わらべうた
931
同じ頃、近藤は宴を抜け出して松五郎とともに道場にいた。彦五郎や小島と同じ周斎の弟子であり、近藤より十ほど年長の松五郎だが
「勇先生、今日まで倅が大変世話になりました」
と深々と頭を下げた。突然のことに近藤は困惑した。
「松五郎さん…確かに我々は除隊を促しましたが泰助はまだ何も…。泰助がそのように言っていましたか?」
「いや、あれとは話しておらぬが口にはせずともわかるものだ。どれだけ出来が悪くて家を飛び出したとはいえ、血の繋がった子…しかもまだまだ若造だ。考えていることは全部顔に出ている。そのうち何か言ってくるだろう」
「…そうですか。我々の力不足で申し訳ない」
反目しあっていても心の奥底では繋がっている親子だ。松五郎は釜屋で再会した時の泰助の様子を見て彼の歩むべき先を悟っていたのかもしれない。
すると松五郎は遠い目で山々の稜線を眺めて口を開いた。
「…若い時分は誰でも親元を離れて自分探しの旅に出るものだろう?自分の足で一人前になって生きていくために自分の知らない世間を見て回る…少し早かったが、泰助はその旅に出て己を知って戻って来たんだろう。いい仲間に恵まれて、田舎ではできない出来事に巡りあって途中に源三郎が死んで痛い目を見た…泰助はいい経験をした。きっとこの先、大きな男になる」
「…はい」
近藤は土方は若すぎる泰助に過酷な経験をさせてしまったと後悔していたが、松五郎が言うように泰助を成長させた出来事も多くあっただろう。いまはいつかそれが人生の糧となって強く歩んでくれることを祈るばかりだ。
母屋の方から隊士たちの賑やかな声が道場まで聞こえてくる。松五郎は深いため息を付いた。
「勇先生、申し訳ない。上様のご意思に従い八王子千人同心は不戦を決め込んでいる。佐藤殿や小島殿とは違って、俺も倅も力になれそうにない…悔しい限りだ」
「いいえ。今までのご恩を考えればそんなこと…。それにその分、源さんには良く働いてもらいました。試衛館にいた時からずっと傍にいて支えてくれましたから」
松五郎の弟である源三郎はよくこの佐藤道場にも出入りして、門下生たちに檄を飛ばしていた。近藤にとっては兄弟子に当たるはずだが、腰が低く「若先生」「若先生」とたててくれていたのだ。その関係は新撰組として上洛してからも変わらず、井上は常に近藤に従い隊士たちの世話や面倒な雑用まで何でも引き受けてくれていた。松五郎はそんな弟のことをうだつが上がらない男だと思っていたようだが、新撰組での井上の功績を認めていた。
「…戦が落ち着いたら、淀へ行こうと思っている。やはり源三郎の墓をこちらに移してやらねぇと…ああ見えて弟は寂しがり屋だからな」
「是非、その時はご一緒させてください」
近藤も源三郎の最期を見届けられず、淀の寺にある墓には手を合わせることができなかった。近藤が願い出ると、松五郎は「勿論」と深く頷いた。
付き添っていた英と山野は、一旦総司の具合が落ち着いたのを確認してようやく休憩したが、部屋には泰助が残っていた。膝を抱えて背中を丸めている。
「泰助も美味しいものを食べておいで…」
「…でも、食欲が…」
「おのぶさんの食事は美味しいから」
「…」
総司が促しても泰助は傍を離れようとしない。昨日に引き続き父の松五郎がいることや鉄之助と和解できていないので気まずいのだろう。好きなだけいればいい、といった手前総司は強く追い出さなかった。
総司は床に横になってゆっくりと目を閉じた。道中はほとんど島田に担がせてしまったのにこの有様だ。自分が情けなく歯がゆくあったが、懐かしい佐藤道場に来ることができたのは素直に嬉しかった。
呼吸が落ち着いて楽になと、遠くに聞こえる宴の賑やかな様子や泰助の息遣い、風音や土の香りが鮮明に感じられた。
「…甘い匂いがする」
「え?甘い匂い?…あ、この菓子ですか?」
泰助はのぶの心遣いで枕元に置いてあった金平糖を指さしたが、そうではない。外の風に乗って微かに感じられる、鼻を掠める程度の懐かしい匂いだ。しかし泰助にはわからないようで首を傾げていると、
「それは沈丁花ではないですか?」
「銀之助…」
縁側から顔を出したのは銀之助だった。
「僕の家の庭に咲いていました。母が好きで…ここも同じ甘い香りがしますから」
「へぇ、沈丁花かぁ…」
銀之助に匂いの正体を教えてもらったものの、総司にとってこれは『佐藤道場の匂い』だった。出稽古にやって来た時に知らず知らずのうちにこの匂いに包まれながら稽古に勤しんでいたのだろう。
泰助は銀之助が顔を出したのでやはり決まりが悪い様子で目が泳いでいたが、さらに銀之助は「ほら!」と背後にいた鉄之助を引っ張って来た。途端、さらに泰助の顔が引きつったが、銀之助は構わず二人を引き合わせた。
「ほら、甲州に入る前に早く仲直りしてよ!僕や先輩方を巻き込んで馬糞まみれにしたんだから、お詫びもかねて!」
喧嘩になった時、鉄之助と泰助に挟まれた銀之助は周囲の隊士とともに仲裁しようとしたが、結局馬糞まみれになってしまったのだ。総司は銀之助の尤もな言い分に「ふっ」と噴き出すが、三人の表情は真剣だ。しかし泰助は突然、鉄之助がやってきたので上手く切り出すことができずに口をもごもごとしていた。
すると鉄之助が
「この間は悪かった」
と躊躇いなく頭を下げた。
「え…」
「言い過ぎた。本当のことだとしても、言い方が悪かった」
「ほ、本当のことって、おい…」
この期に及んでも再び喧嘩になりかねない率直な言い方をする鉄之助に、泰助はなんだか力が抜けて、頭を掻きながら「いやぁ…」と言葉を探した。
「…俺も、突っかかって悪かったよ。お前に下に見られてると思ってムキになっちまって…全部、お前の言う通りなのに。銃声にビビってんのも本当のことだし、江戸に戻ってから自分が叔父さんみたいに死ぬ夢ばっかり見てるんだ、情けねぇけど…」
「泰助…」
弱音を吐露する泰助を、銀之助は心配そうな眼差しで見つめる。泰助は続けた。
「俺、叔父さんを看取ったからこそ自分は戦うべきだって思ってた。どんなに恐ろしくても、ビビってても逃げちゃ駄目だって自分の言い聞かせていたけど…きっとこのままだと俺は役立たずだ。戦場でも尻込みするに決まってるし、銃声は怖ぇしきっと新撰組の足を引っぱって死んじまう。だから除隊しろと言われて正直安心したんだ。…だから全部、鉄の言う通りだよ。でもあの時は俺がわかっていても言われたくないことだったから、俺が先に手を上げたんだ。鉄は何も悪くない」
今度は泰助の方が「ごめん」と頭を下げた。鉄之助が頷いたので、二人の間に挟まれた銀之助がほっと安堵した表情を浮かべたが、
「泰助は隊を出るの…?」
と訊ねた。
「…そうするつもりだ。局長と副長に説得されたし、お二人が故郷の誼で俺に目をかけてくださってるのはわかってるから…除隊しろと言われたからには、そうする」
「そうか…寂しくなるよ。ねえ、鉄」
「ああ…。でも、良いと思う。だってそれが井上組長の願いだっただろう?」
二人は顔を見合わせて頷いた。井上の死を見届けた泰助と鉄之助には二人だけしか知らない光景が目に焼き付いている。あちこちに倒れた敵とも味方ともわからない死体の山から微かに動く井上を見つけだし、最期の言葉を聞いた―――。
「『生き延びろ』って言われたことがずっと頭の中によぎってる。俺、ずっと叔父さんを敵地に置いてきたって後悔してて…だから俺は絶対に生き延びて、叔父さんを迎えに行きたい。…甲州には行けない。ごめん…」
淋しげでありながらもこれから先を見定める泰助の横顔を、総司は眺めていた。彼はその小さな身体で目の前の悲劇を受け止めて飲み込んでようやく昇華したのだろう。己の進むべき道は甲州ではない…その決断は戦場から逃げ出すことと同義であり、誰もが賛同するものではないかもしれないが、弱冠十三歳の少年なら十分勇気ある選択だ。
鉄之助は膝が触れるほど近くに寄り、泰助の肩を叩いた。
「戦に勝つことは俺が請け負う。だからお前は井上組長の供養を。…それがお前のやるべきことだと思う」
「…ありがとう」
泰助の眼差しが鉄之助のそれと真っすぐに重なった。同じ小姓として過ごしてきた彼らの強い絆はきっとこの先も続くことになるだろう。
総司は口を挟まないようにしていたが、思わず笑ってしまった。
「大きく出ましたねぇ…。鉄之助、だったらもっと鍛錬を積まないと、とても役に立てませんよ」
「わ、わかってます!」
鉄之助はカッと顔を赤らめた。総司がこの場にいることをすっかり失念して大口をたたいてしまったのだろう。泰助は「そうだそうだ」と笑い、銀之助が顔を背けながら堪えている。総司はいつもの三人の朗らかな雰囲気に戻り、安堵した。
総司は彼らの背丈が少し伸び、少し声が枯れて大人びた表情をしていることに気が付いた。入隊した時は『ガキの守り』だと土方に押し付けられて揶揄されながら預けられて指導してきたが、今やすっかり新撰組の一員だ。隊士たちか可愛がられ、彼らのいる場所はいつも明るく賑やかになる。
(彼らは僕にとって希望だった)
一線を退いた自分が彼らに与えられるものを与える―――それが自分ができる新撰組への最後の奉公になるというだろうという縋るような勝手な思いで接してきた。けれどいつの間にか彼らは新撰組隊士であることを誇り、大人が逃げ出した戦場でも立派にその役目を勤め上げた。師が弱っていくのとは反比例して、これから彼らは精悍な武士となるのだろう。
(病床にいる僕が教えられることはもうないのかもしれない…)
総司はその事実を穏やかに受け止めた。寂しくはあったがそれよりも彼らの成長が喜ばしく思ったのだ。
「話は終わったか?」
そこへやってきたのは土方だった。途端に小姓たちはかしこまり、それまでの和気藹々とした雰囲気は一変してしまう。総司は苦笑した。
「どうせまた聞き耳を立てていたんでしょう?この子達の話はまとまったんですからもっと穏やかな顔をしたらどうです?」
「別に怒っちゃいない。…大久保先生がお前たちを探していたから知らせにきただけだ」
「は、はい!」
「すぐに行きます!」
銀之助と鉄之助は慌てて去っていったが、泰助はその場に残り土方を見上げた。
「今まで…お世話になりました!」
泰助は背筋をピンと伸ばして深々と頭を下げた。土方は小さく笑った。
「…お前が入隊を志願した時はああだこうだとうるさくて大先生の取りなしで仕方なく入隊させた。手のかかるガキだったが…そんな殊勝な挨拶ができる程度にはマシになったな」
「あっ、ありがとうございます…」
「褒めちゃいない。隊を離れても鍛錬を重ねろよ」
「はい!」
土方のそっけない激励に泰助の大音声が屋敷中に響く。総司は肩の荷が降りたような心地で見守ったのだった。
932
小姓たちがいなくなった後、総司は具合が良くなったのでせめて挨拶くらいはと土方とともに宴会場に戻ったところ、近藤が故郷の人々や隊士に囲まれていた。
「歳、総司!こっちに来い」
上機嫌な近藤が手招きするので二人は彦五郎たちが集まる輪に入る。
「元気そうだな」
「この間よりも顔色が良いぞ、薬が効いたんじゃないのか?」
「石田散薬がさ!」
気を使われたのか、それとも酔っているだけなのか、故郷の人々は総司に次々と声を掛けた。総司は「少しだけ」と盃を受け取りつつ、
「この通り元気ですよ。良かったら庭でしこでも踏みましょうか?」
と返すと「やれやれ!」と大いに盛り上がった。彼らの囲まれて明るく振舞っているとどれほど体調が優れなくとも、気持ちは朗らかになった。
宴では堂々巡りの会話が繰り返されているようで、
「宮川の倅がすっかり立派になっちまった」
「歳はさらに色男になった」
と近藤や土方を持て囃す。土方は少し嫌そうに聞き流すが、近藤はふらふらと立ち上がり顔を真っ赤にして饒舌に語り始めた。
「皆さん、よぉくお聞きくだされ!勝安房守は甲府城を接収した暁には、隊士には千石、伍長には五千石、組長には一万から三万石、土方君には五万石、そして私には十万石を約束してくださったのです!勝利した暁には我々は甲府を治めることになるでしょう!」
近藤が盃を天に向ける。力強い言葉に皆、ワァっと沸いた。
「よっ!甲府のお殿様!」
「あっぱれあっぱれ!我らが天然理心流の若先生が十万石だぁ!」
「ああ、酒が美味いァ!もっとくれ!」
酔いが回った彦五郎を筆頭に松五郎や鹿之助、のぶや女中までもが手を叩いて喜ぶ。隊士たちも酔っているおかげで日野の人々たちに持ち上げられて一層盛り上がり酒がすすみ、屋敷中がまるでお祭り騒ぎだ。
「へへぇ、俺たちが三万石ねぇ、悪くねぇなぁぱっつぁん」
「三万石か。お目見え以上の俸禄だな…」
上機嫌になる原田と、いつになくほくそ笑んで酒を飲む永倉。彼らも懐かしい人々の前でほだされて近藤の話を真に受けているようだ。
土方の隣にいた総司は
「本当なんですか?」
と小声で訊ねるが、土方が直接勝から話を聞いたわけではなく、ただの口約束だと聞き流していた。
「…大久保先生が提案して安房守が具体的に約束してくれたのは確かだそうだが…本当に実現するとは限らない」
伊庭は以前、勝のことを『口先だけだ』と皮肉っていたので大言壮語な所があるのだろうし、近藤をやる気にさせるために敢えて大仰に約束したのかもしれない。だが今や勝は陸軍奉行…徳川のトップだ。戦に勝つことができたなら決して不可能なことではないだろう。
