わらべうた




881


総司は八軒家の船着き場から人目を避けた道を選び、屋敷へ戻った。
指が細くなったせいでゆるゆるになっていた指環は斉藤の機転で首の下へ移動しすぐに馴染んだ。この細い鎖が切れることがない限りは外れることがないのだから安心だ。
「おかえり。無事に出航したか?」
出迎えた近藤は二日酔いがようやく治ったようだ。総司は頷いた。
「はい。天候も良いそうで心配ないと榎本さんが…あ、土方さんは榎本さんと一緒にどこかへ行ってしまいました」
「ふうん、すっかり親しくなったんだな」
「何だか気が合うみたいですよ」
「確かに。榎本さんの合理的なやり方は歳にも通じるものがある」
近藤は大坂城の大金を船へ運んだことを思い出してハハッと笑ったが、そのせいで右肩が痛んだようだ。
屋敷に残ったのは重傷を負っている山崎をはじめとした負傷者たちと、小姓の少年三人、そしてともに江戸へ行く英だ。英は久しぶりに古巣の江戸へ帰ることは少し躊躇いがあったようだが、当然お抱えとしての自分の役目を優先した。
近藤は肘掛に身体を預けながら外を眺めて
「ついに江戸へ帰るのか…」
と呟いた。隊士募集のため江戸へ向かったことはあったが新撰組を引き連れて戻ることになるとは思いも寄らなかったのだ。近藤としては負け戦の後に引き揚げるような形になってしまったことは不本意でしかなく、懐かしい江戸へ戻ることにほんの少しの喜び以外は悔しさが占めているようで寂しい表情を浮かべていた。
総司は近藤と同じように外の…見えるはずのない都を思い起こした。
「そうですねえ、京風の薄味に慣れてきたところだったんですけどね」
しみじみとしていた近藤だったが、総司の気の抜けた心情を聞いて噴き出して笑った。
「何を言うかと思えば……まあ確かに。最初、蕎麦を見た時に汁が透き通っていて驚いたぞ。味がしないかと思ったら何とも上品な味付けだった」
「土方さんは食べた気がしないと文句を言ってました。都ではやっていけけないなんて大袈裟に言っていたのに」
「そうそう。しかし、今はおみねさんの飯にすっかり慣れているだろうから、都のことが恋しくなる」
「きっと戻れますよ」
総司は微笑むと近藤もつられるように頷いた。
総司にとって本当は戦が起こった理由も、負けてしまった理由も、江戸へ向かうことになってしまった理由も、どれもが自分にとって遠い出来事で理解が及ばない。けれど徳川は降伏したわけではなく、まだ戦は続いているのだということはわかる。
「…そうだな。江戸で再起を果たし、今度は我々が都へ向かって攻め上がる」
近藤の眼にほんの少し光が差した時。バタバタバタッと騒がしい足音が近づいて、小姓たち三人が部屋に飛び込んできた。
「局長!」
「大変です!」
「一大事です!」
それまでの穏やかな雰囲気を一変させるように彼らは慌てふためき、三人同時に声を上げるものだから近藤と総司は目を剥いた。それでも三人は「城が」「兵が」「民衆が」とバラバラに話始めようとするので総司は三人の目の前に手を翳して「待ちなさい」と止める。
「一人ずつ順番に話しなさい。…まずは銀之助」
「はい!…大坂城から煙が立ち上っています!」
「何?!薩長が火をつけたのか?!」
近藤は驚きのあまり前のめりになったためまた「いてて」と腕を押さえた。次は泰助が口を開く。
「わかりません。でも、大坂城から逃げ出した兵たちは薩長に占拠されたのだと口々に話していました…」
「占拠…思っていた以上に早かったな…永井様はご無事だろうか…」
近藤は嘆く。上様とともに大坂城を脱出しなかった永井は薩長との城の引き渡し交渉のために残留していたが、官軍は鳥羽伏見での勝利の勢いそのままに力づくで占拠したのだろう。
最後に鉄之助が話し始めた。
「民衆たちは逃げ惑い、城下は混乱しています。京屋さんから俺たちも明日の出航までは身を潜めるようにと知らせが届きました」
「そうか…その方が賢明だ。散々世話になった京屋さんに迷惑をかけるわけにはいかぬ。立つ鳥跡を濁さず…君たちももう屋敷を出ずに負傷者の看護にあたりなさい」
「はい!」
三人は早速部屋を出て行く。
近藤は肩を庇いながら肘掛を頼りにゆっくりと立ち上がり、縁側へ出た。総司も厚手の綿入れを肩から掛けて近藤の隣に並ぶと、小姓たちが言う通り大坂城から煙が立ち上っている光景が見えた。
「…本当みたいですね」
「ああ…あの、難攻不落の大坂城が敵の手に落ちるのを、この目で見ることになるとは…」
近藤は唖然とした表情で口を開けたまま空へ消えていく白煙を目で追っていた。
(幕府が倒れるとは、こういうことなんだ…)
信じていたものがガタガタと崩れていく。目に見えない政ではなく、目に見える城に薩長の旗が立つ光景は戦物語の一幕のようで現実味はないが、目の前で起こっていることに違いない。
近藤はその場に立ち尽くしいつまでもその様子を見つめていた。自分が納得して受け入れられるまで何も話さなかった。


小姓たちは近藤に言われた通り英の手伝いを申し出た。
剃髪で顔面に火傷、しかし顔の造形はあまりに整っている…そんな英の存在は新撰組では異質であったが、本人はどこ吹く風で傷の手当てに勤しんでいた。
「じゃあ銀之助はガーゼの交換を。鉄之助は明日の出立に備えて行李に薬を詰めておいて」
「…俺は?」
手先の器用な銀之助が手当てを、黙々と働く鉄之助が荷造りを命じられたが、泰助は何も仕事を与えられなかった。
「泰助は休んでいい」
「もう十分休んだよ。…仕事をしている方が、気が紛れて楽だから…」
泰助は躊躇いながら答えた。
しかし英は「だめだ」と首を横に振った。
「君の心は傷ついたままだ。…忙しさで誤魔化したところでなんの薬にもならない。ちゃんとこの先どうすべきか答えが出るまで考え抜いた方が良い」
「…英先生もそうしたの?」
英が火傷を負ったのは泰助が入隊するよりもずっと前だ。英が何者であったか、何故火傷を負っているのか、どうしてここにいるのか…色々知りたいことはあるだろう。けれど英の身に人生を変えるような『何か』があったことは泰助にもわかっていた。
「そうだよ」
英は微笑み、泰助の頭を撫でた。くせっ毛の泰助は「やめろよ」と嫌がったが英は手を振って去って行ってしまった。
泰助は隣室に移動し片隅で膝を抱える。負傷者以外の隊士が出航したため空き部屋が多く、一人になれる場所はいくらでもあった。けれど一人になった途端思い出すのは叔父の井上が息も絶え絶えな姿と、その首を刎ねた鉄之助の姿ばかりですぐに怖気づいてしまう。
(俺もああなるのかもしれない…)
戦から逃れてこの屋敷に来てまだ二日。連日劣勢の戦いに身を置き、その時は興奮状態で冷静に物事を考えられなかったがいまとなってはどうやって生き延びたのかわからないほど苛烈な体験だった。
(…俺、誰のものか分からない屍を踏んだ…)
それは決して他人事はなく一歩間違えれば自分が迎えるかもしれなかった姿だ。淀で山のように積み上がった遺体を目の当たりにしてその一体にならずに済んだことに心から安堵した。
『俺は叔父さんのようにはならない!』
入隊を認めてくれない父親に歯向かい、存命だった周斎の後押しがあってようやく新撰組に入隊した。叔父とともに、いや叔父よりも大きな功を立てて父親を見返す―ーその決意だったのにあっという間に世が変わり戦へ突入してしまった。何者にもなれないうちに巻き込まれ…父ならば『時代のせいにするな』と叱るだろうが、今のままでは新撰組のお荷物であることに違いはない。
「俺…叔父さんに謝りたかったな…」
最初はうだつの上がらない叔父の様子に内心呆れていた。屯所では雑用を引き受け、隊士たちの稽古を懸命に受け持ち、面倒を見て時には喧嘩の仲裁をする…これではせっかく上洛したのに試衛館にいた頃と同じで、叔父の名前は世の中に出ることなく終わってしまう。
泰助はそんな叔父のようにはならないと思っていたが、けれど実際戦に出て叔父の大きさに気が付いた。今瀕死の山崎が叔父がいなければ新撰組は立ち行かないと口にしていた通り、敵や銃弾を恐れず戦い続ける叔父は誰よりも強くて誇らしい存在だった。
謝ったところで叔父は―――『なァんだ、そんなこと』と笑い飛ばすのだろうけれど。
「…父さんに話したい…」
都にいたのはほんの少しだったけれど、新撰組で過ごした時のことを話したい。叔父がどれほど新撰組のために尽くし、勇敢に戦い、死んでいったのか―――父に話したい。
叔父の本当の姿を父や故郷の人々に伝えることが…自分の使命なのかもしれない。


夕刻、鉄之助が荷造りをしながらぼんやりしていると銀之助がやって来た。
「鉄、手が止まってるよ」
「…ああ、うん…」
鉄之助は包帯を丸めつつ、まだ虚ろな顔をしていたので銀之助は膝を折った。
「何かあった?」
「…手当は?」
「もう終わったよ」
「銀は賢いな。教えてもらったことをすぐに覚えられる」
「真似をしているだけだよ」
銀之助はまだ山のように積まれていた手拭いを畳ながら「話聞くよ」と促した。あまり弱音を吐かない鉄之助は少し強引に聞き出す方が良いと知っていたからだ。すると鉄之助はようやく口を開いた。
「なんか…悪いことしたと思って…」
「…泰助に?」
「ああ。…泰助の目の前で叔父の首を落としたんだ。あの時、いつ敵が迫ってくるかわからない状況で俺は最善の選択をしたと思ったけど…泰助に対して気遣いが足りなかったかなって…」
「…」
鉄之助が首を落とし、泰助はその首を抱え帰営した。新撰組組長の首を敵にみすみす与えず、無縁仏にならずに済んだ…と近藤や土方たちは鉄之助を褒めたけれど、本人はそれを功績だとは素直に思えなかったのだろう。
銀之助は手を止めてしばらく考えた。
「…僕はその場にいなかったから何も言えないけれど…僕なら同じようにできなかったと思う。鉄之助のように首を落とすことも、泰助のように持ち帰ることも…どちらも僕には荷が重すぎるから」
「俺にだって重い」
「でも泰助が一人なら絶対にできなかった。泣いて縋ってその場に留まって離れがたくなって…命を落としたかもしれない。だから僕は鉄之助が泰助を助けたんだと思ってるし、泰助も鉄のことを恨んだりなんてしていないはずだよ」
「…そうだといいけど」
鉄之助は言葉ではまだ納得できていないようだったが、少し表情をやわらげた。泰助が悲しみから立ち直り、鉄之助も自分の行いを認める日がくればいい。
そんなことを銀之助が思っていると、玄関の扉がガラガラと開く音が聞こえた。
「あ、土方副長がお帰りになったのかな」
「出迎えに行こう」
二人は連れ立って玄関に向かい、ちょうど部屋から出て来た泰助も合流した。泰助は少しすっきりした顔をしていたので安堵しつつ屋敷の長い廊下を小走りで駆けて、
「おかえりなさいま…」
せ、と言い切らないうちに三人は「えぇぇ?!」と声を上げてしまったのだった。








