わらべうた
959
昼になっても日が差し込むことはなく、曇天の空が江戸を覆っていた。
近藤と土方が称福寺に到着した時、ちょうど松本が診察道具の入った風呂敷を抱えて出たところだった。それまで二人は一言も交わすことなくここまでやって来たが、近藤はハッと顔を上げて
「松本先生…!」
と駆け寄った。松本は「おう」と気軽に手を振る。土方と違い二人は出立して以来の再会だった。
「近藤、話は聞いている。大変だったな…右腕はどうだ?」
「大丈夫です。ただ…先生には兵や資金を御助力頂いたにも関わらずこのような不甲斐ない結果となり…お詫びのしようもございません」
「何言ってるんだ、戦を手助けしたのは俺の勝手だ、謝ることはない。それに結局弾左衛門の兵だって足手まといになったようだしな」
「そんなことは」
「まあおいおい話を聞かせてくれ」
「往診ですか?」
「ああ、馴染みのところにな。…永倉たちならもう来ているぞ」
松本の言葉に近藤は一瞬だけ顔を強張らせたが、「ご迷惑をおかけしております」と再び詫びた。
「構わねえよ。でも部外者はいない方が良いだろう?弟子たちもあちこち散ってる。俺は日暮れまでには戻るから宜しくな」
「…ありがとうございます。改めてまたお話を」
「おう」
松本はちらりと土方の方へ視線を向けて(うまくやれよ)と言わんばかりに目配せしたが、土方は曖昧に頷くことしかできなかった。
二人が松本を見送って本堂に向かうと、永倉たちの姿があった。神妙な顔で佇む永倉と原田、その後ろに控えている矢田や林、前野、中条、松本…彼らは緊張して顔が強張っていた。近藤は一通り眺めた後、無表情のまま彼らの前に腰を下ろした。いつもの近藤だったら「ご苦労だった」など一言労うはずだがそれもなく、まるで敵兵に向かうかのように厳しい眼差しだ。
(かっちゃん…)
昨日のことで少し頭が冷えたのではないかと思ったのだが、近藤の堅い表情からは彼の意図が汲み取れず、土方は怪訝な面持ちで少し後ろに腰を下ろした。
近藤の威圧感を感じ取った永倉は少し緊張した様子で頭を下げた。
「…御足労を頂きありがとうございます」
「ああ…いつ江戸へ戻った?」
「…八日です」
「三日前か。吉野で合流すると伝えたはずだが?何故、待たなかった?」
早速近藤が責めるように尋ねたが、永倉は想定していた質問であったので落ち着いて答えた。
「…命令に背いたことは百も承知です。けれどもたとえ吉野で合流し、援軍とともに迎撃したとしても…勝てない戦だと思いました」
「勝てない?誰がそのようなことを決めた?」
「誰も決めていません。もちろん戦の勝敗など敵味方どちらにも分らぬこと。…けれど、吉野で待てば局長は必ず迎撃すると命令するだろうと思いました。ですから、我々は行動によって異を唱えるため吉野には向かわずに江戸へ向かいました」
「個人的な判断で隊を離れるなんて、勝手な振る舞いだ」
「近藤先生、俺たち以外も迎撃に反対だった隊士は大勢いるはずよな?だから土方さんと合流しても江戸へ帰った…結局俺たちの判断は間違っていなかったってことだ」
近藤の命令違反の詰問に対し、永倉と原田は真っ向から反論した。他の五人は近藤のあまりの剣幕に怯えて何も口にはしなかったが、二人が言うことは尤もで、経緯は違っていても結局は皆が迎撃を諦めて江戸へ戻ったのだ…けれど近藤は気に入らなかった。
「そういうことじゃない。吉野宿で合流できず、落ち合う約束をしていた大久保屋敷にもいない…松本先生にご迷惑をおかけして挙句に吉原で豪遊していたのだろう。それで俺が『間違っていない』などとよく言えたものだ」
近藤が腕を組み厳しく永倉たちを見据える。その後ろに控えていた土方は驚いた。
(永倉たちが吉原にいたことを何故かっちゃんが知っているんだ…?)
斉藤から報告を受けたものの、土方は火種になりかねないと判断して近藤には伝えなかったはずだ。部屋に閉じこもっていたはずの近藤は何も知らないと思っていた。
永倉はそれまで威勢が良かったが、吉原に関しては少し後ろ暗い自覚があったのか、唇を噛んだ。
「…確かに松本先生にご助言をいただき、気晴らしをしていたのは本当のことですが…しかしそれは」
「では松本法眼のせいだと?」
近藤がさらに詰め寄ろうとしたので、土方は咄嗟に止めた。
「…大久保先生、今日はそんな話をしに来たんじゃない。この数日は敗戦の混乱で永倉たちと行き違いになっただけだ…過ぎたことを持ち出すな」
ねちねちと問い詰めたところで、終わったこと…命令無視や吉原豪遊は近藤の気に障るだろうが、そんなことは些細なことだ。土方は前向きな話をするように促したところ近藤は得心行かないようだったが、腕を組みなおして口を噤んだ。
対する永倉は少し呆然としていた。
(この人は…本当に、近藤先生なのか…?)
