わらべうた




891


その日中に総司は近藤とともに小舟で和泉橋の医学所に入った。江戸城にほど近く、土地感のある二人にとって懐かしい景色が多く目につく短い旅だった。
「よく来たな」
松本は玄関までやってきて二人を歓待した。
医学所にはすでに多くの負傷兵が医者や弟子たちから治療を受けていて忙しそうだったが、都から戻り自分のテリトリーで存分にその腕を発揮できるためか、松本の機嫌は頗る良かった。
「先生もご無事で…。慌ただしく出立となり、先生方はいかがされたのかと気を揉んでおりました。南部先生は…?」
「会津の下屋敷に入っているそうだ。あちらは怪我人が多いからな。…加也は大坂に残っているが、できるだけ早く江戸へ来ると言っていたぞ。沖田の様子が気がかりだとな」
松本がにやりと総司へ視線を向けた。松本は新撰組の主治医であるが、総司の労咳については加也と英の方が何度も診察している。加也の手厳しい診察を揶揄していたのだが、総司は困惑した。
「そんな…このような不安定な情勢でこちらに来るのは危険です。先生の方からお加也さんへ身の安全を第一にとお伝えください」
「あれが俺が何か言って聞くような女かよ。それに加也はもともと江戸の人間で南部の義娘、こっちに戻ってくるのはあいつにとって当然のことだ、気にするな」
「ですが…」
「まあ、加也に叱られたくなかったらここでしばらく療養していけ。近藤は傷を見せてみろ」
松本は突然医者の顔をして診察をすると言い出したので近藤は素直に従い、弟子たちの助けを借りながら傷口を松本の前に曝け出す。松本は一目見て渋い顔をした。
「あんまりよくなってねぇな…」
「…申し訳ありません、船は絶えず揺れてしまい…」
「それでも駕籠よりはマシだろうけどな」
弟子たちが傷口を洗い、松本は改めてじっくり観察する。近藤はいまだに痛みが残り上手く動かせないようだ。総司は傍でハラハラしながらその様子を見守った。
「安静に…と言いたいところだが、そうゆっくりはできねぇか。近々江戸城へ登城するんだろう?」
「お召があればそのつもりです」
「うぅん、いっそ数日掛けて傷口を縫い直したいところだが…」
多くの負傷者を抱える松本は多忙であり、近藤も長い暇は取れそうにない。しかし万が一このまま悪化してしまうと一生腕が動かせなくなるかもしれない…総司は不意に伝習隊の二人のことを思い出した。
「あの、横浜の医学所に傷口の縫合が得意な腕のいい医者がいると耳にしましたけど…」
「あん?沖田、その医者が俺よりも優秀だって言いたいのかい?」
「こら、総司!」
近藤は慌てて総司を叱りつけた。総司も自分の至らなさに気が付き「申し訳ありません!」と慌てて頭を下げたが、松本は本気で怒っているわけではない。にやりと悪戯っぽく口元に笑みを浮かべた。
「ハハ、その医者なら知ってる。なんならちょうどその話をしようとしていたところだ。…俺はどちらかと言えば本道(内科)の医者だ、病の見立ては得意だが切り傷の縫合やら銃創の処置なんかは俺よりももっと上の医者はたくさんいる。横浜へ行けば手っ取り早く治してしまうかもしれねぇ」
「…しかし、横浜ですか…」
近藤はいま江戸を離れるのは気が進まなかったが、松本は何でもお見通しだった。
「とにかく、傷がこれ以上悪くならねぇように二日に一度はここに通って俺に診せる、それで状況が落ち着いて時間が空いたら横浜へ紹介する…っていうのはどうだ?」
「勿論、それは有り難いことです!」
「よし決まりだ。…じゃあ沖田、お前は奥の部屋で休め」
「え?」
「え?じゃねえよ、病人がいつまでもふらふらするな、船旅で疲れているにちげぇねえんだから今すぐに休め」
松本の説教はその通りで、総司は弟子のひとりに案内されて渋々奥の部屋に移った。
松本はふうと一息ついてから、
「難しい話を聞かせると疲れちまうだろう?」
と苦笑した。長年の付き合いがある新撰組の主治医は総司の気質をよく知っていて、近藤も笑った。
「是非、先生のお話をお聞かせください。上様はすでに城に入られたのでしょうか…?」
「ああ…上様が江戸城に入られたのは今から三日前のことだ。大坂での情勢を知らない江戸の幕閣たちは当然おったまげた…苦戦を強いられながら戦を指揮しているはずの上様が家臣を置き去りにして逃げ帰ったなんて、混乱するに決まってるだろ?江戸では薩摩憎しで勝つつもりでいたんだからな。だから最初は主戦派の勢いもあって上様は再起する意欲をちょいとばかし見せたが、翌日にはすぐにひっこめた。おかげで主戦派と恭順派が揉めに揉めてなぁ…。だが上様の御考えがどうであろうと、朝廷からはもう追討令が出てる…負ければ上様のお命と徳川の存続はあり得ない」
「ですから勝てば良いのです!こちらには兵も多く西国の力は及んでおりません。それに海軍の力は圧倒的…!」
「ああ、だが上様ご本人がそのつもりがなく、己の命と家の存続のみを望んでいる。…結局、上様は恭順の道を選ばれたようだ」
「そんな…!」
江戸城では散々議論された上で恭順路線が決まったが、徳川家臣であっても末端の下部組織の隊長に過ぎない近藤は初耳だった。大坂から船に乗り、江戸での戦だけを考えて戻って来た…早速出鼻を挫かれたような落胆だ。
松本は腕を組み、難しい顔をした。
「上様は小栗殿を罷免し、旗本の勝海舟を陸軍総裁とした。他の要職も恭順派を置き、いま城では勝が中心となってできるだけ穏便な形で上様のご意向が叶うようにと動き出している」
「……」
近藤は絶句した。言葉では言い尽くせない失望と、落胆、そして梯子を外されたという虚しい気持ちが一気に渦巻いている。けれど松本は
「近藤、戦はまだ終わらねえぞ」
と言い放った。
「たとえ恭順派が手綱を握って、全面的に降伏したとしても…薩長は積年の恨みを晴らすために必ず江戸で戦を仕掛けようとするはずだ。ここで徹底的に多くの兵と領地を持つ徳川を潰しておかないと、今後に関わるだろうし、奴らの気が済まないだろうからな。もちろんそれを良しとしない会津や桑名、奥羽の諸藩も出てくるだろう。だから、戦はまだ続くし、すべての望みが絶たれたわけではない。世の中は勝った者が動かす…ただ上様はこの戦を降りると決めた、それだけだ」
「…その通りです。ですが我々は誰を主君に戦えば良いのでしょう」
「自分を主君にすればいい」
松本はあっさりと言い放ち、近藤は目を見開いた。
「自分を…主君…」
「お前はお目見えの武士で、新撰組っていう部隊の隊長だ。徳川のために戦うか、故郷のために戦うか、新しい政府に付くか…お前が決めればいいんだ」
「…」
近藤は唖然としたまま言葉を発することはできなかった。徳川以外を主君する…その考えすら今まで全く過ったことすらなかったのだ。
黙ってしまった近藤を見て、松本は少し笑いながら「俺の口出しすべきことじゃないな」と話を変えた。
「これからどうなるのかはわからねえが、勝先生にはしっかり話をつけておいた方が良い。お前さんの名前は江戸でも知れ渡っているだろうが、必要なら俺の方でどうにか顔を合わせて話ができるように計らう」
「ありがとうございます」
松本の言葉で手を差し伸べられ、困惑しながらも近藤はどうにか現実を受け入れることができた。深い息を飲んで、吐き出して気持ちを切り替えるように努めた。
松本は茶を一口飲んだ後に
「今日は土方は来なかったのか?」
と訊ねた。
「ええ、今日品川に着いたばかりですし、隊士のこともありますから…」
「沖田のことは?」
「…ええ…まあ…」
近藤はどう答えるべきかと迷ったが、改めて居住まいを正して深く頭を下げた。突然のことに松本は驚いた。
「今度はなんだよ、急に頭を下げられる理由なんてねえぞ!」
「…総司は次の戦には同行することを覚悟し、土方もそれを了承しました。あの二人は命の限りを共に過ごしたいと願っているようです。私もその気持ちを尊重したいと思いますが…先生方のご助力を頂いたにも関わらず療養に努めず、命を縮めるような決断をしたことを、二人に代わってお詫びします」
「…やめてくれ。武士ってのはそういうもんだとわかっているつもりだ。長生きしろと言ったところで、名誉や主君のためにすぐに命を投げ出す…俺たち医者とは真逆の生き物だ。だから俺は最初から沖田の意思を尊重するつもりだったし、土方がそれを受け入れているのなら尚のこと…口出しするつもりはない」
「先生…ありがとうございます」
「俺は新撰組の主治医として最後まで付き合う。日頃は英に任せるが、俺に出来ることは何でもする…それを忘れないでくれ」
いつもは豪快に笑う松本が、少し目を伏せて小さく笑った。総司や土方の行く末に理解を示しながらも、医者として複雑な気持ちで受け止めていた。


一方、総司は松本に促され若い弟子に奥の部屋に案内された。そこには数台のベッドが並び、それぞれが白い布で仕切られていて負傷者が互いに顔を合わせずに済むようになっていた。
「こちらのベッドをお使いください」
総司が腰を下ろすと、何重にもなった布団が身体を包み込むように支え、船の寝台とは比べ物にならないほど快適そうだ。
「ありがとう。よく眠れそうです」
「…それは何よりです、沖田先生」
「え?」
総司は自ら名乗っていない。しかしその呼び慣れた言い方には聞き覚えがあり、総司は弟子の顔をベッドから見上げた。知人がここにいるはずがないという先入観のせいで気が付かなかったが、目の前の若者は端正で凛々しく、少し大人びたけれど…懐かしい。
「…馬越君…!」







892


馬越三郎ーーー…かつて新撰組隊士として在籍したが、松本の口添えにより除隊。
彼の経歴は公にはそのように記載されることになるだろうが、実際は何もかもが違う。
「あ、そうだ、馬越君じゃないんでしたね、本当のお名前は…」
「桶井悠太郎と申します。ですが、馬越で構いません。…もちろん先生にそのように呼んでいただく資格はないのですが…」
「そんな。君は何も恥じることはなく、立派に新撰組隊士として勤めを果たしたでしょう?松本先生が除隊を願い出ただけで…ああ、でも本当に懐かしいな。元気そうで何よりです。いまはここに?」
「いえ、今日は良順先生に呼ばれて人手が足りないからと手伝いに来ました。良順先生は何もおっしゃっていなかったですか?」
「ええ。先生はいたずら好きですからね」
総司と馬越は顔を見合わせて笑い合う。松本のことだからこうなることを見越して驚かそうとしたのだろう。
かつて馬越は品行方正な美男子として評判の隊士だったが、今は背丈が伸びあの頃の憂いのようなものが晴れて清々しい青年となっていた。
馬越は医者らしく総司にベットへ横になるようにと促して、これまでのことを語り始めた。
「あれから江戸に戻り、良順先生にご紹介いただいた医学所で一から学び直しました。親友を救えなかった自分を赦すことができたことで一層医学への道へ邁進したいと思い…今は助手のような形で経験を積んでいるところです。新撰組の皆さんのご活躍は、時折良順先生の文で耳にしておりました」
「そうでしたか…またこんな日が来るなんて思いも寄らなかったな…」
馬越の話にしみじみ耳を傾けていると、彼は少し声のトーンを落とした。
「あの…武田先生はお元気ですか?」
馬越は事情があって武田観柳斎と一時関係を持ち、憎からず思いを募らせながらも隊を去った。しかし彼はもう新撰組にはいない。
総司は馬越に詳細を語るのは憚られて、
「…武田先生は隊を出ました。そのあとは敵に追い詰められ…自害されました」
とかい摘んで説明する。馬越は顔を顰めて落胆したものの、
「この頃は武田先生のお名前を聞くことがなかったのでもしや、と思っていました。…そうですか、ご自害を…」
「…ご立派な最期であったと思います」
武田は気鬱となり新撰組を脱退後、御陵衛士に身を寄せようとしたが精神が混濁し伊東を襲撃する暴挙に至った。そのため衛士たちによって討たれたのだが、実際にその場にいたのは斉藤と鈴木であったため詳細はわからない。しかしのちに斉藤がそう知らせてきたのだから、彼にも伝えて構わないだろう。
馬越は目尻の涙を拭った後、気を取り直して微笑んだ。
「いつか新撰組へご恩をお返ししたいと思っておりました。本当の『馬越三郎』は新撰組に入隊したかったんです。生前の親友の願いを叶えさせていただいたことは本当に有り難く思っていますから」
…『馬越』は浪士組上洛時に病となり命を落とした若者で、彼はその親友だったそうだ。思い詰めて馬越三郎と名乗り死んだ友のためにその人生を歩もうとしたのだった。
総司はふっと笑った。
「…君はもうあの頃の君とは違う…随分と、大人になった」
「そうでしょうか…」
「…時が経ったんですねぇ…」
総司はクラっとした気がして目を閉じた。馬越はすぐに察して枕の高さを整える。
「…労咳だとお聞きしました。良順先生に伺った時、とても信じられませんでした」
「ふふ…いまだに私も信じられません。流石に諦めて受け入れてはいますけど」
「…西洋医学所は諸外国の知見を得て日に日に進歩しています。これからもきっといつか良い治療法が見つかります、信じて待ちましょう」
馬越の慰めは本当に医者らしいもので、総司はやはり彼はこの道があっていたのだと改めて思いを馳せる。
「ありがとう」
「いいえ…しばらくはこちらにいますから、気軽に声をかけてください」
馬越は布団を整えた後、軽く頭を下げて去っていった。


