わらべうた
871
伊庭は浅羽と数名の会津藩士とともに橋本を目指して出立していたが、随分手前の守口で足止めされた。幕府軍は橋本から撤退し枚方に陣を敷こうとしたが敗走が止められず、守口に集結し始めていた。
浅羽が逃げ延びてきた兵を捕まえて戦況を聞くと、淀藩の手引きによって勢いを増した薩長軍にさらに対岸の津藩の裏切りが加わり、ついに幕府軍は崩壊してしまったのだと聞かされた。
「…せっかくここまで来ましたが、このまま大坂城へ引き返し、戦となるようです」
浅羽は落胆しながらも今後を見据えていた。伊庭もそれは同じで
「いっそ大坂城の方が勝てる見込みがあるでしょう」
と前向きに同意した。淀藩や津藩のような裏切りは今後も続くだろうが、大坂城の守りをさらに強固にする軍艦が大坂湾に待機している。他の追随を許さない幕府海軍の力があればすぐに盛り返すことができるだろう。
「伊庭君、我々はこのまま殿軍の会津藩兵が抗戦しているという淀川堤へ向かいますが、君はどうしますか?」
「…同行させてください」
伊庭が属する遊撃隊の姿はなく、隊長の今堀の消息も分からない。闇雲に探しまわっても人ひとりで打開できるような状況ではなく彼らが無事ならばおそらく大坂城で合流できるだろう。
浅羽は微笑んで頷いた。
「伊庭の小天狗が合流してくださるとは心強い」
「…そのあだ名、会津の方もご存じなんですか?」
「何をおっしゃる、あなたは有名人ですよ。先の家茂公の上覧試合での素晴らしい剣技は目に焼き付いています」
「はは…懐かしい話です」
そう言えばそんなこともあった、と伊庭は酷く遠い過去のような気がしていた。あの頃は幕府と将軍という存在が絶対で、大樹公という呼び名が相応しく誰もその存在を疑うことはなかった。
(いつの間にか全部ひっくり返っちまった)
伊庭はまだ信じられないような気持ちを抱えながら、浅羽たちとともに淀川沿いを北上していくと、対岸から裏切った津藩の大砲が悠々と弾丸を撃ち込み、会津の数少ない砲兵隊がそれに対抗している光景が目に入った。
すると浅羽はハッと顔色を変えて足を速めて駆け出した。
「佐川!」
砲兵隊のすぐ傍で数名の負傷兵が倒れ込んでいた。その中の一人に座り込んだ佐川の姿があったのだ。
「…浅羽…」
「どうした、目をやられたのか?」
「ああ…この辺りの奴らは皆、炸裂弾にやられている。…右眼だが、ほんの少し下だったおかげで直撃は免れた…悪運は強かったようだ」
佐川は強がるが血の涙を流すような姿は痛々しい。周囲には同じように裂傷を負った会津藩兵が倒れていて、浅羽とともにやって来た会津藩士は手当てを始めた。
「…浅羽、殿は…?」
「大坂城で上様のお傍にいらっしゃる。殿は神保だけをお残しになり、他は応援へ向かうようにと…」
「神保?!」
佐川は怪我に構わず声を荒げ、「何故そのような真似を」と浅羽に詰め寄った。
「あれが不戦恭順を進言し続けているのは知っているだろう?!」
「わかっている。だが…上様が城に残るようにと仰せになったのだ」
「上様が?」
「何故か気に入られているようで…我が殿も不思議がっていた」
佐川は憎々しく舌打ちし、「一人にしてくれ」と気持ちの整理をするために人払いをした。浅羽は仕方なく彼と距離をとり、様子を見守っていた伊庭のところへ戻って来た。
「あの方は…伏見奉行所にいた方では?」
「ええ、会津物頭の佐川という者です。私と彼は同い年で同じ学び舎で過ごした時期もあります」
「その神保というのは?佐川殿は酷くお怒りでしたが…」
「ええ…会津公用人で、軍事奉行添役を務めています。我々より若く利発な男ですが今回の戦の前には朝廷へ恭順の姿勢をとるべきだと、主戦派の佐川とは対立していました」
「恭順…」
伊庭は会津藩こそ今回の戦の急先鋒であると認識していたので、高い役職のあるものが恭順を主張していることは意外であり藩内ではさぞ浮いていることだろうと察した。
(それにしても上様が目を掛けられているとは…)
徳川への忠義が篤い会津で、不戦恭順の主張をする神保は上様と近い考えを持っているということだ。上様がそのような臣下を優遇するのは意外ではないが、つい昨日、薩長に対し命を賭して抗戦すると幕閣の前で宣誓したばかりではないか。
(あれは本心ではないのか…)
伊庭が上様の言動に矛盾したものを感じていると、ドォーン!っとすぐ傍で着弾した音が響いて咄嗟に身を伏せた。
(何があった…?)
伊庭が目を凝らすように辺りを探ると、敵弾が淀川沿いで高浜台場へ向けられていた会津の砲台へ着弾したようで、白煙は次第に黒煙へと変わっていき、爆風が直撃した砲兵たちがバタバタと倒れていた。
「負傷者を安全な場所へ!」
浅羽の指示で兵が駆け付け、まだ意識のある負傷兵を蘆の茂みまでずるずる引きずる。伊庭は胸の痛みを堪えながらもそれに加わり、数名を退避させたが息絶えた兵もいた。
佐川は戻り、これ以上は戦えないと悟り「退却しよう」と浅羽に申し出たところ、
「林隊長!お気を確かに!」
と会津藩兵が負傷兵のひとりに必死に声を掛けていた。浅羽と佐川はハッと顔色を変えて彼の元へ駆けつけるが、林又三郎は砲弾の一部が腹部に刺さり重傷を負っていた。
(これは助からない…)
伊庭を始め、その場にいた者は皆そう思っただろう。そして本人が一番わかっていたはずだ。
「…刀…を…」
傍にいた兵に刀を持たせるように頼み、彼の腰から脇差を抜いて握らせた。林は微笑んで
「あとは頼みました…」
と浅羽や佐川、他の兵たちを一通り見渡したあとに最後の力を振り絞って自身で首を斬り付けた。佐川がすかさず介錯を務め、血が吹き出し、会津砲兵奉行、林権助の長男である林又三郎は自決した。怪我を負った自分が足手まといにならないようにと、その一心での行動だった。
会津藩士たちは悔しさを堪えてぐっと唇を噛んで手を合わせ、
「行きましょう」
と浅羽の声掛けで、まだ動ける負傷兵を運びながら大坂城を目指すこととなった。
新撰組は官軍の追撃を受けながら大坂城へ向けて退却していた。連日の敗走に疲れ果てた隊士たちは足がもたつき、倒れ込みながらも
「止まるな!進め!」
と土方の檄に押され、地面を這いつくばるように逃げ延びる。
枚方に陣を敷く前に攻め込まれ、幕府軍は散り散りになって退却し、守口でようやく迎撃に転ずる。すでに大坂城は目と鼻の先だ。
土方は隊士たちを先に逃し自ら銃を手に取り、官軍に撃ち放った。不動堂村での修練が多少役に立ったが個の力でどうにかなるような状況ではない。淀に続く津藩の裏切りによって指揮官たちは戦意を喪失し戦を放棄していたのだ。そんな一方的な状況で戦いを止めようとしない新撰組はむしろ異常だったのかもしれないが
(かっちゃんならそうする)
と土方はただその一心だった。敗戦ばかりが続き眠れない夜を過ごして思考は鈍い…そんな時に思い浮かぶのは近藤と総司のことばかりで、無念の思いを抱える彼らのために戦うことをやめられなかったのだ。
斉藤が銃撃を避けながら土方の元へやってきた。
「土方副長、退却命令が出ています」
「…またか」
いい加減聞き飽きた…土方は尚も銃を構えたが、
「上様のご命令です」
と言われたので驚いた。
「上様の?」
「はい。大坂城へ入るようにとのご命令です。上の者はすでに向かっています」
「…上の者はいつも逃げ足だけは早いよな」
呆れてものも言えず、土方は引き金をひいた。そして近くで戦い続ける隊士たちに向かって叫んだ。
「皆、これが最後の殿だ!生き延びて大坂城へ向かえ!」
オオーの隊士たちの雄叫びが戦場に響く。負け戦と決まっていても力を振り絞って銃を捨て、刀を手に前へ向かう姿は敵にとっては脅威だったのだろう、敵兵はまるで獣に追われているかのように悲鳴をあげて逃げていく。
土方は先輩たちに負けじと飛び出していく鉄之助を見つけて、その後ろ襟を捕まえた。
「なっなんすか!」
「お前は泰助と銀之助とともに先に大坂へ向かえ」
「な、なぜ!」
「奉行所屋敷へ向かい近藤局長の所在を尋ね、新撰組の無事を伝えるんだ。俺たちが殿を務めた後に大坂城へ入ることを伝えれば、すれ違うことなく局長と合流できる」
「…っ」
鉄之助はあからさまに嫌そうに顔を顰めて、なかなか頷かなかった。口実をつけて戦場から追い出されると思っているのだろう。
「お前を見込んで言っている」
「…本当ですか?」
「ああ。こんな簡単なこと、お前なら当然やり遂げられるだろう?」
「もちろんです!」
鉄之助は土方の命令を受け入れて逆方向へと走り出した。決して嘘をついたわけではなかったが、年若の彼らをより安全に逃がしたかったという気持ちは否めない。
(もうひと踏ん張りだ…)
土方は弾の無くなった銃を捨て、隊士と同じように刀を抜いた。急ごしらえの胸壁を出て先んじて駆けて行った隊士たちに合流しようとしたところ、視界の左側…淀川沿いに敵影を確認した。
「くそ…」
どれだけ大声を張り上げたところで隊士たちは目の前の敵兵で精一杯で耳に入らないだろう。敵影は多くて四、五人に過ぎないがここまで来て味方を誰一人として失いたくはない。
土方は一人で駆けだした。どうやら落伍兵のようで本体との合流を目指しているところだったのだろう、土方の姿に気が付くと慌てて銃を構えた。元込め銃とはいえそう簡単に発砲まで至らず、
「ヒェェッ!」
土方は悲鳴を上げた一人を切り払い、そのままもう一人の腕も斬り付けた。彼らの銃を淀川に向けて蹴り飛ばしつつ次の敵兵に向けて刀を振り上げると、敵兵は怯えながらも銃口を土方へ向け、その引き金に指を掛けた。土方が読んでいたよりも早いタイミングでの発砲―――(ぬかった)と身体のどこかを撃ち抜かれる覚悟を決めたとき、
「ぐええッ!」
とその兵の背中に刀が突き刺さっていた。後ろにいた二人の兵も次々と斬り伏せられ、あっさりと制圧してしまったのだ。
「…戻っていたのか、伊庭」
「ええ、相変わらず無茶をしますね」
土方の目の前に現れたのは伊庭と浅羽、そして数名の会津藩士たちだった。
伊庭は息絶えた兵の背中から刀を抜き、血を払って鞘に仕舞う。その仕草一つとっても洗練された使い手のそれに違いないが、今は嫌味を言う余裕はない。
浅羽が口元に笑みを浮かべた。
「土方さん、ご無事で何よりです。我らは橋本から殿を務め、淀川沿いを南下して大坂城へ向かっているところです」
「我々も同じです。すでに上様から退却命令が出ています」
「上様が…」
浅羽にとっても意外だったのだろう。少し考え込むように黙ったが、しかし立ち話をしている暇はない。
「…そういうことでしたら、一刻も早く大坂城へ向かわねばなりません」
「新撰組はこのまま殿軍を務めます。会津は大坂城に入り、会津公の元で籠城の準備を整えるべきです」
「わかりました。では大坂城で」
土方と浅羽は頷きあい会津藩兵は再び淀川沿いに進んでいくが、伊庭はその場に残った。
「怪我の具合は?」
「もうすっかり良くなりました。俺も付き合わせてください」
「ああ…だったら少しはまともに働けよ」
土方は伏見奉行所で早々に離脱したことを揶揄すると、伊庭は「言われなくとも」とにやりと笑い、怪我など感じさせない勢いで刀を抜いて駆けだしていった。
872
八軒屋にて一通りの処置を終えた南部は「また来ます」といいながら、昼頃には加也や助手たちとともに忙しそうに次の怪我人の元へ向かっていった。
隊士たちは割り当てられた部屋で静養し、屋敷は少し落ち着いた。
休んでいた総司は自分の気怠さを誤魔化しつつ、山崎の部屋に見舞いに向かうと彼は深く目を閉じたまま四肢を投げ出すように仰向けに倒れていた。あちこちに包帯を巻いているが腹部の傷が一番重たいようで浅い呼吸を何度も繰り返していた。
「ここにいたのか。…総司、具合はどうだ?」
南部たちを見送った近藤がやって来た。
「…平気です。それに眠れなくて…」
「気持ちはわかるが…気が済んだらちゃんと休むんだぞ。今、大坂城に兵が終結して籠城戦の準備をしているそうだ。新撰組もきっとこちらに向かっている…歳たちと合流して来たるべき時に備えないとな」
「…そうですね」
総司は近藤ほど前向きにはなれなかった。怪我を負い、痛みに苦しむ隊士たちを目の前にしてなんと言葉を掛けたら良いのかわからない、無力な自分が情けなかったからだ。
近藤は眉を顰め、山崎の姿を目に焼き付けるように見た後、
「…おや?」
と山崎が何かを握りしめていることに気が付いた。近藤が力の入ったままの山崎の指先を動かそうとしてもぎゅっと掴んで離さない。
「これは…」
「飴、でしょうか?」
血だらけの掌に飴玉が二、三個握られている。掌の温かさで少し溶けて張り付いていたが、その強さには決して離すまいという山崎の意思を感じた。
総司は思い当たることがあり近藤と顔を見合わせ、そのまま部屋を出た。
「あの…近藤先生、相良さんの件は…」
「…言えないだろう。あんな状態の山崎君に…友人が亡くなったとは、とても」