近藤勇という人はいつもおおらかで懐が広く、人を責めるよりも先に自省をするような人柄だったはずだ。だからこそ他流派にも関わらず多くの食客たちが集い、人生を共に歩んできた…そんな自然体で人を惹きつけてしまう眩しさがあったのに、甲府での敗戦が人を変えてしまったのだろうか。永倉の隣にいた原田もどこか戸惑ったように眉を顰めていた。
近藤が黙り込み、永倉たちが言葉を失ってしまい…その場に重たい沈黙が流れたので、仕方なく土方が切り出した。
「…永倉、お前たちの考えを聞かせてほしい。この先どうするつもりだ?」
「俺は…隊を離れるつもりはありませんが、新撰組はすぐに会津に行くべきだと考えています」
「会津?」
『会津』という言葉は甲府での諍いの発端となった。近藤は途端に眉間に皺を寄せたが、永倉は構わず続けた。
「会津は官軍との戦に備え、着々と戦力を蓄えていると聞きました。多くの民が徳川のために官軍との戦を望んでいると…新撰組はご恩に報いるためにもすぐに会津へ向かい合流し、勇敢なる会津公の元で死力を尽くして戦うべきと考えます。これは他の隊士も望んでいることです」
「勿論、会津には恩義を感じている。会津公には返しきれぬ御恩がある…だがなぜ今なのだ。各街道から官軍が進軍し、江戸城総攻撃が四日後に迫っていることは松本法眼から聞いているだろう。まず我々が為すべきことは江戸での徹底抗戦のみ!」
「失礼ながら寛永寺に閉じこもられた上様は腰抜けで、江戸総攻撃となったとしても表には出て来られないでしょう。結局は鳥羽伏見と同じです!」
「腰抜けとはなんと無礼な!上様は帝への忠誠心から恭順の姿勢を貫かれているだけのこと!」
「本当のことです!上様が大坂城から逃げ帰ったことをお忘れですか?次は水戸へお逃げになるのでは?多くの幕臣がそう思っています!」
「そのような暴言、許せぬ!」
再び議論は過熱して次第に二人とも感情的になってしまったので土方は獰猛な獣のような近藤を引き止め、対等に言い返す永倉を原田が宥めたが、二人は続けた。
「…っ、我々は武士で幕臣だ、幕府の軍だ。勝手に会津に向かうのは私議でしかない!」
「では新撰組は江戸で戦うと?」
「ああ、勿論!むしろ早々に立て直し、甲府で再戦すべきだ!」
「は、ハハ…それはあまりに現実から目を背けているだけではありませんか!我々は甲府で散々負けました、甲府城を取られたんです!何も変わらないままでは甲府どころか、江戸でもきっと同じことを繰り返す…そんなのはもうウンザリだ。だったら会津公の元で戦う方がマシです!」
「ウンザリだと?俺の指揮に従えないということか?!」
「従う?俺たちはそもそも家来じゃない!」
「何を…!」
近藤が感情的に拳を振り上げたので、土方はその腕を取って引き止めた。怪我をしている右腕だったのだが近藤はそんなことには構わなかった。
「かっちゃん…!」
「…っ、大久保だ!」
「そんなこと今はどうでもいいだろう?!頭を冷やせと言ったはずだ…!」
「…っ」
顔を真っ赤にした近藤は「くそ」と小さく吐き捨ててようやく拳を下ろして項垂れた。土方は(一体どうしちまったんだ)と困惑したが、土方以上に永倉たちが呆然としていた。
ここに来たのは近藤と言葉を交わすためだ。この先の新撰組の行く末を議論し、よりよい道を歩むためのものだったはずなのに。
(何も…何も通じない)
まるで別の言葉を話す異国人のようだ。
新撰組局長としていつも悠然と構えていた姿などどこにもない。そこにいるのはいまだに徳川の威光から逃れられない憐れな敗軍の将でしかない―――。
永倉は憤りを通り越して失望していた。溝どころか、大地の亀裂のように近藤との間に隔たりを感じたのだ。
すると、
「…なぁ、近藤先生…」
それまで成り行きを見守っていた原田が口を開いた。彼は今までになく憐れむような顔をしていた。
「山南さんが切腹して、平助がいなくなって…総司が隊を離れて、源さんが死んだ。食客って呼べるのはもう俺たち四人だけだ。いつの間にか半分になっちまって…でも、だからこそ手を取り合って踏ん張らねえといけねぇって思ってたんだ。死んだ奴らが誇れるように…俺たちは賊軍のままじゃ終われねえって」
「…」
