わらべうた
992
大石は土方の姉ののぶ、そして息子の源之助とともに自宅へ戻った。
「…今までご苦労様でした」
いつも明るいのぶだが少し疲れた様子だった。
甲府で鎮撫隊を退けて意気揚々と江戸へ向かった官軍たちは新撰組を賊軍だと決めつけ、手を貸した春日隊も同罪だとみなしていた。春日隊の隊士を捜索する官軍と、彼らを匿う天領の民…一触即発のなかようやく昨日、勝の要請によって春日隊の無罪放免が決まり春日隊の面々は潜伏生活から解放されたのだ。
身を寄せた親戚や知人たちは皆、彦五郎たちのことを庇ってくれたが、期待の星だった新撰組のあっという間の敗退に少なからず失望していた。甲府城主になると意気揚々だったはずが夢物語だった…のぶたちはそんな地元の恨めしい空気をひしひしと感じていて、責任を感じていたのだ。
源之助はそんな母を支えつつ、
「大石さんは五兵衛新田へ戻りますか?」
と尋ねた。土方から何度も帰営するように文が届いていたのだが、大石はその気にはなれなかった。
源之助は母ののぶに似ている…それはまた土方にも似ているということで、大石は目が合うたびに少しドキリとさせられてしまい、顔が強張ってしまう。
「…自分はもう少し日野に留まります。まだ彦五郎さんの所在がわかりませんから」
「あの人は一体どこに行ってしまったのかしら…思い詰めていないと良いけれど」
のぶは春日隊隊長の夫を心配するが、息子の源之助は母の肩を叩いた。
「父上はきっと大丈夫です。自分から負けを認めるような性分ではありませんからきっとどこかで生き延びています」
源之助もその性分を引き継いでいて、捕縛されて尋問を受けても知らぬ存ぜぬで一切屈しなかった。手荒に扱われても『負けてたまるか』と意地になった結果、解放されたのだ。
のぶは少し笑った。
「…そうね。大石さん、私たちはここで主人の帰りを待つだけですから心配ありませんよ」
「いえ…自分は…」
「歳三から戻ってくるように言われているのでしょう?」
「…せめて彦五郎さんが戻るまでは待たせて頂けないでしょうか」
大石は頭を下げる。のぶと源之助は顔を見合わせて「私たちは構わないけれど」と困惑しつつ、三人は屋敷に入った。
のぶがいつも綺麗に保っていた屋敷は土足の跡が目立ち、家財の引き出しが開きっぱなし…官軍が踏み荒らしたのだろう。源之助は憤慨しながら屋敷を見て回り、のぶは何も言わずに掃除を始めた。
「手伝います」
大石は箒を手にして縁側の土埃を掃く。大石は官軍への怒りよりも、新撰組の尻拭いをさせられる人々への申し訳なさと虚しさがまさった。
自分にはもう戦意がない。
(…もう潮時かもしれない)
弟が死んだあの日から、ずっと裏方に回り心を無にして新撰組で過ごしてきた。まるで喜怒哀楽を失ったからくり人形のように仕事をこなすなかで、目まぐるしく環境が変わっていき、日野から見えるいまの新撰組はもう風前の灯のようだった。
大石という人形をつなぐ糸は少しずつ解けていって…いまはもう繋がれてすらいない。
(なのに俺はまた、繋がれるために新撰組に戻るのか…?)
無気力な日々を望んでいたのか?
弟を殺した男ももうこの世にはいない。何もかも忘却の彼方へと押し込まれていくのに…。
「…」
大石は廊下を歩いて道場へと向かった。かつて天然理心流の門人たちが汗を流した場所はしんと鎮まり、熱気が消え失せている。ここに集った人々の多くは春日隊として出陣し、戦場の厳しさを知ったはずだ。
失意の彼らがここにまた戻ってくるのだろうか―――大石は想像ができなかった。
五兵衛新田の屯所に突然榎本がやってきた。
「近藤さん、また移転だって?」
榎本の耳が早いのか、勝の口が軽いのか、彼は新撰組が流山に移転すると聞きつけて飛んできたようだ。
近藤と土方は榎本を客間に通したが、彼は早口で捲し立てた。
「さあ、いまこそベストなタイミングだ。流山などに布陣したところで何の意味もない、我々海軍と共に戦いましょう。なあに心配はない、もう武器や弾薬は十分に整って、いつでも大砲を発射できる。まずは我々が海軍は江戸の海にいる薩摩船を開戦とともに一斉に打ち払い、新撰組には陸から白兵戦を…」
「ま、まあまあ、落ち着いてくだされ」
近藤は熱弁して先走る榎本を宥めた。
すでに近藤は流山への移転を隊士たちに伝えていた。あくまで上様の命令であること、五兵衛新田が手狭になったことともあって広い拠点に移すことが目的だ…それは決して嘘ではないが、勝に半ば脅されたことは伏せて前向きな理由だと話していたのだ。
榎本は土方は視線を向けた。
「土方君、近藤さんに従うという君の考えは変わらないか?」
以前、榎本から同じように海軍に誘われたがその時は『近藤に従う』と固辞した。そのため榎本は近藤さえ説得できれば良いと思ったようだが
(そう簡単にはいくまい)
と土方は思いつつ、頷いた。榎本は「よし」と近藤へと向き直った。
「近藤さん、流山で何ができる?そんなに遠く離れては江戸で戦が起きても間に合わない。安房守に都合よく遠ざけられているだけだ」
「我々は下総鎮撫を命じられました。それも大切なことです」
「下総の暴徒を鎮めたとて、官軍の進軍は止まりませんぞ」
