わらべうた




977


あらかた引っ越しを終えた頃には日が暮れ始めていた。
「皆、とても助かりました。ありがとうございました」
総司は小姓たちに礼を言って駄賃の小遣いを渡した。山野とともに彼らは再び大八車を引いて帰営する準備を始めたが、鉄之助がひときわ疲れた表情を浮かべていた。
(あれからどうなったのだろう…)
総司は彼が兄のことで思い悩んでいるのは知っていたので彼を手招きしようとしたところ、同じ小姓衆で少し年上の上田が
「市村、さっき兄さんが女連れで歩いていたぜ」
と何気ない世間話のような調子で声をかけた。鉄之助はカッと顔色を変えて行李を放り投げて詰め寄った。
「どこで!?」
「え?な、内藤新宿の方だけど?」
鉄之助は周囲困惑をよそにそのまま屋敷を飛び出してしまう。上田をはじめとした小姓衆たちは驚いていたが、事情を知っていた田村は土方の元へ駆け寄った。
「申し訳ありません!これには事情があって…少しの間、鉄の好きにさせてやっていただけませんか…?」
「…わかった。山野、他の小姓衆たちと一緒に五兵衛新田まで戻ってくれ。俺はまだここに残る」
「承知しました」
山野は小姓衆とともに大八車を引いて戻っていった。
総司は土方とともに見送り、離れへ戻る。
「鉄之助は大丈夫ですか?前よりも追い詰められた顔をしていましたけど」
「…家族の話だ。俺たちが口出しをすることじゃない」
「…ちゃんと戻ってくるといいけど…」
「大丈夫だろう」
総司は土方を見上げた。厳しい鬼副長の眼差しではなく、鉄之助を信じて思いやる表情を浮かべていたので安堵する。
「…ところで土方さんは屯所へ戻らないんですか?」
「ああ。一晩泊まってから明日の朝戻る。…安心しろ、お前とのことは平五郎さんには話してある」
「え?え?…そ、そうなんですか…」
土方は「いずれバレる」と淡々としていたが、柴岡一家の反応を想像すると気まずい。しかし土方がしきりに訪問しても不審がられることはないだろうから、安堵する気持ちもあった。
土方は襖を閉めるやすぐに総司を抱きしめた。そして首筋に顔を埋めてしばらく黙り込む。
「…歳三さん?」
「こうしていないと、お前が足りない」
「ふふ、まだ二日しか経ってないのに」
総司は山野にそうしてあげたように土方の頭を撫でた。山野と違うのは短くなった黒髪が指と指の間に絡むことと、次第に熱情のような気持ちが湧き上がること。
「あ…」
土方の手のひらが総司の後頭部に回されて二人は口付けを交わした。重なった場所から何もかもが溢れてしまいそうで、けれども溢れでた時にはきっと今まで保っていたことが全て崩れてしまうだろう。
だから消えてしまわないように、溢れたものを掬うように、吐息すら許さない口付けを繰り返すのだ。
「…歳三さん、英さんが…」
「英は一旦浅草へ行った、まだ戻ってこないだろう」
「…でも、引っ越したてで…小さい子供もいるのに」
いくら事情を話したからと言っても引越し初日から気恥ずかしいと口にすると、土方も苦笑した。
「それはそうだな」
土方はかわりに首筋の細い鎖を辿り指環を弄ぶ。総司にはもうすっかり身体の一部となったが、土方に触れられているとより一層彼のものである証を刻まれているように感じた。
土方はその指環を見つめて少しぼんやりした。
「…歳三さん?」
「実は…源之助が官軍に捕まってるんだ」
「え?」
土方の甥の源之助のことは当然総司も幼いころから良く知っている。寝耳に水のことで総司はサッと正気に戻るが、土方はそれを遮るように耳朶を甘噛みした。
「源之助が?…ねえ、ちょっと歳三さん、ちゃんと話を…」
「大丈夫だ。勝先生には放免の嘆願状を届けてもらっている…やれることはやった」
「…でも、心配です。おのぶさんは?」
「姉さんは大石と一緒だ。義兄さんは行方知れずだが、義兄さんのことだから上手くやってるはずだ」
「それはそうですけど…」
「大丈夫だから、任せておけ。なんとかするから」
「…わかりました」
「悪い…余計なことを言った」
土方は話すつもりはなかったのだろうが、つい打ち明けてしまったのだろう。総司の傍にいて気が緩んでしまったのだ。
「いえ…話してくれて、嬉しいです」
総司は微笑んで身を任せた。


