わらべうた




911


砂利道を歩いていた。
川の流れや風の音、人々の雑踏、鳥の声が響く山道―――ひたすら進み続けた、そのどこかの分かれ道のことだ。
背中から吹いてくる風が髪を靡く。その風が流れていく先を見つめながら…永倉は足を止めた。
「どうした?」
芳賀は振り向いた。彼は何の迷いもなく西国へ繋がる道を進もうとしていた。もう一方は江戸へ引き返す道である。
数か月にわたり永倉は芳賀とともに武者修行に出ていた。神道無念流道場で知り合った彼は旗本であったが事情があって家督を譲り、いまは松前藩の儒学者市川家へ養子に入って表向きは市川宇八郎と名乗っている。しかし元の芳賀と呼ぶ方が慣れていたのでそのままだ。
永倉新八は十八歳であった。多感な年齢から道場では飽き足らず人生の少し先輩である芳賀とともに外の世界に飛び出した。出会う人々、言葉、剣術…目に映るものすべてが新鮮で刺激的な日々であり、人生で一番充実している―――と思えた。けれどそれがいつまでも続かないだろうということにも気が付いた。
道はいつか行き止まって、途切れる。
(新しいものを受け止めるだけでは意味がない)
永倉は芳賀に訊ねた。
「…芳賀は西国に行ってどうする?」
「もちろん攘夷さ!長州や薩摩なんかは異国相手に喧嘩を始めようとしていると聞いた。この目で異国人っていうのがどういうもので、どうやって戦うのか、どうやったら勝てるのか知りたいんだ」
芳賀は意気揚々として即答する。彼は黒船が来航して以来攘夷を心に決めていたため、西国へ向かう動機ははっきりとしていて迷いがない。彼の一途な熱心さは羨ましくあり、同じ道場で学んでいた永倉は彼の揺らがない信条に憧れていた。だからこそ、彼の行く道を批判したいわけではない。
永倉は立ち尽くした。
「そうだよな…」
「…永倉、引き返すつもりか?」
芳賀は穏やかに訊ねた。
芳賀もまた永倉の性分をよく知っている。真面目で没頭しやすく、頑固者で周りの意見に流されず信念を曲げない…芳賀は永倉を信用しており、この先も共に歩みたいと思える友人であったが、しかし無理強いするつもりはなかったのだ。
永倉は答えた。
「…俺も国を侵そうとする異国人は打ち払うべきだと思っている。だから芳賀の考えを否定するつもりはないが…だが、それが自分やるべきことかと問えばそうではない気がする」
「では、お前の行くべき道は?江戸に戻って見つかるか?道場では狭いと散々燻ぶっていたのだろう」
「わからない。それに、早々見つかるものではないと思う」
永倉は十八の青年にしては大人びていたかもしれない。けれど芳賀と旅したこの数か月の間で様々な世界を知ることができたと同時に、客観的に自分を省みることができたのだ。
「俺はまだまだ経験不足だ。世間には俺よりも強く賢く弁が立ち、名を残す者がたくさんいる。俺は遠く及ばない…それが分かった。だから、どこかに腰を据えて自分の腕を極めたいんだ。自分自身をもっと高めてから、自分の道を決めて進みたい」
「…」
「芳賀、俺は江戸に戻る」
永倉は真っすぐに芳賀を見つめた。芳賀に伺いを立てるのではなく、相談するのでもなく、既に心に決めたことを伝えたのだ。
芳賀は決して不快な顔は見せなかった。
「良いんじゃないか。だが、自分が納得するまでその道を突き進めよ。あとになって俺とともに来ればよかったなどと後悔しないように、自分の道を自分で決めればいい」
「…ありがとう」
「じゃあな。…また縁があれば会えるはずだ」
芳賀はあっさりと手を振り、背を向けて西国に進む道を行く。永倉は小さくなっていく背中を見送ったあと、江戸へ引き返す道へと足を向けた。
(また縁がある)
だから心配せず、進めばいい。
その時の永倉は何故だかその確信を胸に秘めていた。


品川楼。
芳賀に誘われるままに、永倉は別の部屋で彼と向かい合って酒を酌み交わした。
「本当に久しぶりだな…永倉と分かれたのはどこだったか。尾張だったかな」
「それが思い出せないんだ。でもあの時のことは良く覚えている…芳賀は案外あっさりと送り出してくれた」
「もちろん寂しかったが、いつまでも俺に付き合ってくれるとは思っていなかったさ。お前はさほど攘夷には興味がなさそうだった」
「はは」
永倉は今更ながら芳賀にはすべて見抜かれていたのだろうと苦笑する。
芳賀は昨晩散々飲んだようでいまは酒は舐めるように口を潤すだけだが、昔なら後先考えずに浴びるように飲んでいた。あれから時が経ち互いに酒の嗜み方を覚え、分別のある大人になったのだろう。永倉は時の流れを実感した。
「今日は隊士を連れて来たのか?」
「ああ…憂さ晴らしだ。明日から寛永寺に詰めることになっている」
「上様の警護か…。わからぬ御仁だとは思っていたが、まさか将軍だけでなく家臣すら投げ出して逃げるとは思わなかったぜ。呆れてモノが言えねえ」
「…そうだな」
芳賀のように上様が寛永寺で謹慎することを快く思わない者は多い。逆に今こそと寛永寺に結集して戦を起こそうという輩もいて、とにかく江戸は混乱していた。
「芳賀はこれからどうするつもりだ?攘夷は…」
「そんなこと言ってられないよな。この間の戦から外国は手を引いて中立したから、これから始まるのは内戦だ。…いまは、薩長に付くか、徳川に付くか、それしかないだろう?」
国内の勢力がひっくり返り、いまは攘夷どころではない。昔の芳賀なら「それでも」と攘夷へひた走っていただろうが、今は冷静に状況を俯瞰できるようになったのだろう。
(だったら、新撰組に入らないか…と言えたら…)
だが近藤と土方はすでに断っており、話を持ち出したところで芳賀を落胆させるだけだ。永倉は胸に閊えを感じながら小さく息を吐いた。
「…芳賀は官軍に付くのか?」
「官軍につけば、新撰組の敵ということになるな」
「別に…だからってお前と敵対するわけじゃない。譜代さえ裏切るような時勢なんだからな」
永倉は酒をカッと煽ると喉が焼けるようだったが、空になった盃に芳賀はなみなみと酒を注いだ。
「…安心しろ、俺は徳川に付く」
「へえ。それは…意外だ。芳賀はてっきり…」
「勝てる方に付くのは当たり前だろう」
芳賀はニヤッと笑ったが、永倉は苦い顔をした。
芳賀のように江戸にいた幕臣たちは鳥羽伏見でどれほどの大敗を喫したのか知らない…たとえ上様が身を退いたとしても徳川はまだ余力を残しているはずだと信じているのだ。それは長く年月徳川がこの国を支配していたのだから、当然の思考だろう。
永倉は何とも言えない気持ちになりながら、芳賀を諭した。
「…勝てる方というのなら官軍だ。最新鋭の武器を揃え、数で上回っていた徳川をあっという間に追い込んだんだ…大坂から逃げ延びてきた兵たちの散々な有様を見なかったのか?」
「だったら猶更、判官贔屓というやつだ。…俺は攘夷を志していたが、徳川を裏切りたいと思ったわけじゃないんだ。だから徳川側として戦いたいと思うのはさほど特別ではなく、自然なことだ。そういう者は案外多いんじゃないか」
「…そういうものか…」
それは理屈ではない、長く沁み込んだ感情なのだ…芳賀の性分を知っている分、永倉は妙に納得した。すると芳賀は脇息に肘をつきながら「ふうん」と少し笑った。
「永倉は迷っているのか?この先どうするのか…」
「…迷っているわけでは…」
「お前とともに旅をしていた頃、道を別つ前は同じような顔で飯を食っていたぞ」
「…」
そう言われてしまうと永倉はぐうの音もない。芳賀は何故だか楽しそうな顔をして悩みを打ち明けるように促してきた。
「…芳賀と分かれたあと、俺は色んな所を渡り歩いたが、縁あって天然理心流道場の試衛館に居座ることになった。田舎道場だが同世代の異なる流派を極めた者が集まって、なかには歯が立たない奴もいて、夜になったら難しい顔をして議論を交わす…とにかく充実していて居心地が良かったんだ。ここでなら自分は腰を落ち着けてみようと思った。それが都に向かうことになり運よく新撰組となって…なるほど、これが俺の定めかと悟った」
永倉は盃の底に薄く残る酒を手元でゆらゆらと回した。
「だがこの頃は…ここが俺の居るべき場所なのか、迷うことがある。正直に言えば、徳川を守りたいという気持ちはさほどない。局長は上様に武士にしてもらった御恩があると言っていたが、俺はもともと武士の出でそのような感謝はなかった。むしろ新撰組を引きあげてくれた会津への恩なら感じている」
「うん」
「俺は俺なりに新撰組のために尽くしてきた。時には反発することもあったが失ってきた仲間のために耐えてきたつもりだ。…けれど俺の命を燃やすのは、身を隠してしまった卑怯な上様の為ではないはずだ……不信感が募っていたが上がそれを聞いてくれるわけじゃない。新撰組は上様の恭順のご意思に従う…仕方ないことだと頭では理解できても、勝手にそんなことを決められて戦で死ぬなんて御免だとも思う。部下たちの前ではとても口にできないが…幕府歩兵が蜂起した話を聞くたびにもどかしい」
「うん」
「俺がすべきことは他にあるんじゃないのか…いっそ隊を抜けてしまえば自由に動けるだろうと考えてしまうんだ」
「なるほどな」
永倉は原田や隊士たちの前では言えなかった愚痴を漏らす。芳賀が新撰組とは無関係の人間であることもそうだが、昔なじみの仲間として受け止めてくれるとわかっているからだ。
芳賀は最低限の相槌を打ちながら永倉の話に耳を傾けていたが、一通り聞き終えると火箸を手にして火鉢を弄り、灰の中から燻ぶった炭を探し当てた。
そして芳賀はゆっくりと口を開いた。
「…俺は新撰組の事情はわからない。お前が隊内でどんな立場なのか、積み上げて来たものにどれほどの価値があるのか…まったくの部外者だ。だから新撰組の行く末について無責任なことは言えない」
「そう…だな」
「でもお前のことはわかる。…どうやら、俺と分かれた後もお前の性分はあまり変わっていないみたいだな」
芳賀はにやりと笑って、消えかけていた火種に息を吹きかけた。
「永倉、もう少し耐えてみろ」
「…耐える?」
「俺はよそ者だからわかる。お前の話す言葉にはまだまだ迷いがあった。どれほど悩んでいても新撰組に愛着があって、とても隊を離れる決意をしているようには聞こえなかった。…お前はまだ新撰組に居たいと思っている、仲間を信じたいと願っている…そうだろう?」
「…」
「ほんの少しでも心当たりがあるのならまだそこにいた方が良い。お前のことだから去ると決めたのなら、あの時のように俺に相談せずに未練なく去るはずだ。だから俺に愚痴をこぼすくらいならまだ何も決意していないのだろう?」
「…そう、かもな…」
永倉は芳賀の指摘があまりに図星で、何も答えることができなかった。
(隊を抜ける…なんて、本当は想像すらできない)
その気持ちの裏側には芳賀の言う通り新撰組への愛着と仲間への情があるからだ。たとえ自分の思いとは不本意ではあったとしても、すべてをかなぐり捨ててるほど心が離れたわけではない。
芳賀は再び炭が温かくなり始めると、火箸を置いて永倉へ視線を戻した。
「もう一度だけと思って信じぬいてみたらどうだ。何の心残りなく決別できると悟れば、違う道を歩めばいい。…一度は、その場所が自分の探していた居場所だと思ったのだろう?」
「…」
「違う道を選べるなら、信じることはさほど恐ろしくも難しくもない。間違っていると思えば引き返せばいいんだからな。…こんなことを言わなくても十八の頃のお前の方がよくわかっていたぞ」
「…若かったんだ」
永倉は苦笑した。いつの間にかしがらみにとらわれて難しく考えすぎたがそれは大人になるということであり、決して後退したということでもないはずだ。
永倉は薄く残っていた酒を飲み干した。
「…ありがとう。すっきりした」
「そうか、良かったな」
「もし……俺が誘ったら、来てくれるか?」
永倉は酒を差し出しながら問いかけると、芳賀は盃を空にして酒を受け取った。
「そうだな…俺の行く道が、お前と同じだったらな」
「…その通りだな」
互いにフッと笑いあう。一度道を違えてしまうと再び同じ道を歩むのは難しいのかもしれない。それは芳賀にも新撰組にも言えることだ。
(だからこそ、この縁を大事にせねばならない…)
自分の人生はここに在るのだと、一度でも思ったのなら『そうではない』と分かるまで全うしてみよう。もうここまでだと思えるまで貫いてみよう。
永倉は窓の外に視線を向けた。永倉の心のように朝靄は消え失せて、朝陽の柔らかな日差しが差し込み始めていた。
「…呼んでいるぞ」
遠くから「永倉先生―?」と永倉を探す島田の声が聞こえて来た。芳賀は「お開きだな」と残っていた酒を飲み干して盃を置く。
「じゃあ、また縁があれば会おう」
「ああ」
あの時と同じ、なんでもないことのように二人は別れた。