冷静な土方は話半分で受け止めていたのだが、
「でもたとえ口約束でもそう言ってくださったのなら、励みになりますよね。大名かぁ…ますます近藤先生は大きくなられるんですねぇ…」
「…そうだな」
総司があまりに嬉しそうにするので、土方はこれ以上は水を差さずに頷いた。それにたとえ故郷で見る一時の夢であったとしても、その夢に手が届きそうな立場であることは間違いないのだ。
(今だけはこんなぬるま湯に浸っても誰も責めやしない…)
この先は甲斐国に入る。きっと日野でバカ騒ぎは終わりになるのだから大目に見よう…土方はそんなことを思った。
すると突然、ワァっと庭先が騒がしくなった。敵襲かと思ったが、バタバタと雪崩のように押し寄せてきたのは三十名ほどの若者たちだった。なかには元服前の子も混じっている。
「お前たち!何しに来た?」
「先生!」
「佐藤先生!」
彦五郎はふらふらと千鳥足ながらも慌てて縁側にやってくる。どうやら彼らは佐藤道場に出入りしている者たちのようだ。
「佐藤先生、どうか俺たちも連れて行ってくだせえ!」
「決して足手まといにはなりませぬ!」
「おらたち、戦える!戦に行けるなら、春日隊だっていい!」
どうやら日野で天然理心流を学ぶ少年や門弟たちが入隊を懇願するためにやって来たようだ。土方は以前隊士募集のためにここを訪れているのでちらほらと知った顔はあるが、その時も皆まだまだあどけない十代の若者たちであるために入隊を却下したのだ。
彦五郎は首を横に振った。
「駄目だ駄目だ!春日隊は戦場でも立派に戦える粒揃えだぞ!お前たちのような青二才、連れて行くわけにはいかぬ!」
「佐藤先生!我々は足手まといにはなりません!」
「何のために今まで稽古をしてきたんですか!」
「戦の為じゃあ!」
「この日の為じゃあ!」
そうだそうだと熱を帯びた若者たちの勢いは彦五郎一人では止められそうもない。そしてその標的は一人だけ洋装姿で目立っていた土方へと向けられた。
「もしや土方先生では!新選組の、鬼副長の!」
「土方先生、どうか我らも鎮撫隊に加えてくだせえ!足手まといにはならん!」
「誰よりも勇敢に戦ってみせます!」
あちこちから飛び交う懇願…若者たちの血気盛んな様子は隊士たちに引けを取らないものの、あいにく根拠がなく世間を知らない田舎者の言い分でしかない。しかし昨年の泰助と同じで熱に侵されたように入隊させてくれるまで一歩も引かないという態度だった。彼らを説得するのは骨が折れるだろう…と土方が内心頭を抱えていると、ギシィギシィと床板を軋ませながら近藤がやってきた。
「皆。私が新撰組局長、近藤勇だ。いまは大久保大和を名乗っている」
近藤は先ほどまで顔を赤らめてしたたか酔っていたが、いまは毅然として若者たちの前に立った。その威厳ある姿に若者たちはごくりと息を呑み、まるで一気に冷や水を浴びせられたように静まり返る。
「君たちの勇敢な申し出は大変有難く受け取った。しかし春日隊がいなくなり、君たちまでもがこの日野を出て行ったら誰がここを守るのだ?それに、君の家族は?父上は、母上は?従軍に賛同しているのか?」
「そ、それは…」
「そのう…」
先頭に立っていた若者の目が泳ぎ始める。おそらくほとんどの者は家族は承知しておらず、仲間内で盛り上がり結束して向こう見ずのまま勇んで乗り込んできたのだろう。若者らしい行動力ではあるが、その勇気を称えて同じ目線に立って受け入れるわけにはいかない。
近藤はその迫力とは裏腹に穏やかに語り掛けた。
「心意気は素晴らしい。それに敵を前に一歩も退かぬ姿勢は天然理心流の門下生としてふさわしくもある。…だが次代を担う君たちを危険な場所に連れて行くことはできないのだ。…これは君たちが役立たずだとか、若いからだとかそういう話ではない。ただ、君たちは私の故郷の身内に等しい。だからそんな君たちを守りたいというのは私の勝手な願いであり我儘なのだ…どうか聞き入れて、万が一の時はこの日野で戦ってほしい」
近藤のなかにあるのは明るい展望ばかりではない。鳥羽伏見のように完膚なきまでに叩きのめされてもう戻って来られないこともあるだろう。その時に故郷の未来を担う彼らまで犠牲にすることはできない…近藤なりに世話になった故郷や恩人に対する配慮だったのだ。
若者たちはまだ納得できない様子だったが、近藤を説得できるほどの経験や展望があるわけではない。顔を見合わせて戸惑いつつも大人しく身をひいてくれた。
近藤は「ありがとう」と頷いて、今度は宴を楽しむ隊士たちに向かって、
「半刻後に出立しよう!」
と声を掛けた。宴に酔いしれていた隊士たちはきゅっと顔を引き締めて、「オオ!」と燃え上がるように声を上げた。
総司はその熱気の中にあって、ぼんやりと近藤の大きな姿を見つめていた。
その後、総司は宴会がお開きになったあとにこっそり佐藤家の屋敷を抜け出した。近藤や土方たちは改めて進軍する準備やのちに合流する春日隊との打ち合わせに忙しそうだったので気づかれなかった。
裏口から抜け出して懐かしい細道を歩き北へ少し歩くと多摩川が見えてきた。昔はすぐそこだと思っていた距離が今の重たい身体ではとても長く感じられたが、穏やかな川の流れが目に入った途端そんな疲れはどこかへ吹き飛んだ。
あの頃と何も変わらない光景。総司は土手の柳の木に身体を預けながら多摩川の匂いを含んだ風を感じた。
「ああ…気持ちいいな…」
無意識に言葉が漏れた。
出稽古に来ていた頃は何の変哲もない田舎の河川だと思っていた。穏やかで荒れることなくただただ下り続けるゆっくりとした水の流れに人生を重ね合わせ、
『きっと僕の人生はこのまま変わらない』
と決め込んでいた。それは決して諦めていたということと同義ではなく、ただそれが当たり前のことだと信じて疑わなかったのだ。けれどそのあと激動の六年間を過ごし、こうやって多摩川の流れを見ていると平凡であることの意味を思い知った。
(平凡であることは、幸せであることだな…)
『新撰組の沖田総司』で在ることは名誉なことだろう。家族や親戚だけでなく、故郷の人々を喜ばせることができた。だが得たものと同時に手の内から離れていったものもある。間違いなく、かつてこの多摩川の川べりを何の気なしに歩いていた頃に当たり前だと思っていた平穏は、もう得ることができないのだ。
ずっと、戦ってきた。近藤のために、土方とともに歩んだ。
でも、
「もう何もいらないな…」
武士として誇らしい名誉は近藤へ。その盟友としての称賛は土方へ。
(僕はずっと何もいらなかった…ただ傍にいたいだけだった)
もしあのまま多摩川を変哲のない川だと眺めているだけの人生だったなら、その願いは叶ったのだろうか。田舎道場の塾頭として穏やかに生きていけたのだろうか。ほんの少しだけ想像したが、すぐに途切れた。
(いや…僕は何度でもこの人生を望む)
故郷の人々に囲まれた近藤の晴れ晴れとした表情やその傍で報われたと噛み締める土方を見ることができた…それはこの人生を歩んだたらこそ見られたのだ。
「ふふ…人はいつまでもないものねだりをするんだな…」
総司は大きく息を吸い込んだ。三月の風は春への芽吹きを促す―――あの日々と同じように背中を押され、この人生を歩き続ける。この先も。
総司がしばらくその場で立ち尽くしていると、荒々しい足音が近づいてきた。
「総司、ここにいたのか…」
土方が息を切らしてやってきた。屋敷から総司が突然いなくなって焦ったのだろう、少し困惑した表情だった。
「…あ、そろそろ出立ですか?」
「ああ。いま大久保先生が一通り挨拶をしているところだ。山野が探し回っていたぞ」
「そうですか…でも、一人になりたかったんです。少し考え事をしたくて…」
総司は再び多摩川に目を遣ると、土方が隣に立った。彼もまたこの川の流れに懐かしさを感じていることだろう。
総司は何の躊躇いもなく
「歳三さん…ここまでにしましょう」
と口にした。土方はしばらく黙り込んだ。
「……何が」
「本当はわかってるんでしょう?…この先の街道は厳しい峠道です。人を乗せては三日月は疲れてしまうし、島田さんに担いでもらうのは申し訳ない。それに今後、喀血しないとは限らない。…こんなに早く隊を離れるとは思っていなかったですけど、甲府へ向かうのは難しいと思っていました。だからここで私は新撰組を離れます。本当に足を引っ張ってしまう前に」
「……」
土方は難しい顔をして多摩川を眺めたまま、総司へ視線を向けなかった。江戸への帰路、二人でどこまでも行くと約束したのだ、まだまだ道半ばで諦めるという総司の意思を受け入れ難いと思っているのだろう。
「…歳三さん」
「俺は戦場まで這ってでもついて来いと言っただろう。それにお前も床の上で死ぬのは嫌だと、戦で死ねたらいいと…」
「その気持ちは今でも変わりません。でも…ここで隊を離れることも私の心からの望みなんです。だって泰助が除隊してあの子たちが入隊できなかったのに、彼らよりよほど足手纏いの私が残る意味はありません。…私はその矛盾を抱えてはこの先を進めないんです」
「…難しいことを考えなくていい。お前のことと泰助たちは違う」
「同じですよ。…みんな、近藤先生の為に、新撰組のために、故郷のために戦いたいんです。自分のためじゃない」
「……」
土方はまだ納得いかないようで色よい返事はしなかった。総司はツンと拗ねたように突っぱねる土方の横顔に笑ってしまった。
「ふふ、まるで子供が駄々をこねているみたいだ」
「…お前からそんなことを言い出すとは思わなかったんだ。誰の手を借りてでもずっと傍にいると…お前の方が駄々をこねるはずだと思っていたのに」
「私も大人になったってことですかねぇ…。でも少なくとも、この多摩川を眺めていたあの頃とは違って、不思議と自分の為すべきことがはっきりとわかるんです。日野に来て皆に囲まれて、近藤先生が嬉しそうでみんな報われて…もう十分、満ち足りたような気持ちなんです。だから不思議と寂しくはありません」
「総司…」
鳥羽伏見の時は、突然の嵐に巻き込まれたように戦場へ向かう彼らを何の覚悟もせずに送り出した。その時に比べれば立派な行軍を日野の人々とともに見送れるのだから心持ちが違う。
土方が尚も覚悟が決まらない様子だったので、総司は懐から手のひらサイズの包み紙を取り出した。それを土方の前へ差し出す。
「指環のお返しです。…今まで私から歳三さんへ贈り物なんてほとんどしたことがなかったですよね」
「これは…?」
「歳三さんは何もいらないって言っていたから困りました。だから以前、鍛冶橋の屯所に榎本先生がいらっしゃったときに助言をいただいたんです。洋装に必要なものや似合うものは何かって…調子のいい時にこっそり外出して山野君とともに買い求めました」
土方が困惑してなかなか受け取らないので、総司は何故だか照れ臭くなって「ほら、早く開けてください」と土方に押し付けた。土方が包み紙を開けると、銀色の鎖がしゃらしゃらと手元から零れ落ちる。その鎖が繋がった先は、
「…懐中時計か?」
「はい。あ、でも刻んでいるのは西洋の時間だそうなので便利かどうかはわかりませんけど、海軍などではこちらの時間を使うこともあるそうですよ。それに歳三さんは着飾るのが好きだから」
総司は榎本に教わった通り土方の掌の鎖を摘みチョッキのボタン穴に引っ掛けた。すると黒一色だった洋装に銀色の鎖は良く映えて光を反射して光っていた。
総司はパカッと懐中時計を開いて見せた。
「…ほら、針が動いているでしょう?こんな小さな機械で時間を教えてくれるんだそうです…繊細で、不思議ですよね。だからね…歳三さんは歳三さんの時間を刻んでください。この先…きっと私とは時間の感じ方が違うだろうから」
「総司」
土方は少し焦ったように総司の腕を強く掴んで引き寄せた。
「…また別れるというつもりか?」
「ハハ、違いますよ。そうじゃなくて…歳三さんは為すべきことをしてください。官軍を打倒して、甲府城に乗り込んで、近藤先生を十万石の大名にするんです。それが貴方の為すべきことです。…その後、私を迎えにきてください。私も三万石頂けるんですよね?」
「…っ、ああ…そうだ、その通りだ」
土方は強く抱きしめた。その体温と息遣いを近くに感じて総司は不意に惜しく切なくなってやはり手放したくないと思ったけれど、きっとこれは最後の別れではない。土方の背中に手を回しその胸のなかに顔を埋めた。
「…歳三さん、お願いです。どうか生きて帰ってください。待ってますから…」
「わかった…わかったよ。…この時計はお前の代わりに連れて行く」
「そうしてください」
総司は土方の肩を持って少しだけ背伸びをして、願いを込めて口づけた。
「…待ってますからね」
「ああ…」
土方の背中越しの多摩川に柔らかな陽が差して、水面に反射してきらきらと光って見えた。きっとそれは特別な光景ではなく今まで気が付かなかっただけなのだろうけれど、やけに美しいものに感じた。
どうかこの場所だけは変わらないで。
(またここで会いたい)
933
出立の時間が迫るなか、土方と総司は多摩川のほとりからその道のりを噛み締めつつ佐藤家に戻った。山野や英は心配していたが出立の準備で慌ただしく大きな騒ぎにはなっていなかったので安堵しつつ、総司は近藤の元へ一人で向かい、離脱する旨を伝えた。
