わらべうた



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加也が千駄ヶ谷にやってきたのはその日の昼間だった。総司にとっては久しぶりの再会だ。
「沖田さん、いかがですか千駄ヶ谷は?」
「ここに来てから調子が良いですよ。皆さんによくして頂いてますから」
「そのようですね」
加也は診察を終えると穏やかに微笑んだ。
「脈もしっかりしています。英からこの頃は喀血が少ないと聞きました、喀血は体力を消耗しますからないに越したことはありません。お食事は?」
「食が細くなりましたけどちゃんと頂いてますよ」
「そうですか。たくさん召し上がってくださいね。…今日はこのあと母屋の方に伺うことになってまして」
「おりつさん、逆子だと聞きましたが」
「ええ、少し心配で…」
加也は風呂敷を畳みながら彼女らしくない物憂げな表情を浮かべた。
「良順先生や南部がいればなんとでもなるでしょうが…逆子が治らないのに産気づいたら赤子が危ないです。もし産婆が手に負えなければ腹を切って赤子を取りださねばなりませんが、そのような経験をした医者は少ないのです。わたくしも書物で読んだだけですし…長崎では手助けをするだけで」
「でももう臨月ですよね」
「ええ、数日で産まれるでしょう。わたくしも気が気でなくて…しばらく通いのお産婆さんとともにこちらに泊まり込ませていただこうと思ってます」
加也はため息をついた。彼女はいつも冷静でだがいまは見たことがないほど心配そうだ。けれどそんな加也とは正反対に当のりつは穏やかな表情で娘たちと接していた。
「おりつさんは落ち着いていらっしゃいましたね」
「そうなのです。ですからわたくしも不安そうにはしていられません」
「…でしたら私は、お加也さんのお手を煩わせないようにしますね」
「ふふ、そうしてください」
総司が和ませようとした軽口に少し笑いながら加也は支度を終えると
「ではまた参ります」
と部屋を去っていった。
入れ替わりでやってきた英は総司に白湯を渡しながら苦笑した。
「姐さん、力入ってるみたいだ」
「しばらくこちらに泊まり込むようなお話をされてましたけど」
「そうなんだよ、俺はさほど経験がないから戦力にはならないからさ。…おりつさんの診察が終わったら俺も一緒に南部先生の家に戻って荷物を取りに行くよ」
「わかりました」
総司は白湯に口をつけて喉を潤した。

