わらべうた
951
日が暮れるまで吉野宿で永倉たちの到着を待った鎮撫隊だが、姿を現さなかったため暗がりに隠れて八王子へ向かうことにした。
出立前に近くの村医者の所へ行っていた野村と相馬が戻って来た。二人は老いた医者を連れ帰っていたが、残念ながら重傷であった池田小三郎はすでに息を引き取ってしまったので他の負傷者の手当てをさせた。
土方の元に二人がやってきた。
「相馬、怪我の具合は?」
「大事ありません。背中に掠っただけで…野村が大袈裟に騒ぎ立てたせいで、ご心配をおかけしました」
「そうか」
相馬は土方へ深々と頭を下げようとしたが肩甲骨辺りに浅手を負っていたので少し顔を顰めた。
「あまり無理をするな。…悪いが、大久保先生の傍についてもらえるか」
「はっ!承知しました」
局長附の相馬なら近藤の機嫌を損ねることはないだろう、相馬は先頭を歩く近藤の元へ小走りで駆けていった。その様子を野村は心配そうに見送っていた。
「相馬は白兵戦の最中に鉄之助を庇って怪我を負ったと聞いたが?」
「あ…はい。鉄が先走っちまって…。でもちょっと言い過ぎたかも…」
野村は頭を掻きながら後方に控える鉄之助にちらりと視線を向けた。銀之助とともに雑用を引き受ける鉄之助は、確かに少し覇気がないように見える。自分を庇って怪我を負わせてしまったことに対して自責の念にかられているのだろう。
「…気にするな。無鉄砲な年頃だからな、自分の力量に気が付く良い機会だっただろう」
「はは…そうだといいんですけど」
「お前は一番隊に合流しろ」
「はい」
野村は「失礼します」と小さく頭を下げて島田や山野たちに合流した。土方は鎮撫隊の殿を歩く―――この道を辿るのは三度目だが、すべて違う心持ちだった。
甲府城接収という大きな目的のために歩き、二度目は援軍を呼ぶために駆け抜けた。そして三度目となった今は…ふわふわと浮ついていてどこか現実味がない。あまりにこの先の展望が見えないせいだろうか。
(永倉たちは一体どこへ行ったんだ…)
夜のうちに八王子に到っても永倉の姿はなかった。
ここで彼らを待つという案があったが、斥候役の大石がやってきて官軍が八王子を目指して進軍しているという知らせを伝えた。それは鎮撫隊の追撃ではなく、最終的には江戸占拠を目的としている大軍で、官軍の兵は八百どころではなくとても太刀打ちできないと言う。
「大久保先生、やはり江戸で立て直そう。会津や松本先生から頂戴した金を配って兵を集め、武器弾薬を買い…勝先生に指示を仰いでもう一度体制を整えるべきだ。そうしなければ甲府の二の舞だ」
「…そうだな」
土方の説得に応じ、近藤は八王子に留まらずさらに江戸へ戻ることにした。さらに土方は大石へ『鎮撫隊が高尾山に布陣している』という偽情報を流布させて時間稼ぎをさせた。これが功を奏し官軍は高尾山潜伏の情報に踊らされ、進軍が止まり追撃が空振りに終わることとなる。
三月八日、鎮撫隊は盛大な祝宴を挙げた日野を通過する。
「大久保先生、佐藤家に寄って様子を見てくる。もしかしたら永倉たちがいるかもしれないからな…すぐに合流する」
「…ああ、わかった」
近藤は言葉少なく頷いた。あれから蟠りは解けることなく以前二人の間には距離があったが、土方にはどうしようもなかった。
土方は鎮撫隊を離れて八王子で知人に任せていた三日月に跨り、佐藤家に向かった。甲府へ向かう時は噂を聞きつけた領民が街道に群がり盛大に見送られたが、今はしんと静まり返っている…おそらく着の身着のままで戻って来た春日隊から甲府で敗戦した噂が広まったのだろう。故郷に凱旋したあの日はほんの束の間の栄誉だった…けれど今はそんなことはどうでも良い。
(どうか皆無事で戻っていれば良いが…)
土方は逸る気持ちで三日月とともに佐藤家に駆け込んだ。名主の佐藤家はこの辺りでも大きな屋敷を持っているがあまりに静まり返って人気がない。土方が慌てて三日月を降りて屋敷に入ると、
「歳三…!」
姉ののぶが大きな荷物を抱えていて、すぐにそれが身を隠すための準備だとわかった。
「…っ、義兄さんは?」
「心配しないで、旦那様はご無事です。今朝戻って隊旗や名簿を焼き捨てて、武器を隠して…いまは田舎の親戚の家に向かっているわ。源之助も知人の家に身を隠して、私も今から出るところよ」
「そうか…」
土方は春日隊の痕跡を消したという灰の山を見つけた。
源之助は彦五郎とのぶの長男で、土方にとって甥にあたる。土方は彦五郎一家が無事であることに安堵したが、これから一家は離散して身を隠し不自由な生活を強いられてしまうことに申し訳ないという気持ちはすぐに沸きあがった。
「姉さん…その…」
「良いのよ。貴方の言ったとおり、旦那様が無事に戻ってくださっただけで十分…。それに『春日盛』なんて名乗って門下生たちと張り切って出陣したのは旦那様ご本人だもの」
姉は末弟の謝罪を拒み、相変わらずよく喋った。
「旦那様は都での貴方たちの活躍を誰よりも応援していたけれど、同時に焼きもちを焼いていたのよ。『俺なら』って何度聞いたかしら」
「義兄さんが…?」
既に名主として確固たる地位と責任があった彦五郎は当然、浪士組に参加などできなかったらしいが、新撰組として幕臣まで出世した義弟を誇りに思うと同時に密かに羨望の眼差しで見つめていたのだそうだ。いつも余裕のある態度で見守ってくれていたので、彦五郎の心情など知る由もない。
土方はそれでも義兄を巻き込んでしまったという罪悪感を覚えていたが、のぶは穏やかだった。
「だから今回のことは旦那様の本望だったはず…何より、横浜で銃やら弾やら買い占めたと話した時、旦那様はとても嬉しそうだったわ。戦だというのに、まるで子供みたいに…」
「…そうか」
「勿論負けてしまったのは残念だけれど、こればかりは仕方ないわ。だからあなたは何も気にせず近藤先生とともに次の戦へ向かいなさい。それがあなたの…昔から変わらない、やるべきことでしょう?」
「…ああ、わかってる」
のぶが彦五郎から何か聞いていたのかもしれないが、姉に言われるまでもなく、近藤との関係がギクシャクしたからといって離れるつもりはない。疎まれても言うべきことは口にして、新撰組を盛り立てる。
姉に励まされ、土方は沈みかけていた気持ちを立て直した。
「ところで、永倉が来ていないか?原田は…?」
「いいえ、見ていないわ。お二人がどうしたの?」
「そうか。…いや、もし二人に会うことがあったら、手筈通りに大久保邸を訪ねるように伝えておいてくれ」
「ええ」
のぶは大きな荷物を大八車に乗せ始めたので土方は少し手伝ったが、ゆっくりと姉を見送ることはできそうにない。
「姉さん、悪いけど時間がないから送れそうにない。…春日隊のことは勝先生に頼んで取り成してもらうから、不自由だろうけどその時まで身を隠してほしい」
「わかったわ。…総司さんは?まだ関田に?」
「いや、先に江戸に帰した。またどこか静かな所に身を寄せることになると思う」
「そう…落ち着いたらお見舞いに行くから、また居場所を知らせてちょうだい」
「ああ」
土方は再び三日月に跨って、馬上で
「姉さん、あの羽織…誂えてあったおかげで格好がついた。助かったよ…ありがとう」
予想外のことばかりが起きて、戦が迫り、また会えるとは限らない…そんな思いで礼の気持ちを伝えた。のぶは少し驚いた顔をした後に
「…お安い御用だわ」
と笑った。その目尻には少し涙が滲んでいるようだったが、土方は三日月の手綱を引いて颯爽と屋敷を出たのだった。
土方は三日月とともに鎮撫隊に戻ったのだが、早急に江戸へ向かっていた隊士たちが立ち止り群がっていた。土方は何かトラブルかと三日月から降りて
「どうした?」
と隊士に訊ねると、彼らは口籠もり気まずい顔をしてサッと道を開けた。円の中心にいたのは近藤で、医学方の山野から右腕ではなく近藤の腰のあたりの手当てを受けていた。と言っても出血等はなくただ痛めてしまったようだ。土方は近藤の傍に駆け寄った。
「何があった?」
「…少し休んだだけで、何でもない。皆、出発しよう」
近藤は土方の顔を見た途端、顔を強張らせて出立の命令を出した。おそらく土方には知られたくないのだろう…近藤は素知らぬ顔で先頭に立ち、隊士たちとともにぞろぞろと出立するが、土方は島田を捕まえて事情を聞いた。
「島田、報告しろ」
「は、はい…実は少し前…突然物陰から短刀を持った少年が駆け寄ってきて、大久保先生の背中目掛けて斬り付けました」
「なに…?」
「勿論お怪我はありませんが、咄嗟に避けて転倒されました。あまりに突然のことに皆驚いてしまい、お傍に控えていた相馬も怪我があって追いかけられず少年を取り逃がしてしまいました…」
失態を詫びる島田の元に、山野がやって来た。
「山野、大久保先生の具合は?」
「打撲程度かと思います。無意識に右腕を庇って避けたので転んでしまっただけで、先生ご本人も痛みはなく問題はないそうです」
「そうか…」
土方は一旦は安堵したが、近藤の表情は深刻だった。それは怪我以上にまるで大きな傷を負ってしまったように。
(故郷同然の日野で、少年に斬り付けられたことに衝撃を受けたのだろう…)
少年にどんな思想があったのか、なぜ近藤を狙ったのか、何か理由と恨みがあったのか…それはわからなかったが、少なくとも故郷の英雄などではなく亡き者にしたいと思う若者がいたということだ。
今の近藤はその事実に衝撃を受け、これまで懸命に心を配って来たはずの故郷から裏切られたと感じているのではないだろうか。
「かっちゃん…」
土方はいつものように昔の名前で呼んで、彼の隣に立ってやりたいと思った。それができない心の距離がもどかしく、けれどどうして良いのかもわからなかった。
そしてさまざまな問題を抱えたまま三月十日、鎮撫隊は解散―――新撰組は江戸に戻った。
952
新撰組が甲府へ向かった二月末、そして敗走し江戸へ帰還した三月十日までの間に官軍と勝海舟の交渉が始まっていた。
三月五日に官軍は労なく駿府に到着、その後軍事会議を開き江戸総攻撃を三月十五日と定め、東海・東山・甲州の三街道から進撃する軍へ命令を下した。
寛永寺で謹慎中の上様は護衛していた側近の高橋泥舟に恭順の意を伝えるように頼み、その義弟の山岡鉄舟が勝とともに和平交渉に臨むこととなった。
そして三月九日、山岡は勝の命令で官軍の真意を探るため駿府城に派遣され、官軍の西郷隆盛と対面することとなる。西郷は江戸総攻撃の中止条件として、城の明け渡し、軍艦・武器を引き渡し、上様を備前藩に預けることを条件とした。山岡は勝の文を渡し、上様がすでに天皇の民として恭順を誓っていることを伝え、さらに薩摩藩に所縁ある天璋院が寛大な処分を求める書状を届けても、その条件は変わらないと突っぱねた。
三月十日、山岡から報告を聞いた勝は不満を露わにし交渉は難航の兆しを示し始めていた―――そんな頃に、新撰組が帰還したのだった。
新撰組は大久保主膳正屋敷に身を置くこととなった。大久保主膳正はかつて京都町奉行を務めていたことで縁があり、甲府へ向けて鍛冶橋の屯所を出た後に何かあればここを落ち合う場所と決めていたのだ。永倉や原田もそれを知っているはずだがやはりここにもその姿がなかった。
「一体どこへ行ったんだ…」
近藤は苛立ちを通り越して少し呆れたようにため息を付いた。隊士たちは彼らがこのまま離隊してしまうのではないか…という悪い予感がもちろん過ったが、それを誰も口に出すことはしなかった。
