わらべうた




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新撰組が甲府へ向かった二月末、そして敗走し江戸へ帰還した三月十日までの間に官軍と勝海舟の交渉が始まっていた。
三月五日に官軍は労なく駿府に到着、その後軍事会議を開き江戸総攻撃を三月十五日と定め、東海・東山・甲州の三街道から進撃する軍へ命令を下した。
寛永寺で謹慎中の上様は護衛していた側近の高橋泥舟に恭順の意を伝えるように頼み、その義弟の山岡鉄舟が勝とともに和平交渉に臨むこととなった。
そして三月九日、山岡は勝の命令で官軍の真意を探るため駿府城に派遣され、官軍の西郷隆盛と対面することとなる。西郷は江戸総攻撃の中止条件として、城の明け渡し、軍艦・武器を引き渡し、上様を備前藩に預けることを条件とした。山岡は勝の文を渡し、上様がすでに天皇の民として恭順を誓っていることを伝え、さらに薩摩藩に所縁ある天璋院が寛大な処分を求める書状を届けても、その条件は変わらないと突っぱねた。
三月十日、山岡から報告を聞いた勝は不満を露わにし交渉は難航の兆しを示し始めていた―――そんな頃に、新撰組が帰還したのだった。


新撰組は大久保主膳正屋敷に身を置くこととなった。大久保主膳正はかつて京都町奉行を務めていたことで縁があり、甲府へ向けて鍛冶橋の屯所を出た後に何かあればここを落ち合う場所と決めていたのだ。永倉や原田もそれを知っているはずだがやはりここにもその姿がなかった。
「一体どこへ行ったんだ…」
近藤は苛立ちを通り越して少し呆れたようにため息を付いた。隊士たちは彼らがこのまま離隊してしまうのではないか…という悪い予感がもちろん過ったが、それを誰も口に出すことはしなかった。
到着して早々、
「俺は報告を兼ねて勝先生の御屋敷を訪ねてみる」
「わかった。相馬は怪我をしているから代わりに島田を連れて行ってくれ」
「ああ」
近藤は休む間もなく島田とともに屋敷を出て行ったところ、敗戦を引きずり相変わらず固い表情のまま局長がいなくなったので、屋敷内は少し緊張の糸が緩んだ。
土方は傷病人が休む広間へと足を向けたところ、医学方の山野の指揮のもと馬越や小姓たちが世話をしていた。
「山野、状況は?」
「はい。怪我人や病にかかった者が合わせて…二十人ほどです」
「そうか。…松本先生に怪我人は称福寺に連れてこいと言われていたが、あまりに二十人は多すぎるな」
「そうですね、押しかけるわけには…。しかし英さんがいないので手が足りません。ここは称福寺から近いですし何人かお弟子さんをお借りできれば有難いのですが」
「わかった。ちょうどいまから訪ねるところだ、頼んでみよう。…馬越、お前も松本先生のところへ同行してくれ」
「はい」
援軍に向かうつもりが結局、吉野宿で引き返す羽目になり馬越を振り回してしまったが、ここまでの道中傷病人たちをよく診てくれていた。しかし彼は元新撰組隊士ではあるが、いまは松本から借り受けている客人だ。人手不足とはいえ危険がないうちに彼を元の『涌井悠太郎』に戻してやらねければならないと思った。
土方は馬越とともに浅草・今戸の称福寺に向かうことにした。さほど離れてはいない。
江戸の町は少し閑散としていて人通りが少なかった。
「馬越、短い間だったが同行してくれて助かった」
「いえ…僕の方こそお役に立てず。でも…懐かしい皆さんにお会い出来てとても嬉しかったです」
馬越が除隊したのは随分前になり、彼のことを知っているのは島田や山野のような古参だけだが、かつて美男だと騒がれ今も礼儀正しく律儀な馬越はすぐに鎮撫隊に溶け込んだ。
(少し…惜しいくらいに)
それは馬越も同じだったようで、おずおずと切り出した。
「あの…土方副長、僕が今後もお力になれることはありますでしょうか」
「馬越…」
「『馬越』であった頃のように刀を手に戦うことはできないでしょうが…英さんと同じように僕も戦場で…」
「いや、やめておけ」
土方は首を横に振って断った。
「力になりたいと思ってくれたのは有難いが、お前は一度隊を離れている。昔の誼があるだけでそれがお前の定めだったんだ」
「…」
「勿論、隊士たちもお前との再会を嬉しく思っているだろうが…新撰組の一員として戦場へ来てほしいとは思っていないはずだ。お前は新撰組を離れた後、馬越ではない人生を歩んできたのだからその人生を尊重すべきだと思う」
せっかく自分で道を切り拓き人生を歩んできたのだから、わざわざ過去に戻る必要はない。それが過酷であるほど、その場限りの懐かしさに絆されて容易に決めることではない。
土方が説得すると、馬越はその端正な顔をふっと緩めて小さく笑った。
「僕…土方副長のことを誤解していたかもしれません」
「誤解?」
「その…もっと利用できるものは利用する、そんな冷酷な方だとばかり思ってきました。鬼副長らしく…」
「まあ…都にいた頃はな」
幕府という絶対的に揺らがないものがあり、その上で成り立つ新撰組には理想の武士として正義感や潔癖さを求めた。馬越のような例外はあったものの、隊を脱走した者はほとんどが切腹したのだから。
馬越は小さく頷いた。