近藤は最初は驚いていたが、すぐ穏やかに頷いた。
「…そうか。船でその時が来たら歳に引導を渡してくれと頼まれていたが…必要なかったようだな」
「そうだったんですか?」
「ああ。歳は…自分では決められないと言っていた。今思うとあれは弱音だったのかもなぁ」
大きな決断の時、土方は独断専行することもあったが、総司のこととなっては判断が鈍ることを自覚していたのだろう。無理を押し通してでも戦場へ…という思いを誰かに止めてほしかった…近藤は総司へ優しい眼差しを向けてしみじみとした。
「…昔からお前は俺や歳の言うことに従ってばかりで、それが最善だと決め込んでいたが…ようやく自分のことを自分で決められるようになったんだな」
「やっと大人になったのかもしれません。でも逆に言えば私は先生とご一緒することを早々に決めていただけなんです。それを貫いているだけで、決して間違っていたとは思いません」
傍から見れば盲目的に見えたのかもしれないが、近藤を師と仰いだ以上総司はそれが当然だと思っていたし、一度も後悔したことはない。今回は初めて自らの意思で近藤たちと離れてしまうだけで、一時的なものだと信じていたからこそ決断できたのだ。
近藤は愛弟子の成長に目を細め、「そうだな」と微笑んだ。
「実は離脱に備えて常久村のあぶらやさんにお前を預かってもらう話をつけているんだ。あの家は裕福で掛かり付けの良い医師が出入りしている、安心して療養してほしい」
少し手前の府中常久村で製油業を経営する関田勘左衛門宅…通称『あぶらや』は、近藤が日野周辺の出稽古に出向いた際に身を寄せる宿泊先であった。二十名から三十名を雇い製油業だけでなく荒物屋(雑貨商)も兼業しているこの辺りでは有名な商家で、さらに石田散薬の取り扱いをしていることもあって土方とも昔から関係のある信用できる大家だ。
「あぶらやさんに…」
「俺のために誂えてくれている二間の部屋が空いているからそこを使ってくれと言っていた。…この佐藤家にいても良いが、彦五郎さんはすぐに出陣するしお前の所在が広まっては不都合なこともあるだろう。身の安全のためだ」
「わかりました」
関田家には総司も何度か出入りしたことがあるため何の躊躇いもなかった。
そんな話をしているとついに出立の準備が整ったようで相馬が近藤を呼びにやって来た。別れが惜しく感じられたが、総司は泣き言を口にするつもりはなかった。
「…先生、どうかお怪我のことをお忘れなく。ご武運をお祈りしています」
「ああ。お前も安心してしっかり休むんだぞ。…すぐに甲府城に入城して落ち着いたらお前を呼ぶ。天守閣に寝床を作ってやるからな」
「ふふ…天守閣の寝心地を楽しみにしてます」
怪我をしていない左腕で総司の肩に手のひらをおいて、何度かぽんぽんと叩いた。肉厚で温かな手のひらから近藤の体温が伝わって来た。
総司が離脱を告げると、親しい隊士たちは嘆いたが大半は理解を示した。
「自分が背負って甲州までお連れしようと思っていました…!」
島田は唇をかみしめて悔しそうにしていたが、この先の峠道を知っている者にはそれがどれほど無謀なことかよくわかっていたので周囲が宥めた。
「島田さん、お気持ちだけ頂いておきます。一番隊の伍長としてしっかり務めを果たしてください」
「はっ!」
「山野君も…私はちゃんと療養しますから安心してください」
「絶対、絶対、約束ですよ!」
一番隊の隊士で医学方の山野は総司には付き添わず、戦に向かうことになった。池田屋以来、総司の身体を気に掛けるのがすっかり癖になっている山野は不安そうだったが
「俺が見張るから問題ないよ」
と英が答えると「宜しくお願いします!」と頭を下げた。英も総司とともに離脱して関田家に向かうことになったのだ。
前方で隊士の招集が掛かり、彼らは名残惜しそうにしながら別れを告げる。総司も見送りのために玄関先に出たところ、支度を終えた永倉と原田がやって来た。
「甲州に入る前に離脱するのは残念だが、この先の峠道は健脚でも険しい。それに慣れた土地で休めるなら安心だ」
「あぶらやなんだろう?庄太郎に宜しくな」
関田家の跡継ぎである関田庄太郎は総司と同世代の若者だ。試衛館食客たちと親しく、おっとりとして優しい青年で原田が特に気に入っていた。
「伝えておきます。…お二人ともご武運を」
「おう」
「甲府城で待ってるからな」
幾度となく繰り返した別れは、いつも再会へと繋がっていた。きっとまた会える…それは願いではなく、当たり前のことだと疑いもしない三人は笑って手を振って別れた。
いよいよ前方で「出立する!」という近藤の威勢の良い声が響き、兵たちは呼応するように声を上げながら歩き始めた。宴の余韻を引きずりつつもぞろぞろと続く隊列を総司は穏やかに見送る。そのなかには当然、斉藤の姿があった。彼は総司の前で足を止めた。
「…斉藤さん、あの」
「言いたいことはわかっているから言わなくていい」
近藤と土方、そして一番隊の隊士をよろしく頼む。
そんなことをわざわざ言わなくてもわかっているから、とさっさと話しを切り上げてしまうのがあまりに斉藤らしくて、総司は噴き出して笑ってしまった。
「ちょっと…格好がつかないじゃありませんか。私の無念の思いを抱えて戦ってきてくださるんじゃないんですか?」
「あれこれ簡単に背負わされても困る。無念の思いがあるなら自分で晴らせばいいだろう」
「無茶言うなあ…おっしゃる通りですけど」
総司はひとしきり笑った後、しかしこれだけはと口を開いた。
「…また会いましょう」
戦へ向かう彼らと、死病のために療養する総司。共通して死がすぐ傍に在る…だからこそまた会えたなら、どれほど奇跡的なことなのだろう。斉藤も噛み締めるように「そうだな」と頷いた。
「ご武運を」
「ああ」
短い別れの挨拶を交わしてその背中を見送った。
その後も新入隊士や古参隊士など見知った顔が続き、その後に小荷駄方や弾左衛門の兵らが大砲の台車を引っ張って、武器弾薬を積んだ荷車をガラガラと押して進んでいく。
そして最後に三日月に乗った土方が現れた。彼は佐藤家や故郷の人々へ別れの挨拶を交わして殿を務めていたのだ。
「…土方さん」
「大久保先生に聞いた、あぶらやに行くんだって?ご当主に宜しくな」
三日月に颯爽と乗る洋装姿の土方は目立っている。再び別れ難くなったが、その気持ちを抑え込んだ。総司が
「あの…」
と、言いかけたところにポツッと雨が一粒落ちて来た。二人が空を見上げるといつの間にか曇天になっていたのだ。
「天気が悪くなりそうですね…」
「…ああ。だが甲州の方はまだ晴れている。夜までは持つだろう」
「そうだと良いですが…与瀬宿まで行けますか?」
「そのつもりだ」
ただでさえ昨日今日で進軍が遅れているのだ、土方はこれ以上の遅延させるつもりはないようなので目標の与瀬宿に辿り着くまでは足を止めないのだろう。故郷の人々の前では末っ子であったが、既にその横顔は鬼副長のそれに戻りかけている。
総司は何となく曇天を見上げて不安に思っていると、馬上から土方が問いかけた。
「『春に竜が登る』…知ってるか?」
「…竜?」
「春の季語だ。春分の頃に竜が天に昇って雲を起こして雨を降らせ、稲にとって恵みの雨になる。…大久保先生は竜だ。きっと甲州に恵みをもたらすはずだ」
暗澹たる雲行きでも、土方の表情は凛として強く前を見据えている。
多摩川で総司が別れを告げた時は悲壮な表情をしていたが、土方なりに気持ちに整理をつけたのだろう。いまは鬼の副長として総司の願いを聞き入れ、自分の為すべきことを見つめていた。
総司は馬上の土方を見上げて笑った。
「さすが、豊玉先生」
「…喧嘩別れをするつもりか?」
「いえいえ。…行ってらっしゃい」
総司は近藤や永倉、原田、斉藤、そして隊士たちには『ご武運を』と告げたが、土方には敢えて『行ってらっしゃい』と言って手を振った。それは彼が必ずまた戻ってくることを信じていたからだ。
土方は小さく笑った。
「…行ってくる」
彼は手綱を引き、三日月とともに颯爽と去った。
再び新撰組と合流する日が来るのだろうか…しばしの別れを覚悟した、三日後のことである。
「土方さん?!」
関田家へ三日月に乗った土方が忙しない様子でやってきた。先を急いでいるが総司に状況を説明するために立ち寄ったようだ。土方の表情には焦りがあった。
「…っ、先に甲府を取られた。手前の勝沼あたりで衝突することになるが、圧倒的に兵の数が足りない。俺は援軍を呼ぶために江戸に戻る」
「わ、私も…!」
「お前は英と一緒に江戸へ戻れ。松本先生に事情を説明しておくから、先生を頼ってくれ」
「…!わかりました…」
「じゃあな」
土方は三日月を下りることなくそのまま手綱を引いて去っていった。関田家の家人たちは驚いていたが、誰よりも総司の頭が真っ白になった。
そして総司がこの三日間のことを聞いたのは、それからずいぶん後のことになるのだ―――。
934
八王子を過ぎ、小仏峠を越えた先にある相模・与瀬宿に入ったのは三月二日の夜のことだった。半日での強行軍で隊士や兵たちは疲れ果てていたが日野での活気ある歓迎のおかげか士気は高かった。特に駕籠を降りて先頭を歩いた近藤は宿に入った後も、
「明日はどこまで行く?」
とまだまだ元気そうだ。一方疲れを隠せない土方は小雨で湿った髪を掻きあげながらため息をつき、上着を脱ぐ。
「…猿橋辺りだな」
「猿橋?いや、まだ先まで行けるだろう」
「ここから吉野宿を経て猿橋に向かうまでの道は厳しい。整備されていない分、小荷駄方が苦労することになるだろうから少し余裕を持った方が良い」
「…そうか、わかった」
近藤はまだまだ先を目指したいと思っていたが、自分一人の勝手では進軍できないことはこの二日で身に染みていた。上石原村や日野村に寄った分を巻き返したいところではあるが大砲を減らしたところで進軍には限界があるのだ。
そして土方の横顔が酷く疲れていることにもようやく気が付いた。
「歳、疲れたか?」
「…なんだか気が抜けた…」
「…総司のことか?」
「ああ…」
土方は取り繕うことなく本心を漏らした。
総司を連れて行きたいという思いは強かったが病状を踏まえるととても現実的ではなかった。どうしたものかと考えあぐねていたところに総司自身からの申し出で府中へ向かわせたことで、身の危険から遠ざけることはでき安心することはできたものの胸に穴が開いたような心地だったのだ。総司が傍にいることが心のどこかで支えとなっていたのだろう。
「…早く休もう」
近藤が声を掛けたところ、局長附きの相馬がやって来た。
「夜分に失礼いたします。…大久保先生、春日隊長がいらっしゃいました」
春日、と言われて二人とも一瞬ぴんと来なかったが、このたびの出陣で佐藤彦五郎は俳号を踏まえて春日盛と名乗ることとなったのだ。
「春日隊がもう合流したのか…!さすがだ、頼もしい!」
近藤は手を叩いて喜んだ。鎮撫隊は一足先に出陣し春日隊は準備を整えてから出陣するという話だったのでまさか当日中に合流できるとは思いも寄らなかったのだ。
「歳、お前は休んでいろ。俺が出迎えに行ってくる」
「…いいのか?」
「そんな疲れた顔を義兄さんに見せて心配をかけるわけにはいかないだろう?…じゃあな、先に寝ていろよ。おやすみ」
「ああ…頼んだ」
近藤の申し出を有難く受け取り、土方は後のことを任せて先に休むことにした。
近藤は佐藤たち春日隊二十二名を出迎え、相馬に宿へ案内させた。昼間に会ったばかりだというのに春日隊の面々は興奮しており、佐藤道場の人々の合流で近藤の気持ちも昂るばかりだ。
すでに夜は更けていたが、近藤はこのままでは眠れないだろう、と自分を落ち着かせるために少し遠回りをして自分の宿に戻ることにした。
与瀬宿は昨日の府中宿に比べると大きな本陣の他には旅籠が六軒ほどと規模が小さく山に囲まれて素朴な雰囲気だ。さらに昼から夜にかけて小雨が降り続き、夜も雲に覆われて月や星は隠れてしまい、余計物淋しくも感じる。相模湖が見えるはずだが残念ながらその眺望を拝めそうにない。
(俺も休むか…)
近藤はそう思い至り、帰路につこうとしたところ焚き火を囲む兵士たちの姿が見えた。与瀬宿には鎮撫隊以外の客は少なくほとんど貸し切り状態だが、見覚えのない顔ばかりなので弾左衛門の兵たちなのだろう。もう夜も更けているというのに顔を真っ赤にして騒がしく酒を飲んでいた。
「しけた旅籠ばかりで、いい女がいねぇ!」
「重てぇもんばっかり運んでさ、くそ疲れたぜ」
「明日もまだ続くってよ」
「やってらんねぇ!」
遠くで様子を見ていた近藤の耳には途切れ途切れ、彼らの愚痴が聞こえてくる。大量の武器弾薬を運び続ける彼らから不満が出るのは当然のことであるが、夜中に大音声で騒がれては他の客たちに迷惑だろう。
「仕方ない…」
近藤は一声かけようと踏み出したのだが、暗がりから誰かがやってきて腕を引かれた。仄かな明かりでその顔を見ると永倉だった。
「…永倉君?」
「待ってください、局長の出る幕ではありません」
「しかし…」
このままでは鎮撫隊の評判にもかかわってくるだろう、と近藤が危惧すると焚き火で騒ぐ彼らの元へふらふらと原田が向かって行き、声を掛けていた。