近藤の言葉に総司も頷いた。瀕死の重傷であと数日しか持たないであろう彼がもう一度意識を取り戻すかどうかさえ怪しい。そんなときに伝えるべきことではないだろう。
「飴は…」
「相良君の兄君がおっしゃっていたな。相良君も飴を供えてくれと言っていたと…」
「何か特別な意味があるんでしょうか?」
「さあな…二人にしかわからないことだ」
二人だけの合図だったのか、約束だったのか…けれど山崎が握っていた飴が相良への供物ならば、部外者の総司にも二人の間には強い絆があったのだろうと察することができる。
「…ゲホッ」
総司は急に胸が苦しくなって咳き込み、喀血した。驚いた近藤が「大丈夫か?!」と少し大袈裟に声を上げたせいで別室で休んでいた英が駆けつけてきた。英は医者の顔をして叱った。
「まったく、寝床から抜け出すからこうなる。…ほら、休んで」
「…はい」
総司は英と近藤に付き添われ、自分の床に戻った。無理をしたせいでまた熱が上がり息苦しさを感じたが、英が漢方の入った温かい茶を飲むと少し落ち着いた。
「…そういえば、近藤局長。斉藤さんから文…というか、書き付けを預かっていたのを忘れていました。これです」
「おお、そうか。色々と助かるよ」
近藤は何の気なしにその小さく折り畳まれた紙を受け取り開いたが、すぐに顔色を変えた。眉を吊り上げたあとグッと痛みを堪えるように噛み締めていたが、指先は小さく震えていた。
総司は当然すぐに気がついた。
「…先生?」
「いや…その…なんでもない…」
「先生、隠し事はやめてください。…悪い知らせだったんでしょう…?」
何かあったなら包み隠さないでほしい…総司の懇願に近藤は戸惑い迷っていたが、少し沈黙したあと意を決したようにすぅっと息を吸い込んだ。
「……源さんが死んだ…」
「!」
「詳しいことはわからないが…泰助が看取ったと書いてある…」
近藤はそれ以上言葉を紡げず、涙ぐんだ。あまりに唐突な知らせに動揺を隠せなかった。
近藤より入門が早い兄弟子の井上とは総司や土方さえ知らない一番長い時間を過ごしてきたのだ。堪えきれずに「すまない」と部屋を出て、英も察して席を外した。
総司はしばらくぼんやりと天井を見上げたあと、手のひらで目元を抑えた。そうしないとじわじわと込み上げる悲しみと痛みが、溢れて止められなくなってしまいそうだった。
「…おじさん…」
まともな別れも口にできずいつも通り食客たちの後ろを歩く背中を見送ったのに、ポツンと糸が切れたように会えなくなってしまった。心に穴が空くという言葉が相応しく、ただただ悲しい。
目を閉じて在りし日の思い出を振り返る。試衛館に初めてやって来た時、親戚だった井上の姿を見てほっと安堵したことを鮮明に覚えている。そして口減らしとして試衛館にやって来た総司を温かく見守り、必要な時には手を差し伸べたが、口出しはせず、けれど遠く離れることなく過ごしてきた。総司の記憶のなかに常に井上の姿は在った。それは近藤や土方、永倉、原田も同じだっただろう。だから誰もが突然、それが無くなるなんて思いも寄らなかったはずだ。
(せめてさようならと言いたかった…)
総司が静かな涙を流した。
すると俄かに部屋の外が騒がしくなった。喀血して臥せっている自分がのこのこ部屋を出ていくと英に叱られそうなのだが、どうしても確認しなければならない気がしてこっそり障子をあけて外を覗き見た。近藤が数人の隊士たちを話し込んでいる…そこにいる彼らの姿を見て、黙って部屋に留まることはできず総司は障子を開け放ち、裸足のまま庭に駆け降りた。近藤と話し込んでいた彼らは総司が突然駆け込んできて驚いていたし、近藤も目を見張ったが、総司は躊躇うことなくその中の一人…井上の甥である泰助を強く抱きしめた。
小さい身体にはちゃんとぬくもりがあった。
「…先生…」
「よく…よく、生きて帰った…!」
背中に腕を回し、強く抱きしめる。すると泰助の身体はぶるぶると震えだし、すすり泣いた。総司が背中を摩るとやがて嗚咽を止められなくなり、子どものように泣きじゃくった。
「先生…お、俺…っ、俺、は…おじさんの……」
「いい。何も、言わなくていい。ちゃんと生きて、また会えた…おじさんは喜んでる」
「うっ、ぅぅぅ…」
堰を切ったように咽び泣く泰助の涙で、総司は彼らが見て来た地獄がどれほどのものか痛いほど感じ取った。少なくとも彼らのような若い少年たちが戦場で身内が死ぬ姿など見るべきではないだろう。総司は揚々と彼らを送り出した自分が情けなく罪悪感すら感じていた。すると傍にいた銀之助もつられて号泣し、鉄之助はぐっと唇を噛んで堪えていた。彼らも目の前で起こった惨劇を受け取るには若すぎたのだ。
近藤は涙を拭いながら、鉄之助の肩をポンと叩いたところ表情を歪ませながら口を開いた。その声はカラカラに乾き、掠れていた。
「…井上組長の首を斬ったのは俺です。首は…千両松から淀城下まで泰助が抱えて持ち帰り…本人は江戸まで持ち帰ると言い張っていましたが、隊士たちが説得して欣浄寺という場所に皆で埋めました」
「そうか…大変な役目を担ってくれたんだな。感謝する」
近藤は鉄之助を褒めながらも、叔父の首を抱えて淀まで生き延びた泰助の心情を慮る。同じ齢の自分だったら同じことができただろうか…それはトラウマになりそうなほど過酷な時間だったことだろう。心の整理ができていないのは当たり前だ。
「…皆、少し休みなさい。詳しい話は市村君から聞く」
近藤の声掛けで少年たちは屋敷に足を踏み入れた。
「――…先んじて戻った会津兵によると、既に守口を過ぎ大坂城へ向かっているとのことです」
会津公は上様に現状を報告した。上様は足を組んで椅子に座り肘をついて話を聞きながら思案している。会津公は上様から向かいの椅子に座れば良いと何度か誘われているが、「慣れていない」と断り、こうして絨毯の上に膝を折っていた。
上様は憂鬱そうな表情を浮かべている。
(昨日とはまたご様子が違う…)
淀藩に裏切られ、八幡・橋本へ逃げ延びた兵に向けて上様は幕閣の前で饒舌に、薩長への徹底抗戦を語った。それまで無関心を決め込んでいた姿とはうって変わり、臣下を励まし大坂城で討ち死にするとの覚悟を込めた演説は幕閣の心を揺さぶり、現場の兵たちにすぐに伝わったという。会津公もそんな上様の凛々しい姿に安堵し、久しぶりによく眠れたのだが、翌六日の津藩の裏切りの知らせが届くと、再び上様は無口になってしまった。枚方、守口へと逃げ延びる兵たちには大坂城への退却命令を出したものの、昨日のような覇気は感じられない。
上様は深いため息をついた後、口元に手を当ててどこか落ち着かない様子で話し始めた。
「…淀藩の裏切りを知り、津藩も続いた。きっとこの先もどこの藩が味方で、敵か、わからなくなるだろう。…紀州は兵を寄越していないそうだな」
「おそらく…遅れているのでしょう」
会津公は上様を慰めるべく答えたが、拙速に兵を出さない親藩の態度に(紀州さえも裏切るならば…)と最悪の考えが過っていた。しかし会津公は疑念を取り払うべくあえて強い口調で続けた。
「上様、まだこの城には温存している兵が一万五千も残っています。海には最強の海軍が薩摩の船を追い払い、諸藩の支援も取り付けられる。…確かに鳥羽と伏見では敗戦を繰り返しましたが、この大坂では負けるわけがありません。他藩のことは正直に申し上げるとその動向は図りかねますが、会津と桑名は最後の一人まで戦う覚悟です」
「…」
「…上様?」
会津公は上様が微かに笑っているように見えた。それは喜びというよりも、呆れているような苦笑するような笑みに見えたが、上様はすぐに表情を戻した。
「…肥後守、夕刻に軍議を開く。老中らを集めろ」
「はっ…」
上様は立ち上がると自室へ戻っていってしまった。
873
昼過ぎ、近藤は「いてて」と漏らしながら英の手を借りて羽織に袖を通していた。
「できる限り動かないように固定しますが、無茶な行動は控えてください」
「ああ、わかっているよ。…疲れているのにすまない」
英は今朝、舟に乗って八軒屋に到着しそのまま南部や加也とともに怪我人の手当てをしたあと、少し休んだだけだ。近藤は英を気遣ったが、
「いえ…戦場にいるよりはマシです」
と英は呟いた。自ら望んでいたこととは言え、一方的な負け戦を経験し彼も思うところがあるだろう。しかし近藤は敢えて聞かず、
「総司は疲れているだろう。起きるまで事情は話さずに寝かせてやってくれ」
と頼んだ。
少し前、突然遣いがやってきて大坂城へ召し出された。何でも幕閣が集まってこれからの戦のことについて話し合うようだ。そのような場に招かれるのは光栄なことだが、たった数日で大坂城まで追いやられてしまった幕府軍の脆弱さを考えると気が重い。
(歳と話がしたいな…)
最前線に立つ親友はこの戦況をどう見ているのか…土方の意見に耳を傾けたいところだが、新撰組の所在はわからないままだ。
「君から見て、新撰組はどのような様子だった?」
「…わかりません。ほとんど怪我人の処置で、戦場の様子は話に聞くだけで。…ただ、脱走者が多いと誰かがぼやいていました。いつの間にかいなくなって、半数程度だと…」
「半数か…」
近藤が思っている以上に多く、落胆を隠せずため息をつく。英は余計なことを口にせず、羽織の紐をきつく結んだ。
「…整いました」
「ありがとう。…もしかしたらすぐに戦になって隊士たちも城に呼ばれるかもしれない。疲れているだろうが、隊士たちの世話を頼む」
「承知しました」
近藤は怪我の軽かった隊士を連れ、八軒屋の屋敷を出て大坂城へ入った。幕閣や諸藩の重役、幕臣たちが集うなか新撰組と懇意で若年寄の永井の姿を見つけた。
「永井様!」
「おお、近藤!怪我の具合はどうだ?」
「懐手となり不恰好ではございますが、この通り問題ありません」
「そうか。撃たれたと聞いた時は肝が冷えたが、顔色が良さそうで安心した。見舞いに出向こうと思ったが、なかなか城を出られなくてな…」
永井は「立ち話では落ち着かぬ」と人の目を気にして部屋を移動し、眉間に皺を寄せながら戦況について語り始めた。
「この数日随分と苦戦した。兵数では勝るが、武器が格段に薩長のものが良い。それに錦の御旗のせいで諸藩からの援軍も二の足を踏んでいるそうだ…そのせいで淀藩に続いて今朝方、津藩まで裏切ってな」
「津が!」
「ああ、突然砲撃されたそうだ。楠葉の砲台は側面からやられて壊滅したと聞く」
「…」
近藤は言葉がない。譜代の淀に続いて、津藩まで裏切り実際に攻撃を仕掛けてくるとは。
「逃げ延びた兵によると新撰組は橋本から八幡にかけて布陣していたそうだから無事だろう。…本当に新撰組はよくやってくれている。伏見や淀では殿を務めて最後まで戦い続けているおかげで、他の部隊が逃げ延びることができている」
「…土方のおかげです」
近藤は親友の活躍を嬉しく思うと同時に、常に死と隣り合わせの状況を押し付けられている彼らを思うと苦々しくも思う。
(新撰組は捨て駒ではない…)
永井がそんなつもりで話しているのではないとわかっていても、心中は複雑だ。
永井は話を続けた。
「…実は、一部の幕閣から江戸で再起を図るべきだという話が出始めている。江戸なら裏切る藩も出てこないだろうと」
「なりません!」
近藤は咄嗟に叫んだ。
「でしたらこの数日での犠牲は何だったのです!耐え凌ぎ、大坂城まで必死に逃げて再起を誓う味方を蔑ろにされるのですか!」
「…よもや戦になるとは、上様はお考えではなかったのだ。これは不慮の出来事だった」
「私は過ぎたことを申し上げるつもりはございません!ただ、江戸に逃げるのではなく、この大坂城で薩長を迎え討つべきだと申し上げているのです!」
「近藤、逃げるわけではない。此度の戦で指揮系統が大いに乱れた。それ故に上手く立ち回れなかったと指揮官たちは口にしていた。それに人材も兵も武器も江戸の方が揃っている」
「そのような言い訳を…!」
土方や隊士たち、実際に戦場にいる兵たちが納得するはずがない。
けれど近藤は言葉を飲み込んだ。永井を責めても意味はなく、(所詮俺も戦線を離れていたのだ…)と己が何か言える立場ではないと気がついたのだ。
互いに意見が食い違い沈黙していると、「軍議が始まります」と隊士が声をかけてきた。
永井は
「…今後のことは皆で議論しよう」
と一時的に話を切り上げて近藤と共に広間へ移った。
広間には老中や目付、外国奉行や永井のような若年寄が並び、鳥羽、伏見を率いた松平正質、竹中重固ら指揮官たちが揃っていた。緊迫感と悲愴感が沈殿しているような雰囲気のなか近藤な末席に腰を下ろしたところで、上様が会津公とともに入室された。上様は無表情で何を考えているのかわからなかった。
まず、上様に促された指揮官たちが戦果を報告する。鳥羽での連携不足、伏見での火災による甚大な被害、その後の淀藩の中立や今朝の津藩の砲撃まで話し、彼らはしきりに「善戦した」「裏切りさえなければ」と自分たちに非がないことを強調したが、上様がそれをどう受け取ったのかはわからない。