882


上様の大坂城脱出、占拠、火災…凶報ばかり続くなかで小姓たちが悲鳴を上げれば、当然何事かと駆けつけざるを得ない。敵襲に備え近藤は怪我をした右腕を抱えながら、総司は刀を手にして玄関に向かったのだが…そこにいたのは土方一人だった。だがその姿は総司と別れた時とはまるで違う。
「と…歳…?なんだ、その恰好は…!」
幼馴染の近藤は驚きのあまり震えながら指さした。
土方はいつもの黒の羽織と袴で順動丸を見送ったはずが、黒いコートを羽織り中にベストとズボンを着用しブーツを履いている…まるで異国の軍服さながらの服装をみて近藤は腰を抜かし、総司は唖然として声も出なかった。洋装姿の兵は沢山見かけたが、あまりにも見慣れていた姿と違っていたからだ。
しかし小姓たちはこの若さゆえか大いに歓迎し、銀之助は「伝習隊のようです!」と喜び、鉄之助は「いいなぁ」と羨望の眼差しを向けてあっさり受け入れてしまう。遅れてやって来た英は一瞬目を見開いたが、
「似合うよ」
と微笑んで手を叩いた。周囲は色めき立つが、本人は涼しい顔のままブーツを脱いで上がりながら経緯を話し始めた。
「榎本艦長に頼んで、一通り指南してもらったんだ。先日の戦で伝習隊がこういうのを着て戦う様子を見て合理的だと思ったからな。着物よりも寒くないし、足さばきも良い」
「そ、そ、そういう問題か?!
「そういう問題だろう。隊士たちの隊服もこういうものにしたいが、フランス製でなかなか数がない。順次、集めようと思う」
土方はあくまで機能面を考えて洋服にすべきだと淡々と話す。洋装化しても滑稽に見える者もいるなかで土方はすでに数年着こなしているような振る舞いだった。
「…ああ、そうだ。近藤先生、髷を落としてくれ」
「ま、髷を?!」
「この姿で髷姿は格好がつかないだろう」
まだ理解の追いつかない近藤に対して、土方はあっさりと頼む。そもそも髷というほどではなく月代はなく総髪のものを束ねているだけだが、洋装だと榎本のように短い髪の方がしっくりくるのは間違いない。けれど今度は「断る!」と断固として拒否した。
「髷は武士の魂だぞ!出家して仏門に入るならまだしも、格好がつかないなんて馬鹿な理由で…!」
「戦では髷に構う暇もないし、手入れも面倒だ。それに近いうちに皆、髷を落とす時代になるはずだ」
「お前は武士を辞めるつもりか!」
近藤がわなわなと震えながら怒鳴る。幕府が無くなった今でさえ『幕臣』であることにこだわる近藤にはどうしても受け入れられなかったのだろう。
「そういうわけじゃない。近藤先生も幕府海軍や歩兵隊の服装を見ただろう?そういう流れなんだよ、上様だって…」
「か、勝手にしろ!」
近藤は吐き捨てると背中を向けて屋敷の奥へ去って行ってしまったので、英と小姓たちもそそくさと持ち場に戻って、土方の傍に残ったのは総司だけだった。小姓たちはいつも穏やかな近藤の激しい剣幕を見て驚いていたが二人は慣れっこだ。
「…まったく、頑固な奴だ。見てくれがどうであっても関係ないだろう」
近藤は本気で怒っているというよりも拗ねているような言い方だった。土方が洋装に身を包み髷を落としたところで武士を辞めるわけではないとわかっているはずだが、見た目が大きく変わることについていけていないだけだろう。
土方は小さくため息を付いた後、
「…お前はなんで何も言わないんだ?」
と一言も発しない総司に視線を向けた。総司はまじまじと頭の先からつま先まで眺めた後、ふっと小さく笑った。
「ふふ…新しいもの好きの歳三さんらしいです。全身真っ黒なのも好みですもんね」
「ああ。実は前々から興味があったんだ。これを着て日野へ戻れば皆が驚くだろう」
「ははは、日野の人たちは異人がきたと逃げていきますよ」
黒船来航の時は天狗だと大騒ぎになったのだ。この姿の土方が凱旋すれば皆、目を丸くして驚くことだろう。
総司は黒いコートの袖に触れた。手触りの良い厚手の生地は風を通さず温かそうで確かに土方の言う通り『合理的』だろう。
「…良いと思います。似合ってますよ」
「そうか…」
先ほど、小姓や英に囲まれた時は涼しい顔をして聞き流していた土方だが、総司が褒めると少しだけ表情を緩めて頷いた。
「まあ近藤先生に断られたなら仕方ない、お前が髷を落としてくれ」
「…私が?」
「ああ、お前が良いなら」
髷を落とす行為は近藤が言う通り武士としてあるまじきことなのかもしれない。けれど総司は土方が服装を変え、髷を落とすことには本人は語らない深い決意があるのかもしれないと思った。
(姿かたちに囚われない、新しい武士像を探すのだろう…)
敗戦を経て土方の心境に変化があったのは間違いない。古い慣習にとらわれて負けるくらいなら、異国の武器だけでなく服装であっても取り入れる…その気持ちを表したかったのではないか。
「…喜んで」
総司は土方とともに部屋に移動し、早速髷を落とす準備を始めた。小刀と懐紙を準備して土方の後ろに座る。
「歳三さん、良いんですよね?」
「ああ。俺は何のこだわりもない」
「じゃあいきますよ…」
総司は束ねた髪を左手で掴み、右手で握った小刀でその髪を少しずつ削いでいく。じょりじょりと慣れない感覚が手に伝わったが、思ったよりあっさりと切り落としてしまった。
「終わりましたよ」
「ああ、軽くなった」
土方はまるで憑き物が落ちたかのような顔で髪をかき上げて、器用に自分で微調整をして整えた。罪人の証であるザンバラ髪はどうしてもみすぼらしくなってしまう印象だが、土方の場合は何故か例外のようだ。総司はぼんやりとその姿を眺めた。
「…榎本艦長によく指南してもらったんですか?」
「ああ。フランス製だから少し大きい。このコートは軍服ではなくて羽織として使うと聞いたし、腰回りも太めの真田紐を巻くと様になると助言してもらった」
土方は満足げに鏡で確認したあと、コートを脱いでしまった。
「だが、羽織の方が落ち着くことには違いない」
「確かにそうですね」
土方は総司が切り落とした髷を懐紙に包んだ。本人は捨てても良いと思っているようだが、
「これ以上ぞんざいに扱ってかっちゃんの機嫌を損ねるわけにはいかないな」
と苦笑して大切に行李のなかに仕舞った。
土方は火鉢の前に腰を下ろして、総司が淹れた茶を飲んで一息ついた。
「…そういえば、大坂城から煙が上がっていた」
「はい。小姓たちが耳にした噂によると薩長に占拠されたらしいとのことでした」
「ああ、榎本艦長によると永井様はすでに脱出されて明日我々とともに軍艦に乗り込むことになったらしい」
「…傷ついた兵たちはどこへ行ったのでしょう?」
「多くの敗残兵は紀州へ向かったと聞いている。戦に兵を出さなかった紀州が手を差し伸べるかどうかはわからないが…皆、江戸で集結することを望んでいるはずだ」
「伊庭君は?」
伏見奉行所で深手を負い、大坂で手当てを受けた伊庭は再び戦場へ向かいその後遊撃隊に合流したと聞いている。
「おそらく陸路で江戸へ向かっているだろう」
「…じゃああちらで会えますね」
「だと良いが…」
土方が火箸で灰をつついていると、なかから小さな蜜柑を見つけた。
「ああ、小腹が空いているならどうぞ。昔、山南さんと火鉢を囲んでいる時によくこうして焼いていたことを思い出して…」
「…山南さんか…」
土方にとっては遠すぎる記憶だが、すぐにその光景を思い出すことができた。目を細めながら皆の話に耳を傾け優しい相槌を打っている…時間が解決したのだろうか、最期の悲惨さよりも日頃の穏やかな態度の方が鮮明に思い起こされた。総司も同じだったのだろう。
「都に置いてきてしまいましたね」
月に一度の墓参もとても叶いそうにない。総司は残念がったが、土方は
「これでようやく静かに眠れると喜んでいるだろうさ」
と皮肉っぽく笑った。
そうしていると英がやって来た。蜜柑を片手に談笑する二人を見て彼は少し笑ったが、
「…歓談中に申し訳ないけれど、山さんが呼んでいるよ」
と伝えに来たのだった。













883


薄く目を開けた山崎は
「見違えましたなぁ…」
と土方の変貌を笑った。
松本や英の見立てによるともって数日の命という山崎だが、今は痛みに悶えることなくどこか穏やかな表情を浮かべていた。総司は山崎の手を強く握って耳の聞こえずらくなった彼に近づいた。
「山崎さん、明日出航ですよ」
「…ああ…聞いてます。…江戸、ですね…」
山崎は現実味がないのか遠い目をしながら小さく頷いた後、土方に目を向けた。
「副長……お願いが、」
「…何でも言え」
「…俺を…ここに、置いて行ってもらえまへんか…」
山崎は絞り出すような声で懇願した。重傷の彼が船旅に耐えきれないのではないかという危惧は医者でなくとも素人にでもわかる。土方は山崎がそう申し出ると予想していたのだが、それを拒んだ。
「駄目だ…故郷で死にたい気持ちはわかるが、いま大坂の町は薩長の手に落ちたと言っても過言ではない。新撰組の組長格のお前を置いて見つかれば、奴らの恰好の餌食になる」
「…俺なんて…どこで死んでも、おんなじです…」
「同じじゃない。俺がそうさせたくないんだ」
新撰組の創成期から共に過ごし監察方として常に支え続けた。土方の片腕として大きな仕事をこなし、山崎がいなければ決して為しえなかったことはたくさんある。その山崎をたとえ躯であったとしても無防備なまま敵地に置き去りにするなど土方には考えられなかったのだ。
いつもの山崎なら「そうですか」と諦めて身を退いていたが、彼は食い下がった。
「…人生、最期の…願い、でもですか…」
「山崎…」
「直は死んだ同じ町で…俺も死にたいと思うのは…我がままでしょうか…」
「…」
「…土方さん…」
総司は何も発しようとしない土方の表情を窺った。彼は眉間に皺を寄せて苦しい顔をしていた。
土方も山崎の気持ちは痛いほどよくわかっているだろう。このまま江戸へ向かったところで縁のない場所で命を落とすだけだ、それくらいなら生まれ育った場所に近いここで最期の時を過ごさせることが、これまでの彼の功労に報いることなのかもしれない。
けれど土方は「我儘だ」と言った。
「…相良を犠牲にしてまでお前は新撰組の監察としてのし上がったんだ。だったら最期までそれを貫け。お前は相良の幼馴染としてではなく、新撰組監察方の山崎烝として人生を全うしろ。…それがお前のやるべきことだ」
それは冷たく厳しい言葉だったのかもしれない。死に逝く人の最期の願いを拒む非道な命令ともいえるだろう。
けれどそれがただ冷酷な宣告ではないことを山崎は知っていた。山崎が不本意な最期を遂げないために敢えてそんな言い方をしているのだとわかっていた。
山崎は土方の言葉にふっと笑った。
「…ほんま…人使いの、荒い…」
「ああ…そうだ、昔から…知っているだろう?」
人使いが荒い、などと山崎が愚痴を言ったことはなかったが、内心はそう思っていたのだろうか。けれど彼は床に伏したまま悪戯っぽく笑うだけだった。
「…せやったら……死んでも、江戸には埋めずに…何も残さへんで…ください」
「山崎さん…」
「墓も、戒名も、骨も…ほんまなんも、残さず…泡沫のように…死なせてください…」
「ああ…わかった」
山崎は顔を顰めながら、必死に言葉を紡いでいる。土方は「約束する」と聞き入れると彼は少し安堵したように頷いた。そして手を握ったままだった総司の方へゆっくりと視線を向けた。
「おき…せんせ、その時はどうか…可哀そうやなんていわず…やっと、直のところへ行くんやなと…ただ見送ってください」
「…わかりました。きっとそうします」
総司はあふれ出る感情を堪え、何度も頷いた。病に冒された自分の方が先に逝くのだと思っていたのに、こんな風に見送ることになるなんて思いもよらなかった。
山崎は二人の答えに満足したのかスッと意識を失うように眠り始めた。英によるといまは目が覚めている時よりも眠っている時間が大半で、感覚が鈍り痛みも感じる暇はないようだ。それはまるでゆっくりと死に近づいているのだということでもあるが、彼が痛みに苦しまずこの世で少しでも穏やかな時間を過ごしているのなら悪いことではないだろう。
総司はゆっくりと山崎の手を放して目尻の涙を拭い、土方と共に部屋に戻った。
すでに陽は落ち、夜を迎えていた。日が暮れて改めて明日の出立を意識した時、総司は唐突に淋しさと後悔を覚えて荷物をまとめる土方の傍らに身を寄せた。
「どうした?」
「…本当に良かったんでしょうか?山崎さんのこと…」
山崎の切実な『最期の願い』を聞き届けずに、彼に不本意な死に方を強要してしまうことに総司は後悔を感じていた。土方が決して山崎の気持ちを蔑ろにしたわけではなく、ただ彼の身を案じているのだとわかっていてもどちらが山崎のためになるのかわからなくなってしまったのだ。
「…もう少し時間があれば周到に準備をして山崎の望みを叶えてやれたかもしれない。だがすでに大坂は敵の手に落ちて俺たちは身動きが取れない。…山崎を家族の元へ帰して、万が一官軍に見つかればその首が罪人として晒されるだろう。それに家族にも害が及ぶ…そんな最期を遂げさせたくはない」
土方はしばらく無言で行李へ荷物をしまい込み、総司の方へ向き直った。
「俺は…戦場で人の業を見た」
「…業…?」
「伏見では特に…あちこちで砲撃によって人間の手足が捥がれ五体揃わず死んでいったし、弾薬庫に着弾した時は生きたまま焼かれていく者たちを見た。そしてその骸を敵味方関係なく踏みつけて駆け回る…あれはただの地獄だった。本当は一方的にやられたという一言では語り切れない…思い出すのも悪夢になるような光景だった。お前やかっちゃんがいなくてよかった」
「…歳三さん…」
土方は目を伏せ、苦しそうに胸の内を吐露する。土方は戦から命からがら逃げ延びたことをあくまで淡々と客観的に話してくれていたが、本当はもっと惨い光景を見たのだ。今まで土方は語ろうとはしなかった。
総司が土方の手を握ると、彼はまた口を開いた。
「俺は…俺の無力さで源さんが死んだと思っている。山崎が怪我を負ったのも同じだ」
「そんな…誰もそんなことを思っていません」
「俺がそう思っているんだ。錦の御旗のせいで味方が逃げ出した時…俺はどうするべきか結論がでなかったが、源さんは新撰組を守るために誰よりも早く駆けだしていった。源さんは自分が死ぬとわかっていた…俺はそれを引き止められなかった。こうなるとわかっていたのに…だから、俺が殺したのと同じだ」
「それは違います…!」
「お前はその場にいなかっただろう」
土方はそう言い返した後、すぐに「悪い」と謝った。しかし総司は傷つかなかった…土方の言う通りその場にいなかった総司に何がわかるというのか。総司は安易に感情を口に出したことを後悔した。
「良いんです。…続けてください」
「…源さんを犠牲に生き延びたのに、敵襲に気が付かず俺を庇って山崎が怪我を負った。本当なら足手まといになる重傷者は戦場へ置いていくべきだとわかっていたが…敵が俺たちに対してどれほど残虐であるか実感していた。それに誰が裏切るかわからない状況で見捨てることなどできるはずがない。…山崎には今まで長年世話になってきた、だから尊厳のある死を迎えさせてやりたい。それが…俺が山崎にできる最後のことだと思っている」
「…」
「もちろん正解はわからない。だが…間違ってはいないと思う」
土方は山崎へ『職務を全うしろ』と短い言葉で励ましていたが、その言葉に奥深くには彼らが経験してきた地獄があったのだ。総司は思わず土方の背中に腕を回して抱きしめた。
「…歳三さんは間違っていません。たとえ間違っていたとしても、山崎さんのためにできる限りのことをしただけです…それをきっとわかってくれます」
「ああ…そうだと、いいな…」
土方もまた総司の背中に手を回して引き寄せた。お互いの体温が一緒になって共有し、火鉢よりよほど温かかった。


