わらべうた
993
五兵衛新田の屯所となった金子家当主の金子健十郎は、わずか半月ほどの滞在となったことに少し拍子抜けしていた。
「世話になりました。今月中にここを去り、流山に移ります」
近藤が餞別として百両ほどの金を差し出すと、金子は慌てて「受け取れません」と辞退する。
「手前は何にも…!」
「いえ…突然不自由な生活をさせ、村をお騒がせしました。…金子殿はすぐに我々が新撰組だとお気付きだったのでしょう。平穏な村に余計な波風を起こすと憂慮されたはず…」
「そのようなことはございません!」
金子は声をあげて否定した。
「この辺りの村は幕府へのご奉公の信念が根付いております。けれども幕府が終わり、薩長の天下になるのではないか…そんな動揺のなかで、この村は皆さんの存在で一致団結しました。村の皆は初めこそ困惑しましたが、皆さんの存在を心強く思っていたのです」
「金子殿…」
「陸軍からのご命令とはいえ残念です。我々にできることがありましたらなんでもおっしゃってください」
金子は近藤を真っすぐに見据えている。彼は近藤を納屋に仕舞い込んだ恐ろしい能面によく似て恐ろしいと思っていたが、この半月でその不安は消え失せた。それどころか金子が先頭に立って村を上げた支援を続けてくれたのだ―――江戸からさらに離れることになり、荒んでいた近藤の心は少しだけ癒された。
「…ありがとうございます。それでしたら一つ…頼みがあります」
「ええ!何なりと!」
「万が一、水戸街道からこの地に薩長が攻め入った時は…『新撰組がいたとは知らなかった』と答えてください」
「え?」
近藤のまさかの申し出に金子は驚いた。
「御奉公のお考え、ご立派です。しかし甲府の戦で私は故郷の人々や恩人たちを巻き込み、結果彼らを追い詰めることとなりました。恩を仇で返すような真似をしてしまった…五兵衛新田の皆さんに同じような目に遭ってほしくないのです」
「…」
「どうかお約束ください」
近藤は深々と頭を下げた。今だ幕府軍は劣勢であり、朝廷からは『賊軍』と指をさされている…春日隊のように恩ある人々を巻き込んでしまうのは忍びない。
若い金子は納得できないようだったが、年長の近藤に懇願されては受け入れる他ない。
「…畏まりました。大久保先生のおっしゃる通りにいたします。…ご武運長久をお祈りします」
同じ頃、土方が三日月に跨って千駄ヶ谷を訪ねると総司は不在で英がいた。英は山のように積んだ医学書を読み耽っているところだった。
「沖田さんは駕籠で成願寺へ行ったよ」
「成願寺か…」
千駄ヶ谷からほど近い中野村の成願寺には近藤の妻のつねとたまが身を寄せているので、土方は総司が彼女たちに会いに行ったのだろうと察した。
「お前は一緒に行かなかったのか?」
「最近は調子が良さそうだったからね。医者なんてついていったら奥方が心配するだろうし。もちろん無理をしない約束で、夜までには駕籠で帰ってくるはずだよ」
「…そうか。お前がそういうのなら良い」
「何か用事があった?」
土方のほんの少しの機微に気が付いて、英が問いかける。英は人の表情から何かを察するのは得意なのだろうが、そもそも昔から知っている間柄だからこそなのかもしれない。
土方は少し迷ったが英の近くにゆっくりと腰を下ろして打ち明けた。
「…近いうちに、流山へ移転することになった」
「流山…って」
「下総だ」
英は少し驚いて、手にしていた医学書を閉じた。
「…下総のことはよくわからないけれど、勿論いまの場所よりも遠いんだよね?」
「ああ、陸軍奉行の命令だ。前々から打診されていたが…断り切れなくなった」
「そう…」
「…それで、俺はこのことを総司には伏せておきたいと思っている。…お前はどう思う?」
「…」
英は難しい顔をして少し視線を逸らして黙ったあと、答えた。
「…伏せていたところで、どこからか沖田さんの耳にはいつか入るんじゃないかな」
「その時はその時だ。だが隊士たちだけじゃなく柴岡さんたちにも隠すように伝える。あいつにはこれ以上…考え込ませたくない」
