わらべうた






861


翌、明けきらない頃。
仮眠をとっていた斉藤は交替で見張り役を務めていた島田に起こされて共に土方の元へ向かった。土方は夜通し上官たちと会談を行いあまり眠れていないようだった。
「お呼びでしょうか」
「ああ、上の要請で新撰組を二分することになった。この富ノ森に残る部隊と千両松へ向かう部隊だ。…富ノ森はお前の隊と原田の隊を残していこうと思うが、異論はあるか?」
斉藤はどんな命令であれ拒むつもりはなかったが、千両松は淀と一昨日本陣を置いていた中書島のちょうど中間地点の宇治川沿いにあり、昨日の戦場とは異なる。
「伏見の状況はどのような…?」
「…堀川を挟んで戦となったそうだが、歩兵隊隊長の窪田備前守が重傷を負って指揮が取れなくなった。陸軍奉行の竹中丹後守もお伺いのために淀本営に戻っていたことで瓦解したようで、昼頃には撤退して伏見の町を放棄した」
「それは……」
あまりに統制を欠いた戦いぶりに斉藤は(無能な)と悪態をつきたい気分だったが、それは土方も同じはずで口にするのをどうにか耐えているのだろうから斉藤も我慢した。彼は何度目かわからないため息をつきながら続けた。
「伏見街道は道幅が狭いし、挙句に堤防道…それにここと同じで湿地帯でもある。会津の佐川殿と話し合い、白兵攻撃が有効だろうということになった。新撰組の他に別撰組と遊撃隊、見廻組、幕府陸軍の一個小隊とともに戦う」
「…わかりました。こちらはこの富ノ森で食い止めます」
「頼む。おそらく簡単なことではないだろうが…どうにか生き抜いてくれ」
「はい」
土方は早速出発するというので、斉藤は島田とともに見送った。その背中はどこか寂しげで斉藤はしばらく目が離せなかった。
「…夜が明けますね」
島田は目を細めて東の空を仰ぎ見たので斉藤もつられてそうした。すると朝の陽がまるで夜を追い出し叢立つように昇っていくようにみえて
「また、始まるな」
とうんざりするような気持ちでぽつりと呟いた。


一月五日、早朝。
斉藤と原田の部隊を残して富ノ森を離れた新撰組は会津別撰組、見廻組、幕府陸軍小隊ともに千両松に布陣し、淀城下を目指して南下する薩長軍を待ち構えた。
小荷駄方を手伝いながらともにやって来た泰助と鉄之助は刀や槍を荷台から降ろしていくが、どうも味方の兵士に落ち着きがないことが気になっていた。
「…なんか、あったのかな…」
鉄之助は槍を抱えながら周囲を見渡した。戦を目前にして兵士たちはひそひそと耳打ちし、小声で噂話に興じている。これから潜伏して白兵突撃を行うような切実な緊迫感はない。しかし蚊帳の外の小姓たちには何が起きているのかさっぱりわからない。
「一体どうしたんだろう?」
「こんな調子なら俺たちが戦った方がマシだぞ」
鉄之助は相変わらずで先陣に立つ気満々だ。泰助も気を張って内心は怖気付きながらも「ああ」と同意したが、鉄之助の表情には泰助と違って虚勢を張る様子はない。
「…鉄は怖くねえのか?」
「ん?」
「戦だよ」
泰助の問いかけに鉄之助はあったり答えた。
「怖かったら新撰組隊士なんて志願しない」
「それはそうだけどさ。でも…思っていたのと違うって思わなかった…?」
浪人から幕臣へ出世した新撰組は、江戸の若者からすれば英雄で憧れだった。入隊すればもう少し楽で順風満帆な輝かしい道を歩ける…そんなことを夢見たはずだ。けれど実際はすぐに幕府は無くなってしまいあっという間に戦へ突入した。心の準備ができていないし、実際にこんなつもりではなかったと脱走する隊士も多かった。
鉄之助は「まあそうだけど」と泰助の考えに同調したが、
「俺は自分の生まれた意味を知りたいんだ」
とはっきり口にした。
「…意味?」
「俺の母さん、俺を産んだあと肥立が悪くて死んだんだ」
突然の身の上話に泰助は作業の手を止めたが、鉄之助は何てことのない雑談のようにたくさんの刀を抱えながら話し続ける。
「もちろん誰も俺を責めたりはしなかった、お前が母さんを殺したなんて言われたことはない。でもさ、ずっと思ってた…母さんの命と引き換えに産まれてきたことに違いはないだろう?」
「まあ、そうとも言えるかな…」
「だから母さんが俺を産んだ意味を知りたいって思ったんだ。もちろん死ぬつもりはないけど、それが今日、新撰組隊士として死ぬ事であったならそれが俺の産まれた意味だったんだろうって納得はできる。だけど何者でもなくあっけなく死ぬのは母さんのためにならないと思った。だから、俺は何者かになりたくて新撰組に入ったんだ」
「…」
「俺は怖くない。自分で選んだことだから」
何者であるか、知りたい。
鉄之助は何でもないような口振りで語ったが、泰助にはまるで鉄之助が急に大人びたような気がして、何と返答したら良いかわからず呆然としてしまった。
「…泰助?」
「い、いや…お前ならデッケェ男になれるよ」
「そうだと良いけどさ」
「間違いねぇよ」
鉄之助は少し照れくさそうに笑った。すると「何やってるんだ!」と井上が駆けてきた。
「のんびり喋ってる暇はないぞ!予備の刀、槍、十分な銃弾…敵がここに辿り着く前に早く支度を整えろ!」
「ハイっ!」
鉄之助は身体が隠れるほどの刀と槍を抱えて駆け出した。泰助もそれに続くように弾薬を荷物から取り出していると井上が「仕方ねぇなぁ」ともたもたする甥の手助けを始めた。
「…おじさん」
「ん?」
「この戦、どうなるんだろう」
「さあなぁ」
井上は他人事のような返答をするが、答えをはぐらかされた気がした。
「おじさん、」
「余計なことは考えないで目の前のことに集中しろ。いつ戦が始まってもおかしくはないんだからな」
「…わかった」
泰助が頷いたとき、斥候として敵方を探っていた山崎が駆け込んで戻って来た。山崎は深刻な表情で報告し、土方は頷いた。
「敵が来る。配置に付け」
声を抑えていたが、隠しようのない眼光の鋭さと威圧感が滲み出ている。兵士たちはピリリとした緊張感を覚えながら自分たちの持ち場へ向かう。泰助は鉄之助とともに井上の指揮のもと宇治川沿いの草むらに身を潜めて槍を抱えた。
狭い伏見街道には、戦死した会津藩士林権助の長男林又三郎が率いる隊が大砲を二門構え、街道沿いの湿地帯の蘆荻の茂みには会津藩兵や遊撃隊が身を潜め、反対の宇治川沿いに新撰組が布陣した。
(来た…)
泰助が目を凝らして遠くを見ると、薩長軍が縦列で進軍…こちらの気配などまるで気づかず、大砲が狙いやすい密集した状態で進んでいた。
(勝てるかもしれない…!)
油断した敵を見て泰助の身体に力が入る。するとそれを見ていた井上が自分の脇差を泰助に渡した。
「おじさん?」
「これはお前の親父にもらったものだ。口が悪くて頑固で融通の利かねえ兄貴だが…きっとお前を守ってくれる」
「…うん」
井上は泰助の癖毛を乱暴にくしゃくしゃと撫でる。
「ちゃんと生き延びるんだぞ。お前に何かあったら兄貴に顔向けできねぇからな」
…そして、明け四つ(午前十時頃)、静かな千両松に会津の大砲の音が響き渡った。
縦隊で街道を進んでいた薩長軍は突然の敵の砲撃に驚き、悲鳴が上げた。慌てて銃を構えて応戦するが街道沿いに潜伏していた幕府軍兵士が白兵突撃を行い、瞬く間に崩れていく。
「行け!行けェー!!」
「おおおおー!」
「進めーー!!」
冷静沈着な永倉が声を荒げて隊士とともに向かっていく。まるで嵐に襲われたように敵が弾き飛び、白刃が血飛沫をあげて一人また一人と倒していき、万端の準備を整えていた大砲が援護した。土方や佐川の作戦通り突然の襲撃に敵は為すすべがない。
土方はさらに発破をかけた。
「いち早く崩せ!敵に体勢を立て直させる隙を与えるな!」
幕府軍は開戦からずっと砲撃や銃撃で散々な目に遭ってきた。薩長が銃撃の準備を整えてしまえばまた同じことの繰り返しで敗北を喫することになる。土方はとにかく早く敵陣を退却させるべく、急がせた。
泰助は井上から渡された脇差を腰に帯び、槍を構えて戦場を駆け回った。この土壇場で大人も子供も命のやり取りには関係がない。武器を構えて相対する以上、互いに敵同士なのだ。
「わぁっ!」
泰助は湿った泥に足をとられて転倒した。痛みを感じる暇はない、不運にもそれが敵の目の前でまるで獣の前に好物が転がって来たようなものだっただろう。敵は口元をにやりと歪めると血走った眼で刀を振り上げる。
「あ…!」
「馬鹿野郎!」
死を覚悟した泰助だったが、罵倒されながら後ろ襟を掴まれて後方に投げ飛ばされた。何もかも一瞬のことのように覚えて理解できなかったが、どうやら近くに居た井上が助けてくれたようだ。井上は泰助を庇うように背中を向けると敵を横一文字に薙ぎ払いあっという間に敵を斬り殺していた。
その怒気を孕んだ戦いぶりは、決して裏方に徹するような控えめなものではない。近藤や土方にも負けるとも劣らないこの場を支配する鬼神のように見えて、敵がたじろぐ。そんな井上を見るのは初めてだった。
「おじさ…」
「お前は俺の後ろに居ろ!鉄もだ!」
「…うん!」
泰助はそんな姿に勇気づけられ、ちょうど近くにいた鉄之助が腕を引き上げてくれた。
「大丈夫か?」
「おう、当たりめぇだ!」
「お前のおじさん、強いな」
「…うん、そうなんだよ」
鉄之助に答えながら自分に言い聞かせた。勇名をはせなくても、目立たたなくてもずっとこんな戦場を生き延びて来た。誰かを守りながらずっと近藤と土方を支えて来た。そんな生き方が強い以外の何物でもない…泰助はそう気が付くことができたのだ。
「鉄、行こう!」
「ああ!」
二人は槍を握りしめ、井上の後ろに続いた。まるで錘のような恐怖心はあったが、それが足手まといになることはもうなかった。

正午ごろ。あちこちで味方の戦の咆哮が上がり、薩長軍は次第に退いていく。特に永倉に率いられた二番隊は敵砲兵を強襲し、敵の大砲は損傷、また狭い街道の不利な陣形、さらに不慣れな間接射撃に苦戦して敵砲兵は壊滅していった。
「よくやった!」
見廻組の佐々木が満足そうな表情で鼓舞する。
「長州軍の側面を叩いた。奴らの引きつった顔は見ものだった。なあ、佐川殿」
「…そうですね」
会津の佐川は相変わらず淡々と答えた後に土方へ視線を向ける。彼の言いたいことは土方も良くわかっていた。
「佐々木殿、伏見方面に兵を進めましょう」
「ああ。休んでいる暇はないな」
まだまだ圧倒したとは言い難く、誰もが一時的な撤退だとわかっていたので早速幕府軍は追撃を開始した。一刻も早く敵を殲滅まで追い込まなければ、敵の援軍が到着してしまう。
土方は後方の鳥羽方面を振り返った。
(あちらはどうなっているんだ…)
千両松より早く開戦した鳥羽からは激しい大砲と銃弾の音が響いていた。それは断続的に続いていて、少なくとも一方的な展開にはなっていないようだが、せめて鳥羽へ援軍を向かわせないようにできるだけ長くこちらに引き付けておきたい。
幕府陸軍、会津藩兵に続いて新撰組の隊士たちとともに土方は刀を抜いて駆ける。宇治川沿いには死体が散乱し、敵味方ともわからない壮絶な状況となっていたが、今は誰もが興奮状態となり、まさに勢いがあった。
(このまま突き進むしかない…!)
そう思った時。
「な、何だ?!」
「オイどうした!」
前方を行く兵士たちが急に引き返して戻ってきていたのだ。大砲の音もなく、銃声もしない…いまは退却するべきではないのに、まるで行き止まりに遭ったかのように兵が逃げ出している。土方は混乱する兵をかき分けて前に進み、顔を引きつらせて戻って来た兵士の一人を捕まえた。
「何があった?!」
まるで幽霊でも見てきたように兵は青ざめている。兵は震えながら答えた。
「み…っ、御旗が…ッ!」
「…御旗?」
「菊の御紋の御旗です!錦の御旗です!」
土方は兵の言葉の意味がまだうまく咀嚼できないままだったが、何人もの兵がその御旗を見たと叫びながら引き返してくる。
「このままでは朝敵になっちまう!」
「俺たちが賊軍だ!」
「やっぱり噂は本当だったんだ!」
悲鳴のように叫びながら武器を捨てて敗走する兵たち。そんな光景に呆然とする隊士たち。
「…土方さん、これは…」
永倉は戸惑い土方に答えを求めるが、土方にはまだ状況が飲み込めなかった。






