わらべうた




901


二月になった。
江戸城下の鍛冶橋に与えられた新撰組の屯所ではちょっとした宴が開かれていた。
「弥栄ー!弥栄―!」
しきりに歓声を上げるのは試衛館所縁の人々だ。局長の近藤勇がこれまで支援をしてくれていた故郷の有力者である小島鹿之助や土方歳三の義兄で名主の佐藤彦五郎たちを数名を招いており、病身の沖田総司も少しだけ顔を出していた。
「義兄さん、飲み過ぎです」
土方は赤らんだ佐藤から何度か酒を取り上げようとしたが、そのたびに「なぁにこれくらい」とはぐらかされてしまう。今日は妻で姉ののぶがいないので羽目を外しているようだ。
「今日くらい飲ませろよ。なんせ、若先生は上様から『姓』を頂いて、『大久保剛』になったんだぞ?」
「『大久保』と言えば、かの東照大権現様が江戸に入国した時の八王子の代官の姓!それに最古参譜代大名の家臣の姓!それからぁ?」
「とにかく重臣はみぃんな『大久保』だ。それだけ上様からの信頼が厚いってぇことだよな?」
佐藤と小島は顔を見合わせて本人よりも嬉しそうに盛り上がる。彼らの囲まれた近藤もたじたじだ。
「恐れ多いことです。しかしそれもこれも、皆さんのご支援あってこそ!」
新撰組が壬生浪士組と名乗っていた頃、故郷からの支援や金によってどうにか成り立っていた。彼らの支援がなければ早々に江戸に引き返し、浪人のまま燻ぶって全く違う人生を歩んでいただろう。
嬉しそうに酒を注いで回る近藤とは正反対に、土方は居心地が悪そうだった。新撰組では冷徹な鬼副長と呼ばれている彼だが故郷の人々の前ではお大尽家の薬屋の末っ子でしかない。それに宴が始まる前に散々、髪を切り洋装となったことを揶揄われたのだ。
佐藤は土方に盃を差し出しながら「で?」と笑った。
「お前は『内藤隼人』だって?内藤ってのは?」
「何度も言いましたけど。大久保と同じように家康公の重臣であった内藤家長公から頂いていると…」
「で、土方家由緒ある『隼人』か。お前は芸がない」
佐藤の遠慮ない物言いに、傍らで聞いているだけの総司は噴き出して笑ってしまった。義兄である佐藤や実姉であるのぶにとっては相変わらず手のかかる末弟なのだろう。
そうしていると客人たちが歌い踊り出し、新撰組には天然理心流の門下生も何人かいるので彼らも加わって宴はさらに盛り上がった。
しかし屯所の外では、徳川が恭順に転じて戦になるという噂が広まり、江戸を逃げ出す民もいる。かと思えば芝居小屋は盛況であったりと何かと落ち着かないのだが、故郷の人々は新撰組を鼓舞しようと集まってくれたのだ。
総司はその盛況な様子を見届けて目立たないようにそっと退席した。そして自室に戻りながら
「…ゴホッ、ゴホッ…」
と小さく咳き込んだ。
痩せ細った総司の姿を見ても故郷の人々は何も言わず、
「ご苦労だったな」
「よくやったな」
と労ってくれるばかりだった。それにどう返したら良いのか戸惑いながら
「ありがとうございます」
と総司は頭を下げるしかなかった。
皆は長年新撰組を支え、ついには武士となり上様から姓が下賜された…この至上の喜びに酔いしれている。その雰囲気に水を差すような真似はしたくなかったのだが、土方が追いかけてきた。
「大丈夫か?」
「ええ、少し咽ただけですから…それより、皆のところへ戻ってくださいよ。せっかくこっそり抜け出したのに…」
「もう十分付き合っただろう。部屋まで送る」
そう遠くないはずだが、土方は総司に付き添うことを口実にして宴を抜け出したかったらしい。総司は仕方なく受け入れて二人は並んで歩いた。
「大久保と内藤かぁ…皆さん、お喜びでしたね」
「そう喜ぶようなことでもない。つまるところ、江戸では新撰組の近藤と土方の名前が知れ渡っていて、抗戦派を刺激することになるから変名を使えっていうことだろう?」
徳川慶喜…上様は周囲に隠居を告げて身を潜め、上層部では上様の意向である恭順に向けて着々と物事が進んでいるそうだが、家臣たちのほとんどは主戦派で官軍を返り討ちにするべきだと考えている。近藤はその中にあって恭順の先にある戦を見据えているのだが、周りから見れば新撰組は主戦派の急先鋒だろう。
「そんなひねくれて受け取らなくても」
「良いんだよ、素直に受け取るのは近藤先生だけで」
「…まあ、それもそうか」
土方が素直ではないのは今に始まったことではない。このような誉れを得ても相変わらずな土方に総司が苦笑していると自室に辿り着いた。
「…そういえば、斉藤さんが会津のことを心配していましたよ」
「会津か…」
土方は総司に横になるように促しつつ、その傍らに腰を下ろして火鉢を寄せて埋もれた火種を探しながら軽く吹く。今や少なくなった組長の一人である斉藤一は今日もどこかへ出かけていた。
「世間じゃすっかり会津は戦犯だ。江戸にいた幕臣や兵たちは会津が何をしたのかはわかってねぇけど、敗戦して上様が逃げ手のひらを返した…そのうっ憤があって、とにかく振り上げた拳をどこかに下ろしたいと思ってる。その矛先が会津だってだけだ」
「…不憫です。会津は今まで都の治安維持に取り組んで、先の戦でも多くの犠牲を払ったのに…」
「ああ。…俺たちも会津には恩がある。だがどうにも動きようがないんだ」
土方がお手上げだと話すが、総司はなかなか割り切れずに心に靄がかかる。しかし軽く咳き込むと土方は「この話はまた」と切り上げてしまい、総司の額に手のひらを置いた。
「…少し熱があるか?」
「ちょっと酔ったのかも」
「酒を飲んだのか?」
「一口だけですよ。それにどちらかといえば雰囲気に酔ったのかなぁ…皆嬉しそうで」
道場を畳んで浪士組に加わった食客たちを彼らは快く送り出し、金の無心をしても答えてきてくれた。感謝してもしきれない人々の笑顔を見て、ほんの一時でも報いることができたような気がしたのだ。
総司が微笑むと土方も頷いて手が離れそうになったので、総司はその手を捕まえて頬に寄せた。
「…歳三さんの手が冷たくて気持ちいい」
「…なんだ、誘ってるのか?」
「ふふ、そうじゃなくて…甘えてるだけです」
総司が見上げると土方は穏やかに微笑んでいた。

総司が眠ったのは宴もたけなわで数人が帰路に着こうとしている頃だった。土方が戻るとへべれけになった佐藤がフラフラと歩いていたので思わず肩を貸した。
「おう…じゃあなあ、歳三。また来るよ」
「義兄さん、これから日野に帰るんですか?」
「いやぁ、若先生がこの近くに宿をとってくれた。そっちで続きだ」
佐藤はクイっと盃を飲む仕草をした。
どうやらこのあと二次会に傾れ込むらしい。土方は内心呆れたが、故郷の人々からすれば近藤の大昇進はいくら飲んでも飲み足りないくらい喜ばしいことなのだろう。 
すると近藤がやってきた。彼もほろ酔いの様子だったが正気は保っており
「歳、俺もお付き合いしてくるよ。あとは頼んだ」
と言って代わりに佐藤を担ぎ、屯所を出ていく。その足取りは左右に揺れて頼りなかったが、一番隊から局長附となった相馬肇が追っていったので心配ないだろう。
「…まったく…」
あまり楽観視できる状況ではないが、憂いを忘れて気を晴らすのも大切なことだろう。特に江戸城では日々諍いが起こっているのだから、近藤も内心疲れているはずだ。
「土方副長」
近藤たちを見送って戻ると、永倉新八が待ち構えていた。気難しい表情が顔に出ている…何か話があるのだろうと言うことはすぐにわかった。
「何か?」
「…弾左衛門の件だ」
「…場所を移そう」
いつか永倉が持ち出してくるだろうと思っていた話題だったため、土方は驚くことなく受け入れて人気のない屋敷の裏に移動した。
「身分引き上げの件だろう?」
「…芳賀の時にはあっさり却下したのに、素性のわからぬ輩を新撰組の一員にしたのは何故だ?」
「松本先生に頼まれたことだ」
奥医師の松本良順は浅草の弾左衛門という穢多頭と繋がりがあり、このたび近藤を通じて弾左衛門ら百名ほどの身分が引き上げされた。その見返りとして戦時には新撰組に協力することになっている。
「…永倉、江戸に住んでいたならわかるだろう、浅草弾左衛門は多くの穢多非人を従えて、力を持っている。百人の兵力は今の新撰組にとっては大きいし、弾左衛門のような立場の者が徳川に就いたと話が広まれば流れも変わる」
「それは頭数だけだろう。いざ戦となって本当に戦えるのか?いざとなれば逃げだすような兵などいても邪魔だと、土方さんも思っているだろう?」
「…」
「こんなことなら、芳賀たちを招いても良かったはずだ」
永倉は眉間に皺を寄せて、一旦収まった話を再び引き合いに出す。永倉の友人である幕臣の芳賀宜道は攘夷に熱心な集団を率いているという。
熱くなる永倉とは正反対に、土方は腕を組んで淡々と答えた。
「…いまの敵は薩摩と長州で、攘夷は叶わぬ夢となった。向かうべき目的が違うと伊東のような亀裂を生むだけだ」
土方としては永倉のことを考えて芳賀の合流を断ったのだ。古くからの友人だそうだが、初っ端から考え方が違うのに友誼だけで受け入れては、きっと後々後悔するに違いないと思ったのだ。しかし永倉は土方の思いなど汲みようがない。
「では、結局は身分を引き合いに取引をしてこちらの言い分を呑む者を選んだということか。従え易いから」
「…そう思うならそう思えばいい」
土方は肯定した。
決して永倉が言う通りの思惑がないわけではない。しかし、兵が必要だという現実は逃れられず、それが口先だけの信用だけでなく、取引によって必ず協力できる関係ならより良い…土方はそう考えていたのだ。
永倉はまだ何か言いたそうにしていたが、大きく息を吐いて目を伏せた。
「近藤先生は…結局は使いやすい駒が欲しかっただけか。もしくは奥医師の松本先生にいい顔がしたかったのか。…将軍にお目見えとなって、直参で、名前が変わって…この先もどんどん変わっていくんだろうな」
「…」
土方は永倉の嫌味を聞き流した。ここで言い返して揉めて良いことは無く、新撰組の亀裂となるだろう。それに近藤は永倉が反発するのはわかっていたが、きっと熱が冷めれば理解してくれる…そう信じていたのだ。けれど永倉は「もう良い」と話を切り上げて去って行ってしまった。











902


総司と近藤は新撰組と行動を共にしていた英とともに和泉橋の医学所へ向かったところ、新撰組のもう一人の主治医で会津藩医の南部精一と義娘の加也の姿があった。
「ああ、無事で良かった…!」
加也は英に駆け寄り喜びで涙を滲ませる。英は少し照れくさそうにしながらも頷き、抱擁する姿は本当の姉弟のような関係にみえた。けれど加也はすぐに背筋を伸ばして挨拶した。
「近藤様、この度はお見舞い申し上げます。沖田さんも今日は顔色が良さそうですね」
「お加也さんも道中ご無事で何よりです。英さんのおかげで私を含めて新撰組隊士は沢山命拾いしました」
「…あれこれ無理難題押し付けられて大変だったよ」
「君が手当てした怪我人の処置を見ましたが、適切にできていましたよ。良い修行になりましたね」
南部に誉められ、英は少し嬉しそうに頷いた。
加也は英を連れて別室に移り、南部は「お入りください」と二人を奥の診察室へと案内した。
「…少し患者が減ったようですが」
近藤は辺りを見回しながら南部に尋ねた。大坂から敗残兵が大勢引き上げていた頃は医学所には負傷者で溢れていたが、今は数人がちらほらいるだけだ。
南部は苦笑した。
「…実は、この医学所は近々閉じることになりまして」
「閉じる?」
「ええ。まあもともとは幕府直轄の種痘の施設でしたから、幕府が無くなれば閉鎖する道理に適っています。ですが患者を放り出すのは本意ではないと、良順先生は私設の医学所を設けられるとおっしゃっていました。今日はそのため不在ですので私が診察に」
「なるほど、そういうことでしたか」
「どうりで静かだと思いました」
松本はお気に入りの近道が来院するといつも玄関先まで迎えに来ていたが、今日はそれがなかったのだ。総司が笑うと南部も頷いた。
近藤と総司は南部ともに診察室に入り、まずは近藤の傷口を見せた。南部は顔色一つ変えずに確認しながら消毒し、腕を動かしながら問診する。総司はその様子を伺っていたが、やはり近藤は思うように動かせないところがあるようで時折苦痛を滲ませていた。
しかし南部は「良い経過です」と励まして微笑んでいた。
「良順先生からのご伝言がありまして…時間があるようならそろそろ一度横浜の病院へ行かれてはどうかと。紹介状は預かっていますから今日お渡しできますがいかがでしょうか?」
「横浜か…」
松本から横浜の病院でいずれ診てもらうようにと言いつけられていた。近藤は新撰組が落ち着くまでは、と拒んでいたが上様の隠居、蟄居が決まりつつある今こそその機会なのかもしれない。
南部は松本から預かっていたという文を取り出した。
「横浜病院はもともとは幕府のフランス語伝習所でしたが、いまは仮病院としてフランス人医師が治療を行っています。長らく今は伝習隊の負傷者をはじめとして多くが入院していましたが、今は少し落ち着いていますから」
「うーん…しかし…」
近藤としてはあまり新撰組を離れるのは気が進まないようだった。
「先生、江戸と横浜ならそう離れてはいませんし、何かあってもすぐに駆け付けられます。せっかくの機会ですから新撰組のことは土方さんに任せてしばらく治療に専念された方が良いんじゃありませんか?」
「沖田さんのおっしゃる通りです。いつ戦が始まっても良いように備えておくのも肝要ですよ」
総司と南部から背中を押され、近藤はようやく納得した。
「…わかりました。土方と相談して近日中に横浜へ向かいます」
「ええ、そうしてください」
南部は安堵した表情で紹介状を渡し、続けて総司の診察を行った。といっても問診をしたのちは脈や肺の音を聴くだけで終わり、
「宜しいですよ」
の一言で終わってしまった。怪我をしている近藤の前だったのであまり深刻なことを口にしなかったのだろう…ズバズバと飾らずに話す松本とは対称的に南部の診察は穏やかで優しいのだ。
それからは客間に移動して茶を飲みながら、会津藩医としての南部の話を聞いた。
「私は都の診療所を閉じ会津藩医として従いましたが、殿が江戸へ戻られたとお聞きして先日江戸に。もともとは加也の父君に学んでいましたので、空き家になっていた彼女の家へ戻り、いまは良順先生の手伝いや会津屋敷へ通っています」
「そうでしたか。…実は容保様より当分の間は会津屋敷に足を運ばないようにとのお達しがありしばらく足を運べていないのですが…容保公のご様子はいかがですか?」
「…殿はこの状況を大変憂いていらっしゃいます。殿は上様に従い恭順するご意向ですが会津藩内では主戦派が力を持っていて、反発が高まっています。他藩からも会津の責任を問う声が聞こえ…私は負傷者の多い三田の下屋敷に顔を出す機会が多いのですが、日に日に兵の気が昂り、殿のご意向を無視して決起するような話も聞こえてきます」
「…そうでしたか…」
近藤は顔を顰めた。傍で聞いていた総司も斉藤から何となく状況は聞いていたが、会津の置かれている立場は複雑で、近藤と言えども手出しができないだろう。
「殿は…都で大変な苦労をされました。ご壮健とは言えぬお身体に鞭を打ちながらお役目を果たされたのです。…私としては報われてしかるべきと思いますが、いまはどうにもなりません」
「…ご心配ですな」
「ええ。ですが私は会津藩医としてどこまでも付き従う決意です。…おそらくお二人にはなかなかお会いできなくなりますが、どうかご自愛していただき、今後は英をお頼り下さい。山崎君が亡くなってしまったのは残念ですが、英にも私の持ち得るすべてを授けたつもりです。私は何も心配していませんから」
南部は診察と同じように穏やかに語った。


