、今度は野村の方が少し驚いてしまった。
「なんだ?」
「ああ、いえ…なんでも…」
その時、土方は急に身体を前に乗り出して目を見張った。野村が無意識に同じようにすると視線の先に敵軍の姿が見えた。
「敵襲!敵襲ー!!」
作業に勤しんでいた兵たちの表情が変わり、銃を手にして陣地に身を寄せる。野村も同じようにしようとしたが、「待て」と土方に止められた。
「一番隊は別の任務を与える」
「別の…?」
「急いで山口と他の隊士を連れて後方に来い」
「はっはい!」
明け八ツ(午後二時)、富ノ森の酒樽陣地への銃撃が始まった。
敵軍が使用するのは最新武器のシャスポー銃だ。幕府軍が使用する前装式のゲベール銃とは異なり、後装式でライフリング(弾の溝)が施されており命中率が高い。またゲベール銃とともに幕府軍が使用する前装式のミニエー銃は起立しての装填が必須で狙われやすいうえに、弾込めに三十秒を要するのに対し、シャスポー銃はわすが七秒しかかからなかった。その点でも大きな差があるが、さらに会津では旧式の火縄銃さえ扱われていたことを考えると、銃撃戦では薩長に敵うはずはなかった。
富ノ森は砲撃戦となり、冬の曇天から鉛の雨が降るように両軍の弾丸が交錯した。
「クソ!埒が明かねえ!」
原田は槍を抱えたまま白兵戦を待ったが、いつまで経っても命令はなく銃撃戦が続いている。新撰組も不動堂村へ移ってからは積極的に銃の調練を取り入れてきたがいまだ主力は刀や槍であり本領を発揮できていなかった。永倉も刀を抜いたまま胸墻に隠れていた。
「左之助…」
「おう、ぱっつあん、討ち死に覚悟で行くか?!」
「馬鹿なことを言うな」
勇み足の原田を窘めつつ、永倉はため息をつく。そして伏見の方を指さした。
「…なあ、敵の援軍が伏見から次々やってくると思わないか?」
「確かに…伏見は降伏しちまったのか?」
「まだ半日だぞ。それにあちらには幕府陸軍や伝習隊だけじゃない、会津や桑名もいるのに…」
徳川に忠誠を誓う会津や桑名がさっさと敗走するはずがないのに、伏見の方は鳥羽に比べて随分と静かだ。
「何だか嫌な予感がする…」
永倉が呟いた時、
「退却―!退却―!!」
自軍から退却命令が出た。原田は「またか」と深いため息をつきながら
「伏見を心配している場合じゃねえな」
と、毒づいて部下とともに渋々撤退を始めた。
幕府軍は富ノ森酒樽陣地を放棄し、さらに淀に近い納所(のうそ)まで後退した。薩長軍は易々と酒樽陣地を占拠した―――明七つ(午後四時)頃。
「行け――ッ!」
冷静な佐川の大音声が響き渡った。富ノ森から納所の間に広がる大きな湿地帯に身を潜めていた会津兵や大垣兵、新撰組が横合いの奇襲を仕掛けたのだ。側面からの突然の強襲に驚いた薩長軍は大混乱に陥った。
策を知らされていなかった永倉と原田だがこの好機を逃すまいと、配下を連れ納所の陣を飛び出て参戦する。今までの憂さを晴らすかのように原田は戦場を駆けまわり、指揮系統が乱れ逃げ回る敵兵を一人、二人と突き倒していく。
そして幕府軍の先陣に土方の姿を見つけた。土方は一番隊の隊士たちとともに真っ先に斬り倒していく。
「敵が立て直す前に畳みかけろ!尻込みするなら斬るぞ!」
「ハイッ」
「おう!」
土方は隊士たちを先導しながらも刀を振り、味方に発破をかける。その鬼気迫る様子は新撰組の隊士だけでなく、会津や他の兵にも影響を与えて皆が退路を断って飛び込んでいく。まるで大きな波に飲まれていくように。
その鬼副長らしい原田は「ハハ!」と笑いが込み上げた。
「やっぱり俺たちはこうでなくっちゃなあ!!」
「その通りだ!」
永倉も同意し、刀を振るう。
その勢いはみぞれのような雪が降っても衰えず、ついには薩長を下鳥羽まで後退させ、富ノ森の奪還に成功した。
しかし日没になると薩長の増援が到着し、再び戦況は膠着する。
「追撃すべきです!」
佐川は鳥羽街道の指揮をとっていた滝川に夜討ちを進言したが、
