わらべうた
994
総司は帰りを待っていた土方や英を呼んで弥兵衛を柴岡家の彼の部屋へと運んだ。英によると幸いにも骨が折れているようなことはなく、打撲の擦り傷だらけだが意識が戻れば問題ないだろうという事だった。
弥兵衛の雇い主である柴岡は顔を顰めていた。
「時々、こういうことがあるんです。誰かに殴られて帰ってきて…心配しても本人が『なんでもない』と言うものですからこちらが出しゃばるわけにもいかず…。でも今日はあんまりに酷いなぁ…」
妻のりつも心配そうな顔で大きなお腹を抱えながら、彼の細かな傷を手当てした。二人の娘たちも襖の向こうから覗き込んでいて、弥兵衛は彼らにとって家族の一員なのだろう。
総司は柴岡に尋ねた。
「…平五郎さん、弥兵衛さんの昔のことはご存知ですか…?」
「…ある日、うちの前で痩せ細って行き倒れて…あんまりに可哀想で身寄りがないと言うので住み込みの見習いをさせました。昔のことを聞こうと思ったことはありません」
平五郎はキッパリと言い切った。
きっと後ろ暗い過去を抱えているであろう弥兵衛に対し、全く疑うことなく素性も尋ねずに身を預かる…柴岡らしい行動だ。
総司は弥兵衛を柴岡家に任せて、土方とともに離れに引き上げることにした。そして人気がないのを確認したあと小声で切り出した。
「土方さん…私、思い出したんです。弥兵衛さんのことを」
「? 知り合いだったのか?」
「知り合いというか、たった一日のことです。昔…試衛館に食客がたくさん集まりだして、あんまりに困窮しておふでさんが家出してしまったことがあったでしょう?」
「……そんなことあったか?」
土方はまるで心当たりがないようで首を傾げていたが、試衛館が貧乏なのはいつものことなのでいちいち覚えていないのかもしれない。
総司は続けた。
「だから皆、職探しに奔走して…私が甘い話に誘われて雇われたのが稚児趣味の老年の男の屋敷だったんです。まあ、すぐに土方さんが助けに来てくれたんでことなきを得ましたが」
「…ああ。お前がどれだけ世間知らずか、呆れた覚えがあるな」
土方が鼻で笑うので、総司は口を窄めた。
「当時の私なりに必死だったんです。…とにかく、そこで出会ったのが弥兵衛さん…当時は弥彦と名乗っていましたが、彼に間違いありません」
「…なるほど。確かにあちらから言い出しにくそうにするのは当然の事情だな」
「はい。…たしか、あのあと監禁されていた弥彦たちは皆、解放されて別の職を与えられたと聞きました。だから安心していたんですが…」
「…苦労したのかもな」
土方の推測に総司も頷いた。
当時の弥彦は病がちな妹のために父に売られて来たのだと話していたが、その後は総司は彼のことを思い出すことはなくもう十数年経ってしまった。
正直、昼間の愛想のない弥兵衛では思い出せなかったが、寝顔のあどけなさを見てようやく気がついたのだ。
「弥兵衛さんが時々私に何か物言いたげにしていたのは、きっと彼の方ははっきり私を覚えていたんだと思います。…だから昔のことを思い出した以上、私の方から尋ねてみようかと思うんです。今回のことも何か手助けできるかもしれないし…」
「…お前は相変わらず首を突っ込みたがるな」
土方は苦笑しながら、総司を寝床に座らせた。
「だって思い出してしまったから、余計気になって…」
「でも弥兵衛の方はそうとは限らねえだろう。お前との記憶は思い出したくない胸糞の悪い過去なのかもしれない。それに、お前より付き合いの長い柴岡さんだって詮索しないように弁えてるんだ、お前が勝手なことをしては迷惑だ」
「…そうですね」
土方に止められて総司は素直に先走ってしまったことを反省した。総司にとってはただただ懐かしい思い出でも、弥兵衛にとって同じとは限らないのだから。
「じゃあ…余計なお世話かなぁ…」
