confess of Ironical
アイロニカルの告白



それからの日々は、ぼんやりと過ぎて行った。


アイロニカルの告白 2


島田先輩が監察方に異動になり、僕は元の生活に戻ろうとした。
誰でもいい。僕の心の穴を塞いでくれるなら、先輩でなくても構わない。島田先輩と関係を持つまではそう思っていた。だからまた、そう思い込めばいい。そう思っていたのに、思っていた以上に、僕の心は言うことを聞かなくて、器用に動かすこともできなくて。
僕は誰かと関係を持つのをやめた。
あちらが誘ってきても、愛想なくかわして、僕は一人になることを選んだ。そのうち、僕と過去に関係を持った隊士たちも次第に離れて行った。
そうすることで島田先輩が返ってくるなんて、甘い考えは持っていない。一度も手にしたことがなかったならば、いつかは叶うかもしれないと願い続けることができる。けれど、一度無くしてしまったものは、もう二度と戻ることはないのだ。
(僕はそれをよく知っている…)
だったら手に入れなければよかったのに。
悔やむことだけが、僕にできることだった。


僕はある日、自分と同じような顔をしている人がいることに気が付いた。
「沖田先生、お身体の具合が宜しくないんじゃありませんか?」
僕の組長である沖田先生だ。沖田先生はこの夏の暑さだというのに、壬生の子供たちと一緒に走り回って遊んでいる。しっかり水を飲むようにと口煩く言っているものの、なかなか聞いてくれない、本当に子供のような人だ。
沖田先生は僕の質問に、「そうですか?」と全く心当たりがない様な表情をしていた。
「病は掛かってから直すのではなく、掛からないように養生するのが大切なんですから、お身体の具合が悪いときはきちんと僕に言ってください」
「…やっぱり、まるで姉さんみたいだなあ。私は大丈夫ですよ。そうですね、ちょっと暑いからじゃないですか?」
沖田先生はそんな風にはぐらかした。僕は仕方なく身体の具合については納得してあげることにしたけれど、しかし先生の顔色が良くない理由は何となく察しがついていた。
(土方先生のことかな…)
二人が恋人同士らしいという噂は、もちろん僕の耳に入ってきていた。しかし、僕からするとそれは少し違うように思った。互いが互いのことを想いあっているのに、まだ通じていない。そんなもどかしい間柄なのではないかと思った。その証拠に、副長に馴染みの太夫、君菊がいるという話なったとき、沖田先生は表情には出さないけれど、とても動揺していて苦しそうに笑っていた。
(どうして…すれ違ったままなのだろう)
僕からすれば、そんなもどかしい間柄でいられる二人の強さが羨ましかった。僕にはその強さが無くて、弱いばかりで、誰かに慰めてほしくて…誰でもいいからと寝た。しかしそれが却って島田先輩を傷つけることになってしまった。
そんなことを考えていると、沖田先生が僕に訊ねた。
「それに、山野くんこそ、顔色が良くないですよ」
「…え?」
「何か悩みごとでも?」
普段は呑気な性格なのに、沖田先生は時々鋭くて、僕をどきりをさせる。その穏やかでしかし一途な目に見つめながら問われると、ぽろりと本当のことを言ってしまいそうになる。
(けれど、それは沖田先生と…島田先輩を、困らせてしまう)
「…悩みごとなんてありません。僕の悩みごとは沖田先生が無理をされないか、それだけです」
僕はどうにか言葉を飲み込んで、そんな台詞を吐いた。すると沖田先生はやはり「そっくりだなあ」なんて呟いていた。