(しくじった!)
鉄之助はすぐ北の内藤新宿へ向かいながら、上田にもっと話を聞くべきだったと後悔した。いつ、どこで、兄はどんな姿でどんな女を連れていたのか―――手掛かりがなければこんなに広く賑やかな宿場町でとても兄を見つけられない。
(でもこんなところにいたってことは…やっぱり…)
隊を抜けてしまったのか。
今は都にいた頃のような監視や罰則はなく、離隊する隊士は多くいた。だから特別に兄の脱走のせいで鉄之助が責められるということはないが、それでも隊に忠誠を誓う鉄之助にとっては身内が逃げ出したという事実は受け入れ難いことだった。
鉄之助は焦燥感に駆られて、内藤新宿を走り回った。江戸総攻撃の噂は下火になりつつあるが、それでも江戸を抜け出そうとする民は多く宿場町は旅姿の老若男女や荷運びの牛や馬でごった返していて兄が紛れていてもなかなか目立たないだろう。旅籠を虱潰しに当たったが、男女の旅姿などありふれている。
「クソったれ…!」
息を切らしながら疲れ果てた鉄之助は毒づいた。辰之助への苛立ちと自分の失言への後悔…このまもう会えないまま生き別れてしまうのではないかという恐怖。十五の少年には自身の中に沸きあがる様々な感情の名前がわからなくて、ひたすらにそれが『怒り』だと思った。
自分への怒り。兄への怒り。
けれど怒りというものは長くは続かなくて体力が尽きるとともに枯れ果てて行く。
「…もう日が暮れちまう」
鉄之助はふらふらと宿場町の外れの鳥居に腰を下ろした。千駄ヶ谷から咄嗟に出てきてしまったが、上司である土方の許可は得ていない。
(銀が上手くやってくれていると信じるしかないな…)
ようやくそんなことまで頭が回り、少し冷静になった時。
ぽん、と肩に手が触れた。
「鉄?」
「……!兄さん…」
「なぁにしてんだ、こんなところで…」
鉄之助が見上げると、兄の辰之助が笠を被って旅姿を纏っていた。相変わらず暢気な顔でまるで何事もなかったかのようだが、その隣には同じく旅姿の女を連れていた。
鉄之助は枯渇した怒りが一気に戻ってきて、反射的に叫んだ。
「兄さんッ!何考えてんだよ!」
「ああ、これがお志野だよ。この江戸の混乱のおかげで身請けの金もまけてもらえたんだ、借金はしていないから安心してくれ」
「そんなこと聞いてない!」
鉄之助は怒鳴ると、志野は顔色を悪くしてさっと辰之助の背中に隠れた。兄が語っていたように年増のふくよかな女で、どこにいてもおかしくはない平凡な女に見えたことがさらに鉄之助を苛立たせる。
「なんでこんな女とこんなところにいるんだよ!新撰組は!?」
「脱退した」
「な…っ、そんな簡単に!」
「簡単じゃない。…傍から見て簡単だと思うのは勝手だが、俺は俺なりに考えて抜けたんだ。お志野に当たるんじゃない」
「…!」
辰之助は背中に隠れた志野を慰め「少し待っていてくれ」と小銭を渡した。志野は笠で顔を隠すようにしながら小走りで去る。
鉄之助はグッと唇を噛んだが、辰之助は相変わらず穏やかな様子だ。
「…本当はお前も一緒に脱退したかったが、お前は新撰組に愛着を感じているようだったから無理強いはできないと諦めた。でも…別れを言うのも憚られた。兄ちゃんはいつの間にかいなくなった、行方不明だって…その方がお前の立場を守ることにもなるだろうと思って屯所を出た」
「…脱退の理由は…?」
「前も話しただろう?俺は毎月の給金が目当てで入隊しただけなんだ。それなのに伏見では死にそうになるし、甲府城を取り損ねるし…新撰組にいたら命が危ういと思ったから逃げ出すことにした」
「…もうわかった」
鉄之助は兄への失望を隠しきれなかったが、しかし新撰組はいま隊士が入れ替わって新しく歩もうとしているのだから辰之助のような隊士が在籍していても迷惑をかけるだけだろう。
(兄さんはもう隊士じゃない)
鉄之助は軽蔑の眼差しを向けたが、しかし辰之助は新撰組は見切りをつけられても、弟のことを諦めることはできなかった。鉄之助の腕を掴んで引き寄せる。
「…でも、ここで逢ったのは何かの思し召しかもしれない。なあ、鉄…一緒に美濃へ帰ろう。戦とは関係ない場所でお志野と三人でさ、決して豊かではないかもしれないが静かに安穏に暮らそう」
「馬鹿なことを言うなよ。俺は…そんな暮らしは死んでも嫌だ」
鉄之助は辰之助の手を強く振りほどいた。いまは辰之助に触れられることすら嫌悪を感じ、家族であることすら否定したいくらいだったのだ。
(俺は兄さんとは違う)
すると辰之助は悲しそうにその手を見た。
「死んでも、か。…鉄は新撰組が好きか?」
「好きかどうかじゃない。一度決めたことは最後まで全うしたいんだ」
「…死ぬことになっても?」
「死ぬことなんて怖くない。それに…俺は新撰組で自分の生まれた意味を見つけたいんだ。いや、見つけるって決めてるんだ。それが…母さんのためだから」
「…」
鉄之助は母の顔を知らない。母は鉄之助を産んだ時に死んだのだ。物心つく前から周囲は口癖のように繰り返した。
『あれはよい母だった』