「それで、今後はどうすべきと考えているのか?」
上様の問いかけに対し、指揮官たちは挽回の機会を得ようと大坂城のでの抗戦を主張した。
「戦場の兵たちは皆、大坂城での再起を目指し続々と入場しています。それに余剰の兵も待機しており、この難攻不落の城を薩長が倒せるはずがありません!」
「それに海には幕府海軍がいます!籠城となっても補給でき、敵の軍艦を追い払うことができる…これ以上なく我々に分があります!」
大目付滝川具挙は上様に訴えるが、上様は彼らの熱気を無視して
「東帰し、立て直して出直すべきではないか?」
と淡々と言い放った。抗戦派が多数を占めていた広間は一気にざわつき始める。
目付の平山が
「上様、大坂城で迎え撃てば必ず勝てるのですよ!」
と声を上げるが、上様の表情は変わらない。家臣たちの言葉などその耳に入っていないかのような無機質な態度に幕閣たちは困惑していた。そして上様のそばに控えていた会津公は怪訝な顔をしてチラリと近藤を見る。
(容保様…)
会津公は唇を噛んで何かを堪えるように拳をぎゅっと強く握っていた。会津は当然抗戦を主張している。鳥羽、伏見にて一番の犠牲を払い『薩長と会津の私戦』と一部から揶揄されても徳川の盾となり戦い続けてきたのだ。
「そなたはどう考える?」
戦の副総督である塚原は近藤に話を振った。永井の視線を感じつつ、近藤は意を決し声を張り上げた。
「…同胞たちは敗戦を繰り返しながら戦場を生き延び、大坂城での巻き返しを誓い集まっています!彼らが逃げ出す機会など何度もあった…けれど戦い続けるのは、ひとえに上様の御為、ただそれだけです!立て直しなど必要ありません、上様が今こそ迅速に陣に立たれれば必ずや勝てる戦なのです!不肖この近藤、先鋒として戦に出向く覚悟です!」
近藤の場違いとも思えるような大音声と気迫に、抗戦派の藩屏や諸藩の有司たちは「そうだそうだ」と共鳴した。上様の東帰という考えは家臣たちの熱気に押されてあっという間に消え失せていくが、この期に及んでも上様は表情を変えずに立ち上がった。
しかしその口から出てきた言葉はこれまで真反対だった。
「…わかった。では明日、打って出ることにしよう。皆も用意せよ」
家臣たちは上様自らの出馬に大いに喜び、「今度こそ勝てる」と感嘆して喜んだ。次々に広間を出て戦支度を始め近藤もその中に加わったが、一抹の不安を覚えていた。
(御出馬は上様のご本心だったのだろうか…)
周囲の熱気に押されて気が変わったのか、意思を通すことができないと諦めたのか。上様は板倉老中や永井とともにさっさと議定を去ってしまい、その意図を推し量ることはできなかった。
それから大坂城での決戦へ向けて話が進み、重傷の山崎と寝込んでいる総司を除いて八軒屋で負傷していた兵たちも入城した。夕方になり、あとは戦場で殿を務めている土方たちと合流するのを待つのみだ。
「近藤」
「…容保様」
近藤が物見から外を眺めていると会津公が供を連れずやって来た。
「先んじて会津の兵が戻って来ている。…新撰組はよくやってくれているそうだ、まだ戻っていないのか?」
「はっ…伝令から舟に乗ってこちらに向かっていると聞いています」
「そうか…早く顔が見たいだろう」
「…はい」
近藤は正直に頷いた。新撰組の局長という肩書で議論に参加したが、肝心の新撰組が不在であるということは何となく拠り所がないように感じた。
会津公は小さく笑った。
「先ほどは上様の前で啖呵を切ったな」
「…出過ぎた真似でした」
「いや、あれで上様のお気持ちも決まっただろう。…もう火がついた家臣たちは止められぬ。たとえ上様にとって不本意であっても、戦に勝てばご納得いただけるはずだ」
会津公は安堵していた。上様を説得するのに随分苦心していたのだろう。
近藤は夕暮れに染まっていく空へ視線を遣りながら口を開いた。
「あの時…戦場にいる友のことを思いました。負け戦を経験した彼らは上様のおっしゃる通り東帰すべきだと考えるのではないか…と。しかし決してそんなことは考えないだろうと思いなおしました。このまま江戸へ逃げるような真似は…友ならば選ぶまいと。私は戦場で戦う彼らを代弁したつもりです」
「…そうだな。私も会津兵が多く死んだと聞いている。その者たちのために戦場を放棄して江戸で立て直すなど…口が裂けても言えなかった」
「…はい」
上様の考える東帰は『手段』として適しているかもしれない。けれどそこに『感情』が伴うのが戦であり、戦うのは自分たちと同じ『人間』なのだから。
会津公は近藤の隣に並び同じように外を眺めた。
「私の友も…私の元へ帰ってくるだろうか…」
そう呟いた時。
バタバタバタと大きな足音が響き渡った。必死の形相で駆けつけた兵は会津公の前で膝を折り「申し上げます!」と叫んだ。
「二の丸で火事です!」
「なに?!」
近藤と会津公は顔を見合わせて(敵襲か)と同じことを考えた。しかし兵ははっきりしたことはわからず情報だけが錯綜し、城内はすぐに慌ただしくなった。
近藤は反対側の二の丸が見える場所へ駆けていき様子を窺ったが、白煙が立ち昇るだけで敵影は見えない。砲撃もなく静まっている。しかしタイミングの良すぎる火事は、昨年末の江戸城での火災を彷彿とさせほとんどの兵が鳥羽、伏見の薩長が大坂城へ辿り着いたのだと結論付けた。次第に階下の様子が変わっていく。
「…っ、近藤!」
「はっ!」
なにかに気が付いた会津公に促され近藤はともに階段を下りたところ、そこに広がる凄惨な光景に絶句した。
負傷して城に入っていた兵が次々に自刃していくのだ。
会津公は
「やめよ!」
と声を荒げて制止するが、兵たちはまるで熱に魘されて感染していくように次々と自らに刃を突き立てて命を絶っていく。皆、突然の敵襲に混乱し、せめて籠城戦の足手まといにならないようにと自害していたのだ。
近藤はその中に新撰組隊士の姿を見つけた。
「村上君!」
村上は鳥羽で怪我を負い、運ばれていた。彼はすでにこと切れており苦悶と覚悟の表情を浮かべながら血だまりのなかで深く眠っていた。彼の近くには数名の隊士が同じように命を絶っていた…彼らは負傷していてもまだ戦える怪我だったはずだ。
近藤はまだ少し温かい村上の身体を抱き上げて
(これは一体何なのだ…)
この死を、誇り高いと褒めるべきか、無情だと嘆くべきなのか、まったくわからなかった。けれどしきりに涙が零れて、これが戦なのだと強く思い知った。
―――結局、二の丸での出火は敵襲ではなく、単に火の不始末によるものだった。
しかし自害した兵たちを無駄死にだとは誰も言わなかった。負け戦を知っていた彼らだからこその選択だったのだ。
874
額にヒヤリとしたものを感じて、総司は薄く目を開けた。するとそこには英がいて「起こした?」と謝った。
「…いえ。いまは…」
総司は部屋に明かりが灯っていることに気が付きながら障子の向こうに目をやるがすでに暗くなっていた。
「陽が落ちたくらいだよ。二刻くらいかな、よく寝ていた」
「そうですか…でもずいぶん静かですね…」
「ああ、動ける隊士は大坂城へ行ったから」
英の返答に総司は驚いて微かに残っていた眠気は一気に吹き飛んだ。
「城って…もう戦が?!」
「違う違う。昼過ぎに局長さんが軍議に呼ばれて、そのあとに兵も城に入るようにって。あの若い小姓たちも行っちゃったけど、山さんは隣にいるよ」
「そう…ですか。近藤先生も…」
英はあまり大袈裟な言い方をしなかったが、それでも負傷兵が大坂城へ入ったということなら決戦が近いことに間違いはない。
(僕も共に…)
総司はそう思ったが、
「言っておくけど沖田さんはここに残らないと。城内で喀血したら気まずいでしょ」
と釘を刺されてしまった。
英の言う通り自分が城に入り戦うのは現実的な話ではないが、せめて近藤や隊士たちを見送りたかったとは思う。
英は急須から白湯を注ぎ、漢方入りの湯呑みを差し出した。総司は眠って少し楽になった身体をゆっくり起こして、苦い白湯を口に含んだ。
その時、小指に嵌めていた指環が外れて落ちた。
「あ…」
別宅で土方から貰った指環ーーー片時も離れることのないお守りのようなものだ。総司は何か嫌な予感がして湯呑みを置き指環をまた嵌め直した。以前はピッタリと嵌っていたはずが、いつの間にかパカパカと浮いてしまっていた。
「…このところ食欲が落ちていただろう?一時的なものだよ」
聡い英はすかさずフォローしたが、病が進行していることは自分でもよくわかっていたので指が痩せ細っていることはそれほどショックはなかった。ただ、土方が離れていくような気がしてなんだか不安になってしまったのだ。
「…新撰組も大坂城へ入ったんでしょうか?」
「どうかな…まだそんな噂は聞こえてこないけれど…」
英が首を傾げていると、隣室から唸り声が聞こえてきた。英は一気に深刻な表情へ変わり、「行ってくる」と山崎の元へ向かって行った。
総司は床を離れて衣紋掛けの羽織に袖を通した。そして部屋の明かりを提灯に移して外に出て、暗闇のなか周囲に明かりを向けた。
(…猫は…いない)
芹沢の時から始まり、山南の脱走、藤堂の落命、近藤の暗殺未遂…総司の前に現れたあの猫が何処かにいるのではないかと危ぶんだが、猫の姿はなくあのリーンという鈴の音も聞こえてこない。
(僕の考えすぎかな…)
総司が安堵していると、ほど近い川の方からバシャバシャと水音が聞こえてきた。それは一人二人ではなく、数人の話し声も聞こえて来る。
(敵襲…かもしれない)
屋敷に戻ったところで瀕死の山崎と医者の英しかいない。
総司は警戒しながらも様子を伺うために屋敷の裏口から土手に出た。数隻の舟が横付けされて停泊している。その傍にちょうど屯する人影を見つけて目を凝らした途端、それが新撰組だと分かった。
「…っ、歳三さん!」
総司は駆け出した。明かりを持っていたので彼らは総司に気がついただろう。人影の中から土方が抜け出して、顔を見合わせる前に強く抱きしめあった。
「総司…」
愛おしむような、噛み締めるような、土方の声が鼓膜を揺らす。顔を見なくてもその体温と腕と匂いはよく分かっていた。
「…よく、ご無事で…」
総司の手から提灯が離れて、足元でその火が消えた。けれどそれを好都合だと言わんばかりに土方は噛み付くような口付けをして、総司もそれに応えた。すぐそこに隊士がいるのに今はそんなことはどうでもよくて、ただこうしてまた会えたことだけが嬉しくて、自然と目に涙が浮かんだ。
「っ…ん、歳三さん…」
「…血の味がする」
「歳三さんだって…唇がカサカサです」
「川を下ってきたんだから、当然だろ…」
他愛のない会話を交わして互いにくすりと笑いようやく身体を離した。
そうしていると川の方からぞろぞろと隊士が引き上げて来る。永倉や原田は「妬けるな」とにやにや笑い、ほかの隊士たちも自然のやり場に困っているようだった。
総司はようやく気恥ずかしくなってきて、
「み、皆さん、ご無事で何よりでした。どうぞ中に入ってください」
と皆を促して屋敷へと案内した。
英は勝手に外に出て行った総司を叱ったあと、女中を呼びに行き、隊士は広間で思い思いに身体を休める。彼らは疲れきっていたが、緊張の糸が切れて大きな怪我なく生き延びたことに安堵している様子だった。
「沖田先生!」
そのなかから島田と山野が駆け寄って来た。
「ああ…!二人とも無事でよかった」
「はい!でも先生、少しお痩せになりましたか?きちんと滋養のある食事をお召し上がりになっていますか?お薬は…」
「山野、今は小言はいいじゃないか」
島田が苦笑して山野も「そうですね」も恥ずかしそうに頭をかいた。慣れた彼らのやりとりを耳にして総司は心底彼らの無事に安堵する。
総司はその傍に斉藤の姿を見つけた。
「斉藤さん…お怪我は?」
「ない。…どうにか生き延びた。一番隊は皆、軽傷を負った者がいるが無事に帰還している」
「…よかった、ありがとうございます」
日頃弱音を吐くことのない斉藤すら、この数日は生きた心地がなかったのだろう。手拭いを渡すと気怠そうに身体の土埃を払った。
「養生できたか?」
「…ハハ、こんな時に私の心配なんて。申し訳ないくらい安穏と過ごしました」
「いや…だったら、良い」
斉藤は少しだけ口元を綻ばせた。
そこへ土方がやってきた。先ほどまでの激情などあっさり消え失せてすっかり副長の顔をしている。
「近藤先生は?」
「先生は今日の昼頃に大坂城へ入られました。先んじて送られた隊士たちも今は城に」
「…そうか。明日は大坂城で決戦だな」
土方の深刻な顔を見て総司はようやく気がついた。
(そうか…まだ終わったわけじゃない…)
土方や食客たち、隊士の顔を見て気が抜けたせいですっかり何もかも無事に終わったのだと勘違いしてしまった。
「…あの、伊庭君には会いませんでしたか?」
「ああ。一緒にここに来るつもりだったが、遊撃隊と合流して、今頃は別の舟で城に入ってるはずだ。俺たちはこの八軒屋の京屋さんの屋敷を借り受けたと伊庭から聞いてこちらにきた」