一方、釜屋には新撰組帰還の噂を聞きつけ次々と客人が訪れていたが、そのなかには懐かしい顔もあった。
「松五郎さん」
「久しぶりだな」
「御無沙汰をしております」
土方が頭を下げて畏まって迎え入れると、松五郎は「お侍がやめてくれよ」と苦笑した。
井上松五郎は井上源三郎の兄で、泰助の父だ。周斎の弟子となり天然理心流の免許を取得し、八王子千人同心の一員でもある。豪胆な性格でありながら世話焼きで人望があり、近藤や土方からすれば故郷の大先輩のような存在だ。
「新撰組が品川に来たってすぐに伝わってきたぜ。ハハ、お前たちはすっかり有名人だな、一挙手一投足すぐにあちこちに広まって話題になってるぞ」
「大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃねぇよ、こんな立派な宿に屯してさ」
土方は部屋に通し、火鉢を間に向かい合って膝を折った。
「すみません、近藤は和泉橋の医学所へ行っています。帰りは明日になるかと…」
「医学所?病でもかかったのか?」
「いえ、伏見で右肩に銃弾を受けまして…奥医師の松本良順先生に診ていただいていますから、心配はありません」
「そうか…右肩か…」
松五郎は顔を顰めながら無意識に右肩を摩った。当然、今後の近藤の剣技や流派に関わるのだから、故郷の者は皆心配するに違いない。そして近藤だけではない。
「…総司の奴も労咳だって?」
「ええ…近藤と一緒に医学所へ向かいました」
「…良くねぇのか?」
「…そうですね」
松五郎は目ざとく土方の口ぶりから総司の容態を察した。明るく元気な総司しか知らない分、久しぶりに再会すればそのやつれた姿に驚くだろう。松五郎は腕を組みなおして「そうか」と呟くだけだった。明るい話題だけではないのだと噛み締めるような複雑な表情だった。
「…ところで、源三郎は息災か?姿が見えぬようだが」
「…源さんは、戦死しました」
この場に近藤がいた方が良かったのかもしれないが、土方は隠す理由はなくて真実を告げた。松五郎は目を剥いて
「なんだって…?!」
と弟の死を前のめりになって驚いた。
「淀の千両松でのことです。殿軍の長として立派に務めを果たし…泰助が見送りました」
「泰助が…」
「…首を持ち帰ろうとしたのですが、淀城まで持ち帰るのが精一杯でした。欣浄寺という寺に埋葬しています」
「欣浄寺…うちの家の隣の寺と一緒か…」
松五郎は土方の言葉を繰り返しながら呆然としていた。いつも背中で語るような勇猛な松五郎の落胆する姿を土方は初めて見たが、少し沈黙した後、状況を飲み込んで大きく息を吐いた。
「…あれは、俺と血を分けたとは思えねぇほど真逆の弟だった。自分が表立って先頭に立たねぇと気が済まねぇような俺とは違って、日陰で大先生や若先生を支えるのが自分の役目だと若い時分に早々に決めつけて…もどかしい奴だと嘆かわしく思ったものだ。きっとひっそり静かに生きて死ぬんだと思っていたが…最期は派手に働いたんだな」
「…はい。あの追い詰められた状況で殿を務めるのは勇敢な者しかいません。その証拠に何人もの配下が源さんに従い、ともに討ち死にしました」
「そうか…立派だな…日陰者なんかじゃなかったんだよな、俺の見立てが間違ってたようだ…。いつか墓に参って詫びないとな」
松五郎はうっすらと目に涙を浮かべたあと「すまねぇ」と後ろを向いて拭った。
するとそこへ泰助がやって来た。松五郎が来たときに土方が隊士に呼びに行かせていたのだ。
「父上…」
「…泰助」
まだ半年ほどしか離れていない親子だが、松五郎の反対を押し切って入隊したため泰助の態度は少し余所余所しい。だが松五郎が「こっちに来い」と招き寄せて隣に座らせた。
「少し大きくなったな。母さんが心配しているぞ」
「…うん」
「源三郎のことはいま、歳に聞いた。…源三郎は最期に何か言っていなかったか?」
最初は表情が硬かった泰助だが、源三郎のことを持ち出されると急に表情を歪めた。あれから十日ほどしか経っておらず、いまだに泰助の傷ついた心は癒えていなかったのだ。
「…叔父さんは…なんて言い残したのか、わからなかったんだ…」
「そうか…戦の最中のことだ、仕方ない」
「でも…『生き延びろ』って言った気がしたんだ。だから…無様でもいいから、戻って来ようと思って…ただ、それだけだったんだ…」
「…そうか。源三郎はきっとそう言ったに違いない。あいつはそういう奴だからな」
松五郎が父親として穏やかな笑みを浮かべ、泰助の頭を撫でた。泰助はまるで幼子に戻ってしまったかのように大粒の涙をポロポロと流し、父の胸の中で号泣し始めた。
親子で傷を慰め合う時間が必要だろう…土方はそっと席を外した。泰助の堰を切ったような号泣が外に漏れ出て聞こえてくる。
(泰助は…やはり故郷に戻った方が良い)
縁者への贔屓かもしれないが、十三の少年には荷が重すぎた。
土方が近くに居た隊士たちもしばらくは寄り付かないように伝えたところ、相馬がやって来た。
「土方副長、お客様がいらっしゃっています」
「…またか」
もう日が暮れようとしている。近親者やお役人たちが新撰組の帰還を祝ってくれるのは有難いが、朝から忙しなく落ち着かないのだ。土方は断ろうかと思ったのだが、
「甲府勤番の佐藤駿河守様とおっしゃいまして…急ぎ、近藤先生にご相談したいことがあるとおっしゃっています。いつまでも待つと」
「…甲府勤番…?」
甲府勤番は甲府城にて天領である甲府百万石を管理する役職だ。いったい近藤にどんな用件があるのか…疲れていたが、土方は聞き逃してはならない気がした。
「近藤局長は不在だが、それでも宜しいなら代わりに話を聞くと伝えてくれ」
「わかりました」
相馬が頷いて踵を返したところ、すぐに佐藤とともにやって来た。佐藤は中年の小太りで背が低く、この寒空だというのに焦った様子で汗を拭っていた。よほどの用件なのか部屋に通すなり「近藤殿に是非言付けを」と言って早速事情を話し始めた。
「拙者は甲府勤番を務めている旗本であります。ご存じの通り、甲府城は江戸城半蔵門と甲州街道で結ばれている江戸防衛のための重要ですが、派遣されていた二百の侍は上様のご命令で江戸へ帰ってしまい、今は数名の地役人がいるだけの状況となってしまったのです。官軍は東山道を進んでいると聞いています…このまま座視しておれば官軍にみすみす城を奪われる羽目になり、江戸の町が危険に晒されるのです。しかしこの件を上様へ進言しようにも城は混乱しており、まともに取り合っていただけない。そこで新撰組の近藤殿に是非取り付いでいただきたいのです」
「…近藤とてまだ登城の日取りも決まらぬ身ですが」
「新撰組の近藤殿は上様の覚えのめでたい御方だと聞いております。義理堅く、決して徳川を裏切るような御方ではないと…是非、上様にこの件をご進言いただきたいのです!」
佐藤は必死に訴えていた。
末端の浪士の集まりである新撰組に懇願に来るとはよほど困っているのか、もしくは松五郎が言っていた通り近藤は義の武士として江戸中に噂が広まっているのかもしれない。だが、近藤が佐藤の話を聞けばすぐに駆け付けたいと言い出すだろうし、甲府城の重要性は日野で生まれ育った土方も重々承知している。
(勝手をするわけにはいかねぇが…)
「…畏まりました。近藤にはその旨を伝え、登城の機会あらば進言するように取り計らいましょう」
「有難い…!では私は急ぎ甲府城へ戻ります。文にてお知らせください」
「承知しました」
佐藤は深々と感謝して去っていった。









893


翌日、近藤は医学所から釜屋へ戻った。
土方が甲府城の件を伝えたところ近藤はやはり「必ず上様にお伝えしよう」と二つ返事で頷いで請け負った。日野宿の先にある甲府城が官軍のものとなれば故郷の人々に危害が及ぶかもしれないのだから、近藤が奮い立つのは当たり前だろう。
けれど土方は敢えて釘を刺した。
「あくまで近藤先生の傷が癒えて、上様からの許可が出てからだ。勝手をしては迷惑になるだろう」
「わかっているよ。だが…上様は何とおっしゃるかな…」
近藤はため息を付きながら火鉢に手を翳すが、冷え切った指先はちっとも温かくならない。近藤の冴えない表情を見て土方は怪訝な顔をした。
「江戸城で再起するんだろう?そのために脱出までしたんだから」
「いや…松本先生に伺ったところ、上様は恭順なさるおつもりだそうだ。徳川の存続とお命のために戦はできぬと…」
「……そうか」
土方は少し言葉に詰まったものの動揺しなかったため、近藤は苦笑した。
「なんだ、もっと驚くかと思ったのに。まあお前に言わせれば『そうだと思った』というところか?」
「なんせ家臣を見捨てて逃げ帰っちまった上様だからな。それに二回目の長州の戦でも家茂公の薨去を理由に何だかんだと戦をやめちまったんだ…江戸での再起は偽りだったと手のひらを変えされても左程驚きはない。…だが、もちろん怒りはある」
戦の最前線で命を張って戦い続けた土方たちからすれば「またか」という落胆の気持ちとともに、当然のように怒りが沸きあがってくる。そしてこの怒りは土方たちだけのものではなく、これからこの江戸中に渦巻いて大きなうねりとなっていくのだろうという嫌な予感があった。
一方で、近藤は目を伏せて難しい表情を浮かべていた。
「…これからの舵取りを松本先生にご相談したところ、徳川に従うのではなく自分たちで決めろと言われた。それでもまだ上様を主君とするなら、上様が戦を望まない以上、我々もそうすべきだと思うが…だとしたら新撰組を解散することになるんだよな…?だが、それは本当に徳川のためになるのだろうか…主君とは一体誰なのだろうか…」
「あまり決断を急ぐなよ。これからどう話が転がっていくのかわからないんだ。…周りの動向を見ながらゆっくり考えよう」
「うん…そうだな…」
近藤は生返事で答える。考え込むなと言ったところで、この状況ではあまり意味がないだろう。
土方は話を変えた。
「それで、肩の怪我はどうだったんだ?総司の容態は?」
「ああ、やはり一度手術をした方が良いという話になってな。数日に一度は先生に診ていただき、時間が取れるようになったら横浜の医学所へ紹介してくださるということになった。あちらには銃創に詳しい医者がいるそうだ」
「だったらすぐに行った方がいいんじゃねぇのか?」
「いや、今は江戸を離れるわけにはいくまい」
近藤は自分の怪我などより新撰組の行く末の方が重要だと言わんばかりに断言した。それは新撰組の局長として当然の考えなのかもしれないが、幼馴染の土方としては怪我の回復は早ければ早い方が良いと思う。
「…わかった、できるだけ早く体制を整えよう」
「うん。それから総司のことだが、しばらくは和泉橋の医学所で療養することになった。お前も手が空いたら見舞いに行ってやってくれ」
「ああ」
伏見と大坂に比べれば目と鼻の先だろう。医学所で療養できるならそれに越したことはないので、土方は安心した。
互いの報告が終わったところで、「今いいか?」と原田が見計らったように顔を出した。
「年明けから戦ばかりでさ、みんな疲れてるだろ?慰労するために隊士を連れて洲崎へ行ってきてもいいか?」
「ああ、構わないよ。軍資金は安富君へ頼んでくれ」
近藤はすぐに了承した。原田は顔を綻ばせて「じゃあ早速」と足取り軽く去っていった。


