わらべうた
966
局長附の相馬は次の移転地である五兵衛新田へ向けて出立の準備を進めていたのだが。
「お前も会津へ行ったほうがいいんじゃねえのか?」
相馬が屋敷を雑巾掛けしていると背後から野村が問いかけた。相馬はため息をつきながら手を止めて野村を軽く睨んだ。
「…何度も言うが、かすり傷だ。すぐに医者に見てもらったし生活に支障がないのだから離脱する必要はない」
「でもさぁ」
「しつこいな」
野村がやたら会津での療養を勧めるので、相馬はうんざりしてしまった。
相馬が肩口に怪我を負ったのは柏尾でのことだ。勢い余って敵の前に突っ込んだ鉄之助を庇って負傷したのだが、ほんのかすり傷だというのに野村が大事にしてしまったせいで周りからも重傷の扱いを受けて、内心困っているのだ。
「こうやって雑巾がけもできるし、医学方の山野さんにも問題ないと言われているんだから何も心配することはない。…お前は早く支度しろ」
「俺は荷解きしてなかったからすぐに片付いたんだ」
「だったら小荷駄方を手伝うとか、新入隊士の面倒を見るとか色々あるだろう。…とにかく俺は忙しいんだ」
「じゃあ俺がお前を手伝う」
野村はまるで懐いた子供のように相馬のあとをつけ回すので、次第に苛立ちを通り越して呆れてしまった。
「…野村、いいから持ち場に戻れよ。お前が俺を重傷扱いをすると鉄之助が気に病むだろう」
「そりゃあ…そうかもしれねぇけど」
「まだ鉄之助は十五かそこら…いつまでも失敗を引きずらせては可哀そうだ。だから、たとえ重傷だったとしても俺はいつも通りに振る舞うからな」
「…」
若気の至りではないが、まだ経験がないのだから戦場で空回りして失敗することはあるだろう。相馬は十分に反省している鉄之助に追い打ちをかけるつもりはない。もちろん野村も同じなのだろうが。
「惚れるなぁ…いや、惚れ直すなぁ」
「…いいから黙って働けよ」
しみじみと呟く野村に相馬はあきれ果てて、手にしていた雑巾を彼に投げつけたのだった。
日が暮れようとしている頃、浅草・今戸には冷たい風が吹いていた。
ほど近い河川の船着場には会津の船が停泊している。まだ江戸に残っていた負傷者を乗せて国元へ戻るのだが梅戸をはじめとした新撰組の隊士二十名も便乗し、今晩中には出立することとなったのだ。
松本の邸宅はほど近いため総司は厚手の綿入れを着込んで見送りに来た。近藤と土方の姿もあるが、総司が待っていたのは彼らではない。
しばらくすると船着場を見渡せる少し離れた待ち合わせ場所に斉藤がやって来た。
「斉藤さん、こっちです」
「…副長に文を書くように頼まれたのか?」
斉藤は前置きなく、総司が土方に託けていた文を手にしてひらひらと振る。彼は少し不機嫌そうだった。
斉藤がここに来たのは総司の文で呼び出されたからだ。詳しい用件は書かれていなかったが、負傷隊士たちが会津の船へ合流する場所と時間が合致していたので土方の入れ知恵だろうとすぐに察しがついた。
総司も企みを隠すつもりはなかった。
「土方さんから斉藤さんを言い聞かせてほしいって頼まれたんです。怪我をしているのに会津へ行きたくないって駄々をこねたんでしょう?」
「駄々をこねたわけではない。断っただけだ」
聞く耳を持たずに拒んだだけだ…その方が質が悪いのかもしれないが。
総司は苦笑しながら斉藤に近づき、了解を得ずにその左手を取った。
「斉藤さん、左腕…ほんの少しだけれど震えていますよね?」
「…そんなことはない」
「いいえ、この間見舞いに来てくれた時から気になっていたんです。湯飲みに添えた手が小刻みに震えていましたよ」
「…」
斉藤は甲府へ出立する前から左腕に怪我をしていた。それはある密命を受けて会津藩邸に忍び込んだ際、逃げる途中に負ったものであるため公には誰にも話していなかった。近藤や土方は気がついていたが人員は不足していたし左腕であるため剣を振るうことに支障はなく、実際に柏尾でも前線で戦うことができたので大事にはならなかった。けれど甲府への往復で無理が祟ったのか傷口が開き、大久保屋敷に戻ってからは少しだけ痛みを感じるようになっていたのだ。
誰にも悟られていないと思っていたが、総司は気が付いていたらしい。
「やっぱり。怪我、悪くなっているんじゃありませんか?」
