わらべうた
941
永倉が近藤に直談判していた頃、斉藤は勝沼宿に残っていた。近藤に夜通し篝火を焚くように命令されたからだ。そうすることで篝火は勝沼宿から大善寺まで続き、遠くの甲府城からは鎮撫隊に宿場町には留まれないほどの多くの兵が集っているように見えるだろう。
(子供騙しがいつまで続くかわからないが…)
日が暮れてから、大石が甲府勤番の抗戦派を率いてこの勝沼宿に合流していた。彼らによると鎮撫隊の存在は認識しているが、それを構成しているのが新撰組だということは官軍の耳には入っていないそうだ。
(もし知られれば目の色を変えて仕掛けてくるだろう…)
永倉たちは一旦退くべきだと考えているようだが、斉藤は近藤が期待した通り土方が援軍を連れてくるまで保てばいいと思っていた。だから援軍という意味でも、近藤の補佐という意味でも土方には早く帰ってきて欲しいものだ。
「斉藤先生」
篝火の側で物思いに耽る斉藤の元へ大石がやってきた。真っ先に甲州に入り任務を果たした彼だが流石に疲労を隠せていなかった。
「…どうした。早く休め」
「援軍は本当に来るのですか」
「…」
斉藤の頭の中を覗いていたかのように的確な質問だった。他の隊士や兵士たちなら曖昧に誤魔化して答えることができるが、斥候役の大石はこの状況を把握しているだろう。
「…土方副長が呼びに行っているが、現実的には三、四日かかるだろう」
「あては…?」
「さあ…」
「…そうですか」
近藤は横浜の菜葉隊や八王子千人同心などを挙げたが、実際は口約束だけで明確な取り決めはない。伝習隊や伊庭の属する遊撃隊が駆けつけるとなれば戦力として期待できるが、望み薄だろう。大石はさらに問い詰める。
「会津が来ると言う話を聞きましたが…この辺りには会津軍はいないはずです。局長は一体どういうつもりでしょうか」
「…俺に聞くな」
斉藤は土方に頼まれたので近藤の味方であるつもりだが、不確かな話に便乗するつもりはない。しかし鎮撫隊に先んじて入国していた大石はそれを虚言だと理解していて、篝火の下で見える彼の表情は淡々としたなかに憂いと失望があった。
「…我々鎮撫隊と同時に歩兵第六連隊四百名が信州鎮撫のために江戸を出立しています。勝安房守は脱走兵の引き取りと信濃国の幕領二十四万石の鎮撫を約束した…我々と全く同じ状況です」
「…それがどうした?」
「我々は厄介払いをされただけです。勝安房守にとって実際に甲州や信濃がどうなろうと関係はない…水面下で官軍との交渉は進んでいるのではないでしょうか」
「つまり?」
斉藤は大石の真意を図りかねて先を促した。大石は相変わらず表情を変えずに、
「奮闘したところで意味がない。…命をかける必要はありません」
「…命が惜しくなったのか」
斉藤は大石がそんなことを言うとは思わなかった。
大石は数年前、不運にも隊士の今井祐次郎によって弟である造酒蔵を殺されその復讐のため屯所で騒ぎを起こした。その際に私闘を禁じる法度で切腹を申し付けられるはずが、近藤と原田の恩情によって隊に留まり、以降監察方として隊の裏方に徹してきた。山崎が死んでからは江戸周辺での土地勘があることもあって土方が重用している。
そして弟を切り殺した今井は、鳥羽伏見の戦で死んだ―――。
大石は大切な弟を殺された傷が癒えず、ずっと凍てついたままここまでやってきた。しかし宿敵の死によって復讐心は少しは昇華されたはずだ。
斉藤が訊ねると、大石はそれまでの無表情からようやく顔を顰めつつ、上手く言葉にできないのか視線をぐるりと一周させた。
「……いまのところ新撰組の隊士であることに異論はありません。ただ…承服できないことが多々あり胸の閊えとなっているだけです」
「…」
『承服できない』『胸の閊え』…それは以前の大石なら決して沸かなかった感情だろう。恨みのある石井がいなくなったことで凍り付いた心が溶け、人間らしい感覚が戻って来たとでもいうのか。
それが喜ばしいような余計なような…斉藤はどう評価してよいのかわからなかったが、そこへ春日隊の佐藤彦五郎がやって来た。
「大石君じゃないか!」
「…ご無沙汰しております」
突然顔を出した彦五郎に大石は打って変わって柔らかい表情を見せた。彦五郎は再会を喜んだ。
「歳三に君は斥候役だから不在だと聞かされて残念に思っていたんだ。ようやく会えたな。元気そうでよかった」
「はい。忙しないせいで日野に寄ることもできず失礼いたしました…御内儀はお元気ですか」
「勿論、家内は相変わらずだよ」
斉藤は(そういえば)と、そもそも大石が試衛館食客たちと関りを持つきっかけは彦五郎の紹介だったという話に思い至る。天然理心流の門弟として日野に住み、佐藤道場で指導を受けていたそうだ。腕は抜きんでていたものの総司のことを遠ざけて彼の稽古には顔を出さなかったらしいが。
大石は彦五郎には随分世話になったようで見たことがないほど愛想がよかった。
「一緒に呑まないか?良い塩鮭を御馳走してくれる宿なんだ」
「御相伴に預かります」
大石は即決して頷く。彦五郎は斉藤も誘ったが「役目があるので」と断ったところ、二人は並んで宿に向かっていった。
同じ頃、土方は江戸今戸の称福寺を訪ねた。ここは医学所を出た松本が戦で負傷した怪我人を診ている臨時病院である。
甲州にいるはずの土方が現れ、松本は素直に驚いていた。
「夜更けに申し訳ありません」
「いや、何かあったのか?」
「ええ…先生に頼みがあります」
松本は「来い」と寺の本堂へと向かう。
「すまねぇがいま客が来ててな…」
「すぐ話は終わります」
「そう急くな。お前にとっても悪い相手じゃない」
そういいながら松本は気の進まない複雑そうな顔をしている。その顔を土方は見たことがあった。
「…安房守様がいらしているのでは?」
「察しがいいな。さっき突然来てな…酒を飲ませろと言うから仕方なく」
かつて長崎で学んだ二人には親交があったようだが、松本は勝のことをあまり親しくは思っていないらしい。しかしふらりと現れては愚痴を漏らして帰るそうで、土方もかつて医学所で遭遇していた。
「都合が悪いか?」
「いえ、むしろお話ししたいことがありましたので」
「そうか」
土方は松本とともに本堂に入ったところ、勝はほろ酔い状態で機嫌が良かった。
「おう、土方か」
「ご報告したいことがございます」
「…その顔。甲州は苦戦しているようだな」
勝は小さく笑いながら土方を指差した後、近くに座るようにと手招きした。
「どうした、もう官軍に甲府城を取られちまったのか?」
「…仰せの通りです。我ら鎮撫隊は明日に入城できる手筈でしたが、一足遅く…」
「へぇ、そうか」
松本は苦い顔をしていたが、勝はそうでもなくあっさりと受け取った。甲府城に執着などないと言わんばかりだった。
(やはり安房守様にとって我々はただの厄介払いだったか…)
甲府城という餌をちらつかせながら、江戸から新撰組を遠ざけただけだ。
近藤は伊庭に捨て駒であることを指摘されつつも全てを承知の上で甲州へ向かったが、追い詰められた土方は勝の無関係だと言わんばかりの姿勢を目の前にするとやりきれない。しかし相手は陸軍奉行だ。
「……官軍は甲州街道から江戸へ向かって攻め上がります。どうか援軍をお出しいただけないでしょうか」
土方は深く頭を下げた。
ここにやってくる前、土方は横浜に向かい菜葉隊の吹田鯛六に面会した。近藤は横浜の医学所で知り合い、もしもの時には互いに協力する契りを結んだと言うことだったが、吹田は
『そのような覚えはない』
と一点張りだった。
他にも『貴殿が新撰組の者だという確証がない』『我らには横浜守護の任務がある』などと御託を並べ、ただ関わりたくないと言わんばかりだった。とりつく島もなく追い出された土方は最も頼りにしていた菜葉隊四百の兵を諦めるしかなかったのだ。
そんな状況で勝に拒まれてはもう打つ手がなく、土方はひたすら懇請するしかない。百でも十でも良い…とにかく一人でも多くの援兵を出して甲州に帰りたい、ただそれだけだった。
すると勝は盃を手にしてくるくると回した。そして「頭を上げろ」と言った。そして
「…条件がある」
とまた小さく、薄く、笑った。
942
「条件…とは…」
いまや徳川を牛耳る勝が一体何を望むというのか…土方は想像すらできずにごくんと息を呑んだ。けれど勝はにやりと笑って土方を眺めていてなかなか切り出さなかったので、呆れた松本が
「…勝さん、そういうふうに思わせぶりなことを言ってじわじわ甚振るような真似は止めてください。俺ァこいつらを気に入ってるんでね、いい気はしない」
と助け舟を出した。勝は無意識だったようで
「そういうつもりはねぇが…まあいい、良順に免じて兵は三百ほど送ってやろう。明日の朝出立させる」
「…ありがとうございます。それで条件というのは…」
「これは貸しだよな?俺は陸軍奉行として鎮撫隊にすでに十分な金と武器を与えたつもりだ。それでも足りねえのはお前たちの失態だ。だからあとで別の形で返してもらう…そういう約束だ」
「…承知しました」
土方は一体勝に何を返せるのだろかとも思ったが、迷うことなく頷いた。
(これで少しは勝てる見込みがある…)
再び甲州へ戻る道中、日野や府中で人足を出すように指示すれば新撰組の知名度でそれなりに集まるだろう。佐藤家で近藤は故郷の若者のたちの加入を拒んだが今はそれどころではない…土方がそんな算段を立てていると、勝は苦笑した。
「そうは言ってもあんまり派手なことをしないでくれよ。いま駿府へ俺の使者を向かわせているんだ、官軍の総大将の心象を悪くしたくねぇ」
「…使者?」
「官軍と大事な交渉するためにな。…上様はフランスとの関係を清算され、恭順に徹するご意向だ。英国を巻き込んでできるだけ優位にこちらの望みが叶うように交渉したい…穏便にな」
「…」
土方は返答に困った。
近藤は上様の恭順のために戦うのだと決意していた。そのために甲府城で官軍を足止めすることが鎮撫隊の目的であった…土方は頭では理解していたが、一方で勝に『勝たなくて良い』と匂わせられるとやはり複雑だった。それは傍らで聞いていた松本も同じだったらしい。
「ふん、相変わらずの二枚舌ですな。そもそも新撰組のように露骨な抗戦派を金や兵を出して江戸から追い出すことが目的では?勝たなくていい、ただ暴れて官軍を困らせて交渉の材料の一つになれば幸運だ…そういうことでしょう」
「厳しいなァ、俺ァそこまでは言ってねえよ。官軍が提示する条件が納得いかなければ江戸を戦場にして戦う覚悟もある」
「それが本当かどうか…。言っておきますが俺も露骨な徳川の人間なんでね。上様の意向なんて知らねえ、どんな理屈があったとしても官軍を追い払いたいって奴らの味方です。性懲りもなくこの先も怪我人を治して、戦い続けたいって奴を戦地へ送りますよ。…俺も馬鹿なんでね」
松本の剣幕は鋭く勝を睨みつけている。勝は肩を竦めて酒を飲み干し「どうやら分が悪くなったな」と笑いながら立ち上がった。
「土方、約束を忘れるなよ」
「はい」
勝は「邪魔したな」とひらひらと手を振りながら足取り軽く去っていったが、松本は憤慨した様子で一瞥もくれなかった。土方は二人の関係に困惑するが
「気にするな。いつものことだ」
ということらしい。
「昔からどうも口だけは達者でな、あの二枚舌に何度騙されたことか…。俺も遠慮せずにやりかえしては二度と会うものかと思うが、それなのになぜかこうやってふらりと現れるのだから面倒な御仁だぜ」
松本は愚痴をこぼしながら深く息を吐いて
「それでお前さんの頼みっていうのはなんだ?」
と話を変えた。カラッとした夏の太陽のように嫌なことがあっても引きずらないのが松本の良いところであり、勝もまたそれを知っているからこそ松本の元にやってきて喧嘩のような真似事をして憂さを晴らしているのかもしれない。
土方はそんなことを思いながら、ここに来た本来の目的を口にした。
「先生にはご迷惑をおかけしますが…総司が療養できる場所をご紹介いただきたいのです」
「…沖田は甲州へは?」
「手前の日野で離脱しました。いまは英とともに府中の知人の家に身を寄せています。江戸へ戻る道中に戦況を知らせ江戸へ向かうように指示しました」
土方は淡々と報告したが、松本は苦い顔をして腕を組んだ。
「…やっぱり甲州まで保たなかったか。あの険しい山道を易々と越えられたなら大したものだと思っていたが…さすがにな、そんなに甘くないか」
「はい。本人が決めて隊を離れています」
「わかった、知り合いをあたってみよう。…俺もいつまで江戸にいられるかわからねえができる限りの協力は惜しまない。貸し借りなど言わぬから何でも言え」
「ありがとうございます…恩に着ます」
松本は勝の態度を引き合いに出して笑う。けれど土方は笑う余裕がなく
「では、戻ります」
と立ち上がった。見送りに付き添った松本とともに本堂を出たところで「土方様」と加也に呼び止められ、彼女は手にしていた巾着を差し出した。
「これはわたくしが処方した胃薬と、横浜から取り寄せた痛み止めです。近藤様にどうかご自愛なさってくださるようにお伝えください」
「…有難い。伝えておく」
女ならではの気遣いなのか、薬師としての心構えなのか…土方は駒飼宿から引き返して以来近藤の怪我や持病の胃痛について眼中にはなかったが、加也のおかげで近藤が万全ではないことを思い出した。
(早く甲州へ戻らなねぇと…)
『お前には俺の気持ちはわからない』
どれほど拒まれたとしても、土方が近藤を見捨てるという考えは微塵もなかった。そして近藤もまた同じことを覆っているはずだ―――。
(お前が大将で、俺はそれを支える副将だ)
土方は短く息を吐いた。
三日月は途中の馬屋に預けてその後は早駕籠で横浜に到着した。ここから同じペースで引き返したとしても三日後に合流できればよい方だろう。土方は疲労を感じながら月や星さえ隠れてしまった真っ暗な夜空を仰いだ。そこにあるはずなのに見えない…とても届かない遠い場所にいるような気がした。
「土方」
「はい」
「何があっても死ぬなよ。怪我人があれば俺んとこに連れてこい」
松本のように寄りかかれる存在は他にない。土方は彼の鼓舞を噛み締めながら深く一礼し、夜の闇のなかを駆けだして行った。
明けて、三月六日。
斥候役が甲府城で進軍の動きを確認し、近藤の元へ伝えた。どうやら官軍へ鎮撫隊のなかに新撰組が含まれていることが伝わったそうで、慌ただしく出陣の準備が進んでいるらしい。
(ついに戦だ…!)
