わらべうた
987
夕方頃、英は加也とともに戻ってきたが、総司は眠っていたので目を覚まさなかった。苦しむ様子はないものの、あまりに深く眠っておりこのまま目を開けないのではないかというほど静かだった。
「…少し、お疲れになったんでしょう」
加也は脈をとりながら穏やかに土方へ伝えた。
「疲れ…か」
「肺の音が弱くなっているのは間違いないですが、脈はしっかりしています。…大丈夫です、生きようと身体は動き続けている証拠ですから」
「…そうか」
加也の言葉が土方への励ましなのか、事実なのかわからなかったが、澱みなく言い切る彼女の口ぶりに安心したのは確かだ。
加也は聴診器をしまいながら話を続けた。
「それにしても、沖田さんのご療養先が柴岡様のお宅だと知って驚きました」
柴岡家の奥方であるりつは三人目の子を孕っているが、診察を請け負っているのが加也なのだという。元々は松本の弟子が診察していたそうだが会津へ行ってしまい、加也が引き継いだのだそうだ。
偶然のことに土方も驚いたが、りつが幕府御典医の弟子に掛かっているなど知らなかった。
「しかし、産婆ではなく何故医者に?」
「ええ、それがどうやら逆子で…。もうそろそろ産まれてしまう時期ですが戻る様子がないので、もしかしたら腹を切って取り上げねばならないのです。おりつ様もお身体が丈夫というわけでもありませんのでご主人が心配されて、知り合いを辿って良順先生のお弟子さんへ」
「腹を…」
いくら三度目とはいえ、りつにとって不安が多いことだろう。今更であるが、そこへ新撰組や総司が押しかけてしまい細君の負担になっているのではないかと危惧した。
「…奥方にはご了承頂いているが、総司の病が赤子に移ることは…?」
「ありません、とは言い切れません。でも労咳に掛かった赤子をご存知ですか?」
「いや…」
「そういうことです。沖田さんの身の回りのことは英が面倒を見ていますから、わたくしとしてもおりつ様が良いと仰るのなら構いません。それにおりつ様は身重で、沖田さんがご姉妹の面倒を見てくれるので助かると笑っていらっしゃいましたよ」
「そうか…」
加也が風呂敷の紐をキツく縛ると、英がやってきた。
「姉さん、終わった?」
「ええ。薬は枕元に置きましたから忘れずに飲ませて。…土方様、ではわたくしはこれで。沖田さんによろしくお伝えください」
加也は頭を下げて、りつの診察のために離れから母屋へと去っていった。
結局加也との再会を楽しみにしていた総司は目を覚ますことはなく、いまだに小さな寝息を立てている。
「…歳さんも帰る?」
「いや…総司と目が覚めるまでここにいると約束をした」
「そうした方がいい、また雨が降るだろうから」
「わかるのか?」
「雨が降る前は火傷の痕が妙にじくじく痛むんだよ」
陽が暮れて暗くなり始めたので、英は雨戸を閉じた。立て付けが悪くてガガガッと大きな音が響いたが、総司はぴくりと眉を動かしただけで、やはり起きなかった。
英は夕餉の支度をすると言って部屋を離れた。土方は総司の額に触れて体温を確かめた後、流れる髪に触れた。長く伏せっているとは思えない瑞々しさがあっていつもと変わらないのに、総司は眠ったまま。
「…」
静かな部屋で総司の顔を見ているとどうしようもないことばかり考えてしまう…土方は昔話の続きに思いを馳せた。
奉公先で歳三は雑用を勝太のことを思い出しては、無性に苛立ちを覚えていた。
出会った時からどうしようもないほどに真面目で前向きで、目の前のことばかりに一生懸命。少し世間知らずで夢見がちな…歳三の周りにはいないタイプの少年で妙に印象に残った。
歳三は幽霊騒動の時に勝五郎の家に一泊した。勝五郎の両親はおおらかな人たちで急な来泊に嫌な顔ひとつせず、『勝五郎が友達を連れてきた』と大喜びで歳三は腹いっぱいになるまで食べさせられた。
歳三はその後、寝床で尋ねた。
『お前、友達いないのか?』
勝五郎の両親どころか、二人の兄までもが歳三を物珍しいものを見るような目で見ていた。歳三が尋ねると、勝五郎は頭をかく。
『そんなことはないけど…』
彼が珍しく目を泳がせて口籠ったので、
『わかった、お前が暑苦しいから遠ざけられてるんだろ』
と歳三は揶揄った。この多感な年頃で正義感を振りかざして接せれば嫌がられるに違いない…歳三は容易に想像できて笑ってしまったが、勝五郎は少し拗ねた。
『…間違ったことを言っていないのに、何故か好かれないんだ。すぐにうるさい、あっちに行けと言われて仲間外れにされてしまう』
『きっと正しい事ばかり言っているからだな。誰だって説教されるのは好きじゃない』
『説教をしているつもりはないんだが…』
『帰り道は寄り道をするな、食べ物を粗末にするな、お辞儀はもっと深く…そんなこと言ってるんだろう?』
『……どれも別に間違ってないだろう?』
勝五郎は心当たりがあったようで気まずい顔をしたので、歳三は腹を抱えて笑った。