「大したことはない」
「そんなこと英さんに聞かれたら大目玉を食らいますよ。それに利き腕じゃないからと言って甘く見ては身体の均衡が崩れてしまいます。…任務の一環だと思って少し休んだ方がいいです。近藤先生や土方さんに説得を頼まれなくったって、私は斉藤さんにそうしてほしいと思ってましたから」
「…」
斉藤は土方にも同じことを言われたが、総司の助言はまるで別の言葉のように刺さった。
しかし彼の言う通りにすべきなのはわかっていても、斉藤は受け入れるつもりはなかった。自分の怪我よりも優先すべきことが江戸にはたくさんある。
「案じてくれているのはわかった。だが、俺にはその気がない。明日明後日にも江戸総攻撃が始まると聞いている…そんな時に江戸を離れるなど考えられない。怪我の療養は今じゃなくてもいい」
「…本当にそれだけですか?」
当たり障りのない理由だけで留まると言っているはずがない。総司がさらに問うと、斉藤は掴まれたままの左手を軽く振り払った。
「人が悪いな。…俺に何を言わせたいんだ」
「…もしかして、私のことがほんの少しでも気にかかってますか?」
「ほんの少し?」
斉藤は思わず小さく噴き出してしまった。
(ほんの少しのはずがない)
何故新撰組を離れたくないのか…そんなことは口に出さなくてもわかっているはずだ。
儘ならない感情を何年も抱えて来た。けれどそれが時間が経っていつからか狂おしいものから穏やかに昇華されて、いまに至った。けれどその思いの炎は消えたわけではなく、事あるごとにどうしようもなく囚われそうになってしまう。
(あんたにはわかるまい)
わかってほしいとも思わない。答えてほしいとも願わない。だから好きにさせてほしい―――。
斉藤は(自分のことを話すのは苦手だ)と気が進まなかったが小さく息を吐いて口を開いた。
「…先の大樹公が薨去された時、俺は後を追うつもりだった。大樹公…かつて紀伊の若様であった頃、俺を『友人』だとおっしゃってくださった…身に余る光栄と誇らしさを抱えて若様のためにどんな仕事でも請け負い、共に死ねるなら本望だと信じていたからだ」
「そうでしたね…あの時は本当に後を追ってしまうのではないかと心配しました」
「死ななかったのは沖田さんが引き留めたからだ。友人として大切だと言ってくれた…俺はその気持ちを裏切りたくはなかった。だから今まで生きて来た」
「…斉藤さん…」
あれから二年ほど経つが、斉藤はあの時の気持ちを鮮明に覚えていた。静かな都の夜、鴨川に架かる橋の上で家茂公の死を悼みながら総司に寄り添われて涙を流し…そして決意を新たにした。それはまるで身体の中に今まで知らなかった澄み切った空気が流れ込んでくるかのようで、月並みな言葉でいえば『生まれ変わった』ような気分だったのだ。
「俺は…沖田さんに若様の代わりを求めたのだろう。だから今度こそは自分が大切に思うものを、自分の手が届く場所で大切にしたい。時間がないのなら猶更、会津へいくわけにはいかない」
「…」
斉藤の真摯な告白に総司は言葉に詰まった。斉藤が自分に向けてくれる思いに応えられないからではなく、彼の思いが誰よりも総司自身の気持ちに重なったからだ。
残り少ない時間なら、傍にいたい。自分の大切な人々から離れたくない。
(僕も…時間に限りがあるのならずっと皆の傍にいたい)
斉藤の思いは真逆の立場でも痛いほどわかる。だから彼や彼以外の人へもそんな苦しい思いをさせてしまっていることが申し訳なく思った。
けれど自分自身ではどうしようもなく、ただただ胸の奥からもどかしさがせりあがってくるようで、堪えきれなかった。
「…あ」
総司の頬に一筋の涙がこぼれた。無意識に伝っていったのは名前のない、けれども苦しい感情だ。
「な…何故泣く?」
斉藤は突然のことに困惑していたが、総司もどう答えていいのかわからず、涙を袖で拭いながら首を横に振った。
「ご、…ごめんなさい。なんだか…斉藤さんの前だと、言わなくていいことも言ってしまいそうで…」
「なにが…」
「…永倉さんと別れて、原田さんに会えなくて…皆も遠くへ行って。これから会えない人が増えていく…そんなお別ればかりで、このところ本当に最後かもしれないってその繰り返しで…なんていうか、憐れまれることにちょっと疲れたのかな…」