今日にも衝突するだろう。近藤は覚悟を決めて斉藤、永倉、原田ら助勤たちを呼び、この付近の地図を広げて見せた。
「城外で動きがあったようだ。我々は分隊して戦に備える」
近藤としてはそれ以外ない当然の選択であったが、永倉と原田は顔を見合わせ、斉藤は表情を変えず、唯一助勤の末席にいる尾形俊太郎だけが困惑して
「しかし援軍は来ていませんが…?まさか我々だけで戦うのですか?」
と訊ねた。
土方が江戸へ呼びに行ったもののまだその姿はなく、地元の御師で組織された蒼龍隊に合流を頼むと言っていた斉藤秀全もまだ戻って来ていない。そして近藤が口走った会津軍も見当たらないのだ。兵士たちは援軍が来ると信じておりたった百二十一名で戦うなど思いも寄らない。尾形だけでなく兵の多くはとてもこのまま戦に突き進める状態ではないと思っていた。しかし近藤が
「我々だけで戦う」
と断言したものだから、尾形の顔が引きつってしまった。
永倉は押し黙り、原田は口を挟まず目をきょろきょろさせながら成り行きを見守っている。斉藤は(俺はこういう役回りは苦手だ)と思いながら仕方なく近藤に聞いた。
「…大久保先生、甲州街道を徐々に後退しながら援軍を待つということでしょうか」
「違う、板垣らを迎え討つのだ。柏尾口、岩崎山口、菱山口に分散させて配置し大砲は柏尾橋の我々の正面に置く。…援軍は必ず来る」
近藤がぎろりと睨みをきかせて周囲を見据えたので、古参の尾形でもそれ以上の口答えはできない。有無を言わせぬ近藤は追い詰められてますます頑なになっており、たとえ土方がここにいたとしても制止を振り切って前のめりで戦に突入するだろう。
斉藤は
「承知しました」
とこうなっては後戻りはできないと悟った。指揮系統の乱れは混乱と崩壊を招いてしまう。
斉藤は永倉の様子を伺った。反発ばかりしていた彼は何も口にせず表情も動かない…それは許容ではなく、聞き流しているような態度だった。
互いに顔を見合わせながら何も口にしない…不穏な空気が漂うなか、
「失礼致します」
と突然立川が顔を出した。彼は場の空気に気が付かず朝餉の支度ができたと知らせに来たのだが、彼を見た途端近藤の表情が揺れた。立川は山南に似ている―――近藤にとって山南は食客の一人であり知識人として頼りにしていた存在だ。
―――山南がここにいたら。
立川以外の誰もにその思いがよぎっただろう。けれど誰一人それを口にはしなかった。
「…戦の前に腹ごしらえだな」
近藤は呟いて振り切るように立ち上がった。
943
四つ(午前十時)、官軍が勝沼宿へ向けて進軍を始めた頃。
府中でも雪が舞っていた。
「お世話になりました」
関田家に世話になっていた総司は昨日嵐のようにやって来た土方の指示に従い、英とともに江戸へ向かうことにした。
「世話になんて大したことはなぁんにも。それよりいま江戸に向かうよりここで身を隠した方が良いのではないのかねぇ…うちには掛かり付けの医者だっているし、もしもの時には野戦病院に使わせてくれと先生に頼まれていたんだがねぇ」
当主の勘左衛門と倅の庄太郎は見送りに来てくれたが、特に勘左衛門は先代の周斎の頃から懇意にしており甲府の戦況をとても心配しているようだった。総司も詳しいことはわからないが、土方のあの慌てぶりだと甲府城を先に取られて前線はよほど混乱しているのだろう。
総司も心配だったが、笑みを浮かべ気丈に振舞った。
「無事合流できれば良いですが、この先はどうなるかわかりませんし…関田の家にご迷惑をおかけするわけにはいきませんから」
「迷惑なんてことはねぇんだがなぁ…まあ近藤先生がお決めになったのなら、そうした方が良いか」
「はい。ご厚情感謝いたします…庄太郎さんもお世話になりました。御内儀に宜しくお伝えください」
「どうぞご無事で」
別れを惜しむ二人に改めて頭を下げて礼を言い、総司は英とともに甲州とは逆の道を辿り江戸へ歩き始めた。
はらはらと舞う雪は小さな雫となって地面に溶けていく。もう冬が終わっても良い季節なのにこのままずっと空は雪に覆われていていつまでも柔らかな日差しを隠してしまいそうだ。総司はその光景を笠越しにぼんやりと眺め、しばらく歩いた。
かつて出稽古のために何度も往復した道…けれども今は初めて通るような気がした。援軍を呼びに持った土方も同じ心境だったのではないか…そんなことを考ええつつ総司が踏みしめながら進んでいると
「駕籠を探そうか?」
英が問いかけた。黙ったままの総司の顔を覗き込み、心配そうに顔を顰めていた。
「いえ、平気です」
「…わかった。でも平気じゃなくなる前にちゃんと言ってくれないと困るよ」
「そうします」
英には総司の足どりが重く具合が優れないように見えたのだろうが、いまはそれよりも甲州から離れてしまうことに後ろ髪を引かれていた。
(官軍に甲府城を取られた…)
そのたった一つの事実だけで鎮撫隊の置かれた不利な状況は総司にも理解できた。出立前も出立後も『甲府城さえ接収できれば』と近藤と土方が散々話をしていたのを聞いていたからだ。けれどそれは叶わずさらに土方が隊を離れてしまい、いま近藤はどんな孤独と重圧を感じ後悔に苛まれていることだろう。
「…」
総司は足を止めて振り返った。山の稜線はどこまでも続き、その頂上は白いままだ。険しい山道を進み続けた先にある甲州…それは総司にとって手の届かない遠い遠い場所のように思えた。
鎮撫隊は柏尾の古刹・大善寺門前の柏尾坂に本陣を敷いた。北には菱山、南には岩崎山、目の前には深沢川にかかる柏尾橋があり、南に流れてやがて日川に合流する。
官軍がこちらに向かって進軍を始めている…近藤の指揮で、正面の柏尾橋前と南側の岩崎山口、北側の菱山口に諸隊を分散させた。
「春日隊には岩崎山口を頼みます」
近藤は彦五郎に伝えたが、彼は少し苦い顔をした。
「しかしきっと敵は柏尾橋から進軍するんだろう?可能性が低い場所はもう少し手薄にしてそちらに戦力を割いた方が良いんじゃないのか?」
「いえ、正面からの攻撃は鎮撫隊…戦に慣れた新撰組が請け負います。むしろ側面の守りを固めてもらえる方が安心して臨めます」
「…だったらやはり北の菱山口に兵を置く意味はないだろう。菱山を迂回するのはあまりに遠回り…官軍もまさかそちらからは攻め込んで来ないはずだ」
「…わかりません。私もこのような戦場は初めてですから…」
近藤は昔なじみの彦五郎につい不安な本音を零してしまった。
永倉や原田たちをはじめとした助勤たちの心が近藤が頑なな態度をとって無謀な戦いを強いてしまったために離れていることには気が付いていた。けれどここまでやってきて城を取られたからといって退却すべきだという彼らの消極的な考えに同意はできず、たとえ孤立無援の一匹狼になったとしてもこの任務を果たそう…そう強く決意したのに、いざ官軍がこちらに進軍していると聞けば
(布陣、兵の采配…本当にこれでいいのか…?)