到着して早々、
「俺は報告を兼ねて勝先生の御屋敷を訪ねてみる」
「わかった。相馬は怪我をしているから代わりに島田を連れて行ってくれ」
「ああ」
近藤は休む間もなく島田とともに屋敷を出て行ったところ、敗戦を引きずり相変わらず固い表情のまま局長がいなくなったので、屋敷内は少し緊張の糸が緩んだ。
土方は傷病人が休む広間へと足を向けたところ、医学方の山野の指揮のもと馬越や小姓たちが世話をしていた。
「山野、状況は?」
「はい。怪我人や病にかかった者が合わせて…二十人ほどです」
「そうか。…松本先生に怪我人は称福寺に連れてこいと言われていたが、あまりに二十人は多すぎるな」
「そうですね、押しかけるわけには…。しかし英さんがいないので手が足りません。ここは称福寺から近いですし何人かお弟子さんをお借りできれば有難いのですが」
「わかった。ちょうどいまから訪ねるところだ、頼んでみよう。…馬越、お前も松本先生のところへ同行してくれ」
「はい」
援軍に向かうつもりが結局、吉野宿で引き返す羽目になり馬越を振り回してしまったが、ここまでの道中傷病人たちをよく診てくれていた。しかし彼は元新撰組隊士ではあるが、いまは松本から借り受けている客人だ。人手不足とはいえ危険がないうちに彼を元の『涌井悠太郎』に戻してやらねければならないと思った。
土方は馬越とともに浅草・今戸の称福寺に向かうことにした。さほど離れてはいない。
江戸の町は少し閑散としていて人通りが少なかった。
「馬越、短い間だったが同行してくれて助かった」
「いえ…僕の方こそお役に立てず。でも…懐かしい皆さんにお会い出来てとても嬉しかったです」
馬越が除隊したのは随分前になり、彼のことを知っているのは島田や山野のような古参だけだが、かつて美男だと騒がれ今も礼儀正しく律儀な馬越はすぐに鎮撫隊に溶け込んだ。
(少し…惜しいくらいに)
それは馬越も同じだったようで、おずおずと切り出した。
「あの…土方副長、僕が今後もお力になれることはありますでしょうか」
「馬越…」
「『馬越』であった頃のように刀を手に戦うことはできないでしょうが…英さんと同じように僕も戦場で…」
「いや、やめておけ」
土方は首を横に振って断った。
「力になりたいと思ってくれたのは有難いが、お前は一度隊を離れている。昔の誼があるだけでそれがお前の定めだったんだ」
「…」
「勿論、隊士たちもお前との再会を嬉しく思っているだろうが…新撰組の一員として戦場へ来てほしいとは思っていないはずだ。お前は新撰組を離れた後、馬越ではない人生を歩んできたのだからその人生を尊重すべきだと思う」
せっかく自分で道を切り拓き人生を歩んできたのだから、わざわざ過去に戻る必要はない。それが過酷であるほど、その場限りの懐かしさに絆されて容易に決めることではない。
土方が説得すると、馬越はその端正な顔をふっと緩めて小さく笑った。
「僕…土方副長のことを誤解していたかもしれません」
「誤解?」
「その…もっと利用できるものは利用する、そんな冷酷な方だとばかり思ってきました。鬼副長らしく…」
「まあ…都にいた頃はな」
幕府という絶対的に揺らがないものがあり、その上で成り立つ新撰組には理想の武士として正義感や潔癖さを求めた。馬越のような例外はあったものの、隊を脱走した者はほとんどが切腹したのだから。
馬越は小さく頷いた。
「…だからいま、僕なんかが副長にお気遣いいただいて、なんだか不思議です。…それにいま残念な気持ちと安堵する気持ちがあります。懐かしい皆の力になりたいと思う反面…やはり僕にはまだ経験や覚悟が足りません。…でも、もし松本先生の元で修行を重ねて、『涌井悠太郎』として新撰組とともにゆきたいと思ったら…その時は受け入れていただけますか?」
「ああ、願ってもないことだ」
「ありがとうございます」
馬越は目尻に皺を寄せて嬉しそうに笑った。そのような機会が訪れるのかどうか…土方にも、そして馬越本人にもわからなかった。
半刻ほどで今戸の称福寺に到着した。出迎えた松本は土方の顔を見るや「あっ」という驚いた顔をした。
「永倉たちなら少し前に出て行ったぞ?」
「え?永倉たちがここに…?」
「なんだ、会いに来たわけじゃないのか。…まあいい、上がってくれ」
土方はここで行き違いになってしまったことに驚きつつも、松本に招かれるまま馬越とともに本堂に入った。
数日前援軍を呼ぶために訪ねた時は夜更けであったため様子がわからなかったが、かつては臨時病院として怪我人で溢れかえっていたのにいまはそれもなく荷物がまとめられているように見えた。馬越も同じことを思ったようだ。
「先生、ここを去られるのですか?」
「ああ…まあ万一に備えてな」
「万一?」
「万一は万一だ」
松本は曖昧にして誤魔化そうとするので、聡い馬越はそれ以上は聞かなかった。
「甲府ではご苦労だったな。永倉たちから色々と話を聞いたが…近藤はさぞ肩を落としていることだろう。それに俺が仲介した浅草の兵が力になれなかったそうだな…申し訳なかった」
「いえ先生、謝られては困ります。兵を上手く指揮できなかったのは我々の責任です」
土方は松本が急に頭を下げたので慌てた。確かに浅草弾左衛門の幕臣への取り立ての見返りとして兵を寄越すという仲立ちをしたのは松本だったが、まさか開戦前にほとんどが脱走してしまうなど思いも寄らぬことだったのだ。
「そうか…。悠太郎も結局とんぼ返りになっちまったな」
「いえ、僕は懐かしい新撰組の皆さんにご挨拶ができましたから少しの間とはいえ有難い機会でした。…では僕は席を外します」
「おう」
馬越は雰囲気を察して本堂を出て行った。
土方は松本に聞きたいことが色々とあったがやはり一番は永倉たちのことだった。
「松本先生…永倉たちはどこへ?何か話していましたか?」
「お前さんはあいつらには会えなかったんだって?」
「はい。鎮撫隊に合流したのは相模で、甲府から敗走した後で…待ち合わせの場所にも姿を現さず、探していたところです」
「…そうか。永倉たちの居場所なら知っているが、その前にお前さんたちはいまどれほど状況を把握している?」
松本の問いかけに、土方は(どういうことだ)と眉を顰めた。
「…江戸の町が閑散としているような気はしましたが、詳しいことは何も。いま、近藤が安房守の御屋敷を訪ねている頃だと思いますが」
「ああ、だったらきっと門前払いで追い返されるだろうな。いまは特にピリピリしているはずだ」
「…官軍との交渉ですか」
「ああ。昨日もあの御仁はふらりとここに来て散々愚痴っていった。おかげで情勢には詳しくなったが…とにかく官軍との交渉は上手くいっていないらしい。官軍の総大将の西郷は三月十五日に江戸百万の城下町に総攻撃を仕掛けると決めているそうだ」
「三月、十五…?!」
土方は思わず声を上げた。総攻撃の日までもう五日しかない。あまりの急展開に土方は言葉を失ったが、松本が先ほど「万一」と繰り返していたわけを悟った。馬越の耳に入れないように伏せたのだろう。
「官軍は城の明け渡しや軍艦、武器の引き渡しを求めている。それは降伏する以上仕方ないことだが、ただ上様を備前藩に預けるべしというこの一点がどうしても受け入れ難いそうだ」
「当然です。備前など…」
備前藩主は上様の実弟で水戸徳川と繋がりはあるが外様大名…今は官軍に靡いている。刑罰のひとつに親戚の元へ預けるという形があるが、上様が備前に身を置くということは島流しに等しく、命の危険がある。
もしここに近藤がいたら顔を真っ赤にして憤慨したに違いない。松本によるとそれは勝だけでなく、山岡や他の重役たちも反対しているそうだ。
「…お前たち新撰組だけでなく、東山道に向かった歩兵隊も敗走してもはや戦を仕掛けたところで勝ち目はないのは明らかだ。まだ交渉の途中だそうだが何としてもこの江戸の町が戦場にならないことを祈るばかりだ」
「…」
土方はどちらに転ぶかわからない江戸の状況を知り呆然とするが、近藤がこのことを知れば何と言うだろうか。
(江戸で徹底抗戦…城で籠城、まで言いかねないな…)
近藤は上様の恭順という意向に沿い、そのための戦いをする決心だったが、上様の望みが叶わないとなれば近藤は全力で官軍に対抗することになるだろう。たとえ敵わないとわかっていても。
松本はあぐらをかき、
「同じことを永倉にも話したんだ。永倉は今後の新撰組の方針に疑問を持っていた…俺は永倉の考えに同意して、金を渡してやった」
「…永倉の考え、とは…?」
松本は永倉から聞いたことを話し始めた。
953
三月六日。
近藤の撤退命令を受け、永倉は原田と他の五人の隊士とともに鎮撫隊から離れて甲府街道を江戸へ向かって進んでいた。厳しい山道であったが永倉はひたすらに無心であったため、
「ぱっつぁん…少し休もうぜ」
と息が上がり疲れ果てた原田に声を掛けられるまで、日が暮れていることにも気が付かなかった。他の隊士たちは足元がおぼつかない様子だ。
「すまない、気が回らず…今どのあたりだ?」
「あー…大月宿くらいじゃねえか?結構逃げてきたよなぁ」
「そうか…敵の気配はないよな」
「ああ」
しかし常に闇に包まれている山道ではいつ敵襲に逢うかわからない…永倉を含めた七人は叢に隠れ身を寄せ合って身体を休めた。
完全に日が落ちて夜になり冷え込むと、原田は鼻を啜りながら永倉に訊ねた。
「…ぱっつぁん、確か去り際に近藤先生はこの先の吉野で合流だって言ってたよな?きっと俺たちのほうが先に着くだろう?」
「たぶんな。おそらく…吉野で土方さんを待って援軍と合流するつもりだろう。あの近藤先生の様子なら、迎撃を考えているんじゃないのか」
永倉はあくまで近藤ならそう考えるだろうと述べただけだったが、
「困ります、局長の指揮は受けたくありません!」
「もうこりごりです!」
と同行していた林信太郎や矢田賢之助が声を上げた。林は壬生浪士組、矢田は禁門の変以前からの同志で古参隊士である。二人の悲鳴のような嘆きは夜中の山間に良く響き、原田が「シィッ」と注意したが彼らの興奮は収まらない。そしてその怒りは他の三人にも伝播した。
「そもそも、甲府城さえ先に乗り込むことができていればこのような大敗にならなかったはず。その原因は明らか!」
「上石原や日野で悠長に宴など開いているからこのようなことになるんです」
「それを棚に上げて、局長は反省の弁ひとつなく…!挙句撤退が遅れ全滅の危機でした」
前野五郎や中条常八郎、松本喜次郎も今までため込んでいた愚痴を漏らした。前野と松本も池田屋以前の入隊で、中条は昨年の天満屋事件で負傷したが怪我をおして参戦した。皆、隊内でも古株で忠義者の隊士たちであり、鳥羽伏見を経ても新撰組を逃げ出さなかった信用できる者たちだ。そんな古参たちの鬼気迫る様子に驚きながら、永倉は彼らを宥めた。
「悪い、余計なことを言った。…俺も迎撃に賛成しているわけじゃない。たぶん近藤先生ひとりがそう考えているんだろう」
「しかし副長の援軍が合流すればまた戦になるのでは?副長は局長の命令には従うのでは…」
「どうかな…」
近藤は勇んで甲府へ向かったためまだ敗北が認められないようだったが、土方は冷静に物事を俯瞰するだろう。鳥羽伏見の経験がある土方なら、無事に合流できたとしても官軍との戦力差や隊士たちの様子を見て退陣すべきだと進言するのではないだろうか。
「…でもさぁ、やっぱり会津の援軍が来るってのは嘘だったのかな…」