「…」
「五兵衛新田だとか、流山だとか…俺は総司との距離を感じてはいないが、あいつにとっては自分がどんどん新撰組とはかけ離れていくことを実感するのは負担になるんじゃないか…そう思ってる」
「…そうだね」
英は同意して頷く。土方は三日月に乗っていつでもどこにいても会いに行く気持ちはあるが、それを伝えられる総司の方は物理的な遠さに気落ちするだろう。英もそれが想像できたようだ。
「…俺は歳さんの考えに賛成する。心配事を増やすのは身体の負担につながるだろうから。それにたとえいつか沖田さんの耳に入ったとしても、歳さんが沖田さんを思って隠していたんだって、ちゃんとあの人は理解するはずだよ」
「そうか…」
土方は英から同意を得てふっと肩の力が抜けたような気がした。
近藤に相談すると
『お前が決めたら良い』
と一任されて、これが独りよがりの勝手な考えなのではないかと迷っていたのだ。
榎本は土方の迷いを察して話を切り上げたが、あの時から何もかもを明かすことが、正しいとは限らないと思っていた。
(一緒に過ごせる時間が少ないなら、尚更…)
土方はこめかみにキリリとした痛さを感じて、指先を当てて強く押した。
「…頭痛?」
「いや…問題ない」
「問題があるかどうかを決めるのはお抱え医者の仕事だよ」
英は急に医者の顔をして土方の額に手を当てて「熱はないな」と呟くと、手早く漢方薬を準備して飲ませた。
「…悪い」
「少し疲れているんじゃない?沖田さんの寝床を借りて休んだ方がいい」
「ああ」
土方は総司の前で疲れた顔はできないと思い、英の言う通り総司と同じように横になった。
春の心地よい風が通り抜けていく。横になってみると土方が寄り添って見ている光景が少し違うものに見えた。
(広いな…)
寝床からだと柴岡家の庭が視界に収まらない。さらに空を見上げるようになるので、とても高く遠く感じた。
「…」
(やっぱり、お前が見ているものは俺とは違うんだな…)
土方が目先の忙しさに振り回されている間に、総司はこうして空の青さをひたすら見つめているのだろう。
土方が大砲や銃のけたたましい音に顔を顰めている時に、総司は鳥の囀りや草が揺れる音に静かに耳を澄ましているのだろう。
(時間の感じ方が違う、か…)
土方は総司が言っていたことをようやく理解できた気がした。
その日の夕方、陽が落ちる前に総司は中野村の成願寺から駕籠に乗って帰って来た。
試衛館では身の危険がある…と成願寺に移っている二人だが、気を落とすことなく元気そうな様子で総司が顔を出すととても喜んでくれた。総司はまた近いうちに来ると約束して、満たされた気持ちで戻って来たのだが。
目立たないように柴岡家の裏口へ周ろうとしたとき、誰かの口論が聞こえた。それが他人のものなら聞き流していたが、聞き覚えのある声だったのでつい気になってしまい裏口から離れて足を延ばしてしまった。
柴岡家の周囲は畑や田んぼが多く、雑木林に囲まれている。日が暮れると鬱蒼として近寄りがたい雰囲気になるのだが、その雑木林から男が放り出されるように転がった。
「! 弥兵衛さん…!」
柴岡家の見習いの弥兵衛だった。総司が駆け寄ると、弥兵衛はぐったりとしていて彼の顔には殴られて腫れあがった痕があったのでそのせいで意識を失ったようだ。総司が辺りを見回していると同じ雑木林から髭面の中年の男が悪態をつきながら出て来た。しかし総司に気が付いてばつが悪そうに
「また金は返してもらうからな!弥彦!」
と怒鳴って走り去ってしまう。
「ちょ…っ!」
総司は追いかけようにも弥兵衛を置いては行けず、男の逃げ足が速いので今の総司には追い付けそうにない。それに意識のない弥兵衛の顔をまじまじと見て、急に思い出した。
「弥彦…」
確かに総司は昔、彼に会ったことがあったのだ―――。
なし
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