一方、近藤と総司が不在の屯所に伊庭八郎が訪ねて来た。
「新撰組の屯所が鍛冶橋のこちらだと耳にして驚きましたよ。幕臣どころか、ついに大名と肩を並べるようになっちまったとね」
相変わらずの軽口だったが、彼の表情は少し硬い。土方はいつもとは様子が違う彼を客間に招き入れて人払した。
「いつ江戸へ?」
「あれ、永倉さんに聞いてません?実は遊撃隊の一員として新撰組と同じ順動丸に乗っていたんですよ。暇がなくて少し挨拶をした程度でしたけど」
「…そうか」
江戸に着いてからは慌ただしく永倉は話しそびれていたのかもしれない。
(今はそんな話をする気分でもないか…)
伊庭は湯呑みに少し口をつけた後、すぐに本題に入った。
「江戸に戻ってからのことは父や遊撃隊隊長から耳にしています。てっきり江戸で再起だと思っていたんですが…でもこのまま徳川が潰れて江戸が官軍に占領されるのを黙って見ていろと言われて従う幕臣はいやしません。近々伝習隊や歩兵部隊は蜂起するという噂がありますし、そういう動きは広まっていくと思います」
「…そうらしいな」
「他人事ですね。…新撰組もそれに加わるのだと思っていましたよ。でもどうやら違うようですね…皆驚いてます」
伊庭の口調には苛立ちがあった。いつも飄々として場の空気を読むことに長けている彼がそうして表に感情を出すほど、彼は怒っているのだ。
「…上様も恭順、会津公も恭順…だったら新撰組が取るべき道は決まっている。だが無抵抗のまま黙っているつもりはない、必要以上に蹂躙されることがあれば戦う…それが近藤先生の考えだ」
「それが納得いかないって言っているんです!筋を通したつもりでも、傍目には官軍に屈したと思われます!」
「義の尽くし方の問題だ。…お前たちが蜂起して反抗することを非難するつもりはないが、上様の意向に沿わぬやり方を近藤先生は望んでいない」
「しかし…!」
「お前こそ、上様に従うことこそが本分だと言っていただろう。以前、俺が日和見の上様を降ろし別の方を立てるべきと言った時、そんなことを考えことすら烏滸がましい、上の言うことに疑問を抱くことなく従うのが幕臣だと口にした。だったら一旦は恭順すべきではないのか?」
土方の指摘に対して、伊庭は顔を顰めた。
「…ええ、確かにそう言いました。今もその考えに変わりはありませんが、しかしすでに大樹公はいません。上様は自ら降りてしまいどこにも武家の棟梁はいない。だとしたら…幕臣として生きてきた恩返しは『徳川』へすべきだと思いました。このまま恭順して賊軍の汚名を負うなんて…耐えられません。だから『徳川』の名誉のために幕臣たちは戦い続けなければなりません」
「名誉、か…」
形はなく手に取ることのできない漠然とした言葉。けれどそれは幕臣や武士を名乗る者たちにとって命のようなもの。
土方は伊庭の考えが間違っているとは思わなかった。尽くすべき主君がご恩を受けた『徳川』という存在そのものだとすれば、命尽きるまで抗う続けるのが彼らの本分なのだろうし、伊庭のようにそういう生き方しか選べないと覚悟を決めている者も大勢いるだろう。
けれど闇雲に兵を挙げたところで踏みつぶされて終わるだけだ。
「…伊庭、俺は以前勝安房守にお会いした。勝殿は恭順を貫くためには様々な交渉材料が必要だとおっしゃった…それが領地であり、一人であり、金であり、武器であり…そして戦でもある。官軍と対等に渡り合うためには犠牲が必要だ…俺はその通りだと思った。だからまずは将軍の在所であり、俺たちの故郷でもあるこの江戸を守り抜く。…官軍への抗戦はその後の話だ」
「勝安房守は信用できません」
「だが道理だと思う。…お前もそう思うだろう?」
「…」
伊庭は勝海舟を好いていない様子だったが、物事を冷静に捉えなければ内側から崩壊していくだけだと本当はわかっているはずだ。
伊庭は少し黙り込んでしまったが、土方は苦笑した。
「お前にしては感情的だな」
「…歳さんが達観しているだけです。普通、感情的になるでしょう?今まで上様のために戦ってきたのに…土壇場で裏切られた挙句まだ戦えるのに恭順なんて…このまま何もせずにいるなんて官軍の思う壺です」
「とにかくもう少し状況を見守ったらどうだ。急いては事を仕損じる」
「…わかりました。今のところ歳さんと話しても平行線ですね」
伊庭は熱くなっていたが、土方がそれに乗らずに淡々としていたためかえって冷静になってしまったようだ。
けれどだからといって考えを改めたわけではない。伊庭はより表情を引き締めて土方へ居住まいを正した。冷たい風にも屈しない凛とした眼差しは揺らぐことなく土方を見つめていた。
「時機を見て…俺は遊撃隊の有志とともに戦を仕掛けるつもりです。たとえ敵わなくとも一矢報いたい…その思いは決して消えません。ですから、ここに来たのは新撰組の副長土方歳三ではなく、古い友人である歳さんにお願いがあって来たんです」
「お願い?」
「…鳥羽伏見での新撰組の戦いぶりは歩兵隊のなかでも評判です。…ですからその時が来たら、ともに戦ってください」
「…」
伊庭の口にする『その時』というものが具体的にいつなのかはわからなかった。きっと伊庭にもわかっていないだろう…けれどいつか運命という不確かなものが交錯する時が来たら、必ずや手を貸してくれと彼は懇願しているのだ。
(いつの間に立場が変わっていたのだろう…)
名門の御曹司と田舎道場の食客。そもそも交わることのなかったはずの縁がここまで続き、幕臣を率いる彼に共に戦ってくれと望まれることになるなんて。
「…わかった」
土方は頷いた。






903


二月上旬、近藤は数名の隊士を引き連れて横浜へ向かったが、主君であった会津公が家督を譲ったという話が新撰組に齎されたのはそのすぐ後のことだった。
「そうか…会津公が…」
土方はため息とともに呟いた。
大坂城脱出の件で会津公は相当な非難を浴びている。開陽丸で江戸へ戻ったのは会津公だけではなく、むしろ最後まで抵抗したというのにまるで首謀者のような扱いだ。
土方はいつかこうなるだろうとわかっていたものの、かつての雇い主であり恩義ある主君が追い詰められてその座を譲り隠居してしまうことは受け入れ難く、残念としか言いようがない。もし近藤が出立前なら気落ちして取りやめていたかもしれない。
この話を持ってきたのは斉藤だった。
「次の藩主は御養子の喜徳様です」
彼は淡々と土方に報告した。彼に情報源を尋ねないのは暗黙の了解のようなものだ。
「…喜徳様は上様の弟君だったな」
「はい。ですから会津藩内でも賛否両論、複雑なようで…ますます主戦派の勢いが増しています」
「そうだろうな…。浅羽さんはどうした?」
こういう話はすぐに浅羽がすぐに報告にやってきそうなものだが、和田倉屋敷で顔を合わせて以来音沙汰がない。
「浅羽殿は外出を控えられているそうです。藩内で勝手に御宸翰を持ち出し先んじて江戸へ戻ったことが非難されているようですので」
「…そうか。大事にならなければ良いが…」
浅羽は浅羽なりの忠義を尽くした末のことだと彼の人柄を知っていると理解できるが、小姓頭の行き過ぎた行動だと周りは責め立てるのかもしれない。浅羽の身を案じつつ、土方は茶を口にしたところ、バタバタと騒がしい足音が近づいてきた。顔を出したのは大柄の島田魁で、その焦った表情を見ただけで何かが起こったのはすぐにわかった。
「土方副長、大変です。伝習隊が高田馬場に集結し、八王子方面へ脱走しました!」
「…伝習隊が?」
「はい!数は四百!」
「多いな」
土方は驚いた。
フランス軍の指導を受けた精鋭部隊の伝習隊が徳川の支配から逃れようと脱走した…その意図や目的は計り知れないが、鳥羽伏見の戦で活躍し主力部隊となった伝習隊が徳川に見切りをつけて脱走したという事実は重く、すぐに様々な憶測とともに広まることだろう。
(彼らも加わったのだろうか…)
土方の脳裏には伏見で出会った大川正次郎や江戸へ向かう富士山丸で同乗した滝川充太郎の顔が思い浮かんだ。彼らは品川到着前に横浜で降り、近藤が向かったのと同じ医学所で治療を受けたはずだが、その後はどこへ向かったのか…。
斉藤は茶を飲み干して申し出た。
「副長、様子を窺ってきても宜しいですか?」
「ああ。手が足りないようなら隊士を連れて行けばいい」
「いえ、一人の方が身軽に動けます」
斉藤は断って去っていき、島田も下がった。
(伊庭が話していた通り、これから次々に動き出すだろう)
土方はこれから始まる忙しない日々が容易に想像できたが、結局は近藤の回復を待たねばならないだろう。
「…まったく、かっちゃんが不在の時に限って面倒なことばかり起きる」
土方はぼやきながら苦笑するしかなかった。


