わらべうた
979
翌日。
五兵衛新田の土方の元へ、甥の源之助が八王子の官軍本営から釈放されたという知らせが届いた。土方は大石の文に二度目を通して深い安堵のため息をついた。
「…はぁ…」
さすがに身内の捕縛であったので土方も気に病んでいたが、大石によると源之助は少しは痩せているものの健やかな様子だという。土方の姉で源之助の母であるのぶと再会した時は親戚中が泣いたと、大石にしては珍しく感傷的な一文も添えてあった。彼は一時佐藤家に世話になっており恩に感じているようだったので肩入れしているのだろう。
しかし大石は潜伏している彦五郎が赦免になるまでは日野に留まるつもりだと書いてあった。
(それは困る)
土方は新撰組副長の表情に切り替わる。
大坂以前の同志が減るなか、監察方を熟知した大石がいつまで経っても帰って来ないのは大きな損失であり、新入隊士への指導だけでなく信用出来る隊士として早く帰還を促したい。土方は早速文机に向かい、筆へ手を伸ばしたが近藤が顔を出した。
「歳、そろそろ俺は千駄ヶ谷へ向かうが…手土産は何がいいかな」
近藤は昨日言った通り総司のところへ顔を出すらしい。
「ああ…甘いものなら総司も柴岡家の娘たちも喜ぶだろう」
「なるほど、いい考えだな」
「もちろん駕籠で向かうんだろう?柴岡家に直接乗り付けずに少し離れた場所で下ろしてもらってくれ」
「わかってるよ。相馬君も連れていくぞ」
総司はあくまで身を隠す目的があるため土方が忠告すると、近藤は心得ていて頷いた。
「それから…大石から知らせが来て、源之助が釈放されたそうだ。総司にも伝えてくれ」
土方はあくまで淡々と報告したが、近藤がパッと顔をほころばせた。
「本当か?!ああ、よかった!安心したよ。怪我はないのか?」
「ああ。引き続き姉さんと一緒に親戚の家に身を寄せるそうだ」
「そうか…申し訳ないことだが、春日隊の赦免が出るまでは仕方ないな。歳、勝安房守様への礼状もしたためておいてくれ。安房守様の口添えが無ければ源之助の勾留はもっと長引いていただろう」
「わかった」
土方は仕事を引き受けて近藤を見送った。
源之助の件は思わず総司に打ち明けてしまったので、きっと心配していることだろう。一刻も早く安心させたい気持ちだったが、そもそも耐えきれず話してしまったことを反省した。
(総司は俺の前では強がるが…身体はつらいはずだ)
これ以上の負担をかけたくはない…だからこそ心労の絶えない新撰組から遠い静かな場所で過ごしてほしいと思って柴岡に頼み込んだのだから。
「……」
土方は少し物思いに耽った後、再び筆を手に取った。
一方。
千駄ヶ谷の離れでは総司が熱を出して寝込んでいた。母屋の方からたねが「宗次郎と遊びたい」と母親にせがむ声が聞こえてきて申し訳ない気持ちがあったが、体調を崩してたねの前で喀血してしまう方が彼女にとってもショックなことだろう。
熱のせいでゆらゆらと視界が揺れていたが、障子は開け放って庭が見えるように横になっていた。少しずつ散っているものの梅の木を見ていると土方が傍にいるような気がしたからだ。
(ああ…なんだっけ、一輪咲いても、梅は梅…だったかな。あれはとても歳三さんらしい句だった…)
(巻末の、あれが好きだったな…梅の花…咲ける日だけに、…咲いて……)
とめどなくつらつらと考えが過る。梅を眺めているせいか、特に土方が上洛前にまとめた『豊玉発句集』の素朴な発句が浮かんでは消え、在りし日の句作に悩む彼の後姿を思い出していた。意外な趣味を周囲に知られるのを嫌がっていたが、上手いや下手は関係なく土方が自分の世界に没頭する横顔はいつも童心に帰ったように楽しそうだった。
(また新しい句を作ってくれないかなあ…)
目を閉じていると、ひやりとした感覚を感じた。
「…ごめん、起こした?」
英が桶で手拭いを絞っていた。
「いえ…少し楽になった気がします」
「うん、熱は下がったみたいだ。…梅がどうとか、呻っていたけれど」
「ハハ…何でもありません」
土方の趣味が句作だなんて、英に勝手にばらすと怒られそうだ。
英はあまり気に留めず白湯を準備し始める。
「…気分は?」
「よくなりましたよ」
「あー…じゃあ、うるさい客人を待たせているんだけど、案内しても良い?」