「おい、左之…」
せっかく宥めたのに火に油を注いでどうする…と、永倉は視線で訴えるが原田はそのつもりはなくただ悲しそうに嘆いていた。
「会津って聞けば隊士たちの士気が上がるだろう…そんな単純な理由で嘘をついたってことか?近藤先生はそういう卑怯な真似は絶対にしないと信じてたんだけどな…」
「…」
原田の表情には失望があった。怒りではなく、義の人だと信じていた近藤に謀られた…その悲しみで落胆しているようだった。それは原田だけでなく古参の他の五人も同じで、ここにいない隊士たちも思うところはあるだろう。
五人のなかでも特に永倉と近しい矢田が思い切って
「…永倉先生はまだ近藤先生に付き従うのですか?」
と問いかけた。もう決別すべき頃合いではないか…そういう言い方だった。
「付き従う…か」
試衛館の食客であった頃、そこにいた者は皆『仲間』であった。
芳賀と分かれて辿り着いた田舎道場に長く居座るつもりはなかったが、日常の愉快なことや苦い経験、喜び、悲しみを共有するうちにこの先の将来も共に歩みたいと思えた。浪士組として都へ向かい、数々の苦難を乗り越えて名を挙げた…その時もまだ自分たちの『青春』は続いていたように思えたのに。
(いつから…近藤先生の言葉が『命令』になって、俺たちは『部下』になったのだろう…)
明確にいつからとはわからない。けれど仲間をひとり、またひとりと失ううちに彼らの分まで自分たちが功を上げ、律しようという気持ちが強くなり、上下関係が生まれたのではないか。
だとしたらこんなに虚しいことはない。失った仲間のために尽くしてきたのに、傍にいる仲間との絆を失いかけているなんて。
(でもまだ…繋がっている)
まだ諦められない、手放せない―――。
「…俺はまだ新撰組隊士だ。近藤先生のお考えに賛同できると思ったら…ともに戦う気持ちはある」
「…」
永倉の正直な返答に矢田たちは顔を見合わせて困惑していたので、永倉は苦笑した。
「悪いな、良い答えじゃなくて。…でも俺は簡単には見放すことはできないんだ。近藤先生に恩があると思っているから…」
「…俺もだ。一時の感情で喧嘩別れなんて悲しいからな…」
原田も同意して二人はゆっくりと立ち上がった。衣服の土埃を落とすことすら億劫だがどれほど身体が訛りのように重く、膝はがくがくしていても先へ進まなければならない。
「…行こう」
「吉野へ…?」
「いや…吉野へは行かない。甲府に近ければ近いほど近藤先生は官軍への迎撃を考えるだろう。そうすべきではないという俺たちの意思を言葉ではなく行動で伝えるために吉野には行かず、もっと先へ向かうべきだ」
約束を反故にすることは戦時下において一種の反乱、反抗ともいえるだろう。だが永倉は
(これは最後の賭けだ)
と決めた。
この行動を非難し、永倉たちの主張に耳を貸さず闇雲に官軍への抵抗を強要するなら…もうあの頃のような『仲間』には戻れないだろう。
(もう信じられないと思うまで信じぬく…)
永倉はその覚悟だった。
その後、永倉たちは甲州街道をひたすらに走り、ひと足先に江戸に戻った。
大久保屋敷を訪ねたが当然近藤の姿はなくおそらく数日は戻らないだろう。永倉は勝手に屋敷に上がり込むのは気が引けて、近くの空き家になった民家を寝床とすることにした。
「ぱっつぁん、これからどうする?」
「…近藤先生たちがいつ戻るかわからないが、待つしかないだろう」
「そうだな。…ひとまず休憩だ。寒さを凌げる屋根と壁があるだけで十分だよな、やっとよく眠れそうだぜ」
大きなあくびと背伸びをした原田は「俺ァ寝る」と言って横になった。疲れ果てた他の隊士たちも気が抜けたようでおのおの休憩しはじめたが、永倉は外に出た。
数日ぶりの江戸は曇天に包まれている。まるで永倉たちの帰還を歓迎していないように人気がなく静かだ。官軍が大きな街道から江戸へ迫っていることが伝わったのか、もしくは勝が言い出したという『焦土作戦』の噂が広まったのか…。
(芳賀はまだ深川にいるだろうか…)
旧友の芳賀は新撰組での在り方に悩む永倉に対して
『信じられなくなるまで信じてみろ』
と言った。ほんの少しでも信じてみたいと思えるのなら嫌気がさすまで進んでみよう…永倉は芳賀の言葉に背中を押されてここまでやってきた。そしてまだ、近藤たちを信じたいと思っている。
けれどそれは永倉ひとりの考えだ。近藤に対する原田の落胆、他の五人の憤りや失望を目の当たりにするとその思いが揺らぐ。
(俺の考え方は間違っているのだろうか…芳賀に会って客観的に聞いてみたいな)
永倉はまだ芳賀がいるとは限らないと思いつつ、深川に向かうことにした。深川は大久保屋敷から南へ少し下ったところにあってさほど遠くはない。
永倉は一歩、一歩踏み締めて歩く。考えなければならないことは山ほどあったけれど、歩いているうちに頭が空っぽになっていく。
少しだけ海の匂いがする風が通り過ぎた。
自分に必要なのはこんな時間だったのかも知れない…そんなことを考えていると目の前に意外な人物が現れた。
「永倉殿?…新撰組の永倉殿ではありませんか」
「…あなたは…」
永倉は目の前の男の顔に見覚えがあったが、曖昧で不確かだった。すると男はそんなことは承知の上だったようで気分を害した様子はなく、朗らかに挨拶した。
「元会津藩士の秋月です。以前は江上と名乗っていました」
「あ、ああ…江上殿…」
永倉は近藤の元に秋月が訪ねていたことを思い出した。上様が開陽丸で江戸に逃げ帰ったことで会津が窮地に立たされ国へ追われた時に、秋月を含めた数名が脱藩して幕府軍に加わったのだ。
「新撰組は甲府から帰還されたのですか?」
「は…はい、まあ…」
「…そうですか。ご苦労様でした」
秋月は新撰組の敗戦を察してそれ以上は尋ねずに、別の話を口にした。
「実は元幕府奥詰医師の松本良順先生のご所在がわからず…和泉橋を訪ねたのですがすでに去られた後で。ご存じありませんか?」
「…確か、松本先生は浅草の称福寺におられるはずです。臨時で怪我人を見ていると…」
「何と!そうでしたか!」
秋月は散々探し回ったのか、所在を知って喜んだ。
「ありがとうございます、では早速訪ねてみます。…ところで浅草とは…こちらで?」
秋月は江戸の地理に明るくないのだろうか…彼が指さしたのは真逆の海側で、その目は自信さなげに泳いでいた。
永倉は
「…いえ、反対です。宜しければご案内いたしましょう」
と申し出るしかなかった。秋月は「恩にきます」と頭を掻いて笑った。
954
永倉は秋月とともに称福寺を訪ねた。
「永倉か?どうしたんだ、新撰組は…?」
松本は突然訪ねて来た永倉に驚いていたが、「まあ上がれ」と理由を深く尋ねることなく二人を招き入れた。永倉はさほど個人的に松本と付き合いがあるわけではなかったが、幕府奥医師という高い地位にありながらも新撰組に好意的で常に支援してくれている懐の広さは同じ男として尊敬できると思っていた。
永倉はまず隠すことなく甲府で鎮撫隊が敗戦したことを報告し、自分を含めた数名が近藤と距離を置いて先に江戸へ戻ったことを話したところ松本は苦い顔をしていた。
「そうか…。一昨日土方が訪ねてきて、先に甲府城を取られたとは聞いていたが…援軍は間に合わなかったのか」
「…はい」
「まあ、とにかく皆が無事なら良い」
と諍いについては触れずに一旦話を切り上げた。そして初対面の秋月へ目を向けて「こちらさんは?」と訊ねた。秋月は居住まいを正して頭を下げた。
「はっ…私は元会津藩士の秋月と申します。いまは脱藩し、幕府歩兵隊に加わっておりますが、先日国元から文が届き松本先生にお届けするようにと仰せつかりました」
「…会津公か?」
「はっ」
秋月は懐から大事そうに文を取り出して、恭しく頭を下げながら松本に差し出した。秋月は脱藩しているが、それは会津公も承知の上での脱藩であり江戸で会津との橋渡しをする役目も担っているのだ。
松本は丁寧に文を開き、さっと目を通したあとすぐに返事した。
「相分かった。必ず参じる」
「あ、ありがとうございます…!」
「先生、まさか…会津へ?」
永倉が問うと松本は頷いた。
「会津公は官軍の標的がいずれ会津となるだろうと危惧されている。南部は弟子を連れて会津へ向かったが戦となれば医者が足りぬ…故に助太刀してほしいと書いてあった」
「…」
松本の眼差しは何の迷いもない。さっと文机に向かい『承知した』との返事をしたためると秋月に渡した。
「ここの怪我人が養生し終えた後に向かうことになる…少し時間はかかるが必ず会津へ行くと伝えてくれ」
「はっ…我が殿もお喜びになられましょう」
「会津公とは親しくさせていただいたし、友人の南部にも手を貸したい。…それに俺はどうも会津が割を食っているようで不憫でならぬのだ。是非会津の力になりたい」
松本の力強い言葉に秋月は目に涙を浮かべながら深く頭を下げて、永倉にも礼を言った後に忙しなく出て行った。
会津のために奔走する秋月の背中は強く逞しく見える。永倉はなんとなく目が離せずにその後ろ姿を見つめていると、
「…それで、お前さんはどうするつもりだ?」
と松本が問いかけた。
「どう…とは」
「俺に近藤との喧嘩の仲裁を頼みに来たわけじゃねえのか?」
永倉としては秋月の道連れでここに来ただけなのだが、しかし松本の顔を見ていると何もかもを打ち明けたくなった。
「…喧嘩と言えるのかわかりません。数年前ならこれが『喧嘩』だと笑い飛ばして翌日には仲直りできていたのかもしれませんが…いまはそう思えず。どんな言葉を近藤局長にぶつけても、ただ虚しく跳ね返ってくるばかりで…どうも俺のような人間は不要のようです」
「不要か…。離脱を考えているのか?」
「…考えないようにしています。…しかし、近藤局長への不信感は拭えません。甲府への道中、脱走兵が相次ぎとてもまともに戦えぬ状況のなか撤退を訴える隊士たちへ会津の援軍が来ると欺き…結局無惨に敗戦しました。隊士たちは局長の指揮を受けたくないと失望しています」
「本当か?近藤がそんなことを?」
松本は潔白で正直者の近藤が、ととても信じられなかったが、それは永倉にとっても同じだった。
「近藤局長ではなく、『幕臣大久保剛』としての言葉だったのだろう…といまは己に言い聞かせています」
「…そうか、お前さんはできた男だな。賢くて冷静だ」
松本の飾らない称賛が身に沁みた。
永倉は褒められたいわけではなく、ただこのどうしようもない憤りを受け止めて認めてほしかっただけなのだ。
永倉はグッと唇を噛んで何もかもを吐露したい気持ちを堪えたが、どうしようもなく少しずつ零れていった。
「…近藤局長とは長い付き合いですが、俺にとって局長は命を捧げる主君ではなく同じ目的に向かって歩む同志だと思っています。でも鳥羽伏見から江戸へ戻って…ずっと疑問を抱いてきました。何故降伏を決めた徳川のために戦わなければならないのか…局長は『恭順のための戦だ』と言いましたが、それは『捨て駒』と同義ではないのか。…俺の命は、俺の剣技は、そんなことのために使わねばならないのか…その答えは甲府にはないと思いました」
圧倒的不利な状況でも、名誉のために命を散らすほど諦めてはいない。永倉の心の内で燻ぶり続ける官軍への怒りはずっとその身を焦がし続けている。だからこそ甲府で散るわけにはいかなかった。
すると松本が
「じゃあどこにある?お前さんの命を使うべき場所は?」
と問いかけた。
永倉は少し黙った。
(―――どこに…?)