862


千両松開戦より一刻半早い、明け六つ半(午前七時)頃、鳥羽街道では薩長軍が幕府軍が陣を敷く富ノ森、酒樽陣地に迫り、激しい砲撃戦が始まった。雨のように弾丸が戦地に降り注ぐなか、銃火器では劣っていた幕府軍が激しい抵抗を見せたため勝敗はしばらくの間拮抗した。
斉藤と原田は隊士とともに街道左右の畑地を駆けまわり、何度も白兵戦を仕掛けたがやはり大砲や銃の威力に比べれば焼け石に水でしかない。
「斉藤、状況はどうだ?」
極限状態で「山口だ」といちいち訂正する余裕はない。斉藤は蘆の茂みに身を隠しながら答えた。
「今のところ互角にやり合っているが、長くはもたないだろう」
「…そうだな。あっちを見てみろ」
原田は桂川の向こう側を指すと、様子を窺っている敵兵の姿が低い山脈のように連なって見えた。
「山崎街道にどんどん援軍が来てる。今は時機を図っているようだが、俺たちが淀へ後退すれば兵や弾薬の補給も可能だろうな」
「ああ。ここでいつまでも時間をかけているわけにはいかないが…」
斉藤はそうは言いつつも具体的な打開策は見つけられなかった。今朝から幕府や会津の砲兵隊が必死に対抗しているがじわじわと押されており、開戦時には富ノ森から五町先(約600m)だった敵軍だが、今は1町(約200m)まで迫っている。銃火器を持たない新撰組はただ機会を待つしかないのだ。
そうしていると斉藤の後ろに控えていた野村が
「千両松、開戦したみたいっすね」
と遠くを眺めながら呟いた。斉藤が目を凝らすと確かに白煙が上がっている。
「ここにいるより、千両松へ援軍に向かった方が良いんじゃないんですか?」
誰もが深刻な表情を浮かべるなか、野村はあっけらかんとまるで子供の問いかけのように首を傾げる。近くにいた相馬が「野村」と出しゃばりな彼を止めたが、口を閉ざすことはなかった。
「こんな膠着した戦場で弾が飛んでこねえように祈ってるよりも、待ち伏せして襲撃する方が有効じゃないですかね」
「ま、こっちが面白くねぇのは間違いねえよな」
原田は野村に同調し似た者同士彼らは笑いあう。真面目な相馬や島田は呆れていたが、斉藤は「駄目だ」と却下した。
「ただでさえ命令系統が上手くいっていない時に勝手な行動は慎むべきだ。それにもし千両松へ向かったら、新撰組が鳥羽を放棄したと勘繰られ、士気が下がる」
「冗談だよ。な、野村」
「冗談というより本音ですかねぇ」
斉藤は野村の言い分は理解できたが、到底了承するわけにはいかなかった。
(副長がここで生き残れと言ったのだから、そうすべきだ)
土方の性分はよくわかっている。万が一、千両松で新撰組が全滅したら…彼にはそんな予感があってせめてこちらにと局長の親衛隊である一番隊を残したのだろう。鳥羽や伏見で敗走したとしても、近藤の元へ戻れるように。
(あの人は昔からそういう人だった)
斉藤が再び鳥羽街道へ視線を戻し様子を窺っていると、次第に砲撃の音が少なくなり、ついには止んだ。
「…なんだ?」
原田は警戒して周囲を見渡す。すると前方から「ヤァー!」という咆哮とともにこちらに駆け寄ってくる兵の足音が聞こえて来た。
「出撃―!出撃じゃー!」
「一人でん多く斬れー!」
斉藤は独特の訛りを聞いてもっぱら砲撃に徹していた薩長軍が白兵突撃を仕掛けてきたのだと気が付いた。身を隠していた斉藤が立ち上がると、百以上の兵が幕府砲兵隊に迫っていた。
「行くぞ」
「おう!お前ら、出番だぞ!」
「オオオオオ―!」
原田は嬉々とした表情で先頭を走り、配下たちが続き、一番隊の隊士たちも駆け出していく。身を隠す必要はなく、いまこそ堂々と刀を振るうことができる好機だと確信したのだ。
「ハハ、相馬、見ろよ!奴らこっちに飛び込んできた!こりゃ飛んで火に…ってやつだよな?!」
「下らないことを言うな!」
野村は得意げに笑いながら相馬と並んで突撃し、逃げ惑う幕府砲兵隊に向かって突撃する薩摩兵を横から崩していく。
しかし最初は上手く敵の数を減らすことができたものの、敵兵は抜刀している者や銃を持っている者がいて一部銃撃戦となった。一小隊が活路を見出すために皆、捨て身の覚悟で飛び込んできたのでこれを迎え撃つにはこちらにも犠牲が出た。
「アアァ!」
銃声とともに悲鳴が聞こえる。
「おい、村上!」
「大事ない!かすり傷だ!」
原田は太腿を撃たれた配下の村上に手を貸そうとしたが、すぐに銃弾が二人の間を割く…立ち止れば標的となってしまう。原田は槍を大きく振るいながら敵兵の数を減らすことに専念するしかない。
「クソ!また応援は来ねぇのか!」
幕府砲兵隊はすでに大砲を放棄して逃げ出してしまっている。そして援軍もなくただ敵の猛攻に耐えるしかない…これでは昨日の過ちを繰り返すだけだ。
(退却すべきか…?!)
斉藤は判断を迷った。相変わらず幕府本陣からの明確な指示はなく幕府砲兵隊を守るためにもいまは耐えるしかない。戦況は互角、捨て身覚悟の敵兵はあちこちでその役目を全うし、新撰組隊士は何人か銃弾に倒れている。しかし後方に視線を遣ると、援軍どころか富ノ森の酒樽陣地を放棄して逃げ出しているではないか。
「馬鹿な!」
斉藤は声を荒げた。その場に留まるべきところを逃げ出せばこの戦場を放棄し、残った新撰組は孤立する。そして昨日の佐久間軍の二の舞になってしまう。
「斉藤先生!」
大きな体躯の島田が猪のように斉藤の元へ駆け込んできた。顔に銃弾が掠めたのか頬から血を流していたが、彼は
「あれを見てください!」
と悲鳴のように叫ぶ。彼が指さす先に見えたのは―――赤地の錦に金色の日像、金の糸の刺繍によって『天照皇太守』と書かれた帝の旗。勅命によって伝わされた征討将軍の印であった。
斉藤は瞬時に理解した。幕府軍が逃げるように退却を始めたのは、敵の大砲でも強襲でもなく、この一枚の旗に恐れ慄いたせいなのだ―――。



ほぼ同じ頃。
千両松での待ち伏せに成功し、薩長を追撃すべく伏見街道を進軍していたはずが、前方の兵が逃げ出している―――。
そんな現状に唖然とする土方のもとへ厳しい表情を浮かべる井上がやって来た。
「歳、兵士たちが戦が始まる前に噂していた。昨日、伏見の町で薩長側が赤い旗を掲げていてそれに『天照』なんとか書かれて…それが錦旗に違いないと。見間違いだと言う者もいたが、この様子だと間違いねぇな」
「…だが、それが本物と決まったわけじゃねえ。偽勅ばかり出す連中だ、信用などできるものか…!」
土方は錦旗の存在を受け入れ難く感じたが、永倉は冷静だった。
「本物かどうかはいまは誰にも分らない。…ただ、この状況は拙い」
錦旗の存在が伝わったことで自軍の士気は下がり、皆の足が重くなっているのは間違いない。歯向かえば朝敵となり、一生かかっても雪げない汚名となるのだから恐れるのは当然だろう。
そこへ斥候の山崎が慌ててやって来た。
「前方の見廻組が交戦中です!ただ幕府陸軍はほぼ統制が取れてません!」
「…御旗だとかそういうものは後回しだ。見廻組に続け!」
幕臣の佐々木が戦うことを決意したのなら新撰組が逃げるわけにはいかない。混乱のなかで新撰組隊士たちは駆けだした。
「山崎、お前も自分の隊を率いて参戦しろ」
「承知しました」
逃げ出した兵は多く、いまは数が欲しい。それに副長助勤の山崎自らが先頭に立てば配下たちの士気も上がるだろう。だが、土方の頭のなかは後回しにしたくとも錦旗のことでいっぱいだった。
(憎らしいが、戦略としてこれほど有効なものはない)
薩長側に錦旗が掲げられれば、すなわち幕府軍は賊軍となる。開戦前まで徳川という大きな傘で守られ『勝てるはずだ』と意気込んでいた幕府の兵は皆、この大きな転落に愕然とするだろう。権力を持つ人間が朝敵という罪人にまで落ちぶれてしまうのだ。
そしてそれは現場に立つ兵だけではない。頑なに朝廷に恭順し尊王の意志を貫く上様にとってこれほど精神的に打撃となることはない。
(かっちゃんはまた泣くだろうな…)
幼馴染の憤りと嘆きは容易に想像できる。
しかしここで逃げ帰るわけにはいかない。
その錦旗が本物でも偽物でも構わない。この戦に勝利してこちらがその錦旗を奪えばいい。それくらいの覚悟を持つ者だけがこの戦に勝つことができる。
(上が日和らなきゃいいが)
土方が考えを巡らせていると、パァーンパァーンと銃撃の音が響き始めた。
「奴ら、もう立て直しやがったのか?!」
井上が叫ぶ。敵軍は伏見方面に退却した後、錦旗を掲げるだけで敵を退けたことで十分時間を稼ぐことができたのだろう。前方で銃撃戦が始まり、新撰組隊士たちはバラバラになって湿地の蘆荻に隠れた。
しかし先に進んでいた見廻組や会津藩兵が次々と銃弾に倒れていく。兵は逃げ出し、散って行く。
「歳、どうする?!」
「退却するしか…」
「馬鹿言え!ここで逃げ延びてまた好機が得られるのか?今こそ決死の覚悟で迎え撃つべきじゃないのか?」
「源さん…」
井上はこのまま強行すべきだと主張したが、土方には勝機が見いだせなかった。この二日の間で、銃で死んでいった多くの兵を目の当たりにしてきたのだ。土方は永倉へ視線を遣るが彼も決めかねているようで顔を顰めていた。
しかし井上はすでに強く決意していた。
「歳、まだ敵も完全に準備が整っているとは限らねえし、隙はある。俺たちの急襲を受けて混乱しているはずだ…少しでも可能性があるなら突き進むべきじゃないのか?」
「…もしそれが可能だったとしても、大した成果ではない。銃の用意が少ない俺たちが多くの犠牲を…全滅の可能性だってある」
「戦なんてそんなものだ。まさかここで犠牲が出ないとでも思っていたのか?」
銃撃の音が少しずつ近づいてくる。井上に覚悟を問われ土方は言葉に詰まったが、あれこれ考えている暇はない。
「退却ー!退却だー!」
土方が決断を下す前に会津別撰組の佐川の怒号が聞こえて来た。彼はこの作戦失敗を判断し、次の戦場へ向かう決断をしたのだろう。
井上は悔しそうに舌打ちした後「わかった」と唇を強く噛み締めた。
「お前が決められないなら俺が決める。…俺は殿を務める。歳は他の隊士を連れて退却だ」
「源さん!」
「歳、俺ァな、その錦旗っていうただの布切れに怯えて逃げ出すなんて恥ずかしくて出来ねぇんだ。きっと若先生に笑われるだろうよ。…俺が頑固なのは知っているだろう?」
「待て、源さ…」
「永倉、後は頼むぞ」
「わかった」
井上は土方の制止を振り切って立ち上がり、
「新撰組副長助勤、井上源三郎が殿を務める!配下は続け!」
と叫んだ。井上に共鳴する十名ほどの隊士たちが一斉に駆け出して敗走する自軍の兵を押しのけて進んでいく。土方は後を追おうとしたが、永倉に腕を掴まれて止められた。
「土方さん、行きましょう」
「…っ、だが」
「誰かが殿を務めなければならない!源さんはそれをわかっているんです!」
永倉は怒鳴り、周りの新撰組隊士たちにも退却の指示を出した。隊士たちは湿地帯を抜け出して、会津藩兵や見廻組、幕府歩兵隊に混じって淀方面へと走り、退却を始めた。土方は永倉に促され重たい身体を引きずるようにその流れに加わるしかない。何が正しい判断なのか、このまま逃げてもいいのか―――しかしこんな時に「それでいい」と背中を押してくれる近藤はいなかった。









863


「泰助、大丈夫か?」
「へ、平気だこんなもの…」
泰助は追撃の最中、敵の流れ弾が左の腕を掠め、出血していた。鉄之助の手助けを借りて人目に付かない蘆の茂みに隠れて手当てをする。
「それより、どうなってるんだこの状況…」
二人は茂みの合間から戦況を窺った。
薩長軍へ追撃命令が出され、勢いそのままに追撃したはずがあっさりと引き返して淀へ向かって退却を始めている。統制が取れずにバラバラになって散っていく自軍の兵を見ると薩長の反撃に遭っているのだろうと推察できるが、それでも少しも抗う様子はない。まるで化け物を見たような蒼白の表情で兵が駆けていくのは、泰助と鉄之助にとっても異様な光景だった。
「新撰組は?」
「…わかんねぇ、完全にはぐれちまった。悪いな、俺のせいで…」
「仕方ない。…これからどうする?」
鉄之助は泰助の傷に応急処置用に袖を千切ってそれを固く結ぶ。
「…やっぱり新撰組の合流すべきだよな。おじさんはどこに行ったんだろう」
「新撰組のことだから簡単に退却はしていないはずだ。…この蘆の茂みはずっとこの先も続いているから、俺たちなら隠れられる。前方へ行ってみよう」
「よし」
泰助は鉄之助の考えに同意し、二人は逃げ惑う兵たちとは逆に小柄な身体を利用して戦の前線へと足を向けた。
戦が始まってから断続的に雪や雨、みぞれが降っていて常に足元がぬかるんでいる。あちこちで霧も発生していて視界が悪いが、伏見方面へ進むにつれてだんだんと銃声が大きく激しくこだましていた。
「…鉄…」
「ああ…あんまり見るな」
泰助は絶句した。前方へ向かうにつれ死体が散乱している。しかもほとんど自軍の兵が槍や刀を抱えたまま無残に一方的に撃たれているのだ。伏見でも多くの亡骸を目にしてきたが、まさに目の前で息絶えていく生々しさに吐き気と悪寒が止まらなかった。
鉄之助は顔色が悪い泰助を心配して「戻るか?」と声を掛けたが、泰助は首を横に振った。
「新撰組がこの先にいる気がするんだ…」
新撰組隊士として勝手な退却はできない―――その使命感だけが泰助の背中を押していた。鉄之助も頷いて腰を曲げながら休むことなく少しずつ進む。
次第に遠方へ、池というよりも湖に近い巨椋池が見えてくる。
「遠くまで来ちまったな…」
「…泰助、あれを見てみろ」
鉄之助が指さす先を泰助も見た。街道沿いの町屋から火の手が上がって、薩長軍が足止めされていた。
「なんだ…火事か?」
「おそらく幕府側が火を放って、逃げたってことだろう。やっぱりみんな退却したのか……なあ、あれを見てみろよ」
「ん?」
泰助が目を凝らすと、宇治川の水を汲んで消火する薩長軍の背中に風にたなびく紅い旗が見えた。
「…なんだあれ。薩摩の旗ってあんなのだったかな」
「菊のご紋…か?」
「菊?朝廷の軍ってこと?」
「…わかんねぇ。でも…変だよな…」
言いようもない漠然とした不安が二人によぎった。自分たちが戦っているのは朝廷を牛耳り帝を意のままに操ろうとする賊軍、薩摩と長州だったはずだ。それなのに今見ている光景はまさに真逆ではないか。
泰助は気が滅入る気がして話を切り上げた。
「…きっとなんかあったんだ。…鉄、こっちに新撰組はいない、戻ろう」
「そうだな…」
二人は再び来た道を引き返す。蘆をかき分けてべちゃべちゃと足をとる泥濘を踏みつける。宇治川沿いを淀方面に向かうともう自軍の姿はほとんどなく逃げ延びていて、あるのは無情に撃たれた遺体だけだ。どうしても視界に入ってしまい、そのたびに頭が真っ白になった。
「泰助、急げ。置いて行かれる」
「お、おう…」
泰助が歩を早めた時…どこからか唸り声が聞こえた気がして立ち止った。振り返ってしばらく耳を澄ませた。
「泰助?」
「……鉄…」
曇天の空。霧が立ち込めて死が散乱している。泰助はそのなかに見つけた。
「おじさんッ!!!」
その姿を見つけた途端、喉が焼けつくような声を出して泰助はなりふり構わず駆けだした。唸り声じゃない、自分を呼ぶ声だと気が付いたからだ。
泰助は遺体のなかで井上の姿を見つけた。腹部に数発の銃弾を受け出血した血はまるで水たまりのようにそこにあって、土に混じって黒くなっている。
「おじさん!おじさん!!」
井上には血の気がない真っ白な顔をしていたがまだ息があった。細く頼りなくか弱いが、生きていた。
泰助は大粒の涙が流れていくのを袖で拭いながら、追いかけて来た鉄之助に頼んだ。
「鉄!運ぼう!おじさんと一緒に新撰組に合流するんだ!」
「…泰助」
「なあ、頼むよ!まだ生きてるんだよ!二人なら何とかなるだろう?!なあ、鉄!」
泰助は必死に懇願するが、鉄之助の表情は歪んでいた。腹部の傷からはいまも血が流れ出ているのだ。
「…無理だ。敵から隠れながら、大人の身体を二人でなんて…」
「じゃあここに置いていけっていうのかよ?!まだ生きてるのに!」
「泰助…」
鉄之助は言葉がなく首を横に振るしかない。泰助は井上の体を起こそうと両手を引っ張るが、ぶらんとして力が入っていない。
「クソ!クソ、クソ!!」
泰助は必死に繰り返したが、上半身を起こすことすらままならならない。
「おじさん…っ起きてくれよ、頼むよ…!」
(俺、こんな時もなんにもできねぇのか…!)
堪えきれない涙がぽつぽつと落ちる。
本当はわかっていた。二人の脆弱な少年が薩長から隠れながら、瀕死の身体を運ぶことはできないと。わかっていて、それでも自分で認めることはできなくて、諦めきれなかった。
「…おじさ…おじさん…」
「……」
「泰助、井上先生何かおっしゃっている!」
「え…っ?」
鉄之助に促され泰助は慌てて井上の口元に耳を寄せた。小さな幻のように唇が動いて、掠れた声が空気を震わせた。
「……なが……ろ」
「…おじさん…」
「わか…ったな…?」
井上の目が薄く開き、穏やかに笑った。そしてその後はまるで糸が切れたかのように力が抜けて、逝ってしまった。
「おじさん…」
「井上先生…」
二人が膝をついて項垂れた時、雲の合間から少しだけ光が差し込んだ。それはまるで井上の魂を天へ持っていくような柔らかな日差しだった。
泰助は魂の居なくなった身体に突っ伏して声を殺して泣いた。何人もの兵が死んでいる、そこらじゅうであっという間に死んでいる。それでも叔父の死というものが特別悲しくて特別辛かった。
鉄之助は嗚咽する泰助の背中をさすりながら訊ねた。
「泰助、井上先生は最期になんて言ってたんだ…?」
「…わかんねぇ…でも、生き永らえろ…って、聞こえた…」
蚊の鳴くような小さな声は泰助にも上手く聞き取れなかったが、井上ならそう言うだろうと思ったのだ。
鉄之助は泰助を慰めながら後方を見る。足止めのための火事は少し収まりつつあり、このままでは敵軍に見つかってしまう。
「…泰助、行こう」
「う…ッ、うぅ…う…」
「…」
悲しみに暮れる泰助はその場から動こうとしない…その姿を見て鉄之助はゆっくりと立ち上がり刀を抜いた。
「泰助…先生と新撰組に帰ろう」
「…鉄…」
鉄之助の意図を察し、泰助はゆっくりと惜しむように井上から離れた。鉄之助は目を閉じてすっと息を吸い柄をしっかり握った後、力いっぱいに振り下ろして井上の首を斬った。
「あああぁ…」
首を持ち帰る…わかっていても泰助は人が人でなくなるその無残な光景に悲痛な声を上げた。しかし鉄之助は表情を崩さず自分の羽織を脱ぐと首をしっかりと包んで泰助に持たせ、その後泰助の頬を音が鳴るほど叩いた。
「しっかりしろ!生き永らえろって先生はおっしゃったんだろう?!」
「…っ、」
「戻る!先生とともに、何としても戻るからな!!」
鉄之助は大きな声を上げて泰助の身体を引っ張り上げ手を引いてぐいぐいと前へ進んだ。
泰助はほんの少しぬくもりが残る首を抱えて歩きながら、涙を流し続けた。
「重てぇ…おもてぇよ、おじさん……」
両手に抱えて骸が並ぶ川沿いを歩く。泰助にとってまるで何千里も続くような途方もない距離のように思えた。


