わらべうた




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近藤と土方から視線を向けられ、芦屋は少し居心地悪そうにしていたが何も口にせず深く頭を下げた。
芦屋は元新撰組隊士で、表向きは佐久間象山の息子の三浦啓之助とともにある日新撰組を脱走した…ということになっている。内実は三浦の帰藩命令が下り、主従関係に等しかった三浦と芦屋を脱走に見せかけて脱退させたのだ。
土方が『片腕の男』と聞いてまず思い浮かんだのは芦屋のことだった。彼は脱走途中に怨恨のあった者に右腕を斬られている…予想は的中したようだ。
「この頃、屯所に不審な人物がいると耳にしていたが…君だったのか」
「…」
近藤に尋ねられても芦屋は目を泳がせて勝の顔色を伺ったので、勝が代わりに経緯を話した。
「俺が命じたことだ。俺ァ、官軍からだけじゃなく幕臣たちからも恨みを買っている…いくらお忍びとはいえ状況の分からぬ場所に足を踏み入れることはできぬ。それ故に芦屋を遣わしてこの辺りの様子を確かめさせた、新撰組のことをよく知っているのだから適任だろう?」
「…芦屋君はいまは…?」
「相変わらず啓之助君の飼い犬だ。だが片腕でもこの男は使い道がある」
勝は小さく笑った。
そもそも芦屋は佐久間象山の裏稼業を引き受けるために鍛えられ、三浦啓之助の護衛として共に入隊した。ある事情から利き腕を無くしようやくその呪縛から解放されたのだろうと思っていたのだが、今は勝に便利に使われているらしい。
土方は詳しく尋ねてみたかったが、芦屋は硬く口を閉ざして答えそうもない。
(いまは安房守様が三浦の後ろ盾だ。勝からの命令なら芦屋は逆らえないはずだ)
勝は「世間話は後にしてくれ」と話を変えて本題を切り出した。
「お前たちが俺が遣った使者を何人も追い返すもんだから、俺がわざわざ危険を冒してまでここまできたんだ。…俺の要望は言わなくてもわかるよな?」
「…」
いまや徳川のトップの軍事権を握る勝がお忍びで城を離れてまでここにやってきた理由…もちろん二人とも察していた。近藤が重々しい口調で答える。
「…先日会津にいらっしゃる松本法眼からも文が届きました。屯所の移転を検討するようにと…」
「あいつの言うことなら聞くかと思ったが、お前たちも強情だな。…ここは城からは離れているが、街道に近い。小競り合いだとしても万が一官軍と戦闘になったら困るんだよ。…一刻も早くここを離れてくれ」
勝の用件は五兵衛新田よりももっと遠くに布陣すること。それは五兵衛新田に移る前から促されていたことであったが、あまりに江戸から離れてしまうのは幕臣の本分が果たせないと近藤が拒んだのだ。
しかし近藤のその考えはまだ変わらない。居住まいを正して勝と向き合った。
「お断りいたします。我々のお役目は将軍警護…上様が江戸にいらっしゃる限り、これ以上遠くへ行っては役目を果たせませぬ」
「だが幕府の歩兵隊が増えてここは手狭になっただろう。兵を鍛えるためにも軍事演習は必要だぞ」
「ここでも十分、成り立っています」
「この先も隊士が増える」
「そうであればありがたいですが、その時に考えます」
勝が唆すが、近藤は譲らない。傍らにいる土方も近藤に賛同するがわざわざここに乗り込んできた勝はそれくらいでは引き下がらないだろう。
それに先日、幕臣の松波に命じられて歩兵隊が合流したが、屯所が手狭になることを見越して新撰組が移転を検討するように勝が仕向けたのかもしれない。
(策士だ…)
官軍との交渉でも様々な策を練った上で、そんな姿をおくびにも出さずに飄々と語ったのだろう。
今回も何か交渉材料があって足を運んだはずだ…土方は身構えた。
すると勝はそんな土方に気がついて鼻で笑った後立ち上がり、座布団から離れて近藤と膝が当たりそうなほど距離を詰めた。
「いま、徳川と官軍の交渉は重要な局面だ。薩摩の西郷が都の太政官政府へ説得へ向かっている…俺ァ西郷の一本気な性分を信じているが、徳川の態度によっては交渉が決裂してすぐに戦を仕掛けてくるだろう。…新撰組は徳川にも官軍にも名が知られている。もしお前たちが水戸街道で戦となればあっという間にあちこちの導火線に火をつけるんだよ、自覚があるだろう?」
「その時は…戦で勝てば良いのです」
「勝てなかったらどうする。…幕臣たちも江戸なら勝てる、軍艦の力があると皆一様に口をそろえるが…負けた時に責を負うのは誰だ?…上様だろう。近藤、お前は上様を殺したいのか?」
「まさか!」
近藤は反射的に声を上げた。今となっては上様の一番の忠臣を自負する近藤にとってあり得ない言葉だったのだ。けれども勝は頑なな近藤を敢えて挑発したように見えた。
「軍事総裁の俺の命令を無視してここに留まるってことはそういうことなんだよ!そもそも恭順を果たすには徳川が戦を放棄することが大前提だ、それなのに新撰組のような荒くれ者が城の近くにいるってことが、官軍や朝廷から見れば『徳川が戦の支度をしている』ように見える。…土方、お前ならわかるな?」
「…」
話を振られた土方はグッと唇を噛んだ。近藤の意思を尊重したいが、官軍との交渉を進めたい勝の思惑を考えれば当然の命令だと頭では理解していたからだ。それに新撰組のかじ取りを決めるのは自分ではない…すると近藤が代わりに口出しした。
「安房守様、寛典の沙汰があるだろうとの見通しを伺いましたが、上様の身のご安全は保証されるのでしょうか。江戸城の明け渡しはどのように、そして新たな領地と石高がどうなるのか…具体的なお話を伺わねば我々が身を引くことはできませぬ。せめて交渉の結果が出るまで五兵衛新田に留まりたく…」
「わからねえやつだな、その上様の身の安全のためにまずはお前たちに退けと言っているんだ。上様の警護なら寛永寺に奥詰がいる、それで十分だ」
勝が『お前たちはいらない』とばかりに言い放つ。近藤は悔しそうに眼を鋭くしていたが、軍事総裁が直々に足を運び命じているのだ…これは上様の命令に等しいとわかっていた。勝も勝で一歩も退く気がないようで、近藤の了解が得られるまでここに留まると言わんばかりに腕組みして鎮座している。
しばらくの間二人は沈黙してにらみ合っていたが、勝はふっと息を漏らした。
「…承知するなら、春日隊のことを取り計らおう」
「!」
「いまだに身を隠しているんだろう?…春日隊は甲州鎮撫隊の脅しによって加わっただけ…無罪放免になるように手を尽くしてやる。それでどうだ?」
勝の提案に近藤だけでなく、土方の心も揺れた。
故郷の有志の人々によって結成された春日隊は甲府で散々な敗北に遭い今も日野で不自由な生活を強いられている。土方の義兄の彦五郎や農兵隊を率いた小島鹿之助は壬生浪士組時代からの支援者であり、二人にとって恩人であった。恩返しどころか危険に巻き込むようなことになり、二人とも心を痛めていたのだ。
勝の切り札は故郷の人々の身の安全だった。
(かっちゃん…)
土方はまだ迷いがあったが、近藤はもう決意していた。
「承知しました。近日中にここを発ちます」
「近藤先生…」
近藤の矜持と故郷への情…彼にとってそれは比べるまでもないものだった。
「…そうか、悪いな。下総のどこかに…」
「流山に。どうか流山にお願いします」
近藤は頭を下げた。流山は下総国でも最も江戸に近い場所…上様の身を案ずる幕臣として、近藤にとって最低限の譲歩だった。勝はまだ少し不服そうだったが
「まあ、流山なら下総の鎮撫って言い訳は立つか。少しはお前さんの言い分を引き受けてやらねえとな」
「ありがとうございます」
「交渉成立だ。春日隊の方はすぐに使者を送る」
今度は勝の方が譲歩して話はまとまった。詳しい駐留場所についてはおって知らせるということで勝は話を切り上げて、それまで置物のようにじっとしていた芦屋の方へ振り返った。
「俺ァ少し外の空気を吸ってくる。積もる話もあるだろう」
勝は気を利かせたのかもしれないが、芦屋の方は戸惑ったように頭を下げるだけだった。芦屋にとって新撰組での日々は決して楽しい思い出ではなくすぐに会話が思いつかないようだったので、近藤が
「三浦君は元気か?」
と切り出した。
「…はい、啓之助さんはお母上とともに暮らしておられます」
「そうか。腕の具合はどうだ?」
「おかげさまであの時沖田先生にお助けいただき、その後も江戸で良い医者にかかることができました。…もちろん不便ではありますが、このように過ごすことができています」
「今は安房守様の家来なのか?」
土方が口を挟んだが、芦屋はあまり表情を変えなかった。
「家来というほどではありません。…安房守様にはご恩がありいまも啓之助さんにお力添えを頂いております。利き腕を失い、できることは限られてはいますが…命令が下されればなんでもお引き受けする覚悟です」
「…三浦は…」
「先ほど、安房守様は『飼い犬』とおっしゃいましたが、いまはそのようなことはありません。対等な友人のように接していただいています」
芦屋の表情には都にいた時にはない穏やかな笑みがあり、彼が抱えていた闇のようなものはすべて融解し過去はすべて過去になったのだ。
「そうか…良かった」
近藤の言葉に、芦屋は何度も頷いた。