「おうおう、楽しそうだなぁ。まあ酒を飲んで憂さを晴らしたい気持ちはわかるけど、疲れてるんだろう?早く休もうぜ?」
原田は自然と彼らに溶け込んで、親しげに肩を抱く。彼は小荷駄方の責任者を務めており兵たちとも顔見知りのようですぐに話がまとまり、彼らは不承不承の様子であったが火を消して解散となった。近藤は今更ながら局長自らが出て行っては大騒ぎになっていただろうと気が付いた。
「…すまなかった。引き止めてくれて助かったよ」
永倉の的確な判断に感謝したものの、彼の表情は冴えなかった。
「言っておきますが…あれでもマシな方です。弾左衛門はよくよく言い聞かせていないのか、甲州へ向かう目的もわからず過酷な進軍で脱走を企てている者もいます。甲州に着くころには半分になっているかもしれません」
「…そうなのか」
「局長が故郷の人々を思う気持ちはわかりますが…俺としてはもっと兵を増やすためには信用出来る日野の人々を入隊させるべきだったと思います」
昼間、佐藤家に押し寄せて来た青年たちをはじめ、道中志願してくる多くの農民たちに出会った。その数は五十人から六十人ほどいたので、広く募ればおそらくさらに多くの兵が集まったことだろう。しかし近藤はそれを悉く拒んだ。
「…確かに信用はできるが、彼らは刀を握ったことのない農民ばかりだ」
「それは弾左衛門の兵も同じですよ」
「しかし彼らは銃の扱いを身に着けたのだろう?この日が来るのはわかっていたはず…今日明日、入隊するのとはわけが違うんじゃないのか?」
「…」
近藤としては前々から戦へ向かうことが決まっていた弾左衛門の兵たちと、予告なく現れた新撰組に熱狂して志願する日野の人々は違うと思ったのだが、永倉は深いため息を付いた。それは失望しているように聞こえた。
「…俺には一緒に見えます。局長は先ほどの兵たちを信頼できますか?」
「それは…」
「実際に戦となれば彼らを指揮するのは俺や左之助たち組長格です。ただでさえ人手不足なのに…いつ逃げ出すかわからない兵なんて必要ありませんよ」
「…」
永倉は出立前に浅草に出向き、兵たちに銃調練を行ったがあまりに士気が低く程度の低さに辟易していた。使い物にならないと彼らを兵として数え、現実から目を背ける近藤に思うところがあった。
「…俺には日野の人々の入隊を断ったのは、局長が格好をつけるためにそうしたのだとしか思えません。体裁を繕うための数が必要だと言うのなら仕方ありませんが」
「ぱっつぁん、そこまでそこまで!」
永倉の嫌味が零れたところに、原田が慌ててやってきて二人の間に入った。
「言い過ぎだぜ、ぱっつぁん。ハハハ、どうしたんだ?酒が回っちまったか?」
「……そうかもしれないな。言葉が過ぎました、申し訳ありません」
「いや…」
近藤にはとても永倉が酔っているようには見えなかったが、薄暗いためその表情があまり見えない。言葉だけの謝罪を受けて、近藤はそれをどう受け取って良いのかわからなかった。
原田は大袈裟に「ハハハ」と笑い、取り繕う。
「じゃ、じゃあ俺たちも戻ろうぜ?近藤先生もほら、明日早ぇんだろう?もう休もうぜ」
原田は永倉の背中を押し、必死にその場をお開きにしようとする。しかし近藤は「待ってくれ」と二人を引き止めた。
「永倉君の言う通り、道中兵を募ることにしよう。人手が足りていないのは本当のことだ。…また気が付いたことがあれば教えてくれ」
「…はい」
永倉は小さく頷いてひとまず重い空気は解消され、二人は宿へと戻って行った。近藤も別の宿に足を向けたがしばらく歩いたところで立ち止まった。
『格好をつけるために』
近藤は永倉の鋭い指摘にひとり苦笑いする。
(その気持ちがなかった…とは言い切れないな。心のどこかで皆に啖呵を切って尊敬されたいと思っていたのだろうな…)
浮ついた気持ちを永倉に見透かされた気がして近藤は反論できなかったのだ。日野の人々を守りたい…その気持ちはこれまでの恩返しでもあるが、故郷の人々に良く思われたいという勝手な気持ちも含まれていたのだろう。
「…寝よう」
近藤は急に昂っていた心が冷めた気がして、自分の宿に戻ることにした。
935
翌、三月三日。
近藤は永倉の助言を踏まえ、道中の村々へ人足を出すようにと命じた。命令に従い周辺の村の農民や猟師たちが加わるものの、浅草の兵たちが脱走してしまい、なかなか兵数は増えないまま鎮撫隊は進軍する。
土方は近藤が焦りと苛立ちを感じているように見えた。
「…大久保先生、なるようにしかならないだろう。ひたすら甲府を目指すしかない」
「ああ…わかっている」
昨晩までの威勢がすっかり消え失せてしまっている近藤が気がかりであったが、土方にはもう一つ気になることがあった。
列の後方にいた原田が口元を緩ませて土方の元へやってきた。
「なぁ、そっくりだよなぁ?」
「…誰が?」
「今朝志願してきた男だよ。確か…立川って言ったっけ?似てるだろう?」
「誰に?」
「わかってるくせによぉ。…山南さんだよ」
「…」
原田は好奇心からわざわざ駆けつけてきて話題を振ったようだが、土方にとっては懐かしくもあり、痛みでもある記憶が呼び起こされて複雑な気持ちだった。
立川主税は偶然鎮撫隊と同時に与瀬宿に居合わせた旅人だそうで、新撰組が隊士を募集していると聞きつけて入隊を志願したらしい。原田と同い年で体格が良く、キリリとした眉と穏やかな眼差し…それが山南そっくりの容貌だった。
「俺ァ、顔を見た時はあんまりにびっくりして山南さんの生まれ変わりかと思ったぜ」
「馬鹿なことを。山南さんが死んだのはついこの間だ」
「わかぁってるよ。だけどなんか…仏様のお告げじゃねえのか?」
「…なんのお告げだ?」
「さあな?」
原田は無責任なことを言ってちらりと近藤の様子を伺った。普段ならこのような与太話に気軽に入ってきそうなものだが、今は二人の会話が聞こえてすらいないようだ。
原田は肩をすくめながら「じゃあ」と元の隊列へ戻っていく。
土方は原田のように生まれ変わりだとは思わなかったが、立川を見た時から山南が亡霊のように傍にいる気がしてならない。それがひどく落ち着かないのだ。
(馬鹿げてる…)
何故こんな些細なことで胸騒ぎがしてしまうのか。土方はつくづく自分に腹が立った。
昼には甲斐国、最初の宿所である上野原宿に辿り着いた。与瀬宿より規模が大きく活気があるここでいったん休息を取ることとした。
近藤は疲れた表情をして「少し仮眠をする」と言って宿の一室に入ったので、土方は外に出て歩き回り兵士たちの様子を窺った。まだ日野での宴会の余韻があって士気が高いが、この先の道のりを考えると気が重い。脱走者がますます増えていくことだろう。
「おう、歳…じゃないな、内藤殿」
「…義兄さん。別にいいですよ、無理に呼ばなくても」
彦五郎は「そうか?」とすぐにかしこまった態度を崩した。互いに『内藤隼人』『春日盛』という表向きの名はあるが、義兄弟の間柄なのだから気恥ずかしさが拭えない。
「いやぁ、甲斐まで来たのは久しぶりだ。今日は猿橋まで行くんだって?あの手前に何とも奇怪な橋があるのは知っているか?橋脚がなくて浮かんでいるから、以前おのぶが渡るのを怖がってなぁ…」
「義兄さん…物見遊山じゃ困ります」
土方は顔を顰めたが、彦五郎は「そう言うな」と苦笑した。
「もう少し肩の力を抜いたらどうだ。甲府はあと二日もあれば辿り着く…城に入っちまえば難攻不落の甲府城、どんな敵にも勝てるに違いない。それにもともとは徳川の城、つまり正義は我々に在り、だぞ?」
「…そう簡単に事が進めば良いですが」
鳥羽伏見で嫌というほど儘ならない戦況に立ち会ってきた。今までの常識が崩され、裏切るはずのない藩に裏切られる苦い経験をした…土方は甲斐に近づけば近づくほど、その時の粟立つような感覚が蘇るような気がしているのだ。
彦五郎はまだ力が抜けない土方に苦笑しながら隣に並んだ。
「…そういえば、沖田君は日野に置いてきたんだな」
「ええ…総司の病状を鑑みれば最善だと思います」
「おのぶが驚いていた。姉の言葉には耳を貸さず、きっと無理をして連れていくだろうと思っていたのに…と」
「…総司が決めたことですから」
姉は土方と総司の関係を知っているが、夫である彦五郎にまで話しているのかどうかはわからない。お喋りな姉だが肝心なことは胸の奥に秘めて話していないのだろうと思うが、彦五郎はそのことには触れなかった。
「病が治れば…などと悠長なことは言えないし、我々もどうなるのかわからぬ身だ。だが、せめてもう一度…昨日のように皆で愉快な宴を囲みたいものだな。できれば甲府城の天守閣でな」
「…そうですね」
彦五郎が悪戯っぽくにやりと笑い、土方もつられて少しだけ口元を緩ませた時。
「あの…」
と聞き慣れない声が聞こえた。土方が振り返ると、件の立川がいた。傍に立つと大柄で少し猫背、目尻が下がり人がよさそうな雰囲気や佇まいが山南そっくりだ。別人だとわかっていても心構えをしていないとどきりとしてしまう。
「あ、ああ…」
「改めまして、立川主税と申します。私のようなどこの馬の骨ともわからぬ未熟者の入隊を許可してくださり、誠にありがとうございます」
わざわざ挨拶にやってくるところや穏やかな語り口がますます山南に似ていて、土方は「そうか…」と少し目が泳ぐ。隣にいた彦五郎も出稽古に来ていた山南のことをそれなりに知っていたので
「いやぁ、よく似ている!」
と愉快だと言わんばかりに手を叩いて笑った。立川は困惑した表情で首を傾げた。
「あの…その、似ているというのは一体どういうお話でしょうか?もしや新撰組の皆さんからどこか意味深な視線を感じるのもこの顔立ちのせいで…?」
「ああ、でもお前が悪いんじゃない。ただ昔の死んじまった仲間に似ているだけだよ、なあ歳三」
「…」
土方や他の食客や隊士たちが言いづらいと思っていたことを彦五郎はさらりと何の気なしに答えた。入隊したばかりの立川にとって、春日が新撰組の隊士かどうかなど見分けがつかないだろうが、憚れる事情だと察したようだ。
「そうでしたか…あの、気分を害されるようでしたら私は…」
「そうじゃない」
土方は身を退こうとした立川を咄嗟に引き止めた。せっかくの有望な新入隊士を勝手な理由で放逐するわけにはいかないし、まるで山南の亡霊を追い出すようで気が引けた。
「…あまりに似ているから皆、困惑しているだけだ。じきに慣れる…気にしないで良い」
「そ、そうですか…」
立川はほっと安堵したように微笑んだ。彦五郎は「じゃあな」と言いたいことだけを言って去って行ってしまう。土方は(相変わらず勝手な人だ)と義兄の振る舞いに内心ため息を付いたが、残った立川は「あの」と口を開いた。
「その方は…どういった方だったのでしょうか?」
「…山南という、新撰組の総長だった男だ。試衛館で共に暮らした仲間だったが…事情があって切腹した」
「せ、切腹を…」
武士ではない立川は自分にそっくりだという男の末路に少し青ざめていた。彼にとっては気分の良い話ではないだろうが、土方はようやく山南とは違うところを見つけてなんだか安心してしまい、ふっと小さく笑う。
「…最期こそ悲劇的だったが、俺と違って隊士みんなに慕われていた。もう古参の隊士しか過去に接していないだろうが山南を悪く言う者はいないだろう」
「そうですか…そのようなご立派な方だったのですね…」
立川は別の意味で困惑しているようだった。
「ただ似ているだけだ、気負わなくていい」
「ハハ…そう言っていただけて安堵しました。ありがとうございます」
山南の顔をして丁寧な物腰で深々と頭を下げられると変な心地だ。土方は話を変えた。
「それで何か話があったんじゃないのか?」
「ええ、実はこの先の猿橋の近くに知己の僧侶がいまして…気の良い宿老で地理に詳しく道案内に適しているかと思います。島田伍長からこの辺りの地理に詳しい者を探していると伺ったので、ぜひ近くを通りました時にご紹介させていただきたいのですが」
「…それは願ってもない話だ」
土方は立川の申し出を有り難く受け取った。まるで山南が遣わしたかのようなこの男がまさかこの後、土方と長く付き合う存在となろうとは思いもよらないことであった。
936
つかの間の休息の後、鎮撫隊は再び甲府へ向けて出立した。
かつて広重の浮世絵にも描かれたことのある猿橋を通り、桂川沿いにしばらく歩くと立川が紹介したいという知己がいる全福寺がある。近藤と土方は部隊を桂川沿いで休ませ、立川の案内で少し小高い場所にある寺院を目指すことにした。
「…大久保先生、具合が悪いのか?」
立川のあとに続いて細い山道を登りながら、土方は近藤の顔色を窺った。どこか眼差しが昏く表情が虚ろに見えたのだが、
「いや…問題ない。なんていうか…日野を過ぎて気が抜けたかな」
と頭を掻いて、誤魔化すように笑った。
「本当か?」
「うん…ついに甲斐に入ったからかな。これが武者震いという奴か…成し遂げなければならないという重責を今更感じているところだ。俺は勝先生の期待に添えるだろうかと…」
「…そうか。あんまり考え込むなよ」
「ああ」
それは土方にも身に覚えのある感情だった。銃撃に遭った近藤が伏見から大坂城へ移った時、妙に自分に自信がなくなり本当に自分が指揮できるのかと疑問に思ったのだ。しかしその時の土方以上に、徳川の一隊として多くの兵を率いる近藤のプレッシャーは図り知れないだろう。土方はこの時はあまり多くは尋ねずに見守ることにした。