朝から大阪奉行所屋敷は鳥羽、伏見から運ばれてくる負傷者で溢れかえっていた。手当てに来ていた松本は
「ここじゃ落ち着いて療養できねぇだろう」
と移動するように促されたので、近藤は大坂で何かと手助けをしてくれている京屋忠兵衛に相談して、彼が所有する淀川沿いの八軒屋の邸宅を借りることができた。
「近藤先生、駕籠をお呼びしました」
「なに、傷は問題ない。ちょうど散歩に行こうと思っていたところだ」
近藤は腕を吊って気丈に振る舞う。総司には近藤が強がっているのだとわかっていたが、あちこちから敗戦の知らせを聞いてとても寝込んでなどいられないのだろう。代わりに駕籠は伊庭が使うことになった。
「俺までお邪魔して良いんでしょうか?」
「勿論だ。八軒屋の浜には船が着く。他の負傷者も受け入れることになるだろう」
近藤の提案で伊庭も八軒屋に向かい、三人は大坂城を跨いで東側から西側へ移った。登城の命が下ってもすぐに駆けつけられる距離で、普段は空き家だというが上等な旅籠のように立派な造りをしている。
「さすが、京屋さんのお屋敷ですね。川沿いの風が心地いいです」
「ああ。それに手伝いの女中まで寄越してくれた。助かるな」
京屋忠兵衛は壬生浪士組時代に近藤と意気投合して何かと手を貸してくれていた。金の工面でや深雪と孝の身請けでも人脈を発揮して力になり、戦況が変わっても支援を続けてくれている有難い存在だ。
近藤と総司は川向こうの淀へ視線を向けた。天候不良で見通しは悪いため戦況は分からない。
「…近藤先生」
「どうした?」
「私は待つのにあんまり向いてないかもしれません」
「…俺もだ」
二人は「似たもの同士だ」と顔を見合わせて笑った。










864


鳥羽街道、伏見街道にて掲げられた錦旗によって、幕府軍はいつの間にか自らが官軍から賊軍へ身を落としていたことを知った。世の中がひっくり返ったような衝撃を受けて敗走する兵が後を絶たず、鳥羽街道では富ノ森から納所へ撤退、伏見街道千両松では薩長は猛烈な反撃を行い、どちらの街道も明け八つ(午後二時)頃に退却命令が下り幕府軍は皆、淀へ向かうこととなった。

千両松から淀城下へ敗走する幕府軍に対し、追撃の手が迫っていた。
「殿は我が会津藩別撰組が務める。幌役の林又一郎隊も加わるので土方殿は他の兵を率いて淀へ向かって欲しい」
追い詰められた状況のなかだったが、相変わらず佐川は淡々と話す。しかし薩長は援軍を得てますます兵力を増強しているのだ。土方は首を横に振った。
「いや、新撰組も…」
「新撰組は先ほど殿を務めてくださった。今度は会津の番です」
「…」
錦旗の登場によって兵はすっかり気弱になった。そして幕府軍が撤退するために井上たち十名ほどが殿を務め、街道沿いに火を放ち時間稼ぎをして、まだ戻っていない。どうにか再会できることを願っているが、状況はなかなか厳しいだろう。新撰組の隊士たちも疲れ果てている。
「…わかりました、後は頼みます」
「ええ、淀で会いましょう」
無表情の佐川の口角が少し上がっていた。追い詰められた状況だが、いっそ開き直ってほくそえんでいる方が塞ぎこんでいるより部下の士気を上げるだろう。
土方も気を取り直して隊士たちの元へ向かい、遊撃隊や幕府陸軍兵とともに淀へ向かうことを告げた。
「淀にて一斉に薩長を迎え撃つ!」
「オオオオーー!」
錦旗を怖がる臆病な兵はもう逃げ出してここにはいない。誰もが力を振り絞り、淀での再起を目指して足早に退却を始めた時、
「土方先生!」
と銀之助が飛び込んできた。小荷駄方として駆け回っていた彼は目を赤く腫らしている。
「どうした」
「鉄と泰助がいないんです!」
「…何?」
「先ほどの進軍ではぐれてしまったようで…どこにも見当たりません!誰に聞いても、わからないって…!」
「…」
銀之助は鉄之助や泰助に比べると落ち着いていて大人しいので、これほど取り乱している姿は見たことがなかった。戦場で行方不明になるのは日常茶飯事だが、年相応にわんわん泣く姿を突き放すことはできなかった。
土方は近くに居た山崎を呼んだが、鉄之助と泰助の所在については彼もわからないようだ。
「最後に二人見たのは…退却する薩長を追うて井上せんせと一緒に駆け込んでいく姿でした。…もしかして殿に加わったのでしょうか?」
「いや…あの時にはいなかったはずだ。いたらさすがに止めている」
山崎は「確かに」と頷いた。殿として井上を先頭に続いた隊士たちは皆、長い間井上の元で働いていた忠義者の隊士ばかりだった。その誰もがまだ戻って来ていない。
「逃げたか…」
「鉄と泰助に限ってそれはあり得ません!」
銀之助が涙目で土方に抗議する。もちろん土方も可能性の一つとしてあげただけで、熱心な小姓たちが自分の判断で逃げ出すとは到底思えなかった。山崎は銀之助を宥め、笑い飛ばす。
「あの二人が錦旗の意味なんて分かるわけあれへん。敵も子供には手ぇ出さんやろうし、どっかで道に迷うてるだけやろ」
「でも…千両松より向こうにはもう誰も居ません…」
味方とも敵ともわからない死体が宇治川沿いに散乱している。まさかその一つになっているのではないか…最悪の事態を想像し銀之助は俯いて身体を震わせた。
『子どもが死ぬのはあまり見たくありません』
淀で斉藤が呟いていた言葉が土方の脳裏によぎる。
(確かに…お前の言う通りだな…)
世の中の善悪の区別すらわからず、彼らは希望をもって無邪気に参戦した。まだまだ長く続くはずだった道がこんな理不尽で一方的な戦で閉ざされるのだとしたらこれほど痛ましいことはない―――そう思った時だった。
「ただいま戻りました!」
声変わりする前のよく通る声が響いて、皆が一斉にそちらに視線を向けた。足元は泥だらけ、髪は乱れて鉢金は緩んでいたが、強張った眼差しの鉄之助とその後ろで疲れ切った表情の泰助が戻って来た。項垂れていた銀之助はパッと顔を上げて
「鉄!泰助!よかった、生きてたんだ…!」
と喜びを隠せず一目散に駆け寄ったが、二人の硬い表情を見て身じろいだ。土方も二人が戻って来たことを知った一瞬は暗澹たる思いが晴れるようだったが、すぐに彼らの異変に気が付いた。
「…泰助…」
「うっ…ふっ…ひっく、ひっく…」
鉄之助の後ろで泰助は大粒の涙を流していた。そして大きな荷物を抱えて土方の前までゆっくり歩くと、それを両手で差し出した。
「…井上源三郎の…首です…」
「……」
「俺が看取って…鉄之助が切りました…」
土方は頭が真っ白になった。
(源さんが…死んだ…)
嗚咽を堪えながら報告する泰助を囲むように隊士たちが集まった。
「源さん…」
「井上組長…そんな…」
「無念です…!」
付き合いの長い永倉が呆然とし、山崎は目を逸らした。そして井上を慕っていた多くの隊士たちが手を合わせてすすり泣き、悔しがった。
土方は井上が殿軍として飛び出したときからこの結末を覚悟はしていた。けれどこうして現実として目の前に彼の死があると、受け入れ難くただただ胸が痛む。
兄弟子として近藤よりも早くから試衛館にいて、何故だかいなくなるはずがないと思っていた。面倒毎を押し付けられても嫌な顔一つせず、近藤をいつまでも『若先生』と慕い、新撰組の副長助勤としてただただ寡黙に任務をこなし続けた…とにかく懐の大きな男だった。そんな叔父の首を、幼い甥がここまで抱えて持ち帰るなど、身内の泰助にとってはどれほど過酷な道のりだったことだろう。
(俺は源さんに何も言えなかった…)
礼も、励ましも、謝罪も…何も口にできなかった。
けれど泰助が震えながら差し出したそれを受け取らないという選択肢はない。
「…ご苦労だったな」
土方は首を受け取った。ずっしりとした重たさに、彼の生きざまとその存在の大きさを今更ながらに感じた。
井上が息絶えたということは、殿を務めた隊士たちもそのまま戦死したのだろう。おかげでここまで逃げ延びることができたのだ…勇敢な彼らの死を無駄にしてはならない。
「…皆、出立だ。淀まで一人も欠けるな」
「ハッ!」
隊士たちは悲しみながらもここで立ち止まることが無意味だと知っていた。気力を振り絞り、また次の戦を目指して淀へ向けて出立をはじめた。
「山崎、この辺りに供養する場所は…」
「おじさんは俺が江戸まで連れて帰ります!」
「泰助…」
泰助は大粒の涙を流しながら土方に懇願した。
「俺が絶対に江戸まで送り届けます!だから、こんな場所におじさんをおいていかないで!」
「…」
「気持ちはわかるけど、まだ戦は続く。お前になんかあったら井上せんせの首はどうなるんや…」
「いやだいやだ!」
泰助は駄々をこね、山崎は困って眉を顰めた。相当な重さのある首を泰助がいつまで抱えていられるかは検討が付く。けれど土方は「わかった」と頷いた。
「副長、しかし…」
「お前が思うようにしろ。源さんも…それを望んでいる」
「ありがとうございます…っ!」
泰助は再び井上の首を抱えた。鉄之助と銀之助は心配そうにしていたが、本人の決意は固く説得には応じないだろう。
「気が済むまで任せよう」
「…そうですね」
山崎は頷いて、後方を見た。白煙があちこちで立ち上り、殿軍の大砲の音が響いていた。