「私は戦を指揮する立場ではない」
と頑なに譲らずに開戦から二日目の夜を迎えたのだった。
860
試衛館の若先生と食客たちがいなくなってしまったのは七つか、八つの頃だった。
父から聞いた小難しい話は理解できず、ただお役目のために都へ行った、危険だから帰って来ないかもしれない…そのことだけが頭に残り、幼心に衝撃を受けていた。
「おじさんも帰って来ないの?」
「…さあなぁ、あれは頑固だから…」
父は弟である叔父源三郎のことを語るときはいつも複雑そうに顔を歪めていた。兄弟として折り合いが悪いわけではないが、生き方が違うのだという。
「俺ァ、自分の身は自分で立てる。家と家族を守る男ってのはそういうもんだと思ってる。でも源三郎は己を不器用だと恥じて若先生の影で支えるのが自分の生き方だと決めつけてる。俺はそんな人生が勿体ねぇと思うが…むあ、あいつの決めた道だ」
父は叔父のことを悪くは言わないが、褒めることもなかった。
俺が知っている叔父は食客たちの世話を焼いたり、出来の悪い門下生に指導をしたり、大先生の将棋や囲碁、落語に付き合ったり…とにかく優しい人だった。だからその分怒らせると怖かったけれど、十にもならない俺を本気で叱りつけることなんてなかった。父とは真逆の人だ。
(おじさん、大丈夫かなぁ…)
俺は遠い西の空を見上げるたびに叔父のことを思い出した。試衛館でも手を焼くような門下生ばかり面倒を見ていた姿ばかりが記憶に残っていた。
そのうち試衛館の若先生たちが都に残り、新撰組と呼ばれ、池田屋で大捕物をした…そんな武勇伝が江戸にも伝わってきた。
しかしそのなかに叔父の名前は一度も出て来ない。そのあとも御所の戦に加わっただとか、幕府の使者として長州へ向かっただとか江戸にいた頃を知っている故郷の人々にとっては信じられない話ばかりを耳にしたけれど、やはりおじさんのことは何一つ伝わって来ない。
「…おじさん、相変わらずなんだろうなぁ…」
裏方として身を潜めているのだろう。名を上げて有名になった若先生のもとできっと貧乏籤を引いているに違いない。
俺は家の手伝いを引き受けながら、箒を竹刀に見立てて何度か振るう。叔父は若先生より入門が早い兄弟子だが、免許皆伝にたどり着くまで十年かかったという。
(俺はおじさんみたいにならない)
日の当たる場所を歩いて、井上泰助ここにありと胸を張った人生を送る。
(いつか絶対に新撰組に入隊する)
そして叔父よりも活躍して、名を上げる。いつまでも若先生の影に隠れてうだつの上がらない叔父よりも立派になる。
その夢の一歩は案外早く実現する機会が訪れた。俺はおじさんに駄々をこね、大先生に味方してもらって新撰組に入隊したのだった。
「なんや、寝とるんか?」
「…っは!」
泰助はカッと目を見開いて、キョロキョロと周囲に目をやった。
「や、や、山崎先生…」
「すまん。起こすつもりはなかったんやけど。…まだ寝ててええで、夜や」
「…は、はい…」
しかしそう言われても不意打ちに起こされて眠気は吹き飛んでしまった。周囲でも皆は仮眠をとっていて戦場は昼間の銃撃戦が嘘のように静まり返っている。山崎は泰助の隣に腰掛けて、昼間に作った胸墻を背にして体を投げ出した。
「…疲れたなぁ…ほんま、戦なんてやるもんやない…」
山崎が枯れた声でうんざりした様子で本音を漏らすが、泰助は何も返事ができなかった。
(俺…何も…)
まだ仮同志で小姓という非戦闘要員…その盾に守られて砲弾から逃げ延びた。昨日からずっとその繰り返しで疲れ果てていたが、眠っている間に何かあったら…と思うと目を閉じることも恐ろしくなかなか寝付けなかった。だから先ほどまで気絶していたのだろう。
「あの…夜討ちは…?」
「無しや。夕方の勢いがあればもっと北上して都に近づけるて副長や会津は訴えたけど、上は却下した」
「…そうですか…」