912


「こちらでしたか!」
芳賀と分かれた永倉はすぐに島田に出くわした。永倉は芳賀に愚痴を吐き出したことで幾分かすっきりとしていたのだが、目の前の島田は青ざめている。一気に現実に引き戻された気分だった。
「どうした?なにかあったのか?」
「ええ…実は目を覚ました林と前野が酔い覚ましに出かけたそうなのですが、その先で浪人と口論になり、一人斬ってしまったようです」
「なに…」
芳賀と酌み交わした心地よい酒が一気にどこかへ消え失せてしまった。
永倉は島田に詳しい事情を聞きながら現場へ向かった。といっても島田も酔いつぶれて眠っていたそうだが、顔面蒼白の林がやってきて叩き起こされ聞いたことによると、相手は三人組の侍だそうで新撰組だと知り喧嘩を吹っ掛けられてしまった。二人は最初は相手にしていなかったが、相手が刀を抜いたので応戦し返り討ちにしてしまったという。
島田は近くで寝ていた原田を起こしたが、泥酔していて使い物にならず永倉を探していたらしい。
「どこの藩だ?」
「…それが、会津だそうで…」
「会津?」
本来互いに味方であるはずの会津藩士と何故口論になってしまったのか…永倉は島田とともに小走りして、品川楼より少し離れた海沿いに立ち尽くす林と前野、そして数名の役人とともに相手方である会津藩士たちを見つけた。陽が昇り始め、橙色の眩しい光が冬の海に照らされていた。
役人は永倉を見るなり、
「大事にせぬ方が互いの為でしょう」
とさっさと去っていった。このご時世に加え、会津と新撰組という関係…あからさまに面倒事に巻き込まれたくないという表情で迷惑そうに帰っていったが、永倉にとっては好都合だった。
永倉は敬意を払い、会津藩士たちに頭を下げた。
「私は新撰組副長助勤の永倉新八です。そちらは…」
「名乗るほどのものでねえです」
下級藩士と思われる中年の藩士二人のうち、年長と思われる男が首を横に振り、もう一人も示し合わせたように名乗らなかった。彼らの傍には筵に包まれた亡骸がある。
「…喧嘩になったと伺いましたが、隊士に何か粗相がありましたでしょうか?」
「いや…互いに酷ぐ酔ってだ。山田は…死んだ男は、特に酔うど手が付げらんねどごろがある。迷惑かげだ…」
喧嘩になったと聞いてどんな修羅場になっているのかと思っていたが彼らの熱はすっかり冷めていて、むしろこのような大事になって一人死んでしまったことで尻込みしているようだった。二人は簡単な説明をしてこのまま幕引きにしたいようだったが、永倉はこのまま有耶無耶にできず食い下がった。
「しかし、このままなかったことには…」
「どうせ会津は明日にでも国元さ帰る。ごたごたしてるところに、一人減ったどごろで誰も気さ掛げぬだべ…」
「国元へ…?」
永倉は驚いた。様々な事情から会津が陥れられるように諸藩から非難を浴びていたのは知っていたが、江戸を離れるとは聞いていなかったのだ。するとそれまで黙っていたもう一人の藩士がカッと表情を変えた。
「ああ!上様の警護する新撰組どは違い、会津はなんでか戦犯。朝敵どなって逃げがえんだ!」
「おい…!」
「新撰組は会津さ恩があるはずだべ!それなのに、自分だぢだげ良い待遇受げ甘え汁吸って…!」
「でれすけ!そだのはただの八づ当だりだべが!」
年長の藩士が諫めて、「申し訳ねえ」と呆然とする永倉に謝った。けれど男は口を噤まない。
「げんとも、大殿様のお話聞いだら、おらたちが耐え忍ぶごどなんて些細なごどだ。上様に謀られだだげなのに、あらほど臣下の前で詫びで涙流されで…大殿様が何したって言うんだ?ただ徳川のためさ働いでぎだだげなのに…!」
激昂はやがて嘆きへ変わり、男はただ項垂れて涙を流した。年長の藩士は肩を数回叩いて彼を慰めるが、永倉は彼らの切実な思いに触れて同情した。
「…こやづのように今の会津の状況が納得でぎねえど不満持づ者はうんといんだ…今日はうっ憤晴らしてだ。それで酔い覚ましに外さ出だら、新撰組だづー二人を見づげで、山田が血相変えで喧嘩吹っ掛げぢまって。…お二人は何さも悪ぐねえ。山田が死んだのは不運な事故。…どうがごいづの名誉のためにもこのままで終わらせでくだせえ…」
かつて壬生浪士組は会津藩の預かりになった。会津から給金が支払われたことで目当ての隊士が集まり組織は大きくなり、世間から信用を得てついに幕臣まで出世した。それなのにいまは立場が逆転し、新撰組は華々しく警護を務め、会津は朝敵との謗りを受けながら国へ戻る…下級藩士の彼らには思うことがあって当然だろう。それなのにかつて下に見ていた新撰組に頭を下げなければならない二人の虚しさに、永倉は掛ける言葉が見つからなかった。
するとそこへ彼らの仲間たちがやってきて死んだ山田という男の亡骸を戸板に乗せ始めた。仲間が死んだことに困惑するのを見て年長の藩士は「事故だ」と周囲に説明し、もう一人の男はまだ何かを飲み込めていないような不満げな表情であったが、そのまま去ろうとする。
「…あの!」
咄嗟に永倉は引き止め、これだけはと口にした。
「…新撰組は会津公のご厚情を決して忘れておりません。今回の件も…たとえ喧嘩になったとて、斬り殺すなど以ての外であると考えます。この者たちには相応しい罰を与えます故、どうか…!」
永倉はどうか、の続きが出て来なかった。思い付きの無責任な言葉は無念の会津藩士たちには響くことはないだろう。
けれど、彼らには永倉の思いは伝わったようで、年長の藩士は小さく笑った。
「…心配するな。山田のごどは丁重さ弔う。…新撰組は新撰組のやっぺぎごどやればいいんだ」
そう言って彼らは戸板とともに砂浜を一歩一歩と踏み出して去って行く。永倉はその姿を見えなくなるまで見送った。
少しだけ潮風の匂いがした。それは都では感じなかった冷たい、遠くから来た風―――。
(会津が去る…)
京都守護職として徳川の中枢を担っていたはずの彼らが、朝敵となってしまった。
新撰組は会津へ報いなくて良いのか―――。
「…永倉先生、申し訳ありませんでした…」
すっかり意気消沈していた林と前野が永倉に頭を下げた。彼らは先ほどの藩士が話していたことに相違ないと説明し、「処分を受ける」と申し出た。
「…戻ってすべてを正直に打ち明け、近藤局長と土方副長の判断を仰ごう。喧嘩を吹っ掛けたのは会津の方で、不慮の事故として終わったと報告すれば大きな処罰を受けないはずだ。…だがそれよりもあの方たちの思いを決して忘れるな。新撰組は会津のおかげで志を果たすことができたのだ…俺たちはいつか必ず、会津への恩返しをせねばならぬ」
「は、はい…!」
「肝に銘じます…!」
永倉は二人の肩を叩き、「帰ろう」と声を掛けて歩き出した。

洲崎から鍛冶橋に戻り、永倉が林と前野を引き連れて報告に向かうと近藤は不在で土方のみがいた。何となく気まずさは感じたが、芳賀に励まされ会津の無念を目の前にした永倉は尻込みすることはなかった。
話しを聞いた土方はあまり責めずに
「謹慎二日、以後気をつけろ」
と告げて林と前野を下がらせた。
「…それだけで良いのか?」
「会津の方が大事にしたくないというのならそうすべきだろうし、二人の普段の素行は悪くない。…何か不満が?」
「…ない」
永倉としては可愛がっている林と前野が重い処罰を受けずに済むのだから悪い話ではないのだが、昔のように毅然な態度で厳正に処分しないことにはどこか虚しさもあった。都にいた頃ならすぐに腹を切らせていただろう。
(だったらなんで山南さんと平助は…)
けれどすぐに深く考えることを止めた。今更蒸し返したところで、あの時はああするしかなかったという結論にしか至らないのだから。
永倉は話を変えた。
「近藤局長は江戸城に?」
「いや、国元へ戻られる会津公をお見送りするため芝屋敷へ向かった」
「そうか…」
あの二人が言っていた通り、会津藩は江戸藩邸を去り国元へ向かうのだろう。会津は上様を唆し敵前逃亡させたなどと誹りを受け、本意な形で国へ帰るしかない彼らのことを思うと永倉は不憫で仕方なかった。思わず口をついて出てしまう。
「…新撰組が会津に従うことは選択肢にないのか?」
「…会津に?」
「そもそも新撰組は会津お預かりの身分だ。今は離れているとはいえ…武士は二君に仕えず、会津公に従うのも道理だと思う。それに雲隠れしてしまった上様には無用なほどたくさんの護衛がいる…後続にいた俺たちが必要不可欠というわけではないだろう」
永倉は無意識に上様への不信感を滲ませた言い方をしてしまったが、そう思っている隊士は少なくはないだろう。家臣を置いて逃げた上様よりも、会津の手助けをしたいと願っているはずだ。
けれど土方は小さく首を横に振った。
「もう決めたことだ。…警護任務は無用のように思うかもしれないが、新撰組にとっては誉れ高い任務だ」
「…決めた?誰が?近藤局長と土方さんで勝手に決めたことだろう」
「…勝手にじゃない。勝先生や永井様ら幕閣からの要請もあった」
「違う、少なくとも俺と左之助には何の話もなかった!」
永倉は目の色を変えた。普段なら些細な言葉のアヤだと耐えられただろうが、会津藩士たちの憐れな姿に感化されたせいか自分の感情を止めることはできなかったのだ。しかし土方は永倉が急に声色を荒げても、動じることはなかった。
「話すべきだったか?」
「…いま動ける副長助勤は俺と左之助、尾形だけだ。相談するにしても手間ではないだろう」
「…そうだな。近藤先生に話しておく」
「…」
永倉の意見を土方は受け止めていたが、あまりに淡々として感情がなく聞き流されたに等しい。その無機質な反応に返って永倉の方が冷静になった。
(信じられなくなるまで、信じる)
(新撰組のやるべきことをやる…)
自分の決意をあっさりと掌返しするほど永倉は愚かではない。一度深く深呼吸した後、口を開いた。
「…まだ酒が残っているみたいだ。今日は休ませてもらう」
「ああ。明日からは寛永寺だ」
「わかってる」
永倉は席を立った。







