わらべうた




921


江戸城から戻る道中、近藤は局長附の相馬からの報告で総司が喀血して意識を失ったことを知った。相馬の深刻な表情でいつものそれとは違うようだと察し急いで鍛冶橋の屯所に戻ったところ、待ち受けていた永倉と原田から詳細を知らされた。
「医学所の松本先生はどうしても手が離せなかったそうで、弟子を何人か遣わせてくれて英も駆けつけました。一時は危ないかもしれないと慌ただしかったんですが」
「今は落ち着いて寝てるってよ。弟子の先生たちも英だけ残して帰って、いまは土方さんが傍についてる」
「そ、そうか…」
屯所では嵐が去った後だったようだ。しかし近藤はまだ動悸が収まらずどうにか無事を確認したくて顔を見に行こうとしたが、原田が
「やめておいた方が良いんじゃねえかな。いまは…」
と引き止めた。
「何故だ?」
「土方さんが悲壮な顔をしてたぜ。一言も喋らずになんか考え込んで…総司の目が覚めるまで二人きりにしてやろうって、俺たちもこうやって遠巻きに様子を窺ってるんだ」
「…よほど、酷い喀血だったんだな…」
近藤は彼らとともに別室に移り、腰を下ろした。
江戸に戻ってからは馴染みある土地で養生に努めていたおかげで総司が喀血する場面を見る機会はさほどなかったが、しかし近藤自身が慌ただしくいろいろな場所に出入りしていたので、気が付かなかっただけなのかもしれない。
(俺は何もわかっていなかったな…)
近藤は前に進むことばかりに囚われて、周りが見えていなかったことを反省した。
永倉は火鉢を寄せながら口を開いた。
「俺もその場にいたわけではありませんが…青ざめた山野がやってきて総司が倒れたというので駆けつけた時には、もう血まみれで」
「びっくりしたよなあ。むしろ誰かに斬られたのかってそんな有様だったから、敵襲じゃないかって騒ぎになったくらいだ」
「…」
近藤は二人の語る惨状に絶句しつつ、思わずため息を付きながら
「そんなに進行しているのか…甲府まで持たないんじゃ…」
と漏らした。
「甲府?」
「…うん、勝先生からご命令でな」
永倉は目ざとく尋ねられたが、近藤はまだ憚りのある話だったため曖昧に濁した。しかし彼は納得せず食い下がった。
「新撰組が甲府へ向かうということですか?」
「…そういうことになる」
「何のためにです?」
「…」
…教えてください、我々は同志でしょう」
近藤が話したがらないのは土方と相談の上で永倉たちに話、その後公表しようと考えていたためだが、永倉が強く尋ねるので(もう決まったようなものか…)と打ち明けることにした。


数刻前。
近藤が勝の元へ報告書を携えて向かうと、勝はその報告書に目を通すや否やすぐに
「新撰組は二十五日付で寛永寺の警護任務を解く。その後は支度を整え甲府へ向かい、鎮撫に勤めるように」
勝の周到な命令を聞き、近藤がやってくる以前にその決定が為されていたのだろうと察した。近藤もすでに覚悟していたので驚きはしなかった。
「…かしこまりました」
「念のため言っておくが戦をするのではない、あくまで治めるのだ」
新撰組の荒っぽいイメージがそうさせているのだろう、勝は「よいな?」と言い聞かせるように念押しした。
だが近藤は首を傾げた。
「…しかし、官軍が甲州街道を通り江戸へと進軍しています。こちらは手を出さぬとも、あちらはそうとは限りませぬ。戦をしてはならぬとは一体…」
「融通の利かぬ奴だ」
勝は苦笑した。そして肩を竦めつつ立ち上がると近藤の近くにやってきて片膝をつき、声を潜めた。
「江戸近辺で諸隊が脱走しているだろう。旗本や水戸の奴らに企みがあって官軍に戦を仕掛けようとしているのも知ってるが、俺ァ奴らを引き止めはしない。憎き官軍に一泡吹かせたいって気持ちは俺だってわかるからな。…だが上様が恭順を示し、俺がその旗振り役を務める以上は『戦をして来い』なんて言えるはずがねぇだろうよ」
「…」
「…つまり暗黙の了解ってやつだ。止めやしないし、金も出す、支援もする。だが表向きはあくまで勝手に戦をしていることにしてるんだ。だからお前たちにも甲府城を接収せよとだけ命じるが、官軍が仕掛けてくるのならもちろん応戦するべきである…そういうことだ、わかったか?」
「はっ…承知いたしました!」
勝は近藤に言葉の真意を理解しろと言いつけて、元の場所に戻って座った。この場に土方がいたならばすぐに理解して勝へ問い返すような真似はしなかっただろうが、近藤は明確な指示を貰える方が心置きなく甲府へ向かうことができると思ったのだ。
勝は大砲八門、元込銃三百挺、弾薬を支給することを約束し軍資金も出すと話した。そしてさっさと近藤を下がらせようとしたのだが、
「…勝先生、甲府城接収に成功した暁には褒美として私を甲府城代に任命いただけますか?」
と近藤が言い出したので目を丸くした。
「…へぇ、城代か。大きく出たな」
「甲府城は旗本の番城。私にもその資格がありますれば」
「ハハ…確かにその通りだが、お前さんにはちょいと分不相応だとは思わねえか?」
勝は問い返す。近藤は浪士から直参にのし上がったと言ってもその身分は農民に過ぎないことを知っていて、遠回しに釘を刺したかったのだろう。けれど近藤にとってその揶揄は聞き慣れた周囲の常套句に過ぎず、もはや恥辱でもない。
「確かに私自身はしがない田舎道場主で、それは一生変らぬ事実です。しかしながら新撰組は違います。これまでの騒乱のなかで恥じぬ働きをし功を上げ…幕臣に引き立てられるべきであったのだと自負しております」
「まあ、そうかもな。我関せず、日和見だった奴らに比べれば」
「古来より戦に出陣し、勝利すれば褒美を得ることができます。甲府城代の座が空いているならば是非」
近藤は深く頭を下げた。現に城代として任じられた者たちは官軍に恭順し、辞任したため空席のままなのだ。
分不相応ではないが、過大な要求をしている自覚はあった。けれど交渉を優位に進めるためには強気に出ることも必要であり、また敗戦で士気が下がっている隊士たちのためには何か褒美が必要だという思いで言い出したのだ。もちろん勝にこっ酷く拒否される覚悟はあったのだが、意外にも勝は口調を変えて「おもしれぇ」と笑った。
「そうだな…じゃあお前が十万石、土方は五万石、その下の奴らには三万石…平隊士には千石ってぇのはどうだ?」
「! なんと…!お約束いただけるのですか…!」
「ああ。甲府城は江戸防衛のために必要不可欠な要所だ、それくらいの褒美には値する。無事に接収できた暁にはくれてやるさ」
「ありがとうございます!我ら身命を賭して相勤めまする…!」
近藤は感激し、深く深く頭を下げたのだった。


「近藤先生、それは勝安房守に踊らされているだけです」
近藤にはっきりと苦言を呈したのは、生真面目な永倉ではなく感情的な原田でもなく伊庭だった。三人は突然顔を出した伊庭に驚いた。
「伊庭君、聞いていたのか?」
「ええ、途中からですが。沖田さんの見舞いにきたところとても面会できる状況でないと知り、出直そうとしたところ興味深いお話が聞こえてきましたので、つい…」
「まったく…盗み聞きなんて、食客同然のお前だから許されるんだぜ?」
原田が半ば呆れながら苦笑する。伊庭は「偶然ですよ」と言いながら三人の輪に自然と加わった。試衛館にいた頃、伊庭がふらりとやってきて山南を中心とした尊皇だ佐幕だという議論に加わっていたので違和感はない。
「近藤先生はご存じのこととは思いますが、勝安房守の目的は二つあって上様のお命を死守することと、江戸を中心として徳川の直轄領を守ることです。周りには武備恭順策などと言っているようですが、表面上は恭順を示しながら、裏では暗黙の承認や支援をして諸隊の脱走と抗戦を黙認しています」
「…俺には悪い策とは思えぬ。徳川軍が兵を退いて息を潜めたところで官軍に蹂躙されるだけだ。各地で戦をさせて足止めし、官軍との交渉を有利に進めるのは勝先生の任務であろう」
「しかし、見聞が広く西国の事情をよく知っている安房守なら脱走した諸隊がどれほど懸命に戦ったところで官軍に全く歯が立たないことを見越しているはずです。それなのに金と武器を与えて彼らの背中を押している…それは勝とうが負けようがどちらでもよく、ひとえに主戦派を江戸から追い払うために違いありません」
「おいおい、じゃあ俺たちは邪魔者扱いってことかよ!」
原田は声を荒げたが、伊庭は冷静で
「武器を捨てて恭順する者以外は皆、邪魔者ですよ。俺も同じです。だからこそ邪魔者たちは邪魔者同士で集まり、一致団結して戦を仕掛けるべきだと榎本先生と相談しています」
「…榎本先生は船を降りる前から継続して官軍に抵抗すべきだとおっしゃっていた。あの方は揺らがぬな…」
「俺も同じ考えです。…近藤先生、『恭順のための戦』などどこにもありません。むしろ使い勝手の良い駒として無暗に戦地へ送られるだけです。その、何万石という褒美の話も捕らぬ狸の皮算用…安房守に踊らされて無駄死にしてどうするのですか」
伊庭の眼差しは真っすぐに近藤へ向けられはっきりと責めていた。今まで伊庭はあくまで客人として一歩引いた立場で接していたため、議論には加わっても近藤に意見することはなかったが、よほど勝の方針に不満があるのか近藤の考えに踏み込んで意見したのだ。
永倉はじっと表情を変えずに近藤の反応を窺い、原田は苦虫を嚙み潰したような苦い顔でただ唸っていた。しかし近藤はあまり表情を変えず、ゆっくりと口を開いた。
「…伊庭君、では甲府城は放棄し官軍に明け渡しても良いと思うか?我々が向かわなければあっさりと敵の手に落ちるだろう」
「それは…」
それまで饒舌に語っていた伊庭が言葉を濁らせた。甲府城は甲州街道で江戸の半蔵門と繋がる江戸防衛の要所であることは江戸っ子の彼もわかっているのだ。しかも四方を山河で囲まれた要塞であり、一度占拠されれば奪還は難しいだろう。
「…勝先生の思惑は伊庭君の言う通りかもしれぬ。恭順策を推し進めるにあたり、抗戦派たちは妨げとなろう…勝先生は内心、新撰組は交渉の障りだと思っているのかもしれないなぁ」
「勝安房守は二枚舌だともっぱらの評判です」
「安心してくれ、俺は上に立つ人間はそういう者だとわかっているし、勝先生に仕えているつもりはない。新撰組が仕えているのはあくまで寛永寺の上様のみ。そして甲府行きは江戸へ向かう官軍の進軍を阻止するために必要なことだと」
近藤がはっきり答えると、伊庭はグッと唇を噛んだ。将軍職を降りて謹慎をしてしまった武家の棟梁について、伊庭は近藤ほどはっきりと『主君だ』とは言えない複雑な心境なのだ。けれど近藤にとっては自分を引き上げてくれた恩ある主君であることは間違いなく、主君を見切るという選択すら頭にない。
「むしろ俺は勝先生がこの任務を授けてくださったことを有難く思っている。甲州街道沿いには俺たちの故郷がある…家族や、友人、知人、門下生たちが多く住まう場所を守る栄誉を与えてくださったんだ」
「…」
「伊庭君、忠告は感謝する。だが、今回の任務は新撰組にとって…いや、俺にとっては悪い話じゃないんだよ。故郷に錦を飾るではないが、今までの戦とは意味が違う。たとえ勝先生のご命令がなくとも出陣していただろう」
伊庭は言葉が無くなってしまったように押し黙ったが、近藤は視線を永倉へと移した。
「…永倉君はどうだ?」
「俺、ですか」
「さっきから何も喋らないじゃないか、君らしくない」
「…」
いつもなら一言二言、自分の考えを述べる永倉だが厳しい表情のままずっと黙っていた。咳ばらいを一つして、重たい口を開く。
「俺は…勝安房守の焦土作戦の噂を耳にして内心憤慨していました。真偽はどうであれ目的を果たすために手段を選ばないのだろう…安房守が抗戦派を追い出すために画策しているという伊庭君の話も腑に落ちましたし、そういう扱いをされるのは不本意です。…だが、甲府城を官軍に占拠されるのが非常に拙いのは事実です。誰かがやらねばならぬ戦なら、俺たちが行く…俺も食客として世話になっていますから、局長が決意している以上従います」
「永倉君…」
「俺は…自分がやるべきだと思うことを選び、信じるべきだと思うことを信じます」
(それが上様なのか、局長なのか、自分なのか…進むべき道を見極めたい)
永倉は早々に答えを出すことを避けたいと考えていたが、伊庭は「参りました」と諸手を上げて降参のポーズをとりながら苦笑した。
「歳さんを説得する以上に近藤先生を口説く方が難しい」
「お前、そりゃぁ当たり前だろうよ、相手が悪いぜ」
原田は笑い飛ばした。忠誠心の塊のような近藤へ命令に背くように頼んだところで糠に釘だ。
「榎本先生は新撰組を是非仲間に引き入れたいとお考えだったんですがねぇ。特にあの御仁は歳さんがお気に入りみたいで全然諦めてませんよ」
「ハハ、何度か話には聞いているが…歳は誰よりも俺の考えを理解している。残念ながら徒労に終わるだろう」
「伝えておきます」
伊庭が力を抜いて笑ったところへ、英の助手として総司の看病をしている山野がやって来た。








