わらべうた




990


五兵衛新田へ移って十日が過ぎた。
最初は百人程度の兵士に乗り込まれて戸惑っていた住人たちであったが、この辺りの土地は幕府へ奉公すべしという考えが強く、食材の差し入れだけでなく生活雑貨や燃料など様々な物資が屯所に届き村をあげて支援をしてくれるようになり、住み慣れてきたところだ。
しかし銀之助は洗濯仕事をしながらうんざりしたように、
「今度は化け物騒ぎだよ…」
と愚痴った。
ようやく『納屋の幽霊騒動』が落ち着いたのに、今度は五兵衛新田へ現れる不審人物が登場した。近所の女たちによって噂はあっという間に広まり、薩長の輩だという者もいれば、夜な夜な徘徊する化け物や幕府に恨みのある怨霊だと怖がる者もいてそのうちの一人である銀之助は肩を落とした。再び悪夢にうなされるようになった銀之助を、洗濯物干しに手を伸ばしていた鉄之助は鼻で笑った。
「気にしすぎ。それに今度は納屋じゃなくて屋敷の外だからマシだろ」
「そんなことないよ!その怪しい者を退治するために隊士には見回りを命じられているんだよ。僕たちだっていつ駆り出されるか…」
「じゃあ屋敷に引きこもっていればいい」
「まさか。土方副長直々の命令を無視なんてできるはずがないよ」
幽霊の類をまったく信じていない鉄之助は笑い飛ばすが、銀之助は深刻な表情のまま洗濯板を抱えながら身震いしていたので
「でも幽霊じゃなくて、官軍の偵察じゃないかって先輩たちは言っていた。その方が現実的だ」
と慰める。
「…そうだと良いんだか、悪いんだか…」
銀之助は深いため息を付きながら洗濯物を絞った。鉄之助はそれを受け取ってパァンパァンと皺を伸ばしながら
「…副長っていえば、今日も千駄ヶ谷か?」
と訊ねた。
「ううん、しばらくは屯所におられるそうだよ。沖田先生も落ち着いていらっしゃるようだから…今日は釣りをするっておっしゃっていたなあ」
「釣り?」