と不安に思うことばかりだ。こんな時に相談に乗ってくれるであろう土方が傍にいてくれればと思うが、彼にも八つ当たりをして喧嘩別れをしてしまったのだ。もちろん幼馴染がそんなことで離反するはずがないとわかっていても心は孤独なままだった。
(俺は勝手だな…)
腕の怪我のせいで鳥羽伏見に参戦できず、今でも満足に剣を振るうことができない。甲州に近づくたびにそんな自分の不甲斐なさと、故郷の人々の想像する『新撰組局長』との乖離に嫌悪して苛立って、つい土方に当たってしまった。挙句甲府城を取られてしまい、このまま引き下がるなんて恥の上塗りだと罪のない永倉や原田たちを責めてしまったのだ。
(春日隊を遠い場所に配置するのは、こんな気弱になった俺を故郷の人々に見せたくないからだ…)
威風堂々とした故郷の英雄…その賛辞に傷がつくのを恐れ見栄を張っているだけなのだ。そんなことをしても負ければ意味がないと言うのに、そんな愚かな『大久保剛』を演じなければ己を保つことができない。それはやはり自分の立場が変わったことと、上石原や日野で散々持て囃されたせいなのか―――近藤は自分の気持ちすらよくわからなかった。
そんな近藤の様子に気が付いていた彦五郎は、拳に力を込めて近藤の胸を叩いた。
「…道中、多くの兵が脱走した。逆に言えばいまここに残ったのは大久保先生を信じている勇敢な兵ばかりだ。…負けるつもりで戦をする奴はいねえ。大久保先生には胸張って指揮をとってもらわねえと困る」
「彦五郎さん…」
「俺たち春日隊も付け焼刃だが銃の扱いを身に着けているんだ、頼りにしてくれ。それに…歳三は必ず大軍を引き連れて戻ってくる。あいつを信じてやってほしい」
「…勿論です」
近藤にとっても、鎮撫隊にとっても土方が引き連れてくるであろう援軍だけが頼みの綱だ。新撰組の副長として近藤を支え続けた土方が期待を裏切るはずがない。
彦五郎は少し安心したように深く頷いた後、春日隊を率いて南へ向かっていった。
そこへ険しい顔をした斉藤がやって来た。
「大久保先生、秀全殿はまだお帰りではありませんか?」
「…ああ、まだだ」
秀全は入隊してまだ数日だがその人柄ですっかり隊のなかに溶け込んでいて、今までにいない人生経験豊富な年長の僧侶ということで隊士たちも拠り所になっていた。その秀全は近藤の指示で昨夜から蒼龍隊の勧誘に向かって戻っていない。
近藤は期待を持って待ちわびているのだが、斉藤は小さく頷いた。
「やはり…この辺りの御師は富士山系で昔から帝と朝廷を支持しています。むしろ官軍についていてもおかしくはない…たとえ秀全殿のお人柄があったとしても、賊軍と指さされている我々に協力を仰ぐのは難しいのではないでしょうか」
「…」
「申し訳ありません、余計なことを言いました」
近藤が苦い顔をしたまま黙り込んでしまったので、斉藤は謝って身を退こうとした。けれど「待ってくれ」と引き止めた。
「斉藤君、手が空いている隊士たちには周辺農村から兵を集めてくるように指示してくれ」
「…しかし開戦は間近です。隊士たちを柏尾橋から離れさせてはいざという時に間に合わないかもしれません」
「わかっている。だが…一人でも多くの兵が必要だ」
「…会津が来ないからですか?」
斉藤は敢えて近藤に尋ねた。近藤は動揺してカッと目を見開きその剣幕を鋭くしたが、しかしすぐにそれを引っ込めて苦笑いした。
「…君にはわかってしまうか…」
「永倉さんたちもうすうす勘づいているかもしれませんが…兵たちは一切疑わず会津の援軍を信じて奮起しています。今更撤回はできません」
「そうだな…もう戻れやしない」
近藤は不用意な発言だったと少し後悔していた。そして床机椅子に腰を下ろし、背を丸めてため息を付いて吐露した。
「…自分の考えの甘さで甲府城が取られ、兵が多く脱走し、援軍は間に合わない…永倉君に厳しく退却するように迫られてつい言い返してしまった。会津ほど新撰組や天領の人々にとって頼りになる存在はいない…今でも奇跡が起きて援軍にやって来てくれないかと思うくらいだ」
近藤は本気でそんな奇跡のような望みを抱いていたのだが、斉藤ははっきりと告げた。
「大久保先生。池田屋の時、会津は来ませんでした」
「!」
「覚えていますよね。祇園祭の頃のあの蒸し暑さのなか、過激派が謀反を起こそうとしているという知らせが届き、天子様の住まう都に何かあってはならないと新撰組は方々走り回りました。けれどあの時会津は助力を頼んでも兵を出さず、結局すべてが終わってから我が物顔でやって来ました」
冷え込んだ甲州にいても、あの真夏の夜のことはすぐに思い出せる。結果的に池田屋事件によって新撰組は名をあげることができたが、あの時はたった数人で旅籠に斬り込んで十数名を相手にした。
「そう…だったな…」
「会津が来てくれれば…そう願っても叶わなかった、あの時と同じです。会津が来なくても勝てるかもしれない。だから我々は自分たちのできることをする…それだけの話ではないですか?」
見栄を張る必要はない。
あの時のようにがむしゃらに、無我夢中に勝利を掴むしかもう残されていないのだ。その先に何かがあると信じて戦い続けた先にしか道はない。
斉藤に奮起され、近藤は池田屋の時のように強い気持ちが身体の奥底で燃え上がるような気がした。
「…ああ、そうだな…」
近藤の目に光が戻った。
―――甲府城から敵兵の姿が見え始める。けれど、待ちわびた援軍の姿はない。
しかし近藤はその本陣に総大将として立った。
あの池田屋で階段を駆け上がるように――――。
944
冬の冷たい風が山間に吹き荒んでいた。
柏尾橋近く、鎮撫隊が本陣としている大善寺付近でもっとも見晴らしの良い坂上に主力である新撰組の隊士たちが揃っていた。皆が甲府側の街道筋に布陣する官軍…土佐・因幡藩の動きに注視しいつ開戦となるのかと息を呑んで緊張するなか、
「鉄之助は見違えたよな」
と一番隊の野村が鉄之助に声を掛けた。日野で離脱した泰助や小姓として近藤の傍に侍る銀之助とは違い、鉄之助は隊士たちとともに一人の兵として前線で戦うこととなった。それほどの人員不足であることも事実だが、本人のたっての希望でもあったのだ。野村は伍長の島田に頼まれて鉄之助の指導係を請け負うことになったが、実際に戦場に立つ鉄之助は誰よりも覚悟を決めてそこに立っているように見えた。
しかし本人はそのつもりはないようで。
「そうですか?」
と首を傾げた。
「都にいた頃はガキの真似事だと思ってたのにさ、いまはちゃんと新撰組隊士っぽいよな」
「っぽいって何ですか…」
「まだ一人前じゃねえってことだ。なんせまだ童貞だろう?それじゃあまだまだ!」
「…」
鉄之助は侮蔑の眼差しで野村を睨んだ。野村は「冗談だよ」と笑うが、鉄之助はふいっと顔をそむけてしまった。
「ハハハ、悪い悪い。ちょっと緊張をほぐしてやろうと思ってさ。八幡で相馬にも馬鹿にされたけど」
「そりゃ相馬さんは当然そう言うでしょ…」
「あいつはクソ真面目だからな。…まあ、俺が教えられることなんて『危なくなったら逃げろ』ってことだけだな」
野村がさらに笑い飛ばすのを聞いて、鉄之助は少し不愉快そうに口を歪めた。
「…俺は逃げたくないです。泰助の分まで戦います」
「へぇ、偉いなぁ」
「ちょ…やめてください!」
野村が鉄之助の頭をわしゃわしゃとまるで犬猫にするように撫でまわすと、さすがに鉄之助も怒ってその手を払った。
「泰助の分までって、まあ随分立派だけどさ。…泰助はお前に生き延びてほしいと思ってるだろうぜ。負け戦で死ぬことに価値なんてなぁんにもない…お前だって鳥羽伏見でそう思っただろう?」
「…」
「だから気負うなって。…俺の忠告、忘れるなよ?」
隊士の一人として立つ鉄之助は『覚悟を決めすぎている』ように思えて、野村は敢えて念押しした。立派でも卑怯でも…死んでしまえば同じで、その屍は淀城下で見たようにそのあたりのごみ屑のように山積みにされるだけだ。そんな死に何の意味もない。
野村が諭した言葉を耳にして、鉄之助は真っすぐな眼差しで尋ねた。
「野村さんはもうこれが負け戦だと思ってるんですか?」
「…さあ、どうかな…」
野村は本心を隠して曖昧に誤魔化した。
そうしていると、
「動いたぞ!」
と誰かが叫んだ。皆が一斉に勝沼宿の西側に進軍する官軍の姿を見た。
「始まる…!」
誰ともなく呟いた言葉は、まるで電流のように身体中を走り抜けた―――。
北側の菱山口に永倉と五名の精鋭が向かい、南側の岩崎山口は春日隊に任せ、敵である官軍を正面から迎え撃つ主戦場である柏尾橋は、原田が受け持つこととなった。
「木を伐り倒して進路を塞げ。大砲の邪魔になる小屋も焼き払え!」
本陣にいる近藤の指示で甲府側の柏尾橋近くの木が伐採され、小屋が三軒焼き払われたことで見晴らしが良くなった。そして柏尾橋の橋板を外し官軍の行く手を阻む。
作戦としては鎮撫隊側に大砲二門を構え、官軍の姿が見え次第砲撃する―――その手筈であったが、早速混乱した。
「おい、散弾と榴弾が間違っているぞ!」
「馬鹿野郎!大砲の弾が逆だ!これでは狙いが定まらぬ」
「取り出せ取り出せ」
「一体どうすればいいんだ?!」
戦に慣れていない農兵たちが大砲の扱い方を知っているはずがなく、すぐそこに敵兵が迫っているというのにもたもたして準備が整わない。みかねた原田は
「結城はどこだ?!」
と苛立って声を荒げた。新撰組隊士の結城無二三は大砲指南役だが、慌ただしく走り回る兵たちのなかのどこにもその姿がない。原田は結城を探すが、サポートに当たっていた斉藤は彼が不在である理由に心当たりがあった。
「原田さん、結城は大久保先生の指示で兵を集めるために離れているはずだ」
「はぁ?もう戦が始まるって言うのに?!あいつは大砲指南だぞ?!前線を離れるなんて…!」
原田は絶句する。近藤が一人でも多くの兵を募るべきだと指示したため、この先の日川村の出身である結城が兵を募り協力を呼び掛けるために隊を離れてしまったのだ。彼はおそらく農兵たちに一通りの指南はしただろうが、そう簡単に務まる任務ではない。それなのに結城を募兵に向かわせたのは近藤の作戦ミスだ。
原田は盛大に舌打ちした。
「クソ!たった二門しかねぇ大砲すらまともに使えねえのかよ!」
「落ち着け。…まだ分はこちらにある」
苛立つ原田を宥めながら、斉藤は目を凝らした。
棚板を外した柏尾橋の先にいるはずの官軍の様子を窺ったところまだ姿は見えない。しかし大石によると敵の数はおそらく三百以上…鎮撫隊の三倍以上だが橋板を外したので多少は時間稼ぎができるはずだ。
「橋が渡れないとなれば多くの官軍は川を渡るはずだ。たとえ大砲がうまく使えなくともこちらから狙い打てば敵は川に落ちる」
「ミニエー銃を持ってる奴は前へ来い!」
原田の指示でミニエー銃を手にした隊士たちがやってくる。武器弾薬の類は勝から多く提供されていたため不自由はしなかったが、それを扱えるのは新撰組と浅草弾左衛門の兵だけ…後者はほとんどが離脱してしまっている。そのため小野路村から合流した農兵たちが急遽銃を担いでいたが、ほとんどが扱いを知らぬ者ばかりであった。最新型の銃を持っているにもかかわらず付け焼き刃で、随分と頼りない面子だがもう後戻りはできない。
そうしていると西から強い風が吹いてきた。
「アァっ火が…!」
農兵の誰かが悲鳴のように叫んだ。斉藤が再び柏尾橋へ振り返ると、焼き払った三軒の小屋の炎が西風に乗ってあちこち炎上しその煙がこちら側に吹き付けている。皆が煙と土埃で咳き込み、さらに視界を遮ってしまった。
(視界を広げるために焼き払ったはずが…!)
白煙は何もかもを覆い隠し、自軍を不利へ導いてしまう。
何をやっても空回りになってばかりで鎮撫隊には暗雲が立ち込め始め、さらに煙の向こうでザッザッと足音が聞こえてきた。混乱のなかで迫りくる敵兵…煙のせいでその数や姿すらわからず、まるで得体の知れない怪物が着々と近づいてくるような恐怖に不慣れな者たちは震えあがった。
「大砲を用意しろ!」
原田が砲兵に号令するが砲兵は戸惑う。
「しかし…っどこを狙えば!?」
「どこでもいい!」
白と黒の煙が柏尾橋の向こうを覆い、照準が定まらない。原田がとにかく先制しろと指示するなか、
「わ…っ、あ…ああああ…!」
ミニエー銃を手にした兵がその恐怖のあまり、川向うへ向かってパァーンと引き金を弾いた。
その音は後方の本陣にいた近藤の耳にも届いた。
「大久保先生…!」
「ああ…」
局長附の相馬が指差す方向に白煙が上がっていた。
近藤が立ち上がり様子を伺う。柏尾橋付近は白煙で何も見えなかったが、前線より少し高台になっているここから勝沼宿を過ぎこちらに近づく官軍の姿を捉えることができた。
「数は…三百か?」
「はい、それくらいかと。しかし先生の作戦が功を奏し、橋が落ちていることで進軍が妨げられています」
「そうか…しかし…」
攻撃の好機だというのに、自軍からの砲発の音が聞こえない。賢い相馬もこの状況に戸惑っていた。
(いったい何をやっているんだ…?!)