残念そうに返答しながらも、安堵する気持ちは否定できなかった。曇天に覆われたこんな真っ暗な夜のなか生き延びられる気がしなかったからだ。しかしその気持ちが隠しけれなかったのか、
「…怖いか?」
と山﨑が尋ねてきた。泰助は言葉に詰まった。
「そっ、…そんなこと、ないです…」
「無理するなや。普通怖いやろ、敵がどこにおるかもわからん、いつ撃たれるか斬られるか怯えながら戦うなんて、大人でも無理や」
「…でも俺…何も役に立ててない…」
「何ゆうてるんや、兵糧や弾薬抱えてあっちこっち走り回ったんやろ?」
「…」
土方の命令で銀之助や鉄之助と共に叔父である井上の配下となり揚々と戦場に乗り込んだが、与えられる任務は小荷駄方の手伝いや弾薬の補充、兵糧の配布と言ったいわゆる裏方の仕事ばかりだった。身を潜めて弾に当たらないように戦場を駆けまわっていただけ。
戦場の矢面に立ちたくはない…けれど雑用ばかりでは気が滅入る。
(俺、最低だよなぁ…)
そんなことを思いつつ、泰助は訊ねた。
「あの…おじさんはいつもこういう任務をしてるんですか?」
「…井上組長か?まあ、そうやな…」
「そう…ですか…」
泰助の表情を見て言いたいことを察した山崎は苦笑する。
「あのな、井上組長は雑用も厭わず率先してはるし、手のかかる隊士にも救いの手を差し伸べてる。目立つことはなくても隊のなくてはならん人やで」
「…面倒なことを押し付けられてるんじゃなくて?」
「当たり前や。井上組長が面倒なんてゆうたか?」
「…」
新撰組に入隊してまだまだ日が浅い。けれども井上が一度も退屈そうな顔や面倒そうに雑務をこなしている姿など見たことがなく、まるでそれが天職と言わんばかりに熱心に勤めていることはわかっていた。
泰助は俯いて黙り込む。
「目に見える活躍だけが褒められるべきものやない。お前が知らへんところにも支えてくれる人がおる…それを忘れるな」
山﨑の言葉には深い実感がこもっている。監察方という決して表に出ることのない任務を請け負ってきたからこその重たい言葉に
「…はい」
泰助は頷くしかできなかった。
するとそこへ銀之助がやってきた。
「山崎先生、土方副長がお呼びです」
「わかった。…ほな、しっかり休むんやで」
山崎は泰助の肩を叩いてそのまま土方のところへ向かう。代わりに銀之助が「どうした?」と泰助の顔色を伺った。
「…なんでもない」
銀之助は泰助の隣に腰掛け、しばらく無言で傍にいた。
「あ、月が見えてきた」
「ん…」
銀之助は雲の合間から少しだけ差し込んだ月の光を嬉しそうに見上げていた。けれど泰助は俯いて顔を上げることすらできないままだ。すると銀之助は
「まだ生き延びてるなんて…信じられないよ」
とぽつりと呟いた。
「銀…」
「何人も殺されて、骸があちこちに投げ出されて…爆発に巻きこまれたら黒焦げになってた。それを何食わぬ顔で踏みつけて…引き金を弾くなんて、僕にできるのかな…」
「…」
きっとこの先の人生で何度もこの戦のことを繰り返し思い出すだろう…悪夢のような光景が二人の脳裏に焼き付いていて、思い返すだけで泰助の指先に自然と力が入った。
「…前線に立てば…やらなきゃいけねぇんだ」
「泰助…」
「だって今更逃げられない。鉄みたいに…志願して、武器を持たせてくれって…そう言わなきゃいけねぇのに…」
こんなところで身を潜めて休んでいる場合ではない。すぐそこに敵がいて、殺さなければ殺されるのだ。味方の屍さえ踏みしめて戦い続ける…それが名を上げるということだと頭ではわかっているのに。
(なのに…!足が動かねえ…!)
身体は強張っている。足はこのまま踏み出そうとせず、身を縮めて息を潜めている。まだ子供だから、経験がないから―――そんな慰めでは片付けられない。だってこれは、
「怖ぇんだよ…!」
臆病風に吹かれているだけだ。
本当は逃げ出したくて、震えている…そんな自分に嫌気がさす。
(おじさんのことを心のどこかで馬鹿にしていたくせに、どうしようもねぇのは俺の方だった…!)
