わらべうた




995


翌日には弥兵衛は意識を取り戻した。
「お助け頂いたそうで…ご迷惑をおかけしました」
総司のいる離れまで礼を言いに来た弥兵衛は深々と頭を下げたが、顔に残っている青あざは痛々しい。
弥彦を名乗っていた頃は飄々として世間知らずな宗次郎を揶揄っていたが、今の彼には茶化すような雰囲気はなく俯いたまま総司と目を合わせようとしない。けれど今までまともに言葉を交わすことすらなかったので、総司の方もぎこちなく返答した。
「…いえ、私は…たまたま居合わせただけですから。礼なら、手当をした英さんに」
「はい。…英先生、ありがとうございました」
総司の隣に控えていた英は「気にしないでいい」と言い、弥兵衛は離れから出て行った。英はそんな弥兵衛を目で追いつついなくなった途端
「…『弥彦』か。俺も思い出したよ」
と打ち明けた。
「え?」
英は薬を準備しながら話した。総司は昨日英へ『弥彦』という昔の知り合いだったことは伝えていたのだ。
「確かそういう名前の…十四、五くらいの子が湯島の陰間にいた頃に売られてきたことがあった。妹のために…とかなんとか。でも二、三日で逃げ出して消息はわからなくなった。面影は似ているような気がする」
「…逃げ出して…?」
「そもそも役人が厄介払いのように押し付けたから、逃げ出しても見世に損はないし追いかけて連れ戻すようなことはしなかったよ」
「…」
英の話が本当なら、あの後奉行所に引き取られた弥彦たちは不本意な場所へ売られてしまい行き場をなくしてしまったのだろう。その発端となったのは総司の行動だ…責任を感じたが、
「別に珍しい話じゃない」
と英は苦笑する。
その場にいた英———その頃は『薫』と名乗っていた彼もまた、そんな世の中の理不尽さと不条理を無気力に眺めていた立場なのだ。来るもの拒まず、去るもの追わずの日常を過ごしていた。
『勝手なことをしては迷惑だ』
英の複雑な表情を見ていると、総司は土方に昨日釘を刺された理由がよく分かった。弥兵衛にとって総司と出会った頃の出来事は心に刺さったままの棘であり、他人に不用意に触れられてはいけない傷なのだ。それが自分の疑問を解消するためだけの行為なら猶更、勝手でしかない。
「……はぁ」
(この期に及んでも、僕はまだ修行が足りないな)
総司は薬を飲むと、その苦さがいつもより身に染みるようだった。