鍛冶橋の屯所を出た斉藤は会津藩中屋敷…通称芝藩邸へ向かっていた。土方は他の隊士を手助けに寄越そうとしてくれたが、斉藤の立場を理解し、秘して行動を共にできる隊士などいるはずがない。
(山崎なら協力を仰げたかもしれないが…)
長く監察方を務めた山崎烝は船中で死亡し、その遺体は水葬された。新撰組初期から入隊し、裏方として潜入任務や情報取集を請け負ってきた彼の存在は斉藤のなかでも大きく、信用できる数少ない同僚であったのでまだ喪失感がぬぐえない。
しかし斉藤には嘆くよりもまだやるべきことがある。その一つが会津の状況を探ることだ。
斉藤が会津との関係を持ったのは十四代将軍家茂公とともに上洛し、その家臣で幕臣であった篠原某から壬生浪士組への潜入を命じられた時だ。無頼の浪人集団でしかなかった壬生浪士組の内情を雇い主である会津へ報告し、不穏な動きがあれば知らせ、必要あらば秘密裏に手を下す…初めはそれだけの任務だったが、次第に仲間に恵まれて新撰組に肩入れするようになり彼らと会津との関係を何かと取り持ってきた。
その経過で会津藩家老の神保修理と知り合ったのだ。
どちらかといえば保守的な会津藩にこれほど秀で先進的な考えを持つ者がいたのか…斉藤は初めは信じられなかったが、神保は会津公から深く信頼され、彼の話には常に耳を傾けていた。神保は芯の強い男で自分の考えは揺るぎなく伝え、それを実現するための手段も持ち合わせる…会津公にも先見の明があったのか、大変優秀で将来を嘱望され、それでいて偉ぶることなく親切者なのだから嫌味を言うことすらできない。唯一の欠点は頑固者だということくらいだろうか。
(伝習隊の件でますます火が付かなければ良いが…)
斉藤が早足で芝藩邸へ向かっていると、呼び止められた。
「斉藤君」
「…佐川殿」
道中出くわしたのは会津藩士の佐川官兵衛だった。会津藩主戦派の筆頭で、強面の顔立ちや物怖じしない態度で主戦派の筆頭として一目置かれている。鳥羽伏見の戦では何度か視線を交わしただけで言葉を交わす機会はなかったが、神保同様顔見知りの藩士だ。
「どこへ行く?」
「芝藩邸へ」
「殿にお約束があるのか」
「いえ」
「だったら付き合え」
「…」
佐川は強引に言いつけると斉藤の返答を待たずに芝藩邸とは逆の方向へ歩き始めた。雪が溶けて土がぬかるんでいたが佐川は構わず颯爽と歩いていく…斉藤はその少し後ろに続いた。
斉藤は前々からこの男に嫌われているようだという自覚があった。どこの者ともわからぬ無頼者の斉藤が藩に出入りし間諜のような真似事をして、素知らぬ顔で新撰組の一員として活動しているのだから、佐川にはさぞ目障りだったであろう。
「神保のことは聞いているか」
「…いえ。ただ公然と出歩いているとは耳にしていました」
上様は江戸へ帰還し、恭順を示し主戦派を一掃したことで当然兵たちの怒りを買ったが、神保が大坂城で上様へ恭順を進言したと噂されたことでその矛先が会津と神保修理へと向いている。今では会津藩内だけでなく諸藩からも神保を処罰するべしという声があがっているほどだが、本人はどこ吹く風で上様や勝海舟の元へ足を運んでいるそうだ。
斉藤はそんな彼を捕まえて状況を問いただすとともに、彼の身柄を警護するつもりであったのだが、どうやらそれは不要であった。
「神保は幽閉された」
「!誰がそのような真似を…!」
「表向きはあくまで神保の身を守るため、殿が和田倉屋敷で謹慎させていることになっている。だが実情は…主戦派による横暴だ」
「…貴方は主戦派なのではありませんか」
斉藤は他人事のように口にする佐川を責めた。主戦派といえば佐川のことを指すほど、彼は兵を率いて戦い続け、恭順派の神保とは対立していたのだ。
佐川は表情を変えずに歩き続けていた。会津藩士なら風貌と厳格な姿から鬼佐川と揶揄される彼へ何も言えなかっただろうが、部外者である斉藤には関係がない。斉藤は答えを待った。
「…俺が主導したわけではないが、抑えられなかったのだから同じことだ。…伝習隊が八王子へ向かったのは知っているか?ほかに歩兵隊にも動きがあるそうで、藩内の主戦派が焚きつけられたように神保の処分を急いでいる。…お前は神保とは親しかったな」
「親しいと言えるほどではありません」
斉藤は否定した。刺客として現れた者を受け入れてしまうような神保の分け隔てない態度は、何も斉藤に限ったものではない。斉藤は神保と特別な会話や個人的な相談をした覚えもなく、ただ情報共有をしながら彼の秀でた仕事ぶりを眺めていただけだ。だが、主戦派として神保と対立する佐川よりも『親しい』とも言えなくはない。
佐川は足を止めた。いつの間にか人気のない場所に来ていた。
「お前なら和田倉屋敷に潜入できるだろう。…これを神保に渡してくれ」
佐川は懐から小さく折りたたんだ文を差し出したが、斉藤はすぐには受け取らなかった。
「…潜入?自分は新撰組の隊士ですが」
「知っている。だが和田倉屋敷に潜入する術を持っているだろう」
「…」
佐川は淡々としていた。佐川は直接的には何も言わないが、斉藤が新撰組と会津の間でどのような役割を果たしていたのか知っているのだろう。
「…ご自分で渡されてはいかがですか。たとえ和田倉屋敷を主戦派の藩士たちが固めていたとしても、貴方なら正面から入ることができるはず」
「あれとは…もう会わないと決めたのだ」
「…何故、俺に」
共に戦を生き延び、会津公から仕事を任され、神保と交流があっても部外者でしかない。こうやって会話をすることすら滅多にない斉藤へ託す理由がわからなかった。
すると佐川はその鬼のような形相を少し解いた。
「いま、ここで行き会ったからだ。君はそれ以上の理由を詮索したいのかもしれないが、残念ながら理由はそれだけしかない。だが、いまの状況ではそれくらいの理由の方が信頼できる…そう思わないか」
「…」
斉藤に提示されたのは『ただの偶然』という理由だ。だが彼の言うように、恭順派・主戦派と争うような状況で様々な憶測と嘘が飛び交う混乱のなかにおいて、偶然目の前に現れたからという理由の方がしっくりくるのかもしれない。
(俺もなかなか…馬鹿げている)
斉藤は佐川が差し出す文に手を伸ばした。
「…言っておきますが、成功は約束しません。命に危険があれば引き返します」
「それで構わぬ」
佐川は頷いた。







904


夕暮れ時。
会津藩和田倉屋敷は、江戸城登城中の藩主の居住地として使用され他藩の藩主や重役たちが訪れる重要な拠点である。しかし今、会津は朝廷から名指しで朝敵とされ、江戸市中でも過日の戦が会津の横暴によって敗戦となったと理不尽に責任を問われており、身の置き場のない会津の屋敷はどこか不気味な静けさに包まれていた。
神保はここに幽閉されている。
斉藤は和田倉屋敷を一周見て周り警備の様子を確認したが、予想していたほど厳重ではなさそうだ。江戸城西の丸にほど近いこの屋敷で騒動を起こそうと企む勇敢な輩はそう居ない、とたかを括っているのだろう。
斉藤は屋敷の裏口から中に入り、一人で警備を務めていた兵士の背後に近づいて首を絞めあっという間に気絶させた。会津兵揃いの鉢金や羽織などを頂戴し身に着ける。そして凍え死んでは困るので兵士には着て来た羽織をかぶせて物陰に隠した。
斉藤はそのまま何食わぬ顔で裏口から離れて屋敷に近づく…すると仲間の兵士に声を掛けられた。斉藤は一瞬身構えたが、
「おい、厠が?」
と中年の兵士は疑う様子無く声をかけてきた。既に陽が落ちて薄暗くなっていたおかげで入れ替わったことには気が付かなかったのだろう。
「…ああ」
「そろそろ交替の時間だな。まったぐ、いづまで続ぐのが知らねえげんとも、この寒さのながで外の警備なんて最悪だ。誰だかよう知らねぇがさっさど殺しちまえばいいのになあ?」
「…そうだな」
会津訛りの強い中年の兵はあまり深い事情を知らないのか、面倒そうにため息をついて安易な結末を口にした。今ここで屯している主戦派の兵士たちは皆が皆、神保のことを知っているわけではないようだ。中年の兵士は「じゃあな」と斉藤が来た道を戻って行ったので、交替してかわりに裏口の警備に就くようだ。
(長居はできない)
あの者が気絶した兵士に気が付くのも時間の問題だろう。
斉藤は縁側から屋敷に上がり、厠へ向かうふりをしながら周囲の様子を窺った。佐川から屋敷の間取りと神保の居場所は知らされていたが、誰かに鉢合わせして顔を見られては命取りになる…空き部屋を探りながら身を潜めて神保の居場所を探ると、ある部屋から話し声が聞こえて来た。
「―――大殿様は神保を解放するようにお命じになってる」
「馬鹿言うな。この屋敷がら出せば、すぐに安房守のどごろに送られぢまう。そうなったら俺たちは手出しでぎねえ」
「げんとも上様の名義で助命請う嘆願書まで届いでは…大殿様も黙ってはおられぬ」
「だったら早ぐやっちまった方が良い…!俺らの責になる!」
「焦るな。佐川殿の御考えを仰ぐべきだ」
「佐川殿はなんて?」
「何とも煮えねえご様子でよ…」
数人の兵士たちが屯して議論をしているようだ。ガチャガチャと物音が聞こえてくるのでおそらく食事の席なのだろう。それぞれが意見を出し合うがなかなかまとまらず、苛立っている様子に見えた。
(なるほど、勝安房守が動いているのか…)
主戦派たちが強硬な行動に出たのは、親交のある勝が神保の助命に動いたからなのだろう。今や徳川を動かす陸軍奉行の勝にかかれば上様の命として神保一人くらい簡単に助け出すことができる…主戦派は手に届かなくなることを恐れて先んじて神保の身を隠したのだ。
(神保の身が危険だ)
熱に魘された兵たちは焦るあまり血迷い、極端な判断を下すかもしれない…斉藤が廊下に出ると食事の膳を抱えた下男に出くわした。
「私が届けよう」
「へ、へえ…?」
困惑する下男はちらちらと斉藤の顔を見たが強引に御膳を受け取り、神保が幽閉されている部屋へと足を向けた。屋敷の見張りたちは同じように見覚えのない斉藤の顔を見て少しは疑問を抱くが、会津揃いの服装を見るや何の疑問もなく奥の部屋に通し、あっさりと神保の居る場所に辿り着くことができた。
(主戦派は一丸ではないようだ…)
部屋の前には一人の見張り役の兵が立っていた。
「食事をお持ちした」
「うむ」
兵は頷くと突っ張り棒を外して襖を開いた。神保は小さな灯りの元で正座をしていたが、斉藤の気配に気が付いてゆっくりと顔を上げた。
「…」
神保は少しだけ表情を変えたが、すぐに状況を理解して「ありがとう」と何気なく口にした。斉藤は自然な動作で部屋の中に足を踏み入れ膳を差し出した途端、身体を翻して見張り役の兵に飛び掛かった。不意を突かれた見張り役は「ぐっ」という小さな声を漏らした後はすぐに意識を手放したので、斉藤は脇を抱えてそのままずるずると部屋の中に引きずり込み、襖を閉めた。
神保は苦笑した。
「…強引なことをする」
「二人だけです。ざるのような警備でした」
「僕が逃げないとわかっているからだろう」
神保は穏やかに微笑んだ。強引に幽閉されているかと思いきや、つっかえ棒一つで閉じられたこの四畳半ほどの空間で彼は取り乱すことなく静かに正座し、この状況を受け入れているようだ。
「…それで、君はどうしてここに?殿のご命令か?」
「いえ…佐川様の」
「へえ、佐川が…」
意外な名前だったのか、神保は少し目を見開いた。斉藤は懐から小さく折りたたんだ預かり文を神保に渡したところ、彼はすぐに開いて目を通した。そしてしばらくして笑った。
「…佐川は僕のことが案外よくわかっているようだな」
「ここから逃げるのは容易なことのように思いますが」
「僕にそのつもりはない。…佐川の文にもそんなことは一言も書いていない、あいつらしいな…」
「…」
斉藤はてっきり佐川は神保の身を案じてここから脱出させるのが目的だと思っていたのだが、そうではないようだ。
(だったら何の伝言があるというのか…)
身の危険を冒してまで斉藤を遣わせたことにどんな意味があるのか…よほど怪訝な顔をしていたのか、神保は教えてくれた。
「近日中に僕へ切腹の藩命が下るそうだ」
「切腹…」
「佐川によると、僕の父である家老の神保内蔵助が殿に申し出たようだ。この混乱を収束させるには僕の死しかない…殿は拒まれたが、父の懇願を受け入れられた…とても嘆いておられると」
「……」
部外者の斉藤は、神保の立場がそれほどまで追い詰められているとは思いも寄らなかった。しかし先ほどの主戦派たちは一刻も早く神保を処罰したいと話し合っていたので、騒動となるのは時間の問題なのだろう。
斉藤は訊ねずにはいられなかった。
「宜しいのですか」
「本望だ。僕一人の命で殿の御身と会津の名誉が少しでも救われるのなら安いものだろう」
「…しかし、会津には神保様ほどの先見の明と才覚のある者はおりません。会津公にとって大きな痛手となります」
斉藤は率直に神保に訴えたが、彼は「褒めすぎだよ」と苦笑した。
「僕は殿の後ろ盾を得て西国を周遊し知見を得た。薩摩や土佐の知人も多く、その軍備や兵力には驚かされたものだ…しかしそのことが会津にとって良くない方へ働いた。僕は西国の兵力に慄いたために上様に恭順を進言し、上様が江戸へ戻ってしまう起因を作ったのは事実なのだ。僕はすべてが間違いだとは思わないが…会津の掟と性質が僕の考えにそぐわないことに気が付くのが遅かった。ただの愚か者だ」
「…脱藩される、ということは…」
「あり得ぬ。僕は家老の倅だ…それに会津の侍であることを捨てるつもりはない。だから死ぬということに躊躇いはないし、この混乱の責任は取るつもりだ」
神保の眼差しには一片の曇りもなく、何をも寄せ付けない強さは斉藤の退路をあっさりと跳ね返すように退けてしまう。もし勝から身柄を引き渡すようにと命令が下っても彼は応じなかったのではないだろうか。
神保は文を元通りに折りたたみ始めた。
「…佐川の文によると、殿による切腹のご命令ではなく、敢えて主戦派の佐川官兵衛が僕に斬首を命じるそうだ」
「何故…!」
「佐川は理由を書いていない。だが切腹よりも僕を罪人として斬首をする方が会津の面目は保てるだろう。それに、殿や父が切腹を命じたことでこの先悔やみ続けることになるのなら、彼らに騙されたことにして斬首になる方が良い。…佐川は僕のことをよくわかっているんだ。むしろこんな不本意なことをさせて申し訳ないくらいだ」
「……」
斉藤はあまりの神保の高潔さに言葉が出て来ない。彼が潔く命を捨てる覚悟であることを見せつけられれば見せつけられるほど、彼の存在がどれほど惜しいものなのかと実感してしまうのだ。
斉藤は思わず口走った。
「…共に参りましょう」
この屋敷を抜け出し、匿うことは簡単にできるだろう。新撰組は神保の立場に同情するであろうし、会津公も神保を守ろうと動くはずだ。
(何もこんなところで命を捨てずとも…!)
斉藤はただ神保を助けたい一心だったが、神保は
「すまない」
と一蹴した。
「神保様…!」
「斉藤君、こんなところで会えたのも何かの縁だ。どうか会津のことを頼む。新撰組は会津に借りがあるはずだ、それを是非とも返してほしい」
「それは…勿論、そのつもりですが…しかし、」
神保は急に身を乗り出して斉藤の両肩を掴んだ。
「今日話したことは内密に。僕が切腹を知りながら斬首になったなど殿の耳に入れば悲しまれる。きっと佐川も君の口の堅さを見込んでこんなことを頼んだのだろう…悪いが一生、抱えてくれ」
「神保様…」
神保の言葉が重く斉藤の胸に響く。
表向きは対立していた佐川と神保の関係は、主戦派の佐川が神保を殺すことで終わる。だが実際は神保の本心を知る佐川がすべてを飲み込んで理解して、会津のために非情な命令を下すのだ。
互いにあまりに、気高い。
(…俺の出る幕ではない)
斉藤は悟った。彼らにとって死に方など問題ではない。
「…承知しました」
彼らの決断を前に斉藤はそう答えるしかない。神保は安堵したように小さく微笑んで斉藤から離れた。
斉藤はこれが神保修理という男との最後の別れになることを実感した。
(なんと理不尽で…健気なのか…)
個人的な感情を伏せ、敗戦の責任を進んで引き受ける…彼が死んだところで何も変わらないのに、ただ目に見えない悔恨を背負って死に向かう。
「それにしても、君はこんなお節介を引き受けるような質じゃないだろう。佐川に脅されたのか?」
「…いえ、親しい者のお節介が移りました」
「そうか…それは悪くないね」
神保は頷いて、小さく折りたたんだ文を返した。
「僕が持っているわけにはいかない。佐川に『承知した』と言って返しておいてくれ」
「はい」
その時、遠くで笛の音がピィーーッと鳴って、俄かにバタバタと騒がしくなった。裏口に隠していた兵が意識を取り戻したのか、あの中年の兵が見つけたのだろう。
「時間切れだ。…斉藤君、やはり佐川には『承知した』ではなく『ありがとう』と伝えてくれ」
「…はい」
「さあ、行ってくれ」
神保は斉藤の背中を押し、部屋から追い出した。振り返った時に見えた神保は、穏やかに微笑みながらも唇をかみしめていた―――。


