わらべうた
957
三月十一日。
近藤は重たい瞼をゆっくりと開けた。静かな朝…優しい陽の光が部屋に差し込み、心地の良い布団が身を包んでいた。ここが一体どこだったのか…すぐに思い出せなかったが、右腕に痛みを感じるとすぐに眠気は吹き飛んだ。
身体を左側に回しながらゆっくりと体を起こす。鉛のように重たい身体には甲府で味わった敗北感と苛立ちが詰め込まれているようで不快だったが、それも時間が経って少しは晴れていた。特に寝起きは気持ちが落ち着いているせいか自分を客観的に捉えて
(俺はどうしちまったんだ…)
と後悔することがある。
歴然とした兵力の差を省みることなく、周囲の意見に耳を貸さずに戦に突き進んだこと。真っ当な意見をした永倉を突き放してしまったこと。勝手を言って土方を困らせてしまっていること。
苛立ちつい口に出してしまった言葉は取り戻せず、何もかも後の祭りだとわかっていても、それでもあの時に戻れるのなら違うことを話すだろう。
(俺は何としても故郷と江戸を守りたかった)
自分勝手に物事を決めるのではなく、丁寧に話してわかってもらうべきだった…そうすればこんなに拗れることはなかったはずなのに。
近藤が深くため息を付くと、また右腕が痛んだ。甲府への道中は駕籠を使ったが、江戸への帰還の際には腕のことなど構うことなく敗走したため痛みが再発してしまったのだ。
この痛みを感じるたびに近藤は焦る。剣を握れない大将など必要ない。
(俺は…もう終わった人間なのではないか…)
総司が剣を置くことを決めるまで長く時間がかかった理由がわかる。たとえ病の進行を早めたとしても、剣を手放すことは自分の尊厳を傷つけることなのだ。特に昔から『剣術馬鹿』と哂われてきた近藤や総司にとってそれほど重要なことだ。
だからこそどうにか功を挙げて『幕臣大久保剛』としての面目を保たなければならないと思った。官軍の進軍を阻み、甲府城を接収出来たら―――これまでの労をねぎらうことができるだろうと、そんな夢を抱いた。
(いい加減、現実に向き合わねばならぬ)
夢は夢でしかなく。
今の近藤に残ったのは、敗北と仲間割れという現実だ。せめて後者だけでも取り戻したい…そのためにはいつまでも現実逃避をするわけにはいかないのだ。
近藤は衣文掛けに視線を遣った。そこには近藤家の家紋が施された立派な羽織が掛けられている。上様や幕閣に召し出された時に必ず羽織っているものだ。
(俺は…島崎勝太ではなく、大久保剛でもなく…近藤勇だ)
まずは新撰組の局長としての自分を取り戻そう―――。
近藤がようやく決意した時、遠くで物音が聞こえてきた。ぞろぞろと十数人の足音が響いている。
(やれやれ…妓楼で遊んだ隊士たちが朝帰りしたんだな)
甲府から命からがら生き延びて、すぐに向かったのは妓楼…近藤には少し思うところもあったが、彼らがうっ憤を貯めることになってしまった一因は自分にあるのだから責めるつもりはない。むしろ彼らに不本意な敗走をさせたことを詫びなければならないだろう。
近藤は音を立てずにそっと障子を開けて彼らの様子を窺った。昨晩は徹夜で遊んだのだろう、眠そうな眼と酒で紅潮した頬、何人かは千鳥足で仲間に支えられながら戻ってくる。
「美味い酒だったなぁ」
「女もいい女ばかりでさ」
相当遊んだ彼らの満足げな会話を聞いていると、予想外の台詞が耳に入った。
「これからは永倉隊長って呼ばねえと」
(永倉…隊長…?)