憂さを晴らすという言葉の意味がこれほど身を持って知ることはない。
永倉と原田は十数名の隊士を引き連れて洲崎の品川楼へ足を運んでいた。海を望み、浮世絵にも描かれる風光明媚な宿場町だが、黒船来航時に築かれた台場もその景色の一部になっている。夢と現実が表裏一体となっているような光景だが、それが目に入らないほどのどんちゃん騒ぎだ。
「皆、ご苦労だな!今日は無礼講だー!」
原田が乾杯の音頭を取り、隊士たちは堰を切ったように酒を飲んだ。楼閣中の女を呼び華やかな舞で彩られ、芳しい化粧の匂いに満たされた宴は夜通し続く。
永倉は隊士たちを一通り労ったあとは、彼らの興を削がないように片隅で静かに飲み続けた。芸妓の酌も断り、懐かしい江戸の味がする酒と肴を噛み締めながらちびちびと飲む。
そんな寄せ付けない雰囲気の永倉の元へ島田がやってきた。
「永倉先生、ご一緒に宜しいですか」
「おう」
島田はすでに顔が真っ赤になっていたが、悪酔いはしていないようだ。
「今日の宴は永倉先生のご発案だと聞きました。隊士たちも喜んでますよ」
「ああ…江戸についたら一度、皆の鬱憤を晴らさないといけないと思っていたんだ。皆、楽しんでくれて何よりだよな」
「はい。永倉先生はいつも隊士のことを考えてくださいますが、自分はそんなことには気が回らず…お恥ずかしい」
島田は新撰組の中ではすでに食客達に次ぐ古参の立場だ。気が利かないと苦笑していたが、永倉は島田の気質をよく知っている。たとえ気が回らなくとも普段から面倒見が良いのだ。
「島田は真面目だからなぁ…建白書の時も左之助に騙されて署名しちまって大事になったよな」
「…ハハ、そんなこともありました」
島田は頭をかきながら酒を飲んで誤魔化すが、永倉は昔に思いを馳せながら酒を舐めた。
「あの時は…自分なりに新撰組を何とかせねばと思った末の行動であるし、後悔はないが…時折ふとあれから何か変わったのだろうかと考えることがある」
「…自分は変わったと思います。一層団結して新撰組は大きく、強くなりました。烏合の衆に過ぎなかった我々が幕臣まで…。こんなに出世するなんて」
「確かに出世できたのは幸運だった。…だが、相変わらず隊を動かしているのは局長と副長だけだ。助勤の数が減り、隊士が脱走して減ってしまった今だからこそ団結せねばならないのに…」
永倉が神妙な顔をして考え込んでいたのは、原田から近藤と土方が話し合っていた内容を伝え聞いたからだ。
『上様が恭順するとか話し合ってたぜ』
『それでも俺たちは徳川に付き従わなきゃならねぇのかな』
『近藤先生は一体何を考えているんだろうなぁ』
原田は他人事のように呑気な言い方だったが、永倉は
(なぜそのような大事なことを俺たちに相談しないのか)
と内心憤っていた。新撰組の行く末に関わる大事なことに違いない。
もちろん不確かな噂ばなしにすぎず、隊に混乱を招かないように配慮しているのかもしれないが、せめて幹部と呼ばれる副長助勤までは話を通して欲しいものだ。相変わらずの上意下達の体制に嫌気がさしてしまい、永倉は宴を心から楽しめなくなってしまった。
「…永倉先生?」
「すまない…酒が不味くなる話をした。…厠へ行ってくる」
「部屋を出て右の角ですよ」
島田に礼を言って永倉は廊下に出た。
華やかな楼閣を見回しながら厠へ向かう…するとその途中、長身で体格の良い男を見つけて思わず声を掛けた。
「芳賀!芳賀じゃないのか?」
「…まさか永倉か?こんなところで会うなんて、信じられないな!」
芳賀誼道(はが ぎどう)は永倉と同じ松前藩出身、さらに同門の神道無念流の使い手で試衛館に流れ着くまでは永倉がもっとも多く行動を共にした友人であった。生来真面目な永倉に似て芳賀も一本筋が通ったところがあり初対面から意気投合していた。
「なんだ、芳賀は少し老けたな?」
「ハハ、色々あったんだよ。今日は新撰組の宴か?帰還したらしいというのは噂で聞いた。お前達の噂はすぐに聞こえてくる」
「ああ、そんなところだ。…本当に久しいな…芳賀とともに武者修行をしたのはたった数年前のことなのに、もう随分昔のことのようだ」
試衛館にやってくる前、芳賀と諸国を渡り歩き文字通りの武者修行を繰り返したが、そのうち芳賀は激しい攘夷論に嵌っていき永倉とは道を別つことになった。と言っても喧嘩別れしたわけでもなく、ただ互いの歩む先が違うのだと悟っただけだったので不仲ではない。その証拠にこうやって蟠りのない再会を果たせたのだ。
芳賀はフッと笑った。
「お前の活躍はよく耳にしていたよ。田舎の脱藩浪人が新撰組組長、さらに幕臣にまで上り詰めちまって」
「しかし幕臣なんて、今更…」
「…確かにな、戦を恐れて江戸へ逃げ帰った上様の家臣なんて安易に喜べないか」
芳賀が理解を示し、永倉は頷いた。
武士であること、名実共に侍になったことは誇りに思えるが、戦から逃げてしまった慶喜公の家臣だというのは喜ばしくない。
心の奥底で思ったことを口にせずとも芳賀は感じ取ってくれる…長年の友人ならではの信頼感と喜びがあった。永倉は胸が熱くなりこのまま彼と昔話に興じたいと思ったが、しかし「芳賀さーん」と奥の部屋から彼を呼ぶ声が聞こえた。
「すまない、もっと話していたかったんだが。…いま俺は浪士たちを束ねて来たるべき戦に備えているところだ。深川にいるから良かったら訪ねてくれ」
「ああ、必ず!」
二人は互いに約束を交わして別れた。
永倉はどこか満たされた気持ちで芳賀の背中を見送ったのだった。











894


登城の日が決まった。
「明日の朝、江戸城に登城せよとお達しがあった」
近藤は喜ぶというよりも身を引き締めるように顔を強張らせていた。
「城内はいまだに混乱しているようだが、海軍副総裁に就かれる榎本艦長が老中方へ働きかけてくださったおかげで話が進んだようだ。真っ先に登城の約束をこぎつけてくれて…良き人と巡り会ったよな。それに榎本艦長は何が何でも軍艦の引き渡しを拒むと息巻いていると耳にしたよ」
「…そうか、あの御仁ならさもありなんだな。甲府城の件はどうなった?」
突然の訪問者によってもたらされた甲府城の危機の知らせはこれからの戦況を左右するだろう。近藤はすでに建白書をしたため、明日持参するそうだ。
「今日は身支度を整えるよ。上様にお会いできたらお伝えしたいことが山のようにあるから書き出して整理しようと思う。…お前は総司のところか?」
「ああ、顔を出してくる。松本先生にもお会いしたい」
「そうした方がいい」
近藤が頷いたところに、永倉がやってきた。
「近藤先生、少し良いでしょうか?」
「うん?どうした?」
「実は昨日、品川で古い友人と偶然再会しまして…」 
永倉は芳賀のことを話した。松前藩出身、神道無念流の使い手で永倉と並ぶ腕前を持ち柔術も兼ね備えている。それに彼は同志を集めて一勢力を率いており、新撰組と合流すればそれなりの規模になることを伝えた。
「芳賀は攘夷に熱く、少し気が短いところはありますが筋の通った男です。まだ新撰組に誘っていませんが、俺から説得すれば力になってくれるのではないかと思います」
永倉は嬉々として報告したのだが、近藤と土方はあまり良い表情をしなかった。
「その芳賀殿はどれくらいの勢力が?」
「百名は越しているのではないかと…芳賀を知る芸妓に聞きました」
「では、もし合流するとなれば逆に新撰組が取り込まれてしまうことになるのではないか?我々は六十名に満たない」
「新撰組の名前は江戸中に知れ渡ってます、そんなことにはならないかと」
「そうか…歳はどう思う?」
「多くの人数を率いることで近藤局長より立場が上になるのは困る」
近藤の危惧することを土方ははっきりと告げた。人数が増えるのは格好がついて良いが、船頭多くして船は山に登る…土方はかつての芹沢鴨や伊東甲子太郎のように近藤と並び立つ存在は不要だと考えていた。
永倉は当然反発した。
「立場だとか誰が頭領だとか…今は脱走者が相次ぎ、新撰組が存続できるか否かの瀬戸際です。それに芳賀は決して私利私欲では動かず、策を弄するような人間ではありません、俺が保証します」
「君の紹介だ、疑っているわけじゃない。だがその芳賀殿は攘夷に熱心なのだろう?いまは幕府や官軍は攘夷よりも国内の統治に重きを置いている…新撰組はあくまで徳川の兵だ、進む道が違うのではないか?」
「…」
近藤の問いかけに永倉は苦い顔をした。もちろんその点は永倉としても気がかりだったのだろうが、今は新撰組の体裁を整えるために目をつぶるべきだと思ったのだ。
土方は「話は預かっておく」と言ったが、永倉は首を横に振った。
「いえ、結構です。…俺の考えが足りなかったようです、頭を冷やします」
彼は己の非を認める言い方をしたが、友人を無碍にする二人に感情的になっているようだった。そしてそのまま去っていってしまった。
近藤はその背中を目で追いながらため息を付いた。
「…悪いことをしたな」
「いや、これでいい。その芳賀という男が一派を率いて芹沢や伊東のようになってもらっちゃ困るんだ。今は一致団結すべき時…攘夷どころではない」
「そうだな…永倉君も良かれと思って申し出てくれたんだ、落ち着いたら改めて話をしてみよう、彼ならわかってくれる」
近藤は腰を浮かして自室としている部屋へ戻ろうとした。
「近藤先生」
「…なんだ?」
「上様にお会いして…何を伝えるつもりなんだ?」
どれだけ世間に名が広まっていようとも、新撰組は歩兵隊の一つでしかなく、永倉の言っていた通り兵の数も頼りない。いくら旗本の一人とはいえ上様が近藤の言葉に耳を傾けてくれるとは限らないだろう。
そんな状況で近藤は何を伝えるのか―――土方は聞いておきたかったのだ。
すると近藤は悠然と微笑んだ。
「ただ…俺の誠を伝えるのみだよ」
「…わかった」
近藤は「じゃあ」と去っていき、その場には土方だけが残される。
(理屈で動く上様には、かっちゃんが感情的な言葉で訴える方が響くのかもな…)
明日は近藤に任せることにした。


土方が釜屋を出て駕籠に乗り総司の元へ向かうと、意外な人物がいた。
「浅羽さん…」
浅羽が総司を見舞っていたのだ。
土方が浅羽と別れたのは大坂城手前の守口でのことで、上様が城を脱出したと聞いたあとは彼の行方が分からなくなっていた。浅羽は少し疲れた表情だったが、笑みを浮かべて再会を喜んだ。
「すみません、ご心配をおかけして…先んじて江戸へ戻っておりました」
「土方さん、浅羽さんたちは陸路で江戸まで帰って来たそうなんですが、江戸に到着したのは私たちと同じ十五日だったそうですよ」
「ええ。ですからこんなことなら最初から船で戻れば良かったのだと話していたところです。軍艦に乗る機会など滅多にありませんし、嵐に巻き込まれ、体調を崩し、盗賊に襲われ…散々だったんです」
浅羽は冗談めかして大坂から江戸への苦労を総司に語ったようだが、彼自身にも色々な出来事があったはずだ。土方には浅羽が少し痩せたように見えた。
土方は総司のように笑う気になれず、浅羽の隣の椅子に腰を下ろした。
「今日は何故ここに?」
「軍艦で負傷した会津兵がこちらに運ばれていると聞きまして…これから会津の下屋敷へ移す予定ですのでその段取りを話し合うために参りました。そうしたら沖田君がちょうどこちらで療養していると聞き、見舞いに顔を出したところです」
「そうですか…会津公は今は江戸城にいらっしゃるのですか?」
「いえ、今は会津上屋敷に移りました。上様とともに開陽丸で江戸に戻った殿は、江戸城では非難に晒され針の筵ですから…とはいえ、会津の屋敷でも様々な意見がありますので、今は沙汰が下るまで部屋にこもっていらっしゃいます」
「上様は恭順に決したと聞きましたが、会津公は…会津は今後はどのような方針で?」
土方には山のように聞きたいことがあったのだが、浅羽は睫を伏せて
「…私の口からは言えません」
と言及を避けた。いち小姓の立場で話すべきことではないと判断したのか、総司の見舞いの場で議論するようなことではないと思ったのか…どちらにせよ浅羽がいま話すつもりはないということはわかった。
土方は(先走り過ぎた)と浅羽の立場を慮っていなかったことを反省し、少し息を吐いた。
「明日、近藤とともに登城を命じられました。近藤は会津公にお会いしたいと言っていましたが…」
「殿もお望みだと思います。是非西の丸近くの和田倉屋敷に足をお運びください」
浅羽が微笑んで話を切り上げたところで、ドカドカと足音が聞こえて来た。顔を出したのは松本だった。
「おう土方、来ていたのか?」
「はい。先生もご無事で…」
「ああ、挨拶はもういい、聞き飽きたんだ。それよりお前に話しておきたいことがある。一緒に来てくれ」
松本は忙しない様子で一方的に呼び出し、土方は唖然とした。松本の自由な振る舞いは医学所に戻ってから拍車がかかっているようで、土方を見送る総司と浅羽は苦笑していた。
部屋を出て静かな場所に移り、松本はにやりと笑った。
「安心しろ、悪い話じゃない。…浅草の弾左衛門という者を知っているか?」
「…ええ、もちろんです」
土方は随分昔の懐かしい記憶を掘り起こした。それは試衛館に入門する前、薬問屋としてあちこち行商に出ていた時によく耳にした名前で、浅草に屋敷を構えその一帯を支配する穢多・被差別民の頭領だ。代々『弾左衛門』を名乗り、歌舞伎などでは悪役として描かれることが多いが、実際は幕府と繋がりが深く武器や武具などを製造する軍需産業も担っているという側面もある。
「まあ色々な評判があるが…いまは十三代目でな、親しくしている。その弾左衛門が先の二度目の長州征討で武功を上げたんだが、徳川から何の褒美がねぇって不満に思っているようで、俺が江戸に戻って来たのを見計らって訴えて来たのさ」
「長州征伐の褒美…ですか」
いまの徳川にそのような余力があるのだろうか…と土方は腕を組む。敗戦し逃げ帰って来た上様が身分の低い者たちのために積極的に取り計らうとは想像ができなかったし、長州征討などとうの昔の話で「今更」と思わざるを得ない。お見通しの松本は苦笑した。
「なぁに、そう真剣に受け取ることはない。弾左衛門たちもこの情勢のことは良くわかっている…いや、むしろわかっているからこそ、この混乱に乗じて長州征討を理由に褒美をもらおうと画策してるってわけだ。彼らが欲しいのは金でも土地でもない…名誉の回復だ。旗本して自分を取り立ててほしいんだとさ。…そのためなら何でも協力は惜しまないと言っていた。なぁ…いい話だろう?」
「…確かに」
いまや何の意味もない旗本という身分でも、弾左衛門たちにとってはそうではない。長年ずっと喉から手が出るほど欲しかったものを徳川が崩壊しつつある今なら、と願い出て手に入れたいと思っているのだ。そして、弾左衛門は広い地域の被差別民を支配しており多くの兵を従がえることができる…兵の数を増やすことが急務である新撰組にとっては決して悪い話ではない。
つまり、利害が一致しているのだ。
「戻り次第、近藤に伝えておきます」
「ハハ、お前は理解が早くて助かるよ。近藤は潔癖だからこんな話は受け入れがたいと言い出すかもしれないが、上手く伝えておいてくれ」
「はい」
松本は満足げに頷いて再び「それから…」と話を続けようとしたが、弟子に呼ばれてしまった。
「悪い、話はまた今度だ。…沖田のことは近藤に聞いている、お前たちがどういう道を選ぼうと俺は手を貸すからな」
松本は普段と変わらない調子でそう言い残してあっという間に去って行ってしまい、土方がその言葉の意味を理解したのはその姿が見えなくなってからだった。