総司は夜中に目を覚ました。
眠りが浅いときは小さな物音で目が覚めてしまうのだが、たいていは風の音であったり床が軋む音が響いただけで日中なら気にも留めないようなことばかりですぐに寝なおす。けれど、今夜は何故か胸騒ぎがして床を離れ厚手の綿入れに袖を通して部屋を出たところ、庭を眺める縁側に佇む斉藤の姿を見つけた。
「…どうしました?」
「起こしたか?」
「いえ…」
冷たい空気で澄んだ夜空には星が瞬いている。斉藤はそれを見上げながら黙ってしまったので、総司が様子を窺おうと近づいたところ彼が左腕に怪我を負っていることに気が付いた。
「怪我してるじゃないですか」
「…かすり傷だ。騒がなくていい」
「そんな。斉藤さんまで負傷したら困ります。いま山野君を…」
「良い、大事にするな」
斉藤は医学方を呼ぶことを拒んだので、総司は急いで部屋に戻り自分用に準備された水桶と木綿のさらしを取って来た。傷口を軽く洗い流してさらしで押さえてもすぐに血が滲んで赤く染まったのでそこそこの深手だったのだが、彼は少しも痛そうな素振りはせず、心ここにあらずという表情だった。
「何かありました?」
「……言えないことだ」
「そうですか」
斉藤が言えないことだというのなら、総司は無理に聞き出すことはしない。彼は言うべきことは口にするのだから総司が知らなくて良いことなのだろう。
総司はとりあえず止血しようと何重にも巻き付けて不格好になってしまったのだが、斉藤が「これでいい」と言った。
「…明日になったら、ちゃんと英さんに診てもらってくださいよ」
「ああ、わかった。…もう休んでくれ」
「いえ…そういうわけにはいきません。斉藤さんは私に会いに来たんでしょう?」
「…」
「自惚れでした?」
真夜中。誰にも話せない傷を抱え事情を口にしないけれど、こうして傍で佇んでいたのは総司に会いに来る理由があったのではないだろうか。総司はたまたま目を覚ましたが、彼はもしかしたら朝になるまでそこにいたのではないだろうか。
総司は率直に訊ねたところ、斉藤は苦笑した。
「自惚れじゃない。…だが、別に話したいことがあるわけでもない。今夜は眠れなさそうだったから寝床に戻るくらいならここにいた方が良いと思っただけだ」
「…じゃあ私も付き合いますよ。朝まで将棋でもしますか?しりとりでも?」
「…ハハ」
斉藤は小さく笑った。彼の張り詰めていたものが急に崩れて、
「そうしよう」
と穏やかに答えたのだった。












905


横浜、海岸通りにある医学所は元は幕府フランス語伝習所であったが、現在はフランス人医師による治療が受けられると評判の病院となっている。
「…自分、ちょっと様子を見てきましょうか」
近藤に同行している梅戸勝之進が申し出たが、近藤は「いや、待とう」と止めた。松本からの紹介状を携えて隊士数名とともに医学所にやってきたところ、係りの者に「数日待つように」と断られ、近くの旅籠に泊まり三日経っている。幾度となく梅戸たちが足を運んだが怪我人はひっきりなしに訪れ、常に多忙だという。
江戸の様子が気になる近藤はついに待ちきれず、病院の玄関に居座って待つことにしたが一向に順番は回って来ない。
「…あんまりに無礼じゃないっすか?近藤局長は幕臣で、重傷だし、松本法眼の紹介状を持ってきてるんすよ」
「まあそう言うな。…さすがにここにいれば今日中には診ていただけるだろう」
近藤は宥めるが、梅戸は蔑ろにされていると憤っていた。梅戸は天満屋事件で怪我を負った顔の傷を診察してもらうために同行し、他の隊士も何かしら負傷している。この横浜の医学所ならより良い治療が受けられると期待していた分、待ちぼうけとなって苛立っているのだ。
近藤は腕を組みながら、ぐるりと屋内を見回した。フランスの影響を受けた二百坪ほどの二階建ての建物はまるで異国さながらの独特な雰囲気があって、そこに月代で袴姿の負傷者が担ぎ込まれているのはなんだか不思議ではあるが、今後国が開かれるようなことになれば横浜のような町は増えていくのかもしれない。
するとそこへ一人の若者がやって来た。
「お待たせいたしました」
土方のように洋装に身を包んだ若者は田島と名乗った。色白で利発そうな顔立ちをしている。
「遅いではないか」
梅戸が容赦なく問い詰めるが、田島は物怖じせずに答えた。
「申し訳ございません。皆さまの堂々とした特有の出で立ちに威圧感を覚えた医者たちが治療を拒んでおりましたので、説得するのに骨が折れました」
「な…」
田島が微笑み、梅戸はあまりに直球の返答に言葉を無くす。率直な物言いに他の隊士たちも呆気に取られていたが、近藤は噴き出して笑った。
「ハハ!そうか、それは悪かった。フランスの紳士からは粗暴に見えたのだろうな。それで三日も待たされたのか」
「はい。それにこの医学所には五十床しかベッドがありませんので、空きがなく…ようやく一床、ご案内できそうです」
「ありがとう」
田島の案内で近藤は右腕を抱えながら立ち上がると、背後からバタバタと騒がしい足音が聞こえて来た。
「頼もう!我々は警備隊の者である、大怪我を負った隊士を連れて参った!」
偉ぶった男の後ろには、ぞろぞろと数名の部下が続き、戸板に乗せられた負傷者が呻き声をあげている。揃った緑の羽織を着ているので、どこかの部隊なのだろう。
「急ぎ診ていただきたいのだ」
「それはできません、他の診療所へ当たられてはいかがですか」
男は田島に詰め寄ったのだが、彼は相変わらず涼しい顔をして拒んだ。このようなことは日常茶飯事なのか、田島は男に睨まれても態度を変えずに「お引き取りください」と繰り返す。男たちは怒号を上げた。
「我々は横浜居留地の警備をしておるのだぞ!」
「ここはフランス医師が診ると聞いた!」
「優先されるべきであろう!」
戸板の上の負傷者がどのような事情で怪我を負ったのかはわからないが確かに重傷のようだ。加えて彼らはこの辺りの警備を担当しており、優遇されるべきだと主張した。
しかし田島としてはようやく空いた一床は近藤のためのものであり、また新撰組以上に威圧的で興奮している彼らを病院に入れるわけにはいかないと思ったのだろう。
「できません」
「お待ちください」
と頑なに首を横に振った。しかし融通の利かない田島についにしびれを切らした男が、
「この…っ!」
と手を出そうとしたところで、板挟みになっていた近藤はいよいよ我慢できなくなり、田島を背にして男の前に立ちはだかった。
「まあまあまあ!落ち着きましょう」
「何者だ!」
「私は新撰組局長の近藤勇だ。君たちは?」
「…わ、我らは青羽織隊…幕臣、吹田である」
吹田と名乗った偉ぶった男は、近藤の名前を聞くと少し怯んだ。後ろの者たちも突然現れた新撰組に驚きすっかり意気消沈したので、たとえ江戸ではなくとも新撰組の名は広まっているようだ。
近藤は戸板の男へ視線を遣った。傷口を押さえながら唸り、青ざめている。
「どうやら重傷のようだ。…田島君、私はまだ待つから彼らを先に診ていただいてくれ」
「…しかし…」
田島は少し嫌そうにした。若者はまだ感情を抑えることには長けていないようで、散々怒鳴られた後に彼らの言い分を呑む気持ちにはなれなかったのだろう。しかし怪我を負った兵には何の罪もない。
近藤は道を譲った。
「吹田殿、ここの医者は我々のような無骨者を好かないそうです。患者も動揺しますので、どうか穏便に頼みます」
「…相分かった。恩に着る」
田島とは違い、分別のある大人である吹田は態度を改めて頭を下げた。怪我をした部下を心配するが故に堪えきれなかっただけで、本来は話のわかる男なのだろう。田島は仕方なく「こちらへ」と彼らを案内し、近藤は再び同じ場所に腰を下ろすことになる。梅戸は複雑そうに成り行きを見守っていた。
「…宜しいのですか?」
「ああ。すまないな、もう少し待とう」
梅戸は笑った。
「なんだ?」
「…いえ、局長は相変わらずお人よしっすね。次のベッドがいつ開くか、わかんねぇっすよ。また待たされるかも」
「いいさ。もし俺が先に通されてあの者が死んだら夢見が悪い」
「ま、そうっすね」
近藤は再び目を閉じて、次の順番が回ってくるのを待ったのだった。


「―――というわけで、その時に出会ったのが青羽織隊、通称菜葉隊の吹田殿だったというわけだ」
二月九日。横浜から鍛治橋の屯所へ戻った近藤は、医学所で知り合ったのが横浜で警備を担当する菜葉隊の隊長・吹田鯛六であり、その後友誼を結んだことを話した。話を聞いていたのは出迎えた土方と総司だ。
「近藤先生、菜葉隊というのは?」
「うん、その名の通り揃いの緑の羽織を羽織っているから菜葉隊というそうだ。五百もの兵を抱えている」
「菜葉っていうわりには随分大人数だな」
土方は苦笑したが、近藤は続けた。
「菜葉と言えども旧幕府兵の二大隊だ。吹田殿は出会いこそ粗暴に見えたが話してみるとなかなかウマが合ってな…担ぎ込まれた隊士も無事に回復してそれを恩義に感じたようで、有事の際は必ず駆けつけると約束してくれたよ。どうだ、五百だぞ?なかなか良い話だろう?」
「悪くないな」
土方はぶっきらぼうに答えたが、幼馴染の近藤はそれが賛辞だと知っているので大きく頷いた。
「それより近藤先生、傷の具合はいかがだったんですか?」
総司は肩から吊られた近藤の右腕の具合が気にかかる。近藤はその大きな口で笑った。
「心配するな。傷口を診てもらって改めて縫い直したんだ。すぐに元通りというわけにはいかないが、指先の感覚は前よりも良い」
「そうですか…それはよかった」
「今度こそ安静にしてろよ」
伏見で怪我を負った時は長く床に伏せる時間がないまま大坂に移動し、さらに海路で江戸まで戻って来た。怪我を押して何度も登城し、本人は強がっていても痛みは感じていたはずだ。土方が忠告すると、近藤は「わかっているよ」と頷いた。
そうしていると、調役(監察)の大石鍬次郎がやって来た。山崎亡き今、情報収集は彼を中心に行っているのだが、彼は相変わらず淡々と仕事をこなしていた。
「三番町の歩兵第十一、十二連隊が脱走しました」
総司はぴんと来なかったが、近藤と土方は顔色を変えた。
「…三番町というと、相当な数だろう」
「正確にはわかりませんが、四百…千以上という話もあります」
「そんなに…」
「警備に当たっていた士官数名を射殺し、千住関門を突破…北関東へ向かったという話です」
「…詳しく調べてくれ」
「はい」
土方が命じ、大石はさっさと出て行く。彼はもともと天然理心流の門人として江戸で暮らしていたので、都よりは土地勘や伝手があるはずだ。
先ほどまで意気揚々と話していた近藤は深いため息を付いた。
「仲間割れか。…伝習隊の一部も八王子の方へ脱走したのだろう。兵たちはバラバラだな」
「…近藤先生の考えは変わらないんだろう?」
「勿論だ。恭順のための戦。まずは江戸を守るべき。…余計なことを考えている暇はない」
土方の問いかけに近藤は断言し力が入ったのか、「いてて」と右肩を押さえる。横浜から戻ったばかりの近藤を慮り、土方と総司は近藤に休むように促して部屋に戻した。
「…お前は調子はどうだ?」
「変わりありませんよ。この屯所にも慣れてきて、居心地がよくなってきたところです」
「そうか…」
土方はどこか気のない返事をして火箸を持って火鉢の炭を弄り、黒い炭のなかに埋もれた火種を探して軽く吹く。
「土方さん?何かありました?」
「…このままでいいのかと思ってな。兵たちが徳川の方針に背き、あちこちで脱走している。あの会津ですら主戦派が力を持ち、官軍相手に戦を仕掛けるべきだと考えている…新撰組がそれに乗らなくていいのか、いくら徳川に尽くすべきだと言ってもそれが近藤先生の為になるのか…いまいち、答えが出ない」
「…」
近藤が自らの信条に従って真っすぐ猪突猛進するのはいつものことだが、それを支えているのは土方だ。感情だけに流されず、正誤を見極めて近藤の背中を送り出す…土方はそれが副長の仕事だと自負していたが、この頃の情勢を見ると確証が得られないのだろう。忠臣の伊庭でさえ、徳川のために戦うべきだと動き始めているのだ。
けれど近藤が脱走した部隊のように、徳川を見限ることは想像できなかった。
「近藤先生は浪士組の頃から何も変わらないし、きっと変えられません。だったら土方さんは万一の時のために他の道筋を用意しておくべきじゃないですか?土方さんが正しいと思うことが、きっと近藤先生の役に立つと思います」
「……言うようになったな」
土方は苦笑して火箸を置いた。そして
「お前に言われるまでもない」
と茶化したので、総司は笑ったのだった。