去っていく人の後姿を見るたびにもうこれが最後なのではないかと胸を締め付けられた。そして去っていった人側もそう思っているのではないだろうか。
そんなやり取りをもう慣れたと言い聞かせても、心の疲弊を斉藤の前では誤魔化せなかった。
「…私だって本当はお別れなんて…言いたくない。斉藤さんに会津へ行ってほしいけれど、本当は行ってほしくないと思ってるんです」
ひとり、またひとりといなくなる。
もしも願いが叶うなら、あの試衛館で過ごした日々に戻りたい。誰一人欠けず寄り添っていたあの場所で、別れなんて一度も考えなかったあの日々に浸りたい。
(誰かに傍にいてほしい)
そう願わずにいられないのに、戦が目の前に迫り誰も彼もがいなくなってしまう。追いかける足は進まず、伸ばした手は届かない…そんな自分が嫌になってしまう。
目を伏せて俯いた総司の両肩を斉藤が握って揺さぶった。
「永遠の別れだと思っているわけじゃない」
「でも…斉藤さんももう会えないと思っているから、行き渋っているんでしょう?最後かもしれないと恐れているから…」
「最後だなんて思っていない」
「嘘だ」
「嘘じゃない。…わかった、会津へ行く。さっさと治してここに戻ってくる。それが何よりの証明になるだろう」
総司が顔を上げると、斉藤はどこかまだ受け入れ難そうにしていた。江戸を離れることが不本意で仕方ないのだろうが、総司のためにそうしてくれているのだということがありありとわかってしまった。
総司は彼の葛藤が手に取るようにわかり、つい笑ってしまった。
「本当…斉藤さんは嘘が下手だなぁ」
「…そんなことを言われたことはない。優秀な間者だと皆思っているはずだ」
「ハハ…そうかな。こんなにわかりやすいのに」
二人は顔を見合わせて小さく笑い合いゆっくりと離れると、いつの間にか息の詰まるような空気は消え失せていた。
斉藤は一度夕暮れの空を仰ぎ、心の整理をするようにしばらく黙り込んだ。そして大袈裟なため息をついて視線を戻すと船着き場の方を指さした。
「あそこに小姓の田村がいるだろう」
「…あ、本当だ」
「このまま会津へ出立できるように俺の荷物を抱えて待っているんだ。おそらく副長の指示だろう…俺が沖田さんの頼みならば折れるはずだと確信していたんだ。…実際にその通りになったわけだが…なんだか癪だな」
「ふふ…でも、きっと今頃こちらの様子を窺ってやきもきしているんじゃないですか」
「だと良いが」
総司は改めて斉藤に向き合った。目は赤く腫れてしまったかもしれないが、何もかも吐露したせいか気持ちはすっきりしていた。
「弱気になってすみません。でも斉藤さんの怪我を心配しているのは事実だし、負傷した隊士たちの引率を任せられるのも斉藤さんだけだと思ってます」
「…ああ、そんなことはわかっている」
命令を拒む理由は個人的な感情だけだ。それが解消されてしまったのだから行かない理由はない。
斉藤は文を仕舞い、改めて総司の方へ向いた。その左手は彼の愛刀の鞘を掴んでその指先がかつて渡した組紐をなぞる…そしてその眼差しは真摯に総司を見据えて、告げた。
「もし…本当に苦しくなったら、俺が介錯してやる。きっと沖田さんのことだから局長や副長には頼めないだろう」
「…!」
虚をつくような言葉とともに強い夜風が吹いて、総司は目を見開いた。
それは近藤や土方なら絶対口にしない、斉藤しか言えない申し出だろう。そして総司は仲間の介錯を務める苦しさを誰よりも知っていた。誰かの最期を引き受ける…近ければ近しい間柄であるほど躊躇うはずだ。
斉藤は淡々としていたが、易々と言える言葉ではない。
けれど今の総司にとってこれほど慰めになることはなかった。
「…ありがとう。私は…もしその時が来たら、斉藤さんの鮮やかな太刀筋で介錯してもらえたら、本望だと思います」
そう答えた時、総司はこれが斉藤との別れではないと確信した。
彼は必ず再び総司の前に現れて、同じように慰めるだろう。
その時に自分がなんと答えるだろう―――山南のように花となって散りたいと願うのだろうか。
今はまだわからなかった。
なし
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