わらべうた



999


新撰組は流山への移転の正式な指令を待っていた。
近藤の手元には陸軍奉行並の松平太郎からの文があった。彼もまた再三五兵衛新田からの移転を促してきたのだが、さらにそれを急かす内容だった。
「流山を治める駿河田中藩はすでに官軍の説得で恭順しているが、飛び領地の一部の藩士たちは反発して彰義隊などに接触しているそうだ」
「じゃあその者たちに接触しておくのも悪くはないか。いざという時に共に戦うために話をつけておきたい」
「ああ。松平様によると下総だけでなく、上野や下野、常陸などは脱走兵の勢いがあって官軍と同等に渡り合っているらしい。我々が流山へ向かえばさらに勢いづくだろうと書いてある」
五兵衛新田からの移転を決定した際、近藤は江戸から遠く離れこれからの展望が想像できずに落胆していたが、いまは新天地への希望に満ちているようだ。
土方は近藤の様子に安堵しながら、彼の手にしていた文にサッと目を通した。
「…陸軍奉行並の松平様は、表向きは脱走兵を抑えて官軍との交渉を進めようとしているようだが、どうも今後の戦を見据えているように見える。俺たちのように江戸から追い払うと見せかけて、各地へ優位に布陣させているようだ」
「そうなのか。幕臣の英才だと聞いているが…何かお考えがあるのかもしれない」
「へえ…」
「それにしてもあれほど何度も急かされたというのに移転の命令がなかなか下らないな。安房守様は多忙なのだろうな…」
戦力で劣るはずの幕府軍が北関東で抗戦に成功しているのは、交渉に良い影響を与えているだろう。土方には表向きは非戦の恭順を掲げつつ交渉が終えた後のために着々と戦の支度を整えているように見えた。
(とはいえ、俺たちは使われる駒の方だ)
『上』のことを深く考えても仕方ないだろうと切り上げた。
「近藤先生、話を戻すが下総の流山に田中藩の屋敷があるらしい。飛び地管理のための屋敷だそうだから恭順派の藩士と手を組みそこを乗っ取って俺たちの本陣にするのも悪くはないだろう?」
「ハハ、歳は面白いことを考えるなぁ。しかし田中藩はすでに官軍に恭順している、そう易々とはいくまい。それに歩兵隊と足並みを揃えねばならぬ」
「…そうだな」
このほど合流した幕府歩兵隊とはようやく融和してきたところで、戦に出るにはまだ連携が取れていない。
「流山に着いたら軍事調練をしよう。あの辺りはここよりも広くて大規模に訓練ができるはずだ」
「それには賛成だが…近藤先生はこの後のことをどう考えている?上様の思い通りに交渉は進むだろうと言われているが…そのあとは?」
近藤はしきりに『上様の意向』に従うことが忠義だと考えていたが、その上様が身を引いた後のことはまだ相談していなかった。土方が尋ねると、近藤は
「安房守様のご判断だ」
と答えたが、土方は正直に同意できなかった。
「…俺は安房守様は信用できない。戦えと言ったり、身を引けと言ったり…」
「だが我々が一枚岩にならねば勝てるものも勝てぬ。俺は目の前のことを一つ一つ解決していくことが将来につながる…そう思う」
「…わかった」
土方が頷くと、小姓の銀之助が顔を出した。
「失礼します。…近藤先生、千駄ヶ谷から飛脚です」
「…なに?」
穏やかに会話を交わしていた二人の間に急に緊張が走る。二人にとって千駄ヶ谷は総司を指すため、何かがあったのではないかと息を呑んだのだ。
近藤は小さく折り畳まれた文を開く…すると眉間のシワはすぐに解消された。
「大丈夫だ…無事に産まれたそうだよ」
「ああ…柴岡さんの」
身構えていた土方も気が抜けた。あと数日だと聞いていたが無事に終えたそうだ。
「ほほう。待望の男の子だそうだ、跡継ぎだ。いやぁめでたいなぁ…何か祝いを届けさせよう」
ほっと安堵した近藤から土方の手に文が渡る。差出人は総司ではなく英で、昨晩遅くに産まれたことを知らせる内容だった。逆子を心配していた総司も喜んでいるに違いない。
話を聞いていた銀之助も安心したように去っていくのを見届けて、土方は不意に訊ねた。
「…跡継ぎと言えば、近藤家はどうするつもりだ?」
周斎が亡くなり、義母のふでは親戚の家へ、つねと娘のたまは成願寺へ身を潜めている。近藤には妾を含めて跡継ぎがおらずこのままでは断絶してしまうだろう。もちろん近藤が無事に生き延びれば良いが、これから戦を控えているのだから万一のことは考えなければならないしそれが当主の責任というものだ。