「おっしゃるとおりですが、しかしいまの新撰組には榎本先生の期待に添える働きができますまい。鳥羽伏見や甲府での戦を経験したのはほんの一部…訓練が足らず銃の扱いも不慣れ、まだまだ使い物にはなりません。甲府の二の舞にならないためにも、一度流山のような広い場所に移り調練を行うのは悪い選択ではないと考えます」
「いやいや、一度江戸を離れては戻るのは難しい。それに下総で戦を起こしたところで単なる反乱でしかない…徳川家臣の総意としての戦をせねば後で難癖をつけられるに決まっている。団結すべきだ」
「我々は戦を起こすつもりはありません。戦は上様の御身を危険に晒します」
「もちろんわかっている。タイミングは今ではない。一橋様の処遇が決まってからだ」
榎本たちは着々と戦の準備を行いながらも、時機を見計らっていた。上様に対する処遇の決定が下りその身が安全であると確認次第行動を起こすつもりであった。
しかし近藤は首を横に振った。
「我々は甲府で官軍と戦をしています。我らが海軍に加わればまず間違いなく戦支度をしているとみなされるでしょう。…良くも悪くも我々の名は広く知れ渡り、一挙一動が大きな意味を持ってしまうのです。五兵衛新田に留まることが上様のためにならないのなら、ご命令通りここを離れねばなりません」
「…一橋様は徳川の為ではなくご自分のために行動をされている。だからこそ、徳川の主であることも将軍であることもやめた一橋様にかわって、我々が徳川の名誉を守らなくて徳川の家臣と言えようか」
「…榎本さん、一橋様ではなく上様です」
榎本はいつの間にか『上様』と呼ぶことを止め、『一橋様』と格を落とした呼び方をしたので近藤が注意するが、榎本は「これは私の意思だ」と受け付けなかった。仕えるべき『上様』ではなく、ただの『一橋様』である…それは近藤と榎本、二人の間に横たわる考え方の違いの溝を如実に表わしているようだった。
土方は二人のやり取りを黙って聞いていたが、榎本はため息をついて土方に視線を向けて嘆く。
「…聞いていた通り、近藤さんはこうと決めたら君以上に強情だな」
「近藤を説得するのは骨が折れますよ」
榎本は土方の他人事のような返答を聞いてどうやら援護してくれないらしいと気がついて、仕方なく目線を変えた。
「…しかし近藤さんは何度要請されても江戸から離れることを固辞され、五兵衛新田に留まると固く決めていたのでしょう。それなのになぜ今更…。まさか、勝安房守に何か脅されましたか?それとも流山に移るための好条件を突きつけられました?」
「…」
「ハハ…やはりあの人は、人たらしというか交渉上手というか。恭順するにはもってこいの人物です。それは認めざるを得ないようだ」
近藤は春日隊のことは伏せて何も答えなかったが、その表情を見て榎本はすべてを悟ったように頷いた。
強情な近藤を納得させる『条件』…それは故郷の恩人たちの命の保障だ。むしろそれ以外では近藤は到底受け入れなかっただろう。
榎本は近藤の厳しい表情を見据えたあと、ふっと息を吐いた。
「…どうやらどう言葉を選んだとしても、近藤さんの決心が揺らぐことはない。その理由が『誰かのため』なら尚更…。これ以上は釈迦に説法、猿に木登り、河童に水練…残念ながら私は流山へ向かうのを見送るしかないようだな」
「榎本さん…わざわざ御足労を頂いたのにご期待に沿えずに申し訳ない」
「謝ることはありません。今回は引き下がりますが、私はまだ諦めていませんから」
榎本は茶化すように笑った後、立つ鳥跡を濁さずと言わんばかりにさっさと立ち上がり
「土方君、外まで見送ってくれ」
と指名した。
榎本がまるで何事もなかったかのように近藤に別れを告げ、土方はその後を追った。
五兵衛新田の屯所では再びの移転であわただしく荷物をまとめ始めている。二人は騒がしい屯所を出て人気のない木陰で足を止めた。
「土方君、本当にこれでいいのか?」
「…榎本さん、何度も申し上げました。私は近藤の意思に従います。それに近藤自身も…本当はすべてをなげうって榎本さんとともに挙兵したいという思いがあるはずです。しかし…」
「そうはできない交渉をされたのか。…まったく安房守は抜け目ないな…」
榎本は勝に憤りを感じているようだったが、その条件を呑んだのは近藤自身であり、故郷の為であり、土方の為でもあっただろう。その選択を責めることが土方にできるはずはない。
榎本は短い髪を掻き上げ、遠い目でつぶやいた。
「…でも、自分でもどうしてこんなに諦め切れないのか不思議だよ。君たちがいてくれれば勝てると…そんなふうに思ってしまう」
「…光栄なことです」
「だからしつこいと思うが、君たちも覚悟をしてくれ。…また来るよ」
榎本はコートに袖を通して別れを告げる。榎本の諦めの悪さは新撰組への期待故だと言うのなら土方も悪い気はしない。
榎本は土方に背を向けようとしたが「ああ」と思い出したように足を止めた。
「君のパートナー…沖田君は千駄ヶ谷にいるらしいね、伊庭君に聞いたよ」
「…ええ」
「彼には伝えるのか?流山は遠い」
「…」
榎本はいつも土方の核心をつく。土方の心の奥の底を何の躊躇いもなく覗き込むようにして、すぐに答えを悟る。
「…愚問だったね、すまない」
彼は「じゃあ」と気軽に手を振って去っていった。
春日隊への赦免はもう少し後のことかと思われます。
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