わらべうた
972
総司に促されて、早速鉄之助は翌日、屋敷の近くの荒川沿いに兄を呼び出した。人気がなく川のせせらぎだけが聞こえる場所で深刻そうに待ち構える鉄之助とは対照的に、兄の辰之助はへらへらと笑いながらやってきた。
「鉄、なんだよ改まってこんな場所に…」
「…屯所じゃちょっと…」
「へえ、お前もそんな年頃か。そうかそうか」
「…」
辰之助は何か誤解をしているようだが、鉄之助は訂正するのが億劫でそのまましばらく河川敷を歩いた。
荒川の向こうには江戸城が見える。将軍の居ない空っぽの城郭が一体この先どうなるのか…いまは誰にも分らない。しかし季節の移ろいは相変わらず進み、点在する桜の木には小さな蕾が膨らみつつあって春を迎えようとしていた。
「兄さん、あの…」
「なんだよ。二人きりの時くらい前みたいに『兄ちゃん』って呼んだらどうだ?」
辰之助は上機嫌に笑った。幼少の頃は『兄ちゃん』と呼んでいたが、新撰組へ入隊したのを機に役職の差があって、鉄之助が自発的に『兄さん』と呼び方を変えたのだ。
けれど今はとても昔のように『兄ちゃん』と呼ぶ気分ではなく、むしろ出鼻を挫かれて鉄之助は押し黙ってしまった。
すると辰之助が
「でもちょうど良かったよ。俺も話があるんだ」
と足を止めた。
「…話…?」
(まさか本気で脱退を…?)
鉄之助は胸がキュッとなって恐ろしいような怯えるような気持ちで身構えたが、目の前に辰之助はそのような重苦しい雰囲気はない。弟へ向かってパンっと手を合わせて懇願するように頭を下げた。
「金を貸してくれ!」
「…か、金…?」
鉄之助は拍子抜けした。
「俺も少しは蓄えがあるんだけどちょっと足りなくてさ。お前は局長や副長の身の回りの世話をしているし、小遣いくらいもらってんじゃねえかなってさ」
「は…?もらってない!小姓としての給金だけだよ」
「へえ、そうなのかあ。俺はてっきり…」
辰之助は残念そうに肩を落としたが、鉄之助の方は兄の軽薄な話題にわなわなと憤りが込み上げて来た。思わず兄へ掴みかかる。
「なんなんだよ!こんな時に、金とか…!」
「お、おい。鉄、そう怒るなよ」
「博打か?借金か?!そもそも弟から金をせびるなんて恥ずかしくねえのかよ!」
「違う違う、誤解誤解。博打もしてねえし、借金もないよ。お前の早合点だ」
顔を真っ赤にして怒る弟を、兄はいつもの癇癪を宥めるように笑って諫める。
(兄さんはいつもそうだ…!)
いつも鉄之助が必死に怒っても、真面目に取り合ってくれない…能天気で気持ちに疎い兄だったのだ。
鉄之助は脱力しながらふらふらと兄から離れるが、そんな弟の様子にやはり気が付いていない辰之助は話を続けた。
「都から江戸へ戻ってきて原田先生たちと品川楼に通っていただろう?その時にさぁ、良い女と親しくなって…できれば身請けしたいと思ってるんだ」
「…身請け?」
「ああ。吉原と違って品川だからそう金もかからないはずなんだけど、そんな話を切り出して手持ちが足りなかったらかっこ悪いだろう?だから鉄之助の蓄えを聞いておきたくてさぁ…」
女を身請けする…その現実味のない話を辰之助はどこか恍惚とした表情で打ち明けたので、鉄之助はもう怒りを通り越して呆然としてしまった。
「…女って…兄さん、いまどんな状況かわかってるのかよ…。江戸は薩長に包囲されて、新撰組は敗戦して窮地に立たされて…でも今は再起のために奮闘している。先輩の隊士たちや俺みたいな小姓だって今は皆、新撰組のことしか考えてない。次こそは雪辱を晴らす為に勝つって…誰も自分の身の回りのことなんて考えていないし、ましてや女なんて…!隊を出て所帯をもつつもりかよ!」
「鉄…」
辰之助は反論しない。鉄之助の言う通り新選組を脱退して新しい生活を始めようと考えているのだ。
「心底…心底、見損なった!兄さんは結局、衣食住に困らないためにここにいるだけで、雨風をしのげればそれでいいって思ってるんだろ?!挙げ句女を身請けして逃げるなんて…兄さんには志なんて何にもない、空っぽだ…!」
鉄之助は自分でも制御できないほど身体中が熱くなって、言葉を紡げば紡ぐほど形にできない憤りで声が震えて仕方なかった。そして今まで志半ばで倒れ、戦死し、隊を去った者たちの顔が浮かんできてついに我慢できなくなった。
「兄さんが恥ずかしいよッ!」