夏になると、月明かりのせいか夜は明るかった。
隊士たちが雑魚寝する前川邸には男たちの鼾が響く。地鳴りにも似た響きに、いつの間にか慣れてしまった。
僕は何となく眠れなくて、寝相の悪い先輩隊士たちの合間を忍び足で歩いて、部屋の外に出た。昼は暑いが夜は程よく涼しい。眩い月を眺めていると、ふと近くに人の気配を感じた。
(誰だ…!)
手元には刀も何もない。とっさに身構え、身体を強張らせたが、僕の眼の前に現れた気配は、僕の想像以上のものだった。
「せ…ん、ぱい」
呆然としたまま呟くと、島田先輩も僕に気が付いた。
「あ……」
島田先輩と僕の視線が交わりあう。先輩は、まるで乞食のような小汚い服装に身を包んでいた。しかし、僕の目には何故か、おかしいくらいに神々しく、輝いて見えた。
夢か誠かわからなくて、僕がまじまじと先輩をみるのと正反対に、先輩は僕を一目見るやいなや視線を外した。もちろん先輩の今の立場、監察方の仕事のことを考えれば、隊士に見られることも避けなければならないのかもしれない。けれど、それ以上に僕に会いたくないのだという意思を感じて、僕はまたガツンと頭を殴られたような気がした。
僕は俯いた。こんな風にしか一緒に居られないなら、もう二度といられない方がマシなんじゃないか。それくらいに思った。
しかし、違った。
「…元気そうだな」
「…っ」
僕の好きになった島田先輩は、そんな人じゃない。
躊躇いつつも、優しく穏やかに、僕に声をかけてくれた。僕のことを心配してくれた。僕のことを案じてくれた――。
(僕は…これだけでいい)
そう思えるくらいの愛しさを、感じている。
「島田…先輩も、お元気そうで、…何よりです」
短い言葉を紡ぐだけでも、声が震えた。今にも泣きそうになる僕を、島田先輩が心配そうに見ていた。けれど、駆け寄って、抱きしめてくれることはない。
「…じゃあ、急いでいるから」
島田先輩はそう言うと、そのまま平隊士の大部屋を通り過ぎて、奥の部屋に向かっていく。おそらく土方先生の所へ報告に行くのだ。
僕はその背中を見送って、そして身体の緊張を解き、その場に座り込んだ。
島田先輩と言葉を交わした。それだけで、たったそれだけで僕の心は満たされた。そして監察方に異動しても先輩が元気そうで、生きていてくれている。
(…ああ…)
それだけでどうしてこんなに幸せなのだろう。
そしてそれが本当に、好きだという気持ちなのだと、僕は実感する。だから、もっと苦しくなる。
「…っ…ぅ…」
僕の目から自然と涙があふれた。大粒で、止めどなく、ポタポタと座り込んだ膝の腕に落ちていく。
このやり場のない気持ちをどこへ遣ったらいいのか、僕には全くわからない。一度壊してしまった恋が、どうしたらもう一度叶うのだろう。その方法を知っているなら、誰でもいいから、どうか教えてほしい。