近藤は苛立つ。
官軍は柏尾橋の向こうで着々と攻撃の準備を整えている。自軍から放たれるのはミニエー銃だけだが、それも敵の盾に当たって虚しく弾が消費されていくだけだ。
「相馬君、状況を把握して報告しろ」
「はっ!」
相馬は本陣を出て前線へ駆けて行った。
近藤は後ろを振り向いた。
「歳…まだか…?!」
幼馴染が江戸から大軍を引き連れて戻ってくる。そうすれば三百の兵くらいあっという間に蹂躙することができるはずだ。
近藤は土方の姿を待ちわびていたけれど、甲州街道の山道は静かなままだった。
945
三月六日、正午。
局長附となった相馬は今回の甲州行きでは一番隊を離れて近藤とともに行動することが多かったが、本陣から柏尾橋に駆けつけてすぐ島田や野村たちの姿を見つけることができた。しかし状況はあの鳥羽伏見の時よりも混乱していた。
「相馬、ちょうどいいところに来た!」
野村は相馬を見つけるや、そのあたりに転がっていたミニエー銃を拾い、「ほら!」と相馬に押し付けた。
「の、野村?どういうことだ?」
「どういうこともなにも兵が逃げ出しちまったんだ。いまは一人でも多く撃たねえと…」
「ちょっと待ってくれ。俺は戦況を確認しろと言われてここに」
「戦況?そんなの見たらわかるだろ」
野村が詳細を伝える前にパァーンと柏尾橋の向こうから弾丸が飛んできた。二人は慌てて木陰に身を潜めるが、相馬は困惑したまま短く尋ねた。
「大砲は?」
「使えねえ。扱える奴がいねえから」
「い、いない?」
「詳しくは知らない。だが砲兵要員がいない」
「逃げ出したっていうのは…?」
「官軍にビビっちまって。農兵はすぐに逃げ出して、もうこの前線にいるのは新撰組隊士だけだろう」
「そんな…」
主戦場となっているここには百弱の兵がいたはずだ。ただでさえ開戦前で多くの兵が脱走したというのにこの短時間でさらに減ってしまったと聞き、相馬は青ざめる。だが野村は冷静だった。野村が手招きして相馬は移動し、草陰からこっそりと深沢渓谷を覗き込んだ。
「ほら見てみろ。…官軍の奴ら、橋が渡れねえから最初は川を渡ろうとしたが効率が悪いから、いまは南側から迂回し始めてる。北側の菱山は遠いからな」
「なんだって?南は春日隊の二十人しかいない」
「ああ。だから俺たちも早くここを離れて応援に向かった方が良いと思う」
「わかった。大久保先生に伝えてくる」
「相馬」
早速、本陣へ戻ろうとする相馬を野村が引き止めた。
「大久保先生にはっきり言え。このままじゃ負ける、全滅するってな」
「……」
「それがお前の仕事だろ」
野村は相馬にはっきりと告げた。こんな切羽詰まった状況で何を誤魔化す必要があるというのか…上司の機嫌を伺い、不都合なことを隠したところで状況は悪化していくだけ…そんなことは百も承知だが、野村が言う通り相馬にはどう伝えたら良いのか迷いがあった。
だから野村にそんな本心を見抜かれたような気がして、
「…お前に言われなくともわかっている!」
相馬はきつく言い返して、本陣に飛んで帰った。その道中でもドォーンドォーンと柏尾橋の向こうから官軍が大砲を撃ちこんでくる音が地鳴りのように響いて、伏見奉行所にいた時のことを思い出した。狭い奉行所で高台から次々と打ち込まれる大砲…どうかその弾の下に味方が誰一人としていませんようにと願うしかなかった。
(あの時の同じだ…)
相馬は息切れしながら坂を上り、本陣へ駆け込んだ。
「大久保先生…!」
近藤の姿を見て相馬は驚いた。近藤が怪我をおしてすでに鎧を身に着け。左手には刀の鞘を持ちいつでも出陣できる支度が整っていたのだ。そして頷いた。
「…君の顔を見ればわかる。戦況は頗る悪いようだな」
「は、はい。大砲が機能せず、多くの兵が逃げ出し…いまは官軍が南の春日隊の方へ向かっているそうです。このままでは…負けます!」
相馬は意を決して飾ることなく現状を報告すると、近藤はそれまでのように苛立ったりせず静かに受け入れた。
「そうか…とにかく春日隊を危険な目に遭わせるわけにはいかぬ。救援に向かおう」
「大将自らですか…?!」
近藤は鎮撫隊を仕切る大切な役目があり、鳥羽伏見でも命令系統の乱れが敗因となったのだ。しかし近藤は苦笑した。
「もう残っているのは新撰組だけなのだろう?だったら俺も動く…池田屋の時もそうだった」
「しかしお怪我は…!」
「心配ない。…さあ、行くぞ」
相馬の心配を振り切って近藤は本陣を出て坂を下った。
柏尾橋に到着すると辺りは白煙と土埃が舞い、ドォーンドォーンと向こう側から次々と大砲が撃ち込まれていた。鎮撫隊の抵抗はささやかなものであったが、しかし橋が通れないということで主戦場は南に移りつつあった。
「局長!」
「大久保先生!」
鎮撫隊…新撰組の面々は近藤の登場に驚き、自然と集まって来た。近藤は隊士たちの顔をぐるりと見まわして大きく頷き、
「我々は南へ向かい、春日隊と合流する!」
と勢いよく抜刀して彼らを鼓舞した。大砲に負けない大音声での激励で隊士たちの士気は一気に上がり、皆が我先にと駆けだして行った。それまで思うところがあった原田も槍を抱えて勢いよく走り出し、近藤の命令で相馬も隊士たちとともに前線で戦うことになった。
その場に残ったのは斉藤だった。
「…大久保先生、無理は禁物です」
皆気が付かなかったようだが、近藤は痛めている右腕で抜刀して見せたのだ。肩より上には上がらないと言っていたはずだ。近藤はフッと笑った。
「火事場の馬鹿力って奴だな」
「大将に何かあっては困ります」
「歳に怒られるか?」
「…沖田さんに叱られます」
斉藤にとっては土方でも総司でも同じ意味合いだったのだが、近藤にとっては違ったようでふっと小さく笑って「そうだな」と頷いた。
「だが斉藤君も怪我をしているんだろう。皆気が付いていないようだがまだ治っていないのに平気なふりをしている」
「…俺は大久保先生ほど重傷ではありません。些細なもので…」
「同じことだ、今の俺にとって怪我は些細なこと。…話し込んでいる暇はない、行こう」
近藤は颯爽と走り出した。
新撰組は岩崎山口で春日隊と合流した。
「ああ、若先生!」
「勇先生ぇ!」
初陣となった春日隊は二十人ほどで山道を死守していた。満身創痍の彼らは近藤の顔を見た途端に安堵して悲鳴のような声を上げて喜んだ。皆、彦五郎は負傷した腕を抱えながら「助かった」と苦笑いする。
「どういうわけかこっちに敵が押し寄せて…銃でどうにか応戦したが危ないところだった」
「良く持ちこたえてくれました。あとは我々が引き受けます、春日隊は後方支援へ周ってください!」
「わかった!」
そうして、近藤の指示で春日隊は前線から下がり新撰組は白兵戦へと突入した。大砲や銃の前では不利だが刀と槍を持てばたとえ大人数相手でも対抗できる…それは鳥羽伏見で何度も白兵戦で盛り返した経験があり、隊士たちは果敢に攻め込んだ。すると岩崎山口を攻め上がった諏訪藩を中心とした官軍は相手が少数だと油断していたため猛者揃いの新撰組相手に崩れ始めた。
「前へ出ろ!決して手を緩めるな!」
「おおおー!」
近藤の発破に隊士が応える。原田の得意の槍が猛威を振るい、隊士たちはそれぞれ得意のやり方でじわじわと敵兵を減らしていく。
これまでのうっ憤を晴らすような激闘のなかに鉄之助はいたが、他の隊士よりも一回り小さい体躯では埋もれてしまいなかなか刃先が届かず、もどかしい気持ちを抱えていた。
「くそぉっ!」
不意に泰助の顔が浮かび、(あいつに良い報告を!)と気持ちが昂った。そしてままよ、と壁になっていた隊士たちに勢いよく突進して隙間から身を乗り出すが、最前線に出てバランスを崩して転がってしまった。四つん這いになって立ち上がろうとしたとき、
「あっ!」
気が付けば二、三人の敵兵に囲まれていた。
(拙い…!)
「わァァア!」
混乱し、闇雲に刀を振るが何の感触もない。鉄之助は心臓がバクバクいう音が身体中で鳴り響くのを感じた。そして不利な体勢のまま腰が抜けて起き上がれず、このまま串刺しに死ぬかもしれない―――そう思った時、
「伏せろっ」
と言われ咄嗟に頭を抱えた。背中に温かいものを感じて誰かに庇われていると思った。そしてそう察すると同時に首根っこを掴まれて引っ張られた。
「馬鹿ッ 死ぬ気か?!」
「の、野村さ…」
野村が鉄之助を背後に放り投げた。どうやら庇ってくれたのは相馬で、そのせいで怪我を負ったことに気が付いた。
「そ、相馬さんっ…俺…!」
「心配するな、かすり傷だ」
相馬は肩口に怪我を負っていたがすぐに立ち上がって野村と共に鉄之助を狙っていた三人の敵兵を斬った。普段は喧嘩ばかりなのに息の合った連携と二人の大きな背中に守られ、鉄之助が呆然としていると野村が振り返って思いっきり鉄之助の頬を叩いた。
「いてッ!」
「いてえか?!でも死んだらもっといてえんだ!わかってんだろうな?!」
「わ、わかって…」
「とにかく邪魔だッ!すっこんでろ!」
普段は冗談ばかりで楽天家の野村に鬼の形相で怒鳴られ、鉄之助は二の句が継げないまま立ち竦んだ。すると
「鉄!」
いつのまにかそこにいた銀之助が鉄之助の腕を引いた。
「行くって…」
「僕らにできることをするんだ。春日隊と一緒に後方支援に加わろう」
「…わかった」
銀之助とともに鉄之助は大人しく前線を離れた。
白兵戦は続く。鎮撫隊の勢いに呑まれた官軍はじわじわと後退し始めた。
「負傷者は?」
近藤が問うと、斉藤が辺りを見回して「いません」と答える。実際、相馬のようにかすり傷程度で戦闘不能になる隊士はいなかったのだ。近藤は勇猛果敢に戦う隊士たちを誇らしく感じた。
「皆、良く戦っているぞ!援軍は来る、会津は必ず来る。それまで持ちこたえるんだ!」
「おおおー!」
「やれるぞ!」
「勝てるぞ―!」
隊士たちの表情は柏尾橋にいた時のそれとは全く違い、隊長の言葉に導かれるように勝利への希望に満ちていた。近藤が刀を抜き、その刃先を前方に向けて胸を張る…決して勝てるとは言えない戦況のなかで堂々と振舞う近藤を見て、斉藤は
(…まさか、叶うのか…?)
と唖然とした。
気配すら感じない援軍。いるはずのない会津軍。
それは近藤だけが信じている幻のような存在であったのに、彼の放つ言葉には何の疑いを持つ隙は無く、飢えた心に心地良く沁み込む。まるで現実味がないのに信じざるを得ないような。
この場にいる隊士たちも同じことを感じているのだろう。圧倒的に不利な状況でも果敢に立ち向かえるのは近藤の強い信念に背中を押されているからだ。
(今更…沖田さんの気持ちがわかるな)
近藤勇という男に命をかけて尽くしたい…その一心で生きて来た総司の気持ちに触れられた気がした。
けれどその微かな希望はすぐに打ち砕かれることとなるのだ。
946
岩崎山口で盛り返し始めた鎮撫隊だが、官軍が援軍を呼び再び拮抗することとなる。
「くそ、やってもやっても減らねえ!」
寒空の下、大粒の汗をかきながら原田が叫んだ。
白兵戦で優位に立った鎮撫隊だが、官軍側は刀槍では歯が立たぬと判断し大砲を準備し始めた。その砲弾が放たれれば当然一方的に蹂躙される…この均衡が破られるのは時間の問題だろう。だからこそ近藤は援軍を欲していた。
(もう少し…もう少し!)