「うるさい客人?」
英はあまり気が進まない様子だったが、総司は誰かが訪ねてきたら引き留めてくれるようにお願いしていた。
すると隣室から「ひどいなぁ」と聞き覚えのある声が響いて、総司はぱっと目を輝かせた。襖から顔を出したのは伊庭だった。
「伊庭君!やっときてくれた!」
総司は手を叩いて喜んだ。あまりに驚いて咳き込むほどだった。
伊庭は新撰組が屯所とした鍛治橋や大久保屋敷には顔を出していたが総司の具合が悪く会えないままだったので、大坂で京屋忠兵衛に世話になっていた頃以来の再会だ。
久しぶりに見る伊庭の表情は少し精悍さが増して大人びているように見えた。彼は笑みを浮かべて総司の傍に座った。
「ご無沙汰をしてしまってすみません、顔を出そうと思っていたんですけどなかなか機会がなく…このところは榎本さんに振り回されてようやく足を運ぶことができました」
「なんだ、伊庭君が私のことを忘れちゃったのかなって」
「まさかぁ。忘れたくても忘れられませんよ」
こんな軽口を交わせることさえ胸にくるものがあって、総司は思わず伊庭の手を握った。
「…元気そうでよかったです。お役目の方が忙しいんじゃないですか?」
「俺たちはただの寺侍のようなものですから、新撰組に比べれば忙しいなんてことはありませんよ。でもなかなか寛永寺から離れられなくて…見舞いが遅くなってしまいました」
最初は新撰組も寛永寺の護衛任務を任じられていたがものの数日で離脱して甲府へ向かった。それに対して奥詰の幕臣たちが集う遊撃隊はこの二ヶ月弱寛永寺に詰めているのだから抜けられなくて当然だ。
伊庭は手土産にと羊羹を持参しており、それを英に渡した。
「歳さんとはちょくちょく会っていたんですけどねえ。どうも江戸に戻ってから折り合いが悪くなってしまって、ついにはしばらく屯所へ顔を出すなと言われちゃいました」
「え?そうだったんですか?」
「考え方の違いというか…ああ、でも口論になる前に距離を置いたというだけですから、気にしないでください」
土方は伊庭のことについて何も言っていなかったので、伊庭の言う通り深刻な状態ではないのだろう。
「なら、良いんですけど…実際に、徳川はいまどういう状況なんですか?土方さんは戦を避けることができたから大丈夫だと言っていたけれど…」
「俺たちにもよくわからないんです。確かに当面の戦は避けられましたが、官軍は今後の徳川や幕臣たちの身の振り方については何も保障していません。上様は水戸へ戻られるとして、徳川宗家の家名は、領地は何も話がないまま…全部御取り上げになる可能性だってある。それなのに軍艦を引き渡せ、兵を解散させろとそればかりで…正直話になりません」
「上様は…?」
「相変わらず寛永寺に謹慎されて表に出られることはありませんよ。勝安房守が好き勝手にしているんです。薩長には江戸や国を統治するような力は人員がありませんから、それだけが交渉の担保です。だからとにかく安房守は江戸や武州の鎮撫することに躍起になっているんです。新撰組を城下から遠ざけたのもそれが理由のはずですから」
伊庭の物言いで彼が今の徳川のトップである勝へ対して相当な不満を持っていることが伺えた。彼がそう思っているということは大抵の幕臣たちも勝や恭順派の交渉に反発しているということなので、このままの平穏は長くは続かないだろう。
「…土方さんは?」
「歳さんはたぶんこの徳川を取り巻く状況をよく理解しているはずです。上様や安房守の命令に従うだけでは駄目だときっとわかっている…それに海軍を味方にして戦う方が勝てると知っているんです。…でも歳さんは近藤先生に従うとそればかりで。榎本先生が口説こうとしても頑として譲らないそうです」
確かに勝ち気で戦の才がある土方なら、五兵衛新田で燻ぶるよりも幕府陸海軍に加わって威勢よく戦うべきだと考えるだろう。けれどそうしないのはひとえに近藤の為なのだ。
総司は土方の気持ちを代弁するように口を開いた。
「…土方さんが近藤先生を立てるようにふるまうのは当然だと思います。都にいた時からそうですから、誰に何を言われようと変わらないはずです」
「でもいまは状況が違います。選択を間違えれば追い詰められて…死ぬかもしれないんですよ。自分だけでなく」