そして山道を登り終え、広く立派な寺院に辿り着く。浅草今戸の曹洞宗の末寺にあたる全福寺は厳かでどこか喧騒から隔離されたような静けさがあった。この辺りの信仰を集めているのだろう。
するとちょうど石畳を掃除する初老の住職がいて、立川は「秀全さん!」と手を振り、住職は彼に気が付くとニィッと笑った。
「立川君じゃないか!ハハハ、半年ぶりかな?」
立川が事前に話していたことによると、彼が新撰組に入隊するまであちこち諸国を旅していた際にこの寺院に立ち寄り、この秀全という住職に世話になったそうだ。立川の礼儀正しい穏やかな人柄を気に入り、あれこれ世話を焼いてくれたらしい。二人は再会を喜んだ。
「秀全さん、お元気そうで何よりです」
「半年じゃあ老け込まんよ、立川君も何にも変わらんが。…それより、今日は客を連れて来たのか?この辺じゃあ洋装は珍しいな」
「ああ、こちらはいま私が世話になっている鎮撫隊…新撰組の局長です」
「新撰組だって?」
秀全は目を丸くして驚いた。近藤は秀全に歩み寄り、「新撰組局長近藤です」と名乗った。もちろん大久保よりも名が通っており、田舎の寺院にもその名は轟いていたようだ。
「へぇ!こんなところであの新撰組の局長さんのご尊顔を拝めるなんて。…私めはここの住職の斎藤秀全と申す。どうぞお見知りおきを」
「秀全殿。こちらは副長の内藤…いえ、土方歳三です。今日は立川君の紹介で是非この辺りの道案内などをお願いしたく足を運びました」
「ははぁ、道案内…拙僧がお役に立てるかどうかはわかりませんが、まあどうぞ中へお入り下せえ」
秀全は新撰組に好意的なようで気の良い好々爺のように三人を歓迎し本堂に案内した。ご本尊の大日如来に手を合わせ、早速本題に入り鎮撫隊として甲府に向かうためにこの辺りの地形などを教示してくれるように頼んだ。かつてこの猿橋周辺は甲斐の武田信虎と相模の北条氏綱の争いが起こる重要な交通拠点だったこともあるが、この先で官軍と対峙する可能性を踏まえてできる限り有利に事を運ぶために地形を把握しておきたかったのだ。
秀全はこの地に移って十年ほどだそうだが地理に明るく事細かに答えたが、やがて熱を帯びた。
「私は実は江戸の生まれでね、幕臣の子だったのだが六歳の頃に浅草今戸の寺に養子に出されて仏門に入ったんだ。生家を離れたのはもう五十年ほど前になるが本来は活発な子でね、剣術が好きだった。だから天然理心流と聞くたびに江戸にいた頃の懐かしさがあって、その四代目が新撰組の局長だと耳にした時は妙に嬉しくてねえ」
「そうでしたか…!まさかこのような形でご縁が繋がるとは。立川君のおかげです」
秀全は近藤とすっかり意気投合し、この辺りで戦が起こった際には宿陣として提供したいと申し出た。もちろんそれは有難いことであったのだが、
「よし、私も入隊させてもらおうか!」
と言い出した時には近藤と土方は目を丸くした。いくら活発で健康そうな好々爺と言えどももう五十六の僧侶なのだ。仲介した立川も驚いて
「ま、またまた。秀全さん、御冗談を」
「冗談などではないさ。立川君が入隊できるのなら私もできよう。それに足腰には自信がある…道案内が必要だと言っておったではないか」
「…しかし秀全さん、そんな簡単に入隊できるわけでは…で、ですよね?」
「あ…ああ。この先はなかなか厳しい道のりで…ああ、秀全殿は御存じでしょうが…ええと…」
近藤と立川はしどろもどろになりながら断ろうとするが、秀全の意思は変わらない。見かねた土方が口出ししようとしたところで、
「立川君よりも役立てるぞ?私なら御師に加勢を頼める」
と言ったので
「本当ですか?」
咄嗟に土方は問うた。秀全は自信たっぷりに頷いた。
御師とは社寺に所属する農民と神職の間の身分とされる者たちで、参詣者や信者のために案内や祈祷を行い参拝や宿泊の世話をする。この辺りでは富士浅間神社系の御師が多く、武芸達者ばかりだと耳にしたことがあった。彼らが加勢してくれるのではあれば相当な戦力となるだろう。
「この頃、『蒼龍隊』なる組織を結成したと聞いている。入隊した暁には加勢するよう口添えしたいと思うが?」
「…是非そうしていただきたい」
土方は困惑する近藤を差し置いて承諾した。いま鎮撫隊が求めているのは兵数であり、秀全一人を入隊させることでそれが得られるのなら願ってもないことだ。秀全はにやりと笑った。
「土方殿は頭が切れる御方のようだ。…私も還俗してお役に立ちましょう、決して年寄り扱いなされるな」
「勿論です」
…こうして新撰組最高齢の隊士が入隊することとなり、斎藤秀全(一諾斎)を名乗ったのだが、彼もまた立川同様、土方とともに北上していくこととなる。
その日の夜、鎮撫隊は予定通り猿橋宿へ到着した。与瀬宿と同じく規模の小さな宿場である。
今夜は秀全を囲んで一席設けられていて、特に彦五郎をはじめとした春日隊の隊士たちが酒を馳走し一同で俳句をひねるなど賑やかな様子だった。土方も彦五郎に誘われたので少し付き合おうと思ったのだが、近藤に引き止められて彼の部屋に入った。
「歳、大石君からの知らせはないのか?」
大石は斥候役として数名の隊士とともに先に甲府へ向かっている。とはいえ鍛冶橋を出たのは鎮撫隊出陣の数日前であったため、情報収集にはまだまだ時間が足りないだろう。
「…俺たちは甲斐に入ったばかりだろう?心配せずともそのうちどこかの宿場町で合流するはずだ」
「そうか…早く甲府の様子を聞きたいのだが…」
秀全という頼もしい助っ人を得て一時は近藤の表情は和らいだが、それもすぐに元通りになってしまった。土方はそのうち落ち着くだろうと達観していたのだが、近藤はこのままでは責任感で潰れてしまいそうに見えた。
土方自身も彦五郎に笑われるほど肩の力が抜けないままだったが、近藤とは質が違う気がして改めて腰を据えて尋ねた。
「…かっちゃん、どうしたんだ?昼間も言ったとおり鎮撫隊の重責を担うことになって負担に思うことはあるだろうが、あまりに落ち着きがない。そんな調子じゃ甲府に着くまで持たないだろう」
「…うん、それは自覚している。鍛冶橋を出て日野に着くまではようやく戦に出陣できると思って…意気揚々としていた。なのに今は…」
近藤は苦笑しつつ土方の前に掌を突き出した。その指先が強張り小刻みに揺れていた。
「かっちゃん…」
「ハハ、情けないよな。…上石原村や日野であんなに堂々と偉そうにしていたくせに…このざまだ。いまは武者震いだと誤魔化して隠し通せていても、そのうち化けの皮が剥がれて隊士たちに呆れられるに違いない。なんて頼りない大将だってな…」
「…自分を陥れるのは止めろ。まだ何も為していないだろう」
「だが、こんな俺に何ができるんだ?大きな戦の経験がない、右肩も動かない、剣も振れない…こんな肩書きだけの俺に!」
「…!」
近藤が顔を顰めて悔しそうに唇を噛む―――土方は近藤が自身の怪我についていつも前向きな言葉しか聞いたことがなかった。もう治った、痛くない、すぐに剣を振れる…そのせいであまり深刻に受け止めていなかったが、しかしそれはあくまで自分に言い聞かせて誤魔化していただけなのだと目の前の近藤の表情を見てようやく悟った。日野の人の前で披露した恥ずかしいくらいの熱弁は、心の奥底で自分の言葉の説得力のなさと裏返しだったのか。
土方はそんなことに気が付かなかった自分に愕然としながら、尋ねた。
「腕の具合はそんなに良くないのか…?」
「…」
「隠さずに教えてくれ、誰にも言わない」
「…痛みは耐えられるが指先に力が入らないんだ。真剣はとても重く感じる…盃を落とさずに持つだけで精いっぱいだ。松本先生は徐々に良くなるとおっしゃっていたが、横浜の医師にはもっと厳しいことを言われた」
「そうか…」
近藤の現状に、土方も言葉を失う。
近藤がこの戦に突き進む理由は、己の無力さを打ち消すためだったのだろう。そう思えば、近藤が焦って猪突猛進に突き進み、周りを見る余裕がなかったのは当然だろう。
なにかに追い立てられ、恐れるように目を伏せる近藤に土方は躊躇いながら口を開いた。
「…かっちゃんは嫌がるかもしれないが…銃を持つのはどうだ?」
「銃…」
「せめて自分の身は守ることができると自負できれば、考え方に余裕が生まれる。総司もそうだった…剣を手放せとは言わないが右腕に支障があるのなら新しい戦い方を身に着けるのは道理だろう」
鳥羽伏見から戦の中心は銃に移った。兵数で劣る官軍は最新鋭の銃を携えることで戦力で徳川を上回り圧倒的な勝利を収めたのだ。土方はそれも世の流れと受け止めることができたが、近藤はそうではなかった。剣幕を鋭くして土方を見据えた。
「道理?いや、右腕が駄目ならば左腕を鍛える方がマシだ。俺は天然理心流宗家の四代目だぞ?敵に銃弾に撃たれ、剣を諦めて銃を手に取るなど…義父上や門弟たちにどう説明したらよいと言うのだ?」
「かっちゃん、そういう意味じゃない。今のは例え話で…もっと周りに目を向けろと言いたいだけだ」
「もういい、俺は休む。…お前には俺の気持ちはわからない」
「かっちゃん」
近藤は強引に話を切り上げて、そのまま隣室の寝床へ去って行ってしまった。
憤りと苛立ち、悔しさと無力さに押しつぶされそうになっている近藤をみるのは初めてのことだった。
937
翌、三月四日。
曇り空が広がり、どんよりとしていて肌寒かった。
鎮撫隊は猿橋宿を出立し甲府への道のりを進み続ける。流石に少し疲れが出て足取りが鈍くなっていたが、
「急げ急げ」
と近藤が声を荒げて皆を急かした。兵士たちは重たい足でどうにか前へ進むしかなかったが、士気が次第に下がっていることは目に見えて明らかで、曇天がまるで彼らのいく先を示しているような雰囲気の悪さを感じた。
春日隊を率いる彦五郎が土方のところへやってきた。
「どうしちまったんだ、若先生は?」
近藤のことをよく知っている彦五郎はいつになく焦って口調が荒くなっている近藤を心配していた。隣にいた土方は「さあ」ととぼけたが、その理由はよくわかっていた。
(かっちゃん…まだ怒ってやがる)
近藤は早朝から出会した土方と目を合わせようとせず、すぐに背中を向けて頑なな態度のまま出立した。土方が『銃を』と口にしたのがよほど気に入らなかったのだろう。天然理心流宗家四代目として銃を持つことを拒否する気持ちはわからなくないが、土方は鳥羽と伏見でその必要性を強く認識していたし、それが時代の流れだと思っていた。
それに近藤はかつて自分の身を守るために総司に持たせるようにと説得したのだから銃という存在の意義はわかっているはずだ。それなのに拒むのは矛盾しているが、我が身となると受け入れ難いものだということなのか、それともまだ右腕を諦められないのか…。
『お前には俺の気持ちはわからない』
近藤が突き放すように吐き捨てた言葉が土方の脳裏に過ぎる。それが彼の本心だったのかと少し落胆する気持ちはあるが、確かに近藤の気持ちは想像してもし足りない。背負うものと抱える傷が大きすぎて、甲州に近づくほど力が入ってしまうのだろう。
「なぁ、歳三。若先生の傷は重いのか?」
彦五郎がまるで心の内を読み取ったようなことを聞いてきて、土方は一瞬言葉に詰まった。
「…本人は大丈夫だと言っていますが」
「そうか。…しかし若先生のところは娘ばかりで跡継ぎがいないだろう。以前鹿之助さんのところに自分に何かあれば天然理心流は沖田君に継がせるつもりだと知らせていたが、今はそれも難しいよな」
「…そうですかね」
土方はそれを他人に肯定されたくなくて曖昧に聞き流すが、彦五郎は続けた。
「腕のある弟子を婿養子にとって継がせるか…もちろん今はそれどころではないが、己の身以上に気がかりなことがたくさんあるんだろう。お役目のことや故郷の期待…重圧を感じるのは当然だ。お前が支えてやらないと」
彦五郎は土方の背中を軽く叩く。
(言われなくとも)
たとえ近藤が『必要ない』と言ったとしても、土方は幼馴染を放ってはおけない。少しのすれ違いがあったとしても二人の間には揺らがない絆が確かにあるのだから。
彦五郎は「おっ」と空を見上げた。曇天からはらはらと雪が舞い始めていた。
昼頃、花咲宿に到着し昼食を取ることとなった。中規模の宿場町は山に囲まれ、すぐ傍には大き笹子川が流れていてサラサラと瀬音が響くのどかな場所だった。
土方が軽めの食事を終えると島田がやって来た。
「副長、宜しいでしょうか」
「ああ…どうした」
「…ここではちょっと…」
島田が周囲の視線を気にするようなそぶりを見せたので、二人は人気のない川べりに移動した。島田は一番隊の伍長、そして古参隊士としてのまとめ役、さらには永倉の素行に気を配るように命じていた。いったいどの立場から、何の話だろうかと土方は構える。
すると島田は重たい口を開いた。
「実は、甲府から江戸へ向かっていた旅人の話を聞いたのですが…一昨日、韮崎あたりで官軍の姿を見たそうです」
「…なんだって?」
土方は目を剥いた。韮崎とは甲府城にほど近い宿場町で、もし二日前にいたということならとっくに甲府城に辿り着いている距離だ。
(まさか先に城を奪われたのか…?!)
