わらべうた
961
昼になって陽が昇りようやく晴れ間が見え始めていた。
部屋の隙間風が鼻を掠め、髪が靡く。小さな風を感じて総司は薄く目を開き、周囲の様子を窺ったところ意外な人物が縁側にいた。総司はその後ろ姿へ声を掛けた。
「…永倉さん?」
「起きたのか。突然来てすまない」
縁側から総司の方へ身体を向けた永倉は何故か深々と頭を下げて、総司には少し余所余所しい態度に見えた。総司は不思議に思いながらゆっくりと身体を起こした。
「いえ…もしかして目を覚ますまで待ってくれていたんですか?起こしてくれてもよかったのに」
「英が少し待てっていうからさ。それでもここに来たのは半刻ほど前だな。…熟睡しているようだったから起こすのも忍びないし、急ぐ用事もないから問題ない」
「そういえば三日前も訪ねてきてくれたんですよね?英さんから聞きました、すみません」
「謝らなくても。勝手に見舞いの来たのは俺の方だし…だいたい、沖田さんの方が年上なんだから」
「ああ、そういえばそうでした。でも永倉さんは試衛館に来たときから大人びていたからすっかり忘れていました」
「俺も斉藤も年下なのに、みんなそう思ってる」
「ハハ…きっと私は年相応で、二人が老けているんですよ」
「どうかな」
永倉がようやく硬い表情を和らげたので、総司もつられて笑った。英は永倉に留守番を頼んで外出しているらしい。
総司も寝床から離れて羽織に袖を通し、縁側に腰かけた。松本の邸宅には小さな庭があり季節の移り変わりを思わせるような芽吹きがあちこちで始まり、春めいた風が吹き始めていた。長い長い冬を越し、ようやく鮮やかな季節を迎えようとしている。
総司は永倉とともにその光景に目を細めていた。
「具合は?寝床から離れても良いのか?」
「ええ、日野から江戸へ戻った時は身体は疲れ果てていましたけど。でもやっぱり江戸の方が何かと身体に合っているのか、気分は落ち着きます」
「長く暮らした場所だから当然だ」
永倉は頷き、再び庭へと視線を戻した。しかし永倉は庭の木々を見つめているのではなくどこか虚空を見つめているように見え、その表情には憂いがあった。
総司はそんな彼の横顔を見て言いようもない不安を感じた。
「…何か話が?」
「…ああ、うん…」
総司が促しても永倉は少し迷っているようだったが、意を決したように口にした。
「すまない。俺は…俺と原田は新撰組を離れることにした」
「…」
永倉の言葉には重みがあった。
総司は驚いていた。甲府での敗戦で新撰組には暗雲が立ち込め脱走者も増えていると聞く。それに以前から永倉は近藤や土方に対して意見をしていたし、甲府行きの最中もずっと浮かない表情を浮かべていた。けれど永倉がそれほど大きな決断を下すとは思わなかったのだ。
総司は「そうですか」とは諦められず、縋るように永倉の腕を掴んだ。
「どうしてそんなことに…?もしかして、今回の敗戦で徳川に見切りをつけてしまったんですか?」
「いや、官軍に屈したという話じゃないし、奴らに与するつもりはない。ただ…近藤局長とは別のやり方で薩長と戦いたいと思っただけだ」
「別のやり方?でも近藤先生なら話し合えばきっと永倉さんの意見を取り入れてくれるのでは…」
「無駄だったんだ」
永倉は苛立ったように総司の言葉を遮ったものの、すぐに感情を堪えながら「すまない」と総司の手を拒むように掴んで離した。総司は彼の顔や体の強張りを見て強い決別を感じた。
「…近藤先生となにかあったんですか?」
「あった。…でも話したくない。思い出すだけで…気分が悪くなる」
「永倉さん…」
永倉の複雑な表情のなかには怒りや悲しみだけでなく、悲痛な嘆きのようなものがあった。いままで生真面目であるがゆえに苦悩することが多々あったが、それでもこんな顔を見たことがなかった。それに大抵土方と衝突することが多く、近藤は彼らの仲裁役だったはずだ。
しかし事情の分からない総司は安易に彼を引き止めて慰めることすら躊躇われてしまう。
「とにかく、話は局長や副長から聞いてくれ。二人は怒っているだろうから片側からの穿った話を聞かされるかもしれないが…でも、もう何を言われても構わない。俺は近藤先生の家来にはならないし、もう別の道を行くと決めたんだ」
「家来だなんて…近藤先生がそんなことを…?」
「ああ…今まで不本意なことであっても命令に従ってきたが、それが一番受け入れがたいことだったかもしれない」
「…そんな…」
真面目な永倉が話を誇張しているわけではないとわかっていても、総司は近藤の発言が信じられなかった。
近藤は食客を家族のように慈しみ、信頼していた。だから今まではぶつかり合っても最後には手を取り合って歩むことができたのに、ついに話し合いは決裂してしまった。