「なるほど、そういうことでしたか。…伊庭君も無事なんですね」
「たぶんな」
近藤と総司は止めたが、伊庭は怪我を押して浅羽と共に戦場に向かってしまったので心配していたのだ。
土方は英が戻って来たのを見つけて手招きした。
「山崎の具合はどうだ?」
「…あまりよくない。南部先生が診てくれたけれどもうできることは少なくて…おそらくあのまま回復しないだろうね」
「そうか…」
土方は眉間に深い皺を寄せた。彼の悲しそうで悔しそうな表情を見ていると深い事情は聞けずに、総司も口を閉ざすしかない。
そこへ永倉と原田がやって来た。
「適当に部屋を割り振って休ませたら良いか?」
「京屋の女中たちが飯を拵えてくれてるぜ」
新撰組と懇意の京屋は人手が入り用だろうと数名の女中を遣わしてくれていて、隊士たちの着替えや食事、風呂の支度など休息できるようにはからってくれていた。
「…ああ。怪我をしている者は英に処置をしてもらうように伝えてくれ」
「わかった」
二人は隊士たちへ指示を出し、隊士たちは広間から各々移動していく。
総司は土方から「お前の部屋は?」と尋ねられたので、部屋へと案内した。
土方は土埃だらけの服を脱ぎ、浴衣と厚手の綿入れを着込んだ。総司はその様子をぼんやりと眺めていた。
「…なんだよ」
「あ…いえ、なんだかここにいるのが不思議な感じがして…幻かと…」
土方と離れていたのは十日ほどで、その半分は戦だった。どこにいるのか、生きているのか、また会えるのかわからず無事だけを祈っていたが、実際に無事だとわかるとかえって現実味がない。
土方は苦笑した。
「さっきあれほど熱烈なお迎えをしたくせに…」
「あっ、あれは…その、咄嗟に…」
「じゃあこっちに来い」
土方は総司の腕を引いて包み込むように背中から抱きしめた。どくん、どくん、と彼の胸の音が伝わってようやく戻って来たと感じる。
「…山崎は、俺を庇って撃たれた」
「え…?」
総司は突然の告白に驚いたが、土方は続けた。
「淀に入る前、山崎は敵襲にいち早く気がついた。予想外の遊軍がいて…あれがなきゃ皆、やられてたかもな…」
「…さすが、山崎さんですね…」
監察としての能力や勘がそうさせたのだろう。土方だけでなく新撰組の盾になったのなら、山崎としては本望だったのかもしれない。
「実は…相良さんの兄だと言う人がここを訪ねて来られました。先日亡くなったと…」
「…そうか。相良も…」
「はい。兄君に山崎さんにその死を伝えるように頼まれましたが、言えなくて…」
「ああ、それでいい…言わなくても、すぐに会うことになる…」
総司はキツく抱きしめられて振り返ることはできなかった。けれど背中から伝わる早鐘のような鼓動が土方の悔しさと虚しさを伝えていた。
「…歳三さん、休みましょう。明日は大坂城に行って近藤先生と合流しないと」
「ああ…疲れた、湯浴みさえ面倒だ」
「女中さんにもう一組、布団を頼みましょう」
「いい、いらない」
「でも…」
総司はようやく畳の上で休めるのだからと思ったが、土方はそのまま強引に布団に傾れ込み、二人はようやく向かい合って同じ布団の上にいた。
「…子供みたい」
「お前も本当はそのつもりだろう?」
「わ、私は狭かったら休めないだろうと思って…」
「遠慮するな」
土方は総司を引き寄せた。
875
浅羽が再び大坂城に戻ったのは、土方たちが八軒屋に辿り着いたのと同じ頃だった。
既に陽が落ちて城のあちこちには松明が焚かれている。殿軍を務めて帰営し明日の決戦に備えて休む…つもりであったが、大坂城二の丸で起こった火災によって城内は混乱しており、城内から戸板に乗った負傷兵が次々と運び出されていた。
「あの者たちは…火災に巻き込まれたのか?」
浅羽が先んじて帰営していた会津兵に訊ねると、兵は「いいえ」と険しい顔を浮かべた。
「あれは戦で負傷し城内で休んでいた兵です。火災を敵兵の砲撃と勘違いし、自害を図ったと…そのなかには新撰組の隊士もいたと聞きます」
「なんと…」
浅羽は絶句した。将軍の御膝元で戦う兵として足手まといにならないようにしたのだろう…その心意気は武士として誇り高いが、勘違いによって命を落としてしまったことには虚しさが込み上げる。浅羽が言葉なく立ち尽くしていると、
「戻ったのか」
と先に大坂城へ向かっていた佐川が声を掛けて来た。津藩の炸裂弾によって右眼のあたりを負傷し、隻眼のように包帯が巻かれている。
「怪我は?」
「大袈裟に処置されているだけだ。目に問題はない」
「それは良かった…殿は?」
「それが俺も報告に上がろうとしたのだが、今は上様のお傍にいらっしゃるそうだ。その上様はいまは人払いをされていて、簡単にお会いできない」
「そうか…軍議があったのだろう?」
浅羽は周囲に目を向けた。
佐川の説明によると二の丸の火事というハプニングはあったが、上様の号令により士気が上がった兵たちは夜通し戦の準備を進めており、このまま籠城して官軍を迎え撃つことになったのだという。
「明日になれば戦だ。…神保の野郎に余計なことを言わねえように釘を刺したかったんだが、奴の姿が見当たらねえ」
徹底抗戦を主張する佐川と、東帰し立て直しを図るべきだと考える会津公用人の神保は考えが違い、顔を合わせるたびに口論となっていたのだ。浅羽は苦笑した。
「もう戦に決したのだから神保も覚悟を決めているだろう。喧嘩などしては殿のご迷惑になるぞ」
「…わかっている」
佐川は仏頂面だったが、彼は優秀な男で理性的な部分もあり今更神保と揉めるようなことはないだろう。浅羽は「じゃあ」と佐川に別れを告げて歩き始める。会津公の小姓頭としての仕事はなくとも、会津の一兵としてやるべきことは山のようにあったのだが、ふいに立ち止って本丸を見上げた。
(殿の御顔を一度見たかった…)
殿が自分を待っているのではないか…そんな風に思っていたからだ。
暮れ四つ(午後十時)頃。
会津公は本丸にて家臣より戦支度を終えたという報告を聞いた。
「そうか…皆には明日に備えてよく休むように伝えてくれ」
「はっ」
会津公自身は大坂城に留まり続け、戦場に出ることはなかった。しかし会津兵を多く失い苦戦している報告は何度も届き、実際負傷した兵の姿も目に入った。何より砲兵奉行の林親子が戦死を遂げたことは痛手であり、何の策もなく命じられるがままに上様の傍に侍るだけだった自分の立場が心苦しかった。
(だが、それも今日までだ…)
この大坂城での戦となれば上様の制止を振り切ってでも真っ先に出陣し、君恩に報いると決めていた。たとえこの命が果てようとも会津の兵が続くであろう。家康公の時代から続く会津の精神は必ずや次の藩主にも引き継がれるはずだ。
会津公は与えられていた自室に戻り、ようやく堅苦しい羽織と形だけの鎧を脱いだ。そして自然と格子窓から外を眺めていた。暗闇のなか松明があちこちに灯り、人の影が動いている。
(…浅羽は戻ったのだろうか…)
目を凝らしたところで見つけられるはずはないのだが、会津公はしばらく城下を見下ろしていた。
常に上様の傍に侍るように命じられてからは数名の家臣と言葉を交わしただけだ。浅羽は苦戦する同胞を救うため戦場に向かい、殿軍を務めたようでその所在を尋ねても家臣たちは戻って来ていないとの返答ばかりだ。その度に胸が締め付けられた。
(私は明日、死ぬかもしれない…お前の顔を一目見ておきたかったが…)
それは叶わない願いになりそうだ、とため息をついた時
「入るぞ」
と突然、前触れなく襖が開いて驚いた。そんな真似ができるのは
「上様…?!」
この城の主である上様しかいない。会津公は頭を下げた後「どうされましたか」と目を見開いた。上様は腕を組み悠然と会津公の前に立っていたのだ。そしてあっさりと用件を告げた。
「肥後守、私は江戸へ帰る」
「…は…。それは、もちろん薩長を追い返したのちに…」
「今からだ。支度せよ」
上様は有無を言わせずただ一方的に言い放つ。会津公はその言葉の意味が最初は理解できなかった。
「…今から、とは…」
「城を脱し、船に乗るのだ。兵には内密でな」
「……」
会津公はまるで火傷のように、じわじわと身体中に痛みが広がっていくような感覚を覚えた。その痛みの名前は失望と絶望だ。
会津公は声を震わせた。
「いまなんと…なんとおっしゃったのですか…」
「…ほう、聞こえなかったのか?」
「聞こえています!船に乗り、江戸へ脱する。…家臣を置いて、兵を置いて…!?はっ…あまりに私の想像に及ばぬのこと故聞き損じたのかと!」
会津公の両手の拳は、ブルブルと怒りに震えていた。
いつも上様は…大樹公の座に就く前、一橋様と呼ばれていた頃から常に涼しい顔で物事を客観的にとらえていた。よく言えば冷静、悪く言えば他人事。そんな上様に嫌気がさして一時は「これ以上は」と会津へ戻る決意をしたが、世情が混乱し民が惑うなかで己の我儘で職を放棄して逃げ出すことができず、付き従い続けた。徳川の危機には寄り添い、鳥羽伏見の戦にも率先して兵を出して尽くしてきたつもりだ。
けれど上様は会津公が反発するのは当然予想していたのだろう、会津公の反論などまったく意に介していない様子で見下ろすだけだった。
会津公は食い下がった。
「何度も申し上げたはずです!これは勝てる戦だと!兵力の全てを注げばこの大坂城が薩長の手に落ちることなどあり得ぬと…!」
「私にはそうは思えぬ。…我らは巷では朝廷に弓引く賊軍、既に天が見放している。明日から戦をしたところで勝てるかどうか…そもそも、私は朝廷に対し歯向かう意思は露ほどもなかった。それなのにどういうわけか賊名を負うことになってしまい、ずっと不本意な思いをしていたのだ。家臣が私の意に添わぬことばかりしでかして、結果責任だけ負わされるのだからな」
「上様!」
あまりの暴言に会津公は立ち上がり、上様と睨み合った。
確かに物事は予定通りには進まなかった。負け戦が続き、錦の御旗が掲げられたことで賊軍とみなされてしまった。けれど、それを誰が呼び込んだというのか―――誰がそんなことを望んだというのか。
「…っ、でしたら何故、昨日はあのようなことをおっしゃったのです!たとえ敗戦が続いたとて我らには天のご照覧がある、それ故に大坂城で果てると…!兵はそのお言葉を胸に戦地へ向かったのです、先ほどの火事で上様の足手まといになるまいと自害した兵がどれほどいたか…!あれは偽りだったのですか!」
「偽りではない。昨日、発破を掛けねばより多くの兵が死んでいただろう?ただ、昨日と今日で状況は変わったのだ。淀が裏切ったことで津も続いたのだから他の藩も続く。…西国は信用ならぬ、だったら東帰し江戸で再起を果たすのが得策だ」
「でしたら兵を引揚るべきでは!」
「お前のような頑固者ばかりの会津や桑名を説得するのは面倒だ。行動で示すほうが合理的だろう」
「…っ」
「肥後守、言いたいことがあれば言えばいい。ただし、板倉と永井は東帰に同意したがな」
上様は挑発するように促した。けれど何を言ったところで上様の心に響くことがないのだと十分に思い知らされていた会津公は、悔しさで唇を噛み項垂れるしかない。
「…出陣するとおっしゃったのは…偽りだったのですか…」
「そういわねばあの場は収まらなかっただろう?」
「では、明日の戦は…!」
「永井が残るそうだから任せる。きっとうまくやるだろう。…肥後守、私は最初から言っていただろう?『勝手にせよ』と」
会津公は顔を上げた。感情に任せ思わず拳を振り上げたが、それは一瞬のことで自らの理性によってすぐに解かれる。身体中を支配するような徳川への忠誠心が許さなかったのだ。
上様は
「殴れば良いものを」
と苦笑した。
(ああ…すべて…すべて私の思い違いであったのだ…!)
上様はずっと『勝手にせよ』と口にしていた。当初より上様にとってこの戦はすべて家臣の暴走であり、自分とは関係のない私戦だと割り切っていたのだ。水戸で生まれ帝の血を引く上様にとって『朝敵』『賊軍』と蔑まれることは耐えられない苦痛であったが、それに抗うために軍を動かすようなことは考えず、全てを投げ出してしまうことを選んだのだ。
上様の『勝手にせよ』は『任せた』ではなかったのだ。
(私が上様の本心をわかっていなかった…それがすべてだ…)
会津公は力無くその場に片膝をつき、頭を下げた。
「私は…上様の御考えには承服いたしかねます。決して、私には理解できませぬ…」
「ふ…相変わらず強情な。理解せずとも良い、ともに江戸へ来い」
「私はここに残ります。どうか上様は江戸へ…」
「お前は連れていく」
会津公がどうにか振り絞った言葉さえ、上様は遮った。
「何故…!」
「お前をここに残せば会津はお前のために決死の戦を起こすだろう。会津と薩長の戦だとしても、朝廷から見れば徳川の戦だ。これ以上、大事にしては面倒だ」
「…っ、私は残ります!家臣を置いて逃げられませぬ!」
「許さぬ。私の命令だ…聞けぬのか?」
上様はまるで暴君のようだった。
(なんと卑劣な…!)