『ハハ、ハハハッ!勝五郎は武士よりもよっぽど番頭に向いてるよ!』
『歳三の奉公先の番頭か?』
『ああ、お前みたいに頭が固くてみんなの嫌われ者だった。そのくせ上には媚びへつらうくせに下の者には態度がデカくてさ、あんまりにも性根が腐ってるから辞めて来たんだ、せいせいしたよ』
歳三は布団で仰向けになって天井を見上げた。すると勝五郎も同じようにして
『お前は俺よりもよっぽど世間を知っているなあ』
『勝五郎が知らなさすぎるだけだ』
『その勝五郎って言いにくくないか?気軽に『かっちゃん』って呼んでくれよ』
『…かっちゃんって呼ばれたことがあるのか?』
『昔な。いまはいない。だからお前だけの特権だぞ』
『ふ…っふふ、寂しい奴だな』
歳三は勝五郎が可笑しくて仕方ない。彼の言動はいつも歳三の想像の斜め上で、自分とは全く違う場所で生きているような気がした。周りから浮いているかもしれないが、歳三は気高く生きる彼をわざわざ自分の世界に引きずり込みたいとは思わなかった。
『今更、勝五郎は変わらないよ』
『…友達ができないじゃないか』
『そりゃ残念だ!』
歳三はひたすら笑った。もう何もかもが可笑しい。
最悪な奉公先を逃げ出して、納屋で一晩を過ごし、出会ったばかりの勝五郎の家で寝転んで笑い転げている―――想像よりもよっぽど愉快で面白い逃避行になった。勝五郎との出会いは歳三にとってそんな思い出の一つに過ぎなかった。
けれどそれから何度か顔を合わせる機会がありつつも、数年が過ぎた。
正式に天然理心流に入門した勝五郎はその才能を認められ嶋崎勝太と名乗り、次は近藤になるという。それは周囲の揶揄を他所に彼がひたすらに一途に剣術を続け、夢を見続けた結果だ。馬鹿で真面目で融通の利かない、面倒で嫌われるほど正直者で率直で嘘がつけない…だからこそ人生の駒を前へ前へと進めることができたのだ。
歳三はそんな勝太への憧れと称賛とともに、どこか劣等感を覚えるようになった。自分はと言えば嫌々奉公しながらも処世術だけは身に着けて毎日をやり過ごすだけ。本当にやりたいことがここにあるとは思えなかったが、人生はそんなものだと己を納得させるように自分に言い聞かせていたというのに。
『じゃあ、俺が責任を取ってやるよ!お前の人生を引き受ける!』
「……」
掃除途中の歳三は手拭いをグッと握りしめた。何度思い出しても腸が煮えくり返るように苛立つ。
勝太は歳三が拒んでいるというのに入門させたいと主張して退かない。自分勝手で、我儘で、どうしようもない男だ。
(お前に責任を取ってくれなんて思ってねえのに!)
でも実直な勝太が思い付きでそんなことを言っているわけではなく、本心から願っているのだとわかる。だからこそ余計に――歳三は勝太だけでなく自分に腹が立つのだ。
(俺はかっちゃんの荷物になるしかねえ)
勝太に望まれるほどの立派な存在でもない。惰性で人生を消費しているだけの、どこにでもいるその他の一人でしかないのに。
(なんであいつ、俺にこだわるんだ…?)
「歳三!」
「!」
歳三は番頭に呼ばれて急いで駆けつけた。
「これ、お使いに行ってきておくれ」
「…はい」
一度目の奉公先の番頭よりも、この店の番頭はまだマシだ。上下関係ははっきりしていても理不尽な説教がない。しかし時折正月の福笑いのおかめのように目尻を下げながら歳三のことを舐め回すように見るのだ。
(気色悪い…)
歳三は書付を受け取ってすぐに裏口から店を出た。店の主人の薬を取りに行くだけの簡単なお使いだが、しばらく歩くと物陰から一人の女がゆらりと出てきた。
「…お春」
この間の騒ぎの原因となった別れた女だ。少々年上の色白の肌に愛嬌のある目元が印象的なおなごだが、少々思い詰めるところがあって歳三は彼女を重荷に感じ早々に別れを切り出したのだ。
「歳さん、奇遇だねぇ」
「…」
歳三は春が待ち伏せしたのだろうと察し無視してそのまま通り過ぎようとしたが、春は歳三の腕を掴んで自分の方へ引き寄せた。
「お春、やめてくれ。お前とは切れているのにこんなところを誰かに見られては面倒だ」
「うちは構わないよ。…ねぇ、またやり直せない?」
「無理だ」
その気がない歳三は即答して春の肩を押して拒んだが、彼女は縋るようにまた腕を掴んだ。
「もう、そんなつれないことゆうて。…うち、この頃月のものがないの」
「…はぁ?」
「だから赤子」
春はどこか恍惚とした表情で見上げて、己の下腹部を触らせた。歳三はようやく意味を悟り、サッと青ざめた。
「…冗談だろ」
「そう思う?…ねぇ、うちと夫婦になって。断るなら番頭さんに言いつけるから」
「…!」
素直で可愛らかった春はまるで別人のように虚な眼差しで歳三を見つめていた。
(赤子?冗談じゃない!)
歳三はゾッとして身を引き、走って逃げ出したのだった。
なし
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