895


一月十八日、近藤と土方は江戸城へ登城した。
天領の民として生まれ、まるで遠い物語のように想像していた城に二人は足を踏み入れる。その造りだけは厳かで風格漂う城内だが、慌ただしい雰囲気で落ち着きがない。
(突然、恭順だと聞かされてどれほどの幕閣が受け入れたのか…)
土方は周囲の様子を窺いながら近藤の背中に続いたが、近藤の方は万感の思いで一歩一歩を踏みしめているようだった。農民から田舎の道場主、浪士、新撰組…そしてようやくたどり着いた旗本の身分を得てこの場所に呼ばれているのだ、このような非常時でなければ感涙にむせぶところだろう。
そんな二人を出迎えたのは若年寄の永井だった。
「永井様、お戻りでしたか…!」
「うむ。大坂城の引き渡しには骨が折れたが、ようやく昨日到着したところだ。…私は近々若年寄をお役御免となるだろう。あの敗戦の責任を取ることに何ら異論はないが…まさか上様が恭順という選択を取られるとは思いも寄らなかった…」
上様が大坂城を脱した後、永井は『江戸にて善後策を練るべきだ』と考え、やり方はどうであれ上様が江戸へ戻ることを強く引き止めはしなかった。けれど実際に江戸へ戻ってみると上様は手のひらを返して戦をやめて恭順すると宣告し、城内は混乱を極めている。永井自身も当然『騙された』という気持ちになったのだろう、積もりに積もった疲労感に顔を顰めていた。
近藤はその気持ちに大きく頷いた。
「皆、同じ気持ちです。上様の心変わりには何か理由があるのでしょうか…?」
「さあ、わからぬ。上様はなかなかご本心を明かさぬ方ゆえ…このままお前たちと語らいたい気持ちだが、またの機会にしよう。上様がお待ちだ」
永井に促され、二人は侍従たちに案内されて上様がお出ましとなる黒書院の上段の部屋へと向かった。金銀の煌びやかな装飾に囲まれることを想像していたが、通された部屋は山水の墨絵が描かれた赤松造りの建物で落ち着いた雰囲気だった。むしろ静粛で厳かな空気を肌で感じ、土方は思わずを踏み入れることさえ躊躇われてしまった。
(俺も、さすがに緊張しているな…)
土方は内心苦笑しながら自分より前に控える近藤の様子を窺ったが、先ほどまでの感極まって浮き足立った表情は消え失せてすっかり引き締まり、上様を待ち構えてピンとまっすぐに伸びた背筋から頼もしささえ感じた。
(全く…こういう時はやはり格が違う)
局長と副長、道場主と門下生…幼馴染でありながらあらゆる場面で近藤を立ててきたが、それはきっと間違ってはいなかったのだろう。そんな思いを抱きながら土方は幼馴染の背中を見つめていると、上様がお越しになると知らせが入り深々と頭を下げた。
当然だが、二人が緊張して躊躇われるような場所に上様は遠慮なく足を踏み入れドカッと音を立てて座った。
「頭を上げよ」
土方が想像していたよりも凛々しい声だった。上様とは浅羽の一件で襖一枚越しにその声を聞いたことがあったが、顔をこんなに近くで拝見するのは初めてだった。想像よりも凛々しく、威厳が溢れ、その眼差しは強く相手を見据えていて傍に侍る二人の小姓がまるで置物のように感情を見せなかった。
(…上様…この方が…)
この方が将軍。この方が公方様。この方が大樹公―――そして、主君である。
現実味のない存在を目の前にして近藤は定型通りの挨拶を述べていたが、土方はしばらくぼんやりとその顔を眺めていた。
これまで『徳川のため』と働いてきたが、実は自分自身のなかに『偶像』を作り出していたのだろうか…自らが目の前の一人の男のために命を尽くしているのだということをなかなか飲み込めなかった。
けれど上様の方はそうではない。
「…新撰組の話は永井から時折耳にした。都での治安維持に大きく貢献してくれた…伏見での戦でも良く働いたそうだな」
「勿体ないお言葉でございます」
「近藤、肩の傷はどうだ?」
近藤は『格好がつかない』と今日は怪我をした右腕を吊らずに痛みを堪えて登城したのだ。鳥羽伏見の戦では負傷者や死者が多数出たなかで自らの怪我を気に留めてくれた…近藤は目を見開いて感激し、
「恐れ入りまする…!もう…大事ありませぬ…」
と声を震わせたが、上様はそのような反応は慣れているのだろう、構わず話を続けた。
「新撰組も多くの負傷者を出したと聞く。労いのための見舞いの品を準備している、持ち帰ると良い。いまは…釜屋にいるのだったな?」
「は、はい」
「いつまでも宿を陣にするわけにはいくまい。鳥羽伏見の戦を戦い抜いた新撰組は他の部隊よりも頭一つ頼もしいはずだ…できるだけ城の近くに陣を置くべきだろう。周辺に空いている役宅があるはずだ、そこを使えばいいだろう。…老中に話しておく」
「はっ…お気遣い痛み入りまる…!」
近藤は深々と頭を下げた。土方も同じようにしたが、所詮は末端組織に過ぎない新撰組に対する上様の計らいに驚くとともに、聞こえの良い慰労の言葉が次第に絵空事のように聞こえて来た。そしてあまりにも用意が良い。上様からこのように煽てられてはとても反発などできない。
(…どうか暴れてくれるな、ということか…)
上様は恭順の姿勢を取っている。それに従わないであろう荒くれ者たちを治めるために、こうやって甘言に乗せられているのではないだろうか。江戸城の近くに屯所を置けということは、すぐに手が届く管理下に置きたいという意味ではないのか…土方はそんな勘繰りをしたのだが、近藤は違う。
「この御恩に報いるべく、新撰組は上様の御為に任務を全うする所存です」
近藤は疑うことなく上様の好意だと受け取って感謝をした。上様も素直な近藤の態度に満足げに微笑まれたが、
「ところで、上様は恭順の道を歩まれると耳にいたしました。誠でございましょうか?」
唐突に上様が顔を引き攣らせるような問いかけをした。土方はゾッとしたが、淀みのない近藤の後姿には何も声を掛けることはできない。上様は腕を組みなおして口を開いた。
「…ああ、そのつもりだ」
「上様が至誠を尽くされるのは帝の御為であると…」
「本来、武家というものはそのために在るのだ。帝が我を朝敵だとおっしゃるのなら、これ以上の抗戦は取りやめて身を慎むべきだ…その考えは間違っていない」
上様は近藤に対して少し感情的になって言い返した。誰もが朝敵の汚名を雪ぎたいと考えているなかで、上様の言い分を理解して受容する家臣はきっと数えるほどしかいないのだろう…近藤もまた反発するに違いないと決めつけていたのだ。けれど近藤は表情を変えなかった。
「…六波羅蜜の持戒は言行一致…口にしたことを守る、ある意味で至誠を求めます。正直に申し上げれば、江戸で再起を果たせば勝てる戦なのではないかと考えます。兵の数や武器弾薬、なによりも海軍の援護は徳川の勝利をもたらしましょう…けれど、それでもあえて上様が抗戦ではなく恭順の道を歩まれることは、もしかしたら抗戦よりも苦しく果てしない過酷な道なのかもしれません。名誉が回復されぬまま戦犯として生きていかねばならぬこともあるでしょう…それでも宜しいのでしょうか?」
「勿論、その覚悟をしている。…近藤、私は責任を取りたくないのではない、ただ私の信条に従って恭順をするのだ。帝とはこの国のことである…私はこの国のために恭順をする」
近藤はまるで別人のように上様を問いただし、上様もまた取り繕った仮面を脱いで答える。二人の間に流れる真摯な空気に、土方は息を呑んだ。
「…厳しい状況でありながら己の感情を伏せ、身を慎むことは至誠であると考えます。恐れながら、この近藤…上様のお気持ちをようやく理解いたしました」
「理解などと、易々と偽りを申すな。…新撰組は抗戦派の急先鋒であろう、恭順など受け入れられぬと兵を挙げてもおかしくはない」
やはり上様は新撰組を信用してはいなかった…しかし近藤はそのようなことを気に留めもせず続けた。
「…おっしゃる通り、上様のお言葉を聞くまでそのように思っておりました。戦死した同志たちのために鳥羽伏見での借りを返さねばならぬと。けれど…私も徳川に至誠を尽くすと決めたからには、言行一致で臨まねばなりませぬ。武士は二君に仕えず…新撰組は上様の兵です。上様が恭順をお決めになったのなら、我々も従うまでのこと」
「…信じられぬ」
上様は怪訝な顔をして立ち上がり、ズカズカと近づいて近藤の前に荒々しく仁王立ちして見下ろした。
「本心を申せ」
小心者であれば脅しのように感じ、しっぽを巻いて逃げ出してしまうだろうが、近藤はその言葉を真正面から受け止めた。
「…先日、奥医師の松本良順先生に今一度、誰のために、何のために戦うのか改めて考え直せと助言されました。…己の考えを巡らせるなかで、隊士たちの思いを受け止めながら、新しい道を模索するべきなのかと考え続けました」
「ふ…松本の言いそうなことだ」
「けれど考えたとて答えは変わりません…我々は徳川のために戦います。けれど、それは朝廷や薩摩、長州、土佐を闇雲に打ち倒すためのものではなく、上様の望みである恭順を貫くための戦いです。上様とて…このまま穏便に事が運ぶとはお思いではないはずです」
「…」
「薩長は徳川憎しと江戸へ向かって押し寄せています。上様が恭順とおっしゃったところで信用されず薩長の怒りの炎に薪をくべるだけかもしれませぬ。…多少の血が流れなければならぬなら、我々が流しましょう。戦をせねばこの江戸を守れぬというのなら、戦をしましょう。上様が恭順し、そのお命が長らえるように…荒っぽいことは我々が引き受けます。それが徳川への忠誠であり、私の至誠であると考えます」
近藤の言葉には何の迷いもなく、むしろ清々しささえあった。抗戦のための戦ではなく、恭順のための戦いをする…それは矛盾しているようではあるが、主君を目の前の男だと定めた以上、当然の選択だったのだ。
上様は少し呆気にとられたような顔をしたあと、後ろで黙っていた土方へ視線を向けた。
「…お前も同じ考えか?」
もちろん近藤が今心に決めたというのだから事前に聞かされていたわけではないが、土方の答えは決まっていた。
「はい」
(近藤先生がそう決めたのなら、俺はそれを支える…それは今までと何ら変わりがないことだ)
そう思うとシンプルに物事が考えられる。
上様は小さく息を吐いた後、「変わり者だな」と苦笑して元いた場所にゆっくりと着座された。
「そのような安易な理想が叶うとは思えぬが…お前たちの働きに期待している」
「はっ!」
皮肉のような声掛けであったが、その声色は少し柔らかく穏やかなものになっていた。
(近藤先生のなせる業だな…)
土方は深々と頭を下げて上様が退席されるのを見送った。


江戸城を退出し、近藤は怪我をしていない左腕で背伸びをして「ああ疲れた」と笑った。
「歳、悪かったな、勝手に上様にあのような約束をして…」
「いや…俺はかっちゃんに徳川を裏切って動くような真似ができるとは思えなかったし、主君である上様のご意思を背くこともできないと思っていた。だとしたら、恭順のための戦に尽くすという話は当然のことだろうな」
「…お前は理解が早くて助かるよ。それに上様も…俺なんかの言葉に真摯に向き合ってくださった、それだけで忠誠を尽くしたいと思えたよ」
「そうか…」
近藤の満足げな表情を眺めて、土方もまた一山越えて安堵した。
「…やっぱりかっちゃんには敵わない。次の戦はかっちゃんが仕切ってくれ」
「何を言っているんだ。さっき上様相手に啖呵を切れたのだって、お前が後ろにいると思っていたからだ。お前が傍にいて支えてくれる安心感があってこその俺だぞ」
近藤は笑い飛ばして「さあ行こう」と会津藩上藩邸、通称和田倉屋敷へ向かった。