金子邸の裏の綾瀬川は寛永年間に村を分断するように開削されたそうで、滞りなく流れ続け役目を果たしている。土方はその畔に腰を下ろして釣竿から糸を垂らしてその行方を眺めていた。
鳥が囀り、さらさらとした水の音が絶え間なく響いていた。
土方は暇をつぶしているわけではい。五兵衛新田周辺で広まっている様々な噂について自ら偵察するためであった。だから釣りは擬装に過ぎないのだが、何の変化もない川の流れに身を任せていると心のなかが洗い流されて空っぽになっていくようで心地よい。洋装の黒いコートは田舎で目立つので羽織に着替えているものの、しかし通りがかる女たちの熱い視線を感じるので偵察になっているかどうかは微妙なところだ。
「…ちっとも当たらないな」
あまり釣果が見込めない…土方は懐中時計を取り出した。
「九つ…か」
時計の針は正午ごろを示している。今まで太陽を頼りに曖昧に過ごしていた『時間』という感覚が、時計というものを持つようになってからはっきりと明瞭になり、一日の残り時間がわかるようになった。それは悪いことではないし今後西洋文化を取り入れていくと当たり前のように普及していくのかもしれないが…しかしこの盤面を見るたびに総司の言葉を思い出す。
『歳三さんは歳三さんの時間を刻んでください』
総司の言葉には『自分がいなくとも』というニュアンスがあり、土方は贈り物を有難く思うと同時に寂しくも感じた。ここには総司が共に同じ時間を歩めないという悲しさや悔しさが込められているような気がしてしまったのだ。
(いつの日か…どこかでその時間が交わればいい)
こんなふうに何の憂いもなく鳥の囀りや瀬音に耳を傾けられれば良いけれど。
「…あの!」
土方は背後から声をかけられてゆっくりと振り返った。そこにいたのはまだあどけない面差しの残るおなごで、風呂敷に荷物を抱えながら頬を紅潮させて恥ずかしそうにもじもじとしていた。土方はそもそもこのような好意の視線を向けられていることには慣れているので、冷静に「何か?」と続きを促しながら懐中時計を戻した。
「じ…実は、昨晩…噂の化け物を…!」
「…化け物?見たのか?」
「は、はい。この金子様のお宅を覗くように…でもあたしに気が付いて、すぐに逃げてしまって…」
「…その者の人相などは?」
「人相などは…笠を深く被っておりましたので…。男で、大柄で…片腕がなく」
「片腕がない…本当か?」
それは知らない情報だ。土方が問い詰めるとぱちんと目が合ったおなごは小さな悲鳴のようなものを上げながら両手で口元を隠しつつ、何度も頷いた。
「は、は、は、はい。懐手にしているのかと思いきや、風が吹いて片袖が揺れて…腕がない、化け物だと…!あたしだけでなく、他にも見たと…!」
「ああ…なるほど」
近所ではまことしやかに『化け物だ』という話が広まっているが、片腕がないとなればそのように化け物として広まってもおかしくはない。土方は「ありがとう」と礼を言うと、おなごは照れくさそうにしながらも身を翻して去って行ってしまった。
土方は竿を上げて糸を回収した。釣果はゼロだが、おなごから有益な話を聞けたのでよしとした。
(片腕のない…か)
土方は金子邸での帰路を歩きながら、その人物についてあれこれ考察する…すると一人だけ思い浮かぶ男がいた。勝手に官軍の偵察だろうと考えていたが、新撰組が敵対しているのは何も薩長だけではない…土方は彼の顔を思い出した途端その者の行動の意図するところと、その背後にいる人物にもあっさり辿り着いてしまった。
(とはいえ証拠がない)
土方が金子家の門をくぐると、ちょうど相馬が通りかかった。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
相馬は駆けつけると、土方の釣竿などを預かった。
「近藤先生は?」
相馬は局長附の隊士であるので近藤と行動を共にすることが多いが、
「本日は駕籠で成願寺へ」
と、近藤は妻子が身を匿われている成願寺へと足を向けたようだ。妻のつねが風邪をひいて寝込んでいるという文が届いたということらしい。不審者について相談するために釣りをやめて引き揚げて来たので当てが外れてしまった。
「そうか…」
「今日中にはお戻りになるとお話されていましたが」
「わかった。…相馬、ついでに皆に知らせてほしい。例の怪しい輩だが…おそらく近いうちにまたやってくるだろう。もし見つけた場合は乱暴な真似はせず丁重にもてなしてすぐに報告するようにと」
「…丁重にもてなし、ですか?でしたら副長はその者の正体を御存じなので?」
頭の回転の速い相馬は土方の意図を察した。
「おそらくな。ただ、まだ憶測に過ぎない。抵抗されたら容赦無く捕縛しろ」
「…畏まりました。皆にはそのように伝えます」
賢い相馬はそれ以上は訊ねずに踵を返して隊士たちの元へ戻っていく。
すると土方の予想通りその夜には事態が動いた。野村が急いでやってきて、分宿させている観音寺で怪しい二人組を見つけたという報告をしたのだ。土方の指示通り丁重に観音寺の本堂へ案内しているとのことで、ちょうど成願寺から戻っていた近藤とともに向かうことにした。
二人は提灯を手にして連れ立ってさほど離れていない観音寺へと足を向けた。確信をもって観音寺へ向かう土方とは違い、近藤は怪訝な顔のままだ。
「…歳、本当にあの御方なのか?」
「たぶんな」
「そうか…こういう時のお前の考えはだいたい当たる。しかし、だとすれば…用件は聞かなくともわかるな」
「…ああ」
決して愉快な話ではないだろうと予感しながら、二人は松明が灯された門から観音寺の本堂へと入った。本堂の隅で気配を消して座る片腕の男、そして胡座をかいて堂々とした振る舞いで二人の到着を待ち侘びる男。
近藤と土方は顔を見合わせて予想通りの客人だと頷き、慎重に男の前に肘を折って深く頭を下げた。
「…お待たせいたしました、安房守様」
「おう」
勝は小さく笑って手を上げた。そして影のように控えている片腕の男は芦屋昇だった―――。










解説
なし


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