922


長い間、総司は深く眠ったまま目を覚まさなかった。
突然の喀血は今までにないものであった。傍らにいた土方は頭が真っ白になり名前を呼ぶことしかできずに動揺したが、山野が半狂乱になりつつも人を呼び、英たちの懸命の処置により一旦は落ち着いた。ゆっくりと上下する胸を見てこんなに安堵したことはないが、重たく閉じた瞼がピクリともせず動かない様子を見ていると、まるでこのまま二度と目を覚まさないのではないか…土方にはそんな悪い想像しかできなかったのだ。
一度、山野が近藤たちを呼びに行き医者たちが詳しい状況を説明したが、土方の耳には入らずひたすら総司の真っ青な顔色を見つめていた。
そして医者たちが戻って行き、日が暮れて夜になった。
「土方副長、少し休んだ方が良い」
新撰組お抱えの医者として英は何度か声を掛けたが、土方は「ああ」と気のない返事をするばかりでそこを動こうとはしなかった。せめて少しでも瞼が開くまでは…と待ち続けていたのだ。英は土方の体調を気にかけていたのだが、傍を離れたくないという気持ちは理解できたためあまり強くは言わなかった。総司の脈を取り、聴診器を当てた。変わりなく刻まれる鼓動に英は一息ついた。
「そのうち目が覚めると思う。…明日には松本先生が来て下さるから」
「来たら……」
「え?」
「来たら、治るのか?少しでも良くなるか…?」
「…」
英は答えられなかった。一旦落ち着いたと言えども誰の目から見ても総司の病状が悪化していることは明らかなのに、気休めの言葉を口にしたところでそれが何の意味もないことはすぐにわかってしまうだろう。
すると土方は「悪い」と弱音を吐いたことを謝り、小さく苦笑した。
「こんなことを聞かれても困るよな…忘れてくれ。松本先生が来てくださったら心強いのは間違いない」
「…歳さん」
英は敢えて昔の呼び方を口にして訊ねた。
「沖田さんをどこまで連れて行くつもり?このまま新撰組に置いておく?」
「…次の戦には連れて行くと約束した」
「戦って…」
鳥羽伏見の戦を体験した英は(そんなことできるはずがない)と率直に思った。体力も落ち、ついていけるかどうかもわからず喀血すればそのまま死ぬこともある…そんな状態で戦に行って何ができるというのか。
もちろん英が考えていることは土方も良くわかっていた。
「お前が言いたいことはわかってる。だが…これだけは譲れない。俺と総司が決めたことだ、お前に反対されようとも背負ってでも連れて行く。近藤先生が『終わりだ』というまでは…約束したからな」
「…」
土方の真摯な表情を見て、英は言いかけた言葉を噤んだ。
二人の間には生き延びたいという気持ちはない。残り少ない時間をどう過ごし、どうやって命を燃やすのか…覚悟を決めて道を選んでいる。
(医者としては少し寂しいけれど…それがこの人たちの生き方なのだろう)
「…反対なんてしないよ。できないかもしれないけれど、手助けはする」
次の戦に行くと二人が決めているのなら、それを助けるのは自分の役目だと英は悟っていた。どこまで保つのかわからないが、本人たちが納得して心置きなく戦場を去ることができるならこれに越したことはない。
「ああ…頼む」
土方が少しだけ安堵の表情を浮かべたところに、斉藤がやってきた。眠り続ける総司を見て少しだけ顔を顰めたがすぐに淡々としたいつもの表情に戻した。
「副長、近藤局長からのご命令です。交替しましょう」
「…」
「安房守から甲州行きの命が下ったそうです。早急に今後の算段を話し合いたいとおっしゃっいました」
近藤が敢えて命令という形で伝言させたのは、そうでもしないと幼馴染が梃子でもここを動かないとわかっていたからだろう。それに甲州行きについて早めに動かなければならないのは土方もわかっているのだ。しかしどうしてもここを動く気になれずに
「…明日にしてくれと伝えてくれ」
と拒んだ。総司が目を覚ますまでここを動くつもりはなかったのだ。
斉藤は英を一瞥して席を外させ、土方の隣に腰を下ろした。
「先ほどの話…聞いていました」
斉藤は立ち聞きしていたことを素直に白状した。
「…お前は反対するか?」
「…」
斉藤にしては珍しく返答を迷っているようだった。自分の考えより、総司の思いを優先するならばこの先の戦…甲州へ同行させることになるだろう。けれど意識を失い倒れている姿を間近にすればそれがどれほど現実的ではないのか誰にでもわかる。
斉藤は少し黙り込んだ後に口を開いた。
「俺は二人の判断に任せます。…他人事という意味ではなく、そうして欲しいと思うからです」
斉藤は抑揚のない言い方をしたが、二人を慮る言葉を告げた。土方にはそれが少し意外だったが斉藤は斉藤なりに理由があるようだ。
「…以前、沖田さんに聞きました。喀血した後に長く眠って目覚めた時に、傍らに誰もいないことが恐ろしいと。自分が生きているのか死んでいるのかわからない…だから目が覚めた時に誰かがいてほしいと、はっきりとは言いませんてましたがそんな風に話していました」
「そんなことを言っていたのか…」
総司は土方の前では明るく振舞うことが多く促さない限り簡単には弱音を漏らすことはないけれど、斉藤の前では土方とは違う弱さをさらけ出している。以前なら土方は複雑に思っただろうが、いまは自分以外に吐露する相手がいることの安心感がまさった。
斉藤は続けた。
「俺には思いもよらないことでした。その時はそんな当たり前で簡単なことならば誰でも叶えられるだろうと思いましたが…案外難しいことです」
「…そうだな」
今はこうしてずっと傍にいられるが戦時ともなればそうはいかない。他者からは些細だと思われるような孤独でも、いまの総司にとっては大きな恐怖なのだ。
「隊を離れて養生するのはいつでもできます。けれど新撰組にいるということ自体が励みになるのなら、好きなだけいればいいと思う。それを足手纏いだと思う隊士はいないでしょう。…ですから、もっと周囲を頼ったらいかがですか」
「…そうだな」
斉藤の言うことはもっともだ。
土方は身体を反らせ背伸びをした。長く同じ姿勢でいたせいで身体が軋んだが、少し気が晴れた。自分だけで抱え込んでいた憂いを英や斉藤に話したおかげだろう。
(俺一人でこうしていても…何も良いことはない)
目が覚めた総司に叱られるだろう。
「近藤先生のところに行ってくる。あとは任せた」
「はい」
土方は半日ぶりに総司の部屋を出た。


近藤は総司を心配していたが、土方が明日松本が来訪することを話すと
「有難いことだ。きっと良くなるだろう」
と喜んだ。幼馴染の前向きな姿を目の当たりにすると、土方は改めて自分が塞ぎこんでいるわけにはいかないのだと奮い立つような気持ちになった。
「それで…安房守のご命令は?」
「ああ。二十五日付で新撰組は寛永寺の警護任務を解かれることになる。支度が整い次第出立し、甲府城の接収を果たす」
「わかった。弾左衛門にも伝えておく」
想像通りの内容に土方は頷いた。浅草弾左衛門は身分の引き上げを条件に、戦時には兵を出す約束を交わしている。早速出番となるようだ。
「今後は永井様と段取りについてご相談することになるだろうが、早急に出立するつもりだ。…そういえば、さっきまで伊庭君が来ていたぞ。見舞いに来たようだが総司が倒れたと知って出直すと言っていた」
「そうか、間が悪かったな…何か話したのか?」
土方が何気なく尋ねると、近藤は苦笑した。
「伊庭君はよほど安房守を厭うてるようだな。甲州行きの話をしていると俺たちが踊らされているだとか安房守は二枚舌だとか、散々な物言いだったよ。まあ彼の言いたいこともわかるし、幕臣たちはほとんど同じように思っているだろうけどな」
「…安房守が信用できるかどうかはわからねえが、あいつの方こそ人が変わったようだ。少し前まで忠臣なら黙って従うべきなんて言っていたくせに、上様が大政を返上した途端、態度が変わって…焦ってるように見える」
普段は年下のくせに達観した物言いをしていたからこそ、今の伊庭は火がついたように抗戦を訴えている。上様ではなく『徳川』に仕えると決めた者は抗戦一択なのだ。
近藤は頷いた。
「伊庭君の徳川への忠誠心は俺たちと同じだが、ほんの少し考え方が違うだけだよ。対立する必要はない」
「…そうだな」
歯痒いと思われても、近藤にとっての忠義の形は変わらない。誰に何を言われてもどんな悪意に晒されてもそれを貫くだろう。
すると突然、近藤は思い出したように笑った。
「ハハ…作戦に成功したら甲府城を頂けるそうだ」
「……へぇ?」
「俺は十万石、お前は五万石、助勤には三万石…平隊士には千石。安房守とそんな話をした」
「悪くないな」
土方は鼻で笑いながら半分冗談として受け取ったが、近藤は
「俺は安房守を信じるよ。甲府城は俺たちの故郷に近く、江戸の守りの要…新撰組に相応しい褒美だ」
と乗り気だった。土方には現実味がなく思えたが、たとえ夢物語だとしても隊士たちを奮起させ、故郷の人々を喜ばせることができるだろう。
(早く…総司に知らせてやりたいな)
どんな夢物語であっても、総司はきっと手を叩いて喜ぶはずだ。その穏やかな表情をまた見たいと思いながら土方は目を伏せた。