913


二月十五日から始まった寛永寺警護の任務は遊撃隊とともに勤めることとなり、新撰組を二班に分け交代で担うこととなった。
「斉藤さん、伊庭君に会いました?」
「いや、見ていない」
総司が初日の任務を終えた斉藤に尋ねたが、伊庭の姿は見ていないという。涼しげな美男子で有名人である彼はきっと任務に付けば目立つはずなので、今日は不在だったのだろう。
「そうですか…伊庭君のことだからここへ頻繁に遊びに来てくれるんじゃないかと思っていたんですけど、来てくれたのは一度だけで顔を見ていないから…」
その一度の時さえ総司は近藤とともに医学所へ行っており会うことができなかったのだ。総司は伊庭とは大坂で別れて以来、顔を合わせていない。しかし斉藤は
「忙しいのだろう」
とあっさりとしていた。
「…見かけたら宜しく伝えてください。それで、怪我の方はもう良いんですか?」
「ああ、大した怪我じゃない」
斉藤は先日密命中に左腕に怪我を負っていた左腕を動かせて見せた。本人は浅手だと語っていたが、お抱え医者の英はしばらく安静にするようにきつく言いつけていたのに、彼はあっさりと警護任務に復帰していたのだ。英が知ったら血相を変えて叱りそうなものだが、いま彼は松本の手伝いへ出向いていて不在が多く斉藤は好き勝手にしている。総司もまた横になっているようにと口酸っぱく言われていてもこうしてふらふら出歩いているので、彼を諫めることはできないのだが。
「英さんを怒らせないでくださいよ。私にとばっちりが来ますからね」
「警護なんて散歩みたいなものだ」
「もう…」
総司は呆れながら縁側に腰かけて、小姓たちが稽古をしているのを眺め始めた。雪のちらつく寒い日が続いているが若者たちは白い息を吐き出しながら一心不乱に竹刀を振るっている…そのなかにはみつの子であり、総司の甥である芳次郎の姿もあってすっかり馴染んでいた。
最初は屯所の雰囲気に圧倒されて所在なさそうにしていた芳次郎だったが、いまは顔見知りも増えてみつがいなくてもここを道場のようにして通っているのだ。「叔父の見舞いのため」とみつには話しているそうだが、病床の叔父の話し相手よりも同年代の泰助や銀之助たちとともに稽古するのが目的だろう。
総司が甥っ子の様子を目を細めて眺めていたところ、隣に座った斉藤が同じように稽古を見ながら
「血というものは恐ろしい」
と呟いた。
「え?」
「まだまだ粗削りだが…構え方がよく似ている」
「…そうですかねぇ。私は何も教えていないんですけど…」
斉藤にしては珍しく褒めるような言い方であったので、身内の総司はなんだか照れ臭くなってしまう。芳次郎は総司と同じ天然理心流の目録程度だと聞いていたが、確かに構えは堂々としていて俊敏だ。
「鍛えれば強くなるかもしれない。…入隊させたらどうだ?」
「いえ、姉が言うには、芳次郎は義兄さんと同じ新徴組に入隊したいと思っているそうですから」
「…それは残念だな」
斉藤は新撰組の人員不足を補いたいというよりも、鍛えて育てたいと思っていたようで心底残念そうな顔をしていた。けれど、総司としては芳次郎本人よりも母であり姉のみつを説得する方が難儀であることはわかっていたので、そもそもその考えは思い浮かばなかった。
「それにあの子の父は新徴組の組頭ですから、そちらに入る方が自然でしょう」
「…そうだな、新撰組よりは新徴組の方が前線に立たずに済んでマシかもな」
斉藤は納得したのか頷きながら縁側を降りて、少年たちの稽古の指導に向かった。斉藤の指導は淡々として言葉少ないが的確で間違いがなく、寡黙な芳次郎にも合うだろう。
総司が芳次郎の隣にいる泰助に目を向けると、斉藤の指導に熱心に耳を傾けていた。叔父の井上源三郎の死からようやく一か月ほど経ち、泰助は気力を取り戻しつつあった。遠縁の芳次郎が通うようになったことでさらに表情が柔らかくなったようで、総司は銀之助や鉄之助とともに一安心しているところだ。
(叔父と甥…源さんと泰助と同じか…)
井上は最期の時まで甥に厳しく指導し、『生き延びろ』と言い残したそうだ。泰助にとってつらい別れであり、その痛ましい様子を間近で見ていた総司は、甥の芳次郎に同じ目に遭って欲しくないと思った。
「…なんて、考えすぎか…」
「先生、何かおっしゃいましたか?」
総司は山野から背後から話しかけられドキッとした。いつの間にかそこにいた彼は元一番隊の部下で病人の総司のお目付け役であり、英の補助のような形で医学方を務めているのだ。
総司はまた床を抜け出したと叱られると思った。
「い、いえ…山野君、今日は調子が良いんですよ。喀血もしていないし…」
「だったら良いんですけど、今朝のお薬は飲まれましたか?雪が降っているんですからもっと綿入れを着込んでください」
「ああ、はいはい…」
山野がせっせと用意した綿入れに袖を通しながら総司は苦笑いを浮かべた。
(できれば芳次郎の前で叱られるのを見られたくないんだけれど…)
年下の隊士に世話を焼かれている光景を見られるのは気恥ずかしいが、当の芳次郎は斉藤の指導を受けており総司が視界に入っていないようでほっと安堵した。
「山野君、島田さんは?」
総司が何気なく尋ねると、山野は嫌そうな顔をして
「…寝ています。連日、品川楼へ通い詰めていらっしゃいますからお疲れでしょうね」
と棘のある言い方をした。彼らは衆道関係にあるので島田が永倉と共に遊郭に通っていることを決して良く思っておらず、かつて美男五人衆などと持て囃されたうちの一人である山野の表情は歪んでいた。
総司は苦笑した。
「島田さんも通いたくて通ってるわけじゃないでしょうから、許してあげてくださいよ」
「でもすごく疲れて帰ってくるんですよ!きっと楽しくてはしゃいでるんです。今日もまだ起きてこないし…」
「そんなまさか」
傍目には島田は山野に夢中で他人など眼中にないように見えるが、人当たりが良く後輩から慕われる相方を持つと気がかりなのかもしれない。
「永倉先生が心配だとかなんとか…言い訳だと思いますけど」
「永倉さんが…」
山野は口実だと愚痴ったが、総司は永倉の浮かない様子が気になっていた。大坂から引き揚げてから思うところがあるようで口数が少なく、考え込んでいる姿をよく見たのだ。これまで真面目な永倉は近藤や土方に意見し、対立する場面も何度かあったのだがそれとはまた違う。上様が城を出て先行き不透明ななか永倉が何を思い詰めているのか…。
(かといって、僕が何かできることなんて…)
総司が考え込んでいると
「叔父さん」
と稽古を終えた芳次郎がやってきた。熱心に取り組んだのだろう、冷え込んでいるというのに汗だくで髪が首筋に張り付き、頰が紅潮していた。
「…お疲れ様」
「あの…ちょっと相談があるんだけど…」
「相談?」
芳次郎はちらりと周囲を伺った。ここでできる話ではないのだろうと察し、総司は山野に人払いを頼んで自室へ移動した。敷きっぱなしになっている布団を畳んで汗を拭くための手拭いを渡すと、芳次郎は戸惑いながらも腰を下ろした。
もともとの性格なのか、それとも思春期なのか芳次郎は寡黙で物静かだ。幼年だった頃はあまり会っていないが、姉の元で厳しく育てられたに違いなく叔父の前だというのに背筋をまっすぐ伸ばして礼儀正しい。かつで総司も姉に育てられたので気持ちはよくわかる。
「…もっと楽にしていいよ。それで相談って…」
「あの…上様が寛永寺に入ったから…新徴組は庄内に引き上げることになったんだって。藩士と同格で…父上だけじゃなく家族も…」
「え?」
総司は驚いた。新徴組は新撰組の前身である浪士組のうち江戸に引き返した浪人たちで結成された組織で、新撰組とは違い預かり先の庄内藩が直接指揮する形で江戸の治安維持に努めてきた。そのため庄内にゆかりが無い者が多いはずなので、彼らも藩士のような扱いで庄内へ向かうは思ってもみなかったのだ。姉夫婦と子たちは見知らぬ土地へ向かわねばならない…。
芳次郎はそのことで思い悩んでいるようだ。
「…母上はお役目だから仕方ないって言ってたけど、本当は落ち込んでいて。くまは何も分かってないけど…」
「…芳次郎は?」
「オレは…あんまり、気が進まないかな…寒いのは嫌だし…」
芳次郎は適当な理由を口にしたが、本音ではずっと暮らしてきた江戸を離れることに不安があるのだろう。
「…叔父さんはどう思う?」
「うん…義兄さんが決めたことなら、姉さんは従うだろうね。そういう人だから…」
「母上は頭が固いから」
「はは」
息子の率直な意見に、総司はその通りだと苦笑するしかない。母子の関係は悪くなさそうだが、芳次郎は自立してもおかしくはない年ごろでもある。
「でも芳次郎がどうしても江戸に残りたいというのなら、手助けはするよ。近藤先生や土方さんに頼んでどこかの道場を紹介してもらったり、仕官先を探すとか…」
「新撰組は?」
総司は敢えてその道を避けていたのだが、芳次郎の強い眼差しには彼の思いがはっきりと書かれているようだった。
「…新撰組に入りたい?」
「うん」
「そうか…」
芳次郎が即答し、総司は腕を組んで視線を泳がせた。
総司の甥で身元は確かであり、斉藤が見込んでいた腕前もある。人員不足の新撰組にとって彼のような若者が入隊してくれることは歓迎すべきことだが、総司は気が進まなかった。
「…姉さんは許さないんじゃないかな」
「母上は説得する」
「義兄さんは?」
「父上はきっと好きにすればいいというと思う」
義兄である林太郎は人が良く優しい父なのだろう。息子が望む道を強く否定したりはしないだろうし、母であるみつも結局は芳次郎の思いを汲んで許すかもしれない。
「…少し、考えさせてもらってもいい?」
「…わかった」
芳次郎は叔父の総司なら諸手を上げて歓迎してくれると思っていたのだろう、少し不満そうに口を尖らせていた。







914


その夜、総司は所用から戻って来た土方へすぐに相談した。総司が「芳次郎のことで話がある」と切り出すと
「入隊したいって?」
と土方はすぐに理解した。
「どうしてわかったんですか?」
「顔に書いてある」
「はは…」
鈍感な総司でさえ察してしまっていたのだから、土方はとっくの昔に気が付いただろう。
二人は火鉢を囲んで座った。
「いくら親しい泰助がいるからって、あんな頻繁に遊びには来ないだろう。お前の見舞いという都合のいい口実で新撰組の様子を伺っていたのだろうな」
「…私の甥だって、一番隊の皆がちやほやしたから…居心地よく感じてしまったんですかねぇ…」
島田や山野は総司の甥だと聞くや歓迎して屯所のあちこちを案内して回り、隊士たちも芳次郎と顔見知りになってしまったのだ。総司は安易に芳次郎を招き入れたことを後悔していると、土方は苦笑した。
「お前は反対なんだな」
「…気が進みません。近いうちに庄内に向かうことになるのが嫌だから、新撰組に入隊したいと考えているんですかね」
「さあな。あの年頃の子は何でも親の言うことに反発したいものだろう。おみつさんが反対すればするほど意固地になって言うことを聞かなくなるかもな」
「そうなんですよ…姉に似て頑固だろうし…」
総司は火鉢に掌を翳しながら深いため息を付いた。昔から厳しかった姉を説得することも、その息子で年頃の芳次郎を諦めさせることも、どちらも総司には困難で仕方ないように思えた。
土方は食べ損ねていた夕飯を摘んでいる。
「芳次郎はお前に憧れているのかもな」
「私に?」
「自分の叔父が世間では有名な天才剣士なら、お前のようになりたいと思うのも普通だろう。おみつさんのことだから芳次郎が幼いころから聞かせていたに違いない」
「はあ…何にせよ、私のせいですね」
総司は自分がそれほど有名だとは思っていないが、土方の言う通り姉のことだから弟を持ち上げて『叔父のように立派になりなさい』とまで口走り、あれこれ息子に美化して伝えていてもおかしくはない。土方は汁物を啜りながら笑った。
「まあ、俺ならそんな立派な叔父がいるなら、敢えて別の道を歩みたいとひねくれて思うものだが…芳次郎は素直だな。もし入隊したら、めきめきと成長するかもしれない」
「やめてくださいよ。私は気が進まないんですから…何かいい理由で断れないですかね。若いことや経験がないことは、泰助や銀之助がいるから理由にならないでしょう?剣の腕前もそこそこあるし…」
「新撰組がダメなら他の所、と考えるかもな。お前は新撰組以外なら芳次郎が入隊しても良いのか?例えば伝習隊とか、海軍とか…」
「それは…」
総司は口ごもった。伝習隊では芳次郎と同じくらいの齢の青年が前線で戦っていた。甥という視点で芳次郎を見ていたせいか子ども扱いしてしまいがちだが、芳次郎はもう自分で自分の道を決めてもおかしくはないのだ。
「……芳次郎が決めることです。でも身内贔屓かもしれませんけど、危ないところに連れて行くのはやはり気が進みません。義兄さんのいる新徴組ならまだしも…新撰組に入隊したところで、私がずっと一緒にいられるわけでもないのに…」
今の総司は新撰組のお荷物にならないようにするのが精いっぱいで、甥の面倒まで見られそうもない。それに総司の甥だからという理由で周囲から特別扱いされるのも困るだろうし、本人も必要以上に気負うだろう。
「それに…井上のおじさんが死んだときの泰助は見ていられませんでした。芳次郎に同じ思いをさせたくありません」
「…そうだな」
総司は八軒屋に引き揚げて来た時の泰助の号泣が忘れられなかった。目の前で憧れていた叔父が死に、その首を抱えて歩く…そんな思いをさせるために入隊したわけじゃないと死んだ井上も思っていることだろう。そして土方もまた戦場で泰助の落胆する姿に呆然とした。あの時ほど、戦の虚しさをまざまざと感じたことはない。
二人は少し黙り込んだ。静かな夜、外にはしんしんと雪が降っている。
「…おみつさんに相談した方が良い。庄内に行くのか行かないのか、それは家族の問題だろう。決まってから身の振り方を考えるべきだ」
「そうですね…そうしてみます」
総司は頷き、土方は安堵した表情で夕飯を進めた。総司は空になった湯呑みに茶を注ぎながら
「あ、そうだ。土方さんは伊庭君に会いましたか?」
「…伊庭か。顔は見ていないな」
「でも伊庭君も同じ任務なんですよね?」
「ああ、そうだな…」
土方は曖昧な返答をしながらすべてを平らげて茶を啜った。伊庭のことを話したがらないのが不思議で、総司はさらに尋ねた。
「伊庭君と何かあったんですか?」
「…何もない。ただあいつは…新撰組のやり方が気に入らないみたいだ。江戸で名声を得ている新撰組こそ先頭に立って蜂起すべきだとこの間、説教された」
「そうですか…」
伊庭がなかなか鍛冶橋の屯所に足を運んでくれないのはそういう理由があったのか、と総司は察した。根幹のところで決裂したわけではないにせよ、互いにやり方が違うのだから仕方ない。土方は箸を置いてため息を付いた。
「永倉も永倉で…会津に尽くすべきだと言い始めた。会津公が国へ引き上げたのだからそれに従う選択もあるのではないかとな…」
「会津ですか…」
「いま、会津とともに行動するのは得策ではないんだがな」
土方は冷静だった。
確かに近藤は会津公へ恩義を感じており、昨日も帰国する会津公のもとに駆け付けて涙ながらに見送ったそうだ。永倉の言う通り、君恩に報いるには会津へ向かうのも道理ではあるが、いまは官軍が江戸へ向かって進軍を開始しているのだ。上様の護衛を命じられている新撰組としては易々と離れられないだろう。
「…浅羽さんはすでに会津へ戻られたそうですね」
「ああ。無断で大坂から江戸へ戻ったことを咎められて江戸藩邸で謹慎したのちに、国でも謹慎することになるだろうと江上殿から聞いた」
「またどこかで会えると良いですね」
総司はそう微笑みつつも、軽く咳き込んだ。


翌日、隊士のうち半分が護衛任務に向かうのと入れ替わるように姉のみつがやってきた。てっきり芳次郎の入隊のことかと総司は身構えたが、姉は眉間に皺を寄せて切羽詰まった様子で
「おキンが越後へ向かうことになったそうなの」
と二番目の姉のキンのことを話し始めた。総司は内心拍子抜けしながら耳を傾けた。
「今朝、文が届いて…すぐに出立するとか。貴方に会いたかったけれど叶いそうもないと、残念がっているみたい」
「そう。じゃあ金子を包んで送ってあげて。何かと入用でしょう?」
「…でも貴方に会わずにまた金子だけだなんて…」
みつはあまり気が進まない様子だった。姉妹仲は悪くないはずだが、末の弟に礼を尽くさず金銭面で頼りきりになっていることは良く思っていないようだ。みつの潔癖なところに総司は苦笑した。
「姉さん、良いんだよ。近藤先生に聞いたのだけれど、おキン姉さんの嫁ぎ先の長岡藩は徳川か、官軍か、いまは中立を保っている藩なんだって。だから新撰組の屯所に勝手に出入りするとお咎めがあるかもしれない。もちろんおキン姉さんに会えないのは残念だけれど、もう二十年以上顔を合わせていなかったんだから遠くで元気にしているってそれだけでいいよ。それに実際に会っても何を話したらいいかわからないし」
「…そう。そうね…」
みつはようやく気持ちの落としどころを見つけたのか深いため息を付いた。
「あなたがそう言うのならそれでいいわ」
「…姉さんも庄内に行くんでしょう?」
「…芳次郎が言っていたの?」
「まあね」
みつは芳次郎に口止めしていたのだろうか、キンのこと以上に複雑そうに顔を顰めていた。
「旦那様から突然そのように聞いて…でも迷っています。庄内には縁が無いし、身寄りもありません。芳次郎も気が進まない様子で…それにあなたのことだって…」
「私?」
「…せっかくこうして一緒にゆっくりできるようになったのに、庄内なんて遠いところにはとても…」
みつは長い睫を伏せて思い悩んでいた。
姉は何よりも総司の傍を離れることに後ろ髪を引かれているようだった。離れていた時間を取り戻したいというみつの思いには、きっと弟の命がそう長くはないという悪い予感があるのだろう。みつが庄内へ行ってしまったら、きっとすぐに戻ってくることはできない。
けれど総司はみつ自身の家族よりも自分を優先してほしいとは露ほど思わず、
「私は大丈夫だから」
とあっさり答えると、みつはカッと顔を赤くして眉を吊り上げた。
「大丈夫なものですか!」
「え…?」
「何が、何が大丈夫なの。いつも周りのことばかり気にして…こんな時くらい我儘を言ってちょうだい!」
「我儘なんて」
「いつまでも新撰組にお世話になるわけにはいかないでしょう?戦になればいつかどこかで療養する、その時に私がいなければあなたは一人ぼっちになってしまうのよ?!」
「…!」
涙目になったみつが突き付けたのは、いつかそう遠くない時に訪れる現実だった。自分が目をそらしていたことを、みつのような身内にはっきり言葉にされるとまるで鍼のように痛んで、総司は言葉に詰まった。
姉であり親代わりのみつは総司のこの先を憂い、思いを巡らせていたのだろう。いつか新撰組を離れて療養することになれば自分が世話を引き受けるつもりでいたのかもしれない。けれど総司が深く考えずに庄内行きを後押ししてしまったことで、みつの思いを無碍にして怒らせてしまったのだ。
「姉さん…」
「…今日は、帰ります」
顔を真っ赤にしたみつは目尻の涙を拭いながらサッと立ち上がると、逃げるようにそのまま部屋を出て行ってしまった。総司は追いかけようと立ち上がって縁側まで出たが、眩暈がしてその場に片膝をついてしまい追いつくことができなかった。
ぐるぐると視界が覚束ないなかで、総司は己の浅はかさに呆れた。
(…僕は何もわかっていないんだな…)
芳次郎のことも、みつの気持ちも…家族なのにわからなかった。
「総司?どうした、何があった?」
騒ぎを聞きつけたのか土方が駆け込んできて総司の両肩を支えた。もう眩暈は収まっていたが、総司は何となく土方に身体を預けて彼の腕の中に顔を埋めた。
「…おみつさんと喧嘩でもしたのか?」
「姉さんを怒らせて…いや、そうじゃなくて…」
「ん?」
「…傷つけてしまったのかも…」
みつにとって最優先は家族であることは当然だが、弟に対しての思いは格別だったのかもしれない。命の限りがある弟のために家族を犠牲にして残ろうと考えていた…そんな姉の気持ちを知らずに思い付きのように「大丈夫だ」と答えるのは、一方的に別れを告げるのと同じくらい身勝手な言葉だったはずだ。
姉は怒るとともにどれほどの寂しさを覚えたのだろう。
土方は項垂れる総司の身体を支えながら、背中を優しく撫でたのだった。