906


総司は土方とともに鍛冶橋の屯所を出て北に向かって歩いていた。
「駕籠を呼ばなくていいのか?」
寒空の下で久しぶりの外出となり、土方は総司の体調を気遣ったが
「一里くらい平気ですよ」
と総司は努めて明るく答えた。束の間の穏やかな時間、たとえ駕籠の担ぎ手であったとしても他人が介在するのはもったいない気がしていた。
今日は近藤の勧めで二人そろって芝居小屋に出かけていた。土方としては恭順か抗戦か…世間が揺れるなか、暢気に芝居など
『そんな気分じゃない』
と最初は断ったのだが、近藤は譲らなかった。
『せっかく江戸に戻って来たのに歳はずっと眉間に皺を寄せて忙しいし、総司も総司で屯所に引きこもっては退屈だろう、今日くらいは二人で羽を伸ばして来い。気に喰わないというのなら命令だというぞ』
やけに二人の背中を押して『気分転換をしてこい』と強引だった。
「どうせ、おつねさんが屯所に顔を出したり、自分だけ横浜でのんびりしたことを気にしてこんなことを思いついたんだろう」
「…でも土方さんの眉間に皺が寄っていたのは確かですよ。このところ根を詰めていたことを近藤先生はご存じなんです」
「どうだか。とにかく、いまはあまり屯所を離れたくないんだが…」
土方はこの期に及んでもまだ後ろ髪を引かれていた。近藤は療養中で、さらに先日斉藤まで負傷してしまい頼れる副長助勤は永倉と原田だけだ。兵士の数も少なく、世間では旧幕府陸軍の脱走兵たちが次々と抗戦へ転じている…何が起こってもおかしくはないし、土方としては考えることが多いだろう。
けれど総司は久しぶりに心が弾んでいた。
「私は江戸の町の空気を吸えて楽しいです。芝居なんて昔はつまらないと思っていたけれど、この間彦五郎さんが流行っているって言っていたし。…私に付き合うと思って、今日は煩わしいことは忘れてください」
「…仕方ないな、お前に付き合うか」
土方はようやく納得したようで少し力を抜いて笑った。そして隣を歩く総司に腕を差し出した。
「掴んでろよ」
「…それはちょっと恥ずかしいんですけど」
「今度は俺の我儘をきけ」
「…はいはい」
総司は躊躇いながら土方の二の腕辺りを掴んで身を寄せた。頬が熱っぽくなって傍目にはどんな関係に見えるのだろうかと危惧するが(僕は病人にしか見えないか…)と少し冷静になって自嘲する。すっかり細くなった手首は自分でも弱弱しく女子のそれのようで、試衛館にいた頃この江戸の町を駆けまわっていた頃とは別人だ。
(…でも今日は忘れてしまおう)
土方は仕事を忘れると言ったのだから、総司も病のことは気にせずに楽しもうと決めた。こんな日は滅多にないのだ。
鍛冶橋の屯所から北東にある人形町は遠くはない。江戸城の周りはピリピリとした緊迫感に包まれているが、人形町では佐藤が言っていたように活気があった。特に芝居小屋は盛況で、人通りは多く明るく賑やかだ。
「道中では空き家がいくつかありましたけど、ここは人が多いですね」
「戦を恐れて逃げ出すか、それを祭りのように茶化すか…民は二分していると聞いた」
「兵と同じですかねぇ…」
総司はあちこち見渡した。試衛館にいた時、大師匠である周斎は芸事が好きで時折食客たちを引き連れて遊びに行くことがあったが、総司は稽古ばかりであまり付き合うことはなかった。そのため何もかも新鮮に見えて、芝居小屋に入らなくとも人々の楽しそうな様子を見て満たされていき、自然と顔が綻んだ。その横顔を見て土方は呟いた。
「…まさかお前とここに来るなんて考えられなかったな」
「え?ああ、そうですね。私はあまり芝居とかは興味がなくて…」
「そうじゃない。お前と…こうやって、腕を組んでってことだ」
「ああ…そういう意味か…」
察しの悪い総司は頬を赤らめて視線を泳がせた。急に掴んでいる手に汗が滲んで緊張してしまうが、周囲は皆芸事に夢中で見物人に過ぎない二人のことなど誰も見ていない。
総司は羽目を外し、あちこちの屋台を見て回った。姉家族への土産を買い求めたり、屯所にやってくる近藤の娘のたまのために喜びそうなおもちゃを物色する。
土方は「休むか」と少し外れた場所にある団子屋の軒先にある床几台に腰かけた。中年の女中に団子と茶を頼み、遠目に芝居小屋の様子を眺めた。
「入りたい小屋は?」
「そのつもりだったんですけど、よく考えればうっかり咳き込んだら迷惑をかけるだろうし…。こうして町を歩くだけで楽しめました」
「…お前がそういうならそれでもいい」
土方は強引には誘わず、同じように賑やかな光景に目を細めた。
京の優雅な彩りとは違う、無秩序で目に鮮やかな様子は現実を忘れさせてくれた。かつてはこれが日常であったはずなのに、こうやって遠目に眺めているだけで欠けていたものが満たされていくようだ。
女中が持ってきた茶で喉を潤し、団子で小腹を満たす。ちゃんちゃかちゃんちゃかと不規則にあちこちで漏れ響く拍子に身体を揺らせながら総司は穏やかな時間を楽しんでいたが、隣にいた土方は少しフッと笑った。
「…よほど、俺たちの方が芝居じみている」
「え?」
「戦で負けて、将軍に逃げられ、あっという間に恭順する。こんなの芝居のネタにもならねぇよ」
浮世離れした芝居ですら、この筋書きを思いつかないのではないか。特に江戸にいる人々にとって徳川が倒れるということすら思いも寄らず、今こうして狂乱に身を置いて己を慰めているのだろう。
土方は現実逃避のように愚痴をこぼしたが、総司は小さく笑った。
「それでも、現実です。いなくなった人は戻って来ないし、私たちのやって来たことも決して幻ではない…そうでしょう?」
「…いつか遠くない未来では、愚かな侍の無駄な足掻きだったと嗤われるのかもな」
「想像するだけの存在しない他人に何を言われても、何の意味もありませんよ」
総司は何げなく土方を慰めたのだが、彼は唖然として総司を見ていた。
「…お前がそういうことを言うとはな」
「?どういう意味ですか?」
「いや…お前の言う通りだ。頭のなかだけで悲観して、落胆したところで無駄なだけだな…」
「でも歳三さんはそうやって本音をちゃんと吐き出したほうがいいと思います。…私がちゃんと聞きますから」
「お前が?」
「難しい話は聞き流しちゃいますけどね」
総司は串に刺さった最後の団子を頬張ると、土方は笑っているのが見えた。
「…なんですか?」
「いや…」
土方は表情が緩んで懐から財布を取り出して勘定を置き、「まだ平気か?」と訊ねた。
「どこへ行くんですか?」
「お前と行ってみたかったところがある」
「へえ…」
慣れ親しんだ江戸の町のどこへ向かうというのか。総司は興味深く、差し出された土方の手を取って立ち上がったがすぐにふらついてしまった。土方は咄嗟に総司の腰を抱えて支えたが、心配そうにした。
「すみません…」
「…疲れたのだろう。また今度にするか?」
「嫌です」
総司はすぐに首を横に振った。まだ帰りたくなくてつい子どもっぽい言い方になってしまったが、総司にとって『今度』という言葉は不確かで曖昧で無意味な約束でしかなかったからだ。土方もそれを察し、頷いた。
「わかった。だったらおぶってやる」
「…さすがに目立ちませんか?」
「別にいいだろう。それとも抱き上げてほしいのか?」
「……おぶってください」
総司は降参して土方の背中に身を預けた。幼少の頃は何度かこうして背中に乗せてもらったが、今となっては恥ずかしさしかない。おそらく周囲には「具合が悪いのだろう」くらいにしか思われないのだろうけれど。
しかし土方は身を屈めて総司を背に乗せた後立ち上がり、しばらくその場に留まった。
「…何か?」
「いや…何でもない。行くぞ」
土方は手足に力を込めて歩き始めた。
さらに北へ向かい、しばらく歩いて辿り着いたのは不忍池であった。蓮の花が咲き、琵琶湖を模したこの地は庶民にとって行楽地であったが、同時に茶屋の集まる場所として有名であった。この情勢でも愛わからず栄えている。
背中越しに不忍池を見た総司は恐る恐る尋ねた。
「…まさか茶屋に入ろうということではありませんよね?」
「そのまさかだ」
「な、なんで?」
「不忍池の茶屋は男女だけのものってわけじゃない。むしろ男娼が多いから俺たちだけが目立つわけじゃない」
「あ、いや、そういうことを言っているんじゃなくて…」
総司は上手く気持ちを言葉にできず、土方の背中に顔を埋めた。
新撰組内でも暗黙の了解となっている二人の関係だが、いざ故郷の江戸に戻ると今までオープンにしていたことが不思議なくらい気恥ずかしく感じていた。それゆえに総司は誰の目があってもおかしくない場所であっても茶屋に入ることすら躊躇われてしまうのだが、土方は平気そうだ。
「…屯所は人の出入りが多いし、いつ客人が来るかわからねぇだろ。おちおちお前とゆっくりできない」
「そ、それはそうですけど、何もここじゃなくても…」
「別に誰も見てやしない。たとえ見られたところで困ることもないだろう」
「…っ」
総司は困り果てた。都にいた頃なら別宅という場所があったが、江戸にはそれがなく土方としても休める場所がないのだろうけれど、総司には照れくさく及び腰になってしまう。
すると、
「おや、デートかい?」
と二人に声をかけてくる人物がいた。二人が振り返るとそこには榎本の姿があったーーー。