甲府ではない、徳川でもない、新撰組でもない…そしてふと思い至った。
「…会津…会津には恩義を感じています。素性の知れぬ浪人であった我らを取り立て、『新撰組』という名を与えてくださったのは…会津公です。会津公がいなければ幕臣にまで上り詰めることはできなかった。我々は…そんな会津へのご恩返しができていません」
永倉はこれまで何度か忠誠を尽くす会津藩士の姿を目の当たりにしていた。何かに縛られるのではなく、心からの忠誠を尽くす彼らの飾らない姿に羨望を抱き新撰組も恩に報いるためにも会津の力になるべきだと進言したが、近藤はあっさり却下した。
(会津ならば…この命を捨てられるのではないか)
その思いはシンプルに永倉の心に沁みて、身体中の血となっていく。
松本は腕を組んで頷いた。
「…お前さんの命の使い方を決めるのはお前さん自身だ、好きにしたら良い。だが俺も会津の為なら死んでもいいと思える。俺たちは同じだな」
「松本先生…」
「本当はお前さんのなかで答えは出ているんだろう。近藤たちを見限って、自分の道を進みたいってな。でも人にはどうしようもなく情って奴がある。近藤や土方たち、そして新撰組ってものへの情だけがお前さんを繋ぎとめているんだろう。俺は近藤たちを気に入ってるし、お前さんにも本懐を遂げる生き方をしてほしいと思っている。だからどちらの味方でもない」
「はい」
永倉は松本がどちらにも肩入れしないということは理解していた。
「でも喧嘩別れになるのはどちらにとっても不幸なことだ。だから話し合え。俺の知っている近藤ならきっとお前さんの話に耳を貸してくれるだろう。それで情に流されて新撰組に留まるもよし、情を断ち切って思うままに進むもよし。…いまは新撰組じゃなくとも、誰もが立ち止って一度考える時期なんだろうと思う」
「…」
行くべき道を選ぶ…それは永倉だけの悩みではない―――そう諭されて心のどこかが安堵した。
松本は懐から金を取り出した。
「この金で吉原で遊んで来い」
「え?いえ、そんなつもりは…」
「吉原は皆が何もかもをさらけ出して本能のままに遊ぶところだ。…この先、明るい道を選びたいと思うなら、楽しい場所で考えろ。歌って騒いで、綺麗どころの女に囲まれて頭んなかを空っぽにして来い!」
「は…はは」
豪快に笑う松本につられて永倉も笑った。しかし妙に説得があり、その金を受け取った。
松本によるとそれから永倉たちは時折称福寺に出入りしながら、吉原の大黒屋という店で居続けをしているそうだ。
「遊んでるなんて叱るなよ?俺が金を渡して遊んで来いって言ったんだ。それに大黒屋の楼主は俺の娘婿でな…江戸の花魁たちに金を落としてやらねぇと」
「…そうですか…」
土方は松本の話を聞いて想像以上に永倉たちの心が離れかけていることを知った。それは近藤の振る舞いや『会津の援軍が来る』と口走ったことがきっかけではあるが、彼らの中に積もり積もったものがあったのだろう。
落胆する土方を見て、松本は笑った。
「そう落ち込むことはないさ。俺の目にはまだ永倉たちの気持ちは新撰組にあるように思えた。ただ、これから過酷な道を歩むなら行先はちゃんと話し合ったほうが良いだろ」
「…はい」
新撰組の行くべき場所はまだ決まっていないのだから、むしろこれは新撰組にとって必要な機会だったのだろう…土方はそう言い聞かせながら頭を上げた。
「先生、永倉へ明日話をしたいと伝えてくださいますか」
「わかった。場所はここでいいな」
「はい」
永倉たちの所在がわかったことで土方はひと段落して気が抜けた。やきもきしている近藤も少しは落ち着くことだろう。
「それで沖田だがな、昨日からこの近くの俺の寓居に住まわせている」
「そうですか…何から何までありがとうございます」
「早く行ってやれ」
松本に急かされて、土方は頷いた。
955
総司は近藤たちが江戸に帰還する二日前に松本の元を訪れて、彼の寓居だという浅草の片隅の邸宅に英とともに身を寄せた。英は甲府へ出立する前はここに出入りしたことがあったようで勝手知ったる様子で総司の寝床を準備し、せっせと粥や薬などを作り始めた。
総司はずっと横になっていた。日野で引き返す羽目になったがそれでも無理が祟り、身体は訛りのように重く常に首を絞められているような息苦しさで食欲もなかった。発熱のせいでずっと意識は朦朧とし、食事以外はずっと目を閉じて苦しさを誤魔化していた。
真夜中に咳が出た時、背を丸めながら肺の痛みに耐えていると不意に枕元に置かれていた土方の羽織が目に入った。上石原宿で偶然出会い、『預かってくれ』と頼まれていたものだ。預かってと言われたからには彼の元へ返さなくてはならない。
(歳三さん…)
どうにか手を伸ばして羽織を引き寄せてそれを抱きしめた。土方の姉ののぶが誂えた品だったそうだが、それでも土方の匂いやぬくもりが残っているような気がして随分心が慰められた。
(僕はまだ死ねない…まだ…)
甲府から戻ってくる新撰組の皆に会うまでどうにか持ちこたえたい。敗戦に嘆く彼らを慰め、労り、これからも新撰組を頼むと伝えたい―――その一心だった。
そんな苦しい夜をやり過ごし、小鳥の囀りが聞こえる朝になってようやく落ち着いた。徹夜して看病した英もほっと安堵した様子で
「生き永らえたね」
と微笑んだので、総司も頷いた。
「…そう…そんな、感じ…」
濁流にのみ込まれてどうにか溺れないように必死に藻掻いた…そしてとうとう波に飲み込まれそうになってしまう…そんな紙一重のところで藁を掴み岸に上がることができたような、九死に一生を得たような感覚だった。
そうして彼の作った粥や薬が喉を通り、羽織を抱きしめてようやく眠ることができた頃…土方がやって来たのだ。
土方を出迎えた英は口元に人差し指を当てて
「今ようやく寝たところなんだ」
と総司の寝床ではなく隣の部屋に土方を通した。松本の邸宅と言ってもいくつかあるものの一つのようで、部屋が三つに小さな布団部屋が一つ、広い土間があって都にいた時の土方の別宅によく似ていた。
土方は英と向き合って腰を下ろした。
「…疲れているな」
「お互い様でしょ」
英は土方の顔色の悪さを指摘したが、これは近藤との諍いや隊内の揉め事のせいなので身体には問題はない。一方で寝不足の英は目元にクマを作っていた。
「総司の様子は?」
「ああ…昨夜は熱が高くて、随分苦しそうだった。加也姉さんにも来てもらったけど、もうできるのは祈ることしかないって言われて…どうにか無事に朝を迎えたってところかな。いまは薬のおかげでよく眠ってる」
「…そんなに悪かったのか…」
土方は総司の病状について理解しているつもりだが、突然の急変に驚いた。
「日野で引き返して府中までは新撰組や関田家に迷惑をかけないように…ってどうにか気力で持ちこたえていたみたいだけど、江戸へ帰る道中は疲れ果てていたよ。宿で動けない日もあったから…ようやく一昨日戻ったんだ」
「…そうか…無理をさせたな」
土方は総司を連れ出したことを後悔はしていなかったが、総司の病状を進行させたのではないかという責任は感じていた。だが総司本人も覚悟していたはずだ。
「そういえば昨日、永倉さんが来たよ」
「え?」
「松本先生にこの場所を聞いて顔を出したって。残念ながら沖田さんは眠っていたからまた出直すって言っていたけれど…今度は原田さんも連れて来るとか言っていたかな」
「…そうか」
土方は永倉が総司を気にかけていることや総司に何も話していないことに安堵したが、聡い英は新撰組で何かあったことは察していた。
「大変だったみたいだね。松本先生から甲府で敗戦したって聞いたよ。援軍は間に合わなかった?」
「ああ…とっくに敗走して、甲府に入る間もなく引き返したところだ。…永倉たちは事情があって別行動をとっている」
土方は勝に借りた援軍も鎮撫隊とともに解散し、いまは大久保屋敷に身を寄せていることを話した。
「そう。…怪我人は?」
「三人死んだ。怪我人は何人かいるが軽傷だ。松本先生のお弟子さんを何人かお借りしたからお前は心配しなくていい」
「…斉藤さんは?」
「あれはこんなところで死ぬような男じゃない」
斉藤はもともと負傷していたが、近藤を支えながら前線で戦い無事に江戸へ戻っている。まるで何事もなかったかのような淡々とした様子だと話すと、英は「想像できる」と小さく笑った。
「そうか…皆が無事なら沖田さんも喜ぶよ」
「…総司には近藤先生も食客たちも無事だと言って…余計なことは何も話さないでくれ」
「わかってるよ」
永倉が何故別行動をとっているのか…彼がこれまで起こしてきた行動を考えれば総司もすぐに察してしまうだろう。せめて明後日の会談で片が付くまでは総司の耳には入れたくなかった。英は心得ていてもう何も聞かなかった。
英は急須を手に取り、ゆっくりと湯飲みに注ぎ土方に差し出した。温かく濃い茶は身体中にしみわたり土方はゆっくりと息を吐いた。
「…松本先生は会津へ向かわれるそうだ。ゆくゆくはこの邸宅も手放すと聞いている。総司の養生先を考えねえとな…」
「そう…。新撰組はこれからどうするの?」
「さあ…いま、安房守が官軍との交渉に臨んでいるそうだが、決裂すれば江戸で戦になるし、上手く行っても必ずどこかで戦が起こる。そこへ行くだけだな」
「…遠くへ行くってこと?」
「わからない」
土方は新撰組がこれからどうなっていくのか具体的に想像ができなかったが、けれどどこかで戦うことになるだろうという予感はあった。
英は苦い顔をしながら湯飲みをゆっくりと茶托に置いた。
「…沖田さんはそう長くは持たないよ」
「…」
「だから、遠くに行くのならもう会えないかもしれないと覚悟した方が良い。沖田さんのことを大事に思うなら、毎日…もうこれが最後かもしれないと思いながら会いに来てほしい」
英は医者の顔をして、けれど友人の言葉として土方に伝えた。誤魔化したところで総司の病状は進み続け、本人がいくら元気だと口にしても刻々と病は身体を蝕んでいるのだ。
土方は誰に言われるまでもなくわかっていることではあったが、英に言われると殊更重く受け止めて「そうする」と静かに頷いた。
そうしていると隣の部屋から
「英さん…お客さんですか…?」
という総司の声が聞こえた。
寝不足の英は総司の看病を土方に託して四畳半の布団部屋へと去っていった。
土方は総司の寝床の傍に腰を下ろして、その額に触れた。
「熱は下がったみたいだな」
「土方さん…いつ来たんですか?」
「少し前だ。皆も甲府から戻った…いまは大久保屋敷にいる」
「皆…?近藤先生もご無事ですか…?」
「ああ、勿論だ」
総司はほっと安堵したように笑った。
「良かった…先生には私は元気だと伝えてください」
敗戦で落胆する師匠を気にかける総司は、また少し痩せていて顔色は悪かったけれど近藤には心配をかけたくないようだ。
「…昨夜は大変だったと聞いたが」
「でも今元気になったんです。だから先生には昨晩のことは内緒にしてください」
「そうか」
総司がまるで子どもが言い訳するように強がるので、土方は苦笑しつつ受け入れてやることにした。
土方は総司の枕元に見覚えのある羽織を見つけて手を伸ばした。上様に面会するための羽織は皺だらけになっている。
「これ…」
「あっ」
総司はハッと顔を赤らめて土方の手から羽織を奪い取る。
「こ、これはその…つい布団代わりにしてしまったというか…!」
「…へぇ。布団代わりだというわりには皺だらけだが」
「わ、わかってるなら意地悪言わないでください…」
総司は蚊の鳴くような声で言い返しながら顔を逸らした。
これを土方だと思って抱きしめていた…ほとんど無意識の行動だが本人に知られてしまうとこれほど恥ずかしいことはない。真っ赤になった顔を見られたくなくて総司は羽織に隠れたが、すぐに取り上げられてしまった。
「ほら、顔を見せろ」
土方に促され、総司はぎこちなく赤らんだ顔を見せた。鼻先が触れるほど近くに会いたくて焦がれていた人がいる――――。
「…歳三さん、あんまり落ち込んでませんね」
「ああ…俺も今元気になったんだ」
総司はクスッと笑った。
956
勝邸を訪ねて門前払いとなった近藤だが、江戸市中で情報収集を行っている大石から三月十五日の江戸総攻撃の報告を耳にした。
「官軍は無礼で無茶な要求をしているのだろう!こうなっては江戸で徹底抗戦だ!上様の御為に死力を尽くす!」