翌日は榎本が言っていた通り、風はなく波は穏やかであり出航に適していた。
富士山丸は新撰組や会津の負傷者を乗せて江戸へ向けて出航した。既に官軍の手に落ちた大坂を秘密裏に去ることになったため、見送りはいない。けれど土方と総司は並んで甲板に出て小さくなっていく町を眺めていた。総司は海風に靡く髪を耳に掛けながら
「結局、どれくらい都にいたんでしたっけ…?」
「もうすぐ二月で六年になるところだ」
「六年か…」
総司は江戸の浪士組の一員として上洛した時のことを昨日のように覚えていた。まだ何者でもなかった自分たちが新撰組を名乗り、幕臣にまで出世するなんて誰が想像できただろう。
「…長かったな」
土方は呟いた。
「そうですか?あっという間でしたけど」
「あっという間でもあるが、長くもあった」
「…そうですねぇ…」
曖昧な土方の言葉を総司はなんとなく理解した。得たものを思えばあっという間だが、失ったものを数えれば長く感じる…ひとりひとり胸に去来するものは違うのだろう。
総司は「そうだ」と思い出して借りていたままの発句集を懐から取り出して土方に返した。
「これ、お返しします。…近藤先生が気落ちされた時に助かりました」
「…命懸けで戦っている時にお前たちに笑われたわけだ」
土方は冗談めかして笑いながらそれを受け取った。
「伊庭君にも見せてほしいと頼まれましたが」
「勘弁してくれ」
「そう言うと思って見せていません。伊庭君も本人の許可を取ると笑ってましたけど」
「絶対に断る」
土方はすぐに懐へ仕舞い込んだ。
すると「ここにいたのか」と近藤が甲板に顔を出した。
「そろそろ波が高くなるそうだから中に入れ」
「わかりました」
近藤に手招きされて二人は船内に入る。土方の洋装は新撰組や会津では浮いていたが、フランス式の海軍の服装を真似た乗組員たちに混じるとそう目立たない。しかし近藤は口をへの字にして
「俺は袴を貫くからな」
と主張した。土方は苦笑して「好きにしろよ」と言い返したのだった。








884


上様が大坂城を脱出し、開陽丸で江戸へ向けて出港してから四日後…一月十二日。前日の順動丸に続き、近藤や土方、新撰組の負傷者たちを乗せた富士山丸が大坂湾を出航した。見送りのない静かな船出であった。
富士山丸は第二次長州征討に参加した軍艦で二百名ほど乗船可能な立派な船であるが、やはり陸に比べれば負傷者の安静には向いていない。特に重傷者が乗せられたため皆それぞれ体調を崩し痛みや病に苦しむこととなり、英や彼を手伝う小姓たちは常に忙しない状況が続いていた。それは労咳を患う総司も例外ではなく、意気揚々と船に乗り込んだのは最初だけですぐに寝込むことになってしまった。
総司は他の負傷者とともに大きな船室で横になっていた。山崎は息も絶え絶えの状況が続き言葉を発しないが、他の兵士たちの痛みを堪えた呻き声や魘されるような悲鳴が聞こえてきて、なかなか穏やかに休むことはできなかった。
総司は熱に侵されながら、ただ波の音だけに耳を澄ませていた。鴨川の穏やかな水音とはまるで違う、歯向かう荒波に逆らって進む轟音がボイラーの音と混じって頭の中に響くとそれでいっぱいになって余計なことを何も考えないで済むのだ。
時折、近藤や土方が様子を見に来た。彼らはしきりに「部屋を移そう」「ここでは休めないだろう」を気を使ってくれたが、自分だけが特別扱いを受ける気にはなれず、
「大丈夫ですから」
と断り続けた。負傷者の一人として運ばれているだけなのだから心配は無用だ…と自分なりの意地だった。そんなことで命を縮めてどうすると土方には叱られそうだが、総司の気持ちを察してか彼は何も言わなかった。
そんな船室に二人の活きのいい若者がいた。
「こんな怪我、縫って元通りだ、心配はない!」
「充太郎さん、何を馬鹿なことを言っているんですか。縫ってすぐに治るのならだれも困りません、どうせ敵はいないのですからゆっくり休んだところで誰も責めたりしませんよ」
「お前は安静にして休めばいい。俺はやるべきことがあるんだ」
「…意地を張ってどうするんです」
今まで聞き耳を立てたところによると二人とも負傷しているそうだが、一人はなかなか床に臥すことなく落ち着かない様子で、もう一人はそれをずっと窘めている。どうやら二人とも新撰組の隊士ではなく、かといって会津訛りでもない…そんな彼らのことが総司はどうにも気になった。ちょうど具合が良かったので羽織を肩に掛けてベッドを抜け出し様子を覗いてみると、そこには土方のような洋装姿の二十歳くらいの若者がベッドに書物を積み上げて腰を下ろしていた。活きの良い若者は整った顔立ちで凛としていて、腕を負傷したのか近藤にように首から下げていた。彼は片手で熱心に書物を読み込んでいて総司には気が付かなかったが、もう一人の眼力の強い精悍な若者はすぐに気が付いた。
「あ…うるさかったですか?申し訳ありません」
「いえ…君たちは?」
「我々は伝習隊の隊士です」
(ああ、なるほど…)
土方から伝習隊の負傷者が数名乗船していると聞いていたが彼らのことだったのか、と総司はようやく腑に落ちる。すると「充太郎さん」と促されようやく書物を読んでいた若者がハッと総司に気が付いて頭を下げた。
「あっ…申し訳ございません…!集中すると周りのことが見えなくて…」
「いえ、良いんですよ。もう怪我は良くなったのですか?」
「はい。私は腕、彼は足を掠めた程度だったのですが、念のためこちらの船に乗せていただいたのです。…もしかして新撰組の方ですか?」
「ええ、まあ…」
彼らのような若者が『新撰組の沖田総司』のことを知っているかどうかはわからなかったが、礼儀正しい彼らを気遣わせるのも可哀想なので何となく名を伏せた。
充太郎、と呼ばれた若者は恭しく頭を下げて「伝習隊の滝川充太郎と申します」と名乗った。もう一人は「大川正次郎です」と続き、総司はそのまま彼らの輪に加わった。
充太郎のベッドには英語で書かれた本が数冊積み上がっている。
「書物を読んでいるのですか?」
「はい。榎本艦長にお借りした洋書を訳したものです。何でも『国際法』というものだそうで、なかなか馴染みがなく理解が及ばない部分もありますが…何もしないでいるよりはマシかと」
「…充太郎さん、怪我をして無理が祟ると熱が上がることもあるとお医者様がおっしゃっていましたよ」
「このくらいなんてことはない。傷はもう塞がったんだから」
大川の方が充太郎よりも立場が下なのだろう…子どもっぽい言い方をする充太郎に対して大川の口調は硬いが、けれど彼らはただの同僚というよりも友情に近い空気が流れている。総司は微笑ましく思いながら
「でも船は揺れるでしょう?本なんて読んで具合が悪くなりませんか?」
と訊ねた。総司も暇を持て余して一度書物を手にしたが、ゆらゆらと常に視界が揺れてとても読めるような環境ではなかった。充太郎は「それは…」と少し口ごもる。本当は彼も船酔いをしていて書物を読むどころではないのかもしれない。大川は呆れたようにため息を付いた。
「この方のおっしゃる通りです。今は休むべきと思いますが?」
「…わかった。波が穏やかな時にするよ」
充太郎は渋々書物を置いたが、まだ未練がある様子だった。総司は若者らしい熱意に目を細める。
「焦ることはありませんよ。研鑽を積むのは怪我が良くなってからでも遅くはないはずです」
「…いいえ、遅いんです。私は父の失敗を取り戻さなくては…」
「父?」
総司が首を傾げたところ、大川は淡々と
「充太郎さんの父君は、大目付の滝川播磨守様なのです」
と教えてくれた。
滝川播磨守…戦の発端となった鳥羽街道での指揮をとった人物だということだけは近藤や土方から幾度となく聞いていた。参戦した者なら彼が『滝川充太郎』と名乗った時点でピンとくるものなのかもしれないが、総司はそうではなかった。
「そうでしたか。滝川様の…」
「戦で大敗を喫したのは父の責任です。備えなく鳥羽街道へ向かい返り討ちに遭い…ろくな策もないまま敗戦を続け多くの兵を失いました。挙句、上様は父を置いて江戸へ…。父は上様の信用を失ったのです…!」
充太郎は悔しそうに唇を噛んだ後、目に涙をにじませた。
「父に意見できなかった私にも責任はあります。戦場で死んでいった仲間たちに何と詫びれば良いのか…」
「充太郎さんは考えすぎです。敗戦の責任はお父上一人のものではなく連鎖的な要因があったのです。挙げ句、上様が大坂城を出てしまったことで決定的になっただけのこと」
「…それは…分かっている…」
感情的な充太郎に対し、大川は整然と言葉を並べて言い聞かせる。大川の言うことは尤もであるが、充太郎は他責的に考えられず飲み込むことができなかったようだ。
充太郎は「風に当たってきます」と部屋を出て行ってしまった。
「申し訳ありません。…充太郎さんは幾度となく戦について父君に進言したものの、聞き入れられず…このような結果になってしまったことに責任を感じているようで…」
「…責任なんて。少なくともご子息が感じる必要はないでしょう」
「そうおっしゃって下さる方ばかりだと良いのですが…」
大川はその太い眉を顰めて視線を落とした。敗戦を繰り返し命からがら逃げ延びた兵士たちのなかには滝川の指揮に不満を持ち、その息子に八つ当たりするような者もいたのだろう。充太郎自身が父を止めたのだとしても、結果としては賊軍と呼ばれてこうして逃げ延びているのだから己が責め立てられているような気がしてしまうのは仕方ない。それ故に充太郎は必要以上に追い詰められているのかもしれない。
(まだ若いのに、不憫だな…)
総司がなんとなく充太郎が去った場所を眺める。積み上がった洋書に彼の求める答えがあるのかはわからないが、気を紛らわせることはできるのかもしれない。そうしていると、大川が「あの」と姿勢を正した。
「実は伏見と淀で新撰組の土方副長にお会いする機会を頂きまして、お話をさせていただいたのです」
「へぇ、土方さんと?」
「はい。私のような一士官の話に耳を傾けていただき…色々とご教授頂きました。とても光栄なことでした」
(ご教授か…)
総司は内心笑った。土方が一体彼にどんな話をしたのかはわからないが、大川の表情を見る限り彼にとっては良い出会いとなったのだろう。
「…私は充太郎さんとは違い、旗本の出ではありません。昔から勉学を好みましたが、それで立身出世を果たすような身分ではなく…生き方を模索していた頃に伝習隊に入隊しました。フランスの戦法は身につきましたが、私の話を取り合ってくれる士官は誰もいませんでした。…ですから、土方先生がたとえ気休めでも『正しい』と言ってくださって酷く救われました」
「…あの人は人に『正しい』なんて軽々しく言うような人ではありませんよ。貴方の話を聞いて本当にそう思ったから答えただけのはずです」
「そ、そうでしょうか…」
大川は少し恥ずかしそうに鼻を触ったあと、
「あの…土方副長と親しい間柄で?」
と訊ねて来た。
「まあ、そのようなものです。…充太郎さんのこと、支えてあげてくださいね」
「…勿論、そのつもりです」
総司は充太郎が読みかけていた書物を大川へ渡し、「じゃあまた」と自分の寝床に帰った。


