わらべうた
955
総司は近藤たちが江戸に帰還する二日前に松本の元を訪れて、彼の寓居だという浅草の片隅の邸宅に英とともに身を寄せた。英は甲府へ出立する前はここに出入りしたことがあったようで勝手知ったる様子で総司の寝床を準備し、せっせと粥や薬などを作り始めた。
総司はずっと横になっていた。日野で引き返す羽目になったがそれでも無理が祟り、身体は訛りのように重く常に首を絞められているような息苦しさで食欲もなかった。発熱のせいでずっと意識は朦朧とし、食事以外はずっと目を閉じて苦しさを誤魔化していた。
真夜中に咳が出た時、背を丸めながら肺の痛みに耐えていると不意に枕元に置かれていた土方の羽織が目に入った。上石原宿で偶然出会い、『預かってくれ』と頼まれていたものだ。預かってと言われたからには彼の元へ返さなくてはならない。
(歳三さん…)
どうにか手を伸ばして羽織を引き寄せてそれを抱きしめた。土方の姉ののぶが誂えた品だったそうだが、それでも土方の匂いやぬくもりが残っているような気がして随分心が慰められた。
(僕はまだ死ねない…まだ…)
甲府から戻ってくる新撰組の皆に会うまでどうにか持ちこたえたい。敗戦に嘆く彼らを慰め、労り、これからも新撰組を頼むと伝えたい―――その一心だった。
そんな苦しい夜をやり過ごし、小鳥の囀りが聞こえる朝になってようやく落ち着いた。徹夜して看病した英もほっと安堵した様子で
「生き永らえたね」
と微笑んだので、総司も頷いた。
「…そう…そんな、感じ…」
濁流にのみ込まれてどうにか溺れないように必死に藻掻いた…そしてとうとう波に飲み込まれそうになってしまう…そんな紙一重のところで藁を掴み岸に上がることができたような、九死に一生を得たような感覚だった。
そうして彼の作った粥や薬が喉を通り、羽織を抱きしめてようやく眠ることができた頃…土方がやって来たのだ。
土方を出迎えた英は口元に人差し指を当てて
「今ようやく寝たところなんだ」
と総司の寝床ではなく隣の部屋に土方を通した。松本の邸宅と言ってもいくつかあるものの一つのようで、部屋が三つに小さな布団部屋が一つ、広い土間があって都にいた時の土方の別宅によく似ていた。
土方は英と向き合って腰を下ろした。
「…疲れているな」
「お互い様でしょ」
英は土方の顔色の悪さを指摘したが、これは近藤との諍いや隊内の揉め事のせいなので身体には問題はない。一方で寝不足の英は目元にクマを作っていた。
「総司の様子は?」
「ああ…昨夜は熱が高くて、随分苦しそうだった。加也姉さんにも来てもらったけど、もうできるのは祈ることしかないって言われて…どうにか無事に朝を迎えたってところかな。いまは薬のおかげでよく眠ってる」
「…そんなに悪かったのか…」
土方は総司の病状について理解しているつもりだが、突然の急変に驚いた。
「日野で引き返して府中までは新撰組や関田家に迷惑をかけないように…ってどうにか気力で持ちこたえていたみたいだけど、江戸へ帰る道中は疲れ果てていたよ。宿で動けない日もあったから…ようやく一昨日戻ったんだ」
「…そうか…無理をさせたな」
土方は総司を連れ出したことを後悔はしていなかったが、総司の病状を進行させたのではないかという責任は感じていた。だが総司本人も覚悟していたはずだ。
「そういえば昨日、永倉さんが来たよ」
「え?」
「松本先生にこの場所を聞いて顔を出したって。残念ながら沖田さんは眠っていたからまた出直すって言っていたけれど…今度は原田さんも連れて来るとか言っていたかな」
「…そうか」
土方は永倉が総司を気にかけていることや総司に何も話していないことに安堵したが、聡い英は新撰組で何かあったことは察していた。
「大変だったみたいだね。松本先生から甲府で敗戦したって聞いたよ。援軍は間に合わなかった?」
「ああ…とっくに敗走して、甲府に入る間もなく引き返したところだ。…永倉たちは事情があって別行動をとっている」
土方は勝に借りた援軍も鎮撫隊とともに解散し、いまは大久保屋敷に身を寄せていることを話した。
「そう。…怪我人は?」