923


翌日の朝早く、松本が弟子たちを数名と馬を一頭つれて鍛冶橋屯所にやって来た。弟子たちは馬の手綱を握りその背に大きく重たそうな行李を二、三個ほど乗せていた。
「朝から総司のためにありがとうございます。それにしても大荷物で…どうされました?」
出迎えた近藤は首を傾げたが、松本は「また後で話す」と一旦は話を棚に上げて、早速屯所に足を踏み入れた。
「具合はどうだ?」
「ええ、総司はまだ眠ったままです」
「沖田はこれからみる。俺が聞いたのはお前さんの腕の具合だよ。なんだ、すっかり自分の怪我のことを忘れちまったのか?」
松本が揶揄いながら笑うが、近藤は図星だったので苦笑いした。
「あ、ああ…そうでした。この頃は忙しく、特に昨日から総司のことばかりに気かけていましたので、つい…」
「やれやれ。自分も大怪我だってことを忘れるなよ」
「肝に銘じます。しかし横浜で処置していただいてからは随分楽になりましたので」
「そりゃ何よりだ。あとで診せろよ」
「はい」
松本は近藤とともに総司が眠っている部屋に着いたところ、土方と英の姿があった。土方は硬い表情のまま頭を下げ、英は師匠の顔を見るやほっと安堵したようだった。
「先生…」
「おう。…様子はどうだ?」
「熱が下がって、呼吸、脈、落ち着いています。肺の音は弱いですが…」
「ん、そうか…」
いつも明るく快活な松本だが、いまばかりは真剣な表情のまま聴診器を握りあちこち診察を始めた。英は助手としててきぱきと働き、松本が手のひらを差し出しただけで何を渡すべきなのか的確に判断してサポートした。
近藤と土方は黙ってその様子を見守り、一通り見終わったあとに松本は深いため息を付いたので、近藤が恐る恐る尋ねた。
「…どうですか、先生…?」
「そのうち目を覚ますだろうが…目を覚ましたところで、おそらく今まで以上に伏せる時間が増えるだろう。だが無理をさせれば喀血する、喀血すれば命が縮まる…それは間違いない」
「…そうですか」
近藤は目を閉じたままの愛弟子に視線を遣った。顔色は良くなっているがその瞼は重く閉じられたままだ。いつも総司が明るく笑っているせいで忘れてしまうが、元気そうに見えても小康状態であり、病の進行が止まったわけではないのだ。
するとそれまで黙っていた土方がようやく口を開いた。
「総司は甲州まで行けますか?」
「…」
「歳…」
松本は近藤から、土方と総司が命を削ってでもこの先も共に歩むことを覚悟したことを知らされていた。何も知らなければ「馬鹿なことを言うな」と一喝しただろうが、これはすでに二人の問題だ。
「…甲州まではとてもいけないだろう。せいぜい江戸を出られるかどうか…」
松本が敢えて現実的な答えを口にすると、土方はフッと笑って「そうですね」と寂しく同意した。本人もどれほど無謀なことかよくわかっているのだろう。
松本は雰囲気を変えようと「話がある」とこの場を英に任せて、近藤と土方を連れ出した。先ほどの大荷物が隊士たちによって庭先へ運ばれていた。
「安房守から甲府城へ進軍すると聞いた。これはその軍資金に使ってくれ」
松本は特に特別なことでもないように行李を開いて見せたが、それを見た途端近藤は目を丸くした。行李のなかにはパンパンに大金が積まれていたのだ。土方はザッとその額を計算して先んじて青ざめる。
「こ、これは…」
「六千五百両ある」
「…」
近藤と土方は顔を見合わせた。あの池田屋事件の時でさえ、幕府からの報奨金は六百両であったのでその十倍以上だ。
近藤はおそるおそる訊ねた。
「まさか、松本先生が工面してくださったのですか…?」
「まぁ、俺からは三千両くらいかな。お偉いさんが俺が頭取を務める医学所を閉鎖しろって言うんで、じゃあ代わりに慰労金を寄越せとがっぽりせしめたんだ。つまりこれは徳川の金だ、お前たちが使って当然の軍資金だから気にするな」
松本の冗談めいた言い方ではそれが真実かどうかはわからず、もしかしたら彼の私財なのではないかと思ったが、松本は尋ねたところで教えてはくれないだろう。二人はただひれ伏して「ありがとうございます」と感謝するしかない。しかしまだ半分の出どころがわからず、土方が尋ねた。
「それで残りの三千両は…?」
「どこからだと思う?」
「…」
問い返されたところで近藤と土方はには心当たりがなく、新撰組を後援してくれる京屋忠兵衛のような商家の類だろうかと思った。都にいた頃ならこれほどの額を集めるためには、都だけでなく大坂まで金策のために足を延ばさなければならないだろう。けれど松本はにやりと笑った。
「会津だよ」
「! なんと…?!」
「会津公の置き土産ってところかな。会津藩士の江上という者が屯所を訪ねて来ただろう?あの者は会津公の意向で国元へ戻らずに数名を引き連れて江戸に残っているんだ。その者たちから預かっていてな、会津公から有事の際には渡してほしいと頼まれていたと」
「…容保様が…」
近藤は体が震えて、感涙した。
会津お預かりから幕臣へ出世してその臣下を離れていたが、近藤は今でも君主として尊敬してやまない。江戸へ戻ってからは上様に恭順を唆したと責められる会津のために奔走したものの、力になれず敵からも味方からも賊軍として責められながら国へ戻って行った会津公に申し訳なく思っていた。
「会津こそ軍備のための金が必要であるはず…それなのに我らに…」
「ついでに運んできた馬も会津公からの贈り物だ、名馬だそうだから可愛がってやれよ」
「そんな…御恩があるのは我らの方です。なんという……」
近藤はあまりの厚情に言葉がないが、松本は気楽に笑った。
「なあに甲府城を治めたら、今度は会津のために戦って恩返ししたら良い」
「勿論です!必ずや会津公に報いましょう。有難く頂戴いたします…!」
近藤は即答し、再び頭を下げた。けれど松本は「俺に頭を下げるなよ」と苦笑した。
「この金で兵を雇って、銃を揃えて、甲州へ向かえ。お前たちは徳川の軍として進軍するんだ…みっともない軍装じゃあいけねえぞ」
「はい…!」
松本の励ましに近藤は頷いたがその勢いで肩が痛んでしまい顔を顰めてしまった。松本はやれやれと肩を竦めた。
「まったく世話の焼ける奴らだ。…肩を診せてみろ」
「は、はい」
近藤は上半身を晒して傷口を差し出し、松本は縫い目を観察して「良く縫えてる」と感心した。横浜のフランス人医師による縫合は評判通りで、松本を感嘆させるものであったらしい。
「戦場で戦うなって言うのも無理な話だろうが、あんまり無茶をするなよ。名医だろと、素人だろうと、患者が医者の言うことをちゃんと聞かねえと治るもんも治らねえからな」
「ハハ…肝に銘じます」
横浜から戻った後精力的にあちこちに顔を出している近藤は苦笑いするしかない。松本もそんな近藤の気質はよく知っていて、穏やかなため息を付きながら
「お前たちとは長い付き合いになったな」
と笑った。
「ええ、もう…四年になりますか」
「あの時は新撰組の局長が訪ねて来るっていうんで、弟子たちが怖がってな。実は槍を準備して庭先で待っている弟子もいたんだ」
「初耳です」
「そこにこんな鬼面の男が来やがって弟子たちは震えあがったようだが…お前、あの時俺が出した茶菓子を美味そうに平らげただろう?うまいうまいってな。それで弟子たちはすっかり拍子抜けしたそうだ」
「ハハァ、そうでしたか」
思いも寄らぬ懐かしい裏話に近藤は口元が緩んだ。あの頃は池田屋で勇名を馳せ、尾鰭の付いた噂があちこちに流れていたのだ。
「しかし先生に長い間隊士を診ていただけるとは思いも寄りませんでした。おかげで怪我人や病人に気の利かぬところが改善され、新撰組という一つの組織として成り立つようになったと思います」
「懐かしい話だ。何もかも遠い過去のように思えるな…」
「はい」
近藤は傷口を仕舞う。松本はようやく一息ついたようにあぐらをかいたところで土方が
「松本先生、その江上殿はどちらへ向かわれたか、ご存じでありませんか?」
と所在を訪ねた。松本の言う通り会津藩士の江上太郎は先日、幕府伝習隊を率いる大鳥圭介を紹介してほしいと頼みにやって来た。近藤は顔見知りであったため引き合わせたのだが、その後はどうなったのか耳にしていなかった。
「ああ、伝習隊の一員となったと聞いた。会津公の了解を得て脱藩して今は秋月と名乗っているそうだ。一度挨拶に来たな」
「秋月…」
「まあ、いづれどこかで会うだろう。…それにしてもお前、懐かしい昔話に思いを馳せていたっていうのに、あっさり話を戻しやがったな」
松本が情緒がないと愚痴った時、英が顔を出して
「目が覚めました」
と三人に告げたのだった。


ハハハ…ハハハ…ハハ…――――
遠くで楽しそうな笑い声が聞こえる。けれど、その声は壁を何枚も何枚も隔てたような先で聞こえる幻のような響きでしかなく、自分にはまるで関係のないものに聞こえた。
(僕もあのなかにいたはずだ…)
輪になって、くだらない話をして、好き勝手に過ごした日々。いつもそこにあって、傍に在って、ずっとその輪の中にいたはずなのに、いつの間に弾きだされたのだろう。
彼らの背中が遠く見える。彼らの声が響くだけの音となって、流れていくように。
(僕は、死んだのかな…)
ついにその時が来てしまったのか。こんなにあっという間に命の灯は消えてしまうのか。実感が全くない。
『…あっけない』
呟いた言葉だけが自分の耳にこだまして、これが孤独なのだと思い知った。冷たくて、堅くて、果てしなくて何もない―――ただここに、ひとり。
落ちていくようだ、手を伸ばしても何も掴めないまま。
(嫌だ、僕はまだ……)
まだ、その先を。
まだ―――

「……まだ…」
喉から絞り出された言葉は、今度は自分の身体以外の場所でも響いた。そして今まで聞き流されていた音が明瞭になって自分の耳に届いた。
「…目が覚めた?」
「…」
総司はゆっくりと視線を横に流すと、安堵の表情を浮かべた英と斉藤の姿があった。
「…は、…」
自分でも驚くほど声が掠れて上手く返事ができなかったが、英は「喋らなくていいよ」と微笑んでサッと手のひらを翳して額の熱と脈を計った。
「喀血して一日、気を失っていたんだよ」
「…いち、にち…」
「ちょうど良順先生も来ているから、呼んでくるよ」
英は傍らにいた斉藤に目配せをして部屋を出て行った。彼が足早に去っていくのを聞きながら、総司はまだ夢心地でぼんやりとしていると、斉藤が総司の顔を覗き込んでまじまじと見た後、フッと笑った。
「…ちゃんと帰って来られただろう」
『心配するな。必ず戻って来られる』
かつて総司が喀血して長く眠り続ける不安を吐露した時、斉藤はそう言った。何の根拠もなかったけれど、彼の淡々とした言葉の強さに励まされたのだ。
また同じだ。
また、同じ場所に戻って来られた。
「…ほんとだ」
総司もぎこちないながらも笑い返し、ようやく夢から覚めたことを思い知ったのだった。











924


二月二十五日、新撰組は将軍警護を解任となり甲州行きへの戦支度を進めることとなった。
約束通り、徳川から大砲八門、元込銃(ミニエー銃)三百挺、弾薬、軍資金が支給され、幕府歩兵も加わり総勢三百ほど。この先は『鎮撫隊』を名乗ることとなった。
「新撰組と名乗れば、官軍を刺激するからな」
土方はあまり気に入らないようだったが、仕方ないと諦めていた。
鎮撫隊はあくまで甲府城の接収と甲州の鎮撫に向かうことが任務である。近藤は若年寄格・大久保大和を名乗り、土方も内藤隼人として素性を隠して向かうことになるそうだ。
先日の喀血後から総司は床から離れないように厳命されていたが、近藤や土方だけでなく隊士たちがかわるがわる状況を話に来てくれていた。寂しさを感じる暇がないほど皆が顔を出してくれるので、意識を失っている間は相当心配をかけたのだろうと総司は感じていた。
「永倉さんと原田さんは?姿を見ませんけど…」
「弾左衛門のところだ。付け焼刃だが、洋式訓練を施してる。今日はついでに小姓たちも連れて行ったはずだ」
「ああ、だから静かなんですねえ…」
近藤は幕府によって長らく差別を受けていた人々の頭領である浅草弾左衛門を旗本に取り上げる交渉を請け負う代わりに、戦時には徴兵する約束を取り交わしていて、早速その機会がやってきたということだ。
「何だか今まで膠着していたのにあっという間に話が進みますね。出立はいつなんですか?」
「三月一日だ。…お前も準備をしておけよ」
「…はい」
一体、どんな準備が必要なのか…ということは敢えて問わなかった。
長く眠りようやく目が覚めた時。近藤は駆けつけて涙を流して喜び、松本は安堵したように「休めよ」と言いつけて帰っていった。永倉や原田、他の隊士たちもほっと安堵して喜んでいたようだが、土方はあまり大袈裟な反応はせず、
「よく寝たな」
と小さく笑っただけだった。あとになって山野から「副長はずっとお傍にいらっしゃいました」と聞かされたけれど、本人はそのようなことはおくびにも出さず淡々としていた。けれどあれ以来、暇があれば顔を出して真剣な話からくだらない雑談をして過ごしていた。
「…そうだ、お前に頼みがある」
「頼み?」
「馬だ。会津公から下賜されたと話しただろう」
「…まさか調教しろと言いませんよね?」
かつて暴れ馬だった池月は総司以外に懐かず誰も背に乗せようとしないので苦労した。けれど賢い馬で、自分自身の働くべき時を見定めて仕事を果たし近藤の命を守った後は伏見の戦火で死んでしまったのだ。
土方は苦笑した。
「まさか。馬のことは馬術の心得がある安富に任せる。お前には名をつけてほしいだけだ」
「名かぁ…」
「会津公から賜っただけあって池月と違って大人しい馬だ。近藤先生は腕の怪我があるから駕籠で向かう。馬は俺が乗るつもりだ」
池月は誰も手が付けられないほどの暴れ馬だったため、源頼朝の『池月(生食)』にあやかって名付けた。源頼朝にはもう一頭『磨墨』という名馬が有名だが、土方が乗るのならば、と総司はもっとふさわしい名前に思い至った。
「…だったら三日月はどうですか?」
「三日月?」
「畠山重忠の愛馬ですよ。確か一の谷の戦いの時に、畠山重忠が担いで崖を降りたとか…」
「お前、そんなことよく知っているな」
「大先生の御高説で何度も耳にしましたから」
「あんな馬、俺には担げないぞ」
「わかってますよ、あくまで伝説ですから。でも池月と同じ『月』の文字が入っているし、畠山重忠は『武士の鑑』で決して頼朝を裏切らなかった忠臣です。…近藤先生に付き従う土方さんにぴったりじゃないですか」
土方は「持ち上げすぎだ」と苦笑したが、
「悪くないな」
と採用した。
そうしていると、バタバタと騒がしい足音がこちらに近づいてきた。顔を出したのは銀之助と鉄之助だ。
「失礼します。…副長、近藤局長はどちらにいらっしゃいますか?」
「局長は永井様のところに行かれている。…どうした、今日は永倉たちと一緒に浅草に行ったんだろう?」
土方は彼らの戻りが早いことを不思議がると、銀之助は「その…」と少し言いづらそうに口ごもり、鉄之助に視線を遣った。鉄之助の方はあまり表情を変えずに遠慮なく
「泰助が倒れました」
と口にしたので、総司は驚いた。泰助は三人の少年小姓のなかでいつも威勢よく昔から丈夫だったはずだ。
「泰助が?」
「はい。銃の調練が始まった途端、顔色が悪くなってしまって…嘔吐したので連れ帰りました。今は落ち着いていて、英先生に診ていただいています」
銀之助は報告しながら心配そうに顔を顰めている。しかし鉄之助の方は原因に思い当たるところがあるようだ。
「…たぶん、後遺症じゃないかと思うんです。あの千両松の戦は調練みたいに銃声がうるさかったから…」
鉄之助の言葉に、土方も頷いた。伏見の後の千両松の戦は一時的に官軍を後退させることに成功したものの、すぐに追い詰められる激戦となり、泰助の叔父である井上たちを中心に多くの隊士が戦死を遂げた。もちろん総司はその場にいなかったが、行動を共にしていた鉄之助には泰助がどのような記憶を思い出してしまったのか鮮明に理解できるのだろう。
土方は神妙な顔で立ち上がった。
「…わかった。様子を見て来よう」
「土方さん、私も…」
「お前は安静にしているように言われただろう。…ちゃんとあとで話すから」
泰助を心配する気持ちは逸ったが、土方に宥められて総司は仕方なく引き下がった。