近藤は食いしばって土方が援軍を連れて来るまではと耐えようとした。皆の反対を押し切って戦に突き進んだ…今更後戻りできないという気持ちもあった。
すると
「あっ大久保先生…!」
頭一つとびぬけた体格をしている島田が何かに気が付いて後方を指さした。
(歳が来たのか…?!)
近藤が期待して振り返ると、土方ではなく永倉が数名の隊士とともに駆け寄って来ていた。
「永倉君…?北はどうした?!」
永倉は北側の菱山口を守っていたはずだ。菱山口は官軍が甲府城から進軍した場合、もっとも遠回りになる山道であるため進軍して来ないだろうと予測していた場所だ。けれど永倉の報告はすべての前提をひっくり返すものだった。
「土佐藩兵が菱山口に進軍してきました!」
「何?!まさか柏尾山を迂回してきたというのか?!数は?!」
「およそ六百!高台に大砲を設置し、今まさにこちらを狙い撃ちしようとしています」
「ろ、六百…」
小屋を焼き払ったその白煙が視界を遮ったせいで、知らぬ間に岩崎山口だけでなく菱山口から約千の敵兵に包囲されていたのだ。鎮撫隊の勢力はせいぜい百程度しかいない。
この絶望的な状況に近藤は愕然として大きな口を開けたまま二の句が継げなかった。その衝撃は伝播して隊士たちも動揺し、槍を抱えた傷だらけの原田が
「援軍は?!」
と叫んだ。しかし誰も答えられない…影も形もないのだから。
「局長!援軍が来るって言ったよな?!」
原田の嘆きは隊士たちの心情と同じだった。
もともと数的に劣ることは皆わかっていた…それでも何とか持ちこたえようとしたのは近藤が必ず援軍が来ると触れ回ったからだ。援軍さえくれば勝てる…だが目の前の現実は全く違う。鎮撫隊は敵に取り囲まれ四面楚歌となり、江戸からやってくるはずの援軍は足音さえ聞こえて来ない。
「なぁ、近藤先生!会津はどこなんだよ?!会津がくるってそう言っただろう?!」
さらに原田に問い詰められ、近藤は青ざめた。
「そ、それは…」
「会津どころか、頼みにしていた秀全殿の蒼龍隊もいません。どう戦いますか?まだ戦いますか?!」
「なあ、どうするんだよ?!」
冷酷ななかに怒りを秘めながら問いただす永倉と、感情を爆発させる原田、そして困惑する隊士たちに囲まれて近藤は何も答えることができなかった。斉藤はそんな近藤を庇うように二人の前へ出た。
「寄ってたかって責めるのはやめろ」
「斉藤…」
「ここで言い争いをしている場合じゃない。…大久保先生、ご判断を」
「…」
斉藤が促し、永倉たちが答えを待っても近藤はまだ迷っていた。戦が始まって一刻(二時間)…援軍を諦められない気持ちと撤退すべきだという意見の間で鬩ぎあっていたのだ。
(甲府城を奪われた挙句、あっという間に撤退してしまうなど…徳川の名誉に関わる…!)
「…いや、まだだ…あと少し…もう少し待てば…きっと…」
もしかしたら、あの池田屋の時のように土方が大軍を率いてやって来てくれるかもしれない。近藤は縋るような思いで東へ視線を向けたが山道はただただ沈黙するだけだ。
けれどそんな甘い幻想を永倉は許さず、ついに堪忍袋が切れたように叫ぶ。
「局長!この期に及んでもまだ負けを認めないのですか?!我々はあなたのくだらない意地のために玉砕する駒ではありません!」
「…っ、俺の意地などではない、徳川のためだ…!それに君たちのことを駒などと一度も思ったことはない!」
「ではいつまで来ない援軍を待って、このまま全滅するつもりですか!…はっ、道連れは勘弁してほしいですね!そもそも会津が来るなんて根拠のない嘘だったのではありませんか?!皆を騙して戦わせるために…!」
近藤が言い返そうとしたが、斉藤が代わりに
「言葉が過ぎるだろう!」
と制して思わず永倉の胸板を押した。永倉は眉間に皺を寄せて不快感を隠さず標的を斉藤に変えて鋭く捉えた。
「ずっと気に喰わないと思っていたが、やはり考えが違うようだな!俺は隊士たちの本心を代弁しているだけだ!」
「永倉さん、冷静になってくれ。こんな諍いをしている場合ではない」
「ああそうだな。このままでは互いに死ぬだろうからな!」
「もうよい!」
近藤が今にも刀を振りかざしそうな二人の間に入り睨みあいを制した。そしてやりきれない表情で首を横に振った。
「…もうわかった。撤退しよう」
「局長…」
「皆、身の安全を最優先にしてそれぞれ散って逃げろ。…吉野で落ち合おう」
近藤がついに白旗を上げた。
甲府城を奪取され、たった一刻すら耐えることができなかった。援軍は間に合わなかった―――それがすべてだ。
永倉や原田は言質を取ったとばかりにすぐに背を向けて引き返し始め、二人に同調して続く隊士も何人かいた。古参の島田や尾形は困惑しながらも立ち竦む隊士たちに指示して撤退を始める。
近藤は強く握りしめていた刀をようやく鞘に収めながら深いため息をついた。
「…甲府城を取られてしまったのがやはり痛手…無謀な戦いだったな。斉藤君も隊士たちを率いて先に行きなさい」
「大久保先生はどうなさるのですか」
「まだ前線で戦っている隊士たちを待って、彼らが無事に逃げ延るのを見届ける」
近藤がそんなことを言ったので、斉藤はカッとなって左腕を引っ張った。
「何を馬鹿なことを!大将が殿を務めるなんてあり得ません!」
「しかし、」
「たった一度の敗戦で自棄にならないでください。撤退を選ぶなら最後まで責任を持つべきです。こんなところですべて投げ出して死んだところで、誰も同情などしません。それこそ新撰組局長の名折れです!」
「……そう、だな…」
近藤は斉藤に引っ張られて渋々ながらようやくその場を去った。官軍は鎮撫隊の動きを見て追撃体制を整えるために一旦退き、鎮撫隊の兵士たちはこの隙に乗じて戦地を散り散りに去っていく。
そこに後方支援に努めていた春日隊を率いて彦五郎がやってきた。すでに事情を耳にしていたようで皆意気消沈していた。
「若先生…これから俺たちはどうすれば…」
彦五郎が尋ねると、近藤はグッと唇を噛んだ。故郷の人々の前でこれ以上情けない姿を晒すわけにはいかないとどうにか奮起する。
「春日隊は急ぎ日野へ戻り、身を隠してください。…もし官軍が訪ねてきても無関係だと突っぱねるんです。尋問を受けたら皆で『新撰組に脅された』とでも口裏を合わせ…とにかく生き延びてください」
「しかし!」
彦五郎は承服できないようだったが、
「俺は故郷の人々をこれ以上傷つけたくありません。…徳川に計らい、皆さんが罪に問われないように尽力することを約束します。安心して皆、家族のもとへ帰ってください」
と近藤は頭を下げた。彦五郎は苦しそうに顔を顰めたが近藤の懇願に答えて頷き、春日隊とともに日野を目指して走っていった。
斉藤は近藤とともに前線で戦っていた隊士を率いて甲州街道を東へと戻る。一度通った山道で身を隠しながら官軍の追撃をかわしつつ、ひたすら甲州街道を逆走する。
その道中近藤は何度か立ち止り、惜しむように甲府の方へ振り返った。まだ『敗戦』を受け入れられず心の整理がつかないようだ。後ろ髪引かれる近藤に、斉藤は
「立て直すことはできます。再起を繰り返すことが、我々新撰組の選んだ道です」
とその背中に投げ掛けた。近藤は頷いただけで返事はしなかった。
正午から始まった柏尾の戦い。鎮撫隊の敗走により決着がついたのは八ツ(午後二時)…僅か一刻の戦だった。
幕府の圧政に苦しんでいた領民は『武田家旧臣』の板垣退助が率いる官軍を歓迎し、鎮撫隊に鮮やかに大勝利したことを喜んだという。それは近藤が願っていた形とは真逆の結末だった。
947
官軍に敗れ瓦解した鎮撫隊は道の要所に火をかけて敵の追撃を回避しながら散り散りに敗走した。
そして陽が落ちて辺りが暗くなった頃、近藤と斉藤は一番隊をはじめとした数名の隊士とともに一昨日通過した大月宿に到着した。開戦した柏尾からは約八里…流石に官軍の姿はなく、ここでようやく休憩を取ることにした。
大月宿は静まり返っており、近藤と斉藤は素性を伏せて旅人の一行として宿へ入ったところそこにはすでに一部の新撰組隊士と春日隊の姿があった。彼らは敵襲かと思ったのか灯りを消し刀を握り腰を浮かせて待ち構えていたが、近藤たちの姿を見てほっと安堵していた。
「ああ、若先生…斉藤先生…」
「よかった…」
彼らは腰を抜かして脱力する。
「皆、無事か…春日隊長はどうした?」
「はぐれてしまいました。我々は大なり小なり怪我を負っており足手纏い…とても追いつけず別行動に」
「そうか…」
官軍に追われ、挙句怪我を負っている彼らはさぞ心細かったのだろう。皆で身を寄せ合って息を潜め、夜風で戸板が揺れるような些細な音にも敏感になって青ざめていたそうだ。特に春日隊はせっかくの初陣であったのに、あっという間に敗戦となり怪我を負って取り残されてしまった…近藤はそんな彼らに同情した。
「斉藤君、夜が明けたら隊士たちを先導して吉野宿へ来てくれないか?君がいれば彼らにとって道中心強いだろう。…そして春日隊の皆は吉野には寄らず旅装になって日野へ帰るんだ」
「…大久保先生はどうされるのですか」
「先に進む。…心配せずともこの辺りには敵はいない、島田君がいれば十分だ。俺は今夜中にこの先の吉野宿まで辿り着きたい…永倉君たちと合流を約束したからな。それにそろそろ歳にも会えるはずだ」
近藤は敗走のショックでしばらく打ちひしがれていたが、この先にある相模の吉野宿で合流し官軍を迎撃しようと思い至った。土方の援軍さえ合流できればまだ負けていない、まだ手がある…それがいまは近藤の心の支えとなっていたのだ。
斉藤は近藤だけを永倉たちが待つ吉野宿に向かわせるのは気が進まなかったが、しかし斉藤自身が永倉と衝突してしまったので頭を冷やすためにも彼とは距離を置いた方が良いのかもしれないと思い、「承知しました」と引き受けた。近藤は怪我を負っている隊士たちに声を掛け、門下生ばかりの春日隊の若者たちにはくれぐれも無事に帰郷するようにと告げた。
その間に斉藤は同行する島田を部屋の外に呼んだ。
「くれぐれも大久保先生に無理をさせるな。先生はご自身の怪我をお忘れのようだ」
「はっ…しかし永倉先生たちは吉野宿にいらっしゃるでしょうか…」
島田は不安そうに眉を顰めた。
菱山口が攻め込まれたことをきっかけに永倉と原田は近藤を強く非難し斉藤と対立した。結果として近藤が退却することを選び彼らの希望はかなったわけだが、後味が悪いままだ。近藤は吉野で合流しようと提案したが、永倉たちがどこへ行ったのかわからないし、あの様子では近藤の指示に従わないのではないか…島田はそう危惧していたが、しかし斉藤はそれは心配する必要はないと思った。
「…永倉さんは律儀な人だ。どんなに気に入らなくても味方である以上は約束は必ず守る」
「…そうですね。そういうお人でした。自分の杞憂ですね」
「島田、お前も古参隊士として萎縮せず永倉さんと原田さんを説得してくれ。彼らは少なくとも江戸に戻るまでは助勤として務めを果たすべきだ」
「自分がお役に立てるかわかりませんが…」
「気の利いたことを言わなくてもいい。だが、お前は何があっても近藤局長の味方でいろ」
「はっ…」
島田は当然だと言わんばかりに頷いた。
その後、近藤は斉藤たちを残して島田とともに大月宿を出た。彼らは月明かりを頼りにさらに先へと進んでいった。
その頃、土方はようやく江戸を出立しようとしていた。
勝から与えられた兵は三百…さらに各方面に兵を募り最終的には四百ほどを甲州へ送る約束を取り付けたが、ほとんどが菜葉隊のように口約束に過ぎず出立の時刻になっても兵は集まらなかった。上様に会うことも叶わず、時間が惜しい土方は仕方なく先遣隊として百の兵とともに夜になって出立することにした。