息巻く近藤に対し、敗戦を経験したばかりの隊士たちは困惑していた。隊士の半分が怪我や病で臥せり、ちらほら脱走する者もいる…とても戦えるような状況ではないのに、近藤が気を吐く姿はまるで見たくない現実から目を逸らすようだった。
(総司が知れば驚くだろうな…)
松本の邸宅から戻った土方は近藤がまるで人が変わってしまったように見えた。総攻撃の知らせを聞き焦って苛立ち、爪を噛み、貧乏ゆすりをする…総司はそんな師匠の姿を見たことがないだろう。幼馴染の土方でさえどう接したらよいのかわからなかったが、いつまでも遠慮しているわけにはいかなかった。
「話がある」
土方は意を決して近藤を屋敷の庭に連れ出した。夜風は寒いが閉塞した部屋にいるよりも胸襟を開いて話ができると思ったからだが、近藤の表情はまだ硬かった。会話を拒むように腕を組み、土方を見据えた。
「話とはなんだ」
「…松本先生を訪ねた。状況は概ね大石の報告通り、交渉が決裂した場合に官軍は三月十五日に総攻撃を仕掛けるというものだった。俺たちと同時に出立した梁田の戦も徳川側の惨敗だったそうだ」
「それで?」
近藤は早く話を切り上げたいのか本題を切り出せと言わんばかりに急かす。そのあまりの態度に土方は思わず眉間に皺を寄せて、声色に力が入った。
「…お前が聞きたいことはないのか?かっちゃん」
「…大久保だ」
「大久保じゃない。もう鎮撫隊は解散した…ここにいるのは新撰組の局長、近藤勇だ」
土方の言葉を挑発と受け取った近藤の眉がつりあがった。
「それは嫌味か?『幕臣大久保剛』の名前はお前には荷が重かったとでも?わざわざここに連れ出してお前のせいで負けたのだと、そう言いたいのか?」
近藤は必要以上に言い返した。それは今まで土方や永倉、あるいは他の隊士の視線を感じそんな風に思い込んでいるのだろう。土方は近藤に焚きつけられたように苛立ったが、同じ土俵に立って言い返すわけにはいかない。小さく深呼吸した。
「…正気に戻れよ。誰もかっちゃんのせいで負けたなんて一言も言っていないだろう」
「言わなくてもわかる!」
「わかってねえよ。敗戦ばかりに気を取られて何も見えていない。いい加減冷静になったらどうだ」
「俺は冷静だ!」
「冷静なものか。…聞いていたか?俺は松本先生を訪ねたと言ったんだ。冷静なお前なら…総司の様子を聞くはずだろう」
「…!」
近藤の瞳孔がカッと開いたが、痛いところを付かれたようにすぐに目を逸らした。
「……総司は…」
「総司は松本先生の邸宅に身を寄せている。昨日は危なかったそうだがさっき訪ねた時は、お前の身を案じて自分は元気だと言い張っていた」
「…」
「…お前の大事な愛弟子だろう、忘れていたのか?ずっとお前の一番近くに居て、お前を一番慕っている…総司のことすら怒りに囚われて思い出さなかったのか?……それで冷静だと?笑わせるな」
土方の指摘に近藤はぐうの音も出なかった。日野で引き返し、関田家で身を寄せた…その後江戸の松本の元へ向かわせたとは聞いていたが、その動向すら気に掛けることができないほど我を忘れていたのだ。
近藤はばつの悪い表情を浮かべていたが、土方は総司が病床で自分のことを差し置いて師匠ばかり慮っていることを思えばもっと強く怒鳴りたいくらいだった。けれど(俺まで正気を失ってどうする)とグッと飲み込んで、かわりに近藤に詰め寄った。
「…明日、永倉たちと会談する約束を取り付けた」
「何…?」
「永倉は先に江戸に戻り、松本先生の知人のところに身を寄せているそうだ。先生に頼んで明日の夜に称福寺に来るように伝えた…律儀な永倉は必ず来るだろう。もしかしたら最後の機会になるかもしれない…明日までに少しは頭を冷やしておいてくれ」
「…」
近藤はわかったとは言わなかった。けれど土方は彼を信じてその場を去った。
松本の娘婿の店だという『大黒屋』にいる永倉の元へ遣いが届いた。それは土方が松本を訪ね、会談を望んでいるという内容だった。
(近藤先生たちも江戸へ戻ったのか…)
援軍と合流した後迎撃するかと思われたが、流石に歯が立たないと土方に説得されたのだろう。
「ぱっつぁん、行くつもりか?」
ほろ酔いの原田が尋ねたので永倉は頷いた。
「願ってもないことだ」
「でもさ…」
原田の表情は曇っていた。会談に呼び出す…彼の脳裏に伊東甲子太郎斬殺の件が過ぎったのだろうとわかったが、永倉は笑い飛ばした。
「大丈夫、俺たちはまだ拗れちゃいない。流石に近藤先生でもそこまでしないさ。…それに俺は新撰組の一員としてこれからのことを話し合いたいと思ってる」
「そ、そうだよな…悪い、俺の考えすぎだ」
原田はぐしゃっと頭を掻いて笑った。
「矢田、頼みがあるんだが」
永倉にとって一番の腹心である矢田へ、大久保屋敷にいるであろう隊士たちを秘密裏に呼ぶように頼んだ。明日の会談で新撰組の行く末を決めるのだから隊士たちの意見を汲みたいと思い、声をかけたのだ。矢田は古参で隊士からの信頼も厚く島田と同じ兄貴分のような存在だが、近藤や土方に心酔する島田とは違い矢田は反骨心があり鳥羽伏見辺りから新撰組に対して懐疑的な意見を抱えている。
すると、数人は来てくれるだろうと思ったが予想以上に多く集まり、十五名が大黒屋を訪ねてきた。皆、それぞれに思うところがあり近藤の指揮に従うことに不安を覚えているようだった。
そこで永倉は彼らを前に自論を語った。
「今の近藤局長は幕臣という地位に囚われ、闇雲に戦を仕掛けるばかり。もし武士の本懐を果たすべきと考えるならば、武家の棟梁であることを投げ出した慶喜公のためではなく、恩ある会津のために戦うべきだと考えている。新撰組を引き立ててくださった恩に報いることがいま為すべきこと。俺はそう思うが、皆の考えを聞きたい」
永倉がなげかけると、隊士たちは一様に「その通り」「賛成する」と声を上げた。永倉の独りよがりかと思われた会津行きは、甲府での惨敗を目の当たりにした彼らにとって救いの手となる提案だったのだ。
「ぱっつぁん…」
隣にいた原田は嬉しそうに笑っていた。江戸に戻ってからずっと抱え続けた鬱憤が晴れるような気持ちで互いに頷き合い、永倉は結論を出した。
「安房守の二枚舌に付き合う必要はない。俺たちは再び会津の指揮下に入り、戦うべきだ!局長と副長を説き伏せ、新撰組は会津へ向かおう!」
永倉の言葉で、隊士たちの目に輝きが戻った。
月明かりの下。
屋敷の縁側に腰を下ろした土方は総司から贈られた懐中時計を取り出して、手慰みにパチン、パチンと蓋の開け閉めを繰り返していた。
「宜しいのですか」
斉藤の問いかけに「ああ」と答えた。
夜中、隊士たちが屋敷を抜け出して吉原に向かったことはわかっていた。近藤や声を掛けられず居残った数名の隊士は「妓楼へ行ったのだろう」と理解したが、その行き先は永倉がいる『大黒屋』だ。斉藤は目ざとく気がついて土方に報告したが、
「何もしなくていい」
と静かに受け止めた。
「永倉が良からぬことを企んでいるのではありませんか」
「…つくづく、お前は永倉と気が合わないんだな」
「そういうわけではありませんが…」
「大丈夫だ。少なくとも永倉が『良からぬこと』なんて考えるはずがない。あれは融通が利かないだけで生真面目で正義感があるんだ」
土方は何度か対立していたが揺らがない正論を持つ永倉を信頼していた。斉藤が危惧するような類のことを思いつくことすらないだろう。
「…律儀な男なのはわかっています。しかし夢見がちな正義感が隊士たちに必ずしも良い影響を与えるとは限りません」
「それでも…今の局長よりはマシだと思うかもな…」
つい土方が本音を漏らすと、斉藤も苦い顔をした。
「…局長は人が変わってしまったようです」
「敗戦を受け止められないだけだ。もう少し時間が経てば…元に戻る」
「…日野宿で局長を襲撃した少年のことですが」
「ああ…」
江戸へ敗走途中…土方が佐藤家に寄っている間の出来事で現場にいたわけではないが、近藤は故郷の少年に刃を向けられた。すぐに退けたそうだが近藤は酷くショックを受けていて、斉藤はその少年について調べたらしい。
「道中で徴兵した農民の子だったようです。父親は命からがら生き延びたようですが負傷して家業が滞り…その恨みで事に及んだと。捨て台詞の『嘘つき』は故郷で勝ち戦だと豪語した局長への非難だったのでしょう」
「嘘つきか…」
その場にいなかった土方は初めて知ることだったが、思いも寄らぬ子どもの罵倒に近藤はさぞ動揺し落胆したことだろう。その出来事を払拭したくて隊士の前で強く振る舞っているのだ。
(明日は…どうなることやら)
明日…その次、また次。
繰り返される毎日が決して当然ではないと実感する。都での日々が安息だったと思えるほど。
「…斉藤、総司は浅草の松本先生のお宅で厄介になっている。会いに行ってやってくれ」
「はい」
土方は懐中時計を懐にしまい、部屋に戻った。
957
三月十一日。
近藤は重たい瞼をゆっくりと開けた。静かな朝…優しい陽の光が部屋に差し込み、心地の良い布団が身を包んでいた。ここが一体どこだったのか…すぐに思い出せなかったが、右腕に痛みを感じるとすぐに眠気は吹き飛んだ。
身体を左側に回しながらゆっくりと体を起こす。鉛のように重たい身体には甲府で味わった敗北感と苛立ちが詰め込まれているようで不快だったが、それも時間が経って少しは晴れていた。特に寝起きは気持ちが落ち着いているせいか自分を客観的に捉えて
(俺はどうしちまったんだ…)
と後悔することがある。
歴然とした兵力の差を省みることなく、周囲の意見に耳を貸さずに戦に突き進んだこと。真っ当な意見をした永倉を突き放してしまったこと。勝手を言って土方を困らせてしまっていること。
苛立ちつい口に出してしまった言葉は取り戻せず、何もかも後の祭りだとわかっていても、それでもあの時に戻れるのなら違うことを話すだろう。
(俺は何としても故郷と江戸を守りたかった)
自分勝手に物事を決めるのではなく、丁寧に話してわかってもらうべきだった…そうすればこんなに拗れることはなかったはずなのに。
近藤が深くため息を付くと、また右腕が痛んだ。甲府への道中は駕籠を使ったが、江戸への帰還の際には腕のことなど構うことなく敗走したため痛みが再発してしまったのだ。
この痛みを感じるたびに近藤は焦る。剣を握れない大将など必要ない。
(俺は…もう終わった人間なのではないか…)
総司が剣を置くことを決めるまで長く時間がかかった理由がわかる。たとえ病の進行を早めたとしても、剣を手放すことは自分の尊厳を傷つけることなのだ。特に昔から『剣術馬鹿』と哂われてきた近藤や総司にとってそれほど重要なことだ。
だからこそどうにか功を挙げて『幕臣大久保剛』としての面目を保たなければならないと思った。官軍の進軍を阻み、甲府城を接収出来たら―――これまでの労をねぎらうことができるだろうと、そんな夢を抱いた。
(いい加減、現実に向き合わねばならぬ)
夢は夢でしかなく。
今の近藤に残ったのは、敗北と仲間割れという現実だ。せめて後者だけでも取り戻したい…そのためにはいつまでも現実逃避をするわけにはいかないのだ。
近藤は衣文掛けに視線を遣った。そこには近藤家の家紋が施された立派な羽織が掛けられている。上様や幕閣に召し出された時に必ず羽織っているものだ。
(俺は…島崎勝太ではなく、大久保剛でもなく…近藤勇だ)
まずは新撰組の局長としての自分を取り戻そう―――。
近藤がようやく決意した時、遠くで物音が聞こえてきた。ぞろぞろと十数人の足音が響いている。
(やれやれ…妓楼で遊んだ隊士たちが朝帰りしたんだな)
甲府から命からがら生き延びて、すぐに向かったのは妓楼…近藤には少し思うところもあったが、彼らがうっ憤を貯めることになってしまった一因は自分にあるのだから責めるつもりはない。むしろ彼らに不本意な敗走をさせたことを詫びなければならないだろう。
近藤は音を立てずにそっと障子を開けて彼らの様子を窺った。昨晩は徹夜で遊んだのだろう、眠そうな眼と酒で紅潮した頬、何人かは千鳥足で仲間に支えられながら戻ってくる。
「美味い酒だったなぁ」
「女もいい女ばかりでさ」
相当遊んだ彼らの満足げな会話を聞いていると、予想外の台詞が耳に入った。
「これからは永倉隊長って呼ばねえと」
(永倉…隊長…?)