907


開陽丸艦長であり海軍副総裁の榎本武揚が目の前に現れた時、総司は慌てて土方の背中から降りて会釈しながら背に隠れた。知人に会うかもしれないという悪い予感は見事に当たり居た堪れなくなったが、土方は堂々としていた。
「榎本さん、どうしてこちらに」
「なに、仕事を兼ねて息抜きに。まさか君たちに会えるとは思っていなかったが…逢引の邪魔をしてしまったかな」
「い、いえ!そんなことは…」
総司は即座に否定したが、顔を真っ赤にして動揺が隠せなかったのでかえって肯定しているようなものだろう。しかし榎本は茶化したりせずに「ここは相変わらず賑やかだな」と不忍の光景に目を細めた。
「実は土方君とは一度ゆっくり腰を据えて話をしたいと思っていたんだ。逢引の邪魔をしてすまないが、少し時間を貰えないだろうか」
「…それは…」
「勿論構いません!」
困惑する土方を遮って総司は返答した。土方は渋い表情をして(仕事を忘れろと言ったくせに)と言わんばかりに総司を責めるような眼差しを向けたけれど、海軍副総裁相手に今更撤回することもできない。榎本は上機嫌になって「知っている店がある」と二人を連れて品格の高そうな料亭の暖簾をくぐった。
女将の案内で三人は二階に上がり、まるで浮世絵のように不忍池を眺められる部屋に通された。総司は窓辺からその光景を覗き、
「わあ、上からだとこんなに美しいんですね!」
と驚いた。眼下に望む光景はまるで水面に立っているような錯覚さえ感じるほどだ。
榎本は頷きながら隣に立つ。
「春には桜が咲き、夏にはこの池を蓮の花が覆いつくす。その分冬は物悲しいと語る者もいるが、鴨や水鳥がやって来ては飛んでいく光景をぼんやりと眺めているのもなかなか悪くはない。…君はここに来たのは初めてかい?」
「はい。話には聞いていましたが…」
「そうか。不忍池はもともとは海の入り江だったそうだが、後退してこのような池になったそうだよ。あちらに見える清水観音堂は都の清水を模していて、あの弁天堂がある中島は琵琶湖に浮かぶ竹生島をなぞらえて人が作ったものだ。そして徳川家が建立した寛永寺は比叡山延暦寺を見立てていて、実は都と同じように配置してある」
「ああ、そういうことなんですね」
「そして、寛永寺は江戸城にとって鬼門の場所に置かれて、お守りいただいているというわけだ」
「榎本先生は博識でいらっしゃいますね、とてもよくわかりました」
「ふふ、これくらいのことでそんなに褒めてくれるのは嬉しいな。君はとても可愛いね」
異国帰りの榎本はさらりとそんなことを口にして、総司は反応に困ってしまう。傍らで聞いていた土方は少しため息を付きながら、
「それでお話というのは…?」
と促した。榎本は「ヤキモチを焼いているのか」と笑いながらようやく席に着くと、女将が酒を運んできた。
「まずはここの蓮根料理を味わってくれ。私はここの蓮根がこの上野で一番だと思っている」
「はぁ…」
総司と土方は顔を見合わせつつ、次々と運ばれてくる名物の蓮根料理や銘酒に舌鼓を打つ。多弁な榎本は上機嫌であれこれと雑談し話し上手であるので、総司も気を許し、土方も相槌を打つ…そうしてようやく場の空気が和み始めたところで、
「実は今日は仕事に来たんだ」
と榎本は箸を置いたので、二人もそうした。榎本がようやく本題を切り出すのだろうという空気を感じ取ったのだ。
「この数日のうちに、上様はこの先に見える寛永寺で謹慎されることとなった。新政府軍に恭順を示し朝廷から処分が下るまで籠られるのだ。今日、私は個人的にこの上野の治安を確認するためにお忍びで足を運んだというわけだ」
「…上様のご意思は固いのですか」
「ああ。上様は何度負けるはずのない艦隊がバックについていると説得しても聞き入れられず、抗戦派は一掃して登城を禁じ、すべてを勝安房守と大久保殿に一任してお逃げになってしまう。諸道には朝廷と新政府軍の鎮撫隊が東征を開始して、既に交戦状態となっているところもあるが、上様が雲隠れしてますます混乱することだろう。…全く頭が痛い」
榎本はそれまでの上機嫌な様子から、一気に厳しい顔つきをして腕を組んだ。
榎本は変わらずに抗戦を主張している。彼の手には海軍という大きな戦力が握られており、その気になれば官軍の船を撃沈させることなど容易い。それ故に、徳川の動きにはもどかしい思いを抱えているのだ。
総司は江戸の賑やかな光景ばかりを見ていたせいか、この場所に新政府軍が迫っているという実感は感じられなかったが、榎本や土方から漂う緊迫感はひりひりと触れれば焼けるように疼き続けている。
榎本は土方を見据えた。
「…新撰組は恭順に賛成したと小耳に挟んだが、本当かい?」
「…そういうことでしたか」
すぐに土方は理解した。榎本が『話がある』と引き止めたのは、近藤が上様の恭順の意に賛同したということを聞きつけたからなのだろう。遊撃隊の伊庭でさえ信じられずに屯所に押しかけて来たのだから、榎本が知っていてもおかしくはない。
土方は淡々と答えた。
「…近藤は個人としては官軍への怒りと不満を抱えていますが、同時に直参の幕臣として上様のご意思を尊重するべきだと考えています。それが農民から武士へ取り立ててくださった徳川家へのご恩返しだと」
「…富士山丸で話をした時、近藤局長とは夜通し徹底抗戦を語り合った。彼は官軍への怒りに燃え、必ずや仲間の仇を取ると言っていたが…あれは建前で、誠ではなかったのか?」
「誠です。けれど近藤は上様が固いご決意で恭順をお望みになる以上、まずはお望みが叶うために江戸を守るために戦をすべきだと考えています。この頃脱走している伝習隊や歩兵隊のような先走った真似は慎み、徳川の安泰が約束されるまでは恭順のために動くべきである…そのように考えています」
土方の理路整然とした説明を聞き、榎本はへの字に曲がっていた唇をふっと緩ませて「なるほど」と少し理解を示した。
「近藤局長の義理堅さはこの日の本でも随一だろう。今や、戦を投げ出した腰抜けと評される上様にそれほどの忠誠を誓う武士がいるのかどうか…貴重な人材だな」
榎本は近藤を言葉では称えているようだったがしかし少し呆れているような表情だった。徳川家臣であればこの一方的な情勢に怒りを覚え、『徳川への忠義』と『官軍への憎しみ』が沸きあがり、抗戦へと繋がるはずだ。けれど近藤は上様という主君のために、たとえ己の思いとは違っても恭順の道を受け入れたのだ。それは近藤の懐の深さと愚直な忠誠心故だが、けれど抗戦を熱望する榎本たちにとっては賛同できるものではない。
榎本が再び土方を見つめた。
「…近藤局長の考えはわかった。けれど君の眼は…それを良しとしていないように見える」
「……私は近藤を支えることを己の使命としています。近藤が進むならば同じ道を行くだけのこと」
「けれど心の内では別の思いがある。…そうではないのか?」
「それを聞いてどうなさりたいのですか。考えが違っても、私と近藤は決して仲違いをすることはありません」
今度は土方の方が強く榎本を見据えた。総司は普段の二人のやり取りを知らないが、土方は榎本を敬い立ててきたはずであり、榎本も土方を気に入っているように見えた。けれどすれ違う考えは二人の間の空気を重く、息苦しくさせた。
総司は邪魔せずにどちらかが口を開くのを待ったが、随分と長い間彼らは互いを見据えたまま黙り込んでいた。鬼副長と名高い土方に対して一歩も引かずにいられるのは近藤か伊庭くらいのものであるが、彼らはたいてい自分から折れて話を切り上げてしまうが、榎本はそうせずただ待ち続ける…柔和な顔立ちからは想像できないほど頑固で頑なだった。
諦めたのは土方だった。爪先から力を入れてゆっくりと膝を立て、足を組み替えた。
「…私は近藤の考えが間違っているとは思いません。ですが、目の前で敗戦を味わい苦汁を嘗めた一兵士として…このまま黙って官軍の要求を呑むことには思うところもあり、正直に言えば脱走兵たちの焦りや考えは理解できます」
「だったら共に戦えばいい。君の戦場での奮闘ぶりをどの士官も高く評価していた。恭順のための戦とは言わず、徳川家臣のために君のような人は立ち上がるべきだ」
「…持ち上げすぎでしょう。所詮は負け戦だったのですから。それに榎本艦長こそ、無敗を誇る海の守護神だと評判です」
「無論、私にも立ち上がる考えがある。…しかし所詮は私は海で戦っただけで君の語るように歩兵たちの悲惨さは目にしていない。だからこそ、君や新撰組の者たちに抗戦の象徴として戦場に立ってほしいと思っているんだ」
傍で聞いている総司にも榎本が土方や新撰組を高く評価していることは伺えた。だからこそ、立ち上がるべきだと叱咤し、本音では抗戦の思いを抱えている土方の背中を押そうとしているのだ。
けれど、土方にとって最も尊重するべきは己ではなく、近藤の思いだ。
「…申し訳ありません。出来かねます」
「そうか…残念だな」
榎本は断腸の思いで諦めたように見えたが、すっと己の背広の懐に手を入れたかと思うと、短銃を取り出してその銃口を土方に向けた。それはあっという間のことで総司は刀を手に取ることまでしかできなかった。
しかし土方は冷静だった。
「…何の真似ですか」
「悪いが、徳川家臣たちの命が掛かっている。今度こそ無能な指揮官に踊らされたくない…君のように求心力のある将校が必要だ。徳川の勝利のために、兵たちのために立ち上がってくれないか?」
「できません」
銃口を前にしても土方は躊躇うことなく即答した。
「私は新撰組の副長として以外、戦うことはありません。隊長の近藤とともにこの役割を全うするつもりです」
「では近藤局長が戦うことを止めた時、君もまた刀を下ろすということか?」
「…あり得ません、近藤が…」
「そうだろうか。先日の戦も負傷して参戦できなかったように、誰しも不測の事態はあり得る」
「…」
それまで表情を変えなかった土方は初めて怪訝そうに顔を顰めた。榎本が話す『可能性』は限りなく低く、また近藤の不幸を示唆したように聞こえたからだ。
すると榎本は土方の心の内を察したようだ。
「そう目くじらを立てないでくれ。色々な可能性を考えるのは指揮官として当然のことだろう?私は常に乗っている船が沈没することを考えて、脱出する方法が頭の隅にある…それと同じことだよ。新撰組は沈没しないかもしれない、けれど徳川はすでに漂流し、半分以上沈没していると言っても過言ではないのだ」
「…」
「だからもしその時が来たら…君はどうするのか、教えてほしい。君個人の考えを知りたい」
カチャ、と銃が軋む。洋装姿の二人が向かい合い、一人が銃を突き付けているというのは異様な光景だった。
土方は一度目を伏せたが、すぐにもう一度視線を戻して答えた。
「…その時にならねば、わかりません」
「…」
「期待に沿える答えでないことは申し訳ありませんが…近藤がいないことを考えたことがありません。もしその時が訪れた時にどのような気持ちが沸きあがるのか…想像することすらできない。いくつもの事態を想定できないのは榎本さんと違い、私が未熟な指揮官であるが故でしょう」
「……そうか」
榎本はようやく観念して短銃を下ろし、元あった懐に戻した。
そしてぱんと顔の前に手を合わせて
「すまなかった!」
と詫びた。榎本があまりに明るい笑顔を見せたので拍子抜けしてしまうが、決して冗談の茶番だったわけではなく、半ば本気で土方を脅したのだろう。しかしこんな真似が通じないということも同時にわかっていたのだ。
土方は不機嫌そうにすることもなく、茶に手を伸ばした。
「高く買ってくださるのは結構ですが、二度と勘弁してください」
「どうかなぁ、私は諦めが悪いんだ。また説得するよ…ところで撃たれるとは思わなかったのか?」
「撃たれたとしても撃鉄を起こし引き金を弾く間があれば、総司が刀を抜けます」
「ああ、なるほどね。…しかし沖田君は刀を握っただけだったね」
「先生に殺気がないことくらいわかりましたから」
榎本の行動には驚いたものの、総司は彼に本気で土方を殺すような雰囲気は微塵もないことを感じ取っており、黙って成り行きを見守っていたのだ。
榎本は笑った。
「なるほど、君たちは素晴らしいパートナーだ」
二人はどうリアクションしたらよいのか顔を見合わせたが、榎本は満足げに笑いつつ食べかけの料理を平らげて箸を置いた。
「…これ以上君たちのデートを邪魔するわけにはいかない。ゆっくり過ごしてくれ」
榎本は傍らの刀を手に颯爽と立ち上がり、
「ではまた。近藤局長に宜しく伝えておいてくれ」
とあっという間に去っていき、二人は頭を下げて見送った。総司は榎本が階段を降りていく音を聴きながらしばらく彼がいた場所を呆然と眺めていた。
「……なんていうか、嵐のような方でしたね」
「まあな」
土方にとって榎本の投げ掛けた言葉は不快なものであったであろうに、案外不機嫌な様子はなさそうですっかり冷めた料理に手を伸ばしていた。総司は少し疲れてしまい、再び窓辺に寄って腰かけながら都を模倣したという光景をしばらく眺めると、今は都の方が懐かしく思えた。
(こんなに美しいわけではなかったけれど…)
この不忍池は輪郭や稜線だけは似ているような、不思議な感覚だ。
「とんだ遠出になったな」
食事を終えた土方が総司の隣に立つ。
「…榎本先生は、歳三さんの本心を見抜いているようでしたね」
「…本心か」
「本心では、上様に従うなんて真っ平ごめん、今すぐにでも兵を率いて前線に向かって官軍を返り討ちにしたい…そう思っているんじゃありません?」
「…お前相手に嘘をついても仕方ないな」
土方は苦笑しながら認めた。
「何故立ち上がらないのかと…伊庭にも榎本さんと同じようなことを言われた。あの敗戦で幾度となく地獄を味わった者は皆、官軍へ雪辱を果たしたいと思っているが…結局、かっちゃんは戦場であの悲惨さを目にしていない。だから恭順に同意できるし、上様を敬うことができる」
「…」
「…そんな目で見るな。俺はかっちゃんを責めたいわけじゃない。新撰組はあいつのもので、俺は今はあいつを信じて従うだけだ。…だから余計な心配はするな」
総司は窓辺に佇む土方の横顔を見つめていた。抗戦への情熱と、近藤との友情…土方はいつも涼しい顔をしていたが、ぎりぎりのところで後者に傾いており、自分の感情は二の次になっていたのだ。それを彼は決して打ち明けることはないが、今日は榎本の挑発のおかげで少し吐露しているのだろう。
「…心配なんてしていません。でもたまにそうやって教えてくれると助かります。歳三さんはわかりにくいから」
「気が向いたらな」
「はい」
土方は微笑み、総司の顎に手を伸ばした。









908


東征大総督・熾仁親王に率いられた官軍が徳川慶喜追討の為、東征を開始した。その二日後の二月十一日。
「明朝、上様は江戸城を退出され上野の寛永寺大慈院にて謹慎に入られることとなった。新撰組には上野での警護を務めてもらいたい」
登城を命じられた近藤は勝に面会し任務を言いつけられた。いつもの近藤なら光栄なこととして引き受けるが、そうもいかなかった。この二日前の九日に若年寄の永井尚志たち側近らが立て続けにお役御免となり、会津藩主の登城が禁じられていたのだ。恩ある上司の不遇のなか明日上様が江戸城を出るとなると、この城で一番権力を握るのは目の前の勝だということになり、一気に官軍との交渉へと進んでいくだろう。
「…警護の件は承りました。それで甲府の件はどうなりましたでしょうか?」
半月ほど前、甲府勤番の佐藤駿河守が新撰組の屯所を訪ねて来た。百万石の天領である甲府は江戸から派遣されていた兵が治めていたが今は去り、地役人のみで統治している状況であるという。甲府城は旗本の番城で江戸防衛のためにもみすみす官軍に占拠されては困る要所であるのだ。近藤はこの件を永井を通じて上様や勝に伝えていたのだが、その後返答がないままだった。
勝は「そうであった」と困った顔をした。
「兵があちこちで脱走して問題を起こし、どうも日々忙しないのだ。上様が寛永寺に入り落ち着き次第、手を打つ。新撰組は警護を優先せよ」
「は…。かしこまりました。あともう一つ」
「手短にな」
「会津の件です」
近藤が切り出すと、勝はあからさまに嫌な顔をした。そもそも勝という男はあまり喜怒哀楽を隠そうとはしないので、触れられたくない話題が上がるといつもわかりやすく不機嫌な顔をするのだ。
しかし近藤はその程度で怯むことはない。
「何故松平肥後守様の登城を禁じられたのでしょうか。肥後守様は上様と同じく恭順の姿勢を示されているにも関わらず遠ざけられているようです。これでは会津のみが見せしめのように罰せられていると広まり、ますます会津征討の声が挙がります。会津は官軍からだけでなく、味方からも非難を浴びる…今までどれほどの犠牲を払い、徳川に尽くしてきたのか上様は御存じのはずです」
「…そういやぁ、新撰組は会津に恩があるのだったな」
「生涯返せぬ恩です。どうか官軍との交渉の際には会津への御とりなしを…!」
近藤は会津の状況を憂いこれが最後の機会、と勝に頼んだ。しかし勝は手にしていた扇を開閉してパチパチと鳴らすだけで、返答は鈍かった。
「残念だが、すでに会津は徳川の手には負えぬ。藩主がひたすらに恭順を示し朝廷や尾張、紀州、肥後、土佐に和平の嘆願書を送っているそうだが、相反して兵たちが強く抗戦を望み新式の銃砲を調達して戦の支度を進めているらしい。俺が手を差し伸べたところで振り払われるに違ぇねえ。…そんなの無駄骨だし、俺ァ火中の栗を拾うような真似はせぬ」
「しかし、このままでは…!」
「会津は盾だと上様はよく口にされていた。そして肥後守もまたそれを自負していたのだ。…で、あるならば最後までそれを貫いてもらおう」
「安房守様…!」
無慈悲だと近藤は訴えたが、しかし勝の表情には怒りがあった。
「…会津は忠誠心によって死ぬことを誇りとする。俺ァそんなことは無意味だと何度も伝えたが、足蹴にされてきた。この数年でどれほど有能な人材の命が絶たれたか…だから、こうやって四面楚歌になっちまって、それでも戦いてえって言うんだからどうしようもねぇ」
「…」
「新撰組は二の舞にならないようにな」
勝は近藤に釘を刺して、席を離れた。
近藤はゆっくりと頭を上げながら、虚空を見つめた。胸に去来するのは勝への怒りではない。
(俺は無力だ…)
自分が選んだ道を間違っているとは思わない。けれど主君である徳川家を守ることも、恩ある会津を庇うこともできないまま自分の手の届かない場所で政は動き続けている。武士になって、直参になって、手に届くものは手に入れたと思っていたが、実際はすでに無意味は幕臣という空いた席を当てがあてがわれたにすぎない。
(俺の…新撰組のやるべきことを考えねばならぬ)
近藤はゆっくりと膝に力を入れて立ち上がった。