915


翌日。
今日もちらほらと雪が舞うなか、土方は当番の隊士らとともに所定の場所での警護任務に就いていた。任務は順調であったが、町には何処の者ともわからない浪人が増え始めていた。
「一橋家ゆかりの有志が中心となって決起を呼びかけているそうです」
島田の報告を聞いて土方は納得した。噂程度には聞いていたが、側近たちのなかでも強硬派が上様の復権を求め官軍に抗戦するべく結集しているのだという。
島田の報告は続く。
「どうやら幕臣以外にも声をかけているようで、諸藩の藩士や浪人たち、町人や博徒の類も集まっているのではないかと住民は戦々恐々としていました」
「…大人数になりそうだな」
「はい。頼もしいような、憂慮してしまうような…」
水戸で思い出すのはやはり桜田門外の変や天狗党の乱だろう。島田の言う通り警護任務をする立場では、多くの血が流れるのではないかと危惧するのは当然だ。
「…隊士には妙な話に乗らないように伝えておけ」
「はっ」
「それで、永倉の様子はどうだ?」
数日前、会津藩士と揉めた件については軽い謹慎のみで不問に伏す形で終えたが、依然として永倉とは確執があり距離を感じていた。島田も困った顔で答えた。
「…芳賀という者との接触はあれからありません。ただ、永倉先生が考え込まれる時間が増えているようで…気がかりではあります」
「…脱走、か」
隊士たちは都にいた時ほど厳しく監視されているわけではなく、逃げ出すのは容易だろう。加えて近藤も考えが合わない者を引き止めはしないと宣言したので、数人の姿が見えなくなった。永倉も同じではないのか…と思ったが、
「それはあり得ません」
と島田は珍しく土方の考えを否定した。
「永倉先生は真っ直ぐな方です。自分にも他人にも厳しく、嘘をつけない正直なお人ですから、もし万が一出て行くとしても黙って逃げるような真似はせず正面から堂々と去ると思います」
「根拠は?」
「自分はそれなりに長く先生と共に暮らしてきましたから」
島田は躊躇いなく答えた。輪郭の曖昧な根拠よりもよほど信用できる答えで、土方も同意した。
「そうだな」
土方は頷きながら空を仰ぎ見る。どんよりとした曇り空の合間にわずかに陽の光が差し込もうとしているが、靄がかかって常に霞んでいる。先行きの見えない現状と重なるのは永倉だけでなく土方も同じで、なんとなく憂鬱になっていると、
「歳さん」
と馴染みのある声色で呼ばれた。土方のことをそのように呼ぶのは彼しかいない。
「伊庭…」
「少し話、いいですか?」
「…ああ」
普段は余計なくらいお喋りな伊庭が雑談なく有無を言わさず土方を誘う。もともとの精悍で麗しい貴公子のような横顔が鋭く険しく近寄りがたく感じられた。
伊庭は少し離れた人目のつかない場所に移動して、早速
「勝安房守にお会いになられましたか?」
と尋ねた。
「いや…ちょうど今日、近藤先生が呼び出されているところだ」
「…まさか、焦土作戦のことで?」
「焦土作戦?」
土方は不穏な言葉に顔を顰めたところ、伊庭は腕を組んで頷いた。
「江戸の町を焼け野原にするというものです。官軍との交渉決裂の場合、攻撃を受ける前に江戸城や町へ放火して焦土にして進軍を防ぐとか。民は何隻も船を出して房総に逃すつもりだそうですが…このような愚策、到底受け入れられませんよね?」
「…あの御仁のことだ、口先だけの話ではないのか?」
「ええ、そうあって欲しいですね!」
伊庭は苛立って答えたが、土方としても看過できる話ではない。
「俺には…とても実行可能だとは思えない。本当にそんな話が出回っているのか?」
「実際に安房守に金を渡されて依頼されたという無頼者や火消しがいるらしいと話を聞きました。巷では噂を信じて逃げ出す民が後を絶たないそうです」
「…そうか」
「歳さん、それでも上様が全権を託したからと言って勝安房守に従うべきだと思いますか?全て焼き払い、無辜の民の生活を徳川が自ら犠牲にするのなら、ここが戦場になるのも同じこと。そんなことを許しても良いのですか?!」
「…」
伊庭に問い詰められ、土方も流石に言い返すことができなかった。江戸は土方にとっても大切な故郷であり、この町が焼け野原になるなんて想像すらできなかったのだ。
だが、まだすべてが噂話に過ぎない。
「…真偽を確かめてからだ。憶測で動いては混乱する」
「…わかりました」
伊庭の満足する返答ではなかったようだが、土方はこれ以上の明言を避けた。確かなことは何もわからなかったし、伊庭と争う気持ちはない。
すると伊庭は気持ちを落ち着けるようにゆっくりと息を吐いて話を変えた。
「…沖田さんの具合はいかがですか?」
「ああ…まあまあ、かな」
体調が良い時以外は伏せる時間が増えていた。そんな土方の歯切れの悪い返答で、総司の体調を伊庭は察したようだ。
「今度、顔を出すと伝えてください」
「わかった。…総司もお前のことを気にしていた」
伊庭はフッと表情を和らげた。
「…本当は見舞いたいんですが、沖田さんの前であれこれ考え込みたくないんですよね。鈍感に見えて、色々察してしまうだろうから…心配をかけたくなくて」
「別に悩まなくていい。お前はお前のまま、友人として総司に会いに来たらいいだろう」
「…でも歳さんのこと、愚痴っちゃうかもしれませんけど」
「何を今更、そんなの昔からだ。お前は口が軽くていつも総司に余計なことを話していただろう」
二人は試衛館にいた時から土方の陰口を言い合っていた。それは今になっても変わらないのではないのか、と土方は何気なく問うたのだが、伊庭はキョトンとした顔をしたあと噴き出して笑った。
「…ハッ、ハハ、確かに!昔から歳さんの悪業を沖田さんへ平気で密告してましたね。吉原に行ったとか、女がどうとか……そうかぁ、それと同じかぁ…変に壁を作って身構えていたのは俺の方ですね」
伊庭は頭を掻き、「すみません」と謝ったが、土方には伊庭が友情よりも幕臣としての思いが先走ることは理解できた。
「…烏滸がましいことは言えないが、お前が間違っているわけじゃないし、俺たちも間違っているとは思わない。ただ、いまはいくつもの正解と不正解がある…それだけだと思う。総司は考え方が違ってもお前を遠ざけたりはしない。だから妙なことを気にして尻込みするくらいなら、あいつに会いに来てやってくれ。…いつまで近くにいられるかわからないんだからな」
「…そうですね、そうします」
表情が柔らかくなった伊庭はかつての飄々とした調子に戻って
「邪魔だって言われるくらい顔を出します」
と笑った。
伊庭は今日は終わりだというので土方は元の持ち場に戻ろうとしたところ、再び思いがけない人物が現れた。
「榎本さん」
「やあ、偶然だな」
榎本はやや芝居がかったように土方へ手を振った。きっと土方が護衛を務めていることを聞きつけて、顔を出したのだろう。土方は榎本の諦めの悪さにため息をついたが、
「釜次郎さん!」
と、伊庭が声を上げて榎本に駆け寄った。
「おや、八郎さんじゃないか!久しぶりだ」
「ご無沙汰をしております。随分とご活躍で!」
「ハハ…肩書だけは立派だが、軍艦を易々と官軍に渡すわけにはいかないからね」
「おっしゃる通りです」
伊庭は榎本と握手を交わしつつ顔を綻ばせるが、土方は二人に面識があったことは知らなかった。
「釜次郎さんとはいわばご近所さんなんです。歳は離れていましたから共に学んだわけではありませんが、時折幼い頃は可愛がってもらって」
「あんなに本の虫だった君が小天狗なんて呼ばれていると聞いた時は腰を抜かしたよ。あの頃とはまるで別人だ」
「もう何年も前ですからね」
お喋りな榎本と人当たりの良い伊庭の会話は弾んでいた。数年ぶりの再会に水を差すまいと土方は「では」と伊庭に榎本を任せてその場を離れたのだった。


一方。
上様が寛永寺に移ったことで人員が減り静かになった江戸城で、近藤は勝を目の前にしていた。
「甲府の件だ」
忙しそうな勝は前置きなく扇を片手に早速本題を切り出した。
「甲府勤番たちが江戸へ戻り、空席になっているそうだな。この頃の忙しなさで後回しになっていたが…甲州街道は江戸へ繋がる街道であり、甲府城は防衛の要、官軍も大軍を率いて通るであろう。座視したまま易々と明け渡しては不利な状況に陥る」
「はい」
「そこで、新撰組に甲府の状況を探ってもらいたい」
近藤が甲府勤番に頼まれて進言したのは随分前のことなので状況は変わっているだろう。
近藤は軽く頭を下げた。
「身に余る大役…喜んでお引き受けいたします。早速、斥候役を数名送り甲府の状況を確認してまいります」
「うむ、官軍に先を越されては面倒なことになる。必要あらば新撰組に出陣を命じる故、準備も整えておくように」
「承知いたしました」
話を終えると勝は「急げよ」と念を押してさっさと部屋を出ていってしまう。
甲府城の危機を進言してすでに一か月経ち、都からは官軍が江戸へ向かって進軍している…甲府城は江戸城の半蔵門に繋がると考えればもっと早急に動くべきだったのではないか。
(歳なら、『散々待たせたのはあちらだ』と怒るだろうが…)
近藤には過ぎたことへの苛立ちよりも、前向きな気持ちだけだった。
「甲府を守らねば…」
甲府か移動沿いには故郷がある。近藤は静かな決意を胸に秘めながらゆっくりと立ち上がったのだった。









916


―――にゃあん。
小さな猫の鳴く声が聞こえた気がして、総司はハッと目を覚まして身体を起こした。乱れた衣服の袷を直しつつ部屋を出るとまだ朝靄がかかる明け方であった。
縁側から目を凝らしても猫の姿はどこにもなく、鳥一羽、虫一匹すら見当たらない静かな朝を迎えてようとしている。
(気のせいかな…)
総司はため息をついた。
猫との因縁めいた出来事が脳裏によぎる。芹沢鴨、山南、藤堂…親しい人が死ぬ前に黒猫がいつもやってきた。しかし近藤の別宅であった都の醒ヶ井に身を潜めていた時にいなくなって以来、その姿を見ることはなかった。そして直後に近藤が狙撃され、命は助かったもののやはりあの黒猫は不吉の予兆だったのだと確信したのだ。
まさか―――と飛び起きたものの、ただの幻聴だったと知るとどっと体の緊張感が消え失せ、安心したのか咳き込んだ。静かな朝によく響き、隣の部屋で休んでいた土方を起こしてしまった。
「どうした?」
「…いえ、ちょっと…厠に。起こしてしまってすみません」
「…まだ早い。部屋に戻ろう」
土方は総司の肩を支えながら一緒に部屋へ戻った。
総司はすっかり眠気が飛んでしまったが、土方の瞼は重そうでまだ眠いようだ。
「…もう大丈夫ですから、戻ってください」
「いや…お前の隣で休む」
土方は総司の了承を得ず、一組しかない布団に潜り込んだ。当然窮屈になってしまう。
「…狭いですよ」
「別に良い」
「寒いですし」
「そんなことはない」
「朝一番に山野君が顔を出しますけど」
「構うものか」
土方はそれからすぐに眠ってしまった。寛永寺の警護任務は相当気を張るのだろう…眉間に皺を寄せて寝息を立てる土方の顔を見ながら、総司は横になった。
慌てて飛び起きたせいでまだ息が荒いままだが、彼が傍にいるというそれだけで不安や胸騒ぎは治っていた。
(たかが猫一匹に怯えるなんて…情けない)
総司は土方に身を寄せながら布団を頭まで被って目を閉じたのだった。