土方は全身が粟立ち、島田に詰め寄った。
「それは本当の話か?!」
「は、はい。一人ではなく複数の旅人が同じような話をしていました。帝の兵だ、武田の末裔が来た…そんな話がちらほらと」
「近藤…いや、大久保先生にはお伝えは…?」
「いいえ…隊長にはまだ…。真偽を確かめてからと思い、まずは副長にご報告をと思いまして」
土方の剣幕がよほど鋭かったのか、古参の島田でさえ慄くように後ずさりした。土方は「すまない」と謝ったが率直に動揺していた。
(甲府城を徳川が接収することは事前に甲府勤番に伝えているはずだ。開城を迫られたとして易々と明け渡すわけがないが…)
しかし官軍が迫っていたのはもう二日前の話だ。おそらく下諏訪方面から東征軍が押し寄せれば、ほとんどの役人が去ってしまった甲府城はとても持ちこたえられない。
(遅かったのか…?)
二日前―――日野で宴を開いていた頃だ。過去を悔やんでも仕方ないとわかっていても、やはり先を急ぐべきだったと嘆息してしまう。
「…大石の姿はまだ見ていないな?」
「はい。おそらく詳細な情報を掴んで、今頃は急ぎこちらに向かっているのではないかと思います」
「わかった。…斥候たちが合流するまでは真偽は確かめようがない。皆を動揺させないために見聞きした隊士たちには口止めをしておけ」
「はっ」
島田は頭を下げて早速小走りに兵たちの元へ戻って行った。土方はその場に留まり、眉間に皺をよせて唇を噛んだ。旅人たちの勘違いであることを願いたいが、複数人の話ならまず間違いないだろう。
(かっちゃんに報告…いや、ますます焦らせるだけだ。ひとまず急ぎ先に進んで大石たちと合流しなければ…)
土方は無意識に懐に忍ばせている銀時計を握った。
こんな時に総司がいれば―――それもまたどうしようもないことではあるが、そんなことを考えてしまうほど精神的には追い詰められていた。
それからすぐのこと。
ずっと小さな雪が降り続き、一日中止むことはなかった。花咲宿からは険しい山道が続き、鎮撫隊が甲州街道最大の難所である笹子峠をようよう越えて、麓にある駒飼宿に到着したのは夕方を過ぎた頃だった。そこで大石と数名の斥候たちと合流した。
近藤と土方はまだ拗れたままでぎこちなかったがそんなことは些細な問題で、近藤はすぐに大石たちの報告を聞くために宿に入った。大石は相変わらずの無表情であるが、いつにもまして硬い表情で「ご報告があります」と切り出した。
「土佐藩士板垣某が率いる官軍が甲府城に入城しました」
「なんだって?!」
声を荒げたのは近藤で、土方は覚悟していたものの(やはり)と落胆しグッとこぶしを握り締めた。
当然、受け入れ難い近藤は青ざめて信じられない様子で大石に詰め寄った。
「ほ…本当なのか、大石君!」
「はい。官軍約八百、昨日甲府に到着し開城を迫り…本日入城したとのこと」
「八百…!」
入隊と脱走を繰り返す鎮撫隊はせいぜい二百ほどの兵しかいない。近藤は愕然として項垂れた。
「なんということだ…明日にはなんとか到着できる手はずだったのに、一日遅かったというのか…っ!」
「甲府城の者から聞きました。甲府勤番の佐藤駿河守は開城を迫られ、江戸へ問い合わせる旨で引き止めましたが強引に接収されたと…」
「…甲府城は難攻不落の名城だ。敵に入城されればとても取り返すことなどとても…っ しかも兵数で劣る我らに何ができると言うのか…?!」
近藤はドンドンと畳を叩き、悔しそうに嘆く。甲府城へ先に辿り着くことだけがこちらが優位に事を進める唯一の手段であったのに、それを失ってしまっては勝海舟に託された任務などとても果たせないだろう。もちろん十万石の大名になる夢もついえたと言える。近藤は絶望して顔を上げられなかった。
しかし鎮撫隊と違って、官軍の目的は甲府城を接収することではない。甲府城を足掛かりに江戸への進軍が目的なのだ。
官軍と鎮撫隊の衝突は近い―――。
土方はいつまでも落胆していられなかった。
「…大久保先生、俺は江戸へ戻る」
「…なんだって?」
「江戸へ戻って援軍を呼んでくる。勝先生や松本先生を頼り、徳川兵や会津兵、幕府海軍…とにかく兵を集めてくる。それから秀全殿には早速蒼龍隊の力を借りるために交渉を頼む」
約四倍の官軍とこれから対峙することになるのだ、とても今の鎮撫隊では太刀打ちできない。できる限りの伝手を頼り官軍に対抗できる戦力を持たなくてはまた鳥羽伏見の時のように蹂躙されるだけだ。
近藤はまだ青ざめたままだったが、土方の考えに同意した。
「…そうだな…横浜の菜葉隊を訪ねて俺の名前を出せばいい。それから八王子千人隊も…望みは薄いが声を掛けてきてくれ」
「わかった。大久保先生はこのまま進軍してくれ。官軍は俺たちが近づいているとわかれば出兵するだろう、俺が戻る前に戦になるかもしれないが…」
「俺が指揮をとる。…まさか俺には戦ができないとでも?」
「…いや、頼む。遅れている小荷駄方に人手を割いて早く大砲を運ばせた方がいいだろう」
「…言われなくとも、そうするつもりだ」
近藤がまだ一瞬牙を剥いたので、土方は頷いて収めた。ただでさえ気落ちしてしまった近藤とまた諍いになるわけにはいかないだろう。
土方は引き続き石に様子を官軍の探らせるように命じ、自分は支度を整えるために部屋を出たところ斉藤と鉢合わせた。もちろん彼のことだから不穏な空気を察して聞き耳を立てていただろう。斉藤は率直に
「副長が隊を離れては困ります」
と意見した。土方は苦笑するしかない。
「…だったら誰が援軍を頼みに行くんだ。勝安房守に顔が利くのは大久保先生か俺くらいだが、先生は怪我をしている。俺が馬に乗って江戸へ戻るのが効率が良いだろう」
「援軍を呼んだとして、間に合わなければ意味がありません。たった二百で甲府城を取り返すなど…無謀です」
「…逃げ帰るわけにはいかない」
土方は斉藤と同意見だったが、こればかりは新撰組の沽券や威信の問題で、鎮撫隊が戦いもせず江戸に引き返すなどあり得ない選択肢だ。
土方はコートに袖を通し、最低限の荷物を抱えて宿を出た。すっかり日が暮れていたがまだ雪が降り続いている。土方が斉藤とともに三日月の様子を見に行くと、ヒヒンと鳴いて餌も食べ終えていた。
「斉藤…いつも面倒ごとを押し付けて悪いが、大久保先生を頼む。今は動揺しているがきっとそのうち落ち着くはずだ、支えてやってくれ」
「…わかりました」
斉藤は積極的ではなかったが引き受けて頷いた。土方は鞍の紐を結び、三日月の背に乗って手綱を握る。
(日野に寄りながら夜通し走れば…明日の夜には江戸に着くだろうか…)
土方が出立の準備をしながら算段を立てていると、手伝っていた斉藤が見上げるようにして口を開いた。
「その代わりと言ってはなんですが、沖田さんのところへ寄ってもらえますか」
「…道中だから寄るつもりだが…何か伝言があるか?」
「いえ、ただ顔を見ていかれた方がよろしいのではと」
「…そうだな。あいつの耳に入る前に状況を伝えておこう」
おそらく斉藤はそういう意味で土方に勧めたわけではなさそうだが、ここで話し込んでいる時間はない。
「頼む」
「はい」
短い挨拶を交わし、土方は三日月とともに引き返し始めた。
938
土方が駒飼宿を出立した後。
近藤は永倉と原田、斉藤、そして春日隊の佐藤彦五郎と斉藤秀全を呼んだ。
甲府城が既に官軍に占領されている―――大石からの報告を彼らに知らせると、皆一様に動揺し困惑した。甲府城に先に入城することの意味を皆理解しており、自分たちが圧倒的不利な状況に陥ったのだと気が付いたのだ。
「これではとても勝てません」
険しい顔の永倉ははっきりと近藤に進言した。
「甲府城を先に取られ、兵数でも負けている。我々がまともに戦えるのはせいぜい百程度、大砲もまともに当たらない。…官軍にとって我々を撃退することは蟻を潰すよりも簡単なことでしょう」
永倉の指摘は尤もでぐうの音も出ないのだが、近藤は怯むわけにはいかなかった。
「…我々は勝安房守の命令で甲府へ向かうのだ。戦いもせずおめおめと逃げ帰るわけにはいかぬ。一戦交えねば」
「いえ、それではただの玉砕です。…ここは一旦、江戸に戻り編成し直すべきです」
「そうはいかぬ」
「何故ですか。それは局長の都合では?」
譲らない近藤と遠慮のない永倉の厳しい視線がぶつかり合う―――ピリリとした緊迫感が漂うなか、いつもなら「まあまあ」と仲裁する原田も流石に庇うことなく、
「…近藤先生、本当に勝てるのかよ」
と不安そうに永倉とともに問いかけた。厳しい顔をした近藤は二人の問いかけに即答することはできなかったが、引き下がるつもりもなかった。
「…歳が援軍を呼びに行った。勝先生に助力を請い、千人同心にも声を掛ける。…それに横浜の菜葉隊とは有事の際には共に戦うことを約束しているんだ。きっと歳は大軍を連れてきてくれるはずだ」
「…大軍、ですか」
永倉と原田は顔を見合わせた。近藤の言っていることは理解できたものの、期待できるほどの兵が集まるのか…近藤がただ大袈裟に誇張しているようにしか思えなかったのだ。
するとそれまで黙って状況を見守っていた彦五郎は
「…俺たちが日野で足止めしちまったせいか…」
と呟く。故郷の人々を招いて半日ほど宴会を催したことで進軍が遅れたことを後悔した。それはその場にいた誰もが思い当たっていても口にはしなかったのだ。
「それは違います。そもそも鍛冶橋を出立するのが遅かった…それに日野で春日隊が合流してくださったことは鎮撫隊にとって何よりのことです」
近藤は庇い、励ました。彦五郎は「すまない」と顔を伏せたが、永倉は身内贔屓だとどこか冷めた眼差しで近藤を眺めていた。
入隊したばかりの秀全はこの状況を俯瞰しながら眺めながら、眉間に皺を寄せ腕を組んで「ううん」と唸る。
「まあ…とにかく、その援軍ってのが合流するのを待つべきでは?」
「そうしたいのは山々だが…おそらく官軍は甲府城に留まらず江戸へ向けて甲州街道に軍を進めるだろう。我々は足止めのために出陣し、援軍が到着するまでの時間稼ぎに徹するべきだと思う。秀全殿にも協力を頼みたい」
甲府城を接収することが難しくなった今、せめて江戸への進軍を止めるために戦わなければならない。近藤にとって最低限の任務だったが、永倉は否定した。
「不可能です。…近藤先生、いい加減に現実を見ましょう」
永倉は語気を強めて近藤に詰め寄った。
「我々はせいぜい二百。そのうち半分は素人…張りぼての鎮撫隊に過ぎないのに、この険しい甲州街道でどうやって戦をするのですか。大砲が八門あったとて、手元にあるのは二門、加えて扱えるのは訓練をした新撰組の隊士だけ。どう考えたって勝てるはずがない!時間稼ぎどころか全員討ち死にです!」
「だったら何もせずに官軍が江戸へ迫るのを指をくわえて見ているというのか!」
歯向かう永倉へ近藤が怒鳴り返す。
これまで永倉は何度か新撰組にとって耳の痛い進言をしてきたが、このように近藤から言い返されるのは初めてだった。大抵土方が相手をするか、近藤が穏やかに受け取るかのどちらかだったのだ。永倉は少し面食らったが、既に疎まれる覚悟をしていた。
「しかし、せいぜい我々にできるのは進軍を妨害する程度!戦となれば兵が次々と死んでいき、きっと生き残るのはたった数人です。あっという間に新撰組は瓦解します!」
「そうはさせぬ!私が指揮をとるのだ!必ずや…!」
「はっ…一体どのような奇策があるのですか。鳥羽伏見を知らぬからそのように荒唐無稽なことを口にできるのです!」
「…!」
近藤は永倉の挑発に憤り、左手の拳を振り上げてドンッと畳に打ち付けた。それは重く、深く部屋中に響いた。
「…鎮撫隊の総大将は私だ、大久保剛だッ!私は徳川の名代としてこの戦の望むのだ、どのような状況であれ決して戦わずして退くことなどあり得ぬ!」
怒気を孕んだ大音声は宿中に響いただろう。