「…だからいま、僕なんかが副長にお気遣いいただいて、なんだか不思議です。…それにいま残念な気持ちと安堵する気持ちがあります。懐かしい皆の力になりたいと思う反面…やはり僕にはまだ経験や覚悟が足りません。…でも、もし松本先生の元で修行を重ねて、『涌井悠太郎』として新撰組とともにゆきたいと思ったら…その時は受け入れていただけますか?」
「ああ、願ってもないことだ」
「ありがとうございます」
馬越は目尻に皺を寄せて嬉しそうに笑った。そのような機会が訪れるのかどうか…土方にも、そして馬越本人にもわからなかった。
半刻ほどで今戸の称福寺に到着した。出迎えた松本は土方の顔を見るや「あっ」という驚いた顔をした。
「永倉たちなら少し前に出て行ったぞ?」
「え?永倉たちがここに…?」
「なんだ、会いに来たわけじゃないのか。…まあいい、上がってくれ」
土方はここで行き違いになってしまったことに驚きつつも、松本に招かれるまま馬越とともに本堂に入った。
数日前援軍を呼ぶために訪ねた時は夜更けであったため様子がわからなかったが、かつては臨時病院として怪我人で溢れかえっていたのにいまはそれもなく荷物がまとめられているように見えた。馬越も同じことを思ったようだ。
「先生、ここを去られるのですか?」
「ああ…まあ万一に備えてな」
「万一?」
「万一は万一だ」
松本は曖昧にして誤魔化そうとするので、聡い馬越はそれ以上は聞かなかった。
「甲府ではご苦労だったな。永倉たちから色々と話を聞いたが…近藤はさぞ肩を落としていることだろう。それに俺が仲介した浅草の兵が力になれなかったそうだな…申し訳なかった」
「いえ先生、謝られては困ります。兵を上手く指揮できなかったのは我々の責任です」
土方は松本が急に頭を下げたので慌てた。確かに浅草弾左衛門の幕臣への取り立ての見返りとして兵を寄越すという仲立ちをしたのは松本だったが、まさか開戦前にほとんどが脱走してしまうなど思いも寄らぬことだったのだ。
「そうか…。悠太郎も結局とんぼ返りになっちまったな」
「いえ、僕は懐かしい新撰組の皆さんにご挨拶ができましたから少しの間とはいえ有難い機会でした。…では僕は席を外します」
「おう」
馬越は雰囲気を察して本堂を出て行った。
土方は松本に聞きたいことが色々とあったがやはり一番は永倉たちのことだった。
「松本先生…永倉たちはどこへ?何か話していましたか?」
「お前さんはあいつらには会えなかったんだって?」
「はい。鎮撫隊に合流したのは相模で、甲府から敗走した後で…待ち合わせの場所にも姿を現さず、探していたところです」
「…そうか。永倉たちの居場所なら知っているが、その前にお前さんたちはいまどれほど状況を把握している?」
松本の問いかけに、土方は(どういうことだ)と眉を顰めた。
「…江戸の町が閑散としているような気はしましたが、詳しいことは何も。いま、近藤が安房守の御屋敷を訪ねている頃だと思いますが」
「ああ、だったらきっと門前払いで追い返されるだろうな。いまは特にピリピリしているはずだ」
「…官軍との交渉ですか」
「ああ。昨日もあの御仁はふらりとここに来て散々愚痴っていった。おかげで情勢には詳しくなったが…とにかく官軍との交渉は上手くいっていないらしい。官軍の総大将の西郷は三月十五日に江戸百万の城下町に総攻撃を仕掛けると決めているそうだ」
「三月、十五…?!」
土方は思わず声を上げた。総攻撃の日までもう五日しかない。あまりの急展開に土方は言葉を失ったが、松本が先ほど「万一」と繰り返していたわけを悟った。馬越の耳に入れないように伏せたのだろう。
「官軍は城の明け渡しや軍艦、武器の引き渡しを求めている。それは降伏する以上仕方ないことだが、ただ上様を備前藩に預けるべしというこの一点がどうしても受け入れ難いそうだ」
「当然です。備前など…」
備前藩主は上様の実弟で水戸徳川と繋がりはあるが外様大名…今は官軍に靡いている。刑罰のひとつに親戚の元へ預けるという形があるが、上様が備前に身を置くということは島流しに等しく、命の危険がある。
もしここに近藤がいたら顔を真っ赤にして憤慨したに違いない。松本によるとそれは勝だけでなく、山岡や他の重役たちも反対しているそうだ。
「…お前たち新撰組だけでなく、東山道に向かった歩兵隊も敗走してもはや戦を仕掛けたところで勝ち目はないのは明らかだ。まだ交渉の途中だそうだが何としてもこの江戸の町が戦場にならないことを祈るばかりだ」
「…」
土方はどちらに転ぶかわからない江戸の状況を知り呆然とするが、近藤がこのことを知れば何と言うだろうか。
(江戸で徹底抗戦…城で籠城、まで言いかねないな…)
近藤は上様の恭順という意向に沿い、そのための戦いをする決心だったが、上様の望みが叶わないとなれば近藤は全力で官軍に対抗することになるだろう。たとえ敵わないとわかっていても。
松本はあぐらをかき、
「同じことを永倉にも話したんだ。永倉は今後の新撰組の方針に疑問を持っていた…俺は永倉の考えに同意して、金を渡してやった」
「…永倉の考え、とは…?」
松本は永倉から聞いたことを話し始めた。















解説
なし


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