水平線に陽が沈もうとしている。
土方は甲板に出てその様子を眺めていた。冷たい潮風が通り抜けていくが、洋装だと幾分かその寒さが和らいでいるような気がした。
「ここにいたのか」
声を掛けてきたのは榎本だった。彼はワインと空のグラスを手にあちこち歩きまわっていた。
「…開陽丸に比べると小さい船ですか」
「まあそうだね。しかし悪くない。小回りが利いて操縦はしやすそうだ」
榎本は土方の隣に並び、グラスを差し出してきたが「結構」と断った。慣れない船の上で強い酒を飲むとどんな醜態をさらしてしまうかわからない。榎本は少し残念そうにしながら自分用にワインを注いだ。
「君の情人のことだが…労咳なのか?」
「…ええ」
土方は総司が情人であることも、労咳であることも否定しなかった。皆が知っていることであるし、榎本の前で嘘をつく必要を感じなかったからだ。
総司は負傷者に混じって寝込んでいる。頭ではわかっていても彼が重病に侵されいつ急変してもおかしくない身なのだと見せつけられているようで胸が苦しくなった。土方は甲板に出てその気持ちを落ち着かせようとしていたのだ。
榎本は眉を顰めた。
「そうか…若いのに」
「…おそらくもう長くはないでしょう」
本人や近藤の前では決して口にしないことだったが、客観的な事実は変わらない。土方は淡々と語り、榎本は少し驚いたような顔をした。
「あまりそういうことを口にしてはならぬ」
「言霊ですか…」
「それもあるが、死を引き寄せてしまう気がしてね…この船には多くの明日をも知れぬ負傷者が乗っているが、私は心から彼らの回復を信じているよ」
榎本の眼差しには何の躊躇いも澱みもない。彼は体裁を繕うためではなく心からそう信じているようだった。土方は榎本のことを気のいい幕臣だとは思っていたが、心根は表裏のない素直で優しい人物なのかもしれないと思った。
(少しかっちゃんに似ているな…)
そのせいか少し強張った心が慰められた。
榎本はワインを一口飲んで話題を変えた。
「君たちは江戸へ戻ったらどうするつもりだ?」
「近藤は徹底抗戦を主張すると言っていました」
「私もだ。なんと言ってもこの国一の海軍が後ろ盾となるのだ、負けるはずがないよ。それに万が一降伏となれば軍艦はすべて官軍に接収されてしまうだろう…そんなことをみすみす許すわけにはいかない。私が最も譲れないことだ」
「譲れない…」
榎本の眼差しは穏やかな一面と、強く揺るがない芯のようなものが垣間見える。誰が何と言おうと自らの分身である軍艦を手放すことはできない…彼はすでに決意していた。
「土方君にとって譲れないものはなにかな」
「…私ですか」
「それがあると迷わないものだ。ただしそれはたった一つだけ。か弱い人間が守れるものなんてそれくらいなのだ、あれこれ欲張ってはその一つさえも守れやしない」
榎本は沈みゆく夕日に視線を向けた。消えていく太陽を見て虚しく思う土方とは違い、「また明日」と言わんばかりに目を輝かせ清々しく見送る榎本はとても眩しく見えた。








885

漆黒の闇と海に挟まれた船はゆらゆらと揺れ続けている。
英は夜通し山崎の傍から離れず、時折脈を取りながら様子を窺っていた。些細な衣擦れや患者たちの鼾と寝返りが響く船室で、山崎は意識を朦朧とさせながら、
「直…直…」
と繰り返す。そのたびに英はその手を握った。
「…大丈夫、待ってるから…」
それは相良の代わりでもあり、英自身の言葉でもあった。生と死の狭間で藻掻く彼が、どうか彼の元へとたどり着けるように…今はそれを願うしかなかった。


翌日、十三日。
朝早く英は近藤と土方が休む船室にやって来た。寝不足の英は昏い表情で挨拶もなく土方に向けて
「ごめん、もう持たないと思う」
と告げた。土方はその短い言葉ですべてを察し、近藤と英とともに部屋を飛び出した。まだ朝焼けの陽が差し込む静かな船内を早足で歩き、負傷者が集められた大きな船室を訪れるとすでに山崎の寝床の周りには総司や新撰組隊士たちが囲い、虫の息となった彼の様子を固唾をのんで見守っていた。
「…近藤先生、土方さん…」
一番近い場所で山崎の手を握っていた総司は、目を伏せる。近藤が枕元に膝を折り「山崎君、山崎君」と声を掛けるとほんの少しだけ瞼が痙攣した。
淀で受けた数か所の傷はすでに化膿し見るのも耐えられないような痛々しい姿となっている。松本や英、加也が口揃えて言ったとおり山崎は江戸まで持ちそうになく、ここまで生き永らえたことすら奇跡的だったのだろうという状況だ。
感情を昂らせた近藤は目を潤ませた。
「山崎君、今までご苦労だった…。君の働きは決して表に出ることはなかったかもしれないが、君が粉骨砕身働いたことは皆が知っていることだ。君がいなければ成しえなかったことはたくさんある…君の功績は偉大だ。我々が必ず語り継ぐ…ありがとう。本当にありがとう…!」
近藤の労いに対して山崎の反応はない。ただ微かに動く胸の鼓動だけが彼が生きている証だった。
総司は「土方さん」と呼び、握っていた山崎の手を渡した。土方は乾いた彼の手を躊躇いがちに握り
「悪かった。…何もかもお前のおかげだ…」
と短く言った。
それは淀で土方を庇って撃たれたことへの謝罪でもあり、これまでの縁の下での働きを愚痴も言わず続けて来た彼への感謝でもある。近藤のように言葉を尽くすことがなくとも、土方の片腕として働いてきた山崎には意味が察せられるだろう。
山崎の指先に少しだけ力が入った。そして最後の力を振り絞るように薄く目を開いた山崎はゆっくりと周囲を見回した。
「山崎君…!」
「山崎さん…」
「山さん!」
身を乗り出す隊士たちをかき分けて、静かに成り行きを見守っていた英が飛びつくように山崎の顔を覗き込む。同じ師の元で学んだ彼らは二人とも新撰組お抱えの医者であった。
「…頼む、な…」
「うん…うん、わかったよ…」
英は涙を流しながら頷くと山崎はふっと安堵したように微笑み、再び目を閉じた。隊士たちが名を呼び、彼との最後の別れを惜しむ声が部屋中に響いた。山崎はそのすべてには答えられなかったが、
「おおきに…」
とだけ口にした。
そして土方が握っていた手の力が抜けていく。英は脈を取り首を横に振ったーーー土方は繋ぎとめようと再びその手を強く拾い上げたが、やはり山崎はそのまま力尽きてしまった。
「山崎さん…」
総司はこれまで仲間の死を何度も目の前にしてきたけれど、初めて悲しみだけではない安堵を感じた。
彼は新撰組の監察方として組長として、医学方の一人として、隊士たちに見守られながら誇り高く旅立った。痛みを発する肉体から離れ、その表情が穏やかで柔らかな笑みに満ちていたのは彼にはあの世で待ち人がいたからだ。
『どうか、可哀そうやなんて言わず』『見送ってください』
山崎が言い残したように、彼はようやくすべての役目を終えたのだ―――。
「…いってらっしゃい…」
総司が小さく呟いた言葉は、隊士たちの嗚咽の中に消えていった。


総司は近藤と土方の船室を訪ねた。
「水葬すると聞きました」
てっきり江戸まで山崎の遺体を運ぶのだと思っていたところ、総司は英から近藤と土方が海に葬るという話をしていることを耳にした。隊士たちも動揺していたので、一体どういうことかと足を運んだのだ。
「お前も山崎の話を聞いていただろう?墓も、戒名も骨も何もいらないと言っていた」
「…そうですけど…でも、順動丸に乗った皆は…」
もう対面を果たせなかったとしても一目その顔を見たいのではないかと思ったが、土方は「山崎をそのままにしておけない」と答えた。実際、乗船してから息絶えた兵士は数名いたがその骸は腐敗と腐臭を避けるため布団に包んで、まるで荷物のように雑多に甲板に安置されてしまうのだ…仕方ないこととはいえ山崎としては不本意なことだろうし、近藤や土方にとっても新撰組の組長がそのような扱いを受けるのは気が進まなかったのだ。
「きっと皆は納得してくれると思う。なんせまだ戦の最中だからな、なかなか一人だけを手厚く葬れないんだ」
近藤はため息混じりに「少し一人にさせてくれ」と言って自分の船室を出て行った。土方は乱れた髪をかき上げながら壁を背にした。
「…水葬というのは海軍にとっては由緒正しいやり方なのだそうだ。山崎も言っていただろう、縁もゆかりもない江戸で埋葬されるのは本意ではないと。…俺はこれが悪くないと思う」
「そうですか…海か…」
総司は何となく船室の小さな窓へ進み外を眺めた。今は紀州沖を航行しているそうだが、遠くに稜線が見えるだけで見渡す限り海に囲まれている。しかしそこにあるのは浜辺で見た穏やかに波を返し続ける海ではなく、黒く何もかもを飲み込むようなゾッとしてしまう深海だ。
「ゲホッ…!」
総司は不意に咳き込んだ。冷たい空気が喉に触れて急に胸が苦しくなったのだ。驚いた土方は総司に駆け寄り肩を寄せ、その背中を摩った。息苦しさを堪えながら土方の顔を見ると、彼はいつになく深刻な表情で「大丈夫か」と総司の様子を窺っていたが肩が大きく上下する激しい咳を繰り返し、
「ゲホッ…ゲホッ!」
総司は堪えきれず喀血した。掌で収まるほどの少ない喀血であったが、真っ赤になった手のひらを見て
「私も…」
とつい呟いてしまった。その言葉の先はとても口にはできない。
(そろそろお迎えが来るのか…)
山崎の死を目の前にしたせいか急に悲観的になってしまったのだ。決して山崎の死は他人事ではない…総司はそれを噛み締めていたのだが、土方は顔色を変えて懐紙を取り出して総司の掌の血を拭いた。
「…歳三さん…」
「…お前はまだいくな」
まるで一切の痕跡を消して喀血をなかったことするかのように懸命な姿に総司は胸が苦しくなった。土方は総司の身体を抱えると自分の寝台へ運び、呼吸が落ち着くまで待った。
「…歳三さん」
「やっぱり今日からこの部屋に移れ。…お前はお前なりの意地があるのかもしれないが、怪我人のなかにお前を置いておくのは気が気でない」
「…わかりました」
負傷している隊士や伝習隊の若者たちと離れて特別扱いを受けるのは気が進まなかったが、山崎がいなくなった寝床の隣で色々なことを考え込んでしまう自分の姿が想像できた。総司の返答に安堵した土方は、その顔を寄せて口づけた。
「ちょ…」
まだ喀血のあとで口のなかは血の味が充満している。総司は咄嗟に顔を背けようとしたが、土方はそれを許さず両手首を掴んで逃げ場をなくし器用な舌が口唇から歯列を舐め、絡ませすべてを吸い取るような口づけを繰り返した。やがて二人の口腔が共有されて同じものになっていく。
「…っ、もぉ…」
「いいから」
「こん、ど…先生が…」
「戻って来たって構わない」
「私は、構います…」
こんなところを師匠に見られたら、と考えるだけで羞恥心でいっぱいになってしまう。総司は土方から逃れようとしたが、彼の両手は総司の後頭部に回されて掴まれその激しい口づけからは逃れられそうもない。やがてぼんやりと視界が霞むくらいになったところで総司は降参した。
「…も、知りませんからね…」
「こうやってると…お前がここにいるんだとわかる。だから…」
だから、のあとを土方は口にしなかった。そのかわりまた口づけをして何かを確かめるように総司の輪郭から首筋に触れたのだった。