896


和田倉屋敷の雰囲気は、江戸城とはまた違うものだった。
「…静かだな」
会津公を訪ねてやって来た二人は客間で待たされていた。
江戸城では恭順派と主戦派の鬩ぎあいとなり、あちこちで家臣たちの言い争いや腹の探り合いのような議論が起こり騒がしかったが、会津藩邸ではそれがなくひっそりと静まっていた。けれど雰囲気は重苦しく、数少ない藩士たちも緩慢な様子だ。大坂から帰還した兵たちは下屋敷の方へ移っているらしい。
「お待たせしました」
客間にやって来たのは浅羽だった。八軒家以来の近藤との再会を喜び、一通りの挨拶を交わしたあと、「こちらです」と会津公が在室している奥の部屋へと通された。一層静かな広い部屋で会津公は背を正して書物を開いて待っていた。
「殿、お越しいただきました」
「近藤、土方…」
会津公は穏やかに微笑んで二人を出迎えた。少しやつれた会津公は覇気がない様子だったが、近藤は敢えて「ご壮健なご様子で安心いたしました」と挨拶した。
「ああ…近藤、肩の怪我はどうだ?松本法眼に診てもらっているのだろう」
「はい、少し違和感はありますがこのように日常に不便はございません。戦場にすぐに駆け付けられます」
「ふ…あまり無理をするな」
会津公は読みかけの書物を閉じて傍らに置き、改めて二人の方へ向き直った。
「鳥羽と伏見での戦で新撰組が大いに活躍したことは私の耳に届いていた。特に土方…我が会津藩兵とともに前線で戦ってくれたこと感謝している」
会津公の視線が向いたので、土方は口を開いた。
「…新撰組は伏見にて会津藩砲兵隊や伝習隊とともに戦いました。隊長の林殿は官軍の最新鋭の銃を目の前にしても果敢に攻め続け、皆を鼓舞していらっしゃいました。最期はとてもご立派であったと思います」
「そうか…林の倅もその後に死んだと聞く。やはり修理の言っていた通り、大砲や刀では官軍には敵わなかったのだろうか…」
「これからの戦は銃砲でなければとても敵いませぬ。私たちは剣と槍を取って戦いましたが、全く役に立たなかった…戦法を見直すべきだと実感しました」
「戦法か…」
会津公は力なく呟くだけで、次の戦へ向けての意欲などは微塵も感じさせなかった。その様子を察した近藤は
「これから会津は…?」
と展望を促すと、会津公は「わからぬ」と答えた。
「私は上様に次ぐ二等の罪人となった。朝廷からいま追討軍が江戸に向かっている…上様が恭順を示される以上、私もそれに従うべきであると考えている」
「江戸城の家臣たちの多くは恭順に反対し、戦へと焚きつけようと動いている者もいるそうです。会津にもそのような機運があるのでは…?」
会津は桑名とともに鳥羽伏見の戦いで急先鋒であった。大坂城での決戦が頓挫したとはいえ、朝敵となった会津公や戦死した兵たちのために抗戦を主張するはずだろうと近藤は考えていたのだ。
しかし会津公は悲しく微笑むだけだ。
「…私は城を出てすぐここに入り、巷の状況がわからぬのだ。けれど、まずは先の戦で大坂城を出てしまった上様と私の失態に片をつけねば、抗戦も恭順も無かろう。それに…どうやら兵のなかには敗戦の責任は会津にあるという話が広まっているようだ…」
「まさか!会津はどの藩よりも勇敢に戦ったと聞いています!そうだよな、土方君!」
「はい。錦の御旗を前にあっさりと退散していったのは幕府の歩兵隊たちばかりです。決して会津が責められるような謂れはありません」
近藤が噂を一蹴し現地にいた土方が断言したのだが、会津公は「そうか」と力無く頷くだけだった。
状況は会津公の手を離れて、上様や恭順を進める家臣たちの元で進んでいるのだろう。会津公は為すすべなく、謂れのない誹りに耐えながら時が過ぎるのを待つしかないのだ。
会津公はそれを静かに受け入れているようだった。
「新撰組はこの先はどうするつもりだ?」
「先ほど登城し、上様にお目にかかりました。抗戦するために江戸で戻ったにも関わらず恭順をされるとお聞きし…上様にその理由をお尋ねしました」
「ふ…相変わらず大胆なことだ」
「上様の至誠の先には帝がいらっしゃいます。その帝がご自分を朝敵と定めた以上、抗うことなく身を慎むべきだとおっしゃっていました。…勝手ながら、私は上様がご自分のお命惜しさに恭順を主張されているのではないかと勘繰っておりましたが、一片たりともそのような様子はなく…そのお思いは嘘偽りなき誠であると信じることができました」
「…近藤は恭順に納得したのか」
会津公は近藤の徳川への忠誠心をよく知っていたので、とても驚いていた。
「上様がご自分の勝手なお思いや考えで恭順だとおっしゃっているのなら到底納得できず、刺し違えてでもお止めする覚悟でしたが…」
近藤はあっさりとそんなことを口にしたので、隣にいた土方は(そんなことは聞いていない)とちらりと見たが、近藤は意に介さず続けた。
「…私は上様のご意思に反して戦をするのは、私を武士に取り立ててくださった上様への裏切りだと思いました。たとえ自分の本音は憎き薩長を討つべく抗戦すべきであったとしても…上様と同じく、国の為に身を慎むべきなのだと思い直しました」
「身を慎むか…」
「はい。ですがもちろん、そう簡単に官軍が徳川を許しはしないでしょう。すでに征討軍が都から江戸へ向かっています。新撰組は徳川と…そしてご恩ある会津のためにこれからも尽くす所存です」
近藤にとって仕えるべき相手は徳川と上様に違いないが、会津に拾ってもらった恩を忘れることもない。
会津公はしばらく近藤の言葉を噛み締めるように飲み込んだ後、深い息を吐いた。
「…そうか、私はそこまで思い至らなかった。近藤は大木でありながらしなやかな柳のようだな。上様の御考えを柔軟に受け止めながら己の芯は曲げず、進む道を迷うこともない。…私もそうであったなら良かったのだろうが…取り戻せぬことが多すぎるな…」
言葉の途中で、会津公は急に咳き込んだ。会津公の傍らに控えていた浅羽がサッと近づいて背中を摩るとすぐに落ち着いたが、相変わらず顔色が悪い。
「…殿、少し休まれてはいかがですか」
「そうしよう…近藤、土方、話の途中ですまない」
「いえ、どうかご養生くださいませ…!」
「…お前たちと話せてよかった。また顔を見せにきてくれ」
会津公の強張っていた表情が柔らかくなって、浅羽に付き添われて部屋を出て行った。


二人が和田蔵屋敷を後にしようとした時、浅羽が追ってきた。
「お見送りが遅くなりました」
「会津公のご様子は?」
「大事ありません。少し風邪を召されているようで…お休みになられました」
「そうですか」
近藤はほっと安堵したが、浅羽の方は深々と頭を下げた。
「本日はありがとうございました。殿も…お二人のお話を伺って、幾分かご気分が楽になったのではないかと思います」
「我々は何も。…随分と思い詰めていらっしゃったようだ」
「…ええ…江戸城では会津が敗戦の責任を取るべきだと陰口が叩かれ、家臣や兵たちからも恭順に対して不満が上がり…殿は板挟みとなっておられます」
近藤は「そうか…」と目を伏せて何も言わなかったが、土方は聞きにくいことを敢えて尋ねた。
「会津公はなぜ、大坂城を出られた?」
「…それは…」
「それさえなければ会津が責められる理由などあるはずがない。会津公さえ城に残ってくだされば…会津の面目は保てたでしょう」
土方が遠慮なく問い詰めたので、近藤は小声で「過ぎたことだ」と止めた。会津公が気に病んでいるのはわかっていたが、しかし土方は次々と死んでいく会津兵たちを目の前にして、それが誇り高い武士の姿なのだと彼らの覚悟の強さに感じ入り、戦場に立つ武士の勇敢な姿を学んだのだ。だが彼らのその思いが虚しく踏み躙られたことには納得ができなかった。
すると浅羽は声のトーンを落としながら「おっしゃる通りです」と頷いた。
「殿も過ちであったと口にされていました。あの時上様に梃子でも動かぬと拒み、覚悟されれば、いま会津を取り巻く状況は変わったでしょうが…ただ、殿は上様のため江戸での再起を目指すことだけを信じて、共に城を出られたのです。家訓を重んじられる殿にとっては上様の命令を拒むことなどできません…苦渋の決断であったはずです」
「…つまり、上様に裏切られたということですか」
「殿は決してそのように仰りませんが…家臣たちのなかにはそう思っている者もいます」
浅羽は言葉を濁しながら顔を顰める。さほど感情を表に出さない彼がこうして眉を潜めているのだがら、よほど藩内は混乱しているのだろう。
近藤は「歯がゆいな」と嘆きながら
「我々にできることがあればなんでもおっしゃってください」
と申し出ると浅羽は穏やかに答えた。
「ありがとうございます。先ほどの近藤局長のお言葉…大変心強く思いました。この先、会津の立場は難しくなるでしょうが、どうか至誠を尽くしてください」
浅羽は凛と背を正して深々と頭を下げた。








897


土方は近藤と別れ、その足で江戸城にほど近い和泉橋の総司のところへ見舞った。その頃には日が暮れて、雪が舞っていた。
「毎日来なくても大丈夫なのに。お疲れでしょう?」
総司は律儀に登城の報告に来た土方を苦笑しつつ出迎えた。土方は「肩が凝った」と言いながら羽織を脱ぎすてて、総司が休むベッド脇の椅子に腰かける。
「昨日は浅羽がいてあまり話せなかっただろう。登城の支度もあって俺もゆっくりできなかった」
「ふふ、暇を持て余すと思っていたら次々と知った顔が訪れてくれるので、退屈しないで助かります」
「他に誰か来たのか?」
「昼頃に松五郎さんがいらっしゃいましたよ。それから先ほどまでおつねさんとおたまちゃんも来てくれて…今頃は釜屋を訪ねているだろうから、近藤先生が喜ばれているんじゃないですか?見舞ってもらうのは申し訳ないんですけど、懐かしい顔ぶればかりでなんだか江戸に帰って来たなぁと妙に実感しましたよ」
「…そうか」
身体を休めるためにここにいるはずだが、総司が嬉しそうに話すので土方も頷いた。知人が近くに居る心強さは確かに都とは違うだろう。
「それより、上様にお会いできたんですか?」
「ああ。…江戸城に上がるなんて試衛館にいた頃には想像もできなかったが、近藤先生は随分と堂々と振舞って…恐れ多くも上様へ遠慮なく意見を求めるものだから、俺は気が気じゃなかった」
「ハハ、でも近藤先生らしいです。私もその様子を少しでも見てみたかったなあ…」
総司は身体を起こして寝台の傍のテーブルの急須で茶を注いだ。今日はそうやって何人もの見舞客を出迎えたのだろうか、準備が整っていて所作が手慣れている。
「帰り際、また近いうちに登城するようにとお言葉を頂いた。甲府城の件もあるし…機会はあるだろう」
「だと良いですね」
総司は自分の分の茶も用意してベッドサイドに腰かけた。何か話したいことがあるのだろう、と察して土方は横になるようにとは言わなかった。
総司は茶を二、三回口にして、
「これ…」
と、総司はベッドの足元に畳まれていた綿入れ半纏を手にした。江戸らしい小紋柄でどこか懐かしいが使い古しではなく、最近新しく仕立てられたものだろう。
「どうしたんだ?」
「差し入れです。…どなたからだと思います?」
「…おつねさんか?」
寒い冬の二月、いくら医学所でも冷えるだろうと近藤の奥方なら気を利かせて持参しそうだ。しかし総司は少し笑って「半分正解です」と答えた。
「持ってきてくださったのは確かにおつねさんですけど…仕立ててくださったのはおふでさんだそうです。大先生を亡くされてから足腰を悪くされて、外出はままならないそうですが…そんな不自由な中でも私の病を知って、一針一針、縫ってくださったのだと」
「へえ、おふでさんが…」
綿のたっぷり入った半纏から総司の身体を気遣ったのだろうということがうかがえる。
近藤周斎の妻であるふでにとって、幼少から口減らしのために同居した総司…宗次郎は最初は気に入らない存在だった。天然理心流宗家に嫁いだものの子に恵まれず不本意ながら勝太を養子として迎え入れ、それでも貧乏道場であることは変わらない…そんなくすぶった家にやって来た武士の子の宗次郎は、ふでから特に厳しく指導を受けて下働きをさせられ、蔑ろにされている時期があったのだ。正式に入門し、総司自身が塾頭として同情を盛り上げるようになってからは試衛館の一員として扱っていたが、総司にとっては唯一ふでは『怖い人』であったのだ。
「…なんだか、不思議で…でもとても嬉しかったんです。伝言は『よく寝なさい』ってそれだけでしたけど」
「は…おふでさんらしいな」
「もう少し調子が良くなったら試衛館に足を運びたいです」
「近いうちにな」
総司は嬉しそうに微笑んだが、すぐに小さく咳き込んだ。
「もう横になれ。見舞客が多くて疲れたんだろう」
「そんなことないんですけどねぇ…」
「おふでさんの言うことを聞けよ」
「ふふ、わかりました」
本人に自覚がなくとも、久々に知人に再会すれば気を遣うだろう。土方は強引に横にさせて首元まで布団をかけてやったところ、
「…歳三さんは戻りますか?」
と総司が少し甘えるように訊ねた。
「…戻ってほしくないのか?」
「そういう…わけじゃないですけど…隣のベッドは空いてますよ」
「はっきり言えよ」
土方が婉曲な言い回しを揶揄うと、総司は目を泳がせながら
「…夜になると寂しくなるので、朝までいてほしいです」
と小さな声で呟いた。少し赤らんだ顔を見て土方は苦笑しながら総司の手を握ってやった。
「わかった。…お前が寝入るまではこうしてやる」
「…はい」
総司は恥ずかしそうにしていたが、それよりも安心したのだろう。最初指先は冷えていたが、土方が重ねると次第に温かくなっていった。そうなるにつれ総司の瞼は重たくなり、そのまま静かに寝息を立て始めた。
(…寂しいか…)
土方はふでが贈ったという半纏を眺めながら昔のことを思い出していた。
幼少の頃、家族と離れてひとり口減らしにやって来た宗次郎は決して『寂しい』などとは口にせず、一人で孤独を抱えていた。それが剣術の上達に繋がったものの、寂しさを抱えていたからこそ人から求められることを望み、近藤のための一本の刀で在り続けた。そのせいで労咳を病んだ時に何度自分を『役立たずだ』と口にしただろうか。
そんな総司が今は何の気負いなく、『寂しい』と漏らすのは弱さを認め素直に吐露できるということだ。病になって唯一良かったことは、人に寄りかかることができる強さを身に着けたことかもしれない。
しばらくの間土方が穏やかに眠る総司の寝顔を眺めていると
「寝たか?」
松本が病室を訪ねて来た。小声で様子を窺いながら「顔色は良いな」と笑った。
「お前さんがいてちょうど良かった。…会わせたい人がいる」
「…どなたですか?」
「それはこんなところじゃ言えねぇよ。誰が聞いているかわかんねぇからな」
ここは松本のテリトリーであるはずだが、彼が警戒するということは余程の重要な人物なのだろうか。土方は「わかりました」と答えてそっと総司の手を離して松本とともに病室を出た。
「弾右衛門の件はどうなった?」
「申し訳ありませんが、近藤と話す時間がなく…」
「まあ、昨日の今日じゃ話は進まねぇよな。まあ急ぐことじゃねえ、よろしく頼むよ」
「はい」
松本は颯爽と医学所のなかを進んだ。すでに病室は鎮まり、夜番の医者や弟子たちが数名控えているだけで人気がなく静かだが、松本は人払いをさせて奥の部屋へと土方を案内した。
松本は少し声のトーンを落として「入りますよ」と一言発してから襖を開いた。酒と煙草の香りが漂う部屋に一人の男が佇んでいて、その中年の男は煙草をふかしながら土方をじろじろと品定めするように眺めた後、
「へぇ…お前が土方か」
と少し笑った。男はあぐらをかいて火鉢の前に座っていて手にしていた煙草をカンカン、と火鉢に灰を捨てて「こっちに来い」と手招きする。小柄だがどこか凄みがある眼差しで見据えられると拒むことはできず、土方は男の前で膝を折った。
すると隣に座った松本があっさりと
「勝安房守様だ」
と紹介し、土方は(なんだって…)と驚く。勝海舟は上様の信頼が厚くこの度の人事で海軍奉行に任じられ、おそらくこの先の舵取りをすると言われている幕臣だ。松本は以前、近藤へ「引き合わせてやる」と約束したそうだが、このように乱暴に紹介されるとは思いも寄らなかった。
土方は改めて姿勢を正した。
「…新撰組副長、土方歳三です」
「知ってる。佐久間の息子の件では世話になったな」
「いえ…」
勝と顔を合わせるのは初めてだが、以前新撰組に入隊した三浦啓之助は佐久間象山の息子で勝の甥にあたる。間接的にでは関りはあったのだ。
すると松本が突然「俺はここで」と席を外そうとした。勝は
「つれねぇな。もう少し付き合ったらどうだ?」
「怪我人だらけで忙しいんでね。…じゃあな、土方」
普段、松本は人当たりが良く接するが珍しく勝に対してはどこか距離を置いているように見えた。容赦なく土方を置いて去っていってしまい、勝は苦笑した。
「良順とは長崎で一緒になったんだが、どうもウマが合わねぇところがあってよ。俺ァ医者として頼りにしてるんだが、いつもああやって忙しいと邪険にあしらわれちまう」
「今日は何故、こちらに…?」
「酒の飲み過ぎで胃をやられちまったんだよ。あちこち目が離せねぇことばかりでな、薬が手放せねぇよ」
勝は「苦労するぜ」と江戸城の混乱を揶揄する。だが部外者でしかない土方は返答に困り、気の利いた言葉が思いつかない。しかし勝の方は違った。
「今日の登城の件、上様から話を聞いてる。客人が来ると大抵恭順することを責められるか、抗戦を望まれるか…とにかく面倒だと話されていた上様が今日は大層機嫌が良かった。初めて物分かりの良い男が来たってな。それが抗戦の急先鋒だと思っていた新選組だって聞いて驚いた。お前たちは恭順のために戦う…そう言ったそうだな?」
「…局長の近藤がそのように申し上げました」
「モノはいいよう…しかし新撰組は剣ばかりで脳がないだろうと見くびっていたが、そうでもないようだ」
斜に構えた勝は新撰組を褒めたつもりかもしれないが、どこか人を食ったような態度が土方の警戒心を解かせない。横柄な態度を敢えて取り、挑発しているようにも感じられた。
勝は続けた。
「…俺ァ、上様の恭順のご意向に沿うが、だからって相手の要求を何もかも呑むつもりもない。交渉を有利に進めるためには駒がいる…金、領地、武器、人…そして戦だ。徳川は恭順を示しながらも小さな戦を仕掛けていく…たとえ負けるとしても少しでも優位に駒を動かし、相手の戦力と気力を削いでいくことは必要なことだろう?」
「駒、ですか」
「そのつもりじゃねぇのか?駒は駒でもそれが歩か飛車か…それは本人の資質次第だろうけどな」
勝は盃を手にして飲み干した。
(その通りだ)
言い草は気に喰わなくとも、勝自身は棋士としてその駒をどうやって攻め入るのかを決める立場なのだから、いちいち肩入れしていては身が持たないだろう。
「新撰組は香車あたりか」
「…いえ、飛車です」
「そりゃぁちょっと言い過ぎじゃねぇのか?」
「いいえ、そのつもりです」
土方は譲らずに断言した。
飛車は時に王将を越えてもっとも強いとも言われる駒だ。勝が揶揄したように真っすぐしか進めない香車ではなく、時に立ち止り視野を広く持つことができる飛車であると豪語しなければ、勝にとって価値がないはずだ。それに近藤の資質を香車に過ぎないと見限ってもらっては困る。
勝は「ふうん」とにやりと笑って土方をまじまじと見据えたが、土方は引き下がりはしなかった。
「…ま、戦はどこかで必ず起こるだろう。その時は頼りにさせてもらうぜ」
「はい」
「上様のご命令で、城近くの大名小路の空き家に新しい屯所を用意する。詳細はまた知らせるが、十日を目安にそちらに移ってくれ」
「承知しました」
勝は「帰るか」と用件は済んだと言わんばかりに身支度を始めた。結局、何が本題だったのかわからないままだ。
「勝先生…何故私をお呼びになったのでしょうか?」
「…なぁに、新撰組に興味があったからさ。佐久間の倅の件で世話になったし、前々から良順が気に入ってるのは知っていた。ここを訪ねたらちょうどいるっていうからさ。深い意味はねぇよ」
「さようですか…」
「そのうち近藤とも会う機会があるだろう。宜しく言っておいてくれ」
「はい」
勝は「ここで」と見送りを拒み、あっさり去って行ってしまった。部屋には煙草の香りと空になった盃が残り、土方はまるで不意の嵐に襲われたかのような心地だった。
すると松本が顔を出した。
「帰ったか?」
「…ええ、まあ…」
「悪かったな。もとともああいう勝手な人なんだ。自分の興味があることには熱中するが、そうではないことにはとことん興味がない。今は恭順に熱中しているようだが」
「はあ…」
勝が土方を呼び出したのは、結局本人や松本が言っていた通り興味があったからなのだろう。
「顔を繋いで損はないだろう。あとのことは任せる」
「松本先生は勝先生のことは…」
「好かん。時折、ふらっとやってきて酒を飲んで帰る。海軍にいたり、異国へ行ったり、長崎へ行ったり…とにかく腰の座らない御仁だ。…ただ、信念はある。きっと恭順だというのならその道をやり切るのだろう」
松本はため息をついたが、引き合わされた方の土方は
(今日は疲れる日だ)
と内心もっと深いため息をついたのだった。