浅い眠りから覚めると、明るい朝日が差し込んでいた。
「あれ…」
寝所に土方の姿はすでにない。彼がいついなくなったのかわからないほど寝込んでいたのだろうか…と不思議に思っていると、山野がやってきた。
「おはようございます、先生」
「おはよう。…土方さんは?」
「副長ですか?隣の部屋でお休みかと」
「ふうん…」
何故そんなことを尋ねるのか、と山野が首を傾げたので総司はキョロキョロと辺りを見回したが、昨晩と変わった様子はない。こうなると猫の声が聞こえて飛び起きたことも、そのあと土方と共に添い寝をしたこともすべて夢だったのではないかと疑うが、答えは出ない。もしかしたらやはり布団が狭くて総司が眠った後に自室に戻ったのかもしれない。
(まあ、後で聞いてみたら良いか…)
総司は山野から薬を受け取り、飲み干した。
「山野君は今日は寛永寺に?」
「いえ、僕は今日も松本先生のお手伝いに向かいます」
「松本先生はお忙しいようですね」
松本は近藤の術後の経過を南部に任せ、自身は医学所の代わりとして今戸の称福寺で兵たちの治療を続けているのだという。あちこちで蜂起が始まり、怪我人は絶えないだろう。
山野は深く頷いた。
「松本先生は奥医師としての勤めを全うするご覚悟だそうです。最後の一人になるまで、徳川の兵の面倒をみるつもりだとおっしゃっていました」
「…松本先生ほどの御方ならどこでも重宝されるはずなのに…われわれの味方でいてくださるというのは有り難いことですね」
身の振り方を考えても良いはずなのに、そんな素振りすらなく忠誠を尽くす姿は心強い。けれど突然、
「でもとても勝手な人ですから、周りは振り回されてばかりですよ」
と屯所に似つかわしくない澄んだ女人の声が聞こえた。そこにいたのは加也だった。
「お加也さん」
「おはようございます。早朝からお訪ねして申し訳ありません」
加也は颯爽と現れて総司の側に腰を下ろすとすぐに手のひらを額に当てて熱を測り、続けて手首の脈を取り始めた。
「どうしたんですか、こんなに朝早くに…」
「もちろん沖田さんの様子を伺いに。このところうなされてよく眠れていないのでしょう?寝不足は病の大敵ですから」
加也は眠り薬を取り出して山野に預けた。
「お渡ししますけどできるだけ薬に頼らず、眠気を感じたら横になるようにしてくださいね」
「ありがとうございます。…でもどうして眠れていないってわかったんです?」
「あ、それは僕が。このところ夜中によく起きていらっしゃるようなので」
山野は遠慮がちに片手を上げたので、総司は(気づかれたか)と苦笑した。
「ちょっと考え事があって」
「それはすぐに解決できますか?寝不足は身体に毒ですし、気が滅入るのはよくありません」
「努力します」
加也は「お願いします」と急かしつつ薬を包んでいた風呂敷の紐を結んだ。彼女はこの後、松本の元へ向かうと言うので総司は目的地は同じなのだからと山野に同行するように指示して支度をさせた。
「…まだ神頼みをされているんですか?」
総司は加也がこの風呂敷を抱えて神社へ参詣していたことを懐かしく思い出した。そっけないように見える加也が実は誰よりも熱心に患者へ思いを寄せていることを知ったのだ。
加也は穏やかに微笑んだ。
「もちろんです。わたくしにできるのはこのくらいのことで…長崎で何を学んだとしても神仏の思し召しには敵いません。ですから神頼みに勝るのはありませんね」
「…そういえば、長崎のお話を聞かせてもらってませんでした」
「では少しだけ」
加也は穏やかに微笑んで、語り始めた。
松本の紹介で長崎へ向かったのものの、やはり女の身ということで相当苦労したそうだ。しかしそれ以上に異国から入ってくる新しい薬や治療法との出会いがあり、毎日刺激的な日々を送っていたところ加也と同じように医学を志す年上の女性に出会ったという。
「その方はお産の知識が豊富で…何人もの赤子を取り上げたとお話ししてくださいました。お産は千差万別とは言いますが、処置一つによって母子の命が助かることもあります。生まれるまでは心の臓が甚振られているような心地ですが、生まれたての赤子の泣く声を聞くとホッとして…ただ健やかであるだけで良いと思えました。苦労はありますが喜びに満ちている。ですからわたくしもその道に進みたいと強く決意しました」
都にいた頃、麗しく近寄りがたい雰囲気だった加也だが、お産について語る彼女はすっかり角が取れて慈悲に溢れた女性となっていた。
「…私は門外漢ですが、戦場を駆けまわるよりもお加也さんにぴったりだと思います」
「ありがとうございます。いずれ父の残してくれた家で開業したいと思いますが…まあ、何もかも江戸の町が落ち着いてからの話ですね」
「…南部先生は会津に赴かれるのでは?」
「ええ…」
希望に溢れていた加也の表情に少し翳りが見えたけれど、すぐに気を取り直して続けた。
「それが義父の使命ですから。わたくしも望まれるなら共に向かいたいと思いますが…きっと義父は危ないから江戸に残るように言うのでしょう。義父を煩わせたくありませんから、わたくしも江戸で義父の帰りを待ちたいと思います」
「…そうですか」
「ですから、わたくしを厄介払いしようとしてもそうはいきません。沖田さんのことは治るまで付き合いますからね」
「…」
総司は言葉に詰まった。
『私がいなければあなたは一人ぼっちになってしまうのよ?!』
あの時のみつの悲壮な表情を思い出した。日に日に病状が進むなか、しっかり者の姉はこの先の弟の行く末を案じていたがさらに庄内へ向かうことになってしまえば弟を看取れないのではないかと恐れ、深く考え込んでいたのだ。
(でもお加也さんは最期までいてくれるのか…)
「沖田さん?」
「あ…いえ。そんなこと考えてませんよ。お加也さんと英さんはわたしの主治医ですから、頼りにしてます」
「支度ができました」
山野が顔を出し、加也は「わたくしはこれで」と腰を浮かす。
「…考え事、早く解決してくださいね」
加也はまるで姉のように言いつけて去っていった。
(その姉のことで悩んでいるんだから、変な感じだな)
総司は小さく笑った。


「隊士を数人選んで、甲州へ向かってほしい」
近藤と土方に呼び出されていたのは大石鍬次郎だった。鳥羽伏見の戦を経て、隊内の組織図は大きく変化していたが大石は相変わらず斥候役として重用されていた。
「甲州…甲府城の件でしょうか」
「その通りだ。阿波守から甲府の様子を偵察するように命じられた。甲府城は四方を山河に囲まれた要塞…先に官軍に占拠されては取り戻すのは難しく、不利な状況となる。場合によっては早々に我々が出陣することになるだろう」
戦となる前に偵察に向かうのは当然の任務だ。大石は異論なく、「承知しました」と頷いた。
「早速、向かってくれ」
「はい」
近藤が急かしたので大石はすぐに部屋を出て行った。
土方は甲府城周辺の地図を眺めながら訊ねた。
「…珍しいな。勝先生に急かされたのか?」
「まあな。だいたい甲府勤番の佐藤殿が我々を訪れたのが、一か月ほど前だ。甲府では今か今かと援軍を待ちわびていることだろう」
戦略面では土方に任せることが多いのだが、今回ばかりは近藤が指揮をとりすぐに斥候役を差し向けるようにと指示をした。近藤の神妙な表情で大きな任務を任されたのだろうと察してはいた。
「歳、いま隊士は全員で何人だ?」
「…だいたい八十だな。だが、新しく入隊した者が多く銃の扱いにも慣れていない。それから例の浅草弾左衛門のところから歩兵が百人ばかり加わる」
「…少ないな」
「戦になるのか?」
「そうなるかもしれない」
土方にはまだ実感がなかったが、近藤は万全の準備を整えていたいようだ。近藤自身が先月の鳥羽伏見の戦に不参加であった分、焦りがあるのかもしれない。
「…隊士は寛永寺の警護任務で疲れているが、銃の調練に力を入れる。本当に甲州へ向かうことになるなら、人員については義兄さんに相談してみよう」
「それは助かるよ」
近藤は「さて」とゆっくりと立ち上がり腰に刀を帯びた。
「今日は寛永寺に向かうよ」
「…あんまり無理をするなよ。右腕は完治したわけじゃないんだろう」
「横浜で処置してもらって随分楽になったよ。それに早く皆と働いて、感覚を取り戻したいんだ」
近藤は微笑んで颯爽と部屋を出て行った。








917


近藤が当番の隊士とともに寛永寺に向かった後、入れ替わるように芳次郎がやってきた。いつもなら挨拶もそこそこにすぐに稽古に向かってしまうのだが、留まって
「叔父さん、母上と揉めた?」
と心配そうな顔で尋ねてきた。
総司はゆっくりと体を起こしつつ、「姉さんに聞いた?」と聞き返すと、素直な芳次郎は頷いた。
「聞いたって言うか…ここから戻ってきたあと、ずっと母上は黙り込んで…。そういう時はだいたい父上と喧嘩してたから、そうなのかなって」
「へえ、義兄さんと喧嘩なんてするんだね」
「まあたいてい母上が一方的に怒っているだけだけど」
芳次郎から聞く姉の様子は新鮮で総司は自然と笑っていたが、芳次郎の質問にはどう答えたら良いのかわからない。芳次郎は焦れたように
「…もしかして、オレのこと?」
と尋ねた。芳次郎が新撰組に入隊したいと言ったことが理由ではないかと思い込んでいたのだろう。しかし芳次郎が入隊を希望していることは姉には伝えていない。
「違うよ。…なんていうか、姉さんの気持ちを汲み取れていなかったというか…無神経なことを言っちゃったかなって…」
「そんなの、母上だって同じだと思う。意固地だし、人の話に耳を貸さないし…いつも思い込みが激しいんだ」
「ふっ…ふふ、言いたい放題だ」
芳次郎の表情は思春期のそれらしく母親に思うところがあるようだが、姉の堅物なところは総司も身に覚えがあるので容易に想像できた。
「それでオレの入隊は…?」
「…うん、やっぱり…新撰組の入隊は勧められないよ」
「…なんで。泰助だってオレより年下なのに入隊してるし、皆、オレの腕を誉めてくれたのに!」
「それは君が客人で、私の甥だから」
総司が賛辞ではなくただのお世辞だと言うと、芳次郎は悔しそうに唇を噛んだ。けれどそんなことも気が付かないようではまだまだ研鑽を積めていない。
「そもそも姉上すら説得していないのに、私が入隊を許可するわけにはいかないよ。無責任だから」
「…母上さえ説得すればいいってこと?」
「いや…芳次郎はここには向いていない。父上とともに庄内で鍛えたほうがいい」
総司は率直に話したが、芳次郎は顔を真っ赤にして憤った。
「なんで、そんなことがわかるんだよ。父上は何にも教えてくれない。組頭だって言っても人が良いせいで煽てられて役職に就いてるだけなんだから」
「そんなことはないはずだよ。必ず人より優れているから人の上に立てるんだ」
「…とにかく、納得できない!庄内に行くのも、入隊できないのも…何もかも!」
芳次郎は食い下がり、総司を睨みつける。
父に似て柔和な顔立ちだが、怒ると眉が吊り上がり頰が紅潮してしまうのは姉に似ている。しかし駄々を捏ねるような物言いはまだまだ子供らしい。
「…わかった」
総司は寝床から立ち上がると、行李に向かい久しぶりに稽古着に袖を通して袴を履いた。痩せて腰紐は緩くなってしまったが、強く結ぶと自然と体の芯に力が入り目が冴えた。
「一緒においで」
「…」
総司は芳次郎を連れて屋敷を歩き、普段隊士たちが稽古に使っている裏庭までやってきた。十数名の隊士たちと見習いの小姓たちが集まっていた。
「お、沖田先生?!」
任務や稽古から離れて久しい総司が稽古着で現れたものだから隊士たちは驚き、そのなかのひとりである島田が駆けつけてきた。
「先生、どうされたんですか!」
「島田さん、ちょっとだけ芳次郎の相手をしてくれますか?」
「は、はい。自分で良ければもちろん構いませんが…先生は?」
「私は具合が良いからご心配なく。それに無理はしません…だから手加減せずに相手してやってください」
総司は芳次郎の背中を押して島田と対峙させて、自分は少し離れた場所から見守ることにした。芳次郎は状況がわからず戸惑っていたが、
「芳次郎、入隊試験だと思って本気で打ち込みなさい」
と総司が発破をかけると、眼差しを変えて構えた。
島田もまた表情を引き締めて構える。大柄の島田とまだまだ若く細身の芳次郎には大きな体格差があったが、これくらいのことで怯んでいては話にならない。
「ヤァぁー!」
芳次郎は声変わりしてまださほど経っていないようで、甲高い声が響いた。島田は正反対に低く凄みのある気合いで芳次郎の竹刀を受け止める。
しばらくは島田が受け身に回っていたが、
「島田さん、遠慮しないで」
と総司が口出しすると次第に打ち返すようになった。真冬の庭で二人が熱気を帯びて打ち合い、隊士たちはその様子を見守っていた。
「沖田先生…これって入隊試験なんすか?」
泰助がやってきて尋ねた。その隣には銀之助や鉄之助の姿もあり、彼らは同世代の芳次郎の試合から目が離せないようだ。
「…どうかな」
「芳次郎は才能があると思います!」
泰助は遠縁の親戚である芳次郎を贔屓しているのか、援護するように口出しをしたが、
「そうかなぁ」
と総司は聞き流した。そして改めて芳次郎の動きを注視する。
(確かに天然理心流の型をちゃんと身につけているみたいだ)
叔父として指導したことなど一度もないが、基礎が身についているようで、おそらく義兄であり父親の林太郎が丁寧に指導したのだろう。荒削りの泰助に比べれば立ち回りに無駄がなく、傍目には洗練されているように見える。
けれど島田に押され続けていた。芳次郎はまるで背丈以上に大きな巨石に木の棒を叩きつけているだけだ。そして島田が反撃して薙ぎ払うと受け止めきれずに肋を強打して後ずさる。芳次郎は痛みに顔を顰めていたが、それ以上に入隊試験で歯が立たない状況に焦っていた。
「っ、はぁ、はぁ…くそ…」
「…沖田先生」
「続けて」
島田は戸惑って総司に視線を向けたが、総司は意に介さず続けるように伝えた。
江戸に戻ってからは人員数を重視してこれほど厳しい入隊試験を行なっているわけではないが、かつて都にいた頃はこうして島田のような古参隊士たちが入隊希望者の腕を確かめていた。その基準は流派でも肩書でもなくあくまで実践で使えるかどうか。
「ヤァ…っ!」
芳次郎の渾身の一撃が、あっけなく島田に跳ね飛ばされる。その反動のせいで芳次郎はバランスを崩してその場に尻餅をついてしまい、竹刀を落とした。
「芳次郎!」
泰助が思わず声を上げた。
「…っう…っ」
芳次郎は四つん這いになりながらどうにか竹刀に手を伸ばしたが…総司が芳次郎に近づき、その竹刀を蹴り飛ばしてしまった。
「!叔父さん…!」
「…もうわかった?」
「わかったって…オレが弱いって、そういうことかよ…!」
一方的に虐げるようにした総司を芳次郎は恨めしそうに見上げていた。
(身内だからこそ、贔屓だと言われないようにしないといけない)
総司は敢えてはっきりと告げた。
「弱いんじゃない、使えないってこと」
「…!」
「この程度で竹刀を手離してしまったら、どうやって反撃するつもり?戦場では誰も守ってくれない…ここにいる隊士は皆それを知っているんだよ」
戦うための手段を失えば、山積みになった躯の一つになってしまう…鳥羽伏見を経験した隊士たちはそれをよく知っている。そんな修羅場をくぐりぬけた者しかここにはもう残っていない。逆に言えばそれほどの経験がなければこの先も使い物にならないと言うことだ。
「くそ…まだまだ!」
芳次郎は総司によって遠くに蹴られた竹刀を掴み、再び島田に向かって突進する。しかし体力不足なのだろう、その竹刀の軌道は芸がなく安易で島田には子供の遊び相手のように跳ね返した。
それを何度か繰り返して芳次郎はふらふらの状態で竹刀を持った。その眼差しには力がなくただそこに立っているだけの状態だ。
本来なら島田がトドメをさすところだが、島田は遠慮があるのかちらりと総司の表情を伺ったので、総司は仕方なく竹刀を手にして芳次郎の前に立ち、強く小手に打ち込んで再び竹刀を落とし、さらに足払いして転がした。
「ぐ…っ!」
「…終わりにしよう」
「…」
芳次郎も流石に異論はないようだ。総司は息切れして倒れ込んだままの芳次郎の前に片膝を折った。
「…確かにとても綺麗な型だった。父上によく教わっているんだろう、俊敏で凛々しく、かつての私に似ていたかもしれない。でもそれはあくまで道場での評価でしかない。今の新撰組に必要なのは実践ですぐに戦うことができる腕前だ。…芳次郎には経験が足りない」
「…それは、だって…今から頑張れば…」
「都にいた頃ならよかったかもしれないけど、もう戦は目の前なんだ。こんな状態なら、経験を積む前に死ぬよ。無謀だ」
「…」
総司が容赦なく現実を突きつけると芳次郎は悔しそうに拳を握りしめたが、反論できずに項垂れた。
だが、総司は芳次郎だけを責めるつもりはなく、小さく震える芳次郎の肩に手を乗せた。
「…もし私が元気なら、入隊を許可して芳次郎を鍛えて支えてあげられたかもしれない。井上のおじさんのように戦場で君を守れただろう。でもそれができない以上、君を預かるなんて姉さんには言えないよ」
「叔父さん…」
「だから、強くなりたいのなら義兄さんと一緒に庄内に行きなさい。修行だと思って新徴組に入って十分に鍛えてから…自分の進む道を考えなさい」
「……」
芳次郎はわかったとは言わなかった。思春期らしい強がりと己が舞い上がっていた悔しさで素直に頷くことができなかったのだろう。
「…ごめん」
総司は芳次郎に謝った。
いつまでも憧れの叔父でいたかったけれど、きっとこの身体では芳次郎を守れそうもない。総司は悔しさと共に申し訳なさを感じたが、芳次郎はギュッと唇を噛んで、ようやく立ち上がった。
「…ありがとう、ございました…」
島田に頭を下げると、芳次郎はそのまま一目散に走り去ってしまった。
(後味が悪いことになっちゃったな…)
総司は後悔してはいなかったが、芳次郎を傷つけてしまったことは気の毒に感じた。けれどかれもまた必要な経験だっただろう。
(きっとあの子のためになるはずだ)
信じるしかない。
総司は深いため息をついて島田を見ると何故かその場に立ち尽くしてぼんやりと総司を眺めていた。
「…先生、自分は…」
「あ、すみません、島田さん…身内のことに巻き込んでしまって、やりづらかったでしょう」
「い、いえ!そんな…」
島田は何故か目に涙を浮かべていて、それを隠すように汗を拭った。
「島田さん?」
「す、すみません。なんだか…その、こんな間近で先生の指導をまた見られるとは思ってもいなかったもので…つい、感極まりました…」
「は、はは…そうか。つい熱が入りましたね」
「懐かしいです…」
島田の涙は嬉し涙だったようで「すみません」と言いながら顔を隠した。周囲を見回すと島田のように万感の思いに満ちた視線をあちこちから感じ、総司は急に居心地が悪くなってしまった。
そして屋敷の縁側からこちらを伺っている土方の姿を見つけた。いつの間にそこにいたのか彼は腕を組み、口元に意味深な笑みを浮かべていた。
総司は
「皆さん、お邪魔しました」
と隊士たちに一声かけてそそくさとその場を後にして土方の元へ向かった。
土方は
「ご苦労さん」
と言って、何故かとても嬉しそうに総司の頭をくしゃくしゃと撫でたのだった。