「…お前は正体がわかってスッキリしただろう。なら、向こうが打ち明けるまで少し待ってみたらどうだ?いつか話したくなる時まで」
「…そうですね」
「ところで芦屋のことを覚えているか?」
「え?もちろんです」
三浦啓之助と芦屋昇については総司の中で長く燻った課題であり、彼らも不本意な暮らしをした挙句結果的に監察方浅野薫の自死にも繋がった後味の悪い出来事があった。彼らは新撰組に入隊して不幸なことばかりが続いたので、どうか穏やかに暮らして欲しいと思っていた。
総司は土方が思わぬ名前を出したので驚いた。
「まさか芦屋君に会ったんですか?」
「ああ。勝安房守の警護を務めていた。安房守は片腕だが役に立つと言っていたな」
「…へえ。芦屋君はそういうことから手を引いたのだと思っていました」
「三浦のためだろうな。安房守は三浦の後ろ盾であることは変わらないだろうから、命令されればなんでも引き受け…だが、新撰組にいた頃よりは随分晴れやかになっていた。お前のお節介のおかげだろう」
三浦が新撰組を脱退するとき、総司は長らく疎遠だった芦屋を秘密で呼んで一緒に江戸へ行かせたのだ。その時に一悶着あったが、二人の関係が修復できたのは確かに総司のお節介がきっかけだっただろう。
土方に励まされ、総司は微笑んだ。
「…そうですか。二人が元気そうなら良かったです」
「ああ。だからお前のお節介もたまには役立つ」
「…だと良いな」
総司は寝床に横になり、土方は蝋燭に火を灯した。
「悪いが、これから屯所に戻る」
「忙しいんですか?」
「…まあな。今日は疲れているだろうからゆっくり休めよ」
「…はい」
総司はまだ引き留めたかったが、もう夜中だと言うのに帰るのなら余程忙しいのだと察した。
土方は総司の髪をクシャッと撫でて「じゃあな」と別れを告げた。
一方、日野の大石の元へ再び文が届いた。
「…」
春日隊の赦免は叶い、身の危険が迫ることはない。また近々流山へ向かうことになったので早急に帰営すべし…との命令だ。大石としては拒む理由はないがまだ彦五郎は帰還していない。
「大石さん」
「…源之助さん」
「それ叔父の手ですよね?もう新撰組へ戻ってください。父はきっと無事ですから」
「…」
大石は文をサッと畳んで懐に入れた。
「…そういうわけには。彦五郎さんは恩人です、ご無事をこの目で確かめねば夜も眠れません。自分のことはお構いなく…」
大石の頑なな様子を見て源之助は「大石さん」と袖を引いた。
「一緒に来てください」
「…どちらへ…?」
源之助は何も告げず、「いいから」と大石の背中を押して佐藤家を出た。
赦免が出たことで村は日常に戻りつつあるが、まだ敵襲を恐れて人出は少なく静かなままだ。しかし源之助は捕縛されて厳しい尋問を受けたトラウマがあるはずだが、身を隠すような真似をせずに颯爽と大石の前を歩いていた。
源之助は官軍に捕縛されても態度は変わらない。そもそも彼は春日隊に参加せず、近藤の説得で日野に残っただけの無関係な若者だが、つらい尋問に耐え、春日隊のことは何も答えなかった…それは叔父と父を信じていたからだ。
(造酒蔵と同じだな…)
大石は源之助を見ていると、今まで忘れていた弟のことを思い出す。一途に信じたいものを信じられるのは『若さ』なのかもしれないが、『強さ』でもあり、源之助は父を、造酒蔵には兄である自分を、信じ続けた。しかし弟は死んでしまった。
(だから、源之助さんを放っておけないのかもしれない…)
あどけない瞳が真っ直ぐに前を見据えているから。
弟のことを思い出して、立ち止まってしまう―――。
「着きました」
「!」
源之助はある一軒の家の前で足を止めた。立派な長屋門は静かに閉ざされていてなかは判然としないが、長く続く塀がその大きさを示しており栄えているのだろうとすぐにわかった。
「ここは母や叔父が生まれた本家です。いまは皆親戚の家に身を寄せているそうで、きっと誰もいません」