その日は朝からとても騒がしかった。
前川邸の蔵では今朝捕えられてきた古高が、詮議を受けていた。蔵の周りには隊士の野次馬が集まっていて、中の様子を窺っていた。
「奴、一向になにも吐かないらしい」
「強情だな。拷問が足りないんじゃないか」
血気盛んな隊士たちは最初、そんなことを噂していたが、蔵に土方先生が入ったときにはみな血の気が引いた表情をしてすごすごと退散した。蔵からは人間のものとは思えないうめき声と、土方先生の怒号が響いていたからだ。
そして昼ごろになり、桝屋の蔵が破られたとの知らせで、屯所内はさらに緊迫した雰囲気になった。桝屋の蔵から盗まれたのは大量の武器弾薬だということで、今日にも倒幕の浪士たちが蜂起するだろうという話なった。そこでさらに土方先生は拷問を厳しくし、ついに古高に倒幕の浪士たちが集う場所を吐かせた。
今夜は祇園祭の宵山だ。こんな時に彼らが蜂起することになれば、大騒ぎ…どころか戦争になる。僕たちは早速、身支度を済ませ、祇園の町会所にひそかに集まり、夜の宵山に紛れて討幕派を一掃する捜索を行うことになった。
敵に怪しまれないようにバラバラに屯所を出る。僕は早速、鎖帷子などの荷物を小荷方に預けて準備を整えた。あとは機会を見計らて屯所を出るだけだ。
(…あれ?)
八木邸に足を運び、沖田先生の荷物を確認しようとしするとまだ小さな行李に入れられたままの荷物があった。僕は沖田先生を探して屯所をうろうろと歩き回る。
時は既に夕方となっていた。
もうここしかないと思い、僕は土方先生の部屋へ近づいた。すると案の定、沖田先生の声がした。
「お…」
声を掛けようとしたところで、僕は部屋から二人の会話を耳にした。
「だから、私は私を信じます。私が傍にいることで土方さんの為になれるように、頑張ります。…それから、土方さんのことも信じます」
いつもの沖田先生とは違う、真剣で…それでいて甘い声だった。これはいつも土方先生にだけ向ける声色だと、僕は知っていた。そして続いた言葉に、僕の心臓は射抜かれる。
「私は、土方さんのことが…好きです。…誰にも…君菊さんにも、渡したくありません」
沖田先生のまっすぐな眼差しが、僕の脳裏に過った。
きっといま、先生はその眼差しをまっすぐに土方先生に向けている。これまで向き合うことをしなかった感情を、この夜、死んでしまうかもしれないという気持ちを抑えきれずに、告げていた。
「…やっと、言ったな」
土方先生の声が聞こえた。感情を押さえつけていてもなお、零れる、愛しい感情が、聞いているだけの僕にも伝わってくるようで、僕は鳥肌が立った。
「…なんでそんなに自信満々なんですか」
「もう一度言えよ」
「な…なんでですか」
「いいから」
「だから…土方さんが、好きです」
二人らしい会話が続いた。僕はそれを聞きながら、心が温まっていくような気がした。二人の感情が同じ方向を向いて、ようやく結ばれた。僕には土方先生がいつから沖田先生のことが好きで、沖田先生がいつ土方先生を想い始めたのかはわからない。けれど、きっと長く厳しい道のりがあったに違いない。僕には拍手して祝福したい気持ちと同時に、目頭に涙が浮かんできた。
「好きに決まってるだろ」
そんな土方先生の言葉が聞こえた。
僕は…僕は本当に勝手だ。その言葉を島田先輩に言ってほしいなんて…そんな烏滸がましいことを思っているなんて。僕は本当に、どうしようもない…。
「…せん…ぱい」
僕は呼ぶ。ここにいないあの人の名前を呼ぶ。
「好きです…」
僕は呟いた。
そう、こういえばよかった。
最初から、そうすればよかった。沖田先生のように、土方先生のように。自分の気持ちにまっすぐに向き合い、苦しくてもつらくても痛くても、先輩に伝えれば良かったんだ。

しばらくして沖田先生が部屋から出てきて、そのまま八木邸に向かっていった。丁度死角に居た僕には気が付かなかったようだ。僕は何だか力が抜けてその場で蹲っていた。
すると、
「おい」
とぶっきらぼうに呼ばれた。僕は慌てて立ち上がり、「はい!」と声を上げて返答した。土方先生だ。
「何をしているんだ、こんなところで…」
「それは…その」
少し不機嫌そうな土方先生に、僕は黙り込む。何をしていた?と聞かれれば、盗み聞きをしていたとしか言いようがない。しかしそれを素直に伝えるほど、僕には度量と勇気と気力がなかった。
すると土方先生は、少し気まり悪げにしながら
「聞いていたのか?」
と案外優しく僕に訊ねてくれた。僕はためらいつつも頷いて「申し訳ありません」と謝った。土方先生が気分を害すのは当たり前だ。僕はどんな処罰でも受けよう。そう思ったのだが
「…ったく、総司には言うなよ」
と、土方先生はそう言うだけだった。僕はしばらくぽかんとしていた。すると土方先生は穏やかに微笑んで
「目、真っ赤だな」
「え…?」
僕の顔を見ていた。僕は慌てて目元をぬぐう。まだ流した涙の痕跡が残っていた。
「なんでお前が泣くんだ」
「…あ、あの…何だか、嬉しくて…でも悲しくて」
「悲しくて?」
僕は素直に言葉をつづけた。
「……傍に居られないのが、悲しいんです」
僕は僕の気持ちに向き合い、そしてまた島田先輩に向き合いたい。謝って許されることでもないし、謝ったらきっと、島田先輩は困ってしまうだろう。もう「無理」だと言った相手に、言い縋られて迷惑だろう。でも、僕はまだ彼のことを好きで居続けたい。ずっと傍で戦い続けたい。彼が死ぬというのなら、一緒に死にたい。思いが通じ合わなくてもいい。一緒にいられるだけで感謝できる。
土方先生は何も聞かなかった。しかし「わかった」とだけ短く答える。そして僕の頭をこつん、と叩いて
「…山野、生き延びろ」
そう言って通り過ぎて行った。僕は言葉の意味がよくわからなかったが、その背中を見送ったのだった。