918


江戸市中に焦土作戦の噂が流れ始めていたが、
「根も葉もない」
と近藤は相手にしなかった。
「城や町に火を放てば必ず犠牲が出る。あらかじめ民を避難させるらしいと聞いたがそのような手間には時間も金もかかるだろう。あまりに現実味がない。我々は噂に惑わされて隊務に支障をきたしてはならぬ」
隊士のなかには焦土作戦に動揺してこのままのうのうと将軍警護に就くことに躊躇いを持つ者もいたが、近藤が隊士たちを集めて強い口調で一蹴したため誰も口にすることはなかった。
近藤は揺らがなかった。将軍警護の任務を誉れとし、徳川から心を離れる幕閣が多いなかで従順に従った。それを『素晴らしい』と褒めたたえる者ばかりではないのは、あまりに屋台骨が揺らいでいるせいだろう。
土方は近藤の強気な姿勢を頼もしく思うと同時に一抹の不安を覚えた。
(…誰もが同じわけじゃないことをわかっているのだろうか…)
近藤の話を聞いて、永倉は何も言わず、原田は不満そうに腕を組んだままだった。彼らに思うところはあるのだろうけれど、将軍に従うことを決めてしまった近藤には何を言ったところで聞き入れやしないだろう。それにいま、近藤は甲府城のことを気にしていて頭のなかはそればかりなのだから。
土方がため息を付きながら甲府の地図を眺めた。大石と二名の隊士は一昨日甲州へ向かい、今頃は状況を調べているだろう。あと数日もすれば戻ってくるはずだ。
「…ゲホ…ゲホ……」
そうしていると遠くの部屋で総司が咳き込んでいるのが聞こえて来た。土方は駆けつけてやりたい気持ちは当然あったが、そうすると総司が無理をして平気なふりをするので聞かなかったことにする方が良いと山野に言われていた。
病の症状は日ごとに異なり、昨日のように平気な顔で芳次郎の相手ができる日があると思えば、次の日は寝込んで床から起き上がれない時もある。できる限り総司の負担を減らそうと焦土作戦や甲府のことは詳しく話していないが、それよりも総司の胸中は姉たちのことでいっぱいだろう。
(おみつさんがわかってくれると良いが…)
土方は再び地図に視線を落とした。


加也は昨日訪れた鍛冶橋の屯所に再び足を向けていた。
(良順先生から預かった薬を渡し忘れるなんて…)
忙しい松本に代わって新撰組の屯所を訪ねたはずなのに、近藤へ渡さなければならない膏薬を渡し忘れてしまったのだ。
義父である南部は会津藩医として決意を固め、国元へ引き上げていく藩兵たちとともに会津へ向かうことになるようだ。加也は当然、知己の多い江戸に留まるように言い渡された。数年前、総司との縁談を進めていた頃なら『共に向かいます』と駄々をこねて義父を困らせていただろうが、いまはそういった心持ちではなく
「必ずお帰り下さいませ」
と義父を待つことをすんなりと受け入れた。長崎での経験がそうさせるのか、江戸で南部を待つことが自分の使命のような気がしたのだ。それに江戸にはまだまだ手のかかる患者と修行の足りない弟子たちがいる。
(英は先日の戦で随分成長して…やはり経験は人を変えるのかしら…)
医者としての自覚が芽生えたように積極的になった英は松本の手助けをしながら忙しく過ごしている。剃髪姿も板につき、急に大人びて何かすっきりしたようだ…とそんなことを考えながらようやく鍛冶橋に辿り着くという頃、ある女子の後姿が目に入った。官軍が攻め上り、徳川は焦土作戦を決行するという不穏な噂が流れ、この辺りには特に人が少ないので女子は良く目立った。しかも屯所の様子を窺っているようだった。
加也はお節介だと思いつつ、その面差しが総司に似ていたのでつい声を掛けてしまった。
「…あの、こちらに御用ですか?」
「あ…」
「こちらは新撰組の屯所ですが」
「…ええ、知っています」
「…もしや、沖田さんの?」
「え?」
加也が思い切って尋ねてみると、女子…みつは戸惑いながらも頷いた。
「私は沖田の姉ですが…」
「まあ、そうでございましたか。わたくしは会津藩医の娘で…手伝いのような医者の真似事をしております。今日は薬を持参したところで…」
「お加也さん?総司の面倒を見てくださっている、お加也さんでは?」
「はい」
みつは警戒心を解き、顔を綻ばせ手を叩いて喜んだ。どうやら総司が前もって話をしていたようだ。
二人は立ち話をするような場所ではないだろうと移動し、近くの茶屋へやって来た。普段は客足の途絶えない繁盛店だが、客が少なく閑散としていた。二人は向かい合って座り改めて挨拶する。
「総司の姉のみつと申します。弟のこと、いつもお世話になっております。お加也さんのことは以前聞いていて…一度お目にかかりたいと思っておりました。いつも気にかけてくださって…ありがとうございます」
「いえ、特別なことは何も。普段は南部の弟子の英が様子を見て、わたくしは時折顔を出す程度で」
加也は正面からみつを見て、
(よく似ていらっしゃる)
と思った。総司は以前、姉のことは長く離れて暮らしていると言っていたがすぐに近しい親族だとわかるよく似た面立ちだ。
「女子の身で…さぞ大変な思いをされていらっしゃるのでは?」
「…そうですね。大変ではないことはありませんが、わたくしの選んだことです。それに新撰組の皆さんや沖田さんは一人の医者として扱っていただいて、わたくしとしては有難く思っております」
みつのような反応は加也が日常的に周囲から受けるものと変わらなかった。女子の身で医者を名乗り、嫁にもいかず仕事ばかり打ち込むのを奇妙に思い、同情するように憐れまれることには慣れていたのだ。
しかしみつは
「選んだこと、ですか。…そのようにはっきりとおっしゃることができるのは羨ましいです」
と目を細めた。
そのようなリアクションを受けることはあまりなかったため、加也はその理由を尋ねてみたかったが、初対面では失礼だろうと控えてかわりに医者として訊ねた。
「あの、沖田さんからはお父上は労咳で亡くなったと伺いましたが」
「ええ…父は私が幼い頃に長く患いまして、日々喀血して痩せ細っていく姿を見ておりました。父が亡くなると母も倒れてしまって…総司は赤子でしたから知らないと思います。…総司の労咳は血脈でしょうか?」
「そうとは言い切れませんが、ご家族と病状や体質が似ていることもあります。そうですか、長く患われて…」
加也が少し考えるような素振りをすると、みつは突然、
「でしたら、総司ももう少し長く生きられるの?!」
と身を乗り出した。その拍子にガタンと湯飲みが倒れてしまい、温かい茶が零れてしまう。幸いにも中身は少なくなっていたので大事にはならなかったが、みつは拭いながら「申し訳ありません」と肩を落とした。
「父が長く患う姿を見て可哀そうだと思っていたのに…総司も同じであれば、なんて勝手が過ぎますね」
「…いえ、ご家族が少しでも長く生きてほしいと思われるのは当然では?」
「ええ…」
加也はみつのような家族の立場では自然な気持ちだろうと思ったのだが、みつは自分を責めているようだった。その表情は鍛冶橋の屯所の間で立ちつくしている時と変わりなく、思い悩んでいるように見える。
「あの、わたくしで宜しければお話しくださいませ。何か悩まれていらっしゃるのでは…?」
加也はこれも何かの縁と申し出たところ、みつは躊躇いつつ答えた。
「……実は近々、夫とともに庄内へ向かうことになりました。どうしてもお役目で家族皆、向かわねばならず…でも総司を置いていくのが気がかりで。江戸に残って看病をしたいのですが…それも弟に断られてしまって、つい諍いに」
みつの話で加也は(なるほど)と理解した。昨日、屯所を訪ねた時に総司の顔色が優れずに考え事があると言っていたのはこのことだったのだと察したのだ。しかし庄内は会津のその先…ずいぶん遠くに行ってしまう。それは姉としても、また弟としても寂しいことだろう。
「夫と息子を庄内へ送り出すことも、総司を置いて江戸を去ることも躊躇われて…。総司がまだ長く生きてくれるなら、たとえ私が庄内に行ったとて待っていてくれると思ったのですが…」
「…そうですね。そうであればよいとわたくしも思いますが…実際、昨年末は出歩かれても平気なご様子でしたが、いまはそれも酷く疲れてしまうようです。喀血の量や頻度も増えていますから…やはり少しずつ悪化していると言わざるを得ません」
加也は敢えて現実的なことをみつへ打ち明けた。総司は姉の前では平気なふりをしているかもしれないが、実際のところはそう長くないとわかっているはずなのだ。やはりみつは「そんな」と落胆して目を伏せた。
「ああ…。せめて家族がいれば良いと思うのですが、妹も長岡へ向かうことになって…弟には身寄りがありません」
「…近藤様や土方様がいらっしゃるではありませんか。道場の方にも知己が多いと聞いていますが」
「しかし…」
みつは首を横に振った。血のつながった家族ではない…みつはそう言いたいのだろうと思った。
(血の繋がり…)
父を亡くして天涯孤独になり、南部に引き取られた加也にはあまり必要なものだとは思わなかったが、けれどそれを大切にするみつの気持ちは当然尊重するべきだろう。
するとみつは涙を拭いながら加也を見据えた。
「…お加也さんは元はといえば総司の縁談のお相手だったとか…近藤先生に伺いました」
「え?ああ、はい。もう何年も前になりますが…御典医の松本先生のご紹介で。互いに事情があり破談ということになりました」
「…いまは別にお相手が?」
「いいえ。わたくしは医の道に生きると決めて縁談はそれきり。…沖田さんとはそれからも親しくはさせていただいておりますが」
もはや懐かしいとさえ思うくらい、いまは医者と患者という関係の方が深い。互いに男と女として意識し合ったことはなく、友情のような不思議な関係でもある。しかしみつにはそれが理解できなかったのだろう。
「…でしたら、総司と縁を結んでいただけませんか?」
「…わたくしが、ですか」
加也は初対面で随分乱暴な申し出だと刹那思ったが、みつは本気だった。頭を下げて懇願した。
「勝手なお願いであるとはわかっています。子を為してほしいとまでは申しません。けれど…弟の傍に誰かが必ずいてくれるのだとわかっていれば…」
「安心したいのですか?」
「…」
みつは答えられず顔を伏せてしまった。自分の思いとは裏腹に、それがどれほど勝手な願いなのかということは重々承知の上でそれでもと加也に縋っているのだ。
加也は必死に縋っている手を振り払うことはできなかったが、手を差し伸べて重ねて小さく震えるみつを慰めた。
「…お気持ち、お察しいたします。けれど…そのお考えは沖田さんの本意ではないように思います。わたくしはあの方の医者として最期までお付き合いする覚悟がありますが、それは家族としてではなくあくまで医者としてです。…沖田さんに寄り添うべきは別の方ですから」
「けれど…土方様は戦場へ行ってしまう。きっと総司を傍には置いてくださらないでしょう」
「…そうかもしれません。けれど、そのお心はきっと沖田さんの傍を片時も離れはしないでしょう。何も…目に見えるものがなくとも、思いは伝わりますから。薬のように」
「薬…」
みつはようやく顔を上げた。加也は小さく頷いた。
「…薬は身体の中に長く留まって、積み重なっていきます。それが必ず病を克服してくれるわけではありませんが症状を和らげます。…同じように例えば、誰かが病に罹ると見舞いに多くの人が訪ねてきます。慰めて励まして去っていく…ただそれだけのことですがそれが患者をどれほど元気づけるか。もしかしたら見当違いの薬よりはよほど効き目があるかもしれません。ですからたとえ見えなくとも…人を強く思う心は常に傍に在る、とわたくしは思います」
「…」
「それに血の繋がりなくても、家族にはなれます。わたくしも南部の義理の娘ですが義父を尊敬しています。それに夫婦なんてそもそも他人同士ではありませんか」
「…ふふ、そうでしたわね…」
みつはようやく笑みを零して「ごめんなさい」と謝った。
「無茶なことを申し上げました。総司にも勝手をして…怒られますね」
「あの方は怒ったりしないと思います。きっとお姉さまの御心遣いをわかっておられます」
「そう…優しい子です。だから寂しい思いをさせて逝ってしまったら…そんな風に思っていましたけれど、私だけが家族というわけではありませんね…」
「はい。…いつも沖田さんの周りには人が絶えません。きっと寂しい思いは紛れるでしょう」
「そう言ってもらえると…私も気が紛れます」
みつは安堵のため息を漏らした。
何もかもを背負い込み、自分の思いに適う家族はいないのだと勝手に決めつけていたが、総司の周りには多くの仲間がいる。総司はとっくの昔に一人立ちして大人になっていたのだ。
みつは「帰ります」と笑った。
「沖田さんに会って行かれないのですか?」
「ええ。少し気持ちを整理して…総司に伝えようと思います。今日のことは内密にしていただけますか?」
「勿論です」
二人が顔を見合わせて笑ったところに、女中は温かい焼きまんじゅうを持ってきた。みつは帰ろうと思って腰を浮かしていたのだが、甘い香りに引き付けられるように再び座った。
「ここのはとてもおいしいんですよ」
「いただきます」
(甘いものに目がないのは、やっぱり姉弟でいらっしゃる)
加也はくすっと笑ったのだった。