小姓たちに与えられている四畳半の小部屋で、泰助は気を失うように眠っていた。まだ寒いのにこめかみに冷や汗をかいている。看病をしていた英は土方が来るや、部屋から連れ出して場所を変えて話始めた。
「病の類じゃないと思う。おそらく一時的に気分が悪くなってしまっただけだろうけど、随分魘されていた」
「…何か言っていたか?」
「色々…。うるさい、怖いってしきりに耳を塞いでいたよ。おそらく銃声が恐ろしかったのだろうね。それから叔父さん、ごめんなさい、とも言っていたかな…」
「…」
英も泰助が叔父の首を抱えて淀城下まで戻ったことは承知している。戦時のことでなかなかフォローできず、泰助は心の傷を抱えたまま江戸に戻ったのだが、父や友人の芳次郎と再会したことで気が晴れてこの頃は以前と同じ笑顔を見せていた。しかしやはり心の奥底ではその痛みは癒えていなかったのだろう。戦と同じ轟音が響く銃の調練が引き金となって思い出してしまったのか。
(十三なんて、まだガキだ…)
自分が十三の頃など、奉公先の番頭と喧嘩して生家に出戻りしたりして我儘に暮らしていたのだ。将来ある若者はまだみなくていい地獄を直視した。
英も同じ考えだった。
「土方副長、あの子は離脱させた方が良い。これから先、きっと耐えられないよ」
「…ああ、わかってる。早いうちに手を打つ」
泰助の今後については以前から近藤と相談して故郷に返すべきだと考えていたところだ。泰助は新撰組を離脱するつもりはさらさらない様子だったが、今回のことで考えが変わるだろう。
英は安堵したようだったので、土方は話を変えた。
「…英、お前は甲州へ行くのか?」
「ああ、そのつもりだよ」
英は何の気なく即答したが、土方は難しい顔で腕を組んだ。
「甲州で官軍に遭遇すると戦になる。ここで待っていても構わないが…」
「まさか。沖田さんが同行するのに俺がここで待っているなんて考えられないよ」
「…」
土方としては彼に気を使ったつもりだったのだが、英は何を言っているんだと言わんばかりだった。剃髪姿が板につき、屯所を歩き回っていても違和感なくすっかり馴染んでいるが、土方としてはここを英の居場所にしてほしいわけではなかった。
「…松本先生はこれからも徳川兵の面倒を見るとおっしゃっていた。南部先生は会津へ行かれたのだろう。…お前はどうするつもりだ?」
「そんな先のことを考えていないよ。でも沖田さんには付き合うと決めているから…」
「鳥羽伏見の時は急を要したが…お前は『新撰組のお抱え』にこだわらなくていい。俺はあの時お前の命を救ったからと言って、俺たちに尽くしてほしいとは思っていない」
もう思い出すことすらなくなった昔、英は間者として新撰組と敵対した。その時に彼を殺すこともできたが、松本のとりなしで生き延び、巡り巡ってこうして仲間となった。それは縁というものかもしれないが、だからといっていつまでも付き合って欲しいと思っているわけではない。土方はそんなことのために英を生かしたのではなく、昔馴染みとして彼が陰間だった頃に欲しがっていた『自由』を手にしてほしいと思っていたのだ。
英は少しぽかんとした後に、小さく笑った。
「相変わらず優しいな。鬼副長らしく利用できるものは何でも利用すればいいのに、どうしても見捨てられないんだね」
「…そういうわけじゃない」
「まあ…歳さんにとって『見捨てられない身内』になったことは光栄だよ。…でもこれは俺が決めたことだから、全うしたと思えるまでここにいるよ」
「…わかった」
英の揺らがない眼差しを見て、土方はもう何も言うまいと思った。それに英が総司に付き添ってくれることは願ってもないことであり、頼もしいことに違いない。
「お前も物好きだな」
「違いないね」
英は軽やかに笑って戻っていった。








925


二月の末。
「あ、雪だ…」
このところ暖かな日が続いていたが、今日は朝から雪が舞っていた。けれどつもりはせず、地面に落ちた途端消えてしまう。
甲州への出陣を明後日に控え、総司は身の回りを片付けていたがそれもあっという間に終わってしまい、何となく手持無沙汰だった。松本から床を離れるなと厳命されたが、部屋のなかくらいはいいだろうと障子をあけて庭園と呼べるほど広い庭に雪が踊るのを見ていた。もともとは大名屋敷の空き家を借りた鍛治橋の屯所は結局は一ヶ月ほどの滞在となった。近藤はまた戻って来られると豪語していたが、総司は何となくこれが別れのような気がしていた。
「おはようございます、先生」
「山野君、おはよう」
毎朝、白湯と薬を持参する光景はすっかり見慣れた。
「今日は寒いですけど調子が良さそうですね、顔色が良いです」
「そうですか?もうこの豪勢な屯所ともお別れだなぁと残念に思っていたんですが」
「僕はなんだかこの屋敷が立派すぎて分不相応に思ってました…。今思えば西本願寺の屯所が一番身体に馴染んでいたような気がします」
「そうですね。八木さんのところは居心地が良かったけど、ご迷惑をおかけして申し訳なかったですもんねぇ…」
人数が増え手狭になった八木邸と前川邸から西本願寺へ移り、大集会所を間借りした屯所では一番長く過ごしたのだ。山野の言う通り屯所として思い浮かぶのは西本願寺だろう。
総司はしみじみと縁側で雪を眺めた。
「…そういえば、今年は山南さんの命日に墓参りへ行けなかったなぁ…」
「流石に光縁寺は遠いですよ」
「だって、まさか伏見へ行くだけのつもりが、大坂に下って、江戸に向かうなんて思わないじゃないですか。誰かに手を合わせてくれるようにお願いしておけば良かったかなぁ」
「大丈夫ですよ。山南総長は壬生の皆さんに慕われていましたから、どなたかがきっと参ってくれているはずです」
「…そうですね。それにそんなことで怒るような人じゃないか…」
山野に「そうですよ」と微笑まれ、総司は彼が持ってきた薬に手を伸ばした。

一方。
玄関先に並んだ八門の大砲と山積みになったミニエー銃を眺めながら、近藤は「壮観だな」と満足げに頷いた。土方はこれを機に動きやすい黒い洋式軍服と靴を取り入れほとんどの隊士が最新式の軍装に身を包んだが、近藤は羽織袴と草鞋を手放すつもりはないそうだ。
かつて『浅黄色のだんだら羽織』こそが新撰組の象徴であったが、いまは皆真っ黒の軍服に身を包んでいる。
「これで俺の格好だけ浮くことがなくなった」
「歳、お前の格好は浮いているぞ」
「そうか?」
「そうだよ」
土方は目立っているという自覚がなく、近藤は苦笑した。昔から流行りものに敏感ですぐに着こなしてしまう土方が黒のコートを颯爽と羽織りブーツを履く姿はあまりに似合いすぎている。近藤は武士の矜持として羽織袴を貫く覚悟だが、万が一同じ服装を強いられることがあればこんな男の隣に立つのは気が滅入るだろう。
「…まあ、見た目の話はとにかく。斥候の大石君たちは出立したのか?」
「ああ、今朝早くに。今回は甲州の先まで足を延ばして敵軍の様子を確かめてもらう」
「明後日出立か…待ちきれないな、甲府城の様子が気になる。…なぁ弾左衛門の軍は後援だろう?俺たちだけ先に出陣しても良いんじゃないか?」
「…大久保先生、言っただろう?俺たちだけじゃ格好がつかない。俺たちはあくまで徳川の軍なんだからな」
土方としても出立を急ぎたかったが、新撰組は総勢六十程度で軍と呼ぶには物足りず、大砲や武器弾薬を運ぶとなれば人出も必要だ。弾左衛門の人員が明後日でなければ支度ができないというのだから待つしかないだろう。
「…大久保先生というのはくすぐったいな」
近藤はそう言いながら、腕を組みなおして
「ところで、泰助は説得できたのか?」
と切り出した。今回の出陣を前に除隊させようと二人は決意して、泰助に話したのだが。
「ああ…全く耳を貸さねぇよ。この間倒れたのは風邪をひいていたからだとか、源さんのことは吹っ切れただとか…泰助は松五郎さんの気質を受け継いでる、あいつは相当頑固者だ」
「鬼の副長相手によく言うなぁ。…じゃあ銀之助や鉄之助に説得させたらどうだ?」
「余計意固地になるに決まってるだろう。同じ年頃の小姓たちが残るのに、自分だけ抜けるなんて納得しないに決まってる」
「それもそうか」
昨晩、土方はもう一度泰助を呼び出して隊を脱けるように促したが、顔を真っ赤にして怒り「絶対に離隊しない!」と首を縦に振らなかった。それどころか
「周斎先生が許してくださったのに!」
と亡き師匠の名前を出されてしまい、一旦土方は引き下がらざるを得なかったのだ。
土方は深いため息を付いた。
「…ガキは分別がない。いっそ芳次郎の時みたいに総司に叩きのめしてもらえれば楽かもな…」
総司は甥の入隊を拒み、実力を持って出直すように説得した。芳次郎は一時的には癇癪を起こしたが、出立前にはちゃんと総司の意図を理解して庄内へ向かうことができたのだ。しかし一度入隊してしまった泰助を除隊させるのは別の話だろう、と土方は思ったのだが。
近藤は手を叩いて
「良い考えだな、総司に任せよう」
とあっさり決めた。
「任せるって…」
「総司も泰助を除隊させるべきだと言っていただろう。泰助を道中の総司の世話係にして時間をかけて説得してもらおう」
「…」
「なんだ、気が進まないか?それとも負担になるからやめておいた方が良いか?」
「いや…」
隊を退くべきだと泰助を説得することで、理由は違っても同じ境遇にある自分を責めるのではないか…土方はそんなことを危惧したのだが、近藤は頷いた。
「お前の言いたいことはわかる。俺が無神経なのかもしれない…だが、いま泰助の気持ちがわかるのは総司だけだ。…それに総司も泰助を可愛がっていたんだから、話をしたいと思うはずだ」
「…わかった。総司に聞いてみよう」


同じ頃。
小姓たち三人は揃って屯所の裏手で会津公から賜った馬…三日月の世話をしていた。銀之助は丁寧に毛並みを整え、鉄之助も安富に言われたとおりに餌を与えたが、泰助は片隅で面倒そうに馬糞の処理をしていた。
「…いい加減、その拗ねた顔をどうにかしたら?」
銀之助に窘められ、泰助はさらにふくれっ面をした。
「銀には俺の気持ちはわからねぇよ。突然、隊を抜けて故郷に帰れなんてさ、わけわからねぇし…勝手じゃねえかよ…」
泰助にとっては寝耳に水の話で自分を揶揄う冗談かと思ったくらいだが、近藤と土方は真剣だった。泰助は絶対に嫌だと拒み、土方からは何度も説得されたがいまは突っぱねている状況だ。
「それに勘当同然で家を出たんだから、今更どの面下げて戻ればいいんだよ…」
「でもこの間、お父上が来ていらしたじゃないか」
「…あれは俺じゃなくて、局長と副長に会いに来たんだよ」
「そうかなぁ。少なくとも勘当されているようには見えなかったけれど」
「煩いなぁ…」
銀之助の鋭い突っ込みに、泰助の目は泳ぐ。彼の言ったとおり入隊の際、父は『勝手にしろ』とは言ったけれど、『勘当する』とまでは口にしなかった。けれど泰助はその覚悟で入隊したのだ。
するどそれまで黙って話を聞いていた鉄之助が、餌をやる手を止めて泰助の前にやって来た。
「…鉄?」
「泰助。本当に理由がわからないか?局長と副長が隊を出ろって言った、理由…」
「…それは…」
二人は明確には言わなかったが、叔父である源三郎の死を引きずっているのではないかと危惧していることはわかっていた。先日の浅草での銃調練で卒倒してしまったこともその理由の一つだろう。けれどそれは泰助が一番認めたくないことであったので、除隊を受け入れるわけにはいかなかったのだ。
鉄之助は真っすぐに泰助を見つめた。
「…俺は泰助が羨ましい」
「なんで?…もしかして、鉄は隊を抜けたいのか?」
「違う。前にも言ったけれど、俺は俺の命の意味を探すために入隊したんだ。それはまだ見つかっていない…」
「俺だって…ここで功を上げるって決めたんだよ!」
「本当か?」
「な、なんだよ…!」
鉄之助は泰助の両肩を強く掴んだ。額がぶつかるほどの近さで見据えて訊ねた。
「本当に自分が隊のために役に立てるって思ってるのか?銃声を聞いて縮こまっちまったくせに」
「な…っ」
「お前は叔父さんが死んで、その首を抱えながら内心ビビってた。自分が次そうなるんじゃないかって怯えてたんだろう?いまもあの時のことを夢に見るんじゃないのか?」
「…この野郎!」
泰助は突発的に拳を突き上げて鉄之助の頬を殴った。鉄之助がふらりとバランスを崩して片膝をついたが、泰助の拳は小さく増えてて顔は真っ赤になっていた。
「ちょっと二人とも…!」
銀之助は慌てて二人の間に入ったが、鉄之助は再び立ち上がると銀之助を押しのけて泰助の襟元を掴んだ。
「図星か?いつも魘されて夜中に目が覚めてたよな?そんなのでこの先やっていけるって本当に思うか?これからまたあの戦が始まるんだぞ!誰が死んでもおかしくないんだ!」
「…ッ!」
「口先だけなら何とでもいえる!ほら、言ってみろよ、まだ戦うって!先陣を切って銃声のなかを飛び出していけるって!」
泰助はグッと唇を噛んだ。鉄之助の挑発に憤り、また言い返せない自分が腹立たしく…とにかく身体中が沸騰するようだった。
「わああぁぁぁっ!」
言葉にならないもどかしさと悔しさと怒りがぐじゃぐじゃになって、とにかく鉄之助の口を黙らせたいと思う一心でまた拳を振り上げる。すると今度は鉄之助も応戦して二人は殴り合いの喧嘩を始めてしまった。
「ちょ!ちょっと待って!二人とも落ち着いてー!」
銀之助の悲鳴を聞いてさらに三日月が驚いて「ヒヒーン!」といななく。そして騒ぎを聞きつけた隊士たちが集まって大騒ぎになってしまった。