(この時間だと行けても府中までか…)
土方は一睡もせずに駆けまわっていたため疲労が溜まり苛立っていた。一刻も早く近藤たち鎮撫隊がいる甲州へ向かいたいが、現実的に合流するためにはまだ数日かかるだろう。己の身一つでも先んじて向かいたいが援軍を任せられる者はいない。
そんな土方の元へ一人、松本から助っ人が遣わされていた。
「副長、どうぞ。握り飯です」
土方はまともな食事もままならないままだったので、彼の気の利いた行動に少しだけ気分が落ち着いた。
「…馬越、と呼んでいいのか?」
馬越三郎は以前新撰組に入隊していた隊士だが、諸事情があって除隊し松本の知人の医者の元で働いている。そのあたりのことは先に再会した総司からも聞いていたが、実際に彼を目の前にするとまるで幽霊に遭っているかのようで不思議な心地だ。あの頃は白皙の美少年という風貌であったが数年経って精悍さが増したように見える。馬越というのは彼の名前ではないそうだが、彼は頷いた。
「構いません。そう呼んでいただける方が…なんだか馴染みます」
出立前になって突然馬越がやって来た。彼が持参した松本からの文によると本人の医者としての修行のために同行させてやってほしい…と書かれていたが、松本なりに土方を手助けするために隊のことをよく知っている馬越を寄越したのだろう。
土方は握り飯を口にしながら馬越とともに早足で歩き続ける。彼は新撰組を離れているが、在籍中から賢く聡明であったため話し相手としては有難かった。
「これから戦地に向かう。危険な目に遭うかもしれないが…」
「はい。松本先生に師事する以上、この先も危険な戦地を巡ることになるでしょう。むしろ僕がお役に立てるかどうかわかりませんが…英さんの助手くらいは勤まると思います」
新撰組が江戸に帰還してから英は松本の医学所を手伝っていたので、同輩の弟子ということで馬越と面識があるらしい。
「英は総司に同行しているから入れ違いになるな」
「ああ、そうでしたか。沖田先生もご無事でお戻りいただけると良いのですが」
「…そうだな」
甲府に残してきた近藤のことは気がかりだが、総司のことも気になっていた。詳細を省いた戦況を伝えたせいで余計な心配をかけているだろう…彼が無事に松本の元へ辿り着ければ安心できるのだが、きっとこの甲州街道のどこかですれ違っているだろう。
賑やかで明るい内藤新宿を過ぎてだんだんと人気のなくなる夜道を進む。鎮撫隊を率いて同じ道を辿ったのはつい先日のはずだが随分昔のことのような気がした。土方はあまりに考えるべきことが多く、また体力的に消耗していたためつい眩暈がして立ち止った。馬越は土方の身体を支えた。
「副長、少し休みましょう。一度仮眠を取られた方が効率が良いです」
「…ああ。次の…上石原で休む」
土方は素直に頷いた。上石原宿は近藤の郷里で手厚い歓迎を受けた場所だ。
(思えばここから日野まで進軍を緩めてしまったことが甲府城を奪取された要因となったんだよな…)
ふとそんな後悔がよぎるが、過ぎてしまったことは取り戻せない。土方は馬越に支えられながらひたすら歩き、上石原に着いたところで兵たちに休息を告げて数軒しかない旅籠に入った。試衛館よりも古びた家屋だが今の土方にとってそんなことはどうでも良く、馬越に二刻後に起こすように頼み目を閉じた。
(かっちゃん…頼むから無茶だけはするなよ…)
駒飼宿で、近藤は見たこともないような険しい表情を浮かべていた。甲府城を占拠され己の右腕は動かず、兵は脱走する…そんな彼に『俺の気持ちはわからない』と言われたがその通りだと思った。こうして離れてみて、安易に『銃を持て』などと口を滑らせてしまったのは短慮だっただろうと気が付く。近藤はまだ諦めていなかったのだから。
(まず…あいつに謝らないとな…)
土方はそんなことを思いながら意識を手放した。
―――するとやはり悪夢を見た。
この二日間、常に最悪の場合を想定して深く考え込んでいたが、そのすべてが具現化されたような息苦しい夢が断片的に始まっては終わり、ひたすらに苦痛な時間だった。
そしてついにははぁはぁと息切れして目を開けた。一本分の蝋燭の淡い光が古い天井を照らしていて、そして傍らに人の気配を感じた。
「…まだ二刻経ってませんよ」
「…」
当然馬越だろうと思った。けれど違った。
「…総司?…いや、夢か…」
「夢じゃありません。でも…奇跡みたいなものかもしれませんねぇ…」
穏やかな声色が総司のものに違いないと確信した土方は、彼の細い手を引っ張って自分の胸のなかに引きずり込んで抱き寄せた。少し軽くなってしまったけれど間違いなく総司だった。
何故ここにいるのかとか、そんなことはいまはどうでもいい。
「…総司…」
噛み締めるように強く抱きしめた。細い髪も白い肌も、そして土方を見つめるその大きな瞳も…幻などではない。夢でもない。
「歳三さん、また会えてよかった…」
土方の耳元で総司の少し震えた声と吐息が漏れた。
948
少し前。
朝方、関田家を出た総司は英と共に江戸へ向かっていた。時折雪がはらはらと舞う薄暗い一日だった。
「急いで具合が悪くなるくらいなら、ゆっくり行こう」
英の提案で時折駕籠に乗りつつ、都度宿場町で休みながらゆっくりと進んでいたため普通なら半日で着くはずが一日以上費やすことになってしまったのだ。
そうして立ち寄った上石原宿で今晩は休もうとしたところ、英はある旅籠の前で佇む馬越を見つけた。
「悠太郎!どうしてここに…?」
「英さん!沖田先生!」
馬越は嬉しそうに二人に駆け寄ったが、すぐに「あっ」としまったという顔をした。
「も、申し訳ありません。身の上を隠していらしたのについ大声でお呼びしてしまい…」
「それは構いませんが…馬越君どうしてここに?」
「馬越?」
英は聞き覚えのない名に首を傾げた。総司は彼は実は昔は新撰組隊士で『馬越三郎』と名乗っていたことを話すと英は驚いていたが、馬越は「どちらでも構いません」と笑った。
「実はいま僕は土方副長に同行していまして…甲府へ向かうところです」
「え?君が?」
「はい。松本先生に修行がてら一度戦場を見てこいと言われまして」
「あの人が言いそうなことだな」
英が新撰組のお抱え医者となった時も戦場にも関わらず「ちょうどいい」と笑って送り出したので、馬越も同じだったのだろう。英は元は評判の陰間であり、馬越は新撰組の美男五人衆の一人に数えられていたので二人が並ぶと見栄えが良かった。
馬越は声を潜めた。
「あの…副長は旅籠でお休みです。このところあまり寝ていらっしゃらないご様子で、酷くお疲れでした。でも二刻経ったら起こすようにとおっしゃって…あと半刻ほどでしょうか」
「…そうですか…じゃあ土方さんが中に…」
関田家に寄った時、総司が見たことがないくらい土方は焦っていた。江戸に帰還してあちこち駆けずり回らなければならず徹夜が続いていたのだろう。総司は今すぐにでも事情を聞きたかったが、任務に集中している土方の邪魔になるのが憚られてこのまま会わずに別の旅籠に向かった方が良いのかと考えたのだが。
「…ねえ、歳さんは昔から寝起きが悪いって聞いたけど、沖田さんは歳さんを起こすのが得意なんだろう?」
と英が言い出した。
「え?ああ、まあ…試衛館にいた時はそれが私の仕事でしたから」
「じゃあ悠太郎より適任だ。悠太郎だってあの鬼副長を起こすなんて冬眠中の熊を叩き起こすくらい恐ろしいに決まってるよ。…俺たちは近くの宿で待っているから、代わりに請け負ったら?」
「熊って…」
馬越は馬越で英と土方が古くからの縁があることを知らないのでその言い草に目を見開いて驚いていたが、総司は英に背中を押されて頷いた。彼なりに気を利かせたのだろう。
「…じゃあ少しだけ顔を見てきます。二人は休んでください」
総司は馬越に「奥の部屋にいらっしゃいます」と教えてもらい、旅籠に足を踏み入れた。その後は疲れ切った上に悪夢で顔を顰めていた土方の寝顔を眺め、彼が起きるのを待った…というわけだ。
土方は総司と横に並んで寝ころんだまま事情を聞き、小さく息を吐いた。
「…そうか。どこかですれ違うかもしれないとは思ったが…でも奇跡は言い過ぎだろう、ただの偶然だ」
「いえ、そんなことないですよ。だって馬越君が松本先生の元にいなかったら英さんとは顔見知りではないはずで…そもそも二人とも新撰組が縁でいまの立場になっているわけでしょう?さっきも二人が並んで話をしているのがなんだか不思議で…それって奇跡的なことだと思いませんか?」
陰間から医者の卵となった英と、隊士から医者の卵に戻った馬越。彼らはおそらく新撰組が存在しなければ互いの人生が交わるはずがない二人だったはずなのに、いまは同輩として松本を師事している。その彼らがこの上石原宿で出会ったからこそ、総司は土方に会うことができたのだ。
土方は
「大袈裟なようだが、そうとも言えるかな…」
と少し笑った。
「それよりお疲れなんでしょう?もう少し寝たらどうですか?」
「いや…お前と話している方が気が休まる。寝ても悪い夢ばかりで疲れるだけだ」
土方は悪夢を見たせいで額にじんわりと汗をかいていた。総司は自分の袖で彼の汗を拭きながらおずおずと訊ねた。
「じゃあ、聞いても良いですか?…いま甲府は…?」
「……わからない。甲府城は官軍に奪われ、脱走者が多く、兵数ではとても歯が立たないということになって援軍を呼ぶために俺が引き返した。江戸へ戻って兵を募ったが…結局さほど集まらなかった」
「でも近藤先生がおっしゃっていた例の菜葉隊というのは?五百人ほど抱えている部隊だと聞きましたが」
「残念だが相手にされなかった。かっちゃんが舞い上がっていただけなのかもな…」
友誼や口約束だけで動くような時勢ではなくなってしまったということだろう。土方は菜葉隊のつれない態度に失望はしたが、それも仕方ないことだと理解していた。
「そうですか…じゃあ伊庭君や八王子の皆さんは…?」
「遊撃隊は上様の警護から離れられないし、八王子千人同心は明日訪ねてみるがおそらく頼りにできないだろうな…武田とは揉めたくないはずだ。だから結局、勝先生に三百融通してもらっただけだ」
「それでも有難いことですが…心配ですね。近藤先生はご無事でしょうか?」
「そうだといいがな…あいつもらしくなく焦っていた。猪突猛進しなきゃいいけどな…」
近藤にとって今回は徳川の家臣としての初陣で気合が入っていたが、その高揚する気持ちとは裏腹に甲府城を取られ兵が逃げ出し、士気が落ち…散々な状況のまま土方は隊から離れてしまい、心配は尽きない。早く近藤と合流したい気持ちはあったが、いま目の前にいる総司のことも離しがたかった。
土方は総司の背中から抱き寄せた。
「…お前は具合はどうだ?」
「私は元気ですよ。気を張っていたせいかな…喀血もせずに、関田家の方や英さんにご迷惑をお掛けせずに済みました」
「そうか…」
土方は安堵しながら総司の身体をぎゅっと強く抱きしめた。重なったところから感じる体温に浸りながら目を閉じていると、総司が「これ」と土方が脱ぎ捨てていた上着から懐中時計を取り出した。蓋を開けると細かく振動した針が揺れていた。
「…ちゃんと動いてますね」
「ああ。大体六のところで陽が昇って、また六が来ると沈む…よくできてる」
「へぇ…」
総司は贈っておきながらあまり性能のことはわかっていなかったが、土方が持っていてくれているだけで自分の気持ちが満たされたように思う。まじまじと見回したが、綺麗に磨かれていた。