「…何故ここに」
「あれを」
源之助が指さしたのは細い篠竹が集まった、通称・矢竹だった。
「あれは叔父が植えたものです。十六か七の頃、今の俺と同じくらいの時に。口では入門しないとか剣では食っていけないとか散々言っていたようですけど、武将の庭には矢竹が植えてあるとか言って当主の伯父に黙って植えたそうです。だから本当は誰よりも武士になりたかったんです、叔父は」
「…」
「そんな叔父を父は献身的に支えました。二人とも自分のやりたいことをやって自分でその責任をとっている、俺の誇りです」
「…源之助さんは何故、自分にこれを?」
源之助は知らないだろうが、大石と土方の関係は複雑で決して友好的とは言えず同門とはいえ今は上司と部下だ。土方の感傷的なエピソードに触れたとしても心が突き動かされるようなことはない。
けれども源之助は
「叔父の本気を知ってほしかっただけです」
と答えた。
「甲府での戦に負けて…手のひらを反すように貶したり、馬鹿にする村の人もいます。でも叔父の本質はこの矢竹に込められた通り何も変わりません。それを大石さんだけでなく、叔父を知っている隊士の皆さんや村の皆にお伝えしたいんです」
「…」
源之助の言葉には迷いや鈍さがなく、溌溂としている。あまりの眩しさに卑屈な人間は狼狽えてしまうだろう―――大石は無意識に手を伸ばして、源之助の腕を掴んでいた。
「大石さん?」
「…源之助さん、俺は…」
大石が言葉に迷った時、土方家の扉がガタッガタッと大きな音を立てて揺れた。二人は屋敷が無人だと思っていたので、大石は源之助を守るように前に盾のように立って身構えるとくぐり門からボロボロの深い笠を被った男が現れた。
すぐに源之助はその正体に気が付いた。
「…っ!ち、…父上…!」
小声だったが感極まった表情で駆け寄り、ボロボロの衣服に身を包んだ彦五郎もまた笠を放り投げて源之助を受け止めた。
「幻聴かと思ったら、やはりお前だったか…!」
「父上、どうしてここに…」
「あちこち転々としたが長く居座ると迷惑だからな。それに灯台下暗しというだろう?味噌小屋に隠れてやり過ごしていた…おのぶは無事か?他の皆はどうしている?」
「皆無事です。…父上、春日隊へ赦免の知らせがありました。もう…家に帰れます…!」
ずっと気丈にふるまっていた源之助が背を丸めて泣いている。彦五郎も「そうか」と安堵の表情を浮かべて天を仰いだ。
「ずっと…家族と春日隊の皆がどうなったのかと考えていた。どうか一人も欠けてくれるなと願っていたんだ。きっと若先生や歳三が計らってくれたのだろう…戦というものは恐ろしい。どうやら父には向いていないようだな…」
彦五郎が状況を飲み込んだところで、大石の存在に気が付いた。
「君は大石君か…」
「…はい、ご無事で何よりでした」
「父上、大石さんは俺が官軍につかまっている間もずっと母の傍にいてくださったんですよ」
「な、なに?お前が?」
倅が官軍に連行されていることは彦五郎の耳には入っていなかったようで目をむいて驚いたが、源之助はそんな父を見て笑った。
「もう過ぎたことです。事情が道々に話しますから早く母上の元へ帰りましょう。今か今かと待ちわびていますよ」
「あ、ああ…そうだな。大石君、ありがとう」
「いえ…」
源之助は少しやつれた父を支えつつ帰路に付く。それまで当主として威厳のある振る舞いをしていた彦五郎の方も今日ばかりは息子の手を借りて歩いている。
大石はそんな二人の背中を後ろから眺めていた。
(…俺は何を言いかけたのだろう…)
源之助の腕を掴んだ時に、もう離したくないと思った。源之助の面影に造酒蔵を見つけてしまったせいで―――。
なし
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