わらべうた
962
近藤と土方が朝の内に大久保屋敷へ戻ったところ、相馬が慌てて出迎えた。相馬はいま局長附きの隊士だ。
「大久保先生!良かったです、早々にお帰りいただいて…!」
「どうした?」
「勝安房守様からお呼び出しがありました。すぐに赤坂へお越しいただくようにと」
「わかった。火急の用件であろう…歳、後は任せた。例の件は俺が戻ってから伝える」
「ああ。もし可能なら春日隊の件も取り成していただくようにお伝えしてくれ」
「勿論だ」
近藤は相馬とともに屯所に足を踏み入れることなく、急いで勝の邸宅がある赤坂へ向かっていった。
たった一晩―――まだ気持ちの切り替えはできていないが、試衛館に立ち寄ったことで気分転換にはなったように思う。永倉と原田が去ったことは隊士たちへ動揺を与えるだろうが、上に立つ者が信念を持っていれば大きく揺らぐことはないはずだ。
(これからは正念場だ…)
土方が小さく息を吐いて屋敷に踏み出そうとしたところ、
「何か良いことでもあったんですか?」
と声を掛けられた。何の前置きなくそんな風に声を掛けるのはもう一人しかいない。
「…伊庭」
伊庭は大久保屋敷の玄関からやって来たので、土方たちが戻るのを待っていたらしい。彼は相変わらず嫌味なほど端正な顔立ちだが見慣れた顔がそこにいて土方はなんだか少し安堵してしまった。
「新撰組が江戸へ戻ったと聞いたんです。甲府ではご苦労様でした」
伊庭は当然、甲府での敗戦を知っていて敢えて淡々と触れた。
「ああ…寛永寺の警護は良いのか?」
「ええ、まあ。今は江戸市中取締役を任じられた彰義隊が幅を利かせていますからねぇ」
伊庭の所属する遊撃隊は寛永寺に謹慎した上様の警護を任されている。当初は新撰組も加わっていたが、甲府行きを命じられたために解任となった。その後の警護は遊撃隊が務めていたが、最近は江戸市中取締役を任じられた彰義隊が一躍有名となり活躍しているらしい。
土方はひとまず話を切り上げて伊庭とともに屋敷に入り、人払いをして客間で向かい合った。
「甲府では城を奪われ敗走したそうですね。官軍の戦力はどうでしたか」
「…どうもこうも、半日も持たなかったらしい」
その場にいなかった土方だが状況はそう難しくはなく、鳥羽伏見の時のようにあっという間に蹂躙されたのだ。正月の戦を知っている伊庭にはすぐに想像できるはずだ。
察した伊庭は「そうですか」とあまり深くは訊ねなかった。
「ご存じですか?寛永寺で漏れ伝わった噂では薩長は十五日に総攻撃を決定したとか…」
「噂じゃない。松本先生からお聞きした」
「ああ…松本法眼でしたら間違いないですね。そうですが、十五日か…」
寛永寺で広まる噂よりも、元奥医師であり勝の友人である松本からの情報の方が信ぴょう性がある。伊庭はため息を付いた。
「その総攻撃の噂があちこち広まりましてね。さっき話した例の彰義隊がどうも血気盛んで…薩賊の旗を掲げては薩長の関係者を斬り殺しているそうです。もともとは上様の汚名を雪ぐために旧幕臣で結成された部隊ですが、いまや町人や博徒、侠客が加わって千を超えるとか。しかも江戸の民に人気なんですよ。このまま統制できずに手が付けられなくなるのではないかと寛永寺では戦々恐々としていますよ」
「…安房守様の交渉に響かなければ良いが」
「上様が不利益を被ることになっては困りますからね。…もし決裂して総攻撃となれば彰義隊共々、我々は上様のために命を落とさねばなりませんが…」
伊庭は遊撃隊の一員として上様の警護を務めるが、その一方では武家の棟梁の役目を果たさない上様に対して懐疑的であり、彼が尽くすべきは『徳川家』であると決めている。その考え方は榎本にも通じていて、もともと顔見知りである彼らは一致団結する準備があるのだろう。
土方は「それで?」と伊庭の顔を見た。
「お前は何の用件で来たんだ?」
「もちろん、改めてお誘いに。…甲府の件が終わって新撰組はおそらく江戸を去るように命じられるでしょう。近藤先生のお考えがどうであれ新撰組は都での働きで勇名はすでに轟き、甲府へ出陣したことで官軍に抗う急先鋒の部隊となりました。それは江戸の人々だけでなく薩長もそう思っている。だから、そんな新撰組が江戸にいては恭順のために和平交渉をする安房守にとって邪魔な存在でしょ」
「随分はっきり言う」
土方は苦笑した。しかしそれは土方が予想する展開でもある。先ほどの勝の呼び出しは、おそらく都落ちして大人しく官軍にひれ伏せと言われるのだろう…近藤がどう返答するかはわからないが。
「以前約束したでしょう?一緒に戦ってくれると。でしたら今こそ榎本艦長とともに官軍に一矢報いましょう。幕府海軍は異国にも負けない戦力を保有していますから、薩長ごときに負けませんよ。新撰組が加わってくれれば士気も上がって百人力だ」