淀へ退却命令が下った頃、大坂城へ錦の御旗が掲げられたことが伝わった。
会津公とともに浅羽は上様に謁見した。
「勅命により、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍となられ、その印として授与されたものが錦の御旗であるということです」
年末からの質の悪い風邪を引きずっていた上様は、椅子に腰かけて机に体を預けるようにして会津公の話に耳を傾けていた。
『勝手にせよ』と半ばこの戦をなげだして、目まぐるしく変わる戦況に翻弄される城内を高みから見下ろして「治るものも治らない」と愚痴をこぼしていたが、ついに徳川を名指ししして『賊軍』として扱われてしまう事態に陥ってしまった。
上様には焦りがあった。
「錦の御旗など、昨日今日で作れる代物ではあるまい。…薩長は事前に準備していたのだろう、姑息な奴らだ」
「…鳥羽街道、伏見街道では多くの味方兵が敗走を始めています。賊軍の汚名を負うつもりはないと帰藩を詰め寄られ、一部は撤退しました」
「本物か偽物かわからぬ、子供騙しの旗にすっかり踊らされているな…」
上様はふん、と鼻で笑ったがその効果が絶大であったことは言うまでもない。会津公は話を続けた。
「混乱し指揮系統が乱れています。全軍に退却命令が下されて淀城下に向かってるとのことですが」
「淀城は川と堀に囲まれた堅牢な城だ。籠城を覚悟すれば十分状況は変わるだろう」
「…ですが、淀藩は幕府軍の入城を快く思っていないようです。二日の出立前にも宿営地として淀に入りましたが、藩主の不在を理由に城内ではなく城外での帰営を申し入れられたとのことで…」
「この戦を始めた馬鹿者は誰だと思っている!」
上様は机を叩き突然声を荒げたあとに咳き込んだので、会津公は深く頭を下げた。
「上様…どうかご自愛を」
「きっかけは江戸で勝手に薩摩藩邸を焼き討ちにしたことだ!それを命じたのは淀城主の稲葉ではないか!それが情勢を変えこの戦に繋がり、徳川は『賊軍』の汚名を負う瀬戸際だというのに、淀は肝心な時には手を貸さぬというのか!」
「…申し訳ございません。私の勝手な推測が過ぎました、淀の結論はまだ出ておりませぬ」
「ふん…淀は譜代だ、これまでの君恩を顧みれば裏切りなどできるはずがない」
「おっしゃる通りでございます」
上様は苛々するように爪を噛んで貧乏ゆすりをした。思わぬ開戦で苦戦し、錦旗まで掲げられ淀藩は色よい返事がない…こんな状況のなか、譜代とはいえ淀藩が非協力的な行動に出ないとも限らず、嫌な予感が過ったのだろう。
「…上様、どうか幕閣の前で激励のお言葉をお掛けください。薩長は五千、わが軍は一万五千…まだ勝てる戦なのです」
「…」
「もしくは陣頭指揮に立たれませ。そうするだけでどれだけの兵が励まされ、慰められるか。…我々は負けていない、貴方はまだ賊軍ではありません。恐れて逃げたときこそその汚名を負うことになるのです」
上様はあまり乗り気ではないようだったが、会津公は食い下がり
「いま淀に集う兵は錦旗などに惑わされず、上様をお守りするため勇敢に戦っているのです!」
と詰め寄った。傍らに控えていた浅羽は会津公がこれほどまでに強く進言する理由が、会津藩の苦境を耳にしたからだと知っていた。鳥羽、伏見そのどちらでも最前線に置かれた会津藩兵は敵の銃弾に晒されて多くの兵が命を落とした。それでも撤退することなく奮起し、役目をまっとうしようと今この時も戦っているのだ。そんな彼らに上様からの激励が届けば、どれほどの力になるのか。
上様は眉間に皺を寄せて深く、長いため息をついたあとに「わかった」と頷いた。
「考えておく。…肥後守と話すと疲れる。お前は下がって、板倉を呼んできてくれ」
「…かしこまりました」
結論を先延ばしにするような上様の返答に会津公は納得していなかったが、下がれと言われたからにはそうするしかない。浅羽とともにその場を離れてしばらく無言で歩いたあと、
「戦況はどうなっている?」
と浅羽に訊ねた。
「芳しくありません。大砲奉行の林権助を始め多くの死者と負傷者が出ていると報告が上がりました」
「そうか…」
会津公はその端正な顔を歪めながら足を止めて物見から外を眺めた。
厚い雲に覆われた陽はまだ南の空で燻ぶり続けていた。










865


「淀城が見えてきました!」
宇治川沿いの堤を駆けていると、相馬が前方を指さして皆に伝えた。逃げ続け疲れ果てた隊士たちにとっては一縷の望みであった。
「よ、ようやくか。これで立て直せる…」
「皆、もう一息だ!」
譜代大名の立派な城へあと少しというところまでやって来た。淀城下へ至るには淀小橋という宇治川に架かる橋を渡らなければならないが、ちょうど鳥羽街道からの兵が新撰組と同じように駆け込んで退却しているところで、混雑していた。
「あ、あれ原田先生じゃねえか?」
野村が目を凝らしながら仰々しく手を振ると、ちょうどあちらも気が付いたようで鳥羽街道に残っていた斉藤と原田の隊が合流した。
「鳥羽はどうなった?」
土方が早速戦況を尋ねると、鳥羽街道は一進一退の攻防が続いていたがやはり錦の御旗が掲げられたことで兵たちが混乱し、本営からも退却命令が出たという経緯を聞いた。永倉はため息をつく。
「こちらと同じだな。これで鳥羽街道と伏見街道のどちらも薩長の思うがままだ」
「大坂を抑えている限りは物流は止められるはずですが」
「残念なご報告です」
斉藤の言葉を遮って、山崎が小さく手を上げて続けた。
「無事に淀についてからと思うてましたが…都に残してきた斥候によると、確かに大坂と都の物流が止まって不便になってるようですけど、かわりに近江が兵糧を都へ運んでるとのことです」
「…近江?彦根藩は譜代だろう?」
「ええ」
永倉は顔を顰めた。まだ明確な裏切りと言えるほどではないが、譜代の彦根が薩長へ融通を利かせているとすれば薩長が不利だと思われていた持久戦でも長く持つことになるだろう。
頭の痛い現実に皆が言葉を失うが、楽観的な原田は
「ま、まあ、こうして皆で再会できて何よりだよな!」
と励ましたのだが、さらに場の緊張感が張り詰めた。土方が何も答えず、永倉は目を逸らす…目ざとい斉藤は気が付いてしまった。
「井上組長の姿が見えませんが…」
「……死んだ」
永倉は落胆を隠せず、絞り出すように答えた。原田が「ハァ?!」と声を荒げる。
「源さんが?!嘘だろ、何で…!」
「錦の御旗で混乱に陥った時…殿軍を率いて飛び込んでいったんだ。おかげで俺たちはここまで逃れることができた…」
「…し、信じられねぇよ…」
「信じられないなら泰助のところへ行ってみろ。…ずっと源さんの首を抱えて泣きながら、ここまで来たんだ」
「……」
永倉の語る事実に原田は唖然として言葉が紡げず、やりきれない思いを堪えるように俯いた。誰ひとり欠けることなく――そんな希望はあっさり打ち砕かれて、あっという間に何もかも失ってしまう。それが戦だとわかっていても、いるべき人がいなくなる虚しさは何度繰り返したところで変わらない痛みを与え続ける。
誰もが口を閉じて悼むなか、斉藤は
「…ここにいても仕方ありません。総督は淀城へ入城し、体制を立て直すとおっしゃっていました…我々も向かいましょう」
と背中を押し、永倉と原田は隊士を率いて淀小橋へ向かっていき、嗚咽を隠せない泰助を銀之助と鉄之助が支えて続いた。戦死者や負傷者だけでなく脱走者も多く、隊士の数は随分減っていた。
「副長、参りましょ」
「…いや、俺はここで殿軍の到着を待つ。先に入城するわけにはいかない」
「では我々も待ちます」
斉藤は一番隊とともに淀小橋前で待機し、山崎は自分の配下だけ先に橋を渡らせて自分は土方の隣に待機した。
伏見街道では会津が奮戦しているのだろう、敵の姿は見えずただ大砲と戦の鬨が聞こえてくるだけだ。しばらくは無言でその場にいたが、
「…副長、お加減でも悪いんでは?」
「そんなことはない…」
「そうですか?俺なんかはもう具合が悪なりそうです。こんなつもりやなかったのに、なんでこんな目に遭うてるのかってもう不思議で不思議で」
山崎があまりに赤裸々に本音を語るので、土方は硬い表情のまま苦笑した。
「…こんなつもりじゃなかったというのは、同意する」
「ほんまに、まさか徳川がこないに無策のまま戦に向かうなんて。まあ淀城が簡単に落ちるわけがあれへんし、大坂城も難攻不落の名城…いうても、この三日間はさすがに信じとったものが揺らぎそうで…」
土方を慰めようと冗談めかして笑いながらも、山崎の表情にも余裕はない。
淀小橋では次々と兵が押し寄せて逃げ回っている…三日前、薩長を見くびり悠々とこの橋を渡って戦場へ向かった時はこんな光景は想像できなかったはずだ。
しかし土方は
「俺は上のことはどうでもいい。自分に失望しただけだ」
と答えた。
「自分に…?」
「もっとうまく立ち回れるはずだと思っていたのに、咄嗟の時に何もできなかった。上からの指示を待ち、判断に迷い…まるで戦い方を忘れて将棋盤の前にずっと居るようで…ただ、虚しい」
土方は自分を卑下せずにはいられない。近藤の代わりに陣頭指揮をとり、その責任をひしひしと感じながら最善の選択をとってきたつもりでも、結果が伴わなければ意味がなく、全てが誤った選択だったのだと思わざるを得ない。懸命に命を賭けたところで、こうして敗走を重ねてしまっているのだ。
「…近藤先生に何と言えばいいのか…」
この無残な結果だけでない。多くの負傷者を出し、死んでいった。兄弟子の井上まで戦死した…隊士が脱走し、半数近くまで減っている…近藤が聞いたらどれほど失望するだろうか。苛立ちや憤りを通り越して、自分に呆れてしまう。あまりに情けなくて泰助が首を抱えて立っている姿が目に焼き付いて仕方なかった。
「副長…」
山崎が何かを言いかけたとき、
「副長殿!」
後方から一番隊の隊士たちをかき分けて、毛並みの違う軍服の若い男が駆け寄って来た。伝習隊士官の大川だ。
「…ああ…伏見で会った時以来だな」
「はい!またお会いできました!我々伝習隊は昨日も伏見に残り会津や桑名とともに鴨川を挟んで抗戦しましたが、伏見の町に錦の御旗が掲げられたとの噂が広まり、次々と指揮が乱れ全軍撤退となりました」
「…そうか。どこも同じだな」
「はい。私は今日は鳥羽で実物を目にしましたが、あんなものは偽物に決まっています」
錦旗の登場に『逆賊』を突き付けられ落胆している幕臣が多いが、大川は清々しく笑った。
「それにたとえ本物であったとしても、我々が奪い取ってしまえば良いだけのこと。実を伴わない空っぽの布切れ一枚であることは徳川にとっても、薩長にとっても同じはず。むしろあれを掲げただけで官軍となれるのなら簡単な話です。それなのに非合理的に布切れごときを過信し、薩長の術中に自ら嵌って敗走とは情けない限り……と、副長殿も同じようにおっしゃって下さると思いましたが、違いましたか?」
…大川はその場の雰囲気を読めない性格なのか、土方たちの落胆した空気をものともせずあれこれと持論を捲し立てる。その様子を見ると伝習隊でも浮いているのかもしれない。呆然とする山崎を尻目に、土方はふっと笑ってしまった。
「あの、私は何か失言を…?」
「いや…その通りだ。至極真っ当な意見だ」
大川の言葉がまるで自分の眠っていた本心のように聞こえた。
あんな布切れ一つで戦況が変わってたまるか、あんなものは奪ってしまえばいい。もっと賢い策を巡らせるべきだ…大川のように憤り、単騎でも突き進む、それが本来の自分だったはずだ。
大川の無謀さが土方のなかの何かを奮い立たせた。それは彼にとっても同じだったようで、同意を得て嬉しそうに破顔する。
「ありがとうございます!伝習隊では白い目で見られましたが、副長殿ならそうおっしゃっていただけると思っていました!」
「…礼を言うのはこちらの方だ」
「え?」
大川は一体何のことかと首を傾げるが、土方は聞き流した。
「ああ…一つ聞きたいことがある」
「なんでしょう!」
「その軍服は動きやすいか?」
幕府陸軍は異国からの軍装を取り入れつつも三角の笠被り下駄をはくいわゆる和洋折衷の格好だが、伝習隊の軍服はフランス陸軍の軍装がそのまま導入されていてよく目立ち、一目で彼らだと認識できる。
大川はにっこり笑って答えた。
「はい!合理的ですし便利、かつ温かいです。これを着てからは袴などはまどろっこしいと感じます」
「…そうか」
そうしているとその伝習隊から大川を呼ぶ声が聞こえて、彼は
「またお話させてください!」
と颯爽と去っていった。大川はまるで暗澹たる空気を晴らすような突風だった。
「…相変わらずでしたが、言っていることは正論でした」
黙って話を聞いていた斉藤が小さく笑った。若さ故の先走った危うさはあったが、彼の言う通り恐れることなく、誇りを胸に突き進めば良い。
土方は「淀へ入ろう」と声をかけた。殿軍はまだ戦っているがあの佐川が率いているのだから心配ないはずだ…そう思った時。
「敵襲です!」
そんな兵の叫びが近くで聞こえ、土方たちは咄嗟に身構えた。
(敵の姿はない…!)
しかし鳥羽街道の納所方面が騒がしくなった。
「身を隠せ!」
土方の指示で隊士たちは木陰や叢、とにかく地面に伏せる。幕府兵が続々と集結している淀城下にそう簡単には手を出せないはずだ。
(だとすれば奇襲…狙撃だろう)
土方の予想通り敵兵の姿は見えないが、弾丸があちらこちらから放たれた。無防備だった兵の背中を突くように続々と命中し、倒れていく。
(一体どこから…!)
「副長!」
山崎の鋭い声が響いた時―――土方は何かに押し潰され、地面に叩きつけられた。それが一体何なのかわからなかったが、
「撃て!」
という号令が聞こえて一斉に反撃の射撃が行われるのを耳にして、伝習隊が迎え撃っているのだとわかった。おそらく敵狙撃兵たちは分が悪いと悟り、逃げ去っていくだろう。
土方は覆い被さった身体を起こそうとするが、ぐったりしている。
「…山崎?」
「ご無事…ですか…?」
「あ、ああ…お前は…」
山崎は土方の背中からごろりと転がり天を仰ぐ。その身体は真っ赤に染まっていた。
「山崎!」
「…ハハ…ほんま、…戦なんて、どうしようもない…」
山崎はそう呟くと目を閉じて意識を手放してしまった。







866


淀藩主である老中、稲葉正邦は幕政改革に着手し幕府の延命に努めていた譜代大名だが、江戸にいて薩摩藩邸焼き討ちの指揮をとり不在であった。留守を預かる家老・田辺権大夫と八太監物は穏健派であったが、大久保利通や三条実美からの圧力を受け板挟みとなり、結局は藩主の許可なく薩長へ恭順の意思を示し、戦に関しては中立の立場を選ぶことになった。
もちろん、徳川は譜代藩である淀が裏切るとは想定しておらず、大目付滝川播磨守具挙は淀城への入場を拒否され烈火のごとく激怒し大坂口門の城兵に詰め寄った。
「三百年に及ぶ君恩に報いず、裏切るなど!」
「徳川は淀を敵を見なす!末代までの恥と心得よ!」
淀藩の態度に憤怒した滝川は兵へ火を城下に放つように指示し、やがて西風が吹いて火事が広まった。
それは新撰組が淀小橋前で合流する前の出来事であり、襲撃を受けた時はすでに淀小橋を突破した薩長軍との淀城下での銃撃戦が始まっていたのだ。