甲府での敗戦から一体何があったのか―――しかし総司はタイミング悪く軽く咳き込んでしまった。
「ケホッ…」
「…悪い、手短に済ます。今日は別れを言いに来たんだ。俺たちはこの先、会津へ向かおうと思っている」
「会津…」
「ああ。俺たちを浪人から武士に引き揚げてくれたのは間違いなく会津だ。ご恩に報いるために会津のために戦うのは、新撰組の信条とそんなにかけ離れてはいないと思う。だから、隊を離れたからと言って敵に回るわけではないんだと、それだけは伝えたかった」
永倉は申し訳なさそうに頭を下げた。だが、その眼差しを見て彼はもうその意思を翻すことは決してないだろうと察した。
(僕には何もできない…)
永倉を引き止めることも、説得することも…すでに新撰組から離れ事情のわからない総司にとって彼の欲しい言葉さえ思い浮かばない。
けれど一つだけわかったのは今朝の猫はこのことを伝えに来たのだ。彼らが会津に行ってしまったらもう会うことは叶わないだろうし、総司にとってはおそらく最後の機会になるだろう。
(やっぱりあの黒猫…)
総司は目を伏せた。黒猫ごときに命運を握られているとは思わなかったが、それでも何かの啓示なのだろうと確信した。
「…原田さんは?」
「ああ…今日本当は左之助と一緒に来るはずだったんだが、沖田さんに合わせる顔がないと言っていた。こんな形で新撰組を離れることになって申し訳ない、養生してほしいと…それだけは伝えてくれと頼まれた」
「そうですか…」
感情的な原田が思い悩む姿が浮かぶ。誰よりも豪快で快活な原田だが、その分誰よりも優しい…だから顔を見せられないほど憔悴しているに違いない。彼らにとっても不本意な形になってしまったのだろう。
(でも僕には時間がない)
だから、そんな別れを繰り返したくはなかった。
「…今まで、山南さんや藤堂君、井上の叔父さん…皆、突然の別れになってしまって、もう会えないから別れを受け入れるしかありませんでした。身を切られるような思いで仕方ないのだと自分に言い聞かせて忘れるしかできなかった。でも今は…こうやって目の前で『さようなら』を口にする方がもっとつらく、哀しいのだとわかります。私にはどんな衝突があったのかはわからないけれど、きっと皆虚しさを感じているはずです」
「…」
「私は近藤先生や土方さんは心底二人を憎んでいるわけじゃなくてどこかで…食い違ってしまったのだろうと思います。だから永倉さんや原田さんが同じ気持ちなら、きっとまたどこかで会えます。私は…そう長くは生きられないかもしれないけれど、近藤先生や土方さんとまた分かり合える日が望めますよね…?」
総司は勝手だとわかっていても淡い希望を口にする。
死んでしまった三人とは違い、互いに命を失うような結末にはならなかったのは唯一の救いなのだから、生き続けていればまた人生が交錯することもあるはずだ。
―――その時には傷が癒え、再会を喜び合える。
日和見だと言われても、総司にはそれを願わずにはいられない。
永倉は少し困惑していたが大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。抱えていたうっ憤、苛立ち、不満、失望…すべてを吐き出して残ったものはきっと友情に違いない。
「…そうだと良いな」
「良かった。じゃあ私は『さようなら』は言いません。永倉さんも原田さんも気が向いたら会いに来てください…内緒にしますから」
「はは…わかった。また顔を出すよ」
永倉は穏やかに頷く。
そして彼は総司の肩を軽く叩いて「もう行く」といって庭先から出て行ってしまった。まるで束の間の別れのような気軽さだったが、総司にとっては仰々しい別離よりも有難かった。
―――しかし総司はその後、永倉に会うことはなかった。
永倉と原田たちが新撰組を脱退した翌日の三月十二日。
官軍は大奥や各所からの進軍の中止要請を拒み東海道・東山街道・甲州街道を進み、ついには土佐藩士・板垣退助が八王子、薩摩藩士・伊地知正治が板橋に到り、江戸城を包囲し始めたが、和平交渉に臨む勝海舟と官軍の総大将である西郷隆盛の交渉は難航した。官軍が望む城・軍艦・武器の引き渡し、城中の兵の向島退去等は許容しても、上様を備前藩に預けることだけは全幕閣が受け入れず、勝はついに江戸焦土作戦を決意し、傾きかけていた。
しかし意外な援軍が現れた。英国公使・パークスである。無抵抗の慶喜に攻撃することは万国公法に反する行いであるとして、江戸総攻撃を激しく非難したのだ。思わぬ外圧に屈せざるを得ない西郷は翌日の第一回会談に応じることとなった。
なし
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