何の冗談かとさらに耳を澄ませると、べろべろに酔った隊士たちがハハハと笑いあっている。
「気が早すぎるだろうよ」
「でも原田先生もその気だっただろ」
「だからってさぁ――……」
「ハハ――…」
次第に彼らの声は遠ざかっていき、近藤は核心を聞き逃してしまう。けれど彼らが秘密裏に妓楼で永倉と原田に会い、何かを話し合っていたのは間違いない。二人は近藤の元には顔を出さず隊士たちを集めたのだ…おそらく決起集会のような形で。
「…そうか…」
(俺を追い落とす策を練っていたのか…)
近藤の心は一気に谷底に突き落とされたような気持ちになった。
自らが招いたことだとわかっていても、実際に目の当たりにすると『裏切られた』という思いで心が塗りつぶされていく。
近藤が脱力し呆然と立ちすくんでいると、ちょうど大石が通りかかった。任務の最中なのか町人風の様相で笠を手にしていたので、
「大石君!」
と思わず引き留めた。彼は驚いた顔をしつつ近寄った。
「はっ…なにか…」
「…俺に…俺に何か報告することはないのか…?」
山崎亡き今、土方が一番重用している大石なら昨晩の隊士たちの動向など当然把握しているはずだ。彼らが永倉や原田とともに飲み明かしたのなら一体何を相談したというのか。
(どうか勘違いであってほしい…)
しかし大石はハッと瞳孔を開いたあと、少し視線を泳がせて
「いえ、何も…」
と誤魔化すように短く答えた。
「…ほ、本当か?」
「はい。…俺はこれで」
大石は逃げるようにそそくさと近藤の前から裏口に向かって去っていく。彼の表情はいつになく昏く、隠し事をしているようにしか見えなかった。
近藤は日野で少年に襲撃された時のことを思い出した。
まだ泰助くらいの少年は両手で短刀を掴んで駆け込んできたが、周囲の隊士たちに阻まれて本懐を遂げることはできなかった。近藤は突然のことに咄嗟に右腕を動かしてしまい、つい身体のバランスを崩して尻餅をついていたが、そんな近藤に対して彼は
『嘘つき!』
という捨て台詞を口にして逃げていった。
少年の本意はわからない。けれど故郷の英雄として悠々と甲府に向かった近藤は、民に勝利を豪語し甲府城主を名乗り出たものの、それがあっさり敗走して仲間にさえ裏切られてしまいそうな、このていたらく。
「確かに嘘つきだな…俺は…」
近藤は俯いた。
―――近藤が目覚める少し前。
土方に元には大石が顔を出していた。日頃は寝起きの悪い土方だが彼の報告を聞いて飛び起きたのだ。
「源之助が…?」
彦五郎の長男で土方の甥である佐藤源之助が逮捕されて官軍の本営に連行されたというのだ。大石はかつて彦五郎の世話になっていたので源之助のことは幼いころから知っている。そのせいでいつもは淡々として表情を崩さないのに、今朝は焦っていた。
「源之助さんは知人の家で身を隠すつもりだったようですが運悪く官軍と遭遇し、取り調べを受けているようです。おそらく春日隊の隊長である彦五郎さんの所在を詰問されているのではないかと思います」
「…義兄さんは?」
「どこかに潜伏していると思いますが…いまのところ捕まってはおらず、奥様もご無事かと」
「…そうか…」
彦五郎たち春日隊は日野へ戻り、隊旗や名簿を焼き捨て兵器を隠して逃げ延びているはずだが、官軍が予想よりも早く日野に向かったようだ。
「…義兄さんのことだから源之助は本当に所在を知らないはずだ」
「しかし、源之助さんは酷い詰問を受けるのではないでしょうか。早く手を打つべきでは」
十九の源之助は名主の跡継ぎとして彦五郎に厳しく育てられ、さらに父親の意固地な性格も受け継いでいるので易々と官軍に屈することはないだろう。大石は心配しているようだが、土方は首を横に振った。
「…いま俺たちが容易に手を出しては逆に新撰組との関りを疑われてしまう。近藤先生に頼んで安房守に密使を送ってもらおう。…このことはまだ先生には話さないでくれ」
「何故です」
いつもは疑問に思うことがあっても「わかりました」「かしこまりました」と引き下がる大石だが、彦五郎たちを恩人だと思っている彼は今回ばかりは食い下がった。
「…今晩は永倉たちとの会談だ。近藤先生の気持ちを乱したくない」
「源之助さんやご家族のお命に関わります」
「わかってる。俺にとっても義兄は恩人だ…だからこそ機会を見計らって近藤先生に話す。源之助は辛抱強いし、義兄さんは頭が回る。姉さんは…何をしでかすかわからないが、息子の命を縮めるような真似はしないはずだ。とにかく少し待て」
「……わかりました」
大石はようやく頷いて引き下がった。とても表情は納得しているとは言えなかったが、急いては事を仕損じることになる。それに大石以上に土方にとっては家族なのだから彼以上に心配なのは当然だ。
土方は大石を下がらせて、着替え始めた。腰帯を解き、シャツに袖を通す。一つ一つのボタンを留めていく作業が今日ばかりは煩わしく、肌を締め付ける洋装がますます土方を苛立たせた。
958
朝早く、浅草の松本の邸宅へ斉藤が訪ねて来たので総司は驚いた。
「どうしたんですか?」
「見舞いだ」
斉藤は手土産をもってやってきたが、英はため息を付いた。
「見舞いって…こんな朝早くに何事かと思うじゃないか」
「起きていなかったら引き返すだけだ。…手土産がある」
斉藤は英へ卵の入った竹籠を差し出した。英は「珍しく気が利いている」と褒めて受け取り、土間の方に向かったので二人は部屋に入り、総司は座布団を差し出した。
「寝ていなくていいのか」
「へへ、今日は具合が良いんです。動ける時には動くように言いつけられてますから。…皆は元気にやってますか?」
「…昨日副長が来たんじゃないのか」
「ちょっとだけ顔を出してくれましたけど、すぐに大久保屋敷へ帰りましたよ。詳しい話はしていませんから皆無事に戻っているとしか聞いていません。…そういえば一昨日、永倉さんも訪ねてきてくれたみたいなんですけど、生憎私は寝込んでいて会えなかったんです。ちゃんと永倉さんと合流できたんですか?」
「…ああ、問題ない。島田や山野たちにも怪我はない」
「良かった」
総司の朗らかな様子を見て、斉藤は土方が何も話していないだろうと言うことを察した。もっとも永倉と原田が別行動をとっているという事実以外、確かなことはないのだが。
「近藤先生はいかがですか?甲府で敗戦されて…気落ちされているのでは?」
「…当然落胆はしていたが、江戸で再起するともおっしゃっていた」
「はは、先生らしい。徳川の御膝元ですから今度こそ負けられませんね」
総司は穏やかに受け取ったが、近藤の強硬な意見を温かく受け入れる者はおらず、土方でさえも難色を示しているのだ。いま近藤は孤立している。
「…局長にはここに来ていただいた方が良いだろうな」
「? 私もお会いしたいですけど…でもご心配をおかけするでしょうからもう少し顔色が良くなってからお会いしたいですね」
総司は笑い飛ばしたが、確かに一回りほど窶れて顔色が悪い。しかしこれでも『具合が良い』と本人が言うのだから、悪いときは相当なのだろう。
斉藤はどう返せばいいのかわからなかったが、総司は気にする様子はなく
「あの、刀を見せてくださいませんか?」
と頼んだ。
「構わないが…まだ研ぎに出していない」
総司は斉藤から彼の愛刀…国重を受け取り、真横にしてゆっくりと鞘から抜いた。
「…ああ、本当だ…ボロボロですね」
斉藤は柏尾で前線に立ち、白兵戦では真っ先に斬り込んだ。斬った敵兵の数はわからないが刀は激戦の証のように刃こぼれしていて、近々研ぎに出すつもりだった。そんな国重を総司は目を細めて愛おしそうに見た。
「…土方さんや松本先生から甲府で敗戦したと聞いたんです。でも二人ともその現場にいたわけじゃないでしょう?どんなに官軍が圧倒的で、敗走せざるを得なかったのか…言葉だけではなんだか実感が沸かなくて、どれほど大変な思いをされたのか…想像することしかできなかった。でもこの国重を見ればわかります。きっとみんな必死に戦って生き延びたんでしょうねぇ…」
「…」
甲府での出来事を詳細に彼に話すよりも、こうして刃こぼれを見せる方が彼にとって共感しやすいのだろう。この刃こぼれした国重の姿以上に証となるものはない。
総司は貴重な物に触れるようにゆっくりと鞘に戻したが、相変わらずそこに巻かれたままの組み紐に気が付いた。
「ああ…こっちもすっかりボロボロですね。やっぱり邪魔じゃないですか?」
「もう手に馴染んでいる」
「ふふ…なら良いんですけど」
総司は礼を言いながら斉藤に刀を返した。そして振り返って次に枕元に置いてある自身の刀…安定を手にした。
「…結局、まともに抜くこともないままです。せっかく斉藤さんが見繕ってくれたのに、勿体ないなぁ…」
「これから出番がある。江戸での徹底抗戦になればこうして寝床でゆっくりしている暇などないだろう」
江戸への総攻撃は四日後に迫っている―――斉藤はそのことは伏せたが、官軍は各街道を進軍し江戸を包囲し始めている。その空気は総司も感じているはずだ。
総司は訊ねた。
「…斉藤さんには、まだ私が安定を使えると思いますか?」
そもそも安定は細身の刀で技術が無ければ使いこなせない。以前山野が『自分には使いこなせない』と匙を投げたので、こんなに痩せ細った手では構えることすら危ういのではないかと、素人ですら危惧することだろう。
しかし斉藤は即答した。
「使える」
「…本当に?気を使わなくていいんですけど」
「あんたに気を使ったことなんかない」
「ふっ…確かに、斉藤さんは昔から私には言いたい放題だった」
総司は思い出し笑いをしたが、斉藤には心当たりがない。けれど確かに彼には本音で接してきたし、他の食客たちよりも率直に意見していた自覚はあった。
「…俺は、沖田さんの剣が好きだ。刀を構えた途端に空気が変わり、混じりっ気のない水面が揺れるように静かで厳かだった。それは俺にはない…だからいつも目が離せなかったんだ」
事情があり道場を渡り歩いた斉藤だが、そのどこにも総司のような存在はいなかった。他人に興味がない斉藤にとって唯一の存在であり、しかし同時に手が届かない、最果ての場所にいるような気がしていた。
総司は斉藤の言葉をゆっくりと噛み締めるように受け取った。
「へへ…照れるな。今まで色んな人に剣を褒めてもらったけれど…一番、褒められたような気がします」
「…一番か」
「え?」
「いや、なんでもない」
斉藤は少し口元を緩ませながら頷いた。
いつも最果てにいて手が届かない…そんな総司に『一番』だと言われるのはやはり気分が良かった。
昼過ぎ。
永倉たちとの会談のため、そろそろ屋敷を出立しよう…と土方は近藤の元へ向かった。昨晩から顔を合わせていないどころか、人払いをして小姓の銀之助さえ近づけさせていないらしい。
「…近藤先生、いるのか?」
襖の向こうから声を掛けたが返答はない。土方は不在かと思いゆっくり開けると、近藤は正座をして目を閉じていた。瞑想の途中だったようだ。
「悪い、出直す…」
「いや…良い」
近藤はゆっくりと瞼を開けた。
土方は近藤の表情が相変わらず硬いことに気が付いたが、どこか吹っ切れた風でもあったので、永倉との会談を前に力が入っているのだろうと思った。けれど重たく張り詰めた空気にはまるで敵将を相手にするような凄みがあり、土方でさえ息を呑む。
「…近藤先生、帰ったら時間を取ってもらえるか?」
「何の話だ?」
「…小難しい話じゃない」
「そうか…わかった」
二人で話したい…そう伝えることさえも儘ならない。こんなぎこちない状況を早く打開したいと思うがひとまずは永倉の件を穏便に収束させなければならないだろう。
近藤が支度を整えて土方の傍を横切って部屋を出る。土方はその背中について歩き始めた。
近藤は広間にいる隊士たちに声を掛けることなく、まっすぐ玄関を出て行く。局長の険しい表情を見て隊士たちは「何事か」と動揺していたので、土方は島田に目配せをして(後を頼む)と伝えた。
近藤は大久保屋敷を出て浅草へ歩き出す。まるで土方の存在など無視するような早足なので追いつくのに苦労したが、それよりも近藤の表情の意味が汲み取れない。
(かっちゃん…何を考えているんだ…?)
常に新撰組の裏方として隠し事をしているのは土方で、近藤はいつも赤裸々なくらい己の思いを素直に土方に吐露していた。幼馴染同士気の置けない間柄としてそれが当たり前であったが、今の近藤はまるで別人のようだ。
(昨夜、少し言い過ぎたか…?だが、そんなことでヘソを曲げるような男じゃないはずだが…)
土方がなかなか思い当たらず考えて混んでいると、突然近藤が「歳」と足を止めて振り向いた。
「あ、ああ…なんだ?」
「…今朝、大石君が屋敷を出て行った。彼に何か探らせているのか?」
今朝、大石は土方の甥である源之助が連行されたことを報告しにやって来た。彼には今は静観しつつ状況を見守れと命令したので彼はおそらく源之助が連行された八王子に向かったはずだ。だが、この件は近藤にはまだ伏せておきたかった。
(勘がいいな)
土方は曖昧に答えた。
「まあ…官軍の動きを報告するようには伝えている」
「…永倉君たちのことは?」
「いや…特には」
土方は何故そのようなことを近藤が尋ねるのか不思議だった。近藤はこれまで監察方への命令については土方に一任していて口を出すようなことは滅多になかったのだが、近藤はその返答を聞いた途端、眉をしかめて表情を歪ませた。
「かっちゃん…?」
「…お前も…。いや…何でもない」
「…」
土方はまた近藤の気に障ることを言ってしまったのか…と思ったが、近藤はどこか痛みを抱えたような悲しい顔をして、また前を向いて歩き出してしまった。
959
昼になっても日が差し込むことはなく、曇天の空が江戸を覆っていた。
近藤と土方が称福寺に到着した時、ちょうど松本が診察道具の入った風呂敷を抱えて出たところだった。それまで二人は一言も交わすことなくここまでやって来たが、近藤はハッと顔を上げて
「松本先生…!」
と駆け寄った。松本は「おう」と気軽に手を振る。土方と違い二人は出立して以来の再会だった。
「近藤、話は聞いている。大変だったな…右腕はどうだ?」
「大丈夫です。ただ…先生には兵や資金を御助力頂いたにも関わらずこのような不甲斐ない結果となり…お詫びのしようもございません」
「何言ってるんだ、戦を手助けしたのは俺の勝手だ、謝ることはない。それに結局弾左衛門の兵だって足手まといになったようだしな」
「そんなことは」
「まあおいおい話を聞かせてくれ」
「往診ですか?」
「ああ、馴染みのところにな。…永倉たちならもう来ているぞ」
松本の言葉に近藤は一瞬だけ顔を強張らせたが、「ご迷惑をおかけしております」と再び詫びた。
「構わねえよ。でも部外者はいない方が良いだろう?弟子たちもあちこち散ってる。俺は日暮れまでには戻るから宜しくな」
「…ありがとうございます。改めてまたお話を」
「おう」
松本はちらりと土方の方へ視線を向けて(うまくやれよ)と言わんばかりに目配せしたが、土方は曖昧に頷くことしかできなかった。
二人が松本を見送って本堂に向かうと、永倉たちの姿があった。神妙な顔で佇む永倉と原田、その後ろに控えている矢田や林、前野、中条、松本…彼らは緊張して顔が強張っていた。近藤は一通り眺めた後、無表情のまま彼らの前に腰を下ろした。いつもの近藤だったら「ご苦労だった」など一言労うはずだがそれもなく、まるで敵兵に向かうかのように厳しい眼差しだ。
(かっちゃん…)
昨日のことで少し頭が冷えたのではないかと思ったのだが、近藤の堅い表情からは彼の意図が汲み取れず、土方は怪訝な面持ちで少し後ろに腰を下ろした。
近藤の威圧感を感じ取った永倉は少し緊張した様子で頭を下げた。
「…御足労を頂きありがとうございます」
「ああ…いつ江戸へ戻った?」
「…八日です」
「三日前か。吉野で合流すると伝えたはずだが?何故、待たなかった?」
早速近藤が責めるように尋ねたが、永倉は想定していた質問であったので落ち着いて答えた。
「…命令に背いたことは百も承知です。けれどもたとえ吉野で合流し、援軍とともに迎撃したとしても…勝てない戦だと思いました」
「勝てない?誰がそのようなことを決めた?」
「誰も決めていません。もちろん戦の勝敗など敵味方どちらにも分らぬこと。…けれど、吉野で待てば局長は必ず迎撃すると命令するだろうと思いました。ですから、我々は行動によって異を唱えるため吉野には向かわずに江戸へ向かいました」
「個人的な判断で隊を離れるなんて、勝手な振る舞いだ」
「近藤先生、俺たち以外も迎撃に反対だった隊士は大勢いるはずよな?だから土方さんと合流しても江戸へ帰った…結局俺たちの判断は間違っていなかったってことだ」
近藤の命令違反の詰問に対し、永倉と原田は真っ向から反論した。他の五人は近藤のあまりの剣幕に怯えて何も口にはしなかったが、二人が言うことは尤もで、経緯は違っていても結局は皆が迎撃を諦めて江戸へ戻ったのだ…けれど近藤は気に入らなかった。
「そういうことじゃない。吉野宿で合流できず、落ち合う約束をしていた大久保屋敷にもいない…松本先生にご迷惑をおかけして挙句に吉原で豪遊していたのだろう。それで俺が『間違っていない』などとよく言えたものだ」
近藤が腕を組み厳しく永倉たちを見据える。その後ろに控えていた土方は驚いた。
(永倉たちが吉原にいたことを何故かっちゃんが知っているんだ…?)