流山への移転準備が進む中、大石が日野から帰還した。
「戻りが遅くなり申し訳ございません」
大石はたびたび命令に背いて日野に留まったことを責められる覚悟だったが、近藤は「良く戻った」と喜び、散々文を寄越した土方も特に何も言及はしなかった。
「ご苦労だった。そういえば、三井君には会わなかったのか?」
「三井…三井丑之助ですか。いえ、会っていませんが」
「…そうか、君を連れて戻るようにと彼を遣いに出したのだが…」
「逃げたな」
土方が吐き捨て、近藤が落胆する。大石を連れ戻す口実で隊を離れた三井が命令を無視してそのまま出奔してしまったのだろう。三井は今残っている隊士のなかでは古参であったので残念な知らせではある。大石は責任を感じ「申し訳ありません」と謝ったが、近藤はすぐに柔らかな表情に戻った。
「いや、大石君のせいじゃないだろう。それに君のおかげで日野や春日隊の皆が無事だと知れて安堵した。何より彦五郎さんが屋敷に戻ることができたというのは朗報だよ」
「はい。春日隊を解散してしばらくは表立った行動は慎むとおっしゃっていました。…局長宛に文を預かっています」
大石が彦五郎から預かった文を近藤へ渡す。近藤はサッと目を通した後「はは」と笑った。
「相変わらず豪胆な御仁だ。…歳、彦五郎さんはしばらくお前の実家に隠れていたそうだぞ」
「へえ…彦五郎さんらしい奇策だ」
「ああ。味噌小屋に隠れていたから匂いが消えないと書いてある。春日隊のことも…甲府への道中、宿で鮭の腹を切って食ったのが運の尽き、縁起が悪かったのだと冗談めかして…俺たちを責めるようなことは一言もない。本当に懐の深い御方だ」
「…ああ」
近藤と土方は頷き合い、ようやく春日隊や故郷へ安泰がもたらされたことに安堵した。
近藤は「ゆっくり休んでくれ」と話を切り上げて大石を下がらせた。大石は少し拍子抜けするような気持ちで部屋を出て、しばらくは初めて出入りする屯所を歩き回った。
隊士の数は甲府での敗戦で六十ほどに減ったが、大石が不在の間に増えて今は二百ほどとなり知らない顔ばかりだ。そのせいか慣れた新撰組に戻ったという気持ちはなく、外側だけ同じなのに新しい組織に足を踏み入れたような居心地の悪さを感じた。「休め」と言われてもどこに身を置いていいのかわからない。
「大石」
そんな大石を追いかけてきたのは土方だった。
「話がある」
「…はい」
土方が場所を変えるというので大石はその背中に従って屯所を出た。
三月の終わりに差し掛かり、南から暖かい風が流れてくる。その分天気は変わりやすく日によって冬の寒さに戻るようなことも珍しくはないが、今日は曇天のままもうすぐ夜を迎えそうだ。
二人はうす暗い夕方に人気のない川縁に立った。
土方は近藤と並んでいた先ほどと違い、険しい表情で早速本題を切り出した。
「…どういうつもりで戻って来た?散々こちらからの命令を無視していただろう」
「…自分は源之助さんと彦五郎さんの無事を確かめたかっただけです。佐藤家の皆さんには昔、碌でもない自分を拾って世話をしていただいた恩があります」
それは嘘偽りない気持ちだったが、土方は
「それだけじゃないだろう」
と見抜いていた。
「本当はお前自身が新撰組から距離を置きたかったんじゃないのか。仇敵の今井が死んで…隊にいる理由がなくなった」
「…」
「義兄さんの行方不明を理由に、自分自身のために日野に留まってあわよくばこのまま行方を晦ますつもりだったんだろう」
胸中を覗かれたような気持ちだったが、大石は動揺しなかった。
「…もしそうだと答えれば、殺しますか?」
「…」
都にいた頃なら土方は即答しただろう。武道に背く間敷事、局を脱するを許さず…けれど今の新撰組にはその法度が消えつつある。多くの古参隊士が脱退したなかでそんなもので縛ってももう意味がない。
土方は少し不本意そうな顔をして答えた。
「…お前はもう一度死んでいる。死人に鞭打つつもりはない」
(死人…その通りだ)
大石は自嘲しながら答えた。
「確かに…隊を離れて懐かしい日野にいると頭が冷えました。甲府で官軍の勢いを目の当たりにし、この先の生き方を考えなければならないと思っていた時、源之助さんに連れられて貴方の植えた矢竹を見ました」
「矢竹?」
「矢竹を見て源之助さんに…いや、貴方に覚悟を問われているような気がしました。貴方と同じような強い気持ちがあるのかと…しかし自分にはそれはない。それどころか貴方の高潔さを目の当たりにして、卑屈になって後退りしたくなるような気持ちになった。どこか糸が切れたような…」
「だが近藤局長はお前を信頼している。天然理心流の門人としても、山﨑の後を継ぐ監察方としても…。これからも新撰組に尽くしてほしいとお考えだ」
「貴方が…自分なんかを引き止めるんですか」
大石は苦笑した。一度は新撰組に刃を向けた裏切り者である大石を引き止めなければならないほど人材が不足しているのか。しかし土方はさらに眉間にしわを寄せて大石を睨みつけた。
「俺はお前の本心が聞きたいだけだ。隊に残るなら引き続き監察方を任せることになる…いついなくなるかわからない監察なら不要だ」
「…貴方らしい」
大石にはむしろ土方が強気に切り捨てると言う方が安心できた。
けれど
「…もう、悪夢から覚めました」
大石はすでに答えを出していた。この答えに辿り着きた時、身体中にがんじがらめになっていた鎖がいつの間にか解けているように身体が軽かったのだ。
「弟が死んでから…亡霊のように生きてきました。原田組長に言われるままに憎しみを抱えながら、いつ死んでもいいと…そんな気持ちで生き続けて来た。任務に没頭することで何もかもを忘れた。しかし戦に立て続けに負け、弟を殺した今井が死んで、日野に戻り…源之助さんを見ていると弟のことを思い出しました。若くて一途な源之助さんが弟に重なり…源之助さんの眩しさに触れると都の墓に一人で眠る弟が酷く憐れに思えました。弟は源之助さんと同じように自分を信じて追いかけて来たのに…何も報われず、死んだのだから」
「…」
「今自分の為すべきは戦うことではなく、冷たい墓石にいる弟を迎えに行くことではないか…いまはそれだけです。そんな自分には新撰組にいる資格はありません」
前へ前へと突き進むだけが人生ではない。たまに立ち止まり忘れ物がないかと振り返る…そしてその失くしたものが大切な人生の一部だったと気が付いた時、ようやくあの時の憎しみが悲しみだったのだと受け入れることができる。
大石にはその時がやっと訪れたのだ。ようやく造酒蔵の弔いに時間を費やしたいと思ったのだ。
土方はいつになく饒舌な大石の言葉を聞き、大きく息を吸い込んだ。そしてゆっくりと吐きながら頷いた。
「わかった。…近藤局長はお前の帰還を心から喜んでいたが、俺はお前の顔を見た時にここに戻るつもりはないのだと思っていた。…もう十分罰は受けただろう、新撰組を離れて好きに生きればいい」
「…宜しいのですか」
「総司もそう願っていた」
土方が総司の名前を出すと、大石はふっと気が抜けた。総司とはかつて盗賊として日野で出会い、ずっとのその幻影を追いかけ続けて来た―――それももう随分遠い話。
「…俺は、あの人に出会って人生が変わりました。出会わなければ…もっとくだらない人生を生きていたのだと思います」
「…」
土方は何も言わず、ポケットから餞別の十両を取り出して大石に押し付けるように渡した。
「『年中三月常月夜 女房二十で年とらず 死なぬ子三人みな孝行 使えど減らぬ金十両 死んでも命のあるように』…お前はお前の思う通り、平凡に生きろ」
「…はい」
大石は礼を言うのも違うような気がして短く返事だけを口にして、ただ深く頭を下げた。
三月の月夜が訪れるなか、大石は土方に背中を向けて去っていった。そして土方もまたすぐに帰路に着いた。












解説
なし


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