926


総司は濡れ鼠になった泰助が膝を抱えている姿を見て苦笑した。
「明後日には出立するって言うのに、馬糞だらけだなんてねえ…」
…あれから。
泰助と鉄之助の喧嘩はなかなか収まらず、銀之助を巻き込んだ大騒動になった。手の付けられない泰助と応戦する鉄之助、止めようとする銀之助や他の隊士たちは二人をどうにか引き離して収めたものの、みな三日月の馬糞塗れになってしまったそうだ。隊士たちは真冬の井戸水で身体を洗ったもののなかなか臭いが収まらず、おかげで大名屋敷は厩のように嫌な臭いが充満してしまった。
「出陣の前に馬鹿な真似をしやがって!頭を冷やせ!」
土方は叱りつけたが、近藤はあまりの有様に笑っていた。
その後、仲裁をしていた銀之助は他の隊士とともに掃除に勤しみ、鉄之助は近藤に預けられ、泰助は総司の元に身を寄せた。総司はあまり事情を把握していなかったが、土方が怒りに任せて
「お前がどうにかしろ」
というので、仕方なく引き受けるしかない。幸いにもこの部屋は三日月の厩からは遠くて臭いも届いていないのだ。
泰助は俯いたまま黙り続けている。殴られた頬と切れた唇の端が赤らんで痛そうだった。
「…それで、鉄之助と喧嘩だって?逆上せやすい泰助はとにかく鉄之助が怒るなんて珍しい…何かあった?」
「…」
「まあ、話したくないならそれでもいいけれど。…仲直りがしたいなら、こういうのは早く謝った方が良い」
「俺は悪くない…です」
泰助はようやく言葉を発したが、すぐにまた俯いてしまった。
「じゃあ鉄之助が悪いと?」
「…」
泰助は苦い顔をしたが、鉄之助を一方的に悪者だとは言わなかった。彼らがどのような事情で衝突したのかはわからないが、鉄之助は三人のなかでも大人びていて冷静な少年だ、泰助も少し落ち着いて鉄之助の言い分を頭では理解できているのだろう。
総司は小さく笑った。
「まあ…好きなだけここにいればいい。否応なく明後日には出立しなきゃならないから、顔を合わせることになるだろうけど」
「…先生はもう聞かないんですか?」
「うん、聞いてほしいなら聞くけれど」
「…」
泰助は目を背けてしまった。まだ気持ちの整理ができないのだろうと総司は待つことにした。
日が暮れて、辺りは暗くなっていた。朝から降っていた雪はいつの間にか止んでいたが、その気配だけは残していた。
泰助は「あの…」と口を開いた。
「…芳次郎は?」
「ああ、もう庄内に着いたと姉から文が届いたよ」
律儀な姉は早飛脚で文を寄越して無事に庄内に着いたことを知らせて来た。想像以上の寒冷地で困惑しているそうだが、家族は皆元気だという。芳次郎と泰助は親しくしていたので気になっていたのだろう。
「…俺、芳次郎は才能があると思ってました。だからきっと入隊できるだろうってあいつにも助言して…結局、落胆させちまったかなって気になって…」
「いや、芳次郎はちゃんと納得して庄内に行ったから泰助が気にすることじゃないよ」
「でも…本当は俺より芳次郎の方が上手いと思います。才能があるし、背が高くて体格もいいし、努力家だし…どうして入隊させなかったんですか?」
芳次郎に入隊試験を受けさせた時、泰助は心から彼を応援して総司へも口添えしたが結局は叶わなかった。泰助は自分よりも数段上手の芳次郎が入隊できなかったことを疑問に思っているのだろう。
総司は少し考えて答えた。
「…時機が悪かったかなぁ。泰助と同じ時なら入隊させていたかもしれないけれど、新撰組は即戦力が必要だし、あの子は若くて何の経験もない。入隊してすぐに戦なんて耐えられなかったと思う」
「でも…俺と同じように小姓として入隊することだって可能でしたよね…?」
「…」
可能か、不可能かで言えば可能だっただろう。総司が近藤に推挙すればすぐに決まっていたかもしれない。けれど、決して総司はそうしなかった。
「…私が病でなければ井上の叔父さんのように付き添って指導してあげられただろうけど…そうもいかない。それなのに、私の甥だって理由で本人は気負うだろうし、周囲も期待する…それで命を落としたらと思うと入隊させられなかったんだ」
「…」
泰助は悲しそうな目をして顔を伏せた。そして
「…じゃあ俺が除隊しろって言われるのは、当たり前…力不足だからかな…」
と漏らした。
「…誰がそんなことを?」
「近藤先生と土方先生が…甲州へ向かう前に隊を離れるようにって。俺、納得できなくて断ってたんだけど、鉄に言われたことも図星で……でも俺より腕がある芳次郎が入隊できないんだから、当然かな…」
「…」
総司は泰助と鉄之助の間にどんな諍いがあったのか何となく理解した。近藤と土方は以前から泰助を離隊させる相談をしていたので、それが火種となって衝突してしまったのだろう。そして芳次郎の件があって泰助はさらに自信を無くしてしまったようだ。いまは納得できない気持ちと、己を責める気持ちの板挟みになっているのだ。
(僕と同じだ…)
まだまだ新撰組の役に立ちたいと願いながら、労咳なのだから早く身を退かなくてはならないと自分を責めていた。日によって揺れ動き、相反する二つの気持ちが着地するにはたくさんの人の励ましと時間がかかった。
総司は「こっちに来なさい」と泰助を寝床の傍に手招きした。泰助は戸惑いながらも四つん這いになって近づいて正座したので、総司は手を伸ばして泰助の濡れたままの髪を手拭いで拭いた。
「わっ、自分でできます!」
「このままだと風邪を引いてしまうけど…少し頭を冷やしなさい。本当に自分が役立たずだったのか、どうして除隊するように言われたのか…逃げずにちゃんと自分と向き合って考え抜いたらいい。そうしたらきっと答えが出る」
「…納得できなかったら、どうしたらいいんですか。諦めきれなかったら…」
「その時は近藤先生に心の内を打ち明けたらいい。先生は戦いたいと思う者に除隊を強いるような人じゃありませんよ」
近藤は泰助のことを慮っているが、無理やり追い出したりはしないだろう。
総司が助言すると泰助は少し安堵の表情を浮かべて
「わかりました」
と頷いたのだった。


同じ頃、近藤の元に預けられていた鉄之助は土方の元へやってきた。
「申し訳ございませんでした!」
部屋に入るやいなや鉄之助は平身低頭で謝った。
騒ぎの時はあまりに稚拙な光景を見て二人の前で怒鳴り散らした土方だが、鉄之助の健気な謝罪にもう怒りは沸いてこなかった。
「頭を上げろ…近藤局長はなんと言っていた?」
「局長には、些細な喧嘩だろうと笑われました」
「…」
土方としては近藤にはお灸を据えて欲しかったのだが、若者同士の喧嘩には口出しせずに静観するようだ。
土方は先に手を出したのは泰助の方だったと銀之助から聞いていたので彼を責めるつもりはなかったが、それでも泰助を焚きつけて殴り返したとも耳にしていたのでただ単に応戦したわけではないだろう。
鉄之助に訊ねた。
「泰助に何か不満があったのか?」
「…不満はありません。うるさいけど気のいい奴で、友達だと思ってます」
「局長が除隊させようとしているのは聞いただろう。お前はどう思ったんだ?」
「……羨ましいと思いました」
「羨ましい?お前も隊を出たいのか?」
土方が問うと、鉄之助は慌てて「違います!」と首を横に振り声を大きくして即答した。そして言葉を選びながら続けた。
「俺は…泰助は恵まれているって…。そりゃ、目の前で叔父さんが亡くなったのは不憫だけれど、皆が泰助のことを心配して思いやって除隊に背中を押している。ちょっと前まで隊を脱することは切腹だった。だから先生方は隊を離れる隊士には思うところがあるはずなのに…みんなに優しくされていて…」
「…」
「だから…なんていうか、八つ当たりかもしれません。泰助は本当は自分が限界だってわかっているはずなのに、意地を張って皆が心配しているのに無碍にしている気がして…腹立たしく思いました。俺にはきっとそんな風に言ってくれる人はいないだろうから…」
普段から鉄之助は早く一人前になりたいと口にしており、淀城下の戦いでは大人しくて賢い銀之助とやんちゃな泰助を差し置いて鉄之助だけが戦場に出た。十五歳にしては目標がしっかりと定まっており、将来有望な若者だ。そんな鉄之助からすれば井上の甥として入隊し皆に庇護され温情を受ける泰助に思うところがあり、自分にはそれがないと孤独を覚えていたのだ。
土方は「馬鹿だな」と小さく笑った。
「お前には兄もいるし仲間もいるだろう。俺はお前が泰助と同じような境遇になったらきっと同じように除隊を勧める。お前だけじゃない、銀之助にもそうする」
「俺は除隊したいわけじゃ…」
「わかってる。だが、そんなことで思い悩む必要はない。お前は泰助とは違う。どんな境遇も不運も不幸も、お前は飲み込んで踏みしめて進んでいける。…だが、泰助は違うんだ。それはわかるだろう?」
「…はい」
「俺たちが泰助を特別扱いしているのは認める。あいつは赤子の頃から知っている手のかかるガキなんだ。だが、若い頃から世話になってる恩人の子でもある…だからこの先は連れていけない。ただそれだけのことだ」
鉄之助は何度も頷きながら話を聞いていたが、「あの…」と顔を上げた。
「俺、足手纏いにならないように努力します、鍛錬も続けます。だから…俺、ずっと新撰組で戦いたいです」
「…勿論そのつもりだ」
「先生の傍に置いてもらえますか?」
「それは努力次第だ」
土方が答えると、鉄之助はようやく硬い表情を崩して嬉しそうに笑った。こんな顔を見ると年相応に感じるほどにあどけないが、彼らのような若者がこの先の新撰組を担うことになるのだろう。
「出立前に泰助と和解しておけ」
「はい!」
鉄之助は威勢の良い返事をした。








927


翌日、近藤は明日の出立を勝へ報告するために江戸城へ向かい、その帰りに永井と出会した。
「永井様!」
「近藤…ではなかった、大久保殿、だったな」
「いえ、近藤で構いませぬ。…明日甲府へ向かいます」
近藤が報告すると永井は頷いた。
「知っている。鎮撫隊だったな…甲府城の重要性は幕閣なら誰もが知っている。ぜひとも死守してくれ」
「はい、勿論です」
永井と近藤は数年来の付き合いだ。都にいた頃から幕府の重役であるにも関わらず、無頼者である新撰組の局長にすぎなかった近藤に対して信頼を寄せ、会合に招いたり長州行きに随行させるなど何かと便宜を図ってくれた。永井は上様の信任を得て若年寄まで出世したが、江戸に帰還してからは御役御免となってしまったのだ。
永井は苦笑した。
「私は明日から逼塞(刑罰/門を閉ざして出入りしない)だ。出陣する新撰組には悪いが、ゆっくりさせてもらうよ」
「…何と…」
「構わぬ。私は上様の江戸行きを事前に知りながらもそれが善策だと思い引き止めなかった。もちろん再起を願ってのことであったが…今更あれこれ言い訳はせぬ。上様のご処分が決まるまでは表舞台には出ぬつもりだ」
永井はさっぱりした表情だった。若年寄を離れて自由な身となってかえって晴れ晴れしている様子で近藤は安心した。
二人は並んで歩き出し、自然と思い出話をした。
「近藤とはともに長州へ足を運んだな。連行した長州藩士の赤禰武人が逃げた時には肝を冷やした」
「…あれは我々の失態でした。結局彼は故郷で殺されてしまいましたが…」
「まあ今となってはあの策が上手くいったとは思えぬ。長州は徳川への反抗心を決して忘れなかったから、こうして攻め上られているのだ。…思えばこの数年、自分が思った通りに事が運んだ覚えがない。いつも時代に翻弄され、 思わぬ方向へ進んでいく…そうは思わぬか?」
「おっしゃる通りです」
「その際たるものが新撰組だ」
永井の発言に近藤は目を見開いた。
「我ら…ですか」
「ああ、すぐに内部分裂して解散するかと思っていたが、まさか幕臣まで出世するとは思わなかった」
永井は笑ったが、彼のような高貴な立場からすれば最初はただの小間使いの浪人たちに過ぎなかったはずだ。このように肩を並べて歩くなど想像すらできなかっただろう。近藤も同じだ。
「永井様にお引き立て頂いたおかげです」
「いや肥後守殿が尽力されたのだ。近藤のことをずいぶん気に入っていた。…肥後守殿はまさに身命を賭して守護職を全うされたにもかかわらず、このような不遇なことになり…これから会津は難しい立場に立たされるであろう。近藤、これまで戦ってきた者たちのために江戸を守らねばならぬ」
「…はい!」
近藤は大きく頷いた。永井は幕閣としては一線を退くが、しかしその目に闘志は失っていない。永井は不意に周囲に人目がないことを確認して、小声で笑った。
「…実は榎本殿と何度も会談し、私も今後のことを考えているのだ。官軍の奴らに靡く幕閣もいるが、私はどうしてもその気にはなれぬ。その辺りは榎本殿と通じるところがある」
「榎本殿と…」
「私はこの国で最強と言われる幕府海軍さえ無事なら再起の目はあると思っている。私は兵の一人となり、戦い続けるつもりだ…おそらく近藤とはどこかの戦場で会うことになるだろう」
「ええ…!その際はぜひ共に…!」
近藤は永井との再会を約束し、別れた。