会津の忠誠心を盾にしながら、同時に必要あれば利用する。決して会津が裏切らないことを知っているからこそ、こんな時だけは大樹公として命令する。上様の眼差しは昏いまま揺らがない。
会津公はその場に両手をついた。何を口にしたところで上様の考えは変わらず、凍てついた氷が跳ね返ってくるだけだ。会津公は心と身体が鬩ぎ合いながら打ち震えていたが、どうしても『聞けない』とは答えられなかった。
―――大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
(会津の家訓は、私の負の楔だ…)
真っ白になった頭の中に、散々繰り返してきた会津の家訓が早鐘のように鳴り響いていた。その音は己の感情をかき消していき、悔しさと苦しさで涙が溢れる。
項垂れた会津公がもう何も言い返さないと悟ると、上様は「すぐに支度せよ」と冷酷に言い残して去っていった。
「…っ、う…っうぅ…」
吐き気にも似た嗚咽を漏らした。
家訓に身体を縛られて、上様の昏い瞳に似た海に引きづりこまれるような恐ろしさに身悶えする。
「…浅羽…あさ、ば…」
(私はどうしたら良い…)
876
七日未明、上様をはじめとした十名ほどの幕閣が大坂城後門から城を脱出した。城の衛兵には『小姓の交替である』と告げ身を隠しながら八軒家から小舟に乗り、天保山沖の開陽丸を目指して川を下ったのだった。
近藤が城に残った若年寄の永井からその話を聞いたのは、夜が明けた早朝のことだった。上様だけでなく、筆頭老中である板倉や酒井忠淳、旗本の目付や外国奉行など数名がこぞって姿を消し、城内は大混乱に陥っていた。
「……信じられませぬ」
近藤は怒りや驚きを通り越して、拍子抜けしてしまっていた。今朝目が覚めた時、『ついに決戦だ』と意気込み身なりを整え、隊士たちを激励して揚々と馳せ参じたのが馬鹿らしくなる。守るべき主君がもういないのに、まるで滑稽な道化師になった気分だ。
永井は話を続けた。
「昨日、上様は軍議の前にはすでに東帰を決断されていた。けれど幕閣たちの反発があまりにも大きく説得しきれぬと匙を投げられたのだ。…私は上様から供を命じられたが、辞退した。兵を置いて逃げ延びることなどできないからな」
「永井様は東帰を止められなかったのですか…」
「…すまない、私は速やかに江戸へ帰り、落ち着いて善後策を巡らせることは選択肢として悪くないと思っていた。すでに大坂城周辺の藩は朝廷や薩長に靡き、いつ裏切るのかも分からない状況で、長期的な戦は得策ではない」
「…」
長い付き合いで信頼する永井すら本音では東帰を推していたのだと知り、近藤はやはり戦場ににいなかった自分が大局を見誤り空回っていたのだと思い知る。誰を責めるわけにもいかない状況に脱力しながらため息をつき、腕を組んだ。
「しかし…兵を置いて去るなど、将軍のなさることではありますまい。江戸に戻られたとて諸侯より非難されるはずです」
「…私もこのやり方は咎められるべきものだと思う。もちろん江戸へ向かった幕閣たちも承知して同行した者ばかりではない。特に肥後守殿や越中守殿を強引にお連れになってしまった…会津兵と桑名兵は大混乱だ」
上様は会津、桑名兵の徹底抗戦を警戒し、彼らを骨抜きにするために主君を引き連れて行ってしまった。会津公は最後まで反発したそうだが、それでも『将軍の命令』には逆らえず随行せざるを得なかったのだ。
「…容保様ならそうなさるでしょう…」
どれほど感情の鬩ぎあいに苦しんだのか…会津公の気質をよく知っている近藤は同情を禁じ得ない。戦に臨む気持ちは誰よりも強かったはずだ。
永井は主君の残した仕事を果たすのだという。
「結局、城に残されたのはこの戦の指揮をとった竹中殿や松平豊前守、塚原副総督、大目付の滝川殿だ。上様は敗戦の責任をとるように仕向けたのだろう。昨日まで彼らは薩長に強硬な姿勢を取るべきだと話していたが、主君が去った城で戦うわけにはいかぬ。順次軍は解散、兵は帰藩させる。幕臣や陸軍は上様を追って江戸へ向かうべきだろう」
「…城は」
「官軍へと引き渡すことになるだろうな。…私は最後までそれを見届けるつもりだ。近藤はどうする?」
上様は供を連れて敵前逃亡をした―――その事実に愕然とした。それでも上様を追って江戸へ向かうと即答すべきだったのかもしれないが、今の近藤にはその気力はなかった。
「…土方が戻ってから、相談します」
永井は即答しない近藤を責めずに「そうした方が良い」と頷いたので、近藤はそのまま退席した。
近藤は城内を歩く。もぬけの殻となった本丸は静まり返っているが、対照的に城下では兵たちが混乱し、すでに城を出ていく者や指揮官に問い詰める者、怒り嘆き項垂れる者…当惑する兵たちは散り散りになりつつある。
(こんな結末なら…隊士たちが命を落とすことはなかった)
殿を何度も務め、味方を逃すために死んでいった仲間たちや負傷し再起できない同志を思うと、やりきれない。昨日、火事を目撃して自害した隊士たちは今何を思うのだろうか。
(俺は怒りたい。それなのに…今は)
右肩が妙に痛む。けれど、それ以上に胸が苦しい。信じて命を賭すと決めたのに裏切られ、この残酷な結末を受け入れなければならないのだ。
(…けれど俺の悔しさなど、歳たちには及ばぬ)
実際に戦場に立った彼らがこの結末をどう受け止めるのか。
近藤は深いため息を一つついた後に、重たい身体を引きずるように力強く歩き始めた。
土方は斉藤や永倉、原田たちと共に隊士を引き連れて八軒屋の屋敷を出た。もちろん大坂城での決戦を覚悟していたのだが、城内に入った途端その異様な雰囲気に気がついた。
「何て言うか…もう終いか??」
原田はきょろきょろと辺りを見回す。
兵たちはまばらに屯し、迎撃のために配置されている大砲は一つもない。荷車に武具を積み込みいそいそと城を出ていく兵もいる。雑多な様子はとてもこれから薩長を迎え討つという雰囲気ではない。むしろ、
「…まさかすでに降伏したとか?」
もうお開きになった宴にようにがらんとしていたのだ。
永倉の言葉に原田は「ゲェ!」と悲鳴をあげる。土方は
「いや、薩長軍はいない。きっと何かあったんだろう…」
と困惑して城内に足を進めた。隊士たちは困惑しながらその後に続く。
兵の流れに逆らいながらしばらく石階段を登ると、『會』の旗の元に会津藩兵が集まっているなかに、佐川の姿を見つけた。彼は怪我のために離脱して先に大阪城に入っていた。
「佐川殿、ご無事でしたか」
「あぁ…土方殿。新撰組の皆さんも…」
「そのお怪我は?」
「いえ、大したことはありません…」
いつも淡々と語る佐川だがいまは歯切れが悪い。よほどの状況だと察して土方は訊ねた。
「何かあったのですか?」
「…まだ聞いていませんか?」
「何も。昨晩八軒家に到着し、いま城に上がったところです」
「そうですか…」
佐川は躊躇うように一度視線を落としたが、隠しても仕方ないと小さくため息をついた。
「…実は、昨晩…上様が僅かな供を連れ秘密裏に大坂城を脱出されました」
「な…っ?」
土方は唖然とした。おもむろに情報通の斉藤に視線を遣るが彼も初耳だったようで瞳孔が開いている。もちろん永倉や原田、隊士たちにとっても寝耳に水の話で動揺は瞬く間に広がった。
土方はとても信じられなかった。
「いや、そんなまさか…。大坂城で薩長と決戦…と決まったのでは…」
「ええ、上様も出陣するとおっしゃり、指揮官や兵は今日の戦に備えていたはずです。けれど上様は昨晩のうちにすでに城を出て軍艦に乗り、海路で江戸へ向かったと」
佐川は吐き捨てるように語る。
(まさか全部投げ出したっていうのか…!)
上様…一橋公について土方はなにかと懐疑的にとらえていたが、まさかここまでとは予想だにしなかった。
あまりに急転直下の出来事に導火線の短い原田ですらぽかんとしてあまりの事態を飲み込めず、
「…な、何かの冗談か?だって、兵を残して逃げたってことだよな?」
「まさか敵前逃亡か…?しかも人目を避けて…」
永倉は表情が固まっていた。隊士たちは口々に「どういうことだ?」「何が起こった?」と不安を吐露して顔を見合わせるなか
「はは、いっそ可笑しな噂話じゃないっすか?」
近くに居た野村が何とか笑い飛ばそうとしたものの、佐川は深刻な顔で首を振った。
「いや、噂話ではない。永井様から事の経緯と軍の解散を告げられた。それに殿も上様とともに…我々に一言もなく城を出てしまいました」
「会津公も?」
「…詳しい事情は分かりません。ただ、殿のお姿がなく、肌身離さず御持ちだった先帝の御宸翰も見当たらない。…我々が置いて行かれたことは間違いない」
佐川は声を震わせていた。悔しさと怒り、混乱と疑問…様々な感情が混ざり合い、佐川自身もまだ整理がつかないのだろう。
土方は「浅羽さんは?」と訊ねた。枚方から守口のあたりで一度は合流したが、先んじて大坂城へ戻ったはずだ。けれど佐川は神妙な表情で腕を組んだ。
「わからない。昨晩、言葉を交わして別れたが…今朝から姿が見当たらないので、探しているところです」
「そうですか…」
「…とにかく、上様が不在で戦などできるはずがない。士気を削がれた兵はすでに帰藩し始めています。おそらく早々に薩長にこの話が伝わり近々この城も占拠されるでしょう。…俺たち会津は一度宿営地に戻りますが、おそらく殿を追って江戸へ向かうことになるでしょう。…新撰組も身の振り方を考えるべきだと思います」
「…わかりました」
佐川に率いられ、気落ちして城を出ていく会津藩兵を見送りながら、土方は次第に状況を飲み込み始めていた。
上様がこの城を去った―――つまりこの戦は終わった。兵を置いて逃げ出すという最も臆病でやりきれない方法で最悪の結末を迎えたのだ。
幕臣として、いや徳川の一兵卒として、武士としてこれほど虚しいことはない。
「ハ…」
土方は思わず吹き出してしまった。
この数日、砲撃から逃げ延び血を流し犠牲を出しながらここまで逃げ延びたというのに…これまでの戦がすべて茶番のようだ。
(笑える…いや、笑うしかない)
「…副長?」
傍らにいた斉藤に薄く笑っていたのを見られたのだろう、彼は怪訝な顔をしていた。
「いや…どうしようもないな…」
「…我々も帰営しますか」
「どうするかな…」
土方は目の前に大きく聳え立つ、城を見上げた。淀城など比べ物にならない天下の名城…実は、幼い頃何度も読んだ軍記物の光景に自分も一軍を率いる身として立つことができるのだと、少し童心に戻り喜びを感じていたのだ。
(だがすべて、泡沫の夢に過ぎなかったか…)
土方だけではない、隊士たちも互いに顔を見合わせながら困惑し皆がこれからの新撰組の行く末を案じていた。
せっかく命からがらボロボロの船に乗り込んで荒波を越えて生き延びて来たのに、辿り着いた先には誰もいなかった―――誰も。
(俺たちは…何のために…)
長くて険しい道を歩いてきたのだろうか―――。
「歳!」
土方は空耳かと思った。戦場で何度もその声を聴いた気がして、でもいつもそこにはいなかったから。けれど今は振り向くとこちらに駆けこんでくる近藤の姿が確かにそこに在った。怪我をしている右腕を気に留めず、まるで抱き着かんばかりに駆け寄ってきてもう片方の手で土方の肩を抱いた。
「ああ、ああ、よかった…!無事だな、無事なんだよな?!」
「…かっちゃんこそ、怪我の具合は…それに上様が…」
「なぁにこんな怪我、すっかり忘れていた。とにかく気難しい話は後だ!…皆…皆、良く戻って来た!ご苦労だった!」
近藤は隊士たちの顔をゆっくり見まわして、涙目でうんうんと何度も頷いた。そして周りに響くような大音声を上げた。
「新撰組の戦いぶりは耳にしている。皆、立派に戦ってくれた!ここまで戻って来てくれた!ありがとう!」
近藤のねぎらいには嘘も邪心もなく、ただ再会を無邪気に喜ぶ子供のようにも見えた。それは現状に困惑する隊士との温度差はあったものの、皆が少しだけ救われた気持ちになっただろう。
(…何もないわけじゃないな…)
失くして、奪われて、消えてしまうばかりの戦を経験し、こうしてまた裏切られることになってしまったとしても。
(俺たちは自分の為すべきことはした)
期待した成果を得られなくとも、新撰組として徳川に殉じて戦い続けたことは、近藤の言う通り立派であったことは間違いないのだ。
近藤は永倉や原田に声を掛けた後、隊士たちの輪に入っていく。一人ひとりをねぎらい褒めたたえ、再会を喜ぶことで隊士たちのすり減った心は一気に慰められることだろう。
(かっちゃんだって本当は現状をわかっている…)
それでも大袈裟に再会を喜び、熱の入った激励で自然と隊士たちに囲まれた。軍が落胆して解散するなかで再会の歓喜に沸く様子はこの城では少し浮いていたが、それでも構わない。
(俺たちはかっちゃんのために、新撰組として戦っただけだ)
「近藤局長は、上様よりよほど上に立つ資質がおありです」
「…ああ」