雲の合間から日差しが差し込んだ頃。
甲板にて新撰組隊士が揃い、近藤が追悼の弔辞を述べたあと山崎の水葬が行われた。白木綿が巻かれ布団にくるまれた山崎の遺体はその端四か所に重りかわりの大砲の弾丸をつけ、麻縄でゆっくりと海上へ向けて降ろされていった。
「…土方君」
その麻縄を切り落とせば、海へ落ちる。涙を滲ませた近藤はその役目を土方に託して脇差を渡した。
土方がその脇差を見つめると、これまでのことが一気に思い出された。壬生浪士組の頃から監察方として新撰組のために尽くし、様々な顔を持ちながら苦労を重ね…彼の生きて来た道は決して楽なものではなかっただろうが、いつも朗らかで真摯だった。
(俺はあまりいい上司ではなかったな…)
山崎は「そんな」と笑い飛ばすかもしれないが、結局上司を庇って死んでしまったのだから、土方の悔恨は尽きない。だが、彼が立派な新撰組隊士であったことは揺るがない事実であった。
土方は脇差を手に麻縄に近づいた。山崎が望んでいる言葉はよく知っている。
「…ご苦労だった。ゆっくり休め」
土方は指先に力を込めて麻縄を切り落とした。あっという間に海面に向かって落下していった山崎の骸はバシャン!と大きな水音を立てた後、そのまま海深くへ沈んでいった。








886


水葬を終えたあとも、富士山丸は順調に航路を進んでいた。
「どうした、歳」
近藤が打ち合わせを終えて艦長室から戻ると、船室の扉の前で難しい顔をしたまま腕を組んでいる土方がいた。髪を切り洋装姿で佇む姿はまだ見慣れないが、何故か様になっていることは近藤でさえ認めざるを得ない。しかし彼は物憂げな様子だ。
「…いや…」
「…総司の具合が良くないのか?」
日頃鈍感な自覚がある近藤だが、幼馴染の考えていることは手に取るようにわかる。土方は躊躇いながら頷いた。
「いま、英が診てるところだ。…喀血したのに無理をして山崎を見送ったからな…冷たい海風が堪えただろう」
「…お前も中に入ったらいいだろう?こんなところで待っていないで」
「いや、俺がいるとあいつは強がる…」
医者であり早くから病のことを打ち明けていた英に対して総司は患者として素直になるが、そこに土方や近藤がいれば「大丈夫だ」と自分の体調を隠そうとする。近藤も納得して土方の隣に並んだ。
「歳、これから総司のことはどうするつもりだ?」
「…」
「身寄りがなかった都とは違って、江戸に戻ればおつねやおみつさんに頼ることもできる。匿える親戚や知人も多いし皆協力してくれるだろう…何も俺たちが連れまわす必要はない」
「…そうだな…」
「お前は総司が決めればいいと思っているかもしれないが…身体を悪くすればするほど意固地になるものだ。良いように決断を促してやるのもお前の役目だと思うが」
「ハハ…さすが、一度療養した奴は言うことが違うな」
「おい、俺は真面目に…」
「わかってる」
近藤の助言を理解していないわけではない。土方は深く息を吐いた。
「この先どうするか、船を降りるまでにちゃんと答えを出すつもりだ。俺もあいつを苦しめたくない…」
この船がゆらゆらと揺れ続けているように、土方の感情にも波があった。この先の新撰組に先行きを考えた時は総司は安全な場所で療養してほしいと切に願う…けれども彼を目の前にすると『ずっと離したくない』と儘ならない感情が沸きあがってしまうのだ。
「……つらいな」
近藤は土方の心情を慮る。近藤とて一時は剣術を譲ろうと考えたことのある愛弟子を思うと胸が痛む。いっそ二人につらい思いをさせたくない一心で自分が決断する方が楽ではないかと思うのだが、
「でも…俺はお前たちの決断を尊重する」
それは二人にとって心残りとなるだろう。近藤は静かに見守ることを決めていた。
土方は再び頷くだけで何も言わなかった。二人の間に沈黙が流れたが、長年過ごしてきた幼馴染同士、それを気まずく感じることはなかった。
するとそこへ「土方先生!」と伝習隊の大川が顔を出した。彼は顔を綻ばせ片足を引きずりながら土方の前にやってくると深く頭を下げた。
「大川君」
「土方先生、ご無事で何よりです。またお会い出来て光栄です」
「ああ…君は怪我をしたのか?」
「はい。ですがかすり傷です!」
大川は笑みを浮かべた後、ちらりと近藤へ視線を向けたので「新撰組の近藤局長だ」と紹介すると彼の表情は一層引き締まった。
「お初にお目にかかります!わ、私は伝習隊士官の大川正次郎と申します」
「伝習隊か。先日の戦では大活躍だったそうだな」
「い、いえ…恐縮です。あの、土方先生には戦場で大変お世話になりまして…」
「へぇ、世話を?」
二十歳そこそこの若者にどんな手ほどきをしたのか、と近藤は苦笑するが、土方はただ大川の話を聞いただけで特別なことは何一つしていない。
「大袈裟なことを言わなくていい。伏見で少し話をしただけだろう」
「いえ、あの時…誰も私の話に耳を傾けてくれませんでした。結局私と土方先生が危惧した通り御香宮から撃ち込まれ夜まで持たなかった。私はたとえ疎まれたとしても上官や同僚に自分の意見を主張するべきと悟りました。今後に生かしたいと思います」
興奮すると矢継ぎ早に喋るのは変わらないようで、この調子で正論を振りかざし空気を読まず上官に詰めよれば、本人だけでなく周りも苦労しそうだ。しかし結局彼は伝習隊の士官であるので、土方はそこまで言及はしなかった。
「それで、何か用か?」
「あ…その、もう一人、私と同じ伝習隊の士官が乗船しているのですが、姿が見当たらず…」
「ああ、滝川君か」
近藤はその人物に心当たりがあるようだった。
「艦長室の方には来ていないよ。船尾の方ではないかな」
「そうですか、ありがとうございます!」
大川はまた頭を深く下げると「失礼します」とそのまま引き返すようにして去っていった。彼は治ったと口にしたがまだ足を引きずりながら歩いていて、痛々しく悪化してしまうのではないかという後姿だった。近藤も同じで
「この船に乗ったということなら、そこそこの重い傷のはずだがなぁ…」
と心配そうにしていた。
「ところで滝川というのは、まさか…?」
「ああ、滝川播磨守のご子息だよ。伝習隊の士官らしい。彼は軽い負傷だったようだが、榎本艦長の計らいでこちらの船に乗せたと聞いているよ。…まあ彼の立場を思えば血気盛んな兵士が集う順動丸に乗せるのは余計な騒動を招くかもしれないからな」
「…そうだな…」
滝川播磨守―――その名前を聞いて土方でさえ胸中複雑になった。戦を避けるような曖昧な指揮のおかげでどれほど苦労したか…その息子に当たっても仕方ないとわかっていても思うところがあった。


英の診察を終えて総司はしばらく寝込んでいたが、陽が落ちる頃に目を覚ました。身体を起こすと傍らで椅子に腰かけたまま目を閉じた土方がいることに気が付いた。髪を短く切りそろえ洋装を着こなして足を組む…つい先日まで羽織袴の姿で畳の上で膝を折っていたのに、こんなに簡単に順応できるものだろうかとふいに笑いが込み上げた。すると土方が目を覚ました。
「…どうした?」
「いえ…何でもないです。近藤先生は?」
「榎本艦長と話し合いをしている。江戸に戻って入城したら上様に今一度徹底抗戦を願い出るそうだ」
「…なんだか他人事ですねぇ」
「なるようにしかならねぇよ。…具合は?」
土方は総司の額に掌を当てた。水葬のあと一時的に上がった熱はすっかり冷めて肺の痛みもない。
「眠ってすっきりしました。ようやく船の揺れにも慣れて来たところですし…今はどのあたりですか?」
「さあな…明日の夜には横浜に着くと聞いた。次の朝には品川だ」
「へえ、さすが船は早いなぁ…」
総司は何となく窓の外に目を遣ったが、陽が落ちると真っ暗になる海上ではまったく現在地が掴めず、明日横浜に着くと言われても実感は全くなかった。
「おそらく順動丸はそろそろ到着だろう…俺たちは品川に着いたら宿で永倉たちと合流して、その後は新しい屯所が決まるまで宿に留まることになる。…ひとまず、お前と近藤先生は療養できる場所に移ることになるだろう」
「…そうですか…」
また別の場所で皆の無事を祈らなければならない…気が進まないことではあったが、いつ喀血するかわからない身体では足枷になることはわかっていた。総司は視線を落としたが、その胸元の指環を見つけた。
(繋がっている…)
指環と、鎖。身体は離れ離れになってしまっても、心は繋がっている―――彼らに貰った言葉がいつも折れそうになる気持ちを支えてくれていた。きっとこれから先も…。
「私は…」
大丈夫だ…と言いかけたところで、突然船室の外からバァン!という大きな衝撃音が聞こえた。岩礁にぶつかったのかと思ったが船体は異状なく、ただ外で大きな物音がしただけのようだ。同時にバタバタと足音が遠ざかっていく音も聞こえた。
「…様子を見てくる」
土方は怪訝な表情を浮かべ席を立ち、船室のドアを開けるとすぐに表情を変えて「大丈夫か?」としゃがみこんだ。総司は驚いて後を追い、土方の背中から様子を窺ったところそこにいたのは充太郎だった。彼は壁を背にして座り込んでぐったりと項垂れている。
「充太郎さん?」
「…あ…」
充太郎は顔を上げた。彼の髪は乱れ口の端からは血が流れ、頬は赤く腫れている。殴られたのだろうということはすぐにわかった。
「な、なんでもありません…お騒がせして…」
「土方さん、ひとまず中へ」
「ああ」
「いえ…私は…」
充太郎は拒もうとしたが、背中をしたたか強く打ったようですぐに表情を引きつらせた。土方は細身の充太郎を軽々抱えて船室に入り、ひとまず近藤の寝台に寝かせた。充太郎は恐縮しきりで「申し訳ありません」と何度も繰り返し身を捩ったが、もともと怪我をしていた左腕からも少し血が滲んでいた。
「…英を呼んでくる」
土方は船室を出て行く。総司は充太郎の傍らに椅子を持ってきて座った。
「充太郎さん…誰かに殴られたのですか?」
「いえ…私が…」
「君の父君のことで?」
「…」
総司が核心に触れると、充太郎は図星だったようで顔を顰めて「その…」としどろもどろになった。
「誰に殴られたのです?」
「…それは…言えません」
「顔を見ていないのですか?」
「どうかご勘弁ください…彼らの気持ちは…わかりますから」
若干二十歳の若者が加害者に同情し庇おうとしている…総司は納得できずさらに問い詰めた。
「そんなもの、わからなくて良いんです。たとえ父君が何か失態をなさったとしても、君が怪我をする理由にはなりませんよ」
「……でも、俺だって…」
感情的になって『私』から『俺』へと口ぶりを変えた充太郎は涙を滲ませた。
「俺だって…同じことをしたかもしれない。殴られている時にそう思えた…だって、父のせいで負けたんです。それなのに父は責任を取ることなく上様を追ってさっさと江戸へ…兵を残して、自分だけ…!」
「…充太郎さん…」
「残された兵のことを思うと…これくらいの八つ当たり、受け入れて当然です…!」
充太郎は箍が外れたように号泣すると、頭まで布団をかぶって身体を丸めて泣き始めてしまった。
(彼だって伝習隊の一員として第一線で戦った…)
戦場で苦々しい思いをしたのは他の兵と同じなのに、父の所業で責められて板挟みになってしまう。そんな彼の立場を思うと総司は言葉がなかった。少なくとも戦場を離れて成り行きを見守っていただけの総司には、彼を慰める立場ですらないのだ。
けれどだからと言って見放すわけにいかず、充太郎の背中に触れてゆっくりと摩った。するとそこへ
「充太郎さん!」
とどこで話を聞きつけたのか大川が駆け込んできた。彼は布団にくるまって隠れながら嗚咽する充太郎を見てすぐに状況を察し青ざめつつ、総司に向かって頭を下げた。
「…申し訳ありません…ご迷惑をおかけして…」
「迷惑なんて思っていませんよ。…それより、誰かに殴られたみたいで…」
「はい…いつかこのような日が来るのではないかと覚悟していました。充太郎さんの立場では…」
「…」
充太郎の性分をよく知っている大川は、犯人は誰かなどと問い詰めずただ悲しそうな眼差しで寄り添っていた。昨日、船室でのやり取りで二人は親しい同僚だと思っていたが、思っていた以上に近い間柄なのかもしれない。
そうしていると、土方は英とともに船室に戻って来た。