(人に贈るって、こういう気持ちなんだな…)
総司は懐中時計を戻し、土方の指先と自分のそれを絡ませながら
「…私にしてほしいこと、ありますか?」
と訊ねた。土方が柄にもなく弱っていて、こうやって甘えていることに気が付いているのだろう。
「…じゃあこっちを向け」
総司が言われたとおりに身体を反転させたので、土方はその顔を引き寄せて優しく口づけた。総司もわかっていたのでそれを受け入れて求め、次第に互いに息が荒くなるほどの口づけをかわす。
「…歳三さん…」
「もう時間はないし、お前もそんな状態じゃないのはわかっているが……」
土方が遠慮がちに言い淀んだので、総司は敢えて彼の首筋から後頭部へと腕を伸ばして抱きしめた。
「…もっと私に触れてください」
「総司…」
「いまは戦の最中で、お互いに明日どうなっているのかわからないでしょう?そんな日々に身を置いていると…こうして触れられることがどれほど貴重で、それこそどれほど『奇跡』なのかよくわかります。だから…たとえ少しの時間でも、目の前にいる歳三さんに触れていたいんです。長く覚えていられるように…」
総司は自ら口づけをせがみ、深く深くつながりたいと願った。怖がるように触れるくらいなら、その手で壊してくれた方が良い。
(もっと強く、めちゃくちゃにしてもいいって…言えないのがもどかしい)
口にできない思いを指先に込めて、総司はその背中に這わせる。土方はその意味を理解して小さく頷いて
「ここで、お前に会えてよかった」
と耳元で呟いた。
土方が総司と邂逅を果たした頃、近藤は島田とともに約束の吉野宿に辿り着いた。江戸と甲府の中間点にあたり、本陣、脇本陣のある宿場町だが夜もすっかり更けたせいかひっそりと静まっている。
顔が知らせている近藤は姿を隠し、島田があちこち周ったが永倉たちの姿はなかったそうだ。
「まだ到着されていないのでしょうか…」
「追手から逃げきれていないのか…もしくはここも危険だと思い、先に進んだのかもしれないな」
「しかしここで集う約束だったはずです」
斉藤が言っていた通り、永倉が勝手に約束を反故にするとは思えず島田は首を傾げる。すると近藤が「先に進んで様子を見るか」と言い出したので島田は慌てた。
「大久保先生、さすがに無茶です!総大将が倒れでもしたら我々は路頭に迷います。それに敵の追撃をかわしながら夜の山道を進まねばならず、我々は幸運にもここまで辿り着くことができましたが、皆がそうであるとは限りません。…永倉先生は命令を守る方です、ここで待つのが得策です!」
島田の必死の説得に近藤は折れた。
「そうだな、さすがに体力の限界だ。…ひとまず斉藤君たちも明日にはここにやってくるはずだ、ここで待とう」
「はい」
島田はほっと安堵した。近藤は不利な戦況のことで頭がいっぱいになり、なかなか自らのことに目が向かないようだ。
(これは思った以上に重たい責務だな…)
島田は肩を丸めて小さなため息を付いた。
949
上石原宿で予定通り二刻ほど休息を取り、土方は出立することにした。土方は気怠い身体を起こして脱ぎ捨てていたコートに身を包み、
「総司、悪いが預かってもらえるか?」
と佐藤家で袖を通した羽織袴を総司に託した。
「…これ、見たことがないものですね。上品で仕立てが良いし…」
「ああ。佐藤の家に寄ったんだ。俺が幕臣に昇進したのを耳にして姉さんが用意したものだそうだ」
「へえ…さすがおのぶさんですね」
末弟が昇進したと聞き、気を利かせて準備していたのだろう。総司は姉が弟を思う気持ちを微笑ましく思いながら、風呂敷に大事に包んで風呂敷を結んだ。
身支度を終えた土方は刀を手にする。
「松本先生には話を通している。称福寺にいらっしゃるだろうから訪ねてくれ。良いようにはからってくれるはずだ」
「わかりました。私のことは気にされず勤めを果たしてください」
「ああ」
総司も厚手の羽織を着て、土方を見送るために宿の外に出た。今日は一日中雪が積もるどんよりとした天気だったが、夜になって雲が晴れて眩しい月明かりが差し込んでいて星の瞬きはいつもよりも眩しい。
「綺麗だなぁ…」
総司が呟くと、土方も同意するように小さく笑った。そして土方は総司の羽織の襟を掴んで「ちゃんと温かくしろ」と言った。
「…土方さん、近藤先生のことを頼みます。皆が…ご無事でお戻りになるのを待ってますから」
土方の言い方で、甲府の大名となる道は断たれたのだろうと言うことはわかる。だったらせめて皆は無事で戻って来てほしい…いまはその気持ちだけだった。
土方は総司の首元にぶら下がっている指環に触れながら、
「わかってる。…必ずお前のところに戻ってくる」
と約束した。
そうしていると別の宿で休んでいた馬越と英がやって来た。
「英、総司のことを頼む」
「うん。…ご武運を」
英とは短い言葉を交わして頷き、土方は馬越とともに宿場町を去っていった。その後姿はあっという間に夜の山道に消えていったが、総司は英とともにいつまでも見送ったのだった。
翌、七日。
斉藤は近藤の命令通り一番隊の隊士と春日隊の数名を連れて朝早くに大月宿を出て、昼頃に近藤たちが待つ相模湖近くの吉野宿に辿り着いた。春日隊の面々は刀や槍を捨ててそのまま日野を目指して別れ、斉藤は約束の旅籠へ足を踏み入れた。しかし合流する約束であった永倉と原田たちの姿はなく、近藤が不服そうな顔で腕を組んで腰を下ろしていた。すぐ側には居心地の悪そうな島田が控えている。
「斉藤君、官軍の姿は…?」
「…いえ、特には。追撃は取りやめて仕切りなおして進軍するのではないでしょうか」
「…であるなら、永倉君たちはここに到着できるはずだが…」
殿を務めた斉藤たちが辿り着くことができたのだから永倉たちは当然、合流できるはずだ。彼らの姿がない理由は色々と想像できる。
「な、何か不測の事態でしょうか?山道は危険ですから」
「そうかもしれぬが…命令を無視して江戸へ向かったのだろうか…」
島田は永倉を庇いたいようだったが、近藤は永倉とは喧嘩別れしたままで不信感があるせいか聞き入れようとはしなかった。島田は困惑しながら「もう少し待ちましょう」と提案しひとまずは待機することにした。
近藤が「一人になりたい」と言うので斉藤は島田とともに旅籠を出た。今日は天気が良く厚い雲はどこかへ流れていったように明るいが、新撰組の先行きは見通せそうもなく、皆の胸のなかには暗澹たる思いが渦巻いているままだ。
島田の報告によると今朝方から散り散りに退散した隊士たちが続々と吉野宿に集結し、次の指示を待っているのだそうだ。
「山野に聞いたところ戦死したのは加々爪、上原の二名で、重傷者は池田小三郎です」
「…死んだのは江戸で入隊した隊士だな」
「はい。残念ですが…正直、あの状況で良く持ちこたえたと思います。浅草の兵はとっくに皆、江戸へ逃げ帰ったようですが…もっと死人が出てもおかしくはなかったかと」
「そうだな」
斉藤が頷くと、そこへ笠を目深に被った男が駆け込んできた。刹那隊士たちは警戒したが、男はきょろきょろと辺りを見回してその笠を脱ぎ捨てた。
「ああ、ここであったか!」
「秀全殿!」
「遅くなってすまない。とっくに戦が終わったと聞いて驚いた!夜通し歩きあちこち宿を覗いていてようやく見つけたところだ。大久保殿は…」
「旅籠のなかだ」
開戦前、秀全は御師の武装集団である蒼龍隊の加勢を頼みに行ったまま帰って来なかった。鎮撫隊の敗戦を耳にしてそのまま姿を眩ませてもおかしくはなかったが、秀全にはそのような様子はなく「疲れた疲れた」と漏らしながら旅籠の玄関に豪快に座り、女中から温かい湯が入った桶を受け取って草履を脱ぎ足を洗い始めた。斉藤は事情を尋ねた。
「蒼龍隊はどうなりましたか」
「ああ…こちらの面子のためにどうか加勢をと懇願したがまったく相手にされなかった。むしろ官軍の側に付くのが当然、私の方が甲斐の民として異端だと言われてな…しかし私めの幕臣の血が騒いで、そのまま仲違いをした」
「なんと…」
秀全は笑い飛ばす。蒼龍隊の合流を待ちわびていた島田は残念そうにしていたが斉藤は驚かなかった。
(やはりそうか…)
事前に近藤に進言していたが、蒼龍隊…御師という存在は尊王思想が強く、いまや賊軍となった徳川には敵対するのが当然だ。親交のある秀全の説得にも全く応じず、冷笑されるだけだったそうだ。
秀全は深いため息を付いた。
「それはそうと…いま、甲府城下は官軍の勝利に大いに喜んでいてな。武田家臣の末裔が皇の軍隊を率いて賊軍を打ち払った…お伽話のような話題で持ちきりだ。武田家遺臣の子孫や浪人たちが官軍への協力を志願して部隊が結成されるという話も聞いた。あの板垣某は甲斐の民の心をすっかり懐柔してしまったようだ」
「…そのあたりのことは、大久保先生には伏せてもらえますか」
「わかっておる」
近藤の心を乱すことを耳に入れたくない…秀全は心得ていて、ひとまず御師の協力は得られないことだけを報告するために旅籠に入っていった。
一緒に話を聞いていた島田の表情は曇った。
「…局長はこの吉野で迎え撃つおつもりのようでしたが…甲斐国が一丸となって進軍するならとても敵いそうもありませんね…」
「…」
斉藤も同意見だったが口にはしなかった。いま近藤の次点の立場である斉藤が不用意なことを口にすれば隊士たちを動揺させてしまうだろう。
宿場のあちこちで隊士たちが休んでいる。呆然とする者や項垂れる者が屯する…翻弄されてばかりだった鳥羽伏見の時とは違い、自分たちの敗戦を噛み締めるように受け止める隊士たちは一様に肩を落としていた。
それは小姓たちも同じだ。片隅で膝を抱える銀之助と鉄之助は総司の鬼稽古よりもよっぽど疲れた表情を浮かべていた。斉藤は彼らにかける言葉がない。
「…相馬はどうした?市村を庇って背中に怪我を負っていただろう」
「はい。浅手でしたが野村がこの先の村医者に連れて行きました」
「そうか。…ヤブ医者じゃないなら池田も診てもらった方がいいな」
「…残念ですが池田は淀でも怪我を負いました。山野はおそらく助からないだろうと」
「…そうか」
池田はかつて撃剣師範を務めた腕の立つ隊士だ。頼りになる彼の離脱を残念に思っていると、再びダダダッとこちらに駆け込んでくる足音が聞こえた。島田と同じく頭ひとつ分背丈のある立川だ。その面差しはあまりに山南に似ていて斉藤はいまだに見慣れずどきっとするが、物見を務めていた立川は頰を紅潮させて
「エッ、援軍です!内藤先生のご到着です!」
と裏返った声で叫んだ。その声は宿場町によく響き、隊士たちは俯いた顔をあげてゆらゆらと立ち上がった。
斉藤も柄にもなく立川が指差す方向へ向かい、先頭で出迎える…土方は百ほどの兵を従えて合流した。隊士たちは安堵の表情を浮かべて迎え入れるが、土方は困惑していた。
「斉藤、何故こんなところにいる?甲府は…」
「昨日開戦し、敗走しました」
「…」
斉藤の短い言葉で土方は全てを察し、眉間に皺を寄せて「間に合わなかったか」と力なく呟く。
「…近藤…いや、大久保先生は?」
「宿のなかにいらっしゃいます。ご無事です」
「そうか。…ずいぶん数が減ったようだが」
「それは…」
隊士の兄貴分である永倉も、ムードメーカーの原田もいない。浅草弾座衛門の兵の姿はなく、静かな鎮撫隊は隊を離れていた土方にとっては別物のように見えただろう。
そうしていると宿から近藤が飛び出してきた。
「歳!」
「…大久保先生」
「援軍は?どうだった?菜葉隊や他にも…?」
「中で話そう」
「…そうか、わかった」
