わらべうた
960
翌朝。
朝靄が漂う早い時間に総司は目を覚ましたが、すぐに眩暈がした…昨日斉藤が見舞いに来てくれた時は本当に身体の調子が良かったが、今日はそうもいかないようだ。日々機嫌の違う自分の身体に苦笑するしかない。
すると、
―――にゃぁん…
という猫の鳴き声が耳に入り、総司は憑りつかれたように咄嗟に身体を起こした。あまりに力が入ってしまったせいか途端に「ゲホッ」と咳き込んだが、構わずに四つん這いになって障子を開けた。
まだ薄暗い庭に黒猫の姿を探す。総司の周囲に不幸をもたらすあの黒猫を―――。
(早く…早く、追い払わないと…)
血眼になって探したけれど庭には黒猫どころか鳥や虫の姿さえ見当たらない。時が止まったかのような静寂があるだけだ。
(勘違いだったのかな…)
けれど嫌な予感は拭えずに総司は安定を握りしめて、そのまま朝陽が差し込むまで庭を見つめ続けていた。それはきっと長い時間だったのだろう…定刻になって英が様子を見に来たときに彼は酷く驚いた。
「何やってるの?!」
「英さん…」
「いつからそこに?ああ、こんなに冷たくして…なんて無茶を!横になって、早く身体を温めて!」
「でも猫が…」
「馬鹿だな、猫なんていないよ!」
あまりに英が叱るので、総司はようやく諦めて彼の言う通り寝床に戻った。すると確かに朝の寒さで消耗してしまったようで、すぐに熱が出てしまった。
英は呆れながら、手拭いを絞って総司の額に乗せて布団を肩まで掛ける。総司は文句を言いながら手際よくせっせと看病を始める英をぼんやりと眺めていたが、やはり気になって時折り視線は外の庭へと向けられた。
「…何?何かあるの?」
「いえ…気のせいかもしれないんですけど…猫がいる気がして」
「はぁ?また猫?ひょっとして猫が嫌いなの?」
「いや…」
黒猫はいつも総司の元へ不幸を連れてやって来たのだと、英に話したところで信じてはくれないだろう。それに説明する気力がなく熱のせいかうとうとと眠気に襲われた。
「英さん…誰か訪ねてきたら起こしてもらえますか?」
「…誰かって誰が?具合が悪そうなら出直してもらえばいいじゃないか」
「いえ…今日だけは頼みます…必ず、起こしてください…」
総司が頼み込むと英は「仕方ないな」と請け負ってくれた。総司は安心してもう一度、瞼を閉じた―――。
その頃、土方は試衛館で目を覚ました。
というのもあの後、二人は称福寺を出て帰路に付くも、屯所にしている大久保屋敷へ戻る気分になれず試衛館へ足を運んだのだ。妻のつねは娘のたまと義母のふでを連れてすでに親戚の元へ身を寄せているので、いまこの屋敷は無人だ。それがちょうど良かった。
土方はしばらくぼんやりとしていた。
(夢…じゃないな…)
現実逃避だとわかっていても、昨日の出来事がどうか夢であればと思った。けれど永倉と原田たちと決別したことは間違いなく現実で、この試衛館で過ごしたような日々はもう二度と戻っては来ない。
そう思うとここに戻ってくることはボロボロに痛んだ心をさらに虐めるような真似だったのかもしれないが、一晩明けると気持ちは少し変わっていた。どんなに不本意であったとしても、彼らの決断を受け入れなければならないと漠然と思い始めていたのだ。
「…歳、起きたか?」
「ああ…」
隣で寝たはずの近藤は先に目を覚ましていたようだ。二人はかつて食客たちが雑魚寝をしていた場所で適当に休んだのだが、近藤はあまり眠れなかったのだろう。
「…道場に行かないか?」
「そうだな…」
近藤の提案で、二人はふらりと立ち上がって道場へと向かう。人気のない試衛館は静かすぎてまるで他人の家のようで居心地が悪かったが、道場に入るとそんな気持ちは消え失せて「古巣に戻った」という感覚が自然と呼び起こされた。
近藤は道場の真ん中に立ってゆっくりと腰を下ろしてあぐらをかいた後、突然その場で大の字になって転がった。土方も彼の傍に近づいて座り、同じようにして手足を広げたところ床板の冷たさが妙に心地よかった。
「…歳、悪かったな」
近藤は改めて謝った。もう彼には昨日までのような険しさはない。まるで元に戻ったかのように苛立ちは消え失せて、ここにいた頃の幼馴染に戻ったようだ。けれどもちろん昨日の後悔は抱えている。
「俺が意固地になったせいで二人と仲違いしてこんなことになってしまった。会津の援軍が来るとか、家来になるとか…焦っていたとはいえ、今となっては信じられないくらいの暴言だよな。二人が見切りをつけるのは当然だ」
「いや…かっちゃんだけのせいじゃない。甲府のことはただのきっかけで…きっと永倉たちは都にいた時からずっとうっ憤を抱えていたんだ」
永倉は鳥羽伏見の頃から徳川へ不信感を持ち、恭順する上様に従う新撰組に疑問を持っていた。原田の方はおそらく単純に近藤と永倉を天秤にかけて、親しい永倉と命運を共にすることを選んだのだろう。
だからいずれこんな日が来るはずだったのだと土方は慰めるが、近藤はまだ受け入れられずに目を伏せた。永倉のやりきれない表情と原田の号泣が目に焼き付いて離れなかったのだ。
「そうだったのかな…。だが、だとしたらそれもそれで虚しい。ずっとそんな思いを抱えて来たのかと…申し訳ないよ」