近藤は「大丈夫だ」と頷いた。
「万一の時は兄に頼んである」
「音五郎さんに?」
近藤の五歳年上の兄・宮川音五郎は天然理心流の門人であり、近藤が浪士組として上洛したあと何かと近藤家や試衛館の面倒を見てくれていた。おおらかで穏やかな人柄であり、頑固な近藤とは正反対に謙虚で物静かな人物だ。
「いざという時は兄の次男の勇五郎が婿養子となり、試衛館と近藤家を継いでもらうように伝えている。勇五郎はたまよりも十ほど年上だが兄に似て優しいし、宮川の道場でちゃんと鍛えている。…とはいえ、つねには話を通しているが俺はまだ死ぬ気はないしたまはまだ六歳だ、本人たちには伝えていないから伏せていてくれよ」
「わかった」
近藤の話を聞いて、土方も少し肩の荷が下りたような気持ちだった。いま我が家のような試衛館は無人でこのまま廃墟となってしまいそうな虚しさが漂っているが、いずれ次世代の勇五郎やたまが引き受けてくれるというのなら安心して任せられるだろう。
近藤は柴岡へ祝いの文をしたためるというので土方はゆっくりと立ち上がって縁側に出た。五兵衛新田にはまだかすかに江戸の匂いのようなものを感じるが、この先新撰組が向かう江戸川を越えた先の下総、流山まではこの匂いは届かないだろう。
そう思うと江戸に残していく総司のことが心配だ。
(榎本さんや伊庭、おつねさんたちには流山へ行くことを伏せるように頼んだ。英から柴岡さんへ口留めをしてもらおう)
考えを巡らせる中で、ふと総司の言葉を思い出した。
『隠し事だけはしないでください』
油小路で伊東と御陵衛士を葬ったあと、藤堂の死を嘆きながら総司が縋るように懇願した。どれだけ時間がかかっても受け止めるから、隠さないでほしい―――土方の心は刹那揺れたがしかし翻そうとは思わなかった。
(…受け止める必要なんてない。俺たちは戦に勝って、すぐに江戸に戻るのだから…)
総司にはいい報告だけをしたい。悲しいことや苦しいことはすべて終わってから話せばいい…それが独りよがりの願いだとしても、それで構わない。
「土方副長!」
そんな決意をしながら土方が三月の曇天を仰いでいると、次は鉄之助がやって来た。鉄之助は慌てた様子だ。
「次から次に…。一体何事だ?」
「たっ立川さんからの報告です!急ぎ目を通してほしいと!」
「立川が…?」
立川主税は甲府前に入隊した相貌が山南にそっくりの隊士だ。いまは地理に詳しいことから斥候役を任せていて、江戸の街道を探っているはずだ…彼からの知らせなら重要なことだろうと文を受け取りすぐに目を通した。
「…日光街道…!」
土方は目を大きく見開き、手に力が入りぐしゃっと文を握りしめてしまったがそんなことに構っている暇はなく、近藤の部屋に駆け戻った。
「近藤先生、大変だ」
「なに?どうした」
土方の尋常ではない表情に近藤は筆をおいて身を乗り出す。
「立川からの報告だ。…東山道軍の総督府が江戸から日光へ向けて進軍を始めた、まもなく千住宿へ入る」
「なに?」
近藤は目の色を変えた。
この時、北関東では彰義隊や会津藩の支援を受けた結城藩・関宿藩などの佐幕派の抗戦で官軍は苦境に陥っていたため東山道総督府(官軍)が救援のために歩兵六小隊を進軍させていた…千住宿は五兵衛新田からほど近く接触すれば戦となる可能性がある。勝からくれぐれも戦を起こすなと命じられているが、あちらから仕掛けられる可能性があり、もちろん五兵衛新田の人々を巻き込むわけにはいかない。
近藤は決断した。
「今すぐ出立しよう。勝安房守の命令を待っている暇はない」
「ああ」
土方も同じ考えだった。
すぐに隊士たちに命じて屯所のなかは慌ただしくなるが、前もって支度は整っておりその日中には五兵衛新田を後にすることができた。出立時には隊士の数は二百三十名に上っていた。
「金子殿、世話になりました」
急な別れを惜しむように人々は見送りに来た。御奉公の精神が根強い村の人々は幕府の歩兵隊が村を離れることに不安そうだったが
「我々は決して敵には屈しません。…また江戸へお戻りの際はお立ち寄りください、お待ちしています」
若い名主見習いの金子が力強く挨拶した。
近藤は礼を尽くし、金二千両を置いて五兵衛新田を後にする。

そして運命の四月が訪れようとしていた。
















解説
なし


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