「でもさ…俺ァよくわかんなくなってきた。幕臣になったのに上様が政を手放しちまった辺りから…いや平助が死んだ辺りからよぉ。俺たちがどこへ向かうのか、どうすべきなのか…でも俺が妻子と離れてまでこうしてここまで来たのはさ、ひとえに新撰組に情があるからなんだ。俺の仲間がいて、居場所がここに在って、ここで生きて来たから守りてぇ…そう思ってきた。でもさいまは全然、そう思えないんだ…」
原田の声は次第に震えた。明るく快活な彼が悲しそうに目尻に涙を滲ませている。
「…俺たちは新撰組の組長で、同僚で、食客で……でもその前に、友人だっただろう?局長だの副長だの組長だの…それはただの役割であって俺は近藤先生の部下じゃない、家来じゃない…そう信じていたのに、違ったのか…?いつの間に変わっちまったのか?なあ、答えてくれよ…!」
原田は前のめりになって近藤に問いかけるが、彼は顔をそむけたまま向き合おうとはしなかった。土方は堪らず
「近藤先生は皆を家来などと考えたことはない!」
と否定したが、原田が求めていたのは近藤の言葉なのだ。
「なあ、近藤先生よぉ!」
原田が叫び、永倉も答えを待つ。そこにいる誰もが『仲間だ』『同志だ』という温かな言葉を待ちわびていただろう。
しばらく沈黙して、近藤はゆっくりと顔を上げる。その眼は虚ろなまま他人を寄せ付けようとしなかった。
「……変わったのは、君たちが先じゃないか」
「え…?」
「昨晩、俺に黙って隊士たちを吉原に集めたのだろう?どんな話をしたのかは知らないが…朝帰りした隊士たちが『永倉隊長』などと口にしていた。俺を追い落とす算段を立てていたのではないのか」
永倉と原田は顔を見合わせ、土方は驚いた。
己の知らないところで隊士たちが会合し、挙句に自分にとって代わるような話を耳にした…敗戦して孤独を感じていた近藤にとってこれほど屈辱的なことはない。土方は近藤の様子がおかしかった理由がようやく理解できた。
そして永倉も誤解を与えたのだと気が付いた。
「…!違う、違います、近藤先生…!俺は隊士の総意を確かめ、ただ会津に行こうと決しただけで…!」
「ハハ…そうか。まったく…誰も彼も『大久保』と呼ばないのはその名前に相応しくないと思っているからだな。…永倉君、自分の方が隊長に相応しいと考えているんだろう。隊士たちもそうだ…ここにいない者も含めて内心では嘲笑っているに違いない。だが…俺もそう思うよ。右腕が使えず、甲府でも満足な指揮がとれず…さぞ頼りない大将だっただろう。本当に情けない」
「…っ」
永倉はどう返答したらよいのかわからず、原田はただ言葉を失ったように口をぽかんと開けていた。すると二人の背後にいた五人の隊士たちが次々に口を開いた。彼らも元はと言えば長い時間を過ごしてきた古参の忠義者ばかりなのだ。
「違います、局長…!」
「それはその、ただの冗談で」
「そんな深い意味はなくて…皆酔ってたんです」
「そうそう!酔っ払いの与太話で!」
本当に酒の席でのただの戯言だったのだろう。彼らは口々に誤解を解こうとしたが、今の近藤にとって言い訳にしか聞こえず「宴席でこそ本音が出るものだ」と受け入れないで首を横に振った。
永倉は懸命に叫んだ。
「俺は隊長なんて柄ではありません!今でも局長の元で戦いたいと思っています。だから新撰組の一員として今後のことを話し合いたいんです!」
しかし近藤は
「では…俺の家来になるか?」
と言い出した。
土方はカッと目を見開いた。それだけは口しない…暗黙の了解だったはずだ。永倉と原田の表情も変わった。
「かっちゃん…!」
「歳は黙っていてくれ。…ここまで揉めて、話が拗れて、再び手を取り合って共に戦うなど難しいだろう。だったら上下関係がはっきりしている方がむしろ信用出来る…そう思わないか?」
「…」
同志よりも家来の方が信じられる。永倉は近藤のそんな言葉をゆっくり咀嚼するように目を閉じた。そして何度も、何度も頷いた。
永倉はそれまでの興奮がすっかり冷えて、穏やかな口調で答えた。
「…確かに、おっしゃる通りです。この後何もなかったように歩むことはできそうにありません。…しかし、武士は二君に仕えず。同盟こそすれ家来にはなりません。近藤先生がそのようにお考えなら、俺たちは新撰組を離れます」
永倉は目を開けて近藤を見据えた。迷いのない、淀みもない、澄み切った眼差し―――永倉は訣別を決め、隊を離れることを決意したのだ。