『人に親切でマメでねえ。よく働いた』
『まだ若いのに…不運だったねぇ』
父や兄、親戚たちからどれほど母が優しく好かれるおなごだったのかということは耳にタコができるほど聞かされてきた…だからこそ生まれてきたことを責められているような気もして、生まれながらに母を殺したのだと重い罪を背負ったように感じた。
尚のこと、母の命を犠牲にしてまで生まれた自分の意義を見つけなければならないと誓った。それが新撰組で見つかるという確信はないが、それでもいまはこの道を歩むと決めている。鉄之助にとって大袈裟ではなく、新撰組で生きることはが自分の存在意義だったのだ。
そんな弟の思いを重々知っている辰之助は「そうだよな」としみじみと呟いて続けた。
「お前は、お前の生まれた意味を見つける…それは武士の子として立派なことだよ。父さんと母さんはあの世で喜んでいるかもしれない。お前の生まれた意味は新撰組にいれば見つかるかもしれない…でも俺は、俺自身の生まれた意味を知っているよ」
「…知ってる?」
「ああ。兄ちゃんはお前が生まれた時、兄ちゃんになったんだ。だから母さんが死んだ時に決めたんだ…お前を育てなきゃいけない。俺が何とか一人前にしなきゃって…それが俺の生まれた意味だって」
「…!」
鉄之助が生まれた時、辰之助はまだ七、八歳に過ぎなかった。母が恋しい年ごろに母を亡くし、頼りにならない父の代わりに鉄之助を面倒を見てくれたのは誰でもない、兄だったのだ。
鉄之助の脳裏には途端に美濃で暮らした頃のことが過った。役目が忙しい父に代わって兄は字を教え剣を共に修練した。夜の厠に付き合ってくれたのは兄で、母がいなくて寂しいと泣く鉄之助とともに添い寝してくれたのも兄だった。
辰之助は穏やかに語る。
「鉄の言う通り、兄ちゃんは武士の風上にも置けない情けない男だよ。結局は負けそうだから逃げ出すんだ…それは当然の誹りだろう。でもお前の兄ちゃんのやるべきことは、戦って勝つことじゃなくて、どれほど恥ずかしくても情けなくてもお前と一緒に生き残ることなんだ。こんな戦に巻き込まれないで二人で生き延びて幸せに暮らす…それが兄ちゃんの生まれた意味なんだ」
「兄ちゃん…」
「だから『死んでもいい』なんて言わないでくれ」
「あ…」
鉄之助の声は震えていた。
(俺はどうしてこんな大切なことを忘れていたんだろう…)
入隊して一人前になった気でいた。小姓であっても戦場に立ち、『これが俺の生まれた意味なのか』と実感していた…今まで兄の支えがあったことをすっかり忘れて。
鉄之助は急に自分が恥ずかしくなって俯いたが、辰之助はそんな弟のことをよくわかっていた。膝を折って幼子にするように顔を覗く。
「…お前は記憶にないだろうが、お志野は母さんによく似ているんだよ」
「あの人が…?」
鉄之助が想像していた母親はどこかの姫のような姿だったが、志野はとても遊女には見えない平凡な容貌だった。きっと周囲の思い出話のせいで美化されてしまったのだろうし、自分自身が気負っていたのだ。
「ああ。ちょっと顔が丸くて目元なんてそっくりだよ。特に優しいところがな。…だからお前に一度会わせたかったけど、お前が怒るからさ。もう叶わないと思っていたけれどここで逢えたのは母さんの導きかな…」
「…兄ちゃん…俺…」
辰之助の母と弟へ対する思い…鉄之助はそれをようやく理解したが、けれどやはり兄の願いを叶えられそうにない。
「俺…新撰組に残りたいんだ。仲間がいる、泰助とも約束した…だから一緒には行けない。ここで脱退したら一生後悔するし、ずっと兄ちゃんのせいにする。だから…ごめん」
鉄之助は頭を下げて謝った。父が亡くなりたった一人の家族である兄は大切だったが、けれど同じくらい大切な仲間がいる。彼らと自分を裏切る生き方はできない。
すると何故だが感情が込み上げてきて大粒の涙が零れた。誰よりも誹り、恩知らずだったのは自分だったのに兄はそれでも優しい眼差しで鉄之助の両肩を掴んだ。
「わかってるよ。…鉄、これは別れじゃない。俺は美濃で、お前は新撰組で生き延びよう。…今度会った時も『兄さん』じゃなくて『兄ちゃん』って呼んでくれよ」
「うん…わかってる…!」
顔を真っ赤にして泣きじゃくる鉄之助を辰之助は「赤子のようだな」と笑いながらその涙をぬぐってやった。
辰之助は強く抱きしめた。
「…母さんが死んで悲しかったけれど、鉄がいたから兄ちゃんも頑張って生きて来れたんだ。だから、お前は母さんを殺したなんて思わなくていい、生きる意味が見つからなくてもいい…どうか長生きしてくれ」
「兄ちゃん…!」
鉄之助は羞恥心なく辰之助の背中に掌を回した。兄弟での抱擁なんて初めてのことだったけれど、少しもたどたどしさはない。二人はそうやって生きて来たのだから。
「俺の弟になってくれてありがとう」
鉄之助は兄の背中に回した掌に力を込めた。









解説
なし


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