同じ頃、鍛冶橋の屯所にて。
「おくまはあやとりが上手だね」
褒められたくまは満足げに笑って「ん」とさらにあやとりを絡めた手のひらを総司へと差し出した。
みつが二人の子どもとともに総司を訪ねていた。大名屋敷を間借りした屯所に強面の隊士たちが屯しているので、子どもたちは気後れして最初は黙り込んでみつの背に隠れていたが、そのうちに慣れて長男の芳次郎はほぼ同世代の銀之助や鉄之助とともに稽古に参加し、初対面の娘のくまはすぐに総司に懐きあやとりを繰り返していた。
みつは再会して以来、何度か総司の元へ足を運び世話をしてくれていて、手拭いを畳みながらその様子を微笑ましく眺めていた。まるで親戚の家に遊びにきたような空気が流れていた。
「人形町へ行ったんですって?」
「ああ、そうそう。土産もあるんだった、姉さん行李のなかを覗いてみて」
「…まあ、錦絵?」
「うん、芝居は見ていないけど。良く描けていたから」
「見ていないなんて」
みつは芝居を観ずに何をしていたのかと言いたげだったが、総司は不忍池に行ったとは言いづらくて曖昧に濁した。
口減らしのため家を出て約二十年という月日が流れていたが、みつが足しげく看病に来てくれたことで距離はあっという間に縮まった。離れて暮らしていても他人のような居心地の悪さがあったのは最初だけで、すぐに幼い頃に共に暮らした時のように馴染んだのはやはり同じ血が流れているからなのだろうか。
(試衛館の時とは違うけれど、取り戻せてよかったのかもしれない)
母のような姉がいて、よく似た甥と姪に囲まれている。柔らかな日差しに包まれたようなゆくもりのある空気は昔は渇望していても得られなかったけれど、巡り巡って手にすることができた。
「おじちゃん、はいどうぞ」
くまは複雑に指にかかったあやとりを見せた。子どもらしい愛らしい声で「おじちゃん」と呼ばれるのはくすぐったいが、とても尊く目に入れても痛くはないとはこういうことかと実感するほどだ。
「あのね、おキンのことだけれど…」
「おキン姉さんがなにか?」
みつが重たい口を開いたので、総司は今日の用件だろうと思った。
キンは二番目の姉だ。総司が幼い頃に嫁いで行ったためほとんど記憶にない存在だが、みつは文のやりとりをしているそうで懐事情が厳しい時は互いに融通していたらしい。
みつが何か言いづらそうにしていたので、総司は察した。
「またお金のこと?」
「そう…」
「姉さんに預けている金は好きにしてもいいって言ったのに」
総司は苦笑した。
前回、みつが都にやってきた時も総司が仕送りしている金をキンへ渡しても良いかと言う相談のためにわざわざやってきたのだ。姉の義理堅い性格はなかなか変わっていない。
「でも…おキンとあなたはほとんど顔を合わせていないじゃない。それなのに、私が総司のお金を預かっているとおキンに話したせいで、あの子、このところすぐに頼ってくるようになって…」
自分や家族に厳しい姉はキンに思うところがあるようだったが、総司は気にしなかった。
「確かにあまり会ったことはないけれど、同じようにこうして久しぶりに会った芳次郎やおくまちゃんは可愛いと思うし、困っているなら手を貸したいと思うよ。だからおキン姉さんが必要なら渡したら良い」
「…でもきっと、返って来ないわ」
「返ってこなくってもいいよ。だって…」
くまの紐を引っ張りながら、総司はその続きを考えたのだが、みつの表情が急に歪んだ。
「…もう長くないから?」
「……そんなつもりで言ったんじゃないよ」
「…」
みつは視線を伏せ「そう」と短く答えたが、急にぎこちなくなってしまった。総司は本当に深い意味があったわけではなかったが、みつがそのように受け取ってしまうのは当然だと思った。
(少し気が緩んでいたかな…)
なんの気ない失言で生真面目な姉が思い悩まないようにしなければと自省していると、原田がやってきた。銀之助や鉄之助に混じって芳次郎の相手をしていたのだ。
「おう、邪魔するぞ」
原田はみつとくまに一度笑いかけた後、総司に視線を向けた。
「隊士たちを連れて品川に行ってくる。近藤先生はまだ帰って来てねぇし、土方さんは見当たらないからお前に伝言しておくぜ」
「…ああ、わかりました」
原田は至極真面目な顔をしていたが、品川とは品川楼を指していてこのところ気晴らしのために原田や永倉が隊士を連れて通っているのだ。みつの手前暈かした言い方をしたのだろうが、疎い姉は全く気が付いていない。
「お忙しいなか、芳次郎にお付き合い頂きありがとうございます」
「へ、へへ…忙しくなんてねぇけど。じゃ、じゃあまた!」
原田は愛想よく笑って部屋を出て行った。用件はともかく彼が顔を出したおかげで空気は和んだ。
「…とにかく、おキンに一度あなたに会うように伝えようと思って。あの子もどうなるかわからない身の上ですから」
「わかった。…でも無理をしなくていいから。おキン姉さんにも事情があるだろうし…」
総司以上に頑ななみつはようやく穏やかな表情になって頷いた。
そうしていると、芳次郎が戻って来た。
「母上、戻りました」
「稽古をさせていただいたの?」
「うん」
反抗期を迎えていた芳次郎は言葉少なく頷いた。すると一緒に稽古をしていた井上泰助がやってくる。
「芳次郎、剣筋が良いからまた来いって皆が言っていたぜ」
十四歳の泰助と十六歳の芳次郎は遠い親戚関係で顔見知りであったが、この鍛冶橋で再会しさらに親交を深めたようだ。泰助は叔父の井上源三郎の戦死で塞ぎこんでいたが、久しぶりに明るい笑顔を見せていた。
「芳次郎も新撰組に入ったらいいのにさ」
「…そんな腕前じゃないよ」
「そうかなあ。なあ、みつおばさん、芳次郎はきっと沖田先生と同じように才がある。そのうち新撰組でも有数の使い手になれるよ!」
「ふふ…」
みつは曖昧に微笑みながらも芳次郎に視線を向けた。芳次郎は泰助に褒められたところで、母のみつや叔父の総司がいる手前、素直に受け取ることができず
「厠に行ってくる」
と席を立ってしまったが泰助はさらに追いかけていき、バタバタと足音が遠ざかっていく。少し無口でおとなしいのは父の林太郎に似たのだろう。
みつはそちらへ視線を向けながら
「あの子は…主人と同じように新徴組に入るつもりみたい」
と呟いた。
「そう。あんなに小さかった芳次郎がね…なんだか不思議だなあ」
「私にとってはまだまだ子供です。でも新撰組には芳次郎よりも年下の隊士もいるでしょう?だから感化されて早く入隊したいと言い出すんじゃないかしら。…あの子、引き止めても私の言うことなんて聞きやしないわ」
「そういう年頃でしょう?」
「あなたにはそういう頃があったのかしら」
「いや…どうかな…」
芳次郎と同じ年齢の頃にはすでに試衛館の師範代としてあちこちに出向き、毎日食客たちと騒がしくも楽しく過ごしていて、親への反抗など無縁の人生を送って来た。
「…あの子の面差しはどこかあなたに似ている気がして。でもあなたほどの腕前はないくせに、戦に出るなんて…」
みつの心配は尽きないようで、大きなため息を付く。その姿に総司は苦笑してしまった。
「姉さんは忙しい人だな。おキン姉さんや芳次郎に加えて私のことまであれこれ気を回して」
「…仕方ないでしょう。姉の為だと思ってあなたからも芳次郎に話をしてちょうだい。あの子、私の話にはちっと耳を貸さないのだから…」
みつはぶつぶつと文句を言うが、きっと芳次郎は反抗期に加えて姉の口煩さに辟易としているに違いない。
「機会があったらね」
総司は(愚痴は長くなりそうだ)と思い、再びくまが差し出すあやとりに付き合うことにした。













909


二月十二日、明け六つ。
上様―――徳川慶喜は寛永寺の大慈院にて謹慎するため江戸城を出た。東叡山寛永寺は歴代六人の将軍が眠る徳川家の菩提寺であり、皇族が住職を務めるため官軍へ恭順の意を示すには最適であったのだ。
上様は頑なに恭順を貫いて、城を出たのだ。
将軍警護を命じられた新撰組は、近藤の考えで道中の警護を名乗り出たが中止を求められてしまい、結局その役は幕臣たちが務めることとなった。
「新撰組だと見栄えが悪いってことかよ」
上様からはるか離れ、ぞろぞろと続く警備隊列の後方にいた原田は憎々しく吐き捨てた。その隣にいる永倉も神妙な顔をして
「どれだけ命を削っても今までと何ら変わりないな。名誉のある形だけは与えられても、いつもその中身が伴わない…」
と愚痴をこぼす。新撰組は『将軍警護』と名の付く立派な仕事は幾度となく経験したが、毎回期待外れでその末席にいる脇役に過ぎない。いつになっても変わらない現状に永倉は飽き飽きしていた。
永倉はこのところ思い詰めて考えているところがあるので、原田は早々に話を変えた。
「それにしても昨晩の紅梅って花魁は可愛かったよなあ。目がクリッとしてて器量よしでさ、吉原ならすぐに売れっ子になるぜ」
「…そうか?俺は小喜久の方が良かった。落ち着いていて、静かで」
「ああ、ぱっつぁんの好みはそうだよな。小常もああいう感じで…っと」
原田はつい永倉の妾の小常の話を出してしまったが、彼女は昨年に亡くなったのだという。原田は失言だったと悔やむが永倉は「気にするな」と苦笑した。
「もう半年経つ。気持ちの整理はできている」
「…ってもよお、そんな簡単なことじゃねえだろう。嫁さんがいなくなって娘にも会えず…なんて、俺だったら発狂してるぜ」
「お前はな。俺は存外冷たいのかもな…」
永倉はため息を付いたが、原田は「馬鹿言うな」とすぐに否定した。
「ぱっつぁんほど真面目で情に厚くて、隊士のことを思いやってる男はいねぇぞ。その証拠に何人もの隊士がお前を慕ってるじゃねえか」
「…大袈裟だ」
「大袈裟じゃねえ。…ったく、あんまり悪い方へ考え込むなよ、陰気な顔してると悪いモンを引き寄せちまうぜ。…よし、今日も仕事が終わったら深川へ行こうぜ。いい女がいるのに吉原に比べて金がかからねぇし」
「お前が行きたいだけだろう」
「バレたか」
ハハッと原田が軽く笑うので、永倉もつられて噴き出した。
一方、殿を務める彼らの前方…新撰組を先頭で率いるのは当然、近藤と土方だ。土方は近藤が道中の警護を断られてさぞ落胆しているだろうと思っていたのだが、彼は上機嫌に歩いていた。
「…近藤先生、気を悪くしていないのか?」
「何のことだ?」
「警護の件だ。結局、遊撃隊が務めているだろう」
道中の警護を申し出たのに、結局将軍警護の花形を務めているのは伊庭を含めた奥詰の遊撃隊だ。幕臣の子弟ばかりが揃う部隊にはお誂え向きではあるがあからさまに無頼の新撰組が避けられたような形となり、近藤は不満だろうと思ったのだ。けれど近藤は「まさか」と笑い飛ばした。
「遊撃隊の方が見栄えが良くて、適しているのは誰に目にも明らかなことだろう。俺は上様が御無事に寛永寺へ到着されるために警護が必要だと思っただけで、自分たちがそれをすべきだとは思っていないよ」
「…そうか」
近藤の寛容さはよく知っているが、それでも全く悔しさがないわけではないはずだ。新撰組は全員幕臣に取り立てられており、立場は同じなのだから。けれど近藤の表情は晴れ晴れとしていた。
「そんなことより、こうやって皆を率いて任務を果たせることが嬉しい。鳥羽伏見の時は途中で離脱してしまったから、こういうのは…おっと、もしかしたら蛤御門の時以来か?」
「…そうだな」
「懐かしいなぁ」
晴れの場に新撰組が出陣し堂々と近藤が指揮をとることは実はあまりなかったため、近藤はそれが何よりも嬉しくて仕方ないのだろう。彼は背筋を伸ばし胸を張って、やや視線を上げ、だんだんと陽が差してくる空を見上げていた。
『では近藤局長が戦うことを止めた時、君もまた刀を下ろすということか?』『先日の戦も負傷して参戦できなかったように、誰しも不測の事態はあり得る』
不意に、不忍池で榎本に問われたことを思い出した。土方はあり得ないと即答したが、この誇らしげな姿を見るとやはり近藤が新撰組を率いるべきであり、彼がいない新撰組を想像できない。
(俺はこうやってこの背中についていくだけだ)
近藤の半歩後ろを歩き、彼が信じるものを信じ、進む道を支えたい。それがこの場にいない総司の願いでもあるのだから―――。