傍らにいた斉藤は小さく微笑みながら呟いて、土方は隊士たちを目を細めながら眺めていた。
877
隊士たちを二の丸に待たせ、土方は近藤とともに本丸へと向かっていた。
近藤に昨日から今朝までの動きを聞き、土方は「そうか」と腕を組んだ。佐川から聞いていた話と大差なかったが、火事が起きたせいで負傷兵が自害したことは初耳だった。
近藤は隊士の前では気丈に振る舞っていたが、いまは本音を隠すことはなかった。
「俺はひとり、またひとりと死んでいく兵を見た。容保様が必死に止められどうにか収まったが…足手纏いにならぬように死を選ぶことは彼らの矜持だったはずだ。それなのにこんなことになってしまうとは、どれほど無念か…」
「…もしかしたら、それが上様が戦を放棄したきっかけかもしれないな。あまりに抗戦派の力が強く皆が玉砕する覚悟だった…上様にとっては気乗りしない不本意な戦、けれども部下は次々と躊躇いなく自分のために死ぬ。それが耐えられなかったのかもしれない」
「…意外だな、歳がそんなことを言うなんて」
近藤は少し驚いていた。鬼副長と呼ばれた土方なら上様の逃亡について「上に立つ資格なし」と糾弾すると思っていたのだが、あっさりと受け入れて逃げた上様に同情すらしていたのだ。
土方は苦笑した。
「何となくな。もちろんやり方は気に入らないが、俺は戦場であまりに…人の死を見過ぎた。上から何の命令もなく自分ですべてを判断しなければならない…俺の一つの判断で隊士が死ぬ。そう考えた時、俺も何もかもを放り出したくなった。俺の役回りじゃないし、覚悟なんてしてなかったからな」
「…歳…」
「だが、そうしなかった。新撰組は俺のものじゃない、かっちゃんのものだ。預かっているものを返さなくては…と、その一心だった」
土方にはそれがあって、上様にはそれがなかった。将軍の座にありながら自分の兵がいない。心から信頼できる家臣がいないなか、思い通りに事が運ばない不甲斐ない状況と不条理に耐えかねてこんな行動に出てしまったのではないか。
近藤はまだすべてを受け入れ難かったが、土方の言葉で上様が孤独であったことは間違いないと思った。
「上様のご本心はわからぬが…そうだな、まだ江戸で再起すればいいんだよな」
「ああ、東帰して立て直すというのは悪くない。間近で淀と津に裏切られて確かに士気は削がれ、次に誰が裏切るのかと疑心暗鬼になった。江戸なら徳川の結束が強い…一致団結して戦に向かうなら勝つ見込みがあるだろうし…」
「…」
いつの間にか近藤がじっと土方の顔を見ていた。
「…なんだよ」
「いや、心強いなと思ってな。…俺は徳川家臣として城に呼ばれ、幕閣の前で口では堂々と啖呵を切ったが、実際刀を振るって戦場へ向かうことも、上様をお引止めすることも…何もできなかった。結局歳や隊士たちがいなければ俺は何者でもないんだ。だから皆が無事に帰って来てくれて、俺は新撰組の局長に戻れたような気がする」
「…何言ってるんだ、かっちゃんは立派な直参の家臣だろう」
「ああ。でもお前たちがいないと俺の言葉や存在には何の意味もない。…この先は例えこの腕が治らなくとも俺は新撰組を離れない。次の戦は必ず俺が指揮をとるし、隊士を守る。今度はお前一人に任せずに俺が決断する」
「…」
戦場に近藤がいない心細さは土方も感じていた。近藤の怪我はもちろん気がかりだったが、熱く強い眼差しで語る覚悟はもう誰にも止められないだろう。
「わかった。だったら次の戦までに治せよ」
土方がそう答えると近藤は嬉しそうに笑って「任せろ」と頷いた。
二人は今後について永井に相談するために本丸へ向かっていたところ、突然、
「べらんめぇ!!」
と懐かしい言葉と怒鳴り声が聞こえて、そちらへ視線を向けた。声の主である男は本丸から憤りを隠さずにズカズカと出てきた。そして近くの狭間に顔を埋めて
「アーーーッ!」
と発散するように叫んだ。その大音声は城内どころか、城外まで響きわたる勢いだ。
感情任せの行動だけでなく、その風貌も目立つ男だった。洋装に身を包み短髪、口に髭を蓄えて見た目は周囲から浮いている。そんな男が周りの目を気にせず怒鳴り散らしているのだから注目されていたが、
「東帰だかなんだか知らねぇが、こんな馬鹿にされて黙っていられるかよ!」
と大きな独り言を口にして、立ち尽くす近藤と土方の前にやってきた。
(誰だ…?)
土方は顔を知らなかったが、近藤は
「え…榎本艦長では?何故こちらに?」
と声をかけた。榎本と呼ばれた男は近藤に気がつくと「ゴホン!」と大きな咳払いをしてとりあえず感情を落ち着かせたようだ。
「…近藤殿。すまないが、人手を借りても良いだろうか?」
「え?ええ、構いませんが」
「お聞きになりましたか?どうやら上様はその身おひとつで出て行かれ、この城を易々と薩長に明け渡すおつもりのようです。そのご判断の良し悪しは我々のような末端が考えるべきではない、いやむしろ考えることすら烏滸がましいとお考えかもしれません」
「は、はぁ」
「しかしだからと言って、敵にくれてやる金、武器弾薬などあるはずがない。いつ薩長が攻め込むかわからぬいま、すぐに天保山沖の船に積込み、江戸へ運ぶべきです。江戸での再起をお考えならば当然!」
榎本は時折上様への嫌味を混じえながら、早口で捲し立てる。近藤は圧倒されていたが、土方は
「その通りです」
と頷いた。榎本の言う通り、兵が去り城を明け渡す前に武器弾薬などを次の戦に備えて運び出す必要があるだろう。城から上様が逃げたことはすぐに城外に伝わってしまうのだから、早いに越したことはない。
榎本は「ほう」と土方へ視線を向けた。そして手を差し出して握手を求める。
「初めましてだな。私は開陽丸艦長、榎本武揚。…フッ、いやこうして置いてけぼりに遭ってしまったのだから、名ばかりの艦長ではあるが、宜しく頼む」
やや自虐的ではあったが、榎本の眼差しはその城にいる誰よりも強く眩しい。
(握手は好かないが…)
土方はその眩しさに惹き寄せられるように手を伸ばしていた。
「…私は新撰組副長、土方歳三です」
そう名乗ると榎本は微笑んだ。
その後、榎本の指示で大坂城に残された銃器や刀剣などを運び出し、勘定方を巻き込んで城内にあった十八万両もの金を持ち出して、港に近い信用出来る屋敷に移した。順次、天保山沖に停泊している輸送船・順動丸と翔鶴丸へ積み込むこととなった。
作業を終えて土方は近藤や城内の隊士とともに一旦、八軒家の屋敷に引き揚げることにした。迎えた総司は新撰組の早すぎる帰還に驚いたが、それ以上に将軍自らがすでに脱出してしまったことには唖然としてしまった。
「そんなことが…」
「上様が大坂城を出たことはすでに巷で噂になっているようだ。群衆が押し寄せているそうだから、榎本殿の判断は正しかったな」
近藤は右腕の怪我を庇いながら羽織を脱いで火鉢の前に腰を下ろす。土方も同じようにしたので、総司は遅い夕餉を二人の前に差し出した。
「その榎本殿はどういう方なんです?」
総司は土方へ視線を向けたが「俺は知らない」と近藤を見た。
「あの開陽丸の艦長だよ。もとは幕臣で昌平坂学問所、海軍伝習所で学んだ後、オランダへ留学して戻ってきたばかりそうだ。昨年末、軍艦を率いて江戸からやってきて俺は何度か京での軍議で顔を合わせたことがあるんだ。海戦について詳しくてなぁ…今回の戦でも阿波沖で薩長の船を追い払ったと聞いているよ。優秀な方で加えてあの風貌で良く目立っていた。まあ、今日は随分お怒りのご様子だったなぁ」
近藤はハハッと思い出し笑いをした。
大坂城で邂逅を果たしたあとも、ずっとあれやこれやと愚痴を続け、時折沸騰するように吐き出しながら運搬作業の指揮をとっていた。合理的で理知的だが、感情が勝る部分があるようでどうにも今回のことは納得できないようだ。
土方は汁物を啜りながら苦笑した。
「それはそうだろう。自分が艦長を務める船に、不在の間に将軍が乗船して勝手に出航していたなんて格好がつかない」
「軍議だと呼ばれて、入れ違いになってしまったんですかね」
「いや、どうだか…。あの聡い上様が敢えて仕組んだのかもな」
頑固で賢い榎本が自分の言うことを聞かない人物であると知っていて、遠ざけたのかもしれない。
いつもなら近藤は土方の言い草を嗜めるところだが、そうやって茶化すことでしか現状を受け入れられない者はたくさんいるだろう。近藤は何も言わずに、握り飯を頬張った。
総司は二人の食事の様子を眺めながら訊ねた。
「…それで、これから私たちはどうなるんですか?」
「さあなあ…。多くの兵は紀州へ向かったと聞いている。仮にも親藩だ、薩長へ突き出すような真似はしないだろう。俺たちは陸路で江戸を目指すしかないが…」
「榎本殿には船に乗ればいいと許可をもらった」
「へえ、海路で江戸ですか?」
総司だけでなく、近藤も初耳だったようで「そうなのか?」と驚いた。土方は箸を片手にふっと小さく笑った。
「こっちは武器弾薬、金を持ち出すのを手助けしたんだ。今回のことは貸しだろう?だから荷物の片隅で構わねぇから江戸に一緒に連れて行ってくれと交渉した。…俺たちは殿軍として多く負傷者を出したんだ。それくらいの褒美があってしかるべきだろう?」
「ハハ、歳は抜け目ないな。流石だよ」
「榎本殿は二つ返事で了承してくれた。あの人は少し幼稚なところがあるようだが、話が分かる」
「歳がそんな風にいうなら、信用できるなあ!」
得意げな土方と、穏やかに微笑む近藤。
ほんの少し前までなんてことのない光景だったはずなのに、二人が並んで食事をとる姿が総司にはなんだか無性に懐かしく、有り難いものに思えた。
総司は空になった近藤の茶碗を取って、「お代わりを貰ってきます」と部屋を出た。目尻に溢れな感情を指先で拭いながら、不意に空を見上げるとカラリと冷えた夜空に星が瞬いていた。
「良い日だな…」
将軍がいなくなって、薩長は迫っていて、町は混乱しているけれど、総司にとっては束の間のことだとしても最良の日のように思えた。
878
新撰組の江戸への出立は、明日の九日に永倉と原田が率いる本隊が『順動丸』に乗り込み、近藤と土方、そして総司のような怪我人や負傷者を乗せた『富士山丸』が翌日の十日に出航することで決まった。ほんの少しの暇ではあるが隊士たちは各々身体を休め、怪我を癒し、身支度を整える。
右腕を吊った近藤は土方とともに大坂で世話になっている京屋忠兵衛の元へ密かに別れの挨拶に向かい、新撰組が屯所としている屋敷に戻って来た。ちょうど庭を散歩していた総司は二人を出迎えた。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま。…京屋さんに酒樽を頂いたよ、隊士たちに振る舞ってほしいとな。最後の最後まで世話になりっぱなしだ」
近藤は客間で腰を下ろしながら穏やかな表情を浮かべていた。
二人は挨拶とともに、これまで京屋に借りていた借金を返しに行っていたのだ。壬生浪士組時代から縁あって支援してくれていた京屋は「返さんでええ」と固辞したようだが、近藤の頑固さには勝てずに折れて代わりの餞別として酒や菓子、着物の類まで沢山持たせてくれたのだという。京屋は金と人脈の支援だけでなく、近藤と深雪、孝を繋いでくれた恩人でもあった。
「良い方に巡り会いましたね」
「まったくだ。手のひらを返して賊軍と蔑む輩も多いが、京屋さんは誠の真心で接してくださった。御恩は返しきれぬ」
近藤は早速、総司宛てに貰ったという菓子を広げた。総司は御相伴に預かるが土方は「京屋さんで十分食べた」と茶だけ飲んでいる。近藤はしばらくは機嫌よく菓子をつまんでいたが、一通り京屋との思い出に浸った後にふうとため息を付いた。
「朝廷はついに上様へ追討令を出されたそうだ。薩長は官軍として揚々と江戸へ向かい、戦を起こすだろう。上様は江戸で再起を図られるはずだと永井様はおっしゃっていたが…」
「あんまり期待しない方が良い。兵をごっそり置き去りにして江戸へ帰っちまったんだ。前代未聞なことを平気でやる御方だからな」
土方は淡々と吐き捨てたので、近藤は少し呆れたように「もう言うな」と制する。皆口に出さないだけで本音ではこれからの上様の舵取りについては不安を抱いているのだ。
近藤は
「小姓たちはどうしている?」
と話を変えた。
「英さんの手伝いをしながら、合間を見て稽古を積んでいますよ。鉄之助は相変わらず黙々とやってますけど、銀之助は暇あれば書物を読み耽って、泰助は…」
総司は言葉に詰まった。
少年たちは彼らなりに新撰組の力になりたいと働き続けている。鉄之助と銀之助は戦を経て思うところがあったのか眼差しが変わったが、泰助だけはまだ戦場に心を置いてきたように虚ろな表情を浮かべる時がある。
「…泰助には、荷を負わせすぎました。源さんを看取って、その首を持ち帰るなんて…あの齢の子にさせるべきことではありません」
「ああ…俺もそう思う。江戸に戻ったら、松五郎さんに相談しよう。…いいだろう、歳?」