「三人死んだ。怪我人は何人かいるが軽傷だ。松本先生のお弟子さんを何人かお借りしたからお前は心配しなくていい」
「…斉藤さんは?」
「あれはこんなところで死ぬような男じゃない」
斉藤はもともと負傷していたが、近藤を支えながら前線で戦い無事に江戸へ戻っている。まるで何事もなかったかのような淡々とした様子だと話すと、英は「想像できる」と小さく笑った。
「そうか…皆が無事なら沖田さんも喜ぶよ」
「…総司には近藤先生も食客たちも無事だと言って…余計なことは何も話さないでくれ」
「わかってるよ」
永倉が何故別行動をとっているのか…彼がこれまで起こしてきた行動を考えれば総司もすぐに察してしまうだろう。せめて明後日の会談で片が付くまでは総司の耳には入れたくなかった。英は心得ていてもう何も聞かなかった。
英は急須を手に取り、ゆっくりと湯飲みに注ぎ土方に差し出した。温かく濃い茶は身体中にしみわたり土方はゆっくりと息を吐いた。
「…松本先生は会津へ向かわれるそうだ。ゆくゆくはこの邸宅も手放すと聞いている。総司の養生先を考えねえとな…」
「そう…。新撰組はこれからどうするの?」
「さあ…いま、安房守が官軍との交渉に臨んでいるそうだが、決裂すれば江戸で戦になるし、上手く行っても必ずどこかで戦が起こる。そこへ行くだけだな」
「…遠くへ行くってこと?」
「わからない」
土方は新撰組がこれからどうなっていくのか具体的に想像ができなかったが、けれどどこかで戦うことになるだろうという予感はあった。
英は苦い顔をしながら湯飲みをゆっくりと茶托に置いた。
「…沖田さんはそう長くは持たないよ」
「…」
「だから、遠くに行くのならもう会えないかもしれないと覚悟した方が良い。沖田さんのことを大事に思うなら、毎日…もうこれが最後かもしれないと思いながら会いに来てほしい」
英は医者の顔をして、けれど友人の言葉として土方に伝えた。誤魔化したところで総司の病状は進み続け、本人がいくら元気だと口にしても刻々と病は身体を蝕んでいるのだ。
土方は誰に言われるまでもなくわかっていることではあったが、英に言われると殊更重く受け止めて「そうする」と静かに頷いた。
そうしていると隣の部屋から
「英さん…お客さんですか…?」
という総司の声が聞こえた。
寝不足の英は総司の看病を土方に託して四畳半の布団部屋へと去っていった。
土方は総司の寝床の傍に腰を下ろして、その額に触れた。
「熱は下がったみたいだな」
「土方さん…いつ来たんですか?」
「少し前だ。皆も甲府から戻った…いまは大久保屋敷にいる」
「皆…?近藤先生もご無事ですか…?」
「ああ、勿論だ」
総司はほっと安堵したように笑った。
「良かった…先生には私は元気だと伝えてください」
敗戦で落胆する師匠を気にかける総司は、また少し痩せていて顔色は悪かったけれど近藤には心配をかけたくないようだ。
「…昨夜は大変だったと聞いたが」
「でも今元気になったんです。だから先生には昨晩のことは内緒にしてください」
「そうか」
総司がまるで子どもが言い訳するように強がるので、土方は苦笑しつつ受け入れてやることにした。
土方は総司の枕元に見覚えのある羽織を見つけて手を伸ばした。上様に面会するための羽織は皺だらけになっている。
「これ…」
「あっ」
総司はハッと顔を赤らめて土方の手から羽織を奪い取る。
「こ、これはその…つい布団代わりにしてしまったというか…!」
「…へぇ。布団代わりだというわりには皺だらけだが」
「わ、わかってるなら意地悪言わないでください…」
総司は蚊の鳴くような声で言い返しながら顔を逸らした。
これを土方だと思って抱きしめていた…ほとんど無意識の行動だが本人に知られてしまうとこれほど恥ずかしいことはない。真っ赤になった顔を見られたくなくて総司は羽織に隠れたが、すぐに取り上げられてしまった。
「ほら、顔を見せろ」
土方に促され、総司はぎこちなく赤らんだ顔を見せた。鼻先が触れるほど近くに会いたくて焦がれていた人がいる――――。
「…歳三さん、あんまり落ち込んでませんね」
「ああ…俺も今元気になったんだ」
総司はクスッと笑った。
なし
拍手・ご感想はこちらから