斉藤から報告を受けたものの、土方は火種になりかねないと判断して近藤には伝えなかったはずだ。部屋に閉じこもっていたはずの近藤は何も知らないと思っていた。
永倉はそれまで威勢が良かったが、吉原に関しては少し後ろ暗い自覚があったのか、唇を噛んだ。
「…確かに松本先生にご助言をいただき、気晴らしをしていたのは本当のことですが…しかしそれは」
「では松本法眼のせいだと?」
近藤がさらに詰め寄ろうとしたので、土方は咄嗟に止めた。
「…大久保先生、今日はそんな話をしに来たんじゃない。この数日は敗戦の混乱で永倉たちと行き違いになっただけだ…過ぎたことを持ち出すな」
ねちねちと問い詰めたところで、終わったこと…命令無視や吉原豪遊は近藤の気に障るだろうが、そんなことは些細なことだ。土方は前向きな話をするように促したところ近藤は得心行かないようだったが、腕を組みなおして口を噤んだ。
対する永倉は少し呆然としていた。
(この人は…本当に、近藤先生なのか…?)
近藤勇という人はいつもおおらかで懐が広く、人を責めるよりも先に自省をするような人柄だったはずだ。だからこそ他流派にも関わらず多くの食客たちが集い、人生を共に歩んできた…そんな自然体で人を惹きつけてしまう眩しさがあったのに、甲府での敗戦が人を変えてしまったのだろうか。永倉の隣にいた原田もどこか戸惑ったように眉を顰めていた。
近藤が黙り込み、永倉たちが言葉を失ってしまい…その場に重たい沈黙が流れたので、仕方なく土方が切り出した。
「…永倉、お前たちの考えを聞かせてほしい。この先どうするつもりだ?」
「俺は…隊を離れるつもりはありませんが、新撰組はすぐに会津に行くべきだと考えています」
「会津?」
『会津』という言葉は甲府での諍いの発端となった。近藤は途端に眉間に皺を寄せたが、永倉は構わず続けた。
「会津は官軍との戦に備え、着々と戦力を蓄えていると聞きました。多くの民が徳川のために官軍との戦を望んでいると…新撰組はご恩に報いるためにもすぐに会津へ向かい合流し、勇敢なる会津公の元で死力を尽くして戦うべきと考えます。これは他の隊士も望んでいることです」
「勿論、会津には恩義を感じている。会津公には返しきれぬ御恩がある…だがなぜ今なのだ。各街道から官軍が進軍し、江戸城総攻撃が四日後に迫っていることは松本法眼から聞いているだろう。まず我々が為すべきことは江戸での徹底抗戦のみ!」
「失礼ながら寛永寺に閉じこもられた上様は腰抜けで、江戸総攻撃となったとしても表には出て来られないでしょう。結局は鳥羽伏見と同じです!」
「腰抜けとはなんと無礼な!上様は帝への忠誠心から恭順の姿勢を貫かれているだけのこと!」
「本当のことです!上様が大坂城から逃げ帰ったことをお忘れですか?次は水戸へお逃げになるのでは?多くの幕臣がそう思っています!」
「そのような暴言、許せぬ!」
再び議論は過熱して次第に二人とも感情的になってしまったので土方は獰猛な獣のような近藤を引き止め、対等に言い返す永倉を原田が宥めたが、二人は続けた。
「…っ、我々は武士で幕臣だ、幕府の軍だ。勝手に会津に向かうのは私議でしかない!」
「では新撰組は江戸で戦うと?」
「ああ、勿論!むしろ早々に立て直し、甲府で再戦すべきだ!」
「は、ハハ…それはあまりに現実から目を背けているだけではありませんか!我々は甲府で散々負けました、甲府城を取られたんです!何も変わらないままでは甲府どころか、江戸でもきっと同じことを繰り返す…そんなのはもうウンザリだ。だったら会津公の元で戦う方がマシです!」
「ウンザリだと?俺の指揮に従えないということか?!」
「従う?俺たちはそもそも家来じゃない!」
「何を…!」
近藤が感情的に拳を振り上げたので、土方はその腕を取って引き止めた。怪我をしている右腕だったのだが近藤はそんなことには構わなかった。
「かっちゃん…!」
「…っ、大久保だ!」
「そんなこと今はどうでもいいだろう?!頭を冷やせと言ったはずだ…!」
「…っ」
顔を真っ赤にした近藤は「くそ」と小さく吐き捨ててようやく拳を下ろして項垂れた。土方は(一体どうしちまったんだ)と困惑したが、土方以上に永倉たちが呆然としていた。
ここに来たのは近藤と言葉を交わすためだ。この先の新撰組の行く末を議論し、よりよい道を歩むためのものだったはずなのに。
(何も…何も通じない)
まるで別の言葉を話す異国人のようだ。
新撰組局長としていつも悠然と構えていた姿などどこにもない。そこにいるのはいまだに徳川の威光から逃れられない憐れな敗軍の将でしかない―――。
永倉は憤りを通り越して失望していた。溝どころか、大地の亀裂のように近藤との間に隔たりを感じたのだ。
すると、
「…なぁ、近藤先生…」
それまで成り行きを見守っていた原田が口を開いた。彼は今までになく憐れむような顔をしていた。
「山南さんが切腹して、平助がいなくなって…総司が隊を離れて、源さんが死んだ。食客って呼べるのはもう俺たち四人だけだ。いつの間にか半分になっちまって…でも、だからこそ手を取り合って踏ん張らねえといけねぇって思ってたんだ。死んだ奴らが誇れるように…俺たちは賊軍のままじゃ終われねえって」
「…」
「でもさ…俺ァよくわかんなくなってきた。幕臣になったのに上様が政を手放しちまった辺りから…いや平助が死んだ辺りからよぉ。俺たちがどこへ向かうのか、どうすべきなのか…でも俺が妻子と離れてまでこうしてここまで来たのはさ、ひとえに新撰組に情があるからなんだ。俺の仲間がいて、居場所がここに在って、ここで生きて来たから守りてぇ…そう思ってきた。でもさいまは全然、そう思えないんだ…」
原田の声は次第に震えた。明るく快活な彼が悲しそうに目尻に涙を滲ませている。
「…俺たちは新撰組の組長で、同僚で、食客で……でもその前に、友人だっただろう?局長だの副長だの組長だの…それはただの役割であって俺は近藤先生の部下じゃない、家来じゃない…そう信じていたのに、違ったのか…?いつの間に変わっちまったのか?なあ、答えてくれよ…!」
原田は前のめりになって近藤に問いかけるが、彼は顔をそむけたまま向き合おうとはしなかった。土方は堪らず
「近藤先生は皆を家来などと考えたことはない!」
と否定したが、原田が求めていたのは近藤の言葉なのだ。
「なあ、近藤先生よぉ!」
原田が叫び、永倉も答えを待つ。そこにいる誰もが『仲間だ』『同志だ』という温かな言葉を待ちわびていただろう。
しばらく沈黙して、近藤はゆっくりと顔を上げる。その眼は虚ろなまま他人を寄せ付けようとしなかった。
「……変わったのは、君たちが先じゃないか」
「え…?」
「昨晩、俺に黙って隊士たちを吉原に集めたのだろう?どんな話をしたのかは知らないが…朝帰りした隊士たちが『永倉隊長』などと口にしていた。俺を追い落とす算段を立てていたのではないのか」
永倉と原田は顔を見合わせ、土方は驚いた。
己の知らないところで隊士たちが会合し、挙句に自分にとって代わるような話を耳にした…敗戦して孤独を感じていた近藤にとってこれほど屈辱的なことはない。土方は近藤の様子がおかしかった理由がようやく理解できた。
そして永倉も誤解を与えたのだと気が付いた。
「…!違う、違います、近藤先生…!俺は隊士の総意を確かめ、ただ会津に行こうと決しただけで…!」
「ハハ…そうか。まったく…誰も彼も『大久保』と呼ばないのはその名前に相応しくないと思っているからだな。…永倉君、自分の方が隊長に相応しいと考えているんだろう。隊士たちもそうだ…ここにいない者も含めて内心では嘲笑っているに違いない。だが…俺もそう思うよ。右腕が使えず、甲府でも満足な指揮がとれず…さぞ頼りない大将だっただろう。本当に情けない」
「…っ」
永倉はどう返答したらよいのかわからず、原田はただ言葉を失ったように口をぽかんと開けていた。すると二人の背後にいた五人の隊士たちが次々に口を開いた。彼らも元はと言えば長い時間を過ごしてきた古参の忠義者ばかりなのだ。
「違います、局長…!」
「それはその、ただの冗談で」
「そんな深い意味はなくて…皆酔ってたんです」
「そうそう!酔っ払いの与太話で!」
本当に酒の席でのただの戯言だったのだろう。彼らは口々に誤解を解こうとしたが、今の近藤にとって言い訳にしか聞こえず「宴席でこそ本音が出るものだ」と受け入れないで首を横に振った。
永倉は懸命に叫んだ。
「俺は隊長なんて柄ではありません!今でも局長の元で戦いたいと思っています。だから新撰組の一員として今後のことを話し合いたいんです!」
しかし近藤は
「では…俺の家来になるか?」
と言い出した。
土方はカッと目を見開いた。それだけは口しない…暗黙の了解だったはずだ。永倉と原田の表情も変わった。
「かっちゃん…!」
「歳は黙っていてくれ。…ここまで揉めて、話が拗れて、再び手を取り合って共に戦うなど難しいだろう。だったら上下関係がはっきりしている方がむしろ信用出来る…そう思わないか?」
「…」
同志よりも家来の方が信じられる。永倉は近藤のそんな言葉をゆっくり咀嚼するように目を閉じた。そして何度も、何度も頷いた。
永倉はそれまでの興奮がすっかり冷えて、穏やかな口調で答えた。
「…確かに、おっしゃる通りです。この後何もなかったように歩むことはできそうにありません。…しかし、武士は二君に仕えず。同盟こそすれ家来にはなりません。近藤先生がそのようにお考えなら、俺たちは新撰組を離れます」
永倉は目を開けて近藤を見据えた。迷いのない、淀みもない、澄み切った眼差し―――永倉は訣別を決め、隊を離れることを決意したのだ。
土方は声を上げた。
「永倉…!待て、早まるな」
「早まってはいません。もしかしたら決裂するかもしれないという心づもりはしていました。…それに、ずっと不満に思っていました。近藤先生はいざという時は俺には何も話してくれず、常に直門を優先していました。幕臣に昇進してからは特に…俺たちの知らないところで何もかもが動いていた。食客食客と持て囃されたところで、俺たちは常に客人でしかなかった」
「違う。策を練っていたのは俺だ、責めるなら俺を責めろ」
「いや、すべてを了承したのは近藤先生です。それに結果、幕臣にまで上り詰めたのは土方さんの手腕が見事だったから。目標を果たした…だから土方さんの判断は間違っていないんです。…でも俺たちは所詮、脇役だったんですよ」
土方に胸には永倉の言葉が突き刺さった。決して彼らを蔑ろにしていたつもりはなかったが、永倉や原田は自分たちが除け者にされていると感じていたのだ。おそらく山南や藤堂も―――。
まるで鈍器で殴り付けられているような気分だった。おそらく近藤もそれ以上に。
永倉は原田に視線を遣った。原田は静かに涙を流している…割れて元には戻らないガラス片を見つめるように、寂しく、哀しく。
「…左之助、何か言いたいことはあるか?」
「いや…ぱっつぁんの言う通りだ。俺たちはここで別れた方が良い…もうこれ以上、罵り合うのは止めよう。楽しかった思い出も全部なかったことになっちまうからさ…」
「左之助…」
土方は彼らを引き止められる言葉が見つからない。近藤が呆然としている間に、永倉は後ろに控えていた隊士たちにも目配せし彼らは揃って居住まいを正した。
「これまでのご交誼、礼を申し上げます」
永倉と原田は余所余所しく、他人行儀に頭を下げた。近藤はその光景を見ることなく目を逸らし土方は身体を捥がれるような痛みを感じながら拳を握りしめるしかない。
しかしその場にいる誰よりも―――永倉は寂しげに呟いた。
「…これが最後ならば、俺は『大久保先生』ではなく、『近藤先生』と話したかったですよ」
「永倉君…」
「どうかお元気で」
彼らは短い挨拶だけを口にして立ち去っていった。
話し合いはあっという間に決裂した―――土方はしばらく現実の出来事として受け入れることができずに永倉たちが座っていた場所を眺めていた。
(俺は…心のどこかで永倉たちが折れてくれると思っていたんだな…)