淀城下の幕府軍の野戦病院である長円寺には次々と負傷者が運ばれていた。鳥羽伏見での初日、二日目の負傷者はすでに舟で大坂へ送っていたが、それでも空きがなく負傷したばかりの怪我人が血を流し、意識をもうろうとさせながらひっきりなしにたどり着くのだ。負傷者で足の踏み場もない。
(一体どういうことなんだよ!)
英は戦の過酷さに飲み込まれつつ、憤りながら処置を続けていた。あちこちから大砲のけたたましい轟音が響き、銃声もひっきりなしに繰り返されそのたびに多くの負傷者が運ばれてくる…決して危険がないと思っていたわけではないが、(話が違う)と困惑してしまう。それはここにいる全員が同じだったようで、
「なあ、聞いたか?淀が裏切ったって…」
「おい本当かよ」
「じゃあここも戦場じゃねえかよ!」
負傷兵たちには悲愴感が漂い、項垂れていた。
英が負傷兵の傷を縫いきつく布を巻いていると、開け放っている正門が俄かに騒がしくなった。
「おい!英!英ー!」
聞き覚えのある声に呼ばれて駆けていくと、そこには真冬なのに汗だくの原田と配下の隊士が戸板を抱えて立っていた。その傍らには少年小姓の泰助と銀之助の姿もある。
「山崎だ、二、三発撃たれてる。頼む!」
「え?山さん…?!」
二人が戸板を降ろし、英は傷を診る。目を閉じて苦悶の表情を浮かべた山崎は彼らの言う通り三発撃たれて怪我をしており、そのうち一発は致命傷に近い場所にある。出血が多く戸板からは血がぽたぽたと流れ落ちているような惨状だ。
山崎は青白い顔を顰めて
「手間、かけて…すまんな…」
と謝った。医学方である山崎は長円寺の状況を慮っているのだろう。けれど重傷であることは彼自身もわかっているはずだ。
「…っ、そう思うなら運ばれてこないでよ!こんな傷、早く自分で塞ぎな!縫合は得意だろう?!」
「あほ…いうな」
山崎は口元を歪ませ、英は助っ人を呼んで手早く処置を始めた。頭のなかは山崎とともに修練を重ねた縫合のことでいっぱいで、何故だか手が震えた。
すると原田は柄杓で水を一杯飲み干した後、
「悪い、後は任せた。このガキたちも手伝いに置いていく。俺たちは早く戻らねぇと」
「ねえ!ここで戦が始まってるってこと?」
「ああ。…ここからは遠いが火事も広まっている。そのうちここも離れなきゃならねえかも」
「…そんな…」
「お前ら、生き残れよ!」
原田は英と山崎を励ますように一声かけると、配下とともに長円寺を駆けだしていった。炎があちこちで立ち昇るなか彼らが躊躇うことなく戦場へ戻っていく背中を見送ると、余計なことを考えている暇はないのだと思い知らされるようだった。
同行していた銀之助は「僕も手伝います」と英に申し出る。隣の泰助はまだ首を抱えたまま放心状態だった。
英は詳しい事情は分からなかったが、銀之助には負傷者に水を与えて周るように指示し、泰助は奥の部屋で休むように命じた。彼らはそういう意図でここへ遣わされたのだろうと思ったからだ。
ふと我に返ると、怪我を負いあちこちで呻く兵士たちの声。遠くない場所で聞こえる銃の音。そして目の前には泥と土と血に塗れながら生きようと懸命になっている兵がいると思えば、外には息絶えた遺体が積みあがりつつある目を背けたくなる光景が広がっている。
(どんな状況だろうと己の任務を全うしよう)
英はそう決意し、助手が持ってきた消毒代わりの酒を傷に吹きかけて鍼を持った。
(早く、正確に)
山崎とともに南部に教わったことを思い出す。
「山さん、死んじゃだめだ。…友達、迎えに行くんだろう?」
山崎は痛みに朦朧としていたが、英にそう声を掛けられた途端ハッと眼に光が宿ったかのように表情を変えて、小さく何度も頷いたのだった。


譜代・淀藩の裏切りというセンセーショナルな出来事によって時には拮抗していた戦況は劣勢へと転じていた。
鳥羽と伏見で消耗した武器弾薬、兵などの補充を期待して、川と堀に囲まれた堅牢な淀城での再起を図るつもりが、薩長の事前の策略と錦の御旗によって梯子を外されてしまったのだ。
薩長軍は勢いづいて鳥羽街道、伏見街道からなだれ込んでくる―――その状況に幕軍兵は動揺した。
淀小橋前の戦闘は徐々に南下へ退行する。淀藩が門を閉ざしたことによって戦う術を失い、指揮系統は大いに乱れた。
誰かが叫んだ。
「淀小橋だ!淀小橋を落とせ!!」
敵が雪崩れ込む淀小橋を落としてしまえば一時的に敵兵の流入は防げる。恐懼に駆られた幕府兵は建具や畳などを橋上に積み上げ、焼き落そうと動き始めたのだ。
その様子を見て、長円寺から淀小橋へ戻ってきた原田が「馬鹿野郎!」と怒鳴った。
「橋の向こうが見えねぇのか!まだ戦っている味方がいるだろう、見捨てるつもりか!」
細雪が降るなか、千両松から合流した会津の殿軍とともに新撰組は奮闘していた。突然の襲撃で負傷したのは山崎だけではなく、把握できないほどの死者があちこちに横になっていたが、最後の砦のように戦い続けていたのだ。
永倉は原田の姿を見ると、配下を率いて橋を渡った。
「左之助!土方さんの指示だ、俺たちはこちら側に残って戦う!」
「おう、わかった!」
永倉隊、原田隊は淀小橋を渡らずに手薄な淀城下で、流れ込む薩長兵を迎え撃つ。一方、土方と斉藤は会津兵と見廻組とともに城外で戦い続けた。
「っ、終わりがない!」
いつも淡々としている斉藤がいらだっていた。淀小橋には鳥羽からも、伏見からも敵が押し寄せてキリがない。そのくせ幕府軍には補充がなく消耗していくだけなのだ。
「土方殿、陣地を築きましょう」
陣頭指揮をとる土方に別撰組の佐川が提案した。
「陣地?」
「淀が裏切ったと耳にしました。淀城での抗戦の道が途絶えた今、これ以上薩長を大坂へ近づかせるわけにはいきません」
「淀が…しかし、ここで持ちこたえると?」
「できる限りは。少しでも足止めをしなければ大坂へ雪崩れ込んでしまう」
佐川の表情は硬い。徹底抗戦を貫く会津藩として淀藩の裏切りを苦々しく思っていることだろう。
土方は佐川の言う通り前線を見廻組に任せ、急造の陣地を拵えた。その頃には小さくすぐに溶ける雪は次第に大粒の牡丹雪へと変わっていた。
陣地を構えたことで一方的だった戦況は少しだけ好転したが、佐川の言う通り『持ちこたえる』だけだ。ひたすら会津砲兵隊の銃撃のあと、新撰組や見廻組が白兵戦を仕掛ける…それを繰り返している。やがて後方で
「橋が焼けています!」
と隊士が叫んだ。淀小橋は幕府兵によって焼け落ち、この橋以外から淀へ向かう道は断たれ土方たちは孤立してしまったのだ。
兵たちは動揺していたが
「構うな、戦え!」
と土方が奮起させた。動揺する暇などない、橋が焼け落ちることなどは織り込み済みだ…言葉にせずとも態度で示すことこそが重要だとひしひし感じていた。
断崖絶壁に立たされているような絶体絶命のなか、誰よりも気を吐いていたのは鉄之助だった。土方は泰助や銀之助とともに長円寺へ向かうように命令したのだが
「絶対に役に立って見せます!」
と強情に主張したので仕方なくここに置いているのだが、その言葉通り恐れることなく立ち向かい、時折土方に後ろ襟を掴まれて「前に出るな」と忠告されながらも、威勢よく走り回っていた。その姿を見て隊士たちも奮起し、特に斉藤の配下の野村は
「負けちゃいられねえ!」
と笑って鉄之助とともに前線に立ち続けた。相方の相馬は呆れていたが、彼は過去に長州征討を経験しているぶんこのような窮地に立たされる経験が生きているのだろう、常に冷静に振る舞っていた。
どうにか持ちこたえ続けていたが、ついに弾薬が尽きて兵力も目に見えて削がれていく。
「副長、舟を探してきます!」
「ああ、いい頃合いだ」
相馬は頷いて戦場を離れていった。
薩長に追い詰められ窮地に陥っているが、一つだけ徳川に利になることがあった。それは長く譜代藩であった淀の民は徳川贔屓であったことだ。相馬の声掛けによって十分な報酬を渡された船頭たちは我先にと自らの舟を準備して、兵士たちを対岸へと送り届けていく。薩長にはなかなか協力しない彼らのおかげで幾分か時間稼ぎができるだろう。
土方たちは宇治川を渡り淀城下に入った。まず目についたのはそこに悠然と構える淀城であった。
「…淀が裏切ったというのは本当だったようですね…」
「ああ…」
二人は苦々しい表情で城を見上げていた。
堀と川に囲まれた堅牢な城は城門を固く閉ざして静まり返っている。本来であれば徳川の居城として薩長を迎え撃つはずの譜代の城はいまや無機質で沈黙するだけの忌々しい建物でしかない。城下町は西風に乗って広まった火事の白煙が漂い、民は逃げ惑い、魂のない兵の骸があちこちでまるで石ころのように転がっているのに、見て見ぬふりを決め込んでいた。
(ここは次の地獄だな)
土方はそう思った。終わりのない地獄が続いている…いつか緊張の糸が途切れた時、そこに転がっている骸のようになってしまうのかもしれない。
(山崎は持ち堪えているだろうか…)
土方は己を庇うようにして撃たれた山崎を慮ったが、彼は戸板で運ばれながら
『また合流します』
と強く誓っていたので今はそれを信じるしかない。
傍の斉藤は大きなため息をついた。
「…徳川の本陣はどうなっているのでしょうか…」
「おそらく空中分解しているだろうな。指揮系統など微塵もない…おそらく今日中にここは薩長に占領される。この先にある淀大橋を渡った先にある橋本あたりで再起を目指すことになるだろう。それを突破されれば…大坂城だ」
「…」
戦況は徐々に徐々に最悪のシナリオに辿り着こうとしている。しかしあまり先走って物事を考えても仕方がないことだ、土方は目の前の淀城下に目を向けた。
「斉藤、数人を連れて長円寺へ向かってくれ。さっきの船頭たちに話をつけて負傷者を大坂へ舟で送るんだ」
「わかりました」
斉藤は山野と数人の隊士を連れて早速駆け出して行った。すると入れ替わるように先に淀で戦っていた原田と永倉の隊が合流する。
「味方はすでに八幡へ向かって敗走しているようだが、上官が逃げ出して兵が戸惑ってる」
「ほんと、頼りにならねえ奴らだぜ!俺たちはどうする?」
永倉の報告によると大目付の滝川は淀での戦を早々に放棄して、橋本へ向かったらしい。土方は原田のように吐き捨てたかったが、そんな暇さえ今はない。
「とにかく残留している味方の兵へ八幡に向かうように触れ回れ。今度は俺たちが殿を務める」
「わかった!」
永倉は頷き、原田は「出番だ」とにやっと笑ったあとに駆けだしていった。










867


陽が傾き始めていた。
淀藩の裏切りが決定的となり、幕府兵は次の戦地を目指して淀城下町から離れ、木津川にかかる淀大橋を渡り橋本を目指して敗走していた。新撰組は殿を務め薩長の追撃を受けながらも、城下町に取り残された味方兵を橋本へ向かうように促した。
そうして南下してようやく遠くに淀大橋が見え始めた頃、長円寺で負傷兵を脱出させていた斉藤が戻って合流した。
「副長、木津川から大坂へ向かわせました」
「…山崎は?」
「英が縫合して血は止まったようですが、意識はありませんでした。英は一時的だと言っていましたが」
「そうか…」
あの時山崎はいち早く敵襲に気が付き、土方を庇った。上司と部下という間柄で山崎のとった行動は当然のものだったのかもしれないが、土方は自分を責めずにはいられない。
斉藤はそんな土方の心の機微に気が付いていただろうが、敢えて何も口にせず話を続けた。
「付き添いのために英も舟に乗せ、共に戦場を離れさせました。想定よりあまりに負傷者が多く淀藩からの支援もなく、薬の類は底をついたそうです。それから…長円寺には山のような遺体が残っています。近所の寺へ保護と供養を頼みました」
「…ご苦労だった。淀はもともとは徳川贔屓だ。きっと手厚く供養してくれるだろう」
「はい。…副長、連れてきました」
斉藤は後ろに身を隠していた泰助を引っ張り、土方の前に立たせた。暗い表情の泰助はいまだに井上の首を後生大事に抱えたままだ。斉藤は引導を渡してやってくれと言わんばかりに土方の言葉を待っていた。
「…泰助、まだこの先も戦が続いて、おそらく大坂城での決戦となるだろう。…江戸は遠い、そんな重たい首をいつまでも抱えていてはお前の身が危ない」
「…おじさんを…置いていくんですか」
「置いていくんじゃない。…供養するんだ、ここにいる仲間の手で見送る。きっとその方が源さんも喜ぶ」
「…」
泰助は再びみるみる涙を流すだけで言葉が出てくることはない。まるで試衛館にいた頃の幼子のように泣く泰助がそこにいて、土方は不憫に思った。
(この子に決断をさせるのは酷だ)
もしかしたらこの後の長い人生でずっと悔やむことになるのかもしれない。土方は膝を折り、泰助の視線に合わせた。
「源さんはお前と鉄之助に感謝しているだろう。名のわからない無縁仏にならないで済んだ…新撰組に戻って来られた、と」
「う…っ、うう、ううう…」
「もう十分よくやった。お前も…源さんも」
土方が泰助の頭を撫でる。幼子をあやすのはいつも総司の役目だったが、そうすると泰助は堰を切ったように泣き、首を抱え込んでその場に座り込んでしまった。
近くで成り行きを見守っていた銀之助は泰助に寄り添いながら、
「あの…この近くに欣浄寺という寺があります。道中で泰助に聞いた話ですが、井上先生のご実家のお隣にある寺と同じ名前だとか…」
「…そうか。そこにしよう」
何も縁がない場所よりも少しの所縁を感じる場所なら残された泰助にとって慰めになるだろう。新撰組は銀之助の案内でその欣浄寺へ向かい、住職に話をつけて首と共に泰助が託されていた刀を埋めた。
「俺が持ってるより、叔父さんがあの世に持って行ってよ。…父さんもそれを望んでる」
泰助は埋葬し、深い悲しみが沸きあがったが同時に安堵感も覚えた。手放したくないと思う一方で叔父の魂を背負っているようで苦しかったのかもしれない。仲間と隊士たちが見送った…まだ戦の続く戦場でこんなに手厚く供養されることなど稀だろう。むしろ今頃は自分の首を取り囲んで神妙に手を合わせる隊士たちを見て
『仰々しいなァ』
と照れ臭そうに笑っているかも知れない。
(叔父さん、またな)
泰助は手を合わせ、閉じていた目をゆっくりと開いた。もう涙は止まっていた。
そうしていると、永倉と原田が息を切らして戻って来た。井上の首を埋めたことを話すと二人も受け入れて、手を合わせた。
「随分世話になった」
「ああ。何の恩返しもできてねぇけど、この戦に勝つから、許してくれよな」
しかし悠長に悼んでいる暇はない。欣浄寺を離れ、南下しながら状況を報告しあった。
「城下を一回りして敵兵を追い払い、味方兵には敗走するように指示しました。やはり本陣は早々に撤退してしまっているようです」
「会津や伝習隊はもう淀大橋を過ぎて、いま薩長軍が宇治川を渡っているようだ。早く俺たちも撤退しようぜ」
負傷者が脱出し、幕府軍兵が敗走を完了したのならここに留まる理由はない。作戦通り次は薩長兵が対岸からの本体との合流を待つ間に、橋本へ繋がる淀大橋を焼き落し、さらに敵の行く手を阻むのだ。
「よし、行く…」
土方が淀からの撤退を決断した時、斉藤の背後へタッタッタッと黒い影が迫っているのが目に入った。
「敵襲だ!」
土方が叫ぶ前に斉藤は気配に気が付き、刀を抜きながら身体を反転させて一閃した。敵は跳ねるように脚を止めて避ける。飛び込んできた敵兵はわずか三人…片腕に薩摩藩の袖章をつけていたが、その場にいた誰もが「あっ」と驚く顔だった。
「てめえは御陵衛士!」
原田が指さして叫んだ。大柄で体格の良い篠原泰之進を筆頭に、富山弥兵衛、加納鷲雄の三人が槍を構えめらめらと燃え盛る剥き出しの闘志を向けていた。
「新撰組がいると上官から聞き、抜け出してきたのだ!」
「逃げずにここで我らと勝負せよ!」
彼らは威勢よく叫び、篠原は斉藤へ忌々しい視線を向けた。
「ふん、やはり生きていたのか!」
「…」
「伊東先生を謀り、我々を騙し…貴様だけは許せぬ!」
斉藤は間者として潜入した御陵衛士から死を偽装して脱退し、新撰組に戻った。そして伊東の暗殺に加担し偽名を騙って新撰組の組長の座についている…何もかも彼らにとって許せないことばかりだろう。
けれど彼らは報復に近藤を襲撃した。新撰組としても黙ってはいられない。
「ハハ!新撰組で名を上げて墓守になって、今は薩摩の一員か!受けてたつぜ!」
原田は煽り、槍を構えたが斉藤が一歩前に出て三人に対峙する。
「戦場に些末な私闘を持ち込むべきではない」
「些末だと?!」
「…副長、先に淀大橋へ向かってください。この者たちは俺がどうにかします」
「俺も付き合うぜ」
原田が「橋を焼くより面白そうだ」と名乗りを上げた。
「…わかった」
激昂する御陵衛士たちを斉藤と原田と数名の隊士に任せ、土方は永倉とともに隊士を率いて淀大橋へ向かって進んだ。
「こんなところで御陵衛士に会うなんて何の因果か…」
「因果なんてものじゃない…ただの戦だ」
永倉の呟きに、土方は淡々と答えた。
どこかで糸が絡まって、巡り巡って邂逅を果たしたのかもしれない。けれど御陵衛士がそのまま薩摩兵になるのは当然の流れであり、新撰組を憎み続けた末の執念ともいえる。それをすべてひっくるめて因果とも呼べるだろう。
(だが、所詮は戦だ)
どこの誰とも知らぬ兵が殺し合い、その死体が積み重なる。大義名分など忘れて己の命惜しさに刀を振るう姿のどこに武士の矜持があったというのか。
因果―――そんな言葉で片付けられない悲惨さが、戦場のあちこちに漂っている。土方はそんな気がしていた。