屯所の荷物は運び出され、支度は整った。あとは人員が揃うのを待つばかりだ。
「今日の夕刻には弾左衛門が兵を連れて訪れる手筈だ」
土方は小荷駄方を長く勤めて来た原田とともに武器弾薬など一通りの確認を終えた。原田は「うーん」と背伸びした。
「こっちはもうすぐにでも出立できるって感じだな。隊士たちも早く行きたくて仕方ねえ様子だ」
「一刻も早く出立したいところだ。万が一、官軍に先に占拠されれば奪還するのは難しいからな」
「ま、六十名ぽっちで先陣を切るのは頼りねえか。大砲を運ばなきゃならねぇし、現実的に人手が必要だ」
原田は大砲や銃を運搬する小荷駄方の苦労を知っているため、すぐに理解を示した。原田は先日、永倉とともに浅草へ出向いていた。
「弾左衛門のところの兵はどんな様子だった?」
「ああ…それがさあ。素人どころか、甲府へ行くことも、その意味も分かってねぇような兵もいてさ…。とりあえず銃の扱いと大砲の打ち方は教え込んだけど、所詮付け焼き刃。戦力って考えるのは難しいかもな」
「…あくまで後方支援ということか」
見た目の数では新撰組を大きく上回るが、実際の戦では使い物にはならないだろう。土方は期待をしていたわけではなかったが、やはり兵として有意義な形になるようにもう少し増やしたいと考えてしまう。
そこへ永倉がやって来た。
「土方さん、文が届いていた」
「ああ…」
永倉は相変わらず固い表情であるが、互いに避けるわけでもなく接していた。芳賀の件はあれから口にすることもなく、甲府行きも近藤の口から直接説明したことで理解を得られているようだ。しかし永倉は文を渡すと無駄話をせずさっさと去って行ってしまった。
土方は気にしなかったが、原田は少し気まずそうな顔をして
「あのさあ…土方さん」
と声を潜めた。
「なんだ?」
「ぱっつぁん、この頃ちょっと変でさ。考え込んだり、とっつきにくい雰囲気だったり…」
「ああ…」
「でもさ、新撰組で戦うってことは決めてるみたいなんだ。だからなんていうかなぁ…もう少し頼ってほしいんだと思う。ぱっつぁんはただの組頭じゃねえ、俺たちは数少ない古い食客仲間だろう?頼られれば頼られるほど熱心になる奴だからさ」
「…そうだな」
局長と副長、助勤と平隊士…長い間そんな線引きをしていたが、いまや食客と呼べるのは総司を除けば永倉と原田しかいない。二人は助勤ではあるが他の者とは違う存在だということは土方はもちろん認識していたものの、特別扱いもできないと思い敢えて上司として平等に接してきたところもある。
だがその関係もそろそろ見直す時期なのかもしれない。信頼できる同志というものは今や貴重であり、この期に及んで体裁を気にする必要はないだろう。
原田は「うーん」と何と言葉にすればいいのか腕を組んで悩んでいたが、
「まあ、つまりはさ。仲良くやろうぜって、俺はそういうことを言いたいわけだ」
と簡単にまとめた。その言い分は尤もだが子どものような言い方で、土方は少し笑ってしまった。
「仲良く、な。…お前は何か言い分はないのか?この際聞いておくが」
永倉は事あるごとに意見が違えば口にしてきたが、原田はそれに追随するか笑い飛ばすかのどちらかだった。原田自身が何かを強く主張することはなく、考えはないのかと問うと、
「俺ァさ…都で待ってる嫁さんと子どものところに帰れればそれで良いんだ」
とおおらかに笑った。原田には新撰組とは違う拠り所と守るべきものがある…根底にあるその強さが原田を励まし、誰とでも明るく接することができる要因なのだろう。
(それは少しわかるな…)
原田は照れ臭かったのかすぐに話を切り上げた。
「なあ、これ伊庭からの文か?総司宛てだな」
「…そうみたいだな」
「じゃ、俺は自分の荷物をまとめてくるぜ。春画本を厳選しなきゃならねぇ」
出立を明日に控えてもまだ原田は自分自身の準備が整っていなかったらしい。土方は苦笑しながら原田と別れ、そのまま最奥にある総司の部屋へ向かったところ総司は縁側で刀の手入れをしていた。あれから喀血は収まり、英から床を離れても良いと許可がでた。
「あ…土方さん、どうしました?」
「お前宛てに文だ。…伊庭から」
「へえ、伊庭君から…文なんて初めてもらう気がするなぁ」
総司は手入れの手を止めて文を受け取った。伊庭は先日見舞いのために屯所を訪れていたが、総司が寝込んでいたため会わずすぐに去って行ってしまったのだ。
総司は文に目を通した。
「…伊庭君、忙しいみたいですね。見送りに来られないって書いてあります」
「ああ…新撰組が将軍警護を離れて遊撃隊に一任させられたからな。それに上様の復権を望む連中が徒党を組んで寛永寺のあたりでうろついているらしい。感嘆に離れられないのだろう」
「残念だなあ…あとで返事を書きます」
総司は文を丁寧に折りたたんで懐に仕舞った。土方は総司の隣に腰かけて周囲を窺った。
「泰助はどうした?」
「お遣いを頼みました。ちょっとは気分転換に外に出た方が良いと思って」
「様子は?」
「…まあ、少し時間が必要だと思います。周りは除隊しろって軽々しく言えますけど、本人にとっては受け入れがたいでしょうから…でも少しずつ理解してくれると思います」
「そうか…」
「まだ鉄之助とは和解できていないみたいですけど…まあ、そのうちどうにかなりますよね」
そう言いながら、総司は小さくため息をついた。
「…でも、泰助には除隊させるように説得して自分は残るなんてちょっと矛盾してますよね。足手纏いになるっていう意味では同じなのに…私と泰助は何が違うんでしょうね」
総司はどこか遠い場所を眺めながら呟いた。土方はその手を強く握って教えた。
「違うだろう。お前は新撰組との縁が深いが、泰助は入隊したてでまだ若い。…ここで自分を見つめなおせば、別の人生をやり直せる」
「…別の人生かぁ。確かに私には想像できないや」
総司が穏やかに笑ったので、土方は安心した。
「あんまり深く考えなくていい。気の利いたことを言って欲しいわけじゃなくて、あいつの傍にいてやって欲しいだけだ」
「わかりました」

明日は三月一日。新撰組は再び戦へ向かう。







928


三月一日、昼過ぎ。
新撰組は弾左衛門の兵を含め、総勢百六十名で鍛治橋屯所を出立した。
近藤は隊長の風格を漂わせた紋付袴姿で約百六十名の兵たちの前に先頭に立ち、
「鎮撫隊、これより甲州へ向かう!」
と高らかに宣言し、鬼気迫る姿は武将のように雄々しい。そして大名のように豪華な長棒引戸の駕籠に乗りこんだ。続けて土方は洋装で颯爽と馬に乗り、隊士たちは揃いの和洋入り混じる兵服に身を包んで歩き始める。そして今日の宿場である府中宿を目指すのだ。
ついに、やっと、と隊士たちは意気込んで鳥羽伏見の雪辱を果たすために踏み出した。
…そして病身の総司はといえば、土方と共に馬上にいた。
「これ、結構恥ずかしいんですけど…」
総司は土方の後ろに横乗りして、パカパカと馬の背に揺られていた。下賜された三日月は二人を乗せても何の文句もなく鼻を鳴らしただけで、一定の速さで蹄を鳴らしていた。ぞろぞろと兵たちが大砲や銃を運びながら江戸の中心地である城から西へ向かう鎮撫隊はただでさえ目立つのに、涼やかで様になっている洋装姿の土方が馬に乗って闊歩するものだから余計、市中の民から注目されてしまう。
しかし、当の本人は目立つこと自体に慣れたものでそのような視線を全く意に介していなかった。
「歩くと疲れるだろう。駕籠だともし具合が悪くなってもなかなか気づいてやれない」
「それはそうですけど…でも、これじゃあまるで…」
「嫁入りみたいだよなぁ?」
得意の槍を抱え、平隊士たちを先導していた原田が揶揄った。隣にいた永倉も堪えていたものの、小さく吹き出していた。
「永倉さんまで!」
「すまん。でも左之助の言うことが的を射ているよ。昔田舎でこんな光景を見た」
「だろう?さらに土方さんがそんな格好だから、どこの異人に嫁入りするのかって感じだよな」
二人だけでなく後ろに従う隊士たちも同調していたので、総司は堪らず土方のコートを引っ張った。
「…土方さん、やっぱり降りたいんですけど」
「少なくとも新宿までは我慢しろ」
「ええぇ…」
賑やかな城下から二里ほど先にある内藤新宿で休憩を取るそうだが、それまでずっと見世物になるのかと総司は愕然とした。しかし今更降りては皆の迷惑になるだろう。総司は手拭いを被り顔を隠すことにした。
総司は仕方なく馬上から周囲の様子を伺った。隊士たちは胸を張り待ちわびた出立に喜び興奮した様子だったが、その後方にいる小姓たちはどこかぎこちない雰囲気で並んでいた。鉄之助は淡々としているが泰助は目が泳ぎ、間に挟まれた銀之助は居心地が悪そうにしていた。
(まだ仲直りしてないのかな)
おそらく互いの心境は落ち着いていてすっかり冷静になっているのだろうが、顔を合わせて素直に謝罪を切り出すのはなかなか難しい年ごろなのだろう。総司は泰助へ言うべきことはすでに伝えていたので、見守ろうと決めていた。
そんな小姓たちのさらに後方に合流した弾左衛門の兵たちがいて、主に小荷駄方の支援にまわっている。彼らがぞろぞろと運ぶ八門の大砲は今までの新撰組の出陣にはなかったもので、一までになく軍隊めいている。
(僕が知らないうちに戦が様変わりしてしまったんだな…)
腰に帯びた刀は本当にいつかただの飾りになってしまうのかもしれない…不意に寂しさに駆られて土方の背中にそっと肩を寄せた。
「…どうした?」
「いえ…本当に、三日月はおとなしいなぁと思って」
池月なら二人を乗せるなんてと嫌がって振り落とされたかもしれない。やんちゃで手が付けられないと嫌厭されていた暴れ馬だったが、総司にとっては弟分のような存在だった。
(戦が始まると、あっという間なくなってしまう)
覚悟していると口にしていても、当然のようにそこにいた人がいなくなるのは寂しいものだ。そんな場所に向かう自分たちは一体これから何を失くすのかーーー。
パカ、パカ、パカ…三日月の歩くリズムに身を委ねながら、総司は寂しさを紛らわせるように土方の温もりを感じていた。