隊士たちが総出で警護へ向かったため、鍛冶橋の屯所に残っていたのは総司と数名の重傷の隊士だけだった。英もこのところは松本や南部の手伝いに出かけていたため、今日は本当に静かだ。
朝餉を終えて、背伸びをしながら部屋を出る。二月の江戸は寒かったけれど、都の盆地特有の凍えるような山風に比べれば温かいくらいだろう。縁側に立ち、ぼんやりとしていると首元に下がっている指環が揺れた。
「…また緩くなったな…」
胸元から取り出して小指に嵌めてみても十分余裕がある。女子か子どものように細くなってしまった指を見ていると、気が滅入るがこれが紛れもない現実なのだから仕方ない。
(静かなのは…嫌だな。いらぬことを考え込んでしまう…)
賑やかで騒がしいほうが余計なことを考えないで済む。今日ばかりは姉の説教ですら恋しいと思えてしまうほど、静かで少し寂しい。
そうしていると
「沖田先生」
と、腕を負傷して吊り下げている隊士がやって来た。
「どうかしました?」
「あの、お客様がいらっしゃっているのですが…我々ではとても…」
対応できないほどの大物なのだろうかと総司は首を傾げた。
「今日は近藤先生も土方さんも遅くなると思いますし、その旨をお伝えしておかえりいただいた方が…」
「そんなつれないことを言わないでくれよ」
いつの間にか隊士の後方にやって来ていたのは、榎本だった。総司は驚いた。
「すまない、強引に上がってしまった。江戸っ子は気が短いんだよ」
「いえ…今日は近藤と土方は不在ですが」
「知っているよ、将軍警護だろう?陸のことは海軍の私には関係がないし、いまだに上様が謹慎されることに納得できない。気を紛らわせたくてね」
「は、はあ…」
総司はひとまず客間に案内し、隊士には茶を用意するように伝えた。榎本は近藤と土方の不在を知っていて足を運んだのだから、後は自分に用事があるのだろうと思ったのだ。総司はおずおずと膝を折った。
「私でお相手になるかはわかりませんが…」
「君は病人だ、どうか楽にしてくれ。ただ立ち寄っただけで長居はするつもりはない。…いやぁ、立派な庭だ。雪など降ると美しいだろう」
客間はこの屋敷で最も景観の良い場所で、手入れの行き届いた庭を眺めることができる。新撰組は間借りしているだけなのだが、総司はずっとこの光景を眺めていたので愛着があった。
隊士が茶を用意して、総司は尋ねた。
「…榎本先生、今日いらっしゃったのは先日のお話ですか?」
「その通り。私は諦めが悪くてね…パートナーの君から土方君へどうか徳川のために立ち上がるように伝えてほしい。恭順など従わず、本分を果たすべきだとね」
「生憎ですが、私はもう前線を退いています。新撰組の行く末に口出しするような立場では…」
「そんなことを言っては土方君が悲しむだろう」
榎本は知り合って間もないはずだが、近藤と土方、そして総司が家族のように近しい間柄だということを知っているようだ。近藤と土方とは深い話をしているそうだから、聡い榎本は感じ取っていたのかもしれないが、敢えて土方の名前ばかり出すのは榎本が気に入っているからだろう。
「…あの、どうしてそれほど土方さんのことを買っていらっしゃるんですか?鬼副長だとか、色々言われて普通は近寄り難いと思いますけど…」
「ハハ。私も新撰組の噂はよく聞いていた。討幕派の志士を多く殺し、味方も遠慮なく粛清する…しかし近藤殿と会った時はそのような殺伐として空気は感じ取れなかった。弁舌家で愛想も良く力強い。だから、参謀の土方君が上手く手綱を握っているのだろうと思っていたが、その通りだと直接会ってみて確信した。彼は戦場で活躍できる素質があると思うんだ」
「素質…」
榎本は口元に茶を運びながら続けた。
「…土方君は真っ先に着物を脱ぎ棄て洋装に身を包み、銃を手に取った。薩長の真似事などと倦厭する幕臣たちがいるなかで何の躊躇いもなくそうすることができたのは、彼には目の前の変化を受け入れる素質と素養があるからだ。戦場では常に戦況が変化し、それを受け入れて対応しなければならない。彼は柔軟な人間だ、近藤殿の後ろで参謀を務めるよりよほど先頭に立つことが向いている」
「…」
総司は目を見開いた。それは常に総司が感じていた土方が受けるべき正当な評価であったのだが、本人が望んでいるものではない。
(もし共に戦えるなら、意気投合できたのに…)
総司は残念に思いながら口を開いた。
「榎本先生がお話ししたことは土方さんへ伝えます。…でもきっと土方さんの考えは変わらないと思います。近藤先生とは幼馴染で、先生の思いを裏切るようなことは絶対にしませんから」
「…そうか。君も同じか」
「はい」
土方に負けず劣らず近藤の一番の忠臣を自覚している総司は、決して近藤の意に沿わないことを提案するつもりはなかった。榎本は頼む相手を間違ったことに気が付いたようで、苦笑しながら深いため息を付いた。
「残念だ。…ここだけの話、私も近いうちに蜂起を考えている。もちろん上様のお命が御安全であることを確信したのちのことだが…その時には君たちの力を借りたいと思っているんだ。……うん、また来るよ」
榎本は満面の笑みを浮かべ、茶を飲み干した。まだまだ諦めるつもりはないようだが、それほど新撰組に期待してくれているのだろうと総司は解釈した。
「急にきて悪かった。近藤殿と土方君に宜しく伝えてくれ」
「あ、あの…一つ、お伺いしたいのですが」
「ん?」
総司が引き止めたので、榎本はもう一度腰を下ろした。









910


その日の夜、総司は鍛冶橋に戻って来た近藤たちを出迎えた。
「お帰りなさい。上様はご無事に寛永寺に入られたのですか?」
江戸城から寛永寺まではさほど遠くないが、幕府歩兵たちとともに加わった隊士たちは相当気を張ったようでその表情は疲れている。しかし近藤だけは満足げに頷いていた。
「うん、何事もなくな」
「それは何よりでした。昼間に榎本先生がいらっしゃって、二人に宜しくと」
「へえ、またあの御仁か。相当、歳のことを気に入っているんだな」
「どうだか」
土方はあまり関心がなさそうに部屋へ向かう。総司は隊士たちを労ったのだが、出発時に比べてやけに人数が少ないことに気が付いた。着替え終えた一番隊の伍長である島田を捕まえてその訳を尋ねると彼は「はは」と頭を掻いて苦笑した。
「我々の寛永寺の警護は明後日からということで、永倉先生と原田先生が隊士たちを引き連れて深川へ向かったんです。自分もこの後向かうつもりです」
「そうだったんですか」
大坂から江戸へ戻って以来、永倉と原田はよく深川の品川楼へ足を運んでいた。永倉は隊士たちの気を紛らわせようと積極的に連れ出していたので、今夜もその一環だろう。
「でも、島田さんが行くと山野君が怒りませんか?」
「は、はは…まあ拗ねていますが、これも任務のうちですから」
伍長で面倒見が良い島田は若手の隊士から慕われていて、宴の席があればよく呼ばれていた。彼の念者である山野としては複雑だろうが、今は隊士たちの憂さ晴らしに付き合うことは島田の言う通り大切な仕事だろう。
「じゃあ山野君の機嫌は私が取っておきますから安心して行ってきてください」
「ありがとうございます。では…」
「いってらっしゃい」
島田が去っていく背中を見送って、総司は近藤の元へ向かった。


深川・洲崎。一昔前は江戸屈指の岡場所であったがいまは海沿いには料理屋が立ち並び整備された。吉原が火事になった時の仮宅とされており本来の遊郭に比べて庶民的な遊び場だ。その一角にある品川楼は大坂から帰還した時から永倉たちが懇意にしていて、洲崎でも一際賑やかだった。
「島田、来たか!」
既に酒が入って顔が赤い原田が遅れてやってきた島田を手招きした。今夜は島田の他に、中村、蟻通、前野、林といった永倉が気に留めている隊士たちが集っていたが、そのなかに混じって一番隊の梅戸の姿があった。
「…梅戸、怪我は良いのか?」
「ハハ、もうすっかり!俺の名誉の勲章っすからね、自慢して歩かねぇと!」
梅戸は何故は誇らしげに顔面の傷を見せびらかしていた。
彼は昨年十二月の天満屋事件で斉藤を庇い顔面に負傷していたため、鳥羽伏見の戦では後衛を務めていたが傷はすっかり癒えたようだ。隊士たちも手を叩いて喜ぶが、宴の幹事である永倉はぽつりと
「平助みたいだな…」
と寂しげに漏らした。藤堂平助は池田屋事件で額に傷を負い、己の勲章だと笑っていた…島田はどきりとしたが、その隣にいた原田が「そうだな!」と笑い飛ばしたので、永倉の悔恨は騒がしさにかき消されて暗い雰囲気にはならずに済んだ。けれど島田は冷や汗をかいた。
(…気を張るなぁ…)
島田は山野の機嫌を損ねてまで宴に参加していたのは、実は内々に永倉や原田の様子を探るように土方に頼まれていたからだ。と言っても彼らに監察方のような嫌疑が掛かっているわけでなくあくまで様子を知らせてほしいと言われ、これまで数回隊士たちの気のいい先輩として付き合っていた。
最近土方は表立っては距離を置いているが、永倉のことを気に留めていた。きっかけは永倉が自身の友人である芳賀誼道という幕臣を入隊させてはどうかと申し出たものの、近藤と土方が却下したことだ。芳賀は攘夷に熱心であり新撰組とは方向性が違うという理由だったが、永倉は芳賀の抱える兵の数が新撰組を上回るため芳賀が近藤よりも優位立場になることを恐れたのではないかと指摘したのだ。結局は永倉が折れる形でこの話は一旦は無くなったが、永倉の鬱屈した思いは晴れることがなかった。品川楼での宴でも、芳賀のことで永倉が不満を漏らす場面は何度もあった。
「恭順のための戦なんて、方便に過ぎぬ。ただ、徳川の家臣であることを捨てられぬせいではないか!」
永倉を慕う林と前野が熱い議論を交わしていた。
「ああその通り!すでに徳川の家臣など何の名誉にもならぬというのに」
「俺たちは伏見で負けて、淀に裏切られて、大坂では置いてけぼり。あれよあれよと江戸に戻り、戦かと思えば恭順!上様にとって我々は幕臣という名のただの駒に過ぎぬ」
「よく言った!」
「幕臣と呼ばれて喜んでいるのは局長だけじゃないか!」
彼らの議論に他の隊士も加わって、非難の矛先は近藤へと向く。これ以上熱を帯びてはならないと島田は慌ててその輪に入った。
「し、しかし局長も決して戦をせぬと言ったわけではない。ただ、上様の意向に沿う形が望ましいとお考えのはずだ!」
「でも島田さん、上様は戦を望んではいません」
「だから寛永寺に入ってしまわれたのでしょう?」
「う…うん、それはそうなのだが…我々はまず警護任務を勤め上げるべきだ、その後のことはその後に…」
島田はあたふたと彼らを慰めようとするが、もごもごとして良い言葉が思い浮かばない。それは島田自身もまた本音ではこの展開に納得できていないからだ。
(新撰組が恭順だなんて、俺だって…思うところがある!)
けれどそれを口にしてしまえば火に油注ぐだけだ。今は仲間割れなどを起こすべきではない…隊士たちに囲まれて島田は鬩ぎあう心のなかで渋面を作っていたところ、
「そのくらいにしておけ」
と、永倉の声が妙に響き皆がその言葉に耳を傾けた。
「いま、新撰組は官軍に抗って勝利することで徳川への君恩に報いるか、上様のご意向通り恭順して家名存続に徹することで徳川を守るか…そのどちらかしか選べない。多くの幕閣や歩兵たちが前者を選択する中で、近藤先生は後者を選んだ。それだけのことだ」
「ぱっつぁんはそれが納得できねぇのか?」
「いや…近藤先生が話していた恭順のための戦という話は理解できないわけではない。一橋公のやり方は気に入らないが将軍である以上は武家の棟梁だ、忠誠を尽くすのならその道を選ぶべきだろう」
「そんな…」
「でも…」
原田の問いに答えながら永倉が淡々と酒を口に運ぶが、隊士たちは戸惑いながら顔を見合わせていた。だが、永倉の話には続きがあった。
「…ただ、そういう重要なことを何の相談もなく決められてしまったということが一番腹立たしい。もう六年…助勤として組長として命を賭して働いてきた。それなのにまだ俺の考えを求めることなく、意見したところで必要ないのだと却下され…蔑ろにされている気がするんだ。お前たちもそうだろう?この負け戦のなかせっかく生き延びたのに俺たちに与えられたのは仮初の屯所と蜜柑ひと箱、使い道のない美しい反物だけじゃないか。それで黙って従えというのは納得できなくて当然だ」
「…永倉先生…」
島田はほぼ同じ年数新撰組で過ごしてきたが、永倉は意見が異なっていても新撰組の一員として真面目に任務をこなしてきた。幹部と呼ばれた山南敬助、伊東甲子太郎が去り総司も隊を離れてしまった今、唯一の食客であり助勤の永倉や原田たちに隊の方針を相談すべきであるが、このところは近藤と土方の間で物事が取り決められてしまう場面が多かった。芳賀の件も検討する間もなく却下され、まるで相手にされていない…永倉の不満の根幹はそこにあったのだ。
原田は酔いつつも大きく頷いた。
「ぱっつぁん、わからねぇでもねぇよ。俺ァそういうことには無関心だが、己の知らねえところで物事が進むってのは面白くねぇって思う。お前らだってこんなふうにもう少し意見する機会があれば不満が溜まらなかったよな?」
隊士たちはうんうんと同意する。
決して新撰組に異を唱えたいのではない。脱走者が多数出ているなかでも逃げ出さずに従っている隊士たちは新撰組に誇りや愛着を持って戦い続けている…だからこそ彼らの意見を取り入れて進むべき道を決めたい。
(それは…ごく自然なことだろう…)
島田は目を伏せていると、宴に呼んでいた女たちがやって来た。それまで険しい顔をしていた隊士たちは表情が変わり、まるで現実を忘れるように女の酌を受け取った。
「ただ、それだけのことなのにな…」
永倉はため息交じりに呟く。その小さな声は再びかき消されていったが、島田の耳には響いていた。
(ただ、それだけか…)
追い詰められている今だからこそ、皆が手を取り合って進みたい。
永倉のひたむきな本音を知り、島田はしばらくぼんやりと盃のなかでゆらゆらと揺れている酒をじっと見つめていた。


「…ん?」
永倉は目を覚ました。あれから宴は盛り上がり、顔を真っ赤にして酔った原田がいつもの切腹傷の自慢話を始めたところから記憶がない。どうやら寝てしまったようだが、それは永倉だけでなく他の隊士も同じで皆、思い思いの様相で眠りについていた。
外に目を遣るとすでに月が傾き、朝靄がかかりはじめている。
(厠へ行くか…)
永倉は衣擦れの音に気を使いながら皆を起こさないように立ち上がり、部屋を出た。廊下で身体を伸ばして一呼吸したあとは冬の夜の寒さに腕を組み背を丸めながら厠を目指したところ、
「永倉か?」
と呼び止められた。別の部屋から一人の男が出てきて近づいてきた。廊下に灯された明かりでその顔を見てすぐにわかった。
「…芳賀?」
「やはり。先ほど、ここを通りかかった時にお前に似た声が聞こえていた。…なんだ、俺の住まいは深川だと言っただろう?何故訪ねてきてくれないんだ」
「あ、ああ…すまない。どうも忙しくて…」
永倉は芳賀に新撰組への加入を打診したわけではないのだが、何故だか会わせる顔がない気がして彼を訪ねることができなかったのだ。永倉の融通の利かなさは芳賀も良く知っているので深くは訊ねずに
「良かったら飲み直さないか」
と誘ってきた。

































解説
なし

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