898


一月十七日、官軍は諸国との和親を国内に布告し、攘夷を取りやめとした。さらに官軍の圧力によって二十五日、英・米・仏・伊・蘭・プロシアが局外中立を布告。これよりの戦は純然たる内戦となった。
また徳川でも、主戦派であった陸軍奉行並小栗上野介や歩兵頭の大鳥圭介らが正式に罷免され、陸軍総裁に勝海舟、会計総裁大久保一翁らが就き、恭順への道を歩み始める。

そんななか、新撰組は江戸城間近の大名小路と呼ばれる鍛治屋橋門内の空き家を屯所とし移転した。釜屋にいた隊士だけでなく、旅籠や病院にいた隊士たちも集い総司も移った。新撰組隊士が一堂に会することとなる。
「とはいえ、六十人ほどの我々には広すぎる屋敷だ」
大名屋敷が立ち並ぶ一角にある酒井飛騨守の役邸は不動堂村を思わせるような立派な屋敷だが、隊士の人数が減った分、広すぎて寂しくもある。永倉は原田とともに隊士たちの部屋割りをしていたが、すぐに終わってしまった。
「近藤先生は?」
「土方さんと一緒に城だってよ。どうやら上様によっぽど気に入られたらしいなぁ」
「…上様ねぇ…今更気に入られても…」
永倉は含みのある言い方をした。
既に恭順へ向かうなか、上様は政を家臣に任せて謹慎状態だそうだ。家臣からの信用を失い、権力まで手放した…そんな上様に目を掛けられたといっても誉れと言えるのだろうか。
(慰みに出涸らしの茶を飲まされているみたいじゃないか)
「なんだよ、しんぱっつぁん。まだ怒ってるのか?」
原田の問いかけに、永倉は顔を顰めた。
「…別に。芳賀が攘夷に熱心だっていうのは本当で、新撰組の方針とも違う…近藤先生の言い分は頭では理解している。だが、俺には単に自分たちに並ぶような幕臣の加入を嫌がっているように見えたんだ」
「ま…芹沢や伊東とも上手くいかなかったからな」
「芳賀はそういう奴じゃない…」
永倉はどこか納得できない感情をずっと抱えていた。しかしそれを知ってか知らずか近藤は喜び勇んで登城に出かけ、土方もそれに従うばかりなので永倉の鬱憤は溜まる一方だ。
すると奥の部屋でコンコン、と軽い咳が聞こえて二人はそちらへ足を向けた。
「具合はどうだ?」
西洋医学所から屯所へ移った総司は相変わらず具合が優れないようだが、表情は明るかった。
「大丈夫です。ここは気持ちいい風が入るし暖かいから」
「おう、この屋敷で一等いい部屋だぜ。南向きで日当たりがいいだろう。俺たちに感謝しろよ?」
「へへ、ありがとうございます」
総司は笑ったが、またその拍子に咳が出てしまい二人はさっさと退散することにする。
「あんまり良くねぇのかなぁ…」
原田は落胆しながらため息を付いて呟いた。総司の前では二人とも明るく振舞ったが、少しの間離れていただけで病状が進んでいることは誰に目にも明らかだった。
「…俺たちよりも本人の方がよっぽどわかっているだろうな」
「畜生…」
原田が悔しそうにつぶやいたとき、長い廊下の先から小姓の銀之助が駆け寄って来た。
「永倉先生、原田先生!」
「どうした?」
「上様から賜ったという蜜柑、皆で頂いても宜しいでしょうか?」
二人の暗い雰囲気などまるで気が付いていない銀之助が、拍子抜けするようなことを言ったので二人は顔を見合わせる。上様か見舞いとして蜜柑ひと箱と金布を一反ずつ賜っていたのだ。
「…はは、好きにしたらいいんじゃないのか?」
「引っ越し祝いにちょうどいいぜ。それに一個腐ると、皆腐っちまうからな、早く食っちまったほうがいい」
「はい!」
銀之助は子供らしく嬉しそうに笑って戻っていき、原田も楽しそうにそれに続いた。
(一個腐ると、皆か…)
原田は何の気なしに口にした言葉が、何となく永倉の胸の奥でまた燻ぶり始めてしまった。


斉藤が用事を済ませて鍛治屋橋の屯所へ向かっていると、ちょうど江戸城から帰還した近藤と土方に出会った。
「どうした?」
土方は開口一番に斉藤に訊ねた。それほどまでに分かりやすい表情をしていたのだろうか…と思いながら斉藤は答えた。
「会津の風向きが良くありません」
「ああ…そのことか…」
斉藤が危惧している件は、土方も江戸城で耳にしていた。
城内では上様の強い意向により主戦派が退けられ恭順派の勝たちが主導権を握っているが、家臣の多くはいまだに主戦・抗戦派であり、鳥羽伏見の戦での敗戦の責任を求める声が上がっていた。しかし上様が逃げ隠れるように表舞台から姿を消して謹慎してしまったため、その矛先は共に大坂城を脱出を脱出した会津公へ向けられているのだ。その声は恭順派が力を持つにつれて大きくなっていた。
近藤は特に腹を立てていたようで、その大きな口がへの字に曲がる。
「なんとも理不尽なことだ!会津は鳥羽伏見の戦では前線で戦い大きな犠牲を払った。会津公が戦場を離れたとはいえ、敗戦の責任を取るべきだとまで言われる筋合いがあるだろうか?歩兵隊たちの体たらくの方が問題だ!」
「…会津でも意見が割れているようです。上様に恭順を進言したと言われている神保修理が特に酷く責め立てられているようで…会津公は彼を庇い、責任を一身に受け止めようとされています」
「…神保修理とは顔見知りなのか?」
聡い土方は斉藤が神保修理という名前を口にした時にどこか感情が込められていることに気が付いた。斉藤は少し黙った後に、
「少し…知っているだけです。会津の優秀な公用人です」
と答えた。これ以上は答える気がなさそうだったので、「そうか」と土方は話しを切り上げ、三人は揃って屯所に戻ろうとしたところ、生垣越しに屯所の中の様子を窺っているふたりの女子の姿が目に入った。好奇心旺盛な噂好きの女子が「ここが巷で噂の新撰組の屯所だ」と色めき立っているのかと思いきや、まじまじとその顔を見て土方は愕然とした。
「…姉さん?」
「あっ!歳三!」
パッと振り返ったのはすぐ上の姉、のぶだった。土方の顔を見つけるや駆けつけた。
「なーんだ、本当にここが屯所だったのね?主人にここが屯所になるらしいと文が届いたと聞いて急いできたのよ。でもあなたはいないし、こんな立派な大名屋敷ばかり並んでいるじゃない?何かの間違いじゃないかしらって思ってなかをのぞいても見知った顔が一つもないものだから、もう退散するしかないわね、出直しましょうって話していたところで…」
よく喋る姉はところ構わず捲し立て、土方を辟易とさせる。
「姉さん…場所を考えてくれ」
「ああそうよね。でも一刻も早く顔を見たかったのよ、総司さんの!ねえ、おみつさん?」
のぶは後ろにいたみつに声を掛けた。恐縮しきっていたみつは「申し訳ありません」と深々と頭を下げ、その姿は明るいのぶとは対照的だった。近藤は苦笑しながら
「まあとにかく中へどうぞ。…遠くから来て下さりありがとうございます、総司も中にいますので…」
「ああよかった!じゃあ行きましょう、おみつさん!」
「ええ…」
近藤が愛想よく二人を屯所に案内した。屯所を訪れた最初の客人が、土方と総司によく似たそれぞれの姉だと耳にして隊士たちは色めき立つ。土方が呆れるほど明るく振舞うのぶに対して、みつの表情は深刻で言葉数も少ない。
みつの案内を近藤に任せ、土方は姉の手を引いて引き止めて事情を聞いた。
「姉さん、何故おみつさんと?」
「当たり前でしょう。おみつさんにとって末の弟の総司さんは息子も同然…おつねさんから総司さんが西洋の医学所というところに入院したと聞いて、何度もお見舞いに行きましょうと誘ったの。でも『ご迷惑になるから』とそればかり…ようやく屯所に移ったと聞いて強引に連れ出してきたの」
「…なんで姉さんまで?」
「馬鹿ね。あなただって私の大切な弟でしょう」
のぶは至極当たり前のことのように口にした。
「徳川の兵は戦で散々な目に遭ったと聞いているわ。源三郎さんも亡くなって…弟がどうしているのか気になるのは当たり前のことじゃない?私でさえそう思うのだからおみつさんはさぞご心配されているだろうと思って一緒に来たのよ」
「…」
「それよりあなたのその恰好はなぁに?似合ってなくはないけれど、どこの異国人かと思ったわ」
「…はあ。とにかくそのお喋りはもう少し控えてくれ。屯所中に響きそうだ」
のぶは「そうかしら」と首を傾げて不満そうにしながら、すぐにみつを追いかけていった。