「…もちろんそれだけじゃないはずだ」
時折衝突することがあったとしても、長い間永倉と原田は隊に残ることを選び続けてくれた。それは新撰組への愛着と仲間との絆があったからで、決して不満や鬱憤だけを見つめ続けてきたわけではなかったはずだ。だからこそ楽しかった日々を否定したくなうという思いで彼らは隊を出て行ったのだ。
近藤は懺悔するように口を開いた。
「俺は…永倉君たちが隊士を集めて会合をおこなったと知って…急に自信がなくなったんだ。前は俺よりも相応しいなら誰が新撰組や鎮撫隊の隊長になっても構わないと思っていたが、彼に新撰組を奪われてしまうのではないかと怯えた。自分のせいで負けたと思っていたから尚更…。それにお前が何かを隠しているようだから、つい…苛立って…」
「俺が?」
「大石君に何か探らせていただろう?永倉君たちのことじゃないのか?彼らのことを知っていて俺にだけ伏せたのかと思ったんだ」
「ああ…」
土方は近藤と間に様々な誤解があったことを再認識した。あの時、土方まで遠ざけた理由は勘違いだったのだ。
「実は…昨日、源之助が官軍に連行されたと大石から聞いたんだ」
「何?源之助が?!」
近藤があまりのことに飛び起きたので、土方もゆっくり身体を起こした。
「ああ。だが、今回のことに片が付いてから動こうと思っていた。春日隊のことを勝先生に取り成してもらおうと…」
「要らぬ気を回すな。勿論、俺が勝先生に御助力を願い出る。…彦五郎さんたちのことも心配だよな。お前にばかり負担をかけて申し訳なかった」
土方は「いや」と小さく首を横に振った。
「…かっちゃんを惑わせていたのは俺だ。白状すると、永倉が隊士を集めて会合を行ったのは知っていたが、俺はあいつらを探るような真似をしたくなかったんだ。俺は戦場にいなかった…あいつらの不満は想像できても実際にはわからない。だから意見があるならばそのまま受け止めようと思っていた…」
「そうだったのか…」
「だが、今となっては前もってかっちゃんに話しておけば良かった。言い出しにくくて、伏せたせいで余計拗れてしまった。だから今回のことは俺にも責任がある」
「…そうか。だったら、二人で責任を負うしかないか」
「ああ。そのつもりだ」
土方は永倉や原田が口にした非難から逃げるつもりはなかった。彼らが新撰組に参画させてもらえなかったと感じているならば、当然自分の責任なのだ。
近藤は少し肩の荷が降りたように頷いた。
「…喧嘩別れのようになってしまったが、俺は二人を憎んでいるわけじゃないし二人もそうじゃないと信じている。だから…互いに決めた道を進むだけだな」
「ああ…」
もちろんまだ昇華できない気持ちややりきれない後悔はあったが、それでも時間は待ってはくれない。近藤と土方は自分を納得させて飲み込むしかないのだ。
近藤の前向きな様子を見て、土方はようやく切り出すことができた。
「昨日、話があると言ったが…」
「ああ、そうだったな。何の話だ?」
「……俺はかっちゃんに早く謝りたかったんだ」
「謝る?」
近藤は心当たりがないようだったが、土方は改めて居住まいを正して頭を下げた。
「悪かった。…安易に銃を持てと言ったこと、今は後悔している」
甲府への道中、右腕のことで思い悩む近藤へ余計な助言をしてしまった。結果として近藤の自尊心を傷つけ、孤独を選ばせて追い詰めるきっかけになってしまった。
しかし近藤は目を丸くして「そんなことか」と苦笑いする。
「歳の意見は至極真っ当だと思ってるよ。総司に銃を持たせておいて自分は嫌だと拒むのは道理じゃないし、そんなことで怒るのは大人げなかったよな」
「…」
「右腕がまた使えるようになるかはわからない。でもまだ諦められなくてな…だからきっと時間はかかるだろうが、鍛え直すつもりだ」
「…ああ。そうしたらいい」
近藤は無意識に右腕をさすりながら、かつて汗を流した道場を見渡した。つねの手入れが行き届いた道場は今すぐにでも稽古ができそうな佇まいのままここにある。
「しかし…ここに来ると体が疼くな。早く稽古しないといけないという気持ちになる」
「そうだな…」
近藤は膝を立ててゆっくりと立ち上がった。そして上座へ身体を向けて深々と礼をした。
「俺は大久保剛である前に、試衛館道場主の近藤勇だ。そのことを胸に刻んで…進むよ」
この道場に誓うように近藤は口にした。
古い床板が軋む。かつて浪士組に参加するためにこの道場から飛び立って…いまはたった二人だけ。
土方も立ち上がり、近藤の隣に立った。
「…かっちゃんは何も諦めなくていい。右腕が不自由だろうと、敗軍の将となろうと、俺は何があっても…お前についていく。だから安心しろ」
「…ありがとう」
近藤が穏やかに笑うと、曇天の隙間から柔らかな光が差し込んだ。
仲間が去り、新撰組はさらにこれから厳しい道を歩むことになるだろうが、土方は久しぶりに安息を感じることができた。
(どんな混乱があろうとも…俺には自分にやるべきことが決まっている)
今はそれが有難く感じた。
なし
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