919


今日は風が暖かく、春の兆しを感じられた。
「試衛館に?」
珍しく早起きしたらしい土方が総司に試衛館へ行かないかと誘った。江戸に戻って一カ月経つがそう遠くはないのになかなか機会がなく足を運べていなかったのだ。
「俺はつまらない警護任務に飽き飽きしているし、お前も気晴らしに少しは出かけたほうがいいだろう」
「飽き飽きって、近藤先生が聞いたら怒りますよ」
「近藤先生なら寛永寺に張り切って出掛けたところだ。聞いちゃいない」
土方の言い草に総司は苦笑した。けれど試衛館には足を運びたいと思っていたし、姉とのことで煮詰まっているのも事実なので「わかりました」と了承した。
山野が同行を申し出たので彼と共に支度を整えて屯所を出たところ、土方はすでに駕籠を呼んでいた。しかも黒漆塗りの立派なあんぽつ駕籠だ。
(古巣に駕籠で乗り付けるなんて格好がつかない)
と思ったものの、土方と山野に問答無用で背中を押されて腰を下ろした。
「試衛館までそんなに離れてないのになぁ」
「いいから。具合が悪くなったら困るだろう」
「はいはい」
「あとでな」
駕籠が揺れ始め先に試衛館へと向かう。
庶民用の駕籠のなかで中級くらいの仕様の乗り心地であるあんぽつ駕籠には乗ったことがなかったので新鮮だ。総司は小窓を開けて江戸の町の様子を伺った。
鍛冶橋を出たあと北上し、江戸城を過ぎたあたりで左折して西へ向かう。試衛館に近づくに連れて馴染みのある光景が広がり、総司は目を細めた。
(懐かしいな…)
寺院や屋敷、大小様々な長屋がひしめき合い、かつて通った甘味屋、小間物屋、質屋などが点在している。石段や細道などの町並みは相変わらずそこにあって何も変わっていない。
変わってしまったのは自分たちの方だ。
(試衛館か…)
鍛治橋とさほど離れていないのに試衛館へ足を運ばなかったのは、懐かしさとともに寂しさを味わってしまうだろうとわかっていたからだ。
得たものもあれば、失ったものもある。
『忘れたって、消えやしない』
かつて、山南が切腹した夜に土方はそう言って励ましてくれた。山南の首を切り落とした感触はいまだにこの手のひらに残っているが、前へ進むために忘れることが必要だと己に言い聞かせて、今まで生きていた。
けれど普段は都合の悪いことから目を逸らして忘れてしまっていても、試衛館という場所はそれを許してくれず必ず思い出してしまう。部屋の片隅で本を読んでいた山南を、皆の輪の中で笑っていた藤堂を、そしていつも道場で若手の指導をしていた井上のことをーーーー。
「……」
駕籠の小窓を閉めてしまえば懐かしさという痛みから逃げることができる。けれど総司は敢えてそうせず目に焼き付けるように試衛館へ続くその景色を見つめたのだった。

駕籠を降りて相変わらず古びた門構えの前に立ち、総司はしばらくその姿を眺めていた。年季の入った『天然理心流道場 試衛館』の看板は人の出入りが少なくなったせいか少し寂しげだが、おそらく近藤の妻であるつねの手によって磨かれているおかげで褪せていない。
総司は何故だか一歩を踏み出すことが躊躇われた。
試衛館にいたのは無垢で明るく罪なき、健やかな青年だ。『人殺し』の自分が足を踏み入れる資格があるのか―――。
「…」
―――にゃぁん…
総司はハッと我に返って、辺りを見回した。目を凝らすと試衛館の庭に一匹の黒猫がいてこちらを見ている…総司はそれまでの躊躇いが一気に消え失せてその猫を追いかけた。
どうしても捕まえて、ここから遠ざけたい…どうしてだかそうしなければならない気がしたのだ。
「ま…っ!」
猫は逃げ出した。庭を駆けまわり、縁側の下に入り込んでしまう。総司は身体を丸めて暗く狭い縁の下を覗き込んだがその姿は遠くにあってとても手が届きそうにない。それに黒猫だと思ったのだが、白と黒と茶色の三毛猫だった。
(いったい僕は何をしているんだか…)
総司は無我夢中で猫を追いかけた自分に呆れながら頭を上げると、
「…お兄ちゃん?なにしてるの?」
「おたまちゃん…」
その様子を不思議そうに見ていたのは近藤の娘でここに住んでいるたまだった。たまはつねによく似た大きな眼を開いて首を傾げながら総司を見つめていた。十ほどになった少女は江戸に戻ってから一度医学所へ見舞いに来てくれていたので総司の姿を見ても悲鳴を上げることはなかったが、そうでなかったら勝手に家へ忍び込んだ不届者だ。
総司は土埃を払いながら立ち上がった。
「ごめん、驚かせて…」
「ううん。タヌキでもいた?」
「うん…まあ、そんなところかな」
たまは「そっかぁ」と納得してくれて毬を付き始める。すると騒ぎに気が付いたつねとあとからやって来た土方と山野が合流してようやく試衛館のなかに足を踏み入れた。
久しぶりの試衛館はとても狭く感じた。こんな場所で食客たちが四、五人も雑魚寝していたのかと思うと不思議なくらいだが、あの頃はここだけが自分たちの居場所であり帰る場所だった。だから試衛館には必ず誰かがいた…こんなに広間が静まり返っていることはなかった。
「…あの、周斎先生に手を合わせても宜しいですか」
「勿論です。お母上もいらっしゃいますから」
つねの後をついていくと、ふでが縁側に佇んでいた。ふでは総司に気がつくと小さく笑った。
「…おふでさん、御無沙汰をしています」
「ああ…随分やつれたね。でも、私も老けた」
「ふふ、お互い様ですね。先日は半纏をありがとうございました」
「ちゃんと温かくするんだよ」
「はい」
ふではまるで孫に接するかのように穏やかで、足腰を悪くして少し腰が曲がった姿はまるで昔の闊達としたふでとは別人のように老け込んでいた。伴侶を失って気落ちしているせいだろうか。
総司は土方と共に仏間に入って膝を折り、まだ真新しい周斎の位牌の前で手を合わせた。
(大先生…帰って参りました)
目を閉じて語りかけるものの、その先が続かない。思い出や土産話など話したいことはいっぱいあったはずなのに、いまはただ、
(不甲斐ない弟子で、申し訳ありません)
と周斎の期待に応えられなかったことを繰り返し詫びた。幼い頃に食い減らしとして下働きに出てきた総司の才能を認め、門下生に引き上げてくれることがなかったらまるで人生が違っていたのだ。
(天然理心流を盛り上げたいと思っていたのに…僕は教えてくださったことを無碍にしてしまいました)
「総司」
土方は手を合わせ続ける総司に声をかけた。
「何ですか?」
「…大先生の前でそんな顔をするな。心配させるだろう」
「そんなに変な顔をしてました?」
「まあな」
土方は総司の眉間のしわをぐりぐりと弄った。よほど渋い表情で手を合わせていたのだろう、総司は無意識に自分の顔が強張っていたことに気がついた。
土方は仏間を出ていったので総司もあとに続き、かつて寝床にしていた客間に移動する。
「どうぞ」
つねが茶を用意してくれたので腰を下ろした。試衛館に初めてやってきた山野はきょろきょろと辺りを見回して目を輝かせていた。
「ここがよくお話に聞いていた試衛館なのですね」
「そう。ここでみんなで食事をして、そこの縁側でよく原田さんが昼寝をしてましたねぇ」
「ここで…」
山野は嬉しそうに顔を綻ばせた。彼にとっては昔話の舞台のようなものなのだろう。つねが良く管理をしてくれているおかげでいつでも住める状態を保っていた。
つねはおずおずと
「土方先生、主人は…?」
と尋ねた。
「今日は寛永寺です。上様の警護のために」
「まあ…それは大変名誉なことです。主人はきっと意気込んでいるでしょう」
つねは夫が華々しく活躍していることを心の底から喜んでいるようだった。徳川のお膝元ではまたまだ負けるはずがないと信じきっている者が多いので、つねのような反応が普通だろう。
土方は愛想笑いを浮かべながら「それで」と話を変えた。
「近々、戦が起きるかもしれません。ここでは危険なのでどこかに身を寄せて欲しいと思っているのですが」
「戦ですか…」
「大きな街道から薩長軍が迫っています。身の危険があり、近藤先生もそのようにして欲しいと」
土方はあまり怖がらせないように端的に伝えた。土方はこの用件を伝えるために試衛館に足を運んだのだろう。つねは近藤の名前を聞くと表情がスッと真顔になって
「わかりました。義母上を説得して親戚に身を寄せることにします」
あまり深くは尋ねずに理解を示した。清水家右筆の家系から嫁いだつねは武士の妻としての心得が身についていて、昔から決して近藤の考えに背くことはない。
つねは茶菓子を振舞ってくれたが、総司は折を見てふらりと客間を抜け出した。そしてギシィギシィと道場へ向かう廊下が軋む音を懐かしみながら仏間とは反対側にある道場へ向かった。
「…懐かしいな…」
道場に一歩足を踏み入れた途端、思わず声が漏れた。
他の部屋と同じようにきれいに保たれていてすぐにでも稽古ができそうだ。何人もの門下生が踏みしめた焦げ茶色の床に、手汗の沁みついた柱、天然理心流の特別太い木刀と年季の入った防具が記憶にある光景と全く変わることなくそこに並んでいた。威勢の良い気合や息遣いが聞こえてきそうな雰囲気のなか総司はゆっくり上座に向かって座り、武芸の神である『鹿島大明神』『香取大明神』の対になって掲げられている二軸の掛軸を見つめた。
総司は両手をついて深々と一礼した。
在りし日の思い出が走馬灯にように蘇るが、そういえば試衛館にやって来た時の幼い自分はここで一人で生きていく覚悟だった。そして都へ向かうためにここを出て行ったときは二度と戻れない覚悟だった。
別の道を選ぶことができたのに、近藤や土方たちとともに出て行ったのは紛れもなく自分が選んだことだった。
その時の気持ちが流れ込んでくる。
(そうだ、僕が選んだことだ…)
例えもう一度生まれ変わっても同じ選択をしたはずだと思えるくらい、強く揺らがない覚悟だった。病に侵されたからと言ってあの頃の自分がこの選択を取りやめることなどあるはずはなく、後悔などない。
(だったらたとえ一人で孤独に死ぬとしても…本望じゃないか)
道場という神聖な場所のおかげなのか、考え込んでいたことがすっと身体から消えていくようにあっさりと答えが出た。武芸の神の前で心が洗われたようで考えていたことがとても単純なことなのだと気づかされたのだ。
総司はフッと小さく笑って
「…もっと強くなります」
と誓った。
剣を置いて修行の旅は終えたのだと過信していたのだが、そうではない。この命が尽きる時まで振り向かず精進し、歩き続けなければならないのだ―――。
総司が正座したまま目を閉じていると、ギシィギシィと足音が聞こえてきた。その音だけで誰が来たのかなんてすぐにわかる。
「どうした?」
「…いえ。山野君は?」
「おたまの相手をしている」
「そうですか…」
土方は総司の隣に腰を下ろして同じように正座して頭を下げた。そして一息ついた後に総司の横顔を見て笑った。
「…すっきりした顔をしているな」
「土方さんには何でもお見通しですね。…でも試衛館に来て良かったです。懐かしさは痛みだと恐れていたけれど…そうではなく、ここで刻んだ思い出があってこその今ですから」
「…ああ、そうだな」
総司は土方の腕に触れた。
「…私はきっと生まれ変わっても、ここに来ます」
「総司…」
「だから歳三さんもここに来てください」
土方の表情は一瞬険しくなったが、総司は穏やかに微笑みかけると次第に和らいでいった。
この先を悲観して別れを告げたわけではなく、ただここで過ごした自分たちと今の自分たちを肯定し、次の人生があるならばここで会いたいというだけの願いだった。
「ああ…わかった」
土方は頷いて、総司の手に自分のそれを包み込むように重ねたのだった。