それから一刻(二時間)ほど行軍し、内藤新宿という賑やかな宿場町に到着した。品川、千住、板橋とともに江戸四宿に数えられる賑やかな宿場町は旅籠屋だけでも五十ほど軒を連ねている。飯盛女たちが歓待して客引きをするなか、隊士たちは意気揚々と宿場町で一息ついたのだが、
「これでは遅すぎるぞ!」
近藤は駕籠から出てきて第一声、不満そうに漏らした。彼には甲州行きを急く気持ちがあり焦っていることは理解したが、あまりにあからさまな様子を見て土方は慌てて近藤を連れて物陰に移動した。
「…大久保先生、気持ちはわかるが歩兵の前であんな文句を口にしては困る。確かに出立したばかりで兵たちも浮足立っているが、仕方ないことだろう。それに武器弾薬は数が多いし、運び慣れていない大砲が八門もあるんだ」
「しかし…先を越されるようなことがあっては取り戻せぬ失態になる。甲府城はまだまだ先なのだぞ!」
「ああ…わかっている。この先は急がせよう」
土方は近藤を宥めたが、彼の焦りは収まらない。
「なあ、大砲は八門も必要か?甲府城さえ接収すればすぐに戦が始まるとも限らぬ、ひとまず二門ほどあれば威嚇として十分ではないか?」
「…わかった」
徳川から支給された大砲は八門あるが運搬に人手を割いていて進軍のスピードが落ち、さらに兵の力量の問題ですべて使いこなせるとは言えない状況だ。近藤の言う通り進軍の足手まといになっては元も子もない。土方は戦力を削ぐ行為を気がかりに思いながらも、残りの六門を弾左衛門の兵に任せ新撰組を中心とした歩兵隊は二門のみを運搬し、先を急ぐことにした。
一方、総司はようやく三日月を降りて茶屋で休んでいた。
「局長は焦っているな」
「斉藤さん…」
斉藤は温かい茶を差し出しつつ、隣に座った。一か月ほど前に負った怪我で負傷者扱いをされているが、本人はあまり傷を気にしている様子はなく戦場に立つつもりらしい。英は呆れていたが彼を引き止めるのは無理だと悟っていた。
「そうみたいですね。先生は前々から甲府城のことは気にされていましたから、逸る気持ちはわからなくはないですが…」
「皆が沖田さんのように理解があれば良いがな」
斉藤は休息を取る隊士たちを見る。先ほどまで甲州行きに高揚していた隊士たちの雰囲気は近藤の一言によって一変してしまい冴えず、堅い表情をしている者もちらほらいた。しかし、わずか二里ほどの距離だが近藤は駕籠に乗り、隊士たちは運搬を務めているので不満に思う隊士がいて当然だろう。
「…先生は鳥羽伏見の時に前線を離れていましたから、今回の戦は自分が指揮をとると意気込んでいらっしゃって…つい、力が入るんでしょうね」
「さすが、愛弟子は物分かりが良いな」
「からかってます?…まあいいや。それより、山口から斉藤に戻ったって聞きましたけど本当ですか?」
斉藤は御陵衛士脱退後に山口二郎を名乗っていた。死んだはずの男が隊に戻り、隊の指揮をとっているのは不都合だからという理由だった。
斉藤は苦笑した。
「戻ったというか、伏見の時には隊士から散々『斉藤』と呼ばれていたから、隠す必要がなくなっただけだ。いちいち『山口だ』と訂正して回るのも面倒だったし、御陵衛士にも生きていることがバレてしまったのだから、山口を名乗るのはもう無意味だろう」
生き残りの御陵衛士たちに斉藤の存在が知られてしまうことが一番不都合だったのだが、それも戦場で邂逅したことで解消されて斉藤に戻すことができたのだ。もともとの本名は山口であるというのに、斉藤は偽名に戻ったことのほうが清々しいと言わんばかりだった。
「…あの、その時に鈴木さんはいましたか?」
「鈴木?…伊東の弟の鈴木三樹三郎か?」
「ええ…ずっと気になっていたんです。油小路で逃げ延びたとは聞いていたんですが…伏見で先生が襲われた時にはいなかったとか」
鈴木は御陵衛士として脱退する最後の最後に心を通い合わせることができた。心から兄を尊敬し、どれほど疎まれようとも兄とともに生きていく決意をしていた彼は、油小路でどれほど絶望したのか。そして伏見ではどうして近藤を襲撃しなかったのか…。
斉藤は少し黙った後に、意外そうな顔をした。
「おそらく薩摩の軍に加わっているだろうが…そんなことを知ったところでどうしようもないだろう。謝ったところで、鈴木の兄が新撰組に殺されたことは変わらない。ずっとこの先憎まれるだけだ。…気にしているのか?」
「…四六時中気に病んでいるというわけではないですが。なんていうのかな…心残りなのかな」
「心残り?」
斉藤は顔を顰めたが、総司は茶を啜りながら続けた。
「臥せっている時間が増えると考え事ばかりしてしまって。以前は忙しくて気に留めなかったことも気がかりで…そういえば鈴木さんはどうしてるかなぁってちょっと思っただけですよ」
総司はふっと息を吐いた瞬間にくらりと眩暈がして身体が傾いた。斉藤は咄嗟に支えて「大丈夫か」と伺う。
「…ええ。でも甲府まで行けるのかな…」
出立した時の心地よさは刹那的なもので、甲州街道の始まりにあたる宿場にやってきただけだというのに既に息切れしているような感覚だった。斉藤に寄りかかりながら漏らした本音に、彼は何も答えなかった。


大砲と武器弾薬の数を絞り、残りは後軍に運ばせたことで進軍のスピードは上がった。
しかし府中を目指す途中に、近藤の生まれ故郷である上石原村がある。当然、近藤の勇名は轟いていて街道沿いには新撰組進軍の噂を聞きつけた村人たちが集まっていた。
「近藤先生!」
「勇さん!」
「大久保殿ー!」
まるで村中の人々が集まったのではないかという盛況ぶりに近藤は駕籠を降り、徒歩で声援に応えた。先ほどまで遅延していることに息巻いていた近藤だが凱旋を歓迎する故郷の人々の前では柔和な表情となり、知人を見つけてはつい足を止めて言葉を交わす。農民から養子に貰われ道場主となり、新撰組として出世しいまや幕臣となった近藤の雄姿は村人たちを喜ばせ、手を合わせて拝む老人たちもいた。
「どうか薩長の奴らに目にモノを言わせてくだせぇ!」
「天領のご恩をお返しするのです!」
「万歳!新撰組、万歳!」
あちこちで万歳、万歳と喝采が起こる。
近藤の気質を育んだ村人たちは新撰組を後押しするが、しかし当然進軍は遅くなりあっという間に日が暮れていった。
その様子を永倉は冷めた眼差しで見つめていた。









929


結局、上石原村で大歓迎を受け進軍が捗らず、府中宿に着いたのは随分日が暮れていた頃だった。府中宿は甲州街道四番目の宿場町で、内藤新宿にも劣らないほど賑わいがあって夜でも明るい。近藤と土方がその一角にある旅籠に足を踏み入れた時、
「待ちくたびれたぞ」
と思わぬ客人が待ち構えていた。
「義兄さん…」
そこにいたのは土方の義兄である佐藤彦五郎、亡き井上の兄で泰助の父である井上松五郎ら数名だった。突然恩人たちが訪ねて来たので、二人は驚きながら手招きされるままに彼らの宴に加わった。
「どうされたのです。明日には日野に向かうところですが…」
「ああ。上石原村からすぐに話が広まってな。おそらく今夜は府中に泊まるだろうと、目星をつけてこうやって前祝のために乗り込んで来たんだ」
すでに顔を赤らめて酔いが回った客人たちは茶化しながら、飯盛女に注がせてもう何度目かわからない祝杯をあげる。上石原村でも実感していたことだが、当人たち以上に故郷の人々が今回の進軍を大歓迎しているのだ。当然、近藤は喜んでその輪に加わったが、土方はそうはいかない。隊士たちの宿を手配しなければならないのだ。
「…大久保先生、酒はほどほどにしてくれよ」
「わかってるよ」
土方は小声で耳打ちし、部屋を離れた。頭の中で明日以降の行軍の算段を立て始める。
(思った以上に手がかかるな…)
甲府城を接収するためには一刻も早く先を進みたいが、行軍に慣れない兵たちと悪路を進む大砲は想像以上に足手纏いであり、また街道沿いの盛況ぶりはなかなか無碍にはできず、結局こんな夜遅くまでかかってしまった。明日は日野を通るのでさらに歩を緩めてしまうだろう。
(これではただの物見遊山と揶揄されてしまう…)
土方がため息を付いていると、島田に肩を借りながら歩く総司と荷物を抱えた泰助がやって来た。ほとんどを馬の上で揺られていた総司だが、やはり体力は消耗したようで顔色は悪く身体が重そうだ。土方は駆け寄った。
「総司、具合が悪いのか?」
「いえ…少し、疲れて」
「奥の部屋が空いている。…島田、頼んだ」
「はい」
島田は総司を軽々と抱えるようにして歩いていく。相当疲れているのか強がることはせず身を任せていた。世話役の泰助もそれについていこうとしたが、土方が引き止めた。
「泰助、松五郎さんが来ているぞ」
「え?」
泰助は驚きつつ耳を澄ますと、確かに聞き覚えのある豪快な笑い声が聞こえて来た。泰助は戸惑っていた。
「な…なにしに、来たんですか?」
「さあな…お前を連れ戻しに来たんじゃないのか?」
「…」
土方が嗾けると泰助は深刻そうな顔で俯いた。これまで、土方は彼に幾度も除隊を促しいつもきっぱり拒まれていたので、泰助がこのように迷う表情を見せるのは初めてだった。彼なりにこの数日で悩んでいるのだろう。
「…泰助。意地を張らずに本音に向き合ったらどうだ。本当は除隊したら戦に出なくて済むと、安心しているのだろう?」
「……」
「お前が本当に望んでいることはなんだ?」
反論する言葉さえ口にせず、泰助は図星のように俯いた。拳を握り、己の心のなかで戦うように震えながらその場に立ちつくしている。土方は答えを待ったが、泰助はまだ明確な答えを持ち合わせていないようだ。
「…明日は日野を通る。それまでに聞かせろ」
「…はい」
泰助は項垂れたまま総司の向かった部屋に歩いて行った。


総司は少し眠っていたがしばらくして目が覚めて、ゆっくりと重たい身体を起こして辺りを見渡した。
(もうみんな休んだのかな)
総司はふと隣に体温を感じて視線を落とすと、隣に土方の姿があった。様子を見にきてそのまま横になってしまったのだろう、多少着崩れているものの旅姿のままだ。
(また眉間に皺が寄ってる)
総司は小さく笑って、夢の中でも苦悩する土方に布団を掛けて自分は部屋の外に出た。春を目前とした夜は相変わらず冷たい風が吹いていたが、以前にように刺すような寒さは薄れていた。
「府中か…」
かつて出稽古のために日野へ出向いていた頃、総司にとって府中宿はあくまで通り道で、立ち寄ったことはほとんどなかった。あの頃は半日もあれば日野に到着できていたのに、いまはほとんど三日月に運んでもらったもののその手前で息切れをしてしまう始末だ。
向き合うべき現実…『離隊』という言葉が脳裏に浮かんだが、しかし同時に上石原村で歓迎される近藤の姿が思い出された。進軍に遅れをきたしてしまったが、それでも近藤が新撰組として成し遂げたこの六年間の軌跡を思えば、受けとるべき歓待であっただろう。
(僕はまだその姿を見たいな…)
武士として故郷に錦を飾る近藤の姿をもっともっと目に焼き付けたい。
(…もう少し、もう少し…)
総司がゆっくりと息を吐いた時、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。ゆらゆらと覚束ない千鳥足だ。
「…先生?」
「おう…総司か。どうしたんだ…こんな夜更けに」
「少し目が覚めてしまって。…先生こそ、お疲れでしょう?」
「さっきまで彦五郎さんたちと飲んでいたんだよ」
近藤は外出先から戻って来たところだったようで、顔を赤らめて酒の匂いがぷんぷん漂っていた。
「いやぁ、飲まされた!」
「先生、皆が起きちゃいますよ」
「おう…すまん」
近藤は謝りつつも上機嫌のまま総司の隣に腰かけて、まだ眠らない旅籠屋の灯りを遠目に眺めた。
「…先生、早くお休みになった方が良いのでは?明日も早いんでしょう?」
「うん、まあ…そうだな。でも、なんだか寝たくない」
「土方さんに怒られますよ」
「うん、でもなぁ…。ずっと…この日を待ち望んでいたんだ」
近藤は夜空を仰いで、「月が明るいな」と笑いながら回想した。
「…俺はそれなりに上手く人生を歩んできたと思う…農民の末っ子が好きな剣術で身を立てて、道場主から幕臣まで出世して…もちろんそれは歳やみんなのおかげだ。だが…俺も自分なりに努力してきたんだ。出自はしがない農民だと馬鹿にされても、歯を食いしばってな…」
「先生…」
総司は師匠である近藤が『農民』『浪人』と蔑まれる姿を何度も見てきたが、いつもそれを聞き流し堂々とした強い姿で跳ね返してきたように思う。けれど決して憤りがあり心の奥底では常に慟哭し、ままならない感情を抱えて来たのだろう。
いま近藤の表情は万感の思いに満ちていた。
「甲府城へ早くいかなければならないと、そういう気持ちは当然ある。だが、故郷の人々から称賛されて、ようやく俺のやってきたことが報われたような気がしたんだ。それは旗本になって上様に謁見した時以上に嬉しいことだった。だから皆には悪いがもう少しだけ…浸っていたいんだ」
もう少しだけ、もう少しだけ。
自分を甘やかしたいという近藤の言葉が、総司の気持ちにも重なった。近藤が耐え忍んで抱き続けた夢がいま叶ったのだから、これくらいは『ご褒美』だろう。
総司は近藤に寄り添った。
「…皆、ちゃんとわかっているはずです。それに先生のおかげで、皆ここまで来られたんです」
「うん…そうだと良いな。ありがとう……ありがとう…」
近藤は小さく頷いた後、ふらふらと首を回して次第に項垂れてしまった。総司が顔を覗き込むと、近藤はあっという間に寝息を立てて舟を漕いでいた。
「先生、ここじゃ風邪を引きますよ。…先生?」
「ううん…」
総司は肩をゆするが、バランスを崩すだけで近藤の瞼は開きそうにない。酔いが回って深く眠ってしまったようだ。
「困ったなぁ…」
「手伝おうか」
声を掛けて来たのは永倉だった。
「永倉さん、いつから?」
「厠に起きただけだ」
永倉はすぐ近くの厠を指さして偶然だと苦笑しつつ「ちょっと盗み聞きしたけどな」と素直に白状した。
「まったく…こんなところで寝込むなんて緊張感がない。風邪でもひいて足止めになったらどうするつもりなんだか…」
永倉は文句を言いながら近藤の怪我に気づかいつつ脇を抱え、ずるずると引き摺って総司の隣の空き部屋に傾れ込み、半ば転がすように布団に横たえさせた。遠慮なく乱暴に移動させたのだが、近藤は全く起きることなく寝たままだ。よほど酔いが回っているのだろう。
永倉はため息を付いた。
「…早く進軍しろって言うくせに、故郷では足が止まって…言うこととやることが矛盾してる」
「永倉さん…でも」
「だが、あんなことを聞いたら…仕方ないって思うだろう。故郷に錦を飾ってるんだから少しくらい多めに見るべきだと……思ってしまうよな」
永倉は先ほどの近藤と総司のやり取りを耳にしていたのだろう。愚痴をこぼしながらもその言葉ほど気を悪くした様子がなさそうで総司は安心した。けれど道中、永倉はどこか冷やか眼差しで行軍の成り行きを見ていたので、総司はお節介だと思いながらつい口を開いた。
「…上石原村に着く前、街道の途中で止まったじゃないですか。もう少しで村に着くのにどうしてだろうと思ったんです」
「俺も思った。急ぐはずなのに悠長なことだと…」
「でも、先生は突然駕籠を降りて少し離れた若宮八幡へ駆けて行ったんです。局長附の相馬君が慌てて後を追っていきましたけど…戦勝祈願をされていたそうです」
「…戦勝祈願か」
「先生は昔から出稽古のたびに手を合わせていたんです。…だから今までの御礼とこれからのことをお願いするために進軍を止めた。確かに事情を知らなければ無駄な時間だと思います。でも近藤先生のそういった律儀で義理堅い行いがいままで新撰組の運を上向きにしていったんだと…私は思います」
近藤の行為をどう捉えるかは人それぞれで、いまは進軍を急ぐべきだと考える隊士もいるだろう。作戦を取り仕切る土方も焦っていたが、故郷の神仏に祈り、応援して支えてくれている人々がいるからこそ近藤は今まで踏ん張ってきたのだ。そして永倉もその姿を間近で見てきた一人でもある。
永倉は少し黙ったあとに小さく笑った。
「…いつもそうだ。近藤局長の言葉を耳にすると、なんだか自分が苛立っていることが些細なことに思えて馬鹿らしくなって許してしまう…本当に憎めない人だよ」
永倉は何度か近藤や土方に対して反抗したことがあるが、最後には近藤の真っすぐな姿勢に絆されて受け入れ、ここまで付き従ってきた。
「俺と局長の間をつなぐのは信用だ。官軍だとか徳川だとか…俺が局長を信じられると思える限りは付き従うよ」
「…そうしてください。永倉さんのような存在は貴重ですから」
「それを局長にこっそり進言しておいてくれ」
「はい」
総司は(先生はとっくにご存じだろう)と思いながら、永倉が部屋を出て行くのを見送った。近藤は相変わらず寝入り、大きな鼾をかき始めたので総司は自室に戻ることにしたところ、淡い光を纏った朝陽が東の空にその姿を見せ始めていた。
「…あれ?起きたんですか」
「まあな」
総司の寝床で横になっていたはずの土方が旅姿を解いていた。
「…いつから?」
「かっちゃんが帰って来たところかな」
「また盗み聞きしてたんですね」
「さあな」
土方は曖昧に誤魔化して「もう少し休もう」と横になって腕枕に誘った。