887


充太郎は布団をかぶって顔を隠し、大川は立ち尽くしている―――そんな状況に接し、聡い英は察することもあっただろうが、顔色ひとつ変えずに
「こら!」
と怒鳴った。その一喝で総司と土方は目を丸くして、大川は怯み、充太郎の嗚咽も止まった。重苦しい空気は一変した。
そして英はつかつかと進んで躊躇いなく布団を取り上げる。充太郎が泣き顔を隠そうと両手で覆ったが、英は構わずに怪我をしている左腕を引っ張り上げてその包帯を強引に解いた。
「出血は大したことない。殴られたらしい怪我ももう血が止まっているし、そのうち腫れも引く。冷たい手拭いでも押し当てておけばいい」
英はいつになく苛立った様子で充太郎の診察を終えた後、すぐに大川の方へ振り返った。
「問題は君!」
「は、は…っ」
「怪我をしているくせに走り回っただろう!廊下や船室のあちこちに血のついた足跡があるし、今だって傷口が開いて出血している。この船では最低限の治療しかできないっていうのに、悪化させるような馬鹿な真似をして一体何を考えているんだ!」
英は大川を椅子に座らせて怪我をしている足を寝台に乗せさせた。隊服が黒いせいでわかりにくかったが、英の言う通りすぐに白いシーツがみるみる赤く染まった。大川本人は軽傷だと語っていたが、彼のズボンをたくし上げさせて真っ赤になった包帯を解くと傷口は塞がっておらず荒く縫われた糸の合間から痛々しく血が流れていた。
「…歳さん、悪いけど手桶に水を。たっぷり頼む」
「わかった」
「そんな…」
新撰組の鬼副長を顎で使う…大川は絶句していたが、土方は厭うことなく再び船室を出て行く。英は持ち込んできた風呂敷を広げて消毒液を吹きかけながら大川に釘を刺した。
「言っておくけど、このまま化膿してあちこちが壊死するかもしれない。そうなったら…最悪、足を切るかもね」
「えッ?!」
声を上げたのは張本人の大川ではなく、充太郎だった。泣き顔を隠していたことすら忘れて驚いて飛び起き、青ざめた表情で大川のもとへ駆け寄った。
「正次郎、すまない…俺のせいで…そんな…」
「…充太郎さんの責任ではありません。私が勝手にあちこち探しまわっただけで…」
「先生、本当に足を切ることになるのですか…?!」
充太郎は英に詰め寄ったので、彼は深刻な表情のまま答えた。
「さあ、どうだろう。さっきも言ったけど、ここには最低限の薬しかない。…品川に着いたら良順先生に診てもらった方が良いかもね」
「御典医様にそんな…」
大川は大袈裟だと思っているようだが、充太郎の方は真に受けて「そうします!」と頷いた。先ほどよりも大粒の涙をこぼしながら
「すまない。本当に済まない…」
と謝り続ける姿は見ていられないほど憐れだった。
そのうち土方が戻って来て英は本格的に処置を始めた。痛みを堪えてやり過ごし続ける大川に傍らで充太郎は励まし続ける…総司はいたたまれなくなって土方とともに船室を出た。
「…足を切るかもしれないって…」
「傷口が開いただけだ、そんな大事にはならないだろう」
「本当に…?英さんは松本先生に診てもらった方が良いだなんて言ってましたけど…」
薬屋だった土方は傷口の処置は見慣れている。心配そうな総司を見て苦笑した。
「あの程度なら松本先生に診てもらうまでもない。英は無茶をする二人を嗜めるために大袈裟に言ったんだろう。…あの二人にはいい薬だ、黙っておけよ?」
「ああ…なんだ、そういうことですか…」
伝習隊の二人と同じように英の言葉を受け止めていた総司はホッと安堵する。けれど問題が解決したわけではない。
「でも…誰がこんな酷いことを。少し考えれば充太郎さんに非がないことは明らかでしょうに…」
総司は同情を禁じ得ないが、土方は首を横に振った。
「もう犯人探しはしなくていい。明日には到着する…この件はこれで終いにすべきだ」
「…でも、それじゃあ…」
「非がなくても、これ以上騒ぎを大事にするのは得策ではない。…このまま有耶無耶に終わらせる方がご子息のためだ」
「…」
総司は納得できなかったが、暴力を受けた本人が望むのだからどうしようもない。土方は総司の複雑な表情を見てくしゃくしゃっと頭を撫でた。
「お前は具合が良くないんだろう。ご子息のことは一応気にかけておく…だから大川君の治療が終わったら余計なことに首を突っ込まず、寝てろ」
「…わかりました。それで、さっき…言いかけたことですけど」
「ああ…」
充太郎の件で話を切り上げていたが、総司は己の今後について口を開いた…のだが。
「終わったよ」
と英が先日の扉を開けて顔を出した。二人が船室に戻ると大川の足は包帯でグルグルに巻かれ、まるで足が二倍に膨れ上がったような状態で寝台に横になっていた。英はタスキを外しながらため息をついた。
「伝習隊だかなんだか知らないけど、とりあえず鬼副長の権限で二人に部屋から一歩も出ずに療養するように厳命してよ」
「…そういうことだ」
英の懇願を聞き、土方は二人を見据える。もちろん土方の立場ではその権限はないのだが、土方を尊敬する大川は当然受け入れて、充太郎も改めて頭を下げて同意した。
土方は小姓たちを呼び手伝いをさせて二人を元の船室に戻した。
「悪かったな」
「まったく…血の気が多すぎるよ。怪我人は怪我人らしくじっとしていればいいのに…」
寝不足のところを叩き起こされたせいで英の機嫌は頗る悪く、ぶつぶつと文句を言いながら風呂敷を結ぶ。乗船以来まともに休んでいないのだ。総司は「休んでください」と英の背中を押した。
すると入れ替わるように榎本との打ち合わせを終えた近藤が戻って来た。
「どうした?何かあったのか?」
「あ…いえ、もう解決しました」
「榎本さんとは?」
総司も土方も充太郎の件を近藤には伏せた。義侠心に篤い彼なら充太郎に暴力をふるったことを許せず、兵士たち一人一人を問い詰めてしまい大事になってしまうだろう。
近藤は「中で話そう」と言いながら二人とともに船室に入って椅子に腰かける。小姓たちが片付けてくれたので大川の処置の後は元の部屋に戻っていた。
「榎本艦長とはやはり品川に到着次第、真っ先に登城するという話になったよ。俺は今度こそ江戸での再起を懇願したいところだが、榎本艦長は軍艦を何としても死守したいとお考えだ。陸で負けたとしても江戸の海で勝てれば徳川が滅びることはない…ただ、上様が恭順に傾いて軍艦を引き渡すような譲歩をされては困るそうだ」
「開陽丸の艦長なら当然だな」
ただでさえ不在の間に江戸へ出立するような暴挙に怒り心頭なのだ。そのうえ勝手に引き払うような真似をされては榎本の立場がなく、海戦でなら薩長に対して優位に戦を進めることができると自負している。
近藤は
「船が品川に着けば忙しくなるな」
と言いながら榎本におすそ分けしてもらったというビスケットを総司に渡した。
「異国の茶菓子だそうだ。甘くて美味いぞ」
「へぇ…初めて見ました。ありがとうございます」
総司は軽くほろほろと崩れてしまいそうなそれを早速口に含んだところ、甘さが一気に広がりすぐに砕けてしまう触感が珍しい。総司が「美味しいです」と顔を綻ばせたので近藤は満足した。
「ああ…そういえば知っていたか?榎本艦長は松本先生の義理の甥…遠縁にあたるそうだ」
「そうだったのか」
「ただ、どうも反りが合わないらしくてなぁ…松本先生はあのように快活でおられるが、身内には厳しい一面もあるそうで、榎本艦長は『なかなか認めてもらえない』と笑っておられたよ」
誰とでも気さくに距離を詰めて少し強引な所もありながらも懐の広い松本と、鬼副長とたった数日で意気投合してしまった榎本は気が合いそうなものだ。総司は(意外だな)と首を傾げたが、
「同族嫌悪なのかもな」
と土方はあっさり頷いて理解した。
「近藤先生、今夜からこの部屋を総司に使わせても良いか?」
「ああ、勿論だ。そもそも負傷者ばかりで落ち着かない大部屋ではゆっくり養生できないだろうと気になっていたんだ」
「俺が代わりに大部屋に移る」
土方があっさりとそんなことを言うので、総司は慌てた。
「そんな、だったら私が元いた場所で構いません。もう明後日にはつきますし…」
「ろくに眠れていなかったんだろう。意地を張らず、ここで休め」
「でも…」
「はは、むしろ負傷兵たちの方が歳に気を使いそうだなぁ」
譲り合う二人を見て近藤は笑い、総司は便乗した。
「そうですよ、鬼副長がずっと部屋にいるなんて、四六時中気を張らせて可哀そうじゃありませんか」
「…知るか。そんなこと気にせずお前は八軒家の屋敷と同じように近藤先生と一緒にこの部屋でゆっくり休めと言っているんだ」
「土方さんも隊士のことも気になって休めません」
「強情だな」
土方と総司が言い合いになったのを見かねて、近藤は
「だったら俺が移るよ」
と言い出したので、総司と土方は慌てた。
「近藤先生、そんなつもりじゃ…」
「そうだ、局長が負傷者と一緒じゃ示しがつかない」
「なに、隊士と腹を割って話したいと思っていたところだし、榎本艦長とはまた議論をしようと誘われている。この様子だと品川に着くまでこの部屋でゆっくり休めそうにないからちょうどいいじゃないか」
近藤は自らも負傷しているはずだが、到着まで逸る心を抑えきれないのか自室に籠るつもりはないらしい。
「だが…」
「良いんだ。それにお前たちの邪魔はしたくないからな」
「近藤先生…!」
近藤が意味深に微笑んだので、総司は一層慌てた。師匠に気を回されるなんて、と思ったが
「二人で話し合うこともあるだろう。江戸に帰ったらゆっくりできないからな」
と、近藤が総司と土方に視線を向けた。船を降りるまでには…という土方の言葉を聞いていた近藤は後悔しないように時間を与えたかったのだ。
そんなことを知る由もない総司は紅潮した顔で首を傾げたが、土方は「わかった」と頷いたのだった。