元に戻れると安易に考えていた。けれど土壇場になって土方が永倉たちに反論できなかったのは、甲府から離れてしまった土方には永倉たちの怒りと憤りが本当の意味でわからなかったから。理不尽に命の危険に晒された者たちの気持ちはその場にいなければ口出しようがない。
「…」
「…」
二人は項垂れた。
山南や藤堂が死んでいなくなってしまったのとはまた違う…息苦しい喪失感と後悔が、まるで引っ掻き傷のようにじくじくと痛む。
積み上げてきたものが崩れるのは一瞬だ。特に目に見えない情なんてものは、霧のように消え去ってしまう。そんなことはわかっていたはずなのに、そこに在ることが当たり前になって、知らないうちにぞんざいに扱ったせいで脆く崩れ…あっという間になくなってしまった。そしてそれはもう二度と、取り戻せない。
「…い…」
「…かっちゃん…」
「悪い…悪かった。俺のせいだ。永倉君も左之助も…お前も、何も悪くない。俺が、俺を信じられなかったから…彼らを疑ってしまったんだ…!」
近藤はその場に突っ伏し、背中を丸めて小さく震えていた。永倉たちの姿がなくなってようやく失ったものの大きさに気が付く。
けれど土方は近藤のせいだとは思わなかった。彼らしくない言動…その全ての引き金となったのは
『銃を持つのはどうだ』
と切り出したことだ。近藤が土方を遠ざけ、孤独になってしまったきっかけの言葉。
(俺が…かっちゃんを追い詰めたんだ…)
「違う…違う、かっちゃんだけのせいじゃない…」
土方は両手で顔を覆った。
良かれと思ったことによって、近藤傷つき苛立ち余計意地になった。そのせいで甲府で諍いが起きて永倉たちと揉めてしまったのだ。
冬の終わり。
曇天の江戸で、旧友たちは袂を別った―――。
960
翌朝。
朝靄が漂う早い時間に総司は目を覚ましたが、すぐに眩暈がした…昨日斉藤が見舞いに来てくれた時は本当に身体の調子が良かったが、今日はそうもいかないようだ。日々機嫌の違う自分の身体に苦笑するしかない。
すると、
―――にゃぁん…
という猫の鳴き声が耳に入り、総司は憑りつかれたように咄嗟に身体を起こした。あまりに力が入ってしまったせいか途端に「ゲホッ」と咳き込んだが、構わずに四つん這いになって障子を開けた。
まだ薄暗い庭に黒猫の姿を探す。総司の周囲に不幸をもたらすあの黒猫を―――。
(早く…早く、追い払わないと…)
血眼になって探したけれど庭には黒猫どころか鳥や虫の姿さえ見当たらない。時が止まったかのような静寂があるだけだ。
(勘違いだったのかな…)
けれど嫌な予感は拭えずに総司は安定を握りしめて、そのまま朝陽が差し込むまで庭を見つめ続けていた。それはきっと長い時間だったのだろう…定刻になって英が様子を見に来たときに彼は酷く驚いた。
「何やってるの?!」
「英さん…」
「いつからそこに?ああ、こんなに冷たくして…なんて無茶を!横になって、早く身体を温めて!」
「でも猫が…」
「馬鹿だな、猫なんていないよ!」
あまりに英が叱るので、総司はようやく諦めて彼の言う通り寝床に戻った。すると確かに朝の寒さで消耗してしまったようで、すぐに熱が出てしまった。
英は呆れながら、手拭いを絞って総司の額に乗せて布団を肩まで掛ける。総司は文句を言いながら手際よくせっせと看病を始める英をぼんやりと眺めていたが、やはり気になって時折り視線は外の庭へと向けられた。
「…何?何かあるの?」
「いえ…気のせいかもしれないんですけど…猫がいる気がして」
「はぁ?また猫?ひょっとして猫が嫌いなの?」
「いや…」
黒猫はいつも総司の元へ不幸を連れてやって来たのだと、英に話したところで信じてはくれないだろう。それに説明する気力がなく熱のせいかうとうとと眠気に襲われた。
「英さん…誰か訪ねてきたら起こしてもらえますか?」
「…誰かって誰が?具合が悪そうなら出直してもらえばいいじゃないか」
「いえ…今日だけは頼みます…必ず、起こしてください…」
総司が頼み込むと英は「仕方ないな」と請け負ってくれた。総司は安心してもう一度、瞼を閉じた―――。
その頃、土方は試衛館で目を覚ました。
というのもあの後、二人は称福寺を出て帰路に付くも、屯所にしている大久保屋敷へ戻る気分になれず試衛館へ足を運んだのだ。妻のつねは娘のたまと義母のふでを連れてすでに親戚の元へ身を寄せているので、いまこの屋敷は無人だ。それがちょうど良かった。
土方はしばらくぼんやりとしていた。
(夢…じゃないな…)
現実逃避だとわかっていても、昨日の出来事がどうか夢であればと思った。けれど永倉と原田たちと決別したことは間違いなく現実で、この試衛館で過ごしたような日々はもう二度と戻っては来ない。
そう思うとここに戻ってくることはボロボロに痛んだ心をさらに虐めるような真似だったのかもしれないが、一晩明けると気持ちは少し変わっていた。どんなに不本意であったとしても、彼らの決断を受け入れなければならないと漠然と思い始めていたのだ。
「…歳、起きたか?」
「ああ…」
隣で寝たはずの近藤は先に目を覚ましていたようだ。二人はかつて食客たちが雑魚寝をしていた場所で適当に休んだのだが、近藤はあまり眠れなかったのだろう。
「…道場に行かないか?」
「そうだな…」
近藤の提案で、二人はふらりと立ち上がって道場へと向かう。人気のない試衛館は静かすぎてまるで他人の家のようで居心地が悪かったが、道場に入るとそんな気持ちは消え失せて「古巣に戻った」という感覚が自然と呼び起こされた。
近藤は道場の真ん中に立ってゆっくりと腰を下ろしてあぐらをかいた後、突然その場で大の字になって転がった。土方も彼の傍に近づいて座り、同じようにして手足を広げたところ床板の冷たさが妙に心地よかった。
「…歳、悪かったな」
近藤は改めて謝った。もう彼には昨日までのような険しさはない。まるで元に戻ったかのように苛立ちは消え失せて、ここにいた頃の幼馴染に戻ったようだ。けれどもちろん昨日の後悔は抱えている。
「俺が意固地になったせいで二人と仲違いしてこんなことになってしまった。会津の援軍が来るとか、家来になるとか…焦っていたとはいえ、今となっては信じられないくらいの暴言だよな。二人が見切りをつけるのは当然だ」
「いや…かっちゃんだけのせいじゃない。甲府のことはただのきっかけで…きっと永倉たちは都にいた時からずっとうっ憤を抱えていたんだ」
永倉は鳥羽伏見の頃から徳川へ不信感を持ち、恭順する上様に従う新撰組に疑問を持っていた。原田の方はおそらく単純に近藤と永倉を天秤にかけて、親しい永倉と命運を共にすることを選んだのだろう。
だからいずれこんな日が来るはずだったのだと土方は慰めるが、近藤はまだ受け入れられずに目を伏せた。永倉のやりきれない表情と原田の号泣が目に焼き付いて離れなかったのだ。
「そうだったのかな…。だが、だとしたらそれもそれで虚しい。ずっとそんな思いを抱えて来たのかと…申し訳ないよ」
「…もちろんそれだけじゃないはずだ」
時折衝突することがあったとしても、長い間永倉と原田は隊に残ることを選び続けてくれた。それは新撰組への愛着と仲間との絆があったからで、決して不満や鬱憤だけを見つめ続けてきたわけではなかったはずだ。だからこそ楽しかった日々を否定したくなうという思いで彼らは隊を出て行ったのだ。
近藤は懺悔するように口を開いた。
「俺は…永倉君たちが隊士を集めて会合をおこなったと知って…急に自信がなくなったんだ。前は俺よりも相応しいなら誰が新撰組や鎮撫隊の隊長になっても構わないと思っていたが、彼に新撰組を奪われてしまうのではないかと怯えた。自分のせいで負けたと思っていたから尚更…。それにお前が何かを隠しているようだから、つい…苛立って…」
「俺が?」
「大石君に何か探らせていただろう?永倉君たちのことじゃないのか?彼らのことを知っていて俺にだけ伏せたのかと思ったんだ」
「ああ…」
土方は近藤と間に様々な誤解があったことを再認識した。あの時、土方まで遠ざけた理由は勘違いだったのだ。
「実は…昨日、源之助が官軍に連行されたと大石から聞いたんだ」
「何?源之助が?!」
近藤があまりのことに飛び起きたので、土方もゆっくり身体を起こした。
「ああ。だが、今回のことに片が付いてから動こうと思っていた。春日隊のことを勝先生に取り成してもらおうと…」
「要らぬ気を回すな。勿論、俺が勝先生に御助力を願い出る。…彦五郎さんたちのことも心配だよな。お前にばかり負担をかけて申し訳なかった」
土方は「いや」と小さく首を横に振った。
「…かっちゃんを惑わせていたのは俺だ。白状すると、永倉が隊士を集めて会合を行ったのは知っていたが、俺はあいつらを探るような真似をしたくなかったんだ。俺は戦場にいなかった…あいつらの不満は想像できても実際にはわからない。だから意見があるならばそのまま受け止めようと思っていた…」
「そうだったのか…」
「だが、今となっては前もってかっちゃんに話しておけば良かった。言い出しにくくて、伏せたせいで余計拗れてしまった。だから今回のことは俺にも責任がある」
「…そうか。だったら、二人で責任を負うしかないか」
「ああ。そのつもりだ」
土方は永倉や原田が口にした非難から逃げるつもりはなかった。彼らが新撰組に参画させてもらえなかったと感じているならば、当然自分の責任なのだ。
近藤は少し肩の荷が降りたように頷いた。
「…喧嘩別れのようになってしまったが、俺は二人を憎んでいるわけじゃないし二人もそうじゃないと信じている。だから…互いに決めた道を進むだけだな」
「ああ…」
もちろんまだ昇華できない気持ちややりきれない後悔はあったが、それでも時間は待ってはくれない。近藤と土方は自分を納得させて飲み込むしかないのだ。
近藤の前向きな様子を見て、土方はようやく切り出すことができた。
「昨日、話があると言ったが…」
「ああ、そうだったな。何の話だ?」
「……俺はかっちゃんに早く謝りたかったんだ」
「謝る?」
近藤は心当たりがないようだったが、土方は改めて居住まいを正して頭を下げた。
「悪かった。…安易に銃を持てと言ったこと、今は後悔している」
甲府への道中、右腕のことで思い悩む近藤へ余計な助言をしてしまった。結果として近藤の自尊心を傷つけ、孤独を選ばせて追い詰めるきっかけになってしまった。
しかし近藤は目を丸くして「そんなことか」と苦笑いする。
「歳の意見は至極真っ当だと思ってるよ。総司に銃を持たせておいて自分は嫌だと拒むのは道理じゃないし、そんなことで怒るのは大人げなかったよな」
「…」
「右腕がまた使えるようになるかはわからない。でもまだ諦められなくてな…だからきっと時間はかかるだろうが、鍛え直すつもりだ」
「…ああ。そうしたらいい」
近藤は無意識に右腕をさすりながら、かつて汗を流した道場を見渡した。つねの手入れが行き届いた道場は今すぐにでも稽古ができそうな佇まいのままここにある。
「しかし…ここに来ると体が疼くな。早く稽古しないといけないという気持ちになる」
「そうだな…」
近藤は膝を立ててゆっくりと立ち上がった。そして上座へ身体を向けて深々と礼をした。
「俺は大久保剛である前に、試衛館道場主の近藤勇だ。そのことを胸に刻んで…進むよ」
この道場に誓うように近藤は口にした。
古い床板が軋む。かつて浪士組に参加するためにこの道場から飛び立って…いまはたった二人だけ。
土方も立ち上がり、近藤の隣に立った。
「…かっちゃんは何も諦めなくていい。右腕が不自由だろうと、敗軍の将となろうと、俺は何があっても…お前についていく。だから安心しろ」
「…ありがとう」
近藤が穏やかに笑うと、曇天の隙間から柔らかな光が差し込んだ。
仲間が去り、新撰組はさらにこれから厳しい道を歩むことになるだろうが、土方は久しぶりに安息を感じることができた。
(どんな混乱があろうとも…俺には自分にやるべきことが決まっている)
今はそれが有難く感じた。
951 史実では近藤が襲撃されたのは八王子です。
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