泰助は身体を丸めて膝を抱え、涙を滲ませながら悔しさと情けなさで押しつぶされる感情をどうにか堪えた。戦というものの恐ろしさを目の前にして理想と現実の落差を思い知ったのだ。
すると銀之助は躊躇いながらも泰助の肩を抱き、何度も頷いた。
「わかるよ…僕だって同じだ。鉄之助と一緒に武器を手にして戦うべきだってわかっていても…自分じゃ役立たずじゃないか、足手まといじゃないかって…そればっかりだ。…僕は、兄たちのようにはできない」
「…銀…」
「でもいま悩んだところで死んだら無意味だよ。だったら恐怖に向き合って、生き延びるために努力した方が良い。…その後にこの先のことを考えるべきだと思う。だって僕たちはまだ始まったばっかりなんだから」
泰助が顔を上げると、月明かりの元で穏やかに微笑む銀之助がいた。少年ながらに上品な顔立ちをしている銀之助の頬は泥にまみれ汚れているが、彼はそんなこと気にも留めずに前向きな眼差しを絶やさない。
「…銀は賢いよな」
「え?そうかな」
「うん、お前はきっと…生き延びられるよ」
「泰助もね」
互いに根拠のない励ましで笑った。
月が雲に隠れて辺りが暗い闇のなかに包まれてしまっても、同い年の友情という温かさに触れた泰助はゆっくりと瞼を閉じて緊張の糸を解いたのだった。
淀川に六艘に船が到着し、負傷兵が大坂城下へ運ばれた。新撰組の負傷者は大坂で支援してくれている京屋が面倒を見てくれることとなったが、既に二名が戦死したことが近藤と総司の療養する奉行屋敷へ伝えられた。
「…伏見では相当な死者が出たと聞く。新撰組はどうなっているのか…」
近藤は複雑な表情を浮かべた。
伏見の戦況を聞いていた二人は予想以上に壊滅的な被害を受けているのではないかと危惧していたが、具体的な状況はわからないままだ。それにこの奉行屋敷にも次々と歩兵の負傷兵が運び込まれ、松本の弟子たちによって慌ただしく治療が行われ、その光景に戦の激しさが伝わってくる。
総司が固唾を飲んで様子を見守っていると、一人の若者が白衣の弟子の肩を借りながらゆっくりとこちらにやってきた。
「…伊庭君?!」
「お、沖田さん…」
顔を顰めながら笑みを浮かべた彼は駆け寄った総司の手を借りて、胸あたりを庇うようにしながら腰を下ろした。
「伊庭君、もしや斬られたのか?」
伊庭ほどの剣客が、と近藤が驚きながら尋ねると伊庭は小さく首を振った。
「弾丸が…胸に当たって、内臓をやられました。安心してください、防具をつけていたおかげで…二、三日で良くなるそうですから」
「そうか…」
「良かったです、重傷ではなくて…」
近藤と総司は安堵し、彼の傍に座った。
伊庭は壁を背にして楽な体勢を見つけると、状況を話し始めた。
「鳥羽の開戦と同時に…伏見奉行所は一方的に砲撃されました。こちらは早々に開門して、正面から打って出ましたが…銃相手ではとても及ばず苦戦を強いられました」
「…新撰組は…」
総司はごくりと息を呑むと、伊庭は薄く笑った。
「俺は情けないことに早くに離脱してしまいましたが…歳さんは奉行所を脱出するまで奮戦したそうです。新撰組の皆さんも…ご活躍されて、今日は鳥羽へ向かったと聞いてます」
「鳥羽へ?」
「伏見はどうなったんですか?」
二人はてっきり新撰組は今日も伏見を防衛しているのか思っていたのだが、伊庭は少し視線を落とした。
「…おそらく、薩長に占領されました。俺は淀へ移されてここに来ましたが…そのような話を耳にしました」
「そうなのか…」
近藤は落胆した。昨年末から伏見に着陣し、重要な拠点であることを度々議論していたがたった一日で陥落してしまったことは無念だった。
「伊庭君…あの」
「ちょっと、すみません…おしゃべりが、すぎたかな…」
伊庭は胸が痛むのか息が荒くなって顔色が悪くなった。総司が自分の寝床を譲ると
「立場が逆ですね…」
と彼は苦笑した。
「…もう休んでください。お疲れでしょう」
「戦場に…置いてきた仲間を思えば…こんな怪我、早く治して…また合流しなきゃ」
「無理をしてはいけない」
近藤は伊庭を言い聞かせると、「温かいものをもらって来よう」と席を立った。伊庭はその背中を見送りながら、
「沖田さん…何か聞きたいことがあったんじゃないですか…?」
と訊ねた。総司は少し迷ったが彼にしか聞けないことだと思い、思い切って口にした。
「…これは…負け戦なんですか?」
「…」
伊庭は一度ゆっくり息を吐いた後に
「わかりません」
と言った。彼の重たい口ぶりに総司はそれ以上尋ねることはできなかった。
857 鳥羽伏見一日目
伊庭が鳥羽街道にいたかどうかははっきりとした資料はなく、大目付の滝川に同行したという話はありますが信ぴょう性が乏しいようです。押し問答の最中に今堀とともに伏見へ向かったという逸話を参考にしました。
土方は永倉の命じて薩摩軍手薄の御香宮へ斬りこみましたが、家屋内で突如現れた薩摩兵に銃撃を受け、死傷者を多数出します。さらに永倉は斬りこむものの薩摩が家屋に火を放って撤退したためそれ以上の進軍を断念しました。帰営の際、土塀が越えられなかった永倉を島田が銃に捕まらせてそのまま持ち上げて助けた、というエピソードが残っています。
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