そしてその場にいた誰もが『鬼の形相』という言葉の意味を思い知る。激昂し真っ赤になった近藤が体を震わせ、その顔で気絶させるほどの迫力と威圧感があり、皆が息を呑んだ。だが今更身を退けない永倉はさらに言い返そうとしたのだが、
「待て」
とそれまで一言も発しなかった斉藤に止められた。斉藤があまりに険しい顔で睨みつけたので永倉は仕方なく口を閉じる。
「…大久保先生。突然の知らせに皆困惑しています。ひとまず一度頭を冷やし、まずは我々にできることを迅速にするべきでしょう。…遅れている小荷駄方に人を遣りすぐに戦ができるように武器弾薬の準備を。そして秀全殿にすぐに援軍が合流できるように計らっていただくべきかと」
「……ああ…そうだな。秀全殿、宜しく頼む」
近藤が声を掛けると、秀全は頷いてすぐに部屋を去っていった。続いて原田が促して永倉とともに並んで出て行き、まだ気落ちしたままの彦五郎も後ろ髪を引かれながらも立ち去った。
部屋に残ったのは斉藤だけだったが、近藤は両手で顔を覆いながら「はぁーっ」と深く息を吐いて天井を仰いだ。
「…すまない、斉藤君。抑えが利かなかった…」
「いえ…」
永倉が持ち出した『鳥羽伏見』の話題は近藤にとってもっともタブーで感情を揺さぶるものだったのだろうが、一方であの過酷な戦を経験した永倉や原田たちからすれば当然言及すべき出来事だった。斉藤としては客観的に状況を把握するためにもどちらにも肩入れしたくはなかったのだが、土方に頼まれていたので何があっても近藤の側に付くことを決めていた。けれどそんなことは近藤はお見通しだったようだ。
「…歳に頼まれたのだろうが、君も出て行ってくれないか」
「しかし…」
「いまから甲府奉行所へ文をしたためるんだ。我々鎮撫隊はあくまで対抗するつもりはない、進軍を止めてくれ…と官軍に伝えるように、な」
近藤は文机を傍に寄せ墨をすり始めたが、斉藤は首を傾げた。
「…それは…先ほどおっしゃっていたことと真逆ですが…」
「もちろん戦うべきだというのが本音だ。だが…文ひとつで時間稼ぎができるのならそれでいいじゃないか」
「…わかりました」
斉藤は意図を理解し、近藤を置いて部屋を出た。
早朝から降り続けている雪はまだ止む気配をみせず、はらはらと舞い続けている。冷え込んだ空気が身体の中に一気に取り込まれて疲れているはずなのに眠気は吹き飛んでしまった。
(まあいい…どうせ眠れない)
それはきっと斉藤だけではなく、隊を率いる近藤や永倉と原田も同じだろう。
―――その日の夜はとても長く感じた。
翌日、三月五日。
雪は寒さだけを残してその姿を消していた。
斉藤が浅く眠り目を覚ますと隊の雰囲気は一変していた。甲府城がすでに占拠されたことが隊内に知れ渡ったのだ。その噂の元であろう口の軽い原田を問い詰めると
「別に口止めされていたわけじゃねえし、どうせみんな知ることになるんだから構わねえだろう」
とあっさりしたものだった。確かに隠したところで今日中には甲府に近づくので皆の知るところになるのだが、積極的に広める話題でもないはずだ。おかげで動揺している者が多い。だが原田に思うところがあるようで悪びれはしなかった。
「なあ斉藤…鳥羽伏見で淀や津に裏切られた時、上は兵を置き去りにしてさっさと逃げた…それで士気が下がって散々な目に遭った。そんな裏切りはもう御免だし、上に立つ俺にはできない。だから俺はこれから不利な状況で官軍と戦おうって言うのに、そのことを隊士たちに隠すことなんてしたくねぇんだよ。…逃げ出す奴はどうせいつか逃げ出す」
「…そうだな」
淀の裏切りを皮切りに津が寝返り、紀州は兵を出さなかった。そして錦の御旗を掲げられ『自分たちが賊軍だ』と責められた兵士たちは一気に戦意を失い指揮系統が乱れて多数の脱走者を出した。命をかけて戦う傍らで味方が逃げていく光景ほど情けなく悔しく思うものはない。だから先んじて何もかもを打ち明けて戦いたいという原田の正直な気持ちはわかる。
だがあの時とは違い、永倉の言う通り半数は素人の兵士なのだ…甲府城を落としたとなれば先行きに不安を覚えて逃げ出す者がさらに増えるのではないか…。
そんな斉藤の危惧は近藤にもあった。
「皆聞いてくれ!」
出立前、ざわざわと騒がしい隊士の前に近藤が仁王立ちした。近藤の鋭い眼差しには昨夜の鬼の形相がまだ残っているようで、隊士たちは静まり返った。
「確かに甲府城は接収された。しかしいま内藤君が援軍を呼ぶべく江戸へ戻りすぐに合流する手はずになっている。我々は戦の支度を整え勝沼へ向かう。近くには…会津の軍がいる!」
『会津』…その響きに隊士たちは「オオ…ッ」と声を漏らした。徳川のために先陣を切って戦い続けて来た会津は、隊士だけでなく天領の出身である春日隊や地元の農兵たちにとって熱望する存在であろう。
「なんと心強い!」
「我々のために会津が!」
甲府城を奪われ気落ちしていた隊士や兵士たちの目に力が漲る。近藤は続けた。
「援軍は必ず来る!わが軍は大軍となって甲府城を必ずや取り戻すだろう!」
高らかな宣言に隊士たちは片手を挙げて呼応し、鬨の声が宿場中に響き渡る。その渦中のなかで永倉は無表情のまま近藤を見つめ、原田は困惑しながらも隊士たちとともに手を上げ、彦五郎は息を吹き返し彼が率いる春日隊も意気込んでいる。近藤は
「出陣!」
とさらに熱狂のうちに出立を宣言する。斉藤は轟音のなかで
「…局長…」
と声を漏らした。
(会津など来るはずがない)
会津は鳥羽伏見の戦の責任を問われ恭順することを条件に故郷に引き揚げたのだ。残っている数名の会津藩士たちは別の幕軍とともに行動を共にし、少なくとも会津の軍はこの辺りにいるはずがない。会津との繋がりがある斉藤はすぐにそれが『嘘』だとわかった。
(やはり…引き止めるべきだった)
この場にもし土方がいれば近藤の暴挙を止めることができただろう。だが近藤もどうにかこの不利な状況で兵士たちを減らさないよう切り抜けるためについた嘘なのだ。
斉藤は宿場に響くこの鬨の響きがとてもやりきれず、虚しく聞こえた。
939
駒飼宿を出てからも山道は続く。
『会津からの援軍が来る』―――近藤の言葉で士気は上がり、鎮撫隊はその勢いのまま次の鶴瀬に辿り着いた。鶴瀬も宿場町であったが先を急ぐ鎮撫隊は立ち寄ることなく進軍した。
隊士たちとともに永倉は黙々と歩き続けながら、昨晩の近藤とのやり取りを何度も反芻して自問自答していた。
(俺はもう一度…近藤局長を信じると決めただろう…)
友人の芳賀に諭され、まだ自分の心のなかに近藤を信じたいという思いがあることに気が付いた。だからもう一度信じてみよう…そう思ったはずなのに、どうして近藤の一言一言に反抗し噛みついてしまうのか。なぜここまで相反してしまうのか…。
(ついカッとなって鳥羽伏見のことを持ち出してしまったのは良くなかった)
永倉は感情的になってしまったことを反省したが、あの地獄を知らない近藤が無防備に猪突猛進する姿に危うさと疑問を感じたのだ。
永倉とて戦場へ向かうのだから命が惜しいわけではない。討ち死にする覚悟を決めている。けれど勝てるはずのない戦に向かい、無意味に落命してしまうのは指揮官の能力不足で兵にとって理不尽なことだ。今一度立ち止まり、江戸へ戻って建て直せば良いのではないかと思うが近藤は聞く耳を持とうとせず、あれ以来話をしていない。いつもは楽観的な原田も口数が少なく、少し考え込んでいるようだった。
「永倉先生」
隊士の群れから古参隊士の林新太郎と矢田賢之助がやってきた。林は壬生浪士組からの同志、矢田は禁門の変の頃の入隊で二人とも永倉を慕っていた。
「どうした」
「先ほどの局長のお話ですが…会津の援軍というのは本当に来るのでしょうか?」
「一体いかほどの援軍が来るのですか?」
「…」
永倉には明確な答えがなかった。
江戸へ戻ってからあちこちで徳川脱走軍が戦を起こし収拾がつかない状況だ。そのなかで会津の一隊が秘密裏に行動を起こしていてもおかしくはないが、会津は国元へ戻ったものと理解していたのだ。だが永倉は近藤の言葉を否定はしなかった。
「…近藤局長がそうおっしゃるのだから信じるしかあるまい」
己の邪推を伏せて敢えて淡々と答えた。せっかく士気が上がり揚々と進軍しているのだから余計な波風を起こして隊に混乱を招きたくはない。林はあまり納得していなかったが、矢田が話を変えた。
「先生、後方の目の届かないところでは次々と兵士が脱走しています。特に浅草の兵が多く逃げ出して…小荷駄方の負担は増えるばかりです」
「やはりそうか…」
会津が援軍に来ると聞いて喜ぶのは新撰組や春日隊、地元の農兵たちばかりで、弾左衛門の兵たちは甲府城が占領されたことを知って負けの公算が強まったと判断し、まるで呼び水のようにきつい小荷駄方の任務から次々と脱落しているという。永倉は端から期待などしていなかったが、この先徳川から拝領した大砲八門を運びきることは難しいだろう。そうなると戦力も落ちる。
(…土方さんがいればこんな簡単な計算、容易だっただろうに…)
頭に血が上った近藤を止められる者などどこにもいないことを嘆くしかない。永倉が内心ため息を付いていると、
「あ…あの辺りだ」
林が道中にあるちょろちょろと水が湧き出す沢を指さした。先を行く隊士たちは気にも留めず通り過ぎていくが、林につられて矢田と永倉も立ち止る。そこには古い看板で『血洗沢』とあった。
「血洗かぁ、物騒な名だな」
「まあなぁ。でもあの武田勝頼の最後の家臣と呼ばれた片手十人斬りの土屋惣蔵が、主君を惑わせた奸臣・跡部大炊介が逃亡した時に追尾して斬り、この沢で血を洗い流したとか」
「へぇ、でもいまにも枯れそうだ」
物知りの林に感心する矢田。彼らの何の気もない会話が永倉の心を揺さぶった。
(忠臣と奸臣か…)
武田勝頼自害の際に時間稼ぎのため奮戦した土屋惣蔵は、脱鎮撫隊を率いる近藤と重なり徳川にとって忠臣と言える存在だろう。そして武田家没落の原因を作った跡部大炊介は近藤に強く進言し戦を阻もうとする自分と同じではないか―――。
(となれば、俺が殺されるのか…)
近藤の行く手を阻む自分は、彼という英雄にとって奸臣となるのだろうか…そんなことを考えながら苦笑した。
同じ頃、隊を離れた土方は日野の佐藤家に駆け込んでいた。
「一体どうしたの?!」
姉ののぶは盛大に見送ったはずの弟が血相を変えて飛び込んできたので酷く驚いていたが、土方には事情を説明している暇はない。三日月から降りてすぐ玄関に上がった。
「姉さん、背格好の合う羽織と袴を用意してくれ」
「え?貴方、今更その恰好を止めるつもり?似合っていないと言われた?」
「違う。上様にお目通りを願うつもりだ、洋装では支障がある」
「う、上様って…」
のぶは混乱していたが、土方は「早く」と急かした。のぶが慌てて部屋に飛び込み箪笥をひっくり返す傍らで、土方は土間に行き冷たい水を飲み干した。三日月とともに夜通し走り続け喉はカラカラだったが頭の中ではあれこれ考えが巡っていた。
(小島さんにも農兵隊へ追加の召集を頼んで甲州へ向かうように話した。…あとは江戸へ行って、援軍を呼ぶ…それから横浜にも向かわねば…)
今日中に鎮撫隊は甲府城近くに布陣することとなるだろう。そうなると江戸へ向かい援軍を呼んで引き返し鎮撫隊と合流できる頃にはもう戦が始まっているかもしれない。
(かっちゃんのあの様子じゃ、官軍と鉢合わせしたらすぐに仕掛けちまう)
一刻も早く江戸に向かい、近藤の元に戻らねば。
焦る土方の元へのぶが紋付きの羽織と袴を持ってきた。どちらも誰も袖を通したことがない真新しいものだった。
「歳三、これでいいかしら」
「…これは義兄さんのか?」
「いいえ、幕臣に取り立てられたと聞いて貴方のために仕立てたの。いつか上様にお目通りするかもしれないって主人がいうものだから…」
それなのに弟は洋装になって戻って来てしまい、箪笥の肥やしになっていたのだろう。つくづく甲斐のない末弟だが、のぶは責めることなく丁寧に畳みながら風呂敷に包んできつく結んだ。そして目を伏せながら恐る恐る尋ねた。