「…土方さんはそれでもいいって言ったんじゃないですか?」
総司が尋ねると、伊庭は図星だったので苦い顔をした。
「…『それでもいい』とは言わなかったですけど…その覚悟があるのだろうとは思いました」
「仕方ありません。土方さんは浪士組として都へ向かう時からずっと…その覚悟を決めているんですよ」
たびたび口にしてきた『決意』と有言実行してきた『覚悟』…近藤に付き従いその思いを叶えること…それはたとえ総司が止めても揺ぎ無く、土方の根幹にある信念なのだ。加えて山南と藤堂が死に、永倉と原田が去ったことでさらにその決意は固くなり、誰の意見にも耳を貸さないほどの強い気持ちとなっているだろう。
伊庭は真摯な表情であったが、少し沈黙した後に笑って肩をすくめた。
「…なんだか、歳さんと沖田さんに振られた気分ですよ。酷いなぁ、二人して」
「ハハ、振られたなんて。でも私は伊庭君を出禁になんてしませんよ。毎日だって見舞いに来てくれていいんですから」
「そんなこと言うと迷惑だっていわれても顔を出しますよ」
「構いませんよ。もっともお相手できるとも限りませんが」
「嫌だなあ、まるで高級な花魁みたいだ」
二人は深刻な話を切り上げて互いの顔を見て笑い合った。そうしていると英がやってきて切り分けた羊羹と茶を差し出して「俺は薬を取りに行ってくるから」と外出を告げて去っていく。
伊庭は縁側の方へ視線を向けた。
「…素晴らしいお庭ですね」
「ええ、植木屋さんのお庭ですから」
「でも正直、千駄ヶ谷にいると聞いて驚きました。静かだし試衛館から遠くはないけれど、五兵衛新田からは遠いでしょう。だから沖田さんはもっと近くで療養したいんじゃないかって思ったんですけど」
「…土方さんが決めたことですから」
「そうなんですか?」
ひょんなことから千駄ヶ谷の柴岡家を訪ねてここを療養先として頼み込んだのは土方で、総司はそれを後から聞かされたがすんなりと受け入れることができた。土方の思いを察することができたからだ。
総司は風で散っていく梅の花弁を目で追いながら目を細めた。
「…歳三さんはここなら私が穏やかに過ごせて、優しいご家族に囲まれて…心安らかに死ねるだろうと考えたんだろうと思います」
「…そんな、まさか」
伊庭は表情を変えたが、総司は深刻な話をしているつもりはなかった。
「でも私もそう思ったんです。柴岡家の皆さんは親戚でもない赤の他人だけれど…あの人たちの生活の営みや子供たちのはしゃぐ声を聴くだけでとても心地いいんです。なんていうのかな、憧れていた暮らしというか、憧憬なのかな…手を伸ばせば助けてくれる安心もあって、加えてこんな美しい庭を眺めることができるなんて終の棲家としてこれほど贅沢はないなって。歳三さんも口にはしないけれどそう思ったんじゃないかなあ」
「…」
「きっとご縁というか巡り合わせというか…そういうものでここに落ち着いたんだと思いますよ」
総司は何の憂いもなく、ここにいることに疑問を抱かなかった。新しく生まれ変わろうとしている新撰組の近くで、病に苦しむ姿を見せることなんてできない。
伊庭はしばらく総司の横顔を眺めた後、改めて庭を眺めた。季節の移ろいとともに色を変えていく景色は何年も何年も続いていく…その一部でしかないこの一瞬はいつも儚くて、少しだけ寂しい。
「…そういうものですかね。だったらここじゃない、と藻掻く俺はまだまだ未熟者ですねえ」
「伊庭君に未熟者なんて誰も言えませんよ」
「そんなことありませんよ。俺なんて…どうしようもない」
伊庭にしては珍しく自虐的にため息をついて、ようやく羊羹に手を伸ばした。彼の憂いの矛先は一体どこなのか…しかし総司は久しぶりの再会で根掘り葉掘り聞くことはしなかった。
「…伊庭君、今度はいつ来てくれます?」
「ハハ、もう次の催促ですか?」
「そうしないとなかなか来てくれないじゃないですか。ところでこの屋敷には二人の娘さんがいて、二人とも麩菓子が大好きなんですよ」
「わかりましたわかりました。十日と開けずに来ますから」
総司は「約束ですよ」と念押しした。
なし
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