何の冗談かとさらに耳を澄ませると、べろべろに酔った隊士たちがハハハと笑いあっている。
「気が早すぎるだろうよ」
「でも原田先生もその気だっただろ」
「だからってさぁ――……」
「ハハ――…」
次第に彼らの声は遠ざかっていき、近藤は核心を聞き逃してしまう。けれど彼らが秘密裏に妓楼で永倉と原田に会い、何かを話し合っていたのは間違いない。二人は近藤の元には顔を出さず隊士たちを集めたのだ…おそらく決起集会のような形で。
「…そうか…」
(俺を追い落とす策を練っていたのか…)
近藤の心は一気に谷底に突き落とされたような気持ちになった。
自らが招いたことだとわかっていても、実際に目の当たりにすると『裏切られた』という思いで心が塗りつぶされていく。
近藤が脱力し呆然と立ちすくんでいると、ちょうど大石が通りかかった。任務の最中なのか町人風の様相で笠を手にしていたので、
「大石君!」
と思わず引き留めた。彼は驚いた顔をしつつ近寄った。
「はっ…なにか…」
「…俺に…俺に何か報告することはないのか…?」
山崎亡き今、土方が一番重用している大石なら昨晩の隊士たちの動向など当然把握しているはずだ。彼らが永倉や原田とともに飲み明かしたのなら一体何を相談したというのか。
(どうか勘違いであってほしい…)
しかし大石はハッと瞳孔を開いたあと、少し視線を泳がせて
「いえ、何も…」
と誤魔化すように短く答えた。
「…ほ、本当か?」
「はい。…俺はこれで」
大石は逃げるようにそそくさと近藤の前から裏口に向かって去っていく。彼の表情はいつになく昏く、隠し事をしているようにしか見えなかった。
近藤は日野で少年に襲撃された時のことを思い出した。
まだ泰助くらいの少年は両手で短刀を掴んで駆け込んできたが、周囲の隊士たちに阻まれて本懐を遂げることはできなかった。近藤は突然のことに咄嗟に右腕を動かしてしまい、つい身体のバランスを崩して尻餅をついていたが、そんな近藤に対して彼は
『嘘つき!』
という捨て台詞を口にして逃げていった。
少年の本意はわからない。けれど故郷の英雄として悠々と甲府に向かった近藤は、民に勝利を豪語し甲府城主を名乗り出たものの、それがあっさり敗走して仲間にさえ裏切られてしまいそうな、このていたらく。
「確かに嘘つきだな…俺は…」
近藤は俯いた。
―――近藤が目覚める少し前。
土方に元には大石が顔を出していた。日頃は寝起きの悪い土方だが彼の報告を聞いて飛び起きたのだ。
「源之助が…?」
彦五郎の長男で土方の甥である佐藤源之助が逮捕されて官軍の本営に連行されたというのだ。大石はかつて彦五郎の世話になっていたので源之助のことは幼いころから知っている。そのせいでいつもは淡々として表情を崩さないのに、今朝は焦っていた。
「源之助さんは知人の家で身を隠すつもりだったようですが運悪く官軍と遭遇し、取り調べを受けているようです。おそらく春日隊の隊長である彦五郎さんの所在を詰問されているのではないかと思います」
「…義兄さんは?」
「どこかに潜伏していると思いますが…いまのところ捕まってはおらず、奥様もご無事かと」
「…そうか…」
彦五郎たち春日隊は日野へ戻り、隊旗や名簿を焼き捨て兵器を隠して逃げ延びているはずだが、官軍が予想よりも早く日野に向かったようだ。
「…義兄さんのことだから源之助は本当に所在を知らないはずだ」
「しかし、源之助さんは酷い詰問を受けるのではないでしょうか。早く手を打つべきでは」
十九の源之助は名主の跡継ぎとして彦五郎に厳しく育てられ、さらに父親の意固地な性格も受け継いでいるので易々と官軍に屈することはないだろう。大石は心配しているようだが、土方は首を横に振った。
「…いま俺たちが容易に手を出しては逆に新撰組との関りを疑われてしまう。近藤先生に頼んで安房守に密使を送ってもらおう。…このことはまだ先生には話さないでくれ」
「何故です」
いつもは疑問に思うことがあっても「わかりました」「かしこまりました」と引き下がる大石だが、彦五郎たちを恩人だと思っている彼は今回ばかりは食い下がった。
「…今晩は永倉たちとの会談だ。近藤先生の気持ちを乱したくない」
「源之助さんやご家族のお命に関わります」
「わかってる。俺にとっても義兄は恩人だ…だからこそ機会を見計らって近藤先生に話す。源之助は辛抱強いし、義兄さんは頭が回る。姉さんは…何をしでかすかわからないが、息子の命を縮めるような真似はしないはずだ。とにかく少し待て」
「……わかりました」
大石はようやく頷いて引き下がった。とても表情は納得しているとは言えなかったが、急いては事を仕損じることになる。それに大石以上に土方にとっては家族なのだから彼以上に心配なのは当然だ。
土方は大石を下がらせて、着替え始めた。腰帯を解き、シャツに袖を通す。一つ一つのボタンを留めていく作業が今日ばかりは煩わしく、肌を締め付ける洋装がますます土方を苛立たせた。
なし
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