920


甲州へ向かわせていた大石たちが鍛治橋の屯所に戻って来たのは、二月二十二日の朝方ことだった。
近藤は逸る気持ちが抑えきれないようですぐに大石を呼び出すと、報告をさせた。
大石によると甲府勤番のほとんどがが江戸に戻ってしまい甲府城はもぬけの殻となり、数人が警備を務めるだけだという。領民たちもそんな甲府城の噂を聞きつけて逃げ出していて、城周辺はどこか閑散としていたそうだ。
「…官軍はどのあたりまで迫っていそうだ?」
「具体的にはわかりませんが、敵軍の大将は板垣退助というそうで甲斐源氏の流れを汲む武田家家臣の板垣家の末裔だという噂が領民の間に広まっていました」
「板垣退助…?知らぬ名だ。土方君は?」
「いや…」
近藤の問いかけに土方も首を横に振った。こういう時、長らく監察方を務めた山崎なら当てがあるのだろうが、彼ほどの知識と人脈を持つ監察方は残念ながら残っていない。だが、まだ具体的に官軍が迫っているわけでもないのにそういう噂だけが流れている理由はすぐに思い至った。
「…実際に末裔かどうかはともかく、甲斐武田家ゆかりの末裔が新たな支配者だと領民に知らせれば熱烈な支持を得られるだろう。先んじて噂を流しているということはやはり官軍も甲府城を狙っていると考えるべきだ。…近藤先生、早めに勝先生にご報告した方が良い」
「ああ、そうだな。座視しているだけでは取り返しのつかないことになる。大石君ご苦労だった」
「はい」
近藤は端的に大石を労った後は自室としている部屋に足早に向かった。残った土方は
「大石、甲府城までは何日かかった?」
と訊ねた。
「急ぎ足で二日でしょうか」
「近藤先生の怪我と人数を鑑みて…三日だな」
「はい」
大石は身軽な三人で甲府に残り込んだため早く到着できるが、新撰組だけでなく浅草弾右衛門の軍も加わり、武器大砲を運ぶとなればそう簡単には着かないだろう。土方はすでに頭のなかに叩き込んだ地図を広げ計算するが、もっとかかる可能性もある。
(早く、向かわねぇとな…)
近藤の逸る気持ちが伝染するように、土方も心臓の音が高鳴るようだった。


早速、近藤が甲府城に関する建白書を書き上げて江戸城へ向かったあと。
「こんにちは、御無沙汰をしております」
「林太郎さん…」
穏やかな笑みを浮かべた林太郎一家が訪ねて来た。皆旅装をしており門の外には大八車が置いてあるので、彼らを迎えた土方はすぐに事情を察した。
「まさか…庄内へ?」
「ええ、これから発ちます。急なことでバタバタとしてご挨拶が遅れました」
「今日ですか。…どうぞ、お上がりください」
土方が誘い、四人は総司の部屋を訪れた。先日試衛館から戻って少し寝込んでいた総司だが、一家がやって来たと知りすぐに体を起こして身支度をした。
久しぶりに会う林太郎は相変わらず仏のような柔和な様子だったが、挨拶もそこそこに用件を告げる。
「総司、これから庄内に行くことになった」
「…これからですか?」
「ああ。庄内藩お預かりの新徴組として国元で戦支度を整えることになるんだ」
総司は林太郎から突然別れを告げられて少し呆然とした。
林太郎とは対照的に、あの試合以来の顔を合わせ緊張している嫡男の芳次郎がいて、娘のくまは幼子故に何もわかっていないがいつもとちがうことを察しているのか落ち着かず、母であるみつに甘えるように縋りついていた。
総司はみつへどんな態度をすれば良いのかと思っていたけれど、みつの方は案外とすっきりとした表情だった。
総司はまず義兄である林太郎へ頭を下げた。
「…義兄さん、これまで大変お世話になりました。没落していた沖田家のために義兄さんが尽力してくださっていたこと…これまで機会がなくてなかなか伝えることが叶いませんでしたが、とても感謝しています」
林太郎は総司が幼い頃にみつと一緒になり入り婿となって沖田家を守ってくれた恩人である。総司が嫡男という立場を忘れて好き勝手に人生を歩んできたのも、林太郎という大黒柱が沖田家を守っていてくれているからだということは良くわかっているつもりだ。しかし林太郎は仏のような笑みを浮かべた。
「何を別れのようなことを。確かに庄内は遠いが陸続きの国だよ。それに戦に勝利すればすぐに江戸に戻ると聞いている…きっとまた会えるよ」
「…はい」
林太郎の前向きな所は姉とは正反対だが、そんな懐の広い義兄だからこそ生真面目で融通が利かない姉とともに歩んで来られたのかもしれない。
すると林太郎は土方へ視線を向けた。
「宜しければ皆さんへ挨拶をさせていただいても?」
「勿論です」
気を利かせた林太郎はくまを抱き上げて芳次郎とともに部屋を出て行き、土方も意図を汲み取って去っていった。
賑やかだった客間は総司とみつだけになり、あっという間に静かになる。居心地の悪い沈黙に耐えきれず、
「…姉さん、あの…」
と総司から切り出したが、姉は首を横に振った。
「ごめんなさい、この間は…言い過ぎました。貴方が私たち家族を慮ってくれたのに自分の勝手な思いをぶつけてしまって。…先走って悪い方へ考えるのはお前の悪い癖だと主人にも叱られました」
「義兄さんが…」
以前、芳次郎は母が一方的に怒るだけで喧嘩にはならないのだと言っていたが、今回は林太郎の方がみつに言い聞かせたそうだ。
みつは居住まいを正した。
「…断られるのはわかっているけれど…ともに庄内に来るのはどう?身寄りはないけれど、江戸よりは静かな暮らしができると思うわ」
「姉さん、それは考えられないよ」
総司は即答した。新撰組を離れることになったとしてもそのような遠くに行くつもりはない。もちろんみつは前置き通り理解していて「そうよね」と頷いた。
「独りよがりの勝手な言い分だわ。でも…それくらい家族として心配していることはわかってほしいの。おキンはもう長岡に旅立ってしまったけれど…おキンだってあなたのことを案じていた。戦が終わって、江戸の戻ったら必ず顔を見に行くと言っていたわ」
「…姉さんたちが心配するのは当然だと思う。今後の身の振り方だってどうなるかわからないし、姉さんが傍にいてくれれば安心できるかもしれない。でも…やっぱり、ここを離れられない。諦められるまでここにいたいんだよ」
「…わかっているわ」
みつは残念そうではあったが理解を示してくれた。
今度は総司は頭を下げた。
「この間は…私も考えなしでした。姉さんの気持ちを考えず、簡単に『大丈夫』だなんて。…でも、私のことよりも義兄さんや芳次郎たちのことに気を配ってほしいだけなんだよ。私には支えてくれる人がこちらにたくさんいるから、姉さんが心配するほど一人ぼっちにはならない。…それに、もうとっくに覚悟はできていたんだ」
「それは…家を出た時に…?」
幼少の頃から孤独に耐えていたのかとみつは案じ、総司は小さく頷いた。
「…確かに、家を出て一人で生きていかないといけないって幼い頃に思い込んだ。でも食客のみんなと過ごしてそうじゃないってわかって…試衛館を出て、都に行った時にもう戻れないかもしれない、と思った。正直に言うと…姉さんたちのことを考えていなかった。自分だけで好きなように生きて、近藤先生の為に死ぬんだって決めつけてたんだ。一本の剣として死ねれば本望だって。だからむしろこうして江戸に戻って姉さんと時間を過ごせるなんて思ってもみなかったんだよ。…姉さんと本音で話ができて、最後の挨拶が交わせて良かったと思ってる」
「…最後?」
「うん…最後だよ」
みつは顔を顰めたが、総司は今日この時からみつに会えないだろうと予感していた。だからこそみつに伝えておくことがあった。
「姉さん、私を試衛館に遣ってくれてありがとう。おかげでかけがえのない仲間と、一番大切な人に出会えました。姉さんが送り出してくれなければ、私はどうしようもない人生を送っていたと思う。こんなに満たされた気持ちでいられなかった。…姉さん、どうか幸せに。長生きしてください」
「総司…」
みつの頬に堪えていた涙がすっと流れた。
距離のあった姉や血の繋がった甥や姪とたった数日とはいえ家族のように過ごせたことは、総司の人生にとって欠けていた何かを埋めることになったのだ。
両手で顔を覆いさめざめと泣くみつは、総司にとって姉であり、母であった。
「母上?どおしたの」
屯所を一回りしてきた土方と林太郎たちが戻って来た。くまは母親が泣いている姿など見たことがなかったのだろう、目を丸くして不思議そうにしていた。林太郎は懐紙を差し出してみつに寄り添った。
「芳次郎」
総司は甥の芳次郎を呼んだ。芳次郎は先日の件が尾を引いていて少し躊躇っていたが、手招きされるままに総司の前に膝を折った。そして総司は枕元に置いていた刀を芳次郎に差し出した。
「これは加州清光。私が近藤先生から頂いた刀です。…芳次郎に託します」
「え?でも…そんな大事なもの…」
芳次郎は刀を受け取ったものの戸惑っていたが、総司は苦笑した。
「大層なものじゃないよ。正直に言うと一度使い物にならなくなったんだけど、どうにか鍛えなおしてもらったんだ。だからまた使えなくなるかもしれないし、すぐに折れてしまうかも。頼りないけど…でも、ずっと一緒にいた相棒なんだ」
加州清光は浪士組出立の際、持参した刀で近藤と約束を交わしたものでもある。けれど河上との斬り合いで消耗して使い物にならなくなり、斉藤から大和守安定を贈られて以来はそちらを携えていた。もちろん近藤が贈ってくれた加州清光への思いは強いが、いつまでも自分が持っておくべきものとは思えず、将来のある芳次郎に託したかったのだ。
「近藤先生にお許しはいただいてます。先生も私と血がつながった芳次郎が継いでくれると喜んでいたから…まあ、芳次郎の荷物になるかもしれないけど、受け取ってくれたら…」
「荷物なんてことない!」
芳次郎は声を上げた。あまりに大きな声だったので芳次郎自身が恥ずかしそうに顔を赤らめていたが、加州清光をぎゅっと握った。
「…きっとこの刀を見るたびに叔父さんのことを思い出す。叔父さんの剣術のことだけじゃない、叔父さんのやってきたことや言われたことも…きっと思い出せる」
「芳次郎…」
「オレ、まだ何もわかっていなかった。皆に褒められて、天狗になっていたんだ…それがこの間良く分かった。だから庄内で父上の元で鍛え直して、新徴組で手柄あげて…その後、また入隊試験を受けていい?」
「…いいよ。皆、喜ぶと思う」
芳次郎は嬉しそうに笑った。不愛想な年頃の芳次郎が心から笑う顔はまだまだあどけなくて可愛らしくて、くまのそれに似ていた。
(この子がどんな剣士になるのかわからないけれど…きっと強くなる)
総司は確信していた。彼のなかにほんの少しだけ自分の姿を重ねてきたからだ。
みつは懐紙で目元を拭いようやく落ち着いたようだ。そして
「…文を出します。必ず、返事なさい」
と毅然と言った。武家の子として厳しく、真面目で、礼節を重んじる…相変わらずの姉らしい物言いに総司は吹き出して笑ってしまった。
「ハハ…はい、わかりました」
「本当に?貴方は梨の礫ですからね」
「確かに約束はできないけれど、努力します」
総司の正直な答えに、今度は姉たちは笑ったのだった。


一家はその後、大八車をガラガラと引いて屯所を去っていった。門まで見送りに来た土方と総司はあまり大袈裟にせず、またすぐに会えるような気軽さで手を振って姉たちと別れた。
姿が見えなくなるまで見送って、
「良かったな」
と土方が言った。
「…ええ、良かったです。おかげで胸の閊えが取れました。これでお加也さんに叱られないで済みます」
もちろん淋しさはあったが、これが本当に最後の機会だとしたら姉弟の蟠りがなく別れることができて良かった、とそちらの思いの方が大きかったのだ。
二人は再び屯所に戻ろうと踏み出した。
しかし、
「ゲホッ!」
総司は急に身体の力が抜けるように片膝をついてその場に座り込んだ。土方はすぐに肩を寄せて「大丈夫か?」と背中を摩るが、その後も大きな咳を繰り返し総司が口元に当てた手のひらからはボタボタと血が地面へと流れ落ちていく。
「総司…総司!」
「ゲホッエホッ…!」
土方の呼びかけに答えられないほど、総司は青ざめ息苦しく咳を続けた。身体中の血が全部流れ出てしまうのではないかというほど喀血し、その場は小さな水たまりのようになった。今までで一番吐き出していた。
騒ぎを聞きつけた山野が駆け込んできた。
「先生!落ち着いて、息をゆっくりと吸って、吐いて…!」
「ゲホッゲホッ…!」
「総司!」
土方と山野の悲鳴のような声が響くなか、総司はゆっくりと意識を失いそのまま倒れ込んだのだった。







































解説
912 品川楼での喧嘩については、花魁を総揚げし三日三晩居続けした永倉が三人の侍(どこの藩かは不明)と喧嘩になり、一人斬り伏せてしまったそうです。永倉はその際目元に軽い傷を負い、土方に見咎められ苦笑されたとのことです。


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