大粒の雪が大坂の空に舞う。
移動先の八軒屋の屋敷で近藤は仁王立ちをしたまま外を眺めていた。淀川は鈍色の泥水が河口へ向かって流れ続けている。
「近藤先生」
「総司、どうした」
「そろそろ夕餉の頃合いです」
「そうか…じっとしていると腹が減らないものだな」
それは幾度となく総司も実感していたことなので「そうなんです」と微笑んで、近藤の隣に並んだ。
「何か見えますか?」
「いや…微かに白煙が見えて、時々爆音が響いてくるだけだ。激しい戦になっているのだろうな」
「そうですか…」
戦況が気になるが、もし新撰組が窮地の状況なら近藤のことだから無謀でも刀を手にこの屋敷を飛び出してしまうだろう。
「この腕が治らなければ…ずっとこのまま眺めているだけなのだろうな…」
「先生…」
「墨染の襲撃からもう十日ほど経っただろう?それなのに…指先すらまともに動かせず、箸をも掴むことができない。刀など…今の俺には遠く手の届かない願望のように思える」
「…」
総司は黙って近藤の話に耳を傾けた。
「この腕が治るまでにこの国は変わってしまう。焦ったとて治るわけではないとわかっていても、このまま遠くから眺めているだけなんて…俺には耐えられぬ。たとえ役立たずでも良い、戦場に立って…」
と言いかけたところで近藤ははたと我にかえり「すまん」と謝った。
「ただの愚痴だ。それにお前のことを慮るべきだった」
「良いんです。私は先生の愚痴を聞くためにここにいるんですから、むしろ先生の本心が知れて嬉しいくらいです」
「…だが、聞いていて気持ち良いものじゃないだろう」
「それでも良いんです。土方さんの代わりはとても務まりませんが、遠慮なく吐き出しください。引き受けますから」
「しかしなぁ…」
愛弟子に弱気な自分を晒すことに抵抗があるのか、近藤は頬をポリポリとかいていたので、
「…あ、先生。気晴らしに、私良いものを持っているんです。門外不出の伝家の宝刀ですよ」
総司は口元に笑みを浮かべ出し渋りながら、近藤の前に土方の発句集を差し出した。近藤はそれを見た途端噴き出して笑った。
「ハ、ハハハ!何だ、歳の行李からくすねてきたのか?」
「いえ、お願いして借りたんです。最初は嫌がっていたんですけど、出立の時に『絶対に無くすなよ』って」
「ハハハ、ハハハ!」
近藤は発句集を開く前から大きな口を開けて笑う。土方がどんな心境で貸したのか…幼馴染なら容易に想像が付くのだろう。それまで固く強張っていた近藤の表情がぱらぱらとめくるごとに和らいだ。
「歳に句作の趣味があるなんて隊士が聞いたら驚くだろうが、俺はあいつの素朴な句が好きだよ。『鬼副長』なんていわれて久しくもうすっかり馴染んでしまったが、あいつの句を見ていると仮面をかぶっているだけなのだと思い出すことができる」
「…そうですね。私もかつての試衛館での日常を思い出します」
あの日に帰りたいと思ったことは幾度とあったが、進んできた道を後悔したわけではない。
(願わくば、また歳三さんが句作に耽る時間があれば良いんだけど…)
そうしていると、「楽しそうですね」と伊庭が顔を出した。すっかり傷は癒えたようで時折胸が痛む以外は生活に支障をきたすほどではないのだそうだ。
「伊庭君に見せたらさすがに怒られますかね?」
「そうだなあ、歳に一生恨まれるかもしれない」
「気になりますねえ、歳さんの句作だなんて。でもお二人が勝手をして責められるのは可哀そうなので今度直談判してみます。…お客さんが来られていますよ」
「客?」
近藤と総司は顔を見合わせて首を傾げた。また浅羽だろうかと思いつつ、二人が揃って出迎えに行ってもそこにいたのは背の高い涼しげであるが見覚えのない顔だった。皺ひとつない黒の羽織を着て固く唇を結び、二人の顔を見るや恭しく頭を下げる。
「どちら様でしょうか?」
「…京屋さんとお付き合いがあり、こちらに新撰組の局長殿がおってはるとお聞きして足を運ばせてもらいました。私は相良家の者です」
「相良…」
総司は山崎の協力者で行方不明になっていた若者が相良直之進という名前だったことを思い出した。大坂の裕福な家の次男坊で山崎の同い年の幼馴染でもあるという。しかし目の前に立つ男は山崎よりも年上のように見受けられ、随分想像していた雰囲気と違う。近藤も同じだったようで
「私が新撰組局長近藤だが…」
「弟の直之進がお世話になりました」
「兄君でしたか。立ち話も何ですし、どうぞ中へ…」
「いえ、ここで結構です」
兄だと語る男はきっぱりと拒んだ。新撰組の局長を前にしても態度を変えず、敵意というほどではないにせよそれは決して好意的な眼差しではなかった。
「弟が死にました」
「え?」
「新撰組に手配してもらった医者には良うしてもらいましたが、甲斐なく昨日逝きました。都で瘡毒をもらい…手の施しようなく」
「…」
「新撰組を責めるつもりはおまへん。弟が自ら招いた病であり、自業自得やと思うてます。本人も恨み言のうこの世を去りました」
詳しい事情を知らない総司は近藤の顔を見たが、険しい表情で言葉に詰まっていた。
相良の働きによってどれほどの手柄を上げることができたのか…それを伝えたくとも目の前の兄はそれを拒むように固い表情のままだ。責めない、と言ったがどんなに不仲兄弟であったでも弟を早くに亡くしてしまった憤りを新撰組に向けるのは仕方ないことだろう。
兄は再び頭を下げた。
「ただそれだけをお伝えに参りました。…どうか山崎烝に伝えていただきたい」
「あの、相良さんは…山崎さんになにか言付けは…」
総司が食い下がると、兄は目をそらし少し沈黙して迷った後、
「…飴を…」
「飴?」
「飴を供えてくれと、しきりに言うてました。ただ、それが言付けやったのかはわかりまへん。意識が朦朧としとったさかい」
「…伝えておきます」
それが何を意味するのか、部外者の総司にはわからなかったが彼らなら意味がある行為なのかもしれない。総司が引き受けると兄はそのまま背中を向けて去っていった。その背中は卒のない態度とは裏腹に寂しく見えた。









868


一月五日の夕方頃、淀は薩長軍によって占拠された。
淀城下町からの敗走で殿を務めた新撰組は、南に位置する淀大橋を焼き落して薩長の行く手を阻んだ後、木津川を渡り八幡の幕府宿営地へたどり着いた。冷え込む冬の夜、命からがら逃げ延びて隊士たちはただただ疲れ果てていた。水を口にして、空腹なはずなのに食欲は湧かず餉を摂取することすらも億劫で、皆はひたすら体を休めていた。
「お勤めご苦労様でした」
そんな新撰組の元へ労いに訪れたのは会津藩砲兵隊を率いる林又三郎だった。父の戦死の知らせを聞いて駆けつけ土方とは軽い挨拶を交わしただけで一気に戦に突入したので、落ち着いて顔を合わせるのは初めてだった。土方は重たい身体を引きずるように立ち上がり、又三郎に頭を下げた。
「…お父上は大変ご立派な最期でした」
父の権助は伏見奉行所で勇敢に指揮し、兵を鼓舞し続けて負傷し戦死した。禁門の変の時から上官に対して一歩も引くことなく、己の考えを貫く姿は土方が初めて接する誇り高い会津侍だった。
「ありがとうございます。最後の最後まで采配を離さず…父らしい死にざまでした」
「…そうですか」
父親によく似ている又三郎は弱みを見せることなく朗らかに語る。最前線に立つ父親と死に別れることくらいとっくに覚悟していた、という表情だ。
又三郎は戦況を伝えた。
「いま橋本には会津、桑名、大垣、小浜…徳川の主力部隊が陣を敷いています。明日は楠葉台場を舞台に戦が繰り広げられるでしょう。そして淀川を挟んで高浜台場には津藩が陣を敷き、迎撃可能です。楠葉台場はもともと淀川の警備や浪人の侵入を防ぎ、高浜台場は外国船の遡上を防ぐ徳川の要地…これまでは指揮系統が乱れ敗戦が続きましたが、きっとうまく機能するはずです」
「…だと、良いですが…」
これまで敗戦ばかりを経験した土方は又三郎のように楽観視できなかったが、水を差すわけにはいかない。しかし譜代の裏切りを目の前にしたはずだが、彼は妙に明るかった。土方が尋ねる間もなく、又三郎は「実は」とこれが本題だったのだと言わんばかりに口を開く。
「お知らせしたいことがあり馳せ参じました。橋本の本陣に上様からの激励が届いたのです。年の暮れからお風邪を召され先陣に立つことが叶わず、戦に傾れ込み上様は不本意に思われているのかと思っていましたが…上様は、堂々と演説されたそうです。朝廷に弓引く戦ではないことを天はわかってくださる故、正義は我らにある。例え大坂城が焼け落ちたとし、ご自分が討ち死にされたとしても関東の忠臣が志を継ぐだろう。一致団結して奮起すべし…と!」
「上様が…」
「はい!我が殿や幕閣は大変喜ばれ、本陣では滝川殿が感涙なされました。大坂城で戦となればきっと見事な采配を振るわれることでしょう!」
「…それは、皆の士気が上がることでしょう」
(俺たちにはその気力さえないが)と思いつつ、土方は頷く。しかし会津藩士の彼らにとって上様の励ましは何よりの褒美だろう、根拠などないのに明日の戦は勝てるはずだと息巻いている。
(…かっちゃんもこの場にいたら…喜んだのかな)
又三郎の喜びとは対照的に土方はその想像ができないほど、自分が疲れていることを自覚した。