土方は少し目を伏せながら「ああ」と言葉少なく頷いた。身内贔屓であるとしても幼いころから知っている泰助のことを思う気持ちは三人とも同じだったのだ。
「…よし、俺は部屋でお孝に宛てて文を書いてくる」
近藤は席を外す。
すると入れ替わるように山野がやって来た。
「失礼いたします。あの…土方副長にお目通り願いたいという女が来ておりますが…」
「女?」
「はい、お静という者で名を伝えればおわかりになると…」
山野がその名前を口にすると、土方はすぐに表情を変えてすぐにここに通すようにと伝えた。ほどなくやって来たのは旅姿の中年の女で、総司には見覚えがなかった。
「土方先生、ご無事で何よりでございます。あっという間にこんな戦になってしもうて…江戸へ向かわれるとお聞きして勝手ながら参上いたしました」
「さすがに耳が早いな。…都の様子はどうだ?」
「まるで天地がひっくり返ったようどす。あちこちに薩長の兵が闊歩して…二条城もすでに手に落ちはったと」
「そうか…」
静はちらりと総司の方へ目を向けた。
「もしや沖田先生どすか?お初にお目にかかります、うちは土方せんせのもとで働かしてもろうとった者どす」
「…新撰組の協力者ということですね?」
「へえ」
静は愛嬌のある笑みを浮かべたが、その眼差しはあまり微笑んでいるようには見えなかった。どこにでもいそうな風貌でありながら底知れない雰囲気は確かに『協力者』の肩書に相応しいのかもしいれない。静は再び土方へ視線を戻した。
「不動堂村の屯所は接収され、町ごと焼き落ちた伏見は悲惨どす。都から街道を避けて大坂に来ましたが道中あちこちで亡骸転がって…薩長は慈悲の心のう、命乞いする生き残りを殺してます。…戦に負けるちゅうことがこない悲惨で、虚しいものやと思い知りました。…うちもここらへんで手ぇ引かしていただきます」
「ああ…今までご苦労だった」
「うちの方こそ」
土方の労いに静は深々と頭を下げたあと、話を変えた。
「山崎せんせ、酷い怪我を負われたそうどすな。今は…?」
「時折意識を取り戻すが…もって数日だろうと言われている」
「そうどすか…せやったらすぐに相良はんとあの世で会えるかもしれしまへん。ようよう一緒になれますな…」
静は呟いて睫を伏せた後、もう一度顔を上げた。
「実は先ほど、相良はんのご実家に足を運んでおりました。もちろん新撰組に関わりのある者やゆうことは伏せて、あくまで隣人の誼で手ぇ合わせに。そしたらお父様もお兄様も都に相良はんがおった頃の話を聞かしてほしいとおっしゃって…まあほんまに話せることは少ないんどすけど、色々な職を転々とされながら慎ましい暮らしを送っとったと伝えたら、安堵されてました。なんやご実家とは疎遠やて聞いてたけど、案外そうでもなかったんやとうちの方安心したくらいで」
「そうか…」
「それで、相良はんの死に際のお話もお聞きして…山崎せんせに伝えた方がええ思い、足を運んだんどす。会わせていただけますでしょうか?」
「山崎は耳が聞こえてるかわからない。それに…相良が死んだことは伝えていない」
「ええんどす。聞こえへんでも…生きてるうちにお話しした方がええこともあります」
静の頼みを受けるべきか、土方は少し迷っているようだった。瀕死の状態で親友の死を知れば何もかも手放してしまう気がして気が引けたのだ。しかし総司は
「是非伝えてあげてください」
と頷いた。
「総司…」
「山崎さんと相良さんがどのような間柄かは知りませんが…私なら生きているうちに伝えてほしいと思いますから」
「…」
土方は複雑な顔を浮かべたが、「あっちだ」と静を山崎の元へ案内した。
静は怪我を負って青ざめたまま眠る山崎を見て「ああ…」と嘆くような息を漏らし、ゆっくりとその傍らに膝を降ろした。土方と総司は部屋の隅で見守りながら静が発する言葉に耳を傾けた。
「…山崎せんせ、うちどす。わかる?お静どす。まあこないなひどい怪我して…もう、死んでまうんどすか?」
深く瞼を閉じた山崎は何の反応も見せない。虫の息ともいえる小さな呼吸を繰り返しているだけで、その耳に届いているのかも不確かだ。けれど静はまるで眠る我が子に語るように続けた。
「うち、あんたに意地の悪いこと言うて…後悔はしてまへんけど、そやけど言い忘れたことある思て。…前に、京におった頃の話や。相良はんはよう自分の人生から逃げ続けとった言うてました。裕福な商家の次男坊…うちからしたら気楽な暮らしができる思うけど、相良はんはそうやない。あんたもしってる通り、真面目で素直やさかいその家に生まれたからてその道に甘んじる自分が許せへんかったんやろう。せやから自由奔放に生きるあんたが羨ましかった…そやさかい一緒に来た、たとえ家を裏切っても、あんたと生きたかった…あんた、本当は知ってたんやろう?」
静の問いかけで、山崎の眉がピクリと動いた。その様子を見て静は穏やかに微笑む。
「あんたは自分の勝手に巻き込んでもうた思てるかもしれへんけど…相良はんはそうは思てへん。むしろあんたと一緒に新しい人生を歩むこと喜んどった思う。うちはもう少し早うあんたが相良はんの気持ちに気ぃ付いてくれたら思うとったけど…こればっかりは、しゃあないな」
「…」
「…兄君、言うてましたえ。あんたが勝手に別れも言わんと相良はんを実家に帰して…相良はん、最初は驚いて受け入れられへんようやったけど、本音では安心していたやろうと。一人で死なんで済んだ…そやさかいあんたに感謝してると伝えるように言付かりました。それから…ずっとあんたのこと待ってるって、言うてたて。ずっと、ずっと…あんたのこと待ってたって」
静の言葉で山崎の瞼がビクッと震えた。そしてゆっくりと薄く開いたあとに傷だらけの指先が這うように震えながら動いて、静の袖を引いた。
「直は…、死んだ…んか…?」
「…」
「…三途の川で、あいつの後姿を見た…気が、したんや…」
静は少し息を吐いた後に口を開いた。
「相良はんは先に逝った。苦しまず…家族に看取られたそうや」
「そうか…やっぱり…」
山崎はあまり悲しそうな顔をしなかった。相良と別れた時から覚悟していたのだろうし、自分も瀕死であることを理解していたからだ。むしろずっと孤独に耐えて来た相良が家族のもとで穏やかな結末を迎えたという安堵感と、もうすぐ会えるという満たされた気持ちになったようだ。
「…山崎せんせ。うちがいいたかったんはな…あの世で相良はんに会えたら、もう離したらあかん。あの子にこの世でできへんかった幸せなことを教えてやってや。…あの子はうちの息子みたいなもんやからな…」
山崎はふっと口元を緩ませたが、傷が痛んだのかすぐに顔を顰めた。静は袖を掴んだ山崎の手を握り、優しく摩る。
「頼んだで」
「…ああ…」
静の願いを受け入れて、山崎はまた力尽きたようにふっと意識を手放して小さな吐息を繰り返して眠り始めた。静はゆっくりとその手を置いて掛布団を整え、改めて土方と総司の方へ身体を向けた。
「…おおきに。うちも肩の荷がおりました。…なんや、相良はんからようこの人の話を聞いていて、妙に情が沸いてしもうて…まるでちっとも家に帰って来んドラ息子みたいな気ぃがして、ついお節介やいてしもうて」
「…助かった。相良の死を山崎に伝えるべきかどうか、悩んでいた」
静は「うちも迷いましたけど」と眠る山崎に視線を向けた。
「あの世で死んだら会える…うちもそうであってほしいと思いますけど、そんなんは生き残った者のただの願望やと思います。せやから、この世に残った思いはこの世で伝えなあかん。未練にならんうちに…うちはそう思いますえ」
万感に満ちた静の表情は、妙に総司の目に焼き付いた。
879
時折小雨の降る寒い一日が終わろうとしている。
明日、新撰組本隊は永倉や原田が率いて負傷者より先に出立する予定だ。船旅を前に京屋からの酒樽が振舞われ、隊士たちは出立前のささやかな宴を開いていた。近藤は痛みをおして隊士たちと酒を飲みかわし、永倉や原田が気落ちする隊士たちを励まそうと率先して酒を注いで周り、歌い踊る。隊士たちは空元気には違いなかったが、新撰組の江戸への凱旋となるのだから胸を張るべきだ…そんな声が聞こえていた。
総司は宴の様子を少し離れた部屋の床で体を起こして窺っていた。そこへ酒をもってやって来たのは斉藤だった。
「具合は?」
「そんなに悪くはないですよ」
斉藤は「そうか」と総司の傍らに腰を下ろす。
「悪くないのなら顔を出せばいい」
「いいえ、皆に気を遣わせるからここで良いんです。楽しそうにしているのを見ているだけで良いんですよ」
ずっと彼らの無事を祈り続けていた。残念ながら戦死し、離脱したり脱走したりしてしまった隊士もいるが、それでも新撰組は瓦解せずに戻って来てくれたのだ。近藤と二人きりで彼らの帰りを待ち侘びていたことを思えば寂しくはない。
しかし斉藤は顔を顰めた。
「見ているだけなら、かえって寂しいだろう」
「そうですか?こうやって皆と一緒に居られるだけで十分ですよ」
身体が不自由になって戦線から離脱して尚のこと新撰組の一員であることの尊さに気が付いていた。総司が微笑んでいる様子を見て斉藤は「そうか」とようやく納得して持ってきた酒を飲み始めた。
「…斉藤さんは明日、出発ですよね?」
「ああ。一番隊も皆、明日出る。江戸に着くのは五日ほどだと聞いた」
「江戸かぁ…懐かしいな。暮らしていたのが随分昔のことのように思います」
近藤や土方、斉藤は隊士募集のために一時的に試衛館に戻ったが、総司は浪士組の一員として上洛して以降一度も江戸へ戻ることはなかった。いつでも戻れる…そう思っていたのにこんな形で帰還することになるとは思いも寄らなかった。
「何だか…長かった旅が、ようやく終わるような気持ちです…」
「…何を他人事のように。江戸へ戻れば今度こそ将軍の御膝元での戦だ、休んでいる暇はない」
「ふふ…そんなことを言っているのは斉藤さんだけですよ。皆、戦に疲れて果ててどうにか奮い立たせているだけだって、私でもわかります。それでも新撰組の隊士として見放さず、戦い続けてくれる…それはとても、有り難いことです。…土方さんはあまり教えてくれなかったけれど、大変だったんでしょう?」
土方は起こった出来事を自身の感情を交えずに淡々と話してくれたが、それだけでも実際の目で見た光景は悲惨なものだったのだろうと想像ができた。
斉藤は少し黙り込んで盃に注がれた酒を手慰みにくるくると回した後、口を開いた。
「…伏見が一番酷かった。雨のように銃弾が降り注ぎ、御香宮から大砲が撃たれるたびに奉行所が揺れた。しばらく耐え忍んだが弾薬庫に着弾し爆発した時、辺りは火に包まれて…このまま焼け死ぬかもしれないと思った。こんなに一方的にやられるのかと…無意識に後ずさりしたのは初めてだった」
「…」
「指揮系統が乱れ、兵たちが散り散りになって逃げるが、火だるまになる者もいた。焼け死ぬのは御免だと無我夢中になって逃げ…大砲の音が止んだ時には心底ほっとした。その後も負け戦が続いたが、伏見ほど惨い戦はなかった」
あまり自分の心情を口に出さない斉藤が語るとどれだけの苦しい思いをしたのだろうかと総司は胸が痛くなる。総司が言葉もなく斉藤の顔を見ていると、彼は少しため息を付いた。
「…言うべきかどうか迷ったが…おそらく、池月が死んだ」
「池月が…?!」
「確かめようがないが、会津から伏見奉行所にいた数頭の馬がすべて死んだと耳にしたから…間違いないだろう」
「…可哀そうに…」
総司は下唇を噛んだ。
池月は会津藩から下賜された馬で、最初は手が付けられないほどの暴れ馬で皆が手を焼いた。けれど総司にだけは良く懐き、脱走した山南を追いかけるために大津へ向かう時はまるで別の馬のように大人しく言うことをよく聞いた。その後、馬術の心得がある安富の元で修練し、墨染で近藤が襲撃された時も伏見奉行所まで逃げ延びて主人の命を守ったのだ。
鳥羽伏見の戦から池月の所在が分からなくなっていたが、どうにか逃げ延びてほしいと願っていた。しかし伏見が斉藤の語るような火の海の地獄だったのなら、池月が最期に見た光景も同じだったのだろう。
(言葉が通じないからこそ…余計、切ないな…)
総司が俯いていると、斉藤が自分の盃を差し出した。
「献杯だ」
「…少しだけ、いただきます」
総司はほんの少しだけ含むように酒を口にすると、不思議なことに酒が喉を通ると少しだけ気持ちが晴れていく。残りを受け取った斉藤がすべて煽って飲み干した。
二人はしばらく無言のまま、宴から洩れる賑やかな声を聴きながら冬空の月を見上げた。風が夜雲を取り攫い、月がまばらに瞬いていた。
淡い夜光に照らされる斉藤の横顔には強さと虚ろさが同居していて、その本音を読み取ることは難しい。彼は自分を鼓舞するために決して弱音を漏らさないのだろう。
沈黙がこれほど苦にならないのは斉藤だけかもしれない―――そんなことを思いながら総司がこの静けさに身を委ねていると、からん、と小さな音が聞こえた。
「あ…」