近藤は宿へと引き返し、土方はその後に続いた。
950
土方は近藤と二人だけで部屋に入った。
「…ご苦労だったな。顔が疲れているぞ」
近藤は再会時の喜びように比べると、旅籠に入って少しぎこちない様子だった。土方が江戸へ引き返す前に諍いがあったことを思い出して引っかかっているのだろう。しかし土方は敢えて普通に接した。
「俺は大丈夫だ。…それより甲府で何があった?」
「…昨日、正午に開戦した。だが脱走兵が相次ぎ、大砲も使えず…俺の失策もあって、あっという間に四方から囲まれてな。ものの二刻ほどで鎮撫隊は散り散りに退却して、今はこの吉野で皆の合流を待っているところだ」
「…援軍が遅かったか…」
「いや…お前は全力を尽くしてくれたのだろう。俺の力量が足りなかっただけだ。それにまだ負けたわけじゃない、ここで官軍を迎え撃てば良い」
近藤はあまり落胆してはいなかった。それは土方の援軍を期待していたからだ。
「それで援軍は?どれほどの数を?」
「…三百だ。残念だが菜葉隊や八王子千人同心からは助力を得られなかった」
「なに?」
近藤の剣幕が鋭くなった。
「菜葉隊の吹田殿とは有事の際には互いに援軍を寄越す約束をしたはずだ!鍛冶橋を出る前にも文を出して協力を仰いだ!」
「…そのような話は知らぬと一点張りだ。吹田殿は横浜から離れられぬとも言っていた」
「馬鹿な!」
近藤は顔を真っ赤にして憤り、握りしめた拳で畳を叩いた。
「反故にされただと?…八王子もか?!」
「…千人同心は武田とゆかりがある。事前に松五郎さんからも協力はできないと聞いていただろう?」
「それでもッ 官軍が甲州街道を、天領の地を我が物顔で進軍するのだぞ?!それを何の抵抗もせず易々と許すと言うのか…!」
「近藤先生、落ち着いてくれ。代わりと言ってはなんだが勝先生から兵を送ってもらえた。…相手の戦力は?」
「八百、あるいはそれ以上だ」
近藤の答えに土方は愕然とした。兵力は八倍…たった二刻で敗戦した理由は火を見るよりも明らかだ。その場にいなくとも土方にはなす術なく敗走する姿が想像できた。
土方は目を伏せた。
「それは…無理だ。兵数では半分以下、それに大砲や武器弾薬も戦場に置いてきたんだろう?迎え撃つと言っても…狭い山道でどこから弾が飛んでくるかわからない状況で、とても太刀打ちできない」
土方は現実的に意見した。官軍の侵攻を止めるためにも迎撃に打って出たい気持ちはわかるが、兵数で劣る鎮撫隊にとってはあまりに分が悪い。
「山道を抜けて…日野や八王子でならまだやりようがあるが故郷が戦火に焼かれるのは本意ではないだろう。だったら江戸に帰って総力戦に出るか…」
「…どの面下げて江戸に戻るんだ?甲府城どころか兵に逃げられ大砲を奪われ…『幕臣大久保剛』としてこんな情けないまま戻れない、せめて一矢報いねば!」
「…」
近藤は土方相手に本音を暴露する。迎撃すべきだと主張するのは徳川のためであり民のためであり、そして近藤の都合でもある。それは幼馴染の前では否定できないからだ。
土方は顔を顰めて苦悶した。
「気持ちはわかるが…皆の意見を聞くべきだ。永倉や原田は…?何と言ってる?」
「…逃げ延びてまだ姿を見ていない。だがそもそも開戦前から反発していた。お前と同じように迎撃に賛成しないだろうな」
近藤がまた嫌味のように棘のある言い方をしたが、土方は聞き流した。
「ここで玉砕する理由がない。一旦江戸に戻って勝先生にご相談して仕切り直すのが得策だ」
「いや、諦められぬ」
「近藤先生」
「…」
聞き分けがないこどものように近藤は首を横に振って土方の助言を聞き入れなかった。幕臣としての初陣…甲府城主まで夢見た戦だったのだ、敗戦を受け入れるまで時間がかかるだろうと思い、土方は話しを切り上げて結論を先延ばしすることにした。
「…とにかく、この吉野宿での迎撃は避けて八王子に戻ろう。八王子なら民の協力を得られるし、徳川から授かった大砲八門のうち六門を預けている。迎撃するなら必要だろう」
「…わかった」
近藤は気が進まない様子だったが武器がなければ戦えないのは柏尾の戦で身に染みていたので頷いた。
二人の間にまた重たい空気が流れ始めた。土方はそれを気まずいとは思わなかったが、口を閉ざした幼馴染に何を言ったら良いのか初めて迷っていた。そんな時に浮かんだのは総司の顔だった。
「…上石原で総司に偶然会った。いまは松本先生の元へ向かわせている」
「…」
「『皆、無事で戻って欲しい』と言っていた。…総司だけじゃない、おつねさんやおたまも…たとえ戦果などなくても。待っている人たちは皆、無事に戻って欲しいと思っているはずだ」
妻子の名を口にすると近藤の表情が変わったが、さらにその剣幕を険しくさせるだけだった。
「…鬼副長は、随分と情に流されるようになったんだな」
「近藤先生…」
「『大久保』だ。内藤君」
「…」
近藤の冷たい拒否。土方は(今はもう何も言うことがない)と悟った。何を言ったところで近藤の心には届かず、今の彼にとっては土方の正論が敵の矢のように突き刺さるだけなのだ。これ以上、拗れるまでに退散した方が良い。
「…日が暮れるまでここに身を隠して永倉たちを待とう。暗くなったら八王子へ向かう…それでいいよな?」
「ああ…」
近藤が同意したので、土方は立ち上がって部屋を出た。
(『大久保』、か…)
上様に与えられた『大久保剛』という名が、今は近藤の背中に重くのしかかっているのではないか。そのせいでがんじがらめになって身動きが取れなくなっているように見えた。
(謝りそびれたな…)
剣より銃を。
軽率な発言をしたことを謝りたかったのだが、火に油を注ぐだけかもしれない。
土方はなんとなく気怠い身体をどうにか動かして旅籠を出たところ、斉藤が待ち構えていた。
「大久保先生は…」
「…ずっとあんな感じなのか?」
「…はい。開戦前から頑な様子で、永倉たちが困惑していました」
「斉藤、詳細を教えてくれ」
土方は斉藤を誘って宿場の人気のない場所にやって来た。
鎮撫隊を離れて僅か四日…甲府で近藤と鎮撫隊に何があったのか、近藤はあまり詳細を語ろうとせず、あの様子では問い詰めることもできない。土方は一番客観的に物事を見ているであろう斉藤に尋ねると、彼は言葉を選びつつ淡々と質問に答えた。
「…まず、我々鎮撫隊の正体が新撰組であるということは早々に露見しました。戦に持ち込もうとする大久保先生に対し、永倉や原田は反対しましたが、『援軍が必ず来る』と発破をかけやや強引に開戦に突き進みました。新撰組は最前線である柏尾橋を、北を永倉、南を春日隊に任せて街道を守りましたが…大砲を放つために邪魔になる人家を焼き払ったことで白煙が漂い視界不良となり、逆に追い詰められる結果となりました。橋を落としたことで官軍は南側に周り、新撰組も白兵戦に突入…一時は盛り返しましたが、北側から官軍に包囲されていることが判明し敗走は確実になりました。しかし、大久保先生は玉砕を覚悟で徹底抗戦し援軍を待つと主張されました。永倉たちが強く反発し…先生が折れた、という次第です」
「…」
斉藤の抑揚のない語りぶりではわかりづらいが、事実を並べるだけでも予想以上の圧倒的敗北に土方は言葉がない。
「そもそも勝てる戦だったのか?お前はどう思った?」
「…勝てる可能性は低いものの、援軍が来るまでの足止めくらいはできるだろうと考えました。ただ俺は大久保先生が腹を括ったのなら従うまでだと決めていました」
「そうか…」
無謀な戦とまでは考えなかったが、援軍が来るまでならばと開戦した。近藤を信じた隊士たちの心情を知り、土方は
(遅かったか…)
と後悔するが、すべては後の祭りだ。
「…春日隊はどうした?」
「大久保先生のご命令で日野へ帰しました」
「そうか…」
土方は故郷の恩ある人々がひとまず戦から離脱できたことに安堵したが、斉藤の表情はまだ険しい。
「ほとんどの隊士は状況を飲み込めずに大久保先生を信じて指揮に従いましたが、永倉とはかなり揉めました。あの人とは大久保先生も俺も事あるごとにぶつかってきましたが、昨日以上に衝突したことはないはずです」
「…それほどのことがあったのか?永倉は時に感情的だが、漢気がある。今まで俺とは対立したとしても大久保先生と正面からぶつかることはなかったと思うが…」
都にいた頃、陰に隠れて統制を図る土方とは意見が食い違うことがあったが、それを上手く取り成して宥めていたのは近藤だったはずだ。誠実な近藤に絆されて永倉はこれまで衝突があったとしても付き従ってきた。だからこそ近藤と永倉が言い争いになるなど思いも寄らなかった。
しかし斉藤は、それまでの淡々とした語りぶりを乱しながら答えた。
「…それは…大久保先生の失言が原因かと」
「失言?」
「…大久保先生は尻込みする隊士たちへ『会津の援軍が近くに来ている』と話しました。その言葉に隊士たちは奮起し…けれど、実際には会津など影も形もなかった。永倉は虚言を口にした大久保先生を許せなかったのではないかと思います」
「…」
土方は胸がキリキリと痛むような心地だった。
近藤がどれほど必死になって、追い詰められてついた嘘なのか…もしくは会津が援軍に来てくれればという縋るような気持ちで口にしたのだろう、と長い付き合いの土方は理解できる。けれど隊士思いで正しさを求める永倉にとっては『裏切られた』という心情になったはずだ。永倉はそういう男で、また原田も仲間思いの真っすぐな性格だ…二人は近藤を糾弾するに違いない。それは新撰組にとって大きな亀裂となる。
土方は愕然とした。
(俺が残っていれば良かった)
菜葉隊に断られ、たった三百の援軍しか得られないくらいなら土方が甲府に残って近藤を支えたほうがまだマシだった。幕臣として気負って戦に臨んだ近藤の手綱をうまく握れるのは自分しかいなかったのだ。だが今更そんなことに気が付いても遅い。
(俺はまた何もかもを間違える)
自分の選択を嘆きながらゆっくりと息を吐いた。
「……諍いがあったことは分かった。隊士たちは…?」
「戦死者は二名、重傷者は一名です。詳しくは山野に聞いてください」
「ああ…」
土方はさらに疲労が重なったような気持ちだったが、実際に戦場を駆け抜けてきた斉藤たちも同じ…もしくは土方以上に過酷だったはずだ。斉藤の前で弱音を吐くことなどできるはずもない。しかし彼は
「沖田さんはどうなりましたか」
と訊ねた。
「…総司は江戸へ戻らせた。府中もどうなるかわからないからな。昨日偶然上石原宿で会ったが、関田家では喀血もなく過ごしたそうだ」
「そうですか」
斉藤は少しだけ柔らかな表情を見せた。どれほど殺伐として息苦しい状況でも総司のことを思えば紛れる…それは二人とも同じなのだ。
「お前と拠り所は同じだな」
「…そうかもしれません」
二人は顔を見合わせて苦笑した。
946 甲州勝沼の戦い(=柏尾の戦い)では近藤と土方が会津の援軍が来ると言いくるめ戦に突入するも援軍が来ず、作中にある通り鎮撫隊の放火による白煙での視界不調、さらに大砲指南役の結城無二三が兵を募るため戦場を離れていたせいで大砲の扱いがままならず、あっという間に敗走しました。甲府城を官軍に接収されてしまったのは日野宿での大宴会が原因と言われていますが、実際の行程ではそれほど長い時間立ち寄ったわけではなかったようです。また『甲陽鎮撫隊』という言い方が一般的ですが、資料では『鎮撫隊』の記載のみで後付けと思われますので、『鎮撫隊』という呼び名で記載しています。
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