夜更、勝は赤坂に帰るため近くに待たせていた駕籠を呼び乗り込むと見送りに来た近藤と土方を見上げて別れを告げる。
「…近藤。お前の愚直なまでの忠誠心は傍から見れば視野が狭いと揶揄されるかもしれないが、俺ァ嫌いじゃない。時代が時代ならきっとお前が重用されていただろう。だが、今の上様にとってそれが重荷になる…徳川家の存続のためにも今はどうか控えてくれ」
ずっと威圧的な口調だった勝だが、別れ際に漏らした言葉は彼自身の本音のように聞こえた。近藤は勝の思いを受け取って深くうなずいた。
「私は上様に私の思いを認めていただきたいと、そのような恐れ多い事は思っておりません。ただ…いつかこのような愚かな忠義者がいたことをふとした時に思い出していただければ…それが上様の御慰めになるなら、それで十分です」
「…そうか。だったら舵取りは土方に任せることだな」
勝は苦笑しながら土方へ視線を遣った。
「土方、お前にはまだ借りを返してもらっていない、忘れるなよ」
「…はい」
「じゃあな」
二人が頭を下げると、勝が御簾を下ろして駕籠が出立する。芦屋もそのあとに続き、突然の嵐が去っていったように静かな夜が戻って来た。
土方は近藤の表情を窺うが、今夜は月の明かりが雲に隠れてしまい彼の表情は門前の松明にゆらゆら揺れて上手く読み取ることができなかったが、
「流山か…」
と近藤が呟いた言葉が酷く鮮明に響いた。













解説
なし


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