「ねぇ歳三、あの人は無事なの…?」
「ああ…姉さんは心配しなくていい。俺は兵の数を増やした方が良いということになって引き返しているだけだから…」
土方は嘘はつかなかったが、甲府城が占領されて不利な状況に立たされていることは伏せた。のぶのことだから弟だけでなく夫の身まで案じて甲府までやって来かねない。
「春日隊は後方支援に回る。決して危険な戦場には出ないし、何かあっても…ちゃんと姉さんのところに帰すから」
「貴方は?」
「…俺もそのつもりだ」
「…わかったわ」
のぶは風呂敷を土方に手渡して、見送りのために外に出た。土方は三日月にも水を飲ませ手綱を引いた。
「歳三、総司さんのところへ行くの?」
「…ああ。少し顔を出すつもりだ」
「そう。…宜しく伝えてね」
のぶはまだまだ聞きたいことがあるようだったが、ぐっとこらえて馬に乗った弟を見送った。
土方は夜通し走り続けても目が冴えて眠気はなくまるで戦場にいるかのように身体が強張っていた。何の変哲もない田舎の光景が官軍の侵攻によって一変するかもしれない…その引き金を弾くのが鎮撫隊になりかねない状況なのだ。
(いや…まだ負けたわけじゃない…)
打開策はあるはずだと自分を励ましながら、常久村の関田家に到着した。一目で裕福な家柄だとわかる立派な門構えを見つめていると、ちょうど英とともに庭先を散歩していたらしい総司にでくわした。総司と別れたのは三日前のことだ。
「土方さん?!」
総司は目を丸くして駆けつけて来た。たった少し…けれど目まぐるしく状況が変わった三日間であったため随分長く離れていたような気がして、土方は抱きしめたい衝動に駆られた。けれど他家の門前でそんなことをしている場合ではない。
「…先に甲府を取られた。手前の勝沼あたりで衝突することになるが、圧倒的に兵の数が足りない。俺は援軍を呼ぶために江戸に戻る」
土方は手短に説明した。総司はあまりに突然のことの連続で理解できていない様子だったが、
「わ、私も…!」
と言い出した。戦況が理解できなくとも土方のあまりに慌てた様子で察せられたのだろう。
(お前を連れていけたらどれほど良いか…)
しかし土方はグッと堪えた。
「…お前は英と一緒に江戸へ戻れ。松本先生に事情を説明しておくから、先生を頼ってくれ」
「…!わかりました…」
「じゃあな」
土方は総司や英、騒ぎに気が付いた関田家の家人たちに見送られながら、再び江戸へ戻るために手綱を握ったのだった。
940
近藤が率いる鎮撫隊は雪が降り積もる山道を越えて勝沼宿に入った。そこで再び大石ら斥候役たちと合流し、斉藤や永倉、原田などが同席のもと報告を聞くことした。
大石は相変わらず淡々としていた。
「甲府城入城を果たしたのは東征軍とは別動隊の土佐迅衝隊でした。板垣退助の正体は乾退助…高島藩小隊や因幡鳥取藩兵とともに別動隊を率い本日正式に入城したとのこと」
「乾…土佐陸軍総督だな」
近藤は以前勝からその名前を聞いたことがあった。土佐における討幕派の重鎮で薩摩と密約を結んだ張本人であり、藩内の慎重派を退け続けついには藩の方針さえ討幕へと向かわせた男である。大石は報告を続けた。
「迅衝隊が百、因幡鳥取藩兵が三百人ほど入城しており、続々と援軍が到着しています」
「…援軍か。やはりこれ以上増える前に早く手を打たねばならぬ…」
近藤の傍らに控えていた斉藤は
「正式に入城…というのは?」
と訊ねたところ、大石は頷いた。
「官軍が開城を迫ったあと甲府城では考えが二つに割れていたそうです。一つは我々鎮撫隊を迎え入れ城近くの笛吹川にて一線を交えようとする抗戦派と、官軍を一旦入城させ交渉すべきという日和見派…議論はまとまらず、結局は抗戦派が城を脱出し、他の日和見派の勤番は城を開け放ち逃げ出したようです。町は家財道具を乗せて江戸に戻ろうとする大八車で混乱しています」
「そんな…」
近藤は甲府勤番の体たらくに頭を抱えつつ、
「…佐藤駿河守は?」
と尋ねた。佐藤駿河守は新撰組に助けを求めに来た張本人で、甲府城の城代を務めている。しかし大石は首を横に振った。
「行方不明です」
「…つまりは城代が日和見派だったということですか…」
永倉はため息混じりに吐き捨てた。甲府への進軍のすべての始まりとなった佐藤駿河守がすでに甲府城を手放して逃げ延びてしまったのだからますます脱力するしかない。しかし近藤は彼を責めなかった。
「いや…佐藤駿河守の申し出を受けたのは一月の半ば。それからもう一か月半になるのだ。応援は来ぬと諦めて役目を放棄するのは心情としては仕方あるまい。…しかし結局板垣はもぬけの殻となった甲府城に易々と入城したということか…」
開城を迫った結果、無血開城となり拍子抜けしたことだろう。何の犠牲も苦労もなく占領されてしまい、近藤としてはやりきれない。
鎮撫隊にやってくるのは悪い知らせばかりだが、大石から唯一良い知らせもあった。
「それで、その抗戦派の勤番たちが鎮撫隊に合流したいと持ち掛けてきましたがいかがいたしましょうか」
「! それは何より有難い申し出だ。いまは一人でも多く兵が欲しい…大石君、すぐに合流してくれるようにと伝えてくれ」
「はい」
大石は早速席を立ち、近藤は腕を組んだ。
「甲府城を取られてしまったが、甲州街道と青梅街道さえ抑えられれば江戸への進軍を阻むことができる。少し戻って柏尾あたりの分岐点近くに陣を構えようと思うがどうだろうか?」
近藤は甲府城の奪還は一旦は棚上げし、江戸へ向かって進軍する官軍と一戦交えるつもりだった。昨夜対立した永倉は近藤の提案を耳にして一瞬顔を顰めたものの、堪えるように唇を噛んで、
「…軍事上、相応しいと思います」
と意見するにとどめた。原田もまた永倉と「それで」と同調して頷くと、近藤は少し安堵したように「よし」と膝を打った。
「鎮撫隊到着の知らせはすぐに甲府城に届くだろう。甲府奉行へ書いた文が届いているかわからないが…明日にでも戦が起きるかもしれぬ。すぐに出陣できるように支度を整えよう。永倉君、改めて兵数を数えて報告を頼む」
「わかりました」
永倉はさっと立ち上がり、部屋を出た。
近藤は勝沼宿から東へ後退し、柏尾の大善寺を本陣とした。しかし大善寺には東照大権現の時代から伝わる寺宝があり、どうか戦火に巻き込まないようにと拒否されたため境内ではなく長い階段を降りた先の山門前に陣を敷いた。
日が暮れ始めた頃、永倉と原田が揃って近藤の元へ報告にやって来た。二人とも苦い顔をしていた。
「点呼が終わりましたが…兵の数は百二十一人まで減っていました」
「…何…?」
当初三百人ほどいたはずが、三分の一程度になっている。明確な数字を告げられても近藤は「本当か?」と現実味がなかったが、永倉は予想できていたし、実感していた原田は腰に手を当ててため息を付いた。
「本当だ。しかも逃げ出した奴のほとんどが浅草弾左衛門の兵だぜ。帝に歯向かうのが不本意だとかどうとか言ってたらしいが…結局は勝てねえ戦はしたくねぇってことだ」
「…何故勝てないなどと決めつける?」
想定よりも多い脱走者の数を突き付けられ、憤った近藤は原田に牙を剥いた。
「少し待てば援軍が来る。横浜の菜葉隊は五百を超すはずだ。そうなれば対等に戦えるというのに何故組長自らがそのような弱音を吐く?兵が不安に思うだろう!」
「…」
「それに小荷駄方の管轄は左之助のはずだ」
近藤に睨み責められ、原田は気まずそうに視線を逸らしたところ永倉が間に入った。
「…大久保先生、左之助だけを責めるのはどうかと。それにこれは弱音ではなく本音です」
「何…?」
「険しい山道を進み、ようやく辿り着いたと思ったら甲府城を取られ、兵数は三分の一。このような状況で徳川に恩のない雇われ兵たちが我先にと逃げ出すのは当然のことです。…だから言ったじゃないですか、身分欲しさに武士の真似事をする者を信用できるはずがないと」
「…松本先生のご紹介だ、無碍にはできぬ」
「無碍にする必要はありませんが彼らを戦力としてみなすこと自体が問題で…いや、甲府城を取られるまではそれでも良かった。何もかも甲府城を官軍にとられたことが一番の原因です。何故先に接収されてしまったのか…それは俺が言うまでもありません。至らぬところがあったのは左之助だけではありませんよね」
「…それは…」
近藤はそれまでの責めるような眼差しを伏せて急に口ごもってしまった。甲府城を接収された原因は出立の遅れと上石原村・日野での足止めにある…それは永倉や原田でなくとも皆が近藤の失態だと思っていることなのだ。そしてそれは本人にもその自覚があるだろう。
近藤が原田を責めたのはただの八つ当たりだったのだ。
「…土方さんが連れてくる援軍がどれほどの数かはわかりませんが、たった百二十一名で一体何ができるのか…奇策がありますか?本当は援軍を待つ時間稼ぎをすることすら危ういのではありませんか?」
永倉は感情的にならないように努めながら問いかける。
したいのは喧嘩ではなく議論だ。もう起きてしまったことは仕方がないことで誰を責めてももう意味がない…だからこそ意見をぶつけあって最善策を探ることが必要だと思っていた。
近藤も昨夜の反省があってグッと言葉を飲み込んでいたが、だからと言って永倉の言葉を受け入れ主張を曲げることはなかった。
「…戦わず江戸へ逃げ帰ることはできぬ」
「鳥羽伏見のように負けるとわかっていても、ですか?」
「歳が帰ってくるまで勝利を信じて戦う…それだけだ」
近藤が目を伏せながら答える姿を見て、永倉はスッと全ての閊えがなくなった気がした。それは許容ではなく諦めだ。きっとこれ以上戦を回避することも、議論をすることもできない。いま目の前にいる『鎮撫隊隊長』は試衛館の道場主で新撰組局長として苦楽を共にしてきた近藤勇ではなく、幕臣として大層な名を与えられて名誉と義理に縛られ別人になってしまった『大久保大和』なのだ。そんなふうに諦めてしまった。
「…わかりました。では一つだけお聞きしても良いでしょうか?」
「なんだ…?」
「会津の援軍はいつ来るのですか?」
「…近いうちに」
近藤はまた永倉の目を見ずに答えた。それが答えだと察した永倉は息を吐いた。
「行こう、左之助」
「ぱっつぁん…でもよお…」
困惑する原田とともに永倉は項垂れる近藤の元を離れた。
あっという間に日が暮れて大善寺の門前にはたくさんの篝火が焚かれていた。その明かりに原田の不安そうな顔が照らされていた。
「…どうするつもりだよ?」
「…どうするもなにも、戦うしかない。いまの大久保先生を信用はできないが…戦の前に逃げ出すような卑怯な兵と一緒にされたくはないからな」
永倉のなかで、近藤に対する不信感との狭間でぎりぎりのところで新撰組としての誇りが勝った。それに組長として多くの部下を抱える永倉はそう易々とすべてを投げ出してしまえるほど無責任ではなかったのだ。
原田も同調し、
「そうだな…戦うしかねえよな。鳥羽伏見をどうにか乗り越えたんだ、今度もどうにかなる」
「ああ」
永倉は小さく微笑んで見せたが、その内心で葛藤があった。近藤を信じたい気持ちと、信じられない気持ち―――けれど一つだけ確かなのは
(こんなところでは死ねない)
という強い決意だった。
931 井上泰助の除隊についてはもう少し時期が早いはずです。泰助の妹がのちに、警察官となった沖田芳次郎に嫁ぎ義兄弟の間柄になります。
935 立川主税の入隊時期は不明で、鎮撫隊の隊士募集時に加わったと言われています。
939 血洗沢は現在も看板が立っているそうですが、湧き水は枯れてしまったそうです。
また跡部大炊介は『甲陽軍鑑』(軍学書)においては武田家没落の原因となった奸臣と言われていますが、実際は武田勝頼自害の際に共に自害した有能な部下(信長公記)とも言われています。※門外漢につき間違っていたらご容赦ください。
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