899


総司は突然の姉の来訪に驚いた。もちろん労咳になって江戸に戻ったからにはいつか顔を合わせることになるだろうと思っていたのだが、心構えができていなかったのだ。
「総司……」
「…姉さん…」
近藤の案内で部屋にやって来たみつはしばらく呆然と総司を見つめたあと、何も口にせずゆっくりと総司の傍に腰を下ろした。姉とは病を発症する前に顔を合わせたが、言葉を紡げないほど、自分は痩せ細りまさに病人の姿になってしまったのだろうか…二人の間には重苦しい空気が流れ、様子を見守っていた近藤も困っていたが
「総司さん!随分ご無沙汰だこと!」
と、少し後にやって来た土方の姉であるのぶが雰囲気を一掃するように嬉々として再会を喜んだ。姉を追いかけて来た土方はため息を付いていたが、彼女の明るさに引っ張られるように総司は微笑んだ。
「…おのぶさん、ご無沙汰しております」
「まあまあご立派になって!近藤先生や歳三は何度か江戸に戻ってきましたけど、総司さんは一度も戻らなかったでしょう?なんだか本当に久しぶりだわ。あ、そうだ、総司さんの好きだったお菓子を持ってきたのだけれど、もう立派な大人になったのだからお菓子なんて喜ばないのかしら?」
「そんな。今でも甘いものはよく食べますよ」
「良かった!出稽古に来てくれていた頃に好きだった羊羹を持ってきたのよ。それから麩菓子や飴なんかもたくさん!」
のぶが広げた風呂敷には確かに懐かしく見覚えのある菓子が山のようになっていて、それはまるで子供のような扱いではあるのだが、のぶはいつもこんなふうに出稽古の時に甘やかしてくれていたのだ。総司は懐かしさが込み上げて目を細めた。
「わあ、有り難いなあ。都の甘味も良かったけれど、日野の味が恋しいと思っていたんです」
「そうよね。故郷の味だもの、美味しいに決まって…いるわ…」
それまで明るく振舞っていたのぶだが、次第に声を詰まらせていき、まるで堪えていた糸が切れてしまったかのように泣き始めてしまった。突然のことに皆驚いたが、その理由はわかっていた。
「おのぶさん…」
「ごめんなさい…励まさなきゃならないのに、お恥ずかしいわ。でも出稽古に来てくれた時はいつも元気だったのに…どうしてこんなことに…」
久しぶりの再会がこんな形になるなんて、とのぶは嘆く。総司はどう答えていいのかと言葉に詰まったが、見かねた土方が
「姉さん、少しあちらで休もう」
と別室に連れて行った。近藤も空気を察して席を立ち、姉弟だけが部屋に残った。互いにぎこちない沈黙のなかみつはのぶが置いていった風呂敷の菓子へ手を伸ばして手に取った。
「…甘いものが好きだとは知っていたけれど…具体的に何が好きなのか、知らなかった。きっとおのぶさんの方があなたのことをよく知っているわ…」
みつは寂しそうに自嘲した。
家を出たのは九つの頃で、貧乏だったため甘いものを口のする機会はなく味をしめたのは試衛館に来てからだった。姉が知らないのは当然であり仕方ないことなのだが、みつは気に病んでいるように見えた。
昔ならそのまま曖昧に答えて聞き流していただろうが、総司はもう少ない時間しかないのに姉と気持ちがすれ違ってしまうのは不本意だと思った。
「…姉さん、そんなことはないよ。だって私は九つの頃から何も変わっていない。好きなものも、嫌いなものも…だから、九つまで一緒に暮らした姉さんも同じくらい私のことがわかっている。だから、隊を抜けて江戸に戻ってこいって一度も言わなかったのでしょう?文でもやるべきことを全うしろと言ってくれた…それがどれだけ有難かったか」
「…」
「いままで散々勝手をして、心配をかけて…こんな形で戻って来ても姉さんは迷惑がらずに見舞いに来てくれたから…」
「迷惑なんで思うわけないでしょう!」
みつは声を上げて総司の手を握った。そしてようやく強張ったままの表情が崩れて、肩が小刻みに震えて耐えきれず大粒の涙が零れた。
「姉さん…」
「生きて戻って来てくれた…また会うことができた、それだけで何も…」
姉が顔を真っ赤にして泣きじゃくる姿を初めて見て、総司は胸が痛み目頭が熱くなった。
物心ついた頃から総司にとって姉は親であり、姉もまたそのつもりでいつも気丈に振舞っていた。口癖のように『武家の子だから』と誇り高く生きることを教え、厳しくしつけられたが、今になってみつがそうやって総司を育てることによって自分を奮い立たせていたのだろうとわかる。おかげで親がいない頼りなさを感じることは無かったが、姉は親の分まで弟の行く末を案じたことだろう。
そんなみつが遠く離れた江戸で弟の病を知り、どれほどの心痛を抱えていたのか…その涙を見るだけで理解できた。
「…姉さん、ごめんなさい…」
総司は謝ることしかできないが、みつは総司の手を強く握った。
「謝ることはありません。…今まで話していなかったけれど、あなたが生まれる前に父上も同じ病で亡くなったのです。幼い私と妹のおキンはその様子を見ていました…ですからあなたがどれほど苦しい思いをしているのか想像できます。でもこれはあなたの責ではなく、我が家の血の問題なのでしょう。ですから、誰も責めてはなりません。…もちろんあなた自身も」
「…そう…」
総司は顔の知らぬ父が同じ病で亡くなったことが慰めになるような、こうなる運命だったということなのかと愕然とするような複雑な心境になったが、しかしみつがそのような過去を黙って抱えて生きてきたことの方がよほど気の毒のように思えた。
みつはゆっくりと総司の手を離して、手拭いで涙を拭って姿勢を正した。
「…それで、お医者様にはよく診ていただいているの?」
「勿論。奥医師の松本先生や新撰組のお抱えのお医者さんにもちゃんと見てもらっているよ。隊士たちも手を貸してくれているし、何も不自由なこともない」
「そう…。田舎の方でも新撰組が江戸へ凱旋したと話題になりました。旦那様も近いうちに娘や息子たちを連れて見舞いに来たいと言っていたけれど」
「義兄さんや姉さんが良いならばいつでも歓迎します」
幼い甥や姪の顔を一度見たいと思っていたので、総司は即答した。みつは穏やかに微笑みつつ、続けた。
「…旦那様が新徴組に入っているのは知っているわよね?」
「ああ、以前聞きました」
新徴組は壬生浪士組結成時に袂を分かち江戸へ戻った清河八郎たちが組織した浪士隊だったが、その後清河が暗殺されたためそのまま庄内藩の御預かりとなり、江戸市中警護を務めるようになった。昨年末、江戸で騒動を巻き起こした薩摩御用盗と激しく対立し、庄内藩は新徴組を含めた藩兵とともに江戸薩摩藩邸を焼き討ちにし、それが発端となって鳥羽伏見の戦が起こったのだ。
「旦那様は勤勉で真面目な性格で…今は組頭となったの」
「へえ、あの林太郎さんが…?」
総司は口減らしに出される前は義兄の林太郎とともに暮らしたが、温厚で優しいイメージしかなく、とても組頭など務めるような性格ではなかった。みつは「あなたに感化されたのかしら」と苦笑した。
「とにかく、いまは庄内藩と行動を共にされていて…ご命令があればどこへでも戦へ行くだろうし、私たちもどうなるかわかりません」
「そう…」
総司は自分が姉から離れて生きているのだと思っていたが、今度は姉がどこか知らない場所へ行ってしまうのかもしれない…そう思うと今まで勝手をしていたのに随分心細く感じた。それはみつも同じだった。
「…戦が始まったらここには足を運べなくなってしまうでしょう。だからというわけではないけれど、また顔を出してもいいかしら…」
「それは構わないけれど…義兄さんのことも心配でしょうし、芳次郎たちの世話もあるでしょう。私はお医者さんがちゃんと診てくれるし、近藤先生や…土方さんもいるから、大丈夫だよ」
「…そうね。でもこれからはもう少し姉らしいことをさせてちょうだい。互いにどうなるかわからない身の上なのだから…」
「小言を減らしてくれるなら良いんだけど」
深刻な雰囲気になる前に総司が少し茶化すと、みつは「まあ」と笑った。
「ところで、土方様とは変わりないのかしら」
「…変わりないよ。姉さんに言われると何だか変な感じだな…」
「ふふ…あなたのことだから我儘を言ってさぞ土方様には迷惑をかけているのでしょうね」
「そうかも」
みつは雑談をかわしながら、あれこれ病に効くと聞いた漢方やお守りの類を差し入れた。のぶが懐かしい菓子を持参してくれたことも嬉しかったが、みつがあちこちの寺社に足を向けて集めて来たお守りも心に沁みた。
(帰ってきてよかった…)
病人の姿を見せてしまうことに申し訳なさと不安があったが、家族や故郷の人々に迎え入れられるとやはり安堵が勝る。
総司が軽く咳き込むと、みつは「横になりなさい」と布団を掛けた。
「…あなたはよくやりました。口減らしのために家から出した時の後悔は消えないけれど…試衛館に遣ったことが間違っていなかったのだとあなたが教えてくれた。それだけで私は十分です」
「姉さんがそう思ってくれるのは良かったけれど、それは近藤先生のおかげです」
江戸の厄介者の浪人として都へ送り出されたが、華々しく幕臣として帰郷することができた。それはひとえに近藤とともに歩んだ結果であり、自分一人では決してなしえなかったことだ。みつも何度も頷いた。
「勿論です。…これからも近藤先生に尽くしなさい。ここまで立派にしていただいた恩をお返しするまでただただ、尽力するんですよ」
みつは弱弱しくやつれた弟を見ても、『療養しなさい』とも『帰ってきなさい』とも言わなかった。隊を離れるべき思っているはずだが、総司の決意を察して何も聞かずに認めてくれたのだ。
「…ほら、やっぱり。姉さんはよくわかってる」
長く離れていたせいか距離が遠い姉弟ではあるが、互いに気持ちが通じ合っているからこそ尊重できる。
「そうだといいわね」
みつは穏やかに笑った。


遠くから総司とみつの談笑が聞こえてきて、土方はほっと安堵した。
雨降って地固まる…というが、雨すら降らず、しかし距離があった姉弟の間柄だがどうやら少し縮まったのだろう。そして姉ののぶも考えていることは同じのようで、
「強引だったけれど、連れ出してよかったみたい…」
と微笑んだ。
「義兄さんは?」
「今日は寄合があるから一緒には来られなかったけれど、近いうちに顔を出すと言っていたわ。入隊希望の門下生もいるから連れていくって張り切って」
「そうか、それは助かる」
人員の確保は早急の課題だ。それが故郷の門下生ということなら尚、信用が置ける。
のぶはまじまじと土方を見つめた。
「…なんだよ」
「ねえ、あなたがまだ試衛館にいた頃、為次郎兄さんが縁談を進めたでしょう?三味線屋のお琴さん。美人で有名だったのにいつの間にか破談になって…」
「随分昔の話だな」
「お似合いの夫婦になるだろうと思っていたのだけれど。あの時以来、あなたにはその気がないようだし」
「忙しいんだよ」
「でも近藤先生は都でお妾さんを二人も囲ったのでしょう?子も一人生まれて…あなたにはその暇がなかったのかしら?」
「…」
土方は(また面倒な話題になった)と思った。すぐ上の姉であるのぶは何かと弟のことを気にかけているのだが、この期に及んで『良い縁談を』など言い出しては困る。しかし、かといって総司のことを打ち明けるにはのぶはお喋りすぎて、明日にもそこら中に噂になってしまうだろう。何か適当に理由をつけて話を切り上げなくてはと思ったのだが、
「やっぱり、意中の相手は総司さんなの?」
と意表をついて核心に触れられ、土方は驚いた。姉がそのような素振りを見せたことはなかったのだ。
「……おみつさんが何か言っていたのか?」
「そんなの、聞かなくったってわかります。…あなたは恵まれた家の末っ子であまり不自由はなかったのかもしれないけれど、器用だったから執着もしなかった。そんなあなたが唯一離れがたく思っていたのは近藤先生と総司さんでしょう?特に総司さんは齢は離れているのに、大人げなく喧嘩をしたりして…でも自分の気に入ったものを誰にも渡さないって言わんばかりだったじゃない」
「…そんなつもりは…」
無意識の行動が姉にはそのように見えていたとは思いも寄らず土方は居心地が悪い。のぶは半狂乱になって『男色なんて』と否定しそうなものだが、案外とあっさりしていて
「大事にしなさいね」
と言った。姉は弟のことも総司のことも昔からよく知っている。お喋りなくせにこんな時だけは何も言うことはないと言わんばかりに、口を閉じて土方の答えを待っていた。
「ああ…わかってるよ」
土方は頷いた。
のぶは「そう」と嬉しそうに笑った後
「そろそろ総司さんの部屋に戻ってもいいかしら?」
と言い出したので土方は「ほどほどにしろよ」と送り出したのだった。