930


翌、三月二日。鎮撫隊は府中宿を出て故郷の日野・八王子の先にある峠を越え、与瀬宿を目指す。特に八王子を過ぎると難関な山道が続くこととなる。
出立前、近藤と土方は打ち合わせを兼ねて二人で向かい合って朝餉を口にしていた。
「ふぁぁ…」
体力を使う行程を前に大欠伸をした近藤を見て、土方が「大久保先生」と諫めた。
「すまん…ちょっと飲み過ぎたみたいだ」
「まったく、少しは加減してくれ。…それで、義兄さんと松五郎さんは何の用事だったんだ?」
恩人の二人は「前祝だ」と祝杯を上げに来たのだと言っていたが、本当は別の用事があったはずだ。近藤はハッと目を見開いて「そうだった!」と箸を置いた。
「歳に話そうと思ってすっかり酔いつぶれてしまった!実は彦五郎さんが道場の門下生三十名ほどを率いて鎮撫隊に加わりたいと申し出てくれたんだ」
「義兄さんが?」
「ああ。それに日野でも従軍を願い出ている者がどうにか加えてほしいと殺到しているとか。俺としてはたとえ前線に出なくとも、後方支援として加わってくれれば大助かりだと思うんだが…歳はどう思う?やはり家族を危険に晒すような真似は気が引けるか?」
近藤は身内の土方の意見を聞きたいようだ。佐藤道場の門下生と言うことは近藤の教え子でもあり、弾左衛門の兵たちよりはよほど使い物になるだろう。しかしそれ以上に義兄の彦五郎の性格を考えるととても身を引くとは思えない。
「…義兄さんは俺が何を言ったところで聞きやしない。前線に出たいと言うかもしれないが、後方で兵糧の輸送や小荷駄方に加わってもらおう」
「そうか!お前がそう言うのなら有難く頼むことにしよう。それに隊名は決まっていて『春日隊』というそうだよ」
「…まったく、俺に伺いを立てなくても、もう決まっていたような話じゃないか」
佐藤が隊に『春日隊』と付けたのは、自分の俳号『春日庵盛車』にちなんだのだろう。土方は朝餉をかきこみながら苦笑するしかなかった。

それから準備が整い、鎮撫隊は出立した。
初日と同じく近藤は長棒引戸の駕籠に、土方は三日月に乗ったが総司は島田に担がれて進んでいた。総司は微熱があり、悪化させないためにもできるだけ安静にした方が良いという英の指示だった。
「すみません、島田さん…」
「良いんですよ!むしろ頼っていただいて嬉しいです」
総司は島田の大きな背中に身を任せた。島田は何故か嬉しそうにして一番隊の隊士たちに自慢していたが、その様子を土方は馬上から複雑な気持ちで眺めていた。
(このままじゃいけねぇよな…)
どこまでも行けるところまで……その願いは二人とも同じだが、誰かの重荷になるようなことは本意ではない。しかし土方が考えていた以上に総司の消耗は早く、八王子の先にある峠道を島田に担がせたまま向かうのは無謀すぎるだろう。
(この旅の終わりは近いのかもしれない)
土方がそんな覚悟を決めているとは知りもしない近藤は、
「歳…じゃなかった、内藤君」
駕籠の引戸が空いて顔を出した。今回の甲府行きではできる限り『大久保』『内藤』と呼び合い、戦場で支障がないようにしておこうと示し合わせていたが、近藤はまだ慣れないようだ。
「懐かしい道だ。もう着くな」
「…ああ」
近藤は穏やかな笑みを浮かべて日野の町を眺めていた。近藤にとっても、土方にとっても馴染みのある故郷ではあるがそれでも今見える光景は今までとは違う。隊長として軍を率いて行進する…そんなことをあの日、出稽古へ向かう自分たちは一度たりとも考えたことはなかったのだ。
「こんなに…狭かったんだな…」
日野に吹く懐かしい風の匂いは何も変わっていないはずなのに、百名以上の兵士たちを率いているとまるで別の町のように狭く感じられた。

鎮撫隊は佐藤家に寄った。昨晩先んじて戻っていた佐藤彦五郎と井上松五郎に加えて小野路村の有力者である小島鹿之助の姿もあり、彼らの親戚たちも集まり予定以上の大歓迎となった。
「さあさあ!よく来た、よく来た!中へ!中へ!」
佐藤は隊士たちをも屋敷の中に引き入れ、すぐに食事と酒を勧めた。あっという間に身内の正月の集いのような雰囲気になってしまい土方は慌てた。
「義兄さん、先を急ぎますから」
「なぁに少しだけ、少しだけだ!腹が減っては戦はできぬだろう。おのぶ!もっと酒を用意してやってくれ」
「はぁい、ただいま!」
「ちょ…姉さん、すぐに行くから!」
彦五郎は隊士たちに酒を注いで回り、土方の話に耳を貸しはしない。さらに妻で姉であるのぶも近所の女たちを集めて大皿をいくつも用意して料理を振る舞い、すでに大宴会が始まっている有様だ。
「歳三、固いこと言わないの。どうせどこかで食事を摂るのだから、ここでそうすればいいじゃない」
「…わかった。だが酒はほどほどにしてくれ。今日はこのあと峠を越えるんだ」
「わかってますよ。お腹いっぱい食べていってちょうだい」
のぶが聞き流しているとわかっていたが近藤や土方だけでなく、永倉や原田にとってもこの佐藤家は懐かしい出稽古先でもある。彼らがすっかり組頭から食客の顔をして囲まれてしまったので土方は諦めるしかない。他の隊士たちも彦五郎たちの気さくな様子にすっかりほだされて、くつろぎ始めていた。
そこへ遅れていた総司がやって来た。
「…おのぶさん」
「総司さん…よくいらっしゃいました。こうやって来てくれるのをずっと待ちわびていたのよ。…おみつさんが庄内へ行ってしまって、私とても淋しいわ」
「ええ…でも姉は庄内で元気でやっているそうですから…」
「それは何よりだわ。私も文を出してみましょう。…奥の客間で休んでちょうだい」
「そうさせていただきます」
総司はのぶに気を遣って微笑みながらも、疲れは隠せておらず英と山野に付き添われて客間へ向かっていった。明るく接していたのぶだが、総司が去った途端急に眉を顰めて「つらいわね」と呟いた。のぶは新撰組が江戸へ戻って来て鍛冶橋の屯所で一度顔を合わせたが、わずか一か月ほどでさらに窶れてしまったのだろう。土方は姉の一言が妙に胸に刺さった。
「ねえ、歳三…このままここで総司さんを預かるのはどう?あのままこの先の峠を越えるなんてできるはずがないわ」
「…考えておく」
姉が提案したことは土方自身も考えていたことだったので、素直に頷いた。のぶはその返答に満足げに頷くと「酒を頼むー!」という声を聞いて明るさを取り戻して去っていった。
「歳三、こっちに来い!」
彦五郎に大声で呼ばれ、土方は仕方なく向かった。そこには義兄と酒を酌み交わす小島鹿之助の姿があった。小島は新撰組の支援者で、近藤はよく文を送っていた相談相手である。土方は深々と頭を下げて
「小島様、これまでのご厚情深く感謝しております」
と挨拶すると「よせよせ」と笑った。酒が入ると傍若無人な所がある彦五郎とは違い、小島は静かに飲んでいた。彦五郎は「おい」と土方の脇を小突いた。
「歳三、春日隊のことは聞いたか?」
「ええ…三十人ほど率いて加わってくださると耳にしました」
「ああ。明日の朝には合流するつもりだ。それから小島さんのところもな?」
「え?」
「うちも農兵隊を結成した。微力ながら隊の後方支援に志願したい」
彦五郎と鹿之助は周斎の弟子で義兄弟の間柄である。彦五郎の熱意に押されたのか、義理堅さなのか、小島も隣の小野路村から兵を出してくれるという。いま人手を欲している土方にとっては有難い申し出であった。
「ありがとうございます。是非甲府まで付き添っていただければ助かります」
「おいおい、『付き添う』ってのはどういう意味だ?俺たちは兵として加わりたいって志願しているんだぞ。皆、天然理心流の門人だ、戦場での腕は劣らないぞ」
「後方支援に回ってくだされば十分です」
土方は鳥羽伏見の戦でどれほど腕が立っている剣客でも、銃や大砲の前では無力であると悟った。付け焼刃の弾左衛門の兵や銃さえ触ったことのない故郷の人々はとても歯が立たないだろうと思ったのだ。
しかし、彦五郎は不機嫌そうに腕を組んだ。
「…歳三、俺を舐めてもらっちゃ困る。一月に釜屋を訪ねた時に勇先生から銃の必要性は耳にしていた。だから門人の有山を横浜に送って二十挺の銃と弾薬を手に入れて、すでに訓練もしてる」
「え…本当ですか?」
「おう、しかも元込銃だぞ」
土方は彦五郎が大袈裟に言っているのかと思ったが、隣にいた小島が「本当だ」と笑った。
「二月頭から銃に詳しい指南役を招いてな、道場でバァンバァンとうるさいんだ。いつの間に砲術道場に変っちまったんだとみんな驚いた。…残念ながら小野路村はそこまで手が回っちゃいねえが、力自慢ばかりを集めてる」
「ふふん。どうだ、恐れ入ったか?内藤殿!」
「…恐れ入りました」
彦五郎が胸を張るので土方は笑うしかない。誰よりも義に厚く、家族思いの義兄が新撰組が劣勢と耳にして二か月何もしないはずがなく、義兄の思い立ったが吉日な性格と好奇心をすっかり失念していたようだ。小野路村の農兵たちも大砲運搬の助っ人になることだろう。
土方はもちろん故郷の人々の協力の申し出を有難く感じていたが、それでも前線に立たせるつもりはなかったので、
「では、春日隊には懐刀としていざという時は遊軍として戦っていただきます」
と曖昧に出番を濁したのだが、義兄は『懐刀』という響きを聞いて満足そうに頷いていた。
「そういえば、こん…大久保先生は?」
土方は周囲を窺うと近藤の姿がない。彦五郎は肴に手を伸ばしながら「松五郎さんと出て行ったよ」と答えた。
「松五郎さんは甲州行きに参加できないそうだ。なんだっけ、ほら…官軍の総大将の土佐藩の板垣退助という者は甲斐武田家の家臣の筋という噂だろう?八王子千人同心も武田家家臣にゆかりがある。揉めるわけにはいかねぇと、そういうことらしい」
「ああ…なるほど」
官軍がばら撒いた嘘か誠かわからない噂話は甲斐国から巡り巡って八王子千人同心という由緒ある一隊の動きを止めてしまう一因となってしまったのだ。万が一官軍が甲府を突破して甲州街道を進軍しても、せめて八王子では抵抗してくれるのではないかと期待したがそうはいかないようだ。
土方の表情が曇ったことに気が付いた彦五郎は「大丈夫だ」と強引に土方の肩を抱き、
「俺たちの故郷は俺たちで守ろう!」
と大きな声を張り上げたのだった。

















解説
928 行軍の旅程については諸説ありますが、資料に多く出る旅程で進めていきますのでご了承ください。


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