「…だが、交渉の条件の一つに軍艦の引き渡しがあったはずだ」
官軍に恭順する以上は戦力を手放さなければならない。しかし伊庭はにやりと笑った。
「一体だれが引き渡すんですか?軍艦のことを知り尽くしているのは榎本艦長のみ…たとえ交渉で合意したとて榎本艦長が拒めばそれまでですよ」
「…お前な。そんなことをすれば徳川家を追い詰めることになりかねない」
「もちろん上様の御身が守られた後のことでしょうが。俺が守りたいのはいまの徳川家ではなく徳川家の名誉ですからね。…徳川の家臣として戦わずして敵に易々と首を垂れ、従うことなどできません」
「…」
土方は伊庭に対して論破できるとは思えなかったが、しかし彼の誘いに乗るという選択肢もなかった。
土方はまっすぐに伊庭を見据えた。
「…悪いが、俺は近藤先生の意思に従う。榎本さんにも何度もそう伝えてきたはずだ」
永倉と原田が見切りをつけてしまった今、近藤の意思に背くつもりはなかった。それがどんな安直な結果をもたらしたとしても近藤の進む道を歩む―――今の土方にとってそれが最優先だ。
伊庭は苦笑した。
「相変わらずですねぇ。でも俺や榎本艦長が『徳川家』に対して報いたいと思うのとは違って、近藤先生は『上様』に対して忠義を尽くしたいとお考えでしょう。似ているようで実は相反していてともには戦えない…全く頑固な人だな。勝ち負けを考えればこちらに付くべきです」
「近藤先生は勝ち負けを考えているわけじゃ無い」
「じゃあ死んでもいいってことです?」
「…極端だな」
「戦なんて勝ち負けでしょう。勝った方が負けた方を陥れる…この国はそれを繰り返してきたのだから、負けてしまえば終わりです」
それを三百年、戦のない国を治めてきたのは徳川だ。伊庭にはその自負があり、だからこそ勝つために戦うのだ。
土方は伊庭の考えを理解していたが、それでも拒んだ。
「伊庭、もうここには来るな」
「…何故です」
「互いのためにならないからだ。俺はお前と良い友人でいたい。敵は同じなのに仲違いをするような真似は御免だ」
「…」
伊庭は少し冷静になったようで、土方の複雑な表情を見て「何かあったんですか?」と尋ねてきた。
(相変わらず察しのいいやつだ)
土方は相馬が準備した茶を口元に運んで渇きを潤した。
「…永倉と原田が新撰組を離れた」
「…え?」
「理由は…まぁ、俺たちに見切りをつけたってところか。恩義のある会津へ行くと言っていた」
「…永倉さんと原田さんが…」
かつて食客の一人のように試衛館に通い詰めていた伊庭はもちろん永倉は原田との親交がある。伊庭は唖然としていたが、しばらく黙った後土方と同じように湯飲みに手を伸ばした。
「残念ですが…仕方ありませんね。この御時勢ですから心変わりすることは誰でもあり得ます。官軍に寝返るのは論外ですが、会津なら…永倉さんと原田さんの決断が悪いとは言えませんし」
「ああ…いつかどこかの戦場で逢うかもしれない。その時ははからってやってくれ」
永倉のことだから官軍に与することはないだろう。おそらくどこかの戦場で邂逅を果たす…その時はたとえ新撰組の一員でなかったとしても、旧友として手を取り合うことができるはずだ。
伊庭も頷いた。
「勿論です。そんな日が来るのかわかりませんが…それまで皆、無事に生き延びたいですねぇ」
伊庭は手元の湯飲みをくるくる回した後「あ!」と突然大声を上げた。それまでの重たい空気は吹き飛んでしまう。
「なんだ?」
「見てください、茶柱ですよ!」
伊庭は無邪気な様子で湯飲みを見せびらかすので、土方は呆れた。
「お前な…茶柱ごときで大きな声を上げるなよ。驚くだろう」
「何言っているんですか。こういう些細なことに喜ばずに疎かにしては神仏に見離されますよ。もはや神頼みしかできないんですから」
「ったく…」
伊庭は嬉しそうにしたあと茶を飲み干して満足げに頷いた。
「…じゃあ、歳さんのご要望通りここに来るのは止めておきます。へへ、歳さんは俺といつまでも仲良くしたいみたいですからねぇ」
「そんなこと言ってねえだろう」
「またまた。…でもずっと待ってますから、俺は根気強い方ですからね」
「好きにしろ」
「でも、代わりと言っては何ですが沖田さんの所在を教えてもらえますか?ここにはいないみたいですし…具合、そんなに悪いんですか?」
「ああ…総司か」
土方は総司が日野で引き返し、いまは浅草の松本の邸宅にいることを話した。
「わかりました。じゃあ見舞いに行きますよ」
「ああ。…行ってやってくれ、そう長くないだろうと英に釘を刺された」
伊庭は一瞬悲壮な顔を浮かべたが、すぐに笑みを浮かべて「わかりました」と敢えて淡々と答えた。
なし
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