加也と英が一旦柴岡家を離れると、平五郎が珍しく離れを訪ねて来た。
「宗次郎さん、お加減はいかがですか」
「ええ、皆さんのおかげでのんびり過ごせています」
総司の言葉に面倒見の良い平五郎は嬉しそうに頷いた。
「そうですか、それは良かった。実は初鰹を手に入れましてねぇ、鰹は縁起物でしょう?宗次郎さんも是非にと思いましてね、いかがですか」
初鰹は江戸では特に人気で『女房を質に入れても食べるべき』と例えられるくらい高価な縁起物で、『勝男』ともみなされ寿命が延びるとも言われている。
総司も江戸っ子なので当然喜んだ。
「それは有難い。私も是非ご相伴にあずかりたいところですが、でも刺身はどうなんですかねえ、英さんに聞いてみないと…」
「でしたら鰹を茶漬けにしましょう。うちの家内もそうして食べやすくすると言っていましたから宗次郎さんの分も用意させます」
「ありがとうございます。…おりつさんのご様子はいかがですか?」
平五郎がこの時期には少ないはずの高価な初鰹をわざわざ手に入れたのはもちろん妻のりつの安産を願ってのことだろう。
しかし平五郎は途端に眉間を寄せて「ううん」と唸ってしまった。
「…どうやらまだ逆子が治らず、もしかしたら腹を切るかもしれないと…」
「そうですか…」
「加也先生が今晩から泊まり込みで診てくださるって言うんですがねえ…」
平五郎は深いため息をつきながら心情を吐露した。
「…私はねえ、どうしても自分の家業を継いでくれる男の子がほしいと神仏に拝んで、それでおりつが懐妊した時はそれはそれはうれしかった。おあさやおたねは腹の子は『娘っ子』だと言いますが、なんだか倅のような気がしてねえ…。でも逆子が治らねえ、このままじゃ家内の身も危ない、もう赤子は諦めるしかないのかって時にねえ…」
『きっとこの子は元気に生まれます』
「家内がそう言うもんだからと信じてきたが…いざ、もう生まれるかもしれねえってなった途端家内に何かあったらと思うと、私は怖気づいて…何と愚かな願いをしてしまったのだろうと、そう思うんです。万が一の時は母親を失うことになっちまう娘たちにどう詫びればいいのかと悪い方へ悪い方へと考えこんじまって。…家業を継いでくれる倅が欲しいなんて思わなければ…何の贅沢も高望みもしなくても、ただ家族が生きているだけでいいのにねえ」
「…平五郎さん…」
「ハハ、こんな愚痴を聞かせちまって申し訳ない…」
平五郎は誤魔化そうとしたが寂し気でどうしようもない後悔を滲ませる表情が、土方のいつの日かのそれに重なった。
いつもそこに在るはずだったものが、急に永遠ではないのだと思い知らされる。かつて土方も同じように絶望し、『生きているだけでいい』と総司に願い、総司は一生離さないはずの剣を置き、家族同然の隊を離れたのだ。
けれど彼らはまだ何も失っていない。
(僕はここにいて、おりつさんも生きている)
総司は項垂れる平五郎の傍に近づいて、肩に手を置いた。
「…平五郎さん。確かにお産の時我々には何もできません。でも腹の中でその赤子を育てているおりつさんが『元気に生まれる』というのならきっとその通り元気に生まれるでしょう。赤子のことを一番知っているのはおりつさんです。だから平五郎さんが信じるべきは悪い想像ではなく、あなたの大切な御内儀です…違いますか?」
「宗次郎さん…」
「それにお加也さんは優秀で熱心な女医さんです。彼女ならきっと大丈夫です」
重病の自分が平五郎を励ましたところで彼の心には響かないのではないかと思ったが、平五郎はふっと小さく笑って目尻に込み上げていたものを指で払った。
「…おっしゃる通りです。弱気な自分を信じたところでなあんの意味もありませんな。むしろ腹の据わった女房を信じてやらねえと」
「その意気ですよ」
二人は顔を見合わせて微笑んだ。
するとそこへ弥兵衛がやって来た。涙ぐむ師匠を見て少し困惑していた。
「旦那様、そろそろ約束のお時間ですが」
「ああ、そうだな。…子が無事に生まれるまでちょいと仕事を休むことにしたもんで、弥兵衛と一緒にお得意様のところへご挨拶に行って参ります。女中のおかよがおりますから何なりとお申し付けください」
「わかりました。いってらっしゃい」
平五郎は軽く頭を下げて去っていく。すると弥兵衛と目が合った。殴られて腫れていた彼の顔の痣はようやく隠れて目立たなくなっていた。
弥兵衛は少し居心地悪そうにしながらも会釈をして背中を向けた。少し前までは冷たい眼差しで総司を見つめていただけだったので、あの日以来少し態度が軟化しただろう。
二人の足音が聞こえなくなって、総司はようやく寝床に横になった―――けれど眠りは長くは続かなかった。
酷く耳を劈くような音が遠くで鳴っていた。それはまるで弦が切れた三味線のような不協和音で、しかし嵐のように鳴り響き…まるで悪夢の始まりを知らせるようで不快だった。
「…っ、…ろう…」
誰かが泣き叫ぶ声が聞こえて、総司ははっと目を覚ました。そして寝床を飛び出し羽織を肩にかけて障子を開けると、ちょうどそこへ下の娘のたねが飛び込んできたのだ。彼女は青ざめた顔で大粒の涙を流している。そして縋るように足に抱きついた。
「おたねちゃ…」
「宗次郎!かかさまが大変なの!宗次郎、助けて!」
「…!」
総司はすぐにりつの身に何かあったのだと理解し、たねとともに裸足のまま庭に出てそのまま母屋へと駆け込んだ。するとりつが腹を抱えて倒れており上の娘のあさが「かかさま、かかさま」と揺さぶるが意識は混濁しているようで反応はない。よく見ると破水していた。
肝心の女中のかよはあまりの事態に震えて身体が竦み
「ああぁ、奥様…どうしましょう、奥様…!」
とパニックになっていた。
「おかよさん、平五郎さんは…?!」
「だ、旦那様はまだお帰りではありません…。お医者様もまだ……ああ、お産婆さんも呼んで…どうしましょう…!」
女中のかよは必死に冷静を取り戻そうとしていたが、だらだらと冷や汗をかき姉妹以上に動揺していてその場に跪いてしまい今にも倒れてしまいそうだ。どうやら不運にもこの屋敷には平五郎と弥兵衛は不在、加也と英は戻っておらず総司しかいないらしい。
総司はりつの傍に寄って自分の羽織を身体に掛けた。
「おりつさん、おりつさん!わかりますか?」
「……そ、…そう…」
顔を顰めたりつはかろうじて意識を繋ぎ止めているが、腹を抱えて悶えている。総司は少ない経験の中で、近藤の妾の孝が出産した時のことを思い出した。
「おかよさん、湯の支度を…おたねちゃんは家の布団や布を集めておいて、お母上の傍に。お産婆さんはどこに?」
「あさわかる!」
長女のあさが手を上げる。あさは動揺するかよに比べて幾分か落ち着いているように見えた。
「よかった。じゃあ私と一緒に呼びに行こう」
総司は急いで草履を履いてあさとともに屋敷を飛び出した。産婆は千駄ヶ谷から少し離れた四谷だということなのであさとともに駆け出すが、すぐに息が切れてしまいあさに追いつくので精いっぱいだ。
「宗次郎?」
「…大丈夫、このまま走って…」
総司は胸の痛みを感じつつも(今喀血するわけにはいかない)と懸命だった。ここで総司までも倒れてしまえば、りつと赤子の身が危ない。
千駄ヶ谷の田舎道を二人で走り、四ツ谷へと北上する。四ツ谷は試衛館からも近く見慣れた光景だったがいまはそんな余裕がなくあさの姿を追うだけだ。
「ゲホッゲホッ」
「宗次郎…!」
総司は立ち止ってしまったあさに首を横に振って「行きなさい」と手を振って伝えた。四谷はもう近い―――あさは躊躇いながらも頷いて駆け出して少し先の角を曲がった。
総司は見届けたあと力尽きるようにその場に片膝をついて背中を丸めた。ゼエゼエと背中で息をする…そうしなければ身体の内側の痛みをやり過ごせずこのまま倒れてしまいそうだ。けれども堪えきれずに
「ゲホッゲホッ…!」
と咳き込む。
通りがかった人々が遠巻きに見ている視線を感じた。千駄ヶ谷で身を潜めて療養している総司は目立たないように顔を隠していたが、野次馬になりつつあった人々の中から一人の男が近寄り、遠慮なく総司の肩を抱いた。
「この者は私の知人だ」
男が宣言すると好奇の目を向けていた野次馬たちは興味を失ったように散っていき、注目を集めずに済んだ。
男は旅姿をしている。総司は目が霞んでよく顔が見えなかったが何故だかその男に会った途端安心して身を任せてしまった。











解説
なし


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