土方は声を上げた。
「永倉…!待て、早まるな」
「早まってはいません。もしかしたら決裂するかもしれないという心づもりはしていました。…それに、ずっと不満に思っていました。近藤先生はいざという時は俺には何も話してくれず、常に直門を優先していました。幕臣に昇進してからは特に…俺たちの知らないところで何もかもが動いていた。食客食客と持て囃されたところで、俺たちは常に客人でしかなかった」
「違う。策を練っていたのは俺だ、責めるなら俺を責めろ」
「いや、すべてを了承したのは近藤先生です。それに結果、幕臣にまで上り詰めたのは土方さんの手腕が見事だったから。目標を果たした…だから土方さんの判断は間違っていないんです。…でも俺たちは所詮、脇役だったんですよ」
土方に胸には永倉の言葉が突き刺さった。決して彼らを蔑ろにしていたつもりはなかったが、永倉や原田は自分たちが除け者にされていると感じていたのだ。おそらく山南や藤堂も―――。
まるで鈍器で殴り付けられているような気分だった。おそらく近藤もそれ以上に。
永倉は原田に視線を遣った。原田は静かに涙を流している…割れて元には戻らないガラス片を見つめるように、寂しく、哀しく。
「…左之助、何か言いたいことはあるか?」
「いや…ぱっつぁんの言う通りだ。俺たちはここで別れた方が良い…もうこれ以上、罵り合うのは止めよう。楽しかった思い出も全部なかったことになっちまうからさ…」
「左之助…」
土方は彼らを引き止められる言葉が見つからない。近藤が呆然としている間に、永倉は後ろに控えていた隊士たちにも目配せし彼らは揃って居住まいを正した。
「これまでのご交誼、礼を申し上げます」
永倉と原田は余所余所しく、他人行儀に頭を下げた。近藤はその光景を見ることなく目を逸らし土方は身体を捥がれるような痛みを感じながら拳を握りしめるしかない。
しかしその場にいる誰よりも―――永倉は寂しげに呟いた。
「…これが最後ならば、俺は『大久保先生』ではなく、『近藤先生』と話したかったですよ」
「永倉君…」
「どうかお元気で」
彼らは短い挨拶だけを口にして立ち去っていった。
話し合いはあっという間に決裂した―――土方はしばらく現実の出来事として受け入れることができずに永倉たちが座っていた場所を眺めていた。
(俺は…心のどこかで永倉たちが折れてくれると思っていたんだな…)
元に戻れると安易に考えていた。けれど土壇場になって土方が永倉たちに反論できなかったのは、甲府から離れてしまった土方には永倉たちの怒りと憤りが本当の意味でわからなかったから。理不尽に命の危険に晒された者たちの気持ちはその場にいなければ口出しようがない。
「…」
「…」
二人は項垂れた。
山南や藤堂が死んでいなくなってしまったのとはまた違う…息苦しい喪失感と後悔が、まるで引っ掻き傷のようにじくじくと痛む。
積み上げてきたものが崩れるのは一瞬だ。特に目に見えない情なんてものは、霧のように消え去ってしまう。そんなことはわかっていたはずなのに、そこに在ることが当たり前になって、知らないうちにぞんざいに扱ったせいで脆く崩れ…あっという間になくなってしまった。そしてそれはもう二度と、取り戻せない。
「…い…」
「…かっちゃん…」
「悪い…悪かった。俺のせいだ。永倉君も左之助も…お前も、何も悪くない。俺が、俺を信じられなかったから…彼らを疑ってしまったんだ…!」
近藤はその場に突っ伏し、背中を丸めて小さく震えていた。永倉たちの姿がなくなってようやく失ったものの大きさに気が付く。
けれど土方は近藤のせいだとは思わなかった。彼らしくない言動…その全ての引き金となったのは
『銃を持つのはどうだ』
と切り出したことだ。近藤が土方を遠ざけ、孤独になってしまったきっかけの言葉。
(俺が…かっちゃんを追い詰めたんだ…)
「違う…違う、かっちゃんだけのせいじゃない…」
土方は両手で顔を覆った。
良かれと思ったことによって、近藤傷つき苛立ち余計意地になった。そのせいで甲府で諍いが起きて永倉たちと揉めてしまったのだ。
冬の終わり。
曇天の江戸で、旧友たちは袂を別った―――。
なし
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