888


すっかり日の暮れた船は休むことなく目的地を目指す。たとえ雨に降られても、強い風に流されてもその場に留まることなく進む…乗船した者はただ、その力強さに身を委ねるしかない。
船室の小さな窓からは真っ暗な夜空と海が境目なく混じり合い、激しい波音だけが届いていた。ランプの灯りで外を眺めていた総司の顔が窓ガラスに映っている。その表情は冴えない。
「…近藤先生に悪いことをしてしまいました。先生ちゃんと眠れるのかなあ…」
一番弟子として静かで居心地の良い一等室であるこの部屋を譲られ、師匠は負傷者が集い昼夜問わず騒がしい大部屋へ移動させてしまったのは心苦しい。総司はいまだにそんな申し訳ない気持ちを抱いていたのだが、土方はすでに
「気にすることはない。あいつは言い出したら聞かないんだ」
と諦めていた。
土方はグラスに水を注ぎ、総司を手招きして二人は寝台に並んで腰かけた。彼の隣で一息つくと、総司は病のものとは違う疲労感を覚えた。
「…ああ、なんだか今日はとても一日が長いです。船に乗ると一日が長く感じませんか?」
今朝方山崎が息を引き取り、昼間に水葬を行った。その後総司は休んだが、充太郎と大川の騒動を経てようやく一日が終わろうとしている。目まぐるしい一日だった。
「そうだな…たぶん自分の足で進んでいないからだろう。駕籠でも馬でもない…どこか、自然の摂理に逆らって海を進んでいるような気がする。これからの世の中では当たり前になるのかもしれないが…」
「でも歳三さんはそれを面白がれる人でしょう?」
「まあな」
いち早く銃調練を取り入れてさっさと洋服に着替えてしまった土方なら、この先どんなに世界が目まぐるしく変わっても生きていけるのだろう。そのうち摂理に反しているなんて言わなくなってしまうに違いない。
(僕はどうかな…)
いまいち想像ができないのは、この先について考えようがないからだろうか。都にいた時よりも喀血の頻度が増え、身体の倦怠感は否めない状況では、この命の残り時間について考えてしまうのは仕方のないことだろう。
土方は水の入ったグラスを押し黙ってしまった総司に差し出した。
「ほら、飲め。…船の上じゃ、普通に飲める水は酒よりも貴重だ」
「確かにそうですね」
フッと笑いながら総司は受け取り、その冷たい水で喉を潤した。
船の揺れで時折肩が触れる。総司は重い口を開いた。
「…あの、さっきの話の続きですけど。なんだか全然話せなくて…」
「ああ。いろいろ邪魔が入った」
「その…私はやはりどこかで静養した方が良いのだと思います。歳三さんや斉藤さん…皆から戦場での過酷さを耳にして、このままじゃますます皆の荷物になってしまうのではないかと…そう思いました。それに江戸に戻ったら新しい隊士を募集すると聞きました。この機会に正式に組長を降りて隊から離れた方が示しがつくんじゃないかと思うんです。江戸なら試衛館の縁もあるし姉上もいますから、一人になるわけでもないし…」
総司のグラスを持つ手に力が入り、中の水が少し震えた。
不本意ではあっても、このまま戦場で戦い続ける新撰組に同行するのは現実的ではない。近藤は怪我の具合がもう少しよくなれば復帰できるのだろうが、悪化の一途をたどる自分にそれができるとは思えなかった。
「…だから…船を降りたら、私は…」
隊を離れる。
(貴方とまた離れなくてはならない)
覚悟が決まらず心の奥底で受け入れがたいと思っているせいか、上手く言葉にできなかった。唇を噛んで悔しさを堪えていると、土方は総司が手にしていたグラスを取り上げてたあと、肩を引き寄せた。
「…お前は正しい。客観的に物事を見て、自分がどうするべきがちゃんとわかっている。近藤先生も賛成するし、松本先生や英もそうするべきだと口にするだろう。隊士たちも納得してお前を見送る…だからお前が隊を離れる覚悟をするのは真っ当な判断だ」
「歳三さん…」
「だが…それでいいのか?本当にお前はそれでいいと思っているのか?」
肩を強く引き寄せられ、ぬくもりを感じ、一番近い場所で土方の言葉が鼓膜を揺らす。しかしその問いかけは今の総司にとって苦しさしか感じられなかった。
「…ほんとうに、良いって…思ってます。そうするべきだって、」
「存在しない誰かの『そうするべき』はいらない。お前が心からそう思うのかと聞いているんだ」
「…っ、そんなこと…」
水の中にいて、息苦しさを堪えながらこの気持ちを深海へと沈ませていたのに、それを引っ張りだされるような気持ちだ。耐え抜いたものがあっという間に泡沫となって消えて行ってしまう。
総司は土方の胸に顔を埋めた。
「そんなこと…聞かないでください…」
「…ここには俺とお前しかいないのに?」
「だからです。…歳三さんは、私の本音を聞けばそれを叶えようとする。今までだってそうだった…労咳の隊士は皆、除隊させたのに…特別扱いをして…」
「それの何がいけないんだ。お前はかっちゃんや食客たち、隊士たちにとって必要だったから隊に残った。…俺は特別扱いなんてしていない、求められて必要だからだ。それはお前が今まで築き上げてきたものだろう」
「…っ、何なんですか…何を言わせたいんですか?」
総司は混乱して土方の胸板を押して離れた。有難い言葉ではあったけれど、今聞かされたところで心を揺さぶられるだけだ。
けれど土方は逃がさずにその両手を取って、
「本当のことを聞きたい」
と言った。譲らない眼差しを向けられたけれど、総司はただ涙が溢れてくるだけだった。
「酷い。歳三さんはひどいです…。わかってるくせに…どうしてそんなことを聞くんですか…」
「…お前の口から聞きたいんだ」
「言いたくありません…ただの弱音です」
「それでも言ってくれ」
土方は触れるくらい近くに顔を引き寄せて促し、総司はもう逃れられないと悟ると同時にプツン、と自分の中の糸が切れたような気がした。
感情と言葉が堰を切ったように溢れ出てくる。
「…だったら言います。私だって本当はついていきたい!新撰組の一員として、皆とともに行きたい…!どれほど邪魔であっても、戦場で戦って死ねたらいいのに…こんな病で、ひとり床で死ぬなんて御免だと思ってます…!」
「総司…」
「病が憎くて、身体が思うようにならないことが悔しくて仕方ありません…!今すぐ終わらせたいくらい…本当は…」
苦しくて、悔しくて、つらい。
総司は半ばやけくそのような気持ちだった。
どうせ叶わないとわかっていることを口にしてしまうことほど、虚しいものはない。それが近藤や土方の耳に入ると思うと情けなくて仕方ないのだ。
「もう…勘弁してください…」
正気に戻った総司は項垂れた。せめて去り際は清々しく居たいと思っていたのに、こんな本音という名の幻のような夢を口にして彼に知られてしまったせいで心が折れてしまった。止めどなく涙が流れ、まるで壊れてしまったかのようにほろほろとそれが頬から落ちて行く。
すると土方はようやく手を離して、指先でその涙を拭った。
「…俺も同じだ。どれほど危険でも、お前が命を縮めても、連れて行きたいと思ってる。それに今回の戦はどうにか生き延びたが次の戦場はそうとは限らない…お前を置いて、お前と離れて俺が先に逝くことになるかもしれない」
「そんな…」
「俺やお前だけじゃない、誰もがそんな状況なんだ。だから…俺もお前に本音を言いたい。いや…本音というよりも我儘なのかもしれないが…」
「なに…」
土方は総司の顎を掴んで、少し強引に上向かせた。
「次の戦には…お前も来い。這ってでも、一緒について来い」
「…え…」
「そして戦場で一緒に死ねたら…それがいい。俺も本望だ」
土方の揺らぐことのない真摯な眼差しが、総司の目を射抜いていた。
『一緒に来い』
きっと療養しろと突き放されると思っていた。
総司はそんなことを言われるなんて思いも寄らず呆然と土方を見つめたけれど、彼の発する言葉には澱みはなく、何の偽りもない『本音』であることに間違いはない。それを理解した途端、総司の胸は昂り震えた。
その時、首にぶら下げていた指環が小さな音を立てて揺れた。土方はその指環に触れながら
「俺の本音はお前と同じだ。だから…お前だけの我儘じゃない。…俺の願いを叶えてくれるか?」
と訊ねた。
(僕の願いと同じだ…)
総司の願望を総司だけのものにせず、自分のものとして共に歩みたい。それが例え誰かの邪魔者であったり、足枷となったとしても―――叶えたい。
総司は思わず両手を伸ばし土方の輪郭に這わせて引き寄せた。そしてまるで噛みつくような口づけをしてその手を彼の首に回すと、土方もそれに応えるように息をつかせぬ口づけを返してきた。
「…っ、歳三さん…!」
「…歯止めが聞かなくなる前に言っておくが、あくまで近藤先生が止めた時は…それも終わりだ」
「わかってます…私たちの主君は上様ではなく、近藤先生です。だから近藤先生が戦場から退けというのなら…私が納得すべき時なのだとわかっています。だからそれまでは…」
「ああ、それまでは…絶対にお前を離さない。何があってもお前を連れて行く……お前の返事は?」
「そんなの…決まってます。一緒に、行きます。どんな地獄でも…」
どこへでも、這ってでも、共に行く。
その気持ちが固まった時、ずっと胸に抱いていた靄が晴れるような心地になった。いつか新撰組から離れなければならない…労咳を発症してからずっと、いつか来るリミットに怯え続けていたのだ。
再び二人は熱く抱擁し、互いの気持ちを確かめ合う。
総司はそのしなやかで柔らかな温かさに満たされながら昔のことを思い出していた。
池田屋へ踏み込む前、土方と気持ちが通じ合いそれまでとは違う関係が築かれた時…照れくさくて、けれどこの先の道を彼と進むのだと覚悟した。もうこの気持ちは揺らぐことなく、ずっとこの胸で温め続けるのだと誓った。
(僕が決めたことだ)
限りある時間を、共に歩みたい。
誰にとやかく言われても構わない。
それが互いの願いであるのなら尚のこと、譲れないのだーーー。









889


目が覚めた土方は寝台から降りた。総司は深い眠りにつき、まったく目が覚めそうにないので土方は乱雑に置かれた彼の羽織に手を伸ばした。洋装の上着は風を通さない分温かく感じるが、しかしいまは身体を締め付けるよりも今しかない潮風の冷たさを感じたかったのだ。
足音を忍ばせながら船内を歩き、薄い明かりの差す朝靄の甲板に出ると既にそこには近藤の姿があった。海を眺めて立ち尽くしている。
「…怪我人のくせに、何やってるんだ?」
近藤は振り向いて「歳か」と穏やかに微笑んだ。随分着込んでいるが、右肩の傷に障るだろう。しかし近藤は目を細めて船の行く先を見た。
「榎本艦長からそろそろ横浜が見えてくるだろうと聞いたんだ。待ちきれなくてな…お前こそ、何しに来たんだ?総司はどうした?」
「あいつは寝てる。ようやくゆっくり眠れたようだ」
「そうか…俺は榎本艦長や兵から色々な話を聞いて有意義な時間だったよ。早く部屋を替わってやれば良かった」
近藤は安心したように息を吐く。白い吐息はすぐに海風に晒されて消えていく…土方は彼の隣に立って同じ光景を眺めた。近藤が指さす方向には確かに何か見えるが、土方にはそれが彼の語る横浜の姿なのかどうかはよくわからなかった。
「…話はできたか?」
「ああ…おかげさまでな」
近藤は満足そうに「そうか」と言っただけで何も聞こうとはしなかったが、土方は敢えて口を開いた。
「俺は鳥羽と伏見の戦で…何度か、総司を残して逝くかもしれないと思った。その時に初めてあいつの気持ちが分かった気がしたんだ。これほど虚しく、心残りになるのかと…だから、次に戦があれば俺は総司を連れて行くつもりだ。どこまででも、できる限り傍に置く…それが病を進行させても後悔はしない」
「…そうか。それがお前たちの決断か…」
「ああ。だが、総司の存在を新撰組の足枷にさせるつもりはない。…それで、一つ頼みがある。俺は諦めが悪いからいつまでもあいつを連れまわしてしまうかもしれない。だからかっちゃんが引導を渡してやってくれ、剣を置かせたあの時のように…」
結局は人任せにしてしまうのかと責められる覚悟だった。一番大切で、一番辛い決断だけ師匠だという理由だけで近藤に押し付けてしまうのか、と。
(だが、それが…総司のためだ)
剣を置くと決めたあの時にように、身を退くべきだと近藤に告げられれば受け入れられる。近藤に生かされ近藤のために生きて来た総司にとって、自分の役目はここまでなのだと納得できるはずだ。
土方の申し出に対して、近藤は一言も責めることはなかった。むしろ微笑んだまま何度も頷いて
「わかった。それが愛弟子の総司をここに連れて来た俺の責任だよな」
と呟いた。
横浜…そしてその先の江戸を見据え、近藤の胸には懐かしさが過っているだろう。試衛館にやって来た幼子を新撰組随一の使い手に育て、そして結局は病に侵されて戻ることになってしまった。それが誰のせいでもないとわかっていても、師匠として、兄貴分として、家族や故郷の人々に対して申し訳なさは尽きない。
土方に胸にも同じものが去来する。
しかし言葉にはせずに、ただ
「…帰って来た…」
とだけ口にした。しかし波音に消されて誰にも聞こえなかった―――。