総司の小指から指環が抜け落ちて、ころころと斉藤の方へ転がっていった。彼はそれを拾い上げてまじまじと眺めたあと総司に返した。
「…大きさが合っていないのか?」
「ああ、いえ…痩せてしまったからかな、最近よく外れてしまって…」
「ふうん…」
総司は気まずく感じながら小指に戻し、斉藤は何も言わずいると、バタバタと足音が近づいてきて「ここにいたのか」と永倉と原田が酒と盃を手にやって来た。
「あれ?宴会は終わったんですか?」
「いやぁ、まだ続いているぜ。だけど近藤先生はともかく、いつまでも上司が仕切ってちゃぁ隊士も楽しめないだろう?」
「さっさと引き上げて、気を利かせたというわけだ」
原田と永倉が茶化した通り、宴会はさらに盛り上がりを見せて騒がしくなり始めた。酔いが回って平隊士たちがつかの間の宴を謳歌し始めたのだろう。二人は斉藤とともに総司を囲うようにして酒盛りを始めた。
原田はすでに顔を赤らめて酔っているようで饒舌に話し始めた。
「まあ、いろいろさぁ、いろいろあったんだけどさ…源さんはいなくなっちまったが、戦から逃げ延びてこうして昔なじみの俺たちが再会できたんだから、とりあえずそれでいいだろう?」
「まったく。左之助はずっと堂々巡りで、同じことを言っているんだ。何とかしてくれ」
「へへ、酒でも飲まねぇとやってらんねぇよ。俺ァ明日、妻子を残して江戸へ行かなきゃならねぇんだからさ。寂しさを紛らわしてぇわけよ」
なみなみに注いだ酒を一気に煽りながら、原田は愚痴る。総司はつまみだけを手にして尋ねた。
「おまささんと茂君は…?」
「ん、実家に帰ってるよ。…原田左之助の妻って知れたら命があぶねぇ、俺とは離縁して親戚の家にでも避難してくれって頼んだんだけどさぁ…おまさちゃん頑固だから聞かねぇの。でもさぁ、今日、文が届いてさ…『原田まさ』って書いてあって泣けちまって、泣けちまって…」
原田は惚気ているかと思いきや突然、大粒の涙を流し始めた。いつも楽しそうに宴を楽しみ酒を飲む原田が泣いている姿は見たことがなかったので、総司は驚いて懐紙を差し出す。
「原田さん…?」
「すまねぇ…実はさ、腹ァん中に二人目の子がいたんだけど、流れちまったみたいでさ」
「…そうだったのか」
永倉も聞いていなかったようで急に真顔になって酒を飲む手を止めた。
「おまさちゃんも落胆してるに違ぇねえのに、文には一切そんなこと書かれていなくて気丈に俺を励ましてくれてさ…。とにかく待ってるって言うんだから、俺は必ず帰らねえといけねえんだよ」
「…当たり前だ。お前は家長なんだから、妻子を置いて死んではならないぞ」
永倉は原田の肩を抱いて強く叩き、黙って話を聞いていた斉藤がやはり何も言わなかったが、空になった原田の盃に酒を注いだ。
「新八っつぁんだって、娘がいるんだから顔を見にいかねぇとな!」
「ああ。落ち着いたら娘の顔を見に行って、小常の墓参りに行くつもりだ」
「そうだそうだ、その意気だよな!」
二人は励まし合って、涙目になって笑いあい「飲もう飲もう」とまた酒を流し込む。辛い現実を振り切ってやるべきことを為すのだと前を向く。
(小常さんが亡くなって、おまささんが身籠っていたなんて…知らなかった…)
新撰組の組長として真っ先に戦に向かっていった二人には実はそんな事情があっただなんて、彼らの様子からは微塵も感じられなかった。彼らも病に伏す総司の負担になってはならないと隠していたのだろうが、総司は彼らの『強さ』を感じた。
二人はすぐに話を切り上げて、明日からの船旅について話題にした。おそらく散々宴でも同じやり取りをしたのだろうけれど、酒が回って同じ話ばかりを繰り返し、斉藤は適当に聞き流しながら黙って酒を飲む…それは彼らのいつもの光景だ。
(まだ、僕はここに居たいな…)
遠くから眺めているだけでいい…それも紛れもなく本音であったが、こうして親しい仲間に囲まれて過ごす時間は何にも代えがたい。こうした機会を後何度持てるのかわからないのだから。
「…どうした?」
「え?」
斉藤に声を掛けられ、総司はハッとした。目尻から一筋の涙が頬を伝い、流れていた。
原田は「酔ったのか?」と笑い飛ばし、永倉も「飲ませてないだろうな?」と問い返す。二人はすっかり酔いが回っていたが、斉藤だけはその涙の意味を理解したはずだ。
「…何でもないです」
総司は涙を拭って、今この時を噛み締めるように微笑んだ。
880
翌日一月九日。
雨は止み波は穏やかで、出航に適している天候だった。
近藤は昨晩の宴で無理が祟って英に安静を告げられたので、具合の良かった総司と土方が八軒家の船着き場へ見送りに向かった。新撰組とともに奮戦した会津藩兵は共に乗船することとなっており、合わせて百五十名が大舟で川を下り軍艦へ向かうことになっていて次々と乗り込んでいく。総司は辺りを見渡した。
「…土方さん、浅羽さんは戦場から戻られたんですよね?きっといらっしゃるはずだと思っていましたけど、姿が見当たりませんが…」
「すでに会津公を追って江戸へ向かったのだろう。江戸ですぐに会えるはずだ」
上様の大坂城脱出前から行方が分からなくなっている浅羽の姿はここにもなかったが、上様と共に同行した藩主不在で混乱しているのはどの藩も同じなのだ。そうしていると島田と山野がやって来た。
「沖田先生…!」
「自分たちは先に行きます。必ず江戸でお会いしましょう」
山野は何やら不安そうに目を潤ませて言葉に詰まっていたが、伍長の島田は深々と頭を下げた。
「私たちも明日には出立ですから、すぐに会えますよ」
「…でも、船が座礁したり嵐に見舞われたらどうしましょう…」
「不吉なことを言うな。言霊になってしまうぞ」
山野は初めての船旅がよほど心配なのか落ち着かない様子だったので、思わず総司はくすっと笑った。
「ハハ、山野君でも苦手なものがあるんですね」
「勿論です。陸の上では逃げ場がありますが、海の上はそうはいきません。淀でも船酔いした僕は江戸までなんて具合が悪くなりそうで…英先生に薬をわけていただいたんです」
弱気な様子の山野を土方は見て、少し呆れたように口を開いた。
「山野、順動丸はそこらの屋形船とは違う。輸送艦だが、もともとは戦時に使われていた鉄製の軍艦だ。少しの波ではびくともしないはずだ」
「は、はい…!」
「きっとすぐに慣れますよ。…島田さん、皆のことをよろしくお願いします」
「はい。こちらは心配ありませんから、先生はゆっくり休まれてください」
島田は山野の背中を押して船に乗り込んでいく。総司と土方は次々と隊士たちと短い挨拶をかわして見送り、最後に組長である原田と永倉、斉藤がやって来た。
「これで全員だ。あちらに着いたら品川だったよな?」
「ああ。おそらくこちらは負傷者を医学所へ送ることになるだろうから二、三日遅れる。合流してから江戸城へ向かおう」
「わかった。…山崎は?」
永倉の問いかけに土方は苦い顔をした。
「…品川に着くまで持つかわからない」
「そうか…」
「…きっとまた会えるさ」
「ああ…」
根拠はなかったものの、原田の言葉に永倉は頷いて再会を信じ、船へ向かう。そして最後となった斉藤と向き合った時、ちょうど会津の公用人の広沢が土方を呼んだので席を外し、総司と二人きりになった。
「斉藤さんは船酔いしますか?」
「さあな。いい機会だから試してみよう。…ちょうどいい、渡したいものがある」
「え?」
斉藤はおもむろに懐から懐紙を取り出して、総司の前で広げた。そこにはぶらりと垂れ下がった細い鎖のような紐にガラス玉が通されていて、女子向けの装飾品のようなものが包まれていた。
「…これは?」
「俺も良くわからない。舶来の…首飾りのようなものだと聞いた。英がそういうものを売っている店を知っていたんだ」
「首飾り…?これを私に?」
あまり馴染みのない贈り物と彼の意図に総司は困惑したが、斉藤はあっさりと首飾りの根幹であるガラス玉を引きぬいてしまい、その細い鎖だけを総司に渡した。
「指環をこの鎖に通して、首から下げておけばいい。…大事なものなんだろう?これなら肌身離さず持ち歩けて、無くすこともない」
「…斉藤さん…」
総司は思わぬ申し出に呆然としたが、斉藤は総司の指から指環を外して鎖に通すと、頭から首へ掛けた。そして呟くように言った。
「何も嘆くことはない。必ず俺たちと…新撰組と繋がっている」
総司は首に下げた指環を眺めた。
常に近くにあっていつも繋がっている…たとえ仲間の胸の内を知らなくとも、戦場を離れていても、同じ光景を見ていなくとも、同じ輪の中にいる。
「…斉藤さんは私の心が読めているんですか?」
「そうかもな。だいたい考えていることはわかる気がする」
手のひらの三つ分ほどの長さの鎖に通すとちょうど指環が胸のあたりに触れる。心臓に近い場所でその存在を感じることができる。
「…ありがとう」
総司は敢えて他人行儀な言葉遣いをやめて彼に礼を言った。斉藤は柔和な表情で頷いて「じゃあ」とあっさり背中を向けて去って行ってしまった。
まもなく、新撰組隊士と会津藩兵を乗せた順動丸は江戸へ向けて出立した。隊士たちが手を振る姿が見えなくなるまで総司も同じようにして返し、互いの無事を祈る。土方はその隣で腕を組んでいるだけだったが、順動丸が見えなくなるまでは見守っていた。
「…行ったな」
「はい」
明日には同じように出立するのだから寂しくはない。けれど離れがたくてその場から動かずにいると、
「お前、本当のところはどう思っているんだ?」
と土方が尋ねた。
「?なんのことですか?」
「斉藤だ。…こんなもの受け取りやがって」
土方は総司の後ろ首に指先を這わせて鎖を摘む。その言い草は少し子供っぽい。
「…なんだ、見ていたんですか?」
「気を利かせて待っててやったんだ。…俺より斉藤からの方が贈り物をもらっているようだな」
「刀とこれだけですよ。羽織はちゃんと返しましたし…それに土方さんは襟巻をくれたじゃないですか。だいたい贈り物が嫌いだって言っていたくせに…」
「お前が他人から受け取るのは気に入らない」
二人きりになったせいか、土方の言い分は少し我儘で悋気を隠そうとしない。総司はふふッと笑ってしまった。
「斉藤さんのことは親友だと思ってます。私は友達と言える人は少ないから、特別は特別です。…でも歳三さんとは違うって、本当は言わなくってもわかっているでしょう?」
「…わかっていないと、こんなことは聞かない」
土方はぶっきらぼうに言うと、「帰るぞ」と船着き場を離れて歩き出す。総司は笑いをこらえながら土方の後ろに続こうとしたところ、
「土方君!」
と呼ばれた。二人が足を止めて振り向くと洋装で髭を蓄えまるで異国人のような出立ちの男が駆け酔ってくる。総司は一瞬身構えたが、土方は
「榎本艦長」
と親しげに呼んだ。総司は大坂城で知り合ったのだと名前だけ聞いていた。
「君も見送りに来ていたのか!明日は共に出航だな、どうやら天候も良さそうで何よりだ」
「はい。そういえば順動丸には十八万両乗せたと聞きましたが」
「そうだ。万が一沈没されちゃたまったものじゃないよ。どうにか無事に到着して欲しいものだ」
榎本は笑い飛ばしながらもう豆粒大となった順動丸に視線をやったあと、総司をまじまじと眺めた。
「へえ、そう…君が土方君のパートナーか」
「パー…?」
「情人という意味だ」
唐突な言葉に目を丸くした総司が土方を見ると彼も驚いた顔をしていた。土方のことだから会って数回の上役に私情を話すことはないだろう。
「…そのようなことをお話しした覚えはありませんが…」
「なんとなくね、そういう勘は冴えてているんだ。当たっていただろう?…私は開陽丸艦長の榎本だ、置いてけぼりのね」
榎本は自虐を込めて茶化しながら手を差し出したので、総司はそれに応えた。
「新撰組副長助勤の沖田総司です。お会いできて光栄です」
「沖田君、早速だが土方君を借りても?」
「え?私は構いませんが…」
「それは良かった。君たちのデートを邪魔してはならないからね。…土方君、昨日話した件だが良かったら今から行ってみないか?明日には出立してしまうし、江戸にはなかなかない代物だ、機会を逸してしまうだろう」
榎本ははっきりと目的地を口にはしなかったが、土方をどこかへ誘おうとしているようだ。こういう時たいてい土方は断るのだが、珍しく気が乗ったのか
「総司、悪いが先に屋敷に戻れるか?」
と言い出した。総司は首を傾げつつ頷いた。
「もちろん戻れますけど…」
「じゃあ決まりだ。夜までには戻るよ!」
榎本はさっさと歩き出し、土方は「早く戻れよ」と総司に声を掛けて行ってしまったのだった。
877 新選組と会津藩兵は天保山沖から海路にて江戸へ向かいます。鳥羽伏見にて奮戦したため許可されたということです。
879 原田左之助の第二子は昨年十二月ごろ生まれたものの数日で夭逝したと言われています。
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