900


年明けの戦から始まった一月がようやく終わろうとしている。
大名通りにある鍛治屋橋の屯所に移って数日、客人はひっきりなしに訪れて賑やかだがようやく住み慣れて来た。江戸城では恭順が主権を握り、抗戦派を押さえつけようとしているがなかなか上手くいっていないようで近藤と土方は連日足を運んでいた。
斉藤は小庭を眺める縁側に座り、久しぶりに刀の手入れのためにゆっくりとした時間を過ごしていた。連戦で痛んだ刀を研ぎに出してようやく戻って来たところだったので、出来栄えを確認しようと思ったのだ。打ち粉や油布を準備して鯉口を切り、鞘を置く…身体に染みついた手順をこなすと無心になれるのだが、今日はなかなかそうはいかなかった。
(何故、会津が責められねばならないのか…)
日に日に会津への批判の声が高まっている。上様とともに大坂城を脱出して以来表に出ることのない会津公は何も語らず沙汰を待ち続けているそうだ。他藩から敗戦の責任を問われ、会津藩士のうっ憤は募る一方だが己の主君の苦労は皆が知るところであり、藩主に向かって真正面から批判する者はいなかった。だからこそ家臣たちの苛立ちの矛先として神保修理の名前が上がっているのだろうが…。
「考え事ですか?」
そう言って声を掛けてきたのは総司だった。ここ数日熱を出して寝込んでいたはずだが、いまは穏やかな笑みを浮かべて斉藤の隣に座った。
「…床を離れていいのか?」
「ええ、今日は朝から調子が良いんです。少しは身体を動かさないと」
総司は広い鍛治屋橋の屯所を歩き回って散歩していたようだ。今日は近藤と土方は登城しているため話し相手がいないため、難しい顔をして考え込む斉藤に気が付いたのだろう。
「それで、なにかありました?」
「…知人のことを考えていただけだ」
「へえ、知人…?」
孤独を愛するように単独行動の多い斉藤に知人と呼べる人が何人いるのか…総司が不思議そうな顔をしていたので、斉藤は続けた。
「…会津藩士の神保修理という男を調べていたことがある。会津家老の倅で、まさに生粋の会津藩士…その秀才ぶりを見込まれて会津公が長崎へ遣ったところ、国外の事情に通じ成果を上げ、西国の志士らと交わるようになった。それを警戒したとある御仁から素行を調べるようにと頼まれた」
斉藤はすらすらと打ち明けるが、少し前までは新撰組以外の任務の存在を決して認めることはなかった。けれどもう彼のなかでは時効であり、今の立場とは無関係の話なのだろう。
「だが、会津藩校でも主席だった男だ、早々に気づかれてしまい刀を合わせる羽目になった」
「…それで?」
「勝負はつかなかった」
斉藤はその時のことを思い出す。都のどこかの小路で邂逅し刀を抜いた―――互角の勝負が続き、神保が言った。
『君は一体なぜこんなこと?君ほどの腕前に達するには相当な努力と忍耐が必要だったはず…そんな君がなぜ闇夜に忍んでこんな真似をする?僕を斬ることにどんな理由がある?明確に示してくれ』
『…』
『答えられぬのなら君は退くべきだ。君には何もなくとも僕には与えられた役目があり、果たすべき使命がある。こんなことで命を落とすわけにはいかぬ。…君にも何かやるべきことが他にあるはずだ』
神保の強い眼差しはどんな一振りよりも鋭利に斉藤を切り裂いていた。刀を合わせているからこそわかる…彼は天から与えられた技量と才覚を持ち、ここで斉藤を打ち倒すこともできるはずだが、彼は理性的な人間として言葉をもって対峙しようとしていたのだ。
神保は誠実であり、自分の揺るぎなさを信じている。
そんな神保なら討幕派の志士と交わっていようとも藩を裏切るような真似をするはずがないと確信した。そして斉藤は漠然とこの男をここで斬り伏せるようなことがあってはならないと理解し、彼の言う通りその場を離れたのだ。
「…へえ。斉藤さんがそんな風に思うなんて、よほど特別な雰囲気があったんですね」
「ああ。その後、再会したが…顔を合わせた途端『なんだ新撰組か』とそれだけだ。以来互いに情報交換をしていた。神保の会津を思う気持ちは一片の曇りもない…だが、いまは上様に恭順を進言したことで戦犯のような扱いを受けている。敗戦の原因は一つではないというのに…戦というのは理不尽の権化だ」
「…」
「神保のように誠実であれば良いという時代は終わったのかもしれない。近藤局長の忠義が搾取されるようなことがなければ良いのだが…」
斉藤にしては長く語り時折愚痴っぽく言い放つ。よほど今の状況に腹を据えかねているのだろうが、生憎総司には気の利いた返答ができなかった。
そんな話をしていると、慌しい足音が近づいた。顔を出した山野は二人を見て
「こちらでしたか、全員に召集です」
と知らせてきた。


総司が一番広い部屋にやってくると、隊士たちがまばらに集まっていて数は少し減っているように見えた。
(江戸に戻ってから脱走者が多いとは聞いていたけれど…)
鳥羽伏見で多くの兵を失い、新撰組は隊士を募集し再編を図っていたが、徳川の劣勢を目の当たりにしてなかなか有望な隊士は集まらず脱走者も後を絶たない。都にいた頃のように監察が厳しく見張っていないのもその一因だろう。
総司が何となく物淋しい気持ちで眺めていると、
「あ、沖田先生。こちらにどうぞ!」
一番隊の野村が総司に気がついて手を振り席を開けた。広間のなかで一番日当たりの良さそうな場所だ。総司が誘われるがままに膝を折ると、続々と一番隊の隊士たちが集まってきた。
「お加減はいかがですか?」
「今日はお顔色が良いですね!」
「最近江戸で評判の菓子屋を見つけたんです」
「そうそう、先生のお好きそうな大福があったよな?今度買ってきますよ!」
「おい、火鉢をもっと寄せろよ。先生が寒いだろう?」
彼らは我先にと総司の周りを囲み、あれやこれやと話しかけてきて収集がつかない。多くの離脱者が出ているなかでも一番隊の隊士は全員が揃っていて変わりないように見えた。
「皆さん、先生が困っておられますよ」
医学方でもある山野が皆を嗜めるが、総司は「良いんですよ」と笑った。
「思えば船は皆とは別で、そのまま和泉橋の医学所へ行ってしまって寝込んでばかりだったから…皆と話す機会が無かったですよね」
「そうですよ!いっぱい愚痴も聞いてもらわなきゃ…」
野村が調子に乗って冗談めかすと、
「どんな愚痴があるんだ?」
と斉藤が顔を出した。彼はいま一番隊の頭であるので野村は急に愛想笑いで「へへ」と誤魔化し、他の隊士たちも緩んだ表情が急に引き締まってしまう。
「…斉藤さん、皆を虐めちゃだめですよ」
「虐めた覚えなんてない」
「それはどうかなぁ…皆、怖がってるみたい」
「気のせいだ」
斉藤が涼しい顔をして総司の隣に並んだところ、ちょうど近藤と土方がやって来た。江戸城から戻って来たばかりなのか羽織袴の堅苦しい格好で、さらに二人の後ろに相馬の姿があった。
「あれ?相馬君は…」
「最近、局長附に移動した。登城の際には同行している」
「へぇ…相馬君は見目もいいし、優秀ですもんね」
総司も納得の人選だった。土方は真面目で呑み込みが早く常に冷静な相馬を、今後組頭などの幹部として重用するつもりで傍に置いているのだろう。
そうしていると近藤が上座に、土方はその隣に座り隊士たちも姿勢を正した。
近藤は広間を見渡して口を開いた。
「皆、揃っているな。…すでに知っているとは思うが、上様は恭順の意思を固められ近いうちに家督を譲り隠居されることとなった。これから恭順の交渉が始まるだろうが、東征軍が都を出立しているという話も聞こえてきている…おそらく何らかの戦は避けられないだろう。…皆、新撰組の行く末を気にしていると思うが、我々は上様を、徳川をお守りするために戦い続けて来た。その思いは変わらぬ。…しかし、恭順と聞き、皆思うところがあるだろう?」
近藤の問いかけに隊士たちはどうリアクションすべきか戸惑った。徳川の家臣であるという自負があるものの、あっさり手のひらを返して恭順に向かう上様に賛同できず批判的な思いを抱えている者は少なからずいるだろう。
近藤は続けた。
「…江戸で再起し、抗戦したかったと思う者もいるはずだ。しかし我々は徳川に恩を受けた以上、上様のご意思ならば恭順を受け入れるべきだと考えている」
近藤の口から『恭順』という言葉が漏れ、隊士たちは互いに顔を見合わせた。上様の意思に従うべきだと考える者と、恭順などせず徳川の名誉のために戦うべきだと考える者…江戸城内と同じように多くはこの二つに分かれていたはずだ。後者の思いを代弁したのは原田だった。
「じゃあ俺たちはもう戦わないのか?新撰組は上様の恭順に従い、このまま何もせずに解散ってことか?」
戦わずして白旗を上げるのか―――憤った原田の問いかけに、近藤は首を横に振った。
「そうではない。我々は闇雲に抗戦せず徳川の兵として他部隊と足並みを揃え、上様のご意向に沿う形で戦い続けるべきだ。まずは上様の御身と徳川の御膝元である江戸を守る。そして官軍に一方的に蹂躙されることなく対等な交渉ができるように前線で戦う。それがいまやるべきことだと思う」
「その先は…?」
「…正直、その先のことはわからぬ。徳川の復権があるのか、このまま官軍が政を担うのか…。けれど、目先のことを一つ一つこなす…そうしているうちに必ず好機がやってくる。俺はそう信じたい」
近藤の考える将来は曖昧で漠然としていて不確かだ。しかし遠い先のことばかりを考えてその場で立ち尽くしているだけでは存在する意味がない。
「まぁ、今までもそうだったよな…」
原田はため息を漏らしながらも理解を示した。誰しもこの先を見通すことなどできないのだ。けれど隊士たちは一人ひとり表情が異なり、賛同して頷く者がいれば、批判めいた眼差しを向ける者、混乱して理解できていない者など十人十色の反応だ。その中で永倉は腕を組んで難しい顔をしていた。
近藤は隊士を見渡して穏やかに頷いた。
「二君に仕えず、我々は最後まで至誠を尽くし、武士として生き抜くべきだと思っている。…だが、異論ある者は抜けても構わぬ」
「局長」
土方は成り行きを黙って見守っていたが、脱退を望む者の背中を押すのは困ると思った。しかし近藤は撤回することはなかった。
「すべて俺の独りよがりの思いだ。自分の生き方は自分で決めたら良い。このまま残って徳川のために戦うか、別の場所で生き延びるか…選んだらいい。俺に言えるのはそれだけだ」
古参の隊士から江戸で入隊したばかりの隊士まで、様々な経緯と縁あって集ったのだ。近藤は彼らを一方的な考えで自分の巻き添えにするつもりはなく、一心同体として歩める者だけとともにこの道を進みたいと願っていた。
(近藤先生はもう道を定められたのだろう…)
総司は話を聞きながら、近藤がすでに揺るぎない決意をしていることに気が付いていた。
今にも沈没するような船に乗り、その船に『誠』の旗を掲げて、どこまでも共に流れる。その先がどこまで続いているのか、どこに繋がっているのかわからなくても邁進する―――それが近藤勇という武士の生き方なのだ。


「格好良かったですね、近藤先生」
その日の夕暮れ、総司は土方と二人で軒先に座っていた。今日は寒さが和らいで過ごしやすかったが、これから夜になれば冷え込むだろう。
「あれが恰好いいのかどうかはわからねぇが…かっちゃんはこの先も一生変わらない。徳川に失望しても、裏切られようとも…たぶん、同じことを言ってる」
「近藤先生のいいところでしょう?」
「どうかな。…命を縮めなきゃいいけどな…」
『搾取されなければいい』
総司は昼間、斉藤が口に知っていたことを思い出した。誠実であることが正義ではなく、利用されて身を滅ぼすこともある…二人はきっと同じ危惧を抱えているのだろう。
けれど総司はあまり心配していなかった。
「…近藤先生は公方様に感謝されたいわけでも褒美が欲しいわけでもなく、ただそうしたいからそうするだけなんですよ」
「…伊東にも同じことを言っていた」
「伊東先生に?」
まだ半年ほどしか経っていないが総司は随分懐かしい名前だと思ったが土方にとってはそうでもなかったようで、まるで昨日のことを話すように語った。
「あの日、伊東を近藤先生の別宅に誘き寄せたとき…二人が最後にそんな話をしていた。伊東は徳川は近いうちに滅びると言い、近藤先生の生き方を無意味だと断じたが、近藤先生は例え死んだとしてもそれを惜しい忠義だったと誰かが思ってくれるならそれでいいと答えた。…伊東はその後に死んだが、その時の議論が無駄で滑稽だとは思わない。二人は本気だった」
「…想像できます。近藤先生は本心でおっしゃったのでしょうね…」
近藤の決意が揺らがないのは、今まで手にかけてきた仲間のためなのかもしれない。意見の相違から失った命のために後戻りなどできるはずがない…無意識のうちに今までの過去が近藤の決意を後押ししているのだろう。
冬の夕日は、静かなまま、夜の漆黒の闇にあっという間に飲まれていく。
総司は何となく手を伸ばして土方の指先に自分のものを重ねた。冷たい指先を小さなぬくもりを探すように絡ませると土方も同じようにした。
「なんだよ、手遊びか?」
「…ふふ、指先が冷たかっただけですよ」
冷たかった指先は重なっただけですぐに温かくなった。
総司は目を閉じた。
難しい話も、先行きの見えない不安も、今は何も考えたくはない。
(いつまでも…こうしていたい)
その願いがいつまで叶うのか…総司にはわからなかった。






















解説
なし

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