慶応四年一月十四日。
富士山丸は横浜に到着し、負傷者は横浜医学所へ収容されることになり、該当の負傷者が下船していく。総司はそのなかに充太郎が大川に肩を貸しながら歩く姿を見つけて駆け寄った。
「具合はどうですか?」
「あ…ご心配をおかけして申し訳ありません」
「土方先生にもご迷惑をおかけしました。あの剃髪のお医者様の処置が功を奏して痛みは治まってきましたから…」
二人は足を止めて深々と頭を下げた。
「いえ、私は何も…。英さんのおかげです。横浜の医学所へ入られるのですか?」
「はい。何でも裂傷や突き傷の縫合が得意な名医がいるそうで」
「へえ…縫合…」
総司は近藤の怪我が思い当たるが、ひとまず新撰組は品川に向かうというので彼らとはお別れだ。しかし充太郎の表情はいまだに冴えなかった。
「…もし、大川の足を切らねばならないということになれば…すべて私の責任です」
「やめてください、充太郎さん。何度も言ったでしょう、これは私が勝手にしたことで傷が悪化したとしても己の責任で…」
「だとしても私がお前の面倒を見ると言っている!」
「……」
思い込みが激しいのか猪突猛進なのか、充太郎は『足を切断するかもしれない』と思い込み、大川の言葉に耳を貸さず酷く思い詰めているようだ。大川は何度も言い聞かせているようだが暖簾に腕押しのようで、深いため息を付いている。
(英さんの『薬』が効きすぎているのかな…)
するとそこへ土方がやって来た。総司を探しに来たところで、二人の姿を見つけたようだ。
大川の背筋が伸び、彼は怪我を厭わず頭を下げた。
「土方先生…!先に船を降り、横浜で療養することになりました。大変お世話になりました…!」
「…そうか、すぐに癒えるはずだ」
「はい!必ず戦場へ馳せ参じます!」
「無理はするな。治ってからでいい」
どんな経緯があったのか詳しいことは総司にはわからないが、大川は新撰組の鬼副長を心酔しているようだ。土方の前では人が変わって饒舌になる大川に姿に苦笑し、続いてその隣で青ざめたままの充太郎へ視線を向けた。
「…怪我の具合は?」
「は、はい…このくらい、すぐに治ります…」
暴行を受け充太郎の若い端正な顔には何か所か痣が残ってしまっているが、すぐに引くだろう。謂れのない誹りに晒され続け、充太郎の心は疲弊するかもしれないが彼は伝習隊の一員としてこの先も戦い続けなければならない。
「もっと…もっと、強くなります。父のことで責められても毅然とした態度ができるように…私は私のやるべきことをこなし、邁進するだけです…」
「充太郎さん…」
総司はまだ父親の呪縛から逃れられず、自分で自分を苦しめようとしている彼の姿に憐れささえ感じた。けれど、彼らへどんな言葉をかけて良いのかわからず、土方へ視線を向けた。すると土方はその視線の意図に気が付き、少し面倒そうにしながら口を開いた。
「…確かに滝川播磨守様に、思うところがある兵はいるだろう。お前がその息子で、同じ血を引いているのはどうしようもない事実だ」
「ちょっと、土方さん…」
「だが、お前はお前だ。父親のことにばかり気を取られず、まず自分の周りに意識を向けたらどうだ?」
「…周り…」
充太郎はそれまでの張り詰めていた空気を解く。
「同じ伝習隊の隊士たちはお前を責めたのか?お前の働きを知って、それでも敗戦の責任がお前にあると言ったか?」
「それは…」
「言っていません!誰一人、そのようなことは…!」
口ごもる充太郎の代わりに大川が堪えると、土方は頷いた。
「…自分が思うよりも案外、味方は近くにいる。お前のために命をかけて心配する者もいる…周りの理不尽な八つ当たりに振り回されず、時世を見極めることだ」
「は、はい…!」
充太郎の昏い瞳は消え失せ、一筋の輝きが差し込む。隣で肩を借りていた大川も安堵の表情を浮かべた。
二十歳の若者らしい素直さと前向きな姿を取り戻し、彼らは互いに支え合うように船を降りていく。その姿を見送りながら、総司は「ふふ」と笑った。
「なんだよ」
「あんなことも言えるんですね、おみそれしました」
「あんなの、常套句に過ぎないだろ」
土方はそう吐き捨ててさっさと船内へ戻っていった。総司は(素直じゃないな)と微笑みながらその後姿を追ったのだった。








890


富士山丸は品川に到着し新撰組は御用宿の釜屋へ入った。釜屋はもともとは旅人のための茶屋であったが、旅籠へ発展し本陣のような立派な構えに改築され、いまは幕府御用宿となっている。土方は以前隊士募集のため立ち寄ったことがあるが、ほとんどの者が敷居の高い御用宿に身を寄せる待遇に浮き足立ち、喜んでいた。
「…立派な大木ですねえ…」
総司が廊下で立ち止まり、宿の象徴のように聳える大木を見上げた。太い幹と枝がまるで大地から空へと勢いよく手を伸ばすようにそこで生き続けている。総司がその迫力に見惚れていると土方は「あれはイチョウだ」と教えてくれた。
「イチョウか…もう少し早ければ見事な黄色の葉で一面埋め尽くされたでしょうねぇ…」
数日船旅をしていただけで、大地にしっかりと根を張るイチョウの大木を見ると何だか安心してしまうのだろうか。そうしていると
「着いたのか」
と先に宿に入っていた永倉や原田が出迎えにやって来た。近藤は大きく頷いた。
「待たせたな。皆、無事だったか?」
「勿論。俺たちは三日前に入った。元気すぎて洲崎に遊びに行ってる隊士もいるぜ」
「はは…その気力があるならいい。ご苦労だった」
原田の報告に近藤は苦笑しながら、そのまま部屋に入った。御用達の宿だけあって一つ一つの部屋が広く開放的で、調度品や床の間に飾られた掛け軸や花瓶の類も趣がある。総司は近藤、土方とともに幹部と言われる永倉や原田とともに腰を下ろしたところ、
「…山崎は?」
と永倉が尋ねた。宿に運ばれた負傷者の中に山崎の姿はない…その物言いはすでに返答をわかっているようだったが、近藤は目を伏せながら答えた。
「残念だが紀州沖で息を引き取った。…遺言を尊重して遺体は水葬をして見送ったんだ」
「水葬か…」
永倉は寂しそうに呟いた。もう一度会えるはずだと信じ、別れを言えなかった…戦時とはいえ共に長く過ごした同僚へ惜別の思いが募る。
「…じゃあ、この海があいつの墓なんだな」
原田は部屋の窓から先に見える海へ視線を遣る。
深く広い海のどこかで山崎が眠っている…姿はなくともまるで常にどこかに在るような存在は監察方のようで、確かに山崎の墓としてもっとも相応しいのかもしれない。
総司は原田の言葉が一番腑に落ちた。
「他にも青柳と今井が江戸まで持ちこたえられずに死んだ。彼らは江戸で所縁の寺に埋葬することにしている」
「…そうか…」
鳥羽と伏見の戦にて新撰組の戦死者は井上や山崎を含めて十三人となった。さらに脱走者も相次ぎすでに不動堂村を出た時の半分以下の六十名ほどとなってしまっている。
不意に我に返ると、どれほど立派な宿に身を寄せても幕臣として好待遇でもてなされても足元は常に揺らぎ続け、安寧などないのだ。
皆が沈黙するなか、土方が口を開いた。
「とにかくいつまでも御用宿にはいられないし、そもそも隊士の数を増やさなければ部隊として認められず、話にならない。永倉や原田はこちらに知己も多いだろう?できる限り声を掛けて人を集めてくれ」
「…わかった。わかったけどさぁ…」
原田はフッと堪えきれずに笑い、永倉に視線を遣った。すると永倉も硬い表情を崩した。二人が土方をジロジロ見ながら顔を見合わせるので、土方は眉間の皺を寄せた。
「なんだよ」
「なんだよ、じゃねぇよ、その恰好だよ!船に乗るまでは着物に袴だったくせに、いつの間にか異国人みてぇにさ!まるで当然見たいな顔してるからずっと可笑しくて可笑しくて…!」
原田は指を指して笑い、永倉も「本当に」と何度も頷いた。彼らは一変した土方の外見について何の言及もないまま話が進んでいくことが滑稽だったのだ。土方は急に居心地悪くなって表情を顰めたが
「大丈夫ですよ、すぐに見慣れますから」
「歳は呆れるくらい着こなしているぞ」
総司と近藤が笑うとますます土方は「煩いな」と腕を組んでそっぽを向いてしまった。部屋中に響き渡る仲間たちの笑い声に総司がホッと安堵していると、その様子に気が付いたのか斉藤がやって来た。
「ご到着でしたか、お出迎えできずに申し訳ありません」
「斉藤君、ご苦労だったな」
「おい、斉藤見てみろよ、土方さんの格好!」
「…お似合いです」
斉藤が表情を変えずにあまりにも淡々と褒めたので、土方は「もう何も言うな」とため息を付いた。
斉藤は腰を下ろしながらちらりと総司に視線を送り、無事を確かめるような表情を浮かべていたので総司は軽く頷いた。それを受け取った斉藤は再び近藤へ向けて姿勢を正した。
「松本良順先生から局長へ御伝言を預かっています」
「そうか、松本先生はすでに江戸へ?」
「そのようです。昨日、使者が来て局長へすぐにでも和泉橋の医学所に足を運ぶようにと言付かりました。順次、負傷者を引き受けるとおっしゃっているようです」
和泉橋の医学所…神田お玉ヶ池に作られた種痘所が前身で、現在は幕府直轄の西洋医学所であり頭取は松本だ。松本にとって本拠地となる。
「…有難いな。先生は新撰組の主治医としていまも我々を気にかけてくださっているのだろう。…松本先生は江戸の人脈にも長けていらっしゃるし、上様や城の様子もご存じだろう、すぐにでも足を運びたい」
「だったら総司とともに和泉橋へ向かってくれ。駕籠より舟が早いだろう」
「ああ、一緒に行こう、総司も松本先生に挨拶した方が良いだろうからな」
近藤の誘われ、総司は一瞬迷ったがまだ江戸はすぐに戦になるという雰囲気ではなく、総司の主治医は松本であるのだから挨拶がてら一度診察を受けるのは当然だ。土方にも促されたので受け入れることにした。
「わかりました、お供します」
「松本先生の言葉に甘えて負傷者は随時、和泉橋へ送る。…俺はしばらく江戸の町や城の様子を窺って登城の機会を探ることにする」
「ああ、頼む。出来るだけ早く会津にも顔を出したい」
「そうだな。会津の屋敷も訪ねてみよう」
慌ただしく今後のことが決まり、総司と近藤は宿に落ち着くことなく再び移動することとなった。島田や山野など元一番隊の部下たちに声を掛けてしばしの別れを告げ、船の準備が整うまでイチョウの大木のもとへ足を運んだ。根本から見上げるとその大木が一体いつからここにあったのだろうかと思いを馳せてしまうほど圧倒された。これが黄金色の葉が舞う秋の行楽時期なら時間を忘れて眺めていたことだろう。総司はもう二度とここには来られないという気持ちで目に焼き付けた。
そこへ斉藤がやって来た。
「疲れていないのか?」
「…ええ。和泉橋なら左程遠くありませんし、船には乗り慣れたところです」
総司が茶化して応えると、斉藤は苦笑した。
「俺はあまり船とは相性が良くなかった」
「船酔いを?」
「ああ。一刻も早く下船したいとずっと思っていた」
「はは、斉藤さんにも苦手なことがあったんですね」
「そのようだ」
互いに顔を見合わせて笑いあう。斉藤の表情はどこか大坂にいた時よりも柔らかくなっており、船旅のおかげで敗戦を引きずらずに気分転換できたのかもしれないと思った。それは斉藤だけでなく永倉や原田、隊士皆に言えることで、徳川の御膝元である江戸に戻ったことで『賊軍』と貶められることなく前を向くことができるようになったのだろう。
「斉藤さん、あの…」
「言いたいことはわかっている。…頼まれなくとも、副長を支えるつもりだ」
山崎がいなくなり、近藤がまだ全快していないなか江戸での立ち回りに苦労するだろう。総司は毎度のことながら斉藤に土方のことを頼もうとしたのだが、彼は先回りして引き受けてくれた。
総司は大袈裟に
「得難い人ですねぇ」
と褒めた。すると斉藤はふんと鼻で笑う。
「今更気が付いたのか」
「いえ、ずっと前から知っています」
総司は微笑みながら、手を伸ばして静かに大木に触れた。冷たさの奥にある生命力を感じながら、
(どうか力を分けてください)
と願った。
それから小舟が用意され、近藤と総司は再び新撰組から離れて和泉橋の医学所へと向かったのだった。


開陽丸で江戸へ戻った慶喜公は、近藤たちが品川に到着する三日前の一月十二日に西の丸に入った。
鳥羽伏見での苦戦が知らされ、江戸での一致団結した再戦を望んでいた主戦派の家臣たちと、既に罪第一等となった慶喜公の助命と徳川の存続のために尽くすべきという恭順派が対立した。主戦派にはフランス公使ロッシュによる『徹底抗戦すべきである』という追い風もあったものの、慶喜公は主戦派を退け鳥羽伏見の指揮官らを戦争責任者として罷免。新しい陸軍総裁には恭順派で旗本の勝海舟が就任した。陸軍総裁は代々譜代大名が務める者であったため異例の抜擢となった。
これからの進むべき道が決まった…これが一月十五日、近藤たちが釜屋で合流した日の出来事であった。
会津公は慶喜公とともに江戸城に留まり続けていた。けれど白熱する議論には参加せず、口出しもせず、ただ成り行きを見守り続けていた。
慶喜公の本音は船中で聞いていた。そもそも江戸で戻って再起するつもりなど毛頭なく、大坂城を出た時点で恭順と決めていた…それを告げられた時の絶望感はまだ心のなかにずっしりと重たく圧し掛かり、会津公に息苦しささえ与え続けていた。けれど大坂城を逃げ出す開陽丸に乗船し、家臣を置いて戦場を去ってしまった事実は変わりようがないのだ。
「どうしてお引止め下さらなかった?」
会津公にそう問いかけたのは勝だった。勝は家臣を置いて江戸へ逃げ去った慶喜公の行動を本人を目の前に『愚策であります』とはっきりと非難していたのだ。彼がそうして慶喜公にはっきりと意見できるのは、培ってきた経験と知見の賜物であり、だからこそ慶喜公は勝を陸軍総裁に就けたのだ。
「…申し訳ない」
会津公は言葉少なく、ただ謝った。
そしてしみじみとすでに自分の役目は終わったのだと実感していたのだった。
























解説
885 山崎烝水葬説については創作の可能性が高いことは重々承知しておりますが、あえてその説を取っております。実際はそのような記述はあまりないそうです。


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