同じ知らせは浅羽を介して近藤と総司のもとに届いていた。
「ああ…上様がそのようなお気持ちでいらっしゃるとは…!戦場の兵たちも奮起するでしょう」
「…そうですね。我が殿もまさか上様がこれほど熱弁してくださるとは思いもよらず…」
浅羽としては目の前で戦に消極的な姿ばかりを見せていた上様が急に手のひらを返して、敗戦に消沈する幕閣を励ましたことは意外だった。しかし会津公が
『ようやく目を覚まされた』
と喜ばれたので上様の言葉を信じることにしたのだ。
しかし戦況は相変わらず芳しくはない。この大坂にいても悪い知らせはすぐに広まって、総司たちの耳に入っていた。
「…それで、淀が裏切ったというのは本当ですか?」
すっかり傷の癒えた伊庭は浅羽に戦況を尋ねると彼は背筋を正し神妙な顔で頷いた。
「はい。…淀は開戦前から藩主不在を理由に戦へは協力的ではありませんでしたが…留守居役は朝廷から圧力を受け、開城せずに中立の立場を貫くようです」
「…譜代大名がそのような為体…言葉がないな」
近藤は落胆し、深いため息をつく。伏見大坂間の砦だったはずがこんな形で裏切られるのは想定外だった。難しい顔をしているのは伊庭も同じで
「錦の御旗を掲げられ、皆が尻込みしています。ほかの藩が続かなければ良いのですが」
と憂う。
大坂城では錦の御旗の話題で持ちきりだ。
『薩長の卑劣な策略だ』
と憤りながらも内心では賊軍の汚名を被ることを恐れ、兵を出し渋る動きもあるそうだ。それもあって上様は皆の士気を上げるように鼓舞したのだろう。
総司は小さく咳き込みながら尋ねた。
「…皆は無事なんでしょうか…?」
「はい。私の知る限り、新撰組はよくやっているようです。銃撃戦で苦しめられているようですが、積極的に白兵戦に打って出、敗走時には殿軍を務めていると」
「殿を…」
頼もしく勇敢であるが、命を落としかねない危険な殿を務めていることには一抹の不安が過ぎる。しかしその不安を口にすればそれが言霊となってしまいそうで、総司は自分の心に押し留めた。
伊庭は
「いま本陣は橋本とおっしゃいましたよね。俺は明日、帰陣したいと思いますが」
と、突然言い出したので近藤と総司は驚いた。
「伊庭君、無理はいけない」
「いいえ。もうすっかり傷は癒えました。ただでさえ早々に離脱して、何の力にもなれていないのに…」
「いや、自己判断は良くない。せめて松本先生の許可を取るべきだ」
「伏見や淀から負傷者が運ばれて先生方は大忙しのはずです。橋本はすぐそこですから」
「でも…」
「止められても行きます」
近藤と総司は引き留めたが、伊庭は首を横に振った。
伊庭は意固地になっていて近藤の言葉を聞き入れようとはしない。総司も困って近藤を顔を見合わせると浅羽が
「では、私も同行いたしましょう」
と申し出た。
「実は我が殿の命で、明日の朝、数名の側近を残し他の者は会津藩兵に合流することになりました。焼け石に水程度ですが、後方支援に向かいます。…ご一緒にいかがです?」
「有難いお話です。俺はこの辺りの地理に疎いので…それならお二人も納得いただけますよね?」
伊庭に問いかけられ、近藤はそれでも渋い顔をしたが浅羽が目配せした。
(浅羽さんなら上手く手綱を取ってくれるだろう)
総司は
「無理はしないでください」
と頷いた。伊庭は「約束します」と頭を下げたので、近藤も了承せざるを得なかった。

その日の深夜。
総司は眠りが浅く目が覚めてしまい、人目を忍んで部屋を出て、庭の裏口から川沿いへ向かった。冬の凍り付く寒さでますます眠気は飛んだが、乾燥した空に瞬く星を見ていると気が休まるようで部屋に一人でいるよりはよほど良かった。総司は小指の指環を手慰みにくるくると回しながら
(歳三さんもこの空を見ているかな…)
そんなことを考えたが、彼らにはそんな余裕はないのかもしれない。そうしていると、じゃりじゃりと小石を踏み鳴らしながら誰かが近づいてきた。
「…やっぱり、沖田さんだった」
「伊庭君…」
伊庭は提灯を手に綿入れを着込んで身を縮めながら、総司の隣に並んだ。
「誰かが出ていく音が聞こえて…ここは寒くありませんか?」
「起こしてしまいましたか?」
「いえ、起きていたんです。明日、戻れると思うと興奮しちゃって」
伊庭は嬉しそうに顔をほころばせていた。彼は心から戦場に戻りたいと思っていたのだろう…総司は彼を引き止めたけれど、気持ちはよく分かった。
「…ちょっと羨ましいです。私も叶うことなら…橋本に行きたいけれど、皆の足を引っ張ってしまう」
「そうだと思いました。でも俺だって使い物になるのかわかりません。…ただ、江戸で大見得切ってきちまったんでね…このままではあいつに合わせる顔が無くて」
「あいつ?」
「…」
伊庭はしばらく黙って川向う…北の方角に視線を向けた。
「…幼馴染です。頑固で、融通の利かない…そんな奴に何故だか惚れて…でもここに来る前に別れました」
「何故です?」
総司は伊庭にそういう存在がいることは何となく気が付いていたが、彼がそんな選択をしていたとは微塵も気が付くことはできなかった。いつものように明るく振舞い周囲を気遣い、己の内の秘めたやりきれなさはおくびにも出さなかったのだ。
伊庭は言葉を選ぶように口を開いた。
「…俺はたぶん、皆が思っている以上に自分勝手なんですよ。しがらみが嫌だと思いながら、幕臣として生まれ育ったことを忘れられず、自分の生き方を変えられなかった。そのせいであいつを煩わせるのも説得するのもなげだして…だから、別れてしまったんですかねぇ…」
彼は曖昧な物言いをしながら、ふっと鼻で笑った。
「…でも、負け戦ばかりだとこれで良かった気がしてしまう。もし死んだら…別れていたことであいつの気持ちは少し楽になるでしょうし」
「伊庭君、きっと逆ですよ」
「逆?」
総司には詳しい事情はわからない。けれど山崎と相良の関係のように彼らにも強い絆があって、だからこそ幼馴染という一線を越えて一度は深い仲になったはずだ。
総司は伊庭の袖を強く掴んだ。
「伊庭君に何かあれば…その人はきっとどうしようもない後悔に苛まれます。互いに気持ちが拗れたまま会えなくなってしまったら…一生、死ぬまで悔やみ続ける。だってもう二度と分かり合えないんですよ」
「…」
「だから、伊庭君…君にはたぶん背負うものがたくさんあって、引き返せない場所にいるのかもしれない。でも、どんなに劣勢で負け戦で、格好悪くて情けなくたって…ちゃんとその人のために帰って来ないといけません」
総司は真っすぐ伊庭を見つめた。いつもの彼なら茶化して笑い飛ばしてしまうだろうと思ったが、伊庭は目を伏せて総司の言葉を噛み締めるようにして項垂れた。
「…伊庭君、行かなくてもいいんですよ」
「行きます。…行かないと、俺にはあいつだけじゃない。仲間がいる、家族も戦っている…だからここで立ち止まっているわけにはいかないんです」
伊庭は視線を再び上げて、総司を見据えた。
「…でも、沖田さんの言うこともその通りだと思いました。自分が理解してもらうことを怠ったせいで別れたことを、正当化しようとしていたのかもしれませんね…」
伊庭は恥ずかしそうに苦笑した。総司は掴んでいた伊庭の袖をゆっくりと離しつつ、「あ」と声を漏らした。
「何か?」
「いえ…伊庭君、そんなところに黒子なんてありましたっけ?」
「…内緒です」
伊庭はその端正な顔立ちに優美な笑みを浮かべた。








869


一月六日、明け六つ(午前六時)頃、薩長軍―――彼らは錦の御旗を掲げ自身が『官軍』であり、反抗する徳川を『賊軍』として、淀藩が手配した舟に乗って木津川を渡り、橋本・八幡へ迫っていた。対する徳川軍は淀川を警備する楠葉台場、男山を背にした八幡に陣を敷き、淀川向こうの高浜台場を津藩に任せ迎え撃つ。
仮眠から目を覚ました土方はこの三日の疲れが溜まった重たい鉛のような身体をどうにか起こして、隊士たちを集めた。彼らも目が血走りクマができていて連戦の疲れが明らかだった。
「二つに分かれよう」
土方は橋本から官軍の上陸地点へ向かう五十名と、八幡宮門前町で戦う二十名に分けた。前者には上陸したばかりの官軍を狙い撃つため、銃や槍を得意とする隊士を土方と原田が率い、市街戦となる八幡には永倉と斉藤に任せることとした。
「八幡の町に火が上がればそれを退却の合図として橋本で合流だ」
「承知しました」
斉藤と永倉が頷いた。
土方は自分の目の前に集まる隊士の顔を見渡した。隊士は当初の半分ほどの八十名に減ってしまったが、ここにいるのは疲れ果てながらも逃げ出すことなく、血気盛んな者ほど銃弾に倒れ組長が二人も離脱しても尚、徳川や新撰組を信じてここまで駆け抜けて来た勇敢な者たちだ。
(俺一人ならとっくに諦めていた)
諦めさせないでくれたのは、彼らが懸命に刀を持ち戦場を立ち回ったおかげだ。土方は彼らを近藤の元へ連れ帰るために懸命に藻掻いてきた…彼らに掛けるべき言葉を考えた時に思い浮かんだのは。
「…ここで巻き返せなければ大坂城で戦うことになるだろうが、堅牢な城は薩長にはなかなか落とせないはずだ。きっと巻き返せる…だから皆無理をせず、一人でも多く生き延びろ」
逃げたものは斬るとまで言い出しかねない雰囲気だったのに、鬼の副長と恐れられた土方がそんなことを言うのが意外だったのか、平隊士だけでなく、永倉や原田までもぽかんと口を開けて言葉を返せなかった。
「…ハハ、そうっすね、生きてこそですよねぇ」
一番隊の野村が笑い、それが伝播するように隊士たちも顔を見合わせて頷きあう。隊士たちの士気は上がったものの、土方は(らしくないことを言った)とどうも居心地が悪くなり、
「行くぞ」
と原田に声を掛けた。すると八幡に残る斉藤が「副長」と引き止める。
「…なんだ」
「必ず、合流します」
「…ああ、任せた」
土方は原田とともに五十名ほどの隊士を率いて橋本の陣屋に向かい、木津川から上陸する官軍を迎え撃つこととなった。


明け五つ(午前八時)頃、官軍は橋本・八幡の徳川軍陣地に迫ったが、幕府軍の奮戦により戦線は膠着する。
斉藤たちは石清水八幡宮摂社、高良神社境内付近で猛攻する官軍を迎え撃つべく桶や俵に砂を詰め、畳を立てかけた胸壁を準備していた。京都見廻組四百名も加わっていて、そこには佐々木只三郎の姿もあった。
佐々木は斉藤を見るなり
「土方はこちらではないのか」
と訊ねてきた。不遜な態度は相変わらずで、傍にいた永倉は眉間に皺を寄せて嫌悪感を示した。同じ市中警護の役回りで何かと対立していたが昨年末、ほんの数日だが都の市中警備のために見廻組の下に就いたことが、さらなる因縁となっていたのだ。
斉藤は淡々と答えた。
「土方副長は橋本の本陣に合流しています」
「本営に合流したとて、愚鈍な上官に振り回されるだけだ。八幡の兵を減らすことがのちのちの大坂城での決戦に繋がるとは考えなかったのか」
「勿論、お考えの上で我らをここに」
「…たった二十名ほどだろう」
佐々木は隊士たちを見渡してため息をついた。数が少ないと揶揄しているのだろう、永倉は「何?」と売られた喧嘩を買おうとしたが、斉藤は首を横に振った。
「門前町は道が狭く、動きずらい。…我ら精鋭二十名で十分足止め可能です。多ければ指揮系統が乱れて動きが鈍くなり、俊敏な判断ができないとお考えです」
「…頭数だけ多い俺たちが役立たずだと言いたいのか?」
「そこまでは言っていません。見廻組とは違い、新撰組の兵は随分減りましたので苦肉の策です」
劣勢で内輪揉めをしたところで誰も得はしない。嫌味を斉藤は涼しい顔で受け流すと、佐々木は面白くないと思ったのか「もういい」と話を変えた。
「我ら見廻組が先陣を切る。新撰組は後方で様子見を行い、必要なところで遊撃部隊として動けばいい。…自らを精鋭と言うのなら結果を出せよ」
「…承知しました」
佐々木は斉藤の返事を聞いてそのまま見廻組に合流し出陣して行った。
胸壁作りをしながら聞き耳を立てていた野村が
「何なんすか、あいつ…」
と不満げに呟く。隣にいた古参の島田は「昔からああいう人だ」と苦笑したが、野村は納得いかないとばかりに愚痴る。
「幕臣だとかお生まれは立派かもしれねえが、いままで見廻組が何したっていうんですかねぇ。殿軍を務めたわけでもねぇし俺たちより兵数が揃ってるのだってあいつらが真っ先に逃げ延びたからじゃ…」
「そのくらいにしておけ」
相馬は野村の袖を引っ張って止めた。皆の思いは同じだが、それを口にしたところで何の解決もしない。憤懣やるかたない雰囲気が漂うなか、斉藤は
「気にする必要はない。あれは挨拶のようなもので、佐々木が言いたかったのは自分たちが先陣に立つということだ」
と、言い切った。野村や相馬、島田は顔を見合わせてどういうことだと首を傾げたので、斉藤は続けた。
「開戦直後、見廻組は鳥羽で奮戦したが、そもそも彼らが銃に弾を込めて初手から薩摩を圧倒していればこのような展開にはならなかった。まさに上官の指示に胡座をかき、油断していたことを恥じている…だから、要するに同じ轍を踏むなと言いたいのだろう」
「…自分たちの行いを棚にあげて?」
「ああ。重々わかっているはずだ。わかっていて忠告に来たのだろう。もしかしたら圧倒的に不利なこの戦場で見廻組の人員を割いたのは、あの男なりの罪滅ぼしなのかもしれない」
斉藤は佐々木の行動を肯定したが、野村は「ですかねぇ」と懐疑的であった。これまでの新撰組と見廻組の関係がそうさせるのだろうが、今は互いに揚げ足をとっている暇はない。
ドォーーン!
大きな爆音を合図とするように大勢の足音が近づき始めた。佐々木に向けられていた憤りは一気に消え失せて、隊士たちは胸壁を背に身を隠す。
「斉藤、打ち合わせ通り一番隊と二番隊に分かれる」
「ああ」
斉藤と永倉は短い会話を交わして、それぞれ別のルートから配下を連れて動き出した。斉藤は伍長の島田や山野、野村、相馬たち一番隊の精鋭とともに身を潜めて慎重に進む。佐々木が率いる見廻組が奮闘しているようでまだ敵の陰はないが、八幡の町は次第に騒がしくなっていく。
「山口先生、一つ聞いても?」
「…無駄口を叩くな」
野村は緊張感が高まれば高まるほどお喋りになるのか、表情は強張っているのに口を閉じることができず斉藤の傍に寄って訊ねた。
「昨日の御陵衛士はどうなったんですか?」
「…どうもなっていない。退けただけだ」
「退けたって…仇だとか恨みだとか言っていた連中が簡単に引き下がったんですか?」
「…言っただろう、大局を揺るがす戦に私怨など無用だ。命令を無視し私情を持ち込む兵など…最初から弱いに決まっている」
斉藤は興味本位な原田とともにその場に残ったが、復讐心に駆られた衛士たちは斉藤の刀と原田の槍によって悉く致命傷手前の怪我を負い、あっさりと打ち負かすことができた。衛士たちはそれでも、と食い下がったが、
『次に出くわしたら殺す』
と命までは取らずに、衛士たちが何かを喚くのを無視して土方たちに合流した。土方は二人が無事に戻って来ただけで結末を察したのだろう、詳しくは訊ねずに今に至っている。
しかし野村のお喋りはまだ続く。
「殺さなかったんすか?またしつこく付き纏われるんじゃ?」
「お前は話を聞いていないのか?…御陵衛士に手を下すのもまた、今の状況では新撰組の勝手な私情に過ぎない。必要な手段を、必要なだけ講じる…いつまで続くかわからない戦で刀を摩耗させることすら惜しい」
「…ははあ。先生には全く私情がないんすね」
野村は感心するような、呆れるような、ため息混じりの声を漏らした。まるで人間ではないと揶揄するような表情に斉藤は反論しかけたが、前方に敵影が確認され、野村はようやく口元を引き締めて島田たちとともに突撃していった。
「敵襲じゃァー!」
「新撰組じゃー!やれぇー!」
薩摩ではない長州訛りの声が悲鳴とともに響きわたる。『新撰組』に対して忌々しい憎しみを持つ長州兵は熱量をもって白兵戦に挑むが、新撰組の精鋭ばかりが集まった一番隊は斉藤が手を下すまでもなくバタバタと敵を蹴散らしていく。まるで不気味な闇を払い道を切り拓くように。
「進め!一人でも多く仕留めろ!」
「おう!」
伍長の島田が声を荒げれば隊士たちが呼応する。彼らは一番隊の隊士として勇敢に、怯むことなく戦い続ける。総司がここにいればこの光景を誇らしい気持ちで見たのだろう。
(俺は代わりにそれを見ている)
私情など挟む余地はない。斉藤はこの戦を生き延びて、彼が『宝』だと語った隊士たちとともに一人も欠けることなく戻らなければならないのだ。
―――そうして半刻ほど経った頃、突然。
ドォォーンッ!
地鳴りのような音が鳴り響き、斉藤は思わずその場に片膝をついた。町屋がカタカタと揺れるような轟音は大砲による襲撃とは少し違っていた。
「島田、何があった?」
背丈のある島田が近くの石垣に登って周囲を窺った。
「爆発でしょうか、男山の正面で煙が上がっています!火も燃え広がり…兵が逃げています!」
「…二番隊と合流しよう」
斉藤は一番隊を引き連れて駆け、元いた高良神社境内に戻るとちょうど永倉も同じように考えていたようで待ち構えていた。
「ああ、来たな」
「何があった?大きな爆発のあとに兵が逃げたようだが」
「二番隊は近くに居たが、どちらかの銃弾が何かに引火して家屋が一つ吹き飛んだようだ。敵味方区別できない兵が数名倒れ込んでいたが、あれはおそらく助かるまい。俺たちももう少し距離が近ければ危なかった」
永倉が断言するからには手助けできないほどの惨状だったのだろう。そしてそれを発端にあちこち出火し始めているようだ。
「副長は八幡が焼けたら退却して合流だと言っていたが…想定より早い」
「しかしそのように約束していたのだから本隊に合流するべきだ。どのみちここが焼ければ薩長にも撤退するだろう」
斉藤はもう少しこの場に留まるべきかと思案したが、ちょうど斥候役で監察の大石が駆け込んできた。
「爆発を契機に北側から火の手が上がっています。見廻組は指揮官が撃たれ、散り散りに退却を始めました」
「指揮官とは佐々木か?」
「重傷のようです」
先ほどまで憎まれ口をたたいていた佐々木があっという間に撃たれてしまった。永倉は何とも言えない複雑な表情を浮かべつつ話を進める。
「こうなってしまっては退却するべし、だな。火の手が上がっているなら最短経路の北側から合流するのは難しい」
「だったら南側から回り込むしかない。随分遠回りになるが」
「仕方ない」
斉藤と永倉は頷き合って隊士を引き連れ駆け出した。しかしそう簡単に離脱することはできない。火の手が上がったことで薩長も南側に集結し逃げていく幕府兵への追撃を開始、新撰組は何度も敵兵に遭遇した。
「駆け抜けろ!」
土方が言っていた通り、今は命を賭して戦うべきではない。新撰組は敵兵を払い退け、身を翻しながら足を止めることなく走り抜ける。そうして南側へ辿り着くと、陣を敷いていた桑名藩と合流し薩長との戦となった。
また戦場に銃弾が行き交う―――しかしやはり手元にあるのは元込め式の旧式銃ばかりで、最新鋭の銃を使いこなす敵兵にじりじりと追い詰められていった。
「ヤベェ!」
野村が声をあげて膝をつく。銃弾が左腕を掠め出血していた。
「しくじった…!」
「野村、下がっていろ」
「これくらい…っ」
野村は相馬の言葉に耳を貸さずに力任せに傷口を押さえつける。斉藤は
「無理をせず生き延びろ…副長の命令だったはずだ」
と語気を強めると、ようやく野村は顔を顰めながら「手当してもらいます」と素直に下がっていった。
斉藤は周囲の様子を窺った。
(何やら橋本の方が騒がしい…)
男山の向こうの楠葉で繰り返される砲撃―――橋本で戦う土方たちに合流したいが、彼らこそ無事なのか、まったくわからなかった。