鉄之助の失望の叫びは広く響いた。あまりの大音声で近所の犬が吠えている…けれど目の前にいる辰之助はそんな鉄之助を見つめているだけで反論せず、
「…そうかもな」
とあっさり頷いた。
「新撰組に入隊したのだって、毎月の給金が支払われるらしいって風の噂で聞いたからだよ。まあ半年くらいはその恩恵を授かれたけど…いまとなってはそれも怪しいし、屯所だって仮住まいでいつまでこんな暮らしが続くかわからない。…鉄は衣食住のためだと言ったけれど、それだって生きる為に大切なことだろう?皆、志だけじゃ食っていけない、金のために戦う。明日の飯の為に…それが現実だ」
辰之助は聞き分けのない子供を優しく諭すように話したが、鉄之助にとっては受け入れ難い話だった。
「最初は金のためでも、いまは違う…!俺にはそんな気持ち微塵もない!」
「鉄はの気持ちは立派だが、俺は変わらないよ。もちろん薩長に味方するわけじゃないけど、伏見と甲府でしみじみ実感したんだ…志のために戦うべきじゃない。ましてや負けるなら尚のこと、付き合うべきじゃない。…正直、俺は身の引き方を考えるべきだと俺は思う」
「兄さん!」
もう聞きたくないと鉄之助は顔をそむけた。他の誰でもなく血のつながった兄がそんなことを口にするなんて思いもよらなかったのだ。けれど辰之助は相変わらずの優しい口調だ。
「…志がないまま生きるのも、そんなに悪いことじゃないさ。穏やかに生きていけるんだからこれ以上幸せなことはないだろう?」
「…」
「今度、一緒に品川へ行こう。お志野という女で、少し齢はいってるがいい女なんだ…お前もきっと気に入る」
「もういい」
鉄之助は本題を切り出せないまま話を切り上げて、辰之助を置いて去った。
怒りよりも失望の方が大きかった。
(兄さんと俺はこんなにも考え方が違っていたんだ)
それをまざまざと見せつけられ、鉄之助は混乱していた。兄という人物が一体何を考えているのか、まるで他人のようにわからない。
「……」
鉄之助が元来た道を戻りしばらく歩いた後、不意に振り返った。
兄弟喧嘩をしたとき、たいていは弟の強情さに折れて兄が謝っていた。年が離れた兄が「ごめんよ」と笑って、鉄之助が不貞腐れたまま「いいよ」と返す…それが日常だった。
けれどいま、辰之助は追いかけて来なかった。
総司はこのところ調子が良く、穏やかに朝を迎えていた。肩から羽織を掛けて小庭で身体を動かす。
「この様子だとすぐに新撰組へ戻れそうです」
総司の軽口を英は「はいはい」と聞き流すが、彼の表情も朗らかで安堵しているように見えた。
するとそこへ蹄の足音が聞こえて、三日月とともに土方がやって来た。今朝は見慣れた洋装ではなく袴姿だった。江戸では目立つ格好を慎むようにしているらしいが、髷を落としているので結局は視線を集めてしまう。
「土方さん、どうしたんですか?朝早く…屯所を離れても良いんですか?」
「今日は非番だ。それに朝早くから面倒な客が来たから、避難して来た」
「面倒な客?」
土方は「松波殿だ」だと答えたが、総司にはピンと来ない。幕臣の松波権之丞は軍事方の一人だ。
「パリ帰りの幕臣で、安房守様の部下だ。このところ毎日安房守様から使者やら文やら届く…勢力が増えた分、もっと遠くへ拠点を移せってな」
「へぇ…五兵衛新田ではダメなんですか?」
「もともと流山へ向かうように言われたのを、有事の時に上様の元へ駆けつけられないと近藤先生が交渉して今の場所になったんだ。おそらく安房守が官軍との交渉で武装解除に努めることに同意したおかげで、新撰組を更に江戸から遠ざけたいんだろう」
「…近藤先生お一人で大丈夫ですか?」
「俺がいると食ってかかっちまう」
「なるほど、確かに」
土方はもともと畏まった会議のような場は居心地が悪く苦手でずっと近藤に任せて来たのだ。土方は少しあくびをしながら腰を下ろそうとしたのだが、総司はその腕を掴んだ。
「じゃあ土方さん、暇ですよね」
「…暇ってわけじゃない。ここのところ忙しかったから屯所を離れてここに休みに来たんだ」
「でも時間があるんですよね?この通り最近調子が良いんです。だから付き合って欲しいところがあるんですけど」
「……」
朝早くから屯所を出たので睡眠を取りたい土方であったが、総司がいつになく生き生きとして誘うので「わかったよ」と付き合うことにした。
なし
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