870


斉藤と分かれて橋本へ向かった土方と原田は五十名ほどの隊士を率いて木津川から上陸する官軍を相手に奮戦した。昨晩の上様の激励のおかげか、幕府軍の士気は高く圧倒的な武器の差はあっても戦線は膠着していた。
「やれ!やっちまえー!」
原田は槍を振り回し、上陸したばかりの官軍の兵をなぎ倒していき、土方は銃を得意とする隊士を指揮し的確なタイミングで銃撃を与えた。不動堂村で修練を重ねた甲斐もあって互角に渡り合えている…そんなかすかな希望を見出した、明け四つ半(午前十一時)頃。
ドーン、ドーン、ドーン…大砲の音が一斉に響いた。それは今までとは違う方向から撃たれ、土方たちが戦っている場所よりも後方の楠葉台場に着弾していた。その弾が一体どこから来るのか…それに気がついた途端、
「おいおいおいおい!嘘だろ!」
原田はもう怒りや驚きを通り越して笑いが込み上げている。土方は言葉を失い、ちょうど近くで戦っていた会津別撰組の佐川は表情が固まり憎々しく歯軋りして
「また裏切りか…!」
と呟いた。淀川向こうの高浜台場に陣を敷く津藩が官軍へ寝返り、幕府軍の楠葉台場へ向けて砲撃を開始したのだ。側面からの砲撃…淀藩に続いて津藩の裏切りによって戦いの均衡が破られてしまった。
土方は佐川とともに楠葉台場へ向かったが、すでに放棄されていた。突然の裏切りで既に総崩れとなり陸路に弱い楠葉台場は敗走に適していないため敵が押し寄せる前に退避したのだろう。佐川は酷く失望し、
「対岸へ渡り、高浜台場の津藩を襲撃しましょう。楠葉を取り戻すべきだ!」
と無茶を言い出した。伏見での戦いからずっと冷静沈着に振舞っていた佐川がついに爆発して取り乱す様子を見て、土方はかえって感情が揺らがなかった。
「佐川殿、落ち着きましょう。譜代の淀が薩長に手を貸している今、もともと中立の津はすでに篭絡されている。一時的に切り崩せたとしてもわざわざ川を渡るほどのことではない」
「…っ、会津や桑名がどれほどの犠牲を払っているのか…裏切りなど、腸が煮えくり返るほど腹立たしい!」
「佐川殿」
土方は身体中を震わせて顔を真っ赤にする佐川の両肩を抑えた。徳川への忠誠を幼いころから身に着けて来た会津藩士の彼がこの数日間どれほどの苛立ちと憤りを抱えていたのか…土方にも当然よくわかっていた。けれど自分たちはただの一兵卒ではない。
「…我々には率いるべき隊士がいます。それに…至誠にして動かざる者は、いまだこれあらざるなり、です」
「孟子ですか…」
「ええ…近藤の好きな言葉です。裏切りなど勝手にすれば良い、我々がすべきは前を見据えることだけです」
「…」
佐川は少し沈黙したあと正気に戻り、「すまなかった」と己の感情に任せた痴態を詫びた。
「いいえ。…新撰組は八幡に残った者たちと合流します」
「…わかりました。どうやら八幡から桑名もこちらへ向かっているようですから、今後は枚方辺りに陣を敷くことになるはずです。我々は会津砲兵隊と合流します」
「ではあとで」
土方は原田たちともに楠葉台場を離れて再び合流予定であった橋本へ戻ろうとしたところ、偶然にも男山を南から周り敗走した斉藤と永倉たちに鉢あったので、そのまま枚方へ向けて進みながら互いの状況を確認し合った。
八幡では奮戦したものの火の手が上がり早々に退却することとなってしまったが、薩長からの激しい追撃を切り抜け、誰ひとり欠けることなく合流することができた。
「上々だ」
土方は素直に褒めたのだが、斉藤の表情は引き締まったままだ。
「楠葉は何故放棄されたのですか?」
「ああ。津藩が裏切った」
「…またですか」
斉藤はうんざりしたようにため息をついた。津藩は忠節高い佐幕藩だが開戦時よりこの戦を『薩長と会津の私戦』として中立を決め込んでいて、朝廷の勅使に説得され牙を剥くこととなった。淀藩に続いてまた裏切られた…その失望と挫折はこの一方的な戦をますます地獄へと落とし込めていくようだ。
だが、土方はその地獄に向き合うのは早いと思っていた。
「まだ大坂城がある」
難攻不落の城に兵が集えば、そう簡単に負けるはずはない。追い込まれている今、そう信じるしかなかったのだ。


同じ頃、前日の淀城下から大坂へ向かっていた舟が八軒屋の近藤たちの元へ到着した。近藤と総司はいち早く船を降りた英から事情を聞いた。
「他の負傷兵は違う船場から降りましたが新撰組の局長はここにいると聞いたので勝手ながらこちらに運ばせてもらいました」
「ああ勿論構わない。この屋敷は新撰組の詰め所として借り受けたのだ。…さあ、早く中に入れてやってくれ、すぐに医者も呼ぶ」
近藤は京屋から借りている下男たちに負傷兵を運ばせた。十数名の負傷者は軽傷から重傷まで様々な怪我を負い、舟の中は血塗れ、運搬途中で息絶えた隊士もいて総司は絶句する。
(酷い戦だ…)
話しに聞いて想像していたよりも、血を流し顔色を真っ青にして運ばれてくる兵士を見ると激しい戦になっているのだと思い知らされる。近藤も同じだったのだろう、硬い表情のままひたすら「ご苦労だった」と彼らに声を掛け続けた。
英は報告を続けた。
「戦死したのは十三人、ここに運んだのは限られた者だけで、骸は戦場や淀に置いてきた者が大半です」
「…残念だ。誰かが弔ってくれることを祈ろう」
「それから…山さんが」
英は舟から慎重に戸板に乗って運ばれてくる山崎に視線を向けた。総司は「あっ」と声を上げて近藤と共に駆け寄ると、山崎は苦悶の表情を浮かべ、すでに虫の息だった。
「そんな…山崎さん…!」
「山崎君…!酷い怪我じゃないか、撃たれたのか!」
総司や近藤の問いかけに山崎の眉が少しだけ動いたものの返事はない。下男たちによって部屋に運び込まれていくが、状況は英に説明されるまでもない。
「彼は助からないのか…?」
「…致命傷を負って血が流れすぎました、もって数日かと思います」
「山崎さんが…」
総司は思わず両手で顔を覆った。血の気が失せた山崎の表情は、いつも快活で明るく周囲を和ませ縁の下の力持ちとして新撰組を支えていた時の彼には全然似つかわしくない。戦場に残る土方は片腕をもがれたように感じているはずだ。
目を覆いたくなるような現実だったが、近藤は
「…遣いをやって南部先生にご助力頂こう」
と敢えて力強い足取りで屋敷へ戻っていく。総司も続こうとしたが軽い眩暈がして足がもたついてしまい、英に支えられてどうにか踏みとどまった。
「…具合は?」
「私は大丈夫です。こちらに来てからは喀血も無く…心配ありません」
「そうか。なら良かった」
英は小さく笑った。今まで負傷した隊士や骸に気を取られていたが、彼もげっそりと疲れ果てていた。
「…南部先生がいらっしゃるまで休んでください」
「そうさせてもらうよ。…それより、聞かないの?」
「え?」
「歳さんのことだよ」
「…」
総司は船が到着した時にいち早くその場に土方の姿がないことを確認して安堵していた。けれど運ばれていく隊士たちは悪夢を見ているかのように悲壮感が漂い、ぶつぶつと何かを呟いて正気を失っている者もいた。そんな悲惨な戦場から離れて安穏と療養していただけの自分が、土方の安否ばかりを心配することに気が引けていたのだ。
そんな総司の心情を察して、英は雑談のように口を開く。
「歳さんは無事だよ。斉藤さんも、他の組長さんも…散々な目にあって疲れているみたいだけど休まず駆け回っている」
「そう…ですか。良かった…」
「それにしても次々負傷者が運ばれてきてさ…ほんと参った。生き延びるって、大変だよ」
英はそう言って苦笑し、「行こう」と総司を抱えながら屋敷に向かった。
しばらくして近藤の使いが南部と加也を連れて戻ってきた。彼らは挨拶もそこそこに英から怪我人の状況を聞き出すと早速手当てを始めた。
「続々と舟から負傷者が下ろされて運ばれています。良順先生は大坂城から出てあちこちの負傷者を見て回っているところです」
隊士の傷口を縫いながら南部は近藤と話し込む。会津藩医である南部は松本を介して戦況に通じていた。
「伏見、鳥羽、淀で多くの兵が負傷し、会津も多くの指揮官と兵を失いました。すぐそこにまで敵兵が迫っておりおそらくこのまま大坂城での戦となるでしょう。会津公もそのおつもりで動ける兵は大坂城へ入るようにとご命令を出されています」
「でしたら私も大坂城に向かいます」
近藤が即答すると、南部は苦笑した。
「その怪我では…と私がお止めしても無駄でしょうね。どうか上様のために存分にお働きください」
「はい。身を賭して戦った隊士たちに報いるためも、できることは何でもする所存です」
負傷兵を前にして近藤はさらに決意を固めたように頷き、怪我を押して負傷した隊士たちの元へ向かい一人ずつ励まし始めた。総司は近藤と同じように見舞いたかったのだが、急に熱が出てしまい別室で横になってしまった。
(またか…)
己の非力な身体を恨めしく思ったが、
「ご自分を責めてはなりませんよ」
と加也が手桶を持って顔を出した。
「お加也さん…」
「ご気分はいかがです?ちゃんと薬は飲みましたか?」
「私のことはお構いなく…隊士を見てやってください」
加也は総司の言葉を聞き流し、床の傍で膝を折って座った。そして総司の額に手をやった。
「もうすでに一通り見ました。酷い有り様ですが英がちゃんと適切な処置をしていましたから、あとは義父の仕事です。それに、わたくしは沖田さんを診るために足を運んだのですよ」
「そうでしたか…ご足労をおかけして…」
「わたくしは沖田さんが治るまでは、嫌だと言われても顔を見にきますからね」
彼女の端麗な笑みはいまの総司には眩しすぎた。
(今更…治るはずがない)
加也の揺らがない言葉は、総司を励ますと同時にその凛々しさがいまは苦しくて、少しだけ自棄になりながら彼女に身を任せてゆっくりと目を閉じた。























解説
862 錦の御旗が掲げられたのは四日とも五日とも説があるようです。鳥羽街道に突撃攻撃を仕掛けたのは薩摩砲兵隊の大山弥助(のちの巌)で自ら抜刀し砲を捨てて銃をとり、一斉攻撃を仕掛けました。鳥羽伏見の戦三日目で千両松に新撰組が置かれていたのは間違いありませんが、鳥羽街道にもその記述がありましたので隊を二分させて配置しましたが、こちらの創作です。



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